「ドン・カルロス」(シルレル/佐藤通次訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。シラー作品。
ひょんな思いつきだが、悲劇の動因は「ふたつにひとつ」ではないだろうか。
ふたつからひとつを選ばなければならないところから悲劇が生じる。
ふたつとも選べればそれがいちばんいいのである。
けれども、人間はふたつからひとつを選ばなければならないようにできている。
さらにだ。選んで実行するまでは結果が不明。
選ばなかったもうひとつの選択肢を行為にうつしていたらどうなったかはわからない。
悲劇が生じるゆえんである。

この芝居における「ふたつにひとつ」を整理してみよう。
エリザベトはスペイン王の後妻として王妃になるが、もとは王子の婚約者であった。
王子とエリザベトは愛しあっていたのだ。
ところが、政略上の都合から王は息子の婚約者をめとらなければならなかった。
王妃が父親とも息子とも結婚できればいいのである。
だが、人間はそのようにはできていない。
エリザベトはふたつからひとつを選ばなければならなかったのである。
といって、人間の感情はどうにもならぬ。
王子は義母となったエリザベトにいまも恋心をいだいている。悲劇の火種である。
王子カルロスは父王を尊重したいのは山々だが、おのが義母への恋慕もどうにもならぬ。
まさしくふたつにひとつである。

カルロスの親友、ポーサがスペイン王に重用されるようになるのはまったくの偶然である。
賢明なポーサはこれを偶然だと知りながらも、人間であるがゆえのあやまちにとらわれる。
偶然を必然と見たとき劇が生まれるのである。
また、偶然を必然と受け取るのは人間の避けられぬ宿命でもある。

「だが、待てよ、偶然だけではあるまい。
ひょっとしたら、もっと深い意味がないとは限らぬ」(P135)


頭脳明晰なポーサでさえも、こうして悲劇にからめとられていく。
ポーサはいつしかスペイン王からもっとも信用される重臣にまでのぼりつめる。
またもや、ふたつにひとつである。
親友のカルロスを取るか、その父たるスペイン王のもつ強大な権力を取るか。
ポーサがあの偶然を偶然のままにしておけば、こうはならなかったのかもしれぬ。

ポーサは新教(プロテスタント)を広めんとの野心をいだく青年である。
いかようにしておのが野望を実現するか。これもふたつにひとつ。
いままではゲリラ的に宗教戦争を引き起こすことで革命をなさんとしていた。
だが、このままスペイン王に取り入って上から変えてしまうという方法もなくはない。
恋愛、宗教、政治――。みながみな、ふたつにひとつなのである。
ひとつを決めるよう迫られる。
決断するのは恐怖だ。できるものなら逃げていたい。だが、逃亡にも限界がある。
いつしかその逃走行為が、ひとつを選択していることに気づかされる。
選んで実行したら、もう取り返しがつかないのである。
人間はだれしもこのような世界を生きている。悲劇の芝居だけではない。

ポーサは権力ではなく友情を選択する。
権力者の父王ではなく、親友の王子を優先する。
この意味するところは自己の破滅である。
スペイン王に自分ではなく、息子の王子を愛させようというだから。

「殿下(カルロス)かわたくしか、二人に一人は逃れぬところでございまする。
そのいずれかを選ぶかの決断は、咄嗟の恐ろしい間でございました。
二人のうち一人は破滅致さねばなりませぬ。
そこで、わたくしがその一人になろうと存じたのでございまする」(P205)


劇とは、ふたつからひとつが選ばれる過程にほかならぬ。
ドラマという言葉がある。ドラマの語源はギリシア語のドラーン。
行動するという意味。
ふたつからひとつを選び行動する。これがドラマである。
行動の結果、幸福になれば喜劇、不幸になれば悲劇である。
どちらに転ぶか人間にはわからない。なぜなら――。

「神の全智を持たぬ儚(はか)ない人間に、
運命の楫(かじ)を操るような思い上った真似が、どうしてできましょう」(P202)


悲劇「ドン・カルロス」の結果は青春の敗北である。
若い野心はいずれも滅び去った。
燃え上がらんばかりの愛情も宗教的野心も、スペイン王に鎮火されたのである。
王はプロテスタントの芽を摘み取り、カトリックの保持につとめる。

さて、芝居における宗教上の勝敗よりも、
この両派に共通するキリスト教の特徴に注目したい。
キリスト教は旧教も新教も、正しいものはひとつであるとする。
そのために争うことになるのだが、重要なのはこの正しいのはひとつという思想。
悲劇は「ふたつにひとつ」から生じると冒頭に書いた。
そうだとすれば、唯一の正義を主張するキリスト教こそ、
劇を養育する乳母と言うことができよう。
「たくみと恋」(シラア/実吉捷郎訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。シラー作品。
身分違いの恋がテーマ。いわゆる悲恋もの。
宰相の息子たるフェルヂナントが、身分の低い平民の娘ルイイゼに恋をしましたとさ。
フェルの父親は、べつに息子の結婚相手を考えている。もちろん政略結婚。
息子は父の提案を拒む。シラー劇に共通するテーマ、父子の対立である。
世知長けた父親は一計を案じる。ルイイゼに偽の手紙を書かせるのである。
なにゆえそれが可能かというと宰相という権力があるから。
偽の手紙を書かないのなら家族を捕縛するとルイイゼを脅すわけである。
家族か恋人か。ルイイゼは選択を迫られる。家族を取る。偽のラブレターを書く。
偶然をよそおってこの偽のラブレターはフェルの手にわたる。
フェルは激怒する。ルイイゼが自分以外のものへ恋文を書いていたとは。
この淫婦め、売女め、尻軽女め!
フェルは裏切られたと思う。余談だが、この裏切りもシラー劇に頻出するテーマ。

で、フェルはどうするかというと、純粋ゆえの直情径行。死ね、となる(笑)。
「われに恋を与えよ、しからずんば死を!」である。
ここで策略をねるのがおとなだが、おとなは劇を生まぬもの。
芝居の観客は、フェルの未熟さを純粋と賞賛しなければならない。
フェルはルイイゼに毒をのませ、みずからもおなじ毒を口にする。
この毒が効いてくるまでのあいだが劇のクライマックスで、すべてが明らかになる。
父親の邪智姦計が白日のもとにさらされるわけである。
真実を知ったふたりだが、時間をもとへ戻すことはかなわぬ。
ルイイゼの死を看取り、みずからも死んでゆくフェルのまえに父親が現われる。
父親も決して息子の死を望んでいたわけではない。
したがって、かれも自身の悪だくみの思いもよらぬ結果に悲嘆するほかないのである。

かんたんにまとめるならば、めいめいよかれと思って取った行為が、
どういう因縁ゆえか反対の結末を引き起こしたということだ。
シンプルだが、すべての悲劇はこのタイプといってよい。
悲劇は、見ようによっては愚かである。
この劇もそう。すべてを知っている観客(読者)はじれったくて仕方がない。
フェルが偽の恋文にだまされるところなど、舞台上の役者に声をかけてやりたくなる。
おい、それは偽物だぞ~。だまされるな~。
けれども、その声は届かず、フェルは偶然入手した手紙を信じてしまう。
バカだなと思いながらも、おのれをかえりみるとそうも言っていられない。
我われのふだんの行動も、
あんがい(全知の)観客席からは笑われているのではないかと思うからである。

人間は劇的な存在である。生きている人間は常に選択を迫られている。
ふたつにひとつだ。ふたつからひとつを選ばなければならない。
夕食のメニューといったくだらないことから、どちらの企業へ入社しようかという迷いまで。
いつまでも迷ってはいられない。決断をしなければならない。
では、なにをたよりに決定するかというと、周囲の偶然的な環境である。
フェルは陰謀から作成された手紙を、偶然入手することができたと信じた。
この偶然こそ人間を動かすものである。
というのも、人間は偶然に神意を見るものだからである。
フェルもこう言っている。

「偶然といふのはありがたいものだな。
小器用な理性よりも偶然の方が大きな仕事をしてくれたのだ。
審きの日にはあらゆる賢者の智慧よりも偶然の方が面目を施すだらう。
――偶然とおれは云っているが――
いや、雀の落ちる時でさえ神の摂理は働いてゐる」(P148)


人間にとって、偶然ほど意味深く感じられるものはないのである。
たとえ信仰のうすいものでも、人間は、偶然から、大きなものの実在を感じる。
偶然により、みずからを肯定されたような安心感をいだく。
ふたつにひとつ。ルイイゼは貞淑か、それとも尻軽か。どちらだ。
フェルは偶然から手に入った(と思っている)手紙のほうを信じる。
ふたつからひとつを選んだわけである。その結果が、この悲劇である。
死の間際、フェルは述懐する。

「ふしぎなやり方で、ほんとにふしぎなやり方で神は吾々を弄ぶものだな。
細い、目に見えない糸で往々怖ろしい重さのものが吊(つる)してある」(P151)


この「怖ろしい重さのもの」とは、偶然のことであろう。
多少、乱暴に悲劇を整理するとこうなるか。
「無知」なる人間が、「偶然」から行為を決定し(ふたつにひとつ!)、
その結果として、人間は「全知」にいたるが、
そこで知りえた状況はもっとも望ましからぬもので、
そのくせ人間はその惨状を「必然」と感じる。これが悲劇ではないか。
卑近な言葉に翻訳すると「やってみなきゃわからない」「明日をも知れぬ人生」。
悲劇の意味するところである。
「群盗」(シラー/久保栄訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。
世界演劇巡礼もそろそろ終着地が見えてきたような感がある。
シラーは最後の山脈といったおもむき。
かんたんなシラーの情報を記すと、かれはシェイクスピアの影響のもと劇作を開始。
後年、ロシアの文豪、ドストエフスキーに多大な影響を及ぼす。
私事を書くが、海外文学へ分け入るきっかけはドストエフスキーであった。
そして、戯曲に分け入る契機となったのはシェイクスピア劇。
ブログ「分け入つても分け入つても本の山」も、
ひと区切りをつけるときが来たのかもしれない。

「群盗」はシラー18歳時に執筆を始めた、この劇作家の処女作である。
シェイクスピアの手のひらのうえで繰り広げられる芝居といってもよい。
シラーこそ、シェイクスピアの嫡流である。
この作家ほどシェイクスピアの影響を受けた劇作家はいまい。
「群盗」はシェイクスピア四大悲劇をつぎはぎすることで書かれている。
順に「リア王」「オセロー」「ハムレット」「マクベス」である。

まずは「リア王」から劇の端緒を借りてくる。
兄弟の不仲。というよりも、弟の兄への嫉妬である。
これは「リア王」におけるエドマンドのエドガーへの仕打ちを連想させる。
父親は領主である。この領地を継ぐのは兄のカアル。
兄は容貌性格どの面においてもすぐれている。弟のフランツは兄へ嫉妬する。
フランツは父親に讒言(ざんげん)する。
ありもしない兄、カアルの不品行を告げ口するのだ。
こうしてまんまと領地をだましとる。
フランツの欲望はまだ満足しない。つぎは女である。兄の婚約者であるアマリア。
フランツは「オセロー」のイアーゴーのごとく姦計(かんけい)を用いる。
イアーゴーのように腹心の部下を利用して、アマリアに兄は死んだと思わせる。

さて、追放された兄のカアルは盗賊団の首領になる。
カアルはあたかもハムレットである。憂鬱でたえず内省している。
このままでいいのか常に思い悩んでいる男としてカアルは描かれている。
行きがかり上、群盗のボスにはなったが、
カアルは結局のところじぶんがなにをしたらいいかわからないのである。
自殺も考える。ピストルを頭におしつける。
わずかに指を動かせば終わりである。だのに、なぜ生きている必要がある。
かりに生きるならば、なにゆえに、なにをめざして生きろというのか。
ハムレットを悩ませたものとおなじ問いにカアルは直面しているのである。
生き迷うカアルは原点へ戻る。追放された故郷の地へ戻る。もちろん変装はしている。
カアルは弟、フランツの悪だくみを知るにいたる。
愛する父親は城から追いやられ、暗い洞窟に閉じ込められていた。
父の復讐を誓うカアルは、ハムレットの生き写しのごとくである。

弟のフランツも兄が帰郷したことを知る。
気づけば、まわりは敵ばかりである。城内のだれもが兄の味方についた。
フランツは追い詰められる。カアルの軍勢は城を取り囲んでいる。
ここでフランツはマクベスになる。マクベス最後の絶望を味わう。
野心をいだいた。悪と知りながら犯罪行為を実行した。結果、頂点に立ったのである。
だが、それもつかの間であった。眼前に敗北が見えている。この人生というのはなにか。
こんなものか。こんなものだったのか。これしきのものか。
フランツは縊死(いし)を選択する。首をつるわけだ。

悲劇とは人間が死ぬものだとシラーはシェイクスピアから学んだのか。
父親は自慢の息子であったカアルが、
いまは盗賊であることを知り絶望しながら死んでゆく。
閉幕寸前、カアルのまえに立ちふさがるのは、この劇のヒロイン、アマリアである。
カアルは選択を迫られる。ふたつにひとつである。愛情か、友情か。
アマリアへの愛情を取るか、群盗たる仲間との友情を選ぶか。
友情を取りそうな婚約者へアマリアは絶叫する。行くなら私を殺してからにして!
カアルは愛ゆえにアマリアを殺害する――。

多くの処女作がそうであるように、この「群盗」にも、
のちのシラー劇の萌芽とおぼしき輝きが散見させられる。
いくつか拾ってみたい。
これはシラー劇の特徴というよりも、むしろ劇的なるもののからくりを示す。
シラーが劇の理想をシェイクスピアに見たがためである。
シラー劇(および劇作全般)の本質を、ひと言でいうならば、つぎのせりふである。

「われに自由を与えよ、しからずんば死を!」(P109)

シラー劇をぎりぎりまで要約するならば、このカアルのせりふになるであろう。
シェイクスピアのいくつかの悲劇もそうである。なぜなら人間は――。

「人間は、泥のなかから生れ出て、暫時の間、泥のなかを歩きまわる、
そうして泥(=子供)を拵(こしら)えて、腐れ果てて泥になる、
あげくは子孫の靴の裏に汚なくくっついて廻るのだ。
こいつが歌の結び文句だ――人間の運命は泥より出でて泥へ返るさ」(P144)


人間は、生まれ死ぬ。生も死も自由ではない。
人間は生まれを決められぬ。
王子として生まれるも、貧農の子として生まれるも運命。
死ぬのも自由ではない。
人間はいつどこでどのようにおのれが死ぬのかわからぬ。
起点も終点も自由ではないこの直線上を歩む人間に果たして自由はあるのか。
本人は自由に生きているように思っていても、実のところ、
最初からひかれてある線をなぞっているだけではないのか。
カアルが「われに自由を与えよ」と叫ぶゆえんである。
しかし、自由など、どこにあるか。
なにもかも天上から決められているのではないか。
ぼかすのはやめよう。名指しする。天上にいるのはきさまだ! 神だ!
すべては神によって定められているのではないか。ならば、ならば。
「しからずんば死を!」である。
ハムレットのように独白しながらカアルはピストルを手に取る。

「きさま(=神)は、おれを『無』に返すことは出来るかも知れん――
だが、この自由をおれから奪うことは出来んぞ。(ピストルに装填する。
急にやめて)だが、おれは、苦悩に充ちた人生を恐れて死んでもいいのか?
この逆境に耐えられず、勝をゆずってもいいのか?――
いや! おれは耐え忍ぼう。(ピストルを投げ捨てる。)
艱難よ、おれの誇りのまえに、立ちすくめ! 
おれは、必ずやり遂げてみせるぞ」(P170)


深くかがんだものは、そのぶん高く飛翔することができる。
死を目前に見たものだけが、本来の生を謳歌することができるのである。

「まだ子供の時分に――おれは、よく空想したものだ、
あの太陽のように生きたい、あの太陽のように死にたいとな」(P118)


劇的人物は太陽をめざす。星でもない。月でもない。雲でもない。太陽である。
どのような星回り(星座)であろうと太陽はみずから輝く。
月のように太陽があってはじめて光る惑星はお断りである。
太陽を隠す雲になるなど真っ平ごめん。
太陽になりたい。これが劇的たらんと欲するということだ。シラー劇の生きかただ。
シラーは、舞台のうえの役者に問う。ふたつにひとつ。

「もう一度、胸に手を当てて考えろ。
幸福か、不幸かだ――いいか? 分ったか?
幸福のてっぺんか、不幸のどん底かだ!」(P143)


劇を生きるとは、選ぶことである。ふたつからひとつを選ぶ。これが劇だ。

「われに自由を与えよ、しからずんば死を!」