「ヴァレンシュタイン」(シラー/濱川祥枝訳/岩波文庫)品切れ寸前

→戯曲。ドイツ産。
悲劇というのは選択ではないか。AにするかBにするか。ふたつにひとつ。
これが小説ならば、かならずしも選択実行しなくてもよろしい。
AにしようかBにしようか、えんえんと悩むだけでも小説になる。
結果、AにもBにも決めがたいという結論でも許されるのが小説である。
だが、劇文学はそうはいかぬ。かならずどちらかを選び、行為しなければならない。
舞台上で役者が逡巡するだけでは観客は満足しない。アクションを観客は欲する。
せりふと動きを見たいのだ。行為を目撃したいのだ。
すなわち、人間は劇を欲望しているということだ。
劇を英訳するとドラマ。このドラマのギリシア語源は行為を意味する語「ドラーン」。

人間はいろいろな選択を日々迫られている。
ランチになにを食べるかというのも選択ではあるが、とうてい劇的なものではない。
会社をやめるかやめないか。これはいくらか劇的な要素が高まるが、それでも知れたもの。
離婚をするか否か。いくぶん劇的要素が強まる。
生きるか死ぬか。劇的な選択だが、かの人間が孤独者ならばただの死に落ちる。
これが権力者なり、影響力のある人間なら、芝居にのせることが可能。
殺すか殺さぬか。もっとも劇的である。おのが手で他者の運命を変えんとする。
神のみに許された生死の裁きを人間が行なおうというのだから。
しかし、このとき殺人者の凶行が、人間の自由の所産か、
それとも、これまた運命なのかはだれにもわからぬ。
ここにおいて、ようやく劇的なるものの急所へ到達したわけである。
人間は選択する。AかBかを決める。果たしてこのとき人間の自由はあるのか。
人間は与えられた偶然的な環境からAかBかの選択を下す。
そうだとすれば、選択をするまえの環境はなにによってもたらされたのか。
運命的なもの。言うなれば神だ。ならば、この選択さえも自由ではないのではないか。
それでも人間は自由を求める。AかBか、よりよいほうをなんとしても選択したい。
Aなのか。Bなのか。Aを選んだら、B選択後の行く末はわからぬ。反対も同様。
環境はどう見てもAを選ばせようとしているみたいだが、これは罠ではないか。
問うしかない、神よ! あなたはどちらを選べと仰せになるか。
わからぬ。神は沈黙するばかりだ。なら、天空の星々よ、教えてくれ。
AとB、どちらを選択すべきなのか。

時代は三十年戦争。ヴァレンシュタインは軍隊の最高司令官。
皇帝に仕える身である。
だが、皇帝はヴァレンシュタインを罷免(ひめん)するという。
皇帝をはるかに凌駕する武力を持つにいたったこの将軍を恐れているのである。
ヴァレンシュタインは迷う。ふたつにひとつである。
皇帝に恭順を示し、左遷された領地で余生をつつがなく過ごすか。
それとも、周辺国と手を組み、皇帝へ反旗をひるがえすか。王の座をめざすか。
ランチをカレーにするか寿司にするかの選択ではないのである。
どちらにするかで、多くの人間の人生が異なるものになってしまう。
自分の決断いかんで多数の人間の生死が変わりゆく。
ヴァレンシュタインが直面しているのは歴史である。
この武人は歴史のただなかにいるのだ。安定を取るか、野心を取るか。
人間にこんな重大な決定ができるわけがない。
どちらの選択をしたら、どのようになるのかまるでわからないではないか。
それは死にたくない。だが、もしいまを逃しては王座へつけないとしたらば。
やるしかないのである。そうはわかっていても、やれないのである。
近臣にせかされる。

「ぜひとも決心をつけてくれ。
覚悟を決めて皇帝の先手を打つか、
それとも、これからもためらい続けて、いよいよの時が来るまで待つか、
どちらかだぜ」


ヴァレンシュタインは苦悶する。AかBか。どちらを選ぶか。

「わしは、最終的な決断を下すにはまだ時期尚早だと思う」

「何だって? うまく捉えないと、チャンスは逃げてしまうぜ。
人生における本当の意味で重大な瞬間、偉大な瞬間なんてものは、
滅多に到来するもんじゃない」(P139)


部下の意見をくみとって、もしこのときヴァレンシュタインが挙兵していたら、
歴史はどうなっていたかわからない。
あるいはヴァレンシュタインが皇帝を打ち負かしたかもしれないし、
それでもこの武人は皇帝へ屈する星回りだったのかもしれない。
開戦のきっかけは、意外なところからもたらされる。
ヴァレンシュタインが周辺国へ送った密使が皇帝がわに捕縛されたのである。
ヴァレンシュタインの謀反はかくして露見した。
もうAかBかではないのである。Aしかない。皇帝と一戦を交えるよりほかない。
かれは狼狽する。後悔する。

「何だと? あんなことを、わしは本気で実行しなくちゃならんのか?」

「もう少し待ってくれ!
わしには思いもかけんことばかりだからな――何しろ、事態のテンポが速すぎた。
――わしは、偶然というものにひたすら、
闇雲に引きずられていくのに馴れておらんだな」(P259)


偶然が必然になるのが劇である。
最高の悲劇は神の手を感じさせるほどに必然の美で統制されている。
すべてが起こるべくして起こったという意識を観客に抱かせる。
だが、舞台のうえの人間は偶然に左右されているとしか感じられない。
偶然の荒波にもまれ、それでも自由めざして行動していたら、
いつしかそれは必然ともいうべき宿命めいた取り返しのきかないものになっている。
これが悲劇である。

「……いまやわしは、保身の上からも、どうしてもそうした行動に出ざるを得ん。
必然の瞬間というのは厳粛なものだ。
運命の神秘な籤箱(くじばこ)に手を突っ込むときには、
誰しも戦慄を覚えずにはおれん。
わしの行動は、わしの胸の中に納まっているあいだはまだわしのものだった。
ところが、いったんその母胎である心という安全な片隅から解き放たれて、
人生の荒海におっぽり出されてしまうと、
いかなる人間の智慧をもってしても飼い馴らすことが不可能な、
あの詐術に満ちた力の思うままにされてしまう」(P262)


ようやく選択がなされたのである。劇の全体から見ると、ちょうど折り返し地点。
半分まで来たところでヴァレンシュタインは決定する。行為にでる。
だが、これは正確を期するならば、果たしてこの将軍の選択と言えようか。
AとBのうちから、どちらかを決めたと断言できるのか。
いなとすべきではあるまいか。
決断を延期していたら、いつしかAを選んだことになっていた。
ヴァレンシュタインの心中をおもんばかるなら、そんなところであろう。
会社員がランチを寿司に決めたからといって、なんら劇的ではないのは、
その決定がなんら波及するところのないためである。
ヴァレンシュタインの決断はそうではない。
ひとつの決断が、さらなる決断を各人に迫るといった形の広がりを見せる。
1がAとBのなかからAを選んだがために、
2はC、Dのうちどちらかを選ぶことを強要される。
さらにこの2の決断が3の選択をうながし、つづいて4も5も選択を迫られる。
この選択のうねりが悲劇である。
ヴァレンシュタインはふたつからひとつを選んだ。
結果、その他の人間も選択しなければならなくなったのである。
この芝居でいえば、将軍の味方になるか、皇帝へ忠誠をつくすかである。
決断を下したヴァレンシュタインにためらいはない。

「わしらはただ、運命の神々の掌(てのひら)に種をまくだけで、
それが吉と出るか凶と出るかは、結果が出てからしかわからんのだ」(P288)


たとえば、ヴァレンシュタインを裏切った重臣がいる。その息子のマクス。
かれはヴァレンシュタインの娘に恋をしている。
マクスこそこの劇のなかでもっとも深刻な選択を迫られた人間である。
マクスはヴァレンシュタインを幼時より尊敬している。
ところがマクスの父こそヴァレンシュタインを裏切った張本人。
ヴァレンシュタインへ忠誠をつくしたいが、父を裏切るわけにはいかぬ。
だが、ヴァレンシュタインも皇帝閣下を裏切っているではないか。
それに自分は恋をしている。相手は、ヴァレンシュタインの娘――。
どうにもこうにもマクスは身動きが取れないのである。
ふたつにひとつを選びようのない立場の人間として造形されている。
マクス、ほかならぬこの青年こそ、シラーが史実を無視して創造した人間である。
ほかの人物の大半は史実どおりだが、このマクスは異なる。
シラーから、劇的なるものを託されたのがマクスなのである。

「あの男(ひと)は、皇帝を諦めるか、あなたを諦めるか、
どちらかに決めなくちゃならないのよ」(P321)


恋愛か親孝行か。主君か血縁か。恋人か皇帝か。マクスの困惑だ。
なにを! こんなものはすべて同一平面上の問題。生きていればこそ。
マクスはあらゆる選択から逃れるように勝ち目のない戦へ突撃して命を落す。

選択したのはマクスのみではない。劇中のあらゆる人間が選択を迫られたのである。
この選択の連鎖はどこへ行き着くか。
ヴァレンシュタインの腹心、ブトラーへ主君を殺すか否かの選択を突きつける。
ブトラーはなにゆえいままでさんざん世話になったヴァレンシュタインを殺害できるのか。
いわば恩人を殺すようなものである。非道の暗殺者はかく語りき。

「……わしはあいつ(ヴァレンシュタイン)を好いとらんし、好く理由もないが、
でも、わしは、あいつへの憎しみに駆られて、
あいつが憎いからあいつを殺そうというのではない。
これは、あいつの運が悪いせいだ。
あいつの不運が、事態の不運な重なりが、わしを駆り立てているのだ。
人間は、自分では自由に行動しているように思っとるが――
それはとんでもない誤解だ。人間は、盲目な力の操り人形に過ぎん。
そして、この盲目な力は、自分勝手な選択で、
たちまちのうちに恐ろしい必然をわしら人間に押しつけてくる。
たとえ、わしの心の中に奴を弁護する声があったとしても、
そんなものは奴にとって糞の薬にも立たん。
――どうあっても、わしは奴を殺す運命なのだ」(P431)


長編悲劇「ヴァレンシュタイン」の全体図を整理するとこうなる。
まず劇の前半部で、運命はヴァレンシュタインに選択を迫る。ふたつにひとつ。
ヴァレンシュタインは決定をいつまでも遅延する。
だが、これも運命とおぼしき偶然から、かの将軍はいつの間にか決定をしている。
ふたつからひとつを選んだ。
この二者択一が際限もなく広がり、最後はどこへ行き着くかというと腹心の部下である。
ヴァレンシュタインの知らぬ間に信頼している部下が、
自分を殺すか否かの二者択一にいるのである。
ヴァレンシュタインの殺害は舞台裏で行なわれる。
閉幕直前、この将軍は死体として登場する。
ヴァレンシュタインにとって、死は不意打ちであったことだろう。
死に瀕して、もっともらしいことをいう間さえ、ヴァレンシュタインは許されていない。
この劇にはどこにも自由がなかった。いな、自由に満ち満ちていた。
だれもが自由に行動しているかのようにも見えた。
だが、芝居が終わったあとに感じるのは、
こうなるよりほかなかったという断念の感覚である。
ヴァレンシュタインは、なんとか死なぬわけにはいかなかったのか。
劇作家シラーの裏をかく方途はなかったか。
無理である。シラーは史実をもとにこの芝居を書いている。
よしんばヴァレンシュタインの軍勢がシラーを殺害しようと歴史は変えられぬ。
ヴァレンシュタインに唯一の救いがあるとすればマクスの存在である。

ヴァレンシュタインはマクスの死の報に際してこう述べる。

「だがわしは、マクスを失ったことが自分にとって何を意味するのか、
ようく感じておるのだ。これで、わしの人生の華は終わった。
このあとの前途には、色褪せた冷たい人生が横たわっているばかりさ。
何しろ、あいつがいてくれると、わしはまるで自分の青春を見る思いがしたからな。
あいつは、つまらない日常の興醒めな現実を、
朝焼けの金色(こんじき)の靄(もや)にくるめ込んで、
わしの人生を夢に変えてくれたからな。
あいつの火のような愛に接すると、人生の日常のつまらんことどもも、
わし自身がびっくりするほど素晴らしいものに変わったのだから」(P473)


やはりシラーは宿命の作家ではない。断念を常とする老人ではない。
自由の作家だ。青春の作家なのである。
シラーは、青春の炎を燃え上がらせんがために漆黒の暗闇を必要とする。
輝かしい自由を求めるがゆえに、どうしようもない運命、宿命を持ちだしてくる。
太陽を肉眼で直視しつづけると危険だという。
シラーはこれをやったのではないか。自由を光を太陽を、見つづけた。
むろん失明する。もはやシラーの目には暗闇しか見えぬ。
シラー劇を暗いというのはたやすい。
だが、シラーを光の作家、太陽の作家といって、どうして悪いものか、とも思うのだ。

(注)この「ヴァレンシュタイン」は現在入手可能な唯一のシラー作品。
また岩波文庫のシラー作品のなかで新訳なのはこれのみ。
品切れ直前。在庫僅少。ぜひいまのうちに購入しておきましょう。
シラーの美点も欠点も、すべてこの戯曲にあらわれています。
この一作でシラーを語るのも、やってやれないことはないと思うくらいです。