読書法にはふたつある。
まとめて読む。ばらばらに読む。
このふたつである。

つまり、えとあのその――。
ある分野に興味をもったらほかを無視しても、その領域を集中して読み込むか。
それとも、一般読者の特権。いろいろなジャンルをまたにかけるか。
どちらの支持者もいる。

めちゃくちゃな推論を許してほしい。
おそらく、作家系と学者系にわかれる。
作家タイプはほれたらそれまで。なにをおいても、その方面の読書を続ける。熱愛型。
学者タイプは対象へ心底ほれこむのが怖いので、あえて浮気をする。博愛型。

わたしはといえば、ずっと作家タイプであった。
この「本の山」をご覧くださったらわかるでしょう。
けれども、最近である。多方面読書をするようになってきた。
戯曲と日本古典、それから歴史書、宗教書を同時進行で読んでいる。
博学の加藤周一氏が推薦する方式である(「読書術」)。

どちらも、まあ、おんなじなのである。
本を読むということでは共通しているではないか。
井上靖氏の「敦煌」に胸打たれる一節がある。
古都、敦煌。かつての仏教都市である。この都が、いま燃やされようとしている。
そのときのある寺院の描写である。

「『どうして(仏教の)経巻を置いて避難できぬのか』
行徳が聞くと、青年僧の顔には明らかにそれと判る軽蔑の色が現われた。
今まで黙っていた一番若い僧が言った。
『自分たちの読んだ経巻の数は知れたものだ。読まないものがいっぱいある。
まだ開けてさえ見ない経巻は無数にある。――俺たちは読みたいのだ』」(P192)
スーパー速報です。本日開催の神田古本まつりへ行きましたので。
みなさまのお役に立てばと思い、似合わぬ時事ネタをやらかしちゃいます。
あはは、いひひ、うふふ、えへへ、おほほ。

近所の神保町へ歩いていくも、足取りは重いわけです。
東京名物の神田古本まつりなのに、であります。
理由はというと、なんともビジネスライク。例年、収穫がないからです。
毎年、楽しみにいくのですがここ数年、掘出物があったためしがない。
そのくせひとは多い。混雑している。すると、まあ、荒れる。
通常、古本とは縁のないひとがたくさん集まるからです。
一般的な古本愛好者は、わりこまない。だれかが棚を見ていたら場所があくのを待つ。
けれども、古本初心者はバーゲンの感覚(なのかどうか)で侵入してくる。
肉体的接触が生じる。日本では、いちばん不快なものです。

ほかにも理由があります。
東京名物の古本まつりとはいえ、実は地元の神保町がほとんど関わっていない。
この時期に露店をだすのは神田以外に店を持っているところがおおかたなのです。
古本まつりの実態は、神保町と無縁である。知っておいても、損はありません。
まつりだからといって、神保町の老舗古書店へわけいってもろくなことがない。
ことさらバーゲンをやっているわけでもない。なんら変わらぬ日常がそこにはある。
おまつりだからと勘違いしてしまう一般客もいます。
たとえば、今日見たケースでは、さほど知的とは思われぬ女子大生が、
スーパーへでも入る感覚で、暗黒の田村書店へ!
このまつりの弊害を思わずにはいられませんでした。

といいつつも、地元のまつり。参加しないわけにはいきません。
重い腰を、うんとこしょとあげて、神保町へ向かう。
経験者は露店にはあまり期待をしない。
案の定、ブックオフ百円棚がお似合いの本が多い。
あてにするのは、いつもの狩り場。
行ってはならない古本屋、田村書店のワゴンです。

「女中の子」(ストリンドベルク/福田久道訳/新潮社)絶版 500円

大正14年発刊の第四版。函(はこ)なし。
ちなみに「女中の子」は、創元文庫版を持っている。すでに読んでいます。
だが、このへんは複雑な事情がある。
創元文庫版は10章の「性格と運命」までしか収録されていない。
だが、こちらは21章まで入っている。創元文庫には続編の「激動時代」がある。
こちらの新潮社版にも、続編の「或る魂の発展」が用意されている。
翻訳の事情も複雑で、この新潮社版はドイツ語からの重訳。
より入手困難の創元文庫版はスウェーデン語からの直訳である。
なにがなんだかわからないと言われるかもしれぬが、
実は書いている本人もわかっていないのです……。

古本まつりのワゴンをひとごみのなかのぞいていると、発見が。
近代劇全集である。昭和3年発行。たしかこの全集にもストリンドベリが入っていた。
何度か入手するチャンスがあった。
なぜ買わなかったかというと、このへんも一般への説明がむずかしい。
収録作品で関心があるのは戯曲「ダマスタスへ」。
この戯曲は読んだことがあります。白水社「ストリンドベリ名作集」にて。
しかし、あの戯曲集へ入っていた=読んだのは「ダマスタスへ」の第一部のみ。
感想といえば、これほどつまらぬ戯曲はない。
だが、このぼろぼろの戯曲集には完全版が。第三部まで入っている。
だから、買ったのかどうか。あるいは、200円だったからかもしれません。

「近代劇全集 第3巻 北欧偏」(第一書房)絶版 200円

三省堂の裏へまわる。すずらん通りと言われている地帯です。
こちらは古本まつりとは所属がちがうブックフェスティバルが行なわれています。
露店、というか、ブースがある。個々の出版社の出店です。
光文社、集英社、白水社、ナツメ社、河出書房、さまざまな大学出版会――。
こちらは新刊本の安売りコーナー。汚損本と書かれていますが、実質はバーゲンブック。
光文社コーナーであわてました。なぜなら、非売品を売っている。
ハンソク(販売促進景品)を売っていたからです。

即座に顔が青ざめます。ええ、ほんとうですとも。
光文社のハンソクがあるとしたら、もしや新潮社のヨンダくんも!
まずった! そう思いましたね。ブックフェスタは午後6時まで。
あと1時間もない。いくら今日開始とはいえ大失敗です。
いけない。これはよくない。
泣き顔でブースを一周する。叫びながらである。「ヨンダくーん、ヨンダくーん」
実際、声に出したのだったか。あるいは、心中で叫んだだけだったのかもしれません。
想像するのはヨンダくん。奴隷のハンソク・ヨンダくんです。
泣きながら売られる奴隷のヨンダくんがいるならば、わたしがぜんぶ買わねばならぬ!
スーパーヨンダッシュで、すずらん通りを一周。
新潮社のブースはありませんでした。ヨンダくんは売られていなかったのです!

このときほど安堵したことはありません。
余談ですが、もしどこかでヨンダくんが売られていたら教えてください。
開店時間にわたしは行きます。あらゆるものを買い占めるためです。

気を取り直す。あと15分だとアナウンスがありました。
大混雑のなか、出版社のブースをちくいち調べます。
「東海大学出版会」の露店で立ち止まる。またもやストリンドベリ関係の書物。
5分迷い、買いました。

「北欧演劇論」(毛利三彌/東海大学出版会)新刊(笑) 700円

よくも、まあ、新刊でわがもとへという感動が。25年前の本です。
今日はストリンドベリ3連発でした。
このあとも古書ワゴンをまわりましたが収穫はゼロ。
お伝えしたい情報はただひとつかもしれません。
いくら東京名物の神田古本まつりとはいえ、ヨンダくんは売られていない!
あしたは雨のようですが、もしいらっしゃるのならご記憶くださいませ。
夢に凝っている。睡眠中に見るあの夢である。
遅いのかどうか。最近、ようやく夢のすばらしさに気づく。
人間は不自由だが、ただ夢の中においては自由である。
時間・空間の制限を受けない。
一夜にしてインドへ行って、帰ってくることも可能である。
料金はただ。こんなおいしい話があっていいのか。
たまに悪夢もあるが、ジェットコースターにでも乗ったのだと思えばよい。
現実が退屈なら夢を見ればいいのである。
夢ほど楽しいものがあるか。何年にもわたる波乱万丈の物語を夢でならひと晩にして、
それも自分が主役で体験することができる。

夢だ! 夢は21世紀の新しいビジネスになるのではないか。
これは大きな利潤を生むと思われる。ううう、わたしは天才ではないだろうか。
今晩は禁酒なので、カルピスをのんであたまを冷やす。
ダメだ。とっくのむかしにビジネス化されている。
もはや手垢にまみれているといってもよい。そう、フロイトやユングのことである。
いまだフロイトやユングを心理学者、あるいは哲学者だと信じているひともいるのだろうが、
この文脈で考えると、かれらは夢ビジネスの先駆者である。
夢で商売をする方法を編みだしたという意味では、天才的な商人かもしれぬ。
悔しい。先を越されていたか。大金持になれると一瞬、夢想したが。
いや、いいではないか。今晩だ。今宵、大金持になった夢を見よう。うん、それでいい。
「冬の月」(井上靖/集英社文庫)絶版

→人間は生まれるまえから絶対的に定められたものがあって、
それを他人はひょんなことから見てしまうことがあるが、
本人は決して気がつかない性質のもので、
だから変えようと思ってもどうにもならないわけであり、
むしろそのどうしようもない不変の部分が持ち主の人生を決定していく。
井上靖や宮本輝の人間観である。物語の母胎でもある。
宿命論と断じてしまうには、あまりに重い思想だ。

わたしは中学時代に井上靖の小説を読むことで、文学の世界へわけいった。
「しろばんば」「夏草冬涛」「北の海」「氷壁」――。
あれから15年である。ふたたび井上靖へもどる。お酒をのむと、である。
酔っぱらうと贅沢になる。ほんとうに欲することしかやる気にならない。
酩酊を十全に味わいつくそうと思うわけである。
すると、どうしてか井上靖の大衆小説へ行き着いた。
テレビを見てもつまらない。ネットをしても味気ない。現代小説を読むとむかむかしてくる。
結果が15年前とおなじ井上靖なのだ。
人間にはなにがあっても変わらない部分がある。
傾向性というのか、習癖というのか。
好き嫌いといったら大雑把すぎるが、宿命というのはいささか大袈裟である。
この短編小説集を読みながら、おのが不可視の部分へ思いを馳せた。
「白い炎」(井上靖/文春文庫)絶版

→例によってお酒をのみながら井上靖の中間小説を読む。
氏の大衆向け小説は絶版が多いとはいえ、数限りなく出版されているので頼もしい。
昭和31年に「週刊新潮」へ連載されたものである。

簡単な筋を書くが、なんとも時代を感じさせる。
主人公の那津子にはいいなずけともいうべき男性、木津俊太郎がいる。
だが、親友も木津に恋をしてしまう。三角関係である。
那津子は親友から接吻をしたことを聞かされる。
たかが口づけなのだが、そこは時代。那津子は木津に幻滅する。
そのすきに親友が強引に木津と結婚してしまう。
悲恋というやつである。
那津子と木津は愛しあっているのに、ちょっとしたボタンのかけちがいから人生が狂う。
そのうち那津子も請われるがまま結婚するが夫に愛情を感じることができない。
木津の結婚は失敗だった。夫婦関係はうまくいかず、事業も失敗。大きな借金を背負う。
いっぽうで那津子の夫の商売は大成功。対照的である。物語である。

文学のテーマを問われて「人間の幸福とは何か」と答えたのは宮本輝である。
井上靖ならなんと答えたか。
きっと自分を尊敬する後輩作家と似たような応答をしたはずである。
あるいは本文から引用するならばこんなところか。

「何か知らんが、人間一生のうちにはいろいろなことがあるさ。
死のうと思うこともあるだろうし、恋愛することだってあるだろう。
なにしろ人間というのは生身(いきみ)だから始末が悪いよ」(P285)


井上靖の中間小説を読んでいて思うのは、幸福がはっきりと定まっていることである。
これを井上靖の鈍感と見るむきもあろうが、氏が活躍したのはそういう時代なのである。
恋愛をして結ばれるのが幸福。お金持になるのが幸福。その反対が不幸。
幸福と不幸のあいだを、あっちこっちと動きまわるのが井上文学の登場人物である。
現代には、明確な幸福と不幸の定点がない。平成の井上靖が現われぬゆえんである。

「白い炎」の終わりで、那津子のかつてのいいなずけである木津は自殺をする。
それを那津子が知るときの描写に注意したい。新興事業家の夫から新聞を渡される。

「的場は夕刊を那津子の手に渡した。
記事はほんの十行ほどの短いものであった。
見出しは『事業に失敗して自殺』となっている。
那津子は短い記事の初めの方に、木津俊太郎という活字を見出したとき、
その新聞を伏せて的場の顔を見詰めた。
予想はしていたことだったが、いざそのことが現実の事件となってみると、
そうした行動をとらねばならなかった木津という人間の悲しみが
やはり心にしみてくる気持だった」(P309)


ぞっとするほど宮本輝の小説に似ている。
いうまでもなく、井上靖のほうが先輩である。どちらも一流の物語作家。
宮本輝は創価学会への信仰から物語をつづっている。
だが、井上靖は――。なんの信仰も持たずにどうしてこのようなことが書けるのか。
「そうした行動をとらねばならなかった木津という人間の悲しみ」。
この一文である。しかし、この一文はよほどの覚悟がないと書けないものだ。
井上靖にこの達観をもたらしたものはなんだろうか。
あたかも天空から地上の人間を見下ろしているかのような視線である。
「天平の甍」(井上靖/新潮文庫)

→歴史物語である。歴史は日なたと日かげがある。
たしかに天は地を照らそう。だが、天は地上あまねく照らすわけにはいかぬ。
日なたが存するためには、かならず日かげがなければならぬ。
この小説を日なたの物語と読むか、日かげの物語と読むか。
それはこの地上における今現在の読者の位置を反映しているのかもしれない。

鑑真来日の物語と読むか、業行悲運の物語と読むか、である。
後者を取る。
業行がこの物語上にはじめて紹介されるのは、次のような言葉によってである。

「彼にもとうとう陽が当たらなかった!」(P43)

陽の当たらぬ留学僧、業行は唐でおのが天分を悟ったのである。

「自分で勉強しようと思って何年か潰したのが失敗だった、
自分が幾ら学んでもたいしたことはないことに早く気づいて
写経の仕事に取りかかるべきだった」(P67)


業行の達観である。業行はそれでも捨石にはなるまいと思った。
写経を日本へ持ち込めば、故国の優秀な僧が、仏教を発展させてくれよう。
それならば、この人生、名誉名声と無縁でもかまわぬ。仏国土の到来こそ本願である。
壮絶な生きかたである。
唐の名僧である鑑真と、業行の手なる山のごとき写経は、
おなじ遣唐使船で帰国の途に着く。といっても、船は四つある。
危険極まりない日本への航路。どの船に乗るかで安否も変わろう。
命よりも大事な経典である。業行はより安全と思われる第一船へ写経もろとも乗り込む。
航海を左右するのは天である。天候である。
この大行事には、個人の運などという微小なもののあずかりしらぬ
巨大なものが関係している。
天命である。天の調和である。宇宙の運行。星廻りといってもよい。
近代学者はこれを歴史とよぶのかもしれぬ。
天命はくだる。鑑真来日。日本初の受戒壇設立である。
業行は天に見放された。
30年近くも心血をそそいできた写経が日本へ渡ることはなかった。
海の底へと沈んだのである。業行の人生はまるで無駄に終わったのである。
業行のように天与の自己と向き合い、天分を悟った知者でさえも、
天の助けがなければ海のもくずと消えゆく。これもまた天命である。

「天平の甍」。この歴史物語をどう見るかである。
歴史学者は鑑真をのみ見るであろう。
10年にわたる艱難のすえ来日した鑑真を見て、
あるいは夢はかならずかなうといった幼稚な教訓を導きだすかもしれぬ。
文学者は、井上靖は、「とうとう陽が当たらなかった」業行を見るのである。
ここで冒頭の二者択一の結論をくだす。この歴史物語は光か影か。
影だ。日かげの物語だ。「天平の甍」の真の主役を業行と見るのは間違えではあるまい。
この歴史物語で唯一人間らしいのがこの業行なのだから。
そしてまた同時に、ただひとり実在があやふやなのもこの業行である。
井上靖は業行をほれぼれと見やる。あこがれのまじった視線である。
業行。この人間嫌いの老僧は現代人が決して見られぬ天命を見たのである。
おのが人生の結晶である写経もろとも海底へ沈むとき、
業行はたしかに天命を見たであろう。たとえば漂流する深夜である。
海面から一瞬、顔をだした業行は天空にまたたく星ぼしをまざまざと見たに相違ない。
それは現代を生きるものにはプラネタリウムでしか見られぬものなのである。
「敦煌」(井上靖/新潮文庫)

→ひさびさに贅沢な読書をする。実に美味なる読書であった。
巻末に多くの注解のついているのがこの「敦煌」をともすれば難解に見せるが、
惑わされてはならない。本書は極上の娯楽小説である。
注解ごときをすべて飛ばそうが、なんら差しさわりがないことを報告しておく。

読後、天命という言葉が思い浮かぶ。
おそらく本文中には一度もこの言葉は登場していない。
ミステリーで最初から犯人の名前を書く痴(し)れものがいないのとおなじことである。
みな思う。天命を問う生きかたをしてみたい。だが、だれもができる生きかたではない。
ゆえに、井上靖はそれを小説に書く。
「敦煌」へ登場する武人、女人、みなが天命を問うているのである。
生まれるとはいったいどういうことかを天に問うものたちのすがたは美々しい。
生まれる。あとは死ぬだけである。わずか何十年かのあいだになにをすべきか。
この問題は天へ問うしかない。というのも、思うがままに人間は生きられぬ。
個人の全活力を奮起しようとも、できぬことはある。
天与のものを最大限に生かし、天の助けを請いながら、おのが天命を見届ける。
「敦煌」の生きかたである。
「敦煌」は、天のもとに生かされていると信じる武人、女人の物語である。
かりそめの天命が尽きようが、われを死なしめた天は地を見下ろしつづけるだろう。
天のもと生きる。死ぬ。
ただそれだけのことならば、なんとしてでもおのが天命へたどりつきたい。
もうダメだというところまで、天与のものを決して投げ出すものか。
天はわれになにを与え給うたのか。それを見たい。知りたい。
「敦煌」に充満する息吹である。

天命へ到達するとはいかなることか。人事を尽くすことである。
限界の、そのまた限界を、超越せんと欲望することである。
限界はどこにあるか。自己の中である。
自己は天与のものである。それを超えんとするとき、はじめて大きなものが現われる。
克己。己に克つ。井上文学のテーマである。
克己とは天与のものを飛び越えんとする挑戦。
連なる障害物を汗みどろにひとつひとつ攻略していった先にようやく見えるもの。
それが天命なのである。
行徳は、朱王礼は、尉遅光は、この物語の最後になにを見たか。
敦煌である。
滅びゆく都、炎の中の敦煌を見ながらこの三人はおのが天命をたしかに見たはずである。

最後に、主人公の行徳が天命(敦煌)へ行き着くまでの道のりを振り返りたい。

「行徳の眼には、日増しに人間というものが小さく、
その営みが無意味なものに映るようになった。
そしてその人間の小ささや無意味さに、
ある意味を持たせようとする宗教というものが、行徳には興味深く思われた」(P98)

「すべては因縁というものだ」(P108)

「別に生きるとも死ぬとも考えていない。いままで戦に臨んだ時と同じだ。
自分にどういう運命がやって来るか判らない。進んで死にたいとは思わないが、
格別生きなければならぬこともない」(P182)

「もう一度新しく人生をやり直したとしても、同じ条件が自分を取り巻く限り、
やはり自分は同じ道を歩くことだろう」(P197)
「授業/犀」(ウージェーヌ・イヨネスコ/安堂信也・木村光一他訳/白水社)絶版

→「ベスト・オブ・イヨネスコ」。イヨネスコはフランスの劇作家。
ベケットと並べられて語られることの多い不条理演劇の書き手である。
収録作品は「禿の女歌手」「授業」「椅子」「犀(さい)」「アルマ即興」「歩行訓練」。

イヨネスコはまえに「椅子」を読んだことがあるから作風の見当はついている。
どうせつまらないのだろうとはなから期待していない。
ならなぜ読むのかというと、流行らない言葉だけど教養かな。
世界演劇史を戯曲で追いたいというプランを数年前にたてた。
演劇人への反骨心からだと思う。
演劇関係者というのは、ろくろく戯曲も読んでいないくせに(シェイクスピアさえ!)
やたらゲージュツ家ぶったことを言う。鼻持ちならないわけだ。
もっといえばウソをついているようにも見えた。だましている。
観客ならずじぶん(たち)をもだましているのが現代の演劇関係者ではないか。
そんな思いから、独力でどこまでやれるかわからぬが世界演劇史をめぐる旅へ出た。
戯曲は売れないから絶版ばかりなのだが、それでも東京に住んでいて、
頻繁に古書店へ顔を出していると、1、2年で世界演劇史の代表作は集まってしまう。
今回、ベケットからの流れでイヨネスコを読むにいたったしだいである。

イヨネスコ戯曲のテーマをひと言でいうなら「日常を壊す!」だ。
幕が開く。舞台のうえでは、われわれとなんら変わらぬ日常が開始される。
だが、それは冒頭のみである。しだいにこの日常は解体されていく。
イヨネスコの場合、日常の象徴ともいうべき会話がおかしくなっていく。
すなわち、解体されるのは言葉である。
解体なんていうと高尚なようだが、その実、意味がわからなくなるだけである。
物分りのいい観客は、これは現代の不安を描いているだのなんだのと勝手に納得する。
盛大な拍手をして、じぶんがひとかどの文化人になったかのような
満足感とともに劇場を出る。
ひどいことをいうようだけれども、これがフランス人の国民性というやつでしょう。
フランス人はお洒落な会話を楽しむ。かといって、語る題材がそうあるわけではない。
なにがうまい、かにがまずい、だれそれのコートがどうで、バッグがこう。
こんな話ばかりしていてはフランス人のプライドが許さないのである。
ベケットやイヨネスコがもてはやされるゆえんである。
もちろん天下のフランス人だってベケットやイヨネスコの芝居が楽しいわけがない。
楽しみはそのあとにあるのである。語る喜び。おのがセンスのよさを洒脱に表明する。
会話が途切れるのはタブーである。それは品がない行為。
芸術論はよどみなく、美しく、永遠に流れゆく河のようでなければならない。
ベケットやイヨネスコの芝居が決まって意味不明なのはこのためなのである。
不条理演劇とは見て楽しむ芝居ではない。観劇後に仲間内で楽しむための芝居だ。
この手の劇作家は、常に解答のない問いを提出しなければならない。
インタビューなどでこの類の劇作家が、じぶんでもテーマはわからない。
そんなことを言うのは晦渋(かいじゅう)を気取っているわけではないのである。
ほんとうにわかっていないのだ。
わからないものを書こうとしたのだから当たり前なのだが。

サロンの伝統が歴史的にある国はこれでいいのである。
言うぞ。日本でイヨネスコを上演するのはおやめなさい。
この国には仲間と連れ立って観劇するならわしはない。
ましてや芝居のあとの歓談などもってのほかである。
文化が成熟していないからではない。日本とはそういう国なのである。
日本はどうゲージュツ家が騒ごうがフランスにはならない。
反対のフランスも同様。フランス人が知っている日本人なんて北野武だけでしょう。
日本がどこにあるのかたずねたら台湾やフィリピンあたりを指差すやつが大勢いるぞ。
なんでこの国はフランスなどへ一方的な片思いをこうまでするのか。まるでわからぬ。

日本でイヨネスコ劇を上演する。観客は三種類に分かれる。
まず正直者はつまらないから眠る。
もし激情家がいたら舞台へ乱入したくなるかもしれない。
実はわたしも何度かそう思ったことがある。つまらない芝居を見ているとぶち壊したくなる。
舞台のうえは安全とばかり思っていたら大間違いだぞ。
もうひとつのタイプは、これまた正直なのだが、どちらかといえば勤勉。
この劇のおもしろさがわからないのは勉強が足りないためだと反省し、
パンフレットを買って帰る。かつての新劇人が期待していた観客層ではないか。
最後はフランスかぶれ。自己誇示のために観客席で率先して笑う。
こういうやつをわたしは恫喝したいね。笑っている人間を正面から見据える。
真顔でほんとうにおもしろいかと問いただす。すぐに笑いをやめるでしょう。

「禿の女歌手」(諏訪正訳)
→二組の夫婦の空転する会話。終わりが始まりになる、不条理演劇恒例パターン。

「授業」(安堂信也・木村光一共訳)
→個人授業。老教授の言葉(論理)が暴走し、女子学生を殺してしまう。

「椅子」(安堂信也訳) *再読
→集会。椅子は増えるが人の姿は見えぬ。最後には老夫婦が心中。

「犀(さい)」(加藤新吉訳)
→田舎町になぜか犀が! 人間がどんどん犀になっていく。最後まで抵抗する主人公。

「アルマ即興」(大久保輝臣訳)
→イヨネスコが登場。ロラン・バルト風の学者に囲まれる。アリストパネスを意識か。

「歩行訓練」(末木利文訳)
→せりふがない。わずか2ページ。前衛的でかっこいいね(苦笑)。
「書物との出会い 読書テクノロジー」(紀田順一郎/玉川選書)絶版

→紀田順一郎は書籍論、読書論の第一人者。初版は30年前。
いまではこういう読書論は貴重だと思う。なんというのかな。
書物へ決して足を乗せないという精神がある。
切支丹時代の踏み絵のようなものである。
本がある。踏めといわれる。踏まなければ拷問だとおどされる。
それでも、最後の最後まで書物を踏まないという根性がある世代。
あるいは、ひょっとしたらだが、書物を足蹴にしたくないという理由だけで、
拷問を受けることもよしとする。
殉教とまではさすがにいかないけれども、死をも辞せじというくらいの気概がある。
書物はなによりも尊いと信じている。ステーキを食べるくらいなら本を買う。
書物のなかになにかが、だれかがひそんでいるという確信に支えられた狂熱である。
書に淫すどころか、書に狂っている。
本書に見られる紀田順一郎の精神である。とても親しいものに感じられる。

それにしても現代は本好きにとって決して恵まれているとはいえぬ。
いや、恵まれてはいるのである。だが、その恵みを享楽すると書物は輝きを失う。
本の愉しみにはいくつかある。
出会う昂揚。読む陶酔。語る連帯。探求する情熱。入手する達成感。
まず書物と出会う感動がいまはない。
書物というのがこれほど軽んじられている時代はないのではないか。
書物が人生への突破口になるという共通認識が全体的に薄れている。
書物インフレの影響である。
また書籍を読む悦楽をどれほど味わえようか。
だれもが常に携帯電話でどこかとつながっているのが現代である。
現実から書物の世界への逃亡など、もはやかなわぬ夢なのだ。
本について語り合う興奮というのもいまはない。
現代は共通の古典というものがない。みなみな読んでいる本がことなる。
なにか読書の連帯を感じたいとなったら、あの汚らわしいベストセラーを読むほかない。
探求する情熱もいまは薄れているのではないか。
たいがいの本がネットで検索すればでてくる。日本各地から取り寄せが可能。
畢竟(ひっきょう)、書物を入手したときの達成感も弱まる。

本書を読むと、30年前から時代はそういう風潮であったようである。
愛書家、紀田順一郎は怖ろしいことを言っている。あながち軽口とは思えぬ。
大正時代の末期に関東大震災で何千万冊という本がマル焼けになったという。
それをふまえての発言である。

「読者は恵まれているというべきだろうが、
あまり恵まれすぎて有難味を感じなくなっている。
豊富の中の貧困といおうか、考えてみれば不幸な時代で、
これで噂の東京大震災でもやってきて、
また何千万冊かの本がマル焼けにでもなれば、
また本の有難味がわかってくるのではないかとも思う」(P94)


幸か不幸か(幸ですよね?)この提言から30年、いまだ東京大震災はない。
だが、愛書家、いな狂書家というのは、ものすごい発想をするものである。
見習いたい。ううう……。見習っていいのか?
「イスラーム文化」(井筒俊彦/岩波文庫)

→内容をじぶんなりにわかりやすくまとめる。
著者によると、イスラームが砂漠の宗教というのは誤り。
商人ムハンマドによって起こった宗教で、
それまでの砂漠的な生きかたへ都市商業的な考えを導入したものである。
イスラームといえば、ユダヤ教、キリスト教と続いた最後に
登場した宗教というイメージが強い。
おなじ旧約聖書を聖典としているというのがその理由である。
たしかにイスラームは時代的にはもっとも新しいが、
イスラーム内部の感覚ではわれらこそ最古の宗教だという自覚がある。
イスラームは旧約聖書における「信仰の父」アブラハムを重視する。
わが子イサクを神の命令で犠牲として殺そうとした、あの信仰に篤いアブラハムである。
アブラハムはユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなかった。
ユダヤ教もキリスト教もアブラハムの純粋な信仰心を受け継いではいない。
イスラームの教えこそアブラハムの直系だというのが「コーラン」の言い分である。

ユダヤ教の選民思想はイスラームのそれと一見、相通じるように感じられる。
だが、イスラームはユダヤ教ほど民族的・閉鎖的・陶酔的ではなく、
だれでもイスラームの一員になれるといった意味で、より開放的だといえる。
イスラームが、キリスト教、仏教とならんで世界宗教となったゆえんである。

キリスト教との比較をする。
イスラームは生活全般にゆきわたっている。
イスラームでは生活のすべてが宗教を基盤としてなされている。
すなわち、キリスト教的な聖俗分離が行なわれていない。
教会と世俗国家といった二元論的支配はイスラームにない。
なぜならイスラームは聖典「コーラン」を絶対とするからである。
「コーラン」が聖俗ふくめて最高位に存する。
この聖典をどう解釈するかで政治も生活様式も決まるのである。
よってイスラームの歴史は「コーラン」と「ハディース」(ムハンマドの言行録)の
解釈をめぐっての争論の積み重ねといっても過言ではない。

キリスト教との教義の相違はどこにあるのか。
イスラームはキリスト教の三位一体説を否定する。
(イスラームが聖霊をマリアと錯誤した経緯はここでは触れない)
キリスト教の三位一体説とは、
父なる唯一神、子たるイエス・キリスト、聖霊、この三者で表わされる信仰形態。
キリストを神の子とみなす、この神と人間との親愛的関係こそ、
イスラームの認めなかったものである。
神と人間は、親と子のような関係ではないというのがイスラームの主張である。
では、イスラームは神と人間の関係をどのように見るか。
主人と奴隷である。人間は神の奴隷である。
ここで本文から引用する。イスラームの信仰とはどのようなものか。

「それ(イスラーム)が人間の神に対する無条件的自己委託、
自分をすっかり相手に任せきること、
奴隷のように、奴隷が主人に対するように、何をどうされても、
ただひたすら向うの思いのままという絶対他力信仰的な態度を意味するということ、
そしてそれがイスラームという宗教の実存体験的中核をなすということであります。
人間が自分で主体的に努力して己れの救済に至ろうとする、
いわゆる自力的態度は、ここではまったく成立する余地がありません」(P62)


そのためイスラームの信者、ムスリムは、絶対帰依者を意味する。ムスリムとは――。

「自分自身の意思や意欲をあますところなく放棄して、すべてを神の心に任せきり、
神にどう扱われようとも、敢て己れの好悪は問わぬ、
絶対無条件的な神への依属、
依存の態度をいつでもどこでも堅持して放さない人のことです」(P65)


この自由意志の拒絶は、因果律を否定することにもなり、
後代には論争の原因ともなったらしいが、この小著では詳述されていない。

ここからは大きく話をかえて、イスラーム内部の話題にうつす。
「コーラン」はムハンマドが20年にわたって神から啓示を受けた証である。
著者は「コーラン」を、その執筆年代から前期と後期に分類する。
前期は、ムハンマドのメッカ期に相応する。
まだイスラームが広まっていない時期である。
この前期のコーランの特徴は怖れにある。
神は終末ののち人間を裁く、恐ろしい存在として啓示される。
いうなれば現世よりも来世を! 現世否定的な面が強かった。
これが「コーラン」成立の後期となるとどうか。
ムハンマドがメディナにいた時期である。
ムハンマドを頂点にしたイスラーム共同体(ウンマ)が始動する。
この時期の神は人間へ慈悲、慈愛をもたらすものと「コーラン」には描かれる。
神は怖れの対象から、感謝する対象へと変化したのである。
現世否定から現世肯定へ転じたといってもよい。
著者はこれをタテからヨコへの移行と説明する。
イスラーム勃興期は怖れる神と人間の関係を説いて信者を集める(タテ重視)。
ある程度、共同体ができあがったら、内部の連帯を強めていく(ヨコ重視)。
宗教家ムハンマドが、政治家の才能をも発揮したということである。

いま書いてきたのは、イスラームにおける「タテ→ヨコ」の推移である。
このヨコ(共同体=ウンマ)の関係を強化することで、
イスラーム世界は爆発的な広がりを見せる。
ヨコの強化とは、イスラーム法の整備を意味する。
ムハンマドが登場するまでは、どのアラブ共同体も血縁を基盤としていた。
信仰をもって共同体となすイスラームが当時、革命的だったのは言うまでもない。
信仰共同体の結束を強めるにはイスラーム法(シャーリア)の完成が必要とされた。
著者は、この拡大していくイスラームを「外面への道」と名づける。
この一派こそ、現在のイスラーム主流派のスンニー派である。

いっぽうでイスラームには「内面への道」を追求した一派が入る。
これはふたつに分かれる。シーア派と、スーフィー派である。
主流派がヨコを重んじたのとは対照的に、こちらはタテを重んじた。
タテ。神との直接的な交流である。
余談だが、キリスト教の歴史は、教会(保守派)と預言者(革新派)の対立。
イスラームにも通じるところがあるではないか。
スンニー派がキリスト教でいうところの教会的保守派。
するとシーア派、スーフィー派が預言者サイドになる。
用語の解説をすると、スンニー派が支柱としたのがシャーリア(イスラム法)。
シーア派、スーフィー派が絶対視したのがハキーカ(内的真理、信仰的実存)。

「内面への道」を進んだ二派を比較する。
シーア派は、まあ、ピュアなんだな。
ムハンマドと血のつながりのあるものだけを指導者と認めるという方針。
この宗教的指導者がイマームと呼ばれている。
スンニー派が預言者をムハンマドしか認めないのに対して、
シーア派は歴史上のイマームも追加する。
いきおい聖俗分離的な方向へ進まざるをえない。
宗教の指導者と政治的統治者を分ける考えかたである。
どちらが宗教的な狂熱が強いかといえば、いうまでもなくシーア派である。

スーフィーというのは、イスラーム共同体(ウンマ)へ背を向けるもの。
イスラームの世捨て人、隠者である。現世否定の最たるものである。
スーフィズムは神秘主義的な傾向をもつ。
スーフィーという派閥があるのではなく、個々のイスラームの態度である。
修行をするのも、このスーフィーだけである。
かれらは修行による神との近接をめざす。
これをヒンドゥー教修行者の最高目標「梵我一如」と関連づけて論じていたのは、
著者の卓見である(P223)。

このイスラーム学者は親切にも、丁寧なまとめを用意してくれている。
感謝しながら引用して、この記事を終わりにしたい。

「以上、私がお話しいたしましたイスラーム文化の三つの代表者、すなわち、
第一にシャーリア、宗教法に全面的に依拠するスンニー派の共同体的イスラーム、
第二に、イマーム(指導者)によって解釈され、イマームによって体現された形での
ハキーカ(内的真理)に基づくシーア的イスラーム、
そして第三に、
ハーキカそのものから発出する光の照射のうちに成立するスーフィズム、
この三つのうちのどれが一体、真のイスラーム、真のイスラーム的一神教なのか。
それぞれ自分こそ真のイスラーム的一神教を代表するものだと主張して、
一歩も譲りません。イスラーム文化の歴史は、
ある意味ではこれら三つの潮流の闘争の歴史なのであります」(P224)
ブックオフの公式キャラクターに「ヨムヨムくん」がいる。
直営店のキャンペーンでグッズが配布されることがある。
ブックオフ恒例の大音量店内放送で「かわいいかわいいヨムヨムくんがもらえます」。
そんな連呼をされていたときがあって(荻窪店)、
そうほしくもない本をグッズ目当てに買ってしまったことがある。

「ヨムヨムくん」を持って帰宅すると怒られるわけである。
だれにって、ヨンダくんにである(写真はプロフィール欄参照)。
「そんなまがいものにだまされないでください!」
ぷんぷん怒ったヨンダくんは、これはこれでかわいいが、
機嫌をなおしてほしいので、かれの耳元で「かわいいかわいいヨンダくん」と歌う。
すぐに笑顔になるのは人間にはない素直さゆえか。パンダならではである。

いま新潮文庫のヨンダくん応募券が余っている。
いつの間にかたまってしまった。うれしい悲鳴である。
数えてはいないが200枚近くあると思う。
プレゼント一覧を見る。もちろんヨンダくんと一緒にである。
どれをもらおうか?
「えとですね、そのですね、あのですね、ボクのおすすめは……」
ううう、かわいい。
タブーなのは100冊のぬいぐるみ。ヨンダくんは一家にひとり。
いくら応募券があるからといって、ヨンダくんをもうひとりもらってしまったら、
いまのヨンダくんに申し訳ない。

ヨンダくんがはじめてうちに来た日を思い出す。
がんばろうと思ったのを記憶している。
これからヨンダくんと二人三脚でがんばろう!
そう思ったら、ぬいぐるみだと思っていたヨンダくんが、話しかけてきたので驚いた。
「がんばりましょうとも、ええ、がんばりましょうとも」
ヨンダッシュ。ヨンダンス。かれに教えられたことは多い。
いちばん信頼しているパートナーでもある。
いまはこの「本の山」の管理人をまかせている。
深夜である。ヨンダくんはすやすや眠っている。あしたからもがんばろうと思う。
わかったことがある。「本の山」を続けてきたおかげである。
やはり読書感想文はむずかしいのだ。あれはいったいだれが考えたのだろう。
読書感想文は暗黙の了解として小説を読むものとされている。
まあ、ノンフィクションでもいいのだろうが、それはまじめなものに限られる。
戦争はいけないだの、労働者は悲惨だの。

小説の読書感想文はおとなが書くのもむずかしい。
最近、思うようになったことである。
先日、感想を書いたのが「小公女」。
この感想文を書くのにどれだけ時間を要したことか。
同日、「敦煌」の感想も書くつもりだったが、こちらは間に合わなかった。
「小公女」や「敦煌」といえば読書感想文の定番である。
それだけに書きにくい。

マイナーな戯曲なら、紹介するだけでよろしい。
ある分野の概説書なら、要約するだけでいい。
けれども、有名小説の感想文は……。
「小公女」「敦煌」はみな読んでいる(あるいは、読まされた)。
ことさらわたしが感想を書く意味がない。
そうなるとなにを書けばいいのかわからなくなる。
著者の説明をするのも、ストーリーを要約するのも、気乗りしない。
かといって、主人公のようにがんばりたいと思った、では小学生、中学生である。
こちらは文芸評論家ではない。わかったような分析をするわけにもいかぬ。

読書感想文ほどむずかしい課題はない。
ことに名作の感想はそうである。
てきとうにけなせばいいというわけにはいかない。
(そういえば作品をけなすのは、これまた暗黙の了解で、
学校読書感想文では決して許されぬ行為)。
おとなをも困らせる難業を課せられている学童には同情する。
あらためて宣言。この「本の山」からぱくれる部分があったら、お好きなだけどうぞ。
「小公女」(バーネット/伊藤整訳/新潮文庫)

→小説は女子供が読むものとはむかしから言われてきたことだけれども、
児童文学の名作「小公女」を読むと、そのへんがよくわかる。
女(かつ)子供を主人公にしたこの「小公女」は、小説作法として読むこともできる。
小説がどのような意味で、女子供的要素を持っているのかこれから検証してみる。
結論を先に書くと「小公女」のサアラは、
この物語の主人公であると同時に、作者でもあるということになる。

父親にイギリスの寄宿舎へ連れてこられたサアラ。父親はインドへ帰ってしまう。
7歳にしてはじめての父親との別れである。そのときサアラはどうするか。
人形を買ってもらうのである。サアラはこの人形をエミリイと名づける。

「わたしはお人形が、わたしたちには気のつかないことをしていると信じているのよ。
エミリイはきっと読んだり、話したり、歩いたり、するのだわ。
でも、室にだれもいないときだけそうするのだと思うの。
それがこの人形の秘密なのよ。
ねえ、もし人形に何かできるということがわかったら、
人間はきっと人形をはたらかせるわ。
だから、きっと人形は、それを皆にないしょにしているのよ。
あんたが室にいるときは、エミリイはただすわって見ているだけよ。
でも、あんたが出ていったら、エミリイは本を読んだり、
それから窓から外をながめたりするのだわ。
そして、わたしたちのだれかが来る足音が聞えると、
走ってもどって来て、自分のいすにとび上って、
今までそこにじっとしていたふりをするのよ」(P28)


小説の原初的風景である。
サアラは父親と別れ孤独である。これをまぎらわすために人形を親友とみなす。
子供ならだれもがする人形遊びである。
これを狂っているとはいわない。極めて子供らしい行動である。
現実はままならぬ。生きている人間は、じぶんの思い通りにはならない。
だが、人形ならそうではない。子供は人形へ話しかける。
ふしぎと返答がある。これはこの子が一人二役をやっているわけではない。
子供は人形が話したと信じている。人形はたしかに話したのだ。
大人になっても人形の声を聞き分けられるものが小説家にほかならぬ。
作家の田辺聖子さんは、いまでも人形遊びをしていることで知られている。

寄宿舎になれたサアラの目にはどんな現実がうつるか。
同世代の少女、ベッキイである。
裕福な娘として生まれたサアラとはことなり、ベッキイは身寄りがない。
この寄宿舎で下働きをさせられている。不平等な現実である。
恵まれている人間がいるいっぽうで、不遇なものが入る。
こころやさしいサアラは同情してベッキイへ話しかける。

「だって、わたしたち同じことよ
――わたしだってあんたと同じような女の子だわ。
わたしがあなたのような境遇に生れなかったのも、
あなたがわたしのような境遇に生れなかったのも、偶然のできごとよ」(P110)


境遇のちがいこそ物語の生みの親である。
さしずめ偶然は物語の進行役といったところか。
境遇の相違と偶然。
人間にはどうしようもないことにして、小説家にとっては腕の見せどころである。
現実はどうしようもない。サアラの父親は破産、それを苦に病死する。
境遇の激変である。サアラは偶然から一夜にしてベッキイとおなじ境遇となる。
あてがわれるのはきたない屋根裏部屋。だが、サアラは言う。

「もっとちがった場所のようなつもりになっていれば、なんでもないわ」(P154)

サアラの生きかたである。「つもり」になる。

「好きなんですもの、いろいろなつもりになることほどおもしろいことはないわ。
仙女さんにでもなったような気がするわ。
しっかりと何かになったつもりになると、ほんとうのような気がしてくるのよ」(P110)


生まれつき作家の人間はいない。
だれもが作家になった「つもり」で、小説を書くのである。
小説を書くとは「つもり」に限る。もしじぶんがこの主人公だったらどうするか。
おそらくバーネット女史は泣きながらこの「小公女」を書いたと思われる。
これはそういう方法でしか書けぬ物語である。
作者バーネットがサアラにならなければ――たとえそれが「つもり」だろうと、
こんな小説は書くことができるはずがない。
また小説を書く喜びもこの「つもり」にある。
作家は小説を書くことでなんにでもなることが可能なのだ。
性別や容姿、時代を超越することができる。
歴史小説家なら、織田信長にでもジャンヌ・ダルクにでも変身できる。

無一文になったサアラへ冷たくあたるものがいる。
サアラは逆境にもめげず明るく強く夢を見ながら生きる。
人間の生きかたは、これしかないのである。
サアラは哲学も、心理学も、現代思想も知らない。
けれども、たとえサアラがそれらを知っていたとしても、なんの役に立ったでしょうか。
人間は不幸をまえにどうしようもない。
唯一可能なのは、それでも夢を失わずに明るく強く生きることなのである。
サアラはじぶんの将来を想像する。なにかいいことがあるようには思えない。
このままこの寄宿舎でこき使われるだけの未来である。だが、サアラは絶望しない。

「だが、そのとき、サアラはあることに考えついた。
すると頬(ほお)が赤くなり、眼がかがやきだした。
サアラはその細いからだをしゃんとまっすぐにして、頭を上げた。
『どんなことになっても』とサアラが言った。
『このことだけは変えられないわ。
ぼろを着ていても公女さまだというのは、
心のなかが公女さまだということなんだわ。
美しい着物を着ているときに公女さまだということはなんでもないけど
ひとが気がつかないときでも、心のなかが公女さまのようになっているのは、
りっぱな勝利だわ』(P204)


このときサアラは小公女になるのである。
このときバーネットは「小公女」を生きるのである。
名作「小公女」完成の瞬間である。わたしは小説の理想形をここに見る。
作者バーネットの人生がどのようなものであったかは不勉強にして知らない。
どのみち人間である。思うがままに生きられるわけがない。
だが、サアラはどうだ! 
この小公女はバーネット以上に生き生きとしているではないか。
境遇と偶然に左右される不自由な人間たる作家は小説を書くことで、
物語の主人公へ不自由(境遇・偶然)をあたえる。
その主人公が不自由を生き抜いたほんの一瞬、
この作家に自由の感覚が芽生えるのではないか。
人間は結局、不自由を乗り越えることはできないのかもしれぬ。だが、サアラなら――。
読者がサアラになった「つもり」になったら、そのときなにか奇跡が起こるのではないか。
幼稚な、そうまさに女子供的な夢かもしれないが、この奇跡を信じたいのである。
「ゴドーは待たれながら」(いとうせいこう/太田出版)絶版

→戯曲。「ゴドーを待ちながら」のパロディ。
あの有名なベケットの戯曲よりも、こちらのほうが、まあおもしろいのだが、
それはさほどこの戯曲をほめたことにはならない。
なぜならあの「ゴドーを待ちながら」よりもつまらない戯曲はそうあるものではない。
あなたはヒットラーよりいくらか善良な人間ですといわれて喜ぶのはバカである。

本家「ゴドーを待ちながら」では、ふたりの浮浪者が正体不明のゴドーを待っているが、
こちらの「ゴドーは待たれながら」は、ゴドーがなにものかに待たれているすがたを描く。
だが、ゴドーは、だれが、いつ、どこで、じぶんを待っているのかを知らない。
そもそもいまいる場所がどこなのか、今日が何曜日なのかもゴドーは知らない。
待たれる身のゴドーは自問自答を繰り返す。
本家のほうでは、ゴドー=神という解釈が一般的である。
それをふまえてこの一人芝居のせりふを読んでみる。

「つまり神はどうやって自分が神だと確信出来るのかってことだ。
そりゃ水を葡萄酒に替えたり、大蛇を退治したりすれば、
人は神と崇めてくれるだろう。だけど、だ。
だからって自分が本当に神なのかどうか、
本人は疑問に思うんじゃないかってことだな。
もっと偉い神様がそいつに、いやその神様に、お前は神だって言ってくれるなら、
まあ信じてもいいかなって気にもなるだろうが。
問題は、その一番偉い神様がどうかだ。
いや、神様がたった一人しかいない場合はもっと悲惨だろう。
アイデンティティの崩壊はないのかね」(P48)


くすっと笑ってしまった箇所である。この芝居は、この手の笑いであふれている。
仏文学者や演劇学者の書くものよりも、よほどすぐれたベケット入門書になっている。

この戯曲を読みながら思ったのは、ベケットへ心酔してしまうとあとがないということ。
ベケットの「ゴドー」はジョーカーである。現代人の真実を限界まで描いてしまっている。
人間はだれしもなにものかの到来を待ちながら、あたふたと生きているが、
その待ち人は来ない。ベケットが「ゴドー」で描いた状況である。
これを見せられて笑える人間は、どれほどタフな精神を持っているのか。
ひとたび笑ってしまったら、そのあと、どうやって生きていくつもりか。
いとうせいこうのように同質の笑いを再生産するほかない。
ならば、まだいいのだろう。ベケットを笑えるものはいいのである。
ベケットを笑えない人間はどうしろというのか。
かの人間はなにをしても、ベケット(および愛読者)から笑われているという不快感を持つ。
舞台にあがった人間は動作どころか、しゃべることさえできなくなる。
最先端の前衛演劇は、この方向を行くしか道がないではないか。
せりふも動きもない芝居。客席に笑いが起こるかもしれない。
だが、それは空疎な笑いだ。笑われないための笑いだ。中身のない笑いだ。
「90分でわかる世界史の読み方」(水村光男/かんき出版)絶版

→まさか高校生がこの「本の山」を読んでいるとは思えないが、もしいたらの話である。
大学受験は世界史で受けなさい。後悔からの意見である。
この世界史というのは、受験だからと無理やりでも理由をつけて、
若いうちに勉強しないとあとで苦労する。
国際情勢、海外文学、宗教、哲学、絵画、音楽、あらゆる領域の基礎となるのが世界史。
わたしが受験科目に選択したのは日本史、地理。ああ、世界史にしておけば。
いくらシェイクスピアを読もうが、ギリシア悲劇を読もうが、
その背景になっている世界史をわかっていないと、もうまったくダメなわけ。
これはほんとうに経験から思うことである。
で、いまになって世界史を勉強しようとしても、脳が老化しているからか、
細かい用語がぜんぜん入ってこない。
中国史なんてちがうのは名前だけで、基本的にはおなじことの繰り返しだから、
どうしたって記憶力の勝負になる。高校生にかなうはずがない。

いちおう高校の授業で世界史を学んでいる。
けれども、最初から受験科目にするつもりがなかったから、いいげんな一夜漬けばかり。
やはり受験を前提に学んだものでないと長期記憶には残らない。

ここで思い出を書く。世界史の思い出。
ある教育実習生が強く印象に残っている。体育会系の情熱的な男子大学生。
かれの担当になったのはフランス革命。
おもしろいおにいちゃんだった。なにをするかというと、授業中にいきなり歌をうたう。
フランスの国歌。わざわざフランス語で。エネルギーがありあまっていたんだろうな。
新鮮だった。当時の世界史の教師というのが、いかにもオタク的な先生で。
授業にはメリハリがない。つい寝てしまう。
そんな感じだったから、若い元気な世界史の授業はとても好ましいものに思えた。
その実習生がこんなことを言うわけだ。なぜフランス革命が起こったのか。
それはフランス人に勇気があったからだ!
こんなことを授業のたびにフランス国歌をうたいながら主張するわけである。

教育実習期間が終了して、またもとの退屈な授業へ戻る。
そのとき、どういうタイミングだったのか。根暗な世界史教師がぼそっという。
教育実習生のことをである。ひと言。かれはバカです。
生徒へ人気のあった教育実習生への嫉妬かと当時は思ったものだが、
いまではあの世界史教師はただしかったのだとつくづく思う。
かれはバカです。うんうん、まったくである。
フランス革命というと、左翼系教育者は美化して教える。
市民の開放だの、自由だのといった美辞麗句とともに語られる。
だけど、ほんとうはそういうことではなくて、
フランス革命というのは、たんなる権力移動に過ぎないわけでしょう。
新勢力が旧勢力を追放した。事実はこれだけである。
フランス革命で得をしたひともいれば、損をしたひともいる。
そのことに善悪の価値をつけるのは間違えている。
それをあの教育実習生は……。
フランス人は勇気があるなどと称揚して、フランス国歌をがなりたてる。
まぬけというほかないよな。いちばん教師にしてはいけないタイプ。
しかし、あのような教育者が熱血漢として、なぜか生徒や保護者に人気がある……。
果たしてどちらがいいのか。
ウソを教える人気者の教師か、それとも事実を教える退屈な先生か。
「カリスマ先生の世界史」(植村光雄/PHP研究所)

→PHPの「カリスマ先生」シリーズは、ナツメ社の「図解雑学」シリーズに打ち勝つか。
このシリーズのコンセプトはものすごいぞ。
「図解雑学」のほうのポリシーは、なんとしてでもわからせるであったと思われる。
この「カリスマ先生」は、それをもあきらめる。宣伝文句にずばっと書いてある。
「『わかった気になれる』オトクな1冊」だそうである(巻末宣伝文)。
読者をなめきっているのか、それとも手取り足取りの意思表明なのか。
このシリーズの著者は予備校講師。別名、チョーク芸人。
わかった気にさせるプロである。よし、こちらも受験生に戻ろうと思い立つ。
以下、Q&A形式を用いる。間違っているところがあったら教えてください。

Q.東洋史を極力簡潔に説明せよ。

A.外的には中華思想。すなわち、常に中国がナンバー1という姿勢を保つ。
周辺諸国には朝貢形式を要求する。これを崩壊させたのが日清戦争。
内的には延々と続く王朝交代の歴史。国家体制が弱まると農民が反乱する。
すると、どこからともなく新しい王が顔を出す。

Q.現在のヨーロッパ諸国の起源はどこか。

A.中世の民族大移動。

Q.中世の王制の特徴を述べよ。

A.地域のボスといったイメージ。
キリスト教の教会は、国境を越えて君臨する。
ゆえに教会権力が国王のそれを凌駕した。
のちに貨幣経済が発達すると、商業の保護者が必要とされる。
絶対王制の誕生である。

Q.なぜフランス革命のあとも同国へ独裁政権がたびたび生まれるのか。

A.わかりません。だれか教えて。

Q.なぜ第二次世界大戦が起こったか。

世界恐慌が原因。この世界恐慌の発生の理由は、資本主義の宿命、限界。
列強各国は自国の経済を守ろうとする。
そのために植民地とのブロック経済が行なわれた。
生産と市場の保護である。
だが、ドイツ、イタリア、日本は植民地に恵まれなかった。
不景気がつづく。自国民が貧窮する。なんとかして国を豊かにしなければならない。
強い指導力が要請される。ファシズム政権が誕生する。武力化する。
国が武器を発注すると、民間で武器を製造する。失業者が労働者になる。
武器は使わなくては新しいものを注文できない。よって戦争になる。

Q.世界史の勝ち組はどこか。

A.アメリカ。アメリカはイギリスからの移民が元になって誕生した国である。
そのイギリスといえば、もとは「ヨーロッパの田舎」だった。
島国のため他国からの干渉が比較的少ない。
アメリカ大陸といった巨大な植民地をもつ。
以上、2点の理由で世界に先駆け産業革命に成功。「世界の工場」となる。
ここから分離したのがかのアメリカ合衆国。
ヨーロッパ大陸における第一次大戦を尻目に国力を上げる。
第二次大戦での大勝。原子爆弾の投下。一躍、世界のボスになる。
西欧諸国とはことなり伝統があまりない新興国のため自由な決断がしやすい。


理解の度合いというのは、書いてみれば一発でわかってしまう。
わかっていれば文章にすることができるということである。
うえの記述でわかったでしょう。
なにがって、わたしが世界史をさっぱり理解していないことである。
いいおとなの世界史認識がこの程度というのは、とても恥ずかしい。
書いてみたら、じぶんがどれだけ世界史をわかっていないかがわかってしまった。
やはり「カリスマ先生」はダメということか。
わかった気になるだけではなく、世界史をほんとうに理解したい。だが、いかに。
きのう書いたことを訂正する。
間違えたと思ったらすぐあやまる。ごめんなさいしちゃう。
これがいちばん。

人間平等思想の発端を、西欧近代市民革命と書いた。
だけど、考えてみたら、キリスト教の誕生ではないか。
イエスは神のまえでの人間の平等を説いたでしょう。
それがどうしてか、ペテロがえらいということになって、
教会ヒエラルキーができあがってしまったわけだが。
そのうえキリスト教の平等というのは限定がある。
教会の構成員はいちおう平等としておいても、これが異教徒となるとどうか。
もはや人間とみなさない。人間ではないのだから、なにをやってもいい。
血まみれのキリスト教史の根幹たるところである。

おっと、これも訂正しなければならないのだ。
イエスの生まれる500年ほどまえインドでブッダが人間の平等を説いている。
教科書的な知識としては、そうなるでしょう。
当時インドで主流だったのはバラモン教。
バラモン(司祭者階級)を最高位として、人間を区分するのがこの宗教である。
ちなみに現在のカースト制は、この古代インドから連綿と続いてきたもの。
このバラモン教を批判して、人間の平等を主張したのがブッダということになっている。

では、人間平等論の起源はブッダなのか。自信がないな。
原始仏典「スッタニパータ」を読んだことがあるが、
人間の平等をことさら強調していたという記憶はない。
人間平等思想というのは、どこから発生したのでしょうかね。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

ごぞんじ福沢諭吉先生のことば。
日本の平等思想はこれが最初ということになるのか。
突然、太宰治に登場ねがう。
まえにも紹介したことがあるけれども太宰治は「斜陽」でこんなことを書いている。
引用は新潮文庫から。

「人間は、みな、同じものだ。
これは、いったい、思想でしょうか。
僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、
宗教家でも哲学者でも芸術家でも無いように思います。
民衆の酒場からわいて出た言葉です。
蛆(うじ)がわくように、いつのまにやら、誰が言い出したともなく、
もくもく湧(わ)いて出て、全世界を覆(おお)い、
世界を気まずいものにしました」(P156)
これがいけないと思う。いまの日本。
人間はみな平等という考えかたである。これがあまりにも広まりすぎている。
だから、わたしのような人間も、ことさら不幸を意識するわけである。
なんであいつらが幸福で、わたしが不幸なんだという鬱積のことだ。
そもそも人間は不平等だと思っていれば、不幸に悩むことも少なくなる。
たとえばインド。貧富の差が著しい。だが、だれも人間の平等など信じていない。
寝床すらない労働者が、大富豪を恨まないゆえんである。
同様、金持もことさら貧民に同情することはない。そういうものなのだから仕方がない。
おのおの持ちぶんで満足(我慢?)するよりほかない。

人間は平等などというウソが発生したのはいつの時代か歴史をふりかえってみる。
この分野はまったく詳しくないので誤記がたびたびあると思う。
ぜひご指摘ください。感謝します。こちらも勉強したいのである。
人間平等論の発生は西欧近代の市民革命というのは間違えなのか。
イギリスやフランスの市民革命である。
もしそうだとすればという反論になるのだが、あれは建て前でしょう。
市民というのは小金持ち。ほんとうの貧民が市民権を要求したわけではない。
ある程度のカネを持った連中が、じぶんたちにも参政権をくれといったのが、
あの西洋市民革命ではあるまいか。そこのところを教科書はごまかす。
ホームレスぎりぎりの労働者が市民革命を起こしたかのようなウソをつく。

もうひとつ。転換となったのは新興国アメリカの南北戦争。
奴隷解放宣言である。人間はみな平等であるという宣言のことだ。
しかし、これもウソでしょう。西欧諸国からの干渉を避けたかったリンカーンが、
大義名分として用いたのがこの平等宣言。この見方は誤りがありますか。
なにがいいたいのかというと、欧米諸国の人間平等思想はどれも建て前である。
ほとんどの欧米人は人間平等思想など建て前だとわかっている。
そのうえで発言、行動している。
けれども、ただ日本だけは、東のはじに位置するこの国だけは、
人間平等を真に受けてしまった。
太平洋戦争の敗北が最大の原因であろう。
結果、戦争をしないなどという、とんでもなく進歩的な法律を押しつけられた。
これとセットで輸入されたのが人間平等論ではないか。
アメリカの、すなわち西欧のもっとも進歩的な思想が、東洋の島国へ移植された。

人間はみな平等でなければならない。
子どもは等しく平等である。能力差を認めない。
学者先生のご子息も、大工のガキも、
おなじ教育で東大へ入学することが可能だという思想である。
西欧で生まれた人間平等思想が、東洋の小国で蔓延するとは、
歴史はなんとも皮肉である。わずか150年前には、士農工商が生きていたこの国で!
たとえばバーネットの「小公女」から引用する。新潮文庫。

「もうだめだと思うときになって、きっと何かが起こるわねえ。
魔法にかかっているようね。そのことをいつも忘れずにいるといいのだわ。
そうすれば、ほんとうにだめだなんてことが、なくなるんですもの。」(P279)


「小公女」は児童文学とされているが、おとなが読んでも十分にたのしめる。
さて、この引用部分が、物語のある面を象徴的に言い表わしているように思うのだ。
主人公にピンチがおとずれる。危機である。もうだめだというときに救いが現われる。
何しろ主人公が死んでしまっては物語がストップしてしまうのだから大ごとである。
「もうだめだ」と「何かが起こる」の反復こそ、一般的な意味での物語である。
そんなものは文学ではないと言うのなら、わたしは文学を見限るつもりだ。
「何かが起こる」ものを読みたいと思う。

現実と物語の関係はどのようなものであろうか。
いまピンチである。簡単なことなのだ。
パソコンの前から離れる。ベランダへ向かう。そこから飛び降りる。
これですべてが終わるのである。死ねるかどうかは母が6年前に確かめてくれた。
いえいえ、ご心配くださいますな。こんなふうに思うのは毎月の定例行事。
何も自殺予告をしているわけではない。死なない。死ねない。
こうしてこの数日を酒に助けられ生き延びる。何週間後か。また終わりへの欲望が生じる。
こんなことを6年間、繰り返してきた。もうじぶんのあつかいには馴れっこである。
また死にたくなってるよ~。わがことながら薄笑いさえ浮かべている。

自殺の是非はわからぬ。6年のあいだ考えたがまるでわからぬ。
自殺するなと絶叫しているかたの前では、自殺してもいいんじゃないかと言いたくなる。
反対に、自殺すると騒いでいるひとを前にしたら、命の大切さを説きたくもなる。
こんなものである。決定的なじぶんの意見というものはない。
ここで問題にしたいのは物語である。「何かが起こる」ということについて。
わたしはこの6年間、自殺寸前までいったことは無数にあるが、何も起こらなかった。
母だってそうである。わたしの眼前で飛び降り自殺をした母にしてもおなじこと。
自殺を決心して、実行にうつすまで、なんの救いも生じていない。
つまり、現実は何も起こらないのである。

ところが、である。物語では常に「何かが起こる」。
大多数から愛されるのは芸術的な退屈ではなく物語のほうである。
なぜなら現実は、何も起こらないからである。
繰り返す。現実は何も起こらない。救いも何もない。
不幸なひとは不幸なまま(幸不幸の定義はここでは問わない)。
自殺するひとは死ぬだけである。恵まれた人間は一生そのまま恵まれている。
こんな現実をそのまま見せられても、おもしろくはない。物語が要請されるゆえんである。
わたしは生まれが低階層なので芸術が理解できぬ。物語が好きである。
じぶんを励ましてくれたような物語を書きたいと思っている。
ならば、物語はどこから生まれるのかと思いをめぐらす。
いかにすれば「何かが起こる」ことを書けるのか。
ちょっと前までこう思っていた。
現実には何もないのだから物語を書けるはずがないじゃないか。
最近、これは間違えているのではないかと思うようになった。
もっと、もっと、現実の味気なさを率先して体感すべきではないか。
そのとき絶望の極みから物語が生じるのではあるまいか。ほんとうの物語がである。
こんなことあったらいいな。実際にはない。そんなことはわかっている。
だから、だから、物語を描きたい。

物語とは、現実への復讐ではないか。

もしそうだとすれば、わたしの現状はもっとも歓迎すべきものとなる。
何も起こらない。期待しては絶望する。わたしの人生である。
だが、と考える。
もし物語作家になりたいならば、この環境は最高に恵まれているのではないか。
もっと来い。絶望よ押し寄せろ。絶望を味わい尽くしてやろうじゃないか。
いつか壮大な落とし前をつけてやるからな。おまえを、現実を、わたしは許さないぞ。
物語のちからで現実など吹き飛ばしてみせる。そのためには生きなければならぬ。
信じなければならない。生きるとは、信じることである。

「でも、どんなことがはじまろうとも、どんな結果になろうとも、
わたしのお友だちで、とてもしんせつな人が、どこかこの世にいるのだわ
――わたしがお礼を言うことができなくっても――
わたしは決してひとりぼっちではないのだわ。
ほんとうにあの魔法は、わたしにしんせつにしてくれたのだもの」(P308)


おなじく「小公女」から。「あの魔法」とは、本文冒頭の引用に言及されている。
魔法とは、物語の別名ではないか。
どうすれば物語を書けるのか。不遇の小公女サアラはこんなことを言う。
物語と向き合うにあたっての大きなヒントである。

「『これ、お話なのよ』とサアラが言った。
『なんだってお話なのよ。あなたもお話――わたしもお話。
それから(意地悪をする)ミンチン先生もお話』」(P175)
一昨日の記事の続報をお伝えする。
その後も悪ガキの秘密基地における活動はやまない。
以前、注意したときに学校名を聞いた。近辺の小学校であった。
ネットで調べたら、すぐに電話番号がわかる。便利だ。
先ほど、その学校の生活指導主任の先生と話す。
立入禁止の場所へそちらの生徒さんが秘密基地を作っている。
鉄くずでなにやらいたずらをしているようである。伝えたのはこれだけ。

どうしてだかはわからないが、わたしは学童の犯罪を秘密にしておいた。
信じたくなかったのかもしれない。
小学生がおとなを殺傷しようとしている。
鉄くずをバイクへ向けて投げる。老婆を鉄くずで襲う。小学生のしたことである。
わたしがこの目で見たことでもある。
かれらは始終、こそこそと行動していた。たしかに塀のそとからは見えない。
だが、こちらからは丸見えなのである。

想像する。これまで原因不明の交通事故がどれだけあったか。
わからないままになった事故も少なくあるまい。
もしや、と思う。その何割かに学童集団がかかわっていたのではないか。
おもしろ半分のいたずらである。まさかと思ったら、事故が起きてしまった。
子どもは疑われない。なぜならむかしから子どもは善良と決まっているからである。
教師も親も国家も、子どもは善良という性善説を信じている。
子どもは都合のわるいことはすぐ忘れる。こうして事件は迷宮入りになる。
本来なら保険がおりるケースで、まったく経済的援助がなかった家庭もあるかもしれない。

現代に流行している論調はこうである。
おかしなおとなから子どもを守ろう!
だが、それでは片手落ちではないか。
おとなを子どもから守らなくてはならないのではないか。
こんな意見は決してマスコミにはでない。
なぜなら子どもは決まって善なるものだからである。
迷っている。あしたもう一度、例の小学校に電話しようか。
学童の犯罪を、殺人未遂を、生活指導主任へ伝えるべきか。
いや、わかっているのである。
そんなことをしたところで、この報告はもみ消される。
子どもは善である。子どもほどかわいいものは世界に存在しえぬ。
病院からそとへ出ると、どうしてこうも気持がいいのだろう。
秋晴れ。背後の病院をふりかえる。ここには死と向き合っている人間がいる。
患者。その家族。医者。看護師。
病院には死のにおいが充満している。墓場よりも、はるかに濃密な死の感覚がある。
谷川俊太郎の「生きる」という詩を思い出す。
「生きているということ いま生きているということ」
詩の冒頭である。この作品と出会ったのは大学時代の家庭教師先だった。
教え子の小学校国語教科書に掲載されていた。感動して、その場で書き写した。
品がないじぶんには詩はわからないと思っていた。
後にも先にも、詩にこころの底から揺り動かされたのはこのときだけである。

生きているということ。いま生きているということ。
それは、それは、いったい、なんなのだろう。
わからない。歩くほかない。どこへか。わからない。
生きている。いま生きている。歩いている。それだけである。
けばけばしいブックオフの看板が視界に入る。新宿靖国通り店である。

「太田和彦の居酒屋味酒覧―精選172」(新潮社) 105円
「アラブ人とは何か」(サニア・ハマディ/笠原佳雄訳/明石書店) 105円


なにかセールをやっているようである。雑誌がすべて半額だという。
105円の値札がついているものは3冊で105円。
ブックオフの経営戦略がさっぱりわからない。マヌケなのか賢いのか。
ブックオフではガイドブック、絵画集、
(一部)豪華本も雑誌あつかいになるのは知っていたが――。
これはないだろう。版画集である。

「河村立司の山頭火」(JDC)

定価2800円が105円である。作者が見たら憤死するぞ。
いや、これが105円ということは、あと2冊105円のものが買えるのである。
みなさまだったら、こういうとき、どうしますか。1冊でも3冊でも105円。
人間性が露出する瞬間である。わたしは血眼で残り2冊を選ぶ。

「モノの原価がまるごとわかる!」(青春出版社)
「文藝春秋 芥川賞発表 2006年3月号」


315円を支払いレジをあとにする。
店員よ、お願いだから、そのスマイルはやめてくれ。315円しか買わずに申し訳ない。
また歩く。道中、はたと思いつき今日処方された新しい薬をためす。
水なしで薬をのむなど、おとなのわたしにはたやすいこと。
うーん、なんかいい感じ。この漢方薬はもしかしたら効くのかもしれない。
パンダも歩けばブックオフ。なになに。今度は大久保明治通り店である。見過ごせぬ。

「プロ作家養成塾」(若桜木虔/ベスト新書) 105円
「山本周五郎のことば」(清原康正/新潮新書) 105円


この新書は新刊書店でも目についたが、山本周五郎の名言集(アフォリズム)だったのか。
てっきり評伝かなにかと思っていた。名言を酒とともに味わうのは幸せである。
山本周五郎は酒と心中した作家である。
清貧を良しとしたのか、いくらカネが入ってこようが、国産ウイスキーにこだわったという。
酒でものまなければ、いいお話なんざ、書けませんよ。
大衆に人気のある作家は大酒のみのケースが多い。
例外は赤川次郎。まったく酒をのまない。

坂をくだると早稲田である。古書店街を高田馬場へ向けてふらふら。
早稲田の古書店というのは、からっきし商売っ気がない。
これがプラスにもマイナスにもなる。
こまかくネットで価格調査をしないから、とんでもない掘出物がある。
一方で、売れなくてもいいかという諦念(ていねん)がある。3、4年、売れない本もざら。
どうしたって学生街。大学生は礼儀を知らない。
したがって客を選ぶようなこともない。早稲田に共通するおおらかさである。
なにも買わないままいつしか高田馬場のビックボックスへ到着していた。
偶然、今日から古本市が開催されている。ここで大当たりが!

「赤い部屋」(ストリンドベルヒ/阿部次郎・絵馬修訳/新潮社)絶版 300円

初版は大正9年。これは大正13年の第6版。戦火をくぐって、よくもまあ。
函(はこ)はないが、この年代の本になると、もうそんなこだわりはない。
ちなみに、この本。ネットでは函がなくても9000円の値段がついている。
この本を売りに出した古書店は隠すが、知らなかったわけではないと思われる。
価値があるとわかって、あえて安価で放出したのである。
実際、この古本屋にはおなじストリンドベリのべつの本が売られている。
もっともそっちはあまりにも高額なため、ここ1年は売れていないが。
学研の世界文学全集がバラで売られている。
この学研の全集はなかなか見ない。まえに買い逃したものを探す。発見。

「世界文学全集32 イプセン ストリンドベリ」(学研)絶版 600円
「世界文学全集29 ロルカ ピランデルロ」(学研)絶版 550円


これでようやくストリンドベリの「白鳥姫」が読めるわけである。
古典的前衛劇作家のピランデルロの小説にも興味がある。
生きた。歩いた。買った。今日である。
近所に空き地がある。
正確には工事の途中で投げ出されたといった様子。
いうまでもなく部外者は入り込めないよう柵で囲ってある。
最近、そこに悪ガキが出没する。小学校高学年。
子ども特有のかん高い声ではしゃぐので注意したことがある。
「公園で遊びなさい。ここは立ち入り禁止でしょう」
年の離れた学童にどう話しかけたらいいかわからないので、こんな調子である。
実に聞きわけがよろしい。すぐに解散するという。
これで終わったかと思ったら、そんなことはない。外面(そとづら)だけがいいのである。

どうやら工事現場はかれらの秘密基地と化したようである。
なにをして遊んでいるのか。うえから眺めてみる。
ひどい遊びである。子どもは悪魔だ。
工事現場ゆえ鉄くずがある。まずそれらを集める。
その鉄くずを通行人へぶつけるのである。
空き地は塀で囲まれている。おとなの身長でもなかの様子は見えない。
塀の裏側に隠れ、そとのおとなに鉄くずをぶつけるわけだ。
バイクがとおりかかると、その方面へも投げつける。
これではいつ事故が起こってもおかしくない。
子どもは天使というのはウソだね。たとえば鉄くずをぶつける場合である。
きちんと見張りがいる。怖そうなおとなにはやらないのである。
対象は弱者である。おばあさんが通りかかると攻撃が開始される。
なにか事故が起こったら子どもは逃亡。知らん顔を決め込むことだろう。

注意すべきであったが、このときわたしは風邪で寝込んでいた。
こういう悪ガキを叱るというのもいやなものである。
あちらは少年団気取り。こちらは悪者になるよりほかない。
それに現代はあれでしょう。
変質者が子どもを狙っているという危機感が共通認識になっている。
へたに子どもを叱れないわけだ。こちらが変質者あつかいされてしまう。
子どもが悪さをする。おとなが怒鳴りつける。これがふつうである。
だが、いまはそうはできない。民主的、平和的に話しかけなければならない。
子どもは、そのときだけは聞く。そのうち悪さを再開する。まったくやりきれない。
ちかぢか再び注意するつもりだが、どのようにいえばいいのか。
にこやかに話しかけるべきか。いきなり怒鳴りつけるべきか。迷っている。
神保町は巨大なお見合いパーティー会場。
本とひととのお見合いである。パーティーは連日開催。
初婚(新刊本)、バツイチ(古本)、老人求婚者(明治・大正の本)――。
常に出会いは一期一会。一度見逃したらもう二度と会えないかもしれない。
本との結婚(購入)は自由なもの。一夫一妻を強制されることもない。
なら、どうしたって結婚持参金が安くてもすむ相手を選びたいところ。
本を買うのも楽じゃーないんだ。

古書店ワンダーまえのワゴンに古い岩波文庫がずらり。
なにかないかなと物色していると、おお、ついに出会うときが来た。

「地平の彼方」(オニール/清野暢一郎訳/岩波文庫)品切れ 525円

昭和27年刊行。ようやく出会うことができたと胸をなでおろす。
ほんとうに出版されているか疑問に思ったこともあるくらいである。
ここ3年以上探していた本だったか。
これだけ探しても見つからないのはおかしいと思っていた。
品切れ岩波文庫へ1500円の値札をつけるような店でも見たことがないのだ。
いくつかネットにはあったから刊行はされたのだろうと思っていたが。
うん、めでたし、めでたしである。

田村書店まえのワゴンへ。おっと、演劇関連の古雑誌が100円で大量に落ちている。
この場合、落ちているという表現がふさわしい。
田村書店は、神保町随一の悪徳古書店。ここまで客をバカにしている古本屋はない。
ワゴンの本は、ブタへ餌でも与えている気分なのだろう。
ぶひい! こちらもブタになりきりワゴンへ首を突っ込む。
演劇雑誌「テアトロ」のバックナンバーを2冊購入。
昭和39年3月号と、昭和41年6月号別冊。
ひとつにはクリストファ・フライ(知らない)の戯曲「長子」が掲載されている。
訳が小田島雄志なので、もしや傑作ではないかと食指が動いた。
もうひとつは「海外前衛戯曲集」とある。
これはむかしあるところでひどい高値がついているのを見たことがあるので、
仕返しの意味合いで購入。なんじゃそりゃ。

土曜日。週末恒例の小宮山書店ガレージセールへ。
まずは100円均一の文庫本から1冊抜く。

「波濤」(井上靖/角川文庫)絶版

このセールの売りは3冊500円。こちらは単行本。

「対談 小説作法」(中野孝次ほか/文藝春秋)絶版

遠藤周作、井上靖、水上勉の小説作法は興味深い。

「好奇心は永遠なり」(遠藤周作/講談社)絶版

遠藤周作、最後の対談集。おかしなオカルトにはまっていた時期である。
わかりやすいよな。晩年の遠藤周作。死にたくないわけだ。病気も怖い。
死後の世界への不安もある。だから、オカルトへ走る。たいしたカトリック作家である。

「書物との出会い 読書テクノロジー」(紀田順一郎/玉川選書)絶版

上記の3冊で500円。よけいな本を買ってしまったような気もするが、
買うのが楽しいのだから仕方がない。

御茶ノ水から荻窪をめざす。
この日、知ったのだが中央特快(?)は荻窪へとまらないんだ。
すっ飛ばして三鷹まで行ってしまう。このまえはこれで失敗したのだった。
中野で乗り換え。荻窪へ到着するともう真っ暗。日暮れが早くなった。
ささま書店へ急ぐ。今日は105円ワゴンでの収穫はなし。店内で2冊買う。

「結婚します」(山口瞳/新潮文庫)絶版 210円
「アラビアンナイト物語 千夜一夜物語拾遺」(バートン/大場正史訳/角川文庫)絶版 315円


「千夜一夜物語」は、この大場正史の完訳が、ちくま文庫より出ている。
だが、さすがにあれをぜんぶ読む気力はない。
このような拾遺選(名作集?)で我慢(知ったか?)をするしかあるまい。
ブックオフ荻窪北口店へハシゴ。この日はめぼしいものがない。

「憂愁平野」(井上靖/新潮文庫)絶版 105円
「酒と旅と人生と」(集英社文庫/佐々木久子)絶版 105円
「正法眼蔵随聞記」(古田紹欽訳注/角川文庫)絶版 105円
「論語物語」(下村湖人/旺文社文庫)105円


最後の「論語物語」は講談社学術文庫から復刊されている。名著ということかな。
「マホメット」(井筒俊彦/講談社学術文庫)

→これはアタリだ。
井筒俊彦といえば、わたしでも名前くらいは知っているイスラーム学者。
だが、この本の著者は厳密には学者ではない。
これはほめているのである。学者は狂ってはならない。
狂気は小説家の特権にして、その魅力の根源である。
学者の記述した文章は味わいがない。
いっぽう小説家の書く文章には酔わされることがある。
つい耽読してしまうということがある。
それは書き手が狂っているからである。酔っていると言い換えても間違いではない。
その意味で、井筒俊彦は学者ではないのである。
こんな血の通った文章を書く人間が学者とは信じられぬ。
本書は、狂信ともいうべきイスラーム独特の昂揚(こうよう)に満ちている。
宗教を説明するのにはふたつの方法がある。
内側から主観的に書く(信仰あり)。外側から客観的に書く(信仰なし)。
どちらも真実であり、またどちらも真実ではない。
井筒俊彦はこの小著で危険な位置にいる。信仰の内外の境界線でふらふらしている。
この危うさこそ、宗教に対する誠実かもしれぬ。
イスラームにこんなイメージが芽生えた。
ユダヤ教は狭い独善的な教えである。
それを拡大解釈して、大量生産方式に変更したのがキリスト教ならば、
イスラーム教はキリスト教の本質をさらに洗練させた先鋭的な教義といった感がある。
信仰の美を追求しつくした結果の宗教という印象がある。
インドのタージ・マハルの影響かもしれないけれども。
この名著の雰囲気が伝わればさいわい。要(かなめ)と思われる部分を引用する。

「神を懼(おそ)れることを知らず、自らの罪の深さに気づかず、
迂闊(うかつ)にも浮れ騒いで罪に罪を重ねて行くこれら無信仰者どもを、
やがて神は正義をもって審(さば)き給うであろう。
メッカ時代のコーランの章句を根本的に色づけているものは
神とその審判とに対する深い懼れの情である。
『主の御前にふるえおののくものこそ真の信者なれ』とそこには定義されている。
つまり信仰と恐怖とはほとんど同義語なのだ。
ここでは恐怖とは人を一時的に襲っていつしか消えるかりそめの情緒ではない。
またそれは何物かによって拭掃さるべき単なる気分でもない。
むしろ人間存在の根源そのものが恐怖なのである。
胸に恐怖なき人は人たるに値しないのだ」(P64)


井筒俊彦はいい。狂っている。情熱が興奮が昂揚があるということである。
読了翌日、書店へ走る。同著者の「イスラーム文化」(岩波文庫)を買い求めるためである。
「聖戦の教典 コーランの秘密」(吉村作治/ワニ文庫)絶版

→独学者は困惑する。イスラームについて知りたいが、
どこから食いついたらいいのかわからない。
むかしなら入門書なら岩波新書と決まっていたのだろうが、
そして実際、岩波新書に「イスラム教入門」があったりするのだが、
岩波新書は「入門」と銘打っていても読者に不親切なことが経験から少なくないので、
どうにも気乗りがせず、
こともあろうかワニ文庫の本を手に取ってしまう恥ずかしいわたしである。
吉村作治といえば有名なマスコミ学者だから、大衆向けかなという期待もあった。
あたまがわるいわたしは入門の入門から入ることを好む。
結果的にはハズレ。かなり手を抜いて書かれた本である。
湾岸戦争便乗本だから無理もないか。
まあ、105円で買って90分で読了した本にいちゃもんをつけるのはよくない。

「インシャ・アッラー」。
イスラームに興味をもったきっかけの言葉である。
「神のみ旨ならば」「もしも神が欲し給うならば」と訳される。
ムスリムはなにかにつけこの言葉を用いるという。
明日、会いましょう。「インシャ・アッラー」。
来月までに入金してください。「インシャ・アッラー」。
宿命論者のわたしの耳にとても心地よく響く言葉である。
すべては神がお決めになる。
なにをするにも不自由な砂漠で生まれた宗教の信仰形式である。
「インシャ・アッラー」。
このひと言をこころから言えたら、どれだけ生きるのが楽になるか。
「インシャ・アッラー」。
「がんばれ、あきらめるな」が大好きな日本でこの言葉が広がれば、
うつ病患者はどのくらい減るだろうか。
「しあわせな日々・芝居」(サミュエル・ベケット/安堂信也・高橋康也訳/白水社)

→「ベスト・オブ・ベケット3」。
ベケットを読むのはマゾヒスティックな快楽があることを否定できない。
つまらないことに感動するのである。どうすればこんなつまらないものを書けるのか。
思わずうなってしまう。意味不明がこうごうしくも感じられる。
この次はどれほどつまらない戯曲なのだろうとわくわくしながらページをめくる。
うっへえ。こいつも、つまんね~。ああ、この退屈さが心地よい。
そもそも戯曲というものは、おもしろいものである。
芝居の本義は客を楽しませること。笑わせ、泣かせること。
戯曲がつまらないわけがないのである。ところが、このベケットは!

象徴的なのは「しあわせな日々」の冒頭。
ベルを鳴らすのだが、このようなベケットのト書きがある。

「ベルが耳をつん裂くようにけたたましく十秒ほど鳴って、止まる」(P7)

翻訳者の注釈にこのベルの説明がある。

「『十秒』にわたって鳴る音は観客の耳を生理的に苛立たせる」(P169)

サミュエル・ベケットは演劇界の革命家である。
この劇作家は、あえて観客を不快にさせようとするのだから。
ベケット劇は観客へのいじめかもしれない。
人間はおかしなもので、いじめられることをも快楽として感受できる。
わかりやすいたとえでいうならベケットの芝居はお化け屋敷のようなものか。
驚かされるのは不快だが、人間の感性はそれをも快感にしうる。
同様、意味不明は退屈で不愉快だが、これをも陶酔に転換できる人間がいる。
皮肉や諧謔(かいぎゃく)ではなく、大マジメの意見である。

(メモ)「ベスト・オブ・ベケット3」の収録作品は、
「しあわせな日々」「芝居」「言葉と音楽」「ロッカバイ」「オハイオ即興劇」「カタストロフィ」。
「勝負の終わり・クラップの最後のテープ」
(サミュエル・ベケット/安堂信也・高橋康也訳/白水社)品切れ


→「ベスト・オブ・ベケット2」。
ベケットは戯曲で読むものではなく舞台を見ればいいという意見がある。
言わせていただければ、そんなことはない。
過日、NHK芸術劇場で「エンドゲーム(勝負の終わり)」が放送された。
10分しか持たずに消してしまった。
戯曲でなら、まだ読めるのだが、これが芝居となると、もう虫酸が走る。
怒鳴りつけてやりたくなるのである。告白すると、テレビ画面に毒づいた。
役者が深刻そうな顔をして現われて意味不明の行動をする。
さらにものものしい声色で俳優自身も意味がわかっていないせりふを口にする。
観客は、ノーベル文学賞作家の芝居だからと、まるで勉強するようにベケットに接する。
ちなみに本書の注釈では、笑うところまで指摘(指定?)されている。
フランス人はここで笑うと(だから日本人もまねをして笑えとでもいうのか)。
いやでいやでたまらないね。

ベケットは現代人の孤独、絶望、閉塞感を描いたとされている。
アホじゃないかと思う。孤独、絶望、閉塞、そんなものは当たり前でしょうが。
だからこそ観客は連帯、希望、解放を求めて劇場へ行くわけである。
それなのに舞台でも孤独やら、絶望やら、閉塞やら、青臭いものを見せつけられる。
たまったもんじゃない。カネまでむしりとろうなんざ、詐欺の世界である。
ベケット劇のファンはどれほど波乱万丈な人生を送っているのか。
こちらの人生は、なにも起こらない。なにも変わらない。不条理きわまれりである。
わざわざ劇場へ出かけてまで観なくても、不条理劇とやらは日常にありふれている。
おカネを払ってまでそんなものを観たいというひとの気が知れない。

「ゴドーを待ちながら」も、以前テレビ芸術劇場で放送していた。
こちらも10分で観るのをやめた記憶がある。
テレビカメラは舞台よりも観客席をうつすべきである。
観客席のほうが、芝居の何倍も孤独・絶望・閉塞を表現していることに気がつかないのか。

(メモ)「ベスト・オブ・ベケット2」の収録作品は、
「勝負の終わり」「クラップの最後のテープ」「行ったり来たり」「わたしじゃない」「あのとき」。
「あのとき」のみ感傷的でよろしい。
登場するのはひとりの人間の顔。3つのスピーカー。
声ABCは、同一人物のもの。ただし年齢がことなる。
Aは少年時代を懐古する中年の声。
Bは恋愛に夢中の青春期の声。
Cは絶望した老人の声。
暗闇に浮かぶのは顔のみ。3種類の声が順々に発せられる。
「ゴドーを待ちながら」(サミュエル・ベケット/安堂信也・高橋康也訳/白水社)

→「ベスト・オブ・ベケット1」。再読。
演劇史にコペルニクス的転回をもたらした作品。
みなさま、劇と聞いてなにをイメージしますか。
少なくとも、なにか起きることを期待するでしょう。そこをベケットはひっくりかえす。
「ゴドーを待ちながら」全体を簡潔に説明するせりふを劇中人物が語る。

「なんにも起こらない、だあれも来ない、だあれも行かない。全くたまらない」(P69)

この作品になんらかの魅力があるとするならば、影のおもしろさである。
何百という芝居を劇場で観てきたものだけが、このユーモアを理解するのではないか。
ギリシア悲劇、シェイクスピア、フランス古典劇、英国風習喜劇を前提としたうえでの
ベケットなのである。比較してはじめてわかる。
または幼少のころから教会で何度もおなじキリストの説教をされる。
耳の奥に聖書がこびりついている状態でこの「ゴドー」を観ると大笑いする。
強烈な光があってこそ、影としての「ゴドー」のおかしみが強まる。
おそらくこういう仕組みになっていると思うのだが……。

シェイクスピアもろくに読まない日本人にとてもベケットがわかるとは思えないのだが、
芝居の観客のなかにもわからないものをありがたがる奇怪な人種がいるのかもしれない。
舶来品は手をあわせておがめばいいと思っている一部の日本人には困ったものである。
アメリカ人のほうがよほど健康である。
「ゴドー」がアメリカで初演されたとき、観客のほとんどが途中で席を立ったという。
この姿勢は見習いたい。なんとも残念なのは、
かようなアメリカ人も識者が称揚するとベケットに拍手をおくるようになったことである。
国籍を問わず大衆というのはおなじようなものなのかもしれない。
あの文化人がおもしろいといっているから、これはおもしろいのだ。
おもしろい、おもしろいと自己催眠をかける。
好きなのはベケット劇ではなく、かれの芝居をおもしろいと思うじぶんではないか。
そんなものは自己愛の変奏にほかならぬ。

インテリぶって、わかったようなことを書こうとしたが無理であった。
なによりからだは正直である。
二幕劇なのだが、第一幕終了後、不眠症のわたしは熟睡した。
再読ということで、膨大な注釈をぜんぶすっ飛ばして読んだのにこれである。
「小公子」(バーネット/岡上鈴江訳/旺文社文庫)絶版

→感想もなにもないわけである。泣きどおしであった。
読み始めからなみだがとまらない。わんわん泣きながら読了する。
1回の読書で、ここまで泣いたことはない。物語のちからである。
あたまのいいひとは「小公子」を子供向けのちんけな物語と愚弄するのだろうが、
これを読んで泣けないというのは、かわいそうなおとなじゃないかとも思う。

「小公子」では、善が悪を倒し、愛がエゴイズムを凌駕(りょうが)する。
月並みじゃないかと言われたら、こう反論したい。
あなたの生活だってそうでしょう。夜は眠り、朝には目覚める。3度3度、食事を取る。
月並みをバカにするのなら寝ないでいなさい。断食しなさい。
問題は、おなじ寝るでもいかに快眠するか。質素な食事でも感謝しておいしく食べるか。
人間は何千年もまえから、そうして生きてきた。これからもそうであろう。
たしかに夜型生活もある。サプリメントだけで生きることもできる。
けれども、そうだからといって、太古からのリズムを嘲笑するのは愚かなことではないか。
それをなにか新しいことのように思うのは、根本的な誤解があるのではないか。

たとえば、日本なら春夏秋冬がある。
夏のあとには秋が。いくらこばもうが万物枯死する冬もかならず訪れる。
終わらぬ冬はない。そして春! 春の到来とともに冬眠から目覚めるものがいる。
物語というのは、こういうものではありませんか。
物語は否定されるべき対象ではない。もとからあるものである。
すばらしい物語と、あまりできのよくない物語がある。ちがいますかね。
物語を否定しているインテリは、
真冬に屋外でビールをのみながら冷凍枝豆を食べているような寒々しさがある。
それを粋(いき)だと流行らせたいのだろうが、だれにも見向きもされない。
大多数は知っているのである。枝豆は夏に食べるのがうまい。

人間もおなじである。生まれる。誕生直後から老いているものはいない。
みな幼児として生まれる。成長する。思春期。成人。成熟。中年。老年。老衰。死――。
人生の春夏秋冬である。定められているものがある。これが物語の感覚だ。
「小公子」は、めったなことでは採掘されない宝石のようなきらきらとした物語である。
この宝石をながめながら気がついたことがある。物語は教育的である。
人間はややもすると生き迷う。混乱する。道に迷う。
本来は知っていることを世事にかまけて忘れてしまう。
そんな人間を物語は教え導く。
人間は物語をとおして知るのである。あるいは、思い出す。
秋の紅葉が終わったら冬が来ることを。その冬もいつかは春になることを。
人間は成長することを。人間はだれかを愛することを。生きることを。死ぬことを。

「小公子」はあるひとの愛読書であった。
そういう本はたいがい読まない。読んでもたいして感動しない。
他人の手垢がついているように感じるからである。
だが「小公子」は、そうではなかった。こころから感動した。
この物語を愛読しているひととは、血がつながっているのかもしれないと思うほどである。
「物語批判序説」(蓮實重彦/中央公論社)絶版

→物語作家(ストーリーテラー)にあこがれているわたしが、
なぜ正反対のこのような本を読むかかといえば、約束があったからである。
読むという約束。これがなければ、おそらく最後まで読み通せなかったと思われる。
冒頭から文末までいちおう目を通したつもりだが、さっぱりわからない。
わからないものをありがたがるひとというのが読書人口の何パーセントかいる。
このような書物の存在する意義であろう。
だれがこの本の感想を書いても、読み手には理解できないものとなるはずである。
わからないように著者が書いたものを、わかってしまったらそれこそ問題である。

矛盾するが、いまからわかりやすくこの本の内容の断片を要約する。
わかりやすいという時点で、正確ではないことは明らかであることをはじめに断っておく。
一行にまとめると、「物語は知に従属する」。
これが「物語批判序説」の柱である。
繰り返す。物語は知に従属する。
わかりやすく言い直すと、物語は知にくっついてまわる。
知というのは、言葉であらわされるものである。知=言葉は、物語にまみれている。
言葉が物語をたずさえてくるため、実態が見失われる。
言葉を鏡と考える。たとえば猫という言葉。
猫が実際にいて、それを鏡のまえに座らせる。鏡に猫がうつる。
この鏡像(鏡にうつった猫)を言葉だと考えようといま仮定している。
猫が鏡にうつり「猫」という言葉になる。
そのとき鏡は猫をうつすことはできても、「猫」はとらえることができない。
猫は言葉ではない。「猫」になって、はじめて言葉として使われるようになる。
この場合、カッコ=「」は、言葉にしようがないでしょう。
言葉(「」)という鏡は決して言葉(「」)をうつさない。
この枠組み=「」を、物語だと言うのが蓮實の言説である。
ううん。わかりにくいですかね。

たとえば流行語の「下流社会」。下流社会という実態があるのかはわからない。
ある作家が「下流社会」という個人的な物語を造形したわけである。
いまではあのベストセラーの新書を読んでいない人間まで「下流社会」を論じる。
この現状を批判すると、こうなる。
「下流社会」は、下流社会ではない。そもそも下流社会なるものがあるのかもわからない。
いわば、物語である。ひとはみな「下流社会」という言葉を使うことで、
「いま、ここ」を生きているというナマナマしい実感から逃避している。

本書で蓮實重彦が取り上げるのは、
順にフローベール、プルースト、サルトル、ロラン・バルト。
読書をしながらメモを取る。このメモにでかでかと書かれている。

おまえはフランス人か?

蓮實先生への問いかけである。よくよく考えてみれば、本書の正体がわかろう。
フランスの作家を取り上げ、蓮實重彦は「物語批判序説」を論じた。
さて、この本はフランス語で書かれているか。いな、日本語である。
フランス人はこの本を読むことができようはずもない。
反対を考えてみればすぐわかる。フランス人が仏語で漱石を論じたとする。
日本人の我われはそんなものを読みたいと思うか。
漱石は日本人ならだれでも顔くらいは知っているが実際は読んでいないでしょう。
それをフランス人が論じたからといって、だからなに? こうなる。
「物語批判序説」もおなじようなものである。
身もふたもないことをいえば、蓮實は、フランスという虎の威を借る狐。
最後にこの狐の文章を見てみよう。狐はいかに人間を化かすかである。

「<神>を殺した人間たちに対する激しい憤りがその詩句のいたるところ顔を出している事実を指摘しながら、奴隷制が昔ながらに維持されているインド洋上の植民地の封建的な社会構造の中で、いわば王として君臨していた父親に対して人道主義的な反抗を演じたエディプス的青年が、いわば亡命地といってよい五〇年代のパリで、その共和主義的な理想にもかかわらず人類への憎悪を口にしはじめ、沈黙によって帝政を支えるという政治的な立場に追いこまれざるをえない客観的な状況を指摘したサルトルは、とりわけその異常な長さがたやすくは正当化されがたい『フローベール論』にあって、きわめて刺激的な言説の担い手たりえているように思う」(P242)

くすくす。これはすごい文章でしょう。この本をわたしは読んだのである。
ちなみに文構造は「(~~)→S+V」。
サルトルの「フローベール論」はグッド。この論の内容は以下である。
こう書いたらいいのに、どうしてこんな悪文を書くのか。
蓮實重彦は、仏語以前に、日本語の作文を勉強するべきある。