山道で迷っていた。ふたつにひとつである。
このまま登るか、あきらめて引き返すかである。
そろそろ体力は限界に近づいている。
このままだと下山する余力の有無も心配しなくてはならない。
日本の登山ではないのである。わたしは片言の中国語しか話せない。
そもそも、である。通り過ぎる登山者も、いなくなってしまっている。
少しまえまでは下山してくる若者をたびたび見かけたものである。
だが、いまはひとの気配が感じられない。
この華山は峻険な山として中国で知られている。
険(けわ)しい山である。人間を包み込む山ではない。人間を突き放す山だ。
たとえ登山者を奈落の底へ落そうと景色ひとつ変えないであろう冷たい山である。
古来、そういう山として知られてきた。最近では縁結びの山としても有名という。
ジェットコースターやお化け屋敷に男女で参加すると恋心が生まれることがある。
危険をともに経験したという連帯感が、ときに恋愛感情に錯覚される。
おそらくそれとおなじ仕組みであろう。崋山は危険な山であった。若い男女が多かった。

登っていくうちに洒落にならないぞと思い始めた。
同行者がいたならば、顔を見合わせて苦笑いしたであろう。これは、まずくないか。
ひとり旅のわたしは自問自答するほかない。このとき、ひとりがふたりになる。
ひとりで会話をする。――これは山登りというより登山だよな。
おいおい、そのふたつはおなじ意味だぞ。
いや、ちがう。山登りというのは、わいわいがやがや楽しむもの。
比して、登山は生命をも賭して行なう厳しいもの。
うん、なるほど。そういう意味合いでなら、これはたしかに登山というほかない――。
限りなく90度に近い絶壁をクサリをたよりに登っていかなければならないのである。
登りながら下を見ると震えがとまらなかった。手を離したらへたをすると死ぬぞ。
冗談だよなと思う。崋山って、ただの観光地だろう。なんでこんな危険があるのだ。
ひとりの心細さが胸をしめつける。万が一、足でもくじいたらどうしたらいいのだろう。
さらに、そこがひとの通らないところだったらば。不安が絶え間なく襲ってくる。
大げさなようだが死をも思わせる山である。
いつ死んでもいいとひとまえでは強がるわたしだが、こういうところへ来ると真実がばれる。
当たり前だが、死にたくないのである。

何度、斜面をはいあがったことだろう。手も足も使いものにならないくらい酷使した。
この険しい山道があとどれだけ続くのだろう。
いちおう地図はあるがじぶんがいまどこにいるのかわからない。ひとも通らない。
もう昼過ぎである。このまま登っていって戻れなくなるくらいなら、
まだ気力のあるいまのうちに引き返したほうがいいのではないだろうか。
前進するだけが勇気ではない。
あきらめるのは、ときとして前進よりも偉大で崇高な勇気を必要とするものである。
この急斜面に、あとどれだけおのれの身体がもちこたえるかだ。
どれだけのエネルギーをわが身体は所有しているのか。

いろいろと道を間違えたのだと思う。
崋山へはツアーで行くのが一般的である。
西安のたいがいのホテルで崋山1日ツアーに参加できる。
個人で行くこともできなくはない(いまとなってはオススメしないが)。
西安駅東側のバスターミナルから崋山行きのバスが朝1本出ている。
わたしが乗車した日は7時半に発車した。いちおう出発時間は7時になっている。
西安駅から崋山まではバスで2時間半。
到着してからが問題である。ここで朝飯でも食べろと契約された食堂に入れられる。
中国人旅行者はみな従っていた。
大きなあやまちを犯したのはこのときである。崋山はどこだ? とわたしは聞いた。
あっちだという。なら朝食などいらない。わたしは崋山へ向けて歩き始めた。
いまから思えば、これが大失敗だったのだ。
崋山観光はロープウェイで頂上付近まで行く。そこから登山を始めるのだ。
このバスストップからロープウェイ乗場まで、再度バスを利用しなければならなかった。
そうとは知らぬわたしは、みなから離れひとり崋山を登り始めたのである。

小さな入口で入山料を支払う。90元(1350円)だったか。
最初はいいのである。平坦な道が続いている。ひとりで山を登るのは楽しい。
だれにも気兼ねすることなく内面世界へ沈静することができる。
歩く。意識するのは呼吸のみである。息を吸って、その息を吐き出す。
生きているとはなんと単純なことかと思う。吸う、吐く。
これが生命の隠すことのない実質である。
息を吸う。吐き出す。この反復をやめたときひとは死ぬのだ。
生きていると思う。わたしは生きている。
異国の山のなかでなら、照れもなくかつて愛したひとのことを思い出すことができる。
10年近くもまえの話である。わたしを拒絶する冷たい顔がとても美しかった。
きれいだったと思い返す。
かつての友のことを思う。これも10年もまえのことになる。
連夜のごとく酒をのんだ。バカな話をした。青臭い友情を誓ったりもした。
相手を思って涙を流すようなクサイ友情劇をむかし演じたことがあった。
すべて終わってしまったことである。
むかしの男も女も、いまはなにをしているのか知らない。
あることがきっかけで、ありとあらゆる人間関係が切れてしまった。
いまわたしは西安郊外の崋山などという山を登っている。
むかしの仲間はだれひとりとしてこのことを知らないであろう。
山を登るのみだと思う。山があったら登るしかない。
この中国でもいくつか山を登ったものだ。すると眼前にべつの山が現われる。
人間は山を登るしかない。なぜを問うてはならない。目のまえの山は登るほかない。
「分け入つても分け入つても青い山」である。
若者はいつまでも平地で遊んでいるわけにはいかないのだ。
おのおの進路を定める。それぞれの山を登るほかない。
むろん高低に相違はあるだろう。まれに平らな野原を歩いていくようなコースもある。
かと思えば、高山の続く道のりもあろう。山中で迷い餓死するものがいてもふしぎはない。
それでもめいめい定められた山に登るほかないのである。

低地ではにぎやかなものであった。簡易食堂も軒を連ねている。
どこもビールを売っているのがうれしい。
それも山の流水で冷やしてあるのだから笑みがこぼれる。
まだ昼前だというのに我慢ができなかった。ビールをくれ、だ。
そうそこのきんきんに冷えたやつ。水がわりにビールをのむふざけた登山者である。
ビールを口中にふくみながら、おかしいなと思う。
登山客は決して少なくないのである。けれども、みなみな進行方向が反対。下山している。
あるじに地図を見せる。ここはどこだか教えてもらう。
ロープウェイ乗場がはるか彼方であることに気づく。
いま歩いているのは異端の道ということになる。
といっても、ここまで登ってきたら、いまさら引き返すのも億劫(おっくう)である。
これもまた旅である。ひとり旅とはこういうものだ。運任せなのがかえっていい。
店のあるじにこの道を登っていけば頂上まで行けるか尋ねる。
行ける、とのことである。現地のひとが言うなら確実だと安心する。
今日はまだ時間がある。わたしには頑強な肉体もあるではないか。
楽なロープウェイではなく、あえて厳しい山道を選択するのも悪くはない。
この旅は、どこか修行の性質を帯びたものでなければならない、と思っている。
ビールばかりのんでいるわけにはいかない。
反骨精神がもたげる。ひとと違ったことがしたいという欲望だ。

行けども行けども、なのである。かえって道が悪くなってくる。
どんどん山道は厳しさを増してゆく。行き交う登山客も減るばかりである。
その挙句がクサリの登場だ。まさかこんな悪路があるとは思わなかった。
ふつうにロープウェイに乗っていればよかったと後悔する。
だれもいない。ひとりの登山である。休息を多くする。休む、登るの繰り返し。
開けた場所で下を見る。なんと厳しい山であることか。
持っているもので勝負するしかないのである。
水はある。携帯食物は持参していない。けれども手足はある。若さもある。
荒い呼吸を繰り返しながら、まえのみを見て足を動かす。
これほどおのが身体の存在を明確に意識したことはなかった。
このとき、わたしは肉体だった。精神ではなかった。
肉体は考えた。精神の代わりに肉体が考えたのである。
この肉体をなんとかして生かさなければならない。山ばかりではない。
帰国してからの問題もある。
精神はものを書いて食べていきたいと思っているようである。
たわいもない精神め、と肉体は思う。
年収150万でも食べていければそれでいいと精神のやつは言っている。
精神はとかく夢見がちなのだから困ったものである。
肉体は鏡に映すことができる。目がある。鼻がある。口がある。手があり、足がある。
精神よ、おまえはいかほどのものを持っているのか。
持っているもので勝負するしかないことを知らないのか。
精神よ、おまえは鏡を持たなくてはならない。
なにを持っているのか。なにを持っていないのか。
息も絶え絶えの精神は打ちひしがれる。
知力は乏しい。難解な思想小説を書くことはできない。
美形ではない。顔を売り物にはできぬ。私小説も恋愛小説も説得力がないであろう。
お洒落でもない。気の利いた洒脱な会話を書くことはかなわぬ。
おまえはだれだ? わたしとは何者だ? 
わたしはわたししか描けぬ。わたしわたしわたし――。
いまさら自分探しかと自嘲する。気持が悪いとしか言いようがない。
そうだ。ないない尽くしのなかで、ある種のキモさをわたしは持っている。
ほかに、なにかないか。ないのだ。なにもない。わたしにはなにもない。
だが、「ない」ということ自体が武器ではないか。
「ない」から「ある」を思う。かくありたいと思う。かくあれと思う。
精神の反逆である。肉体よ、おまえはなければそれで終わりであろう。
だが、精神は違うぞ。なくても、ないがゆえに、あるを思うことができる。
異国の険しい山道は、通常なら不可能である、
精神と肉体の会話を可能にしたのかもしれない。

どれだけ限界を超えたことであろうか。
この登りを終えて、まだきつい登りがあったら、もうあきらめて下山しよう。
いく度となくじぶんをそのようにをだました。今度こそと思うのである。
今度こそ、どこかに行き着くのではないか。
ひとがいる。ここはどこか問う。かれは指を刺す。あれがロープウェイだという。
ようやく入口にたどり着いたのである。
ふつうの観光客ならこの高さからスタートするのである。
入口までのなんと苦しい道のりであったか。時計を見ると、3時をまわっていた。
観光客が大勢集っている。なかには白人旅行者もいる。
なんだい、と思う。楽をしやがって。
ここから通常の登山をしようと思ったが身体がどうにも動かない。
具体的にいうと、足がもちあがらないのである。
売店で割増料金のカップラーメンとコーラを買う。
コーラにはベトナムで購入したウイスキーを入れる。
ウイスキーコークをのむと肉体も精神も等しく喜悦の叫びをあげる。
顔をあげる。山が無限に連なっている。どの山も尖(とが)っている。
分け入つても、と思う。これでは、分け入つても分け入つても、だよなと苦笑する。
けれども、ながめるぶんには悪くない。絵葉書にもなりそうな絶景である。
あの山々を分け入つてゆくのはさぞかし難儀だろうな。
時間が来たのでカップラーメンのふたを開ける。フォークでソバをすする。
低劣な油分と辛味が舌を刺激する。これをうまいと思うわが舌の哀しさよ。
酒をのむ。ウイスキーをがんがんのむ。中国では入手するのが難しいウイスキーである。
少しずつのもうと思っていたが、もうケチケチするのはやめようと思った。
ここまで来れたのがなによりうれしい。
がんばった。けれども、がんばったからではない。運が良かったのである。
下手をしたらあのがんばりが命取りになっていたかもしれないのだから。
多少、酔ったところで構わない。あとはロープウェイで下山するだけである。
崋山の観光名所を見られないことに口惜しさはない。
見ることがなんだ。見ないことにも価値はある。
あればそれでいいのか。ないのはいけないのか。
酔ったのだろうか。哲学めいた稚拙な問答をあたまのなかで繰り広げる。

ロープウェイで下山。ミニバスでバス乗場へ移動。
いちいちカネを取るのが癪(しゃく)にさわる。
西安駅行きのバスは、親切な娘さんがわざわざ手を取るように教えてくれた。
バスの最後の乗客となった。大した幸運である。
わたしの数分後に来たひとはこのバスに乗れず1時間以上も待たなければならなかった。
うつらうつらしていたらバスはなじみ深い西安駅へ到着した。
いつのまにか懐かしささえ感じるようになっていた。西安にはもう6日もいるのである。
明日はこの西安を発たなければならない――。
ということは、今度はいつインターネットをできるかわからないということでもある。
動かない足を上半身で杖のように用いネットカフェへおもむく。
このカフェの店員ともすっかり顔なじみになっている。さよならだ。
ホテルへ戻りシャワーと洗濯。じつに居心地のいいホテルであった。
それから6日連続で南方飯店へ。いくらかセンチメンタルな気分になる。
もう一生この安食堂には来ないであろう。6日間、よくのみ、よく食べた。
どの料理も、なかなかのものだった。ともかく安かった。
明日、西安を発つとは言わなかった。
そのぶん、のもうと思った。お別れのぶん、のもうと思った。食おうと思った。
疲れているから、そんなには身体が受けつけなかった。
けれども、いっぱいのもうと思ったのだ。たらふく食べようと思ったのだ。
とにかく思ったのだ……。