「インド仏教思想史」(ひろさちや/大法輪閣)絶版

→上下巻。合計724ページ。
仏教ライトエッセイで知られるひろさちや氏のぼうだいな著作群のなかで
唯一の「ややカタイ本」(あとがき)である。たしかに読みごたえがあった。
ひろさちや氏のいかがわしさがたまらなく好きだ。
氏は仏教学者ではない。学者として仏教を研究したことはないという。
かといって、中谷彰宏までは落ちたくないと思っている。
あるいは、新興宗教の教祖をバカにできるくらいは仏教を勉強している。
ひろさちや氏の書く仏教書は、微妙なのである。
「正しさ」「おもしろさ(わかりやすさ)」「役に立つか」。
この三点から等距離をたもって書かれているのが氏の著作である。
わかりやすいけれども、学者から見たら決して学問的に正しいとはいえない。
役には立つけれども、おかしなところで学者ふうに正しさにこだわる。
緻密な論理は欠けていて、ときおりとんでもない飛躍はあるが、
思いつきはびっくりするくらい新鮮。
以上がひろさちや氏の仏教書の特徴である。

本書は氏が、正しさを追い求めて勉強をした結果とでもいおうか。
専門の学者にはりあおうとする気概に満ちあふれた書物である。
主張は一貫している。こうである。
学者は小乗仏教(上座部仏教)をもちあげるものばかりだ。
なぜかというと、小乗仏教のほうが、まだ釈尊の痕跡が見られるから。
さらに学者は言う。
大乗仏教など釈尊が入滅してから3~500年後になって作られたフィクション。
まったく開祖の言葉が入っていない経典は仏教とは言えぬ。
かくのごとき学者の意見に対して、
大乗仏教を擁護しようというのがひろさちや氏の本書で試みたこと。

正しさでは、学者にかなうはずがない。
氏は珍説ともいうべき奇想天外な物語を本書で展開する。
要はどうにかして釈尊と大乗仏教をむすびつけたいのである。
これは仏教概説書というより、仏教物語である。
ひろさちや氏は、自分をごまかすためにこの長大な物語を必要としたのではないか。
エッセイストにはなりきれず、学問的正しさにも色目を使う氏の努力は涙ぐましい。
決して責められるたぐいのものではない。
だが、わたしなどは――。
大乗仏教が釈尊の教えでなくても、いっこうにかまわないと思っている。
問題は、役に立つかどうかである。なぐさめられるかどうか。
どのみちすべての宗教はフィクションなのだから、問うのは虚構の質のみ。
歴史的正統性は、長く生きても百年経てばみな死んでしまう人間には無縁。
そのうえ、正しいかどうかなど今後の研究しだいでどうとでも変わりうる。
身もふたもないことを言ってしまえば、
よしんば開祖の釈尊が実在しなかったとしてもそれほどショックではない。
開祖うんぬんよりも、ある宗教を心から信仰してきた人間の総量を重んじる立場だ。

ところで、なにゆえこうもひろさちや氏の文章はわかりやすいのだろう。
これほど万民に理解される仏教書を書くことのできるのは氏以外に知らない。
ヒントはこんなところにあるのか。

「わたしの譬(たと)えはちょっと際どいが、
哲学の話はこれくらい大胆に解説したほうがよい。
そうしたほうが、ともかくもわかりやすいのである」(下巻P184)


ひろさちや氏の具体例の用いかたは天才という呼称がふさわしい。
それも、こういってはなんだか、ちょっと顔をしかめたくなるような下品なたとえをする。
庶民派なのだろう。氏は、研究する時間がなくなるからと講演会を嫌う学者ではない。
好んで講演会で教えを説く。身近なたとえで聴衆を(いい意味で)ごまかす。
帰りの電車でほくほくしている氏の顔を想像するのはたやすい。
みんなの役に立てて満足。あの笑顔が生きる支え。それに、これも!
そうつぶやきながら謝礼金の札束をつばをつけながら数えるひろさちや氏――。
ううう、好きだな。聖人君子然とした人間は苦手である。
あのくらいペテン師めいているほうが、かえって好感をもつ。
自我肥大(増冗漫)のないのもよろしい。

「わたしは、人から問われてよく言う。
わたしは、医者でいえば病理学が専門で、臨床はできません、と。
手術のほうは、からっきしだめなのだ。
したがって戒名をつけたり、印を結んだりすることは、
わたしにはできない」(下巻P336)


医者は医者でも認可の受けた医師ではなく、呪術医のたぐいだろう。
いや、インチキ健康食品のカリスマ販売員。
こんなふうな意地の悪いことをひろさちや氏に言うのはよくない。
患者(読者)が求めるものを適切に提供するのが名医(作家)の役割。
その意味では、どこぞの学者先生などより、よほどひろさちや氏は貢献している。
いくら頭脳明晰な医者でも、患者をだませなくては名医ではないのだ。
これは30%の確率で効果のある薬品です、などというのは医者失格。
これはすごいクスリでね、先だってもある患者さんがこれをのんだらすぐ治って。
患者をうまくだます医者がいいのである。これは小説家も同様。
仏教学者など頭痛ひとつ治せない医学生のようなものである。

ひろさちや氏の声をネットで聞いたことがある。
あやしげな自己啓発テープの販売サイトでのことである。
予想たがわず、氏はなんともうさんくさい話しかたをしておられた。
詐欺師のプロフェッショナルといった感じである。
うまいペテン師はまず自分からだますというが、たしかに妙にテンションが高かった。
ますますひろさちや氏のファンになったことは言うまでもない。
「タルチュフ」(モリエール/鈴木力衛訳/岩波文庫)

→戯曲。フランス産。
傑作古典戯曲は、劇とはなにかを考えるうえで好都合である。
劇とは、人間が生まれ持った性質から生じるものである。
ひと言でいえば、人間は無知なのである。対置されるは神の全知。
人間と神の関係、無知と全知の関係が、いわば劇の構造である。
無知たる人間が、全知の神へいどむのが劇だ。

我われ人間はおのが無知をそう意識することもなく生活している。
むろん全知には及ばないが、そこそこは世界を知ったつもりでいる。
なにか行動するときは、以前から蓄積している知識を参考にして決定する。
かつての経験から未来を予測し、選択肢のひとつを選び行為にいたる。
たいがいの人間の生きかたである。

「タルチュフ」――。
無一文の詐欺師であるタルチュフが、ある一家へもたらす騒動を描いている。
家主のオルゴンはなかなかの資産家。タルチュフを宗教的偉人だと尊敬してやまない。
実のところ、このタルチュフはいかがわしいペテン師で、この家の財産が目当て。
のみならずタルチュフはオルゴンの妻のエルミールへ横恋慕している。
オルゴン以外の家族はみな、
このタルチュフがとんでもない詐欺師であることを見破っている。
だまされているのは家長のオルゴンのみである。
ついにはオルゴンは、ほかに恋人のいる娘をタルチュフへと嫁がせようとする。
そのうえ全財産をタルチュフへ贈与することも計画している。

劇とは、かならず観客の存在を前提にしている。
観客はタルチュフがいかさま師に過ぎぬことを知っているわけだ。
すなわち、オルゴンの無知に比して、観客たる我われは全知の立場にいるといえよう。
このためタルチュフにだまされつづけているオルゴンをこっけいに感じる。
この喜劇のメインは演劇における無知と全知の関係を象徴している。
エルミールが夫のオルガンへ言うのである。タルチュフは詐欺師。
これからそのことを証明してみせるから、このテーブルの下に隠れていなさい。
オルガンが盗み聞きしていることを知らずにタルチュフが登場する。
タルチュフはいつものように恩人の妻であるエルミールを口説きはじめる。
そのうち無一文の自分を救ってくれたオルゴンの悪口まで言う始末。
観客は、ここで大笑いするはずである。
なぜなら観客はすべてを知っているからである。
テーブルの下にオルゴンがひそんでいること。タルチュフが詐欺師であること。
ひとり知らないのはオルゴンである。
無知のオルゴンは、この場面でようやくにしてタルチュフが自分を裏切っていたことを知る。

このあと多少のてんやわんやがあって、最後は国王からの使者の取りはからいで、
すべては丸くおさまる。勧善懲悪がなされる。
だが、重要なのはハッピーエンドよりも、むしろ終幕まえのクライマックスである。
オルゴンがようやく観客の知へ追いついた瞬間である。
これを快感に思うのが芝居の観客なのである。笑わざるをえない。
我われとて、いつオルゴンになるとも知らぬ存在ではないか。
人間はおのが無知を忘れて、あたかもオルゴンのようにふるまっているが、
いつ我われにあのテーブルの場面がやってくるかわからないのである。
この無知と全知の関係が、劇的なるものの本質である。
「人間・この劇的なるもの」のありかたは、全知をまえにした無知者のおそれだ。
人間は決して全知にはなりえぬ。どんな人間も神ではないのだから無知である。
ならば、どうして我われがあの愚かなオルゴンにならないと言い切れるものか。
観客から大笑いされる喜劇役者になる恐怖だ。
役者なら覚悟があるからまだよろしい。
しかし、我われ一般人が突然舞台でオルゴンの役をあてがわれたら――。

ギリシア悲劇「オイディプス王」を思い返してください。
国王オイディプスは、はなはだ傲慢な人間である。おのが知を誇っている。
というのも、かつてスフィンクスのだす難問を解いた経験があるため。
その業績が評価されて国王の座に着いたのが、ほかならぬオイディプスそのひと。
国王はおのれの知でもって解決できぬ問題はないとおごっている。
ところが、またもやテーバイの町へ不幸がおとずれる。飢饉、災厄である。
この国土の荒廃をなんとかしようとオイディプスが原因究明に乗り出すところで、
この悲劇は幕を開ける。
閉幕直前、明らかになるのは、すべての原因がオイディプスにあったこと。
父を殺し、母と寝たがために、テーバイの国土は呪われたのである。
オイディプスはおのが無知を悟る。全知を誇っていた過去を恥じる。
この(人間の)目は、なにも見通すことができないではないか!
オイディプスが両目をつぶすゆえんである。
なにも見えない目なら、役に立たない目なら、いっそのことつぶしてやる。
全盲の闇のなかで、しかしオイディプスはかつてよりは全知に近づいているのだ。
全知の存在があることを知っているからである。
人間がどうしようもなく無知であることを知るにいたったからである。

オルゴンならまだ笑って済ませられるが、オイディプスになるとそうはいかぬ。
喜劇と悲劇の相違だ。
しかし、本質的な部分では喜劇も悲劇もおなじであることをご理解いただけたと思う。
またもや定式化する。

「劇」=「人間(無知) vs 神(全知)」
「ブリタニキュス」(ラシーヌ/内藤濯訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。フランス産。古典劇。
シェイクスピアの翻訳で有名な英文学者の小田島雄志氏がこんな言葉を残している。
シェイクスピア劇に一貫するテーマはなにかという問いへの回答。

「人生には幸福と不幸があり、人間には表と裏がある」
(「シェイクスピア劇のヒーローたち」12ページ)


これはシェイクスピア劇のみならず、劇全般の魅力の説明でもある。
劇場のそとへひとたび出るとあなたは生きている人間の群れと出会う。
それぞれ幸福や不幸と格闘している人間たちである。
なにゆえかわからぬが幸福になる人間がいるいっぽうで、不幸になる人間もいる。
ニュースなどその繰り返しに過ぎないといってもよい。
どうしてこのような理不尽な幸福と不幸の差が生じるのかわからない。
もちろん自己啓発本を読めば、
がんばったものが幸福になれるといったようなことが書いてあり、
眉唾だなと思いながらも、ほかに信じるものもないから、
とりあえずがんばって生きているけれども、ちっとも劇的なことは起こらない。
しかし、劇場においては、集約されたかたちで人間の幸福と不幸を目撃することが可能。
どうしてある人間が幸福になり、別の人間が不幸になるかが芝居では明示されている。

人生は幸福と不幸で構成されている。人間は裏と表で一体をなしている。
人間は表ではみんなが幸福になればいいなどというが、
裏ではよほどの阿呆でないかぎりそんなことは思っていない。
わかっているのである。だれかが幸福になれば、別のひとが不幸にならざるをえぬ。
日本の学者がノーベル賞を取ったと喜ぶのはいいが、
その裏には受賞を逃したものがいるのである。
金儲けに成功するためには、多くのものを蹴落とさねばなるまい。

「ブリタニキュス」――。
キリスト教の迫害で知られるローマ皇帝のネロ(この劇ではネロン)が、
悪へすすむことを決心し、政敵のブリタニキュスを殺害するというのがストーリー。
ブリタニキュスにはジュニイという美しい婚約者がいた。
ネロンがこのジュニイを奪い去るところから劇は開幕する。
それまで善政をしいていたネロが、はじめて裏の部分を見せたのである。
といって、なかなか人間は悪に手を染められるものではない。
どんな悪人にも良心とよばれる表の部分はあるのだから。
ネロンを悪事へそそのかすのはブリタニキュスの部下のナルシスである。
ナルシスは主君を裏切り、ネロンへ取り入ろうとする。
かれはおのれを叱咤する。独白――。

「ナルシス、幸運がまたしてもそちを呼んでいる。
そちはあの声に刃向かいたいのか。
いや、俺たちは、幸運の願ってもない命令にどこまでも従おう。
俺たちは、運のないやからを亡きものにして幸福になろう」(P64)


組織のなかで生き残ろうとするならば、このナルシスの発言を批判するのはむずかしい。
出世するためには他人を踏み台へしなければならないときがあるのである。
ナルシスから毒汁を耳へ注ぎこまれた皇帝ネロンはある決心をする。
この決断があらゆる悲劇をもたらしたのである。さあ、悲劇の根幹とはなにか。
ネロンの腹心ブルスは、ナルシスとは正反対。
正義や善といったものを重んじる人間である。
ブルスはなんとかネロンの悪事をとめようとする。

ブルス「いったいわが君には、何にひかれてさような事を遊ばす気におなりで?」
ネロン「おれの名誉だ。おれの恋だ。俺の身の安全だ。俺のいのちだ」(P97)


このネロンの言葉が、かくのごとき悲劇を生じせしめたわけである。
「おれ」である。
教師や宗教家といった表の顔で生きている人間はよく言うでしょう。
他人のことを考えて行動しましょう。わがままはやめましょう。隣人愛を説く。
ネロンはこの真逆の道を選択したわけである。
相手の立場など考えていたら幸福や成功はおぼつかない。
なにより劇が生まれないのである。劇をひきおこすのは、決まって人間の裏である。
芝居をながめる観客は、表の仮面を顔にはりつけている。
表の顔を即座に偽善と断罪するのは、人間への理解が足らない。
観客は芝居を見ながら人間の裏側に目を見開かされるわけだ。
人間の裏側のなんと小気味いいことか。
その裏の部分がどれだけ人間の幸不幸へ関係しているか。

劇場をあとにした観客は、表の顔でこの芝居の感想を語らうことだろう。
かれらが裏の顔でふと思ったことが口にのぼることはまれと思われる。
だが、真に優良な劇は、人間の表ではなく裏を揺り動かすのではないだろうか。
裏――。たとえば、他人を押しのけてでも幸福になりたい自分。
「ル・シッド」(コルネイユ/岩瀬孝訳/「名作集」白水社)絶版

→戯曲。フランス産。
コルネイユはラシーヌ、モリエールとともにフランス古典劇の作家として知られている。
「ル・シッド」はコルネイユの代表作。初演は1637年。
イギリスでは1616年にシェイクスピアが没している。

古典劇の魅力は、明快なところではないか。
幸福と不幸がはっきりとわかれる。勝者と敗者もそう。善人は善人で、悪人は悪人。
現代は、そのようにかんたんにはいかないわけである。
たとえば会社をリストラされても(不幸)、
仕方なく始めた自営業で当たることもある(幸福)。
人間ではないがハルウララのような負けつづきの競走馬の人気が出てしまうこともある。
仕事はできないくせに嫌味な上司(悪人)が家庭ではよきパパ(善人)の可能性もある。
東大を出てベストセラーまで出版しているのに、もてないことをことさら気に病む男もいる。
かように現実は複雑である。

ゆえに現代人は古典劇を模倣ぬきに書くことはかなわぬ。
だが、現代人には古典劇を鑑賞(読書)することは許されている。
我われが古典劇を愛好するとすれば、これら芝居のどこに魅惑されるのか。
シンプルなところである。
現代は一見すると複雑なシステムに思えるが、
その実、古典劇と変わらぬことをやっているといえなくもないのである。
いくら複雑といっても、やはり幸不幸と勝敗が人間を喜怒哀楽させている。
人間を支配しているのはいつの時代も運不運なのだが、
現代ではこの力学が見えないように平等や努力といった言葉で隠されている。
我われが古典劇を見ながら(読みながら)発見するのは、
以前から知っていたことに過ぎない。
人間が死ぬのはだれもが知っている。
幸福な人間がいれば、その裏で不幸な人間がいるのは当たり前である。
勝つものがいれば、負けるものもいる。
小学生でも知っている常識以前の事実である。
しかし、我われが古典劇を見たとき発見するのはこれら単純な事実なのだ。

「ル・シッド」――。
ドン・ロドリーグは名家の青年将校である。父がある伯爵から侮辱を受けたと聞く。
ロドリーグは父から伯爵への復讐を依頼される。名誉のためである。
だが、困ったことに、父を侮辱した伯爵の娘というのが、ロドリーグの婚約者なのだ。
父親(名誉)を取るか、婚約者(恋)を取るかである。

「ああ、胸が二つに裂けそうだ!
私の恋は私の名誉に逆らって、別の望みを抱いている。
父の恨みを晴らすなら、恋人を失うほかない。
恨みを思えば勇気が湧くが、恋を思えば腕がなえる。
恋の心裏切るか恥をしのんで汚名に生きるか、


二つに一つの窮地に追い込まれて、

どちらを取ろうがこの苦しみは果てもない。
ああ、神よ、なんと激しい苦しみでしょう!
この恥辱を見逃すがいいのか?
それともシメーヌ(=婚約者)の父を懲らしめなければならないのか?」(P79)


ロドリーグは父のかたきである伯爵と決闘をして、婚約者の父親を殺してしまう。
すると、今度はロドリーグの「二つに一つ」が、婚約者シメーヌにうつされる。
ある人間が選択に迷う。選択を決定して行為を敢行する。
その結果として、今度は別の人間が、新たな選択に迫られるわけである。
シメーヌの選択も、ロドリーグとおなじもの。名誉か愛かだ。
無慙にも殺害された父のかたきであるロドリーゴへ復讐するか。
それとも、父の名誉はあきらめ、愛する婚約者との婚姻を選択するか。

かよわき女の身。シメーヌは王様へロドリーゴの裁きを要求する。
シメーヌもロドリーゴとおなじく恋ではなく名誉を選択したわけである。
王の裁きがでるまえに、別の裁きがくだされる。これは神の裁きなのかは知らぬ。
モール人が大挙してこの国を攻めてくるのである。
ロドリーゴは獅子奮迅の働きで、もの異国の軍隊を追い払う。
というのも、ロドリーゴは命など惜しくなかったのである。
愛する婚約者の父親を殺してしまったという自責の念にたえられない。
いっそ死んだほうがいい。命知らずの活躍を戦地で可能にするのはこのため。

ロドリーゴのおかげでこの国は救われたわけである。
王はもう伯爵殺しの罪でロドリーゴを罰するつもりはない。
ロドリーゴはいまや国全体が誇りにする英雄なのだから。
ところが、そうなるとおさまらないのがシメーヌの感情。
父の名誉はどうなったのだと国王へ訴えるが聞き入られない。
シメーヌは別の求婚者にお願いして、ロドリーゴへ決闘を申し込ませる。
この決闘でどちらが勝ってもロドリーゴは喜べないのである。
ロドリーゴの勝利は父の名誉の失墜。
ロドリーゴの死は愛する婚約者を失うことを意味する。
シメーヌは乳母のエルヴィールにいう。

「エルヴィール、苦しくて仕方がない、嘆かずにはいられない。
ただもう祈るばかりなのに、何もかも不安の種。
少しも心からの祈願が込められない。
何を祈っても、すぐ後から後悔する始末。
わたしのために恋敵同士に剣を取らせることにしてしまった。
たとえわたしの望みどおりの結末でも、後悔の涙を流すことは同じ。
運命がわたしに味方したところで、父の恨みが晴らせないか、
でなければ恋人が死んでしまうか


どちらか一つですもの 」(P116)

神が仕組んだかのような奇蹟が起こる。
ある誤解がもとで、シメーヌはロドリーゴが死んだと思い泣き伏す。
だが、真相が明らかになり、決闘でどちらも死んでいないことを知る。
勇将ロドリーゴが相手の剣を打ち払ったところで決闘を終えたのである。
地上の問題を裁くのは王権である。
王はふたりへ命ずる。過去の因縁は忘れ、愛しあうふたりは結婚するがいい。
ロドリーゴもシメーヌも王の命令へ服従する。

整理する。劇とはなにか。
人間は「二つに一つ」の選択を迫られる。この芝居の場合は、名誉か恋か。
「どちらか一つ」を実行するしかない。
結果、どうなるかは人間のあずかりしらぬこと。
といっても、基本的にはこの結果も「二つに一つ」である。
勝つか負けるか。幸福になるか不幸になるか。
この裁きを下すのは人間ではない。運命。いうなれば神である。
ということは、劇的行為とは、二重の選択である。
まず人間が「二つに一つ」を選択する。
そのつぎに神がこれまた「二つに一つ」を選択する。
人間は神が下した結果に、いくら不満があろうが、生きている以上は従うほかない。
定式化すると以下のようになる。

「劇」=「(二つに一つ)→(どちらか一つ)」

「劇」=「(選択)→(結果)」

「劇」=「(人間の決定)→(神の決定)」
本日放送の山田太一ドラマ「まだそんなに老けてはいない」。感想を述べる。

山田ドラマの特徴というのは切実さにある。切実な現実認識。
なるべくなら見ないで済ませたい現実を、さあどうだ! 
と嫌がらせのように視聴者の面前にもちだしてくる。ハッとさせるわけだ。
かといって、ドラマのなかの人間が、現実へ正々堂々と向き合うわけではない。
それは映画の仕事である。でっかいスクリーンのなかにいる人間がやればいいこと。
テレビのやりかたではないと山田太一は考える。
ちいさなテレビ画面にうつしだされるのは、いわば自画像。ちっぽけな我われだ。
このときテレビは鏡となる。

切実な現実に勇敢へ向かっていく英雄を山田太一は決して描かぬ。
このテレビ作家の描くのは、現実に右往左往する小市民。
あたふたしながら現実から敗走する人間を好んで描くのが山田太一である。
といっても、そうそう現実から逃げ切れるものではない。
それが切実なものであればなおさらである。
現実に包囲された人間は、
一瞬こそ映画のような英雄的行動を取ろうとするがうまくいかない。
せめてできるのは頭をかきむしるくらいである。
見ないで済ませたい現実だが、四方八方を現実に囲まれてしまったから、
やむなくかれは現実と対峙する。むろん及び腰。かなうはずがないのはわかっている。
かれは現実のほころびをなんとか探そうとする。
そのためには現実に土下座をも辞さぬ覚悟がある。
いったん現実へつかまった人間は、また現実から逃走するのである。
どこへか。新たなフィクションをめがけてだ。
まとめると、こうなる。
かつてのフィクションは現実のまえにもろくも崩れ去った。
だが、人間は新しいフィクションを作ることでこの現実を乗り越えることができる――。

「まだそんなに老けてはいない」が山田ドラマにしては単調な理由は、
切実な現実がないためだろう。
山田太一は上品なおとなのドラマを志向した。
いつもの泥臭いドラマを意識的に回避した。
このドラマにおける現実とは、せいぜい老後の退屈な生活くらいのもの。
ある世代にとっては切実な問題だろうが、万民の共感するところではない。
消防隊員の中村雅俊は怪我で休職中。2年後に定年を控えている。これが現実だ。
どこへ逃げるかというと、どきどきするような恋である。
といって、山田太一はラブホテルの利用を拒む。
中学生のような恋である。喫茶店でコーヒーを飲むだけ。
あるいは、中学生以下かもしれぬ。
たがいに配偶者がいる中年の男女はキスすらしないのだから。
ときめきである。夢のような一瞬。恋のようなもの。フィクションである。
むろん、ふたりは結ばれることはない。手もにぎりあうことなく別れる。
別れて生きていく。中村雅俊は復職して職場へ戻る。
相方の余貴美子はカナダへ行く。それだけである。
また、ふたりは新たなフィクションを生きるのであろう。
たいしたフィクションではない。いうなれば淡い期待のようなもの。
もしかしたら、なにかあるかもしれない。この程度のフィクションだ。

中村雅俊のこのせりふがよかった。
妻子持ちで定年前の中年男が、人妻と上品な喫茶店でコーヒーを飲む。
キスもしていない。手もにぎっていない。
だのに、中村雅俊はこんなことをいう。

「こんなことが、まさかおれの人生にあるなんて、思ってもいませんでした」

団塊の世代のどれほどが「まだそんなに老けてはいない」を見たのか知らない。
だが、かの世代は思うはずである。
もしかしたら、もしかしたら、自分にも、あんなことが――。
余貴美子みたいな美女が、中村雅俊のような渋い男が。
いや、岸辺一徳レベルでいい。MEGUMIは無理でも原田美枝子くらいなら。
喫茶店でコーヒーを飲むくらいだったら、もしや自分の人生にも――。
フィクションである。気休めとわれながら笑いたくなるようなフィクション。
しかし、老後に絶望して自殺するよりは、
よほどフィクションを生き抜くほうがいいではないか。

ちなみに中村雅俊が怪我をしたのはある出火が原因である。
老人夫婦が絶望して心中。周囲の迷惑なんて知ったことかと自宅に火をつけた。
そこに消火へかけつけたのが中村雅俊演じる消防隊員。
かれはこの火事場で足を怪我したのである。
同時に、この光景がトラウマにもなる。
命を救おうと火災現場へ突入したら、老夫婦は命なんていらないと投げ出していた。
あんなふうになるくらいなら、現実がああなるほかないなら、せめて、せめて。
フィクションのどこが悪いのだろう。現実ってそんなにえらいのかな。
山田太一がテレビドラマで一貫して訴えきたテーマである。
「それはあなたの業(ごう)でしょうから」
さきほど電話でいわれた言葉が耳に突き刺さった。
傷ついたわけではない。うなったのみ。
よく見ているなとため息をつくしかなかった。

業はサンスクリット語でカルマ。行為を意味する語である。
ちなみにこの行為を古代ギリシア語ではドラーンという。
ドラーンからドラマに派生する。日本語にすると劇である。
とすると、業=カルマ=行為=ドラーン=ドラマ=劇。
最初と最後を取ると、業=劇である。
人間の宿業をえがく宮本輝の小説が劇的なのはこのためか。
ユージン・オニールの戯曲が日本人には仏教の業を感じさせるのも同様。
人間の業をつきつめたのが物語。
人間の行為をはなばなしくえがいたのが劇。
物語と劇が一本の線でむすばれたわけである。

みなさまはうちのブログを見て思われるかもしれない。
なんの脈絡もないと。
演劇関係と物語作家のつながりである。
このような共通性があったということだ。
人間がある行為を実行するのは、そのときの周囲の環境から判断しての結果。
ならば、かの人間を行為に走らせたものはなにかというと、
かつての行為ということになる。
なぜならば現在の環境は過去の行為の結果なのだから。

なんでもいい。なにか行為をしたとする。
それは果たして自由な行動か。いな、周囲の状況が行なわしめた。
その状況はなにゆえそうなっているか。過去の行為のためである。
かくのごとくさかのぼっていくと誕生へいきつくしかない。
どうしてかの人間が生まれたか。両親が知り合ったからである。結婚したがため。
では、どのような理由で、ふた親は結婚という行為をしたか。
行為を上流までたどると、この男女の出産時を原因とするしかない。
すると、どうだ。祖父母の時代の行為が原因である。
これこそまさしく仏教の業の世界である。宿業だ。宿命だ。

「それはあなたの業でしょうから」
かれのひと言でいろいろなことを考えた。業である。哀しいかな、業なのだ。
自業自得もひとつの業のかたちである。
だが、これだけではない。自業だけではないのだ。
両親の業も人間には関係してくる。
いまは流行らない言葉だが「親の因果が子に報いる」というやつだ。

ギリシア悲劇、シェイクスピア、ストリンドベリ、オニールが好きだ。
宮本輝、井上靖、山田太一のファンでもある。
一見すると矛盾するようなわたしの嗜好をようやく接続することができた。
ドラマはカルマだ。
物語と劇が好きなのである。書きたいのである。生きたいのである。
本日、某大学病院にて。
名前をよばれ席を立ち会計をしにいくと肩をたたかれる。
若い女性。
これ落しましたよ。
千円札をわたされる。
えとあのその~と口ごもっているうちにその女性は消える。
財布をチェック。残金は家で確認したのと変わらず。
あいや~。千円、もうかってしまった。
こんなことは人生ではじめてであーる♪

そもそも今日は通院日ではなかった。
先週、診察を受けている。
医師との意思疎通がうまくいかずある漢方薬をけずられた。
そのせいだろう。受診翌日からひどい頭痛が。
もう我慢できない。
本来、月に1度の通院を変更したのはこれがはじめて。
お願いをしにいったわけだ。いつもの漢方薬をくださいと。それを思い立ったのは今日。
昨日の時点では今日、病院へ行くとはちっとも思っていなかった。

なにが言いたいのか。
人生はタナボタであーる♪
明日、なにがあるかわからない。これこそ人生なのだ。
わかっている。本日経験したことなどたいしたタナボタではない。
しかし、いいですか、だからといって、
どうして、明日、もっと大きなタナボタがないと断言できますか。
今日までの人生で1回もタナボタがなかったからといって、
それは明日にタナボタがないことをかならずしも証明するわけではない。
今日はダメでも、もしかしたら明日。
明日がダメでも、もしかしたらその翌日こそ!
みなさまの人生に明日、タナボタがないと言い切れるひとはどこにもいません。

タナボタを待つ。
このような生きかたがもっともかしこいのではあるまいか。
世界中のだれもが明日、なにがあるかはわからない。
もしかしたら明日、なにかあるかもしれない。
長年、待ちこがれていたなにかが。いな、それ以上のものが。
だから、今日をがんばる。
がんばるのは、報われるためではない。タナボタまでの暇つぶし。
僥倖(ぎょうこう)があったら、がんばったから当然などと思わない。
ありがたきタナボタよと手をあわせる。
最終的に死ぬまで、なんにもタナボタがなかったとしても、それはそれでよし。
いつかタナボタがあるかもと毎日ほがらかに生きられたのだから。

かといって、このような生きかたはなかなかむずかしい。
だから文芸があるのではないか(文学がなにかはわからない。あくまでも文芸)。
文芸はうまいウソで読者をだます。
明日こそはタナボタがあるかもしれないと思わせる。
いわば麻酔である。痛み止め。
笑うなかれ。どうせいつか死ぬ人生なら痛みのないほうがいいとは思いませんか。
小説、漫画、テレビ、映画――。
フィクションの役割とはこの痛み止めにあるのではないか。麻酔である。
かつて効いたモルヒネ(宗教)は、いまはなかなか薬効があらわれない。
だからこそ新薬の発明が待たれている。

わたしの祖父はスクワレンというインチキ健康食品を製造・販売していた。
成分上は効くはずがないのだが、難病の治ったひとがかなりいたそうである。
めざすはこの祖父である。がんばるつもりだ。
しかし、がんばりすぎて重要なことを忘れてはならない。なんとなく、タナボタ。
「アエラムック 宗教学がわかる。」(朝日新聞社)

→学者や院生の「上から目線」というのはなんとかならないものか。
たとえば、このアエラムック。巻末に文献ガイドが載っている。
なかなか役に立つことも少なくないので重宝している。
だが、どうしてこんなよけいなことを書くのか。なにさまなのでしょう。

「『宗教』を知らずして『宗教学』ははじまらない。
読者も『○○宗教入門』などといったものを読んで知った気になるだけでなく、
いわゆる聖典にも触れておいてもらいたいものだ」(P181)


どんな顔をしてこの一文をしたためたのか想像すると吐き気がする。
はるか高みから下界を見下ろす仙人かなにかみたいじゃないか。
なんの悩みもなくなった高僧みたいなことを書きやがる。ああ、こっちも書いてやる。

宗教学者に人間は救えない。

そこらへんの作家の書くいかがわしい宗教入門本のほうが、よほど人間を慰めている。
すると、ここが事実と違うと学者は作家を愚弄する。
鬼の首を取ったように得意げなのが笑える。
幼児が赤信号をわたっているおとなたちを注意しているような醜悪な風景である。
たとえば、遠藤周作の聖書解釈がめちゃくちゃだという本を書いたひとがいる。
だから、どうしたというのか。
遠藤周作のインチキ本を読んで、だまされたまま死んでゆく人間のどこが悪いのか。
事実とやらを知っているキリスト教学者は、困っている人間になにをしてあげられるのか。
つらい苦しい現実に打ちのめされて、せめてものウソにすがっている人間に、
そんなウソを信じるなと言って聞かせるのが、そんなに高尚な生きかたなのか。
わかりませんね~。

それに学者のいう事実とやらは、ころころ変わる。
なにか文献が発見されれば、その場でそれまでの事実がウソになる。
で、学者はなにをするかというと、かつての事実を信じている人間を見下す。
なかにはこの愚民どもが、などと本気で口にする学者までいるそうである。
事実がなんだっていうんだ。正しいのが、そんなに偉いのかい。
裁判キチガイの学者もいる。
うちのブログもある記事を削除しないと訴えると某学者から脅されたことがある。
このへんが学者だなと笑ってしまう。
ほんとうに人間が怒ったら裁判などに期待しない。
第三者から自分の正しさを認めてもらおうなどと思わない。
自分は正しい。そう思ったら、迷わず相手を殴りにいく。
「宗教のキーワード集」(学燈社)

→学者さんの記事を集めたもの。
いろんな学者先生(国文学中心か?)が、
たとえば巡礼だったら巡礼について1、2ページ書く。
意味不明な論考が多い。読み手をまったく無視した事実のてんこ盛りばかり。
間違ってはいないのだろう。おそらく正しい。
けれども、なにを言いたいのか読み手はわからない。ゆえに楽しくもない。
学者先生というのは、文章の書きかたを学ぶ機会がないのだろうか。
正しければいいと考えているとしか思えぬ悪文を平気で書く。
なにゆえ自分の両親へ読ませてもわかってもらえないような文章を書くのか。
それとも学者になるような人間の親は、これまた学者ばかりなのだろうか。
わからないというと、学者さんはもっと勉強せいとこちらの非を責める。
あなたの勉強が足らないからわからないのだと言うのである。
だから、書いた文章を学者ではない親族のものへ見せてくださいと頼んでいる。
わからないと言われたら、かの学者は血縁者をバカとののしるのだろうか。

そもそもだ。学者に宗教がわかるはずがない。
学者とはなにか。正しさを追求する物好きである。
いな、これでは口が悪い。学者とは、真実を追い求める高潔のひと。
だが、宗教とは、ウソのかたまりのようなものでしょう。
美しく、また役にも立つウソの結晶を、学者が事実をもとに腑分けする?
意味のないことである。
人間はどのみちウソを生きるしかない。
ならよりよいウソで自分をだまして死んでゆくほうが得策。
ここに宗教の用途があるわけである。すなわち、ウソであることに価値がある。
このような宗教を、ホント大好きの学者先生が理解できるはずがあるまい。

学者はどうしてこうも事実(ホント)が好きなのか。
たとえば、そうだ。もてない人間がいると告発する学者がいる。だから、どうした。
それがかりに事実だとして、だからなんなのか。
いつか運命の恋人が現われるというウソを信じるほうがよほどいいではないか。
別に現実化しなくてもいいのである。
いつか赤い糸でむすばれた……というウソを信じながら死んでゆく。
これでいいではないか。どうしてこういう生きかたがバカにされるのかわからない。
ホントがウソに比べて、どうしてそうも偉いのか。
偉そうに高説を垂れる宗教学者より、
なんとかガンを治そうとお題目を必死で唱えている創価学会末端の信者のほうが
よほど宗教の本質をわかっていると思うが、どうでしょうか。
「美と芸術の理論」(シラー/草薙正夫訳/岩波文庫)

→書簡集。シラーがケラーへ送った手紙を集めたもの。
なんでも、シラーは美学者としても名高いらしい。
カントの影響を受けて、ふたりで美学を創設したというのが定説とのこと。
まあ、予想はしていたことだが、さっぱりわからないわけである。
1行も理解できる文章がなかった。
そのくせ読後の感想を書くつもりなのかい? 
なんてこわいおにいさんに脅されたら、首をふりふり。
バカめと愚弄されたら、バカで~すと開き直る(にっこり)。
いや、なんというか、世の中にはむずかしいことを考えているひとがいるもんだ。
理解できるのは、ただひとつ。
この美学とやらが、行為ではないということのみ。
行為の前段階。いつまで経っても行為へいたらないための言い訳。
おっと、わかったようなことを書いてしまっている。いけない、いけない。
人間が下品なんだわたしは。
おそらくシラーの芝居も芸術としては見ていない。
街中の喧嘩を特等席で眺めるような心持。
いいね。やれやれ。ものども、殺しあえ。こんな感じ。
かのストリートファイターが意外にもインテリだったので驚いた、
というのが、ええはい、この本の感想です。
「ヴィルヘルム・テル」(シラー/桜井政隆・桜井国隆訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。
この芝居で有名なのは例のあれ。子どもの頭のうえにリンゴをのせて父親が矢で射る。
刑事ドラマの時限爆弾ネタ(切るのは赤の線か青の線か)に通じるものがある。
ここではリンゴの場面を少し詳しく見ていきたい。

なにゆえヴィルヘルム・テルが息子の頭上にあるリンゴを射なければならなかったか。
テルがささいな粗相をお代官様にしたためである。
立腹したお代官様はヴィルヘルム・テルに命じる。以前の恨みもある。
子のリンゴを射よ。さもなくばおまえの首はないと思え。
みごとリンゴを射抜いた場合のみ、おまえの命を助けてやろう。

「――これ、なにをもじもじしている。
死に値する罪を犯したから、殺してもいいやつだが、見ろ、
慈悲をもって一命だけは日ごろ鍛えたお前の腕にまかせてやる。
おのが生死を自由にすることが出来たら、無慙の宣告だなどと嘆きようはあるまい。
百発百中はお前の自慢ではないか。
さあ、射手、今こそお前の腕を見せるべき時だ、
的は上等、褒美は莫大だぞ」(P125)


シラーは人間の自由を追求した劇作家である。
この場面でヴィルヘルム・テルに自由はあるのだろうか。生死の自由である。
まずは最初の二者択一。射るか、射ぬかだ。射なければ即刻、死である。
矢を射る場合においてのみ、つかの間の生が許されている。
だが、このときにも、ふたつにひとつである。
矢がリンゴを射抜くか。はずれるか。前者が生、後者が死を意味する。
矢のはずれた場合さらにリスクがあって、
ややもすると愛する子どもを傷つけてしまうかもしれない。
最悪、死はのがれても、顔に矢のあたる危険性は高い。
みなさまならどうなさるかは知らぬが、テルは何度も代官へ嘆願する。

「あれを射るのは免じてください。代りにここの胸を。(胸をかきひろげる。)
御家来衆を呼んで私を刺し殺させて下さい」(P128)


代官はダメだという。射よ、と命ずるのみ。さあ、どうするか。
射られる子どものせりふも紹介する。

「なぜ目かくしがいるんだ。父ちゃんの射る矢を僕がこわがると思っているな。
僕、じいっと待っている。瞬(またたき)だってしやしない。
――さあ父ちゃん、早く名人の腕を見せておやりよ。
あの人は父ちゃんの腕を疑って、僕たちを殺す考らしい――
あの肝癪もちのつらあてに、早く射あてておくれよ」(P127)


テルの矢はリンゴを射抜くという結果から見たら、これは美談のようにも思えるが、
その実、かなりきわどい場面であることを何度も繰り返して注意をうながしたい。
ヴィルヘルム・テルはどうして矢を放ったのか。
最終的には、自分の腕に自信があったということに尽きる。
とすると、テルは伝説の英雄ではなく、神をもおそれぬ傲岸不遜な人間ではないか。
こころのうちで祈りの言葉を発した可能性は考えられるが、
せりふを見るかぎりテルは神へ依頼をしていない。
「平家物語」の那須与一でさえ神明への嘆願をしているというのにである。
おのが名誉のみが問題の那須与一でさえも、なのだ。
なのに親子ともどもの命がかかっているこの場面で、
ヴィルヘルム・テルの口から神の御名がでてこないのは珍妙である。

たとえばどこかの社長さんが、このエピソードを社員への訓戒に用いるかもしれない。
何ごともやってみなくてはわからない。チャレンジの精神がなによりも大切だ。
我われもヴィルヘルム・テルを見習おうじゃないか。
チャンスにリスクはつきもの。重要なのはチャレンジ、チャレンジ!
こんなふうに社員を叱咤激励するわけだ。
やってできないことはない。がんばればなんでもできるの思想である。
裏返せば、できないのはがんばっていないからということになる。
だれでもヴィルヘルム・テルのようにがんばれば、矢はかならずリンゴを射抜くというのだ。
もちろん、それはちがうわけである。
この芝居だけではなく、世事全般、突き詰めれば、この手のふたつにひとつである。
結果が失敗だったら選択が誤り、結果が成功なら選択が正しい、とかれらは言う。
ヴィルヘルム・テルの矢がリンゴを射抜けば、射手は成功者。
英雄として語り継がれる。
だが、もしだ。テルの矢が子どもの頭を射抜いていたら、世のひとはどういうか。
なんと愚かな人間と、ヴィルヘルム・テルをあざわらうのではないか。
同情はするかもしれぬ。だが、決して英雄にはなりはしない。
この男が自分の力を過信した咎(とが)を責められるのは避けられまい。

忘れてはならない。我われはこのような世界を生きていることを。
「ヴィルヘルム・テル」は、シラー劇ではめずらしいハッピーエンドである。
ヴィルヘルム・テルのリンゴのエピソードに励まされた人民が蜂起し自由を獲得する。
スイスの人民が旧権力を打ち倒すのである。
この芝居を見て(読んで)喝采するのもいいだろう。
だが、決して忘れてはならない。
これはたまたま運がよく矢がリンゴへあたったからこうなったに過ぎぬことを。
はかり間違えば不幸のどん底である。わが手でなにより大切な子を殺害する――。

ふう。これで「フィエスコの叛乱」(岩波文庫)をのぞく、
シラーのすべての劇作に目をとおしたことになる。
自己満足にも似た達成感を満喫しながら、
ふと思い出すのは山本周五郎の人生訓である。
この大衆小説家はブラウニングのある言葉を座右の銘にしていたという。

「人間の真価は、その人が死んだとき、なにを為したかで決るのではなく、
彼が生きていたとき、なにを為そうとしたか――である」


行為の結果は人間のあずかりしらぬこと。運不運がどうしてもある。
成功者をことさらあがめるのはやめよう。敗残者を必要以上に見下すのもやめよう。
問題は結果ではない。業績ではないのだ。
何を為したか、ではない。何を為そうとしたか、である。
こう考えるなら、よしんばヴィルヘルム・テルがわが子の頭部を矢で射抜いたとしても、
この英雄への評価はなんら変わることはない。
かれは生きようとした。ヴィルヘルム・テルはわが子とともに生きようとしたのである。
成功しようが失敗しようが、ヴィルヘルム・テルは自由を求めたことに変わりはない。
この英雄はみごとリンゴを射抜いたから偉いのではない。
人間の自由の限界を生き抜いたからヴィルヘルム・テルは英雄なのである。

(付記)ちょっとした遊びごころで付言するのをお許し願いたい。
一部のひとにしかわからないネタを使うのはあまり好きではないのだが。
ふふふ。書いちゃおう。
学歴や収入、肩書きで人間を判断するのを好む、
「死んでしまえ」が口癖の某評論家はやはり人間がいやしいと思う。
「メッシーナの花嫁」(シラー/相良守峯訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。
問う。答えよ。

「戦争か、平和か! 
籤(くじ)はまだ、未来のふところの暗闇に隠されている」(P29)


どちらの籤をひきたいか。戦争か、平和か。
常識人はなにをバカなことをと顔をしかめるのだろう。平和に決まっている。
平和ほど尊いものはない。平和は命を賭けても守る価値がある。
そうだろうか。平和なときに命を賭けるものがなにかあるというのかい?
命を賭けるのは戦場ではないか。命を賭けて行動する。
戦場での行動とはなにか。とっさに選択肢を思い浮かべ、
その中から最良と考えるものを選び、即座に身体へ指令をだす。
一瞬、一瞬が緊張の連続である。右に動くか、左に動くか。
敵の銃弾はどちらから来る可能性が高いか。気のゆるみは死を意味する。
だが、どれだけ注意をしていても地雷を踏んでしまうことはある。
いくら優秀な兵隊でも死ぬときは死ぬ。
戦場の兵士ほど生の昂揚感を味わっているものはいまい。
生か死かを不断に選択しているのである。
個人は意思を持ち、生き延びんがために、運命と対決する。
お気づきだろうがこれは軍人のことのみを言っているわけではない。
戦争は劇だ。劇を生きるとは、戦火の軍人たらんとすることである。

「平和は結構なものだ、例えばそれは愛らしい少年のように、
静かな小川のほとりに安らかに身を横たえている。
(中略)
しかしながら人間の運命の原動力たる戦争も敬意を払われなければならぬ。
わしは活気に富んだ生活が好きだ。
幸運の波が或(あるい)は高く、或は低く、動揺し、浮動し、揺曳することが好きだ。
なぜなれば人間は平和の中では委縮するものだ。
安閑たる休息は勇気の墓場であり、法律というのは弱者の友であって、
あらゆるものをただ平等にし、世の中を平板なものにする。
だが戦争は力を顕揚し、一切のものを非凡なものにまで高め、
臆病者にすら勇気を生ぜしめるからだ」(P66)


これは戦争の称揚だが、劇の魅力の説明として用いることも可能。
身もふたもないことを言うと、平和はつまらないのである。
たとえば、渋谷で――。そうだな、頭の悪そうなおにいちゃんとおねえちゃんが
チュッチュチュッチュやりあっているのを見ていても、おもしろくもなんともない。
まだしも、夫婦喧嘩のほうが退屈しのぎになる。
夫が大学教授やなにかで、社会的地位が高かったりすると、
日常とのギャップがはなはだ見ものである。
映画なんかもそうで、なんだかんだいっても戦争映画は受けるわけでしょう。
たとえ最後は平和の大切さを訴えるにしろだ。
平和はをえがくには戦争が不可欠なのかどうかは知らないけれども。
以上、見るぶんには平和よりも戦争のほうがおもしろいというのは同意してもらえると思う。
繰り返す。見るなら平和よりも戦争。日常よりも非日常。無風状態よりも劇的興奮。

ここから先はなかなか共感してもらうのは難しいのだが、
劇的なるものの本質に関わることなので、なんとかおつきあい願いたい。
たとえば、旅行の経験を思い出してください。なるべくなら一人旅。
事前にガイドブックで調べてまわるところを決める。
その計画とおりにうまく運んだ旅行というのは、おもしろくないと思いませんか。
計画どおりに行かないのが旅の魅力。もっと言うなら、トラブルがあったほうが楽しい。
みんなが行く観光スポットを、何ごともなく通過したというような旅行はつまらない。
つまらないというのは語弊があるか。なら、記憶に残らないと言いなおそう。
旅には、そういうところがある。
これは人生も同様で、なんにもないよりは、たとえ不幸でもあったほうがいい。
万人がこう考えるわけではないが、なかにはこう考えるひともいる。
このためなのか本人は意識していなくても、無意識的に不幸を作ってしまうひとがいる。
平和よりも戦争状態を好むわけである。月並みな幸福よりも、むしろ不幸を求める。
緊張に飢えている。なあなあにたえきれない。劇を欲望している。劇的に生きたい。
劇というのは不幸がセットでついてくるのを知っていても、あえてなお劇を渇望する。
これが人間である。「人間・この劇的なるもの」である。
(ちなみに、この劇的なるものへ柳美里、中島義道はかなり自覚的。自作自演的。
ストリンドベリは完全に無自覚。そこがすごい。小谷野敦がどうかは知らない)

動物は不幸というものがわからない。
かりに動物を虐待する。動物は嫌がる。苦しむ。限界が来たら死ぬ。それだけである。
だが、人間はそうではない。人間は不幸を味わうことができる。
自分を虐待するなにものかへ言葉で抗議することが可能だ。
なにゆえきさまはわが身をさいなむか。こう問うことができる。
さらに、これだけではない。向かっていくことができる。窮鼠、猫をかむである。
むろん鼠(ねずみ)が猫にかなうはずはない。殺されることにかわりはない。
けれども、向かっていくことは許されているのである。これが劇だ。
鼠は猫へあらゆることをためす。恭順、追従、反抗、呪詛、屈服、助命、嘆願――。
おもしろいのは、なにをしても結局は食い殺されることを、
この鼠がどこかで知っていることだ。それでも猫へ向かっていく鼠。
大きなものへ立ち向かってゆく人間。
これがギリシア悲劇から連綿と続く、正統的な劇のありかたである。

ようやく「メッシーナの花嫁」の話へうつる。
文庫の解説を復唱するのは能のあるやりかたではないが、
シラーはこの戯曲を書くにあたって、そうとうギリシア悲劇を勉強したそうである。
ご存じのように、ギリシア劇はコンテスト形式で優劣が争われたわけだが、
シラーは「メッシーナの花嫁」をギリシア人のまえで上演したら
拍手喝采を受けたであろうと豪語していたとのこと。
たしかにそれだけのことはある。ギリシア悲劇よりもギリシア悲劇らしいところがある。
反面、教科書めいたところがあり評価がわかれるところだろう。
あまりにも劇が整いすぎているという批判が生じもしよう。

呪われた一家の物語である。呪われしは母のふしど。
本来は父に嫁ぐところだったのを、その息子と結婚してしまったのが神々の怒りを買う。
母イザベラはまず男の兄弟を生む。その次は娘。ところが――。

「そのアラビア人の占いによると、もし私が娘を生むことがあったら、
その子は父上の二人の息子を殺した上、
一族がのこらず娘のために滅亡するというのです。
――ところがわたしは女の子を生み落とした。
すると父上はこの生れた子を直ぐさま、海へ投げこむようにという
世にも残酷な命令を下された。
けれども私は、このむごい仕業を阻み止め、一人の忠実なしもべの、
人目を忍んでの奉仕によって娘の命を助けたのです」(P98)


どこかで聞いたことのある話ではないか。
そう、シラーは「オイディプス王」から丸ごと劇構造を拝借している。
父が死んだところから劇は開幕する。父の不在は、不安定を意味する。
あらたな権力構造が作られねばならぬ。劇が生じるゆえんである。
かねてから兄弟の仲が悪い。父王の死で、はどめがきかなくなる。
兄か弟か。ふたつにひとつ。葛藤である。
この兄弟がおなじ娘に恋をする。娘の愛していたのは兄のほうであった。
嫉妬から激情にかられた弟は兄を殺してしまう。
しかし、この娘こそ、母が誕生時に尼寺へ隠しおいた、かの兄弟の妹だったのである。
予言(預言)の成就。近親相姦(未遂だが)。親族殺人(兄殺し)。運命への人間の盲目。
完全なかたちのギリシア悲劇といってよいと思われる。
妹への恋心ゆえに兄をほふったこの殺人者は神々への復讐のため自刃する――。

最後にいくつか、いかにもなところを引用する。
劇への理解が深まるきっかけになればと思うからである。

「……こうして、善意から出て、かえって悪をなしたのでございます」(P122)

「事が行われる前と、行われた後とでは、その容貌がまるで違ってしまうものだ。
復讐の念が胸にあふれるとき、それは猛々しい眼をしておん身を見据える。
しかも遂にこれを為しとげたとき、おん身を見るその面は蒼ざめている」(P150)


行為の重みである。人間は行為の結果を予測しえぬ。劇の根幹である。

「古くからこの家に付き纏っている呪いを、わしは死をもって解決する。
自由な死のみが、宿命の連鎖を断ち切るのだ」(P197)


劇とは煎じ詰めれば自由と宿命の葛藤である。
両者の斬りあいが象徴的にあらわれるのは自殺、殺人の場面。
人間は自由を求めて逃走するが、宿命に追いつかれ、おのが運命を見たうえで散ってゆく。
「オルレアンの少女」(シルレル/佐藤通次訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。シラー作品。
シラー劇に頻出する言葉はなにをさしおいても運命である。
これはわたしが運命論者だから、ことさら気にかかるのかもしれないが、
かならずしもそうとばかりは言い切れないのではないか。
ドイツ語はまったくの門外漢なため、軽々しいことは言えないけれども。
たとえば――。

「おお、思へば運命であった。悪い星の仕業であった!」(P152)

「運不運は互のことだ。あきらめませう
――運命の球は変転極りなく廻るといふからな」(P176)

「運命が導いてくれるから、心配はいりません」(P244)

「謎をお送りになさったお方が、謎を解いて下さいます!
運命の実は、熟れなければ落ちることもないのです!」(P249)


シラーによる運命の大安売りを嫌っているわけではない。
むしろ反対で、この運命の思想こそシラーの魅力だと思っている。
個人が全力を尽くして生きようとするも、
運命とよぶほかない人間以上のものへ相対して敗れ去る。
これがシラー劇のみならず、たいはんの悲劇の型である。
ギリシア悲劇などはその典型といえよう。
シェイクスピア劇は、性格悲劇などとよばれていて、
個人を不幸におとしいれるのは運命ではなく個々人の性格だという論があるけれども、
それは一面そうとも言えなくはないけれども(ハムレットやマクベスの性格異常)、
やはり運命のまえに敗北していることに変わりはないように思える。
シェイクスピア劇の人物は性格異常から、むやみに神を試すようなことを欲する。
結果、巨大なるものの逆鱗へ触れ(それを喜ぶのもシェイクスピア劇中人物のおかしさ)、
運命の女神から鞭でびしばしたたかれ、マゾヒスティックな快楽とともに死んでゆく。

とまれ、ギリシア悲劇、シェイクスピア、シラーといった古典劇が好きなのである。
そこにあるのは自由ではない。宿命あるいは運命の世界である。
人間がどれほどがんばってもできないことがあるという思想。
人間以上のものの存在を認めながら、それでも生きてゆく姿勢。
人間はだれしもハムレットの役をあてがわれて生まれてくるわけではない。
ローゼンクランツもギルデンスターンもいなければならない。
ポローニアスとして生まれてしまったらあきらめる。
ハムレットになろうなどと思わない。フォーティンブラスさえも高みの花。
配役のなかで、よりよい演戯をするくらいが、せめてなしうること。
以上が古典劇の世界である。

対照的な近代劇の世界にも軽く触れておくと――。
ベストセラー「もてない男」で有名な小谷野敦氏は、まさしく近代の劇を生きている。
ちなみにわたしは小谷野氏を現代の論客のなかでもっとも尊敬している。
かの論客は決してあきらめないのがすごい。
通常なら、もてない人は、もてないなりに生きてゆく道を探すでしょう。
どうしたって異性からもてない人間はいる。
もてもての人間がいるのだから、まったくもてない人間がいないと釣り合いが取れない。
人間、別に恋愛なんてしなくたってよろしい。
それにインドにごろごろいる不具者を見ると、恋愛がどうしたとも思う。
もちろん小谷野氏ほどの頭脳明晰な学者さんが、
こんなかんたんなことをわかっていないはずがない。
それでも氏はいまだ恋愛結婚をあきらめない。
がんばればなんとかなると信じている。
東大卒の学歴も、ベストセラー出版も、おのが努力の結果と信じているためか。
近代劇の世界だな~とうなってしまうのである。
近代というのは、バナード(見張り役)もハムレット王子になれると錯覚させる。
小谷野氏も、実物以上のものになろうとしている。
その過程で、あちこちでトラブルを起こしている。
私信無断公開だの、削除しないと訴えるだの、これほど劇的な人間はいないのである。
小谷野氏は、あちこちで劇を生みだす論客。
日本のストリンドベリといってもいいくらいだ。

いささかシラーから脱線したかもしれない。
言いたいのは、シラーの劇世界の対極にあるのが小谷野ワールドである。
運命を認めない。自力でなんでも可能だと行動する。相手に一切妥協をしない。
シラーのような古典劇の世界へ没入するばかりではなく、
少しは小谷野敦氏をわたしは見習わなければならない。
まさにつめの垢でも煎じてのむべきである。
シラー劇を愛好するおのれに今回はいくぶんかの自己批判を加えてみた。
「オルレアンの少女」とは、あまり関係のない話題になったことを申し訳なく思う。
ひと言でいうなら、この戯曲はシラー劇のなかでもっとも単調。見るべきものに乏しい。
2月の岩波文庫復刊リストに入っていることを最後に記す。
「マリア・ストゥアルト」(シラー/相良守峯訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。
シラーはどうしようもない地点から悲劇を書き始める。
このままではどうにもこうにも息ができない。
いまにも窒息(ちっそく)しそうな窮屈さがシラー劇の開幕前の特徴である。
舞台のうえの人間が多すぎるのである。だれかが死ななければおさまりがつかない。
そもそもから人間と人間はうまくいくようにはできていないのだから仕方あるまい。
満員電車を想像してください。息苦しいでしょう。あれが悲劇の前段階である。
ひとりでも、ふたりでも消えてくれないか。
悲劇は、あるいはこんな願望から生まれるのかもしれない。
満員電車からデブをひとり、線路下へ突き落とす。気持がいいじゃないか。
これを悲劇のカタルシスというのはあまりにも乱暴だが、
かならずしも0点の解答例ではないと思っている。

基本へ返ろう。人間が集まると窮屈なのである。
換言すると、人間は元来、悲劇的な存在である。
人間とはなにか。欲望の主体である。みながみな代理不能の唯一者。
人間がひとりならいいのである。アダムひとりなら問題はないのだ。
しかし神はイブをお作りたもうた。このくらいからもうおかしくなりはじめている。
木の実がひとつしかなかったら、このふたりは殺しあうのではないか。
いな、ふたりは仲良く木の実を食べ楽園から追放される。
アダムとイブのあいだに子どもが生まれる。カインとアベルの兄弟である。
ご存じ、創世記神話。神が嘉(よみ)したのは弟のアベルであった。
カインは弟のアベルを殺害する――。
これが人間である。人間が集えば、かならず損益の差が生じる。
生まれからして人間は美醜・貧富・身分・性格が異なる。
くわえて、めいめいが欲望を持っている。
人間と人間が相対して劇が生まれぬほうがおかしいのである。

たとえば、ふたりの人間のあいだに食べ物がひとつしかないとする。
宗教は「隣人を愛せ」で、相方に食物を譲る行為を推奨する。
皮肉をいうと、ふたりとも篤信のものの場合、両人そろって餓死せねばならぬ。
政治は平等思想を説き、たったひとつの食料を二分するようにうながす。
この場合も、肥満した成人と栄養失調児ならどうするかという問題は残る。
さて、宗教と政治の解決法は上記のとおり。劇ならばどうするか。
劇では、このひとつの食べ物を求めて、ふたりの人間が奪いあう。
口論から殺し合いまで、なんでも許されている。なにをしてもかまわない。
これが劇なのだ。もっとも人間らしいのが劇の生きかたと言えよう。

悲劇「マリア・ストゥアルト」へ話をうつす。
ふたりの女王が登場する。イギリス女王のエリーザベット。
囚(とら)われのスコットランド女王、マリア・ストゥアルト。
どちらもイギリス王位の正統性を主張している。女王はふたりもいらない。
大臣は女王エリーザベットへ提言する。もはやマリア・ストゥアルトとの和議は不可能。

「あの方やその一族に対しては、和の講じようもございませぬ。
陛下は打撃をお受けになるか、お与え遊ばすか、二つに一つ。
あの方の生命は陛下の死であり、あの方の死は陛下のご生命でございます」(P66)


エリーザベットは幽閉しているマリア・ストゥアルトを
殺さなければならないのはわかっているのである。
だが、決心がつかない。
ひとを殺すというのは、いかような場合においても罪である。
できるならば罪を犯したくない。人類愛からではない。
殺さないのはエゴイズムゆえ。死後の裁きが怖いに過ぎぬ。
エリーザベットが死刑の決断を下せば、その瞬間、この悲劇は終わるのである。
ところが、どうしてもためらいが生まれる。
ふたり人間がいる。どちらかが死なねば立ち行かぬ。
このようなとき、なにゆえ相手が死ななければならないのか。
向こうは死のかわりに天上の安らぎを得る。こちらは罪の重荷。
ならいっそこちらが死んでしまえばどうなる。愛ゆえの自害をしたら。
キリスト教世界ならではの葛藤である。

シラーは実際の歴史とは異なる出会いの場をもうける。
エリーザベットを憎きかたきのマリア・ストゥアルトへ会いにいかせる。
(史実では両者の面会はなかったという)
劇的である。にこやかな商談の場ではない。
かりに商談ならば、白刃きらめく命の商取引の場だ。
宗教も政治も人間を束縛することはかなわぬ。なまの人間がたちあらわれる。
ト書きを引用する。

(傲然と侮蔑の眼差で暫く相手を見て)
(せせら笑って)
(激怒に燃えながら、しかも気高い威厳を以て)(P120)


これぞ劇だ。両人、この対面の場で、なんと人間らしいことか。
仲良しこよしを人間らしいとは言わない。
人間なら、自己の権利のために相手を罵倒し貶め、最後には足元へひざまずかせよ。
人間がふたりいたら、勝つものと負けるものにわかれるのである。
この場で勝利したのは囚われの女王マリア・ストゥアルト。
侮辱されたエリーザベットは腹立ちからマリア・ストゥアルトの死刑執行の許可をだす。
イギリスにふたりも女王はいらないのである。
そう、このエリーザベットこそエリザベス女王そのひと。大英帝国の幕開けである。

(注)悲劇「マリア・ストゥアルト」は日本ではほとんど知られていないが、
シラーの劇作品のなかで最高傑作だと思う。
あまり多く読んでいるとはいえないので恐縮だが、
ドイツ演劇史上でも一、二を争う傑作ではないか。完全な美しさをもつ悲劇である。
「ヴァレンシュタイン」(シラー/濱川祥枝訳/岩波文庫)品切れ寸前

→戯曲。ドイツ産。
悲劇というのは選択ではないか。AにするかBにするか。ふたつにひとつ。
これが小説ならば、かならずしも選択実行しなくてもよろしい。
AにしようかBにしようか、えんえんと悩むだけでも小説になる。
結果、AにもBにも決めがたいという結論でも許されるのが小説である。
だが、劇文学はそうはいかぬ。かならずどちらかを選び、行為しなければならない。
舞台上で役者が逡巡するだけでは観客は満足しない。アクションを観客は欲する。
せりふと動きを見たいのだ。行為を目撃したいのだ。
すなわち、人間は劇を欲望しているということだ。
劇を英訳するとドラマ。このドラマのギリシア語源は行為を意味する語「ドラーン」。

人間はいろいろな選択を日々迫られている。
ランチになにを食べるかというのも選択ではあるが、とうてい劇的なものではない。
会社をやめるかやめないか。これはいくらか劇的な要素が高まるが、それでも知れたもの。
離婚をするか否か。いくぶん劇的要素が強まる。
生きるか死ぬか。劇的な選択だが、かの人間が孤独者ならばただの死に落ちる。
これが権力者なり、影響力のある人間なら、芝居にのせることが可能。
殺すか殺さぬか。もっとも劇的である。おのが手で他者の運命を変えんとする。
神のみに許された生死の裁きを人間が行なおうというのだから。
しかし、このとき殺人者の凶行が、人間の自由の所産か、
それとも、これまた運命なのかはだれにもわからぬ。
ここにおいて、ようやく劇的なるものの急所へ到達したわけである。
人間は選択する。AかBかを決める。果たしてこのとき人間の自由はあるのか。
人間は与えられた偶然的な環境からAかBかの選択を下す。
そうだとすれば、選択をするまえの環境はなにによってもたらされたのか。
運命的なもの。言うなれば神だ。ならば、この選択さえも自由ではないのではないか。
それでも人間は自由を求める。AかBか、よりよいほうをなんとしても選択したい。
Aなのか。Bなのか。Aを選んだら、B選択後の行く末はわからぬ。反対も同様。
環境はどう見てもAを選ばせようとしているみたいだが、これは罠ではないか。
問うしかない、神よ! あなたはどちらを選べと仰せになるか。
わからぬ。神は沈黙するばかりだ。なら、天空の星々よ、教えてくれ。
AとB、どちらを選択すべきなのか。

時代は三十年戦争。ヴァレンシュタインは軍隊の最高司令官。
皇帝に仕える身である。
だが、皇帝はヴァレンシュタインを罷免(ひめん)するという。
皇帝をはるかに凌駕する武力を持つにいたったこの将軍を恐れているのである。
ヴァレンシュタインは迷う。ふたつにひとつである。
皇帝に恭順を示し、左遷された領地で余生をつつがなく過ごすか。
それとも、周辺国と手を組み、皇帝へ反旗をひるがえすか。王の座をめざすか。
ランチをカレーにするか寿司にするかの選択ではないのである。
どちらにするかで、多くの人間の人生が異なるものになってしまう。
自分の決断いかんで多数の人間の生死が変わりゆく。
ヴァレンシュタインが直面しているのは歴史である。
この武人は歴史のただなかにいるのだ。安定を取るか、野心を取るか。
人間にこんな重大な決定ができるわけがない。
どちらの選択をしたら、どのようになるのかまるでわからないではないか。
それは死にたくない。だが、もしいまを逃しては王座へつけないとしたらば。
やるしかないのである。そうはわかっていても、やれないのである。
近臣にせかされる。

「ぜひとも決心をつけてくれ。
覚悟を決めて皇帝の先手を打つか、
それとも、これからもためらい続けて、いよいよの時が来るまで待つか、
どちらかだぜ」


ヴァレンシュタインは苦悶する。AかBか。どちらを選ぶか。

「わしは、最終的な決断を下すにはまだ時期尚早だと思う」

「何だって? うまく捉えないと、チャンスは逃げてしまうぜ。
人生における本当の意味で重大な瞬間、偉大な瞬間なんてものは、
滅多に到来するもんじゃない」(P139)


部下の意見をくみとって、もしこのときヴァレンシュタインが挙兵していたら、
歴史はどうなっていたかわからない。
あるいはヴァレンシュタインが皇帝を打ち負かしたかもしれないし、
それでもこの武人は皇帝へ屈する星回りだったのかもしれない。
開戦のきっかけは、意外なところからもたらされる。
ヴァレンシュタインが周辺国へ送った密使が皇帝がわに捕縛されたのである。
ヴァレンシュタインの謀反はかくして露見した。
もうAかBかではないのである。Aしかない。皇帝と一戦を交えるよりほかない。
かれは狼狽する。後悔する。

「何だと? あんなことを、わしは本気で実行しなくちゃならんのか?」

「もう少し待ってくれ!
わしには思いもかけんことばかりだからな――何しろ、事態のテンポが速すぎた。
――わしは、偶然というものにひたすら、
闇雲に引きずられていくのに馴れておらんだな」(P259)


偶然が必然になるのが劇である。
最高の悲劇は神の手を感じさせるほどに必然の美で統制されている。
すべてが起こるべくして起こったという意識を観客に抱かせる。
だが、舞台のうえの人間は偶然に左右されているとしか感じられない。
偶然の荒波にもまれ、それでも自由めざして行動していたら、
いつしかそれは必然ともいうべき宿命めいた取り返しのきかないものになっている。
これが悲劇である。

「……いまやわしは、保身の上からも、どうしてもそうした行動に出ざるを得ん。
必然の瞬間というのは厳粛なものだ。
運命の神秘な籤箱(くじばこ)に手を突っ込むときには、
誰しも戦慄を覚えずにはおれん。
わしの行動は、わしの胸の中に納まっているあいだはまだわしのものだった。
ところが、いったんその母胎である心という安全な片隅から解き放たれて、
人生の荒海におっぽり出されてしまうと、
いかなる人間の智慧をもってしても飼い馴らすことが不可能な、
あの詐術に満ちた力の思うままにされてしまう」(P262)


ようやく選択がなされたのである。劇の全体から見ると、ちょうど折り返し地点。
半分まで来たところでヴァレンシュタインは決定する。行為にでる。
だが、これは正確を期するならば、果たしてこの将軍の選択と言えようか。
AとBのうちから、どちらかを決めたと断言できるのか。
いなとすべきではあるまいか。
決断を延期していたら、いつしかAを選んだことになっていた。
ヴァレンシュタインの心中をおもんばかるなら、そんなところであろう。
会社員がランチを寿司に決めたからといって、なんら劇的ではないのは、
その決定がなんら波及するところのないためである。
ヴァレンシュタインの決断はそうではない。
ひとつの決断が、さらなる決断を各人に迫るといった形の広がりを見せる。
1がAとBのなかからAを選んだがために、
2はC、Dのうちどちらかを選ぶことを強要される。
さらにこの2の決断が3の選択をうながし、つづいて4も5も選択を迫られる。
この選択のうねりが悲劇である。
ヴァレンシュタインはふたつからひとつを選んだ。
結果、その他の人間も選択しなければならなくなったのである。
この芝居でいえば、将軍の味方になるか、皇帝へ忠誠をつくすかである。
決断を下したヴァレンシュタインにためらいはない。

「わしらはただ、運命の神々の掌(てのひら)に種をまくだけで、
それが吉と出るか凶と出るかは、結果が出てからしかわからんのだ」(P288)


たとえば、ヴァレンシュタインを裏切った重臣がいる。その息子のマクス。
かれはヴァレンシュタインの娘に恋をしている。
マクスこそこの劇のなかでもっとも深刻な選択を迫られた人間である。
マクスはヴァレンシュタインを幼時より尊敬している。
ところがマクスの父こそヴァレンシュタインを裏切った張本人。
ヴァレンシュタインへ忠誠をつくしたいが、父を裏切るわけにはいかぬ。
だが、ヴァレンシュタインも皇帝閣下を裏切っているではないか。
それに自分は恋をしている。相手は、ヴァレンシュタインの娘――。
どうにもこうにもマクスは身動きが取れないのである。
ふたつにひとつを選びようのない立場の人間として造形されている。
マクス、ほかならぬこの青年こそ、シラーが史実を無視して創造した人間である。
ほかの人物の大半は史実どおりだが、このマクスは異なる。
シラーから、劇的なるものを託されたのがマクスなのである。

「あの男(ひと)は、皇帝を諦めるか、あなたを諦めるか、
どちらかに決めなくちゃならないのよ」(P321)


恋愛か親孝行か。主君か血縁か。恋人か皇帝か。マクスの困惑だ。
なにを! こんなものはすべて同一平面上の問題。生きていればこそ。
マクスはあらゆる選択から逃れるように勝ち目のない戦へ突撃して命を落す。

選択したのはマクスのみではない。劇中のあらゆる人間が選択を迫られたのである。
この選択の連鎖はどこへ行き着くか。
ヴァレンシュタインの腹心、ブトラーへ主君を殺すか否かの選択を突きつける。
ブトラーはなにゆえいままでさんざん世話になったヴァレンシュタインを殺害できるのか。
いわば恩人を殺すようなものである。非道の暗殺者はかく語りき。

「……わしはあいつ(ヴァレンシュタイン)を好いとらんし、好く理由もないが、
でも、わしは、あいつへの憎しみに駆られて、
あいつが憎いからあいつを殺そうというのではない。
これは、あいつの運が悪いせいだ。
あいつの不運が、事態の不運な重なりが、わしを駆り立てているのだ。
人間は、自分では自由に行動しているように思っとるが――
それはとんでもない誤解だ。人間は、盲目な力の操り人形に過ぎん。
そして、この盲目な力は、自分勝手な選択で、
たちまちのうちに恐ろしい必然をわしら人間に押しつけてくる。
たとえ、わしの心の中に奴を弁護する声があったとしても、
そんなものは奴にとって糞の薬にも立たん。
――どうあっても、わしは奴を殺す運命なのだ」(P431)


長編悲劇「ヴァレンシュタイン」の全体図を整理するとこうなる。
まず劇の前半部で、運命はヴァレンシュタインに選択を迫る。ふたつにひとつ。
ヴァレンシュタインは決定をいつまでも遅延する。
だが、これも運命とおぼしき偶然から、かの将軍はいつの間にか決定をしている。
ふたつからひとつを選んだ。
この二者択一が際限もなく広がり、最後はどこへ行き着くかというと腹心の部下である。
ヴァレンシュタインの知らぬ間に信頼している部下が、
自分を殺すか否かの二者択一にいるのである。
ヴァレンシュタインの殺害は舞台裏で行なわれる。
閉幕直前、この将軍は死体として登場する。
ヴァレンシュタインにとって、死は不意打ちであったことだろう。
死に瀕して、もっともらしいことをいう間さえ、ヴァレンシュタインは許されていない。
この劇にはどこにも自由がなかった。いな、自由に満ち満ちていた。
だれもが自由に行動しているかのようにも見えた。
だが、芝居が終わったあとに感じるのは、
こうなるよりほかなかったという断念の感覚である。
ヴァレンシュタインは、なんとか死なぬわけにはいかなかったのか。
劇作家シラーの裏をかく方途はなかったか。
無理である。シラーは史実をもとにこの芝居を書いている。
よしんばヴァレンシュタインの軍勢がシラーを殺害しようと歴史は変えられぬ。
ヴァレンシュタインに唯一の救いがあるとすればマクスの存在である。

ヴァレンシュタインはマクスの死の報に際してこう述べる。

「だがわしは、マクスを失ったことが自分にとって何を意味するのか、
ようく感じておるのだ。これで、わしの人生の華は終わった。
このあとの前途には、色褪せた冷たい人生が横たわっているばかりさ。
何しろ、あいつがいてくれると、わしはまるで自分の青春を見る思いがしたからな。
あいつは、つまらない日常の興醒めな現実を、
朝焼けの金色(こんじき)の靄(もや)にくるめ込んで、
わしの人生を夢に変えてくれたからな。
あいつの火のような愛に接すると、人生の日常のつまらんことどもも、
わし自身がびっくりするほど素晴らしいものに変わったのだから」(P473)


やはりシラーは宿命の作家ではない。断念を常とする老人ではない。
自由の作家だ。青春の作家なのである。
シラーは、青春の炎を燃え上がらせんがために漆黒の暗闇を必要とする。
輝かしい自由を求めるがゆえに、どうしようもない運命、宿命を持ちだしてくる。
太陽を肉眼で直視しつづけると危険だという。
シラーはこれをやったのではないか。自由を光を太陽を、見つづけた。
むろん失明する。もはやシラーの目には暗闇しか見えぬ。
シラー劇を暗いというのはたやすい。
だが、シラーを光の作家、太陽の作家といって、どうして悪いものか、とも思うのだ。

(注)この「ヴァレンシュタイン」は現在入手可能な唯一のシラー作品。
また岩波文庫のシラー作品のなかで新訳なのはこれのみ。
品切れ直前。在庫僅少。ぜひいまのうちに購入しておきましょう。
シラーの美点も欠点も、すべてこの戯曲にあらわれています。
この一作でシラーを語るのも、やってやれないことはないと思うくらいです。
「ドン・カルロス」(シルレル/佐藤通次訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。シラー作品。
ひょんな思いつきだが、悲劇の動因は「ふたつにひとつ」ではないだろうか。
ふたつからひとつを選ばなければならないところから悲劇が生じる。
ふたつとも選べればそれがいちばんいいのである。
けれども、人間はふたつからひとつを選ばなければならないようにできている。
さらにだ。選んで実行するまでは結果が不明。
選ばなかったもうひとつの選択肢を行為にうつしていたらどうなったかはわからない。
悲劇が生じるゆえんである。

この芝居における「ふたつにひとつ」を整理してみよう。
エリザベトはスペイン王の後妻として王妃になるが、もとは王子の婚約者であった。
王子とエリザベトは愛しあっていたのだ。
ところが、政略上の都合から王は息子の婚約者をめとらなければならなかった。
王妃が父親とも息子とも結婚できればいいのである。
だが、人間はそのようにはできていない。
エリザベトはふたつからひとつを選ばなければならなかったのである。
といって、人間の感情はどうにもならぬ。
王子は義母となったエリザベトにいまも恋心をいだいている。悲劇の火種である。
王子カルロスは父王を尊重したいのは山々だが、おのが義母への恋慕もどうにもならぬ。
まさしくふたつにひとつである。

カルロスの親友、ポーサがスペイン王に重用されるようになるのはまったくの偶然である。
賢明なポーサはこれを偶然だと知りながらも、人間であるがゆえのあやまちにとらわれる。
偶然を必然と見たとき劇が生まれるのである。
また、偶然を必然と受け取るのは人間の避けられぬ宿命でもある。

「だが、待てよ、偶然だけではあるまい。
ひょっとしたら、もっと深い意味がないとは限らぬ」(P135)


頭脳明晰なポーサでさえも、こうして悲劇にからめとられていく。
ポーサはいつしかスペイン王からもっとも信用される重臣にまでのぼりつめる。
またもや、ふたつにひとつである。
親友のカルロスを取るか、その父たるスペイン王のもつ強大な権力を取るか。
ポーサがあの偶然を偶然のままにしておけば、こうはならなかったのかもしれぬ。

ポーサは新教(プロテスタント)を広めんとの野心をいだく青年である。
いかようにしておのが野望を実現するか。これもふたつにひとつ。
いままではゲリラ的に宗教戦争を引き起こすことで革命をなさんとしていた。
だが、このままスペイン王に取り入って上から変えてしまうという方法もなくはない。
恋愛、宗教、政治――。みながみな、ふたつにひとつなのである。
ひとつを決めるよう迫られる。
決断するのは恐怖だ。できるものなら逃げていたい。だが、逃亡にも限界がある。
いつしかその逃走行為が、ひとつを選択していることに気づかされる。
選んで実行したら、もう取り返しがつかないのである。
人間はだれしもこのような世界を生きている。悲劇の芝居だけではない。

ポーサは権力ではなく友情を選択する。
権力者の父王ではなく、親友の王子を優先する。
この意味するところは自己の破滅である。
スペイン王に自分ではなく、息子の王子を愛させようというだから。

「殿下(カルロス)かわたくしか、二人に一人は逃れぬところでございまする。
そのいずれかを選ぶかの決断は、咄嗟の恐ろしい間でございました。
二人のうち一人は破滅致さねばなりませぬ。
そこで、わたくしがその一人になろうと存じたのでございまする」(P205)


劇とは、ふたつからひとつが選ばれる過程にほかならぬ。
ドラマという言葉がある。ドラマの語源はギリシア語のドラーン。
行動するという意味。
ふたつからひとつを選び行動する。これがドラマである。
行動の結果、幸福になれば喜劇、不幸になれば悲劇である。
どちらに転ぶか人間にはわからない。なぜなら――。

「神の全智を持たぬ儚(はか)ない人間に、
運命の楫(かじ)を操るような思い上った真似が、どうしてできましょう」(P202)


悲劇「ドン・カルロス」の結果は青春の敗北である。
若い野心はいずれも滅び去った。
燃え上がらんばかりの愛情も宗教的野心も、スペイン王に鎮火されたのである。
王はプロテスタントの芽を摘み取り、カトリックの保持につとめる。

さて、芝居における宗教上の勝敗よりも、
この両派に共通するキリスト教の特徴に注目したい。
キリスト教は旧教も新教も、正しいものはひとつであるとする。
そのために争うことになるのだが、重要なのはこの正しいのはひとつという思想。
悲劇は「ふたつにひとつ」から生じると冒頭に書いた。
そうだとすれば、唯一の正義を主張するキリスト教こそ、
劇を養育する乳母と言うことができよう。
「たくみと恋」(シラア/実吉捷郎訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。シラー作品。
身分違いの恋がテーマ。いわゆる悲恋もの。
宰相の息子たるフェルヂナントが、身分の低い平民の娘ルイイゼに恋をしましたとさ。
フェルの父親は、べつに息子の結婚相手を考えている。もちろん政略結婚。
息子は父の提案を拒む。シラー劇に共通するテーマ、父子の対立である。
世知長けた父親は一計を案じる。ルイイゼに偽の手紙を書かせるのである。
なにゆえそれが可能かというと宰相という権力があるから。
偽の手紙を書かないのなら家族を捕縛するとルイイゼを脅すわけである。
家族か恋人か。ルイイゼは選択を迫られる。家族を取る。偽のラブレターを書く。
偶然をよそおってこの偽のラブレターはフェルの手にわたる。
フェルは激怒する。ルイイゼが自分以外のものへ恋文を書いていたとは。
この淫婦め、売女め、尻軽女め!
フェルは裏切られたと思う。余談だが、この裏切りもシラー劇に頻出するテーマ。

で、フェルはどうするかというと、純粋ゆえの直情径行。死ね、となる(笑)。
「われに恋を与えよ、しからずんば死を!」である。
ここで策略をねるのがおとなだが、おとなは劇を生まぬもの。
芝居の観客は、フェルの未熟さを純粋と賞賛しなければならない。
フェルはルイイゼに毒をのませ、みずからもおなじ毒を口にする。
この毒が効いてくるまでのあいだが劇のクライマックスで、すべてが明らかになる。
父親の邪智姦計が白日のもとにさらされるわけである。
真実を知ったふたりだが、時間をもとへ戻すことはかなわぬ。
ルイイゼの死を看取り、みずからも死んでゆくフェルのまえに父親が現われる。
父親も決して息子の死を望んでいたわけではない。
したがって、かれも自身の悪だくみの思いもよらぬ結果に悲嘆するほかないのである。

かんたんにまとめるならば、めいめいよかれと思って取った行為が、
どういう因縁ゆえか反対の結末を引き起こしたということだ。
シンプルだが、すべての悲劇はこのタイプといってよい。
悲劇は、見ようによっては愚かである。
この劇もそう。すべてを知っている観客(読者)はじれったくて仕方がない。
フェルが偽の恋文にだまされるところなど、舞台上の役者に声をかけてやりたくなる。
おい、それは偽物だぞ~。だまされるな~。
けれども、その声は届かず、フェルは偶然入手した手紙を信じてしまう。
バカだなと思いながらも、おのれをかえりみるとそうも言っていられない。
我われのふだんの行動も、
あんがい(全知の)観客席からは笑われているのではないかと思うからである。

人間は劇的な存在である。生きている人間は常に選択を迫られている。
ふたつにひとつだ。ふたつからひとつを選ばなければならない。
夕食のメニューといったくだらないことから、どちらの企業へ入社しようかという迷いまで。
いつまでも迷ってはいられない。決断をしなければならない。
では、なにをたよりに決定するかというと、周囲の偶然的な環境である。
フェルは陰謀から作成された手紙を、偶然入手することができたと信じた。
この偶然こそ人間を動かすものである。
というのも、人間は偶然に神意を見るものだからである。
フェルもこう言っている。

「偶然といふのはありがたいものだな。
小器用な理性よりも偶然の方が大きな仕事をしてくれたのだ。
審きの日にはあらゆる賢者の智慧よりも偶然の方が面目を施すだらう。
――偶然とおれは云っているが――
いや、雀の落ちる時でさえ神の摂理は働いてゐる」(P148)


人間にとって、偶然ほど意味深く感じられるものはないのである。
たとえ信仰のうすいものでも、人間は、偶然から、大きなものの実在を感じる。
偶然により、みずからを肯定されたような安心感をいだく。
ふたつにひとつ。ルイイゼは貞淑か、それとも尻軽か。どちらだ。
フェルは偶然から手に入った(と思っている)手紙のほうを信じる。
ふたつからひとつを選んだわけである。その結果が、この悲劇である。
死の間際、フェルは述懐する。

「ふしぎなやり方で、ほんとにふしぎなやり方で神は吾々を弄ぶものだな。
細い、目に見えない糸で往々怖ろしい重さのものが吊(つる)してある」(P151)


この「怖ろしい重さのもの」とは、偶然のことであろう。
多少、乱暴に悲劇を整理するとこうなるか。
「無知」なる人間が、「偶然」から行為を決定し(ふたつにひとつ!)、
その結果として、人間は「全知」にいたるが、
そこで知りえた状況はもっとも望ましからぬもので、
そのくせ人間はその惨状を「必然」と感じる。これが悲劇ではないか。
卑近な言葉に翻訳すると「やってみなきゃわからない」「明日をも知れぬ人生」。
悲劇の意味するところである。
「群盗」(シラー/久保栄訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。
世界演劇巡礼もそろそろ終着地が見えてきたような感がある。
シラーは最後の山脈といったおもむき。
かんたんなシラーの情報を記すと、かれはシェイクスピアの影響のもと劇作を開始。
後年、ロシアの文豪、ドストエフスキーに多大な影響を及ぼす。
私事を書くが、海外文学へ分け入るきっかけはドストエフスキーであった。
そして、戯曲に分け入る契機となったのはシェイクスピア劇。
ブログ「分け入つても分け入つても本の山」も、
ひと区切りをつけるときが来たのかもしれない。

「群盗」はシラー18歳時に執筆を始めた、この劇作家の処女作である。
シェイクスピアの手のひらのうえで繰り広げられる芝居といってもよい。
シラーこそ、シェイクスピアの嫡流である。
この作家ほどシェイクスピアの影響を受けた劇作家はいまい。
「群盗」はシェイクスピア四大悲劇をつぎはぎすることで書かれている。
順に「リア王」「オセロー」「ハムレット」「マクベス」である。

まずは「リア王」から劇の端緒を借りてくる。
兄弟の不仲。というよりも、弟の兄への嫉妬である。
これは「リア王」におけるエドマンドのエドガーへの仕打ちを連想させる。
父親は領主である。この領地を継ぐのは兄のカアル。
兄は容貌性格どの面においてもすぐれている。弟のフランツは兄へ嫉妬する。
フランツは父親に讒言(ざんげん)する。
ありもしない兄、カアルの不品行を告げ口するのだ。
こうしてまんまと領地をだましとる。
フランツの欲望はまだ満足しない。つぎは女である。兄の婚約者であるアマリア。
フランツは「オセロー」のイアーゴーのごとく姦計(かんけい)を用いる。
イアーゴーのように腹心の部下を利用して、アマリアに兄は死んだと思わせる。

さて、追放された兄のカアルは盗賊団の首領になる。
カアルはあたかもハムレットである。憂鬱でたえず内省している。
このままでいいのか常に思い悩んでいる男としてカアルは描かれている。
行きがかり上、群盗のボスにはなったが、
カアルは結局のところじぶんがなにをしたらいいかわからないのである。
自殺も考える。ピストルを頭におしつける。
わずかに指を動かせば終わりである。だのに、なぜ生きている必要がある。
かりに生きるならば、なにゆえに、なにをめざして生きろというのか。
ハムレットを悩ませたものとおなじ問いにカアルは直面しているのである。
生き迷うカアルは原点へ戻る。追放された故郷の地へ戻る。もちろん変装はしている。
カアルは弟、フランツの悪だくみを知るにいたる。
愛する父親は城から追いやられ、暗い洞窟に閉じ込められていた。
父の復讐を誓うカアルは、ハムレットの生き写しのごとくである。

弟のフランツも兄が帰郷したことを知る。
気づけば、まわりは敵ばかりである。城内のだれもが兄の味方についた。
フランツは追い詰められる。カアルの軍勢は城を取り囲んでいる。
ここでフランツはマクベスになる。マクベス最後の絶望を味わう。
野心をいだいた。悪と知りながら犯罪行為を実行した。結果、頂点に立ったのである。
だが、それもつかの間であった。眼前に敗北が見えている。この人生というのはなにか。
こんなものか。こんなものだったのか。これしきのものか。
フランツは縊死(いし)を選択する。首をつるわけだ。

悲劇とは人間が死ぬものだとシラーはシェイクスピアから学んだのか。
父親は自慢の息子であったカアルが、
いまは盗賊であることを知り絶望しながら死んでゆく。
閉幕寸前、カアルのまえに立ちふさがるのは、この劇のヒロイン、アマリアである。
カアルは選択を迫られる。ふたつにひとつである。愛情か、友情か。
アマリアへの愛情を取るか、群盗たる仲間との友情を選ぶか。
友情を取りそうな婚約者へアマリアは絶叫する。行くなら私を殺してからにして!
カアルは愛ゆえにアマリアを殺害する――。

多くの処女作がそうであるように、この「群盗」にも、
のちのシラー劇の萌芽とおぼしき輝きが散見させられる。
いくつか拾ってみたい。
これはシラー劇の特徴というよりも、むしろ劇的なるもののからくりを示す。
シラーが劇の理想をシェイクスピアに見たがためである。
シラー劇(および劇作全般)の本質を、ひと言でいうならば、つぎのせりふである。

「われに自由を与えよ、しからずんば死を!」(P109)

シラー劇をぎりぎりまで要約するならば、このカアルのせりふになるであろう。
シェイクスピアのいくつかの悲劇もそうである。なぜなら人間は――。

「人間は、泥のなかから生れ出て、暫時の間、泥のなかを歩きまわる、
そうして泥(=子供)を拵(こしら)えて、腐れ果てて泥になる、
あげくは子孫の靴の裏に汚なくくっついて廻るのだ。
こいつが歌の結び文句だ――人間の運命は泥より出でて泥へ返るさ」(P144)


人間は、生まれ死ぬ。生も死も自由ではない。
人間は生まれを決められぬ。
王子として生まれるも、貧農の子として生まれるも運命。
死ぬのも自由ではない。
人間はいつどこでどのようにおのれが死ぬのかわからぬ。
起点も終点も自由ではないこの直線上を歩む人間に果たして自由はあるのか。
本人は自由に生きているように思っていても、実のところ、
最初からひかれてある線をなぞっているだけではないのか。
カアルが「われに自由を与えよ」と叫ぶゆえんである。
しかし、自由など、どこにあるか。
なにもかも天上から決められているのではないか。
ぼかすのはやめよう。名指しする。天上にいるのはきさまだ! 神だ!
すべては神によって定められているのではないか。ならば、ならば。
「しからずんば死を!」である。
ハムレットのように独白しながらカアルはピストルを手に取る。

「きさま(=神)は、おれを『無』に返すことは出来るかも知れん――
だが、この自由をおれから奪うことは出来んぞ。(ピストルに装填する。
急にやめて)だが、おれは、苦悩に充ちた人生を恐れて死んでもいいのか?
この逆境に耐えられず、勝をゆずってもいいのか?――
いや! おれは耐え忍ぼう。(ピストルを投げ捨てる。)
艱難よ、おれの誇りのまえに、立ちすくめ! 
おれは、必ずやり遂げてみせるぞ」(P170)


深くかがんだものは、そのぶん高く飛翔することができる。
死を目前に見たものだけが、本来の生を謳歌することができるのである。

「まだ子供の時分に――おれは、よく空想したものだ、
あの太陽のように生きたい、あの太陽のように死にたいとな」(P118)


劇的人物は太陽をめざす。星でもない。月でもない。雲でもない。太陽である。
どのような星回り(星座)であろうと太陽はみずから輝く。
月のように太陽があってはじめて光る惑星はお断りである。
太陽を隠す雲になるなど真っ平ごめん。
太陽になりたい。これが劇的たらんと欲するということだ。シラー劇の生きかただ。
シラーは、舞台のうえの役者に問う。ふたつにひとつ。

「もう一度、胸に手を当てて考えろ。
幸福か、不幸かだ――いいか? 分ったか?
幸福のてっぺんか、不幸のどん底かだ!」(P143)


劇を生きるとは、選ぶことである。ふたつからひとつを選ぶ。これが劇だ。

「われに自由を与えよ、しからずんば死を!」
くだらぬ日記を書いてみようじゃないか。
禁酒をしたのである(えっへん)。
それも三日連続だぞ(えっへん、えへえへ)。
備忘のため結果を記す。
なにもいいことはなかった。
頭痛も喘息も改善せず。その他、疾病も変化なし。
読書能率も変わらず。むしろ読書量は減ったかもしれない。
感情面で多少の変化あり。
感情が平坦になった。怒らない。喜ばない。あたかもロボットのよう。
さて、酒をのむとどうなるか。
まずビール(発泡酒)がうまかった。
うまい? いな、苦い、である。ビールは苦い。
何年もこの事実を忘れていたことに愕然とする。
パパ~ママ~この液体苦いよ~と泣きべそをかきながらビールを流し込む。
いきなり泣いたのである。
山田太一氏のシナリオの一節が突然思い出され、なみだがとまらなくなった。
ひとしきり泣く。
今度は笑い始めるのである。なんだかわからんがおかしい。
しばらく大笑いをした。
以上、3日ぶりの飲酒報告である。
やはり後日談は書かねばなるまい。火の用心の件である。
今月9日の火曜日からまた始まった。
拍子木を鳴らしながら歩き回っている。
過日、うるさいと低姿勢でお願いにいった。
町会役員だかのおばさんで、逆襲された。
ヒステリックに自説を聞かされた。
どうやら本気で火の用心が防災・防犯に効果があると信じているようである。
こうも言われた。
火の用心をやめさせたいのなら、あなたが町会で立候補して役員になりなさい。
それで議案をだして多数決で通してみなさい。

そんなことを言われても、できるはずがないのである。
聞くと、火の用心は町会での持ち回り。
年に1回順番が回ってくるそうである。
雨天中止。雨がふったらその年はやらなくていい。
この火の用心は2月いっぱいまで毎日やるとのこと。
あいや~。毎晩、火の用心ですかいな。

例年やっているらしい。
去年はまったく気にならなかった。
どうして今年はこうもうるさく感じるのか。
とまれ、あきらめるしかない。これはもうどうしようもない。
毎晩、拍子木の音を聞くしかないようだ。
哀しいかな、決して勝てないものはあるのである。
ここに敗北を宣言する。火の用心に勝利することはかなわなかった。
やめてください。お願いしますから。
赤です。岩波文庫の赤。海外文学であります。
いえいえ、歓迎しているのです。
岩波さんでしか出版されていない名作が多々ありますから。

けれども、しかし、だがね、おいおい。
翻訳がおかしいくらいならまだいいのです。
こちらで二次翻訳が可能ゆえ(原文→訳文→<脳内翻訳>→現代日本語)。
んだけど、あれはNGだべ。訳注はNG。
岩波文庫はことさら訳注が多いでしょう。
あれはどうしてなのか。
この文庫には戯曲でお世話になることが多い。
いいですか。舞台にあげたら観客に訳注なんて読ませられないのですよ!

小田島雄志さんが戯曲の翻訳で決して注を入れないのをご存じですか。
舞台のうえでは訳注は通用しない。
注もふくめて日本語にしなければならない。
はいはい、言いたいのはこれだけではありません。
もっと言いたいことがある。
ぼうだいな訳注も我慢しましょう。しかし、あれだけは許せぬ。
訳注でのネタバレである。
わずかな読書体験だが、訳注でネタバレをするのは岩波文庫のみ。
こんなことが書いてあるのだから。
この人物はのちに主人公を暗殺することが、このせりふに暗示されている。
この夫人は閉幕直前、自殺する。

ががーん、であーる。
あら結末はそうなるのと興味をそがれてしまう。
なんでこんなことをするのかさっぱりわからない。
岩波文庫よ、即刻おやめなさい。
テレビの大食い番組が好きだ。
しろうとが高級料理をちっともおいしそうな顔をせずに
口に押し込んでいるのを見るとなんともこころ安らぐ。
食べ物がもったいないとか、そういう批判はやめましょうよ。
それを言うなら、この国の飲食業界は毎日どれだけ食べられるものを廃棄しているか。

大食い番組はおかしい。
なぜ? どうしてそんなに食べるの? おかしい。おかしいよ~。
本来、人間が生きていくため1日に摂取すべき栄養分は決まっている。
フードファイターは、そんな常識を突き破る。
まあ、言ってしまえば、摂食障害なのである。
だが、かの食の戦士たちには摂食障害にまつわる暗さがみじんも感じられない。
そこがいいのである。大食い。もりもり食べる。
見ているほうまでおおらかな気持になる。
へんなことを書くが、あの裏側はどうなっているのだろう。
トイレの心配である。

ブログ「本の山」もめざすは大食い番組である。
書物も食料と同様、たくさん読めばいいというものではない。
どんな健康にいいものでも食べすぎれば身体に悪影響を及ぼす。
おなじようにどんな名著でも読みすぎは精神の健康によくない。
そうと知りながらもフードファイターが大食いをやめないように、
わたしも多読など無益と自覚しながら可能なかぎり本を読みあさりたいのである。
あの大食い戦士たちのように明るさを失わずにいるのが目標だ。
外見は少しも大食いに見えないのも見習いたいところ。

繰り返すが、めざすは書のフードファイター。
気取ったグルメ評論家ではない。
着飾ったうんちくは最小限にとどめる。
ひたすら食べる。なんでも食べる。明るく食べる。
上品をきらい、あえて下品たるをよしとしたい。
みなさまには「よく読むな~」と
大食い番組を見るように楽しんでいただけたらさいわいである。

余談だが、ギャル曽根は嫌いではない(ご存じですか?)。
むしろ好きである。というか、わたしがテレビをつけるといつも見かける。
ものすごい確率で登場する。かといって、前世からの因縁はないと思う。
いま売れに売れているのでしょう。
いつだったか、古本屋で主人と客がこんな話をしていた。
本というのは売りようがない商品でして。店主は言うのである。
ほかの商品だったら安くすれば、そのぶん売れますが本だけはそうもいかず……。
ただでも、いらないと言われる本があるのですから。
地方から来たと思われる客はしきりに感心していた。
神保町、S書房で見聞したことである。

そうだよなと思う。
トマトが10円だったら買うけれども、クズ本はたとえ5円でもいらない。
思えば、いまいちばん激しいのはことばのデフレではないか。
むかしことばがありがたかったのは、ことばをみんなが使えるわけではなかったから。
文盲が少なからずいたということである。
だが、いまはどうだろう。
義務教育のおかげで読み書きが不自由なひとはめずらしいくらいでしょう。

だれもがことばを用いる。
インターネットの普及でいままでは読むだけだったひとも、書くほうに参入してきた。
ことばの価値は下がるばかりである。
現代は無料で読めることばにあふれている。
フリーペーパーの隆盛だけを言っているのではない。
このブログもそうである。どれほど多くのひとがブログをやっているのか。
ほとんどがただ働きである。おカネをもらわなくても、書きたいひとが大勢いるのだ。
かといって、どのブログも読まれているかといえばそうではない。
ただでも読みたくないことばにいまは満ちあふれているといえよう。

団塊世代の定年ラッシュが騒がれている。
ことばの価値はさらに下落するものと思われる。
定年になる。ひまだ。することがない。自分の人生はなんだったのか。
なかなかのものだったのではないかという自負もある。
ひとつ本として出版して世に問うてみよう。
こうなるはずである。自費出版業界がおおいににぎわうと予想する。
もはやことばは無料でも高くなりつつあるということか。
おカネを払ってまでことばを売りたいひとがいる。
このようなひとのためのビジネスも急増するのではないか。
自伝を書こう! みたいなカルチャー講座のことである。
講師は、決して安いとはいえないおカネを取って、顧客のことばを読んであげる。
どういうことか。こういうことである。
書店へ行く。書籍が積み上げられている。本には付録がついている。
現金500円! フリーペーパーを超える発想である。
本を手に取っただけでおカネがついてくるのだから。
しかし、条件がある。ハガキがセットになっているのである。
かならずこの本を読んで感想を書かなければならない!

たいへんな時代である。
こんな時代に作家をめざすのは、あたまがおかしいと思われてもふしぎはない。
インドアとアウトドアという明確な相違こそあれど、読書と旅行は似ている。
といってもベストセラー読書やツアー旅行のような趣味のことではない。
趣味をはるかに超えた、生きかたまで迫るときのことである。
人間は苦しいとき、悩んでいるとき、読書をする。
同様の状態にいるひとは、あるいは旅をしようかと思うもの。
どちらもなにかを発見したいのかもしれない。
どうにかしてこの窮屈な自分というトンネルを抜けだしたい。
なにかを見たい。だが、そのなにかはわからない。
ひとが「ハムレット」を読むとき、ほんとうに見たいのはこの芝居か。
真剣な旅行者が異国を訪れるとき、ほんとうに見たいのは名所旧跡なのか。
おそらくどちらも違うであろう。
海外文学作品を読破したいという欲求と、
世界一周旅行をしたいという欲望はおなじものではないか。

ここでこういう問いが生まれる。
海外文学作品を読破した人間と、世界各国を旅した人間はどちらが上か。
比べる対象ではないことは、むろん承知している。
なにを基準に上下を判定するのかも定かではない。
だが、たとえば、どちらが世界を、人間をより深く理解しているか。
相容れないものがあると思われる。
世界旅行者は、本なんていくら読んでも体験していないじゃないかと愚弄する。
読書家は、このえらそうな世界旅行者が、
かんたんなアメリカの歴史すらも知らぬことを嘲笑する。
一見するとおなじような求道者であるこのふたりは、それでも決定的に違うのだ。
旅行者は読書をすると頭の痛くなるタイプが多い。
読書家は動くのがめんどうだ。自分でチケットを手配するのから嫌気がさす。
観光名所へ到着してもあくびがとまらない。
こんなものガイドブックで見たからもういいと早々、観光地をあとにする。
旅行者は無知ゆえこの名所旧跡のいわれを知らない。
けれども、それゆえに感心する。飽くことなくその場に立ち尽くす。
畢竟(つまるところ)、このふたりは人間が異なるのである。
深い溝でもって断絶している。双方、絶対に理解しあえぬ。

ところが、なのである。両者は実によく似ている。
文学作品を多く読んでいる読書家というのは、ひとを食ったような態度を取る。
周囲はみんな馬鹿だとでもいわんばかりの傲慢さがある。
世界放浪をしている旅行者のほうも、まこと鼻持ちならない人間が少なくない。
ことさら経験の浅い旅行者を馬鹿にする。
ほうっておくと何時間でも旅の自慢話をしている。
あの国は行った、この国も行った、ただそれだけの自慢が実際である。
すなわち、どちらも虫が好かないのである。
ふたりに聞いてはならないことがある。

「で、なにか見つかりましたか?」

たくさん読書をしたのはわかりました。世界各国をまわったのは聞きました。
そもそもどうして読書・旅行をしようとしたのでしたっけ。
そうです。原点です。
それだけ読書をして、それだけ旅をして、なにか発見しましたか。
この問いに、おおかたの読書家、旅行者はことばを詰まらせるのではないか。
思わず絶句する。読書自慢、旅行自慢はできても、それだけである。なにもない。
いつしか原点を忘れてしまっている。
ふと気づくと原点の苦悩はとりあえず霧散している。
読書や旅行がまるっきり無意味だったわけではないのである。
しかし、これだという発見はなにもしていない。
ふふふ、やはり読書と旅行は似ていませんかね――。
「人は見た目が9割」(竹内一郎/新潮新書)

→ブックオフにて105円で買ったベストセラーをお酒をのみながらいいかげんに読む。
ううう、しあわせだぞい!
アマゾン(書評)の諸兄諸姉はなんでそんなに目くじらを立てなさるか。
どれも激昂しているけれども。

いまは身もふたもない意見が流行っているようです。
この新書のタイトルもそうですが、下流社会も格差社会もおんなじ。
収入の多寡や顔の美醜がすべてみたいではありませんか。
現実はそうだろうと怒られるのでしょうか。
現実なんてだれにもわかりません。
現実がどうのこうのというひとは、ウソっぱちだと思うのです。
おまえは現実をわかっていない!
この場合の「現実」は「私の生活」と翻訳して了解すべきではないでしょうか。

いまは刺激的なことを、あたかも現実であるかのように高言する書物が増えています。
それなりにおもしろいからいいのでしょうが、あんまり真に受けてはいけません。
どこにも現実なんてものはないのです。
すべては「私の生活」であります。「私の周囲」と言い換えてもいいでしょう。
社会学者や心理学者が現実うんぬんと語るのを見ると苦笑してしまいます。
それは、あなたひとりの現実ではありませんか。
現実は人間の数だけ存在すると思うのです。
「ミス・サラ・サンプソン」(レッシング/田邊玲子訳/岩波文庫)

→戯曲。ドイツ産。
レッシング劇のみならず、悲劇などと言われるとどこか身構えてしまいませんか。
ギリシア悲劇、シェイクスピア四大悲劇、エイザベス朝演劇、フランス古典劇――。
翻訳で読んでもちんぷんかんぷん。
むかしの異人さんはどれだけあたまがよかったのかと打ちのめされる。
それは違うのである。
ギリシア悲劇も、シェイクスピア劇も、楽しんでいたのは我われと変わらぬ民衆。
いな、我われ以下かもしれない。文字の読めぬやからも劇を楽しんでいたのだから。
ワイドショーと考えればよろしい。悲劇すなわちワイドショー。
嫌な言いかただが、ひとの不幸というのは、おもしろいでしょう。
他人の幸福のどれだけつまらないことか。
違う。他人だけではない。自分の幸福も、どこかで退屈している。
幸福とは、なにも起こらないことである。
にこにこ、ぺこぺこしている(することのできる)幸福なんてぶっ飛ばせ。
古来、人間が悲劇を求める理由ではないかと思われる。
人間は幸福を願いながらも、実のところ幸福に飽きあきしているのである。
幸福ほどつまらないものがこの世にあるものか!

悲劇「ミス・サラ・サンプソン」の話をする。
内容をめちゃくちゃに要約すれば、幸福なんてぶっ潰せ、である。
ひと組のカップルがいる。熱愛中である。おもしろくもなんともない。
(電車でいちゃついているカップルを見るとつばを吐きかけたくなりませんか)
これをある中年女がぶち壊すのである。かの女の名前はマーウッド。
このマーウッドは、例の熱々カップルの男のほうのかつての恋人である。
10年もつきあった。ふたりのあいだには子どもまでいる。
悪女マーウッドは、なんとか男とよりを戻そうとするのである。
それが無理とわかると、せめてこの相思相愛を破壊しようと試みる。
ひねくれたわたしなどは、それ行けマーウッドとこの中年女を応援するが、
一般の観客(読者)は愛し合うふたりを思いやりながら、
(それでもこころのどこかで破局をのぞみつつ)見守るのであろう。
(ワイドショーの芸能人破局報道における喝采を想起されたし)

マーウッドとかつての情夫とのやりあいはこの芝居の絶頂である(P204-206)。
愛し合うふたりを見て快いのは、ふたりの破局をまえもって知っているときのみ。
ほんとうにおもしろいのは、たとえばこの芝居でマーウッドが繰り広げる戦争である。
男女間の戦争だ。お互い、嘲り、軽蔑し、憎みあう。
夫婦喧嘩は犬も食わないというのはウソだ。あれほどおもしろいものはない。
(ストリンドベリ「死の舞踏」、オニール「夜への長い旅路」、
オールビー「ヴァージニア・ウルフなんて怖くない」を参照)
以前は熱愛をしていたマーウッドとその情夫の喧嘩も同様である。
やれやれ! と思う。血を流せ。殺しあえ。

「死ね、この裏切り者!」(P212)

実際にマーウッドは短剣で襲いかかる。ううん、やるねえ!
だが、これは失敗。
結末としてはマーウッドは、元カレのいまの恋人を毒殺して復讐を遂げる。
男は、あのときじぶんが刺されていたらこうはならなかったと後悔する。
かれがマーウッドから取り上げた短剣で自害するのは「オセロー」を思わせる。

かくして幸福は消え去ったわけである。
思えば悲劇とは、幸福への不満から生まれるものかもしれぬ。
「オセロー」では、新婚夫婦の幸福へのねたみから悲劇が始まった。
「ハムレット」でも、そう。再婚した母の幸福への苛立ちから、ハムレットは狂乱する。
アンティゴネは、このまま戦争が終わって平和が訪れるのが耐え切れなかった。
マクベスもリチャード三世も、戦争終了後の平和やら幸福やらにむかむかしていた。
リアは老後の幸福など、つまらないと思ったのであろう。
オイディプスは、なかでも最も悲劇的な人物のうちのひとりである。
わざわざ自身の不幸めがけて疾走する脚力は他の悲劇の追随を許さない。

劇は大きく分けるとふたつである。悲劇と喜劇。
不幸に終わるのが悲劇、幸福に終わるのが喜劇である。
これも当たり前の話で、人間は生きているあいだ、悲しむか喜ぶか、
この両極にはさまれ右往左往するほかないのである。
というのも、幸福も不幸も、人間にはままならぬ。与えられたものを受容するしかない。
せめて舞台では、そんなあわれな人間を神のごとき視点で見たいと思うのである。
「エミーリア・ガロッティ」(レッシング/田邊玲子訳/岩波文庫)

→戯曲。ドイツ産。
劇では偶然がよく起きる。偶然が人間を動かす。
舞台のうえの人間は考えるのだ。この偶然はなんだろう。なにを意味するのか。
人間は偶然になにを見るのか。人間を超える大きなものをだ。それをかりに神と呼ぶ。
神を見なければ人間には動かせないものがあるのである。
以前、殺人犯の手記をいくつか読んだことがある。
どの犯人も述べていたのは奇妙な偶然である。
あんな偶然がなければまさかひとを殺すことはなかったと声をそろえて言う。
まさかじぶんがひとを殺すとは思わなかった。
殺そうとは思ったが、同時に殺せないだろうとなかばあきらめていた。
それを動かしたのが偶然である。
たまたまふたりきりになったから。てっきりいないと思っていたら、偶然いたから。
そのとき人間は、おのが存在を超えるものを感知する。
こうして生じるのが劇ではないか。あるいは、悲劇と限定したほうがよいかもしれぬ。

ある国の君主が美女に目をつけた。女はエミーリアという。
ところが、この少女はもうすぐ結婚するというのだ。
君主は腹心の部下に相談して、エミーリアの結婚相手を襲わせる。婚約者は死ぬ。
いな、君主に殺すつもりはなかったのである。どうしてか殺す羽目になってしまった。
盗賊に襲われたと思ったエミーリアは君主の館へ逃げてくる。
ここまではほぼ計算どおりである。
だが、人間の計画は思うように運ばない。
なんの間違えか君主の元愛人であるオルシーナがこの館を来訪する。
最後にエミーリアを殺すことになる短剣は、嫉妬に狂うオルシーナが持ち込んだもの。
オルシーナは情夫の君主が別の女にこころを移していることを知る。
思う。どうしてじぶんはこの場に居合わせてしまったのか。

「偶然? いったいこれは偶然なのか?
殿下がここでわたしと会うことなど考えもしなかったのに、
ここで会う羽目になった、というのが?
偶然?――マリッネリ、いいですか、
偶然などという言葉は神を冒涜(ぼうとく)するものです。
お天道様の下では偶然などないのです。
――とくに、意図がはっきり透けて見えることにはね」(P108)


人間が偶然を必然と感じたとき、劇が生じるのである。
この館にエミーリアの父、オドアルドもやってくる。
オドアルドは、君主が娘の婚約者を殺したことを知っており怒り狂っている。
といって裁きの場に訴えてもどうにもならない。裁判官は君主なのだから。
せめて娘のエミーリアを返してくれるよう君主へ要求する。
君主はのらりくらりと拒否する。
身分の低いオドアルドは、なら娘と会わせてくれと懇願する。聞き入れられる。
これからしばらくのオドアルドが見ものである。
オドアルドはすべてをあきらめて君主の館をあとにしようか迷う。
どうなるのか。未来がどうなるのか人間にはわからない。迷うオドアルド。
よし、館を出ようと思った瞬間に、娘のエミーリアがすがたを現わす。

「出て行こう!(出て行こうとすると、エミーリアがやって来るのが見える)
遅かった! ああ! わしの手が求められているのだ! わしの手が!」(P146)


オドアルドはオルシーナから受け取った短剣を使うことになる。
エミーリアは父に頼む。このままではいけない。
このままでは愛する婚約者を殺した憎き仇(かたき)に手籠(てごめ)にされる。
エミーリアに頼まれたオドアルドは、愛する娘を短剣で刺し殺す。
このときオドアルドはじぶんの意思をどこかに感じていたか。
娘を殺したのではなく、なにものかに殺させられたように思ったのではないか。
これが悲劇である。すべての偶然が必然としてまとめあげられるのが悲劇だ。
君主も慟哭する。なにゆえこうなってしまったのか。
じぶんはただ女を愛しただけなのだ。
愛した、というよりむしろ、愛さざるをえないよう仕組まれたようにも思える。
その結末はどうだ。人間の意図はなにもかもくつがえされる。
かくのごとき人間の悲嘆・呪詛をもって悲劇は完成するのである。
「ミンナ・フォン・バルンヘルム」(レッシング/小宮曠三/岩波文庫)

→戯曲。ドイツ産。
劇とはなにかということをずっと考えている。いまのテーマである。
ふとこの戯曲からヒントらしきものを見つけたので引用する。

「もつれがもうじきひとりでに、ほぐれないわけじゃあるまいし」(P141)

芝居終盤の令嬢のせりふである。
令嬢は婚約者の軍人を追いかけてこの町までやってきた。
ところが、少佐は愛するがゆえに結婚をとりやめるというのである。
この少佐は、とある行き違いから軍部からとがめを受けている身。
軍籍からもはずされ、財産もとぼしいのが現状。
こんなじぶんがお金持で美しい令嬢と結婚したら、
相手を不幸にしてしまうというのが婚約破棄の理由である。
そこで令嬢は一計を案じる。ウソをつく。
じぶんは家出をしてあなたのところへやってきた。
いわば、勘当されたようなもの。無一文である。
これを聞いた少佐は態度をがらりと変える。
相手がじぶんよりも不幸ならば、この手で幸福にしなければと再び求婚する。
今度は令嬢が逃げる。
男を追いかけてきた女が、策を弄して、逆に男から追われる身になるというストーリー。
かるい恋愛喜劇である。
婚約者に求婚されいい気分の令嬢の口にするのがさきほどのせりふ。

「もつれがもうじきひとりでに、ほぐれないわけじゃあるまいし」(P141)

このせりふは現実化する。
ギリシア劇のデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)のごとく、
令嬢の伯父が舞台に登場し、すべてが丸くおさまる。恋愛成就である。
もつれがほぐれたというわけだ。

整理したい。劇とは、もつれがすっとほぐれるようなものである。
ここで喜劇に限定すべきかはわからない。
わたしは「ハムレット」や「オイディプス王」のような悲劇も、
結末ではもつれがほぐれたような印象を受けるがどうだろうか。
もつれは、おもに人間関係のもつれであろう。
欲望の主体である人間がふたり以上舞台に登場すれば、
どうしても関係はもつれるもの。
そのもつれが、ただほぐれるのではない。「もうじきひとりでに」ほぐれる。
「もうじき」とは時間経過を意味する。「ひとりでに」とは神の介入か。
個人(人間)の意思とは無縁のところで、といった意味合いであろう。
突然のようだがハムレットのせりふを思い出すのである(第五幕第二場)。

「つまり人間が荒削りはしても、最後の仕上げをするのは神なのだ」
(小田島雄志訳)


演劇の起源が神への供物であったことに思いをめぐらす。
酒の神、ディオニュソスへ捧げる狂喜乱舞が演劇の始まりとされている。
劇とは、無力な人間がせりふと動きでもって、神へといたらんとする営為。
劇とは、もつれをほぐさんと人間があたふたするがいかんともしがたく、
ところが時間の経過と共に人間の思いも寄らぬ(神の)手が天より伸び来たりて、
劇開始前に存在したもつれをほぐしてしまうもの。
たとえばこんな定義ができるのかもしれない。
劇とはなにか。引き続き考えていきたい。
「賢人ナータン」(レッシング/篠田英雄訳/岩波文庫)

→戯曲。ドイツ産。
レッシングは時代的にいうと、クライストの少しあと。
のちのゲーテやシラーに影響を与えた。
とくにこの「賢人ナータン」はゲーテ、シラーともに最大限の賛辞を捧げている。

劇はいろいろな理由から作られるが、
劇本来の役割は主張の多重奏にあるのではないか。
なにかをみなに言いたいとする(A)。だが、それはかならずしも正しくはない。
その反対の意見も、ことによると正しいかもしれぬ(B)。
しかし、AでもBでもないCという考えかたもできる。Cこそ正解ともいえる。
答えのない問題には、演劇という表現形式がもっとも適しているのかもしれぬ。
わかりやすい具体例を用いよう。
公共の場は全面禁煙にせよ、という意見がある(A)。
分煙すればいいではないかという意見もある(B)。
煙草のみならず酒も自宅でしかのませるなという意見がある(C)。
考えようによってはAもBもCも正しいわけである。
これが現実ならつまらないものである。
Aは自己の正当性を主張する。BもCも同様である。譲歩などあるわけがない。
結果は多数決でA、B、Cのいずれかに決定されるわけだ。

評論ではA、B、C、それぞれが正しいなどと書くことはできない。
そんなことをしたら支離滅裂な文章になってしまう。
だが、劇文学ならば、AもBもCもおのおの正しいと書くことができるのである。
小説でも不可能ではないが、戯曲ほどの自由はない。
小説家がA、B、Cのどれに思い入れがあるのかで物語がゆがめられてしまう。
付言すると、小説の名作というのは、この歪曲が少ないものをいうのであろう。
作者はAが正しいと思っているのにもかかわらず、どうしてもBが幅を利かせてしまう。
とすると、より戯曲に近い小説が、あるいは名作なのかもしれない。

さて「賢人ナータン」である。
この戯曲におけるA、B、Cは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。
A、B、Cの対立に都合がいいよう時は十字軍の遠征。場所はエルサレム。
A、B、Cの利害は複雑にからみあっている。
この戯曲における最大のテーマはユダヤ教、キリスト教、イスラム教。
この3つは根をおなじくしているのに(旧約聖書)、なぜいがみあうのか。
いちばん正しい宗教はどれか。とりたてて回答は明示されない。
ユダヤ教徒の養女と、キリスト教の兵隊の恋がストーリーのかなめである。
この兵隊さんは、敵であるイスラム教のスルタン(ボス)から命を助けられている。
結末を書くと、例の娘さんと兵隊は、実は兄妹の関係であった。
兵隊はスルタンとも血縁関係のあることが明らかになる。
なんてことはない。みな血縁だったのである。
兄と妹の再会は「人類みなきょうだい」の標語を連想させおかしい。
とりあえず芝居としては閉幕する準備ができたが、最初の問いの答えはでていない。
いっこうにかまわないのである。
これが劇だ。A、B、C、それぞれ正しいのが劇といえよう。
「道は開ける」(デール・カーネギー/香山晶訳/創元社)*再読
「人を動かす」(デール・カーネギー/山口博訳/創元社)*再読

→新年の読書はじめはこの本から。
自己啓発書の古典。何度も再読したため、内容をほとんど覚えている。

みなさまの周りにはいませんか。
いつも明るく前向きで、くよくよしない。仕事(勉強)もできる。
のみならず、ひとから好かれる。友人がたくさんいる。
だれからも頼りにされている。決まっていそがしそうに動きまわっている。
まさしく人生をエンジョイしているとおぼしき人間。
そのような人間になるためのマニュアルが、この「道は開ける」「人を動かす」である。

意外に思われるかもしれないが、
わたしだってこのタイプの有能な人間にあこがれているのだ。
他人とうまくつきあいたい。友人がほしい。
悩みごとから解放されたい。幸福になりたい。
だれもが思うことである。
新卒で入社したとき、この本を上司からすすめられたかたも多いのではないか。
ふたつのタイプに分かれる。
最初はおなじなのである。みながみな、なるほどと感心する。
こうすれば自分も成功者になれるかもしれないと期待する。
けれども、現実はそうかんたんにはいかない。挫折する。
マニュアルどおりやっているのにうまくいかないこともあるのだ。

ここでどうするかである。
「道は開ける」「人を動かす」を捨てるか、それとも再読するか。
いうまでもないが再読した人間のほうが成功する確率は高い。
そのうちこの会社員は気がつくようになる。
何度も何度もカーネギーを再読するうちにいつのまにかそうなってしまうというべきか。
重要なのは考えないことである。すなわち、疑わないことだ。
一生懸命に働いて考える時間を作らない。
もっと不幸なひともいるのだから自分は幸福だと信じ込み、前向きに働き続ける。
こんな生きかたをしている人間が、そうそう手ひどい失敗をするわけがない。
いつしか、あのときの新入社員は成功者の仲間入りをしているというわけである。
にこやかな笑みを浮かべて後輩社員にこの書物をすすめるものもいよう。
あるいは、起業して経営者になっている、あのときの新入社員もいるかもしれない。

カーネギーの主張はこうである。
考えるな。疑うな。働け。
怒るな。笑え。話すな。聞け。へりくだれ。ほめろ。
こうすれば成功者になれるとカーネギーはいう。たしかにそのとおりなのだろう。
だが、こんなことを継続できるはずがない。
人間本来の性質にそむくウソだからである。
もちろん、カーネギーはお見通しだ。何度も本書を読めという。
そのうち自然にウソがつけるようになる。
人間はだれだって考えたい。疑いたい。働きたくない。
むかついたら怒りたい。笑ってばかりはいられない。
自分の話をしたい。他人の話なんて聞きたくない。えばりたい。他人を見下したい。
それではダメだとカーネギーはいうのである。
自分と他人に毎朝毎晩、大量のウソをばらまかないと成功することはできない。
カーネギーの成功哲学である。

では、カーネギーのいう成功とはなんだろうか。
金持。社交家。精神安定。健康。長寿。
たくさんの友人に囲まれながら、資産にもめぐまれ、他人からの尊敬を勝ち得ている。
こんな状態だろうか。
これを俗物とバカにするのはたやすいが、その青臭さにはやりきれない思いもする。
かといって、その青臭い青年にわけしり顔でカーネギーの書物をすすめる中年ほど、
この世に生きている人間のなかで醜いものはいない、とも思う。
ハムレットにカーネギーを読ませていいのか。
マクベスにカーネギーを読ませていいのか。オイディプスにアンティゴネに……。
劇は起こらなくなるかもしれない。いな、起こらなくなるのだろう。
アマゾンの書評で、世界中の人間がカーネギーを読めばいいのに、と書かれていた。
ほんとうにそれでいいのだろうか。
みんなにこにこ笑って、だれも怒らず、ひとしく前向きで、調和が取れている。
劇的なことは映画館や劇場でしか起こらない世界――。

とまれ、成功したいのである。
去年も正月から生まれ変わろうと、カーネギー流を実践した記憶がある。
数ヶ月は続いたのだったか。毎日、カーネギーの本をめくった。
今年も正月からカーネギーである。1年、カーネギー流に生きたい。成功したい。
怒るな。笑え。あたまを下げろ。他人を尊重せよ。前向きに、明るく――。

(注)以前の感想。

「人を動かす」
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「道は開ける」
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