「童貞放浪記」(小谷野敦/文學界10月号)

→文芸誌の最新号を立ち読みしてきた。
本作品は「悲望」「なんとなく、リベラル」に続く小谷野敦の創作小説である。
著者はベストセラー「もてない男」で日本を揺り動かした恋愛研究の第一人者。
前作「なんとなく、リベラル」は1ページで読むのを断念したが(つまらないんだもん)、
新作「童貞放浪記」は小谷野敦の持つ才能が十全に展開されている。
著者の愛読者のひとりとして実に喜ばしいことである。

「あわや小説」である。聞きなれぬ用語であろう。
「あわや小説」とは小谷野敦が「恋愛の昭和史」(文藝春秋)で提出した概念である。
明治期の家庭小説から瀬戸内寂聴まで、
いわゆる大衆小説ではヒロインの貞操が破られることがないと小谷野は指摘する。
「あわや」という危機を作者が何度も作ることで物語が進んでいく。
「あわや」ヒロインの貞潔が失われるのではないかと読者をはらはらさせる手法だ。
だが、結論としては、たいがいヒロインの純潔は守られる。
このような小説を小谷野敦は「あわや小説」と命名した。
いまはだれもかえりみぬ大量の大衆小説を研究した小谷野敦の発見である。

「あわや小説」をヒロインではなくヒーローでやってみたらどうか。
小谷野が「童貞放浪記」を書く際の、ひらめきのひとつではなかったかと思われる。
設定は「悲望」の続編といったところか。またもや「もてない男」の青春を小谷野は描く。
しかし、これを自伝的小説「悲望」と同系列に見るのは誤りであろう。
小谷野は(純文学ではなく)娯楽小説として「童貞放浪記」を書いたのではないか。
鋭敏な読者は、小説の随所から作者の旺盛なサービス精神を感じ取るはずである。

ハリウッド映画の成功法則といった本を好んで読むが、
共通して書かれているのはこうである。
まず魅力的な主人公を作れ。それから敵役を設定する。最後はヒロインの造形。
この3つを物語の要所にはめこむことで、売れる作品が生みだされるという。
映画のみならず物語作法一般として通じる法則である。
小谷野敦は実践する。
主人公は大阪のH大学へ勤める童貞の金井淳。
敵役は金井をいじめる同僚の酒乱男、平木正紀。
ヒロインは金井より6歳年下の優等生、北島萌である。

娯楽小説の主人公は、階段を一段一段登るように成長していかなければならない。
小谷野敦ならぬ金井淳も、通う性風俗の店を少しずつランクアップさせていく。
金額というよりも過激度である。
最初はストリップショーで満足していた金井淳だが、
段々と「本番」(性交渉)へ近づいてゆく。
はじめてのファッションヘルスで射精した金井淳は、その男性自身(ペニス)から出血する。
処女喪失からヒントを取ったのか。
もしこれが実体験ではなく、小谷野の創造したフィクションなら、
その才能に畏怖するほかない(実体験なら笑いがとまらない)。

プロのつぎは素人である。唐突にヒロインの北島萌が登場する。
北島萌は、まるで美少女ゲームから飛び出て来たような女性として描かれる。
(美少女ゲームをやったことはないが)
世の「もてない男」たちの妄想をミキサーにかけ、
最後に涙を一滴加えたら北島萌の完成である。
小谷野敦も自覚的で、ヒロインにオタク用語の「萌え」をつけている。
この北島萌を批判して「女を描けていない」などというのは筋違いである。
たしかに北島萌は、かなりフィクションの度合いが強い。
けれども、なら、それなら、女ってなんだい?
女は「もてない男」それぞれの内面にいるのではないか?
小谷野敦の代弁をする傲慢をお許し願いたい。

「あわや小説」である。何度か金井淳は危機(好機?)に見舞われる。
我われ読者は「アツシくんの童貞が奪われちゃう〜」とはらはらする(なわけねーか)。
金井淳は北島萌との「同衾(どうきん)」(ひとつの夜具で寝ること)に成功する。
金井淳の童貞はしかし「あわや」というところで守られる。
小心の金井は女体をまさぐるだけでこの日はよしとするのである。
この場面は「童貞放浪記」のエピソードにおける白眉といえよう。

「もてない男」から女は離れていかなければならない。
改札での別れのシーンがすばらしい。
小谷野がこころの底からこのシーンを書きたかったということがよくわかる。
名場面である。金井淳と北島萌は口論になる。ヒロインの捨てぜりふはこうである。
「三十にもなって!」
童貞の金井淳はこのあとの言葉を想像して打ちのめされる。
「三十にもなって童貞のくせに!」と北島萌は言いたかったのでないかと傷つくのである。
6歳も年下の非処女から愚弄される三十路の童貞――。
恋愛研究家の小谷野敦はこの名場面を書きながら涙を流していたと思われる。
これは小谷野敦という人間の核なのである。
人間存在の根幹にこのシーンがたえずあった。
むろん、このような事実があったとは思わない。
けれども、ここには「もてない男」小谷野敦のこころの真実がなんと美しく描かれているか。

野心家の小谷野敦である。
処女作「悲望」はねらっていた芥川賞から見向きもされなかった。
それならと小谷野は開き直ったのであろう。直木賞はどうだろうか。
もちろん直木賞は単発の作品に与えられる賞ではない。
活躍を継続している作家に、言うなれば功労賞として与えられるもの。
それでも小谷野敦が「童貞放浪記」で直木賞を射程に入れた可能性は少なくないと見る。
また、それが決して大言壮語にならぬほど、この小説の娯楽性は高かった。
いきおい「悲望」と比べると「キモさ」は大幅に減少している。
これを残念と悲しむ読み手も多いだろう。
だが、小谷野敦の愛読者なら「もてない男」の新たな一歩を歓迎しようではないか。
続編がこれほど楽しみな小説もめずらしい。

(追記)小谷野敦氏から誤りを指摘される。
「あわや文学」という言葉を最初に用いたのは大宅壮一。
小谷野氏はこの概念を名著「恋愛の昭和史」で発展的に活用した。
あいまいな記憶でこの記事を書いてしまったことをお詫びします。(2008/7/5)