くだらないことを書いてみよう。
ほんらいは有名人しか書くことを許されないような生活の些事(さじ)である。
無名のわたしがご大層にみなさまのお目を汚すことを申し訳なく思っている。

「だから、安いのはいらないんだ。高いのがほしいと何度言ったらわかる?」
これはベトナム、ハノイの孔子廟で聞いた言葉。
かの地は観光名所である。
日本人の団体さんが多数いらっしゃる。
土産物屋でおっさんが日本語で怒っているのである。
安いのはいらない。高いのをくれ!
見ると、箸を買いたいようである。
上司へのお土産にするのかもしれない。
ベトナムのこういう店では、どこも通常、金額がついていない。
店員が客の顔を見て値段を決めるのである。
ことベトナムは外国人からぼったくるので有名な国。
その国で高いものをくれとは――。

おなじ日本人として気持はわかるのである。
他人にプレゼントするならいいものを差し上げたい。
高いものはいいものと考えるのは日本人として通常。
だから、高いものをくれとなる。
ベトナム人にはまったく理解できない考えかたのはずである。
そもそも、そうとうぼったくった値段を日本人観光客には言う。
だのに、かの日本人はその商品を「安いから」いやだというのである。
ならもっと低質なものを気が狂ったような価格で売ろうと考えるのではないか。
彼我(ひが)の国民性のちがいを思い知った経験である。

安いのではダメだ。高いものを買わなければ!
まさかビンボー人のわたしがおなじような願望をもつにいたるとは。
今日のことである。近所のセレブ御用達、高級スーパー。
近所といっても、けっこう離れているので利用することは少ない。
時間があったときに閉店間際の半額惣菜をごくたまに買うくらいである。
こんかい引越をすることになった。
困ったことが。この上流専用スーパーのポイント(カード)がたまっている。
これまでもちょいちょい使ったが、今日の段階で800円も余っている。
引越は数日後。この800円を今日つかうほかない。

店内をあてどなく何度も巡回した。
なにを買えばいいかわからないのである。
この時間は惣菜も半額にはなっていない。
買いたいものがないのである。どれも高すぎる。
いつも行くスーパーの2倍は当たり前なのだから。こわくて買えやしない。
しかし、なにか買わねばカネ(ポイント)をどぶに捨てることになる。
思い切って買ったのが、サーモンの刺身。800円。
マグロのトロくらい買えというご意見もあろうが、2000円近くするのである。
サーモンの刺身が好きというのは、たぶん食通から見たらとても恥ずかしい。
わかりやすい味だからである。あぶらっこくて子どもにも好まれる単純な味。
繊細な味覚を必要とする魚介類ではない。
だけどね、好きなものは好きなの!
最高級のサーモン刺身。レジを通すとき手の震えを隠すことができなかった。
おそるおそる包丁を入れると6切れ。1切れが100円ではきかない。
待てよ、おい! このひと口で本が買えてしまうのか(ブックオフ!)。
いつも食べているサーモンは高くても400円くらいのものである。
いかにしてこいつを食らうか。
目を閉じる。高級料亭にいるイメージをする。
ぱくり。思い込みがたいせつだ。いま高いものを食べている――。

サーモンは泥臭いよな。
高級品だとかえってあぶらのレベルがわかってしまう。サーモンの限界。
サーモンは安くて、あの味くらいがちょうどいい。
高いものは嫌味(いやみ)なもんだ。
サーモンのぶんざいでお高くとまるなよ!
いくら素性をごまかして代議士夫人になろうが売春婦は売春婦だぞ。
わたしの舌のくだした判断である。
とことん上流にはなれていない、わが感覚器官よ。
ベトナムに話を戻す。
このビンボー人だったら。
安い箸を、もっと安くしろと値切る。それを上司にベトナム最高級の箸だと贈る。
書くまいと決めている時事ネタを。
牛肉コロッケが騒がれている。いいんじゃないかなと思う。
中身が豚肉だって牛肉だと思えば、うまくも感じるものである。
よくやったと思えど、関係者を非難する気にはなれない。
深窓の令嬢だと思って結婚したら、AV出演の過去がわかったので離縁した。
あまりほめられた話ではないと思うがどうでしょう。
賛同を得られないことはわかっています。先に謝罪しておく。ごめんなさい。
変わった人間が好きだ。おかしなひとに好感をもつ。変人が好きなのである。
浮いてしまう性格をいとおしいと思う。場の空気を読めないひとが大好き。
目立っている人間を好む。たとえば、こんな日本ではありがちなシチュエーション。
「なにか質問はありますか。挙手してください」
場が静まりかえっているときに、手を挙げてとんちんかんな質問をするひと。
いいなと思う。話したいと思う。なにを考えているのか知りたい。聞きたいと思う。
安っぽいドラマのせりふのようだが、ありきたりがいやなのである。

お会いした瞬間に、まいったなと思うことがある。
がちがちの社交辞令を連発されるときである。
なんとも答えようがなくて、いきおい酒をぐびぐびあおることになる。
「がんばれば、ぜったい、報われると思いますよ」
こんなことを目をストレートに見ながら言われると絶句するほかない。
くずれている人間をおもしろく思う。
かなりのところまで、おかしな人間を許容できる自信がある。
といっても、程度がある。いや、程度の問題ではない。
こんかい書きたいのは、個性なにものぞという、個性礼賛への批判である。

変人は好きだが、個性の強い人間は苦手。
差はどこにあるか。
変人は天然。じぶんがおかしいことを掌握しきれていない。
おかしなことをしても、自覚がない。
いっぽうで個性の強いひとは、自己の奇天烈を十分に認識している。
のみならずその非常識を、たとえば個性的というような表現でほこっている。
あたしって個性的でしょう? おれの個性を見やがれ! こういうノリである。
「個性を育てよう!」という文部省の方針を盲目的に受容している若者たち。

福田恆存という保守系の評論家がかつてこの国にいた。
個性についてこんなことを言っている。
個性など、尊ばれるたぐいのものではない。
ましてや教員ごときが発見して育(はぐく)むことのできるものか。
個性とは、個々人の性格のゆがみに過ぎぬ。
発見するものでも尊重するものでもない。
むしろ教員は学童を徹底的に型にはめるよう努力すべきである。
どれだけ変形をせまろうが変わらないものが、その人間の個性なのだ。
ならば個性を育てるためにどうすべきか。
教員は学童の個性を全力で摘み取ろうとしなければならない。
踏んでも踏んでも生えてくる雑草がその人間の個性という考えかたである。

こんなわたしでも個性的などと言われることがある。
恥ずかしくて押入れにでも閉じこもりたくなる。
個性なんてものが強くて、相すみませんと土下座したくなるくらいだ。
わたしをほめてくれる意図でもって言われたと知っているのに、
個性的という言葉をプラスの意味でおさめることがどうしてもできない。
ひととお会いするときは個性を隠そう、隠そうとつとめる。
なに隠しきれるものではない。
どんなに隠そうとしても出てしまう、ばれてしまうのが個性なのである。

たとえば、こんな個性的な人間に会ったことがある。
映画監督、原一男氏のシネマ塾に参加していたときだった。
Sさんという女性。日大の芸術学部卒。当時26歳。4歳も年上である。
映画監督志望。有名になったら、あーしたい、こーしたいと語っていた。
むろん定職などバカにしている。バイトはヌードモデル。
絵画のヌードモデルである。こんな個性的な女性とお会いしたことがなかった。
変人ではないのである。個性が強い。すなわち、みずからの奇行を自慢する。
その晩に会った男と寝ちゃったことなんて何回もあるよ〜。
アメリカに行ったときはあたまを丸坊主にしたんだ。個性的でしょう。
ピンサロで働いていたことがあるけれども、口にできものができたのでやめた。
あたしの歴史を語るから、それをあなたが小説にしてくれないか。
ただし条件がある。あなたのヌード写真を撮らせくれたらばの話。
最初はおもしろいひとと思っていたが、ついていけない部分も感じていた。
極めつけはこうである。
いま同棲している男と喧嘩をしたから、うちに同居していいかというのである。
待ってください。(当時)わたしは家族と住んでいるんですよ……。

母が自殺をした。わたしの目のまえで、である。
今日、明日、生きていられるかでさえわからなかった。
わらにでもすがる思いでSさんに電話をした。
お母さんが、目のまえで、飛び降りちゃって、もうどうしようもなくて。
「ちょっと待って。いま忙しいから。あとで聞いてあげる」
実に個性的な返答であった。
だいぶ苦しんだものである。
そのあと何度か連絡が来た。個展の案内だったり、インテリアショップ開店の案内だったり。
こちらは極めて常識的に応対した。
最後のハガキにこんなことが書かれていた。
「毎日、つまらないから子どもでも生もうと思うんだ」
個性の極限を見た。返信できなかった。

変人は好きだが、個性的な人間はどう対応したらいいかわからない。
個性が尊重される現代の風潮も疑問に思う。
ひとと会うときは、できるかぎり常識的な態度を取ろうとしている。
初対面の際は、いちように驚かれる。あまりに常識的すぎるからである。
ブログの文章とのへだたりに目を白黒させるかたもいる。
それでいいと思っている。
どれだけ隠したところで、変人であることはじきにばれるのだから。
隠すべき個性をわざわざ誇示しようという気はない。
引越にともないそれはそれはたくさんの本をブックオフへ捨てました。
えーい、もう書いちゃう。どこに捨てたかというとブックオフ早稲田駅前店。
べつに母校への愛校心とは関係ありませぬ〜。
近場でいちばんお世話になったブックオフはどこかと考えたらここなのです。
まえに捨てたときとおなじ店員さんが雨の中、いらっしゃいました。本日です。
玄関のまえに積み上げられた本の山。
ブックオフさんは、まったくひるむことなく山を崩しにかかります。
驚くべき短時間で本の山をブックオフオリジナルコンテナに収納。
ちなみに今回は10コンテナでした。
参考までに前回の結果を。3コンテナで3580円でした↓

「ブックオフ買取金額」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-949.html

ふつうに考えたら単純に3倍。
3500×3=10500円です。
けれども、そこはブックオフ。安易に万札をださない。
すばらしき結果は以下です。

値段のついたのは536点。

(文庫)
20円×75 10円×185

(単行本)
50円×44 20円×62

(新書)
70円×1 20円×10 10円×6

(コミック=漫画)
40円×8 10円×181

(雑誌)
10円×1

合計で8890円でした!

気になるのは新書の70円ですね。
どの本が優秀なブックオフ店員さんのおめがねにかなったのでしょう。
「人は見た目が9割」か。「ウェブ進化論」か。「下流社会」か。
どれもブックオフにて105円で買ったものなのですけれども。
さて、8890円をどう見るか。ゴミを捨ててカネをもらえたのだからよしとするか。
安いと憤慨すべきなのか。むずかしいところですね。
当たり前のことを繰り返します。
ブックオフは本を売るところではない。本を105円で買うところ。
ときにはゴミを捨てるのに利用することもできる。
まあ、こんなところでしょう。
昨晩、伯母のトシコさんから電話があった。
父の姉である。存在さえも忘れていた。
まだ生きていたのかと思ったくらいである。
極度に緊張した。
最後に会ったのはいつだか覚えていない。
まさか血縁のものに「ご用件はなんですか」というのはぶしつけである。
老人特有のもってまわったしゃべりかたにつきあっていると、
どうやら母から借りていた登山靴を返したい、ということらしい。
母がなくなったのは7年もまえである。
「そちらで捨てておいていただけませんかね」
むろん登山靴などを本気で返そうと思っているわけではない。
ひと恋しいのだ。さみしい。老人の孤独が電話口から感じられた。
聞くと、伯母は67歳になるいままでずっとひとりものとのこと。
独身というわけである。

「お父さんから、今度、引越すと聞いてね、
せっかくだから、あのね、お母さんのお仏壇にお線香でもと」
「うちは仏壇とかないのでして」
「いえ、なんでもいいの。写真くらいあるでしょう」
「はい、遺影なら」
精神病だった母が父のきょうだいへ狂ったような攻撃をしたことを思い出す。
妄想にとりつかれて、迷惑な電話をだいぶかけたことを母の死後に知った。
「生前は母がご迷惑をおかけしまして」
「いえね、私はね、そんなことはないの」
思い出す。母は3人いる父のきょうだいのなかで、
このトシコさんとだけはトラブルがなかった。
「覚えてるかな。いっしょに後楽園球場に行ったじゃない。
あと、ほら、どこでしたっけ。スケート場にも」
「その節はお世話になりまして」
どうしようもなくビジネスライクになってしまう。
「母の、お葬式にも、お母さんと来ていただいて」
ああ、考えてみれば、祖母のお葬式がトシコさんと会った最後である。
姑(しゅうとめ)を嫌悪していた母は、
「オニババアの死に顔を見に行こう」とわたしの手を取った。
「お祖母さん……(トシコさんの)お母さんがなくなられたのはいつでしたっけ」
「平成の2年でしたか」
17年まえである。トシコさんと最後に会ったのもこのときである。

「行っちゃダメかな。引越すまえに、一度行きたいの。
(写真の)お母さんと話したいの」
「いえ、あの、1週間後には引越しなので、もう足の踏み場もないほど散らかっていて」
父とも3、4年会っていないのに、伯母に会うわけにもいかないよな。
それに、過去とは縁を切っている。
7年前、母が死んだあの日に、すべてがわたしのなかで終わってしまった。
「お墓はどこにあるの?」
トシコさんに聞かれてうろたえる。
「母がああいう死にかたをしたので、そのう、いろいろごちゃごちゃしていて」
母の墓に関しては、ここにも書くことができない。
母は、最後の最後まで、いさかいの火種をつくってあの世へ行った。
ややこしいので詳述は避けるが、叔母の墓に入りたいと遺言したのである。
けれどもその墓の名義人の叔父(母の弟)も異常人格者(狂人)なわけで……。
数年まえも家庭裁判所の調停で問題になった。
母もそうだが好訴訟症というのか、狂人は裁判を好む。

「なにか失礼なことを聞いちゃった?」
「いえ、そんなことはないのですが」
「お母さんは、どんななくなりかたを?」
さすがに自殺したことは知っているだろうが。
息子の目のまえで、名前を呼んだあとに自殺した。悪口だらけの日記を遺して。
いまさら7年もまえのことを説明するのは億劫である。
「あまり思い出したくないので、できましたら父に聞いていただけると……」
「そう……」
「父とは最近会っているんですか?」
「いえ、ぜんぜん。このまえ久しぶりに電話があって、引越すと聞いたから」
「そうですか」
「どこに引越すの?」
「ご存じないと思いますが……」
引越したらぜひ連絡をくれとトシコさんはいう。
「あの、なんといえばいいのか。
母がああいうなくなりかたをしたので、うちの家族はメチャクチャになっていて」
「それはどういうことかしら?」
叔母は、わたしが父と数年会っていないことを知らない。
最後に父がうちに来たのも7年まえである。
もうすべてが終わっているのである。

トシコさんと約束をする。
引越しをしたらかならず連絡する。新居にご招待する。
約束はしたが、守るつもりはないのである。
トシコさんがさみしいのはわかるが、こちらも過去とどう向き合えばいいかわからない。
母のあれですべてが狂ってしまった。
考えないことはない。もしである。もし母があんな死にかたをしなかったら……。
いまごろどうなっていただろう。果たしてわたしは。
あれがあらゆるものを断絶せしめた。
父母双方の血縁とも切れた。友人知人も去っていった。過去と断絶した。
日常とも切り離された。もうカタギには戻れないという感覚である。
ひとはいうかもしれない。あなたよりも、もっとつらい目に遭ったひとがいると。
だから、なんなのだ? わたしの経験は一回きりである。
母の最期を目撃したことを忘れるつもりはない。
これを乗り越えて成長しようなどという気はない。
それじゃダメだとひとはいうかもしれない。
なにが悪いのだ? わたしは母が大好きだった。
その母を殺しておいて、あたかも無罪判決を受けたもののように
のうのうと生き延びるのはいやだ。
有罪をくれ。死刑でいい。早く刑を執行してくれという思いがある。
あなたがそんな生きかたをしても、なくなったお母さんは喜ばないのでは?
こんなことをいう偽善者がいる。バカをいうな! おまえになにがわかるか!
死んだのはわたしの母だぞ。くだらない一般化はやめろ。
ありきたりなことをいうな。わかったようなことをいうな。わかるもんか。
死んだものを忘れない生きかたをしてもいいじゃないか。
世間並みの幸福だどうした。常識がなんだ。
こちらはそんなものとは7年まえに縁を切っている。
最初に縁切りをいってきたのはそちらではないか。ふざけないでくれ。

もうすぐ母の命日である。その翌日にこの家を去る。
母がそこから飛び降りたこの部屋を出て行く――。
生きていれば不運なことにも遭う。
自己責任という言葉を好むがんばりやさんもいるけれども、
人間はみんな平等に生まれついたわけではない。
不愉快なことは自己責任ではなく、不運で片付けていいと思うんだけどな。
いかにも成功者から見下されそうな失敗者の思考法かもしれませんが。

不運に遭遇したら酒をのめばいい。
つまみなしに酒をのめるのだから、まことリーズナブル。
太らないのもよろしい。
なになに? つまみなしに酒をのむのは健康によくないと。
いいじゃないですか早死。
この世からおさらばするのは早いほうがいい。

これだけは理解できないということがある。
他人をがんばっていないと見下す生きかたである。
不運なひとをがんばっていないから当然と断罪する視線。
なら、がんばるってなんだい?
なぜあんたは他人をがんばっていないと断定できるのか。
だれでも努力すれば東大に入れるとでもいうのかい。

短気だからすぐにカッカしてしまう。
酒をのんでしずめようと思う。
今晩は勝手なことを失礼しました。
めずらしくじぶんのために書いた駄文です。
負け組の言い訳です。
(以下は、たとえば2ちゃんねるプロレス板向けのマニアックな内容です)

そりゃあ、わたしも思うさ。
馬場と猪木に勝った天下の天龍源一郎が、
そのうち消えるお笑いの芸人に負けてやることはないだろう。
なら、いままで20年、応援してきたわたしの人生はなんだったんだよ。
天龍はSWS崩壊時に言った。
「だまされたと思っておれについてきてほしい」
あれから何年たつのだろう。
プロレス=天龍源一郎であった。
惚れた。男が男に、である。
今日は残念だった。
もちろん、わたしも思っていたよ。
まさかもう天龍がWAR以外でメインをはることはないだろうと。
だから今回はうれしかった。天龍がメイン。
けれどもあのブック(脚本)をのむのはいかがなものか。
最後もそう。いくらブックだからといって、
ヒクソンに手も足もでなかった高田ごときに殴られる大将を見せつけられるとは。
それでも天龍ファンであることにかわりはない。
天龍ファンだからこそ、あえて言ってみた。かなしいと。さみしいと。
さいたまスーパーアリーナへ、こともあろうかプロレスを見にいく。
プロレスなんてもう1年は見ていない。
メインは天龍源一郎とお笑いタレント、レイザーラモンHGとのシングルマッチ。
レイザーラモンHGって、どれくらいのかたが知っているのでしょう。
ぜんぜん芸能界の知識がないのですね。
アイドルの女の子なんて、だれがだれだが区別がつかない。みんなおなじ顔。
かくしてレイザーラモンHGもプロレス経由で知ったわけである。
しっかし、まあ、いくら天龍ファンとはいえ、素人と闘う(踊る?)のを見てもねえ。
直前まで行くか行かないか迷った。
胃が痛いこともある。なぜか胃が痛いのだ。胃ガンかな(笑)。
結局、なにが行かせたかといったら歴史だね。記憶と言い換えてもよい。
いままで天龍を見つづけてきた。その天龍も57歳。
いつ終わってもふしぎはない。ならば最後まで見守ろうという決意である。

池袋で埼京線へ乗り換え北与野駅へ。
ううう、まずい。ダフ屋が出ていない。
おっと、もしかしたらダフ屋を知らないひとがいるかもしれないので、ちょっと説明。
イベント当日にいらないチケットを安く買い叩き、ほしいひとへ高く売る。
おもにヤクザのちんぴらがやっている。
スマップなどなら高くも売れようが、プロレスの場合、たいがいは定価より安く買える。
わたしは高校生のころからプロレスチケットはダフ屋と決めていた。
しばらくして顔なじみになった。
だって、チケットなんて紙切れ。安いほうがいいでしょう。間違っていますか?
しかしここ数年は都条例の影響かダフ屋があまり出なくなった。
今日のハッスルもダフ屋が出るか気をもんだものだ。
はっきり言うと、正規料金を払ってまでプロレスなど見る気はない。

北与野駅からさいたまスーパーアリーナまでダフ屋はいなかった。
これはダメだな。帰ろうかと思う。
もしやと思い、もうひとつの最寄り駅、さいたま新都心駅方面へ歩くと。
いましたよ。なつかしいダフ屋くん。
むかしは年齢差があったけど、いまは同年齢くらいか。
「安くするよ」
「いくら?」
「6000円のチケットを4000円でいい」
「3000円にしてよ」
「いいよ」
これだけである。チケットは招待券。
ちょっと勘が鈍ったかなと思う。
むかしなら招待券であることを逆手にとって2000円まで負けさせていた。
さいたまスーパーアリーナに入るのは初めて。
横浜アリーナより、ちょい小さいかなが感想。
けっこうガラガラ。6割くらいしか入っていないので驚く。
元巨人軍のクロマティ(知らないですよね)や
グラビアアイドル(だよね?)のインリンが参戦(出演)するのにこんなものか。
まえのグループが指定座席をまえのほうに移動している(もちろんいけない行為)。
ならわたしも動くかとかなり前方へ移動。
たしかここは8000円の席だ。罪悪感はない。
ガラガラだからいいでしょう。
プロレス観戦暦は20年。客がこない座席などかんたんに読める。

さあ、ここからが問題。
まさかプロレスレポートをするわけにはいかない。
グレート・ムタがインリンさまの股間に毒霧を噴射してさ〜。
こんなことを嬉々として書いたら、
いままで築き上げてきた「知的な Yonda?」のイメージが台無しである(笑)。
おそらくうちのブログを読んでくださるかたにプロレスファンはひとりもいない。
なら、どう説明すればいいか。
結論をいうと、不満だったわけである。
詳細をいまからわかりやすく書く。なんとかしてついてきてください。

ハッスルの特徴は、狂言師の和泉元彌を覚えていませんか?
ワイドショーでだいぶ取り上げられたでしょう。
「空中元彌チョップ」で現役プロレスラーに勝った狂言師(書いていて恥ずかしい)。
ハッスルというのは芸能界とプロレスのコラボレーションがコンセプト。
みずからを「ファイティング・オペラ」と称している。
どういうことか。演劇とプロレスの合体である。
いまでもほかのプロレス団体は、建前上は真剣勝負である。
けれどもハッスルは、そこを壊している。
たとえばメインイベントで勝者が決まると、すぐに次の演芸が始まる。
これはあらかじめ仕込んでおかなければできるものではない。
すなわち、ハッスルはプロレス界で初めて八百長をなかば公開した興行ということになる。
これはいいと思うのね。プロレスを演劇と考える基本方針は。
プロレス八百長論に対抗する強力な主張は実は演劇論にある。
たとえばシェイクスピアの「ハムレット」は死ぬことが定められている。
これを八百長と愚弄する観客はいないでしょう。
なら、どうしてプロレスが八百長として断罪されなければならないのか。
しかもプロレスは芝居とは異なり、関係者のごく一部しか結末を知らされていない。
八百長のプロレスを肉体演劇として楽しんでなにが悪いかという理屈である。

だがね、ハッスルとやらを見たのは今日が始めてである。
役者がなっていない。
むろんプロの演劇教育を受けていない筋肉バカばかりなのだから仕方がない。
けれども、せりふの棒読みがひどい。
鏡のまえで決めポーズの研究をしているひまがあったら発声練習をしろ!
怒鳴りつけてやりたくなる。演劇ファンならぜったいにあんな発声を許さないだろう。
けれども、プロレスファンはアホなんだ。
まあ、ハッスルでさえ真剣勝負とだまされるような知能の御仁が多いからやむをえぬのか。
プロレスラーのマイク(しどろもどろ)ひとつに大はしゃぎしている。
おっと、観客を非難するのはよくない。
問題はプロレスラーに演劇をさせることにある。
プロレスというのは、いちおうブック(脚本)はあるけれども、しばりがゆるいんだ。
リング上で、とっさに打ち合わせていた内容を変えてもいい。
これがプロレスのおもしろさなわけである。
大義名分としては、プロレスラーはバカが多いということがある。
バカだからせりふを覚えられない。ということを隠れ蓑にしてアバウトがまかり通る。
それがプロレスの魅力になったわけだ。
しかしハッスルのように演劇性を強めてしまうと、なんとも味気ない。
感情のこもらないせりふの棒読みばかりなのである。
我われがかりにプロレスにひかれるところがあるとすれば、
ウソだらけのなかにいささかでもホントがあるからである。
なまの、本気の、切実な感情。
プロレスにあるものである。これは演劇にもある。
しかしプロレスと演劇のコラボレーション、ハッスルには人間の真剣な感情がない――。

なにもミスタープロレス天龍源一郎が、
素人のお笑い芸人、レイザーラモンHGに負けたことに文句を言っているわけではない。
これからの伏線として、そういうブックを書いた裏方がいるのでしょう。
これはこれでいいと思う。天龍もそういう契約にサインをしているのだから。
しかし勝敗が決したあとのアトラクション(高田総統劇場)がよくなかった。
演劇教育を受けていないレスラーや芸人がせりふを棒読みする。
そこにはどこにも熱い発言はなかった。
覚えたせりふ(と動き)を忘れまいとする努力しか見て取れなかった。
これではプロレスではない。
いくら天龍源一郎が参戦(出演)しても二度とハッスルには行くまいと思った。

(注)今回はプロレスへの不満ばかりになったが演劇への不満もある。
どうしてプロレスのようなハチャメチャがないのだろう。
役者もそこいらのコンビニでバイトをしているようなあんちゃんばかり。
身体表現では、たいがいの俳優がプロレスラーにかなわない。
演劇とプロレス、どちらにも不満があるのである。
ぶっとびい♪
のっけから恥ずかしい死語を使ってしまったが、ぶっとび〜とのけぞるほかないのである。
引越を10日後にひかえている。
持ち物を整理していると、恥ずかしいものが出るわ出るわ。
むかしの写真。これは端的に恥ずかしい。
大学時代に書いた小説いくつか。
大学卒業直後になにを早まったのか、ながながと書いてしまった自伝(苦笑)。
顔が真っ赤だぜい♪
むろん読み返す勇気はない。捨てるべきか迷っている。
いな、酔ったいきおいで捨てようと思っている。

大学時代のことを思い返す。
お互いに軽蔑しあっていたクラスメートにこんなことをよく話したものだ。
就職活動のころだったか。
「やだね。やだやだ。さきざき、わかりきっている。
ちっぽけな会社に入る。ろくでもねえ女とお互い妥協して結婚。
おれそっくりの、ろくでなしのガキが生まれる。
身動きが取れなくなる。そのまま 年金までだらだら働く。はああ〜」

いま考えたらお笑いぐさだ。
当時、軽蔑していた生活でさえ、いまのわたしには届かない夢なのだから。
先日、グーグルでかつて縁のあったひとの名前を検索しようと試みた。
なかには成功している人間もいるのではないかと思ったからだ。
それを見ながら鬱になってやけ酒をぐびぐびのもうという、
まことに不健康な計画である。
かなしいことが判明する。むかしの友人知人もろもろをフルネームで思い出せなかった。

大学時代、コンビニの夜勤のバイトをながいことやっていた。
机の奥から当時の写真が出てきたのである。
Aさんという、28歳のフリーターがいた。
高卒。俳優志望。といっても、経歴はエキストラの経験が数回あるだけ。
劇団に所属しているわけでも、芸能プロダクションとの契約があるわけでもない。
すなわち、現在のところ、どうにも俳優になりようがない。
夜勤のバイトは大学生が主流。バイト仲間でAさんのことをバカにしたものだ。

ああなったら人生、終わりだよね〜。

Aさんは石原プロにスカウトされるという夢を持っていた。
ふふふ、Aさん、わたしもあなたとおなじになってしまいましたよ!
かれのことは写真を見るまで、すっかり忘れていた。
Aさんは聞かれなくても、自分の夢をだれかれなしに語っていた。
いまのわたしには、かれのように夢を語る元気もない。
うつくしい現実。鬱苦しい現実。

まさか、こんなおとなになろうとは。
笑っちまうぜ(さみしく)。
このブログを読んでくれている大学生はいらっしゃいますか?
先輩風を吹かせて助言したい。
乞食から説教されるような不快感があることでしょう。申し訳ありません(本心ではない)。
いいか、若人(わこうど)よ! それでも、夢を追え!
なにかをなしたいと思う気持にウソをつくな!
自尊心に忠実であれ! おれを重んじよと周囲へふれまわれ!
わかったことがあるのである。
我われ大学生はAさんを、あわれんでいた。
ところが、いざその立場になると、なかなか心地がいいのである。
夢を追うのは、夢に賭けるのは、たとえ成功しなくても、毎日張り合いがある。
これは美しい現実だ。
プロレスのことだけは書くまいと思ってたんだよな。
唯一の趣味だから、隠しておきたかった。
といっても、プヲタ(プロレスオタク)じゃ、あーりませんぜ。
もうそこまで熱くない。関心のあるのは天龍源一郎のみ。
だけど、まあ、プロレスは笑えるんだ。
こんな笑えるものはほかにないと思うぞ。
いい年をしたおっさんが、マジ顔で「つぶす」だの「ぶっ殺す」だの。
へんな覆面をつけて「おれは正義の味方だ」なんて叫んだり。
なまで試合を見ると、ちょー笑えるわけよん。
技のかけまちがえでできたおかしな間とか。
ミスってガチ(=本気の)キックが入って、失神するレスラー。
あわててかれの目を覚まそうと痛くないストンピングを入れる対戦相手。
故意ではないことを示すために直後に相手の見せ場を作ってあげたり。
ふだんはぺこぺこしている社長に平のレスラーが張り手をできる世界ですから。
平社員が社長にうっかり日ごろの恨みをだしてしまったりするのもプロレス。

ちょっとマジメになろう。ちょっとだけよん。
プロレスはウソとホントの関係を考えるうえで非常に都合がよい。
ちょびっと高尚な言いかたをすると、フィクションとノンフィクションの関係。
もっと固く茹でると事実の虚構の相補関係。
いまさらだけど、プロレスというのは八百長なわけ。
最初からどちらが勝つか負けるか決めてある。
本気で闘っているわけじゃーない。
とすると、おかしいと思わない?
プロレスラーは、大きな試合のまえになるとコメントをだす。
ボキャブラリーにとぼしいレスラーは「勝つのはおれだ。ぶっ殺してやる」くらい。
口のうまいレスラーになると、なかなかおもしろいことを言う。
やつの弱点は見切った。おれが負けるはずがない。
プロレスには敗者髪切りマッチというものがある。
負けたほうが勝者に髪を切られてしまう。むかしは女子プロレスで流行っていた。
これなんかは勝敗を予想しにくくさせているのね。
けれども、そう、これも八百長。
だから、最初から負けるとわかっている(=坊主になると知っている)のに、
あたかも知らないかのごとく必勝を宣言しなくてはならない。
いざ負けたらあたかも実力不足で負けたかのように本気で悔しがらなければならない。
で、プロレスを見ていると、レスラーはみんなこれを迫真でやるんだ。
ちくしょー、あそこであれを出していたら勝っていた、みたいなことを真剣に言う。
んなわけないわけね現実は。負けろと最初から会社に言われているんだから。
だのに、勝つぞと絶叫し、負けたら涙ながらに悔やむ。

プロレスのウソとホント。ちょっとマニアックなことを書く。
たとえば、こういうケースがある。
Aというレスラーがいる。リアルにケンカが強いわけだ。
けれども、哀しいかな。ルックスがダメ。ファンに受ける顔じゃない。
だから、会社からプッシュしてもらえない。
もうひとりBというレスラーがいる。ケンカはちょー弱い。
そこいらのヤンキーにも勝てないくらい。ところが、ルックスがいい。
ファンが多い。会社もBをスターにすれば客が入ると計算する。
さて、AとBが闘うことになった。
もちろん会社はBを売り出したいからAが負けるブック(脚本)を作る。
Aは、ちくしょーと思うが、会社から給料をもらっているサラリーマン。
会社の命令に逆らうわけにはいかない。Aは負けるしかないのである。
試合まえのインタビューでAはこんなことを言う。
「Bなんて顔だけだ。会社からプッシュされているだけ。片手で5秒で倒せる」
このコメントは、ウソかホントか微妙になってくるわけね。
ウソともホントとも取れる。
で、実際の試合はどうなるか。
Bはこういうプロレスをすることができる。
Aになにもさせない。徹底的にいたぶる。最後だけ、あっさり勝たしてやる。
こうするとプロレスを知っているものはわかるんだ。
ああ、Aはリアルでは強いんだ。かわいそうになと。
けれども、あまりこれを露骨にやると会社から目をつけられてしまう。
ほどほどはBの見せ場も作ってやろうと、常識的な社会人なら考える。
それでも試合の途中にガチで関節技を決めてニヤニヤしたりはするかもしれない。

AとBが親友だったとする。
ふつうなら、このふたりが敵味方にわかれたら闘いにくいと想像する。
違うんだな。反対。このふたりは名勝負を作ることができる。
信頼関係があると、殴っても殴られても安心感がある。
逆に仲が悪いと疑心暗鬼になる。なにか仕掛けてくるのではないか。
恐怖感からプロレスらしいムーブを取れなくなる。
ぎこちない試合になってしまう。ところが、これにも例外がある。
むしろ仲の悪いもの同士を闘わせたほうがいいと考える背広組もいる。
むかしの女子プロレスはそうだったみたいだね。
女は、ほら、あれでしょう。嫉妬やらなにやらがぐじゅぐじゅしている。
いまは使用不可かもしれないけれども「女の腐ったような」という言葉がある。
まあ、男よりも陰険で陰湿なのが女の世界。
むかしの女子プロレスは集団行動が当たり前だったから、
移動バスのなかでの反目やいじめがものすごい。
で、不仲のもの同士をぶつけると女子は本気でやりあってしまう。
もちろん最低限のルールは守ったうえではあるけれども。
そういうガチンコの感情というのは、かならず観客にも伝わる。
観客もヒートアップする。プロレスがおもしろくなる。客が入る。カネがもうかる。

観客に話をうつす。
プロレスというのは、みんなでウソを作りあげる娯楽なんだな。
レスラーのAもBも、ケンカをしているわけではない。
ふたりでひとつのものを作っているわけだ。プロレスを作っている。
というのも、プロレスの技なんてふたりで協力しないとかからないからね。
観客はABどちらか思い入れのあるほうを応援する。
がんばれ。たおせ。きめろ。はれ。けれ、けるんだよ。やっちまえ。
あたかも観客同士が実社会ではできないケンカをしているかのようである。
おれはモテないから、などと、地味なレスラーに肩入れするファンもいるだろう。
AもBも本気でやりあっているわけではない(最初から勝敗は決まっている)ことを
うすうす知りながら、あえてAなりBなりを熱狂的に応援するのがプロレスファンだ。
ウソと知りながら、そのウソを守るのがプロレスファン。
そのくせホントも知りたい。ウソのなかにホントが混じってないか注視する。
試合が熱くなってきたら、もしかしたらこれはガチンコ(真剣勝負)では?
などと期待を寄せる。でもまあ、ガチかどうかはやっている本人たちしかわからない。
ガチという観念があるから、ウソが成り立っているのもまた事実。
ガチでないかと疑う想像力が、ウソをも輝かす仕組みになっている。
とはいえ有名なプロレスラー、アントニオ猪木も、
現役生活で数試合しかガチをやっていないという話だが。

プロレスをどう見るべきか。どう見てもいい。ならどう見たら楽しいか。
これには解答があって、プロレスは真剣勝負だと思って見たほうが断然楽しい。
あえてウソにだまされたほうが楽しいのである。
ホントはたわいもない。
まともな社会生活を送れない肉片ふたつが汗みどろでくんずほぐれつしているだけ。
けれども、ウソのフィルターを通して見ると、熱血勝負になるのである。
ときには病床の子どもに勇気を与える。
人生にろくなことがなかったダメリーマンに明日の活力を与える。
むろん勇気だの希望だのはウソっぱち。1週間も持たない微弱な栄養剤である。
けれども、プロレスのような最下級のウソに慰められる人間がいる。
この人間を否定してはいけないと思うのね。
哲学書を愛読して嘲笑が顔にはりついている学者先生などより、
プロレスごときで熱狂して、
よしがんばるぞとその場限りの決意をするダメ人間をわたしは好む。

ウソとホントに話を戻す。
ウソのほうがよほどすばらしいと思うんだ。
いまはテレビで格闘技が放送されているでしょう。
K1とかプライド。総合格闘技などと呼ばれているものもある。
あんなもの、どこがおもしろいと思うのね。
見せ場もなにもない。へたをすると開始1分で勝負が決まってしまう。
負けたほうはいいところをまったく見せられないということもある。
強いほうが勝ち、弱いほうが負ける。だから、なに? と思う。
そんなものを見て、なにが楽しいわけ。
弱肉強食なら一歩家を出れば、どこにでも見られるじゃない。
わざわざテレビでまで、そんな当たり前のものを見たくないね。
きみは言うかもしれない。ホントだからいいんだ。
いんちきなプロレスとは違って、かれらは本気でやっている。
さあ、どうだかねと薄笑いをしたくなる。
わが国の国技の相撲だって、実弾(現金)が飛び交う八百長世界のわけでしょう。
総合格闘技だって、果たして裏ではどうなっているのか。
先日もアメリカでやったのが放送されていたね。
なぜかアメリカでは、アメ公が韓国人や日本人に勝つ。ふしぎだね〜(笑)。

ちょいと脱線したかな。
最後に言いたいのは、われらはみんなプロレスラーってことさ。
負けるとわかっていても、ぜったいに勝つと言いつづけなければならない。
たとえば高校生が運悪くガンになってしまった。
調べてみると末期。もう余命いくばくもない。
けれども、家族や友人は、長生きできると言うでしょう。
両親は、早く孫の顔が見たい、なんて笑いながら、病床の子どもに言うよね。
がんばって。早くよくならなきゃ。どんどん食べて。お医者さんの言うことをよく聞いて。
そうしたらかならず病気は治るから。ぜったい。ホントだって。
患者本人も、うすうすじぶんの病に気がついている。
けれども、がんばるという。この病気を克服して学校へ行きたいという。
ぜったいに負けないからねという。
ウソだよね。みんなでウソを作っている。ホントはもうすぐ死んでしまう。
末期ガンに勝てるはずがない。けれども、勝とうとする。勝てると思う。
これが人間だ。
この高校生に、あなたはガンだから、生きられてもあと1ヶ月です。
こんなバカなことをいう人間はいないでしょう。
負けるとわかっていても、勝とうとする。勝つことができると信じる。
みんながそう信じる。このときのことを言いたい。
このとき一瞬でもウソがホントになっていないかな。
少なくともホントよりもウソのほうが美しくないかな。ホントってそこまで偉いのかな。
「瞼の母・沓掛時次郎」(長谷川伸/ちくま文庫)絶版

→長谷川伸は大衆小説家。大衆演劇の脚本家としても知られている。
この文庫は戯曲集。収録作品は――。
「瞼の母」「沓掛時次郎」「関の弥太ッぺ」「一本刀土俵入」「雪の渡り鳥」「暗闇の丑松」。

先日、ある友人の家を訪れたときのことである。
昼間から強い酒をがんがんのんだ。酔ったいきおいで言いたいことを言うわけである。
かれの本棚を見ながら、こんな失礼なことを言ったと記憶している。
「ダメだね。てんでダメだ。なんだい、これは」
本棚は、いかにもな作家で埋められていた。
高尚っぽい純文学作品やら、こむつかしそうな横文字の映画評論やらである。
「ほんとうにこれだけか。これだけじゃ、ないでしょう。
人間がほんとうに苦しいとき、読むのはこういう本じゃない。
苦しくて、もうどうしようもなくて、なにかにすがりつきたい。
もうダメだ。瀬戸際に追い込まれる。そういうときに読む本が1冊もないじゃないか」
人間精神の寝室たる本棚をまえにして、ひどいことを言ったものである。
暴言をさらりと受け流してくれた友人には感謝している。
他人の本棚のまえに立ち、とんでもないことを言うわたしである。
「かっこつけすぎている。違うでしょう。人間は、こうじゃない。
かっこつけてばかりは生きていられない。
もっと恥ずかしい本があるはずだ。なければおかしい。この本棚はおかしい」
酔ったかれが差し出したのがこの本である。長谷川伸戯曲集――。

読みながら、あるプロレスラーを想起する。ミスタープロレス、天龍源一郎である。
義理と人情に生きる男のなかの男。
男が男に惚れるというのか。20年以上も天龍を見つづけている。
ここ20年の天龍の主要試合はおおかた、なまで観戦している。
横道にずれたが、長谷川伸の描く大衆演劇というのは、まあ、プロレスなんだな。
世の中にはいろいろなひとがいる。
インテリや学者先生ばかりで社会が成り立っているわけではない。
なかには低学歴、低収入、低知能という人間もいる。
というか、いなくては国家が成立しない。
みながみな公務員になるわけにはいかないのである。
源氏物語の作者も知らないような塗装工がいて、はじめて建物が完成する。
インテリがニーチェやなにかを生きる支えにするのとおなじように、
バカもバカなりに生きるよすがとなるものを必要としている。
酒のんでバカやって、カネがたまりゃ女を買って――。
こんな動物なみの生きかたをしている人間も生きるためにはなにかを必要とする。
それがプロレスだったりするのだ。
じゃあ、プロレスのなにがおもしろいのかと人間ドラマである。
といっても、知能の低い人間はせりふ劇にあたまの回転がついていかない。
だから、(言葉ではなく手で)殴りあうプロレスにひかれる。
人間が殴りあうのだからドラマが生まれる。むずかしいドラマではない。
日本人ならだれしも生活するうえで味わう情感である。
すなわち長谷川伸の大衆演劇がテーマとする義理、人情だ。
義理、人情を表現するためには、
陰画であるところの嫉妬、裏切り、悲恋がなければならぬ。

プロレスの会場へ行ったことがあるひとはいますか?
たとえば後楽園ホール。行きたいひとはメールをください。連れていってあげます。
一度は見ておいて損はない。ものすごいぞ。社会の最下層が集合したというのか。
教養という言葉からもっとも離れた空間である。
モテない、カネない、チエ(知恵)ないの、ないない尽くしの男が勢ぞろい。
なかにはリングサイドに陣取る小金持ちもいるのだが、どこから見てもカタギではない。
女連れもいるにはいるが、女のほうはオミズと相場が決まっている。
こんな野郎どもが見守るリングで繰り広げられるのは、裸踊りである。
血まみれになった半裸体の男たちが踊り狂う。
プロレスは結果の決まっている八百長だから闘いではない。まさしく裸踊りだ。
観客もたいはんは八百長と知りながら、レスラーのウソにつきあい絶叫する。
「張れ、折れ、殺せ」といった怒号が飛び交う。
はじめて後楽園ホールに行ったのは小学生のとき。もちろんひとりである。
あれから何度、後楽園ホールへ行ったか。
わたしはプロレス会場に育てられたといってもいいくらいである。

また脱線したな。長谷川伸の話をしなければならないのであった。
長谷川伸の相手にしている観客が、プロレスを見る層とおなじではないか。
こう話をつなげたかったのである。
無知な大衆は難解な思想はわからない。ならば劇作家はなにを提供するか。
かれは観客のあこがれを刺激する。つまり民衆のヒーローを描く。
かくありたいと観客に思わせる理想像を提示する。
客はいいなとほれぼれする。あんな男がいらあいいな。ああなりてえぜ。
生みの母をまぶたに描きながら流浪するバクチ打ち(「瞼の母」)。
殺した相手の女房子供を養いながら旅をするヤクザ(「沓掛時次郎」)。
腐れ縁のかたきと共闘する流れ者(「関の弥太ッぺ」)。
かつて恩を受けた女のために命を張る元相撲取り(「一本刀土俵入」)。
恋敵(こいがたき)の身代わりに処刑場に引かれてゆく極道(「雪の渡り鳥」)。
信頼していた先輩に裏切られ、愛妻を寝取られ売り飛ばされた人殺し(「暗闇の丑松」)。
登場するのは、「お前、男だ」(P108)とほめたたえたくなるような男ばかりである。
男は男として生まれるのではない。男をめざし男になろうとするのが男だ。
こんなクサイことを思わず口にだしてしまうくらい男臭い芝居なのである。

プロレスラー天龍源一郎が好きなのとおなじ理由で長谷川伸(の芝居)を好む。
天龍もおもしろい男なのである。かっこいいったらありゃしない。
中卒の天龍が、中央大卒のエリート、
ジャンボ鶴田に向かっていった姿勢にしびれないプロレスファンはいないだろう。
ジャイアント馬場を裏切り全日本プロレスを退団するが、
10年後、同団体の経営危機に際して舞い戻る男、天龍源一郎。
みずからも弟子の冬木弘道に裏切られ裁判沙汰になる。
けれどものちに和解し冬木がガンになったと知れば見舞いに行く。
死ぬ間際の病床で「天龍さんを(病院の)入り口まで送っていく」
と言いつづけた冬木との師弟愛。
葬儀で棺桶のなかの弟子の顔をなでる天龍。
ファイトスタイルはぜったいに相手の技をすかさない。
相手の技を受けきったうえで反撃していく。
プロレスラーは裸芸者と言われるけれども、あんなに感情表現のうまい役者を知らない。
たとえば怒りを天龍源一郎は全身で表現する。ほんと鳥肌が立つぜ。
橋本真也じゃないけれども、将来あんなオッサンになりたいとあこがれる。
きっぷがよくて、義理人情に厚い。酒をのんで、ときには羽目をはずす。
女子プロレスラーとも、レイザーラモンHGともプロレスをやってしまう。
昨年、7月にWAR最終興行があった。天龍ファンが全国から集合する。
だいの大人がもうみんなわんわん泣いているんだな。
そこにいるだれもが天龍に励まされて生きてきたわけだ。
こん畜生、なにくそ、と思いながら、ひよるもんかと意地を張り通す。
天龍の生きかたであり、天龍ファンの生きかたでもある。
以上、脈絡もなく、
プロレスなんていう恥ずかしい茶番に生きる勇気をもらう愚人の話をした。

つまりシェイクスピアじゃないんだな。
あんなものに生き死にを左右されるほどお上品じゃないってこったい。
国技の相撲でもない。いんちき臭いプロレスじゃなきゃダメ。
まえにリングサイド最前列でプロレスを見たことがある。
場外乱闘。目のまえで天龍がマンモス鈴木のあたまをビール瓶で殴るわけだ。
ぞくぞくしたね。すげえと思ったね。
こぎれいな劇場で、芸術家の俳優さんがお見せくださるシェイクスピア劇より、
よほどこちらのほうが性に合っている。
すかした演技を見せられるより、泥臭いしばきあいをあたしゃ見たいね。
そういう地点から生きているという自覚がある。
おれのね、生きている熱源というのはさ、
きたねえ血が泥沼のようにたまっているんだ。
ふふふ。こんなこっぱずかしいことを口頭で言えるわけもない。
明日、友人宅へ本を返しに行くことになっている。
長谷川伸? 悪くないんじゃないかな。いいと思うよ。
聞かれたら、こんなふうに答えるつもりである。
新宿ツタヤでDVDを借りて視聴。山田太一ドラマ。全14話。昭和51〜54年。

むかしからテレビドラマとはありきたりな日常を描くもので、
それならばとあまりにもありきたりなことを言わせていただくと、
悩みのない人間なんてどこを探したっていないわけである。
だれもがあこがれる金持や有名人にも悩みはある。
とるにたらない凡庸な人間にも、そのひとだけの特別な悩みがある。
人間だれしも欲望をもつ。あーしたい、こーしたい。あれがほしい、これがほしい。
みなの欲望がかなうはずもない。
だれかがいい目を見る裏側で多くのひとが苦渋をなめなければならない。
いったんは欲望を充足したものも、翌日からは新たな欲望のとりこになる。
脱線するが、だから仏教では執着を捨てろというのである。
根本の欲望を捨ててしまえば、もう悩み苦しむことがなくなるという理屈だ。
けれども、テレビドラマの登場人物がどんどん出家してしまったらドラマにならない。
(出家先の寺院での闘争を描くことは可能かもしれないが)
出家できない我われとおなじようにテレビドラマのなかの俳優陣も悩み苦しむ。

仕事の最中に困っているひとを見かけたら仕事をなげうってでも助けるべきか。
父親は家出した娘を殴るべきか抱きしめるべきか。
むかし話の好きな老人の饒舌にどこまで耐えるべきか。
ほんとうにうたいたい歌をうたわせてもらえない人気歌手は引退すべきか。
親子ほど年の離れた若い娘から求愛された中年男はどうすべきか。
愛するものに死なれたものは、
酒びたりで死ぬのを待つのが誠実か、それとも心機一転やりなおすべきなのか。
会社のためだったら、ばれないとわかっていたら、
まして他人に迷惑をかけるものでなければ、そうと知りつつ法規を犯してもいいのか。
そもそも、じぶんのために他人へ迷惑をかけてもいいのか。
以上、「男たちの旅路」からいくつか苦悩を抜粋してみた。

哲学上の深刻な苦悶はどこにもない。
とるにたらない悩みだと哲学青年なら一笑にふすものばかりであろう。
しかし、だれもが卑賤ともいうべき悩みをかかえて生きているのも現実なのだ。
たとえば、引越会社の営業がいる。
むかむかする顧客におべっかをつかってようやく契約をとった。
ところが、電話一本でかんたんに契約をくつがえされてしまう。
それもたかだか2千円安いというだけで。こんな理不尽なことがあってたまるかと思う。
客を怒鳴りつけてやりたくなる。人間として、おかしかないか。
だが、じぶんは営業マン。こんなものだ。世の中、こんなもんじゃないか。
いちいちカッカしてもはじまらない。けれども、あの客だけは許せない。
ふざけるなと怒るか。こんなものだとあきらめるか。
(以上は先日、加害者の立場で経験したこと。営業さん、ごめんなさい……)

実のところ、どの問いにも答えはないのである。絶対的に正しい答えはない。
この地点から山田太一はドラマを書き始める。
答えがわからないからドラマを書く。
あるいは、絶対的に正しい答えがないことをわかっているからドラマを書く。
風呂あがりでくつろいでいる視聴者に、あなたならどうしますかと問いかける。
ときにはヤクザのように切っ先を突きつける。おい、あんたならどうするんだい?
「男たちの旅路」はとくに反響があったようである。
テレビ局へ視聴者からの手紙が集中したという。
テレビが熱かった時代の話である。山田太一ドラマならではともいえよう。
何度か山田太一の講演会へ行ったことがあるが、氏はとにかく断言をさける。
持ってまわった言いかたをする。条件をつけながら、話をすすめていく。
もしこうであるならばこうだが、べつの場合はそうとも言えないわけで……。
安っぽい教訓など口が裂けても言わないぞという意気込みを感じたものである。
人生に答えなどないことを知り尽くしたドラマ作家という印象を受けた。
言いかたをかえれば、答えがないからドラマを書くのである。
答えがわかっているのなら評論にでも書いたらいいのだ。
売れた芸能人が好んで出版するような人生論エッセイにしてもいい。

ふたつにひとつを描くのが、ドラマなのである。
山田太一の好む二者択一に、たとえばつぎのようなものがある。
世慣れた世間知と、青臭い正論の対立である。
「世の中なんてこんなもんだ」と、「そんな安っぽいことを言うなよ」の葛藤。
ときとして山田ドラマが「野暮ったい」「クサイ」と批難されるゆえんである。
極端なことを言うと、山田ドラマは赤信号をわたるなと注意する老人をイメージさせる。
それも車の往来がない道路の横断歩道で、むやみに口うるさい老人である。
山田ドラマの特徴は、赤信号をわたる若者の描きかたにある。
この若者は老人を無視しない。
「すみません」などとへらへら笑いながら逃げたりはしない。
お茶を濁したりはしないのだ。うるさいと怒鳴りかえす。横断歩道を引きかえす。
どうして車の通っていない横断歩道をわたってはいけないのかと逆に問いつめる。
そう、ここからドラマがスタートするのである。
あなたなら赤信号をわたりますか?

ドラマ「影の領域」から(「男たちの旅路」第4部第2話)。
新入社員がいる。上司の不正を発見する。上司からは言いくるめられる。
世の中、こんなもんだ。みんなやっていることじゃないか。
私腹を肥やしているわけでもない。すべては会社のためなんだ。
業者からも嘆願、いや、哀願される。

「商売ってものは、そういうもんですよ。
向うが汚い手をつかってくるなら、こっちも、それ相応の手を考えなきゃ、
つぶされちまうんです」(P176)


上司は部下の新入社員を懐柔しようとする。

「(君は)世の中知ってる、と踏んだんだ。
バレても、君なら、分ってくれるだろうと思った」(P178)


新入社員はじぶんも大人になろうと思う。
けれども、どうしても納得がいかない。
社長のもとへ進言しに行く。社長はすでに知っているという。
ほめられると思ったら逆に叱り飛ばされる。
忘れろと大声で怒鳴られる。いい子ぶるんじゃないと突き放される。
新入社員はがっかりする。世の中、こんなもんか。
そこに現われるのが「男たちの旅路」のヒーロー、鶴田浩二である。

「こういうことを、うやむやにしてはいけない。
大人だかなんだか知らないが、世の中分ったような顔をして、
こういうことを許しちゃいかん。(……)
汚いことは汚いことだ。悪事は悪事だ。
それを曖昧にして、結局はうまく立ち回った奴が勝ちというようなことが多すぎる。
悪い事だ、と、言いにいった君が、世間知らずのようになってしまう。
そんなことで、いい筈がない」
「でも――」
「でも、なんだ?」
「裏表っていうのは、やっぱりあるんじゃないんですか?
悪いから悪いって、なんでもかんでも、
あばけばいいってもんじゃないんじゃないですか?」
「そんなことで、どうする?
お前が一生かかって、あばいたって、まだ裏はあるんだ。
はじめから、世の中こんなもんだ、と決めてどうするんだ?」
「そりゃあ、そうだけど――
悪いことをした奴にも、無理もないところや、
人情として許せるっていうところとか、そういうところがあると思うんだよね」
「悪いことを憎めない人間に、そんなことを言う資格はない」
「現実には、そうするしかないっていうことだってあるんじゃないですか」
「だから、なにもかも曖昧にして許せと言うのか?
ギリギリのところでなければ、そんなことを言ってはいけない」
「じゃ、どうするんですか?」(P186)


しかしだ。山田太一はこのレベルでとどまる作家ではない。
むろん、ここまででも最上級のドラマ作家であることは疑いえぬ事実である。
だが、山田太一はさらに深い人間のドラマを描こうとする。
ふたつにひとつを書くだけのドラマ作家ではないのである。
赤信号をわたるか、わたらないかだけの作家ではないということだ。
世の中は、ふたつにひとつでまとめられるほどかんたんなものではない。
青信号をわたっていた少年が居眠り運転のトラックにひき殺されてしまうこともある。
トラックのドライバーは、それまで無事故無違反の運転手だった。
ところが息子が重病になる。手術にはカネがいる。
無理な仕事も引き受けなければならない。疲労がたまる。ようやく仕事が終わった。
会社へ戻って、さあ病院へ行こうかというときの事故だった。
ついうっかり気がゆるんでしまったのである。この事故でだれが責められるのか。
ふたつにひとつなどと図式にしようとしても、どだい無理なのである。
どうしようもないわけだ。世の中には、どうしようもないことがある。
打つ手立てがないこともあるのである。
ふたつにひとつの、ふたつという選択肢でさえないこともあるということだ。
このとき人間のなしうるのは泣くことだけである。

最後に「男たちの旅路」で、もっとも有名なシーンを紹介する。
第4部第3話。「車輪の一歩」。
川島敏夫(斉藤洋介)は車椅子の青年。座敷で寝るところである。
その横で枕カバーを替えている母親。
父親は茶の間でテレビを見ながら酒をのんでいる。

川島の声「いま考えると、よくあんな事頼めたもんだと思うけど、
その時はすごくせっぱつまった気持だったし、俺は稼ぎやたら少なかったし、
親父は、厄介者の俺が嫌いで口きかなかったし、
お袋に頼むしかなかったんですよね」

川島「(目をつむっていて)お母ちゃん」
母親「うん?」
川島「俺、一遍でいいから、トルコへ行ってみたいんだ」
母親「トルコって、外国の、あの」
川島「そんな所へ行きたがるわけないじゃないか」
母親「じゃ、あの、なにかい?」
川島「きまってるだろ」
母親「――(見ている。テレビの音、止る)」
川島「俺、女にもてないだろ。嫁さん来ると思う?
一遍だけでいいから、ああいう所でもいいから、女の人と、つき合ってみたいんだよ」
母親「――」
川島「一生、女なんか、縁ないかもしれんもんな」
父親「――(後姿で黙っている)」
母親「――」
川島「(目を閉じている)どうなの? 黙ってるんだね。
俺だって、金がありゃあ、お母ちゃんに、こんな事、頼みやしないよ」
母親「行っといで(とせきこむように言い)いいよ。行っといで。
いくら、ぐらい、あったらいいんだい?」
父親「三万か四万やっとけ」
母親「え?」
川島「(目をあける)」
父親「(後姿で)三万か四万やっとけ。
いいか。ケチるじゃねえぞ。チップははずむんだぞ」
母親「だけど、そんなお金」
父親「バカヤロウ。その位の金、俺が、どうにだってすらあ」
川島「(天井を見ている)」
母親「目を落し、うなずく)」
父親「――どうにだって、すらあ(と小さく言う)」

●トルコ街(夜)

川島、車椅子で行く。
川島の声「翌日の晩、お袋が下から上まで新しいものを着せてくれて、
金は四万五千円も持って、出掛けたんだけどね、車椅子は駄目だって言うんだよ。
何処へ行ってもころんだりして、事故があったとき、責任持てないって断わられて、
結局、ウロウロしただけで、十一時すぎにね、家へ帰って来たんだけど、
断わられたなんて、言いたくなくてね」

●川島家・玄関

川島「(ガラッとあけ)ただいまッ!(と明るく)ハハハ、ハハハハハハ」
母親「お帰り(助けてあげようとして)
やだよ、この子は、ゲラゲラ笑って(と土間へおりる)」
川島「そりゃあそうだよ、やっぱりさ、おかげさまでさ。
ハハハ、フフフ(顔が歪み)行ってよかったよ。よかった(と泣き出してしまう)」
母親「敏夫――」
父親「(現われ)どうした?」
川島「(ワーワー泣いている」(P227)


人間にはどうしようもないことがある。
選択肢もなく、ただひとつのみ、いやがおうにも、
受け入れなければならない現実というものがあるのだ。
なしうることはない。なにもできないのである。選択肢がない。
じっとこらえるしかない。許されるのは、せめて泣くことくらい。
繰り返すが、人間のちからではどうにもしようがないことが世の中にはある。
このとき人間はなみだを流す。
さて、このなみだをどうとらえるか。
なにか大きなものに泣かされていると見るか、意識的に泣いていると考えるか。
宿命か自由かの問題である。

(注)「車輪の一歩」は障害者問題を考えるうえで優良な
教育的ドラマという位置づけにあるようだ。
大きな間違えである。このドラマの斬新さをまったく理解していない。
このドラマの凄みは障害者の悪意を描いたことにある。
ネットで検索したが、だれもこの部分に触れていなかったのは残念。
ドラマ冒頭、車椅子の障害者たちが健常者へ復讐しようとする。
かれら障害者の鬱屈した表情がたまらない。のちに車椅子のひとりが述懐する。

「ぼくらは、この人たち(健常者)にとりついて
めちゃくちゃにしてやろうと思ったんです」(P210)


どうして現代のテレビに登場する障害者はみんな明るく健康的なのだろう。
乙武先生しかり。「愛は地球を救う」の障害者軍団もそう。

*引用は「男たちの旅路2 山田太一作品集4」(大和書房)によります。
海外へ行っているあいだに住んでいるうちを売られてしまった。
もちろん無断ではない。
海外からメールでやむなしと送信した。売ってくださいと。
この機会を逃したら、売ることはできないと思ったからである。
思い出のある家にいると、どうしても離れたくなくなってしまう。
海外にいるいま、踏ん切りをつけるしかないと思ったのである。
ここに20年以上住んでいる。母が、飛び降りたのも、ここだ。
名義は父である。一銭とてわたしのもとへ入ってくるわけではない。
これでようやく父と縁が切れることになる。
もしカネの切れ目が縁の切れ目であるならば、の話だが。
旅の途中からこんかいの放浪をこう名づけるようになった。自宅卒業旅行――。

ものごころがついてから引越の経験はない。
わからないことばかりでてんてこ舞いしている。
最初に決めなければならないのは引越先。それからどの引越業者に頼むかである。
こういうとき友人・知人の極めて少ないわたしはどうするか。
ネットである。むかしの孤独な若者はいかように引越をしたのだろう。
友人・知人がいなければ、かつては情報が入らなかったのではないか。
損をすることもたぶんにあったと思われる。
いまはネットがある。だが、まあ、わたしが見るのは2ちゃんねるなんだな。
わからないことがあると、まず2ちゃんねるを見る生活者というのはどうだか。
2ちゃんねるに情報の正しさを求めるものはいない。
デマ、誹謗中傷、揶揄嘲笑の山である。
そのなかに真実が埋まっているかもあやしいかぎりだ。
けれども、この匿名掲示板を見てしまうんだな。おもしろいからである。
書き手の品性のみならず、生きかたまでばれてしまいますね。

どうやら引越業界というのはいんちきな世界のようである。
交渉しだいで値段がいくらでも下がる。
おなじサービスでもひとによって払っている対価がまったく違う。
言いかたをかえれば、ぼったくりの横行。
これはわたしが3ヶ月半、旅したアジアの世界である。
定価販売が主流の日本でこのような業界はめずらしいのではないか。
「千三屋(せんみつや)」とよばれる不動産業界と双璧をなす。
ちなみになにゆえ不動産業者を千三屋というかというと、ふたつ説がある。
千のうち三つしかほんとうのことをいわないからとも、
千のうち三回しかまとまらないようなあこぎな仲介をしているからともいわれている。
山本夏彦によると、差別語に近いらしい。

某月某日。
定価のないアジアンワールドをひさびさに味わえるとわくわくしながら業者を待つ。
引越の訪問見積もりである。
営業さんがどれだけ運ぶ荷物があるかを実際に確認して、
作業員数、トラックの大小、および金額を決定する。
ネットによると引越の営業はかなりめちゃくちゃのようである。
他社の営業を来させないために何時間も部屋でねばる。
他社の悪口を言いたいほうだい。
むやみに即決を迫り、いまここで決めることを要求する。
引越会社の営業はヤクザとかみひとえというのがネットから受けた印象。

http://www.nandemo-best10.com/f_seikatsu-hikkoshi/
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1172398671/l50
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/estate/1170830644/l50


初体験はリサイクルBOY。
ここは引越よりも、むしろリサイクルで有名なチェーン店。
見積もり結果は――。
2トンロングトラック。作業員3名。
午前便指定6万円。おまかせフリープラン4万9千円。
引越には午前便とおまかせプランがある。
おまかせプランは安いけれども時間不定。
どこの会社も否定するが、へたをすると深夜の引越になってしまう。
午前便を終えてから来るトラックである。
営業のかたは、引越業界12年というベテラン。
いわく、どこの引越会社も内容は変わりませんよ。
ボクは8社を転々としましたがそうでした。
おいおい、12年で8回も会社をかわったのかよ……。絶句する。
全体的な印象はやる気がない。たそがれている。
安い引越業者を探したいのでしたら、
引越先の近所に所在地があるところを探すことですね。
おかしなアドバイスまでいただく。
もっとぎどぎどした営業さんをイメージしていたので拍子抜けする。

2つめはアリさんマークの引越社。業界大手である。
やけにノリがいいあんちゃん。
合コンにでも参加しているような話しかたをする。
メガネが奇妙だった。いかにもいまふうのふざけたメガネ。
引越日をいうと、「ああ、偶然。私もその日に引越するんですよ」
わざとらしい営業トークに嫌気がさす。
きっと営業マニュアル本に書いてあるんだろうな。
顧客は偶然の一致を重く見る、なんて。
おなじ日に引越する。こんな営業文句を真に受けるバカではない。
かえって世慣れた若僧に嫌悪感が増す。
提示された条件は以下。
3トントラック。作業員3名。午前69720円。おまかせプラン6万円。
ここも即決を迫ることはなかった。極めて紳士的に退場する。

3つめはラン引越サービス。
ここの営業さんはマンションの下でアリさんマークと話していたという。
どのみち狭い引越業界。営業同士で顔なじみのことが多いのだという。
こちらが口を開くまえから営業はうちのことに詳しい。
アリさんマークの営業からすべて聞いているとのこと。
このおにいちゃんもやる気がない。声が小さい。
何度も聞きなおさなければならなかったくらいである。
大手でもないのに提示価格は最高値。
2トントラック2台。作業人数いわず。価格は10万5千円。
即決を迫ることもなく、値下げをする気配もなく、
「うちは高いでしょう」と薄笑いをしながら去っていった。

4社めはサカイ引越センター。業界最大手。
時間に遅れたのはここの営業がはじめて。
大手の営業はみなおかしなマニュアル本を読まされているのか。
営業さんは部屋にあったプロレスグッズに目をつける。
「私もプロレスが好きなんですよ〜」
引越の話よりプロレスの話をしたがる。
マニュアルのひとつ、顧客の関心のあることを話せ! に忠実なのであろう。
相手の関心をつかむことがセールスマンのなすべきこと。
教科書の解答例を棒読みされているような不快感をいだく。
このおにいちゃんは最後までプロレスにこだわっていた。
以前、この手の営業で大きな成功をおさめたのかもしれない。
提示価格もとんでもなく高い。
当社は午前便をおすすめします。時間のわからない午後よりも午前にやるべき。
3トントラック。作業員3人。価格は7万6千円。
本日の最後がこの業者。4番目。初めて即決を迫られる。
いくらならいいんですか。即決してくださるのなら相談にのります。
アホかと思う。そもそもの提示金額7万6千円が高すぎる。
アリさんマークだって7万円を切ったんだからな。

4社の見積もりを終えた感想は、ゆるすぎる。
どこも必死ではない。ネットに書かれていた修羅場なんてどこにもないではないか。
どこの会社からもぜったいに取りたいという熱意を感じなかった。
したがって値下げもない。
現段階でわかっていることを確認する。
荷物を運搬するために必要な人員は3名。スペースとしては6畳(3トントラック)。
最低金額は時間のわからないおまかせの4万9千円。
午前便指定だと6万円。ここにするしかないのかな。
だけど、あのやる気のなさを見るに、どうにも……。

必要スペース6畳。必要人員3名。
4社の見積もり結果を総合すると、こんなところか。
この条件をもとに別の会社に見積もりを再度依頼する。

本日――。某月某日から5日。また新たなる訪問見積もりを依頼する。
1発目はフクフク引越センター。
ここはメールでいちばん安い金額を提示してきた。
3トントラック。作業員3名。これで4万9100円。
しかしここの営業は時間に3時間も遅刻する。
いちおう訪問時間は9〜11時だが、9時から待っているわたしには、
12時到着がとんでもないことのように思える。
かれは3トントラックでは入らないという。4トントラックが必要。
万が一にも積めないものを出さないために4トンをおすすめします。
問う。それはいくらだ? もちろん午前便指定。
6万円という。めんどうくさい。ここで決めてしまおう。
「即決しますから5万5千円にしてください」
いいですとのこと。4トン車、5万5千円で契約終了。

実のところ、この見積もり中に別の引越会社からのベルがなる。
いま見積もりをしてもらっているのでと20分時間をずらしてもらう。
ユアーズ引越センターである。
ところがいつまで経ってもユアーズが来ない。
20分はとうに過ぎて1時間である。
ユアーズのフリーダイヤルに電話する。
もうほかで「即決」で決めてしまったので訪問見積もりをキャンセルさせてほしい。
受け付けの女の子は、それはじぶんの権限ではできないという。
待ってください、うちはそこよりもお安い価格を提示します。
当社の営業に連絡を取って、折り返し連絡します、とのこと。
この電話を切った瞬間、ユアーズの営業が到着する。
ふしぎな偶然であった。
もうほかで即決をだしているので、いいかげんに話を聞く。
提示された金額は思いのほか安い。
3トントラック。作業員3名。午前便指定。5万2520円。
検討しますとはわたし。だって、もうほかに決めているのだから。
ここの営業さんは、これまでの営業にはないねばりを見せる。
いくらだったらいいんですの連発である。
はい、これが最低金額と、いきなり4万8千円に値下げする。
ふうん。わたしは3トンではなく4トンで5万5千円の契約をしているから。
わたしのような読書家はやはり運搬スペースが広いほうがいい。
ちなみに4トンだといまある本をまったく捨てなくてもOKとのこと。

この営業さんはしぶどい。いくらだったらいいんですか? 
「もしほかで決まっていても、私が断わりの電話を入れますから教えて下さい」
このひと言が強烈だったね。え、あなたが断わってくれるんですか?
ならと思わず口にしてしまう。4トントラックで5万5千円で即決をだしています。
これより安くなんてできるんですか?
ちなみに前回のフクフク引越センターは運送がメイン。
ユアーズのほうが引越に特化している。おなじ金額ならこちらに頼みたい。
ユアーズは4トントラックで5万3千円でいいというではないか。
ぐふっ。
「じゃあ、ユアーズさんにお願いしたいんですけれども、
1回即決を出したものを断われるものなんですか?」
ユアーズ営業いわく、この業界はアイミツなんて当たり前ですよ。
アイミツってなんですか?
あ、ごめんなさい。相見積もりの業界用語です。
ふたつ見積もりを取るなんて、当たり前です。
私も即決で決まってから、くつがえされたことがあります。
逆に、(引越用)ダンボールまであるのにキャンセルさせたこともあります。

ほんとうにフクフクへ電話で断わってくれるんですか?
ここでユアーズの営業もひるむ。
やはり私が電話すると角が立ちますので、お客さまが……。
フクフク引越センターのフリーダイヤルに電話すると、
営業と直接話してくださいと言われる。まあ、当たり前だな。
つらかった。
1回じぶんのほうから即決を持ち出しておいてキャンセルするのである。
フクフクの営業さんからはねちねちと嫌味をいわれる。
あと5分待ってください。
ああ、また値下げか。どこまで下がっていくのだろう。
ちなみにユアーズの営業さんは、確認するように家を出ていかない。
ダンボールを持ってきましょうか、などと逃げられない工夫をしている。
5万2千円にしてくださいと提案する。
当日、引越作業員3名に千円ずつ「こころづけ」を出したい。
3人で3千円。5万2千円だと合計で5万5千円になる。OKが出る。
電話が鳴る。フクフクさんはさらに値下げするという。
最終価格で5万円ぽっきり。これでどうですか。
まいった。その気になればここまで下がるのか。
ごめんなさいとお断りする。ほんとうに申し訳ありません。
こちらから即決を申し出ておいて。フクフクさんもあきらめてくださる。
ユアーズさんも必死。顧客に他社を裏切らせたわけである。
すなわち、自社もいつ裏切られるかわからない。
あわてて印鑑を押せという(おそらくなんの効力もない)。
これ以上、神経戦をやるつもりはない。
価格だけならここの料金よりも2千円、ライバル社のほうが安いのだ。
そうそう、はじめて他社の悪口を聞いた。
フクフクの営業さんがユアーズの悪口をいうこと、いうこと。
ああ、必死なんだと、はじめて業界の修羅場を見たように思う。

最後にユアーズの営業さんにうかがう。
「こんなことを毎日やっていると人間不信になりませんか」
即座に否定される。
そもそも、引越業界だけではなく、世の中がこんなものでしょう?
だましだまされて、ですから。いちいち気にしていたら、おかしくなってしまう。
かれはわたしが再度くつがえらないか、いぶかしみながらつぎの見積もり先へむかった。
「人生論ノート」(三木清/新潮文庫)

→これまた「敦煌料理店」で入手(強奪かも)した書籍。
断わっておくが盗んだわけではない。そういうことをやる人間ではない。
「敦煌料理店」はいろいろな思い出があるのでいずれ詳しく書きます。
まあ、バックパッカーのたまり場に「人生論ノート」は不似合いでしょう。
これはどこかで山田太一氏が言及していたのでいつか読もうと思っていた。
まさか中国で読むことになるとは。
かんたんな説明をすれば戦前の代表的哲学者の一般向けエッセイといったところか。
長春から大連へ向かうバスのなかで読む。

内容を理解したわけではない。おそらく2割もわかっていないと思う。
かといっておのが無能を恥じる気もない。もう高校生ではないのだから。
わからないものは、正直にわからないと書く。
わかったふりもしない。
わかった範囲で著者と会話するのがおとなの読者のつとめである。
なにゆえこの書物(=哲学)をわたしが理解できないのか、
この本に明示されているようにも思える。
著者の三木清はとにかく感傷を毛嫌いする。
いわく、感傷は精神の停滞だ。
人間は感傷によってしんじつものをみることができなくなる。
感傷によって思考は停止する。真の感動へ通じている道をとざすのが感傷だ。

いままで哲学の反意語は怠惰だと思っていた。
哲学書をひもといて思うのは、よくもまあという感嘆(苦笑)である。
よくもまあ、どうでもいいことを綿密に思考するもんだ。
こちとらナマケモノだから、存在がどうのとめんどうなことはやれませんね。
かような考えで、哲学の反対は怠惰であると。
わたしは勤勉ではないから哲学がわからない――。
だが、どうやら哲学の反意語は感傷のようである。
感傷家だから哲学がわからないのである。
感傷の入り込むすきがないから哲学が退屈で仕方がない。

感傷と言われても、よくわからんよな。
ならこう言い換えよう。感傷は日本。哲学は西洋。
哲学なんざ、西欧からの舶来品。
日本の哲学者がえらそうな顔をしているのも虎の威があるためで。
まあ、哲学好きなんてものは、わたしから言わせりゃ、
ブランド物を買いあさるおバカな俗人さ。
日本人は欧米のブランド品をありがたがるけれども、
西洋人は日本を相手にしないでしょう。
かれらが日本のお土産として買うのは富士山と芸者が一緒になったような置物が主流。
どういうことか。欧米人は日本を理解できないのである。感傷がわからない。
日本人はわからない哲学を理解しようと勉強するけれども、
あちらさんはわからないものは劣等だからと決めつける。
じゃあ、毛唐さんのわからない日本の感傷とはなにか。
きのう大衆演劇作家、長谷川伸の戯曲を読んでいて、ようやく思い当たる。

日本の感傷とはホロリである。

日本人ならホロリとすることがあるでしょう。
あれが感傷だ。毛唐どもには決して理解できない哀歓である。
三木清は感傷がダメだという。ホロリを排除せよという。
かなしいじゃないか。なんでも理詰めで、真贋美醜の二者択一かい?
そんなもんじゃないだろう。ホロリとしてなにが悪いもんか。
たしかにホロリではなにも解決しない。進歩も成長もないかもしれない。
だがね、おい、人間てえのは、理屈だけじゃないでしょう。
理屈を言うなと泣き叫びたくなることはありませんか。

三木清を非難してばかりいても詮無い。
日本人は、まあまあを好む。まあまあ、すみませんの感覚。
三木清の言説で感銘を受けたところを紹介する。
いわく、成功と幸福は異なる。
ところが、いつの間にか成功と幸福が同一視されるようになってしまった。
成功したものが幸福で、失敗したものが不幸だとみながみな信じている。
これに哲学者・三木清は異議を唱える。
ほんらい成功と幸福とは無縁なるもの。哲学者の主張である。
言い換えると、人間は失敗してもなお幸福たりえる。
成功しても不幸な人間はいる。
そもそも成功、失敗は人間の行為の結果である。
人間の意思のあずかりしらぬところで成功、失敗が決められる。
そんなものに人間の幸福、不幸が左右されるのはおかしいではないか。
いつから成功が幸福と同義になってしまったのか。
なにゆえ失敗したものはおのが不幸を嘆かねばならぬか。
さすがにこのくらいならわたしにもわかる理屈である。
なるほどと思う。たしかにそうである。
わたしの人生は失敗の連続である。少なくとも成功はしていない。
だが、こんかいのアジア漫遊の途次、なんとも形容できぬ幸福を幾度も味わった。
なるほど幸福と成功をイコールで結びつけるのは間違えている。
だが、とも思う。
三木清の論説をここまで素直に受け入れられるのは中国にいるからではないか。
もし日本に帰ったら――。
日本ではマスコミから井戸端会議にいたるまで「成功=幸福」が疑われていない。
これに疑問符をつけたら負け犬とあざ笑われかねぬ。
なぜかというと日本人は、みなが平等であるという幻想を強く持っている。
人間みな平等ならば成功者は自己の努力の結果。失敗は怠惰ゆえの必然。
格差社会。キャリアアップ。勝ち組。対人スキル。下流。セレブ。
忘れていた日本語が嵐のように襲い掛かる。
バスは日本の嵐をものともせず、めずらしく定刻どおりに大連へ着こうとしている。
「放浪記」(林芙美子/新潮文庫)

→これまた「敦煌料理店」で入手(交換?)した書籍。
しかしまさかこのような古典的名作が中国で手に入るとは。
日本でもいつか読もうと思っていた本である。
ひんしゅくを買うかもしれないが、いわゆるバックパッカーの知能は極めて低い。
(もちろんわたしもふくめてだ〜よ♪)
したがって日本人宿、日本人食堂に置いてある書籍もたかが知れたもの。
旅行記やミステリーがいいとこ。
ところが古典文学作品「放浪記」である。
これだけの厚さの書物があれば、そうとうの時間はつぶせる。
嘉峪関から北京まで32時間の汽車旅が不安だったが、
なんとかなりそうだとうれしくなる。
実際、この列車での旅はとても楽しいものとなった。

車内で買うと高くつくのでビールを持ち込む。
さあ、何本購入したか。9本である。ビール大瓶を9本。それからワインを1本。
ビールは9本ごとにビニールでパックされており、本数のわりには持ちやすい。
まあ、想像してみてください。このわたしがだ。
えっちらほいさとビール9本を寝台へ置く。
なにもんだこいつは? 中国人の視線が集中しました。
32時間の旅も、酒と本があればなんの心配もいりません。
昼からビールをのむ。懐かしい日本の本を開く。しかも名作である。
読むのがもったいなくなる。窓外の風景を見やる。中国である。
また日本の世界へ戻る。弁当を売りに来たら買う。
15元(225円)と相場より高いので買う中国人は少ないが、
中国の駅弁はどの列車で食べてもなかなかのものである。
少しずつ弁当をつまみながらビールをのむ。いくらのんだってかまわない。
ビールは9本もあるのだから。
口は中華。目は「放浪記」。こんなわたしはいま中国を放浪している。

放浪――。
林芙美子は日本の大正時代を放浪する。貧窮した最底辺の生活である。
それでも二十歳そこそこの林芙美子は詩人をめざす。
すなわち現状に満足しない。これではいけないと思う。
かくありたいと欲望する。だが、すべからく欲望は壁に衝突する。
このときの選択である。壁に屈するか。壁を打ち破らんとするか。
林芙美子は後者を選択する。楽な生きかたではない。
他人のみならず自分をも傷つけなければならない。傷は痛い。苦しい。
だのに、なにゆえ林芙美子は放浪をやめないのか。
現実を日常を嫌悪しているからである。求めているのは、詩だ。ほんとうの詩だ。
どこにしんじつの詩があるのかはわからない。
わかっているのは、ここではないということ。
なら、どこかへ行くしかないではないか。
ここにないならば、とにかくここを離れなければならない。
林芙美子の放浪という生きかたである。
その過程で自己にも他者にも深手を負わせる。
血が流れる。まるで芙美子は血を欲しているかのようだ。
あたかも血の赤さのなかにしか詩はないとでも言うかのように。
こうして職場と男をわたりあるく芙美子の放浪が形づくられる。
放浪者の覚悟、これいかに?

「生きるか死ぬか、とにかく旅へ出たいと思っております」(P116)

「薬屋をみつけては、小さいカルモチン(睡眠薬)の箱を一ツずつ買う。
死ねないのならば、それでもいいし、
少し長く眠れるなんて、幸福な逃げ道ではないか、すべては直線に朗らかに」(P334)


死んだってかまわない。これが放浪者の精神である。
林芙美子と比較するのはおこがましいにもほどがあるのは知っている。
海外で強い安酒をがんがんのんでいると笑いながら言われたものである。
「あんた、死ぬよ」
死んでもいいのである。勇気があるわけではない。死が怖くないわけでもない。
しいていうならば投げやりなのだ。捨鉢なんだ。どうにでもなりやがれ。
人間をして放浪なさしめる奥深い倦怠である。
死を見すえてはじめて輝く生もある。
「放浪記」は食べ物の描写がとても生き生きしている。
生きているとは食べることだと言わんばかりである。
この時代の若い女性にはめずらしく芙美子は酒を好む。
酒の味を知っている。酔いを知っている。死を知っているということだ。
「放浪記」を読みながら、どれだけつばきが出たことか。懐かしき日本の食物よ!
ビールをのむ。いくら薄い中国のビールでも酔いがまわる。
酔眼で「放浪記」を読む。こみあげてくるものがあるのだ。カッカカッカしてくる。
やろうやってやろうと思う。このやろうと思う。

突然、ひいきにしている劇作家、ユージン・オニールの名前が登場したので驚いた。

「オニイルは名もない水夫で、放浪ばかりして、
子供の時は手におえぬ悪童で、大きくなって、
ボナゼアリス行きの帆船に乗りこんで粗暴な冒険に満ちた生活をしたのだそうだ。
偉くなってしまえば、こんな身上話もああそうなのかと思う。
私も芝居を書いてみようかな。
きそう天外な芝居。それとも涙もなくなる奴。
オニイルだって、いつも悲愴な時ばかりではなかったであろう。
時には鼻唄まじりにいいごきげんな時もあったに違いない」(P388)


考えてみれば、ふしぎはない。ユージン・オニールも放浪者である。
林芙美子のような。山頭火のような。
いったん本を閉じる。いま列車は北京へ向かっている。
この旅は放浪なのだろうか。わたしも放浪者なのだろうか。
酔いと旅の昂揚で胸が熱くなる。
北京到着と「放浪記」読了はほぼおなじであった。
ビールはあれから3本追加購入した。
列車のなかでビールを12本、ワインを1本のんだことになる。
それから本を1冊である。
この陶酔は酒ゆえか「放浪記」にあてられたためか。
上気したひとりの日本人が中国の首都へ降り立った。
「人生の目的」(五木寛之/幻冬舎文庫)

→「敦煌料理店」で入手(交換)した書籍。
日本にいたらこんな本は著者、タイトル、出版社からして、
ぜったいに読まないのだが、中国ではとにかく日本語に飢えていた。
日本ではあれだけの分量を読んでいたものが、
まるっきり活字と縁のない生活を強いられたのだから、
このようなベストセラーをむさぼるように読んだことを告白しても笑わないでください。
敦煌から嘉峪関(かよくかん)へ行くバスのなかで読む。
恥ずかしいが、おもしろくてねえ。内容以前に日本語はやはりいいもんですよ。

いまこの記事は日本で書いている。
すると、どうしても感動しましたとは書けないわけだ。
癒されましただの、教えられましただのとは。
なんのことはないと突き放してしまう。
五木寛之なんかは表現者の典型だと思う。
若いころは努力絶対主義。がんばればなんでもできると考えている。
なぜかというと成功したから。
有名作家になったのを他力のおかげとありがたがる若者はいない。
といっても、かれが自力だとほこるのを否定するつもりはない。
作家と読者の関係は同年代、もしくは読者が少し年下というケースが多い。
若い読者だってがんばればなんでもできると信じたいわけである。
作家は読者の喜ぶことを書かねばなるまい。

この表現者が老年にさしかかるとどうだ。
読者もおなじく年を取っている。
いくらがんばってもどうにもならないことがあることを老年は知っている。
作家は読者を慰撫せんと他力の思想を説くようになる。
成功者たる作家がへりくだるのである。
大きなものに生かされているなどと悟ったような顔で言い始める。
人生に負けつづけた老年は、
五木先生はわかってらっしゃると濫造エッセイに少ないカネをつぎこむ。
五木寛之を詐欺師だのペテン師だのというのは間違えている。
ほんらい作家とはこのようなものなのである。ウソで読者をだますのが作家。
近年の五木寛之は実にいい仕事をしているとある面からは言うこともできよう。
いつ以来だろう。へたをすると5ヶ月ぶりの禁酒かも。
旅行中の3ヶ月半は1日も欠かさず酒をのんだ。
旅立つ前も不安から酒を手ばなすことができなかった。
帰国してから2週間。毎日のんでいる。
うん、やはり5ヶ月近くなると思う。
人生でこれほど長期間、酒をのみつづけたのは初めて。

酒が相棒、いな恋人であった。
一人旅だと夜することがないんだな。
だから話し相手を求めて日本人宿へ向かう旅行者もいるのかもしれない。
わたしがそうならなかったのはお酒のおかげ。
これでかなりの時間をつぶせる。
孤独感もまぎらわすことができる。
酔った眼で見る海外のなんと美しいことか。
楽しいったらありゃしなかった。
毎晩である。どの店に入ろうか迷う。えいやと入店。
ビールを注文。つまみはなにが出てくるかわからない。このスリル!
だんだん落ち着きまわりを見る余裕ができる。
現地のひとの酒ののみかたを観察する。
国(地域)ごとに違うのである。興味が尽きない。
今度は酔客をつまみに酒をあおる。
ビールにあきると地元民がのんでいる酒に手をだす。
アルコール度がわからない場合はどきどきである。
まずいと思う。
しかし真似をしてのんでいると悪くないと思えてくるのだからおかしなものだ。

酒の思い出ばかりである。
ロマンスなんてありはしなかった。
酒と縁があるのだろう。不満があるわけではない。満足している。これでよろしい。
さて、今晩はあえてわが恋人との腐れ縁を切ってみた。
酔ったいきおいで書いてしまおう。
万が一、有名になったらまっさきに消さねばならぬ記事である。
3ヶ月半海外をふらふらした。
といっても、体質的にだらだらするのは苦手。
ぼーっとすることができない。
なにかをしなければ時間をつぶせない。
かようなわけであちこち観光をした。
だがね、110日も物見遊山をするとさすがにあきる。
どの観光地もおなじもののように見えるのだ。
見たいものはもうない。アジア漫遊末期の感想である。
いな、ただひとつ見たいものをそのとき発見した。
わたしには海外で見たいものがある。
なにか――。戦争である。なまの戦争を見たい。
人間を殺しにいく兵士を見たい。あす死ぬかもしれない人間の全体を見たい。
生と死を見たい。運不運を見たい。偶然を必然を見たい。つまりは神を見たい。
3ヶ月半アジアをふらついた旅行者でも見たいものがある。戦争――。
思えば、アジアにおいて戦争の跡地はかならず観光地になっている。
ならば、その前段階を見たいというのは観光の本義とむすびついているのではないか。
戦争を見たい。透明人間になってなまの戦争を見たい。
ブログの更新が少ないのをふしぎに思われているかたもいるかもしれない。
日本の自宅にいるのならパソコンを使いほうだいだろうにと。
然(しか)り! だが、どうしてか更新する元気がないのだ。

テレビを見た。ニュースを笑った。新宿へ行った。神保町にもおもむいた。
なにがなんだかよくわからないのである。
よく状況がつかめない。
1回死んで生まれ変わった気分といったら、もちろん大げさである。
しかし、たとえば、まだ神保町の存在することがどうにも理不尽に思われるのだ。

ある建物が取り壊され空地になっていた。
近所のスーパーのレジが最新型に変わっていた。
けれども八百屋のおにいちゃんは前とおなじ。
帰国後にはじめて行ったときは声こそかけられなかったが、
「おっ!」という顔をされた。久しぶりじゃないかという顔。

大型書店の旅行コーナー。中国のところで立ち止まった。
ぱらぱら立ち読みをする。中国へ行ったことが信じられない。
タイ、カンボジア、ベトナム、中国と旅をした。
あたかも階段をのぼるようであった。
だんだんと困難さが増していくのである。
タイはゆるかった。カンボジアで少し緊張した。
ベトナムで旅人の自覚を得る。
中国は東南アジア諸国とはまったく異なる大国であった。
いちばんおもしろかったのは言うまでもなく中国。
ベトナム、カンボジア、タイと下がっていく。

たとえば「本の山」の(今年)1月分の記事を読む(旅に出たのは2月)。
シラーを重点的に読んでいたようである。
これを自分が書いたのか、と思う。
書いた本人が読むのを敬遠したくなるほど、濃密あるいは神経症的な感想文である。
つまり――、旅行前と帰国後がうまくつながらない。接続に支障をきたしている。

書きたいことはたくさんある。
例をあげると中国へ入国してから1ヶ月間のことはまったく記していない。
ぜひとも書きたいと思う。なのに、どうにもからだが(腕が?)動かぬ。
そうそう、書くことだけではない。
帰国してからまだ本を(あれだけ好きだったのに!)1冊も読んでいないのである。