「ワールドガイド インド」(るるぶ)

→ガイドブックを読む愉しみを発見したのはいつだったか。
どのページを見ても、思い出がよみがえる。
ほとんどインド全土を放浪したからである。
精神が悲鳴をあげたインド人のどぎつさも、
肉体が限界をうったえた連日のカレースパイスも、
いまではひたすら懐かしい。行ってよかったと思う。
生きているうちにやりたいことはやるべきである。
いつ死ぬかはだれにもわからないのだから。

インドは死に包まれた国である。
インド人はみなみな死を意識して生きている。
死から生を見ている。死を見据えながら生きている。つまり、宗教がある。
インドは宗教大国である。
わたしが行った順番に記述してみる。

ムンバイ=ゾロアスター教。
エローラ=ジャイナ教。
ゴア=キリスト教。
カンニャクマリ=ヒンドゥー教。
コーチン=ユダヤ教。
カルカッタ=シーク教。
ブッダガヤー=仏教。
デリー=イスラム教。
ダラムシャーラー=チベット密教。

多様な宗教のどこを見たら、相違がわかるのか。
死を見ればよろしい。その宗教が死をどのように定義しているか。
死は科学がわけいっていくことができない最後の聖域である。
死がある限り、宗教は必要とされる。

死に関係したインドでの思い出をひとつ書く。
インド人は聖者でもなんでもない。
長距離バスで移動しているときのこと。
満員のバス車内が、突然盛り上がることがあった。
乗客全員が一体になったようなどよめきである。
肩をたたかれて、喜色満面のインド人にあれを見ろといわれる。
首をのばすと、ひとが血を流して死んでいる。
交通事故と思われる。死を見て大はしゃぎするインド人――。
インドの交通事故は殺され損である。
めったなことでもないと警察すら来ない。
加害車両は逃走するのが当たり前。捕まることもない。
インドは人口が多いから、ひとがひとり死んだくらいでは騒がないのかもしれない。
かえって、苦に満ちた現世から去ることができて、おめでとう!
そんな雰囲気さえある。
バスはしばらく停車した。運転手が死体を見飽きたのであろう。またバスが動きだす。
死体をあとにしながら、なんてこの国は疲れるのだろうとわたしはため息をついた。
「オリーブ地帯」(井上靖/文春文庫)絶版

→お酒をのみながら、井上靖の青春小説を読了。
無趣味のわたしにとっては、飲酒時の読書が唯一の安らぎのときである。
しらふの読書ではないから、あたまを使う必要はない。
ぼんやりしながら、わかりやすい文章で記された、潔癖な物語を享受する。
井上靖独特のきれいなお話とアルコールに、うっとりとする。

ふしぎでしようがない。
信仰をもたない井上靖がどうしてこんな劇的な物語を書くことができるのか。
信じるものがある作家は、あちらから物語を造形するものだ。
けれども、井上靖に特定の宗教への信仰はなかったようである。
井上靖といえば、中国である。
「敦煌」「天平の甍」「孔子」など大陸を舞台にした代表作がある(未読ですが)。
もしや「論語」が物語の母胎なのだろうか。
いや、いわゆる儒教を宗教といってよいのか。
政治規範や人生訓といったイメージがある。
それとも老荘思想。道教から物語を生みだしたのか。
老子も荘子も読んだことがないので判断がつきかねる。
飛躍して、ギリシアのディオニュソス神(バッカス)という可能性はどうだろう。
お酒の神さまである。
井上靖は酒豪である。ウイスキーが物語を創造したのか。
この世ならぬあの世を信じていないと、ああも美しい物語は書けないと思うのだ。

信じるとは、疑わないこと。
これは近代人にとって狂気を意味する。
疑うことによって、近代の諸現象はスタートしたのだから。
だが、懐疑から物語は生まれない。
汚いものから目を背けることを逃避と愚弄する人間は、
決して井上靖の魅力がわからないであろう。
それでは人間がわかりませんよといっているのである。
「石濤」(井上靖/新潮文庫)絶版

→井上靖最晩年の短編小説集。
収録作品は「石濤」「川の畔り」「炎」「ゴー・オン・ボーイ」「生きる」。
「生きる」はボケがテーマの井上靖80歳時の作品。
自覚はあったことがわかる。

「とうとう呆(ぼ)けてしまったかと思う。
呆けてしまったなら、まあ、それはそれで押し通すしかないが、
その日一日、時折、人の名と、その名を持つ実体とを重ね併せる、
奇妙な作業を、何回か、自分に課す」(P154)


「川の畔り」「炎」「ゴー・オン・ボーイ」はボケ小説。
まったく意味が取れない。支離滅裂な心象風景が綴られている。
編集者はさぞ苦労したものと思われる。
まさか文壇の大御所である井上靖の原稿にケチをつけるわけにもいかないだろうから。
編集長も、天下の井上靖の原稿をボツにするわけにはいかない。
これは文学だ。井上靖が書いたのだから文学でなければならない。
こうして文庫化までされたということは、
あんがい簡単に文学的催眠術が成功したのであろう。
「図解雑学 哲学」(貫成人/ナツメ社) *再読

→はじめてこの本を読んだときは哲学がわかったような気になったものだが、
こうして再読してみると、哲学というのはわからないものだと嘆息するほかない。
哲学が取り扱うものを列記する。
真理、神、正義、幸福、自由、自分、認識、社会、言語――。
どうでもいいことにしか思えないんだな〜。

真理なんて、知りたくもない。ずっとだまされていたい。
神さまはお願いしても聞いてくれないから嫌い。
正義とか聞くと、むしずが走る。
幸福は一杯の酒をのむとき。
自由な人間なんて、どこにいるんだい?
自分は、意志とは無関係に産み落とされ、いつ死ぬかも知らされぬ存在。
認識を改めたところで、人生、所詮は運がすべて。
社会なんてどうでもいいから、個人として裕福になりたい。
言語は日本語しかできません。

大切なことはひとつしかないと思っている。
死である。
死ねば終わりである。
そして、みなさまもわたしもいつ死ぬかはわからない。
極端なことをいえば、あす死んでしまう可能性だってある。
哲学は死を見ないようにしているのではないか。
死は宗教の領域に属する問題である。
死をまえにしたとき、哲学の諸問題がどれだけくだらなく見えることか。
哲学者は開き直ることだろう。
哲学は、死ぬまでの暇つぶしだ、なんだと。
即答する。こちらにはそんな時間はない。

これからしばらく哲学をつまみ食いする予定。
役に立たないといわれる哲学を、どうにか役立てる方途はないものか。
このブログの記事に哲学者の名前を引用するようになったら、
少しは見栄えがよくなるだろうかと夢想する。
Yonda? 先生などと、先生づけで呼ばれる日が来るかもしれない。
逆効果か。バカが露見して嘲笑の対象になる恐れもあるぞ。
あれは20年以上もまえのテレビドラマ。
山田太一ドラマ「想い出づくり」。レンタルビデオで視聴。
女の子を口説くときにキルケゴールを引用する美青年が登場した。
大笑いしたものである。
裏を返すと、哲学が笑いの対象としてでも生きていたということである。
現代のテレビドラマは――。
「キリスト教は邪教です!」(ニーチェ/適菜収訳/講談社+α新書)

→現代語訳アンチクリスト。
これは笑えるな〜。大笑いした箇所の引用から入る。

「『新約聖書』の世界はほとんど病気。
社会のクズや神経病患者、知恵遅れが、こっそり皆で集まったような、
まるでロシアの小説のような世界なのです」(P78)

「『新約聖書』を読むとき、私はいつも手袋をはめています。
汚らしくて触りたくありませんからね」(P113)

「言ってみればキリスト教は、『人間のダメな部分』の集合体なのですね。
キリスト教によって、社会のクズやガラクタが権力にありつこうとするわけです」(P127)


訳が正確ではないという指摘があるようだが、
ことさら正否にこだわる世界で生きているわけではない、
学者ならぬいち読者としては、おもしろければ全然OK!
大笑いしながら、読み終えた。
訳に比例したいいかげんな要約をすると、

キリスト教の正体はウソ!

真理を重視する気高いギリシア思想の影響下に建設されたのがローマ帝国。
健康な宗教のもと、健全な国家が運営されていた。
ここに東方から侵入したのが、ウソの塊のようなキリスト教。
これが世界史の最初の間違いであったとニーチェは指摘する。
世界史がまっとうな道へ戻るチャンスが一度あった。
ギリシア・ローマ思想の復興をめざしたルネサンスである。
ここで人間はキリスト教を根絶やしにすべきであった。
だが、あるドイツ人がこの妨害をしたと、同国人であるニーチェは嘆く。
ルターである。ルターはキリスト教に延命処置を施してしまった大バカ者。
かようにニーチェは世界史を気高き真理(科学を内包)とウソ(キリスト教)の対立と見る。
徹底的にキリスト教を愚弄する。

おかしなものである。ひねくれてるんだろうな。
新約聖書を読んでいたときは、ニーチェとおなじような思いを抱いた。
ところが、このようなアンチ新約聖書を読むと、かえってキリスト教にひかれる。
クリスチャンでもないのに、キリスト教のすばらしさを主張したくなる。
たしかにキリスト教は狂っている。
しかしニーチェよ、狂人の美しさをきみは知らないのか。
ああ、キリスト教はウソで塗り固められているのだろう。
しかしニーチェよ、ウソと知りつつだまされる幸せがあるのだよ。
幼稚な理想主義者。それがきみの正体だ、ニーチェくん!

むかしからニーチェが肌に合わない。
この哲学者も、愛読者も苦手である。
間違っていたら指摘してほしいのだが、ニーチェというのは枠組みを作るでしょう。
少数のエリートと、その他大勢の下層民。
いうまでもなくニーチェ自身と、その読者はエリートに分類される。
で、ルサンチマン(ねたみひがみうらみ=内的復讐感情)満ちあふれる大衆を見下す。
どうしてかわたしはじぶんをエリートだと思うことができない。
ニーチェが蔑視するいやしい人種におのが位置を見いだしてしまう。
だって、うん、どう考えても、ルサンチマンの塊だからなわたし。
嫉妬怨念呪詛で生きている弱者であることを否定できない。
ニーチェのようなやつを見かけたら、ひきずりおろしたくなる(苦笑)。

ニーチェはこの小著を書き上げたあと発狂したという。
その意味することは、弱者の勝利である。ルサンチマン万歳!
ニーチェはアホだったわけだ。
キリスト教から逃げるには無視するほかなかったのである。
正面から闘いを挑む。つまり、憎む。それは愛とあまりに近似している。
憎悪は、愛情の親戚なのである。無関心こそ愛に敵対する態度である。
キリスト教に食い殺されたこの西洋哲学者を眺めるのは、
かの宗教とは無縁の日本人にとっては悪くない見世物である。
この新書が売れた一因とも思われる。
「にぎやかな天地(上下)」(宮本輝/中央公論新社)

→わんわん泣きながら読んでおいて、批評も感想もないわけである。
宮本輝。古今東西の作家で、唯一の作家である。
どのような距離をとって向きあえばいいのかさっぱりわからない。
この作家について書くとなると、支離滅裂を避けられない。
いちばん身近な場所にいると思うときがあれば、
決して手の届かない天空に鎮座しているようにも思える。
人気作家である。いまは教科書にも登場するらしい。ファンも幅広い層にわたる。
だが、と思うのだ。あなたたちのどれだけが宮本輝の怖さを知っているか。
この作家は愛や優しさを描くだけの作家ではないんだぞ。
日本でただひとり地獄を克明に描写することができる文学者なんだぞ。
そう叫びたくなる。

宮本輝の小説はあたまではなく、こころに食い込んでくる。
私事を書く。
こういうかたちでしか、わたしはこの作家と対峙することができないのだ。
6年前の梅雨、母親が自殺をした。
目の前で飛び降り自殺。下にいた。母が上から落ちてきて、血まみれになり死んだ。
母はわたしが下にいることを知ったうえで、自殺を敢行したのである。
最後に口にしたことばはわたしの名前であった。
名前を呼ばれ、上を向いた。母はつかまっていたベランダから手を離した。
日記が遺されていた。そこにはわたしの悪口がこれでもかと書かれていた。
何年にもわたる怨恨がである。母は精神病だった。大好きな母だった。

宮本輝の小説「にぎやかな天地」を読みながら慟哭(どうこく)する。
ああ、と思う。ため息まじりに確信する。
きっとわたしも、いつかはわからぬが、自殺するのだろう。
それも確実に飛び降り自殺である。
だれのまえで飛び降りるかはわからない。
だが、かならずわたしは飛び降り自殺で生を終えるであろう。
そうしてはじめてある宿命が完結するのだ。
ひとめぐりして円が閉じるためには、わたしが飛び降り自殺で絶命するほかない。
これは遠いむかしから決められていたもので、人智の及ばぬ不変の法則なのだ。
母があのようにわたしのまえで飛び降りることが決まっていたように、
わたしが飛び降り自殺で死ぬことも遥かむかしから何ものかによって定められている。
宿命である。デビュー時から宮本輝が一貫して描きつづけてきたものである。

宿命は、悲劇のかたちをとってあらわれる。
宿命ということばからイメージするのは、死や不幸の連鎖であろう。
ところが、宮本輝の小説はすべてハッピーエンドである。
かれの小説のなかで何が起こっているというのか。

宿命転換である。

宿命を描く作家ならほかにもいるだろう。
水上勉や井上靖といった名が思い浮かぶ。
だが、宿命転換を小説で展開できるのは宮本輝だけなのだ。

宿命転換。聞きなれぬ用語だと思う。
これは宮本輝が所属する、日本最大の宗教団体・創価学会の思想である。
創価学会は日蓮を大聖人とあがめる宗教団体。
どういう団体か簡単に説明する。宮本文学とも深く関係すると思うからだ。
病人や貧乏人に創価学会員は接近する。
子どもが障害をもって生まれた若夫婦なども絶好のカモ。
不幸な人間の悩みを学会員は真心を込めて聞いてやる。
どうして不幸なんでしょうという問いには、確信をもってこう答える。

それは宿命です。

宿命なので過去の不幸はあきらめるしかない(ステップ1)。
けれども宿命を転換することのできる教えがある(ステップ2)。
創価学会へ入信して、勤行すれば幸福を勝ち取ることができる。
浄土真宗などのいうあの世の幸福ではない。現世利益が得られる(ステップ3)。
完全な教説だと思う。妙なる教えである。南無妙法蓮華経である。

宮本輝は、宿命と、宿命転換を描く作家である。
宿命にもてあそばれ死ぬもの。宿命転換を遂げ蓮華の大輪を咲かせるもの。
幸不幸、運不運のはざまで、花開き枯死する人間の綾なす物語。
生死を見極める宮本文学の魅力である。信仰が生みだす文学である。

「そのときは理不尽な不幸や死やと思うしかなかったものが、
十年二十年たって、残されたものたちに大きな意味を運んでくる……。
いや、大きな意味があったのやと、わかる瞬間をもたらすのやとしたら、
死というものは、生きている者が息をせんようになって、消えていってしまう、
という程度の小さな浅いもんではないんやなァ」(下巻 P259)


この部分は「にぎやかな天地」全体を要約している。
ぶすいを承知で、あとがきからも引用する。

「大きな災厄が起こったとする。
そのときの悲嘆、絶望、慟哭というものは、未来を断ち切ってしまうかに思われる。
だが、その大きな悲しみが、五年後、十年後、二十年後に、
思いもよらない幸福や人間的成長や福徳へと転換されていったとき、
私たちは過去の不幸の意味について改ためて深く思いを傾けるであろう」


母を思う。
宮本輝の小説を支えに生き抜いた数年間というものがわたしにはあった。
あれから6年である。
宮本文学では、ふしぎと都合よく主人公に幸運が舞い込む。
ところが、わたしにはこの6年というもの、ろくなことが起こらない。
南無妙法蓮華経というつもりはない。つまり、創価学会に入信する意思はない。
とすると、母とおなじ道を歩むほかないのか。
このまま不運のうちに死んでいくのか。それとも待っていたら幸運もあるのか。
南無妙法蓮華経を唱えぬわたしである。

「運て、確かに存在するもんなァ。
運ていう言葉でしか説明でけへんことが、ぼくらの人生には多すぎる。
そやけど、なんで運のええ人と悪い人がいてるねん?
運て、どこからどうやってその人にまとわりついてくるねん?
どうやったら、運のええ人間になれるねん?


いったい運て何やねん? 」(上巻 P345)