今年はウソに生きたいと思う。新年の目標というやつである。
現実を直視したら悲劇しかないのである。
ハムレットのように狂乱するか、
オイディプスのようにおのが手で両目をつぶすか、
アンティゴネのように首をつるか、だ。
そういう人生が美しいのは否定しないけれども、
どこかであこがれる気持もあるけれども、今年はウソに生きたいと思う。
大晦日に年越しそばを食べるなど意味がないことだが、昨年はあえて食べた。
新年が来たらなにかが変わるというのは、もちろんウソなのだが、
そのウソをあえて信じて(信じるほかなく)、こうして新年の目標を書いている。

たとえばこんなウソをついてみよう。
今年は懸賞小説を取りたい。シナリオでも戯曲でも童話でもいい。
有名な賞でなくてもかまわない。
地方自治体が開催している小さな文学賞でもいいのだ。
芸術がどうの、文学がどうのというこだわりは実のところない。
なんとかして賞がほしい。いや、落選したってかまわない。
どうにか作品だけでも創作したいのだ。
ここから先は、持って生まれた才能の問題である。
このような創作の分野では、努力ではいかんともしがたい才能の問題がある。
わたしに才能がないのならあきらめる。
自分は才能があるというウソを信じながら死んでゆく決意はできているのである。
どうにか形にだけはしたいのだ。落選してもいいから、ものを書きたい。

しかし、どう書いたらいいかわからないというのも事実である。
現実と、どのように折り合いをつけたらいいのか皆目わからない。
現実は――。
6年前、母親に目のまえで飛び降り自殺をされた。
わたしの悪口がこれでもかと書き連ねられた日記を発見した。
現実は、これだけである。言葉にしてしまえばわずか2行。
だが、この現実が重たくて身動きが取れない。
わたしも、小説も、なにもかも動かない。
小説(戯曲でもいい)にAをだす。ひとりだと動かないからBをだす。
かといってAもBも動こうとしない。AもBもビルへかけのぼり飛び降りてしまう。
わたしとて同様。どうして生きていなければならないのかさっぱりわからない。
自殺はありだと思う。
昨年のことだが、初対面のひとから自殺したいといわれた。
わたしはとめなかった(とめるもんか!)。
おかしな被恋愛妄想を書きつづったメールを最後に、そのひとからは連絡がない。
あるいは自殺したのかもしれない。
もしそうだとして、それが悪いのか良いのか、わたしには断言できない。
または、自殺したいというのがウソで、いまはよろしくやっているのかもしれない。

自殺するほかない人生というものはある。
自殺とはいえ、自分が自分を殺せるはずもない。
持って生まれたものをつかいきったらひとは死んでゆくのだろう。
わたしもいつ死ぬかわからないとつくづく思う。
自殺しないで生きてゆくために、人間はウソを必要とする。
人間はウソで生きる。
たとえばわたしはいつかひとを揺り動かす小説を書きたいというウソを支えに生きている。
夢をあきらめるなという。だが、実際に夢がかなうのは100人に1人。
かなわない夢をなんというか。これをウソというのである。
もっと小さなウソもある。
おいしいものを食べるのが幸福というウソ。
ほしいものを入手するのが快感というウソ。
とまれ、ウソをウソだと指摘して悦に入るような生きかたを今年はしたくないのである。
ウソを大切にしたい。ウソを生きたい。新年の目標である。