第16回東急東横店渋谷大古本市へおもむく。
渋谷もひさしぶりだな〜。なにか変わっているのだろうか。
まあ、わたしは駅から一歩も外へは出ないけれども。だって、こわいんだもん♪
若者の町シブヤ。いきなり竹刀で叩かれてもふしぎはないのでしょう(大きな誤解)。
わたしには古本市くらいがお似合いです。
最先端のスポットは村上龍先生のご著作で勉強します(ウソ)。
ここも毎回、来ていたけれども、掘出物がないのだ〜よ。
渋谷という地名と相性が悪いのだとずっと思っていた。ところが、ところが――。
「木下恵介集」(日本シナリオ文学全集1/理論社)絶版 1000円
ついにこれが見つかったかという感動がある。
ちなみにシナリオ専門古書店、矢口書店では4000円。
もちろん、ここ1年近く売れてはいないが。
いまは木下恵介なんてだれも知らないのかな。わたしも知らなかった。
山田太一のお師匠さんということで興味をもったのである。
レンタルビデオで借りてこいと言われるかもしれない。
ダメなんです。映画は苦手。映像は疲れる。シナリオで読むのを好む変人なのだ。
古本の状態も悪くない。これはいい買物をした。
こうなると購入にいきおいがつくのである。
得をしたのだから余計に買ってしまおうと考える。ええ、はい、浅はかな消費者です。
「図説 敦煌」(大橋一章/河出書房新社) 600円
定価1800円は買えない身体になって敦煌から帰ってきたわたしわたしわたし。
「本棚が見たい!2」(川本武/ダイヤモンド社)絶版 600円
これも本来なら2〜300円でしか買わない類の本なのだが今日は特別である。
「東アジアの仏教」(岩波講座「東洋思想」第12巻)絶版 1400円
漢字仏教圏の講座。どうせ読んでもアホなわたしにはわからないのだろうけれども。
中国仏教について知りたいのです。
ここでまたヒットが! おおう! ずっと探していた本をこのタイミングで発見するとは。
山田太一のシナリオはなぜか古書市では出てこないものと相場が決まっていた。
なぜかブックオフにしかないのが山田太一の絶版シナリオだった。それが――。
「シャツの店」(山田太一/大和書房)絶版 500円
これはなかなかない本ですよ〜。
「日本の古本屋」にもない。出ても2000円とかつけるバカばかり(かしこいの?)。
矢口書店なら3000円。
脳がスパークする。今日はフェスティバルなのだ。脳の制御がぶち切れる。
「保存版 山頭火」(石寒太編/毎日新聞社)絶版 735円
「暮らしがわかるアジア読本 中国」(河出書房新社) 840円
「シナリオ創作論集」(松本孝二編/映人社)絶版 315円
合計金額は6040円。われながらよく買ったと思う。
思うに、古本というのはあれだな。まず買わなければならない。
1冊カゴに入れると、その本がべつの本を呼んできてくれる。
したがって、最初の1冊をカゴに入れる(買う)というのが最重要。
古本ってふしぎだよな。
買うとなったらついたくさん買ってしまう。かと思えば1冊も買わないときがある。
本は人間の情熱の結晶。人間以上に奇妙な縁が働くのかもしれない。
(追記)これで「本の山」新記録です。1日10記事更新ははじめて。
ほめてとは言いません。拍手もいらない。ヒマでいいねと憫笑してくださいませ♪
病院のそとへ出ても、まだ怒りはおさまっていなかった。
ふざけるなよ〜。待合室で順番を飛ばされたのである。
患者の苗字が医師とおなじだったから、あれはもしかしたら縁故で、
意図的な順番替えだったのか。
新患だったから、これで20分も待たされた。
もちろん苦情を言うわけである。
「わたしのほうが順番は先だと思うのですが」
待合室にいる全員がわたしに注目する。
こういうことを日本人は言ってはならないのである。
無言で辛抱しなければならない。「おしん」かって!
看護婦さんも、この手の抗議にはなれていない。
病院では医療サイドが偉いのである。反旗をひるがえすなど、もってのほか。
おまえら患者は医療がOKしなければクスリひとつ入手できないのだよ〜という姿勢。
むろん、あちらがわの手落ち。
いちおうの謝罪はしてもらうが、顔を見るかぎりわたしを無粋なやつと認識している模様。
中島義道先生ならここでひと悶着起こすのだろうが、なんの肩書きもないわたしには無理。
今後も通いたいこともある。ぐっとこらえました。
ぷんぷん。いいやい。
現実から逃げてやる〜と言って入るのはブックオフ新宿靖国通り店。
「文藝別冊 総特集 河合隼雄」(河出書房新社) 105円
「退屈論」(小谷野敦/弘文堂) 105円
あっちゃんの「退屈論」は以前調べたときは絶版になっていたけれども、
いま検索すると在庫僅少。もしかしたら増刷されたのかな。
いんや、売れ残りの在庫がまた店頭に出ただけかもしれない。
小谷野敦はいまわたしがもっとも注目するブロガーである。
2ちゃんねるのヲチ(観察)スレッドともどもおかしくてたまらない。
小谷野敦周辺には笑いの原風景がある。
笑うものが笑われるという構図が実に笑えるのである。
すなわち、小谷野がバカをあざ笑う。2ちゃんねらーが小谷野に失笑する。
小谷野が2ちゃんを挑発する。このような連鎖がたまらなく笑える。
むろん、わたしも名無しで2ちゃんへ書き込むことがある。
そうそう。匿名についてこの際、書いておきたい。
あっちゃん(小谷野先生)は匿名を毛嫌いしているようである。
なにか意見を言うのなら名を名乗れとたびたびお書きになっている。
言い訳をする。恥ずかしいのである。
たとえば、白石昇先生や工藤伸一先生――。
だれも知らないでしょう。そのくせ実名で発言しているかれら――。
端的に恥ずかしいのです。
わたしも自己顕示欲の面では両先生に劣らないものをもっています。
けれども、かれらにはない羞恥心も同時にもちあわせている。
新人賞でも取ったら、名前を公開します。
ふたつか、みっつくらい取ってから。恥ずかしがりやなのであーる♪
ともあれだ。遅ればせながら「もてない男」小谷野敦先生、結婚おめでとうございます〜。
つぎなるブックオフは大久保明治通り店。
早稲田大学理工学部のすぐそばである。だからだろう。毎回、ろくな本がない。
ブックオフは地域によってかなり品ぞろえが変わるぞ。
いつ行ってもそれなりの収穫があるところもあるが、
反対にいつ行こうがダメなところもある。
ここは早稲田の古書店街へ行く途次にあるので覗いているだけ。
「紅花」(井上靖/文春文庫)絶版 105円
「黒い潮・霧の道」(井上靖/文春文庫)絶版 105円
井上靖の文庫は定期的に補充する必要がある。
まあ、悪くはない買物である。
炎天である。公園を抜けて早稲田へおりる。子どもが水遊びをしていた。
ブックオフ早稲田駅前店へ行くが収穫はゼロ。
思えば、引越前に大量に本を売却したのはここであった。
早稲田大学本部キャンパスへ行く途中にある古本屋にも顔を出す。
おそらくわたしの在学中もあったのだろうが、通うようになったのは卒業後である。
ここで「ストリンドベリ名作集」「オニール名作集」を格安で入手したのだった。
その恩があるから、いまでも早稲田へ行くとかならず寄ることにしている。
1冊買う。たしか半年以上まえに来たときもあったような気がする。
考えてみれば、あいだにアジア漫遊をはさんだので、この界隈に来るのは半年振りだ。
「シナリオマガジン ドラマ 1988年5月号」(映人社)入手不可 200円
山田太一ドラマ「夢を見たくて」のシナリオが掲載されている。
以前来たときは100円でなければ買わないと思ったのだったか。
いまのように山田太一のシナリオを読み込むようになるとは思わなかった。
こうなったら当然、買いである。
それから、それから。どこのワゴンで買ったのだったか。
「三田文学 2006年 秋季号」 100円
一部で話題になった片山飛佑馬クンの「アパシー」が掲載されている。
「三田文学」の編集長って、まだ加藤宗哉だったんだね。遠藤周作の金魚の糞(ふん)。
師匠に人生を食いつぶされた弟子が、七光りで編集長ですか〜。きんもっ。
浅川書店前にシナリオ雑誌が大量に積まれている。
びびっと来ましたね。1冊ずつ手に取り収録シナリオをチェック。
うふふ。予感的中。4冊ほど購入する。400円。
なかでもお宝は浦山桐郎特集号である。
「私が捨てた女」「キューポラのある街」「非行少女」のシナリオが掲載。
「キューポラのある街」のシナリオは是が非でも入手したいと思っていた。
とても好きな映画である。なぜかシナリオも読んでみたくなるなるのだ。
映画監督・浦山桐郎は原一男さんの師匠。わたしからすると祖父師匠である。
あとは「女の園」(木下恵介)シナリオ。「藍より青く」(原作山田太一)シナリオ。
山田太一が青年期に自主制作した映画のシナリオ掲載号もゲット。
もうこのへんまで来るとマニアックでだれもついて来れないと思う(苦笑)。
最後にブックオフ高田馬場店。
「人間のなかのX」(遠藤周作/中公文庫)絶版 105円
「説得術」(増原良彦/講談社新書)絶版 105円
遠藤周作のは大学生時代にずっと探していた本である。
つい買ってしまったけれども、まあ、読まないだろうな。
ふうう。引越してしまったから高田馬場から自宅へ帰るのがたいへんである。
けれども、書物の収穫はなかなかのものである。
列車のガラス扉にうつるわが顔はどこかニヤニヤしていて気味が悪い――。
「本棚が見たい!」(川本武/ダイヤモンド社)絶版
→ひとに本棚を見られたくない。
もののわかるひとが見たら、ひと目でわたしがばれてしまうからである。
「本の山」のようなブログをやっているくせに意外だと思われるかもしれない。
それは違う。本棚ではタイトルのみ一望のもとに眺められる。
並ぶ本の色合いだけでも、ばれるものがあるのである。
ある本とべつの本の位置関係だけでも、ある種の精神構造が明白になる。
それと、みなさまは、ここに感想を書いているものだけしか
わたしが読んでいないとお思いですか?
これ以上、書いてしまうとやぶ蛇なのであわてて口をつぐむ。
ひとに本棚を見られたくないのに、そのくせ、ひとの本棚は見たいのである。
白状するが、覗き見根性は人一倍旺盛である。
ミラーマン、植草教授にもひけを取らないと思っている(おびえている)。
ひとの隠しているものを見たいという、ほとんど犯罪的な欲望があるが、
これはわたしだけなのだろうか。植草教授が逮捕されたとき、
ワイドショーの男性識者は一様にかの経済学者を理解できないというような顔をしたが、
わたしにはかれらのほうが得体の知れない生物に思えてしまった。
だれだってひとの隠しているものは見たいでしょう?
「本棚が見たい!」なのである。
著名人の本棚がカラー写真で公開されている。それからインタビューである。
まあ、恥ずかしい写真は1枚もなかった。むろん、それでもおもしろいのではあるが。
たぶん、ここを撮ってくれという依頼が本人からかなりあったのではないか。
この本には山田太一の本棚も掲載されている。
目を皿のようにして見たものである。
こんなものをという驚きと(覗き見る)喜びに身もだえした。
けれども、肝心の書庫は地下にあるという。
そこは撮影のみならず閲覧も拒否されたとか。当たり前の話である。
うちの本棚はクローゼットに隠してある。
どういったらいいのか。クローゼット用の小部屋がついているのである。
そこに本棚を4つ入れてある。重要な本はすべてこちらに収納している。
どうでもいいような本ばかりおもての本棚に並べている。
いざとなったらクローゼットの扉を閉めてしまえば完全犯罪だ。
本棚は、わたしにとって、ここだけは隠しておきたいという場所である。
だから他人の本棚を見たいというのは、まったく矛盾していないと思っているが、いかが?
「好きになっちゃったベトナム」(下川裕治責任編集/双葉社)絶版
→逆説めいたことを言うが人間がもっとも旅と無縁なのはまさに旅をしているときだ。
旅の本質は行為ではない。思念のうちにのみ存在するのが旅である。
旅行のプランを練っているときほど楽しい時間はないでしょう。
ひとはそのとき旅をしている。旅とは思い思われるものなのだから。
旅に出るまえ、かれは旅をしているといえよう。
旅から戻る。回想する。このときもかれは旅をしている。
どういうことか。たとえば旅をしたいと思うとき、ひとは旅をしている。
かつての旅を思い返しているからである。
いつかゆく旅に思いを馳せているからである。
芭蕉が旅を始めたのは「おくのほそ道」の1行目を記したときであった。
人生で旅ほどおもしろいものはないといまのところ思っている。
見知らぬ土地で見聞を広めるのは人間に許された数少ない愉楽である。
たしかに人生はつまらない。だが、旅があるではないか、とも思う。
カネがない。時間がない。にもかかわらずひとは旅をできるのである。
旅行記を買ってくるがよろしい。いつかここに行くと決めるのである。
そのうえで本を読み始める。そのときあなたは立派な旅人である。
けれども、なんとか都合をつけて実際の旅に出るのがやはりよろしい。
人生は一度きりである。思い切って旅立つしかないではないか。
その旅は生きているあいだ無制限で旅として使えるのですぞ。
酒をのむ。ブックオフにて105円で買ったこの本を開く。かつて旅したベトナムを思う。
このときわたしはほんとうの旅をしていた。
現地でのんだビアホイはまずかったが、日本で思うビアホイは最上級の酒である。
ここに旅の不思議がある。旅の愉悦がある。
「男性自身傑作選」(「山口瞳大全第10巻」/新潮社)絶版
→これをささま書店にて315円で買えたときはうれしかったな。
週刊新潮に連載されていた名物エッセイ「男性自身」の著者自選による傑作集である。
山口瞳は日本が誇る最上のエッセイストのひとりだと思っている。
毎晩、酒をのみながらこの本を開くのが楽しみで仕方がなかった。
そのうち終わらないでくれと思うようになったものだ。
書物に終わりがあることを嘆くほどおもしろかったのである。
どんなものであれ最高品質のものは、そのジャンルの特性をおのずから明らかにする。
「男性自身」を読みすすめながらエッセイとはなんであるかわかってしまったのである。
おそらく勘違いであろうが、このような飛躍をするのは当人にとっては楽しいもの。
どうかもうしばらくおつきあいください。
「枕草子」「徒然草」からして、エッセイの本質というのは「好き/嫌い」である――。
人間の基準というのはふたつあるように思う。
ひとつは「正しい/誤り」という分類。もうひとつがエッセイの根幹たる「好き/嫌い」。
論文とエッセイはともすれば見分けがつかない。
だが、この基準に照らせば、その文章が論文かエッセイかの区別が容易につく。
正誤を問題にしていたら論文。好悪(こうあく)を問題にしていたらエッセイである。
論文というのは、とかくつまらないものでしょう。なぜなら人間味がないからなのです。
人間というのは正誤では生きていない。好悪で生きている。
たまにこれをわからない学者がとんちんかんなことを言います。
ひとは、正論ばかりの品行方正な人間をかならずしも好きになるわけではない。
むしろどう考えてもひととして生きかたを間違えているような人間を、
それゆえに好きになるのが我われである。
からだにいい無農薬野菜を薄味で調理したものがすばらしいのはわかる。
けれども、あんなものを毎日、食べたいなんて思うのは病気でしょう。
いかにもからだに悪そうな化学薬品たっぷりの料理をかえって好んだりする。
子どもの味覚は正直だという。子どもは健康にいい食品なんて食べたがらない。
ドミノピザとか、いかにもヤバそうなのを求める。
子どものみならずおとなの我われも正誤では生きていない。
それは正誤は気にするけれども、最終的な判断をくだすのは好悪である。
好き嫌いというのは、それだけ人間にとって根深いものなのである。
生半可な理性ではどうにもならないものが好き嫌いにはある。
だから、と言いたいのである。
これまでエッセイは書かれつづけてきたし、我われはエッセイを好んで読む。
他人の好き嫌いとじぶんのそれを比較するのはおもしろいのである。
会話がいちばんはずむのは好き嫌いをテーマにしたときではないか。
ことによると、たいがいのおしゃべりは、あれが嫌い、これが好きの表明かもしれない。
好きなものと嫌いなものを聞いたらその人間がわかるというのも決して大げさではない。
もしブログでエッセイを書こうと思っているかたがいらしたら好き嫌いを書けばよろしい。
それが新鮮なものであれば、エッセイはおもしろいものになる。
つまり、エッセイの秘訣は「わたし」を追求するということか。
「わたし」とはなにか。なんのことはない。好き嫌いである。
好き嫌いには正誤がない。これを好きなのは正しいということはない。
ひとそれぞれなのである。好き嫌いには絶対的な正解がないのである。だから難しい。
人間をみがくということは、好き嫌いを洗練させることなのかもしれない。
ひとはそのためにエッセイを読む。むろん、そんな向学心はなくともエッセイは楽しい。
人間はおもしろいということだ。まったく好き嫌いは果てしないテーマである。
「花壇」(井上靖/角川文庫)絶版
→建築会社の社長、江波棟一郎はオリエント旅行中、ある事件に巻き込まれる。
砂漠の真ん中でタクシーの運転手が病気になったのである。
これでは動きが取れない。偶然、知り合った白人の老紳士が江波に援助を申し出る。
じぶんのタクシーに同乗しないかというのである。
行きたいところがあるからと一度は断わった江波だが、老紳士は申し出を引っ込めない。
ついでだからそこへも行きましょうと言ってくれる。
江波はありがたく好意を受けることにする。
ところが、このタクシーが事故で崖の下に転落する。
たまたま地盤がゆるんでいたのである。
老紳士とタクシー運転手は即死。江波だけが運よく生き残った。
江波は考える。あの日、あの時間にあの場所を通ったから事故に遭遇したのである。
もし老紳士が親切心をださずに日本人を誘わなかったらこの事故は起きなかった。
老紳士はたいへんな人徳者で、この旅も無医村に診療所をつくるための下準備であった。
なぜ老紳士は死んで、じぶんは生き残ったのか。
江波は帰国すると周囲の反対を押し切り会社を辞める――。
江波の感慨を本文から引くとこうである。
「一人の人間が生きて行くということは、大勢の他の人間の運命を変えたり、
他の人間の人生によく働いたり、悪く働いたり、複雑なものなんでしょうね」(P107)
老年の井上靖は、主人公のさりげない会話に物語の真実を埋め込んでいる。
ありきたりな人生観だが、物語のすべてがこのせりふに凝縮されているといえよう。
しつこいがこの平易な文章を整理しながら繰り返すとこうなる。
「一人の人間が生きて行く」→「大勢の他の人間の運命を変える」
「一人の人間が生きて行く」→「他の人間の人生によく働いたり、悪く働いたりする」
上記の図式を「複雑なもの」と形容している。
このほんらい複雑なものを、わかりやすく読者のまえに提示するのが物語である。
少なくとも、井上靖の小説はそうである。複雑なものがわかりやすく書かれてある。
では、この複雑なものの正体とはいかなるものか。
事故直後から江波の内部に老紳士が住まう。
死んだ老紳士の声が江波には聞こえるのである。老紳士はこう話しかけてくる。
「――私も死に、運転手も死ぬ。あなただけが生きる。
私たち二人がなぜ死ぬかも判らないし、あなた一人がなぜ生きるかも判らない。
どういうわけで、そういうことになるのかは、誰にも判らない。
誰にも判らないから、
こういうことを説明するために運命という便利な言葉ができている。
すべてを運命というものに押しつけ、
一切を運命というもので片付けてしまう以外仕方がない」(P110)
複雑なものは運命とよぶほかない――。
井上靖は運命を描く作家なのである。
歴史から運命を見ることは容易だ。
栄枯盛衰という運命の別名を後追いすればいいのだから。
しかし、現代から運命を抽出せんためには、どれほどの視力が必要なのだろうか。
たとえば宮本輝は創価学会という色眼鏡をかけたわけである。
(宮本輝は運命を宿命へと捏造する作家だ)
井上靖に信仰はなかったようである。とすると、もともと超人的な裸眼をもっていたのか。
この視力は通常のものとは異なり、老いとともに冴え渡るもののようにも思える。
老眼にしか見通せぬものが、あるいは運命なのではないか。
「闘牛」で芥川賞を受賞したとき、井上靖は42歳になっていた。
「図解雑学 仏教」(廣澤隆之/ナツメ社)*再読
→このブログに「アジア漫遊記」を記す際、
まさか仏教の基本事項に間違いがあってはならないので復習として再読する。
毎度のことながら、膨大な内容をよくもまあコンパクトにと感心する。
基本事項はすべて網羅されているといってよい。
ここからスタートして、ここにゴールすればよいという、いわば教科書である。
新たな分野を勉強する場合、
なにから始めなければならないかというと語彙(ごい)の獲得である。
専門用語の大まかな意味を知らなければ議論についていけない。
その際、この「図解雑学 仏教」ほど役に立つものはない。
仏教を学ぶうえで知らなければならない用語がすべて絵つきで解説されている。
ここから仏教という大海原に出ればよいのである。
この小著は航海の羅針盤ともなる。
いまどこにいるのかがすぐわかるようになっている。
これはいささか個人的な問題だが、記憶力が弱いので「図解雑学」シリーズは重宝する。
ぱっと名前が出てこないことがよくある。「図解雑学」本を開けば一発なので助かる。
いくらバカにされようが、わたしは「図解雑学」のファンであることをやめないであろう。
これは新しい知のかたちだ(笑)!
「文藝別冊 総特集 河合隼雄」(河出書房新社)
→KAWADE夢ムック。
河合隼雄は作家との相性がいい。対談ではかけあい漫才になっているところもある。
どちらもウソつきだから、ウソとウソの相乗効果で話がはずむのであろう。
学者がマジメに河合隼雄を論じようとすると、わけのわからぬ文章ができあがる。
あれはウソなのだから真に受けてはいけないということだ。
河合隼雄の本を読むと元気になるひとが多いのは、あれがウソだからである。
真実は人間を追い詰める。比して、ウソのなんとほがらかなことか。
ここらでちょいっと楽をさせてもらう。
河合隼雄をマジメに論じたらおかしな方向へ言ってしまう。
いくつか引用をする。偉大なるほら吹きをご覧ください。
「だいたい、僕らのところに相談に来る人は、常識的な答えのない人です。
常識的な答えがあったら相談に来るわけないんですから。
だから、常識で考えても仕方ないから、夢でも見ませんかって言うんです。
夢というつかみ所のないものでも、ああでもないこうでもないとやっていると、
面白い答えが見つかったりする」(P45)
「僕らの仕事はその逆ですね。
努力とか、完結しようとせずに、そんなのやめなされと(笑)。
そういうことをやってるんですね、だから、こんなこと言いますよ、
あなたは常識で考えるかぎり、治ることありませんって。
しかし偶然ってことがあるから、一緒に待ちましょうって。
努力している人というのは、偶然が来ても見えないんですよ」(P85)
瀬戸内寂聴との対談もおもしろかった――。
「あれ(写経)はいいんですよ。私もときどき勧めます。
寂庵なら寂庵へわざわざ出かけて行き、大勢で集まり、お経を書くという、
そうした全てがたいへんいいんです。
集中力も必要ですし、あんなに他人に迷惑をかけない、いいものはないですよ。
歌など歌われたらたいへんですからね(笑)」(P176)
瀬戸内「私、今「源氏物語」の現代語訳をしていますでしょう。
あの時代は何か不幸があると、これは前世の因縁のためだ、
といってすべて前世のせいにしてしまうんです(笑)。
つくづくこれは救いだなと思う」
河合「そうです。救いですし、身近な人を恨まなくても済みます。
前世という考え方がないと、自分がこうなったのも親が悪いんだとか(笑)、
教師のせいだとか、周囲のものを悪者にしてしまうんです。
ところが前世という考え方は、悪者をつくらない。
よほど俺は前世で悪いことをしたんだ、と自分ですべての責任を引き受けてしまう。
これはたいへんな知恵ですよ」
瀬戸内「光源氏が女を口説くのにも前世の因縁をよく持ち出します。
本当に便利ですね(笑)」(P180)
「こころの声を聴く」(河合隼雄/新潮文庫)
→河合隼雄対話集。
ようやくわかりましたよ!
河合隼雄の著作はすべてウソであった。河合隼雄は希代のウソつきであった。
ユングの冠をつけたおかたい研究書も、実のところはみーんなウソ! ウソ八百だ!
そもそも、である。河合隼雄の著書は、一見すると難解に思われるものも、
みなみな一般読者でも読めるでしょう。意味がわかる。
そこいらの主婦やリーマンにも読めてしまう。
よくよく考えたらこれはおかしいのである。一般人にわからないのが学問なのだから。
だれにでも読める河合隼雄の学術書というのはかなり危険なのである。
一般読者は学問を正しいものだと思っている。
だから、学問をしたと勘違いしたそこいらの主婦がわかったようなことを言い始める。
子どもに学校でちょっとなんかあったら、こころに傷がうんぬんとバカ騒ぎする。
根拠は、だって河合隼雄先生が言っているざーます、である。
会社員も会社員で、学問的に正しい上司との交際をしようとして、かえって煙たがられる。
このような主婦や会社員に言いたい。
河合隼雄の主張はすべてウソだぞ。ウソはウソとして楽しまなければならない。
ウソを真に受けたら、とんでもないことになるからな。
亡くなったのを契機に、
日本人は河合隼雄との正しい向き合いかたを考えるべきではないか。
河合隼雄先生のおっしゃることは正しい、という受容の仕方はやめよう。
河合隼雄先生はウソをおっしゃっている、と見たほうがいいのではないか。
ウソを否定的な意味合いで断じているわけではない。
ウソだからいいのである。ウソだから役立つのである。
たとえば、死にたいというひとがいる。
このひとにいくら正しいことを言っても無駄なのである。
ひとは生きるべきだ、なんていう正しい説教をしたところで、なんにもならない。
正しいことといえば、この世に生を受けた人間はいつか死ぬ。このくらいでしょう。
正しいことは、役に立たないのである。
河合隼雄にとって、なにより大事なことは相談に来る悩めるものを救うことだった。
いくら正しい学問をマスターしていても、
ひとりの人間に相対するときはなんの役にも立たない。
人間と向き合うことを、心理学では臨床という。
この対話集で河合隼雄はこんなことを言っている。
「私は人間のこころのことをやっていて、前からそう思っていたわけです。
ところが私がやり出したころは、それこそシステム論が強いわけですから、
そういう固いシステムをもっていないものは学問ではない、
科学ではないと批判されるわけです。しかし私に言わせると、
そういう科学とか学問でつくったものは実際に役に立っていない。
われわれは、臨床をやっているわけですから、
役に立たないと話にならないわけですよ」(P202)
役に立つ学問を追及していたら、いつのまにかウソになってしまった。
これが河合心理学の真相ではないだろうか。
河合心理学は正しくない。ウソである。だからクライアントは治癒にいたる。
河合隼雄はほら吹きである。だから学術書も楽しく読めてしまう。
忘れてはならないのは、それでもウソだということである。
ウソを正しいと思ってしまうと問題が生じる。
マジメな顔をして、アニマがどうのアニムスがどうのと語ってはいけない。
(アニマ、アニムスはユング心理学の述語)
思いつめた顔をして毎日の夢の記録など取るな、と言っている。
ここで重要なのはニヤニヤではないか。
夢の話などニヤニヤしながらすればいいのである。
思えば、偉大な師である河合隼雄先生もいつもにこやかに笑っていらっしゃった。
あれは見方をかえればニヤニヤとも言えなくはありませんか。
どこかでウソをついているというやましさがあったのでしょう。
あるいは「無意識(こんなものあるのか?)」に後ろめたさを感じていた。
河合隼雄の著書を読むときは、このニヤニヤを忘れてはならない。
著者がニヤニヤしながら書いているのに、
読者がマジメな顔をしていたらおかしなことになってしまう。
ふふふ、河合先生たら飛ばしちゃって! このくらいの余裕を読者も持ったほうがいい。
しかし、河合さんのウソはおもしろいよな〜。
たとえば、この本から――。
人間は老いも若きもブラブラしているほうがいい。
なにもしないでブラブラ遊んでいるのがいちばん楽しいんです。
そういうなにもしないひとから時どきなにかをするひとが現われる。
それが芸術だったりする(P98、P120)。
こんなウソをさりげなく言う河合隼雄先生は最高だよ!
え、これウソですよね?
芸術というのは汗水流して努力した結果でしょう(ニヤニヤ)?
「日本の面影」(山田太一/岩波現代文庫)
→テレビドラマシナリオ。1984年放送作品。全4回。
山田ドラマは、ひと言でいうなら泣きのドラマなんだな。
感情に喜怒哀楽があるという。すべてにおいて人間は泣くわけである。
喜んで泣く。怒って泣く。哀しくて泣く。楽しくて泣く。
繰り返すが、山田ドラマの基調は泣くである。
泣かないというのも、泣くが網羅するところの感情領域だ。
口惜しいけれども泣かない。やりきれないけれども泣かない。
泣かないで生きてきたひとにも我慢できない瞬間というものがある。
こみあげてくるものはどうしようもない。泣くしかないではないか。
この「泣く/泣かない」のあわいにたたずむ人間を山田太一は好んで描く。
それが正しい人間のすがただからである。
たとえば、人間の喜怒哀楽。そのどれほどが人間自身の手によるものか。
すべて向こうから来るものではないか。
喜びも哀しみも、個人の意思とは無関係に、むしろ逆なでするようなかたちで、
あちらがわから来るものではありませんか。
人間は能動の存在ではない。受動でしかないとは思いませんか。
ちっぽけな人間は、喜怒哀楽すらままならぬ。
どうしようもない。やりきれない。
このとき赤子のような個人が巨大なものに手をあげる。
受け入れるしかないのを知りながらもノーと拒絶する。
その結晶が山田ドラマにおけるなみだなのである。
このドラマの主人公はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)。
明治時代の日本研究家である。白人の親日家のさきがけとして知られている。
シーンは松江の中学校。
ここで教鞭(きょうべん)を取るハーンだが、学校をやめることになった。
そのことを教え子たちにいうハーン。
●中学校・教室
うつむいている生徒たち、その中に小豆沢も石原も大谷もいる。
しんとしている
ハーン「発つのは、十一月です。まだ二ヵ月もある」
小豆沢「(急に涙を拭く)」
石原「――(泣かない)」
大谷「(泣いている)」
静かで、鼻をすする声のみ、ハーン、ホロリとして、涙ぐむ」(P248)
ハーンは日本人女性、小泉セツと結婚する。
待ちに待った赤子が生まれた日である。
産室でハーンとセツは顔を合わせる。
セツ「(そのハーンを見つめる)」
ハーン「(微笑)」
セツ「(幸福で、涙ぐむ)」(P292)
いつから日本人は泣かなくなったのだろう。
明治期の人間ドラマを描きながら、
あたかも山田太一はこう問いかけているかのようである。
なにゆえ日本人は泣かなくなったのか。
明治時代に西欧から輸入されたのが近代化、産業化、合理化である。
すなわち、人間万能主義だ。人間はやろうと思えばなんだってできるという思想だ。
壁にぶつかっても人間は泣いてはいけない。
その壁を超えてゆくのがあるべき人間のすがただという思想。
がんばれ、がんばれと人間の尻を叩いていく流儀。
貧乏人はすべからく金持になるべし。
そのためには英会話を勉強して資格を取らなければならない。
前向きでなければならない。泣いてなんかいるのは負け犬だ。
人間はがんばればなんだってできる。
テレビ「愛は地球を救う」では身体障害者が登山に挑戦している。
見習え。泣くのは人間のクズだ。人間は常に挑戦しつづけなければならない。
――いつから日本人はこうなってしまったのか。泣かなくなったのか。
山田太一はなにゆえドラマで人間をして泣かしめるか。
山田ドラマの登場人物はどうしてああも泣くのか。
根本の思想を山田太一はハーンの口を借りて語っている。
ハーン「私は、なぜ生きているのか? 死んだらどうなるのか?
分らないことばかりだ。 なぜ感じたり考えたりできるのか?
人間には、どうにもならないことがいっぱいある。
人間は、無力だよ。世界の中心になどいない。
少なくとも、そういう恐れを抱く必要はないかね?
でなければ、人間は途方もなく傲慢になってしまわないか?
自分がここにいるのは、
目に見えない大いなるもののおかげかもしれないとは思わないかね」(P119)