生きるということについてしきりに考えるのは、
先日、生きている人間と酒をのみ話したからである。
ブログがきっかけで知り合ったかたです。異性。年下。
感想は、生きているな。まぶしいものを直視したような感動があった。
生きるとは、運動だ。
たいがいの人間にとって、生きるとは直線運動を意味する。
始点があり終点がある1本の直線。これが人間における生の基本運動である。
人間は日常を漠然とではあるが、始点と終点を意識しながら生きている。
何歳であるかという自己イメージが人生を決定する大きな要因になる。
成人式。始点から20年経過したということである。
35歳が、人間のターニングポイントになるという説がある。
人生70年だとすると、35歳は折り返し地点。
人間が終点たる死を意識するのはこの時期なのだという。
終点から現在の生=直線運動を見据える。
このままでいいのかという思いも芽生えよう。
終点を強く意識することではじめて、転職、脱サラ、結婚、離婚といった冒険が可能となる。
おのが生をかえりみると、それは直線運動ではない。
円運動。どうにもこうにも円しか描くことができぬ。
おなじところをずっとぐるぐるまわっている。一歩もまえに踏み出せない。
どうしようもない円運動。
数日前、直線と交差することで、じぶんの生きかたに改めて気がついた。
何度も書くが、6年前の母の自殺。あれですべてが変わってしまった。
それまではわたしも直線を生きていたと思う。だが――。
あのときから時間はストップしたままである。
明かりの差し込まぬ場所でぐるぐると円を描いている。
この6年間、いろいろな直線(他者)と出会ってきたように思う。
どうにもならなかった。円運動から離れることはかなわなかった。
死者ならぬ生者は、運動をやめるわけにはいかない。
運動の停止は死を意味する。かくしてどの直線もこの円から遠ざかっていった。
責める気持は一向にない。運動がちがうのである。みな生きなければならぬ。
いつも円運動をしながら、去っていく直線を茫洋(ぼうよう)とした思いで眺めたものである。
さようなら、さようなら。うしろすがたのしぐれてゆくか(山頭火)。
もしかしたらといま思う。直線運動をしている人間には、
わたしのほうが彼(女)らのもとより去っていくように見えるのかもしれない。
今日、感じたことがある。円運動が、終わりに近づいているのではないか。
描く円が小さくなっているような自意識がある。つまり、点に近づいている。
直線の行き着くところも、円の終点も、おなじ点である。
点=死。どの運動も結局は点に帰着する。
人間、真に平等に与えられているのは、この点(死)だけである。
不満を訴えているのではない。
これほどの僥倖(ぎょうこう)があるかと手を合わせたいのである。
直線も円も平面の事件(運動)にすぎぬ。
終点から、この平面に垂直な直線が、天に向かって飛翔する。
その先になにがあるのか、だれも知るものはいない。