これを聞いたら、その人間がわかると思っている。
「尊敬するひとはだれですか?」
両親、先輩、上司などいろいろな答えがあろう。
わたしが尊敬しているのは映画監督の原一男さんである。
よくもまあ早稲田大学は中卒の原さんを客員とはいえ教授にしたものだと思う。
早稲田の専任教授、講師、だれひとりからも影響を受けなかった。
芥川賞作家の三田誠広も三島賞作家の久間十義も、
しきりにこう言っていたものである。
「文学なんてもうとっくに終わっているんだからね。作家なんてめざすのはやめなさい」
(三田誠広の講義は一度もぐっただけである。
なぜかわたしの学年だけ三田誠広の講義が4年間なかった)

唯一、原一男さんだけが熱かった。
「就職なんてしなくていい。フリーターだって無職だって、なんでもいいじゃないか。
その代わり命がけで表現をしてみろ。安易な表現に走るなよ。
本気でやれ。10年かけてひとつの作品を作るつもりくらいがちょうどいい。
おれもそのつもりでやっている。
決して妥協するな。表現するなら上をめざせ。上を上をめざせ。もっと上をだ。
この国を変えてやるくらいの意気込みがなくてどうするんだ?
それは楽な道ではない。辛いことや苦しいことがどんどん押し寄せてくる。
いいじゃないか。辛いだろう。苦しいだろう。そこから表現していくんだ。
地獄へあえて踏み込まなければ、表現なんてできるもんか。
生きてるってことはどうしようもないんだ。
そこから、どうしようもないところから、おまえたちは表現していかなければならない」

中卒の原一男さんの熱弁を真に受けたのは、どうやらわたしだけだったようである。
理由をいまになって考えると、わたしが早稲田の劣等生だったからだと思う。
同窓はみな原一男の絶叫を忘れ、大企業へ就職していった。
あるいは、マイナーな城への引きこもり。
このくらいでほどほどに生きていければそれでいいというあきらめへの定住。
原一男先生からは、命をかけた講義をしてもらったと思っている。
「いいか。なにをやってもいいからな。暴力だってかまわない。
メチャクチャにしてみろ。ぶち壊せばいいんだ」
こんなことを耳打ちされたのは大阪で開催された映画合宿のときである。
さすがは「ゆきゆきて、神軍」の監督である。
弟子は師匠の命令に従い、なんでもやったものである。
格安で若者を受けいれていた宿泊場所からはだいぶ苦情が来たようである。
原さんは笑うだけで、わたしには小言のひとつもなかった。
なにかを変えたかったのである。赤面を覚悟で白状するが、革命を起こしたかった。
こんなものではないと思っていたのである。こんなものではない。おれが変えてみせる。

母が死んだ。わたしの目のまえで飛び降りて死んだ。
その血を見て息子も死ぬしかないと思った。
そのまえに原一男に会っておかなければならない、とも思った。
原先生からの第二期の講義の開始であった。個人授業であった。
一対一で原一男先生に向き合っていただいた。
迷惑であったことだろう。
「これもなにかの因縁だからな」
当時の原先生のことばだが、いまのわたしも師匠のことばに首肯するほかない。

なにがきっかけだったのか。
原一男さんが台湾の映画祭に招待されたおり、お伴をさせていただいたこともある。
残念ながら、すべて忘れてしまっている。
原先生から直接の教えを受けたのはどのくらいの期間だったのか。
なにも教えられていないのかもしれない。
原先生はわたしの気づくままにしておいてくださった。
弟子の学ぶがままに自己を公開してくださった。

教習が終わってから、今年でどのくらい経つのだろう。
いまでもなにかに迷ったときはわたしはこう考えている。
もし原一男さんだったらどうしているか?
むろん、原先生のコピーになりたいわけではない。
申し訳ないが、反面教師として学んだところもあった。
偉大な人間に毀誉褒貶はつきものなのである。
しかし、である。原一男さんと出会えたことは、わたしの人生のいちばんの財産であった。
恥ずかしながら、いまでもわたしは思っている。
なんとか革命を起こせないか。この国をわずかでも揺り動かせはしないか。

さらに忘れていない師匠のことばがある。
「表現のためにはなにをやってもいい。メチャクチャにしてもいいんだ」
耳から離れないことばである。
原さんの弟子だからか、わたしは表現者が裁判を起こすのを苦々しく思っている。
国家権力に依存するような表現者はダメだと思っている。
なにか腹が立つことがあったら、なぜ会いにいかないのか。殴らないのか。
場合によっては刺したっていいじゃないか。
きみはじぶんの表現が法規ごときに分別されてそれでいいのかい?
わたしはブログ「本の山」で人様の悪口をいろいろ書いている。
けれども、自信をもって主張できるのは、
どのひとつを取っても作者の目のまえで発言できるということである。
もしうちのブログの記事に苦情がございましたらメールをください。
お会いしましょう。その場で口頭でおなじことを申し上げます。
殴るなり蹴るなりご自由にどうぞ。
訴えられるくらいならよほどそのほうが気分がいい。
いつから文学者が裁判をたよりにするようになったのか。
恥ずかしくないのかと罵言を浴びせたい。

人間はだれを尊敬するかによって人生が変わると思う。
しかし、この邂逅はおのおの努力しても仕方のない偶然である。
だからこそ、信用に足るといまのところわたしは思っている。
したがってふたたび聞くことになる。
「あなたの尊敬するひとはだれですか?」