「瞼の母・沓掛時次郎」(長谷川伸/ちくま文庫)絶版
→長谷川伸は大衆小説家。大衆演劇の脚本家としても知られている。
この文庫は戯曲集。収録作品は――。
「瞼の母」「沓掛時次郎」「関の弥太ッぺ」「一本刀土俵入」「雪の渡り鳥」「暗闇の丑松」。
先日、ある友人の家を訪れたときのことである。
昼間から強い酒をがんがんのんだ。酔ったいきおいで言いたいことを言うわけである。
かれの本棚を見ながら、こんな失礼なことを言ったと記憶している。
「ダメだね。てんでダメだ。なんだい、これは」
本棚は、いかにもな作家で埋められていた。
高尚っぽい純文学作品やら、こむつかしそうな横文字の映画評論やらである。
「ほんとうにこれだけか。これだけじゃ、ないでしょう。
人間がほんとうに苦しいとき、読むのはこういう本じゃない。
苦しくて、もうどうしようもなくて、なにかにすがりつきたい。
もうダメだ。瀬戸際に追い込まれる。そういうときに読む本が1冊もないじゃないか」
人間精神の寝室たる本棚をまえにして、ひどいことを言ったものである。
暴言をさらりと受け流してくれた友人には感謝している。
他人の本棚のまえに立ち、とんでもないことを言うわたしである。
「かっこつけすぎている。違うでしょう。人間は、こうじゃない。
かっこつけてばかりは生きていられない。
もっと恥ずかしい本があるはずだ。なければおかしい。この本棚はおかしい」
酔ったかれが差し出したのがこの本である。長谷川伸戯曲集――。
読みながら、あるプロレスラーを想起する。ミスタープロレス、天龍源一郎である。
義理と人情に生きる男のなかの男。
男が男に惚れるというのか。20年以上も天龍を見つづけている。
ここ20年の天龍の主要試合はおおかた、なまで観戦している。
横道にずれたが、長谷川伸の描く大衆演劇というのは、まあ、プロレスなんだな。
世の中にはいろいろなひとがいる。
インテリや学者先生ばかりで社会が成り立っているわけではない。
なかには低学歴、低収入、低知能という人間もいる。
というか、いなくては国家が成立しない。
みながみな公務員になるわけにはいかないのである。
源氏物語の作者も知らないような塗装工がいて、はじめて建物が完成する。
インテリがニーチェやなにかを生きる支えにするのとおなじように、
バカもバカなりに生きるよすがとなるものを必要としている。
酒のんでバカやって、カネがたまりゃ女を買って――。
こんな動物なみの生きかたをしている人間も生きるためにはなにかを必要とする。
それがプロレスだったりするのだ。
じゃあ、プロレスのなにがおもしろいのかと人間ドラマである。
といっても、知能の低い人間はせりふ劇にあたまの回転がついていかない。
だから、(言葉ではなく手で)殴りあうプロレスにひかれる。
人間が殴りあうのだからドラマが生まれる。むずかしいドラマではない。
日本人ならだれしも生活するうえで味わう情感である。
すなわち長谷川伸の大衆演劇がテーマとする義理、人情だ。
義理、人情を表現するためには、
陰画であるところの嫉妬、裏切り、悲恋がなければならぬ。
プロレスの会場へ行ったことがあるひとはいますか?
たとえば後楽園ホール。行きたいひとはメールをください。連れていってあげます。
一度は見ておいて損はない。ものすごいぞ。社会の最下層が集合したというのか。
教養という言葉からもっとも離れた空間である。
モテない、カネない、チエ(知恵)ないの、ないない尽くしの男が勢ぞろい。
なかにはリングサイドに陣取る小金持ちもいるのだが、どこから見てもカタギではない。
女連れもいるにはいるが、女のほうはオミズと相場が決まっている。
こんな野郎どもが見守るリングで繰り広げられるのは、裸踊りである。
血まみれになった半裸体の男たちが踊り狂う。
プロレスは結果の決まっている八百長だから闘いではない。まさしく裸踊りだ。
観客もたいはんは八百長と知りながら、レスラーのウソにつきあい絶叫する。
「張れ、折れ、殺せ」といった怒号が飛び交う。
はじめて後楽園ホールに行ったのは小学生のとき。もちろんひとりである。
あれから何度、後楽園ホールへ行ったか。
わたしはプロレス会場に育てられたといってもいいくらいである。
また脱線したな。長谷川伸の話をしなければならないのであった。
長谷川伸の相手にしている観客が、プロレスを見る層とおなじではないか。
こう話をつなげたかったのである。
無知な大衆は難解な思想はわからない。ならば劇作家はなにを提供するか。
かれは観客のあこがれを刺激する。つまり民衆のヒーローを描く。
かくありたいと観客に思わせる理想像を提示する。
客はいいなとほれぼれする。あんな男がいらあいいな。ああなりてえぜ。
生みの母をまぶたに描きながら流浪するバクチ打ち(「瞼の母」)。
殺した相手の女房子供を養いながら旅をするヤクザ(「沓掛時次郎」)。
腐れ縁のかたきと共闘する流れ者(「関の弥太ッぺ」)。
かつて恩を受けた女のために命を張る元相撲取り(「一本刀土俵入」)。
恋敵(こいがたき)の身代わりに処刑場に引かれてゆく極道(「雪の渡り鳥」)。
信頼していた先輩に裏切られ、愛妻を寝取られ売り飛ばされた人殺し(「暗闇の丑松」)。
登場するのは、「お前、男だ」(P108)とほめたたえたくなるような男ばかりである。
男は男として生まれるのではない。男をめざし男になろうとするのが男だ。
こんなクサイことを思わず口にだしてしまうくらい男臭い芝居なのである。
プロレスラー天龍源一郎が好きなのとおなじ理由で長谷川伸(の芝居)を好む。
天龍もおもしろい男なのである。かっこいいったらありゃしない。
中卒の天龍が、中央大卒のエリート、
ジャンボ鶴田に向かっていった姿勢にしびれないプロレスファンはいないだろう。
ジャイアント馬場を裏切り全日本プロレスを退団するが、
10年後、同団体の経営危機に際して舞い戻る男、天龍源一郎。
みずからも弟子の冬木弘道に裏切られ裁判沙汰になる。
けれどものちに和解し冬木がガンになったと知れば見舞いに行く。
死ぬ間際の病床で「天龍さんを(病院の)入り口まで送っていく」
と言いつづけた冬木との師弟愛。
葬儀で棺桶のなかの弟子の顔をなでる天龍。
ファイトスタイルはぜったいに相手の技をすかさない。
相手の技を受けきったうえで反撃していく。
プロレスラーは裸芸者と言われるけれども、あんなに感情表現のうまい役者を知らない。
たとえば怒りを天龍源一郎は全身で表現する。ほんと鳥肌が立つぜ。
橋本真也じゃないけれども、将来あんなオッサンになりたいとあこがれる。
きっぷがよくて、義理人情に厚い。酒をのんで、ときには羽目をはずす。
女子プロレスラーとも、レイザーラモンHGともプロレスをやってしまう。
昨年、7月にWAR最終興行があった。天龍ファンが全国から集合する。
だいの大人がもうみんなわんわん泣いているんだな。
そこにいるだれもが天龍に励まされて生きてきたわけだ。
こん畜生、なにくそ、と思いながら、ひよるもんかと意地を張り通す。
天龍の生きかたであり、天龍ファンの生きかたでもある。
以上、脈絡もなく、
プロレスなんていう恥ずかしい茶番に生きる勇気をもらう愚人の話をした。
つまりシェイクスピアじゃないんだな。
あんなものに生き死にを左右されるほどお上品じゃないってこったい。
国技の相撲でもない。いんちき臭いプロレスじゃなきゃダメ。
まえにリングサイド最前列でプロレスを見たことがある。
場外乱闘。目のまえで天龍がマンモス鈴木のあたまをビール瓶で殴るわけだ。
ぞくぞくしたね。すげえと思ったね。
こぎれいな劇場で、芸術家の俳優さんがお見せくださるシェイクスピア劇より、
よほどこちらのほうが性に合っている。
すかした演技を見せられるより、泥臭いしばきあいをあたしゃ見たいね。
そういう地点から生きているという自覚がある。
おれのね、生きている熱源というのはさ、
きたねえ血が泥沼のようにたまっているんだ。
ふふふ。こんなこっぱずかしいことを口頭で言えるわけもない。
明日、友人宅へ本を返しに行くことになっている。
長谷川伸? 悪くないんじゃないかな。いいと思うよ。
聞かれたら、こんなふうに答えるつもりである。