このブログのようにあちこちの悪口を書いていると、当たり前だがやり返される。
おっと、ちょっと立ち止まってください。ストップ。
悪口と批判の相違である。
批判ならよくて、悪口はダメと思っているかたも多いでしょう。
だけど、うん、書いているこちらとしては悪口と批判の区別がつかない。
いま書いているのが正しい批判か、間違っている悪口かじぶんでもわからない。
ごくたまに悪意満々で悪口を書くことはある。
けれども、それ以外のすべてが批判かと言われたら、とてもそう主張できる自信はない。
こちらが「死ね〜」と思いながら書いた悪口を、
あんがい向こう側は批判されていると勘違いしているという皮肉な現象も
なきにしもあらずではと思っている。
結論づけるつもりはないけれども、悪口と批判の明確な境(さかい)はないのではないか。
読んだ人間が批判だと思えば批判。悪口だと思えば悪口。
このくらいが妥当な線ではないかと思う。

そこでだ。悪口を書かれたらどうするか。
うちもまあヤンチャをしているから、当然こっぴどい批判を受ける。
わざわざリンクまでつけて批判されることも少なくない。
コメント欄に延々と批判を書かれることもある。
こういうのをどうするかである。
批判されたくなければ、他人を批判しないのがいちばんなのだか、
えへへ、ひとの悪口って楽しいよね? 書くのも読むのも楽しい。
だから、ついやっちゃう。やったらやり返される。さあ、批判された。
これをどうしたらいいかという処世訓をいま述べているのである。
読まない。これがいちばんだと思う。
あ、悪口を書かれていると思ったら、目を泳がせてうまく読み流しちゃう。
感情をまじえずざっと読み、すぐさま忘れる。
むろん、聖人君子ならどんな批判・悪口からも学ぶのだろうけど、さすがに、ね?
すべてのご批判を成長のための糧にしています、なんてウソくさいじゃない(笑)。

悪口と批判の区別というのは、実際よくわからない。
わたしは悪意がこめられていたら悪口だと思うけれども、それが正しいかはわからない。
悪口か批判かというのは、だれにも判定できないものだと思う。
で、こちらが悪口だと判断した。これはもうどうしようもないのだ。
要は嫌いってことでしょう。おまえが嫌いだ。
こう言われたら、もう取る手立てがない。好き嫌いというのは理由がない。
好きだから好き、嫌いだから嫌い、というのが実はいちばん偽善がないのである。
こうこうこういう理由で好き、なんて言うのはちょっと眉唾じゃないかな。
好きなものは好きなのである。嫌いなものはどうしたって嫌い。
ならば、嫌われたらもう仕方がない。好きになってもらうのは無理だと思う。
それに時間をかけて好きになってもらったからといって、だからなに? となる。
言いたいのは、嫌いと言われたらあきらめよう。
嫌いの理由を真剣に読み込んで憂鬱になることはない。
ましてや嫌いの理由に反論するなんてもってのほかである。

これをわかっていないのが「もてない男」の小谷野敦先生。
連日連夜、じぶんの名前で検索でもしているのか、悪口を発見して反論している。
無益なことをよくやるなァと感心する。そんなことをしたって時間の無駄なのに。
だって、小谷野敦は嫌われているのだ。
たとえば小谷野は低学歴をバカにしている。
ものの道理で、低学歴から嫌われるのは仕方がない。
このようにして夜ごと、小谷野の悪口(批判?)が書かれるわけである。
けれども、それに反論したって、らちがあかないでしょう。嫌われてるんだから。
さて、この記事は批判か悪口か。わたしは批判として書いた。
というのも、わたしが小谷野敦先生のファンだからである。
毎晩のように裁判だ、裁判だと息巻いている「もてない男」を見ているとふきだしたくなる。
笑うのは健康によろしい。
だから小谷野敦が好きというのはおそらく間違いで、
わたしはこの「もてない男」を好きだから好きなのであろう。