「アエラムック 宗教学がわかる。」(朝日新聞社)

→学者や院生の「上から目線」というのはなんとかならないものか。
たとえば、このアエラムック。巻末に文献ガイドが載っている。
なかなか役に立つことも少なくないので重宝している。
だが、どうしてこんなよけいなことを書くのか。なにさまなのでしょう。

「『宗教』を知らずして『宗教学』ははじまらない。
読者も『○○宗教入門』などといったものを読んで知った気になるだけでなく、
いわゆる聖典にも触れておいてもらいたいものだ」(P181)


どんな顔をしてこの一文をしたためたのか想像すると吐き気がする。
はるか高みから下界を見下ろす仙人かなにかみたいじゃないか。
なんの悩みもなくなった高僧みたいなことを書きやがる。ああ、こっちも書いてやる。

宗教学者に人間は救えない。

そこらへんの作家の書くいかがわしい宗教入門本のほうが、よほど人間を慰めている。
すると、ここが事実と違うと学者は作家を愚弄する。
鬼の首を取ったように得意げなのが笑える。
幼児が赤信号をわたっているおとなたちを注意しているような醜悪な風景である。
たとえば、遠藤周作の聖書解釈がめちゃくちゃだという本を書いたひとがいる。
だから、どうしたというのか。
遠藤周作のインチキ本を読んで、だまされたまま死んでゆく人間のどこが悪いのか。
事実とやらを知っているキリスト教学者は、困っている人間になにをしてあげられるのか。
つらい苦しい現実に打ちのめされて、せめてものウソにすがっている人間に、
そんなウソを信じるなと言って聞かせるのが、そんなに高尚な生きかたなのか。
わかりませんね~。

それに学者のいう事実とやらは、ころころ変わる。
なにか文献が発見されれば、その場でそれまでの事実がウソになる。
で、学者はなにをするかというと、かつての事実を信じている人間を見下す。
なかにはこの愚民どもが、などと本気で口にする学者までいるそうである。
事実がなんだっていうんだ。正しいのが、そんなに偉いのかい。
裁判キチガイの学者もいる。
うちのブログもある記事を削除しないと訴えると某学者から脅されたことがある。
このへんが学者だなと笑ってしまう。
ほんとうに人間が怒ったら裁判などに期待しない。
第三者から自分の正しさを認めてもらおうなどと思わない。
自分は正しい。そう思ったら、迷わず相手を殴りにいく。
「宗教のキーワード集」(学燈社)

→学者さんの記事を集めたもの。
いろんな学者先生(国文学中心か?)が、
たとえば巡礼だったら巡礼について1、2ページ書く。
意味不明な論考が多い。読み手をまったく無視した事実のてんこ盛りばかり。
間違ってはいないのだろう。おそらく正しい。
けれども、なにを言いたいのか読み手はわからない。ゆえに楽しくもない。
学者先生というのは、文章の書きかたを学ぶ機会がないのだろうか。
正しければいいと考えているとしか思えぬ悪文を平気で書く。
なにゆえ自分の両親へ読ませてもわかってもらえないような文章を書くのか。
それとも学者になるような人間の親は、これまた学者ばかりなのだろうか。
わからないというと、学者さんはもっと勉強せいとこちらの非を責める。
あなたの勉強が足らないからわからないのだと言うのである。
だから、書いた文章を学者ではない親族のものへ見せてくださいと頼んでいる。
わからないと言われたら、かの学者は血縁者をバカとののしるのだろうか。

そもそもだ。学者に宗教がわかるはずがない。
学者とはなにか。正しさを追求する物好きである。
いな、これでは口が悪い。学者とは、真実を追い求める高潔のひと。
だが、宗教とは、ウソのかたまりのようなものでしょう。
美しく、また役にも立つウソの結晶を、学者が事実をもとに腑分けする?
意味のないことである。
人間はどのみちウソを生きるしかない。
ならよりよいウソで自分をだまして死んでゆくほうが得策。
ここに宗教の用途があるわけである。すなわち、ウソであることに価値がある。
このような宗教を、ホント大好きの学者先生が理解できるはずがあるまい。

学者はどうしてこうも事実(ホント)が好きなのか。
たとえば、そうだ。もてない人間がいると告発する学者がいる。だから、どうした。
それがかりに事実だとして、だからなんなのか。
いつか運命の恋人が現われるというウソを信じるほうがよほどいいではないか。
別に現実化しなくてもいいのである。
いつか赤い糸でむすばれた……というウソを信じながら死んでゆく。
これでいいではないか。どうしてこういう生きかたがバカにされるのかわからない。
ホントがウソに比べて、どうしてそうも偉いのか。
偉そうに高説を垂れる宗教学者より、
なんとかガンを治そうとお題目を必死で唱えている創価学会末端の信者のほうが
よほど宗教の本質をわかっていると思うが、どうでしょうか。