「江分利満氏の華麗な生活」(山口瞳/角川文庫)絶版

→これもお酒をのみながら読了。
直木賞受賞の前作の続編。こんな楽しい読書はなかった。
サラリーマン文学である。
主人公は江分利満=エブリマン。
かれの特徴をあげれば――。

江戸っ子気質。
分をわきまえている。
利得を求めはするが、
満足することを知っている。

上から左はじだけ読んでください。江分利満。
他からの盗用ではない。いま思いついたことである。
江分利満氏とはこんなサラリーマンなのである。
そして作者・山口瞳の書くものはサラリーマンに愛された。
時代であろう。サラリーマンが文学になった。
不幸・欠乏・艱難・努力・円満・夢・幸福が、この時代のサラリーマンにはあった。
文学の題材たりえたのである。
たしかに「内向の世代」もサラリーマン文学を書いたのかもしれない。
けれども、あれは当のサラリーマンが退屈で読めないサラリーマン純文学でしょう。

戦後日本が産んだ江分利満氏の主張は、たとえばかくのごとしである。

「江分利は美人と話をしていると索漠(さくばく)感に襲われる。
36歳になったいまでもそうだ。美人と話をすると5分で退屈する。
目をそらしてしまう。こちらの退屈がむこうに伝わるからシラジラしくなる。
30歳を越えた美人なら、やや安心である。
35歳以上なら非常に安心である。話題があるせいなのか。
若い美人を遊ばせ笑わせるなんて面倒で仕方がない。
そんな義務的なことはやりたくない」(P177)
「江分利満氏の優雅な生活」(山口瞳/新潮文庫)

→お酒をのみながら小説を読む。
隊長、幸福をここに発見しました〜!
「青い鳥」捕獲ですう〜!

だけど、ラクじゃーないんだ。
どんな小説でもいいというわけではない。
しらふで読む小説より、よほど選定基準が厳しくなる。
酒がまずくなるような小説は読みたくないのである。
ああ〜。現代はそんな小説ばかりなのですよ〜。
これは作家が悪いのではない。時代が悪いのである。
昭和37年(1962年)直木賞受賞の本作品から引用。

「ステレオは、ステレオを買うことは、江分利(えぶり=主人公)にとって
情熱の対象みたいなものだった。
いつかは、老年になってもいい、いつかは凄(すご)いステレオを買ってやろう、
あるいは一生買えないかもしれないが、
ステレオを買うことを生甲斐(いきがい)にしてやろう」(P107)


いい時代だ。
がんばればがんばったぶんだけ幸福になれると国民全体が信じていた。
幸福のまえに、物質的などと付け加える必要がなかった時代。
めざすものがあった。いいよな。
こういう時代に書かれた小説しか読みたくないのである。
少なくとも酒をのんでいるあいだだけは……。
お願いです。夢を見させてください。現実が、なんだ(泥酔)!
「日本はじっこ自滅旅」(鴨志田穣/講談社)

→アル中の三流ライターが日本各地を旅行。
血を吐きながら、それでも酒をのみつづける。いいね。いいね。
お酒をのみながら読むエッセイとしては申し分ない。
ゲッツ坂谷のものまねだろうが、おもしろければなんでもいい。
西原理恵子と離婚♪ 血を吐いて入院♪
グウですよ、ベターですよ、ベストですよ。
ひとの不幸ほどおもしろいものはありませんから。
売文の意味をよくわかっておられる。
売文は売血とおなじ。無一物の売文家は、血をカネにするのだ〜よ。
現代の文学者が失った熱いものをこのフリーライターはもっている。
むかしなら文学を志望したはずの若者がこぞってフリーライターめざす。
よく言われることである。
「ハムレット」(シェイクスピア/福田恆存訳/新潮文庫)*再読

→数えてみたらこの「本の山」で「ハムレット」の感想を書くのはこれで6度目。
よし、今回は現代思想ふうに読んでみようじゃないか。
「ハムレット」をテクストとして読解する。
こちらのテクストにひきこんで、最大限にハムレットを誤読してみようと思う。

なぜ「ハムレット」を読んだのか。怖かったからである。
半年間文通をしていたメル友と会う直前に「ハムレット」を音読した。
ネットで知り合ったひととリアルで会うのは結構な勇気を必要とする。
とくに対人恐怖症に悩んでいるわたしはである。
ホレイショーはハムレットへ呼びかける。

「いけませぬ、ハムレット様。(……) 行ってはなりませぬ」

放せホレイショー。わたしは絶叫する。
ホレイショーのため息まじりの声を耳にしながらである。

「なにごとも天に委(まか)せるよりしかたはない」

待ち合わせの新宿へと「ハムレット」はわたしを叱咤(しった)する。
ハムレット気分のわたしを相手にしたかの人物はさぞ迷惑だったことと思う。

                    *

この経験を通して、「ハムレット」がいささかわかったような気がする。
ハムレットは観客ではなかろうか。
観客席にいた人間がいきなり予告もなしに舞台へあげられる。
父と名乗る亡霊から復讐を命じられる。
まいっちゃうよな〜が青年・ハムレットの感想である。
だが、自分はハムレットなのだから、どうにかして劇に仕立てなければならぬ。
どうすれば劇が発生するのかハムレットには皆目見当がつかぬ。
そのためあれこれとやってみる。どれも決定打にはならない。
うっかり憎んでもいないポローニアスを刺し殺してしまう。
かと思えば、イギリスへ追放される。
ハムレットには舞台上の事件が、さぞ不条理なものと感じられたのではないか。
ハムレットが覚醒するのは、5幕1場、墓場のシーンである。
王子はなにを悟ったのか。劇とは人間が作るものではない。
神と相談しながら、共同作業として造形するものなのだ。
墓場は死の象徴である。ここでハムレットは墓堀人と言葉を交わす。
30年前、ハムレット誕生時の挿話を墓堀人から聞かされる。
ハムレットが劇を了解した瞬間である。
人間は生まれ、そして死ぬ。
30年前に自分は生まれた。死ねばこの墓場に葬られる。なんのことはない。

生で開幕し、死で閉幕する。

たわいもない。劇とはこれであったか。
なにを迷っているのだ。言動はすでに決められていたのだ。
劇はもう完成しているのである。あとは台本どおりに芝居をすればいいのだ。
自由など、どこにもなかったのである。
生も死もままならぬ。ならば合間の劇が自由なはずがないではないか。
どうなるかはすべてもう決められているのである。
決定している。なにをしようが微塵(みじん)たりとも変えることはできぬ。
「ハムレット」のテクストは、ハムレットの存知せざる場所で完成しているのだ。
そうであったか。このときハムレットは、生まれて初めて自由を感得する。
いくら自分が自由にふるまおうと、それは宿命として決定されていることなのだ。
どこにも自由はない。森羅万象みなみな宿命である。
いや、いまこそ完全な自由を手にしているのだ。なにをしてもそれは宿命なのだから。
ままならぬ生と死にはさまれたハムレットが造物主と対峙した瞬間である。

                    *

ハムレットにならなければ、新宿へ行くこともかなわなかった意識過剰のわたしである。
この人生でだれと会うかは、もう決められているのだ。
それはがんばるつもりだが、成功するか失敗するかは、すでに決められている。
悪しき宿命論者とお笑いになるか。
すべてが決められているとあきらめたとき、ようやく演戯する余裕が生まれるのである。
演戯の自由はある。人間、それで充分ではないだろうか。
新宿からの帰途――。
そうか、これなのか。こういう台本だったのか。
大根役者のわたしだが、感動に打ち震えたことを告白する。

「つまりは、こうなろうか、
人の志と運命とはまったく相反して動き、
思い定めしことも、かならず覆(くつがえ)され、
思いは我がものなれど、結果はつねに手のとどかぬところに現われる」(P101)
「不安でたまらない人たちへ」(ジェフリー・M・シュウォーツ 著 /吉田利子訳/草思社)

→音恐怖症である。騒音廃絶活動家でもある(苦笑)。
音にひどく敏感。拡声器を嫌悪している。音楽を流す物売りも大嫌い。
1年前くらいまえにかかった病である。
病気なのかは実のところ不明。自分勝手なだけかもしれない。
いくら調べても、この音恐怖症、騒音過敏症について書かれた書籍はない。
うるさい哲学者、中島義道の著作は、病気をかえって悪化させる禁書だと思っている。
わたしも中島義道のように何度も騒音元と喧嘩をした。無益な闘争であった。

1年前に突然、罹患(りかん)したのである。
ならおなじように突如として治ってもいいはずである。
病識はあるのだ。じぶんがおかしいとわかっている。
ふつうのひとは騒音などたいして気にしていない。かつてのわたしもそうであった。
どうしたらむかしに戻れるのか。

だが、問題ではないか。この症状にまだ病名すらついていないのである。
「わがまま」「神経質」「耳がいい」「キチガイ(かる〜く)」。
さしあたってはこのような表現が一般では使用されていると思われる。
いかにすればこの困った状態からぬけだせるか。日夜、あたまを悩ませている。

本書はアメリカの一般向け医学書。OCD対策の実践マニュアルである。
OCDとは「Obsessive Compulsive Disorder」。
日本語は「強迫性障害」。かつては「強迫神経症」とよばれていた。
手を何度も洗わないと気が済まない。
カギや蛇口を何度もたしかめる。
物事が偶数でないと気になる。
順序だてた個人的な儀式を正確に行なうまで外出できない。
こんな症状で知られる。あのサッカーのベッカムもOCDだという。

わたしの病気もOCDではないかと、この書物に救いを求めた。
読み始めてすぐに気づく。これはアメリカ版の森田療法である。
森田療法は、大正時代に精神科医の森田正馬(まさたけ)が創始した神経症の治療法。
アメリカでの神経症の治療は、薬物療法と精神分析がメイン。
この書籍が画期的だったということは、
ようやくアメリカが日本に追いついたということである。

森田療法と、本書の四段階方式を比較する。

【森田療法】
1.不安が生じる。
2.この不安を「あるがまま」にする(強迫行動をしない)。
3.不安を「あるがまま」にしながら「目的本位」で実践する。
4.「不安常住」とあきらめ、成功体験を積み重ねる。

【米国流四段階方式】
1.不安が生じる。
2.この不安はOCD(脳障害=医学的疾患)なのだとラベルをはりかえる。
3.関心の焦点を移し、建設的な楽しい活動をする(15分間、不安に耐える)。
4.不安が実際は無意味であると価値の見直しをしていく。


アメリカと日本のちがいがおもしろい。
比較してわかるのは、アメリカの科学万能主義と成功哲学流儀である。
森田療法では不安の原因を追究しない。
かつての米国は、この不安を解明するためにフロイトの泥沼にはまったわけだ。
ところが、いくらフロイト流の精神分析をしてもOCDは治らない。
ここで不安を「あるがまま」にしないで科学をもちだしてくるのはいかにもアメリカ的。
OCD状態にある脳を調べると、通常の脳とは異なるという結果がわかった。
フロイトがダメなら科学にすがるのがアメリカである。
科学を信じているものほど、この実践的治療法は効果があると思われる。

不安が生じる。
この不安をOCDと名づけることで、不安を軽減しようという作戦である。
客体化するとい言いかえてもいいかもしれない。
不安にOCDとラベルをはる。乗り越えるべき敵の登場である。
ハリウッド映画の世界ではないか。
この敵を倒すためには、関心の焦点を移す。たとえば趣味の世界へ没入する。
最後は価値の見直し。ポジティブという言葉がふさわしい。
前向きで多趣味なアメリカンビジネスマンは万病を排するとでもいうのか(笑)。
おっと、笑っている場合ではない。
この米国流四段階方式はマクドナルドで育った現代日本人には、
なまじ森田療法などよりよほど効果があるかもしれない。

「だいじなのはどう感じるかではなく、何をするかである」(P41)

森田療法と米国流に共通するポイントである。
感じる不安を、森田は「あるがまま」に、米国流は「O C D」とラベルをはる。
そのうえで行動を重視しようではないかというのである。

米国流を実践してみる。

1.騒音が聞こえてくる。いらいらする。文句を言いたい。
2.これはOCDだ。脳障害なのだとラベルをはる。克服すべき対象である。
3.15分間、騒音を我慢しながらそれまでの行動を継続する。
4.騒音で命まで取られるわけではないことに気がつく。騒音を無意味化する。


うん、これだ〜! さっそく試してみなければ。
本書でおもしろかったこと。
15分間の我慢をできたら、自分にご褒美をあげるといいらしい(P138)。
著者はヨーグルトやアイスクリームを推奨している。甘党なのだろうか(苦笑)。
このやりかたもギブアンドテイクとでもいうのか。なんともアメリカ的である。

(参考)「OCD研究会」↓
http://www.ocd-net.jp/index.html
「アエラムック 現代哲学がわかる。」(朝日新聞社)

→これはダメ。いまは言論は尊いものでもなんでもない。
食べ物とおなじ。むかしは食べる物がなかった。米ひと粒を大切にした。
いまではどうだ。この国で一日に捨てられる食料はどれほどになるのか。
コンビニのフレンドリーなCMの裏側である(賞味期限切れ食品大量廃棄)。
良し悪しではない。事実である。
言論も同様なのだ。現代は言葉に満ち溢れている。だれでもブログで発言できる時代。
毎日、ブログにより大量の言説が生産され、廃棄されていく。
エリートの新聞記者が書く記事を「読む」より、
ブログで自分の世評を「書く」ほうが楽しいと気づいてしまったひとも少なくない。

なにをいいたいのか。アエラムックは例によって権威主義。
アカデミックな有名どころに朝日新聞の旗をちらつかせて小文を書かせている。
2、3をのぞいて、ほとんどダメだ。
もしあれらの文が大学教授という肩書きなしに、ブログに掲載されていたら、
大多数の人間は読まないで画面を閉じると思われる。

おもしろくないからである。
なぜか。書き手が、文章を考えないで書いている。
そもそも考える必要もない。安定した身分がある(大学教授)。
さらにアエラムックは共著にもならぬ、やっつけ仕事。
おもしろい文章とは、書き手が発見を求めて記したものである。
考えなければ、発見はない。
アエラムックで教授、助教授連中は、知っていることを、そのまま書いているに過ぎぬ。
なんの情熱もない。教える喜びも、考えを共有しようとする意図(働きかけ)もない。
ひどい文章が並んでいる。

いっぽうてきに批判してきた。
最後に哲学者の反論とおぼしきものを引用する。
東京女子大学文理学部哲学科教授・黒崎政男。

「電子メディアの時代においては、すべてがおしなべて<情報>である。
かつては思想の深さ、強靭(きょうじん)さの証でさえあった<難解さ>は、
ヒステリックなほどに排除される。
一度見たり聞いたりしただけで理解されないようなメッセージは、
検閲されて<容易さ>に解体されるか、あるいは無視をもって迎えられる」(P161)
「図解雑学 現代思想」(小阪修平/ナツメ社)

→図解雑学シリーズはよろしい。
いまどき定価で買っても損をしたと思わせないのはナツメ社のこのシリーズくらいでは。
あやふやな知識を確かめたいときに、さっと調べることができるので便利。
一度、読むだけではなく、何度でも利用できるのがいいのだ。
著者の小阪修平は、わかりやすい哲学書を書くことで有名。
在野の研究者。つまり、大学に籍を置いていない。安定(大学教授)とは無縁。
駿台予備校の小論文講師。わかりやすいのも道理である。

さて現代思想がわかったような気になった。
はじめてあたまを悩ます。使いみちがないのである。
難解な原著を読むための時間的余裕および哲学的センスはない。
いい年だから、知ったかぶってデリダだのフーコーだのとバカをひけらかす元気もない。
まあ、よけいなコンプレックスがなくなったくらいで満足すべきなのだろうか。

嫌いなものがある。
なにかの主張(文章、会話)で、だれがこういった、なにがこういった、
と哲学者や思想家の名前をしきりにもちだす連中である。
文章なら読み飛ばす。会話なら相手をにらみつける。
これが短所であることもわかっている。とくに対人関係においては。
会話は、娯楽である。
芸能人の噂話で盛り上がるのとおなじレベルで哲学者を話題にすればいいのである。
けれども、どうしてかそれを許せないわたしがいる。
フロイトが〜などと相手が口にしようものなら鼻で笑う。
フロイトではない。あなたはどう思っているのだ。こわい顔でそう詰問していく。
対面者は自己の経験を話すほかなくなってしまう。窮屈になる。
これでは友人ができないのも無理はない。

この「図解雑学 現代思想」を読んだことで、この短所は改善するか。
そうなのだ。芸能人やスポーツ選手の話をするように、哲学者をさかなにすればいい。
いくら相手がインテリぶろうがほほえましく思えるくらいの度量をもたねばならぬ。

この本でおもしろいのも、じつは思想ではなく哲学者の人生(ゴシップ)。
キルケゴールは、あえて最愛のフィアンセをほかの男へ嫁がせる。
ニーチェ晩年の狂気の様子には爆笑した(P24)。
ふたりの兄が自殺しているウィトゲンシュタインの人生もおもしろい。
わたしのいちばん引かれたハイデガーがナチスの協力者とは!
アルチュセールは妻を殺して精神病院行き。ううん、やるねえ!
ホモのフーコーが教え子に言い寄るさまは想像しただけで笑える。
つまるところ、語られる思想に興味がないのかもしれない。
たかが個人の思想ではないか。
神の手が加わった人生のほうが、思想などよりどれだけおもしろいことか。
「哲学案内」(谷川徹三/講談社学術文庫)絶版

→これはすごい本だぞ〜。
極度の不眠症である。どうしたって眠れやしない。
毎晩、アルコールか睡眠薬のお世話になっている。
そのわたしがである。この小著にすとんと落とされた。
経験したことはないが、首を絞められて意識を失うのはあんな感じではないか。
あたまが重くなる。もうダメだ。一瞬の快感の後、すとんと落ちる。熟睡。
哲学のちからを思い知ったというほかない。
酒で眠くなるのも眠剤で眠くなるのも科学で説明ができる。
だが、あの快眠は科学では計り知れぬものがあった。

理解できた、数少ない部分を要約する。
科学と哲学の相違。
科学は知識を求める。よって共同研究が可能。判定の基準は真偽。
いっぽう哲学は知慧を希求。共同研究不可。深浅によってはかられる。
科学の知識というものは、古いものがたえず新しいものに取って代わられる。
哲学の知慧においては新古は問題とされず、いまでもプラトンが論じられる。
科学は常時、正否の問題に直面している。
この真偽に対抗するのは宗教である。
宗教は絶対の真理をもちだしてくる。
ニュートン、ダーウィン等は、哲学的姿勢で、宗教から脱皮したといえる。

この入門書から引用する。

「哲学とは何よりも物を考えるというはたらきでありますが、
物を考えるということはどういうことであるかを、
今日はわれわれの日常世界と結びつけて考えてみたいと思います。
自分の思うことが何でも行われるというような人はあまり物を考えない。
幸福な人もあまり物を考えない。
何かの問題に苦しんでいる人、実際生活の中で、何かの障碍(しょうがい)に
突き当たって自分の思うようにならないというような人が物を考える。
結局物を考えるということの最も原初的な形は、
われわれが生活の中で何かの障碍に出会ったり、
われわれの意志をはばむものに出会った場合、
それに反応する一つの仕方として現われるものと言ってよいでありましょう」(P22)


脈絡もなくドストエフスキーを思いだす。
ギャンブルですっからかんになって、ようやく小説を、
それも大長編小説を書き始める、あのロシアの文豪をである。
ぎりぎりまで追い込まれたいという欲望がわたしにもある。
不幸になりたいというよりも、不幸じゃなきゃ表現なんてできないよなという思いである。
カビのはえたような古い考えかたなのかもしれない。
どこかで傷つけられたいと思っているわたしがいるのだ。
その地点で、じぶんがなにを考えるのかに興味がある。自己愛ここに極まれりである。
「手にとるように哲学がわかる本」(佐藤正英・甲田烈・山本伸裕/かんき出版)

→これまた恥ずかしいタイトルの本なのだが、どうしてどうして。
わかりやすいんだな〜。ほんとわかりやすい。
いままで読んだ哲学入門書のなかでいちばんすらすら読むことができた。
だから、この本はよろしいと断定するのは早計なり。

医者の投薬でもあること。
いろいろな薬を患者に処方した。どれもそれほどの効験は見られない。
最後にとだした薬を患者が絶賛する。これが効いたと喜んでいる。
ここで医者も喜んでしまったら、かれはヤブ死者。
いままで服用した薬のどれかが効いていて、この時期に効果が現れたのでは。
こう疑うのが優秀な医師というものでしょう。
患者は単純ゆえ、最初からこの薬をだしてくれたらという。
だが、医療というのはそう簡単なものではない。
とくに漢方薬ではこの考えかたが強いようである。

この話から得られる教訓はなにか。
他人の推薦図書(こと入門書に限って)は、あまり信用しないほうがよろしい。
どれだけ有名な学者が、これはわかりやすい入門書だと絶賛していても、
かれはそのまえに膨大な量の知識を他の書籍から吸収しているということを
ゆめゆめ忘れるなかれ。

基本にたちかえる。哲学とはなにか。
哲学は、衣食住、労働余暇、芸術活動とおなじく、人間の営為のひとつである。
人間は生まれて、死ぬ。
いつどこで生まれるかは人間の自由ではない。能動ではなく受動の存在である。
気がついたら、生まれていた。生まれてきたくて誕生したわけではない。
人間は死ぬ。いつどこでどのようなかたちで死ぬか人間にはわからぬ。
自殺といっても100%死が約束されている方法はない(窪塚洋介を見よ)。
よって人間は死も自由ではない。

「生→人間→死」

人間は生と死にはさまれた存在である。
だが、生も死も人間にはままならぬ。不自由である。
同時に不明でもある。なぜこの両親のもと生まれてきたのか知るものはいない。
死んだらどうなるのか知るものもいない。

「不自由→人間→不自由」「なぞ→人間→なぞ」

この無知を義務づけられた人間が、生から死への過程で、
自己とはなにか、外部(世界)とはなにか、と問うのが哲学である。
だれがどう考えても人間が完全な知に到達するのは不可能である。
哲学は正解のない学問ということができよう。
あらゆる言説が批判され、そこで得られた境地も、また乗り越えられる宿命をもつ。
結果、現代では、自己とはなにか、外部とはなにか、という問いすらも疑いの対象である。
さらに人間という概念までも批判され、「人間の終焉」を主張する現代哲学もある。
哲学者の思想は、もちろんそれぞれ相違があるのだが、
それでもある一貫する姿勢がある。それは知への愛である。
画家が色・形を愛し、音楽家が音を愛し、詩人が言葉を愛すように、

哲学者は知を愛する。

そのため哲学への最大の批判は「関係ないね!」という態度(無関心)なのだが、
このような者は哲学者からこれでもかというほどの蔑視、
あるいは羨望の視線を背中に受けることであろう。わたしがいま感じているものである。

(メモ)仏教の日本伝来。聖徳太子は仏教政治を志す。
これが十七条の憲法。「和を以って貴しと為す」のあれ。
すごいよな。インドで生まれた仏教が、日本へ来ると政治思想になってしまう。
それも「和」。みんなで仲良くしましょう。そんなこと、ブッダはいったかいな。
おそらく「和」を強調したいのだが、根拠がないので仏教を後ろ盾にしたのでしょう。
聖徳太子さん、やるう! このこのう!