峨眉山から楽山はバスで1時間もかからない。
どちらも世界遺産かつ仏教聖地。セットで観光するのが通常である。
バスで英語のうまい中国娘と知り合う。北京の大学生で、ひとり旅だとか。
よほどわたしがぐうたらに見えたのか、ホテルの世話までしてもらう。
「一緒のホテルに泊まりませんか」である。
ここで衝撃的な光景を目撃する。
中国旅行初期に彼女と知り合えたのは、とくに益するところが大きい。
中国人の値切るすがたを目前で観察できたことがなりよりも収穫だった。
彼女の選択したホテルは外国人のわたしを考えてくれてか、かなりムリメなところ。
うわっ、高そうと尻込みするようなホテルである。
フロントで金額交渉をする中国娘。うしろでお口あんぐりの日本人。
値切りかたが強引なんだ。まるで口論をしているかのようである。
何度もフロントはこれが底値だと金額を提示するが、
チャイナっ子は頑として首をたてにふらない。
フロントの価格表には260元と書いてあるのである。
それがいくらまで落ちたか。なんと100元。半額以下である。
恐るべし中国である。シナ娘がすごいのか、ホテルのいいかげんさがすごいのか。
これが中国であったかと、だらしない日本人はのけぞるばかりである。

部屋に入り、はてと思う。このような場合、隣の部屋をトントンすべきなのか。
お食事でもご一緒にとかなんとか。
けれども、めんどくさいな。わたしの酒量についてこれるひとはおそらくいまい。
疲れているから、ひとりでがぶがぶのみたいのである。
だが、こういうチャンスを逃してはならないのではないか。
旅先のロマンスってやつだ。
だけど、あの子、気が強そうだしな。いや、気が強い子は好きなんだけど。
なんて誘えばいいの。ここは誘わなくてはならないよね。
日本鬼子のイメージを少しでも改善させなければ。
などと逡巡(しゅんじゅん)していると、ドアがノックされる。あの子である。
「いまから外へ出ますので」
ああ、そうですか、なんて、あいまいな笑顔で見送るわたし。
ちょっとホッとする。やはりひとりのほうが気が楽でいい。
さみしがりやのくせに、その実、孤独が好きなんだよな。
孤独だと、だれかいたらと思うけれども、
いざひとと一緒だと今度はひとりになりたくてたまらない。
これをわがままという。

ひとりは楽しいな〜お酒、お酒と歌いながら、町へ繰りだす。
このあたりでは鍋が流行っているようである。
どの食堂でもみな鍋を囲んでいる。
さあ、問題である。どこの食堂に入るか。混雑している食堂に入るのは旅先の鉄則。
よし、ここだと決める。ひとり鍋である。
食堂のひとは外国人かつひとり客なのにとても親切にもてなしてくれる。
ビールは冷えてないがやむなし。
からい四川鍋である。ウインドウで具を選び鍋へどぼんだ。
お決まりの白菜と、お、ウインナなんてあるのか。豆腐は欠かせないぞ。
それから、ううん、これは珍味だ。脳みそがある。豚か羊か。
珍味が好きなのである。あん肝や白子は日本での好物である。
楽山で食うひとり鍋はうんまい。
豆腐がね、おいちいの。からいスープにお豆腐ぷるりん。ビールをごくり。
火が通ったら脳みそをぱくり。これは想像通りの味だ。口のなかでとろけるよ〜。
鍋はビールではない。勇気をだして白酒(ばいじう)を注文。
ほんとはものすごく怖いことなんだよな。
初めての町。それも異国。ひとり旅。だのに、強い酒をがんがん入れる。
命知らずというほかない。しかし、そういう危険な酒がうまいんだ。
いい気持に酔っぱらって店を出る。この店はいい。
明日もここでのみたいぞよ。成都へ行くのをあさってに延期する。ただ鍋のために、だ。

翌朝、ノックで起こされる。ドアを開けるとチャイナっ子。
「いまから観光に行きます。そのあとすぐ北京へ帰りますので」
ああ、それはそれは。昨日は、ええ、ありがたいことでして。
グッドなホテルをチープなプライスで、ともごもご。
本音は、野暮な日本人でごめんなさいである。それにしても早起きだな。
それに礼儀正しい(というのでしょうか)。
しばらくボーっとして、うんとこしょ。楽山大仏を見ますか。
ホテルまえでタクシーを拾おうとすると、これに乗れば5元でいいという声が。
あるタクシー。すでに中国人夫婦が乗っている。楽山に行くのだと言う。
いま助手席に乗れば5元でいいと言うのである。
それならばと乗車。楽山大仏に着くと、メーターは20元。
中国人夫婦は20元を支払い下車。
わたしが5元払おうとすると運ちゃんはメーターを示し20元だという。
こういうときに中国もアジアだと痛感する。
タイ人も、カンボジア人も、ベトナム人もこれをやる。中国人もやるわけだ。
けれども、日本人はこんなケチくさいこと、決してやらないでしょう。
東南アジアなら怒鳴ってすごむのだが、なんだかね、疲れてしまって。
もういいやと思いまして。かといって支払うわけでもない。
ただただぼんやりシートに座っていたわけさ。
ああいいよ。好きなようになさい。もう動きたくもない。そんな感じ。
すると困るのは運転手。新たな客が乗車したがっているのである。
今度は5元でいいと言う。はいはいと5元支払い下車。
東南アジアだったらかならずこういう場合は、車体に蹴りこみ、悪態をつくのだが、
もう旅も2ヶ月を経過して、いまいるのはあれほどあこがれた中国。
その中国からこんな仕打ちを受けるとは。なにかする気力はなかった。
疲れていたのである。

中国の世界遺産はカネを取るぞ。
だいたい100元(1500円)取られると思って間違いない。
中国に安価で滞在することは可能だが、観光しようと思ったら日本以上に費用がかさむ。
なぜなら中国で観光をするのはカネ持ちだけだからである。
峨眉山もバス代、入山料、ロープウェイ料金で5000円はかかったのではなかったか。
しかし、これをケチるような旅行をしたくはないのである。
たしかに激安招待所でごろごろしていればカネはかからないだろう。
食事も5元のソバで済ませたら1日1000円もかけずに生活できる。
だが、それではあんまりではないか。あえて無駄をしようと思っている。
この無駄からしか生まれぬものがある。
その不定形のものこそ、わたしが欲するものなのである。

有名な楽山大仏を見る。なにで有名かというと、
美しいわけでもなく、繊細な造形があるわけでもなく、ただでかい!
それだけである。でかい。
でかい大仏というのは、大仏とはそもそも大きい仏という意味なのだから、
あるいは間違った言葉遣いかもしれないが、でかい大仏というほかないのである。
インド仏教と中国仏教の相違は、レポートに書くのでなければ、
この程度の認識でいいと思う。
インドの仏様は中国に来て大きくなりました。
たぶんおいしい中華料理を食べ過ぎたんでしょうね。
で、大仏を見たからといって、感動するような旅行者ではない。
造りがちゃちいんだ。粗製というほかない。
いかにも中国産の大仏なんて書いたら13億のシナ国民から怒られてしまうので、
ありがたい、まこと、こころ洗われる大仏であった、ということにしておく。

「歩き方」には掲載されていないが、楽山のなかにまた別の聖地がある。
むろん別料金でゼニをふんだくる。しかし、ここは見てよかった。
洞窟のなかにたくさんの仏像があるのである。それがなんとも美しい。
ひとつの洞窟で胸打たれた。石を彫ってあるのである。
構図を説明すると、まんなかに仏様が鎮座している。
まわりに修行僧がおおぜい描かれている。小さな僧ばかりである。
ひとりの僧から目が離せなかった。とてもいい目をしていた。
ひとを殺すという目をしていたのである。
殺意は仏に通じるという感覚が、じつに見事に描かれている。
憎悪、憤怒、絶望から仏に向かっていく経路が、
論理ではなく視覚で一瞬にしてわかるようになっているのである。
とてもいいものを見た。ありがたいと思った。
まだそんな年でもなにのに仏像を見ると、ふしぎとなごやかな気持になる。
思えば、仏様に伴走していただいた旅であった。
タイ、カンボジア、ベトナム、あらゆるところで仏様と対面した。
専門家ではないからまるでわからぬのだが、
人間の顔としてみると、仏像それぞれに違いがあった。
その相違を見るのがおもしろかった。
いま中国にいる。
タイ、カンボジア、ベトナムと、ずっと仏様のうしろすがたを追ってきたようにも思う。
考えてみれば、3年前のインド放浪からなのかもしれぬ。
なにかが一本の線でつながったかのようなふしぎな感動が身を走る。

ランチはビールとチャーハン。中国で食べた最初の焼き飯はなかなかだった。
中国ではヌードル、炒飯のたぐいは信じられないくらい安いんだ。
これは高級料理店でも変わらない。
ヌードルやチャーハンは日本人にとっては一食でしょう。
けれども、本場ではそうではない。
何種類か惣菜を取って、スープもあり、ご飯で食べる。これが正式な食事。
チャーハンやヌードルは軽食。もっと言ってしまえばおやつくらいの感覚。
そのためかどの食堂でも3〜10元(50〜150円)も払えば食べられる、
もっとも安い中華料理のひとつになっている。

楽山見物のあとはバスで市内へ戻る。ふらふらお散歩。
スーパーを眺めたり、市場を冷やかしてまわったり。
大型書店で「我最高感動的日文」という本を買う。シリーズ3冊ぜんぶである。
日本語の感動的な文章が左ページに、その中国訳が右ページに掲載されている。
いわゆる日本語教則本のひとつである。
夏目漱石から村上春樹、トルストイ、アンデルセンまで抜粋されている。
トルストイは、訳文が日本語の名文という扱いなのかな。
あと日本語の会話集、単語集を各1冊ずつ。
なんとかして中国語を思い出したいのである。
だから、せめてもの参考になればと。まあ勉強のベクトルは正反対なのだが。
中国語で日本語を学ぶという。ともあれ、計5冊も買ったわけである。
レジで店員にぶち切れる日本人である。
書籍の扱いが雑すぎる。買った本の背中ページを押し開いて、書店のハンコを押す。
そういう決まりになっているのは想像がつくが、もう少し丁寧に扱ってもいいのではないか。
さらに本をレジの台に投げ出すのである。
投げ捨てるという形容のほうが正しいかもしれぬ。
本は大事に取り扱うものだと(日本人だからか)わたしは信じている。
思わず、店員を怒鳴りつけていた。もっと丁寧に扱えよ! 日本語である。
意味はわからないだろうが怒気は伝わる。
なにこのひと、おかしいんじゃない、という顔を女店員にされた。
おかしいのはおまえだ。おかしいのは中国だ。言ってやりたがったが中国語がわからぬ。
阿修羅の表情で外へ出る。

お酒の時間ですよ〜。昨日の食堂へ。二日目だから気分はリラックス。
カルビのいいところが入ったというので、反射的にいくら? と聞いてしまう貧乏旅行者。
心配すんな。うちの店が高いはずがないじゃないか。聞くと、確かに激安である。
じゃあ、その肉と、豆腐ははずせない。あと野菜をてきとうにみつくろって。
今日も脳みそあるんだ。なら、もらおう。うん、まあ、このくらいで。
お鍋ぐつぐつ、お客さんいっぱい。各テーブルで鍋ができるようになっている。
まえに若者のグループが座る。最低価格の白酒で乾杯している。
女の子もひとりいて、彼女だけは酒をのまない。
みんな彼女にいいところを見せたいのか、がんばってのむこと、のむこと。
若いせいか、食うほうもすごい。
がつがつ食らい、がぶがぶのむ若者は見ていて気持がいい。
こちらも負けるもんかとなる。けれども白酒は、もう少し高いのをのませてもらうよ。
あれをのんだら死んでしまいそうで怖い。いや死ぬのは怖くないのだが、
えとあのその、海外旅行保険にも加入していないから、
ひとに迷惑をかけたくないというか、ごめんなさい、
小瓶1元(15円)の白酒はいくらわたしでものめません。
どういう酒か。空き瓶に入れられた、メーカーすらわからぬ酒である。
のんでみないかと店員にすすめられたが、笑ってごまかした。
今日もよくのんだものである。あしたはパンダだ。パンダのふるさと成都である。
ひとり鍋だけど楽しい。店内の客もみんな愉快に笑っている。
まあ、これだけうまくて、しかも金額は激安だから、しかめ面をしているほうがおかしい。
酔ったのか。店内をぐるりと見まわす。まるで仏様に囲まれているような気になった。
朝である。駅をでると、客引きのおばさんにつかまる。
駅から峨眉山のふもとまではけっこう距離がある。
バスを探してもよかったが、おばさんのいきおいに呑まれてしまった。
おばばくるまに乗せられ、いざ峨眉山めざして、である。
あるゲストハウスに連れて行かれる。テディベアゲストハウス。
例の熊のプーさんを、中国人らしく無断借用、宿のシンボルにしたところだ。
ここのオーナーもおばさん。いくらだ? 120元。高い。
いくらなら泊まるか。90元(1450円)にしてくれ。よし、それでいい。
こんな会話を中国語ではなく、英語で交わす。
もうからだが中国に適応しているため英語を話したり聞いたりするのが億劫だった。
英語が嫌いであることを自覚する。

なぜおばさんが英語を話すのか、しばらくして了解する。
ここはファラン(白人)専用のゲストハウスだったのである。
白人旅行者のバイブル「ロンリープラネット」(ガイドブック)にも、
優良宿として掲載されている。
ファラン嫌いのわたしは、まずいところに入ったと思ったが、もうどうしようもない。
しかし、どうして、ああもファランはうざいのだろう。
ゲストハウスの壁の一面に英語でくだらない落書きが。
ファランは自己主張が激しい。
植民地には、はっきりそうと示さなければ気が済まないのだ。
ここはレストランも併設していて、メニューを見ると、バカ高いファランめしばかり。
夜になると、それはそれはうざいこと。
欧米人特有の、わざとらしい笑み。きみトラベルをエンジョイしているかい。
そうかい、そうかいと、おもしろくもない話に余裕のある微笑。
なあ、まったくチャイナは困ったもんだ。欧米に比べて、なんとスローな進歩か。
だが、それもいいもんだ。ライフはエンジョイするものだ。
チャイナも、まあ、なかなかのものではないか。
要約すれば、「上から目線の共有」から生じる鼻持ちならぬ微笑である。
まったく殴りつけてやりたくなる。

中国を旅するファランの生態が判明する。
東南アジアではひとりで行動していた旅行者も中国ではグループ化する。
3人というのが、いちばん多いようである。
タクシー対策と思われる。3分割すれば安くあがるという計算だろう。
ファランはひとりでバスに乗れないのである。漢字が読めない。
さらにタイ、カンボジア、ベトナムだったら、
当たり前のように現地人に英語で話しかけていた白人だが(植民地と思ってだろう)、
ここ中国で人民に英語で話しかけてもいやそうな顔をされるだけであろう。
これは日本でも同様である。日本も白人は楽な旅をできない。
我われ日本人は道端で異人に声をかけられたら、まず逃げるでしょう。
それでいいのである。欧米列国に侵略されていない証拠なのだから。
かたいや東南アジア。あそこらは完全にファランから舐められているわけである。
だが、ことの必然として白人ガイドブックにはめちゃくちゃ書かれるわけである。
日本人は不親切だ。たいはんが英語を話せない。
そのくせアジアのぶんざいで物価が高い。

ゆうべは寝台で寝たので疲れている。
峨眉山へのぼるのは明日にして、ふもとを散策することにする。
まずは報国寺。仏教、道教、儒教、すべてが祀(まつ)られている。
中国人は現実主義者である。役に立つものにしか価値を見出さぬ。
言い換えれば、役に立ちさえすれば、なんでも一緒くたにしてしまう。
仏教、道教、儒教から3人の崇拝対象をピックアップして、寺のアイドルにしている。
いちばん奥の寺でババアの祈っているのが印象的だった。
白衣をはおったババアばかり数えきれぬほどで寺の構内を埋め尽くす。
おなじ文句の念仏(なのか?)をふしをつけてうたっている。
寺山修司の映画のような、えたいの知れぬ恐怖を感じる。
口称念仏というのは国を問わず無知蒙昧の大衆に相性がいい。
口を動かしているのだから、なにかいいことをしているという気分になる。
見返りを期待できるのもよろしい(たとえ死後の見返りであるにせよ)。
体内から聖なる言葉が出るという感覚も庶民には喜ばしいものではないか。
老いると人間は、おのが無力を知るにいたる。
結局、どうにもならないのが、おおかたの人生なのである。
そのとき称(とな)えることのできる呪文があるのはありがたいことなのだろう。
呪文の意味など、わからなくていい。わからないほうが、かえってありがたみがある。
中国の老婆の斉唱はいつになってもやまないので、わたしは寺の外へ出た。

伏虎寺(ふっこじ)へ行く。
ここへ行くまでの山道が、神秘なる中国を体現していて、味わい深いものがあった。
寺も中国を感じさせる。
龍あり虎ありで、我われ日本人の中国イメージとぴったり適合するのである。

酒をのもうという時間になった。どこでのもうか思案するのもまた楽しみである。
のみ屋ストリートのようなものがあったので、最初に目がついたところに入る。
冷たいビールをごくり。メニューを見ると、思いっきり観光地価格である。
おなじ料理でも昆明の倍は取る。
安い串焼きをまず注文する。これは峨眉山から取ってきたのではないか。
肉よりも、キノコのほうがうまいのである。それも安い(1本8円)。
安いキノコばかり食べていると、店主のおっさんがうるさい。
あれを食べろ、これを食べろと、しつこいこと、このうえないのである。
50元もするチキンだの、魚だの。
中国の食堂では、水槽に魚を泳がせているところが多い。
その場で殺して食べるのである。
新鮮な魚に、これでもかと調味料をふりかけ、油で焼くのが中国流である。
逆らう。魚香茄子を注文する。これは麻婆茄子みたいなものである。
出てきたのを見ると、肉が入っていないので怒る。
メニューをつきつけ肉入りと書いてあることを示す。
作り直すという。見にいったら肉なしの魚香茄子を再度、フライパンに戻している。
ここに肉を切って入れるという作戦だ。
それではダメだ。最初から作り直せと伝えたいが、そこまでの中国語は無理。
とにかく、いらねえ、食わねえとしりぞける。
わたしの怒りがホンモノであることを察知して、店主もあわてる。
筆談で交渉である。いらないむねを伝える。
店主の態度がいままでとはがらりとかわり低姿勢になったので許す。
明日もまた来るからビールを冷やしておくよう頼む。
中国で冷たいビールにありつくのはなかなか困難なのである。
宿へ戻って、またビール。パソコンをしながらのむ。つまみは高いから頼まず。就寝。

バスを出ると雪がふっているのである。峨眉山へはまずバスでのぼる。
おりると雪である。積もってもいる。これはてえへんだ。
わたしはTシャツのうえに長袖をはおっただけ。寒くてどうしようもない。
「歩き方」に書いてあるレンタルジャンパーの店をあわてて探す。
靴も藁(わら)ですべりどめの補強をしてもらう。手袋も購入。
この旅で初めての雪である。
日本を発ったのは寒い2月であった。タイ、カンボジア、ベトナムと夏だった。
夏というのは正確ではないかもしれないが、
ともかく日本では夏というほかない暑さだった。
突然の冬の来襲である。ジャンパーを着てもまだ寒い。
歩くほかない。大勢の中国人観光客とともに歩き始める。
皮肉ではなく、このような難行はいいものだ。
じぶんが仏法を求める修行僧になったかのような自己陶酔がある。
日本から仏心を求めて中国の冬山にのぼる。うーん、ヒロイックな妄想やね。
金頂からは眺めがいいと聞いていたが、吹雪でそれどころではない。

山頂近くの華厳寺に参拝する。中国の仏像に手をあわせる。
素朴な感想を述べると、中国はでかいんだ。なにもかもでかいが、仏像もでかい。
なにを愚かなことをと笑われそうだが、この大小がポイントではないか。
インドの仏跡で、大きな仏像を見たことがない。
どういうことか。インドのホトケが、中国に来ると大きくなるのである。
小乗仏教が大乗仏教になったなどと学問を無視してまでこじつけるつもりはないが、
それでも大きなホトケさまというのは、
中国仏教の真諦(しんたい)をあらわしているように思える。
大きいものにひとはなにを見るであろうか。
小さい箱と、大きな箱。ふたつにひとつ。通常どちらを取りますか。
ここでわざわざ小さい箱をお土産にするのがインド人だ。インド仏教だ。
欲望を煩悩と別称する思想である。
中国人は当たり前だろうと大きな箱を選択する。大は小をかねると言うではないか。
大きな仏教である。豊かな仏教である。
幸福をめざし、みながすがるに足る大きさを持った仏教、仏像である。
直感的に、中国仏教は「福」の宗教だとひらめく。「福」を求めるのが中国仏教。
比較したらインド仏教にはなんという語がふさわしか。「苦」ではないか。
「苦」を直視する宗教。
以上の仏教分類にはなんら学問的な裏づけはない。
ただひとりの日本人が――かれはインドにも行った――中国の雪山で
こごえながら考えたことである。中国の仏教は幸福と結びついている。
「苦」の仏教が中国で「福」になった。

販売所でカップラーメンとペプシコーラーを買う。
ペプシは当たり前だが、冷蔵庫に入れてなくても冷えている(雪山!)。
こっそり取り出すのはウイスキー。ベトナムで買ったものをペットボトルにつめている。
熱々のカップ麺をすすりながら、昼間の雪山でのむウイスキーコークが
どれほどうまかったかは、どう表現しても、ご理解いただくのはむずかしいと思う。
以前、このような表現をするのは作家(志望ふくむ)の怠慢だという指摘を
読んだことがあるが、どうにも表現できないのである。
からだの芯からこごえている。そこに熱いカップラーメン! ウイスキーコーク!

「地球の歩き方」には峨眉山観光は1日で可能と書いてあるがとんでもない。
万年寺、清音閣は予定を変更して明日行くことにする。
疲れきったからだで下山する。昨日とおなじ食堂へ。
今日はがんばったからと、魚を注文する。水槽へ見にいき、これをくれと注文。
まあ、中華風にじゃんじゃん油を入れて、よきにはからえである。
30元(450円)くらいだったのではないか。
もちろん好物のキノコの串焼きも店内にあるだけの在庫を食いしめる。
ビールもがぶがぶのむ。

翌日の万年寺、清音閣は山の中腹のためであろう。
雪もなくピクニック気分で、とても楽しいものだった。
山道を歩くことほど楽しいものはない。程よく汗をかいたら昼食。
やっぱりランチからビールをのんじゃうんですねえ。
けれども、中国人だって、平気の平左で、昼間からビールをのんでおられまする。
またもや魚香茄子をオーダー。麻婆茄子が好きなのである。
油を吸った茄子っておいしいよね。ご飯も注文。ビールものむ。ううん、太っちゃう。
穏やかな山道を歩きながら、突如、満州に行こうと思う。
まだ中国でどこへ行くかほとんど決めていない。
ところがこの日、好天のもと歩いていると、満州が思い浮かんだ。
そうだ。行こうと思えば、満州にだって行くことができるのである。
とりあえず敦煌に行くところまでは漠然と決めていた。
そのあとである。満州に行こうではないか。父の生まれたのが満州である。
10年近くまえだったか、いつか行くと約束をしたのを急に思い出した。
いまわたしがいる中国は父が誕生した場所でもあるのである。満州――。
このスケジュールだと父の誕生日に満州に行くことも可能かもしれない。
まだ時間はたっぷりある。
うまく行けば父の誕生した場所をたずねあてることもできるかもしれぬ。
よし、満州へ行くぞ。決意を固めたのはこのときである。
無心に歩いていると湖にでる。その湖がなんとも枯淡として味わい深い。
背景の山とひとつになって、まるで風景画のようなまとまりを見せている。
これほど中国らしい風景を見たのは初めてである。
美しいと思った。中国へ来てよかったと思った。

下山する。この日のうちにバスで楽山まで行く予定だが、
発車までまだ時間があるというので、ふいと目についた食堂へ入る。
餃子でビールである。なにか嬉しかったので、高い青島ビールを注文する。
まだ中国の旅は始まったばかりである。満州。ここがゴールになるのだろうか。
1ヶ月後のじぶんは果たしてどこにいるのか。
時間が迫ってきたので急いでビールを流し込む。