「メッシーナの花嫁」(シラー/相良守峯訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。
問う。答えよ。

「戦争か、平和か! 
籤(くじ)はまだ、未来のふところの暗闇に隠されている」(P29)


どちらの籤をひきたいか。戦争か、平和か。
常識人はなにをバカなことをと顔をしかめるのだろう。平和に決まっている。
平和ほど尊いものはない。平和は命を賭けても守る価値がある。
そうだろうか。平和なときに命を賭けるものがなにかあるというのかい?
命を賭けるのは戦場ではないか。命を賭けて行動する。
戦場での行動とはなにか。とっさに選択肢を思い浮かべ、
その中から最良と考えるものを選び、即座に身体へ指令をだす。
一瞬、一瞬が緊張の連続である。右に動くか、左に動くか。
敵の銃弾はどちらから来る可能性が高いか。気のゆるみは死を意味する。
だが、どれだけ注意をしていても地雷を踏んでしまうことはある。
いくら優秀な兵隊でも死ぬときは死ぬ。
戦場の兵士ほど生の昂揚感を味わっているものはいまい。
生か死かを不断に選択しているのである。
個人は意思を持ち、生き延びんがために、運命と対決する。
お気づきだろうがこれは軍人のことのみを言っているわけではない。
戦争は劇だ。劇を生きるとは、戦火の軍人たらんとすることである。

「平和は結構なものだ、例えばそれは愛らしい少年のように、
静かな小川のほとりに安らかに身を横たえている。
(中略)
しかしながら人間の運命の原動力たる戦争も敬意を払われなければならぬ。
わしは活気に富んだ生活が好きだ。
幸運の波が或(あるい)は高く、或は低く、動揺し、浮動し、揺曳することが好きだ。
なぜなれば人間は平和の中では委縮するものだ。
安閑たる休息は勇気の墓場であり、法律というのは弱者の友であって、
あらゆるものをただ平等にし、世の中を平板なものにする。
だが戦争は力を顕揚し、一切のものを非凡なものにまで高め、
臆病者にすら勇気を生ぜしめるからだ」(P66)


これは戦争の称揚だが、劇の魅力の説明として用いることも可能。
身もふたもないことを言うと、平和はつまらないのである。
たとえば、渋谷で――。そうだな、頭の悪そうなおにいちゃんとおねえちゃんが
チュッチュチュッチュやりあっているのを見ていても、おもしろくもなんともない。
まだしも、夫婦喧嘩のほうが退屈しのぎになる。
夫が大学教授やなにかで、社会的地位が高かったりすると、
日常とのギャップがはなはだ見ものである。
映画なんかもそうで、なんだかんだいっても戦争映画は受けるわけでしょう。
たとえ最後は平和の大切さを訴えるにしろだ。
平和はをえがくには戦争が不可欠なのかどうかは知らないけれども。
以上、見るぶんには平和よりも戦争のほうがおもしろいというのは同意してもらえると思う。
繰り返す。見るなら平和よりも戦争。日常よりも非日常。無風状態よりも劇的興奮。

ここから先はなかなか共感してもらうのは難しいのだが、
劇的なるものの本質に関わることなので、なんとかおつきあい願いたい。
たとえば、旅行の経験を思い出してください。なるべくなら一人旅。
事前にガイドブックで調べてまわるところを決める。
その計画とおりにうまく運んだ旅行というのは、おもしろくないと思いませんか。
計画どおりに行かないのが旅の魅力。もっと言うなら、トラブルがあったほうが楽しい。
みんなが行く観光スポットを、何ごともなく通過したというような旅行はつまらない。
つまらないというのは語弊があるか。なら、記憶に残らないと言いなおそう。
旅には、そういうところがある。
これは人生も同様で、なんにもないよりは、たとえ不幸でもあったほうがいい。
万人がこう考えるわけではないが、なかにはこう考えるひともいる。
このためなのか本人は意識していなくても、無意識的に不幸を作ってしまうひとがいる。
平和よりも戦争状態を好むわけである。月並みな幸福よりも、むしろ不幸を求める。
緊張に飢えている。なあなあにたえきれない。劇を欲望している。劇的に生きたい。
劇というのは不幸がセットでついてくるのを知っていても、あえてなお劇を渇望する。
これが人間である。「人間・この劇的なるもの」である。
(ちなみに、この劇的なるものへ柳美里、中島義道はかなり自覚的。自作自演的。
ストリンドベリは完全に無自覚。そこがすごい。小谷野敦がどうかは知らない)

動物は不幸というものがわからない。
かりに動物を虐待する。動物は嫌がる。苦しむ。限界が来たら死ぬ。それだけである。
だが、人間はそうではない。人間は不幸を味わうことができる。
自分を虐待するなにものかへ言葉で抗議することが可能だ。
なにゆえきさまはわが身をさいなむか。こう問うことができる。
さらに、これだけではない。向かっていくことができる。窮鼠、猫をかむである。
むろん鼠(ねずみ)が猫にかなうはずはない。殺されることにかわりはない。
けれども、向かっていくことは許されているのである。これが劇だ。
鼠は猫へあらゆることをためす。恭順、追従、反抗、呪詛、屈服、助命、嘆願――。
おもしろいのは、なにをしても結局は食い殺されることを、
この鼠がどこかで知っていることだ。それでも猫へ向かっていく鼠。
大きなものへ立ち向かってゆく人間。
これがギリシア悲劇から連綿と続く、正統的な劇のありかたである。

ようやく「メッシーナの花嫁」の話へうつる。
文庫の解説を復唱するのは能のあるやりかたではないが、
シラーはこの戯曲を書くにあたって、そうとうギリシア悲劇を勉強したそうである。
ご存じのように、ギリシア劇はコンテスト形式で優劣が争われたわけだが、
シラーは「メッシーナの花嫁」をギリシア人のまえで上演したら
拍手喝采を受けたであろうと豪語していたとのこと。
たしかにそれだけのことはある。ギリシア悲劇よりもギリシア悲劇らしいところがある。
反面、教科書めいたところがあり評価がわかれるところだろう。
あまりにも劇が整いすぎているという批判が生じもしよう。

呪われた一家の物語である。呪われしは母のふしど。
本来は父に嫁ぐところだったのを、その息子と結婚してしまったのが神々の怒りを買う。
母イザベラはまず男の兄弟を生む。その次は娘。ところが――。

「そのアラビア人の占いによると、もし私が娘を生むことがあったら、
その子は父上の二人の息子を殺した上、
一族がのこらず娘のために滅亡するというのです。
――ところがわたしは女の子を生み落とした。
すると父上はこの生れた子を直ぐさま、海へ投げこむようにという
世にも残酷な命令を下された。
けれども私は、このむごい仕業を阻み止め、一人の忠実なしもべの、
人目を忍んでの奉仕によって娘の命を助けたのです」(P98)


どこかで聞いたことのある話ではないか。
そう、シラーは「オイディプス王」から丸ごと劇構造を拝借している。
父が死んだところから劇は開幕する。父の不在は、不安定を意味する。
あらたな権力構造が作られねばならぬ。劇が生じるゆえんである。
かねてから兄弟の仲が悪い。父王の死で、はどめがきかなくなる。
兄か弟か。ふたつにひとつ。葛藤である。
この兄弟がおなじ娘に恋をする。娘の愛していたのは兄のほうであった。
嫉妬から激情にかられた弟は兄を殺してしまう。
しかし、この娘こそ、母が誕生時に尼寺へ隠しおいた、かの兄弟の妹だったのである。
予言(預言)の成就。近親相姦(未遂だが)。親族殺人(兄殺し)。運命への人間の盲目。
完全なかたちのギリシア悲劇といってよいと思われる。
妹への恋心ゆえに兄をほふったこの殺人者は神々への復讐のため自刃する――。

最後にいくつか、いかにもなところを引用する。
劇への理解が深まるきっかけになればと思うからである。

「……こうして、善意から出て、かえって悪をなしたのでございます」(P122)

「事が行われる前と、行われた後とでは、その容貌がまるで違ってしまうものだ。
復讐の念が胸にあふれるとき、それは猛々しい眼をしておん身を見据える。
しかも遂にこれを為しとげたとき、おん身を見るその面は蒼ざめている」(P150)


行為の重みである。人間は行為の結果を予測しえぬ。劇の根幹である。

「古くからこの家に付き纏っている呪いを、わしは死をもって解決する。
自由な死のみが、宿命の連鎖を断ち切るのだ」(P197)


劇とは煎じ詰めれば自由と宿命の葛藤である。
両者の斬りあいが象徴的にあらわれるのは自殺、殺人の場面。
人間は自由を求めて逃走するが、宿命に追いつかれ、おのが運命を見たうえで散ってゆく。