大問題である。果たして文章を読めば、書き手のひととなりがわかるのか。
文章にすべてがあらわれてしまうのか。それとも文章ごときではなにもわからぬのか。
古いはなしをすると、例の酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文。
14歳少年の残虐犯罪をご記憶のかたはまだ少なくないでしょう。
あのとき犯行声明文を読んで、犯人が少年だとプロファイリングした識者はいなかった。
すなわち「文はひとなり」ではなかった。
いまは瀕死のブンガクへはなしを移そう。
思いつくまま、好きな作家について考えてみる。
宮本輝の書くのは、とても人間の筆とは思われぬほどの名文である。
けれども、書き手はというと、独善的で説教好きの性格異常者。
ファンサイトのテルニストHPを見たらよくわかる。
山田太一の描く世界は、たいへんドラマチックなものである。
ところが、このシナリオ作家は、劇的なものとは縁遠い、常識を重んじる平均的な市民。
本人もそのことをいっさい恥じていない。むしろ誇っている。
柳美里も好きな作家だが、小説をおもしろいと思ったことは一度もない。
人間・柳美里が好きなのである。
中上健次もおなじである。このひとの書く小説のどこがおもしろいのかわからない。
けれども、嫌いではない。人間・中上健次の生きかたが好きなのである。
高尚なブンガクのはなしは似合わない。卑近なことを書きましょう。
ずっとむかし好きな子がいた。片想いをしていた。
その子の書いた小説を盗み読む機会があった(おいおい!)。
これがつまらないのである。あんな魅力的なひとの書くものがこうもレベルが低いとは。
愕然としたものである。
反対もある。ネットがご縁となり出遭った場合。
たいへん失礼だが文章から相手を舐めていたところ、
お会いしたらとても魅力的なかただったということがある。
ほかにも、ほかにも。
一緒にのんだとする。なかなかエキセントリックで美しいかたであった。
ところが、このあとメールのやりとりをすると文章がひどい。
作家志望のくせに最低限の丁寧表現もできない。
(「申し訳ない」って何様でしょう。「申し訳ありません」と書きましょうよ)
このときも唖然とした。
ちょっと寄り道。ひとはどちらを喜ぶか。
つまり、ほめられるとしたらどちらがいいか、である。
人間がおもしろいと言われるほうがいいか。文章を賞賛されるほうがいいか。
わたしは後者である。文章をほめられるほうが気分がいい。
人間よりも文章を見てほしいという気持があるからだと思う。
鏡を見る。とてもじゃないがこいつがおもしろいとは我ながら思えぬ。
個人的な体験から結論づけると「文はひとなり」は誤りである。
文章から人間がわかるわけがない。
すてきな人間だからといっていい文章を書くわけではない。
ここで新たな問題が生じる。
ならば、である。「文はひとなり」でないならば――。
みなさまはどちらを信じますか。重要視しますか。文か、ひとか。問うている。