「青年と宗教」(創価学会男子部教学室/第三文明社)

→創価学会が出版している布教のための本。
「低学歴臭」(@小谷野敦)がたまらない魅力の書籍である。
創価学会さんは、どれだけ阿呆な青年を勧誘しようとしているのか。
当初の予定では、本書から逐一文章を引いて、誤りを指摘する予定だった。
だが、予定を変更。これは仏罰を恐れるためではない。
宗教にとって「正しい/誤り」というのは大した問題ではないと思い返したからである。
いったいだれが「この宗教は正しいから」と入信することがあろうか。
よほどのインテリくらいでしょう。
たいがいの人間は教義ではなく、信者(や教祖)の魅力に引かれて入信する。
ならば教義を批判するのは無益なのではないかと思ったのだ。

かわいい女の子から「入信してくれたらつきあってあげる」と言われたら、
わたしはどの宗教でも入ろうと思う。それが正しい入信の道だと思うからである。
交際だと期間限定だが、結婚したら半永久にその宗教団体に所属することになる。
このような宗教的態度を恥じてはいない。むしろ正統的だと自負している。
創価学会がもし信者をひとり欲していたら――。
宮本輝先生をお願いします。
敬愛する宮本輝先生から折伏(しゃくぶく)されたらわたしは5分で落ちます(笑)。
どの宗教団体でもいいです。いまわたしは宗教を求めています。
勧誘してみようと思ったらご一報ください。メールアドレスはプロフィール欄にあります。
お手数でしょうが、よろしくお願い申し上げます。
「創価学会」(島田裕巳/新潮新書)

→みなさまの身近に創価学会員はいませんか?
学会を好きか嫌いか問われたら、うーん、嫌いではない。むしろ好きなほうかな。
尊敬する宮本輝先生が入信なさっている宗教団体ですから。
ご存じないかたのために、簡単なおさらいをします。
創価学会は日蓮を大聖人とあがめる日本最大の宗教団体。
学会員さんは主婦も高校生もみんな「法華経」を読んでいる。
まあ、意味なんて二の次なんでしょうがね。

なぜか創価学会とは縁がない。友人知人親戚ひとりもいなかった。
父方の実家も母方の実家も、低学歴の貧乏人ばかりだから、
ひとりくらいいてもいいはずなのだが。
父方は新興宗教の「生長の家」にはまっていた。母方はハイカラなプロテスタント。

いままでブログで創価学会のことをいろいろ書いてきたがアプローチはない。
1回くらい座談会とやらに参加したいのですが、だれか誘ってくれませんか。
冗談ではありません。ただし折伏(勧誘)は控えめに。自宅訪問、電話攻勢はNG。
といっても、いまの学会は信者獲得にそう熱心ではないのでしょう。
学会2世をどう放さないかが問題のようで。

創価学会、いいと思うけどな。信仰があると毎日の張り合いが出るでしょうし。
それに学会は地域共同体の壊滅したいま、唯一残る自然なお見合い会場でしょう。
学会活動を一緒にしている男女が結ばれることも多いと聞く。
連帯して難関を乗り越えることから恋愛感情が生まれるらしい(本書から)。
かようにして恋人ができる。そのうえお題目を唱えたらお金持になれるんでしょ。
うん、創価学会はすばらしいと思う。しかし、だれも誘ってくれない……。
あした用事で信濃町に行くからじぶんで門を叩いてみようかな。
「日蓮の本」(学研)*再読

→日蓮というのは「法華経」の毒に当たってしまったひとなのだと思う。
だれだってじぶんは特別な存在だと思いたいし、内心では思っているけれども、
世間様をまえにしたら、そんなことは考えていないような素振りを見せるでしょう。
けれども、日蓮は突き抜けてしまった。
じぶんは「法華経」に書かれてある上行菩薩だとやってしまう、狂ってしまう(笑)。
イエスがじぶんは「神の子」だという妄想にとりつかれたように日蓮も飛んでしまう。
おれは正しい。「法華経」の上行菩薩とはおれのことだ。なに、証拠を見せろだと?
おまえの目が穢(けが)れているから、おれ日蓮の実相がわからないのだ。
おれおれおれのクレイジーが日蓮である。

「我 日本の柱とならむ! 
我 日本の眼目とならむ! 
我 日本の大船とならむ!」(日蓮「開目抄」)


日蓮さん、病院でお薬のまないといけませんね、なんて思ってしまう。
こういう檄文を読んで「よし、僕も日本の柱になろう」みたいに単純に思う人間がこわい。
笑えるのは、笑ったらその筋のひとに怒られるんだろうけれども(学会員さん)、
日蓮がこれほど強く自己を打ちだせたのは、
「法華経」が釈迦本人の教説と信じきっていたからなのだから皮肉である。
日蓮が正しいのは「法華経」が正しいから。「法華経」が正しいのは釈迦の教説だから。
こういう論理である。
けれども信仰の内的世界を別にしたら、「法華経」は残念ながら釈迦の思想ではない。
1億円の宝くじが当たったとおおえばりで豪遊しているひとが、
実は当選番号を間違えていたのとおなじである。
幸いにして日蓮は存命中に真実を知らずに済んだのではあるが。

日蓮に触れると、ストーカーをまえにしたような恐怖に襲われる。
ふつう好きな女の子に拒絶されたらあきらめるでしょう。
つらくてどうしようもないときは嘘半分で南無阿弥陀仏なんて言いながら。
しかし、日蓮はあきらめない。執拗にラブレターを送りつづける。
待ち伏せも平気でする。
本人のあたまのなかでは、彼女のガードをしているつもりになっているのだ。
彼女がじぶんを受け入れないのは、じぶんのがんばりが足らないからだと反省する。
ストーカーはがんばればかならず愛は伝わると信じているのである。
言うまでもなく、被害にあった女性はおびえている。
周囲がストーカーに意見すると、
「おまえらはほんとうの愛がわかっていないんだ」と逆に恫喝される。
そのうちストーカーはじぶんが彼女から愛されているように思うようになる。
ここにストーカーの内面における相思相愛が成立する。
飛躍するようだが日蓮の人生とはこのようなものだったと思えてならない。
日蓮を狂信するひとも同様である。

うらやましいとも思う。日蓮のようになれたら幸福なんだろうな。
じぶんが絶対に正しいという信念を有する生きかたにあこがれがある。
じぶんの悪口を言うものが現われるのを、「法華経」の予言どおりだと、かえって歓迎する。
うん、この思考法だと、どんな不幸もこの人間を打ち負かすことができない。
強力な信仰はあらゆる逆境を歓喜に変換させる。
攻撃を加えてくるものは、真実を知らぬかわいそうな人間とあわれんでおしまい。
最強の生きかたである。

なんで日蓮のように生きないのか。「法華経」を信仰しないのか。
相性が悪いのである。「法華経」の勉強を始めたら具合が悪くなった。
神経過敏というのか。いらいらして仕方がないのだ。鬱もひどくなった。
たしかに偶然だが、こういう信仰世界では因果関係抜きの偶然のほうを重んじている。
「法華経」とは合わないのだと思う。
庶民ほど日蓮に引かれるものらしいから、あんがいわたしは庶民ぶっているが、
実際のところは、みずからが嫌うインテリなのかもしれない。
「法華経を読む」(鎌田茂雄/講談社学術文庫)

→わからないことがある。「法華経」を理解したいからこのような本を買う。
読者として求めているのは平易な解説のみといってよい。
どうしてお説教までついてくるのだろう。わたしは鎌田茂雄と面識もない。
いささか傲慢な書きかただが、カネを払って本を買ってやった。いわば客である。
なにゆえ見ず知らずの鎌田茂雄から説教をされなければならないのか。
不愉快で仕方がない。
宗教書の解説をしているとじぶんまで偉くなった気がするのだろうか。
なるほど説教をするのは気持がいい。だが、店主が客にすることはないだろう。
学者の大半がまともに社会生活も送れない欠陥人間であることを知らないわけではない。
それにしても、ひどいと思うのである。仏教学者はとくにこの傾向が強い。
説教に出会うと勘弁してくれよ、と思う。

「現在の世の中では、「ありがたい」という気持がほとんどなくなっている。
日常の生活においても、朝、元気で起きられれば、ありがたいのである。
食事をおいしく頂ければ、ありがたいのである。(この後も延々と続く)」(P286)

「願いとは思いつづけること、努力しつづけることである。
意志のあるところ、努力するところ、必ず実現されるものである。
(……) 思うこと、願うことを不断に行なうならば、
必ず道は開けるものであり、願いは実現するものである」(P162)


おまえさんはカネを払って読んでくれる人間に、ちっとは「ありがたい」と思わないのか。
願えばかなうって、なら死者でもよみがえらせてくれませんか。
なんて大学者に因縁をつけたくなるのは、
読み手が「法華経」を理解していないからでしょう。

宗教というのは要約するとふたつなのである。
「がんばれ」「あきらめよう」――。
新約聖書などはこのふたつが絶妙にブレンドされている。聖書を開いて、
がんばろうと発奮することもできれば、あきらめるしかないと慰撫することもできる。
この区分で見るならば「法華経」は「がんばれ」の宗教といえます。
がんばれ、がんばれ、である。がんばればなんでもできるが「法華経」の思想。
日蓮の南無妙法蓮華経は「がんばれ」と等号で結ばれる。
いっぽう法然、親鸞の南無阿弥陀仏は「あきらめよう」である。
実験をしてみましょう。いまから10回、南無妙法蓮華経を唱えてください。
わたしもやりますから。ほら、なんか、がんばろうという気がしてきませんか?
今度は南無阿弥陀仏をお願いします。こちらも10回。
なんだかすべてがどうでもよくなって来るでしょう(笑)。
日本人は農耕民族。農業というのは、がんばればそれだけ報われることが多い。
(比較して、たとえば砂漠の遊牧民というのは、がんばってもどうにもならない。
かなりを運に左右される)
がんばりやの日本人が「法華経」を好むのは、こういったことがあるのかもしれない。

「法華経」を作った集団というのは、
当時のインド仏教の世界でそうとう亜流だったのではないか。マイナー。
だから、経典のなかに増殖のプログラミングを仕組んだ。
「法華経」は、たとえるならウイルスである。
広がろうとする自己増殖能力を潜在的に有している。
こういう思想というのは、よほど虐げられたところからしか生まれないように思う。
むろん、学問的な根拠があるわけではない。けれども、実効の予想はつく。
「法華経」というのは、感染すると、とんでもない爆発力があるのではないか。
だれにも見向きもされない赤子の悲鳴なのだから。
じぶんをこの悲惨な赤子と同一視したとき、
赤子を助けるためならなにをやってもいいと考える。
法華経信者の生命力の秘密がここにあるように思えてならない。
「物語で読む法華経」(ひろさちや=編/すずき出版)

→「法華経」です。このような聖典を読む人間というのは3つに分かれると思う。
ひとりは、知的虚栄心のかたまりのような若者。万巻の書を読破しようとしている。
あるいは、老人。ひとは老いるといかに人間が無力か悟るもの。
したがって、人間を超えるものに興味を持つわけです。
第三は、不幸なひと。救われない人間。わらにでもすがる思いで宗教書を読む。
わたしは三番目。いい若いもんが「法華経」を読むなんてどれだけ不幸なのでしょう(笑)。
それもあたまが悪いものだから岩波文庫ではなく、ついこういう現代語訳を買ってしまう。

みなさまはわたし以上に仏典などとは縁のないことと思います。
お坊さんがお経を読む。あれは漢文ですから聞いていても一般人は意味がわからない。
かれらはいったいどんな文言を口にしているのか。ちょっと勉強して帰ってください。
言うまでもなく、読み手の理解できた範囲でしか書けません。
すなわち、難しいことは書こうと思っても無理。
お酒でものみながら、へえへえ、とお読みください。

基本の基本から整理します。仏教経典とはなにか。
インドで生まれたお釈迦様が説いた教えです。
すべての仏教経典がお釈迦様の教えを説明している。
では、この「法華経」はどのような教えを説いているか。
そのまえに「法華経」という名前。みなさんも何度か耳にしたことがあると思います。
日本人にいちばんなじみのあるお経かもしれません。
大陸から仏教が入ってきたとき、聖徳太子がまず注目したのが「法華経」。
その後、最澄が比叡山を拠点に天台宗を開きます。
この天台宗は「法華経」を最高経典としている。
さて、この比叡山から世に出た宗教者は多い。法然、親鸞、道元――。
どういうことか。南無阿弥陀仏も禅宗も「法華経」を母に持つと言えなくもない。
もうひとりの鎌倉新仏教の雄は日蓮である。
日蓮は「法華経」への熱烈な信仰を説いている。
このように「法華経」は日本仏教とたいへん縁が深い。

肝心の内容に入りましょう。「法華経」でお釈迦様はどんな教えを説いているか。
基本スタイルは問答です。問いと答えで「法華経」は成立している。
霊鷲山にお釈迦様がいる。まわりに菩薩やら修行者やら、たくさん集まっている。
「尊師、これはいかようですか」と弟子がおうかがいをたてる。
お釈迦様が「ガハハ、それはこうなっているのじゃ〜」をありがたい教えを垂れる。
尊師はお茶目だから、たまに奇蹟なんか起こして弟子連中の度肝を抜いたりもする(笑)。
師と弟子の対話である。大衆好みのアクション(爆破)シーンもある。
つまり「法華経」はドラマだと考えてもよろしい。
「3年B組金八先生」とおなじである。金八先生が教室で説教するでしょう。
教え子の顔が映しだされる。何度も映る生徒と、影の薄い生徒がいる。
ときには土手で金八先生がひとりの教え子と向き合う。
このドラマの金八先生を釈迦先生にかえたらば「法華経」になる。

勘の鋭いみなさまは、そろそろお気づきではありませんか。
能書きはいいから早く教えの内容を書けと思っている。
だから、釈迦先生は弟子連中にどんな教えを説いたのか説明しなさい。
実は「法華経」に釈迦先生の教えは書かれていない。
ところが、これこそ「法華経」の特徴なのです。ずるいところとも言う。
釈迦先生の教えを強いて説明するならば、「法華経」を重んじなさいである。
この「法華経」を信じるものにはかならず功徳がある。
だが、ひとたび「法華経」の悪口を言おうものなら、恐ろしい仏罰が起こる。
「法華経」はほかのどんな経典よりもすばらしい。
なぜかというとお釈迦様であるじぶんがそう言っているのだから間違いない(笑)。
ひたすら「法華経」を信じることで、だれもが仏になることができる――。
つまり「法華経」を重んじよと釈迦先生の説いているのが「法華経」。
肝心の「法華経」の内容はどこにも書かれていない。
たまにヒステリックな女性が口にする主張とおなじわけです。
「嫌いだから嫌い」「好きだから好き」の論理。
同様に「法華経」は「釈迦が良いと言っているから良い」。没論理。

恋愛をしなさいと言っているようなもんです。「法華経」に恋をしなさい。
恋というのはあれでしょう。いちおう、理由がないことになっている。純愛はね。
年収が多いからとか、学歴が高いからとか、そういう条件とは関係なく愛する。
むかし風俗店で働いていたことなんて気にしないで愛する。AV出演経験も問わない。
「好きだから好き」。これを純愛というなら、そのように「法華経」を愛しなさい。
これが「法華経」の説くところである。恋愛のすすめ。「法華経」に恋せよ。
恋人の悪口を言うやつはなにがあっても許すな。恋人をあがめたたえよ。
あなたは恋人のためになにができますか。
かつて「法華経」のために両手をみずから焼いたひともいるんですよ(きんもっ)!

最後にいちばん重要なことを記しておかなければなりません。
お釈迦様は「法華経」なんて説いていない。
釈迦が死んでから500年も経ってから「法華経」は書かれている。
どういうことか。「法華経」はフィクション。悪く言えば「法華経」は嘘八百。
もちろん「法華経」は言い訳を用意している。
ほんとうの仏様というのは、インドに生まれたお釈迦様ではない。
もっと大きな時空を超越した宇宙の仏様がいらっしゃる。
インドで毒キノコを食べて死んだ聖者は仏様の仮のすがたに過ぎない。
だって、ほんとうの仏様なら毒キノコくらいで死ぬわけがないでしょうという論理。
このくだりを読むと「法華経」は最強の仏教経典だと感服せずにはいられない。
卑近な説明をすると、無名の若者による天才宣言みたいなものです。
「おれは天才だ」と宣言する。天才だからバカな世間には理解されない。
迫害も受ける。だが、これは天才の証拠なのだ。天才だからひとから恨まれる。
天才のおれの言うことを聞かないと日本は滅びるぞ。
究極のオナニーである。言うなれば「法華経」はオナニスト宣言である――。

「法華経」の特徴は、たとえ話が巧妙であること。
なら、こちらも真似をさせていただこう。
「法華経」をたとえるならば、遺言書の偽造である。
大昔にインドで大金持のお釈迦様がお亡くなりになった。莫大な遺産がある。
お釈迦様は大した遺言を残さなかった。
いちおう「阿含経」という直筆のメモらしきものがあるが、
財産分与については明確に書かれていない。
せっかくのお宝をこのまま埋もれさせることはない。いただいてしまおう。
こうして遺言書の偽造を行なうものが現われる。
このとき偽造された遺言書が、すなわち「法華経」である。
わたしは偽造を責める気持はない。
宝の山があるのならホコリをかぶせておくよりは使ったほうがいいとも思う。
この遺言書を有効ということにしたら、どれだけの人間がうるおうことか。
すばらしいことだと思う。ただひとつ気に食わないことがある。
この遺言書は、財産をひとり占めしようとする。その強欲、独善には反吐が出る。