今日はパンダのふるさと成都を離れる日である。
夜行列車で西安へ向かうことになっている。
だからといって、体力を温存したりはしない。
完全に中国旅行のリズムに乗ることに成功している。
今日も朝から晩まで観光をするつもりである。
せっかく中国くんだりまで来た。つぎいつ来れるかはわからない。
これが最後かもしれぬ。なら、ひとつでも多くのものを見ておきたい。
それがかけがえのない財産になるはずである。
そういう世界で生きていこうとすでに腹を決めているのである
生きていけなかったら切腹するのみ。
切ろうとしてもかっさばけぬほどに財宝を腹へつめこんでおきたい。
無形の宝物をである。どこに宝が落ちているかはガイドブックには書いていない。
じぶんで見つけなければならない。これがこんかいの中国旅行である。
荷物をホテルに預け(ここは無料だった)チェックアウト。
いままで書いていなかったが中国のホテルは独特の料金体系を取る。
たとえば、このたびのホテルは3日300元で契約している。
デポジット(保証金)を前払いで払わなければならないのである。
外国人の場合、相場よりも多く取られることがよくあった。
まあ、かならず返ってくるのだから問題はないのだが。
このホテルには500元くらい前払いしたかな。
チェックアウト時になにも問題がないと(ホテルの備品など)保証金の200元が返される。
アジアでこのよう料金体系を選択しているのは中国だけである。
どういうことか。中国人はおなじ中国人でさえ信用していないということである。
金持が食堂へ行くとき、家から油を持ち込むのが過日ニュースで報道された。
廃棄用の油を使われるかもしれないとおびえているわけである。
中国人の厚顔無恥ぶりは中国人がいちばんよく知っているのである。
おれだったら安ければどんな劣悪な食用油でも使う。
だから、おなじ中国人のあいつらもそう考えるに相違ない。
これが中国人の思考法である。
中国人とはいかなる人種か。たとえば、あれはショックだったな。
かなり見ばえのよいホテルである。
ロビーのエレベータまえに灰皿がある。痰(たん)を入れるなかれと書いてある。
そのまえで堂々と痰を吐き散らす中国人にはぞっとした。
貧乏人ではない。けっこうな身なりをした富裕層がである。
痰といえば、おそらくみなさまが中国へ行って、いちばん驚かれるのはこの痰ではないか。
中国人はところかまわず痰を吐く。かーっぺとことさら大きな音を立ててだ。
妙齢の女性までおなじことをするのだから、なんという国なのであろうか。
しかし、1ヶ月もしたらわたしも真似をして痰を吐くようになったことを最後に付記する。
バスで青羊宮(せいようきゅう)へおもむく。
ここは有名な道教宮観。まあ、道教の寺である。なんでも四川道教の中心地だとか。
道教とはなんぞやという知識はこちらがわにはないわけである。
よって、いうなれば予習ということになるのかな。帰国してから復習するための予習。
乱暴なことを愚者の軽率からいってしまうと、寺ってどこもおなじではないか。
ヒンドゥー教、カオダイ教(ベトナムの新興宗教)、仏教、道教――。
とにかくえらいひとが祀(まつ)ってあるという意味においてである。
正確を期すとひとではない。ひと以上、カミ以下の畏怖対象である。
民衆は、この(人間を超える)大きなものへこうべを垂れる。
個が個として生きようとするとかならずどこかでゆきづまる。
かれは個を超えるものと対峙する必要に迫られる。
必要がなくてもかまわない。物見遊山でもいいのだ。
儀礼上、こうべを垂れる際、この人間はおのれを超えるものと対面している。
この体験は意識するせざるを問わず、明日からの生活の励みになる。
個はおのが位置を知らぬ。
ただ全体をまえにしてのみ個はそれを一瞬かいま見ることができる。
寺にある遺物は、それへと通じる異物でもあるのである。
宗教的建築物は異界でなければならない。
異界は狂気の世界である。儀礼なくしてひとが長くとどまれる場所ではない。
だが、はやばやとこの道教寺をあとにしたのは狂気に呑まれそうになったからではない。
霊感は持ち合わせていない。ただ時間がなかったのである。
予定では、ここのほか、ふたつ観光をしようと思っている。
急ぎ足で、思う。この旅では数えきれぬほど寺へ入った。
そのうちいくつが異界を感じさせてくれただろうか。
バスを乗り継ぎ杜甫草堂(とほそうどう)へ行く。
杜甫といえば詩聖として名高い大詩人。ここはかれをダシにした観光地。
杜甫は生涯のうち4年をここ成都で過ごしたという。
もっとも詩作に集中できた、いわば輝かしい時期であった。
地団駄を踏むほどくやしいわけである。
日本で、杜甫詩集を買ってあった(角川文庫のバカ向けのですけどね)。
いつか読もうと思いながらタイ、バンコクへ旅立ってしまった。
いま杜甫詩集があったら。かたくるしい岩波文庫のでもよろしい。
1500円でも買っていたと思う。
恥ずかしい。中国を旅行するのに杜甫すら読んでいなかったとは。
言い訳をすると、当初の旅程に中国は入っていなかったのである。
この観光地の売り文句は「中国文学の聖地」――。
文学立身を志すわたしは、それでもなにかを得よう得たいと目を凝らした。
杜甫の石像がある。背景には「国敗れて山河あり」が書かれてある。
杜甫よ、と呼びかける。若き文学学徒は詩聖になにを語りかけたか。
「杜甫先生、あなたがおのみのお酒、おいしそうですね」
酒をのむ姿勢の杜甫が石像になっているのである。
実にいい顔をして酒をのんでいる。まこと、うまそうである。
「杜甫先生、やはり酒と文学は一如ですよね。どちらも味わいなのですから」
そのとき、杜甫がかすかにうなずいたのを見逃さなかった。
「中国文学の聖地」でアル中を悪化させるわたしである。
杜甫詩集の博物館がある。
古来、編まれてきた杜甫詩集を年代順に展示しているのである。
日本の岩波文庫まで陳列されていた。
古い書物を見ると、いいようもなくこころが安らぐ。
所持したひとのことを想うのである。
いく度、どんな気持でこの書物をひもといたのか。
ここ杜甫草堂は遺跡ではない。ただの観光地。もっといえばテーマパークである。
ミッキーマウスのかわりを杜甫がしているようなもの。
したがって土産物屋の充実振りが華々しい。こっちがメインかと疑いたくなるほど。
日本語を話せる店員もごろごろいる。ここは日本の団体旅行者の定番スポットなのか。
チーフっぽいおじさんの日本語にはしんそこ驚いた。
イントネーションが完璧なのである。たどたどしさがみじんもない。
細やかな発音を完全に使いこなせている。日本人よりもうまいくらいである。
かれの日本語に敬意を表して土産を買う。杜甫酒――。
おそらく中身は安物だろう。杜甫と名づけたから価格が2倍、3倍になっている。
おじさんは、それはちがいますよと言う。
これはここでしか作っていない地酒で、特別にみなさまにお分けしているのです。
のんでみますか?
「いただきます」
強いんだ。アルコール度は52だから。
うかがう。中国人って、こういう白酒(ばいじう)をいつのんでいるんですか?
「いつでものみますよ。中国の食べ物、からいでしょう。のどがかわく。
そこへこの白酒をぐいっといれる。あとは、そうですね、食前にのむひともいます。
これを一杯のんで食欲を向上させるんです」
むかしも、たとえば杜甫も、このお酒をのんでいたわけですか?
「ええ、そうです」
自信たっぷりに言うおじさんである。
500mlの杜甫酒を80元(1200円)で買う。ここでは値切らなかった。
日本人の顔に泥を塗りたくない。
もっと買いなさいと言われたが、これからまだ旅がつづくのでと断わる。
「ミシミシ」とはどういう意味かと聞いた。
中国人が日本人に笑いながら投げかけてくる言葉である。
かの商人は一瞬困ったような顔をして、わからないと言った。
後日談だが、この酒はこのあと1ヶ月以上バックパックにおさまっていた。
わざわざ日本へ持って帰ってきたのである。
友人宅で乾杯した。これだけ苦労して持ち帰った杜甫酒である。
その友人はなんと言ったか。
杜甫酒よりも、ひと瓶3元(45円)の白酒のほうがうまいと放言。
殺意をおぼえたのは言うまでもない。
写真がある。左奥にあるのが杜甫酒。右手前方にあるのが最低の安酒。
http://blog65.fc2.com/m/moocontinent/file/200705221552L.jpgもう3時を過ぎている。あとひとつ行きたいところがあるのだ。
成都動物園である。ここにはパンダ館があり、
「常に十数頭のパンダがいて、こんなに多くのパンダが見られるのはここだけ」
そう「地球の歩き方」に記載されている。
たしかにパンダはおととい研究基地で見ている。
けれども、せっかく来たのだから動物園のパンダとも面会したい。
ガイドブックを見ると、どれだけたくさんのパンダがいることか。
しかし、バスが見つからないのである。
だれにどう聞いても成都動物園へ行くバスがわからない。
動物園の閉園時間は刻々と迫っている。タクシーを使わないという決まりを破る。
もう今晩には成都を発つのである。
たかだか500円をケチって最後にパンダとお別れができないのはあまりにもさみしい。
ランチを食べる時間もない、あわただしい1日である。
タクシーはさすがに早い。500円もいかずに動物園へ到着。4時近くだったか。
あと1時間ある。十分な時間である。
ところが、なのである。まったく「地球の歩き方」は――。
成都動物園は大熊猫研究基地に比べたら見劣りすることはなはだしい。
まるでパンダなんかいないのである。
なによりよくないのは、ガラス越しでしかパンダを見られないこと。
研究基地では柵をはさんで3メートルのところにパンダがいたのだが。
ここではくもったガラス越しに遠くにいるパンダを眺めるのみ。
せっかくタクシーまで使って来たのに、これではその甲斐がないではないか。
どうにもパンダとこころを通わせようのない設計なのである。
パンダはおととい丸一日満喫したからよしとしよう。
さて、なにをするか。疲れている。朝から観光地を駆け巡った。
昼食も抜いている。うん、酒ですな。
動物園の売店で聞くと、冷たいビールがある。別の売店で串焼きを数本購入。
いまさらパンダ以外の動物など見る気もしない。
かといって、せっかく来たのである。ここでビールをのみながらゆっくりしよう。
動物に興じる中国人でも見ているほうが、かえって新鮮かもしれぬ。
成都もこれで終わりか。なんとか行きたいところはすべて網羅した。
閉園のアナウンスに重い腰をあげる。バスで駅前へ戻る。
寝台列車に乗り込むまえに酒を入れておかなければならない。
3日連続でおなじ食堂へ入る。もう顔なじみである。
言わなくても冷たいビールがでてくる。
さてと、あまり時間はないけれども、なにをつまみましょうかな――。
ほろ酔い気分でホテルへ戻り荷物を取る。
もう中国へ来て何日になるのか。中国を舐めはじめている。
具体的に書くと、時間ぎりぎりで列車に乗り込むわけだ。
「歩き方」には1時間前に駅へ行けと書いてあるが、おまえの言うことはもう信用しない。
このときは15分前に駅構内へ入ったのだったか。それでも余裕である。
座席でもビールをぐびぐび。白酒もいっちゃいますか。
いつ寝たのか覚えていないのは毎度のことである。