昨日の東スポのコラムを読んでいてあわてた。
中国の国歌の内容が反日的文言であふれているというのだ。
わたしは昆明の安酒場で流しの歌手に中国国歌を注文した。
そのとき周囲にいた中国人のニヤニヤした感じを誤解していたということか。
ところが、調べてみたら、やはり東スポは東スポ。日付以外はデマ(by 浅草キッド)。
たしかに国歌は抗日映画の主題歌がオリジナルだが、
歌詞は変更されていて抗日・反日とは無関係。あの場での笑いは、
日本での「君が代」斉唱時に国民が思うおかしさと共通するものがあったのは間違いない。
ただし、訂正がある。
中国国歌にはパンヤオ(朋友)の文字がなかった。酔ったわたしの聞き間違いであろう。
いまさら本文を訂正するのは野暮なので、ここに指摘かつ謝罪しておきたい。

「アジア漫遊記」の連載はとまっているが終わったわけではない。
ちょうど折り返し地点に来たという感じがあるのだ。
しばらくの休息をいただき、近日中に終着地めざして進みたい。
まだ旅の途中である。どこに行き着くかは書き手のわたしもわかっていない。
お気づきのかたは少ないだろうが「アジア漫遊記中国編」ではいろいろ模索をしている。
わかりやすいのは文体である。記事ごとに意識的に文体を変えている。
というのも、じぶんの文体がいまだよくわからないのである。
どの職業作家も固有の文体があるとは思いませんか。
文体こそ、その作家の息づかいである。すなわち呼吸。生命の証。
わたしも、そろそろ文体を決めたいと思ったのだ。
どの文体がふさわしいか。嘲笑文体、自虐文体、アジ文体、オナミダ文体――。
ほかにも数えきれないほど文体はある。
おなじ作家でも書く媒体に応じて使い分けているのが通常。

旅行記というのは小説と紙一重である。
書評(読書感想文)<エッセイ(雑記)<紀行文(旅行記)<小説
整理してみれば、こんな感じである。
このたび「アジア漫遊記中国編」を書きながら、強く小説を意識した。
読んでいただくみなさまには恐縮だが、書き手は小説を勉強していたといってよい。
文体とはなにか。事実と虚構とはなにか。
ひとつの記事を書くごとに発見があったのである。
旅とは始めと終わりがあるもの。小説も、言ってしまえば、おなじである。
書き手の意識としては「アジア漫遊記中国編」は小説の習作である。

ところが、このような自覚がいまの停滞をまねいた。
どう文体を工夫しようか考えるあまり、文章が書けなくなってしまったのだ。
プロでもないのに、えらぶった呻吟。恥ずかしくて仕様がない。
「アジア漫遊記」再開は、肩のちからを抜くことから始めたいと思っている。
見たもの、聞いたこと、会ったひとについて率直に書く――。
いくら正確な描写を心得ようとかならず文章はウソをつく。
そこを書きながら見ていきたい。
勉強のために書いていることを白状するのは、
お読みのみなさまに失礼なことは承知している。
ここに謝罪します。ごめんなさい。近日中に「アジア漫遊記」を再開します。

「河口 置屋」でアクセスが集中しているのにはまいった。
日本の男性諸君は、よほどお好きなようで。
置屋とは売春宿のことである。せっかく検索して来られても、
役に立つ情報が記されていないのでがっかりしているのではありませんか。
中国・ベトナム国境の町、河口――。
宿は最低20元(300円)から。70元(1050円)も出せば日本のビジネスホテル。
オンナは(聞いた話によると)50元(750円)から。
食事は5元(75円)で食べ放題の店がある。酒のみのあなたにはビール3元(45円)。
中国には1ヶ月半、ベトナムには1ヶ月いました。というか、ぶらぶらしていた。
なにか疑問点がございましたらコメント欄へ。わかる範囲でお答えします。