「社会人心得入門」(山口瞳/講談社+α文庫)絶版
→山口瞳ほど哲学と縁のない作家はいまい。
論証するのは面倒だから、いっそ氏のエッセイを全文引用しようか。
著作権法違反かもしれぬ。いざ訴えられたら、すぐに削除する。
土下座したっていい。哲学者ならぬ庶民の生きかたである。
お酒がのめるのなら、まあ、いいじゃないか。山口瞳の推奨する生きかたでもある。
「新入社員諸君!(1981年4月1日)
僕には、もう、クリスタル族なんという青年の心持がわからなくなっている。
何も言うことはない。
そこで、若いときの山本周五郎先生を絶望から救ってくれた
ストリンドベリイの言葉を揚げることにする。
『苦しみつつ、なお働け、
安住を求めるな、この世は巡礼である』
働くのは会社のためでも家族のためでもない。
自分のためである。
失意のときは、この言葉を思いだしてくれ給え。
気楽な稼業だと思っていたら大間違いだ。
常に安住するな。
しかし、この言葉の本当の意味がわかるのは、四十歳、五十歳になってからだろう。
新入社員諸君!
この人生、大変なんだ。そうして、本当の酒がわかるのは、
苦しみつつ、なお働いた人たちだけなんだ」(P54)
くすくす。
山口瞳がストリンドベリの本を1冊も読んでいなかったことは間違いない。
山本周五郎がストリンドベリを誤読していたこともわかっておもしろい。
ちなみにこれは山本周五郎「青べか物語」から。
ストリンドベリはくだらぬ常識からかけはなれた狂人。
人情とは相容れぬ狂気が魅力である。
この山本周五郎ラインでストリンドベリを誤解している人間が大勢いるのだろう。
学者ではないので、それをどうこうしようとは思わぬ。
ストリンドベリ先生。わたしがもっとも敬愛する作家のひとりである。
「さわりで癒される 天才モーツァルトの名曲25選 CD付」(中経出版)
→3歳からバイオリンを習い始めた。
3歳。じぶんの意思だったのか。親に強制されたのか。いまではわからない。
10年以上、バイオリンを習っていた。鈴木メソッドである。
いつやめたのかも憶えていない。中学のいつだったか。
クラシックが嫌いでどうしようもなかった。
光GENJIの「ガラスの十代」のほうがよほど名曲に思えた。
ある面では才能があったのか。
どんな歌謡曲でも一度聞いたら、バイオリンでひくことができた。
これがどのくらいめずらしい能力かは知らない。
いまでもおなじである。
クラシックがわからない。
30分くらいある曲があるでしょう。
あれが理解できない。
聞いていて楽しいのは山場だけではありませんか。
たとえば、ジャジャジャジャーン♪
モルダウなら、最初のあの部分。
なんであんな退屈な箇所がえんえんとつづくのかいまでもわからない。
眠くなる。そして、山場に。興奮する。また沈滞する。眠くなる。
クラシック音楽への不満である。
あれは「静」と「動」のバランスとでもいうのか。
「動」の興奮のために「静」を必要とするのか。
クラシック好きのひとと話したことがないのでわからない。
ここでようやく本題へ。
この本はすばらしい。楽しくてたまらなかった。
CDで音楽を聴く。その曲のうんちくを読む。この繰り返し。
文化人になったような満足があった。
モーツァルトがいいというより、モーツァルトを聴いているわたしが好ましい(苦笑)。
だけど、芸術って、そんなものでしょう。
選曲もいい。「さわり」だけというのが、すばらしい。
クラシックは「さわり」がすべてではありませんか。
モーツァルトがわかったようなことを最後に書いてみよう。
モーツァルトには昂揚がある。
いいかえる。ひとを狂わせるちからがある。
モーツァルトのある部分を聴くと、なんでもじぶんができそうな気がするのである。
人間を超えられるという思いに打たれる。
人間は、いつの時代もつまらない。ありきたりで、下品で、打算的だ。
だが、モーツァルトを聴くと、叫びたくなる。バカをいうな!
人間はそんなものじゃない。もっと、もっと、人間は濃密に生きることができる。
人間はなんだってできる。
娼婦が王子に愛されてもいい。乞食が王女のハートを射とめてもいい。
この世の中には、なんだって起きていいんだ。やってやる、やってやるぞ。
モーツァルトを聴くと、そんなおかしな元気が出るのである。
「哲学入門」(渡邊二郎/放送大学教材)絶版
→東大名誉教授の渡邊二郎は、中島義道にいわせたら哲学者ではないのであろう。
哲学・学者である。この書籍から著書の血のにおいを嗅ぎ取ることはできぬ。
きれいさっぱりコンパクトにまとめられた哲学の教科書。
哲学の大まかな流れが、シンプルに紹介されている。
血や涙、汗といったものとは無縁の、東大名誉教授の善意はそれなりに好ましい。
感想はそれくらいである。本記事ではレジュメふうに整理する。
読み手にとって楽しいものになるかはわかりません。
哲学の本来的な意味は「愛知」。哲学=知を愛すること。
すなわち、哲学とは「無知→知」の運動といえる。
この運動は「驚き」と「批判」に支えられている。
驚きとは、なにかを発見する感動のこと。
批判は、ロゴス(秩序・論理・言葉)を発展させる。
たとえばアリストテレスは師のプラトンを批判することでおのが哲学を構築した。
繰り返すと、哲学=「無知→知」。
そのとき哲学の祖・ソクラテスの「無知の知」は意味深いものがある。
「無知の知」とは、おのが無知を知っているものがほんとうの知者という意味。
無知から知にいたるのが哲学だが、なら知にはどのような段階があるのか。
A.常識的知識(時代と場所に支配される。風習、偏見ともいえる)
B.学問的知識(客観による細分化を指向。意味や価値とは無縁)
C.哲学的な知(部分ではなく全体を志向。世界観・人生観)
哲学が求める知識は C の根本知である。
だが、世界観や人生観を求めるものなら、哲学のほかに、芸術、宗教、道徳がある。
哲学との対応は以下のようになる。
哲学=真(根本知)
芸術=美
宗教=聖
道徳=善
哲学は根本知ゆえ、美・聖・善も包摂する立場にある。
さて、この哲学はいかようにしてなされるか。
どのようにして人間は根本知たる世界観・人生観を会得するか。
方法はふたつある。
1.自分の経験をもとにして哲学する。
2.先哲の遺産を参考にして哲学する。
偏りのない1、2の連続によって哲学はなされなければならない。
これを哲学的な用語にいいかえると、次のようになる。
1.現象学的考察。
「見る」ということである。自己を世界を「見る」。
「見る」は直観と論証をともなう。直観したものを論証する=「見る」。
2.解釈学的考察。
人間は、だれもがある枠組みのある世界へ投げ込まれている。
この枠組みを脱出し、客観視するために先哲の文献が有効である。
だが、過去の哲学者さえも、世界(枠組み)の内部から発言していることを忘れない。
いったん、まとめてみる。哲学とはいかなる営為か。著者の言葉を借りる。
「哲学は、人生観・世界観の根本知を追究する。
それは、自己と世界、主体性と客体性のすべての問題場面を総覧しつつ、
良く生きようとする意志に支えられて、生の根拠を自覚しようとする。
しかもその際、おのれ自身の生の経験をありありと現象学的に直視し(1)、
自分の存在了解の含蓄を展開し吟味する(1)と同時に、
大きな先行する諸哲学思想に謙虚に学び(2)、
その伝承の広く深い内実を解釈学的に我が物とし(2)、
生かし返しながら、哲学的思索は、実践される(1+2)」(P82)
ここで東洋哲学(仏教・儒家・道家)との簡単な比較をする。
西洋哲学=理論的・秩序的・理性的=「客観的知性派」
東洋哲学=実践的・倫理的・道徳的=「主観的心情派」
西洋哲学に話を戻す。
西洋哲学史を図式的に概観すると以下のようになる。
古代=世界中心=ヘレニズム
中世=神中心=ヘブライズム
近代=人間中心=ヒューマニズム
古代「世界」に包まれていた「人間」は、
中世「神」(教会)の支配のもと窒息するが、
アラビア世界によりもたらされた古代文化を吸収することで、
「人間」を中心に「世界」を見るようになる。
これがルネサンス。近代の萌芽である。
「人間」がかつて中心にいた「神」を飛び越えて、
みずからが中心になって「世界」を見たとき、
「世界」は「自然+歴史」に分化した。
「自然」「歴史」どちらも「人間」によって支配されうるものである。
中世の価値を再確認したい。
中世は決して「暗黒の中世」ではない。
ローマ世界に侵入したゲルマン人が、
千年にわたってキリスト教思想・古代(ギリシア・ローマ)文化を学んだ結果、
ルネサンスとして結実するにいたったのである。
中世のスコア哲学は難解であるが、簡潔にまとめると以下のような構図になる。
スコア哲学=「宗教・信仰・神学 vs 学問・理性・哲学」
後者の勝利の結果もたらされたのが近代自然科学である。
近代科学は、それまでの世界の見かたを一変させた。
「目的論的自然観」(古代・中世)→「機械論的自然観」(近代)
近代科学の思考法とは「観察」と「整合」である。
科学=観察した記録を整合する。
この近代科学の思考法は、哲学的には「経験論」「合理論」といわれる。
イギリス経験論=観察を重視=帰納法
ヨーロッパ大陸合理論=整理・整合を重視=演繹法
この近代的なふたつの思考法を統合させたのがカント、完成させたのがヘーゲルである。
さて、西洋近代化とはいかなるものか。
a.人間中心
b.民主化
c.産業化
d.都市化
e.科学万能主義
上記の近代化は多様な問題を生じせしめた。
ここから、さまざまな現代哲学が生まれることになる。
(注)本書は別の書籍で推薦図書になっていたもの。
絶版だったので、見つけたときは歓喜した。良書である。
先ほど、悔しい発見をした。
おそらくこのテキストを元にしたと思われる文庫本が出ている。目次を見たらおんなじ。
はあ〜(ため息)。わたしだけが知っている名著にしたかった。
「はじめて学ぶ哲学」(渡辺二郎/ちくま学芸文庫)2005/04
「哲学の教科書」(中島義道/講談社学術文庫)
→幼いころ、こんなことを思っていた一時期がある。
じぶんの周りにいる人間はみんなロボットではなかろうか。
だれかがわたしを試すために、この環境に投げ入れた。
家族はロボットで、わたしが学校へ行っているときには動いていない。
あるいは別の作業をしている。
教師も同様で、学校にいるときだけ作動する機械である。
すなわち、わたしだけが生きているのではないかという疑問。
試験管に入れられた微生物のようなもので、だれかにたえず反応を調べられている。
世界も存在しない。
アメリカを見たことがないのに、どうしてかの国が存在しているといえるのか。
世界は空白である。わたしが登場する場合においてのみ、舞台セットが作られる。
ある一瞬の隙をついて、かの観察者の目を盗んで、あるドアを開けたら、
そこは洗面所ではなく、なにもない空白が広がっているだけなのだ。
決められた行動を裏切り、それもまた裏切り、そのまた裏をかいて、
背後をふりかえるなら、そこには下校したばかりの学校は存在していない。
だれにもいわなかったが、小学校高学年のわたしは、そんなことを考えていた。
いま思えばとても恥ずかしいが、あんがい、
みなさまもおなじようなことを考えたことがあるのかもしれない。
中島義道にいわせると、このような体験こそ哲学への第一歩ということになる。
哲学とは、哲学者の思想をたどることではない。
犯罪や狂気に隣接した病気(懐疑)こそ、哲学の真の営みなのだと主張する。
中島の考えでは、哲学と思想は異なる。
思想は、哲学者が哲学をした結果の産物である。
その思想をなぞることは、哲学ではない。
哲学するとは、ひとりの人間が血まみれの苦悩(病気)から、
もだえつつも命がけで、ときには半狂乱になって、
それでも、たしかなものを希求しておぼろなものへ手を伸ばす営為のこと。
思想とは、その血にぬれた哲学を、安全地帯から後追いすることで、哲学とは無縁のもの。
繰り返すが、哲学をするとは――。
「『このコップを私が見ているとはいかなることか』
という疑問にえんえんとこだわり続けること」(P69)
よって、大学で教える哲学者は、ほんとうの哲学者ではないと中島は弾劾する。
もちろん、かれらも、哲学へわけいるきっかけは病(やまい)というほかない、
すべてのものへの懐疑から生じる不安だったのであろう。
ところが、難解な西洋哲学を原書で読み、論文を書き、認められていくうちに、
しだいに根源の懐疑は薄れてしまう。いつしか哲学のガイドになっている。
西洋哲学の道のりをコンパクトに整理することで、哲学者になった気分になっている。
大学教授の実態である。
みずからも大学で教授をしている中島は、自嘲も込めつつ、こう指摘する。
以下、ひかれた部分を簡単にまとめてみる。
ブッダの教えと哲学。
仏教には、毒矢のたとえというものがある。
あるひとが毒矢に射られて瀕死の状態で運ばれてくる。
このけが人が問う。その毒矢を放ったのは、どんな身分のものか。
古来、確固たる階級制度のあるインドの話である。
ブッダはいう。そんなことはどうでもいいではないか。
なにより毒矢を抜かねばならぬ。死んだらおしまいだ。
哲学とは、この瀕死の患者の問いのようなものではないか。
毒矢の種類を知りたがるのが哲学者。
ブッダはそれを知らなくてもいいと答えた(P112)。
過去・現在・未来について。
よくよく考えてみれば、現在しかないのである。
過去も未来も、生きることはできない。
それなのに人間はなぜ過去という観念をもちうるのか。
さらに無数の過去が現在になったからといって、
それは現在が未来になることを証明しない。
未来は、明日は、来ないかもしれないのだ(中島さんガキだよな〜P146)。
飲酒運転と因果関係について。
飲酒運転で事故を起こすと、飲酒が事故の原因だとされる。
飲酒が原因で、事故という結果が起こったものとされ処罰の対象になる。
だが、いくら飲酒運転をしても事故を起こさないひともたくさんいるはずである。
このとき、どうして飲酒が事故の原因と断定できるのか。
一方で、酒をのまなくても事故を起こす人間もいる。
原因と結果というのは、絶対的なものではなく、人為的に制定されるものではないか。
(飲酒運転で事故を起こすのは、ついてなかっただけじゃん!
著者はそれを言う直前まで来ているが、この著作は比較的初期のもの。
まだそこまで口にする勇気を持っていないのが、少しおかしい。P178)
ニーチェが「神は死んだ」と大騒ぎしたのは、それを信じていたがゆえ。
キリスト教とは無縁の日本人が、ニーチェのまねをしてニヒリズムを気取るのはおかしい。
同様、デリダやウィトゲンシュタイン。
あれは西洋のロゴス(言語)信仰があってこそ、革命的なのだ。
論理をそもそも重んじない日本人が現代思想をふりまわすのは笑止(P312)。
「自分を知るための哲学入門」(竹田青嗣/ちくまライブラリー)
→竹田青嗣は読者に親切な作家だと評価が高い。
アマゾンでも「わかりやすい」の大合唱がくりひろげられている。
わたしはうなだれる。
同著者の「ニーチェ入門」を読んだときも思ったことだけれども、
竹田青嗣レベルでさえわたしはわからない。わからないのだ。
きっと顔をあげる。わからないのはわるいのか。
これを年の功というのだろうか。最近、思うようになったことがある。
わからない本は著者に問題があるのでしょう。
高校生ならわからないのは、じぶんがわるいのだと思うのかもしれない。
国語教育というものがある。
あれは問題文が絶対的に正しく、その文章を理解できないのは読み手の罪悪とされる。
この国語教育の弊害で、ちょっとでもわかると、わかった、わかりやすいと大騒ぎする。
ちょっと待てよ、といいたい。わかるって、そんな簡単なことか。
わからないのは、そんなに恥ずかしいことかな。
人間はそう簡単にはわからないというのは同意してもらえると思う。
なら、本だったら、容易に理解できるのかい。人間が書いた本だったら。
竹田青嗣の、この哲学入門書がわからない。
著者がよく例にあげる場面がある。
リンゴがある。それを見ている「私」がいる。
ここに哲学の原初的風景を著者は見いだしているようである。
存在するとはどういうことか。見るとはなにを意味するのか。
リンゴを見ている「私」とはいかなる存在か。リンゴとおなじ物体か。それとも精神か。
リンゴをまえにして疑問を感じるのが哲学者とでもいいたいようである。
この態度がわからない。リンゴがあったら皮をむいて食べるのがわたしである。
一点、わかったような気分になったところを紹介する。
哲学とは、考えることだ。
だが、考えるといっても、我われは常にいま生きている時代・場所の制限を受ける。
じぶんで考えていると思っていても、
たかだか社会習慣の反映、または社会規範への反発かもしれぬ。
ほんとうに考える=哲学をするというのは、
社会(時代・場所)から一歩でも二歩でも離れなければならない。
これを果敢にも実行したのが、名だたる哲学者たちなのである。
すなわち、個々の哲学者の思想は、考えるためのモデルにすぎない。
なんのモデルか。我われがじぶんで考えるためのモデルである。
しこうして、「哲学史<有名哲学者<個々の哲学」となる。
哲学史を学ぶのも、哲学者の思想を引用するのも、哲学ではない。
それらはあくまでも我われが哲学をするときの手助けになるにすぎぬ。
さあ、哲学をしよう、と著者はまとめる。なんのためにか。
哲学は「自分が何であるかを了解する技術」であり、
「困ったとき、苦しいときに役に立つ」からである(まえがき)。
いま苦しくて困っているが、この本が役に立ったとは思えないことを最後に記す。
突き放したような感想で申し訳なく思う。
「絵でわかる西洋哲学」(VALIS DEUX/日本実業出版社)
→哲学は絵でわかると思いますか?
どう考えても、わかるはずないですよね。
実際、この本を読んでみて(90分!)まったく理解できなかったわけですが。
ここで、大きな問題が。いくら105円とはいえ、この本を買ったわたしです。
将来、手ひどい詐欺にあいそうな予感がわがことながらあります。
注意もしています。
道ばたで声をかけてくるひとは、みな詐欺師だ。
うまい話があっても、決して信用しない。
ありきたりな人間不信かもしれませんが。
人間には厳しいわたしも、どうしてか書籍には甘くなってしまう。
甘い話にうっかり乗せられる。「絵でわかる西洋哲学」。
「金持ちになる10の方法」を買うのと近似したあさましさがあります。
こんな本でも、ある観点から見ると、西洋哲学がわかる。
共著です。そのひとりの経歴が、なんとも哲学的で。
大嶋浩。高卒。単身フランスへ。苦労をして、帰国後に編プロを設立。
くさいやつですよね。若者を見かけたら説教しなければ気がすまないやつ。
おれの若いころはな、が口癖。大学教育は受けていないが(だからこそ)趣味は哲学。
まあ、コンプレックスがあからさまな人間です。
反面、じぶんが特別だと異常なほど過信している。
いかにも哲学的な存在というほかありません。
はっきり言います。哲学のこういうところが嫌いです。
劣等感と自尊心、自意識過剰、選民意識がうずまく哲学の世界は端的に恥ずかしい。