数日前、「火の用心 うるさい」で検索したときは、
同意見のかたがほとんどいなかったが、
今日、おなじようなワードで検索すると、かなり増えている。
これで喜ぶのは本来なら恥ずかしいことである。
賛同者がだれもいなくても「わたしはこう思う!」と発言する勇気こそ貴いものなのだから。
だが、愚かなわたしはどうしても「みんな」を気にしてしまう。
「みんな」がどう思っているか、である。
自信がないということなのだろう。

検索でヒットが増えた理由は、検索エンジンの時間差か。
記事を書いても、それが検索結果に反映されるまでは時間がかかる。
たいがい火の用心は26、27日くらいから。
この時期、うるさいと書いたのが、
大晦日になってようやく検索結果にあらわれたということかもしれない。
むろん、わずかに賛同者ができたからといって、こちらが正しいというわけではない。
そもそも正しいということが、どういうことかわからないが、
民主主義の多数決の論理でいうならば、正しいのは火の用心がわである。
どう考えたところで火の用心をうるさいと思わない人間のほうが多いのだ。
民主主義というのは話し合いではなく、たかだか多数決に過ぎない。
少数派は常に我慢するしかない。
社会を変えたいと思ったら数を増やすしかないのだが、
いかようにしても賛同者が増えない少数意見というものもあるのである。
少数派は多数派のお許しを乞うしかないということだ。
騒音恐怖症の原因はなんなのだろう。
河合隼雄ふうにいうなら、原因を考えてはいけないのかもしれない。
いまのわたしはそのようなコンステレーション(布置)にいるということなのでしょう。
感覚が鋭敏になっている。耳をすませている。
本を読む。著者の声を、本音を、なんとか聞き取ろうとしている。
ふつうのひとよりも注意しながら読書をしている。
そうでもしないとこの「本の山」のようなブログはできない。
3行の感想を書くのならいいが、
本気で本と向き合うのなら感性をとぎすませていなければならない。
自画自賛ではないが、去年書いた感想に比べたら、
いまのほうがより深く本を読み込んでいるように思う。
いきおい感じやすくもなる。
聴覚のみならず五感がさえわたっている。
このため騒音にも敏感になってしまう。
おそらくこの騒音神経症を治したら、月並みな読書しかできなくなってしまうのではないか。
凡庸な読後感しか持つことができなくなる。
なかにはそれでもいいというひともいるのだろうが、
わたしの場合、そうなってしまっては困る。
とすると、あきらめるしかないということか。
騒音に苦しみ続けるしかない。
いわば、みずからつくりだした病気なのである。
のぞんでこのような状態になっているといえなくもない。
こう考えると、いくぶん気が楽になる。治るわけではないのはもちろんだが。
火の用心の夜回りは町会でやっているというので、
町会長さんのところへ電話を。
「たいへん申し上げにくいのですが、火の用心の夜回りがうるさいのですが……」
すごい剣幕で怒鳴られた。声からするとおじいさん。
「バカを言っちゃいかんよ」
驚いたのは、はじめて話す相手に大声をだせるひとがいたこと。
暴力団の構成員かなにかのようだった。
こちらに話す余裕をあたえず、一方的に展開された町会長さんの主張は――。

あんたね、区民の安全をなんと思っているんだ。
あんたひとりのことより、区民の安全がたいせつだ。
あれはね、ボランティアでやっているんだよ。
だれだって寒い夜は家にいたいんだ。
それをね、わざわざだ、みんなのためを思ってやっているんだ。
ご苦労さまとよく言われる。それが当たり前なんだ。
あんたのように、うるさいなんて言われたことがない。
警察や消防とも連絡を取ってやっている。
あたしゃね、~~町の会長もつとめているんだ。

こういうときは怒鳴りかえすのがルールなのだろうが、
わたしは「おっしゃるとおりです」を連発する。
怒っている人間になにを言っても無駄である。
何度、追従を繰り返したか。今度は笑いだす町会長さんである。
「そうだろう。ね? きみもそう思うだろう。
そのひとへ言っておいてくれないか」
いやね、そのひとじゃなくて、うるさいと思っているのはわたしなのだが。
ボケているのかもしれない。
とりあえず、向こうの言いたいことはすべて吐きだしたと思われる。
さて、なにを言うか。
「いろんなひとがいて、いいと思いますけどね」
このくらいしか言いようがない。
いろんなひとがいてもいいんじゃないかな。
向こうのほうが圧倒的な正論である。
わたしの支えになる論拠といったものは特にない。
12月30日までと聞く。26日からやっている。時間は午後9時から11時まで。
あと数日か。お酒をのみながらテレビでもがんがんつけてこらえるか。
「わかりました。我慢します」
そう言うと、また笑われた。
「我慢って、おかしいよそれは。我慢するたぐいのものじゃないんだ」
最後にまた大声に戻る。あたしゃね――。
「そちらがなんと言おうが、あたしゃ、ぜったいに間違えちゃいないよ」

たしかに正しいのは町会長さんのほうである。
風鈴騒音に関してはネットで同意見がかなりあったが、
火の用心の拍子木をうるさいと感じる人間はいないようである。
いや、いることにはいるのである。
けれども、すべて否定的な文脈で語られている。
火の用心がうるさいなんておかしいんじゃないの?
こころの狭いひとが多くなった。
個人のわがままをこれ以上、許してはいけないと思う。
こんな感じである。
調べてみると、なかにはうるさいという苦情で、
拍子木を使わなくなったという町会もあるらしい。火の用心の声もださない。
これを知ったのも、もちろん否定的な文脈においてである。
おかしなひとがいるせいで、拍子木を使えなくなった。
ごめんなさい。おかしいのである。

ここにはっきりと書いておくが、
わたしは自分のほうが正しいと思っているわけではない。
去年までは、なんとも感じなかったのである。
物好きなひとがやってるんだな。ご苦労さま。このくらいであった。
おかしいのは今年のわたしである。
ところで、調べてみると、いろいろなことがわかる。
火の用心をやっているひとも、そう喜んでやっているわけでもない。
つきあいのうえで、いやいやというひとも多いようである。
夜回りに行かないと悪い評判を立てられるのが怖いとの意見もあった。
もちろん、賛成派も少なくない。
あの夜回りのおかげで、ふだんは話すことのない町民と触れ合えた。
子どものころ、夜回りへ行って、老人の話を聞くのが楽しみだった。
以上は、火の用心を実行するがわである。
今度はあれを聞くほうはどうか。
大部分は無関心であろう。あってもなくても、どちらでもいい。
いや、風情を感じる詩心のある日本人のほうが多いのか。
どこにも統計は載っていなかったので詳細はわからない。
ネットでは情緒を感じるという意見が多いが、それはそう感じたから書くのであって、
無関心なひとはそもそも言及しないのだから、
かならずしも火の用心が圧倒的な支持を受けているわけではない。
最後に、火の用心をうるさいと感じるのは、ごくごく少数のようである。

さて、皮肉を言うか。
まるで軍隊みたいじゃありませんか。赤紙で強制徴兵。
お国のため。みんなのために火の用心。
みなさんは兵隊さんに感謝しなければいけません。
兵隊さんのおかげで、いま安全に暮らすことができているのです。
兵隊さんを見かけたら、ご苦労さまとねぎらいましょう。
話をかえて、平成の兵隊はというと――。
防犯のためという。不審者が多いからだという。
果たして火の用心の二人組が、不審者を見かけたところで、なにかできるのか。
武器を携帯しているわけではない。せいぜい警察へ連絡するくらいだろう。
だが、そんな異常者がいたら、通行人がとっくに通報しているのではないか。
血まみれのナイフをもった男が走ってきたらどうする?
火の用心は、みんなのためを思って、命がけでこの男をとめるか?
間違いなく逃げるでしょう。非難しているわけではない。
それがふつうである。人間、それでいいと思っている。
お国のために命を捨てて敵艦に突撃するのはたしかに美しいかもしれないが、
やはりおかしいとも感じる。

防犯のみならず防災の効果もあまり期待しないほうがいいのではないだろうか。
そもそも防災ってなんだろう。
むかしの火の用心はたしかに正当性があったのかもしれない。
一軒が火をだすと延焼して、みんなが困る。火がでたら、みんなで消す。
しかし、現代はどうだろうか。ちなみに、うちの暖房は電気である。
灯油を使っている家もまだ少なくないから、これに関してはなんとも言えない。
まあ、火がでたら隣近所が119番にすぐさま通報するでしょう。
わざわざ火の用心の二人組が巡回してくるのを待ってから電話するものはいない。
とすると、火の用心はなんのためにやっているのだろう。
俳句を作っている人間に季節を感じてもらうためなのか。
町会費で宴会をするためか、などと書いたら言葉が過ぎるのか。
町会の役員の報告会をやるための火の用心なのではないか。
もっとも詳しいことを調べたわけではないのでこれ以上は言及しない。
かりに町会費で宴会がされていても抗議するつもりはない。
人間は、社会は、政治は、そういうふうにできていると思うからである。

事実関係を報告する。
町会長さんは12月26日からやっていると言っていたが、実際は22日からである。
ほんとうに30日でやめてくれるのか不安でしようがない。
まず、役所へ電話をした。火の用心がうるさいと。
ここでもだいぶお説教をされた。
火の用心をやめたら、なんでやめたのだと逆に抗議がくると言われた。
それでも役所から町会長さんへ話しておいてくれるとのことであった。
翌日の火の用心は以前にもまして、はりきっていた。
それまでは20分程度だったのが、1時間以上も拍子木で騒いでいた。
やめる気はないという意思表示であろう。
せめていつまで続くのか知りたいという気持もあり、
役所から教わった町会長さんの家へ電話したてんまつは上に書いたとおりである。
「ああ、役所から言われてね、
そのうちのまえだけ拍子木をやめようという意見もあったが、
音なんかどこにいたって聞えるんだから、やめなくていいと言った」
これが町会長さんの判断である。
もうこれ以上、先へは行けない。我慢するしかないと思っている。

この記事はネットにはじめてだされる火の用心への違和感である。
何度も繰り返すが、わたしが間違っているのはわかっている。
少数派がかならずしも間違えではない、などと屁理屈をこねるつもりはない。
いつの時代も、多数派が正しく少数派は誤り、などと嫌味を言うつもりはない。
火の用心をやめろとも言っていない。
いな、やめてほしいとは思っているが、決してやめないだろうことはわかっている。
火の用心を歓迎する大勢のひとがいらっしゃることも存知している。
ある種の危険にも気がついている。
この記事がどこかにさらされたらブログが炎上するのではないかという危惧である。
コメント欄へ「キチガイは病院へ行け」などという罵詈雑言が並ぶ恐怖だ。
わたしはじぶんがおかしいことを知っている。
わざわざ教えていただかなくても充分理解しているつもりだ。
できましたらそのようなご批判はご遠慮ください。
この記事を書いた目的は、こんなひともいるということを知ってほしかっただけ。
もしおなじように火の用心をうるさいと感じるひとがいたら、
この記事を読んで多少はなぐさめられるのではないかと期待している。
主張のようなものがもしあるとすれば、いろんなひとがいてもいいのではないか。
これくらいである。
そうそう、調べていたらこんな情報があった。
除夜の鐘がうるさいというひともいるそうである。
その苦情で除夜の鐘をやめてしまったお寺もあるという。
わたしは除夜の鐘をうるさいとは思わない(だろう)が、その抗議者を異常とも思わない。
いろいろなひとがいるのだなと思う。
「魔の季節」(井上靖/文春文庫)絶版

→お酒をのみながら読んだ娯楽長編小説。
ストーリーのかなめになっているのは、
大学教授の伊吹貞二と映画女優の桂伸子との不倫である。
この主軸に貞二の妻と、伸子の元恋人がからむ。
井上靖の小説は物語性が高い。
では、なにが物語を動かしめるか。
この小説から物語の動因をぬきだすならここである。
貞二は、わがまま放題の伸子にいう。

「図々しい考え方だな」
「ええ、でもこれ生まれつき」
「厄介なもの持って生まれて来たんだね」
「厄介なものばかり持ってますの。
お金はほしいし、有名にもなりたいし、時々嘘つきたくなる。
それから、もっとほしいものがある!」(P92)


ここで美貌の女優、伸子のいう「もっとほしいもの」とは、
妻のいる伊吹貞二のこころにほかならない。
のちのちみごと貞二をものにすることになるのだが、肝心なのはそこではない。
生まれつき、である。持って生まれたもの。
これが井上文学の物語を展開させる。
生まれつきとは、別のいいかたをすれば諦念である。
人間は生まれるにあたって、
性別、国籍、美醜、性格、知能水準を選んだわけではない。
すべてが生まれつきである。持って生まれたもので、
死ぬまでの期間を(これも生まれつき同様に自由ではないが)やりすごすほかない。
これが物語である。井上靖がえがいているのは、生まれつきである。
健康状態も生まれつきならば、生まれ落ちた段階で、
死期も決まっているといえなくはない。
人間に可能なことは、持って生まれたものを知ることぐらいである。
だが、それは死ぬほんの寸前まで、わからないこともある――。
「岸辺のアルバム」(山田太一/大和書房)絶版

→テレビドラマシナリオ。昭和52年放送作品。連続15回。
現実というのは、いや、日常と言い換えるべきなのか、
日常は、なんでもないことの繰り返しで、劇的なことなんてなんにもなくって、
お愛想というか、まあ、ほどほどにウソをついて、
つつがなくやり過ごすしかないのだけれども、
まして日常をバカにするほど子どもではないつもりだけれども、
日常は、生活は、映画や小説の世界とは違うとわかっているけれども、
こう生きているとどうにもこうにも息苦しくて、やりきれなくて、
こんなものではないんじゃないか、
生きるというのはもっとなにかあるんじゃないか、
なんてがらにもなく思う日があって、冒険をしたくなるのだけれども、
どうも映画の主人公のようにはうまくいかず、
泣きたいような、笑うしかないようなぶざまなすがたになってしまい、
やっぱりダメなんだと思いながらも半歩前進したという満足もあり、
確実なことは今日とおなじような明日が続いてゆくということしかなく、
これからもこうして、つまり、ウソをついたり本音を言ったりしながら、
人生を喜劇と笑い飛ばすこともできず、人生を悲劇だと泣き尽くすこともできずに、
そもそも目のまえのことをなんとかするのにいそがしくて、
人生とは、なんておちおち考えるひまもなく、その日その日を生きてゆくしかない――。
山田太一がテレビドラマでえがく人間たちである。

ホームドラマを革新させたと名高い本作品をどのように紹介したらいいか迷っている。
舞台になるのは中流家庭の田島家である。
父の謙作は名の通った繊維会社に勤務するサラリーマン。
妻の則子は専業主婦。内職で衣服の直しをしている。
長女の律子は上智大学の学生。才色兼備である。
長男の繁は高校3年生。のちに受験に失敗。浪人生になる。
田島家の日常生活を見てみよう。
父の謙作が久しぶりに早く帰宅するというので、
繁が寿司を注文したのがいさかいの原因である。

繁「とにかく気まぐれに帰って来て、そんな文句いわれちゃ」
謙作「気まぐれとはなんだ、気まぐれとは。
人が気まぐれに働いていると思ってるのか!」
繁「なんだい、たかが寿司くらいでケチなことをいうなよ!」
謙作「たかが寿司だと! 人がどんな思いで稼いでると思ってんだ!」
繁「なんだよ、折角、折角、みんな揃って楽しくやろうと思ってたのに!」
律子「沢山だわ、もう。お寿司ぐらいのことで、いじましいったらありゃしないッ!」
則子「(泣く)」(P80)


映画でも、小説でも、えがくことのできない日常生活である。
10時間以上もの時間を有する連続テレビドラマのみ描写可能な現実といえよう。
平穏な家族風景でもある。この平和な日常が一本の電話で壊される。
主婦の則子へ、名も知らぬ会ったこともない男からの電話が頻繁にかかるのだ。
電話の男、北川は言う。

「信じていただけないと思いますが、
私はいやになるほど常識的な人間なのです。
子供の頃から、非常識なことはしたことがないといっていいくらいなのです。
しかし一方で、いつもそんな人生は情けなくないか、という気持がありました。
途方もないいたずらをしたり、狂ったような世界に首をつっこんで、
夜も昼もわからないほど、なにかに溺れてみたいなどと思うところがありました。
でも、自分では決して本当にはそんなことをしないだろう、
ということも知っていました。ところが。気がつくと、
ほんの一、二度お見かけした奥さんに電話をかけようとしているのです。
自分の中に、こんな非常識な情熱があったのか、
とこの年になって自分を見直す気持になりました。
勝手なことをいう、とお思いかもしれませんが、
こんな情熱をひき出して下さったのは奥さんなんです。
電話だからいえるんですが、奥さんの美しさなんです」(P27)


則子は会話だけの関係という約束で、北川と交際を開始する。
こんな楽しい人生があったのかと主婦の則子は目を見開かされた思いがする。
そのうち肉体関係を求められるようになる。
則子は浮気に踏み出すのだが、
その後押しとして山田太一はこんな状況を持ちだしてくる。
こころ憎いばかりである。
謙作の旧友の奥さんが入院している。時枝である。太った見ばえのよくない中年女性。
則子はしばしば病院の時枝を見舞う。ある秘密を知らされる。
時枝は浮気をしていたというのである。大学生の男をカネで買っていた。
どうして時枝がこんな秘密を則子へ告白したかというと余命に感づいたからである。
もう長いことない。時枝は言う。

「呆れたでしょうけど、私、後悔してないのよ。
あの事がなかったら、私の一生ってなんだったんだろうって思うもの。
結婚は見合いだし、主人、あの通りの野暮天だし、
心が沸き立つようなこと、なにもなかったもの。
いま、こうやっていると、よく男を買ったねって、
自分をほめてやりたいくらいなの。
あいつを買ったときだけ、私、血が燃えるような気がしたわ。
そりゃみじめよ。男を買うなんて、薄汚いことだわ。
でも、それでも、よく勇気を出して、買ったねって、自分をほめてやりたいの。
(……) 誰にも言わないで死ぬつもりだったのに、厄介かけちゃったわ。
いやな思い出だけど、ないよりはよかった。
なんにもない人生よりはよかったわ」(P101)


母の則子はこうして秘密をもった。北川と何度もホテルへ行く。
娘もある秘密をもつにいたる。律子はアメリカ人に強姦され妊娠。中絶手術を受ける。
父の謙作も家族には言えない秘密がある。
繊維会社勤務とは名ばかり。実際に謙作がしている仕事は人身売買である。
東南アジアから女性を輸入して、売春婦として斡旋しているのだ。
すべてを知っているのは息子の繁だけである。繁は思う。

「そうだろうか? 
食わして貰っているぼくに、家庭を壊す権利はないのだろうか?
お母さんが浮気をしても、姉さんが子供をおろしても、
お父さんが東南アジアから女性を輸入しても、
黙って受験勉強をしてればいいのだろうか?
たしかに、黙っていれば平穏無事だ。
何も起こらなかったと思えば、そんな気がしてくるくらいだ。
でも、それでいいのだろうか? 
平穏無事ならそれでいいのだろうか?」(P256)


こうも思う――。

「なにがあったって、しんとしてるんだ。なにもおこらないと同じなんだ。
だけど、人間なら、もっとめちゃくちゃになる筈じゃないか。
他の男を好きになったら、めちゃくちゃになるはずだ。
子供をおろしたりすれば、もう少し傷ついたっていい筈だ。
ケロリと一家団らんなんておかしいじゃないか。
女を輸入しといて、平然と親父面してるなんて、恥知らずじゃないか!
ロボットなんだ! あいつらはロボットなんだ! (……)
バカヤロウ! ロボットのバッカヤロー!
なぜもっと生き生きしないんだ。なぜもっと血を流さないんだ」(P251)


山田ドラマの特徴ともいうべき青臭い正論である。
とまれ、かくして繁は流血沙汰をもくろむ。
家族4人がそろっているときに、それぞれの秘密を一気にぶちまける(P276)。
このシーンは読んでいて、まあ、笑うしかないというか、泣くしかないというか。
強烈な泣き笑いをしたものである。
これを茶の間で家族そろって見ていたら、場がこおりついたのではないか。
秘密のない家族なんて、あるわけがない。
どの家族もウソで塗り固められた粘土細工のようなものである。
それをおまえらみんなウソつきじゃないかとテレビから暴露されるのである。
おカネをはらって見る映画からではない。
どこか見下していたテレビから逆襲されるのである。
テレビのまえで身動きができなくなった当時の視聴者を思うと、言葉がでない。
こんなシーンをよくもまあブラウン管に流せたものだと当時のテレビ人に拍手したい。

ウソ、ウソ、ウソ――。これが家族である。生活である。日常である。
どうにかこうにかごまかして生きていくよりほかない。
このウソまみれの家族に繁は真実という劇薬をぶちまけるのである。
山田太一のえがく世界は裏表のない理想郷とはことなる。
裏も表もある世界だ。表ではへらへら笑い、裏ではしみじみ泣く世界だ。
表では威勢のいいことを言うが、裏では言わなければよかったと後悔する人間だ。
表だけということはない。裏だけということもない。
世界も、人間も、裏表があるのである。ケースバイケースで裏表を使い分けている。
この裏と表の微妙なあいまをぬって人間は生きている。生活している。
本音だけでは生きられない。青臭い主張ばかりしていられない。
かといって、ウソばかりついているのも味気ないもの。
仮面をかぶってばかりいると、ふとしたおりに鏡を見るとぞっとする。
けれども、そう軽がると仮面をはずすこともできない。
素顔だって、仮面と比べて、そう見ばえのいいものではないのである。
山田太一は、裏と表のあいだで右往左往する人間をえがくのが絶妙にうまい。

連続ドラマの結末をいうのは野暮なものだが、いちおう記しておく。
繁による秘密の暴露で、いったんは壊れかかった田島家だが、
台風洪水による家屋の流失がきっかけとなり、ふたたびまとまる。
家族の再生をにおわせて「岸辺のアルバム」の最終回は終わる。
これを甘い結末と見ることはできない。
人間は本音だけでは生きられないのである。あるいは、こうも言える。
真実がどうだろうと家族という虚構は、そうかんたんには壊れないのだ。
またはこういう解釈も可能だ。
家族はめいめい、それでも、にもかかわらず家族というフィクションを選択した。
真実よりも、ウソを生き抜こうと決意をした。
真実がなんだ。現実がなんだ。
たとえウソでも真剣にウソを生きるのであれば、それが現実になるのではないか。
山田太一の家族への思いは、おそらくこういったところであろう。
家族はウソだという。ああ、たしかにウソなのだろう。だが、ウソを生きてなにが悪い?


*以下はおまけのようなもの。
山田ドラマの魅力は主筋からは離れた細部にある。
ちょっとしたひとコマが実に味わい深いのだ。いくつか紹介する。

謙作は娘の律子から非難される。

「ただお酒のんで働いているだけじゃないの。なんにもないじゃないの」

翌日の昼間である。居間――。

「謙作、ソファに横になって、本をひらいて胸にのせ昼寝している。
本は例えばモンテーニュの『随想録』のような、教養主義的匂いのする本。
テーブルにも、それに類する本が二、三冊積まれている」(P311)


こんなシーンもいい。律子は中絶手術の付き添いを堀先生にお願いする。
堀は、弟の繁の高校での担任教師である。
堀先生は律子の頼みを了承する。手術後のことである。
律子は、堀がやさしそうだからお願いしたなどとウソをつく。
堀先生は律子へ冷水をぶっかける。

「やさしくも、親切でもない。そんな顔をしているがそうではない。
君をはじめて見た時、綺麗な人だと思った。
しかし、三十すぎて独りものの、薄汚い高校教師を、
君が相手にするわけもないと思った。諦めていた。
ところが、君がおりて来た。妊娠して困っているという。
そうなれば、雲の上の存在じゃあない。ぼくにも手のとどく女になった。
恩を売っておけば、こっちもいつかいい目を見るかもしれない」


律子は露悪的な堀をとめる。

律子「よして。悪がってるんだわ。
どうしてそんな嫌らしいことを言うのかしら」
堀「事実だからさ」
律子「事実じゃないわ」
堀「少なくとも、やさしくて素敵な先生におすがりしたら、
先生は親切に助けて下さったというお話よりは、事実に近い」
律子「――」
堀「歪んでいるかもしれないが、ぼくは嘘が嫌いだ。
嘘のつき合いが嫌いだ」(P219)


またのときに堀はこんなことを言う。
律子のこの告白のあとである。乱暴されただけではない。
「別のアメリカ人と性的なつき合いがあったし、
煙草どころかマリファナも知ってるし、ひどい娘なんです」
堀はこう返答する。

堀「大抵のことにはおどろかない」
律子「でも嫌な気はするでしょ(伏せたまま)」
堀「ぼくは、自分がだらしないせいか、
どんな風に人が生きたっていいと思っている」
律子「そう(つきはなされたような思い)」
堀「ただ、死ぬこととか、孤独とか、誰かを好きになることとか、
人間の根元にあるような問題を小馬鹿にした生き方は好きじゃない」
律子「(目を上げる)」
堀「(気負いはなくボソボソと)そういうことと、
真面目に向き合ってる生き方なら、そんな生き方なら、
どんな生き方だって、いいと思っている」
律子「(うなずく)」
堀「ま、そんな事をいいながら、実は、いろんな事を、
まぎらしながら生きてるんだが――」
律子「――(堀を見直す思いがある)」(P227)


(メモ)ほかにもよかったシーンを備忘のため記しておく。
282ページの謙作が浮気に失敗する場面。
337ページ。深刻な状況下でのみごとな笑いの演出。
「日本人と心理療法」(河合隼雄/講談社+α文庫)

→心理療法の本。下巻。
河合隼雄が心理療法家を志した理由は極めて単純である。
他人の役に立ちたかったからだという。
いくつかの書籍で書かれていることである。
他人の役に立ちたい。
けれども、そのような善意がかえってことを悪くするという経験を
身をもって味わい尽くしたのが河合隼雄である。
人間が人間を助けるといっても限界がある。
あるいは、人間は他人を救えないと徹底的にあきらめる。
その地点で、それでもと、うんとこしょと、
大きなものへ立ち向かっていくのが河合隼雄である。
たとえば、自殺したいとクライエントがいう。
かんたんな相談ではない。生き死にの問題である。
人間の生死は、神の領域の問題といってよい。心理療法家ごときが、
この神の領域に立ち入っていいのかとたえず河合隼雄は逡巡している。
毀誉褒貶(きよほうへん)のあるこの心理学者をわたしが信じるのは、
この態度ゆえである。大きなものへのおそれをもっているからである。

どこをどう読み間違えたら、河合隼雄の本を読んでカウンセラーを志すのか。
いま心理学を専攻している学生の多くは河合隼雄の影響だと聞いたことがあるが。
わたしがいま氏の著作を読んで思うのは、臨床心理士にはなりたくないということだ。
人を助けるのは命がけである。
わたしは他人のために命をかけるのはとてもじゃないができない。
そのような大人物には生まれついていない。
ところが多くの学生がカウンセラーをめざしていると聞く。
ふしぎでしようがない。

本書で知った河合隼雄の笑えるエピソードを紹介する(78ページ)。
スイスの留学から帰国した直後のことだという。
登校拒否の男子高校生と面談した。
心理療法とは、時間・場所を決め、料金を取って行なわれるものである。
そうとはわかっているのだが、河合はこの高校生を自宅にひきとってしまう。
河合の家から学校へ登校させようという計画である。
ユング研究所の先生が知ったら、とんでもないと怒られてしまうのは必定。
河合隼雄の書斎に不登校の高校生が寝ているのである。

「ところが、私はその翌日京大で精神分析の講義をすることになっていて、
しかも、その内容は逆転移に関するところであった。
講義のノートには教科書どおり、治療者の逆転移の危険性について記し、
『クライエントとむやみに親しくなることは避けるべきである』
などと書いている。
その横にクライエントが座っているというありさまだった」(P79)


このような過去の体験の累積から、河合隼雄の著作は生まれているのである。
何人かのユング学者が河合隼雄を批判しているのを読んだことがあるが、
心理療法家・河合隼雄の権威がいっこうに揺るがないのはこのためである。
河合心理学は元手がかかっているのである。からだを張っているのである。
他人を救うことの困難をだれよりも知ったうえで、
それでもなんとかしたいと河合隼雄は願望する。祈る。
とてもまねのできることではない。
そこいらのカウンセラー志望の学生は、河合隼雄をほんとうに理解しているのだろうか。
「ユングと心理療法」(河合隼雄/講談社+α文庫)

→心理療法の本。上巻。
このところ2回ほど河合隼雄が登場する夢を見た。
詳細を記すつもりはないが、深い感動をともなう夢であった。
おりしも、ある本を探す過程で、本棚の奥から発見されたのがこの文庫本である。
紀伊国屋書店のブックカバーがかかったまま。
発売直後(7年前)に買って、読む機会がないまま、こんにちにいたったと思われる。
なにかしら符合らしきものを感じたので本書を読むことにする。
こういう行動形式がユング的(むしろオカルト的か)であることを知らないわけではない。

これは一般書を濫作する著者の著作群のなかでめずらしい部類に入る。
河合隼雄批判をする論者は少なくないが、どれも的外れの感をぬぐえない。
河合隼雄は、心理療法家である。
たとえ学説がいんちきでも、嘘八百でも、
クライエントの問題を解決しているのなら、河合隼雄を責めるいわれはない。
まえにも書いたが、問題はひとつなのである。
治るのか? これに尽きるというほかない。
ところが、肝心かなめのこれを河合隼雄は公開しないのである。
心理療法家の守秘義務というのが理由のひとつ。
これは職業上のもので、もうひとつは人間、河合隼雄の考えかたである。

「事例研究を発表することは、自らの成長のためのみならず、
他の治療者に対して役立つことはもちろんである。
しかしながら、それはクライエントの匿名性の確保を十分行っても、
ある個人の内奥の世界を公の場に示すということは、
やはり望ましいこととはいえない」

「筆者自身としては、これらのことを考えた末、
一九七四年以来、自分の行っている心理療法に関しては、
事例の公的な発表を当分行わないことに決め、現在に至っている。
この間、事例については直接に述べないにしても、
自分のほかに行ってきた研究を発表し、
それは心理療法を実際に行っている人が見れば、
臨床的にも役立つことを述べてきたつもりである。
ただ、心理療法を本当にやっていない人たちからは、
筆者は臨床活動をせずに『評論』ばかり書いているとか、
ユング派は神話の話などが好きでおもしろい説明をするが、
治療の実際に役立たないなどの批判を受けてきたが、
これらには別に反論の必要も感じなかった」(P132)


ところが、本書は学術論文を集めたもので、
1974年以前に著者の書いた事例報告がいくつか掲載されている。
河合隼雄の著作のなかでめずらしいものであると書いたのはこのためである。
読んだ感想を述べると、身もふたもない言いかただが、こうなる。
他人の夢はつまらないのである。
身近な話だが、あるブログに自分の見た夢が長々と書かれていたことがある。
ふつうなら読まないで飛ばすのだが、かつてたいへんお世話になった手前、
そうもいかず、なんとかその夢の話の読もうと努力したのである。
何回読んでも、最後まで行き着かない。
途中でわけがわからなくなって、読むのを放棄せざるをえない。
四度目か五度目の挑戦で、なんとか読了したのを憶えている。
読み終えたからといって、特別な感動があるわけではない。
申し訳ないが、わたしにとっては意味不明というしかない。
本人にとってはたいへん意味深いものだったのはわからなくもないのである。
嬉々として書いたのであろうことも文章のいきおいから感じ取れた。

夢というのは、ほんらいこのようなものである。
どれだけ強い印象を受けた夢でも、他人に理解してもらうことはできない。
みなさまも経験がおありでは。
生命および宇宙のからくりがすべてわかったような夢を見て、
家族や親友になんとか伝えようとするのだけれども、相手はつまらなそうな顔をしている。
なんでこの感動をわかってもらえないのだろうと、もどかしくて仕方がない。
日記やチラシの裏にでも、夢の内容を書いておく。
書かざるをえないほどの感動なのである。
だが、1週間後にそれを読み直すと、なんのことだかさっぱりわからない。

ご存じのようにユング派の心理療法では夢を治療のとっかかりにする。
クライエントは自分の見た夢を書きとめ、治療者に報告するのである。
心理療法家はクライエントの夢に深い関心をもって接する。
ユングの理論などすべておっぱらったとしても、この態度だけでも感心に値する。
通常、人間は他人の夢などには興味をもたない。
たとえ恋人や肉親のものでも、夢の話は敬遠したいのが実情ではないか。
恋人や肉親でもむずかしいことをユング派の心理療法家はやっているのである。
あかの他人の夢の話を、共感しながら聞いてやる。ときには感動を共有する。
人間はだれもが他人には関心をもたない。自分がすべてである。
このような現実の中、自分の(つまらない)夢の話を聞いてくれるひとがいる。
これはユングうんぬんを差し引いても、
こころを病むひとの励みになるだろうことは容易に想像がつく。
あんがいユング派の心理療法が効くのは、
このような初歩的な常識が関係しているのではないか。
すなわち、人間だれしも他人の夢の話を聞きたくない。
心理療法家はそれを共感しながら聞いてくれる。

もちろん心理療法家も人間なわけで、なんの訓練もしなかったら、
他人の夢がおもしろいわけがない。
ここでユングの登場である。
ユング理論というのは他人の夢の話をおもしろく聞くためのマニュアルではないか。
ユングではなくフロイトでもいい。
ユングやフロイトを少しでもかじると、他人の夢を分析してみたくなる。
少なくとも、以前ほどは他人の夢の話がたいくつではなくなる。
クライエントは心理療法家に夢の分析をしてもらうから治るのではない。
一般人には想像もつかないほどの注意を自分の(つまらない)夢に払ってもらえる。
クライエントは他人から見守られているような心地よい安心感をもつ。
同伴者がいるという感覚であろう。
けわしい道でも、同伴者がいれば、なんとか歩きぬくことができる。
ひとりで歩いてしまうひともいるのである。
クライエントは心理療法を受けなくても治るのであろう。
けれども、そう強い人間ばかりではない。ひとりでは歩けないひともいる。
四国のお遍路さんは、衣服や編み笠に同行二人と書くという。
同行二人。ひとりで歩いていても二人なのである。
諸説あって、この同行二人は弘法大師とも、観音さんとも言われているが、
いずれにも共通しているのは、ひとりではないということである。
心理療法の効果があるのは、この同行二人ゆえではないかと思う。

本書に戻る。いくつかの事例報告を読む。
クライエントの夢の推移である。
河合隼雄はわかりやすい文章を書くことでは定評があるのだが、それでもわからない。
むしろ、たいくつだと正直に告白したほうがいいのかもしれない。
河合隼雄がクライエントの夢に感心をもって筆をとっているのはわかるが、
この心理療法家ほどに一般読者は他人の夢をおもしろく読めないのである。
河合隼雄は、他人の夢を公開するだけでは不公平だと、
本書で自身の見た夢を公開している。
河合隼雄にとっては、生きるうえでよりどころになった大切な夢なのだろうが、
どういえば失礼にならないのか、河合先生の夢であったとしても、
そうおもしろくないのには愕然とした。

最後に話を現代的なものに移すと、ブログというのも一種の心理療法ではないか。
うつ病患者や精神病患者が好んでブログを開設していると聞く。
そういったこころの病をもつひとではなくても、ブログには治癒効果がある。
悩みを書く。苦しいことを書く。
それをだれかが読んでくれていると思うことで、だいぶなぐさめられるのではないか。
見られている、という感覚である。
見守られているわけではない。うっかりしたことを書くと非難が集中する。
けれども、見られていることには変わりない。
心理療法というのは、見られることなのだろう。
自分を見てくれるひとがいることで、人間が変わっていく。
これが心理療法における治癒の実態なのかもしれない。
「ウソの論理」(ひろさちや/中公文庫)

→人間は知る生き物である。たえず知ろうとする。
だが、明日をも知れぬ人間は、決して全体を知りえない。
死の間際になって、ようやく自分の人生を知るわけである。
それでも死そのものを知ることはかなわない。

知るという動詞があってはじめて真理や真実が発生する。
ここにおいてウソという概念も生じるにいたる。
真実があるのなら、真実でないものもある。それがウソだ。
ウソを極めたいと思っている。
真実がなんだ。現実がなんだ。そういう思いがあるのだ。
ウソをつきたい。だましたい。自分を、他人を、である。
現実を見ようなどと居丈高に述べる論者は現実をわかってはいないのではないか。
現実なんて見たら目がつぶれてしまう(オイディプス王!)。

いろんな不幸が人生にはある。
無実の罪で何十年も牢獄へ入れられる人生もある。
少年期に公害病を発症して、恨みだけの人生を送るものもいる。
難病で苦しみだけの人生をわずか5歳で終える幼児もいよう。その母親もいる。
かつてはどうして人生にこんなむごいことがあるのかわからなかった。
いまではいささか考えが変わっている。
こういうものなのだ。人間は無力だ。
明日どんな運命が待っているか知れたものではない。
すべては決められているのだ。
わたしは半年後に飛び降り自殺をするかも知れない。
失敗して下半身不随になるかも知れないし、成功して絶命するかも知れない。
知らないが、すでにそのことは決められている。

こんな現実をウソなくして、どうして生きられよう。
どのみち必要なウソならば、よりよいウソを選択したい。
少しでもウソへの理解が深まればと、このような本を読んだしだいである。
宗教評論家のひろさちや氏は、いい意味で、いかがわしい。
さらりとウソを言いそうである。
そもそも宗教とはどれも偉大なるウソなのだから無理もないことである。
「こわれがめ」(クライスト/手塚富雄訳/岩波文庫)品切れ寸前

→戯曲。ドイツ産。
岩波文庫で読む海外古典戯曲は味わいぶかいものがある。
いちおう感謝しているのだ。
岩波文庫のほかに古典戯曲を文庫でだしてくれる出版社があるはずもない。

岩波文庫の快楽をどう形容すべきか。
どうせつまらないのだろうと思わせるところがすばらしい。
いまはたいがいの本がおもしろいことをアピールしようとしている。
そのなかで岩波文庫はどうだ!
とことん古臭い翻訳。
平成の時代に旧仮名・旧字体の本を出版する会社がほかにあるか。
むだに長く、わかりにくい解説も通にはたまらない。
他の文庫の解説が、エッセイじみているのとはなんとも対照的である。
いかにも教えてやるんだという読者を見下した翻訳者の態度もいさぎよい。
ふつう本を手にする場合、期待している。どきどきしている。
だが、岩波文庫はそうではない。
つまらないだろうとあえて予測して本を開く。この瞬間のなんと貴いことか。
予想に反しておもしろかったりすると、もう飛び上がらんばかりの満足がある。

「こわれがめ」の話をする。古典的な喜劇である。
劇は、「知の移動」をもとに展開される。
舞台にAという人物が登場する。同様、B、C、D、Eが現われる。
どれだけ知を有しているかが問題となる。
A、Bが知っていることをC、D、Eが知らないことによって、スリルが生まれる。
これは舞台のうえと観客席の関係にも適応する。
A、B、C、D、E全員が知らないことを観客が知っている場合がある。
このとき知の漏洩(ろうえい)が劇の推進力となる。
劇中人物は、知の探求者ということもできよう。
舞台のうえの人間は、なにかを知るために行動する。
ハムレットは幽霊の言ったことが正しいかを知るために劇を生きはじめる。
オイディプス王は飢饉の原因を知るためにアポロン神殿へ使者を送る。
のちには先王ライオスの殺害者を知ろうとする。

喜劇「こわれがめ」は、ギリシア悲劇「オイディプス王」を下敷きにしているという。
幕があがると、裁判である。裁きの場。真実を知るための場である。
裁判官は村長のアーダム。
問題になっているのは、甕(かめ)を壊したのはだれかである。
裁判官たるアーダムこそ甕を壊した犯人だというのがしだいに明らかになる。
オイディプスこそ国土荒廃の原因という、あのギリシア劇と相似形をなしている。
芝居が動くには闖入者(ちんにゅうしゃ)を必要とする。
まずはこの村長よりも高位の司法顧問官ワルターがこの村にやってくる。
つぎに事件の真相を知る農婦ブリギッデが現われることで、村長の悪事がばれる。
事件の全容が劇中人物全員に知れ渡ったところで閉幕するのは、
あたかも現代の推理ドラマ(火曜サスペンス劇場!)のように安っぽいが、
ほんらい劇はこのようなかたちを有しているということなのだろう。
「ガリレイの生涯」(ブレヒト/岩淵達治訳/岩波文庫) 品切れ

→戯曲。ドイツ産。
解説によると、ブレヒトは深遠な思想からこの戯曲を書いたそうである。
かなりじっくり読んだつもりだが、その思想がわたしにはわからない。
芝居は娯楽だと思っているせいかもしれない。
こむずかしい理屈を上から教育されるのは真っ平である。
よって、この感想は的外れなものになっているだろうと思われる。
わたしがおもしろいと思ったことを書くことしかできない。ご了承ください。

ガリレイはご存じのように地動説を主張した科学者。
ところが教会の査問で、あっさり転んでいる。自説を撤回している。
このガリレイを、ブレヒトが取り上げるというのが興味深い。
ガリレイがもし転ばないで死刑になったりしたら、この科学者は英雄になったわけだ。
科学に殉じた学者などと神話になったであろう。
従来の演劇は、そのような英雄を舞台にあげてきた。
だが、ブレヒトが注目するのは英雄ではない。
教会の権力に屈して地動説を撤回するガリレイである。
なぜガリレイは権力に屈したかの説明をブレヒトは二通りしている。
ガリレイは転んだあとも研究を続けている。
安っぽいヒロイズムで死ぬのではなく、
たとえ体面上はおかみ(教会)に従っても、研究は継続する実務家としてのガリレイ。
もうひとつのガリレイは研究を快楽とする男である。
科学上の発見が人類のためになるから研究しているわけではない。
美食とおなじように、研究が、真理を知るのが楽しい。
快楽主義者としてのガリレイである。
教会に屈したのも、じぶんの快楽を邪魔されたくないというエゴイズムによる。
以上、実務家ガリレイと快楽主義者ガリレイである。
これがブレヒトのえがくガリレイである。
ガリレイは決してバラ色の未来を夢見る能天気な男ではない。

おそらくブレヒトは科学のありようを観客へ認識させたかったのだろう。
科学者は真理という美名のもとに研究をしているが実際は違う。
科学はかならずしも人類を幸福にするものではない。
科学は民衆のものではなく、常に権力者に利用されるものである。
そのきっかけを作ったのがガリレイだというのがブレヒトの主張であろう。
解説によると、ブレヒトはこの芝居の主役を民衆だと説明したという。

修道士がガリレイを非難するシーンが印象的であった。

「彼ら(=民衆)には、神の目が彼らの上に探るように、
時には不安そうに注がれていること、
それに彼らのまわりには世界という劇場が構築されていて、
彼らはそのなかでめいめいの大きな役、小さい役を演じながら
自分の勤めを果たしているのだということは保証されているのです。
もし私の信者たちが、私から、お前たちはなにもない空間のなかで、
他の星のまわりを廻っている、沢山の、それもかなりとるにたらない星のひとつ、
ちっぽけな星のかけらの上にいるに過ぎないのだと聞いたら、
彼らは何というでしょう!
それなら今更何のためにこんな辛抱をするのだ、
こんな悲惨な暮しを納得することが、必要で善なることなのだろうか?
一切のことを説き明かし、汗や忍耐や飢えや屈従など、
すべての苦しみが必然的なものだと説明していた聖書が、
今になって間違いだらけだったといわれたら、
彼らは聖書なんて一体何の役にたってきたのだろう、と言うに決まっています。
私にはできませんよ。
私には、彼らのまなざしに怖気が宿るところが見えます」(P114)
「肝っ玉おっ母とその子どもたち」(ブレヒト/岩淵達治訳/岩波文庫)

→戯曲。ドイツ産。
つまらないとわかっていたから長いこと積ん読していたが、ついに手に取る。
ブレヒトは演劇の革新者。
ふつうドラマといえば、登場人物に感情移入するものでしょう。
さらに筋の展開にはらはらどきどきする。ドラマを見る楽しみである。
ブレヒトはこれを否定したのだ。観客へ感情移入させないようにする。
なんのためかというと、舞台のうえで起こっていることを感情を交えず分析してもらいたい。
結果、どうしてほしいのか。
劇場をあとにした観客に、現実社会を舞台のうえのように批評させたい。
現実社会の矛盾に気がつかせる。観劇を、社会を変えていく契機にしてもらいたい。
かんたんにいうと、左翼なわけだ。

ギリシア悲劇でもシェイクスピアでも、
いままでの演劇は麻酔のような機能をしているともいえる。
観客は現実の憂さを芝居を見ることで発散している。
笑ったり涙を流すことで現実を一時的にでも忘れるようつとめる。
この姿勢を、否と批判したのがブレヒトということになる。
ブレヒトが主張したのは、たとえば異化効果と呼ばれている。
ものすごくラフな説明をすると、舞台のうえでネタバレを先にやる。
この場面ではこういうことが起こると、まえもって観客に教えておく。
すると観客は芝居の筋に引き込まれることなく、
舞台上の事件を観察することが可能になる。
これを異化効果とブレヒトは言いたいようである。

ブレヒトは先生体質なのである。観客を教育しようとしている。
指導と言ったほうが適切かもしれない。観客を見下しているわけだ。
無知蒙昧な大衆を、ありがたい芝居を見せることで教育してやろうという魂胆。
観客は教育されるのを娯楽と受け取るに相違ないとブレヒトは信じている。
たとえば、「肝っ玉おっ母とその子どもたち」。
時代は三十年戦争。主人公の肝っ玉おっ母は、戦争商人をしている。
軍隊につきしたがい日用雑貨から兵器までを売買することをなりわいにしている。
戦争がないと商売あがったりなわけである。
この肝っ玉おっ母が、皮肉にも戦争で息子ふたりと娘をなくすというのがストーリー。
ブレヒトは観客に理解してもらいたいのだ。
民衆というのが、いかにみじめなものか。
みずからの食い扶持が原因になって子どもをみんな死なせてしまう肝っ玉おっ母。
社会というものは、こういう構造をもっていることを認識せよ、というわけだ。
我われもはかりまちがえれば肝っ玉おっ母のように生きているのではないか。
たとえば、タクシー運転手が、愛する子どもを交通事故でなくす悲劇がある。
社会というのはこういう仕組みをもっている。
ブレヒト先生の言わんとするところである。

生徒は、先生の教えをストレートに受け入れない。
では、観客はブレヒトの期待通りに劇を見ているかというと、そうではない。
これは日本だけではなく、どうやら海外でもおなじことのようである。
異化効果など観客は無視している。やはり肝っ玉おっ母に感情移入するわけである。
日本の観劇評をさらりとネットであさったが、
どれもブレヒトが知ったら嘆くであろうものばかり。
共感しただの、感動しただの……。
ブレヒトもいけないのである。この劇作家は、生来のエンターテイナーなのだ。
ついついおもしろい芝居を書いてしまう。そのくせ観客を教育するなどと言い放つ。
かなしい矛盾である。
観客はほかの芝居とおなじように舞台のうえの事件を楽しんで帰っていく。
ちっとも教育されたとは思わない。

ちなみに戯曲として読んでもなかなかおもしろい。想像していた以上である。
どれほど退屈なメッセージが書かれているのかとうんざりしていたら、なんのことはない。
娯楽作品である。ただ難点は翻訳者。
岩淵達治はブレヒト心酔者。ブレヒトを神とあがめている。
よって、かれにならい読者を教育しようと必死になる。
それは莫大な分量の訳注というかたちであらわれる。
この戯曲を娯楽書として読まれてたまるかという岩淵の気概を感じる。
けれども、読者は観客と同様である。どうしたって娯楽として読んでしまう。
観劇と読書におけるこの類似は皮肉と言うしかない。
じぶんが正常だとはつゆほども思っていない。
異常だとわかっているのである。
どうしてこんなにも音に敏感になってしまったのだろう。
以前はこうではなかった。
いろいろ試してもみたのである。

森田療法(騒音を「あるがまま」に受容)
アメリカ式行動療法(騒音が来ても活動をとめない)
カーネギーの「道は開ける」「人を動かす」(自己啓発書の古典)
般若心経(耳はない。空である。音は実体がない)
歎異抄(すべては前世からの宿業)
新約聖書(騒音をだす汝の敵を愛せ)
ユング心理学(騒音が気になるのは自己実現のきっかけ)
音楽療法(モーツァルト効果で心身ともに健康になる)

神経科のお医者さんに相談したこともある(笑われた)。
音が気にならなくなるクスリは目下ないという。
ああ、どうしたらいいのでしょう。
この騒音過敏症は発病してから1年は経過している。
ひどくなるいっぽうである。
むかしがなつかしい。
「石焼き芋~」に情緒を感じた昔日の暮らしよ。
「火の用心~」をご苦労さまと思うことのできたじぶんがいたなんて。
左翼の街宣活動など目にも耳にも入らなかったあの平和な日々を返してくれ。

日本における騒音問題の第一人者、ベストセラー作家でもある中島義道氏が、
最新刊の「醜い日本の私」でこんなことを書いていた(立ち読み)。
これをのんだら一切騒音が気にならなくなるというクスリがあるとする。
もし、のはなしである。中島義道氏がいうには、じぶんは決してそのクスリをのまない。
じぶん以外の騒音被害者もきっとおなじでクスリをのまないだろうと書いている。
それは黒人が、もし白人になれるクスリがあっても服用しないのとおなじ。
人間の根幹にかかわる問題だからだ、というのが中島氏の主張である。
いな、とお答えしたい。
もしそんなすばらしいクスリがあったら、わたしは迷わずのむ。

かつて防音グッズをすすめられたことがある。
パイロットが使用しているもので、3万だか4万だかする。
どうして買わないのかというと、うーん、どうしてなのでしょうか。
負けたという感じが気に食わないのかな。
じぶんだけの世界に逃げ込む態度のように思えてしまう。
騒音が気になるのは、他人と触れ合いたいという欲求の裏返しなのかもしれない。
ほんとうはじぶんが騒音をだしたい。
だれかとコミュニケートしたい。
しかし、かなわないので、おおやけに騒音をだしている人間を憎む。
へんてこな心理分析である。
だけど、まあ、じぶんでいうのもあれだけど、
騒音にうるさい人間というのは、どこかゆがんでいると思いませんか。
自分勝手で協調性がなく他人のことを思いやれない。
治すとしたらこの部分なんだろうけれども、持って生まれたものゆえ、
かんたんにどうにかなるとは思えない。こまったものです。
やばいったら、やばい。
騒音恐怖症にもほどがある。
例の「火の用心」がうるさいのだから。
あのカチッカチッという、木をぶつける音もたえられない。
毎晩、この時間である(22時)。20分ほどつづく。
もう入浴したというのに、いま飛び出して行きそうになった。
うるさいと言うためである。
ぐっとこらえてこれを書いている。

なにより我慢できないのは善意ということかもしれない。
本人たちはいいことをしていると信じている。
それが神経にさわるのではないか。
先日のことである。神保町のはずれ。
路上でおばさんふたりが拡声器で騒いでいた。
いわく、教育基本法改正反対。
手にしている紙を棒読みしている。
いうまでもなく、だれも聞いているものはいない。
だのに、スピーカーでがなりたてている。
顔を見ると、いたく満足している様子。
じぶんがいいことをしているという満足感にあふれている。
本人以外はだれも同意しないだろうが、
あのおばさんたちはじぶんの考えを主張しているつもりなのだろう。
子どもに手がかからなくなった。亭主は相手をしてくれない。
だから、路上で拡声器を用いて騒ぐ。
うるさいと抗議をしようと思ったが、近所ではないのでぐっとこらえた。

「火の用心」である。
なんとかならないものか。だって、うるさいのですもの。
酔っぱらいが深夜に騒いでいるのとなんら変わらない。
ちがいは本人の意識である。いいことをしていると思っているか否か。
まずいな。この調子だと明晩あたりうるさいと言いにいきそうだ。
相手はきょとんとするにちがいない。
じぶんたちは善行をしていると信じている。
それが他人の迷惑になっているとは気づかない。
クリスマスイブの記事は「火の用心」との喧嘩になるかもしれません。

(追記)以前は「火の用心」など、まったく気にならなかった。
神経が徐々におかしくなってきているのかもしれない。まいったにゃ~。
いまも近所で「石焼き芋」が騒いでいる(22時半)。
これもむかしは少しも気にならなかったのだが。
わたしはいったいどうなってしまうのか。先が思いやられる。
「ハムレット」劇について、考えてみたい。
生きるということについて、考えてみたいのである。
問題にするのはホレイショー。デンマーク王子ハムレットの無二の親友である。
劇中、ハムレットの唯一信用しているのが、このホレイショー。
おそらくホレイショーがいなければ、この劇は成立しなかったであろう。
ハムレットはどうしようもない狂気のただなかを生きている。
この王子はホレイショーへみずからの思いを伝えることで生きている。
ホレイショーだけはじぶんのことをわかってくれているという安心のもと生きている。
なにかを連想しないか。カウンセリングである。
ハムレットとホレイショーの関係は、クライエントとカウンセラーを想起させる。

ホレイショーが精神科医なら、話は早いのである。
医者はハムレットを精神病と判断する。
自殺するおそれや他人を傷つける危険性を見てとる。
隔離を周囲へ要求する。そのうえで投薬治療を開始すると思われる。
すなわち、ハムレットの荒れ狂っている感情を薬品でおさえつけてしまう。
結果、ハムレット王子はどうなるか。
うまく薬が効けば、ほどほどの人生を送ることができるであろう。
のちにはデンマーク王にもなろう。
ちょっと変わった王様程度に民衆からは愛されるかもしれない。
要点を整理する。なにゆえ精神科医はこのような治療をする権利があるのか。
だいいちにはハムレットを生かすためである。
だらだらと延命させる、と言い換えてもいい。
もうひとつは周囲が迷惑しているという事実。
このふたつの理由から、ハムレットを治療すべきだと精神科医は判断する。

だが、ホレイショーは医者ではない。投薬はかなわぬ。
ならこう考えてみたらどうなるか。
ホレイショーがカウンセラーだとしたら、かれがハムレットにとった態度はただしいのか。
ホレイショーは二度、ハムレットをとめる機会がある。
冒頭の亡霊の場面。
ホレイショーは父の亡霊に会いにいこうとするハムレットをとめることができた。
実際、とめている。ハムレットはホレイショーを突破する。
ここでホレイショーがちからずくにでもハムレットを阻止していたら、
のちの大量殺人は起こらなかったのである。
閉幕寸前にもう一度チャンスがある。
レイアティーズと剣の勝負をするまえである。
この時点ですでにポローニアスとオフィーリアは死んでいるが、
ここでホレイショーがハムレットをとめていたら最後の惨劇は起こらなかった。
いちおうホレイショーはハムレットをとめてはいるのである。
だが、ハムレットはホレイショーをふりきる。ホレイショーはおとなしく引き下がる。

ようやくここまで話が進んだ。
問題にしたいのは、この場面でのホレイショーの態度である。
問いたい。みなさまがホレイショーだったら、ハムレットをとめますか。
カウンセラーに問いたい。
ハムレットがあなたのクライエントだったら、この場合どうしますか。
開幕直後、閉幕寸前、どちらのケースでもかまわない。
ハムレットをとめなければ、惨事が起こるであろうことはうすうすわかっている。
とりあえずクライエントを死なせてはならない。
こう考えて、安易にハムレットをとめるカウンセラーは三流ではないか。
自殺すると訴えられたカウンセラーが、
守秘義務を破りクライエントの家族に連絡するようなものである。
ほんとうに生きるということを考えているカウンセラーなら迷うはずだ。
なにがハムレットにとっていいことなのだろう。
たしかに人間は生きなければならない。
しかし、生きてるってなんだろう。ぼんやり生きていたら、それで万々歳か。
違うんじゃないか。人間が生きるというのは、それだけではないんじゃないか。
燃えるように生きるという人生があってもいいのではないか。
重要なのは延命か。長生きすればそれでいいのか。
本人が死ぬまえに、「私は生きた」と思うことのほうが大切ではないか。
ほかの人生ではない、私だけの人生を生きた。満足した。これでよかった。
そう思うことのほうが肝心なのではないか。
たしかにハムレットの人生は幸福なものではなかったかもしれない。
わずか30歳の若死である。
けれども、と思う。幸福は、そんなにいいものか。
幸福ならそれでいいのか。
幸福、幸福とにこにこしている人生が、いったい、なんだい?
ハムレットは生きた。濃密に生きた。生きるということの本質を味わった。
神と対峙する興奮に、ハムレットは胸踊らせたことであろう。

ハムレットはホレイショーを恨んではいない。
王子は親友へ最後の最後まで感謝している。
ハムレットはわかっているのである。
ホレイショーのおかげで「ハムレット」劇が完成したことを。
ホレイショーがいなければ、劇を生きられなかったことを。
ホレイショーの心中を想像する。
この劇でいちばん苦しんだのはホレイショーではないか。
オフィーリアのように狂うことを許されていないのだ。
常にハムレットを見守っていなければならない。
生きるということはなんだろうと苦しみつづけたに相違ない。
もしホレイショーが現代のカウンセラーだとしたら、
かれは臨床心理士の資格をとりあげられるのだろうか。
ホレイショーはカウンセリングに失敗したのか。
たしかにクライエントのハムレットを殺してしまっている。
のみならずクライエントの父親、母親までも、結果的には死なせている。
これはホレイショーがハムレットを心底から理解しようとした結果である。
また、クライエントからはただならぬ感謝をされている。
もしやホレイショーは、超一流のカウンセラーではないか。
つまらぬ私事を書くと、わたしはカウンセラーという人種が大嫌いだが、
もしホレイショーのような人物がいたらお会いしたい。

カウンセリングの限界を「ハムレット」劇を例に用いて説明したつもりである。
カウンセラーは、クライエントを生かさなければならない。
死なせてはならないと考える。
これは無理もない話で、クライエントが自殺したら、
今度はカウンセラーの精神がおかしくなってしまう。
だが、死んだほうがいい人生というのもあるのではないか。
クライエントが死ぬことはかならずしもカウンセラーの失策なのか。
結果としてクライエントが死ぬことになっても、
そのクライエントのこころから満足する生きかたがわずかの期間でもできたのなら、
それはむしろカウンセラーの役目を果たしたと誇ってもいいのではあるまいか。
カウンセラーに限らない。友人の場合でもおなじである。
親友を生かすことがだいいち。だが、ふたつの生きかたがある。
ぼんやりとだらだらした人生を送る。激しく劇的に生き抜ける。
後者の生きかたを選択した結末としてたとえ死ぬことになっても、
それはその友人にとってよかったのではないか。
いや、それは違う。劇的な生きかたをしたところで死んでしまえば意味がない。
やはり長生きするのがいちばんだ。こう考えるべきなのか。
問いをまとめるとこうなる。
ホレイショーは是か非か。ホレイショーの是非を問うているのである。
新作映画や舞台、ミステリーなどの特殊な場合をのぞいて、
感想でネタバレするのはとりたてて悪いことではないと思っている。
ネタバレをしませんと宣言をしているブログはおごりがあるようにも思う。
これだけたくさんの作品がある。小説も映画もである。
じぶんがたまたま接したものをブログ閲覧者が手に取ると考えるのは、
そうとうな自意識過剰ではないか。
だれがブログの感想を読んだくらいで、その作品を鑑賞するというのか。
人間は、そう簡単に他人から動かされない。
ネタバレなしを自慢しているところは、そこらへんに他者への甘えがあるのではないか。
だれも他人のことなど気にしてはいない。
人間はだれがなんの本を読もうが、たいした関心をもたない。

そもそも、と言いたくもなるのだ。
ネタバレなしは自慢すべきことか。
能力がないからネタをばらすことができないのではないか。
書いてみたらわかるが、実はストーリーを要約するのは容易なことではない。
ネタバレはやろうと思っても、おいそれとはできないものなのである。
うまくあらすじを説明しようとしたら1、2時間は、あっという間である。

万が一、うまくネタバレに成功したとしよう。
それでも、そう気にすることはない。人間の記憶力を過信するなかれ。
どうせずぐに忘れてしまうのである。
恥を告白すると、ネタバレの感想を書いた張本人のわたしでさえも、
1週間も経てばあらすじを忘れてしまうのだから。
ましてや読み手の記憶にどこまで残るか。
哀しいかな、たいがいの人間の頭脳はその程度のものなのだ。
以上の理由で、わたしはネタバレをまったく恐れていないが、
この方針でブログを運営しているせいで、だれかが迷惑したという話を聞いたことはない。
年末ですね。近所の本屋へ行きました。
各種雑誌の来年の占いを立ち読みするためです。
来年の運勢は果たしてどうか。大問題であります。
人生は運だと思っています。星廻りがすべて。

思いだしました。今年の1月。
成人式まえのことです。湯島天神へ。
もうその頃は初詣の参拝客は減っています。
平成18年、神社へ行くのはこれが初めてでした。
百円払って、おみくじを引いたのです。
第一番の大吉でした。第一番。大吉。
なみだぐんだのを憶えています。ええ、ほんとうに泣いたのです。
ああ、ついに今年こそは……。
いままでろくなことがなかったけれども今年は!
大吉のおみくじを財布にしまいました。

いま財布からそのおみくじを取りだしました。
こんなことが書いてあります。以下は、抜粋です。

願望 思いのまま調(ととの)う
待人 早く来たる
失物 人の助(たすけ)ありて出ずる
学業 あわてずあぜらずなせば成就
病気 近く全快すべし
縁談 必らずまとまる


野暮なことを言うようですが、今年もあと10日。
あはは、ひとつも当たっていないわけです。
怒っているわけではありません。抗議したいわけではない。
不買運動を起こそうというわけでもない。
あんがい来年も湯島天神のおみくじを引くかもしれません。

いまでも、このおみくじには感謝しています。
だいぶ慰められました。とても百円では得られぬ満足感でした。
なにが言いたいのかと申しますと、人間は事実など求めてはいない。
ウソこそ人間の必要としているもの。
そうは思いませんかね。事実や現実がどうしてそこまで幅を利かすのでしょうか。
余命半年のひとに事実を告げたからといって、なんになるのでしょうか。
みんな余命などたかが知れたものです。あと50年も経てばみんな死んでしまう。

死にゆく人間の大半が夢など実現していません。
めぐまれた一部の例外をのぞいて、
だれもかれもなんだかわからないうちに死んでゆくのです。
これが事実です。現実です。
けれども、それがなんになりましょうか。
現実よりもウソのほうがよほどいいではないか。
じぶんの人生は意味のあるものだったと思って死んだほうが、
たとえそれがウソだとしてもよほどいいとは思いませんか。
死ねば灰になると思って死ぬのも、天国へ行けると思って死ぬのも、おなじこと。
そもそも事実など、現実など、どこにあるのかとも思うのです。
すべてはウソ。そのなかから、どのウソを選ぶかと言ったら間違いになるのでしょうか。

話が脱線しましたね。占いからスタートしたのです。
文学はわかりません。
けれども、文芸は、あの神社のおみくじを目標とするのではないでしょうか。
どうせ現実はつまらない。なにもない。ろくなことはない。
そうではない! なにかあるかもしれない!
人間にそう思わせるのがおみくじや占いの役割だとしたらば、
文芸というものは、これをめざすべきではありませんか。
芸術は別です。芸術のことはわからない。
だが、芸術ではない小説、映画、テレビドラマは、
おみくじと道をおなじくすると思うのです。
山田太一脚本のドラマがクランクインしました。
来春放送予定。テレビ朝日系列。「まだそんなに老けてはいない」。演出・深町幸男。
主演は中村雅俊、原田美枝子、余貴美子、岸部一徳、佐々木すみ江、MEGUMI。
内容は、団塊の世代へのメッセージ。恋愛もからむ。

倉本聰が来春の連続ドラマをやるのとは対照的。
山田太一はもうテレビの連ドラはやらないと決めているそうです。
それだけに、来春のこの単発ドラマが楽しみであります。

むかしから身分差別があります。
「演劇>映画>テレビ」です。
舞台俳優は映画役者をバカにする(あるいは、してもいいと思っている)。
映画関係者は、テレビまでは落ちたくないと主張する。
そのくせ、おカネは「テレビ>映画>演劇」。

皮肉なことですが、10代のわたしは、
演劇にも映画にも関心をもたなかった。
山田太一のテレビドラマにひかれたのであります。
芸術的な感性がないということでしょうか。

(番組HP)
http://www.tv-asahi.co.jp/huketehainai/


(追記)
1月27日午後9時から放送という情報がネットにはありました。
「師弟対談/作法・無作法」(高橋義孝・山口瞳/集英社文庫)絶版

→高橋義孝、山口瞳、両氏への賞賛と批判を同時に行なう。
いまふうにいえば「生きかた上手」で売りだされたのがご両人のエッセイである。
通人を求めたわけである。すなわち、粋(いき)な生きかた。
おとなの格好のよさを追求したといっても、そう大きな間違いはしていないはずである。
両先生を象徴している指摘が本書にある。
エビとカニがダメというのである(175ページ)。
理由は――。
むしるのがめんどう(山口)。
手のなまぐさくなるのがいや(高橋)。
工場でアルバイトをしている気分になる(山口)。
味がない。冬は指先が冷たくなる(高橋)。
手がにおう(山口)。
そのくせ値だけは高い(高橋)。

まったく同感であります。テレビのグルメ番組で、
どうしてあれほどエビ・カニをありがたがっているのかわからない。
目玉が飛びでるほど高いでしょう。
あれはそれほどの価値のあるものなのか。
カニなんて食べるのはめんどうで、せっかく取りだしてもぱさぱさしている。
カニミソはたしかにいいかもしれないけれども、あれは珍味。
言ってしまえばゲテモノ喰いではないですか。そう自慢できるものではない。
エビも同様。それほど珍重するものとは思えない。

と、このように両先生に喝采を送るのが、ふつうの愛読者。
ここで、ちょっと待てよと思いたいのである。
たかがエビとカニではありませんか。俗物もはなはだしい。
エビがうまいの、カニがまずいの、それくらいしか悩むことはないのか。
エビが高かろうが、カニが安かろうが、どうでもいいことではないか。
人間の生死とは、まったく関係していない。
エビ・カニが高いくせにまずいだと? 
だから、どうした。あなたの人生はそのくらいしかないのか。
こう詰問したくもなるのである。
エビ・カニごときで必死になっている金持ちをあざ笑いたくなる。
人間はエビやカニのために生まれてきたわけではない。

また逆説を使うことをお許しください。
けれども、しかし、エビ・カニごときにむきになれる人間しか、
信じられないという思いもあるのです。
ゲージュツがどうの、ニッポンがこうのと騒いでいる人間は虫が好かない。
よほどエビやカニに夢中になっている人間のほうがいいと思う。
こうなってくると、なにがなんだかわからなくなる。
エビ・カニはいいから、人間は好きなのか、嫌いなのかと
わたしへ問いたくなるかたもいらっしゃるでしょう。
その通り! エビ・カニよりも人間である。
さて、高橋義孝、山口瞳、両氏は人間を好きだったのか。
少なくともエビやカニよりは。
ご両人、人間よりはエビ・カニをむさぼり食うのではないか。
それでも、ひとを食ったようなところのあるのが両先生の魅力である。
「三ノ宮炎上」(井上靖/集英社文庫)絶版

→短編小説集。やってはならないことをしてみよう。
解説からの引用である。
たいがい学童の読書感想文とやらは、解説文を水で薄めることに終始する。
水とは、その学童自身である。
おろかな教員は児童がみな個性をもっていると信じているようだが、
実際の学童とは水である。水だから、退屈な教科を学べるのだ。
関係のない話をした。文庫の解説から引用する。
書き手は尾崎秀樹。文芸評論家のようである。

「彼(=井上靖)はある対談で、小説を書き出した頃、私小説は書くまいと思い、
どうせ書きはじめたのだから、おもしろいもの、
大きいものを書いていこうと考えたと語っていた。
そして一つの物語の世界を設定し、その中で人間と人間の関係を描く場合、
単なるつくりごとでなく、
読者を最後までひっぱってゆくようなおもしろさをもりこむには、
それなりの配慮が必要であり、
そこに小説を書く上での苦心と同時にたのしさがあるとも言っている」(P274)


この短編集を説明するのに、これ以上、うまいものはない。
わざわざわたしがなにかを論じるのがアホらしくなるくらい簡潔かつ明瞭である。
井上靖の小説はおもしろい。また、大きなものが描かれている。
だから、平成を生きるわたしも絶版書を求めて読んでしまうのである。
読書感想文なら「自分の考え」がないと教員から叱責されそうだが、
ここはそういう場ではないので、このへんで失礼させていただく。
「歎異抄」(金子大栄校注/岩波文庫)

→歎異抄を再読するのは半年ぶり。
この半年で少しは成長したのか。
歎異抄を読むことで、この教えを読み込む度合いで、おのが深浅も鮮明になると思った。
どこまでいまのじぶんは歎異抄の奥へわけいることができるか。

結果。歎異抄は新約聖書よりもひどいと思った。
なにがって、狂っている。あるいは、ひとを狂わせる。
ひとを千人ぶっ殺して、そのくせにたにた笑いながら、
世界中の人間でいちばん救われる可能性があるのは、あっし。
ほら、この返り血を見てください、これがあかしです。
なんでしたら、あと千人ほど殺してきましょうか。
へらへら笑いながら、そんなことを言ってのける豪傑をイメージする。
歎異抄の論調というのは、まごうことなきヤクザの啖呵(たんか)である。
麻原彰晃を千倍、偉大にしたらば親鸞になるのかもしれない。

親鸞が現代を生きていたら麻原彰晃の何倍も残虐な犯罪をやったのではないか。
屁理屈をこねるようだが、こう考えてみたらどうなりますか。
ひとを千人救ったとする。けれども五人の人間を殺してしまった。
これを悪だと断定する勇気がわたしにはない。
だって、人間が生きるというのは、だれかを犠牲にしているわけでしょう。
日本人がいま全体として裕福なのも、アフリカで餓死する子どもがいるからでは。
ある人間がベンチャー企業で大成功をおさめたとする。
果たしてその栄光のうらに何人の町工場の社長が死んでいるか。首を吊っているか。
みんなが幸せになることなど、とうてい無理なのは、
マルクス主義の失敗で明白になりました。
だれかが幸福になるためには、かならずどこかで別のひとが不幸になっている。
だとしたら、そうだとしたら……。

もちろん本気で言っているわけではない。
じぶんが殺されるがわになったらという問いがあるのもわかっている。
愛するものが殺されたらという反論できない問いの存在も知っている。
だが、しかし、それでも、親鸞というひとを考えると、そこらへんの糞坊主ではない。
麻原彰晃と比較してみたくなってしまうのである。
これは親鸞をおとしめているのではない。
だから、親鸞の教えは、人間を救済するちからがあると主張したいのである。

(注)「歎異抄」をはじめてお読みになるかたは、講談社学術文庫がおすすめです。
この岩波文庫の解説は、まったくわかりません。ええ、わたしのテーノーゆえ。
「フェンス」(オーガスト・ウィルソン/桑原文子訳/而立書房)

→戯曲。アメリカ産。1987年ピューリッツァー賞受賞作品。
オーガスト・ウィルソンは黒人劇作家。黒人をテーマにした作品を書いた。

この劇の主人公はトロイさん。53歳。黒人です。
前科一犯。殺人の罪です。刑務所へ15年入りました。
現在はゴミ収集の仕事をしています。
結婚しています。妻とは再婚です。子どもはふたり。
前妻の子と、いまの妻との子。どちらも息子です。
楽しみは給料日の金曜に酒をのむこと。
それから月曜まで10歳年下の妻のからだをなめまわすことです。
以上のようなトロイさんの生活を、かれの口から直接、聞いてみましょう。

「(ゆっくり、瞑想的に)お前……俺はできる限りのことをしてる。
毎週金曜にここに帰って来る。
袋いっぱいのジャガイモとバケツ一杯のラードを持ってな。
お前ら、みんな戸口に並んで、手のひらをつき出す。
俺はポケットからリント布を出して渡してやる。
俺の汗と血をお前たちにやるんだ。
俺にはもう涙はない。涙なんて出つくしたんだ。
夜になると俺たちは二階の部屋に行く……俺はお前の上に倒れこんで、
果てしなくお前の体を攻めまくる。
月曜の朝起きてみれば……テーブルの上には弁当がおいてある。
俺は家を出る。頑張りとおす。
なんとかつぎの金曜まで持ちこたえる力を見つけるんだ」(P55)


黒人ですよね。性欲がみなぎっている感じが、ちょっと怖くありませんか。
そうなのです。トロイさんは、ひとりでは満足できない。
一夫一妻では飽き足りません。愛人を作ります。のみならず、はらませる。
なんか動物みたいですね。
このあたりでトロイさんの息子、コーリーくんが前面へ出てきます。
コーリーくんは、フットボールの才能があるのです。
大学からスカウトに来ます。親の承諾が必要なのですね。
トロイさんは、ハンコを押さない。
そもそも字が読めないので、なんの書類だかわからなかったのかもしれませんが。
コーリーくんもさすがに怒ります。

「俺がパパより偉くなるのが怖い、それだけなんだ」(P76)

父子の喧嘩になります。
思えば、このトロイさんにも、父親と闘った過去がありました。
親父をぼこぼこにのして都会へ出てきたのがトロイさんなのです。
さて、トロイさんとコーリーくんの喧嘩はどうなるか。
コーリーくんはバットをもっています。

コーリー「さあ来い! ……さあ来い!」

コーリーはトロイめがけて再度バットを振る。当たらない。
トロイはじわじわコーリーに近寄る。

トロイ「お前は俺を殺すしかねえ! 俺に向かってそのバットをかまえる気だな。
俺を殺すっきゃねえんだ」

コーリーは木に押しつけられ、これ以上動けない。トロイは彼をあざける。
彼は頭を突き出し、ねらってくれというように差し出す。

トロイ「来い! かかって来い!」

コーリーはバットを振ることができない。トロイがバットをつかむ。

トロイ「そんじゃ、俺が教えてやろうじゃないか」

コーリーとトロイはバットの奪い合いをする。
その闘いは激しく、ふたりとも必死だ。最終的にはトロイのほうが強かった。
彼はバットをコーリーから奪い、振りおろそうとしてコーリーを見下ろして立つ。
トロイは自分を抑える。

トロイ「ほら、俺の家の近くから立ち退け」

コーリーは敗北に傷つき、立ち上がって、
ゆっくりと庭から出て路地へと歩いていく(P119)


リアルファイトですね。ガチンコというのでしょうか。
どういったら差別ではなくなるのか。問題があったら教えてください。
アメリカ人って怖いですね。黒人って野蛮ですね。前科者って恐ろしいですね。
とにもかくにもトロイさんは息子を追いだしたわけです。
ところが、トロイさん、そろそろ運も尽きたのでしょうか。
例の愛人は娘を出産するとすぐに死んでしまいます。
愛人の存在がばれて、妻からも嫌われます。
しかし、妻は夫の愛人の娘を育てることを了承します。
トロイさんは孤独です。息子は去り、妻からの信用もなくした。
友人もいつしか離れていきました。

8年後。トロイさんのお葬式です。
殺して終わりとは安易なような気もしますが、
うっかりしたことを言うとバットで殴られてしまうかもしれません。
ここでコーリーくんが戻ってきます。海兵隊に入り出世しています。
娘のレイネルちゃんも8歳になっています。
コーリーくんとレイネルちゃんが、お父さんのよく口ずさんでいた歌をうたいます。
異母兄妹の合唱です。美しいですね。じゃあ、このへんで、さようなら。
「バラが問題だ」(フランク・D・ギルロイ/菅原卓訳/「今日の英米演劇2」白水社)絶版

→戯曲。アメリカ産。1965年ピューリッツァー賞受賞作品。
こんな戯曲、だれも知らないでしょう。
日本では40年前に1度だけ上演されたことがある。
そうとうな傑作なのだが、もったいない。
オールビーやシェパードよりギルロイのこの作品を高く評価したい。
わたしもピューリッツァー賞つながりで今回読まなかったら、
ギルロイの名前すら知ることがなかったのだから皮肉なものだ。
といっても、演劇関係者とつてがあるわけではないから、
ここで紹介したところで詮ないこと。
いまの日本人でこの「バラが問題だ」を読むひとがどれくらいいるのか。
ひとりでいい。ひとりいてほしい。
そのひとりが読後に感動してパソコンで検索をする。
そこでこのブログを発見してくれればこの上もないさいわいだと思う。
ちなみにいま「バラが問題だ ギルロイ」で検索したらヒットは7件。

テーマは「家族病」である。
たいがいの家族が内に秘めた病気を持っているでしょう。
うちの家族だけは健康だなどと誇れるところが果たしてどれだけあるものか。

「バラが問題だ」。
夫婦ふたり暮らしのところへ息子のティミーが帰ってくることで劇が始まる。
ティミーは軍隊から復員したのである。時代設定は第二次大戦後。
かつては病弱だった息子が、ふしぎなことに元気な好青年になっている。
息子の変貌に両親は驚く。
二幕劇だが、第一幕では、一貫して仲のいい家族が描写される。
平和な親子再会の描写である。だが、このままでいくはずがない。
息子の病弱が治ったのである。だれかが病気を引き受けなくてはならない。
二幕冒頭から家族の調和が乱れる。まずは夫婦のあらそいである。
夫婦で息子をとりあう。じぶんの味方にしようとする。
徴兵されるまで息子が病弱だったのは、この両親の闘争のためと思われる。
徴兵をきっかけに家を出たティミーは、ようやく家族の病から立ち直った。
ティミーは母のネティへ直言する。もっとお父さんの身になって考えたらどうだ。
息子の初めての反抗に動揺したネティは家出をする。

妻の家出など初めてのことである。夫のジョンは動揺する。
さて、このとき息子のティミーはどうか。

「(第二幕)第二場。
日曜日の午後十時。
幕が上がると、ティミー、手にハイボールのグラスを持ち、
前のコーヒーテーブルにウイスキーの瓶をおいて、居間のソファーにすわっている。
彼がずっと飲んでいたことは明らかである。
ジョン、ぜんぜんしらふで、いらいらしながら部屋の中を歩きまわっている」(P49)


このような酒のつかいかたがアメリカの劇作家はうまい。
たとえばユージン・オニールは、酒を決まって劇のガソリンにする。
酒は、炎を燃え上がらせるための小道具である。
日本の父子は酒をまえにすると、どうしてああもしみじみしてしまうのか。
話を戻す。酒をのんだティミーはさっそくおっぱじめる。

「母さんが弟のジョンを生んだときにもこんなふうにここにすわっていたっけ」(P49)

死産した弟について、である。ティミーは家族の傷口へ指を入れる。
「家族病」の手術をしようというのである。
母さんが死産したとき、父さんは愛人と遊び歩いていたんじゃなかったかな?
父親のジョンは、息子の発言から逃げまわる。
守銭奴のジョンへ息子はたずねる。いまいくらおカネを貯めこんでますか?
ジョンは息子を殴りつける。そこへ母のネティが戻ってくる。
どこへ行っていたのか。ネティは答えない。
執拗に真実を問いつめるジョンを、息子のティミーは愚弄する。

ティミー「なにが真実なのかな?(ジョンはすごい目つきで彼をにらみつける)
すみません」(P57)


深夜2時。今度は息子と母親の対決である。
ティミーは家を出てひとり暮らしをしたいとネティへ言う。
息子を溺愛するネティにとっては爆弾を投げつけられたようなものである。
ここにいたって「家族病」の根源が明らかになる。
ネティは過去を述懐する。どうしてジョンと結婚したかである。
食べかけのりんごがきっかけだったという。
法律事務所へ就職が内定していた。
出社を翌日にひかえた日曜日、ネティが公園を歩いていると、
りんごの芯をぶつけられた。犯人は、皮肉なものである。
ずっとネティへ片思いをしていた少年である。遠くから眺めていた。
話しかけることがどうしてもできなかった。りんごの芯を投げた。
それが目に直撃。翌朝にはひどいあざになっている。目のまわりが真っ黒。
これでは恥ずかしくて出社できない。そのうち内定も取り消された。

「その次に見つけた仕事がお父さんとわたしを結びつけることになったのよ……
だから、よくあのりんごの芯のことを思い出すわ。
もしあのりんごの芯が投げつけられなかったら、
わたしの一生はどんなふうになってたかしらと思ったりして」(P60)


両親のなれそめを聞いたティミーは、こうもらす。
「家族病」の手術をこころみた執刀医の感慨である。

「三年前ここを出てく時には、家ん中の悪いことは
みんなお父さんのせいだと思った……帰ってきたら、
こんどは母さんのせいにした……この場にいたって、
だれも責められやしないと思うにいたっている……
自分自身でさえもね。(彼はあかりを消す)おやすみなさい」(P61)


翌朝である。焦点はティミーのひとり暮らしに絞られる。
またもやジョンとティミーの父子は言いあらそう。
だが、今日のティミーは昨日までの息子ではない。
興奮する父親に、わずかひと晩で成長したティミーは言うのである。

「愛してるんですよ、お父さん。
(ジョンはしっかりと目をとじ、全身をこわばらす。
気持を静めようとたたかっているのだ)愛してます。
(次の瞬間、ジョンはたたかいつづけられなくなっていく。
と、どっと激情にかられて、ふりかえり、両腕をひろげる。
ティミーが彼にとびつく。ふたりとも泣きながら抱きあう。
ネティがティミーの部屋から出て来て、来たことを知らせようと、
強くドアをしめる。ティミーとジョンは急いではなれる)」(P67)


この日、ティミーは家族から巣立ってゆくのである。
息子が軍隊からぶじに戻ってきたが、2日後にまた出ていった。
それだけのような話でいて、決してそれだけではない深みのある劇である。
「戯曲 アンネの日記」
(アルバ-ト・ハケット/フランセス・G・ハケット/菅原卓訳/文春文庫)絶版


→戯曲。アメリカ産。1956年ピューリッツァー賞受賞作品。

日記を戯曲にするというたくらみに、
この戯曲の作者が意図している以上のおもしろさを感じる。
日記というのは、いうまでもなく1日の記録でしょう。
その日に起ったこと、考えたことを、筆者が記す。
日記は、今日のことしか書かれない。
日記を1週間ためるようなこともあるかもしれないが、
少なくとも過去のことしか日記に記録することはできない。
ところが、日記には明日が存在している。
「アンネの日記」を読むとき今日のページのつぎに明日があることを疑うものはいない。
アンネは「アンネの日記」を書こうと思って、日記を記していたわけではない。
それなのに「アンネの日記」ができてしまうふしぎに打たれるものがある。

芝居になると、どうだろう。
観客はだれもがアンネの死ぬことを知っている。
何割かはあの屋根裏部屋にいるアンネの父親以外は全員死ぬことまで知っている。
芝居の内容は、窮屈な屋根裏生活における葛藤である。
住む部屋をめぐるいさかい。食べ物を奪いあうあらそい。希望と絶望の反復。
そんななか生まれるアンネとペーターの小さな恋。
結局はすべてがむなしく発見され、強制収容所へ送られてしまう。
アンネを殺したものは歴史である。
この少女はじぶんがおとなになることなく殺されることを知らない。
明日のことはわからない。どうしようもない。なにもできない。だから日記を書く。
アンネは日記を書くことで、歴史に立ち向かっていたのである。

人間は無力だ。舞台のうえのアンネは死ぬしかないのである。
決して勝てないものがある。それでも人間は立ち向かう。結果は負けである。
これが人間の劇である。我われがアンネそのひとだったらどうか。
じぶんがアンネだったらあんなドジをふまなかった。ぶじ生きぬけてみせた。
そんなことを言うものはいないだろう。だれがアンネでも死ぬしかないのだ。
だが、こう問うてみる。
我われがアンネだったらあの「アンネの日記」を書くことができたか。
ここにのみ人間の生きる自由があるではあるまいか。
「君が人生の時」(ウィリアム・サローヤン/加藤道夫訳/早川書房)絶版

→戯曲。アメリカ産。1940年ピューリッツァー賞受賞作品(作者は受賞を辞退)。
この芝居の舞台は、場末の安酒場。ひとが出入りを繰り返す。
酒場だから酔って本音もいう。人情小話が生まれる。
ときには喧嘩もある。色恋沙汰もある。
このアクションシーンとラブシーンは戯曲だとわかりにくいが、
いざ舞台で見るとなると観客に大きな刺激、
それも好ましいものを与えることを軽んじてはならない。
まあ、人間は他人の喧嘩と色恋の噂話が嫌いではないのだ。
酒場ゆえ、ピアノもある。ダンスを踊るものもいる。
これにて観客の耳と目を楽しませるわけである。サローヤンはなんとも計算高い。

物語の軸になるのがジョオという美男子である。
1ヶ月前からこの酒場に入りびたっている。なにをなりわいにしているのか定かでない。
カネ払いはいい。安酒場には不似合いなシャンペンを朝から晩までのんでいる。
この安酒場にはいろいろな人間がやってくる。
ピアノの名人。客を失笑させる名人のお笑い芸人兼ダンサー。
気むずかしい哲学者は、いつもおなじことばを繰り返している。
インテリだが、それゆえに港湾で働いている肉体労働者。
かれの友人で警察官をしているクラップは仕事をやめたいと愚痴るのが趣味。
酒場を愛するものばかりではない。
風紀係の役人、ブリックはこの酒場を目のかたきにしている。
酒場に出入りするさまざまな人間の生活の哀歓がほろりと暗示される。
だれも声高に論じるわけではない。酒をごくりとのみ、本音をぼそっともらすのだ。

芝居とは人間が登場して始まり、退場することで終わる。
まず退場するのはジョオの弟分のトム。
トムはトラック会社に就職して、娼婦と所帯をもつことを決める。
この酒場の敵である風紀係の役人、ブリックは射殺される。
生からの退場である。もちろんサローヤンは巧妙な手腕を発揮している。
劇作家は、かのブリックに酒場へいる善良な貧乏人をさんざんいじめさせる。
貧しい庶民をいたぶる役人。観客は死ねばいいと思う。
この劇作家は、観客の欲望をただしいかたちで実現させることで、観客を満足させる。
芸術から遠く離れた極めて安易な作劇法だが、いっぽうでアメリカらしいともいえよう。
正体不明のジョオもついに酒場から出ていく。ほかの土地へ放浪するのである。
酒場の主人はたずねる。「また明日逢えるだろうな?」
ジョオの回答はこうである。

「分らねえ。多分逢えねえだろう」(P324)
「ピクニック」(ウィリアム・インジ/田島博・山下修訳/「現代世界戯曲集」河出書房)絶版

→戯曲。アメリカ産。1953年ピューリッツァー賞受賞作品。
これほどの戯曲が日本ではほとんど知られていないのだから世界は広い。
青春とその終わりを描いた、純粋で透明、それゆえに残酷なかなしい劇である。
人間は無知と共に誕生する。成長する過程でいろいろなことを知る。
いつか死ぬことを知る。ひとが老いることを知る。
子どものままではいられないことを知る。男と女がいることを知る。
異性のことを知りたいと思う。だが、人生は知るだけのものではない。
人生は生きるものなのである。生きるとは、決断をすること。
決断をしてから、知ることがある。それはもう取り返しのつかなかないことだ。
過去には戻れない。昔日(せきじつ)は光である。現在のじぶんを照らす光だ。
どれほどの暗闇にいようと、その光源をなつかしむかぎりにおいてひとは生きうる。
「青春の終わり」とは、このことである。ウィリアム・インジの好んで描く劇世界である。

表題の「ピクニック」とは、アメリカ中西部のこの田舎町で、
夏の終わりの1日に、例年広場で開催されるお祭のこと。
この劇に登場するポッツ夫人はこんな説明をする。

「あたしたちがピクニックの計画を立てたりするのは、
それを、だしに使って、なんか、こう……スリルのある、
ロマンチックなことに出くわしてみたいっていう下心があるからじゃないのかね」(P303)


この芝居もおなじことである。
「ピクニック」は、スリルのある、ロマンチックな芝居である。
このような傑作を読んだあとには、芝居の本質を考えるようになる。
芝居とは、いったいなんなのか。
むずかしく考えることはない。舞台のうえを見ればいいのである。
戯曲で読んだ場合は、想像のなかの舞台ということになるが。
さて、なにが繰り広げられているか。
芝居とはそもそもどういう仕組みを有しているのか。
かんたんなことだ。ひとが出たり、入ったりしているのではありませんか。
これなのだ。芝居とは、ひとの出入り。出たり、入ったり。これが芝居だ。
(高級かつゲージュツ的な不条理演劇や前衛演劇でさえも、その多くはこれである)

安定からは劇は生まれぬ。平衡状態は、ともすれば退屈である。
だれもがなにかを待っている。待ち人が登場する。舞台に入ってくる。
こうして初めて劇が行なわれるのである。
劇の終わりで、舞台にふたたびの静粛がおとずれる。またもや安定に戻るのだ。
しかし、それは開幕まえの平穏とは、異なる種類の平和である。
出ていったものがいるためである。
地理的な移動のケースもあろうし、死、この生きている舞台からの退場ということもある。
これが芝居だ。劇とはこのことである。
配役はそのときそのときでかわるが、人間はこうして生きていくのである。
ある舞台へ入る。いつかその舞台から出ていく。この繰り返しだ。

舞台にまず登場するのは姉妹である。ふたりは対照的。
姉のマッジは18歳、町でいちばんの美少女。
妹のミリーは16歳で、こちらは姉の反対。ちっとも女らしくない。
わざと少年のような格好をして、乱暴な言動を好む。
マッジはひと目をひく美貌の持ち主だが、頭脳のほうは平均以下。
教師のお情けで高校を卒業させてもらい、いまは十セントストアに勤めている。
みずからの美しさに戸惑ってもいる。しきりに男に誘惑される。
いま交際している相手は大富豪の息子。避暑でこの町へ来ている。
マッジの母は、早く結婚の約束を取りつけてしまうよう娘をけしかける。
以下はマッジのせりふである。

「だれか、とてもすばらしい人が、あの汽車に乗って来て、
この町で降りるかも知れないって、わたし、いつも、そう思うの。
ほんの偶然によ。それで、その人が、何か買いに、
十セントストアへはいって来て、カウンターのうしろにいるわたしを見つけるの。
とても変わった目つきで、わたしのことを、じろじろ見てるわ。
そのうちに、その人は、今までさがしてた人間がやっと見つかったぞと、
腹の中で、そう思うの」(P283)


なにか起こらないか。だれか来ないか。このままではやりきれない。
ハルがこの田舎町にやってくる。
この美青年は、マッジの交際相手をたよってこの町へ来たのである。
このハルをめぐってドラマが動き始める。
ハルは職を転々としながら各地を放浪している。口八丁手八丁の軽薄な青年である。
妹のミリーとたちまち意気投合する。妹は、初めて男性を意識する。
女らしい格好をする。すると、どうだ。姉に勝るとも劣らぬ美少女になる。
ミリーはハルとダンスをするが、うまく踊ることができない。
姉のマッジが現われる。町でいちばんの美貌をもつ姉である。
マッジはハルとみごとなダンスを披露する。
いつも姉さんばかりいい思いをするんだ。ミリーはふてくされてウイスキーをあおる。
酔っぱらう。酔ったミリーを見て、
オールドミスの女教師、ローズマリーはハルを責めたてる。
ローズマリーもハルにひかれていたのである。
じぶんを邪険にして、マッジといちゃつくのが許せなかったのである。
みんなピクニックへ出かけてしまう。取り残されたのは、マッジとハル。
ハルは告白する。じぶんは貧乏人だ。ちんぴらだ。この先、なんの未来もない。
むかしオートバイを盗んで感化院(少年院)に入っていたこともある。
最低の人間だ。ルンペンだ。マッジはそんなハルを抱きしめる。

「わたし、その気もち、わかる。
ミリーって、とても利口で、才能あるでしょう。
うらやましくて、たまらないの。
わたし、それで、なんとか、あの子みたいになりたいと、そう思うでしょう――
すると、なんだか、自分が生きている値打ちのない人間のような気がしてくるの。
そこで、わたし、自分に言いきかせるの――
“わたしは、ミリーじゃない――わたしは、わたし”って、
そしたら、よっぽど気が楽になるわよ」(P303)


この晩、ふたりは結ばれる。翌朝、ハルはマッジへ求婚する。
これからはマジメに地道に働くから、お嫁さんになってくれないか。
マッジは母親の反対を考えて、決断を躊躇する。
警察に追われているハルは、答えを聞かずにこの町から逃げだしてしまう。
母の考えでは、絶対に反対である。
あんなちんぴらといっときの感情で結婚したら将来どうなるか知れている。
マッジは、芝居の閉幕寸前、決断する。ハルを追っていく決心をする。

この田舎町から出ていくのはマッジだけではない。
オールドミスの女教師、ローズマリーも町から離れてゆく。
ピクニックのためこの町へやってきた中年男がいる。ハワード。商売人である。
この男が長いことローズマリーに言い寄っていたのである。
お祭のこの日、いままでハワードをこばんでいたローズマリーだが、
とうとう陥落してしまう。ハワードは食い逃げをするつもりである。
気ぐらいの高いローズマリーが結婚を迫る。

「不足が、多すぎるのよ、わたしの暮らしには。
もう、こんな、暮らしは、今年きりにしようって、
毎年、自分に、そう言いきかせています。
なんか、良いことでも、起ってくれそうな気がして、ね。
ところが、さっぱり、なんにも、起らない……
ただ、わたしが、すこうしずつ、気が変になっていくだけ」(P319)


ハワードは結婚を了承する。じぶんで決断したのか実のところわからない。
ローズマリーの罠(わな)にでも、まんまとかかってしまったような気もする。
だが、もう逃げられない。
あのプライドの高い女教師が泣きながら、結婚してください、と言ったのだから。
ふたりの結婚シーンは華やかである。
みんなから祝福されて、ふたりは新婚旅行へおもむく。
劇作家ウィリアム・インジの作劇術には感心する。
ダンスシーン、結婚シーン、アクションシーン(ハルの逮捕騒動)。
シナリオ業界には、色事と荒事を適宜に入れるという暗黙のルールがあるが、
インジはその法則をすばらしいかたちで展開していることがわかる。

「ピクニック」はハッピーエンドなのか。いな、である。
インジの描くのは「青春のただなか」ではない。「青春の終わり」なのだ。
入ってきたのはハルとハワード。
このふたりに連れられて、出ていったのがマッジとローズマリー。
以上が、この芝居の全容である。恋愛のすばらしさをここに見るのは甘い。
ハルとマッジがうまくいくはずがない。
最初はいいだろう。そのうち子どもができる。どんな美貌もやつれる。
ハルは根っからのお調子者。浮気を繰り返すだろう。
マッジはハルと結婚したことを後悔するのはほぼ確実である。
そのときマッジのささえになるのが、この「ピクニック」の想い出である。
あの日、じぶんは生きた。青春があった。
この青春の淡い光が、これから長く苦しい人生を送るマッジを照らすのである。
ハワードとローズマリーもうまくいくとは思えない。
ローズマリーは知的でロマンチックな女性。
実務家で大酒のみのハワードとこれから何度となく夫婦喧嘩を繰り返すだろう。
どちらがプロポーズをしたかが常に問題になる。
ローズマリーは決して結婚をお願いしたことを認めないと思われる。

この芝居の真の主役はミリーである。妹のミリー。
ほんとは美しいのに、少年のような言動を好むミリーである。
読書が好き。頭もいい。絵を描く。詩も作る。
この芝居でいちばん魅力的な人物はまちがいなくミリー。
女教師の結婚を祝い、姉のマッジが熱愛のために家出するのを見届けたミリーは、
こんなことばをもらす。

「あたし、恋愛なんて、絶対に、しない」(P329)

最後に作者のウィリアム・インジについて書く。
デビュー時は脚光をあび、数々の傑作を世に出したインジだが、晩年は鳴かず飛ばず。
60歳で自殺を遂げる。
60歳のインジはおのが青春の栄光をどう見やったのだろうか。
青春の光がもう届かなくなった老劇作家、ウィリアム・インジ、最後の決断である。
いいなと思う文章がある。
ブログ「本の山」を運営している功徳。
書物から引用することが多々ある。
すると、気づくことがあるのだ。
いい文章だと思うところは、文法的におかしな箇所が多い。
書き写しているうちに、よくない(とされている)文章であることを知る。
だが、この部分にこころ打たれたことは間違いないのである。
夢中で読んでいるときは、文法などまったく意識していないということだ。

そのくせ、じぶんが文章を書くとなると、とにかく文法を注意する。
「は」がいいのか、「が」にしようか、ひと晩中悩むこともめずらしくない。
ときにいい文章を読む。文法的には、おかしいことを発見する。
そうでなくても、ふつうは書くべきではないとされている表現。
たとえば、「しかし」の多用や、「~~と思う」の連続。
けれども、そういうところにこそ、
読み手の深く感じ入ることが書かれているのは皮肉なものである。
文章の秘密かもしれぬ。
このところ、かつてないほど、古本のヒキが悪化している。
古本屋巡回の頻度は今年に入ってから、まったく変わらない。
むしろ最近の古書店訪問回数は以前より多い。
だのに、収穫はゼロばかり。
ブックオフでも神保町古書店でもほしい本がないのである。

マゾなのだろうか。
もう買う本がないのが当たり前になっている。
そのくせ、嬉しかったりもするのだ。
書籍を買わないから、未読本がどんどん減っていく。
たまらない快感である。ダイエットの幸福とは、これではないか。
マゾ的な快感である。

同時に、いささかさみしいのも事実。
積ん読している書物が減少していくのはかなしい。
「本の山」の中心にいる。
ある本を読むということは、その他多数の書籍を読まないということ。
この本を今日、1万冊ある本のなかから選んだと思うと、神聖なものを感じる。
5千冊から選択した本より、1万冊の「本の山」から決定した本のほうが尊い。

やはり読む本が減っていく日常というのはおかしい。
本はその性質上、増えていかなければならないものである。
本を読んでばかりいてはいけない。どんどん買わなければ!
町へ出て書を買おう、(そのうえで)書を読もう、である。
いうまでもなく書を捨てるなど論外である。
決して書くまいと思っていたことを書くことにする。
健康のことである。
他人の体調など、だれも関心のないことを知らないわけではない。

1週間まえ。12月8日ごろから頭がどこかふつうではなかった。
二日酔いがつづいているような感じ。寝たりないような感触である。
ほうっておいた。
はっきりといつもの頭痛だとわかったのは12月11日である。
医者から大量にせしめてある痛み止め(ロキソニン)の服用を開始したのもこの日。
まえの頭痛がいつだっかのか調べてみる。
「本の山」を「頭痛」で検索したわけである。
どうやら今年の3月まで頭痛があったようだ。4月にはおさまっていた。
とすると8ヶ月以上も頭痛がなかったことになる。
わたしの人生ではめずらしいことである。

原因はなにかと考える。
前回の受診日(漢方医療)、頭痛が長いことないので、
「ゴシュユトウ」の量を減らした。
これぐらいしか思いつかない。
頭痛のきっかけになる赤ワインをのんだわけではない。
今朝なんかも、目が覚めると頭痛である。
頭の左半分が痛む。連動して左眼の働きも鈍くなる。しめつけられるような感じ。
できるものならトンカチで頭の左半分をたたきわりたいくらいに思う。
いつものやつである。懐かしい思いもする。
ここ6年、この頭痛と8ヶ月も離れていたことはなかった。

かつては頭痛を根性でたえていた。
この疾病を治療したらじぶんの創作ができなくなるような感じがしたからである。
河合隼雄などの悪影響である。
ひとにすすめられて、市販薬をためす。さらには医療用の痛み止めを。
かなり効くわけである。
ロキソニンをのむと、明確に痛みと闘っているのがわかる。
がんばれがんばれ西洋医学と応援する。
だが、効く日があれば、ほとんど効果のない日もある。
1週間まえから勝手に余っている「ゴシュユトウ」を大量服用しているが効き目はない。

なかばあきらめている。この頭痛とは腐れ縁としかいいようがない。
頭痛専門のところをたずねたこともあるが、分類のできない頭痛のようである。
パターンならわかっている。決まって1、2ヶ月は痛みがひかない。
ある日、すうっと頭痛がなくなるのだ。
これでクリスマスも正月も、頭痛とつきあうことが決定した。
もちろんいい気持はしないが、かといってどうしようもない。
まあ、来年のバレンタインデーくらいには、きっと治っていることと思う。

ろくなことがない。悪いことばかり起こる――。
そんなふうにネガティブになってもいいが、
もう6年間、これなのでいささか厭世にも飽きあきしている。
そうかといって、頭痛が楽しいはずもない。うん、どうだろうか。
すでに頭痛なのだから1年近く禁止していた赤ワインをのんでもいいのではないか。
さいわい、いただきもののワインが数本ある。
決してのめないと思っていたものである。
前回の頭痛が、赤ワインをのんだ翌日にはじまったからである。

いや、のまないほうがいいのか。
かえって、頭痛がひどくなる危険もある。
けれども、いままで頭痛が怖くてワイン類をいっさいのまなかったのである。
せっかく頭痛になったのだから、このくらいの楽しみはあってもいいのではないか。
とはいえ、これ以上、頭痛がひどくなるのも困る。
ううう、頭が痛くなる。いな、もとより痛いのである。
かつての頭痛は酒をのんだらしずまったが、今回のはそれほど効果がないようである。
いまお酒をのみつつこれを書いているが、まだ頭の痛みはある。
もしかしたら反対に赤ワインをのんだら翌日に頭痛がおさまるのではないか。
アル中一歩手前の人間の独白である。
とにもかくにも、実験した結果をここに書いたら、
少なくともこの記事よりはおもしろいものになるのかもしれない。
「帰れ、いとしのシーバ」(ウィリアム・インジ/鳴海四郎訳/「今日の英米演劇2」白水社)絶版

→戯曲。アメリカ産。
ウィリアム・インジは、アメリカ演劇史においては、
テネシー・ウィリアムズ、アーサー・ミラーの二大巨頭のあとがまという位置づけか。
この二大劇作家に比べたら、いささか小粒というのがアメリカでの評価のようだ。
日本では、劇作家としては、ほとんど知られていない。
インジは原作、脚本の映画でむしろ有名である。
今回、ウィリアム・インジを読もうと思ったのはまったくの偶然。
そういえばこのところピューリッツァー賞受賞の戯曲をよく読んでいる。
うちには演劇図書館といってもいいくらい戯曲がそろっている。
そこで早速、過去にピューリッツァー賞を受賞した戯曲を調べる。
さて、そのなかでうちにある戯曲はなにかと調べたらインジの「ピクニック」がある。
ウィリアム・インジか。名前くらいなら聞いたことがある。
せっかくだからもうひとつくらいインジの戯曲を読むかと発見したのが、
今回の「帰れ、いとしのシーバ」。
映画になったときのタイトルは「愛しのシバよ帰れ」。
こちらの名前でならご存じのかたもいるかもしれない。

インジはウィリアムズの「ガラスの動物園」上演を観たのがきっかけで劇作を志す。
テネシー・ウィリアムズとどこか似ているが、
あそこまで乱暴にはなれないというのがウィリアム・インジの作風のようである。
ウィリアムズが「青春のただなか」を書くとしたら、
インジは「青春の終わり」を描く作家ではないか。
青春とは、終わってからあれがじぶんの青春だったと気がつくもの。
もう取り返しのつかないようになってはじめて青春がなんなのかわかるのである。
青春。なんでもできると信じることのできる時期である。
世界を変えられると信じられるのは、青春のただなかにいるものだけである。
世界は変わるかもしれない。世界になにかあるかもしれない。
後先を考えずに突っ走るのが青春である。
青春が終わって人生が始まるのだ。

「帰れ、いとしのシーバ」でドックは妻へ語る。中年である。
子供はいない。かつてチャンスはあったが流産したのである。

「いや……そりゃ違う。過去のことでクヨクヨしちゃいけないよ。
過去はどうにもならないんだ。
だから……過去のことは忘れて現在に生きなくっちゃ。
いつまでも過去にこだわっていると、そこから抜け出せなくなってしまう。
そりゃあ、おれだって、いまごろは指圧師なんかじゃなくて、
りっぱな医学博士かもしれない。
子供を育てて一緒にいっしょに暮らしているかもしれない。
まだ相当に貯金をしていたかもしれないよ、毎晩酒びたりになったりせずに、
チャーンと頭を使って慎重に投資でもしていたらだ。
快適な家に住んで、楽をして、友だちもできて。
だけどねえ、今はそうじゃない。ないからといってどうなんだ!
生きていかなくちゃいけないんだぜ。
過去にいくつか失敗があったからって、立ち止まるわけにゃいかないんだ。
前進しなくっちゃ……なんとしてでも」(P251)


青春のツケを払わされるのが人生なのである。
過去には決して戻ることはできない。青春の決断を人間は生き抜かなければならぬ。
ドックは重度のアルコール依存症である。
いまはとりあえずの落ち着きを見せている。酒をのんでいない。
だが、一滴でも酒をのむともう取り返しがつかない。
つぶれるまで酒をのみつづけ、暴れまわるのである。
すなわち、過去に拘泥する。過去の不幸を許さない。過去に生きようとする。
妻にからむ。妻を許さない。妻になるまえの女を叱責する。狂気である。

この芝居では、前半、どこにでもいそうな仲のよい夫婦の日常が描かれる。
ドックが酒をのむきっかけは、下宿人のマリーである。女子大生。
ドックは偶然から知ってしまう。
一見、清純そうに見えたこのマリーが、恋人でもない男友達にからだを許していることを。
それも我が家でこっそりである。
しかもこのマリーは婚約者がいるのである。
大企業のエリートと遠距離恋愛をしている。
ドックは現実が許せなくなる。酒に手をだす。ぼろぼろになる。
市営のきたない精神病院へぶちこまれる。
1週間入院したドックは帰宅する。泣きながら妻にすがりつく。

「どうか俺を捨てないでくれ、頼む」(P282)

やさしくドックを抱きしめてくれるのは、かつて情熱的な恋愛をした相手ではない。
いな、おなじ人間なのである。ただ、彼女はもう若くない。妻である。
現在というのは、もうどうにもならない。過去に決められてしまっている。
その過去はといえば、どうにも変えようがないのである。
ドックは知る。下宿していたマリーが去ったことを。
大学を中退して婚約者のエリートと正式に結婚をしたのである。
ひとつの青春の終焉である。これからあの女子大生の人生が始まるのだ。
いま幸福の絶頂にいるであろうマリーはそのことを知らないのだとドックは思う。
酒をぜったいにやめなければ、生きていかなくては、と思う。
「ウィット」(マーガレット・エドソン/鈴木小百合訳/白水社)

→戯曲。アメリカ産。1999年ピューリッツァー賞受賞作品。
アメリカ演劇が衰退しているのか。
またはもとからアメリカ人の芸術レベルが低いのか。
というのも、アメリカは新興国だから、歴史の重みがないでしょう。
歯が浮くようなドラマで全米が感動するわけだ(苦笑)。
ちなみにこの戯曲の帯にも例の「全米を感動」が入っている。

劇本来が持っている魅力に訴える劇ではない。
大衆の感傷と、陳腐な常識を刺激するのみ。
ほとんどひとり芝居といってもよい。
主役は、50歳独身の大学教授。専門は難解で知られる英国詩人のジョン・ダン。
彼女が病院で末期の卵巣ガンであることを知らされてから死ぬまでの物語である。
途中、彼女の人生で重要だったエピソードが舞台で再現される。
死をまえにして気づく生きることのほんとうの意味ってやつだね。
劇場ではうるうる感動するけれども、1週間もすれば忘れてしまう。
悪いと言っているわけではない。忙しい人間は死を忘れなければ生活できない。

この英文学教授のビビアンもそうであった。
研究ひと筋の人生である。友人も恋人も作らずに研究に没頭した。
おかげでこの道ではだんとつの権威になっている。
研究とは知ることである。
だから末期ガンを告知されたとき、ビビアンは最後まであきらめないことを選択した。
新しい治療の実験台になることを了承したのである。
じぶんも学者だから、医師たちの知への欲求はわかっている。
よし、最後まで研究に生きてやろうという決心である。
たとえ研究する主体から、客体にかわろうとも。

ビビアンが研究している詩人のジョン・ダンは死をテーマにした作品を残している。
彼女は研究者としては死を見極めていた。
だが、苦しい治療を受けているうちにビビアンは気づく。
「他人の死」と「私の死」はまったく異なるものであることを。
「私の死」をまえにすると、いかにじぶんがこの人生を生きていなかったかを。
知ることばかりで、少しも生きるということがなかった。
人生は知るものではない。生きるものである。
そして、生きるために必要なのは――。

「いまのわたしにとって、詳細に及ぶ学術的分析なんてまったく無意味なんです。
博識。解釈。複雑化。
(ゆっくりと)いま、わたしに必要なのは簡素、素朴、単純さ。
こんなこと初めて口にするけど、いま、なによりも大事なのは、優しさ」(P81)


彼女に優しさを教えてくれたのは看護婦のスージー。大学に行っていない、
そしておそらくジョン・ダンの詩など読んだことがないであろうスージーである。
劇の冒頭、ビビアンは観客へ語りかけている。独白である。

「話の筋をばらすつもりはありませんけど、わたしは最後に死ぬようです、
つまり、わたしに残された時間は二時間弱」(P8)


観客は最初の約束が守られたことを確認して劇場をあとにする。
かれらを待っているのは死ではない。無味乾燥な生活である。
この芝居を見たことで、少しは生きかたを変えられるかどうか。
観客が帰途、考えることである。