「ミス・サラ・サンプソン」(レッシング/田邊玲子訳/岩波文庫)

→戯曲。ドイツ産。
レッシング劇のみならず、悲劇などと言われるとどこか身構えてしまいませんか。
ギリシア悲劇、シェイクスピア四大悲劇、エイザベス朝演劇、フランス古典劇――。
翻訳で読んでもちんぷんかんぷん。
むかしの異人さんはどれだけあたまがよかったのかと打ちのめされる。
それは違うのである。
ギリシア悲劇も、シェイクスピア劇も、楽しんでいたのは我われと変わらぬ民衆。
いな、我われ以下かもしれない。文字の読めぬやからも劇を楽しんでいたのだから。
ワイドショーと考えればよろしい。悲劇すなわちワイドショー。
嫌な言いかただが、ひとの不幸というのは、おもしろいでしょう。
他人の幸福のどれだけつまらないことか。
違う。他人だけではない。自分の幸福も、どこかで退屈している。
幸福とは、なにも起こらないことである。
にこにこ、ぺこぺこしている(することのできる)幸福なんてぶっ飛ばせ。
古来、人間が悲劇を求める理由ではないかと思われる。
人間は幸福を願いながらも、実のところ幸福に飽きあきしているのである。
幸福ほどつまらないものがこの世にあるものか!

悲劇「ミス・サラ・サンプソン」の話をする。
内容をめちゃくちゃに要約すれば、幸福なんてぶっ潰せ、である。
ひと組のカップルがいる。熱愛中である。おもしろくもなんともない。
(電車でいちゃついているカップルを見るとつばを吐きかけたくなりませんか)
これをある中年女がぶち壊すのである。かの女の名前はマーウッド。
このマーウッドは、例の熱々カップルの男のほうのかつての恋人である。
10年もつきあった。ふたりのあいだには子どもまでいる。
悪女マーウッドは、なんとか男とよりを戻そうとするのである。
それが無理とわかると、せめてこの相思相愛を破壊しようと試みる。
ひねくれたわたしなどは、それ行けマーウッドとこの中年女を応援するが、
一般の観客(読者)は愛し合うふたりを思いやりながら、
(それでもこころのどこかで破局をのぞみつつ)見守るのであろう。
(ワイドショーの芸能人破局報道における喝采を想起されたし)

マーウッドとかつての情夫とのやりあいはこの芝居の絶頂である(P204-206)。
愛し合うふたりを見て快いのは、ふたりの破局をまえもって知っているときのみ。
ほんとうにおもしろいのは、たとえばこの芝居でマーウッドが繰り広げる戦争である。
男女間の戦争だ。お互い、嘲り、軽蔑し、憎みあう。
夫婦喧嘩は犬も食わないというのはウソだ。あれほどおもしろいものはない。
(ストリンドベリ「死の舞踏」、オニール「夜への長い旅路」、
オールビー「ヴァージニア・ウルフなんて怖くない」を参照)
以前は熱愛をしていたマーウッドとその情夫の喧嘩も同様である。
やれやれ! と思う。血を流せ。殺しあえ。

「死ね、この裏切り者!」(P212)

実際にマーウッドは短剣で襲いかかる。ううん、やるねえ!
だが、これは失敗。
結末としてはマーウッドは、元カレのいまの恋人を毒殺して復讐を遂げる。
男は、あのときじぶんが刺されていたらこうはならなかったと後悔する。
かれがマーウッドから取り上げた短剣で自害するのは「オセロー」を思わせる。

かくして幸福は消え去ったわけである。
思えば悲劇とは、幸福への不満から生まれるものかもしれぬ。
「オセロー」では、新婚夫婦の幸福へのねたみから悲劇が始まった。
「ハムレット」でも、そう。再婚した母の幸福への苛立ちから、ハムレットは狂乱する。
アンティゴネは、このまま戦争が終わって平和が訪れるのが耐え切れなかった。
マクベスもリチャード三世も、戦争終了後の平和やら幸福やらにむかむかしていた。
リアは老後の幸福など、つまらないと思ったのであろう。
オイディプスは、なかでも最も悲劇的な人物のうちのひとりである。
わざわざ自身の不幸めがけて疾走する脚力は他の悲劇の追随を許さない。

劇は大きく分けるとふたつである。悲劇と喜劇。
不幸に終わるのが悲劇、幸福に終わるのが喜劇である。
これも当たり前の話で、人間は生きているあいだ、悲しむか喜ぶか、
この両極にはさまれ右往左往するほかないのである。
というのも、幸福も不幸も、人間にはままならぬ。与えられたものを受容するしかない。
せめて舞台では、そんなあわれな人間を神のごとき視点で見たいと思うのである。
「エミーリア・ガロッティ」(レッシング/田邊玲子訳/岩波文庫)

→戯曲。ドイツ産。
劇では偶然がよく起きる。偶然が人間を動かす。
舞台のうえの人間は考えるのだ。この偶然はなんだろう。なにを意味するのか。
人間は偶然になにを見るのか。人間を超える大きなものをだ。それをかりに神と呼ぶ。
神を見なければ人間には動かせないものがあるのである。
以前、殺人犯の手記をいくつか読んだことがある。
どの犯人も述べていたのは奇妙な偶然である。
あんな偶然がなければまさかひとを殺すことはなかったと声をそろえて言う。
まさかじぶんがひとを殺すとは思わなかった。
殺そうとは思ったが、同時に殺せないだろうとなかばあきらめていた。
それを動かしたのが偶然である。
たまたまふたりきりになったから。てっきりいないと思っていたら、偶然いたから。
そのとき人間は、おのが存在を超えるものを感知する。
こうして生じるのが劇ではないか。あるいは、悲劇と限定したほうがよいかもしれぬ。

ある国の君主が美女に目をつけた。女はエミーリアという。
ところが、この少女はもうすぐ結婚するというのだ。
君主は腹心の部下に相談して、エミーリアの結婚相手を襲わせる。婚約者は死ぬ。
いな、君主に殺すつもりはなかったのである。どうしてか殺す羽目になってしまった。
盗賊に襲われたと思ったエミーリアは君主の館へ逃げてくる。
ここまではほぼ計算どおりである。
だが、人間の計画は思うように運ばない。
なんの間違えか君主の元愛人であるオルシーナがこの館を来訪する。
最後にエミーリアを殺すことになる短剣は、嫉妬に狂うオルシーナが持ち込んだもの。
オルシーナは情夫の君主が別の女にこころを移していることを知る。
思う。どうしてじぶんはこの場に居合わせてしまったのか。

「偶然? いったいこれは偶然なのか?
殿下がここでわたしと会うことなど考えもしなかったのに、
ここで会う羽目になった、というのが?
偶然?――マリッネリ、いいですか、
偶然などという言葉は神を冒涜(ぼうとく)するものです。
お天道様の下では偶然などないのです。
――とくに、意図がはっきり透けて見えることにはね」(P108)


人間が偶然を必然と感じたとき、劇が生じるのである。
この館にエミーリアの父、オドアルドもやってくる。
オドアルドは、君主が娘の婚約者を殺したことを知っており怒り狂っている。
といって裁きの場に訴えてもどうにもならない。裁判官は君主なのだから。
せめて娘のエミーリアを返してくれるよう君主へ要求する。
君主はのらりくらりと拒否する。
身分の低いオドアルドは、なら娘と会わせてくれと懇願する。聞き入れられる。
これからしばらくのオドアルドが見ものである。
オドアルドはすべてをあきらめて君主の館をあとにしようか迷う。
どうなるのか。未来がどうなるのか人間にはわからない。迷うオドアルド。
よし、館を出ようと思った瞬間に、娘のエミーリアがすがたを現わす。

「出て行こう!(出て行こうとすると、エミーリアがやって来るのが見える)
遅かった! ああ! わしの手が求められているのだ! わしの手が!」(P146)


オドアルドはオルシーナから受け取った短剣を使うことになる。
エミーリアは父に頼む。このままではいけない。
このままでは愛する婚約者を殺した憎き仇(かたき)に手籠(てごめ)にされる。
エミーリアに頼まれたオドアルドは、愛する娘を短剣で刺し殺す。
このときオドアルドはじぶんの意思をどこかに感じていたか。
娘を殺したのではなく、なにものかに殺させられたように思ったのではないか。
これが悲劇である。すべての偶然が必然としてまとめあげられるのが悲劇だ。
君主も慟哭する。なにゆえこうなってしまったのか。
じぶんはただ女を愛しただけなのだ。
愛した、というよりむしろ、愛さざるをえないよう仕組まれたようにも思える。
その結末はどうだ。人間の意図はなにもかもくつがえされる。
かくのごとき人間の悲嘆・呪詛をもって悲劇は完成するのである。
「ミンナ・フォン・バルンヘルム」(レッシング/小宮曠三/岩波文庫)

→戯曲。ドイツ産。
劇とはなにかということをずっと考えている。いまのテーマである。
ふとこの戯曲からヒントらしきものを見つけたので引用する。

「もつれがもうじきひとりでに、ほぐれないわけじゃあるまいし」(P141)

芝居終盤の令嬢のせりふである。
令嬢は婚約者の軍人を追いかけてこの町までやってきた。
ところが、少佐は愛するがゆえに結婚をとりやめるというのである。
この少佐は、とある行き違いから軍部からとがめを受けている身。
軍籍からもはずされ、財産もとぼしいのが現状。
こんなじぶんがお金持で美しい令嬢と結婚したら、
相手を不幸にしてしまうというのが婚約破棄の理由である。
そこで令嬢は一計を案じる。ウソをつく。
じぶんは家出をしてあなたのところへやってきた。
いわば、勘当されたようなもの。無一文である。
これを聞いた少佐は態度をがらりと変える。
相手がじぶんよりも不幸ならば、この手で幸福にしなければと再び求婚する。
今度は令嬢が逃げる。
男を追いかけてきた女が、策を弄して、逆に男から追われる身になるというストーリー。
かるい恋愛喜劇である。
婚約者に求婚されいい気分の令嬢の口にするのがさきほどのせりふ。

「もつれがもうじきひとりでに、ほぐれないわけじゃあるまいし」(P141)

このせりふは現実化する。
ギリシア劇のデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)のごとく、
令嬢の伯父が舞台に登場し、すべてが丸くおさまる。恋愛成就である。
もつれがほぐれたというわけだ。

整理したい。劇とは、もつれがすっとほぐれるようなものである。
ここで喜劇に限定すべきかはわからない。
わたしは「ハムレット」や「オイディプス王」のような悲劇も、
結末ではもつれがほぐれたような印象を受けるがどうだろうか。
もつれは、おもに人間関係のもつれであろう。
欲望の主体である人間がふたり以上舞台に登場すれば、
どうしても関係はもつれるもの。
そのもつれが、ただほぐれるのではない。「もうじきひとりでに」ほぐれる。
「もうじき」とは時間経過を意味する。「ひとりでに」とは神の介入か。
個人(人間)の意思とは無縁のところで、といった意味合いであろう。
突然のようだがハムレットのせりふを思い出すのである(第五幕第二場)。

「つまり人間が荒削りはしても、最後の仕上げをするのは神なのだ」
(小田島雄志訳)


演劇の起源が神への供物であったことに思いをめぐらす。
酒の神、ディオニュソスへ捧げる狂喜乱舞が演劇の始まりとされている。
劇とは、無力な人間がせりふと動きでもって、神へといたらんとする営為。
劇とは、もつれをほぐさんと人間があたふたするがいかんともしがたく、
ところが時間の経過と共に人間の思いも寄らぬ(神の)手が天より伸び来たりて、
劇開始前に存在したもつれをほぐしてしまうもの。
たとえばこんな定義ができるのかもしれない。
劇とはなにか。引き続き考えていきたい。
「賢人ナータン」(レッシング/篠田英雄訳/岩波文庫)

→戯曲。ドイツ産。
レッシングは時代的にいうと、クライストの少しあと。
のちのゲーテやシラーに影響を与えた。
とくにこの「賢人ナータン」はゲーテ、シラーともに最大限の賛辞を捧げている。

劇はいろいろな理由から作られるが、
劇本来の役割は主張の多重奏にあるのではないか。
なにかをみなに言いたいとする(A)。だが、それはかならずしも正しくはない。
その反対の意見も、ことによると正しいかもしれぬ(B)。
しかし、AでもBでもないCという考えかたもできる。Cこそ正解ともいえる。
答えのない問題には、演劇という表現形式がもっとも適しているのかもしれぬ。
わかりやすい具体例を用いよう。
公共の場は全面禁煙にせよ、という意見がある(A)。
分煙すればいいではないかという意見もある(B)。
煙草のみならず酒も自宅でしかのませるなという意見がある(C)。
考えようによってはAもBもCも正しいわけである。
これが現実ならつまらないものである。
Aは自己の正当性を主張する。BもCも同様である。譲歩などあるわけがない。
結果は多数決でA、B、Cのいずれかに決定されるわけだ。

評論ではA、B、C、それぞれが正しいなどと書くことはできない。
そんなことをしたら支離滅裂な文章になってしまう。
だが、劇文学ならば、AもBもCもおのおの正しいと書くことができるのである。
小説でも不可能ではないが、戯曲ほどの自由はない。
小説家がA、B、Cのどれに思い入れがあるのかで物語がゆがめられてしまう。
付言すると、小説の名作というのは、この歪曲が少ないものをいうのであろう。
作者はAが正しいと思っているのにもかかわらず、どうしてもBが幅を利かせてしまう。
とすると、より戯曲に近い小説が、あるいは名作なのかもしれない。

さて「賢人ナータン」である。
この戯曲におけるA、B、Cは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。
A、B、Cの対立に都合がいいよう時は十字軍の遠征。場所はエルサレム。
A、B、Cの利害は複雑にからみあっている。
この戯曲における最大のテーマはユダヤ教、キリスト教、イスラム教。
この3つは根をおなじくしているのに(旧約聖書)、なぜいがみあうのか。
いちばん正しい宗教はどれか。とりたてて回答は明示されない。
ユダヤ教徒の養女と、キリスト教の兵隊の恋がストーリーのかなめである。
この兵隊さんは、敵であるイスラム教のスルタン(ボス)から命を助けられている。
結末を書くと、例の娘さんと兵隊は、実は兄妹の関係であった。
兵隊はスルタンとも血縁関係のあることが明らかになる。
なんてことはない。みな血縁だったのである。
兄と妹の再会は「人類みなきょうだい」の標語を連想させおかしい。
とりあえず芝居としては閉幕する準備ができたが、最初の問いの答えはでていない。
いっこうにかまわないのである。
これが劇だ。A、B、C、それぞれ正しいのが劇といえよう。
「道は開ける」(デール・カーネギー/香山晶訳/創元社)*再読
「人を動かす」(デール・カーネギー/山口博訳/創元社)*再読

→新年の読書はじめはこの本から。
自己啓発書の古典。何度も再読したため、内容をほとんど覚えている。

みなさまの周りにはいませんか。
いつも明るく前向きで、くよくよしない。仕事(勉強)もできる。
のみならず、ひとから好かれる。友人がたくさんいる。
だれからも頼りにされている。決まっていそがしそうに動きまわっている。
まさしく人生をエンジョイしているとおぼしき人間。
そのような人間になるためのマニュアルが、この「道は開ける」「人を動かす」である。

意外に思われるかもしれないが、
わたしだってこのタイプの有能な人間にあこがれているのだ。
他人とうまくつきあいたい。友人がほしい。
悩みごとから解放されたい。幸福になりたい。
だれもが思うことである。
新卒で入社したとき、この本を上司からすすめられたかたも多いのではないか。
ふたつのタイプに分かれる。
最初はおなじなのである。みながみな、なるほどと感心する。
こうすれば自分も成功者になれるかもしれないと期待する。
けれども、現実はそうかんたんにはいかない。挫折する。
マニュアルどおりやっているのにうまくいかないこともあるのだ。

ここでどうするかである。
「道は開ける」「人を動かす」を捨てるか、それとも再読するか。
いうまでもないが再読した人間のほうが成功する確率は高い。
そのうちこの会社員は気がつくようになる。
何度も何度もカーネギーを再読するうちにいつのまにかそうなってしまうというべきか。
重要なのは考えないことである。すなわち、疑わないことだ。
一生懸命に働いて考える時間を作らない。
もっと不幸なひともいるのだから自分は幸福だと信じ込み、前向きに働き続ける。
こんな生きかたをしている人間が、そうそう手ひどい失敗をするわけがない。
いつしか、あのときの新入社員は成功者の仲間入りをしているというわけである。
にこやかな笑みを浮かべて後輩社員にこの書物をすすめるものもいよう。
あるいは、起業して経営者になっている、あのときの新入社員もいるかもしれない。

カーネギーの主張はこうである。
考えるな。疑うな。働け。
怒るな。笑え。話すな。聞け。へりくだれ。ほめろ。
こうすれば成功者になれるとカーネギーはいう。たしかにそのとおりなのだろう。
だが、こんなことを継続できるはずがない。
人間本来の性質にそむくウソだからである。
もちろん、カーネギーはお見通しだ。何度も本書を読めという。
そのうち自然にウソがつけるようになる。
人間はだれだって考えたい。疑いたい。働きたくない。
むかついたら怒りたい。笑ってばかりはいられない。
自分の話をしたい。他人の話なんて聞きたくない。えばりたい。他人を見下したい。
それではダメだとカーネギーはいうのである。
自分と他人に毎朝毎晩、大量のウソをばらまかないと成功することはできない。
カーネギーの成功哲学である。

では、カーネギーのいう成功とはなんだろうか。
金持。社交家。精神安定。健康。長寿。
たくさんの友人に囲まれながら、資産にもめぐまれ、他人からの尊敬を勝ち得ている。
こんな状態だろうか。
これを俗物とバカにするのはたやすいが、その青臭さにはやりきれない思いもする。
かといって、その青臭い青年にわけしり顔でカーネギーの書物をすすめる中年ほど、
この世に生きている人間のなかで醜いものはいない、とも思う。
ハムレットにカーネギーを読ませていいのか。
マクベスにカーネギーを読ませていいのか。オイディプスにアンティゴネに……。
劇は起こらなくなるかもしれない。いな、起こらなくなるのだろう。
アマゾンの書評で、世界中の人間がカーネギーを読めばいいのに、と書かれていた。
ほんとうにそれでいいのだろうか。
みんなにこにこ笑って、だれも怒らず、ひとしく前向きで、調和が取れている。
劇的なことは映画館や劇場でしか起こらない世界――。

とまれ、成功したいのである。
去年も正月から生まれ変わろうと、カーネギー流を実践した記憶がある。
数ヶ月は続いたのだったか。毎日、カーネギーの本をめくった。
今年も正月からカーネギーである。1年、カーネギー流に生きたい。成功したい。
怒るな。笑え。あたまを下げろ。他人を尊重せよ。前向きに、明るく――。

(注)以前の感想。

「人を動かす」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-460.html

「道は開ける」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-461.html