海外へ行っているあいだに住んでいるうちを売られてしまった。
もちろん無断ではない。
海外からメールでやむなしと送信した。売ってくださいと。
この機会を逃したら、売ることはできないと思ったからである。
思い出のある家にいると、どうしても離れたくなくなってしまう。
海外にいるいま、踏ん切りをつけるしかないと思ったのである。
ここに20年以上住んでいる。母が、飛び降りたのも、ここだ。
名義は父である。一銭とてわたしのもとへ入ってくるわけではない。
これでようやく父と縁が切れることになる。
もしカネの切れ目が縁の切れ目であるならば、の話だが。
旅の途中からこんかいの放浪をこう名づけるようになった。自宅卒業旅行――。
ものごころがついてから引越の経験はない。
わからないことばかりでてんてこ舞いしている。
最初に決めなければならないのは引越先。それからどの引越業者に頼むかである。
こういうとき友人・知人の極めて少ないわたしはどうするか。
ネットである。むかしの孤独な若者はいかように引越をしたのだろう。
友人・知人がいなければ、かつては情報が入らなかったのではないか。
損をすることもたぶんにあったと思われる。
いまはネットがある。だが、まあ、わたしが見るのは2ちゃんねるなんだな。
わからないことがあると、まず2ちゃんねるを見る生活者というのはどうだか。
2ちゃんねるに情報の正しさを求めるものはいない。
デマ、誹謗中傷、揶揄嘲笑の山である。
そのなかに真実が埋まっているかもあやしいかぎりだ。
けれども、この匿名掲示板を見てしまうんだな。おもしろいからである。
書き手の品性のみならず、生きかたまでばれてしまいますね。
どうやら引越業界というのはいんちきな世界のようである。
交渉しだいで値段がいくらでも下がる。
おなじサービスでもひとによって払っている対価がまったく違う。
言いかたをかえれば、ぼったくりの横行。
これはわたしが3ヶ月半、旅したアジアの世界である。
定価販売が主流の日本でこのような業界はめずらしいのではないか。
「千三屋(せんみつや)」とよばれる不動産業界と双璧をなす。
ちなみになにゆえ不動産業者を千三屋というかというと、ふたつ説がある。
千のうち三つしかほんとうのことをいわないからとも、
千のうち三回しかまとまらないようなあこぎな仲介をしているからともいわれている。
山本夏彦によると、差別語に近いらしい。
某月某日。
定価のないアジアンワールドをひさびさに味わえるとわくわくしながら業者を待つ。
引越の訪問見積もりである。
営業さんがどれだけ運ぶ荷物があるかを実際に確認して、
作業員数、トラックの大小、および金額を決定する。
ネットによると引越の営業はかなりめちゃくちゃのようである。
他社の営業を来させないために何時間も部屋でねばる。
他社の悪口を言いたいほうだい。
むやみに即決を迫り、いまここで決めることを要求する。
引越会社の営業はヤクザとかみひとえというのがネットから受けた印象。
http://www.nandemo-best10.com/f_seikatsu-hikkoshi/
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1172398671/l50
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/estate/1170830644/l50初体験はリサイクルBOY。
ここは引越よりも、むしろリサイクルで有名なチェーン店。
見積もり結果は――。
2トンロングトラック。作業員3名。
午前便指定6万円。おまかせフリープラン4万9千円。
引越には午前便とおまかせプランがある。
おまかせプランは安いけれども時間不定。
どこの会社も否定するが、へたをすると深夜の引越になってしまう。
午前便を終えてから来るトラックである。
営業のかたは、引越業界12年というベテラン。
いわく、どこの引越会社も内容は変わりませんよ。
ボクは8社を転々としましたがそうでした。
おいおい、12年で8回も会社をかわったのかよ……。絶句する。
全体的な印象はやる気がない。たそがれている。
安い引越業者を探したいのでしたら、
引越先の近所に所在地があるところを探すことですね。
おかしなアドバイスまでいただく。
もっとぎどぎどした営業さんをイメージしていたので拍子抜けする。
2つめはアリさんマークの引越社。業界大手である。
やけにノリがいいあんちゃん。
合コンにでも参加しているような話しかたをする。
メガネが奇妙だった。いかにもいまふうのふざけたメガネ。
引越日をいうと、「ああ、偶然。私もその日に引越するんですよ」
わざとらしい営業トークに嫌気がさす。
きっと営業マニュアル本に書いてあるんだろうな。
顧客は偶然の一致を重く見る、なんて。
おなじ日に引越する。こんな営業文句を真に受けるバカではない。
かえって世慣れた若僧に嫌悪感が増す。
提示された条件は以下。
3トントラック。作業員3名。午前69720円。おまかせプラン6万円。
ここも即決を迫ることはなかった。極めて紳士的に退場する。
3つめはラン引越サービス。
ここの営業さんはマンションの下でアリさんマークと話していたという。
どのみち狭い引越業界。営業同士で顔なじみのことが多いのだという。
こちらが口を開くまえから営業はうちのことに詳しい。
アリさんマークの営業からすべて聞いているとのこと。
このおにいちゃんもやる気がない。声が小さい。
何度も聞きなおさなければならなかったくらいである。
大手でもないのに提示価格は最高値。
2トントラック2台。作業人数いわず。価格は10万5千円。
即決を迫ることもなく、値下げをする気配もなく、
「うちは高いでしょう」と薄笑いをしながら去っていった。
4社めはサカイ引越センター。業界最大手。
時間に遅れたのはここの営業がはじめて。
大手の営業はみなおかしなマニュアル本を読まされているのか。
営業さんは部屋にあったプロレスグッズに目をつける。
「私もプロレスが好きなんですよ〜」
引越の話よりプロレスの話をしたがる。
マニュアルのひとつ、顧客の関心のあることを話せ! に忠実なのであろう。
相手の関心をつかむことがセールスマンのなすべきこと。
教科書の解答例を棒読みされているような不快感をいだく。
このおにいちゃんは最後までプロレスにこだわっていた。
以前、この手の営業で大きな成功をおさめたのかもしれない。
提示価格もとんでもなく高い。
当社は午前便をおすすめします。時間のわからない午後よりも午前にやるべき。
3トントラック。作業員3人。価格は7万6千円。
本日の最後がこの業者。4番目。初めて即決を迫られる。
いくらならいいんですか。即決してくださるのなら相談にのります。
アホかと思う。そもそもの提示金額7万6千円が高すぎる。
アリさんマークだって7万円を切ったんだからな。
4社の見積もりを終えた感想は、ゆるすぎる。
どこも必死ではない。ネットに書かれていた修羅場なんてどこにもないではないか。
どこの会社からもぜったいに取りたいという熱意を感じなかった。
したがって値下げもない。
現段階でわかっていることを確認する。
荷物を運搬するために必要な人員は3名。スペースとしては6畳(3トントラック)。
最低金額は時間のわからないおまかせの4万9千円。
午前便指定だと6万円。ここにするしかないのかな。
だけど、あのやる気のなさを見るに、どうにも……。
必要スペース6畳。必要人員3名。
4社の見積もり結果を総合すると、こんなところか。
この条件をもとに別の会社に見積もりを再度依頼する。
本日――。某月某日から5日。また新たなる訪問見積もりを依頼する。
1発目はフクフク引越センター。
ここはメールでいちばん安い金額を提示してきた。
3トントラック。作業員3名。これで4万9100円。
しかしここの営業は時間に3時間も遅刻する。
いちおう訪問時間は9〜11時だが、9時から待っているわたしには、
12時到着がとんでもないことのように思える。
かれは3トントラックでは入らないという。4トントラックが必要。
万が一にも積めないものを出さないために4トンをおすすめします。
問う。それはいくらだ? もちろん午前便指定。
6万円という。めんどうくさい。ここで決めてしまおう。
「即決しますから5万5千円にしてください」
いいですとのこと。4トン車、5万5千円で契約終了。
実のところ、この見積もり中に別の引越会社からのベルがなる。
いま見積もりをしてもらっているのでと20分時間をずらしてもらう。
ユアーズ引越センターである。
ところがいつまで経ってもユアーズが来ない。
20分はとうに過ぎて1時間である。
ユアーズのフリーダイヤルに電話する。
もうほかで「即決」で決めてしまったので訪問見積もりをキャンセルさせてほしい。
受け付けの女の子は、それはじぶんの権限ではできないという。
待ってください、うちはそこよりもお安い価格を提示します。
当社の営業に連絡を取って、折り返し連絡します、とのこと。
この電話を切った瞬間、ユアーズの営業が到着する。
ふしぎな偶然であった。
もうほかで即決をだしているので、いいかげんに話を聞く。
提示された金額は思いのほか安い。
3トントラック。作業員3名。午前便指定。5万2520円。
検討しますとはわたし。だって、もうほかに決めているのだから。
ここの営業さんは、これまでの営業にはないねばりを見せる。
いくらだったらいいんですの連発である。
はい、これが最低金額と、いきなり4万8千円に値下げする。
ふうん。わたしは3トンではなく4トンで5万5千円の契約をしているから。
わたしのような読書家はやはり運搬スペースが広いほうがいい。
ちなみに4トンだといまある本をまったく捨てなくてもOKとのこと。
この営業さんはしぶどい。いくらだったらいいんですか?
「もしほかで決まっていても、私が断わりの電話を入れますから教えて下さい」
このひと言が強烈だったね。え、あなたが断わってくれるんですか?
ならと思わず口にしてしまう。4トントラックで5万5千円で即決をだしています。
これより安くなんてできるんですか?
ちなみに前回のフクフク引越センターは運送がメイン。
ユアーズのほうが引越に特化している。おなじ金額ならこちらに頼みたい。
ユアーズは4トントラックで5万3千円でいいというではないか。
ぐふっ。
「じゃあ、ユアーズさんにお願いしたいんですけれども、
1回即決を出したものを断われるものなんですか?」
ユアーズ営業いわく、この業界はアイミツなんて当たり前ですよ。
アイミツってなんですか?
あ、ごめんなさい。相見積もりの業界用語です。
ふたつ見積もりを取るなんて、当たり前です。
私も即決で決まってから、くつがえされたことがあります。
逆に、(引越用)ダンボールまであるのにキャンセルさせたこともあります。
ほんとうにフクフクへ電話で断わってくれるんですか?
ここでユアーズの営業もひるむ。
やはり私が電話すると角が立ちますので、お客さまが……。
フクフク引越センターのフリーダイヤルに電話すると、
営業と直接話してくださいと言われる。まあ、当たり前だな。
つらかった。
1回じぶんのほうから即決を持ち出しておいてキャンセルするのである。
フクフクの営業さんからはねちねちと嫌味をいわれる。
あと5分待ってください。
ああ、また値下げか。どこまで下がっていくのだろう。
ちなみにユアーズの営業さんは、確認するように家を出ていかない。
ダンボールを持ってきましょうか、などと逃げられない工夫をしている。
5万2千円にしてくださいと提案する。
当日、引越作業員3名に千円ずつ「こころづけ」を出したい。
3人で3千円。5万2千円だと合計で5万5千円になる。OKが出る。
電話が鳴る。フクフクさんはさらに値下げするという。
最終価格で5万円ぽっきり。これでどうですか。
まいった。その気になればここまで下がるのか。
ごめんなさいとお断りする。ほんとうに申し訳ありません。
こちらから即決を申し出ておいて。フクフクさんもあきらめてくださる。
ユアーズさんも必死。顧客に他社を裏切らせたわけである。
すなわち、自社もいつ裏切られるかわからない。
あわてて印鑑を押せという(おそらくなんの効力もない)。
これ以上、神経戦をやるつもりはない。
価格だけならここの料金よりも2千円、ライバル社のほうが安いのだ。
そうそう、はじめて他社の悪口を聞いた。
フクフクの営業さんがユアーズの悪口をいうこと、いうこと。
ああ、必死なんだと、はじめて業界の修羅場を見たように思う。
最後にユアーズの営業さんにうかがう。
「こんなことを毎日やっていると人間不信になりませんか」
即座に否定される。
そもそも、引越業界だけではなく、世の中がこんなものでしょう?
だましだまされて、ですから。いちいち気にしていたら、おかしくなってしまう。
かれはわたしが再度くつがえらないか、いぶかしみながらつぎの見積もり先へむかった。