引越にともないそれはそれはたくさんの本をブックオフへ捨てました。
えーい、もう書いちゃう。どこに捨てたかというとブックオフ早稲田駅前店。
べつに母校への愛校心とは関係ありませぬ~。
近場でいちばんお世話になったブックオフはどこかと考えたらここなのです。
まえに捨てたときとおなじ店員さんが雨の中、いらっしゃいました。本日です。
玄関のまえに積み上げられた本の山。
ブックオフさんは、まったくひるむことなく山を崩しにかかります。
驚くべき短時間で本の山をブックオフオリジナルコンテナに収納。
ちなみに今回は10コンテナでした。
参考までに前回の結果を。3コンテナで3580円でした↓

「ブックオフ買取金額」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-949.html

ふつうに考えたら単純に3倍。
3500×3=10500円です。
けれども、そこはブックオフ。安易に万札をださない。
すばらしき結果は以下です。

値段のついたのは536点。

(文庫)
20円×75 10円×185

(単行本)
50円×44 20円×62

(新書)
70円×1 20円×10 10円×6

(コミック=漫画)
40円×8 10円×181

(雑誌)
10円×1

合計で8890円でした!

気になるのは新書の70円ですね。
どの本が優秀なブックオフ店員さんのおめがねにかなったのでしょう。
「人は見た目が9割」か。「ウェブ進化論」か。「下流社会」か。
どれもブックオフにて105円で買ったものなのですけれども。
さて、8890円をどう見るか。ゴミを捨ててカネをもらえたのだからよしとするか。
安いと憤慨すべきなのか。むずかしいところですね。
当たり前のことを繰り返します。
ブックオフは本を売るところではない。本を105円で買うところ。
ときにはゴミを捨てるのに利用することもできる。
まあ、こんなところでしょう。
(以下は、たとえば2ちゃんねるプロレス板向けのマニアックな内容です)

そりゃあ、わたしも思うさ。
馬場と猪木に勝った天下の天龍源一郎が、
そのうち消えるお笑いの芸人に負けてやることはないだろう。
なら、いままで20年、応援してきたわたしの人生はなんだったんだよ。
天龍はSWS崩壊時に言った。
「だまされたと思っておれについてきてほしい」
あれから何年たつのだろう。
プロレス=天龍源一郎であった。
惚れた。男が男に、である。
今日は残念だった。
もちろん、わたしも思っていたよ。
まさかもう天龍がWAR以外でメインをはることはないだろうと。
だから今回はうれしかった。天龍がメイン。
けれどもあのブック(脚本)をのむのはいかがなものか。
最後もそう。いくらブックだからといって、
ヒクソンに手も足もでなかった高田ごときに殴られる大将を見せつけられるとは。
それでも天龍ファンであることにかわりはない。
天龍ファンだからこそ、あえて言ってみた。かなしいと。さみしいと。
さいたまスーパーアリーナへ、こともあろうかプロレスを見にいく。
プロレスなんてもう1年は見ていない。
メインは天龍源一郎とお笑いタレント、レイザーラモンHGとのシングルマッチ。
レイザーラモンHGって、どれくらいのかたが知っているのでしょう。
ぜんぜん芸能界の知識がないのですね。
アイドルの女の子なんて、だれがだれだが区別がつかない。みんなおなじ顔。
かくしてレイザーラモンHGもプロレス経由で知ったわけである。
しっかし、まあ、いくら天龍ファンとはいえ、素人と闘う(踊る?)のを見てもねえ。
直前まで行くか行かないか迷った。
胃が痛いこともある。なぜか胃が痛いのだ。胃ガンかな(笑)。
結局、なにが行かせたかといったら歴史だね。記憶と言い換えてもよい。
いままで天龍を見つづけてきた。その天龍も57歳。
いつ終わってもふしぎはない。ならば最後まで見守ろうという決意である。

池袋で埼京線へ乗り換え北与野駅へ。
ううう、まずい。ダフ屋が出ていない。
おっと、もしかしたらダフ屋を知らないひとがいるかもしれないので、ちょっと説明。
イベント当日にいらないチケットを安く買い叩き、ほしいひとへ高く売る。
おもにヤクザのちんぴらがやっている。
スマップなどなら高くも売れようが、プロレスの場合、たいがいは定価より安く買える。
わたしは高校生のころからプロレスチケットはダフ屋と決めていた。
しばらくして顔なじみになった。
だって、チケットなんて紙切れ。安いほうがいいでしょう。間違っていますか?
しかしここ数年は都条例の影響かダフ屋があまり出なくなった。
今日のハッスルもダフ屋が出るか気をもんだものだ。
はっきり言うと、正規料金を払ってまでプロレスなど見る気はない。

北与野駅からさいたまスーパーアリーナまでダフ屋はいなかった。
これはダメだな。帰ろうかと思う。
もしやと思い、もうひとつの最寄り駅、さいたま新都心駅方面へ歩くと。
いましたよ。なつかしいダフ屋くん。
むかしは年齢差があったけど、いまは同年齢くらいか。
「安くするよ」
「いくら?」
「6000円のチケットを4000円でいい」
「3000円にしてよ」
「いいよ」
これだけである。チケットは招待券。
ちょっと勘が鈍ったかなと思う。
むかしなら招待券であることを逆手にとって2000円まで負けさせていた。
さいたまスーパーアリーナに入るのは初めて。
横浜アリーナより、ちょい小さいかなが感想。
けっこうガラガラ。6割くらいしか入っていないので驚く。
元巨人軍のクロマティ(知らないですよね)や
グラビアアイドル(だよね?)のインリンが参戦(出演)するのにこんなものか。
まえのグループが指定座席をまえのほうに移動している(もちろんいけない行為)。
ならわたしも動くかとかなり前方へ移動。
たしかここは8000円の席だ。罪悪感はない。
ガラガラだからいいでしょう。
プロレス観戦暦は20年。客がこない座席などかんたんに読める。

さあ、ここからが問題。
まさかプロレスレポートをするわけにはいかない。
グレート・ムタがインリンさまの股間に毒霧を噴射してさ~。
こんなことを嬉々として書いたら、
いままで築き上げてきた「知的な Yonda?」のイメージが台無しである(笑)。
おそらくうちのブログを読んでくださるかたにプロレスファンはひとりもいない。
なら、どう説明すればいいか。
結論をいうと、不満だったわけである。
詳細をいまからわかりやすく書く。なんとかしてついてきてください。

ハッスルの特徴は、狂言師の和泉元彌を覚えていませんか?
ワイドショーでだいぶ取り上げられたでしょう。
「空中元彌チョップ」で現役プロレスラーに勝った狂言師(書いていて恥ずかしい)。
ハッスルというのは芸能界とプロレスのコラボレーションがコンセプト。
みずからを「ファイティング・オペラ」と称している。
どういうことか。演劇とプロレスの合体である。
いまでもほかのプロレス団体は、建前上は真剣勝負である。
けれどもハッスルは、そこを壊している。
たとえばメインイベントで勝者が決まると、すぐに次の演芸が始まる。
これはあらかじめ仕込んでおかなければできるものではない。
すなわち、ハッスルはプロレス界で初めて八百長をなかば公開した興行ということになる。
これはいいと思うのね。プロレスを演劇と考える基本方針は。
プロレス八百長論に対抗する強力な主張は実は演劇論にある。
たとえばシェイクスピアの「ハムレット」は死ぬことが定められている。
これを八百長と愚弄する観客はいないでしょう。
なら、どうしてプロレスが八百長として断罪されなければならないのか。
しかもプロレスは芝居とは異なり、関係者のごく一部しか結末を知らされていない。
八百長のプロレスを肉体演劇として楽しんでなにが悪いかという理屈である。

だがね、ハッスルとやらを見たのは今日が始めてである。
役者がなっていない。
むろんプロの演劇教育を受けていない筋肉バカばかりなのだから仕方がない。
けれども、せりふの棒読みがひどい。
鏡のまえで決めポーズの研究をしているひまがあったら発声練習をしろ!
怒鳴りつけてやりたくなる。演劇ファンならぜったいにあんな発声を許さないだろう。
けれども、プロレスファンはアホなんだ。
まあ、ハッスルでさえ真剣勝負とだまされるような知能の御仁が多いからやむをえぬのか。
プロレスラーのマイク(しどろもどろ)ひとつに大はしゃぎしている。
おっと、観客を非難するのはよくない。
問題はプロレスラーに演劇をさせることにある。
プロレスというのは、いちおうブック(脚本)はあるけれども、しばりがゆるいんだ。
リング上で、とっさに打ち合わせていた内容を変えてもいい。
これがプロレスのおもしろさなわけである。
大義名分としては、プロレスラーはバカが多いということがある。
バカだからせりふを覚えられない。ということを隠れ蓑にしてアバウトがまかり通る。
それがプロレスの魅力になったわけだ。
しかしハッスルのように演劇性を強めてしまうと、なんとも味気ない。
感情のこもらないせりふの棒読みばかりなのである。
我われがかりにプロレスにひかれるところがあるとすれば、
ウソだらけのなかにいささかでもホントがあるからである。
なまの、本気の、切実な感情。
プロレスにあるものである。これは演劇にもある。
しかしプロレスと演劇のコラボレーション、ハッスルには人間の真剣な感情がない――。

なにもミスタープロレス天龍源一郎が、
素人のお笑い芸人、レイザーラモンHGに負けたことに文句を言っているわけではない。
これからの伏線として、そういうブックを書いた裏方がいるのでしょう。
これはこれでいいと思う。天龍もそういう契約にサインをしているのだから。
しかし勝敗が決したあとのアトラクション(高田総統劇場)がよくなかった。
演劇教育を受けていないレスラーや芸人がせりふを棒読みする。
そこにはどこにも熱い発言はなかった。
覚えたせりふ(と動き)を忘れまいとする努力しか見て取れなかった。
これではプロレスではない。
いくら天龍源一郎が参戦(出演)しても二度とハッスルには行くまいと思った。

(注)今回はプロレスへの不満ばかりになったが演劇への不満もある。
どうしてプロレスのようなハチャメチャがないのだろう。
役者もそこいらのコンビニでバイトをしているようなあんちゃんばかり。
身体表現では、たいがいの俳優がプロレスラーにかなわない。
演劇とプロレス、どちらにも不満があるのである。
プロレスのことだけは書くまいと思ってたんだよな。
唯一の趣味だから、隠しておきたかった。
といっても、プヲタ(プロレスオタク)じゃ、あーりませんぜ。
もうそこまで熱くない。関心のあるのは天龍源一郎のみ。
だけど、まあ、プロレスは笑えるんだ。
こんな笑えるものはほかにないと思うぞ。
いい年をしたおっさんが、マジ顔で「つぶす」だの「ぶっ殺す」だの。
へんな覆面をつけて「おれは正義の味方だ」なんて叫んだり。
なまで試合を見ると、ちょー笑えるわけよん。
技のかけまちがえでできたおかしな間とか。
ミスってガチ(=本気の)キックが入って、失神するレスラー。
あわててかれの目を覚まそうと痛くないストンピングを入れる対戦相手。
故意ではないことを示すために直後に相手の見せ場を作ってあげたり。
ふだんはぺこぺこしている社長に平のレスラーが張り手をできる世界ですから。
平社員が社長にうっかり日ごろの恨みをだしてしまったりするのもプロレス。

ちょっとマジメになろう。ちょっとだけよん。
プロレスはウソとホントの関係を考えるうえで非常に都合がよい。
ちょびっと高尚な言いかたをすると、フィクションとノンフィクションの関係。
もっと固く茹でると事実の虚構の相補関係。
いまさらだけど、プロレスというのは八百長なわけ。
最初からどちらが勝つか負けるか決めてある。
本気で闘っているわけじゃーない。
とすると、おかしいと思わない?
プロレスラーは、大きな試合のまえになるとコメントをだす。
ボキャブラリーにとぼしいレスラーは「勝つのはおれだ。ぶっ殺してやる」くらい。
口のうまいレスラーになると、なかなかおもしろいことを言う。
やつの弱点は見切った。おれが負けるはずがない。
プロレスには敗者髪切りマッチというものがある。
負けたほうが勝者に髪を切られてしまう。むかしは女子プロレスで流行っていた。
これなんかは勝敗を予想しにくくさせているのね。
けれども、そう、これも八百長。
だから、最初から負けるとわかっている(=坊主になると知っている)のに、
あたかも知らないかのごとく必勝を宣言しなくてはならない。
いざ負けたらあたかも実力不足で負けたかのように本気で悔しがらなければならない。
で、プロレスを見ていると、レスラーはみんなこれを迫真でやるんだ。
ちくしょー、あそこであれを出していたら勝っていた、みたいなことを真剣に言う。
んなわけないわけね現実は。負けろと最初から会社に言われているんだから。
だのに、勝つぞと絶叫し、負けたら涙ながらに悔やむ。

プロレスのウソとホント。ちょっとマニアックなことを書く。
たとえば、こういうケースがある。
Aというレスラーがいる。リアルにケンカが強いわけだ。
けれども、哀しいかな。ルックスがダメ。ファンに受ける顔じゃない。
だから、会社からプッシュしてもらえない。
もうひとりBというレスラーがいる。ケンカはちょー弱い。
そこいらのヤンキーにも勝てないくらい。ところが、ルックスがいい。
ファンが多い。会社もBをスターにすれば客が入ると計算する。
さて、AとBが闘うことになった。
もちろん会社はBを売り出したいからAが負けるブック(脚本)を作る。
Aは、ちくしょーと思うが、会社から給料をもらっているサラリーマン。
会社の命令に逆らうわけにはいかない。Aは負けるしかないのである。
試合まえのインタビューでAはこんなことを言う。
「Bなんて顔だけだ。会社からプッシュされているだけ。片手で5秒で倒せる」
このコメントは、ウソかホントか微妙になってくるわけね。
ウソともホントとも取れる。
で、実際の試合はどうなるか。
Bはこういうプロレスをすることができる。
Aになにもさせない。徹底的にいたぶる。最後だけ、あっさり勝たしてやる。
こうするとプロレスを知っているものはわかるんだ。
ああ、Aはリアルでは強いんだ。かわいそうになと。
けれども、あまりこれを露骨にやると会社から目をつけられてしまう。
ほどほどはBの見せ場も作ってやろうと、常識的な社会人なら考える。
それでも試合の途中にガチで関節技を決めてニヤニヤしたりはするかもしれない。

AとBが親友だったとする。
ふつうなら、このふたりが敵味方にわかれたら闘いにくいと想像する。
違うんだな。反対。このふたりは名勝負を作ることができる。
信頼関係があると、殴っても殴られても安心感がある。
逆に仲が悪いと疑心暗鬼になる。なにか仕掛けてくるのではないか。
恐怖感からプロレスらしいムーブを取れなくなる。
ぎこちない試合になってしまう。ところが、これにも例外がある。
むしろ仲の悪いもの同士を闘わせたほうがいいと考える背広組もいる。
むかしの女子プロレスはそうだったみたいだね。
女は、ほら、あれでしょう。嫉妬やらなにやらがぐじゅぐじゅしている。
いまは使用不可かもしれないけれども「女の腐ったような」という言葉がある。
まあ、男よりも陰険で陰湿なのが女の世界。
むかしの女子プロレスは集団行動が当たり前だったから、
移動バスのなかでの反目やいじめがものすごい。
で、不仲のもの同士をぶつけると女子は本気でやりあってしまう。
もちろん最低限のルールは守ったうえではあるけれども。
そういうガチンコの感情というのは、かならず観客にも伝わる。
観客もヒートアップする。プロレスがおもしろくなる。客が入る。カネがもうかる。

観客に話をうつす。
プロレスというのは、みんなでウソを作りあげる娯楽なんだな。
レスラーのAもBも、ケンカをしているわけではない。
ふたりでひとつのものを作っているわけだ。プロレスを作っている。
というのも、プロレスの技なんてふたりで協力しないとかからないからね。
観客はABどちらか思い入れのあるほうを応援する。
がんばれ。たおせ。きめろ。はれ。けれ、けるんだよ。やっちまえ。
あたかも観客同士が実社会ではできないケンカをしているかのようである。
おれはモテないから、などと、地味なレスラーに肩入れするファンもいるだろう。
AもBも本気でやりあっているわけではない(最初から勝敗は決まっている)ことを
うすうす知りながら、あえてAなりBなりを熱狂的に応援するのがプロレスファンだ。
ウソと知りながら、そのウソを守るのがプロレスファン。
そのくせホントも知りたい。ウソのなかにホントが混じってないか注視する。
試合が熱くなってきたら、もしかしたらこれはガチンコ(真剣勝負)では?
などと期待を寄せる。でもまあ、ガチかどうかはやっている本人たちしかわからない。
ガチという観念があるから、ウソが成り立っているのもまた事実。
ガチでないかと疑う想像力が、ウソをも輝かす仕組みになっている。
とはいえ有名なプロレスラー、アントニオ猪木も、
現役生活で数試合しかガチをやっていないという話だが。

プロレスをどう見るべきか。どう見てもいい。ならどう見たら楽しいか。
これには解答があって、プロレスは真剣勝負だと思って見たほうが断然楽しい。
あえてウソにだまされたほうが楽しいのである。
ホントはたわいもない。
まともな社会生活を送れない肉片ふたつが汗みどろでくんずほぐれつしているだけ。
けれども、ウソのフィルターを通して見ると、熱血勝負になるのである。
ときには病床の子どもに勇気を与える。
人生にろくなことがなかったダメリーマンに明日の活力を与える。
むろん勇気だの希望だのはウソっぱち。1週間も持たない微弱な栄養剤である。
けれども、プロレスのような最下級のウソに慰められる人間がいる。
この人間を否定してはいけないと思うのね。
哲学書を愛読して嘲笑が顔にはりついている学者先生などより、
プロレスごときで熱狂して、
よしがんばるぞとその場限りの決意をするダメ人間をわたしは好む。

ウソとホントに話を戻す。
ウソのほうがよほどすばらしいと思うんだ。
いまはテレビで格闘技が放送されているでしょう。
K1とかプライド。総合格闘技などと呼ばれているものもある。
あんなもの、どこがおもしろいと思うのね。
見せ場もなにもない。へたをすると開始1分で勝負が決まってしまう。
負けたほうはいいところをまったく見せられないということもある。
強いほうが勝ち、弱いほうが負ける。だから、なに? と思う。
そんなものを見て、なにが楽しいわけ。
弱肉強食なら一歩家を出れば、どこにでも見られるじゃない。
わざわざテレビでまで、そんな当たり前のものを見たくないね。
きみは言うかもしれない。ホントだからいいんだ。
いんちきなプロレスとは違って、かれらは本気でやっている。
さあ、どうだかねと薄笑いをしたくなる。
わが国の国技の相撲だって、実弾(現金)が飛び交う八百長世界のわけでしょう。
総合格闘技だって、果たして裏ではどうなっているのか。
先日もアメリカでやったのが放送されていたね。
なぜかアメリカでは、アメ公が韓国人や日本人に勝つ。ふしぎだね~(笑)。

ちょいと脱線したかな。
最後に言いたいのは、われらはみんなプロレスラーってことさ。
負けるとわかっていても、ぜったいに勝つと言いつづけなければならない。
たとえば高校生が運悪くガンになってしまった。
調べてみると末期。もう余命いくばくもない。
けれども、家族や友人は、長生きできると言うでしょう。
両親は、早く孫の顔が見たい、なんて笑いながら、病床の子どもに言うよね。
がんばって。早くよくならなきゃ。どんどん食べて。お医者さんの言うことをよく聞いて。
そうしたらかならず病気は治るから。ぜったい。ホントだって。
患者本人も、うすうすじぶんの病に気がついている。
けれども、がんばるという。この病気を克服して学校へ行きたいという。
ぜったいに負けないからねという。
ウソだよね。みんなでウソを作っている。ホントはもうすぐ死んでしまう。
末期ガンに勝てるはずがない。けれども、勝とうとする。勝てると思う。
これが人間だ。
この高校生に、あなたはガンだから、生きられてもあと1ヶ月です。
こんなバカなことをいう人間はいないでしょう。
負けるとわかっていても、勝とうとする。勝つことができると信じる。
みんながそう信じる。このときのことを言いたい。
このとき一瞬でもウソがホントになっていないかな。
少なくともホントよりもウソのほうが美しくないかな。ホントってそこまで偉いのかな。
「瞼の母・沓掛時次郎」(長谷川伸/ちくま文庫)絶版

→長谷川伸は大衆小説家。大衆演劇の脚本家としても知られている。
この文庫は戯曲集。収録作品は――。
「瞼の母」「沓掛時次郎」「関の弥太ッぺ」「一本刀土俵入」「雪の渡り鳥」「暗闇の丑松」。

先日、ある友人の家を訪れたときのことである。
昼間から強い酒をがんがんのんだ。酔ったいきおいで言いたいことを言うわけである。
かれの本棚を見ながら、こんな失礼なことを言ったと記憶している。
「ダメだね。てんでダメだ。なんだい、これは」
本棚は、いかにもな作家で埋められていた。
高尚っぽい純文学作品やら、こむつかしそうな横文字の映画評論やらである。
「ほんとうにこれだけか。これだけじゃ、ないでしょう。
人間がほんとうに苦しいとき、読むのはこういう本じゃない。
苦しくて、もうどうしようもなくて、なにかにすがりつきたい。
もうダメだ。瀬戸際に追い込まれる。そういうときに読む本が1冊もないじゃないか」
人間精神の寝室たる本棚をまえにして、ひどいことを言ったものである。
暴言をさらりと受け流してくれた友人には感謝している。
他人の本棚のまえに立ち、とんでもないことを言うわたしである。
「かっこつけすぎている。違うでしょう。人間は、こうじゃない。
かっこつけてばかりは生きていられない。
もっと恥ずかしい本があるはずだ。なければおかしい。この本棚はおかしい」
酔ったかれが差し出したのがこの本である。長谷川伸戯曲集――。

読みながら、あるプロレスラーを想起する。ミスタープロレス、天龍源一郎である。
義理と人情に生きる男のなかの男。
男が男に惚れるというのか。20年以上も天龍を見つづけている。
ここ20年の天龍の主要試合はおおかた、なまで観戦している。
横道にずれたが、長谷川伸の描く大衆演劇というのは、まあ、プロレスなんだな。
世の中にはいろいろなひとがいる。
インテリや学者先生ばかりで社会が成り立っているわけではない。
なかには低学歴、低収入、低知能という人間もいる。
というか、いなくては国家が成立しない。
みながみな公務員になるわけにはいかないのである。
源氏物語の作者も知らないような塗装工がいて、はじめて建物が完成する。
インテリがニーチェやなにかを生きる支えにするのとおなじように、
バカもバカなりに生きるよすがとなるものを必要としている。
酒のんでバカやって、カネがたまりゃ女を買って――。
こんな動物なみの生きかたをしている人間も生きるためにはなにかを必要とする。
それがプロレスだったりするのだ。
じゃあ、プロレスのなにがおもしろいのかと人間ドラマである。
といっても、知能の低い人間はせりふ劇にあたまの回転がついていかない。
だから、(言葉ではなく手で)殴りあうプロレスにひかれる。
人間が殴りあうのだからドラマが生まれる。むずかしいドラマではない。
日本人ならだれしも生活するうえで味わう情感である。
すなわち長谷川伸の大衆演劇がテーマとする義理、人情だ。
義理、人情を表現するためには、
陰画であるところの嫉妬、裏切り、悲恋がなければならぬ。

プロレスの会場へ行ったことがあるひとはいますか?
たとえば後楽園ホール。行きたいひとはメールをください。連れていってあげます。
一度は見ておいて損はない。ものすごいぞ。社会の最下層が集合したというのか。
教養という言葉からもっとも離れた空間である。
モテない、カネない、チエ(知恵)ないの、ないない尽くしの男が勢ぞろい。
なかにはリングサイドに陣取る小金持ちもいるのだが、どこから見てもカタギではない。
女連れもいるにはいるが、女のほうはオミズと相場が決まっている。
こんな野郎どもが見守るリングで繰り広げられるのは、裸踊りである。
血まみれになった半裸体の男たちが踊り狂う。
プロレスは結果の決まっている八百長だから闘いではない。まさしく裸踊りだ。
観客もたいはんは八百長と知りながら、レスラーのウソにつきあい絶叫する。
「張れ、折れ、殺せ」といった怒号が飛び交う。
はじめて後楽園ホールに行ったのは小学生のとき。もちろんひとりである。
あれから何度、後楽園ホールへ行ったか。
わたしはプロレス会場に育てられたといってもいいくらいである。

また脱線したな。長谷川伸の話をしなければならないのであった。
長谷川伸の相手にしている観客が、プロレスを見る層とおなじではないか。
こう話をつなげたかったのである。
無知な大衆は難解な思想はわからない。ならば劇作家はなにを提供するか。
かれは観客のあこがれを刺激する。つまり民衆のヒーローを描く。
かくありたいと観客に思わせる理想像を提示する。
客はいいなとほれぼれする。あんな男がいらあいいな。ああなりてえぜ。
生みの母をまぶたに描きながら流浪するバクチ打ち(「瞼の母」)。
殺した相手の女房子供を養いながら旅をするヤクザ(「沓掛時次郎」)。
腐れ縁のかたきと共闘する流れ者(「関の弥太ッぺ」)。
かつて恩を受けた女のために命を張る元相撲取り(「一本刀土俵入」)。
恋敵(こいがたき)の身代わりに処刑場に引かれてゆく極道(「雪の渡り鳥」)。
信頼していた先輩に裏切られ、愛妻を寝取られ売り飛ばされた人殺し(「暗闇の丑松」)。
登場するのは、「お前、男だ」(P108)とほめたたえたくなるような男ばかりである。
男は男として生まれるのではない。男をめざし男になろうとするのが男だ。
こんなクサイことを思わず口にだしてしまうくらい男臭い芝居なのである。

プロレスラー天龍源一郎が好きなのとおなじ理由で長谷川伸(の芝居)を好む。
天龍もおもしろい男なのである。かっこいいったらありゃしない。
中卒の天龍が、中央大卒のエリート、
ジャンボ鶴田に向かっていった姿勢にしびれないプロレスファンはいないだろう。
ジャイアント馬場を裏切り全日本プロレスを退団するが、
10年後、同団体の経営危機に際して舞い戻る男、天龍源一郎。
みずからも弟子の冬木弘道に裏切られ裁判沙汰になる。
けれどものちに和解し冬木がガンになったと知れば見舞いに行く。
死ぬ間際の病床で「天龍さんを(病院の)入り口まで送っていく」
と言いつづけた冬木との師弟愛。
葬儀で棺桶のなかの弟子の顔をなでる天龍。
ファイトスタイルはぜったいに相手の技をすかさない。
相手の技を受けきったうえで反撃していく。
プロレスラーは裸芸者と言われるけれども、あんなに感情表現のうまい役者を知らない。
たとえば怒りを天龍源一郎は全身で表現する。ほんと鳥肌が立つぜ。
橋本真也じゃないけれども、将来あんなオッサンになりたいとあこがれる。
きっぷがよくて、義理人情に厚い。酒をのんで、ときには羽目をはずす。
女子プロレスラーとも、レイザーラモンHGともプロレスをやってしまう。
昨年、7月にWAR最終興行があった。天龍ファンが全国から集合する。
だいの大人がもうみんなわんわん泣いているんだな。
そこにいるだれもが天龍に励まされて生きてきたわけだ。
こん畜生、なにくそ、と思いながら、ひよるもんかと意地を張り通す。
天龍の生きかたであり、天龍ファンの生きかたでもある。
以上、脈絡もなく、
プロレスなんていう恥ずかしい茶番に生きる勇気をもらう愚人の話をした。

つまりシェイクスピアじゃないんだな。
あんなものに生き死にを左右されるほどお上品じゃないってこったい。
国技の相撲でもない。いんちき臭いプロレスじゃなきゃダメ。
まえにリングサイド最前列でプロレスを見たことがある。
場外乱闘。目のまえで天龍がマンモス鈴木のあたまをビール瓶で殴るわけだ。
ぞくぞくしたね。すげえと思ったね。
こぎれいな劇場で、芸術家の俳優さんがお見せくださるシェイクスピア劇より、
よほどこちらのほうが性に合っている。
すかした演技を見せられるより、泥臭いしばきあいをあたしゃ見たいね。
そういう地点から生きているという自覚がある。
おれのね、生きている熱源というのはさ、
きたねえ血が泥沼のようにたまっているんだ。
ふふふ。こんなこっぱずかしいことを口頭で言えるわけもない。
明日、友人宅へ本を返しに行くことになっている。
長谷川伸? 悪くないんじゃないかな。いいと思うよ。
聞かれたら、こんなふうに答えるつもりである。
新宿ツタヤでDVDを借りて視聴。山田太一ドラマ。全14話。昭和51~54年。

むかしからテレビドラマとはありきたりな日常を描くもので、
それならばとあまりにもありきたりなことを言わせていただくと、
悩みのない人間なんてどこを探したっていないわけである。
だれもがあこがれる金持や有名人にも悩みはある。
とるにたらない凡庸な人間にも、そのひとだけの特別な悩みがある。
人間だれしも欲望をもつ。あーしたい、こーしたい。あれがほしい、これがほしい。
みなの欲望がかなうはずもない。
だれかがいい目を見る裏側で多くのひとが苦汁をなめなければならない。
いったんは欲望を充足したものも、翌日からは新たな欲望のとりこになる。
脱線するが、だから仏教では執着を捨てろというのである。
根本の欲望を捨ててしまえば、もう悩み苦しむことがなくなるという理屈だ。
けれども、テレビドラマの登場人物がどんどん出家してしまったらドラマにならない。
(出家先の寺院での闘争を描くことは可能かもしれないが)
出家できない我われとおなじようにテレビドラマのなかの俳優陣も悩み苦しむ。

仕事の最中に困っているひとを見かけたら仕事をなげうってでも助けるべきか。
父親は家出した娘を殴るべきか抱きしめるべきか。
むかし話の好きな老人の饒舌にどこまで耐えるべきか。
ほんとうにうたいたい歌をうたわせてもらえない人気歌手は引退すべきか。
親子ほど年の離れた若い娘から求愛された中年男はどうすべきか。
愛するものに死なれたものは、
酒びたりで死ぬのを待つのが誠実か、それとも心機一転やりなおすべきなのか。
会社のためだったら、ばれないとわかっていたら、
まして他人に迷惑をかけるものでなければ、そうと知りつつ法規を犯してもいいのか。
そもそも、じぶんのために他人へ迷惑をかけてもいいのか。
以上、「男たちの旅路」からいくつか苦悩を抜粋してみた。

哲学上の深刻な苦悶はどこにもない。
とるにたらない悩みだと哲学青年なら一笑にふすものばかりであろう。
しかし、だれもが卑賤ともいうべき悩みをかかえて生きているのも現実なのだ。
たとえば、引越会社の営業がいる。
むかむかする顧客におべっかをつかってようやく契約をとった。
ところが、電話一本でかんたんに契約をくつがえされてしまう。
それもたかだか2千円安いというだけで。こんな理不尽なことがあってたまるかと思う。
客を怒鳴りつけてやりたくなる。人間として、おかしかないか。
だが、じぶんは営業マン。こんなものだ。世の中、こんなもんじゃないか。
いちいちカッカしてもはじまらない。けれども、あの客だけは許せない。
ふざけるなと怒るか。こんなものだとあきらめるか。
(以上は先日、加害者の立場で経験したこと。営業さん、ごめんなさい……)

実のところ、どの問いにも答えはないのである。絶対的に正しい答えはない。
この地点から山田太一はドラマを書き始める。
答えがわからないからドラマを書く。
あるいは、絶対的に正しい答えがないことをわかっているからドラマを書く。
風呂あがりでくつろいでいる視聴者に、あなたならどうしますかと問いかける。
ときにはヤクザのように切っ先を突きつける。おい、あんたならどうするんだい?
「男たちの旅路」はとくに反響があったようである。
テレビ局へ視聴者からの手紙が集中したという。
テレビが熱かった時代の話である。山田太一ドラマならではともいえよう。
何度か山田太一の講演会へ行ったことがあるが、氏はとにかく断言をさける。
持ってまわった言いかたをする。条件をつけながら、話をすすめていく。
もしこうであるならばこうだが、べつの場合はそうとも言えないわけで……。
安っぽい教訓など口が裂けても言わないぞという意気込みを感じたものである。
人生に答えなどないことを知り尽くしたドラマ作家という印象を受けた。
言いかたをかえれば、答えがないからドラマを書くのである。
答えがわかっているのなら評論にでも書いたらいいのだ。
売れた芸能人が好んで出版するような人生論エッセイにしてもいい。

ふたつにひとつを描くのが、ドラマなのである。
山田太一の好む二者択一に、たとえばつぎのようなものがある。
世慣れた世間知と、青臭い正論の対立である。
「世の中なんてこんなもんだ」と、「そんな安っぽいことを言うなよ」の葛藤。
ときとして山田ドラマが「野暮ったい」「クサイ」と批難されるゆえんである。
極端なことを言うと、山田ドラマは赤信号をわたるなと注意する老人をイメージさせる。
それも車の往来がない道路の横断歩道で、むやみに口うるさい老人である。
山田ドラマの特徴は、赤信号をわたる若者の描きかたにある。
この若者は老人を無視しない。
「すみません」などとへらへら笑いながら逃げたりはしない。
お茶を濁したりはしないのだ。うるさいと怒鳴りかえす。横断歩道を引きかえす。
どうして車の通っていない横断歩道をわたってはいけないのかと逆に問いつめる。
そう、ここからドラマがスタートするのである。
あなたなら赤信号をわたりますか?

ドラマ「影の領域」から(「男たちの旅路」第4部第2話)。
新入社員がいる。上司の不正を発見する。上司からは言いくるめられる。
世の中、こんなもんだ。みんなやっていることじゃないか。
私腹を肥やしているわけでもない。すべては会社のためなんだ。
業者からも嘆願、いや、哀願される。

「商売ってものは、そういうもんですよ。
向うが汚い手をつかってくるなら、こっちも、それ相応の手を考えなきゃ、
つぶされちまうんです」(P176)


上司は部下の新入社員を懐柔しようとする。

「(君は)世の中知ってる、と踏んだんだ。
バレても、君なら、分ってくれるだろうと思った」(P178)


新入社員はじぶんも大人になろうと思う。
けれども、どうしても納得がいかない。
社長のもとへ進言しに行く。社長はすでに知っているという。
ほめられると思ったら逆に叱り飛ばされる。
忘れろと大声で怒鳴られる。いい子ぶるんじゃないと突き放される。
新入社員はがっかりする。世の中、こんなもんか。
そこに現われるのが「男たちの旅路」のヒーロー、鶴田浩二である。

「こういうことを、うやむやにしてはいけない。
大人だかなんだか知らないが、世の中分ったような顔をして、
こういうことを許しちゃいかん。(……)
汚いことは汚いことだ。悪事は悪事だ。
それを曖昧にして、結局はうまく立ち回った奴が勝ちというようなことが多すぎる。
悪い事だ、と、言いにいった君が、世間知らずのようになってしまう。
そんなことで、いい筈がない」
「でも――」
「でも、なんだ?」
「裏表っていうのは、やっぱりあるんじゃないんですか?
悪いから悪いって、なんでもかんでも、
あばけばいいってもんじゃないんじゃないですか?」
「そんなことで、どうする?
お前が一生かかって、あばいたって、まだ裏はあるんだ。
はじめから、世の中こんなもんだ、と決めてどうするんだ?」
「そりゃあ、そうだけど――
悪いことをした奴にも、無理もないところや、
人情として許せるっていうところとか、そういうところがあると思うんだよね」
「悪いことを憎めない人間に、そんなことを言う資格はない」
「現実には、そうするしかないっていうことだってあるんじゃないですか」
「だから、なにもかも曖昧にして許せと言うのか?
ギリギリのところでなければ、そんなことを言ってはいけない」
「じゃ、どうするんですか?」(P186)


しかしだ。山田太一はこのレベルでとどまる作家ではない。
むろん、ここまででも最上級のドラマ作家であることは疑いえぬ事実である。
だが、山田太一はさらに深い人間のドラマを描こうとする。
ふたつにひとつを書くだけのドラマ作家ではないのである。
赤信号をわたるか、わたらないかだけの作家ではないということだ。
世の中は、ふたつにひとつでまとめられるほどかんたんなものではない。
青信号をわたっていた少年が居眠り運転のトラックにひき殺されてしまうこともある。
トラックのドライバーは、それまで無事故無違反の運転手だった。
ところが息子が重病になる。手術にはカネがいる。
無理な仕事も引き受けなければならない。疲労がたまる。ようやく仕事が終わった。
会社へ戻って、さあ病院へ行こうかというときの事故だった。
ついうっかり気がゆるんでしまったのである。この事故でだれが責められるのか。
ふたつにひとつなどと図式にしようとしても、どだい無理なのである。
どうしようもないわけだ。世の中には、どうしようもないことがある。
打つ手立てがないこともあるのである。
ふたつにひとつの、ふたつという選択肢でさえないこともあるということだ。
このとき人間のなしうるのは泣くことだけである。

最後に「男たちの旅路」で、もっとも有名なシーンを紹介する。
第4部第3話。「車輪の一歩」。
川島敏夫(斉藤洋介)は車椅子の青年。座敷で寝るところである。
その横で枕カバーを替えている母親。
父親は茶の間でテレビを見ながら酒をのんでいる。

川島の声「いま考えると、よくあんな事頼めたもんだと思うけど、
その時はすごくせっぱつまった気持だったし、俺は稼ぎやたら少なかったし、
親父は、厄介者の俺が嫌いで口きかなかったし、
お袋に頼むしかなかったんですよね」

川島「(目をつむっていて)お母ちゃん」
母親「うん?」
川島「俺、一遍でいいから、トルコへ行ってみたいんだ」
母親「トルコって、外国の、あの」
川島「そんな所へ行きたがるわけないじゃないか」
母親「じゃ、あの、なにかい?」
川島「きまってるだろ」
母親「――(見ている。テレビの音、止る)」
川島「俺、女にもてないだろ。嫁さん来ると思う?
一遍だけでいいから、ああいう所でもいいから、女の人と、つき合ってみたいんだよ」
母親「――」
川島「一生、女なんか、縁ないかもしれんもんな」
父親「――(後姿で黙っている)」
母親「――」
川島「(目を閉じている)どうなの? 黙ってるんだね。
俺だって、金がありゃあ、お母ちゃんに、こんな事、頼みやしないよ」
母親「行っといで(とせきこむように言い)いいよ。行っといで。
いくら、ぐらい、あったらいいんだい?」
父親「三万か四万やっとけ」
母親「え?」
川島「(目をあける)」
父親「(後姿で)三万か四万やっとけ。
いいか。ケチるじゃねえぞ。チップははずむんだぞ」
母親「だけど、そんなお金」
父親「バカヤロウ。その位の金、俺が、どうにだってすらあ」
川島「(天井を見ている)」
母親「目を落し、うなずく)」
父親「――どうにだって、すらあ(と小さく言う)」

●トルコ街(夜)

川島、車椅子で行く。
川島の声「翌日の晩、お袋が下から上まで新しいものを着せてくれて、
金は四万五千円も持って、出掛けたんだけどね、車椅子は駄目だって言うんだよ。
何処へ行ってもころんだりして、事故があったとき、責任持てないって断わられて、
結局、ウロウロしただけで、十一時すぎにね、家へ帰って来たんだけど、
断わられたなんて、言いたくなくてね」

●川島家・玄関

川島「(ガラッとあけ)ただいまッ!(と明るく)ハハハ、ハハハハハハ」
母親「お帰り(助けてあげようとして)
やだよ、この子は、ゲラゲラ笑って(と土間へおりる)」
川島「そりゃあそうだよ、やっぱりさ、おかげさまでさ。
ハハハ、フフフ(顔が歪み)行ってよかったよ。よかった(と泣き出してしまう)」
母親「敏夫――」
父親「(現われ)どうした?」
川島「(ワーワー泣いている」(P227)


人間にはどうしようもないことがある。
選択肢もなく、ただひとつのみ、いやがおうにも、
受け入れなければならない現実というものがあるのだ。
なしうることはない。なにもできないのである。選択肢がない。
じっとこらえるしかない。許されるのは、せめて泣くことくらい。
繰り返すが、人間のちからではどうにもしようがないことが世の中にはある。
このとき人間はなみだを流す。
さて、このなみだをどうとらえるか。
なにか大きなものに泣かされていると見るか、意識的に泣いていると考えるか。
宿命か自由かの問題である。

(注)「車輪の一歩」は障害者問題を考えるうえで優良な
教育的ドラマという位置づけにあるようだ。
大きな間違えである。このドラマの斬新さをまったく理解していない。
このドラマの凄みは障害者の悪意を描いたことにある。
ネットで検索したが、だれもこの部分に触れていなかったのは残念。
ドラマ冒頭、車椅子の障害者たちが健常者へ復讐しようとする。
かれら障害者の鬱屈した表情がたまらない。のちに車椅子のひとりが述懐する。

「ぼくらは、この人たち(健常者)にとりついて
めちゃくちゃにしてやろうと思ったんです」(P210)


どうして現代のテレビに登場する障害者はみんな明るく健康的なのだろう。
乙武先生しかり。「愛は地球を救う」の障害者軍団もそう。

*引用は「男たちの旅路2 山田太一作品集4」(大和書房)によります。
「人生論ノート」(三木清/新潮文庫)

→これまた「敦煌料理店」で入手(強奪かも)した書籍。
断わっておくが盗んだわけではない。そういうことをやる人間ではない。
「敦煌料理店」はいろいろな思い出があるのでいずれ詳しく書きます。
まあ、バックパッカーのたまり場に「人生論ノート」は不似合いでしょう。
これはどこかで山田太一氏が言及していたのでいつか読もうと思っていた。
まさか中国で読むことになるとは。
かんたんな説明をすれば戦前の代表的哲学者の一般向けエッセイといったところか。
長春から大連へ向かうバスのなかで読む。

内容を理解したわけではない。おそらく2割もわかっていないと思う。
かといっておのが無能を恥じる気もない。もう高校生ではないのだから。
わからないものは、正直にわからないと書く。
わかったふりもしない。
わかった範囲で著者と会話するのがおとなの読者のつとめである。
なにゆえこの書物(=哲学)をわたしが理解できないのか、
この本に明示されているようにも思える。
著者の三木清はとにかく感傷を毛嫌いする。
いわく、感傷は精神の停滞だ。
人間は感傷によってしんじつものをみることができなくなる。
感傷によって思考は停止する。真の感動へ通じている道をとざすのが感傷だ。

いままで哲学の反意語は怠惰だと思っていた。
哲学書をひもといて思うのは、よくもまあという感嘆(苦笑)である。
よくもまあ、どうでもいいことを綿密に思考するもんだ。
こちとらナマケモノだから、存在がどうのとめんどうなことはやれませんね。
かような考えで、哲学の反対は怠惰であると。
わたしは勤勉ではないから哲学がわからない――。
だが、どうやら哲学の反意語は感傷のようである。
感傷家だから哲学がわからないのである。
感傷の入り込むすきがないから哲学が退屈で仕方がない。

感傷と言われても、よくわからんよな。
ならこう言い換えよう。感傷は日本。哲学は西洋。
哲学なんざ、西欧からの舶来品。
日本の哲学者がえらそうな顔をしているのも虎の威があるためで。
まあ、哲学好きなんてものは、わたしから言わせりゃ、
ブランド物を買いあさるおバカな俗人さ。
日本人は欧米のブランド品をありがたがるけれども、
西洋人は日本を相手にしないでしょう。
かれらが日本のお土産として買うのは富士山と芸者が一緒になったような置物が主流。
どういうことか。欧米人は日本を理解できないのである。感傷がわからない。
日本人はわからない哲学を理解しようと勉強するけれども、
あちらさんはわからないものは劣等だからと決めつける。
じゃあ、毛唐さんのわからない日本の感傷とはなにか。
きのう大衆演劇作家、長谷川伸の戯曲を読んでいて、ようやく思い当たる。

日本の感傷とはホロリである。

日本人ならホロリとすることがあるでしょう。
あれが感傷だ。毛唐どもには決して理解できない哀歓である。
三木清は感傷がダメだという。ホロリを排除せよという。
かなしいじゃないか。なんでも理詰めで、真贋美醜の二者択一かい?
そんなもんじゃないだろう。ホロリとしてなにが悪いもんか。
たしかにホロリではなにも解決しない。進歩も成長もないかもしれない。
だがね、おい、人間てえのは、理屈だけじゃないでしょう。
理屈を言うなと泣き叫びたくなることはありませんか。

三木清を非難してばかりいても詮無い。
日本人は、まあまあを好む。まあまあ、すみませんの感覚。
三木清の言説で感銘を受けたところを紹介する。
いわく、成功と幸福は異なる。
ところが、いつの間にか成功と幸福が同一視されるようになってしまった。
成功したものが幸福で、失敗したものが不幸だとみながみな信じている。
これに哲学者・三木清は異議を唱える。
ほんらい成功と幸福とは無縁なるもの。哲学者の主張である。
言い換えると、人間は失敗してもなお幸福たりえる。
成功しても不幸な人間はいる。
そもそも成功、失敗は人間の行為の結果である。
人間の意思のあずかりしらぬところで成功、失敗が決められる。
そんなものに人間の幸福、不幸が左右されるのはおかしいではないか。
いつから成功が幸福と同義になってしまったのか。
なにゆえ失敗したものはおのが不幸を嘆かねばならぬか。
さすがにこのくらいならわたしにもわかる理屈である。
なるほどと思う。たしかにそうである。
わたしの人生は失敗の連続である。少なくとも成功はしていない。
だが、こんかいのアジア漫遊の途次、なんとも形容できぬ幸福を幾度も味わった。
なるほど幸福と成功をイコールで結びつけるのは間違えている。
だが、とも思う。
三木清の論説をここまで素直に受け入れられるのは中国にいるからではないか。
もし日本に帰ったら――。
日本ではマスコミから井戸端会議にいたるまで「成功=幸福」が疑われていない。
これに疑問符をつけたら負け犬とあざ笑われかねぬ。
なぜかというと日本人は、みなが平等であるという幻想を強く持っている。
人間みな平等ならば成功者は自己の努力の結果。失敗は怠惰ゆえの必然。
格差社会。キャリアアップ。勝ち組。対人スキル。下流。セレブ。
忘れていた日本語が嵐のように襲い掛かる。
バスは日本の嵐をものともせず、めずらしく定刻どおりに大連へ着こうとしている。
「放浪記」(林芙美子/新潮文庫)

→これまた「敦煌料理店」で入手(交換?)した書籍。
しかしまさかこのような古典的名作が中国で手に入るとは。
日本でもいつか読もうと思っていた本である。
ひんしゅくを買うかもしれないが、いわゆるバックパッカーの知能は極めて低い。
(もちろんわたしもふくめてだ~よ♪)
したがって日本人宿、日本人食堂に置いてある書籍もたかが知れたもの。
旅行記やミステリーがいいとこ。
ところが古典文学作品「放浪記」である。
これだけの厚さの書物があれば、そうとうの時間はつぶせる。
嘉峪関から北京まで32時間の汽車旅が不安だったが、
なんとかなりそうだとうれしくなる。
実際、この列車での旅はとても楽しいものとなった。

車内で買うと高くつくのでビールを持ち込む。
さあ、何本購入したか。9本である。ビール大瓶を9本。それからワインを1本。
ビールは9本ごとにビニールでパックされており、本数のわりには持ちやすい。
まあ、想像してみてください。このわたしがだ。
えっちらほいさとビール9本を寝台へ置く。
なにもんだこいつは? 中国人の視線が集中しました。
32時間の旅も、酒と本があればなんの心配もいりません。
昼からビールをのむ。懐かしい日本の本を開く。しかも名作である。
読むのがもったいなくなる。窓外の風景を見やる。中国である。
また日本の世界へ戻る。弁当を売りに来たら買う。
15元(225円)と相場より高いので買う中国人は少ないが、
中国の駅弁はどの列車で食べてもなかなかのものである。
少しずつ弁当をつまみながらビールをのむ。いくらのんだってかまわない。
ビールは9本もあるのだから。
口は中華。目は「放浪記」。こんなわたしはいま中国を放浪している。

放浪――。
林芙美子は日本の大正時代を放浪する。貧窮した最底辺の生活である。
それでも二十歳そこそこの林芙美子は詩人をめざす。
すなわち現状に満足しない。これではいけないと思う。
かくありたいと欲望する。だが、すべからく欲望は壁に衝突する。
このときの選択である。壁に屈するか。壁を打ち破らんとするか。
林芙美子は後者を選択する。楽な生きかたではない。
他人のみならず自分をも傷つけなければならない。傷は痛い。苦しい。
だのに、なにゆえ林芙美子は放浪をやめないのか。
現実を日常を嫌悪しているからである。求めているのは、詩だ。ほんとうの詩だ。
どこにしんじつの詩があるのかはわからない。
わかっているのは、ここではないということ。
なら、どこかへ行くしかないではないか。
ここにないならば、とにかくここを離れなければならない。
林芙美子の放浪という生きかたである。
その過程で自己にも他者にも深手を負わせる。
血が流れる。まるで芙美子は血を欲しているかのようだ。
あたかも血の赤さのなかにしか詩はないとでも言うかのように。
こうして職場と男をわたりあるく芙美子の放浪が形づくられる。
放浪者の覚悟、これいかに?

「生きるか死ぬか、とにかく旅へ出たいと思っております」(P116)

「薬屋をみつけては、小さいカルモチン(睡眠薬)の箱を一ツずつ買う。
死ねないのならば、それでもいいし、
少し長く眠れるなんて、幸福な逃げ道ではないか、すべては直線に朗らかに」(P334)


死んだってかまわない。これが放浪者の精神である。
林芙美子と比較するのはおこがましいにもほどがあるのは知っている。
海外で強い安酒をがんがんのんでいると笑いながら言われたものである。
「あんた、死ぬよ」
死んでもいいのである。勇気があるわけではない。死が怖くないわけでもない。
しいていうならば投げやりなのだ。捨鉢なんだ。どうにでもなりやがれ。
人間をして放浪なさしめる奥深い倦怠である。
死を見すえてはじめて輝く生もある。
「放浪記」は食べ物の描写がとても生き生きしている。
生きているとは食べることだと言わんばかりである。
この時代の若い女性にはめずらしく芙美子は酒を好む。
酒の味を知っている。酔いを知っている。死を知っているということだ。
「放浪記」を読みながら、どれだけつばきが出たことか。懐かしき日本の食物よ!
ビールをのむ。いくら薄い中国のビールでも酔いがまわる。
酔眼で「放浪記」を読む。こみあげてくるものがあるのだ。カッカカッカしてくる。
やろうやってやろうと思う。このやろうと思う。

突然、ひいきにしている劇作家、ユージン・オニールの名前が登場したので驚いた。

「オニイルは名もない水夫で、放浪ばかりして、
子供の時は手におえぬ悪童で、大きくなって、
ボナゼアリス行きの帆船に乗りこんで粗暴な冒険に満ちた生活をしたのだそうだ。
偉くなってしまえば、こんな身上話もああそうなのかと思う。
私も芝居を書いてみようかな。
きそう天外な芝居。それとも涙もなくなる奴。
オニイルだって、いつも悲愴な時ばかりではなかったであろう。
時には鼻唄まじりにいいごきげんな時もあったに違いない」(P388)


考えてみれば、ふしぎはない。ユージン・オニールも放浪者である。
林芙美子のような。山頭火のような。
いったん本を閉じる。いま列車は北京へ向かっている。
この旅は放浪なのだろうか。わたしも放浪者なのだろうか。
酔いと旅の昂揚で胸が熱くなる。
北京到着と「放浪記」読了はほぼおなじであった。
ビールはあれから3本追加購入した。
列車のなかでビールを12本、ワインを1本のんだことになる。
それから本を1冊である。
この陶酔は酒ゆえか「放浪記」にあてられたためか。
上気したひとりの日本人が中国の首都へ降り立った。
「人生の目的」(五木寛之/幻冬舎文庫)

→「敦煌料理店」で入手(交換)した書籍。
日本にいたらこんな本は著者、タイトル、出版社からして、
ぜったいに読まないのだが、中国ではとにかく日本語に飢えていた。
日本ではあれだけの分量を読んでいたものが、
まるっきり活字と縁のない生活を強いられたのだから、
このようなベストセラーをむさぼるように読んだことを告白しても笑わないでください。
敦煌から嘉峪関(かよくかん)へ行くバスのなかで読む。
恥ずかしいが、おもしろくてねえ。内容以前に日本語はやはりいいもんですよ。

いまこの記事は日本で書いている。
すると、どうしても感動しましたとは書けないわけだ。
癒されましただの、教えられましただのとは。
なんのことはないと突き放してしまう。
五木寛之なんかは表現者の典型だと思う。
若いころは努力絶対主義。がんばればなんでもできると考えている。
なぜかというと成功したから。
有名作家になったのを他力のおかげとありがたがる若者はいない。
といっても、かれが自力だとほこるのを否定するつもりはない。
作家と読者の関係は同年代、もしくは読者が少し年下というケースが多い。
若い読者だってがんばればなんでもできると信じたいわけである。
作家は読者の喜ぶことを書かねばなるまい。

この表現者が老年にさしかかるとどうだ。
読者もおなじく年を取っている。
いくらがんばってもどうにもならないことがあることを老年は知っている。
作家は読者を慰撫せんと他力の思想を説くようになる。
成功者たる作家がへりくだるのである。
大きなものに生かされているなどと悟ったような顔で言い始める。
人生に負けつづけた老年は、
五木先生はわかってらっしゃると濫造エッセイに少ないカネをつぎこむ。
五木寛之を詐欺師だのペテン師だのというのは間違えている。
ほんらい作家とはこのようなものなのである。ウソで読者をだますのが作家。
近年の五木寛之は実にいい仕事をしているとある面からは言うこともできよう。
いつ以来だろう。へたをすると5ヶ月ぶりの禁酒かも。
旅行中の3ヶ月半は1日も欠かさず酒をのんだ。
旅立つ前も不安から酒を手ばなすことができなかった。
帰国してから2週間。毎日のんでいる。
うん、やはり5ヶ月近くなると思う。
人生でこれほど長期間、酒をのみつづけたのは初めて。

酒が相棒、いな恋人であった。
一人旅だと夜することがないんだな。
だから話し相手を求めて日本人宿へ向かう旅行者もいるのかもしれない。
わたしがそうならなかったのはお酒のおかげ。
これでかなりの時間をつぶせる。
孤独感もまぎらわすことができる。
酔った眼で見る海外のなんと美しいことか。
楽しいったらありゃしなかった。
毎晩である。どの店に入ろうか迷う。えいやと入店。
ビールを注文。つまみはなにが出てくるかわからない。このスリル!
だんだん落ち着きまわりを見る余裕ができる。
現地のひとの酒ののみかたを観察する。
国(地域)ごとに違うのである。興味が尽きない。
今度は酔客をつまみに酒をあおる。
ビールにあきると地元民がのんでいる酒に手をだす。
アルコール度がわからない場合はどきどきである。
まずいと思う。
しかし真似をしてのんでいると悪くないと思えてくるのだからおかしなものだ。

酒の思い出ばかりである。
ロマンスなんてありはしなかった。
酒と縁があるのだろう。不満があるわけではない。満足している。これでよろしい。
さて、今晩はあえてわが恋人との腐れ縁を切ってみた。
酔ったいきおいで書いてしまおう。
万が一、有名になったらまっさきに消さねばならぬ記事である。
3ヶ月半海外をふらふらした。
といっても、体質的にだらだらするのは苦手。
ぼーっとすることができない。
なにかをしなければ時間をつぶせない。
かようなわけであちこち観光をした。
だがね、110日も物見遊山をするとさすがにあきる。
どの観光地もおなじもののように見えるのだ。
見たいものはもうない。アジア漫遊末期の感想である。
いな、ただひとつ見たいものをそのとき発見した。
わたしには海外で見たいものがある。
なにか――。戦争である。なまの戦争を見たい。
人間を殺しにいく兵士を見たい。あす死ぬかもしれない人間の全体を見たい。
生と死を見たい。運不運を見たい。偶然を必然を見たい。つまりは神を見たい。
3ヶ月半アジアをふらついた旅行者でも見たいものがある。戦争――。
思えば、アジアにおいて戦争の跡地はかならず観光地になっている。
ならば、その前段階を見たいというのは観光の本義とむすびついているのではないか。
戦争を見たい。透明人間になってなまの戦争を見たい。
ブログの更新が少ないのをふしぎに思われているかたもいるかもしれない。
日本の自宅にいるのならパソコンを使いほうだいだろうにと。
然(しか)り! だが、どうしてか更新する元気がないのだ。

テレビを見た。ニュースを笑った。新宿へ行った。神保町にもおもむいた。
なにがなんだかよくわからないのである。
よく状況がつかめない。
1回死んで生まれ変わった気分といったら、もちろん大げさである。
しかし、たとえば、まだ神保町の存在することがどうにも理不尽に思われるのだ。

ある建物が取り壊され空地になっていた。
近所のスーパーのレジが最新型に変わっていた。
けれども八百屋のおにいちゃんは前とおなじ。
帰国後にはじめて行ったときは声こそかけられなかったが、
「おっ!」という顔をされた。久しぶりじゃないかという顔。

大型書店の旅行コーナー。中国のところで立ち止まった。
ぱらぱら立ち読みをする。中国へ行ったことが信じられない。
タイ、カンボジア、ベトナム、中国と旅をした。
あたかも階段をのぼるようであった。
だんだんと困難さが増していくのである。
タイはゆるかった。カンボジアで少し緊張した。
ベトナムで旅人の自覚を得る。
中国は東南アジア諸国とはまったく異なる大国であった。
いちばんおもしろかったのは言うまでもなく中国。
ベトナム、カンボジア、タイと下がっていく。

たとえば「本の山」の(今年)1月分の記事を読む(旅に出たのは2月)。
シラーを重点的に読んでいたようである。
これを自分が書いたのか、と思う。
書いた本人が読むのを敬遠したくなるほど、濃密あるいは神経症的な感想文である。
つまり――、旅行前と帰国後がうまくつながらない。接続に支障をきたしている。

書きたいことはたくさんある。
例をあげると中国へ入国してから1ヶ月間のことはまったく記していない。
ぜひとも書きたいと思う。なのに、どうにもからだが(腕が?)動かぬ。
そうそう、書くことだけではない。
帰国してからまだ本を(あれだけ好きだったのに!)1冊も読んでいないのである。