平成の現代、いくらなんでも文学にはまるのは恥ずかしいので、文学入門にはまってみた。
ここ数日で読んだ「文学入門」を列記してみる。
出版年度は原本(オリジナル)のものを記した。

「文学入門」(谷川徹三/講談社学術文庫)昭和39年
「文学入門」(桑原武夫/岩波新書)昭和25年
「文学入門」(吉田精一/旺文社文庫)昭和41年
「古典文学入門」(吉田精一/新潮選書)昭和43年
「西洋文学入門」(本田顕彰/現代教養文庫)昭和35年
「小説入門」(中村真一郎/光文社文庫)昭和37年


条件は、日本人が書いた「文学入門」。安価な文庫新書選書限定。
検索してみると、そんなにはない。
まえに読んだものを入れると(下記)ほぼ網羅したことになる。

「文学入門」(伊藤整/講談社文芸文庫)昭和29年
「文学とは何か」(加藤周一/角川選書)昭和25年
「日本古典入門」(池田亀鑑/講談社学術文庫)昭和27年


たくさんの文学入門を読んでみてわかったことがある。
この国にもたしかに文学が流行した時代があった。
入門書がこんなに書かれるというのはそういうことでしょう。
出版社がばんばん文学全集を売り出す(いまでは古本屋ワゴンの常連)。
読者はどれを読めばいいのかわからない(すなわち、読む気はある)。
かくして文学入門書が必要とされるわけである。
時代にすると敗戦後、どうにか衣食住が安定してきた昭和25年ごろから20年くらいか。
文学の終わりがささやかれたのが、村上龍「限りなく透明に近いブルー」。
この作品の芥川賞受賞は昭和51年。
うん、20年くらい文学バブルがあったという計算になる。

ちなみに上記の「文学入門」は、伊藤整のをのぞいて、すべて絶版品切。
いま大型書店の日本文学コーナーへ行ってみると、あのような文学啓蒙書は皆無。
代わりにあるのが無数の小説指南書なわけである。小説の書き方。
どういうことか。むかしの文学入門書を読むと一貫した前提がある。
それは、文学を読んで人間を高めよう! こんな態度。
いまはそういうのは流行らない。
というか、現代日本文学の書き手はそこらへんのダメなおにいちゃん、おねえちゃん。
かれらの小説を読んだところで、人間性が高まるとはだれも思わない(苦笑)。
なら、どう思うのかというと、このくらいなら自分でも書ける!
文学の変遷を整理するとこうなる。

文学は「読む」ものから「書く」ものへ。

例外は、人生、終わっちゃった中高年のための文学。
いま「百人一首」やら「おくのほそ道」を自分で書こうという本が流行っている。
あれを買うのは老眼鏡をお持ちのかたでしょう。
だから文学を読むのが流行しているというのとはちょっとちがう。

本題に戻す。
文学入門書をいくら読んでも、文学の正体などわかるわけがない。
みなさまはそういうかもしれない。
いな、わかってしまったのである。少なくとも、いまわかったつもりになっている。
1行で書くぞ。古今東西の文学を定義してやる。

文学とは、個我を超えようとする営為である。

文学を読む。
人間というのは限定のある不自由な存在でしょう。
それぞれ与えられた生を生き抜くことしかできない。
両親の生活力が低くて、さらにすぐに離婚してしまった。
そんな片親の子はどうしようもなく犯罪に手を出す。少年院のお世話にもなろう。
一方で、政治家の子どもとして生まれたら将来は約束されている。
情操教育もしっかりされて有名学校へ入る。結婚相手も保証される。
これはもう仕方のないことなのである。
だれがなんといおうと人間は平等ではない。
社会制度をどうかえたところで人間が平等になることはない。
人間はみながみな自分という監獄にいるようなもの。
なにをしようとかならず自分という壁にぶつかる。

ここで文学なのである。ひとは文学を読むとき自分を忘れることができる。
文学を通せば、政治家の息子が不良少年の人生を経験することができる。
同様、少年院あがりの悪ガキが、上流社会というものを文学で知ることも可能。
文学は論文ではない。良質な文学はだれにでもわかる言葉で書かれている。
物語があるから読みやすい。
このように人間は文学作品に触れることで個我を超えうるわけである。
男が女の人生を体感することも、文学でならできる。
文学は個我、すなわち性別、時代、国籍の壁をとっぱらってくれるのである。
日本の古典でいうなら、「更級日記」に有名なシーンがあるでしょう。
著者の菅原考標の娘が、京都へ行けば物語がたくさん読めると胸躍らす。
文学の愉(たの)しみかたはむかしから変わらないことがよくわかる。

文学を書く。これも個我の超越をめざしている。
スタンダールはどうして「赤と黒」を書いたのか。
別の人生を生きたかったからである。
ぶおとこのスタンダールは妄想したわけである。もし自分がハンサムだったら。
この欲望から造形されたのが「赤と黒」のジュリアン・ソレルなのだ。
芭蕉の「おくのほそ道」もそう。
旅から戻った芭蕉は思った。こんなものは旅ではない。
なら、旅とはなにか。旅とはかくあるべきである。
この欲望から虚構として書かれたのが「おくのほそ道」である。
和歌もおなじ。人間なんて、だれもかれもそうおもしろいものではない。
けれども、おもしろい人間でありたいと思った。個我を超えんと欲した。
自分は風雅を解する人間である。
これを他者(異性、同性)に示さんがために貴族は苦心して和歌をつくった。
平成の作家志望者も平安時代の貴人となんら変わることがない。
自分という窮屈な枠から抜け出したい。
かれらとて、このおなじ欲望から小説を書いているのではあるまいか。

現代日本文学の衰退もここから説明がつく。
いまの若者はみな、ほぼおなじ環境で育っている。
原因は、近代教育の普及か、それともマスメディアの発達か。
相違がそれほどない。差別がない。平均化されている。
極端な幸福がないかわりにどん底の不幸もない。
ここから「自分探し」がスタートする。この延長で書かれる小説は似たり寄ったり。
日本文学の現状かと思われる。超越をめざす個我が同一でおもしろくならない。
だがしかしである。もし文学が個我を超越せんとする試みであるならば、
今後も決して文学が途絶えることはない。不自由な人間が生きている限りは。
「高いものはいい物だとは限らんけど、
いい物は高い、って信念を持ってたんです」
(宮本輝「にぎやかな天地」上巻P17)


これはほんとうでしょうか。
すなわち、高いものはいいものだ。
いな、いいものは高い。
たとえば、いわゆるブランド品。
バッグ、靴、衣服、小物類……。
食べ物。国産肉はなぜか高い。
中トロ、ウニ、イクラ、エビ、カニは、高いからうまい。
いな、うまいから高い。

例外を。文学です。
文学作品は価値のあるものほど価格がさがる。
古典文学作品は、どれも文庫で安く読めるのがこの文化大国。
ネットには青空文庫というものがある。
著作権の切れた名作がただで読める。
提案をしたいのです。出版社へ。
内外の古典文学作品の価格をあげてみたらどうでしょうか。
高いものはいい、いな、いいものは高いと日本人は飛びつくのでは?
収益は現役作家に分配。そのぶん現代文学作品の定価をさげる。
これで文学も価格相応になるはずです。
「江分利満氏の華麗な生活」(山口瞳/角川文庫)絶版

→これもお酒をのみながら読了。
直木賞受賞の前作の続編。こんな楽しい読書はなかった。
サラリーマン文学である。
主人公は江分利満=エブリマン。
かれの特徴をあげれば――。

江戸っ子気質。
分をわきまえている。
利得を求めはするが、
満足することを知っている。

上から左はじだけ読んでください。江分利満。
他からの盗用ではない。いま思いついたことである。
江分利満氏とはこんなサラリーマンなのである。
そして作者・山口瞳の書くものはサラリーマンに愛された。
時代であろう。サラリーマンが文学になった。
不幸・欠乏・艱難・努力・円満・夢・幸福が、この時代のサラリーマンにはあった。
文学の題材たりえたのである。
たしかに「内向の世代」もサラリーマン文学を書いたのかもしれない。
けれども、あれは当のサラリーマンが退屈で読めないサラリーマン純文学でしょう。

戦後日本が産んだ江分利満氏の主張は、たとえばかくのごとしである。

「江分利は美人と話をしていると索漠(さくばく)感に襲われる。
36歳になったいまでもそうだ。美人と話をすると5分で退屈する。
目をそらしてしまう。こちらの退屈がむこうに伝わるからシラジラしくなる。
30歳を越えた美人なら、やや安心である。
35歳以上なら非常に安心である。話題があるせいなのか。
若い美人を遊ばせ笑わせるなんて面倒で仕方がない。
そんな義務的なことはやりたくない」(P177)
「江分利満氏の優雅な生活」(山口瞳/新潮文庫)

→お酒をのみながら小説を読む。
隊長、幸福をここに発見しました~!
「青い鳥」捕獲ですう~!

だけど、ラクじゃーないんだ。
どんな小説でもいいというわけではない。
しらふで読む小説より、よほど選定基準が厳しくなる。
酒がまずくなるような小説は読みたくないのである。
ああ~。現代はそんな小説ばかりなのですよ~。
これは作家が悪いのではない。時代が悪いのである。
昭和37年(1962年)直木賞受賞の本作品から引用。

「ステレオは、ステレオを買うことは、江分利(えぶり=主人公)にとって
情熱の対象みたいなものだった。
いつかは、老年になってもいい、いつかは凄(すご)いステレオを買ってやろう、
あるいは一生買えないかもしれないが、
ステレオを買うことを生甲斐(いきがい)にしてやろう」(P107)


いい時代だ。
がんばればがんばったぶんだけ幸福になれると国民全体が信じていた。
幸福のまえに、物質的などと付け加える必要がなかった時代。
めざすものがあった。いいよな。
こういう時代に書かれた小説しか読みたくないのである。
少なくとも酒をのんでいるあいだだけは……。
お願いです。夢を見させてください。現実が、なんだ(泥酔)!
「日本はじっこ自滅旅」(鴨志田穣/講談社)

→アル中の三流ライターが日本各地を旅行。
血を吐きながら、それでも酒をのみつづける。いいね。いいね。
お酒をのみながら読むエッセイとしては申し分ない。
ゲッツ坂谷のものまねだろうが、おもしろければなんでもいい。
西原理恵子と離婚♪ 血を吐いて入院♪
グウですよ、ベターですよ、ベストですよ。
ひとの不幸ほどおもしろいものはありませんから。
売文の意味をよくわかっておられる。
売文は売血とおなじ。無一物の売文家は、血をカネにするのだ~よ。
現代の文学者が失った熱いものをこのフリーライターはもっている。
むかしなら文学を志望したはずの若者がこぞってフリーライターめざす。
よく言われることである。
「ハムレット」(シェイクスピア/福田恆存訳/新潮文庫)*再読

→数えてみたらこの「本の山」で「ハムレット」の感想を書くのはこれで6度目。
よし、今回は現代思想ふうに読んでみようじゃないか。
「ハムレット」をテクストとして読解する。
こちらのテクストにひきこんで、最大限にハムレットを誤読してみようと思う。

なぜ「ハムレット」を読んだのか。怖かったからである。
半年間文通をしていたメル友と会う直前に「ハムレット」を音読した。
ネットで知り合ったひととリアルで会うのは結構な勇気を必要とする。
とくに対人恐怖症に悩んでいるわたしはである。
ホレイショーはハムレットへ呼びかける。

「いけませぬ、ハムレット様。(……) 行ってはなりませぬ」

放せホレイショー。わたしは絶叫する。
ホレイショーのため息まじりの声を耳にしながらである。

「なにごとも天に委(まか)せるよりしかたはない」

待ち合わせの新宿へと「ハムレット」はわたしを叱咤(しった)する。
ハムレット気分のわたしを相手にしたかの人物はさぞ迷惑だったことと思う。

                    *

この経験を通して、「ハムレット」がいささかわかったような気がする。
ハムレットは観客ではなかろうか。
観客席にいた人間がいきなり予告もなしに舞台へあげられる。
父と名乗る亡霊から復讐を命じられる。
まいっちゃうよな~が青年・ハムレットの感想である。
だが、自分はハムレットなのだから、どうにかして劇に仕立てなければならぬ。
どうすれば劇が発生するのかハムレットには皆目見当がつかぬ。
そのためあれこれとやってみる。どれも決定打にはならない。
うっかり憎んでもいないポローニアスを刺し殺してしまう。
かと思えば、イギリスへ追放される。
ハムレットには舞台上の事件が、さぞ不条理なものと感じられたのではないか。
ハムレットが覚醒するのは、5幕1場、墓場のシーンである。
王子はなにを悟ったのか。劇とは人間が作るものではない。
神と相談しながら、共同作業として造形するものなのだ。
墓場は死の象徴である。ここでハムレットは墓堀人と言葉を交わす。
30年前、ハムレット誕生時の挿話を墓堀人から聞かされる。
ハムレットが劇を了解した瞬間である。
人間は生まれ、そして死ぬ。
30年前に自分は生まれた。死ねばこの墓場に葬られる。なんのことはない。

生で開幕し、死で閉幕する。

たわいもない。劇とはこれであったか。
なにを迷っているのだ。言動はすでに決められていたのだ。
劇はもう完成しているのである。あとは台本どおりに芝居をすればいいのだ。
自由など、どこにもなかったのである。
生も死もままならぬ。ならば合間の劇が自由なはずがないではないか。
どうなるかはすべてもう決められているのである。
決定している。なにをしようが微塵(みじん)たりとも変えることはできぬ。
「ハムレット」のテクストは、ハムレットの存知せざる場所で完成しているのだ。
そうであったか。このときハムレットは、生まれて初めて自由を感得する。
いくら自分が自由にふるまおうと、それは宿命として決定されていることなのだ。
どこにも自由はない。森羅万象みなみな宿命である。
いや、いまこそ完全な自由を手にしているのだ。なにをしてもそれは宿命なのだから。
ままならぬ生と死にはさまれたハムレットが造物主と対峙した瞬間である。

                    *

ハムレットにならなければ、新宿へ行くこともかなわなかった意識過剰のわたしである。
この人生でだれと会うかは、もう決められているのだ。
それはがんばるつもりだが、成功するか失敗するかは、すでに決められている。
悪しき宿命論者とお笑いになるか。
すべてが決められているとあきらめたとき、ようやく演戯する余裕が生まれるのである。
演戯の自由はある。人間、それで充分ではないだろうか。
新宿からの帰途――。
そうか、これなのか。こういう台本だったのか。
大根役者のわたしだが、感動に打ち震えたことを告白する。

「つまりは、こうなろうか、
人の志と運命とはまったく相反して動き、
思い定めしことも、かならず覆(くつがえ)され、
思いは我がものなれど、結果はつねに手のとどかぬところに現われる」(P101)
「不安でたまらない人たちへ」(ジェフリー・M・シュウォーツ 著 /吉田利子訳/草思社)

→音恐怖症である。騒音廃絶活動家でもある(苦笑)。
音にひどく敏感。拡声器を嫌悪している。音楽を流す物売りも大嫌い。
1年前くらいまえにかかった病である。
病気なのかは実のところ不明。自分勝手なだけかもしれない。
いくら調べても、この音恐怖症、騒音過敏症について書かれた書籍はない。
うるさい哲学者、中島義道の著作は、病気をかえって悪化させる禁書だと思っている。
わたしも中島義道のように何度も騒音元と喧嘩をした。無益な闘争であった。

1年前に突然、罹患(りかん)したのである。
ならおなじように突如として治ってもいいはずである。
病識はあるのだ。じぶんがおかしいとわかっている。
ふつうのひとは騒音などたいして気にしていない。かつてのわたしもそうであった。
どうしたらむかしに戻れるのか。

だが、問題ではないか。この症状にまだ病名すらついていないのである。
「わがまま」「神経質」「耳がいい」「キチガイ(かる~く)」。
さしあたってはこのような表現が一般では使用されていると思われる。
いかにすればこの困った状態からぬけだせるか。日夜、あたまを悩ませている。

本書はアメリカの一般向け医学書。OCD対策の実践マニュアルである。
OCDとは「Obsessive Compulsive Disorder」。
日本語は「強迫性障害」。かつては「強迫神経症」とよばれていた。
手を何度も洗わないと気が済まない。
カギや蛇口を何度もたしかめる。
物事が偶数でないと気になる。
順序だてた個人的な儀式を正確に行なうまで外出できない。
こんな症状で知られる。あのサッカーのベッカムもOCDだという。

わたしの病気もOCDではないかと、この書物に救いを求めた。
読み始めてすぐに気づく。これはアメリカ版の森田療法である。
森田療法は、大正時代に精神科医の森田正馬(まさたけ)が創始した神経症の治療法。
アメリカでの神経症の治療は、薬物療法と精神分析がメイン。
この書籍が画期的だったということは、
ようやくアメリカが日本に追いついたということである。

森田療法と、本書の四段階方式を比較する。

【森田療法】
1.不安が生じる。
2.この不安を「あるがまま」にする(強迫行動をしない)。
3.不安を「あるがまま」にしながら「目的本位」で実践する。
4.「不安常住」とあきらめ、成功体験を積み重ねる。

【米国流四段階方式】
1.不安が生じる。
2.この不安はOCD(脳障害=医学的疾患)なのだとラベルをはりかえる。
3.関心の焦点を移し、建設的な楽しい活動をする(15分間、不安に耐える)。
4.不安が実際は無意味であると価値の見直しをしていく。


アメリカと日本のちがいがおもしろい。
比較してわかるのは、アメリカの科学万能主義と成功哲学流儀である。
森田療法では不安の原因を追究しない。
かつての米国は、この不安を解明するためにフロイトの泥沼にはまったわけだ。
ところが、いくらフロイト流の精神分析をしてもOCDは治らない。
ここで不安を「あるがまま」にしないで科学をもちだしてくるのはいかにもアメリカ的。
OCD状態にある脳を調べると、通常の脳とは異なるという結果がわかった。
フロイトがダメなら科学にすがるのがアメリカである。
科学を信じているものほど、この実践的治療法は効果があると思われる。

不安が生じる。
この不安をOCDと名づけることで、不安を軽減しようという作戦である。
客体化するとい言いかえてもいいかもしれない。
不安にOCDとラベルをはる。乗り越えるべき敵の登場である。
ハリウッド映画の世界ではないか。
この敵を倒すためには、関心の焦点を移す。たとえば趣味の世界へ没入する。
最後は価値の見直し。ポジティブという言葉がふさわしい。
前向きで多趣味なアメリカンビジネスマンは万病を排するとでもいうのか(笑)。
おっと、笑っている場合ではない。
この米国流四段階方式はマクドナルドで育った現代日本人には、
なまじ森田療法などよりよほど効果があるかもしれない。

「だいじなのはどう感じるかではなく、何をするかである」(P41)

森田療法と米国流に共通するポイントである。
感じる不安を、森田は「あるがまま」に、米国流は「O C D」とラベルをはる。
そのうえで行動を重視しようではないかというのである。

米国流を実践してみる。

1.騒音が聞こえてくる。いらいらする。文句を言いたい。
2.これはOCDだ。脳障害なのだとラベルをはる。克服すべき対象である。
3.15分間、騒音を我慢しながらそれまでの行動を継続する。
4.騒音で命まで取られるわけではないことに気がつく。騒音を無意味化する。


うん、これだ~! さっそく試してみなければ。
本書でおもしろかったこと。
15分間の我慢をできたら、自分にご褒美をあげるといいらしい(P138)。
著者はヨーグルトやアイスクリームを推奨している。甘党なのだろうか(苦笑)。
このやりかたもギブアンドテイクとでもいうのか。なんともアメリカ的である。

(参考)「OCD研究会」↓
http://www.ocd-net.jp/index.html
「アエラムック 現代哲学がわかる。」(朝日新聞社)

→これはダメ。いまは言論は尊いものでもなんでもない。
食べ物とおなじ。むかしは食べる物がなかった。米ひと粒を大切にした。
いまではどうだ。この国で一日に捨てられる食料はどれほどになるのか。
コンビニのフレンドリーなCMの裏側である(賞味期限切れ食品大量廃棄)。
良し悪しではない。事実である。
言論も同様なのだ。現代は言葉に満ち溢れている。だれでもブログで発言できる時代。
毎日、ブログにより大量の言説が生産され、廃棄されていく。
エリートの新聞記者が書く記事を「読む」より、
ブログで自分の世評を「書く」ほうが楽しいと気づいてしまったひとも少なくない。

なにをいいたいのか。アエラムックは例によって権威主義。
アカデミックな有名どころに朝日新聞の旗をちらつかせて小文を書かせている。
2、3をのぞいて、ほとんどダメだ。
もしあれらの文が大学教授という肩書きなしに、ブログに掲載されていたら、
大多数の人間は読まないで画面を閉じると思われる。

おもしろくないからである。
なぜか。書き手が、文章を考えないで書いている。
そもそも考える必要もない。安定した身分がある(大学教授)。
さらにアエラムックは共著にもならぬ、やっつけ仕事。
おもしろい文章とは、書き手が発見を求めて記したものである。
考えなければ、発見はない。
アエラムックで教授、助教授連中は、知っていることを、そのまま書いているに過ぎぬ。
なんの情熱もない。教える喜びも、考えを共有しようとする意図(働きかけ)もない。
ひどい文章が並んでいる。

いっぽうてきに批判してきた。
最後に哲学者の反論とおぼしきものを引用する。
東京女子大学文理学部哲学科教授・黒崎政男。

「電子メディアの時代においては、すべてがおしなべて<情報>である。
かつては思想の深さ、強靭(きょうじん)さの証でさえあった<難解さ>は、
ヒステリックなほどに排除される。
一度見たり聞いたりしただけで理解されないようなメッセージは、
検閲されて<容易さ>に解体されるか、あるいは無視をもって迎えられる」(P161)
「図解雑学 現代思想」(小阪修平/ナツメ社)

→図解雑学シリーズはよろしい。
いまどき定価で買っても損をしたと思わせないのはナツメ社のこのシリーズくらいでは。
あやふやな知識を確かめたいときに、さっと調べることができるので便利。
一度、読むだけではなく、何度でも利用できるのがいいのだ。
著者の小阪修平は、わかりやすい哲学書を書くことで有名。
在野の研究者。つまり、大学に籍を置いていない。安定(大学教授)とは無縁。
駿台予備校の小論文講師。わかりやすいのも道理である。

さて現代思想がわかったような気になった。
はじめてあたまを悩ます。使いみちがないのである。
難解な原著を読むための時間的余裕および哲学的センスはない。
いい年だから、知ったかぶってデリダだのフーコーだのとバカをひけらかす元気もない。
まあ、よけいなコンプレックスがなくなったくらいで満足すべきなのだろうか。

嫌いなものがある。
なにかの主張(文章、会話)で、だれがこういった、なにがこういった、
と哲学者や思想家の名前をしきりにもちだす連中である。
文章なら読み飛ばす。会話なら相手をにらみつける。
これが短所であることもわかっている。とくに対人関係においては。
会話は、娯楽である。
芸能人の噂話で盛り上がるのとおなじレベルで哲学者を話題にすればいいのである。
けれども、どうしてかそれを許せないわたしがいる。
フロイトが~などと相手が口にしようものなら鼻で笑う。
フロイトではない。あなたはどう思っているのだ。こわい顔でそう詰問していく。
対面者は自己の経験を話すほかなくなってしまう。窮屈になる。
これでは友人ができないのも無理はない。

この「図解雑学 現代思想」を読んだことで、この短所は改善するか。
そうなのだ。芸能人やスポーツ選手の話をするように、哲学者をさかなにすればいい。
いくら相手がインテリぶろうがほほえましく思えるくらいの度量をもたねばならぬ。

この本でおもしろいのも、じつは思想ではなく哲学者の人生(ゴシップ)。
キルケゴールは、あえて最愛のフィアンセをほかの男へ嫁がせる。
ニーチェ晩年の狂気の様子には爆笑した(P24)。
ふたりの兄が自殺しているウィトゲンシュタインの人生もおもしろい。
わたしのいちばん引かれたハイデガーがナチスの協力者とは!
アルチュセールは妻を殺して精神病院行き。ううん、やるねえ!
ホモのフーコーが教え子に言い寄るさまは想像しただけで笑える。
つまるところ、語られる思想に興味がないのかもしれない。
たかが個人の思想ではないか。
神の手が加わった人生のほうが、思想などよりどれだけおもしろいことか。
「哲学案内」(谷川徹三/講談社学術文庫)絶版

→これはすごい本だぞ~。
極度の不眠症である。どうしたって眠れやしない。
毎晩、アルコールか睡眠薬のお世話になっている。
そのわたしがである。この小著にすとんと落とされた。
経験したことはないが、首を絞められて意識を失うのはあんな感じではないか。
あたまが重くなる。もうダメだ。一瞬の快感の後、すとんと落ちる。熟睡。
哲学のちからを思い知ったというほかない。
酒で眠くなるのも眠剤で眠くなるのも科学で説明ができる。
だが、あの快眠は科学では計り知れぬものがあった。

理解できた、数少ない部分を要約する。
科学と哲学の相違。
科学は知識を求める。よって共同研究が可能。判定の基準は真偽。
いっぽう哲学は知慧を希求。共同研究不可。深浅によってはかられる。
科学の知識というものは、古いものがたえず新しいものに取って代わられる。
哲学の知慧においては新古は問題とされず、いまでもプラトンが論じられる。
科学は常時、正否の問題に直面している。
この真偽に対抗するのは宗教である。
宗教は絶対の真理をもちだしてくる。
ニュートン、ダーウィン等は、哲学的姿勢で、宗教から脱皮したといえる。

この入門書から引用する。

「哲学とは何よりも物を考えるというはたらきでありますが、
物を考えるということはどういうことであるかを、
今日はわれわれの日常世界と結びつけて考えてみたいと思います。
自分の思うことが何でも行われるというような人はあまり物を考えない。
幸福な人もあまり物を考えない。
何かの問題に苦しんでいる人、実際生活の中で、何かの障碍(しょうがい)に
突き当たって自分の思うようにならないというような人が物を考える。
結局物を考えるということの最も原初的な形は、
われわれが生活の中で何かの障碍に出会ったり、
われわれの意志をはばむものに出会った場合、
それに反応する一つの仕方として現われるものと言ってよいでありましょう」(P22)


脈絡もなくドストエフスキーを思いだす。
ギャンブルですっからかんになって、ようやく小説を、
それも大長編小説を書き始める、あのロシアの文豪をである。
ぎりぎりまで追い込まれたいという欲望がわたしにもある。
不幸になりたいというよりも、不幸じゃなきゃ表現なんてできないよなという思いである。
カビのはえたような古い考えかたなのかもしれない。
どこかで傷つけられたいと思っているわたしがいるのだ。
その地点で、じぶんがなにを考えるのかに興味がある。自己愛ここに極まれりである。
「手にとるように哲学がわかる本」(佐藤正英・甲田烈・山本伸裕/かんき出版)

→これまた恥ずかしいタイトルの本なのだが、どうしてどうして。
わかりやすいんだな~。ほんとわかりやすい。
いままで読んだ哲学入門書のなかでいちばんすらすら読むことができた。
だから、この本はよろしいと断定するのは早計なり。

医者の投薬でもあること。
いろいろな薬を患者に処方した。どれもそれほどの効験は見られない。
最後にとだした薬を患者が絶賛する。これが効いたと喜んでいる。
ここで医者も喜んでしまったら、かれはヤブ死者。
いままで服用した薬のどれかが効いていて、この時期に効果が現れたのでは。
こう疑うのが優秀な医師というものでしょう。
患者は単純ゆえ、最初からこの薬をだしてくれたらという。
だが、医療というのはそう簡単なものではない。
とくに漢方薬ではこの考えかたが強いようである。

この話から得られる教訓はなにか。
他人の推薦図書(こと入門書に限って)は、あまり信用しないほうがよろしい。
どれだけ有名な学者が、これはわかりやすい入門書だと絶賛していても、
かれはそのまえに膨大な量の知識を他の書籍から吸収しているということを
ゆめゆめ忘れるなかれ。

基本にたちかえる。哲学とはなにか。
哲学は、衣食住、労働余暇、芸術活動とおなじく、人間の営為のひとつである。
人間は生まれて、死ぬ。
いつどこで生まれるかは人間の自由ではない。能動ではなく受動の存在である。
気がついたら、生まれていた。生まれてきたくて誕生したわけではない。
人間は死ぬ。いつどこでどのようなかたちで死ぬか人間にはわからぬ。
自殺といっても100%死が約束されている方法はない(窪塚洋介を見よ)。
よって人間は死も自由ではない。

「生→人間→死」

人間は生と死にはさまれた存在である。
だが、生も死も人間にはままならぬ。不自由である。
同時に不明でもある。なぜこの両親のもと生まれてきたのか知るものはいない。
死んだらどうなるのか知るものもいない。

「不自由→人間→不自由」「なぞ→人間→なぞ」

この無知を義務づけられた人間が、生から死への過程で、
自己とはなにか、外部(世界)とはなにか、と問うのが哲学である。
だれがどう考えても人間が完全な知に到達するのは不可能である。
哲学は正解のない学問ということができよう。
あらゆる言説が批判され、そこで得られた境地も、また乗り越えられる宿命をもつ。
結果、現代では、自己とはなにか、外部とはなにか、という問いすらも疑いの対象である。
さらに人間という概念までも批判され、「人間の終焉」を主張する現代哲学もある。
哲学者の思想は、もちろんそれぞれ相違があるのだが、
それでもある一貫する姿勢がある。それは知への愛である。
画家が色・形を愛し、音楽家が音を愛し、詩人が言葉を愛すように、

哲学者は知を愛する。

そのため哲学への最大の批判は「関係ないね!」という態度(無関心)なのだが、
このような者は哲学者からこれでもかというほどの蔑視、
あるいは羨望の視線を背中に受けることであろう。わたしがいま感じているものである。

(メモ)仏教の日本伝来。聖徳太子は仏教政治を志す。
これが十七条の憲法。「和を以って貴しと為す」のあれ。
すごいよな。インドで生まれた仏教が、日本へ来ると政治思想になってしまう。
それも「和」。みんなで仲良くしましょう。そんなこと、ブッダはいったかいな。
おそらく「和」を強調したいのだが、根拠がないので仏教を後ろ盾にしたのでしょう。
聖徳太子さん、やるう! このこのう!
病院帰りに、ブックオフめぐりをする。
病院からそとへでると、どうしてあんなに気分がいいのだろう。
病んだ気というのがやはりあるのか。病気。
今日は混んでいたので薬だけ。診察を受けていない。
それでも病院をでると、疲れたなと思う。同時に解放感がある。
大げさな表現をすると、生きている実感がわく。

ぼくらはみんな生きている~♪
鼻歌をうたいながら(ほんとかよ!)往来をスキップ。
生きている。かといって、なにをするわけでもない。
ブックオフへ立ち寄るのみである。
まず新宿靖国通り店へ。

「不可触民の道 インド民衆のなかへ」(山際素男/光文社文庫)絶版 105円
「ガンジー インド独立の父」(坂本徳松/旺文社文庫)絶版 105円


きっと売ったのはおなじひとなのだろう。
そばにある古書店、国島書店をのぞくが収穫はなし。
ここからちょっと歩いてブックオフ大久保明治通り店へ。

「ミルク」(大道珠貴/中央公論新社) 105円

思えば、この作家の本は、いつもここのブックオフで買っている。
なんだろうこの偶然は。おなじひとが売っている?
なわけないか。ブックオフに売るような愛読者はいない。うーむ。
とまれ、大道珠貴♀は柳美里なきあと(勝手に殺すな!)、
わたしが注目している数少ない純文学(くすっ)作家である。
坂をくだると早稲田。ここにもブックオフがある。
正式名称は、早稲田駅前店。店員同士が異常なほど仲が良い。悪いことではない。

「古代秘教の本」(学研) 105円
「3行レシピでつくる居酒屋おつまみ」(検見崎聡美/青春文庫) 105円
「ニート」(絲山秋子/角川書店) 105円


105円でも買いたくならない本がごろごろあるのには驚かされる。
絲山秋子の短編小説集なんかもその類だが、
日本現代文学(笑)の傾向を勉強するためにいやいや購入する。
ふむ。本日はこのくらい。
生きるということについてしきりに考えるのは、
先日、生きている人間と酒をのみ話したからである。
ブログがきっかけで知り合ったかたです。異性。年下。
感想は、生きているな。まぶしいものを直視したような感動があった。

生きるとは、運動だ。
たいがいの人間にとって、生きるとは直線運動を意味する。
始点があり終点がある1本の直線。これが人間における生の基本運動である。
人間は日常を漠然とではあるが、始点と終点を意識しながら生きている。
何歳であるかという自己イメージが人生を決定する大きな要因になる。
成人式。始点から20年経過したということである。
35歳が、人間のターニングポイントになるという説がある。
人生70年だとすると、35歳は折り返し地点。
人間が終点たる死を意識するのはこの時期なのだという。
終点から現在の生=直線運動を見据える。
このままでいいのかという思いも芽生えよう。
終点を強く意識することではじめて、転職、脱サラ、結婚、離婚といった冒険が可能となる。

おのが生をかえりみると、それは直線運動ではない。
円運動。どうにもこうにも円しか描くことができぬ。
おなじところをずっとぐるぐるまわっている。一歩もまえに踏み出せない。
どうしようもない円運動。
数日前、直線と交差することで、じぶんの生きかたに改めて気がついた。
何度も書くが、6年前の母の自殺。あれですべてが変わってしまった。
それまではわたしも直線を生きていたと思う。だが――。
あのときから時間はストップしたままである。
明かりの差し込まぬ場所でぐるぐると円を描いている。

この6年間、いろいろな直線(他者)と出会ってきたように思う。
どうにもならなかった。円運動から離れることはかなわなかった。
死者ならぬ生者は、運動をやめるわけにはいかない。
運動の停止は死を意味する。かくしてどの直線もこの円から遠ざかっていった。
責める気持は一向にない。運動がちがうのである。みな生きなければならぬ。
いつも円運動をしながら、去っていく直線を茫洋(ぼうよう)とした思いで眺めたものである。
さようなら、さようなら。うしろすがたのしぐれてゆくか(山頭火)。
もしかしたらといま思う。直線運動をしている人間には、
わたしのほうが彼(女)らのもとより去っていくように見えるのかもしれない。

今日、感じたことがある。円運動が、終わりに近づいているのではないか。
描く円が小さくなっているような自意識がある。つまり、点に近づいている。
直線の行き着くところも、円の終点も、おなじ点である。
点=死。どの運動も結局は点に帰着する。
人間、真に平等に与えられているのは、この点(死)だけである。
不満を訴えているのではない。
これほどの僥倖(ぎょうこう)があるかと手を合わせたいのである。
直線も円も平面の事件(運動)にすぎぬ。
終点から、この平面に垂直な直線が、天に向かって飛翔する。
その先になにがあるのか、だれも知るものはいない。
こほんこほんこほん。
咳き込んでいるわけではありません。
いまこれを書いているパソコンの横に古本が積まれている。
ここにあるのは、まだ「本の山」で購入報告をしていないもの。
買った順番に積んでいる。袋もろとも。そのなかには、もちろんレシートが。

この日はぶらりと原宿へ。
どうしてこんな街へ立ち寄ったのかは忘れてしまった。
レシートからわかるのは日付と購入金額のみである。

原宿の騒がしい若者を見ながら思う。
なにをやっているのだかわたしは。
本など読んでもどうにもならぬ。
異性にモテない。カネも儲からない。人間的な成長もない。
むしろこれら幸福に逆効果なのが読書。
百害あって一利なし。これが読書である。
話がおもしろいひとは、たいがい耳学問。思えば、そうではありませんか。

そうとは知りつつ、ため息をつきながら、ブックオフ原宿店へ吸い込まれる。
文部省とは無縁のカップルが多い。
なんとも形容しがたい髪色のあんちゃんが、彼女へ持論を。
おれ、戦争、いいと思う。国民はみんなバカなんだ。わかっていない。
きんきらりんの彼女は、彼の頼もしいことばにうんうん同意している(のか演技だか)。
ブックオフでも、これは原宿ならではの光景である。

本日、購入したもの。

「遠藤周作へのワールド・トリップ」(上総英郎/パピルスあい)
「人生には何ひとつ無駄なものはない」(遠藤周作/鈴木秀子/朝日文庫)
「2時間でわかる図解 インドのしくみ」(島田洋/中経出版)


すべて105円。店外へ。思う。どんな安価でも本を買う人間は不幸だ。
書籍など買わない、読まない。時間つぶしはテレビオンリー。たまに流行の映画。
かような原宿民こそ幸福を体現しているのではないか。
だが、ああはなりたくないじぶんがいる(まあ、なれないのだが)。
こんなことを書くのは、たぶん強がっているだけだと思う。なぜなら――。
わたしは現代的な若者を軽蔑する。いっぽうでかれらはわたしなど眼中にない。
生を謳歌する原宿民と、生を批判する読書人。勝敗は明らかである。
わからないことがある。
どうして小説家は人生相談の回答を好むのだろう。
作家としてのステータスがあがると、物書き風情がなんでもしゃしゃりでる。
これがおかしい。笑えるという意味での、おかしいである。

いちいち作家名を例示する必要はないと思う。
みなさまも、思い当たるふしがあるでしょう。
わけのわからない啓蒙書的なエッセイを書く小説家が大勢いる。
こう生きなさいと教えをたれる。小説家は人生の達人か。
いっぽうでそれを当たり前のように思わされている我われがいる。

ちょっと待て。
人生論的エッセイを書く小説家というのは、それほどすぐれた人間なのか。
たかだか小説を書くのがうまいだけではありませんか。
巧拙も実のところ定かではない。
身もふたもないことをいうと、売れる小説を書くことができるだけでしょう。
賢者でも、名医でも、苦行僧でもない。小説家は売文マシーンだぞ。
甘い物語で読者の知性をとろかすのが小説家。
ケーキ職人は毎日おいしい洋菓子を作るが、
道行くひとへ「かく生きるべし」と説くことはない。
「社会人心得入門」(山口瞳/講談社+α文庫)絶版

→山口瞳ほど哲学と縁のない作家はいまい。
論証するのは面倒だから、いっそ氏のエッセイを全文引用しようか。
著作権法違反かもしれぬ。いざ訴えられたら、すぐに削除する。
土下座したっていい。哲学者ならぬ庶民の生きかたである。
お酒がのめるのなら、まあ、いいじゃないか。山口瞳の推奨する生きかたでもある。

「新入社員諸君!(1981年4月1日)

僕には、もう、クリスタル族なんという青年の心持がわからなくなっている。
何も言うことはない。
そこで、若いときの山本周五郎先生を絶望から救ってくれた
ストリンドベリイの言葉を揚げることにする。


『苦しみつつ、なお働け、

安住を求めるな、この世は巡礼である』


働くのは会社のためでも家族のためでもない。
自分のためである。
失意のときは、この言葉を思いだしてくれ給え。
気楽な稼業だと思っていたら大間違いだ。
常に安住するな。
しかし、この言葉の本当の意味がわかるのは、四十歳、五十歳になってからだろう。
新入社員諸君!
この人生、大変なんだ。そうして、本当の酒がわかるのは、
苦しみつつ、なお働いた人たちだけなんだ」(P54)


くすくす。
山口瞳がストリンドベリの本を1冊も読んでいなかったことは間違いない。
山本周五郎がストリンドベリを誤読していたこともわかっておもしろい。
ちなみにこれは山本周五郎「青べか物語」から。
ストリンドベリはくだらぬ常識からかけはなれた狂人。
人情とは相容れぬ狂気が魅力である。
この山本周五郎ラインでストリンドベリを誤解している人間が大勢いるのだろう。
学者ではないので、それをどうこうしようとは思わぬ。
ストリンドベリ先生。わたしがもっとも敬愛する作家のひとりである。
「さわりで癒される 天才モーツァルトの名曲25選 CD付」(中経出版)

→3歳からバイオリンを習い始めた。
3歳。じぶんの意思だったのか。親に強制されたのか。いまではわからない。
10年以上、バイオリンを習っていた。鈴木メソッドである。
いつやめたのかも憶えていない。中学のいつだったか。
クラシックが嫌いでどうしようもなかった。
光GENJIの「ガラスの十代」のほうがよほど名曲に思えた。
ある面では才能があったのか。
どんな歌謡曲でも一度聞いたら、バイオリンでひくことができた。
これがどのくらいめずらしい能力かは知らない。

いまでもおなじである。
クラシックがわからない。
30分くらいある曲があるでしょう。
あれが理解できない。
聞いていて楽しいのは山場だけではありませんか。
たとえば、ジャジャジャジャーン♪
モルダウなら、最初のあの部分。
なんであんな退屈な箇所がえんえんとつづくのかいまでもわからない。
眠くなる。そして、山場に。興奮する。また沈滞する。眠くなる。
クラシック音楽への不満である。
あれは「静」と「動」のバランスとでもいうのか。
「動」の興奮のために「静」を必要とするのか。
クラシック好きのひとと話したことがないのでわからない。

ここでようやく本題へ。
この本はすばらしい。楽しくてたまらなかった。
CDで音楽を聴く。その曲のうんちくを読む。この繰り返し。
文化人になったような満足があった。
モーツァルトがいいというより、モーツァルトを聴いているわたしが好ましい(苦笑)。
だけど、芸術って、そんなものでしょう。
選曲もいい。「さわり」だけというのが、すばらしい。
クラシックは「さわり」がすべてではありませんか。

モーツァルトがわかったようなことを最後に書いてみよう。
モーツァルトには昂揚がある。
いいかえる。ひとを狂わせるちからがある。
モーツァルトのある部分を聴くと、なんでもじぶんができそうな気がするのである。
人間を超えられるという思いに打たれる。
人間は、いつの時代もつまらない。ありきたりで、下品で、打算的だ。
だが、モーツァルトを聴くと、叫びたくなる。バカをいうな!
人間はそんなものじゃない。もっと、もっと、人間は濃密に生きることができる。
人間はなんだってできる。
娼婦が王子に愛されてもいい。乞食が王女のハートを射とめてもいい。
この世の中には、なんだって起きていいんだ。やってやる、やってやるぞ。
モーツァルトを聴くと、そんなおかしな元気が出るのである。
「哲学入門」(渡邊二郎/放送大学教材)絶版

→東大名誉教授の渡邊二郎は、中島義道にいわせたら哲学者ではないのであろう。
哲学・学者である。この書籍から著書の血のにおいを嗅ぎ取ることはできぬ。
きれいさっぱりコンパクトにまとめられた哲学の教科書。
哲学の大まかな流れが、シンプルに紹介されている。
血や涙、汗といったものとは無縁の、東大名誉教授の善意はそれなりに好ましい。
感想はそれくらいである。本記事ではレジュメふうに整理する。
読み手にとって楽しいものになるかはわかりません。

哲学の本来的な意味は「愛知」。哲学=知を愛すること。
すなわち、哲学とは「無知→知」の運動といえる。
この運動は「驚き」と「批判」に支えられている。
驚きとは、なにかを発見する感動のこと。
批判は、ロゴス(秩序・論理・言葉)を発展させる。
たとえばアリストテレスは師のプラトンを批判することでおのが哲学を構築した。
繰り返すと、哲学=「無知→知」。
そのとき哲学の祖・ソクラテスの「無知の知」は意味深いものがある。
「無知の知」とは、おのが無知を知っているものがほんとうの知者という意味。
無知から知にいたるのが哲学だが、なら知にはどのような段階があるのか。

A.常識的知識(時代と場所に支配される。風習、偏見ともいえる)
B.学問的知識(客観による細分化を指向。意味や価値とは無縁)
C.哲学的な知(部分ではなく全体を志向。世界観・人生観)


哲学が求める知識は C の根本知である。
だが、世界観や人生観を求めるものなら、哲学のほかに、芸術、宗教、道徳がある。
哲学との対応は以下のようになる。

哲学=真(根本知)
芸術=美
宗教=聖
道徳=善


哲学は根本知ゆえ、美・聖・善も包摂する立場にある。
さて、この哲学はいかようにしてなされるか。
どのようにして人間は根本知たる世界観・人生観を会得するか。
方法はふたつある。

1.自分の経験をもとにして哲学する。
2.先哲の遺産を参考にして哲学する。


偏りのない1、2の連続によって哲学はなされなければならない。
これを哲学的な用語にいいかえると、次のようになる。

1.現象学的考察。
「見る」ということである。自己を世界を「見る」。
「見る」は直観と論証をともなう。直観したものを論証する=「見る」。

2.解釈学的考察。
人間は、だれもがある枠組みのある世界へ投げ込まれている。
この枠組みを脱出し、客観視するために先哲の文献が有効である。
だが、過去の哲学者さえも、世界(枠組み)の内部から発言していることを忘れない。

いったん、まとめてみる。哲学とはいかなる営為か。著者の言葉を借りる。

「哲学は、人生観・世界観の根本知を追究する。
それは、自己と世界、主体性と客体性のすべての問題場面を総覧しつつ、
良く生きようとする意志に支えられて、生の根拠を自覚しようとする。
しかもその際、おのれ自身の生の経験をありありと現象学的に直視し(1)、
自分の存在了解の含蓄を展開し吟味する(1)と同時に、
大きな先行する諸哲学思想に謙虚に学び(2)、
その伝承の広く深い内実を解釈学的に我が物とし(2)、
生かし返しながら、哲学的思索は、実践される(1+2)」(P82)


ここで東洋哲学(仏教・儒家・道家)との簡単な比較をする。

西洋哲学=理論的・秩序的・理性的=「客観的知性派」
東洋哲学=実践的・倫理的・道徳的=「主観的心情派」


西洋哲学に話を戻す。
西洋哲学史を図式的に概観すると以下のようになる。

古代=世界中心=ヘレニズム
中世=神中心=ヘブライズム
近代=人間中心=ヒューマニズム


古代「世界」に包まれていた「人間」は、
中世「神」(教会)の支配のもと窒息するが、
アラビア世界によりもたらされた古代文化を吸収することで、
「人間」を中心に「世界」を見るようになる。
これがルネサンス。近代の萌芽である。
「人間」がかつて中心にいた「神」を飛び越えて、
みずからが中心になって「世界」を見たとき、
「世界」は「自然+歴史」に分化した。
「自然」「歴史」どちらも「人間」によって支配されうるものである。

中世の価値を再確認したい。
中世は決して「暗黒の中世」ではない。
ローマ世界に侵入したゲルマン人が、
千年にわたってキリスト教思想・古代(ギリシア・ローマ)文化を学んだ結果、
ルネサンスとして結実するにいたったのである。
中世のスコア哲学は難解であるが、簡潔にまとめると以下のような構図になる。

スコア哲学=「宗教・信仰・神学 vs 学問・理性・哲学」

後者の勝利の結果もたらされたのが近代自然科学である。
近代科学は、それまでの世界の見かたを一変させた。

「目的論的自然観」(古代・中世)→「機械論的自然観」(近代)

近代科学の思考法とは「観察」と「整合」である。
科学=観察した記録を整合する。
この近代科学の思考法は、哲学的には「経験論」「合理論」といわれる。

イギリス経験論=観察を重視=帰納法
ヨーロッパ大陸合理論=整理・整合を重視=演繹法


この近代的なふたつの思考法を統合させたのがカント、完成させたのがヘーゲルである。
さて、西洋近代化とはいかなるものか。

a.人間中心
b.民主化
c.産業化
d.都市化
e.科学万能主義


上記の近代化は多様な問題を生じせしめた。
ここから、さまざまな現代哲学が生まれることになる。


(注)本書は別の書籍で推薦図書になっていたもの。
絶版だったので、見つけたときは歓喜した。良書である。
先ほど、悔しい発見をした。
おそらくこのテキストを元にしたと思われる文庫本が出ている。目次を見たらおんなじ。
はあ~(ため息)。わたしだけが知っている名著にしたかった。

「はじめて学ぶ哲学」(渡辺二郎/ちくま学芸文庫)2005/04
「哲学の教科書」(中島義道/講談社学術文庫)

→幼いころ、こんなことを思っていた一時期がある。
じぶんの周りにいる人間はみんなロボットではなかろうか。
だれかがわたしを試すために、この環境に投げ入れた。
家族はロボットで、わたしが学校へ行っているときには動いていない。
あるいは別の作業をしている。
教師も同様で、学校にいるときだけ作動する機械である。
すなわち、わたしだけが生きているのではないかという疑問。
試験管に入れられた微生物のようなもので、だれかにたえず反応を調べられている。
世界も存在しない。
アメリカを見たことがないのに、どうしてかの国が存在しているといえるのか。
世界は空白である。わたしが登場する場合においてのみ、舞台セットが作られる。
ある一瞬の隙をついて、かの観察者の目を盗んで、あるドアを開けたら、
そこは洗面所ではなく、なにもない空白が広がっているだけなのだ。
決められた行動を裏切り、それもまた裏切り、そのまた裏をかいて、
背後をふりかえるなら、そこには下校したばかりの学校は存在していない。
だれにもいわなかったが、小学校高学年のわたしは、そんなことを考えていた。
いま思えばとても恥ずかしいが、あんがい、
みなさまもおなじようなことを考えたことがあるのかもしれない。

中島義道にいわせると、このような体験こそ哲学への第一歩ということになる。
哲学とは、哲学者の思想をたどることではない。
犯罪や狂気に隣接した病気(懐疑)こそ、哲学の真の営みなのだと主張する。
中島の考えでは、哲学と思想は異なる。
思想は、哲学者が哲学をした結果の産物である。
その思想をなぞることは、哲学ではない。
哲学するとは、ひとりの人間が血まみれの苦悩(病気)から、
もだえつつも命がけで、ときには半狂乱になって、
それでも、たしかなものを希求しておぼろなものへ手を伸ばす営為のこと。
思想とは、その血にぬれた哲学を、安全地帯から後追いすることで、哲学とは無縁のもの。
繰り返すが、哲学をするとは――。

「『このコップを私が見ているとはいかなることか』
という疑問にえんえんとこだわり続けること」(P69)


よって、大学で教える哲学者は、ほんとうの哲学者ではないと中島は弾劾する。
もちろん、かれらも、哲学へわけいるきっかけは病(やまい)というほかない、
すべてのものへの懐疑から生じる不安だったのであろう。
ところが、難解な西洋哲学を原書で読み、論文を書き、認められていくうちに、
しだいに根源の懐疑は薄れてしまう。いつしか哲学のガイドになっている。
西洋哲学の道のりをコンパクトに整理することで、哲学者になった気分になっている。
大学教授の実態である。
みずからも大学で教授をしている中島は、自嘲も込めつつ、こう指摘する。

以下、ひかれた部分を簡単にまとめてみる。
ブッダの教えと哲学。
仏教には、毒矢のたとえというものがある。
あるひとが毒矢に射られて瀕死の状態で運ばれてくる。
このけが人が問う。その毒矢を放ったのは、どんな身分のものか。
古来、確固たる階級制度のあるインドの話である。
ブッダはいう。そんなことはどうでもいいではないか。
なにより毒矢を抜かねばならぬ。死んだらおしまいだ。
哲学とは、この瀕死の患者の問いのようなものではないか。
毒矢の種類を知りたがるのが哲学者。
ブッダはそれを知らなくてもいいと答えた(P112)。

過去・現在・未来について。
よくよく考えてみれば、現在しかないのである。
過去も未来も、生きることはできない。
それなのに人間はなぜ過去という観念をもちうるのか。
さらに無数の過去が現在になったからといって、
それは現在が未来になることを証明しない。
未来は、明日は、来ないかもしれないのだ(中島さんガキだよな~P146)。

飲酒運転と因果関係について。
飲酒運転で事故を起こすと、飲酒が事故の原因だとされる。
飲酒が原因で、事故という結果が起こったものとされ処罰の対象になる。
だが、いくら飲酒運転をしても事故を起こさないひともたくさんいるはずである。
このとき、どうして飲酒が事故の原因と断定できるのか。
一方で、酒をのまなくても事故を起こす人間もいる。
原因と結果というのは、絶対的なものではなく、人為的に制定されるものではないか。
(飲酒運転で事故を起こすのは、ついてなかっただけじゃん!
著者はそれを言う直前まで来ているが、この著作は比較的初期のもの。
まだそこまで口にする勇気を持っていないのが、少しおかしい。P178)

ニーチェが「神は死んだ」と大騒ぎしたのは、それを信じていたがゆえ。
キリスト教とは無縁の日本人が、ニーチェのまねをしてニヒリズムを気取るのはおかしい。
同様、デリダやウィトゲンシュタイン。
あれは西洋のロゴス(言語)信仰があってこそ、革命的なのだ。
論理をそもそも重んじない日本人が現代思想をふりまわすのは笑止(P312)。
「自分を知るための哲学入門」(竹田青嗣/ちくまライブラリー)

→竹田青嗣は読者に親切な作家だと評価が高い。
アマゾンでも「わかりやすい」の大合唱がくりひろげられている。
わたしはうなだれる。
同著者の「ニーチェ入門」を読んだときも思ったことだけれども、
竹田青嗣レベルでさえわたしはわからない。わからないのだ。
きっと顔をあげる。わからないのはわるいのか。
これを年の功というのだろうか。最近、思うようになったことがある。

わからない本は著者に問題があるのでしょう。

高校生ならわからないのは、じぶんがわるいのだと思うのかもしれない。
国語教育というものがある。
あれは問題文が絶対的に正しく、その文章を理解できないのは読み手の罪悪とされる。
この国語教育の弊害で、ちょっとでもわかると、わかった、わかりやすいと大騒ぎする。
ちょっと待てよ、といいたい。わかるって、そんな簡単なことか。
わからないのは、そんなに恥ずかしいことかな。
人間はそう簡単にはわからないというのは同意してもらえると思う。
なら、本だったら、容易に理解できるのかい。人間が書いた本だったら。

竹田青嗣の、この哲学入門書がわからない。
著者がよく例にあげる場面がある。
リンゴがある。それを見ている「私」がいる。
ここに哲学の原初的風景を著者は見いだしているようである。
存在するとはどういうことか。見るとはなにを意味するのか。
リンゴを見ている「私」とはいかなる存在か。リンゴとおなじ物体か。それとも精神か。
リンゴをまえにして疑問を感じるのが哲学者とでもいいたいようである。
この態度がわからない。リンゴがあったら皮をむいて食べるのがわたしである。

一点、わかったような気分になったところを紹介する。
哲学とは、考えることだ。
だが、考えるといっても、我われは常にいま生きている時代・場所の制限を受ける。
じぶんで考えていると思っていても、
たかだか社会習慣の反映、または社会規範への反発かもしれぬ。
ほんとうに考える=哲学をするというのは、
社会(時代・場所)から一歩でも二歩でも離れなければならない。
これを果敢にも実行したのが、名だたる哲学者たちなのである。
すなわち、個々の哲学者の思想は、考えるためのモデルにすぎない。
なんのモデルか。我われがじぶんで考えるためのモデルである。
しこうして、「哲学史<有名哲学者<個々の哲学」となる。
哲学史を学ぶのも、哲学者の思想を引用するのも、哲学ではない。
それらはあくまでも我われが哲学をするときの手助けになるにすぎぬ。
さあ、哲学をしよう、と著者はまとめる。なんのためにか。
哲学は「自分が何であるかを了解する技術」であり、
「困ったとき、苦しいときに役に立つ」からである(まえがき)。

いま苦しくて困っているが、この本が役に立ったとは思えないことを最後に記す。
突き放したような感想で申し訳なく思う。
「絵でわかる西洋哲学」(VALIS DEUX/日本実業出版社)

→哲学は絵でわかると思いますか?
どう考えても、わかるはずないですよね。
実際、この本を読んでみて(90分!)まったく理解できなかったわけですが。
ここで、大きな問題が。いくら105円とはいえ、この本を買ったわたしです。
将来、手ひどい詐欺にあいそうな予感がわがことながらあります。
注意もしています。
道ばたで声をかけてくるひとは、みな詐欺師だ。
うまい話があっても、決して信用しない。
ありきたりな人間不信かもしれませんが。
人間には厳しいわたしも、どうしてか書籍には甘くなってしまう。
甘い話にうっかり乗せられる。「絵でわかる西洋哲学」。
「金持ちになる10の方法」を買うのと近似したあさましさがあります。

こんな本でも、ある観点から見ると、西洋哲学がわかる。
共著です。そのひとりの経歴が、なんとも哲学的で。
大嶋浩。高卒。単身フランスへ。苦労をして、帰国後に編プロを設立。
くさいやつですよね。若者を見かけたら説教しなければ気がすまないやつ。
おれの若いころはな、が口癖。大学教育は受けていないが(だからこそ)趣味は哲学。
まあ、コンプレックスがあからさまな人間です。
反面、じぶんが特別だと異常なほど過信している。
いかにも哲学的な存在というほかありません。
はっきり言います。哲学のこういうところが嫌いです。
劣等感と自尊心、自意識過剰、選民意識がうずまく哲学の世界は端的に恥ずかしい。
速読の新たな秘密を発見したようである。
惜しみなく公開する。
それは、ある書店でのこと。
月に1回、大学病院へ通っている。
薬の待ち時間がかならず1時間ほど発生する。
病院そばの書店で時間をつぶす。

月に1回である。
暇つぶしという理由のおかげで、ふだんは手にもしないような本も眺める。
速読の本があった。すべての本は30分で読めるとタイトルにある。
よし、やってやろうじゃないか、と思った。
よーいドンである。スタート。10分もかからずその本を読み終わった。
そのとき、ふと気づく。天啓がひらめいたのはこのときだ。
思えば、この書店に入ってからもう4冊も立ち読みしているではないか。
それぞれの本を10分程度で読んでいる。
日野原重明のエッセイや自己啓発書の類だが、それでも読んだことにはかわらない。

速読とは、なにも、むずかしいものではなかった。
関心をもったところだけを読む。これが速読の秘訣ではなかろうか。
やりかたはこうである。
書籍を開く。目次を見る。読みたいところの、だいたいの見当をつける。
最初のページをめくる。一定の速度で、ひたすらめくる。
目というものは実によくできている。
じぶんの興味のある部分では、ふしぎとストップする。
ほんとうである。ぜひ試してほしい。
で、関心のある箇所の情報を仕入れたら、またページをめくりつづける。
やわらかいノンフィクションなら10分で読み通せるはずだ。

速読=立ち読みである。

ここで確認しておきたいことがある。
速読はトクかどうか。
速読術の著者は、速く多くの本を読めればトクだとかたくなに信じている。
けれども、費用を考えたら果たしてどうだか。
10冊の本を読むにはそれだけのおカネがかかるでしょう。
図書館で借りるという手もあるが、ただの本は読まないのが人間というもの。
速読がトクかどうかはわたしにはわからない。
今回わかったのは、速読について書かれた本ほど、
速読しやすいものはないということである。
つまり、中身がない。立ち読みされてしまう。
新刊書店で買った本がでてこないのでおかしいという
感想をお持ちのかたがいるかもしれない。
買ってはいるのである。
だが、どうしてかうまく物語に組み込むことができぬ。
大型書店に行った。
無数にある書籍のうちから1冊の本が目についた。
全国共通の価格で買った。
こんなことをわざわざ書く気にはならないのである。
月並みな恋愛物語が聞くに堪えないのとおなじかもしれない。
職場で知り合った。
たがいの学歴は近似しているが、それでもわずかに夫が上である。
身長も同様。夫がわずかに高い。
おなじ職場ゆえ、双方の給与明細は想像がつく。
まあ、この程度だろう。釣り合う、という感覚である。
ありきたりなパッケージ式の結婚式を挙げる。
それでも本人たちは自由恋愛だと信じているのだからおめでたい。
話はいささか脱線したが、新刊書店で書籍を購入するのは、
なぜかはわからぬがこの職場結婚と近似したものを嗅ぎとってしまう。

古本はこうではない。
古書購入にはドラマがある。あるいは運命が、宿命が。
ある場所である古本に出会うのは縁としてしか説明できないものがある。
このタイミングに、この価格で、このタイトルの書籍と直面する。
この出会いには、大きなものを感受することが可能である。
天与のもの、などといったら大げさだと笑われるだろうか。
ある書籍を定価で買う人間は、日本全国無数にいるのだろう。
だが、この古本をこの価格(105円!)で買う人間は、
もしかしたらわたしだけかもしれない。
ここには物語がある。因があり、縁によって、果となる。
そんな人間のこころにしか感じ取れぬ因果関係が古本にはある。
新刊購入を饒舌に語れぬゆえんである。決して、決して、ケチなわけではない!

最近、買った新刊は下記。

「キリスト教は邪教です!」(ニーチェ/適菜収訳/講談社+α新書) 800円+税
「哲学の教科書」(中島義道/講談社学術文庫) 1100円+税


レジで一瞬、絶句した(高い……)わたしは、いつから変わってしまったのか。
数年前は書籍代を惜しむようなことはなかった。
自己投資にカネは惜しまぬ。うん千円を1回でつかうこともままあった。
これは精神の後退だろうか。
いや、物語を求めているだけだ。古本はよろしい。
古本、コホン、こほん♪ 咳をしてみた。
本とはなんぞや。
賢明な諸兄諸姉、あわれな Yonda? に教えてはくれませんか。
人間にもパンダにもなりきれず、ぱくぱく本ばかり食べているこの生き物をあわれんで。
わからないのだ~よ。
本を読みたくて読んでいるのか、
読まなければいけないという強迫観念から読書しているのか、
本を買っているから精神および肉体の都合上やむなく消化しているのか、
いや、大転回、本を買いたいから読んでいるに過ぎぬのか。
とまれ、本を友にして生きている。くいーん♪ 
(パンダ+人間)÷2=くいーん♪ これは半獣半人のうめきであーる。

たったった(足音)。ヨンダッシュで近所の神保町へ。
週末恒例の小宮山書店ガレージセールをのぞく。
どれほど一般に知られているかはわからないが、
この小宮山書店は神保町古書店の老舗。
いちばん神保町らしいなどと書いたらほめすぎかもしれないが。
1階の日本文学はビニールでつつまれている。
2階の外国文学は、どうしてか立ち読みできる。
これは彼我(ひが)の文学の相違かもしれぬ。
国産品は味見なし。舶来品はお試しあれ。有名古書店の思想である。
まあ、この古本屋のどこが神保町らしいかといったら、金額なのだが。
許容範囲ぎりぎりの高額とでもいうのか。
高い! と一刀両断してしまったら、品性が疑われるとおそれ、こんな言い方をした。
恥ずかしいが、ここで古書を買ったことは一度もない。

小宮山書店の駐車場で週末(金土日)開催されるガレージセールは敷居が低い。
3冊500円。1冊でも、2冊でも、3冊でも500円。
1冊しか買わないと「3冊で500円ですよ」とあんちゃんにいわれるが、
それでも1冊しか購入しない壮士を何度か目にしたことがある。
かっこいいと思いつつ、なんか無理してはいないかと邪推するわたしである。

「小説家への道Ⅱ」(「鳩よ!」編集部)
「書いて稼ぐ」(「鳩よ!」編集部)
「作家養成講座」(若桜木虔/KKベストセラ-ズ)


ある意味、猥本(わいほん)を買うより恥ずかしい買い物だが、
バイトのおにいちゃんはタイトルをまったく見ないで会計してくれるのがうれしい。
小宮山書店ガレージセールは、おそらくだが、
神保町でもっともカップル率が高いのではないか。
開かれているというイメージがカップルにはいいのかもしれない。
だがな、おまえら。神保町は断じてデートスポットではない。戦場なんだ。
本棚のまえでえんえんとはしゃいでいるのはやめてくれ。
いつまで経っても、その棚にある本が見られないじゃないか。
これ読んだことある~といった甘い会話もここでは禁止だ。
だれがいるかわからないんだぞ。わたしみたいのがいるということである。
生半可な「知ったか」は、心底から軽蔑されるのが、ここ神保町。
いっておくが、今回書いたことは神保町のルールである。
まったく私情をはさんでいない。
神保町(千代田区)では条例により歩きタバコが禁止されている。
同様、まだ明文化こそされていないが、この古書店街での逢引(あいびき)はご法度。
よろしくお願いしたい。

さてさて、御茶ノ水へ。中央線に乗車。月に一度の荻窪詣で。
前回は大漁だったから、今回はどうだろう。
いや、こんな弱気ではいけない。強気、強気でいかねば。
到着。早速、ささま書店へ。ううむ。

「私の中のキリスト」(井上洋治/主婦の友社)絶版 105円

もはや新約聖書を読んでしまったこの身(えっへん)。
いまさらキリスト教概説書でもないだろうとは思うが、
ささま書店でなにも買わないのも悔しいので、やむなく購入。

ブックオフ荻窪店へ。
今日はダメだとすぐさま直感する。
こういう予感はかならず当たる。
みずからを熟達した漁師にたとえたら笑われるだろうか。
105円棚はいいことばかりではないのはご存じ?
かつてじぶんんが定価(1000~2000円)で買った本を見つける悔しさは、
絶句するほかない。今日はこの絶句が多いのである。
じぶんが持っている(かつて定価で買い、読んだ)本を次々と発見する。
こういう日は収穫の望みが薄い。これは坊主かなとも疑う。
なんとか2冊購入して面目を保つ。

「社会人心得入門」(山口瞳/講談社プラスアルファ文庫) 105円
「ウソの論理」(ひろさちや/中公文庫) 105円


ウソでしょう! と叫びたくなる。
ひろさちやの文庫。奥付を見ると2006年4月出版。
いくらなんでも百円落ちが早すぎはしないか。
もう1冊も、いま検索して驚愕する。
2003年8月出版の文庫本が、もう絶版になっている。
いくらなんでも絶版が早すぎはしないか。
現代という時代なのだろう。なにもかにもスピード重視。
早ければ早いほどいい。我われが生きている時代である。
わたしも取り残されてはいけない。
この日は、めったにやらないスーパーヨンダッシュで帰宅する。
「ワールドガイド インド」(るるぶ)

→ガイドブックを読む愉しみを発見したのはいつだったか。
どのページを見ても、思い出がよみがえる。
ほとんどインド全土を放浪したからである。
精神が悲鳴をあげたインド人のどぎつさも、
肉体が限界をうったえた連日のカレースパイスも、
いまではひたすら懐かしい。行ってよかったと思う。
生きているうちにやりたいことはやるべきである。
いつ死ぬかはだれにもわからないのだから。

インドは死に包まれた国である。
インド人はみなみな死を意識して生きている。
死から生を見ている。死を見据えながら生きている。つまり、宗教がある。
インドは宗教大国である。
わたしが行った順番に記述してみる。

ムンバイ=ゾロアスター教。
エローラ=ジャイナ教。
ゴア=キリスト教。
カンニャクマリ=ヒンドゥー教。
コーチン=ユダヤ教。
カルカッタ=シーク教。
ブッダガヤー=仏教。
デリー=イスラム教。
ダラムシャーラー=チベット密教。

多様な宗教のどこを見たら、相違がわかるのか。
死を見ればよろしい。その宗教が死をどのように定義しているか。
死は科学がわけいっていくことができない最後の聖域である。
死がある限り、宗教は必要とされる。

死に関係したインドでの思い出をひとつ書く。
インド人は聖者でもなんでもない。
長距離バスで移動しているときのこと。
満員のバス車内が、突然盛り上がることがあった。
乗客全員が一体になったようなどよめきである。
肩をたたかれて、喜色満面のインド人にあれを見ろといわれる。
首をのばすと、ひとが血を流して死んでいる。
交通事故と思われる。死を見て大はしゃぎするインド人――。
インドの交通事故は殺され損である。
めったなことでもないと警察すら来ない。
加害車両は逃走するのが当たり前。捕まることもない。
インドは人口が多いから、ひとがひとり死んだくらいでは騒がないのかもしれない。
かえって、苦に満ちた現世から去ることができて、おめでとう!
そんな雰囲気さえある。
バスはしばらく停車した。運転手が死体を見飽きたのであろう。またバスが動きだす。
死体をあとにしながら、なんてこの国は疲れるのだろうとわたしはため息をついた。
「オリーブ地帯」(井上靖/文春文庫)絶版

→お酒をのみながら、井上靖の青春小説を読了。
無趣味のわたしにとっては、飲酒時の読書が唯一の安らぎのときである。
しらふの読書ではないから、あたまを使う必要はない。
ぼんやりしながら、わかりやすい文章で記された、潔癖な物語を享受する。
井上靖独特のきれいなお話とアルコールに、うっとりとする。

ふしぎでしようがない。
信仰をもたない井上靖がどうしてこんな劇的な物語を書くことができるのか。
信じるものがある作家は、あちらから物語を造形するものだ。
けれども、井上靖に特定の宗教への信仰はなかったようである。
井上靖といえば、中国である。
「敦煌」「天平の甍」「孔子」など大陸を舞台にした代表作がある(未読ですが)。
もしや「論語」が物語の母胎なのだろうか。
いや、いわゆる儒教を宗教といってよいのか。
政治規範や人生訓といったイメージがある。
それとも老荘思想。道教から物語を生みだしたのか。
老子も荘子も読んだことがないので判断がつきかねる。
飛躍して、ギリシアのディオニュソス神(バッカス)という可能性はどうだろう。
お酒の神さまである。
井上靖は酒豪である。ウイスキーが物語を創造したのか。
この世ならぬあの世を信じていないと、ああも美しい物語は書けないと思うのだ。

信じるとは、疑わないこと。
これは近代人にとって狂気を意味する。
疑うことによって、近代の諸現象はスタートしたのだから。
だが、懐疑から物語は生まれない。
汚いものから目を背けることを逃避と愚弄する人間は、
決して井上靖の魅力がわからないであろう。
それでは人間がわかりませんよといっているのである。
「石濤」(井上靖/新潮文庫)絶版

→井上靖最晩年の短編小説集。
収録作品は「石濤」「川の畔り」「炎」「ゴー・オン・ボーイ」「生きる」。
「生きる」はボケがテーマの井上靖80歳時の作品。
自覚はあったことがわかる。

「とうとう呆(ぼ)けてしまったかと思う。
呆けてしまったなら、まあ、それはそれで押し通すしかないが、
その日一日、時折、人の名と、その名を持つ実体とを重ね併せる、
奇妙な作業を、何回か、自分に課す」(P154)


「川の畔り」「炎」「ゴー・オン・ボーイ」はボケ小説。
まったく意味が取れない。支離滅裂な心象風景が綴られている。
編集者はさぞ苦労したものと思われる。
まさか文壇の大御所である井上靖の原稿にケチをつけるわけにもいかないだろうから。
編集長も、天下の井上靖の原稿をボツにするわけにはいかない。
これは文学だ。井上靖が書いたのだから文学でなければならない。
こうして文庫化までされたということは、
あんがい簡単に文学的催眠術が成功したのであろう。
「図解雑学 哲学」(貫成人/ナツメ社) *再読

→はじめてこの本を読んだときは哲学がわかったような気になったものだが、
こうして再読してみると、哲学というのはわからないものだと嘆息するほかない。
哲学が取り扱うものを列記する。
真理、神、正義、幸福、自由、自分、認識、社会、言語――。
どうでもいいことにしか思えないんだな~。

真理なんて、知りたくもない。ずっとだまされていたい。
神さまはお願いしても聞いてくれないから嫌い。
正義とか聞くと、むしずが走る。
幸福は一杯の酒をのむとき。
自由な人間なんて、どこにいるんだい?
自分は、意志とは無関係に産み落とされ、いつ死ぬかも知らされぬ存在。
認識を改めたところで、人生、所詮は運がすべて。
社会なんてどうでもいいから、個人として裕福になりたい。
言語は日本語しかできません。

大切なことはひとつしかないと思っている。
死である。
死ねば終わりである。
そして、みなさまもわたしもいつ死ぬかはわからない。
極端なことをいえば、あす死んでしまう可能性だってある。
哲学は死を見ないようにしているのではないか。
死は宗教の領域に属する問題である。
死をまえにしたとき、哲学の諸問題がどれだけくだらなく見えることか。
哲学者は開き直ることだろう。
哲学は、死ぬまでの暇つぶしだ、なんだと。
即答する。こちらにはそんな時間はない。

これからしばらく哲学をつまみ食いする予定。
役に立たないといわれる哲学を、どうにか役立てる方途はないものか。
このブログの記事に哲学者の名前を引用するようになったら、
少しは見栄えがよくなるだろうかと夢想する。
Yonda? 先生などと、先生づけで呼ばれる日が来るかもしれない。
逆効果か。バカが露見して嘲笑の対象になる恐れもあるぞ。
あれは20年以上もまえのテレビドラマ。
山田太一ドラマ「想い出づくり」。レンタルビデオで視聴。
女の子を口説くときにキルケゴールを引用する美青年が登場した。
大笑いしたものである。
裏を返すと、哲学が笑いの対象としてでも生きていたということである。
現代のテレビドラマは――。
「キリスト教は邪教です!」(ニーチェ/適菜収訳/講談社+α新書)

→現代語訳アンチクリスト。
これは笑えるな~。大笑いした箇所の引用から入る。

「『新約聖書』の世界はほとんど病気。
社会のクズや神経病患者、知恵遅れが、こっそり皆で集まったような、
まるでロシアの小説のような世界なのです」(P78)

「『新約聖書』を読むとき、私はいつも手袋をはめています。
汚らしくて触りたくありませんからね」(P113)

「言ってみればキリスト教は、『人間のダメな部分』の集合体なのですね。
キリスト教によって、社会のクズやガラクタが権力にありつこうとするわけです」(P127)


訳が正確ではないという指摘があるようだが、
ことさら正否にこだわる世界で生きているわけではない、
学者ならぬいち読者としては、おもしろければ全然OK!
大笑いしながら、読み終えた。
訳に比例したいいかげんな要約をすると、

キリスト教の正体はウソ!

真理を重視する気高いギリシア思想の影響下に建設されたのがローマ帝国。
健康な宗教のもと、健全な国家が運営されていた。
ここに東方から侵入したのが、ウソの塊のようなキリスト教。
これが世界史の最初の間違いであったとニーチェは指摘する。
世界史がまっとうな道へ戻るチャンスが一度あった。
ギリシア・ローマ思想の復興をめざしたルネサンスである。
ここで人間はキリスト教を根絶やしにすべきであった。
だが、あるドイツ人がこの妨害をしたと、同国人であるニーチェは嘆く。
ルターである。ルターはキリスト教に延命処置を施してしまった大バカ者。
かようにニーチェは世界史を気高き真理(科学を内包)とウソ(キリスト教)の対立と見る。
徹底的にキリスト教を愚弄する。

おかしなものである。ひねくれてるんだろうな。
新約聖書を読んでいたときは、ニーチェとおなじような思いを抱いた。
ところが、このようなアンチ新約聖書を読むと、かえってキリスト教にひかれる。
クリスチャンでもないのに、キリスト教のすばらしさを主張したくなる。
たしかにキリスト教は狂っている。
しかしニーチェよ、狂人の美しさをきみは知らないのか。
ああ、キリスト教はウソで塗り固められているのだろう。
しかしニーチェよ、ウソと知りつつだまされる幸せがあるのだよ。
幼稚な理想主義者。それがきみの正体だ、ニーチェくん!

むかしからニーチェが肌に合わない。
この哲学者も、愛読者も苦手である。
間違っていたら指摘してほしいのだが、ニーチェというのは枠組みを作るでしょう。
少数のエリートと、その他大勢の下層民。
いうまでもなくニーチェ自身と、その読者はエリートに分類される。
で、ルサンチマン(ねたみひがみうらみ=内的復讐感情)満ちあふれる大衆を見下す。
どうしてかわたしはじぶんをエリートだと思うことができない。
ニーチェが蔑視するいやしい人種におのが位置を見いだしてしまう。
だって、うん、どう考えても、ルサンチマンの塊だからなわたし。
嫉妬怨念呪詛で生きている弱者であることを否定できない。
ニーチェのようなやつを見かけたら、ひきずりおろしたくなる(苦笑)。

ニーチェはこの小著を書き上げたあと発狂したという。
その意味することは、弱者の勝利である。ルサンチマン万歳!
ニーチェはアホだったわけだ。
キリスト教から逃げるには無視するほかなかったのである。
正面から闘いを挑む。つまり、憎む。それは愛とあまりに近似している。
憎悪は、愛情の親戚なのである。無関心こそ愛に敵対する態度である。
キリスト教に食い殺されたこの西洋哲学者を眺めるのは、
かの宗教とは無縁の日本人にとっては悪くない見世物である。
この新書が売れた一因とも思われる。
「にぎやかな天地(上下)」(宮本輝/中央公論新社)

→わんわん泣きながら読んでおいて、批評も感想もないわけである。
宮本輝。古今東西で、唯一の作家である。
どのような距離をとって向きあえばいいのかさっぱりわからない。
この作家について書くとなると、支離滅裂を避けられない。
いちばん身近な場所にいると思うときがあれば、
決して手の届かない天空に鎮座しているようにも思える。
人気作家である。いまは教科書にも登場するらしい。ファンも幅広い層にわたる。
だが、と思うのだ。あなたたちのどれだけが宮本輝の怖さを知っているか。
この作家は愛や優しさを描くだけの作家ではないんだぞ。
日本でただひとり地獄を克明に描写することができる文学者なんだぞ。
そう叫びたくなる。

宮本輝の小説はあたまではなく、こころに食い込んでくる。
私事を書く。
こういうかたちでしか、わたしはこの作家と対峙することができないのだ。
6年前の梅雨、母親が自殺をした。
目の前で飛び降り自殺。下にいた。母が上から落ちてきて、血まみれになり死んだ。
母はわたしが下にいることを知ったうえで、自殺を敢行したのである。
最後に口にしたことばはわたしの名前であった。
名前を呼ばれ、上を向いた。母はつかまっていたベランダから手を離した。
日記が遺されていた。そこにはわたしの悪口がこれでもかと書かれていた。
何年にもわたる怨恨がである。母は精神病だった。大好きな母だった。

宮本輝の小説「にぎやかな天地」を読みながら慟哭(どうこく)する。
ああ、と思う。ため息まじりに確信する。
きっとわたしも、いつかはわからぬが、自殺するのだろう。
それも確実に飛び降り自殺である。
だれのまえで飛び降りるかはわからない。
だが、かならずわたしは飛び降り自殺で生を終えるであろう。
そうしてはじめてある宿命が完結するのだ。
ひとめぐりして円が閉じるためには、わたしが飛び降り自殺で絶命するほかない。
これは遠いむかしから決められていたもので、人智の及ばぬ不変の法則なのだ。
母があのようにわたしのまえで飛び降りることが決まっていたように、
わたしが飛び降り自殺で死ぬことも遥かむかしから何ものかによって定められている。
宿命である。デビュー時から宮本輝が一貫して描きつづけてきたものである。

宿命は、悲劇のかたちをとってあらわれる。
宿命ということばからイメージするのは、死や不幸の連鎖であろう。
ところが、宮本輝の小説はすべてハッピーエンドである。
かれの小説のなかで何が起こっているというのか。

宿命転換である。

宿命を描く作家ならほかにもいるだろう。
水上勉や井上靖といった名が思い浮かぶ。
だが、宿命転換を小説で展開できるのは宮本輝だけなのだ。

宿命転換。聞きなれぬ用語だと思う。
これは宮本輝が所属する、日本最強の宗教団体・創価学会の思想である。
創価学会は日蓮を大聖人とあがめる宗教団体。
どういう団体か簡単に説明する。宮本文学とも深く関係すると思うからだ。
病人や貧乏人に創価学会員は接近する。
子どもが障害をもって生まれた若夫婦なども絶好のカモ。
不幸な人間の悩みを学会員は真心を込めて聞いてやる。
どうして不幸なんでしょうという問いには、確信をもってこう答える。

それは宿命です。

宿命なので過去の不幸はあきらめるしかない(ステップ1)。
けれども宿命を転換することのできる教えがある(ステップ2)。
創価学会へ入信して、勤行すれば幸福を勝ち取ることができる。
浄土真宗などのいうあの世の幸福ではない。現世利益が得られる(ステップ3)。
完全な教説だと思う。妙なる教えである。南無妙法蓮華経である。

宮本輝は、宿命と、宿命転換を描く作家である。
宿命にもてあそばれ死ぬもの。宿命転換を遂げ蓮華の大輪を咲かせるもの。
幸不幸、運不運のはざまで、花開き枯死する人間の綾なす物語。
生死を見極める宮本文学の魅力である。信仰が生みだす文学である。

「そのときは理不尽な不幸や死やと思うしかなかったものが、
十年二十年たって、残されたものたちに大きな意味を運んでくる……。
いや、大きな意味があったのやと、わかる瞬間をもたらすのやとしたら、
死というものは、生きている者が息をせんようになって、消えていってしまう、
という程度の小さな浅いもんではないんやなァ」(下巻 P259)


この部分は「にぎやかな天地」全体を要約している。
ぶすいを承知で、あとがきからも引用する。

「大きな災厄が起こったとする。
そのときの悲嘆、絶望、慟哭というものは、未来を断ち切ってしまうかに思われる。
だが、その大きな悲しみが、五年後、十年後、二十年後に、
思いもよらない幸福や人間的成長や福徳へと転換されていったとき、
私たちは過去の不幸の意味について改ためて深く思いを傾けるであろう」


母を思う。
宮本輝の小説を支えに生き抜いた数年間というものがわたしにはあった。
あれから6年である。
宮本文学では、ふしぎと都合よく主人公に幸運が舞い込む。
ところが、わたしにはこの6年というもの、ろくなことが起こらない。
南無妙法蓮華経というつもりはない。つまり、創価学会に入信する意思はない。
とすると、母とおなじ道を歩むほかないのか。
このまま不運のうちに死んでいくのか。それとも待っていたら幸運もあるのか。
南無妙法蓮華経を唱えぬわたしである。

「運て、確かに存在するもんなァ。
運ていう言葉でしか説明でけへんことが、ぼくらの人生には多すぎる。
そやけど、なんで運のええ人と悪い人がいてるねん?
運て、どこからどうやってその人にまとわりついてくるねん?
どうやったら、運のええ人間になれるねん?


いったい運て何やねん? 」(上巻 P345)