平成の現代、いくらなんでも文学にはまるのは恥ずかしいので、文学入門にはまってみた。
ここ数日で読んだ「文学入門」を列記してみる。
出版年度は原本(オリジナル)のものを記した。
「文学入門」(谷川徹三/講談社学術文庫)昭和39年
「文学入門」(桑原武夫/岩波新書)昭和25年
「文学入門」(吉田精一/旺文社文庫)昭和41年
「古典文学入門」(吉田精一/新潮選書)昭和43年
「西洋文学入門」(本田顕彰/現代教養文庫)昭和35年
「小説入門」(中村真一郎/光文社文庫)昭和37年
条件は、日本人が書いた「文学入門」。安価な文庫新書選書限定。
検索してみると、そんなにはない。
まえに読んだものを入れると(下記)ほぼ網羅したことになる。
「文学入門」(伊藤整/講談社文芸文庫)昭和29年
「文学とは何か」(加藤周一/角川選書)昭和25年
「日本古典入門」(池田亀鑑/講談社学術文庫)昭和27年
たくさんの文学入門を読んでみてわかったことがある。
この国にもたしかに文学が流行した時代があった。
入門書がこんなに書かれるというのはそういうことでしょう。
出版社がばんばん文学全集を売り出す(いまでは古本屋ワゴンの常連)。
読者はどれを読めばいいのかわからない(すなわち、読む気はある)。
かくして文学入門書が必要とされるわけである。
時代にすると敗戦後、どうにか衣食住が安定してきた昭和25年ごろから20年くらいか。
文学の終わりがささやかれたのが、村上龍「限りなく透明に近いブルー」。
この作品の芥川賞受賞は昭和51年。
うん、20年くらい文学バブルがあったという計算になる。
ちなみに上記の「文学入門」は、伊藤整のをのぞいて、すべて絶版品切。
いま大型書店の日本文学コーナーへ行ってみると、あのような文学啓蒙書は皆無。
代わりにあるのが無数の小説指南書なわけである。小説の書き方。
どういうことか。むかしの文学入門書を読むと一貫した前提がある。
それは、文学を読んで人間を高めよう! こんな態度。
いまはそういうのは流行らない。
というか、現代日本文学の書き手はそこらへんのダメなおにいちゃん、おねえちゃん。
かれらの小説を読んだところで、人間性が高まるとはだれも思わない(苦笑)。
なら、どう思うのかというと、このくらいなら自分でも書ける!
文学の変遷を整理するとこうなる。
文学は「読む」ものから「書く」ものへ。
例外は、人生、終わっちゃった中高年のための文学。
いま「百人一首」やら「おくのほそ道」を自分で書こうという本が流行っている。
あれを買うのは老眼鏡をお持ちのかたでしょう。
だから文学を読むのが流行しているというのとはちょっとちがう。
本題に戻す。
文学入門書をいくら読んでも、文学の正体などわかるわけがない。
みなさまはそういうかもしれない。
いな、わかってしまったのである。少なくとも、いまわかったつもりになっている。
1行で書くぞ。古今東西の文学を定義してやる。
文学とは、個我を超えようとする営為である。
文学を読む。
人間というのは限定のある不自由な存在でしょう。
それぞれ与えられた生を生き抜くことしかできない。
両親の生活力が低くて、さらにすぐに離婚してしまった。
そんな片親の子はどうしようもなく犯罪に手を出す。少年院のお世話にもなろう。
一方で、政治家の子どもとして生まれたら将来は約束されている。
情操教育もしっかりされて有名学校へ入る。結婚相手も保証される。
これはもう仕方のないことなのである。
だれがなんといおうと人間は平等ではない。
社会制度をどうかえたところで人間が平等になることはない。
人間はみながみな自分という監獄にいるようなもの。
なにをしようとかならず自分という壁にぶつかる。
ここで文学なのである。ひとは文学を読むとき自分を忘れることができる。
文学を通せば、政治家の息子が不良少年の人生を経験することができる。
同様、少年院あがりの悪ガキが、上流社会というものを文学で知ることも可能。
文学は論文ではない。良質な文学はだれにでもわかる言葉で書かれている。
物語があるから読みやすい。
このように人間は文学作品に触れることで個我を超えうるわけである。
男が女の人生を体感することも、文学でならできる。
文学は個我、すなわち性別、時代、国籍の壁をとっぱらってくれるのである。
日本の古典でいうなら、「更級日記」に有名なシーンがあるでしょう。
著者の菅原考標の娘が、京都へ行けば物語がたくさん読めると胸躍らす。
文学の愉(たの)しみかたはむかしから変わらないことがよくわかる。
文学を書く。これも個我の超越をめざしている。
スタンダールはどうして「赤と黒」を書いたのか。
別の人生を生きたかったからである。
ぶおとこのスタンダールは妄想したわけである。もし自分がハンサムだったら。
この欲望から造形されたのが「赤と黒」のジュリアン・ソレルなのだ。
芭蕉の「おくのほそ道」もそう。
旅から戻った芭蕉は思った。こんなものは旅ではない。
なら、旅とはなにか。旅とはかくあるべきである。
この欲望から虚構として書かれたのが「おくのほそ道」である。
和歌もおなじ。人間なんて、だれもかれもそうおもしろいものではない。
けれども、おもしろい人間でありたいと思った。個我を超えんと欲した。
自分は風雅を解する人間である。
これを他者(異性、同性)に示さんがために貴族は苦心して和歌をつくった。
平成の作家志望者も平安時代の貴人となんら変わることがない。
自分という窮屈な枠から抜け出したい。
かれらとて、このおなじ欲望から小説を書いているのではあるまいか。
現代日本文学の衰退もここから説明がつく。
いまの若者はみな、ほぼおなじ環境で育っている。
原因は、近代教育の普及か、それともマスメディアの発達か。
相違がそれほどない。差別がない。平均化されている。
極端な幸福がないかわりにどん底の不幸もない。
ここから「自分探し」がスタートする。この延長で書かれる小説は似たり寄ったり。
日本文学の現状かと思われる。超越をめざす個我が同一でおもしろくならない。
だがしかしである。もし文学が個我を超越せんとする試みであるならば、
今後も決して文学が途絶えることはない。不自由な人間が生きている限りは。