「インドの大地で」(五島昭/中公新書)絶版

→インドへ行こうか迷っているかたがいたらぜひ背中を押したい。
行ってらっしゃい、見てらっしゃいと肩をぽんぽんたたきたくなる。
わずか3ヶ月のインド放浪で学んだものは、大学の4年間を凌駕する。
こういっても決して過言ではないほどインドは日本人を刺激する。
勉強になるというのとはちょっとちがう。むしろ勉強をする気にさせるというのか。
やる気を起こさせる、とでもいおうか。
日本とは対極の国である。
たとえば五島さんはインド人をこう評している。

「インドに住む日本人のかなりの部分が、インド人嫌いである。
インド人に対して日本人が抱く違和感は、先に挙げた卑屈な(と日本人には思える)
金銭感覚にとどまらない。あくことのない自己主張、空疎な長広舌、
社会的地位の高い人物にしばしば見られる根拠のないプライドと傲岸不遜。
およそ日本人が美徳と見なす性向と正反対のものを、
彼らは一身に備えているかに見える。
したがって、インド体験とは、インド人との違和感に耐えつつ、
自分の精神的均衡を保つ不断の努力を意味する、といっても誇張ではない」(P53)


インドへ行くのは若ければ、若いほどいい。
五島さんのようなおとなは、インド人は嫌い、で終わってしまうが、
若者ならこう考えることができる。じゃあ、日本ってなんだろう。
こうしてわたしは日本へ興味をもつようになった。
日本の古典とは。世界における日本とは。
2年前インドで受けた衝撃が、いまもわたしを衝き動かしているのかもしれない。
インドは、めちゃくちゃである。
よくいわれることだが、すべてが露出している。
糞尿、死人、差別、狡知、麻薬、信仰――。
みなみな日本社会では隠されているものである。
インドではこれらすべてを路上で目撃することが可能なのだ。
かの国のふしぎはカースト制度に行き着く。これほど部外者を寄せつけぬものはない。
著者はこう分析する。正否はわからないが、とりあえず紹介する。

「カーストには二つの顔がある。
すなわちカーストは“結婚”や“職業世襲”を通じて、
人間と人間を結びつける“きずな”の役割を果たす一方、
カースト内部の結束と団結は、外部の者に対する差別意識を生み、
インド社会に亀裂をもたらしている。
カーストはインド社会に“統合”と“分断”という相反する二つの要素を与えている」(P83)


このカーストを広くつつみこみ、ゆるやかに緩和するのは、
これまた日本人にはわかりにくいヒンドゥー教になるわけだが、
そこまで著者の分析は進まない。
日本人にはとうてい不幸としか思えない人間が、
なぜインドでは笑顔で充実した毎日を生きることができるのか。
これもヒンドゥー教の深遠に吸収される問いのひとつである。
では、なぜかの人間はインドへ生まれて、我われは日本に生まれたか。
これはヒンドゥー教のみならず宗教全般へわけいる入口である。
インドには無数の入口がある。インドを経由して、どこへでも行くことができる。
わたしはどこへ行こうとしているのか。
最近、ふたたびインドからの呼び声が聞こえてきた。
まだだ、と思う。まだ前回もらった宿題の半分も答えていない。
つぎへインドへ行くとすると3度目になる。この年齢ではもう無理かなとも思う。
インドは若いうちに行きましょう。
「となり町戦争」(三崎亜記/集英社)

→戦争反対のケイモウ小説。
書かなければならないものがトクベツない、
いい子ちゃんがお勉強をして書いた小説といったおもむきがある。

よく駅前で拡声器片手に騒いでいる集団がいる。
うるさいと何度か抗議したことがある。
戦争になってもいいんですか~。
私たちがこれを訴えないと戦争が起こるんです。
憲法九条改悪阻止!
だれも聞いちゃいないじゃないですか。
いいえ。聞いてます。
あなたは戦争になってもいいんですか。
べつにかまいませんよ。
死ぬかもしれないんですよ。
いいですよ。それよりうるさいから、やめてください。
あと40分です。我慢してください。
私たちはみんな一生懸命なんです。どうです。聞いていきませんか。

戦争反対が絶対の正義になっている。
戦争反対のためだったら、なにをしてもいい。
戦争反対のためなら、左翼の井上ひさしは、
この程度の小説を絶賛するわけだ(帯の惹句)。
なんだかな~。

三崎亜記は優等生。1970年生まれ。
この世代なら、こころのどこを点検しても戦争反対はでてくるはずがないのである。
戦争を体験していない人間の戦争反対ってなんだろう。
高校生の読書感想文じゃないんだから困ってしまう。
たとえばこんな部分。引用する。

「僕たちが戦争に反対できるかどうかの分岐点は、
この『戦争に関する底知れない恐怖』を自分のものとして肌で知り、
それを自分の言葉として語ることができるかどうかではないかと。
スクリーンの向こうで起こっているのではない。
現実の戦争の音を、光を、痛みを、気配を感じることができるかどうか」(P126)


小説を副業で書く公務員・三崎亜記♂は律儀に反省する。
実像は、上司からも市民からも受けの良い公僕と思われる。

「考えてみれば、日常というものは、そんなものではなかろうか。
僕たちは、自覚のないままに、まわりまわって、誰かの血の上に安住し、
誰かの死の上に地歩を築いているのだ」(P193)


ちょっと待て。さっきから「僕たち」ってだれだよ。
一緒にしないでくれ~。
いまどきの若者だけど戦争反対な「僕たち」ってか。
「僕は」ではなく「僕たちは」にどうしてなってしまうのか。
戦争反対者はみんな「僕たち」になる。
駅前で騒いでいる集団もそうである。
個人で戦争反対とはいわない。
個人でやっていたら、わたしは拡声器を取り上げているから。
うるさいと抗議すると、いつも集団に囲まれる。
いまの時代に大新聞と一緒にみんなで戦争反対と騒いでいる人間と、
太平洋戦争中にこれまた新聞と手を組み鬼畜米英と騒いでいた連中とのあいだに、
なにかしらの共通点を感じてしまうのはわたしだけだろうか。
そして「となり町戦争」は、なぜ「僕は」ではなく「僕たちは」というのか。
「ライフコース論」(大久保孝治・嶋崎尚子/放送大学教育振興会)絶版 *再読

→大学時代の教科書を再読する。
ライフコースとは、社会と個人の関係を研究する学問。
問われているのは、ある人間がほかの人生ではなく、なぜその人生を選んだのか。
人間は制限をもって生まれてくる。
遺伝的制限。時代的制限。地理的制限。
ライフコース論では、遺伝的要因を無視。
「いつ・どこ」に着目する。時代、場所である。
たとえば、いつ生まれたかということによって、ライフコースは大幅に左右される。
バブル景気ををいつ経験したか。
このころ就職した世代は甘い汁をじゅるじゅる。
いっぽうで、直後に起こった就職氷河期。
なんでじぶんたちの世代だけ……と当時の大学生は思ったことだろう。
ライフコース論の主張は、人間は自由ではないということ。
かならず社会環境のばくだいな影響を受けている。
あるひとがわたしの人生はじぶんが決めたと思っていても、
実のところ、それは社会との関連で決定されたに過ぎないと分析する。
これがライフコース論に一貫する姿勢である。

ライフコース論は、社会学の亜流といってよい。
学生のときはこのライフコース論および社会学の思考法にだいぶ感心したものだが、
いまとなって見直すと粗(あら)が目立つ。
社会学は、うん、いんちきだよ。子どもだまし。
データを捏造して、恣意的な物語をでっちあげるのが社会学では?
ライフコース論にも、おなじようないかがわしさを感じる。
ひとつのライフコースがある。
それは観察者(研究者)にとっては無数にあるライフコースのひとつかもしれないが、
そのただなかを生きる当人にとっては1回限りのものなんだぞ。
これを学問できると考えるのは、よほど世間知らずの研究者か、
もしくはおなじように人生のなんたるかを知らない学生。この二者である。
社会学が学生に人気のあるのもわかる。
なんとなく人生がわかったような気になることができる。
だが、おい、社会学門徒よ。
ライフコースの終わりは死でしょう。
死をどう定義するんだい。
なんでも説明する便利な社会学でも、こればかりは手に負えないだろう。
なに? 「死=ライフコースの終了」だと?
おバカさん。それはデータの死でしょう。あなたの死はいったいなんですか?
この問いのまえに社会学は沈黙するのみである。
「新約聖書」(新共同訳/日本聖書協会)

→世界的ベストセラーの聖書を読む。
日本でも毎年、かなり売れているという。
だが、ふしぎ。一向に信者数は増えないのがキリスト教(苦笑)。
売れた聖書も、ほとんどは読まれていないと思う。
読みかたを間違えているのではないかと想像する。
読書は娯楽である。聖書も娯楽として読んだ。時おり声をあげながら。

「うっひょ~。およよ。やるねえ。キチガイじゃん」

ちくいち説明する。
「うっひょ~」=これがあの有名な部分か~。名所観光的感動。
「およよ」=極論ともいうべき暴論をさらりというのでひるむ。
「やるねえ」=思わず乗せられてしまい、巧妙な人心操作にうなる。
「キチガイじゃん」=大声で熱狂的に聖書を朗読しているじぶんに気づく。
聖書のおもしろさを、分析するとこの4つ。
これほど充実した読書をしたのは久しぶりである。
社会的成功者が高みから「じぶんができたのだから、みんなもできる」
といっているようで恐縮だが、社会落伍者のわたしもおずおず申しあげる。
わたしが読めたのだから、新約聖書はみなさまも読めると思います。

悪。罪。救い。赦(ゆる)し。

聖書を読みながら、つまずく言葉を列記した。
日本人には、この感覚がわからないのだ。悪。罪。救い。赦し。
日本の中で唯一、聖書を理解できるのは犯罪者だと思われる。
受刑者。とくに殺人を犯した者。
なまじ神父や牧師よりも、日本では殺人犯のほうが聖書を理解できるのではないか。
この矛盾はどうして生じるのだろうか。親鸞の悪人正機説に通じるものを感じる。
ひとをあやめる。これは悪である。法律的にも罪とされる。
被害者の遺族はさぞじぶんを恨んでいることだろう。
そのとき、救いとはなにか。赦しとはなにか。かの受刑者は考えるようになる。
ふつうに生活をしている日本人は、悪とも罪とも無縁である。
そもそも日本人には原罪意識というものがない。
罪も悪も感じない日本人は、したがって救いや赦しとも真剣に向き合うことがない。
聖書およびキリスト教が、日本になじまないゆえんではないか。

わたしも同様。悪、罪、救い、赦しといわれてもぴんと来ない。
なら、どこをとっかかりにして聖書を読んだか。
読書というのは能動である。
こちらが意欲的に向かわないと、相手からの返答はない。
書物は紙くずに過ぎぬ。それを書籍にするのはこちらの問題意識である。
これをとっかかりといま呼んでいる。聖書のどこにとっかかりがあるか。
死である。だれもが避けられぬもの。死――。
新約聖書には無数の挿話があるが、ただひとつを紹介したい。
聖書なんてと思うかたもおられるでしょうが、引用はこれっきり。
多少、長い引用ですが、おつきあいください。

~それから、イエスはたとえを話された。
「ある金持ちの畑が豊作だった。
金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』
と思い巡らしたが、やがて言った。
『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
こう自分に言ってやるのだ。
「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。
ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。
お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」~
(「ルカ」12 17-21)


卑近な要約をするとこうなる。

死んじゃえば終わりじゃん!

そのとき、さあ、どうするんだい?
この聖書の論理をまえにして、人間は太刀打ちできないわけである。
思うに、聖書を貫通する荒々しい思想の激流は死と呼ぶのが適当なのではないか。
聖書はなんについて書かれたものか。聖職者は愛と答えるのだろう。
だが、その愛のほほえみを、裏側から支えているのは死ではないか。
右の頬でも左の頬でも、好きなだけたたきなさい。
こう愛をもっていえるのは、死に裏打ちされているからではないか。
日本のキリスト教作家のほとんどが言及しないものに「最後の審判」がある。
いつか歴史の終わりが来る。世界が滅びる。
その際、イエス・キリストが再臨。死者はみな復活して裁かれる。
善人は天国へ、悪人は地獄へ。
だからキリストを信じなさい。信仰のあるものは、このとき救われる。
これが聖書である。キリスト教伝道のやり口でもある。

死、この不可知なものよ。
聖書の4つの福音書はいう。イエスは死後、復活した。
死んだものが生き返る。大昔だろうが現代だろうが、あるはずがないわけである。
これを信じるのがキリスト教徒なのだ。
一度死んだものがよみがえる。
どの人生も、いってしまえば「生→死」のプロセスに過ぎぬ。
王も富豪も貧者も奴隷も、どのみち「生→死」をたどるのみ。
ここで「死→生」をもちだしてくる聖書! 逆方向のベクトルゆえの力強さ!
ひっくりかえすわけだ。人生をちゃぶ台にたとえる。
人間の幸不幸などちゃぶ台のうえの茶番。
そのことを知らしめるために頑固親父たる神がちゃぶ台をひっくりかえす。
これがイエスの復活の意味するところではないだろうか。

新約聖書=「生→死」を「死→生」と見る。

聖書の最後に付された「ヨハネの黙示録」が象徴的である。
この預言書に描かれているのは、原爆落下直後を思わせるこの世の終わりである。
膨大な数の人間が「ヨハネの黙示録」において無意味に不条理なかたちで殺害される。
この大量殺戮(さつりく)に比べたら、イエスがよみがえらせた死者など物の数ではない。
イエスは愛を説いた。弟子たちも同様である。愛、愛、愛――。
そうすると、どうしても最後に「ヨハネの黙示録」を置かねばならない。
聖なる書物としてバランスが取れないのであろう。
天秤を思い浮かべてほしい。片方に愛を積んでいく。
天秤は不均衡になる。このままだと世界は崩壊してしまう。
世界を保持するためには、天秤の片側に死を積まなければならなかった。
これが「ヨハネの黙示録」の役割ではないか。
大量の愛と死を積み上げられてぐらぐら揺れる天秤。
これが聖書である。歴史といってもよいのかもしれない。あるいは、世界そのものとも。

新約聖書=(愛×エックス)=(死×ワイ)

「エックス=ワイ」ではないのは、「愛=死」ではないゆえ。
愛も死も、人間には測定不能。
聖書はこうした関数式であらわされる。エックスとワイは変数。
そのため、聖書を母胎とした新興宗教はまだまだ登場すると思われる。

                    *

最後に聖書を読みながら、そぼくに感じたことをメモ風に列記する。
ここからはあまり読み手のことを考えていない。備忘録のようなもの。
意味不明かもしれない。読み飛ばしてください。

・病気もちしかイエスのところへは行っていない。

・ヨハネによる福音書は、もっとも病的。
良い戯曲の条件は、朗読したくなること。
思わず声をだして読んでしまったこの福音書は劇的といわざるをえない。

・使徒言行録。新興宗教キリスト教の恐ろしさに寒気がする。
キリスト教も現代の新興宗教もあまり変わらないように思う。

・ローマ信徒への手紙。
共産党宣言ならぬ、パウロによるキリスト教宣言。
根本の対立は「律法(ユダヤ教) vs 信仰(キリスト教)」。
共通するのは、神と最初に契約したアブラハムの子孫であること。
相違は――。
律法は罪を呼ぶ。罪は死に直結。死ぬものは肉である。暗闇の世界。
信仰は義である。これは霊だから死ぬことがない。生であり、光である。
「律法 vs 信仰」「罪 vs 義」「肉 vs 霊」「暗闇 vs 光」
これは「アダム vs キリスト」の対立と同義である。
アダムはエデンの園で罪を犯したがゆえに死ぬ身となる。
キリストは死から復活した、メシア(救い主)である。
アダムを罰した造物主が、人間を憐(あわ)れんでキリストをつかわした。

・コリント信徒への手紙。カネのやりくりで困っているのが笑える。
愛だけでは使徒も食べてはいけぬということか。げらげら。

・ガラテヤ信徒への手紙。
(ユダヤ教の)律法遵守を悔い改め、イエスを信仰せよと、
広く異邦人にも伝道するのがキリスト教。
(比叡山の)戒律重視を改め、念仏を唱えよと、
広く民衆へ布教したのが浄土教。
なんか似ていないか。

・終末的緊張(裁きの日は近い!)で異邦人のこころをキャッチ。
ある程度信者ができたら、終末論を弱め政治と接近する初期教会の姑息さ。
あるいは巧妙な教会運営というべきか。

・テモテへの手紙。
しっかり敵を呪っているのが笑える(「二テモ」4 14)。
敵を愛するんじゃないのか、おい!
教会運営とは、異端を排斥することである。

・ヘブライ信徒への手紙。「イエス>モーセ」とする。
理由は、モーセは初期の契約者。イエスは最新の契約者だから。

・ヨハネの手紙。世俗批判。かわりに与えられるのは永遠の命。

・キリスト教=正しいことがひとつある。
センター試験を想起せよ。選択肢が複数ある。答えはかならずひとつある。
答えはふたつではない。ゆるぎない正解がただひとつだけある。
これがキリスト教ないし聖書の思想といってよい。
数時間前、新約聖書を読了する。
こんな嬉しいことはない。
要したのは、2週間弱か。
毎日、少しずつ読み進めた。

このような読書がいちばん楽しい。
ベストセラーを百冊読み漁るより、1冊の古典である。
その根幹にある思想はこうである。
あした死んでしまうかもしれない。
だれがあすのあなたの命を保障しよう。
そう考えたとき、足は古典へと向かう。
大きなものとつながりたい。

いま冷奴をさかなに日本酒をぐびぐび。
うまい。これほどうまいものはない。
まあ、聖書はバタ臭いのである。
聖書を読みながら、想像するのは欧米人。
聖書を生みだしたおまえらは、なんて好色で残虐、吝嗇で冷血なんだ!
聖書を読みながらあきれるのが日本人。
日本人小説家の紹介する聖書は嘘八百。
ためしに原典をご覧あれ。日本人は呆然とするほかない世界である。

本日、新約聖書を読了。
嬉しいね。シェイクスピア、ギリシア悲劇に続いて、とうとう聖書も。
あす殺されても悔いはない。
毎日、くだらないことばかり書いている。
たまにはみなさまのお役に立つことも書いてみたいと思う。
速読――。
どうすれば本を短時間で読了することができるのか。
読書ばかりしている役立たずのわたしがあみだした秘術をここに公開する。
ふふふ、大げさかな。このくらいしか役に立つ情報をもっていないのである。
それを惜しみなく披露する。

ここですぐに本論に入らないのが「本の山」。
速読って、そんないいことかな。
本を短時間でたくさん読めたら便利と思うのはあまりにも単純。
本をたくさん読んだら、そのぶんだけおカネがかかるでしょう(ふつうは)。
1冊の本で多くの時間をつぶせるほうが経済的ではないか。

もうひとつ。
本を読む。知識を得る。それがどれほどのものか。
大昔のギリシア哲学者が言ったのだったか。
知るということは、おのれがなにも知らないことを悟るのと同義。
知れば知るほど、知らないことが出現するのは読書家ならだれでも経験すること。
そうだとすると、多読の価値をどこに見いだせばいいのか。
どの人間にも知りえないことがある。
たとえば、いつ死ぬか、である。
どれだけ知識をためこんだところで、死んでしまえばおしまい。
だれがあした酔っぱらい運転の自動車にひかれないと断言できるものか。

ここまで書いての速読術である。
本をいくら読んでも役に立たない。
それをわかったうえで、それでも本をいっぱい読みたいという読書家。
あなたのために、わたしの読書法=速読法を紹介します。
むずかしいことはありません。

読まない。

これだけです。読まなければいい。
ぶあつい書籍も読まなければ0分。
ごめんなさい。からかっているわけではない。
説明不足。正確にはこうである。
わからないところは、読まなければいい。
これに尽きる。

本を読む。フィクションでもノンフィクションでもおなじ。
ストップするところがある。
わからないからである。一般の読書家はここでとまってしまう。
さて著者の言いたいことはなんだろうか。
そんなふうに悩む。近代国語教育の弊害のひとつである。
わからなかったら、そのままにしておけばよろしい。
わからないのは、読者が悪いのではない。書き手が未熟なのである。
たとえば、そう、理解できなかった部分。
2回、3回と読み返してみてください。やっぱりわからないでしょう。
これは書き手が悪いのである。

小説家や評論家が短時間で多読をしているのをふしぎに思いませんか。
あれには理由がある。
かれらはじぶんを特別だと信じている。
どういうことか。本を読む。わからないところがある。
すっ飛ばす。これだ。すっ飛ばすのだ。
わからないのはじぶんが悪いのではない。
読み手が理解できないような文章を書く著者こそ責められるべきである。
このように断言できる人間の読書は、いきおいスピードが上昇する。
理解できない部分は飛ばす。わかるところだけを読む。
身もふたもないことをいえば、文章などおなじことの繰り返しである。
いち部分がわからなくても、ほかがわかれば作者に迫ることは可能。
多読家の方法である。わたしの速読術である。

どうすれば本を早く読むことができるか。
じぶんを信じればいいのである。わたしの感覚は正しい。こう信じることだ。
本の書き手に媚びない。へりくだらない。平成の現代。
なーにが作家だとあざわらえばよろしい(対象が異国の作家でも、明治の作家でも)。
そのとき、速読が可能になる。
わからないところは(著者が悪いのだから)読まない。これが速読の秘訣である。
読書家は二種類いる。
小説を読むひと。小説を読まないひと。
ただでさえ少ない読書家のなかで、この断絶は決定的である。
お互いが理解できない。
読書といえば小説のことだと思っているひとがいるいっぽうで、
まったく小説を読まない読書家というのもいるのである。

どちらの気持もわかる。数年前までは読書といえば小説であった。
小説だったら1日に2冊でも3冊でも読んだものである。
反面、小説以外のものはなかなか読む気にならない。
なんとか読みはじめても、新書レベルで読了までに1週間もかかったもの。
だが、近年は――。

小説が読めない。

読む気にならない。なんで他人の小説なんて、読まにゃあかんの?
じぶんのことで手一杯。他人の問題まで首を突っ込む暇はない。そんな感じか。
それでもマーケティングリサーチだと最近の小説をいやいや読む。
凝った(=読みにくい)風景描写がでてくると、ひとりでやってろと投げ出したくなる。
すると、今度はふしぎなもので、小説以外のものを読むスピードが上昇。
新書レベルだったら1日3冊はいけると思う。
先日、大学時代の教科書を再読した(放送大学テキスト「ライフコース論」)。
むかしは1章読むだけでふうふういっていたのに、いまでは3時間で読了。
なにか物足らないという、おかしな余裕まである。

みなさまは、どちらの読書がお好きでしょうか。
これには年齢が大きく関係しているのではないかという試論をいまから述べる。
実年齢ではない。かといって精神年齢と断定してよいのかはわからないが、
まあ、体力年齢と関係がないのはたしかであろう。
小説のいちばんの愉(たの)しみは疑似体験でしょう。
じぶんではない何者かになる悦び。小説の世界にはいりこむ陶酔。
批評家のように分析をする愉しみもあるのかもしれないが、あれは邪道だと思う。
やはり小説本来の愉楽は自己放棄にある。思わずじぶんを忘れ熱中する読書。
これは小説以外の読書からでは決して得られないものではないか。

そのとき、そうだとすると、ふと思い当たることがある。
いまのわたしは片時もじぶんを忘れることができない。
じぶんではない何者かになることなど想像もできない。
だから、小説を読んでも白々しいだけ。
そこに登場する人物をじぶんの分身とはとても思うことができない。
これが小説を読む気にならない原因ではないだろうか。
つまり、老いてしまった。
子どもは、じぶんがなんでもなれると思っている。
容易に小説世界へ没入できるのはこのため。
子どもというのは、ほうっておいたら、いつまでも小説を読んでいるでしょう。
思えば、あれがもっとも幸福な読書の形態なのかもしれない。

とすると、子どもに本を読めというのは、やっぱり正しいのかもしれない。
強制してでも口に押し込む価値のある美食なのだから。
幸いなるかな、幼きものよ、である。
いや、最高に幸せな存在は40になっても50になっても小説に夢中になれる読者か。
最後に「本の山」を読んでくれている学童諸君に説教だ(いるのか?)。
読書感想文はじぶんで書きましょう。
「本の山」から丸写しはよくない。なんでもいいから小説を読もう。
そして恒例の

「もしじぶんが主人公だったら」

という幼稚な感想を書こう。
実のところそれは、ちっとも幼稚ではない。いちばん幸福な読書なのだよ。
こんばんは。
元気ですか~。わたしは「元気、元気、大元気」。
ハムレットのまねをしてみました(福田恆存訳)。
いまさらですが自己紹介をします。Yonda? です。

(人間+パンダ)÷2= Yonda?

人間のごとく本を読むパンダが Yonda? 。
人間のように、いや人間以上にお酒をのむのが Yonda? 。
はじめましてヨンダです。新潮社のまわしものではございません。
動物園の人気者であるパンダがご本を読み、お酒をのんだら Yonda? になるのです。
ヨンダはたまに鳴きます。本が恋しい、酒が恋しいと、かなためがけて鳴きます。

「くいーん♪」

気が狂ったわけではありません。
気がふれるのは人間の特権。わたしは6年前にある事情で人間をやめました。
半神半人、もとい半獣半人であーる!
このケダモノの特徴。やたら急ぎます。常に疾走します。

ヨンダッシュ!

Yonda? は歩かないのです。いつも小走り。
人間ではないから交通規則を守りません。
信号が赤でも平然と渡る。
「この非人が~」という周囲の視線がたまらないのです。

8月12日。ヨンダッシュで渋谷へ。
目的は「第15回東急東横店渋谷大古本市」。
自信があるのは嗅覚。ヨンダは本のにおいを正確に嗅ぎわけます。道に迷わない。
そそくさと会場へ。土曜日。人間の群れに圧倒されます。
くいーん♪ 小声で鳴くヨンダは、人間を恐れているのです。
会場は本、本、本――。
落ち着きを取り戻し、書物を物色。
収穫は2冊のみ。

「対談 日本人と聖書」(山本七平/TBSブリタニカ)絶版 525円
「詩とユーモア」(小田島雄志/白水社)絶版 500円


ちなみに小田島先生の「詩とユーモア」は、まだジュンク堂池袋書店に在庫がある。
「本の山」の絶版情報は紀伊国屋書店HPを参考にしています。
だって池袋ジュンク堂はキチガイ!
何十年もまえに出版された本が平気で新刊で買える、時空を超越した書店であーる。
で、「詩とユーモア」。定価は2800円+税。申し訳ないがこの金額の本は買えません。

うーむ、2冊か。半獣半人の Yonda? は不満。
くんくん。鼻に意識を集中する。このにおいはどこからだ?
ヨンダッシュで渋谷の町をかけぬけるわたくし。気づけばブックオフ原宿店。

「人はなぜ生きるか」(井上洋治/講談社)絶版 105円

著者は、遠藤周作の親友であるカトリック神父。
なぜ生きるかだって。
いい年をして、こんな本を出版するなんて、人間として恥ずかしくないのか井上よ。
買うほうもそうである。恥ずかしくないのか。
いいんだもーん。人間じゃないから。ヨンダでっす♪

「兄帰る」(永井愛/白水社) 105円

第44回岸田國士戯曲賞受賞作。
この岸田賞は、演劇界の芥川賞のようなもの。
だからといって、受賞者が食べていけるわけではないのは演劇界の厳しさ。
定価は1500円+税。2時間で読める戯曲にそんな大金は払えません。
思えば最近、まったく戯曲を読んでいない。
「本の山」が唯一誇れるのは、戯曲情報なのに……。
未読戯曲は山とある。折をみて、消化していきたい。

本日、購入したのはわずか4冊。
ヨンダとしては意気消沈するほかない。
いえ、新潮文庫を1冊も買っていないのはいいのであーる。
何度もいうが新潮社とは無関係。

店外へ。原宿である。
うごめく人間ども。そのなかでも多く見られるのは、若者という種族。
半獣半人の Yonda? は空を見上げる。星は見えない。
どこかにおなじヨンダはいないものか。哀しげに今日も鳴く。くいーん♪
耳をすませてください。聞こえませんか。Yonda? の鳴き声が――。
1.読書感想文に「本の山」を使ってください。

去年のいまごろはブログをやっていなかった。
この時期は、読書感想文の季節らしい。
検索ワードに感想文めあてのものが多数見られる。
これからもっと増えることと思う。夏休みも、あと1週間弱。
31日はどんなことになるのやら。
「本の山」としても明確な姿勢を打ち出さなければならない。
ここに明言する。

無断転載OKです(小中高生限定)。

*あくまでも、宿題の読書感想文限定ですよ、無断転載OKは……。
このような追記を書かざるをえなかった理由はコメント欄をご覧ください。


まあ、こんなことを書かなくても、やるひとはやると思うけれども。
ブログ「本の山」には膨大な量のネタが転がっている。
どうぞお使いください。
そのままでもよし。添削してくださるのもよし(苦笑)。
原稿用紙何枚などという制限があるのなら、それに適したものを探して丸写しを。
戯曲(演劇の台本)なんて、いいのでは?
理由は、だれも読んでいない=教師も読んでいない。
そのため、原本を知らない。すなわち、評価ができない。とりあえずマルをつけるかと。
感謝コメントなんていりません。
無断で結構。ご自由にお取りください、である。
一字一句たがえず書き写してくださいませ。
いえ、わたしも、あの読書感想文というやつが嫌いでね。
毎年、いやでいやであたまを悩ましたもの。
そんなかつてのわたしへサービスするのは、かえって気持がいいくらいである。
万が一、「本の山」をコピーした感想文で教師から文句をつけられたら、
そのときだけはぜひご一報ください。その学校へ怒鳴り込みに行く予定。


2.「最近の小説」の感想は信用しないでください。

先日、ベストセラーの小説「となり町戦争」を読んだ。
ベストセラーはけなすという意味不明な決まりがこのブログにはあるので、
記事にするときはぼろくそに書くと思うけれども、そぼくな感想としては、
まあ、悪い時間つぶしでもなかった。
ベストセラーになるのもふしぎはないと思ったわけ。
で、アマゾンを見たら、ものすごいことになっている。
百件以上もレビューがついていて、暇つぶしに読み飛ばした感じでは、
8割がたが評論家きどりで批判しているのね。つまり、ほめていない。
ひええ。みなさまお厳しいと、しばらく呆然としていたら、はたと思い当たる。
あの感想を書いているひとたちはアマゾン(ないし書店)で1470円も払っている!
わたしときたら例によってブックオフ105円。
このちがいか~。それは1470円も払っていたら怒るわけだと納得。
だけどさ、こんな新刊を定価で買うところ。間違えていないか。
しようがないのかな。本を買おうと思っても、なにがおもしろいのかわからない。
家電や食品とおなじように考えてとりあえず新しいものならいいと、
平積みになっている本を買ってしまう。うん、責められるべき行為ではない。
この「本の山」のカテゴリー「最近の小説」はあまり信用しないでください。
ほとんどがどこかしらで105円で買ったものゆえ。


3.時間を1日ずらしてみます。

これを書いているのは25日。
すみません。26日の記事として書き込みます。
毎日更新というのが、どうもよくない。ストレスになる。
更新しなくちゃと思うと、晩酌がまずくなるのである。
だから、いんちきをしようと思った。
ちなみに今日の日付になっている記事は、実のところ昨夜書いたもの。
だれも読んでいないブログで勝手に毎日更新をしておいて、
負担を感じるのはおかしいという意見はまこと正しい。
けれども、うーん、毎日更新しないとだれも見てくれなくなるような不安が。
で、このブログ更新強迫症の結果、泥酔して恥ずかしいことを深夜書いてしまう。
翌朝、その記事を読む。まったく憶えていない。あわてて削除をする。
何度かこんなことがあった。
というわけで、しばらく実験的にこれを試みてみる。
この記事を26日に書いたものとして登録する。
いま安堵している。あしたは更新しなくてもいいと思うからである。
インドを旅行したことをすっかり忘れていたようである。
先ほど「インドの大地で」という新書を読んでいて恥ずかしくなった。
なにを甘えたことをわたしはブログに書いているのだろう。
どうしても日本にいると、甘えた発言をしてしまう。日本――。
インドを忘れてはならない。

まあ、インドはすごいんだ。インドの貧困。
幼いころに物乞いをさせられるために両親から両足を切られた少年。
(両足のない幼児は物乞いのいい道具となる!)
そのうち親から捨てられて路上生活者へ。
もちろん学校へ行ったことなどない。
そもそも生まれ落ちてから屋根のあるところへ住んだことがない。
理由は簡単。親も路上生活者だったから。
永遠に夢も希望もはぎとられた人間というのがインドにはうようよいる。
日本にいると、どうしてもインドを忘れてしまう。
つまらない不運を大仰に嘆くじぶんを恥ずかしく思う。

しかし、インド人のなんと明るかったことか。
こういう身体障害者&路上生活者のインド人が決して暗い顔をしていないのである。
いくら嘆いてもその日の稼ぎ(物乞い)には関係ないと完全に悟っているからである。
インド最底辺の世界には、トラウマもうつ病もない。
なかった――。2年前、わたしは圧倒されたのであった。
夢からも希望からも愛からも断絶された人間がインドにはごろごろいる。
どうして暴動が起きないのか。
ヒンドゥー教がおさえこんでいるという一面があるのだろう。
この宗教は日本人にはわからない。欧米人にもである。
インド人にしかわからない宗教。それがヒンドゥー教である。
なぜならヒンドゥー教は民族宗教。
つまりインドに生まれたものしか教徒にはなれない。
我われがヒンドゥー教に改宗することは不可能である。

日本的な考えをしてはならないと思う。
「愛は地球を救う」が通じるのは日本だけなのである。
バカにしているこの番組の思想にわたしも洗脳されていたようである。
世界は本来、そんなものではない。
もっとでたらめで、いいかげんで、それでも明るく、適当に生きることができる。
インドから教えられたことである。
ああ、恥ずかしい。「本の山」のどの記事も、日本世界にどっぷり浸かっている。
最底辺のインド人が「本の山」を読んだら(まあ、字が読めないわけだが)、
日本の異常さにカルチャーショックを受けることだろう。
じぶんに言い聞かせる。インドを思え。インドを忘れるな。
祖父について書く。母方の祖父。
健康食品を製造・販売していた。
名前は「スクワレン」。
プロテスタントの祖父だから「救われん」からつけたのかと思っていたら、
どうやらそうではないみたいである。
検索してみたらスクワレンという正式名称があるらしい。
「スクワレン=サメの油で、サプリメントとして活用されている」

そうとうな奇人だったようである。
いまでこそスクワレンは有名(?)だが、だいぶむかしのこと。
売れるわけがないのである。
ろくに家庭へカネを入れなかったという。
夢を追いつづけた発明家とでもいうのか。
なにで食べていたかというと、祖母の稼ぎ。生保レディをしていた。
こちらは才能があったようで、一家をなんとか支える収入をもたらしたようである。

健康食品スクワレンの実態を母から聞いたことがある。
ひと瓶の原価は100円にも満たないとか。それを6000~7000円で売るのである。
宣伝文句は「なんにでも効きます」。
あらゆる成人病に効果がある。ガンも治ることがある。
のんでも効くのだが、つけても効果がある。
どんな皮膚病にも試してみる価値はある。
まあ、ペテンなわけだが、ここがおもしろいところで、
祖父はどうやら本気でそう信じていたようである。

スクワレンは万病に効果あり。

するとこれも人間のおもしろいところで、実際に熱心なファンもいたらしい。
祖父のスクワレンをのんで難病が治ったかたが何人もいる。
プラセボ効果として知られているが、信じて服用すればどんなクスリも効いてしまう。
涙を流しながら祖父へ感謝するひともいたというのだから!

わたしも幼いころ、これを押しつけられた。
なにかあったらスクワレン。気味の悪い油をのまされた。
転んでもスクワレン。一度、医者から怒られたことがある。
そんなバカなものをつけるんじゃない。効くはずがないじゃないか。逆に悪化する。
それからは母もやたら塗布をすすめることはなくなった。

祖父を懐かしく思い出す。
ナッツが好きで、ぽりぽりかじりながら、よくウイスキーをのんでいた。
まともに話したことはなかった。
笑い上戸というのか。
孫がかわいくて仕方がないといった様子でいつも笑っていた。
若いころは怒りっぽかったそうだが、晩年は好々爺(こうこうや)といった感じで。
理想家で夢みがち。まあ、山師だったわけである。
一発当てようと常に思っていたようである。

わたしはこの祖父の直系かもしれないと最近思う。
小説家になりたい。
小説というのはスクワレンのようなものでしょう。
現実とは大違いのことを、さもほんとうのような顔をしていう。
これが小説ではありませんか。
現実はなんにもないわけである。たかが知れたもの。
両親を見たらじぶんの人生などわかってしまう。
恋愛があるじゃないかというのかもしれないが、しょせんは釣り合い。
適当なところでみんな手を打っている。結婚はもっと打算的。
現実はなにもない。ガンになったら死ぬ。それだけの話である。
それはちがうよとあやしげなものを売り出すのが小説家ではないか。
ガンが治る話を書くのがこの商売ではないか。
小説家と健康食品販売は似たような商売。
身もふたもない言いかたをすれば、どちらも詐欺師である。顧客をいかにだますか。
詐欺と書くと悪いことのようだけれども、これはそんなに悪いことかな。
現実なんかと向き合って絶望して死ぬよりは、

一生だまされつづけたほうが幸福ではないか。

この小説家もじぶんをだましている。
おのれをだませないようでは、他者をあざむくことなど、とうてい無理なのだから。

祖父の人生は一貫して不遇であった。
さて、わたしはどうだろうか。一発、当てられるのだろうか。
こういう血筋なのだ。そう思うと、いい年をして、夢を追う恥ずかしさもまぎれる。
ついに聖書を買いました。
新約聖書。先日のことです。
聖書って、いろいろな訳があるのですね。
そして、重々しい。というか、あはは、高い。値段です。
どれもいかにもバイブル然として、なんだかな~。
ある聖書を見つけました。小型の聖書です。
いちばんチープな感じが。値札を見ると400円。新共同訳。
これだ~と思いました。ビニール袋に入っているのもよろしい。
いままでだれからも立ち読みされていない。
どうしてか運命を感じました。まさかわたしが聖書を買うことになるとは。
レジでおカネを払いながら半信半疑でした。

帰途――。
ほっこりとした思いにかられていました。ほっこりほくほくであります。
ああ、ついに聖書を買ってしまった。思えば、長い道のりであった。
いままでの読書は、この聖書へたどりつくためのものだったのかもしれない。
バイブルが根底にある小説、戯曲を無数に読んできました。
とうとうついに聖書へ出会った。点が線になったような感動があるのです。
聖書。新約聖書。うふふ。バイブルです。買いましたよ。買ってしまいました。

思えば、シェイクスピア、ギリシア悲劇、ホメロス(挫折)、そして聖書。
読書が一巡したような思いです。
今年になってからを考えると、般若心経、歎異抄ときて、ようやく聖書へ。
聖書を読もう。小説作法として読もう。劇作術として読もう。
読んでやる。聖書を読むんだ。妙な興奮にかられました。
聖書。人間を狂わせる書物です。
今日、読みはじめました。マタイによる福音書。ゆっくり読んでいこうと思います。

恐れていることがあるのです。
聖書を読んでいるうちにわたしは発狂するのではないか。
遺伝的にはいつ発病してもおかしくないのです。
クリスチャンの祖父は晩年、気が狂いました。
母方の祖父です。
発狂した祖父は近所のドアのベルを鳴らしてまわったといいます。
悔い改めなさいといいながら。
ある日、祖父は路上で見知らぬ若者へ殴りかかりました。
こぶしはかわされ逆襲にあう。これで下半身不随になりました。
それからもたいへんだったようです。
狂人のごとく暴れまわったと聞きます。
ラジカセを娘(つまりわたしの母)へ向けて投げつけたとか。
最後は脳がいかれてしまい、植物状態になりました。
喜怒哀楽がなにもない廃人状態で5年は生きたでしょうか。

聖書はわたしにとって呪われた書物というイメージがあります。
精神病だった母も、おかしくなると聖書へ言及しました。
「おまえは敵だ」とののしられながら、殴られたことを思い出します。
敵――。
汝(なんじ)の敵を愛せよ。敵をわざわざつくろうとするのが聖書です。
聖書を読む。ああ、と思いました。これはアジテーションだ。
人間を煽動しようとしている過激な書物だ。
もしかしたらわたしも気が狂ってしまうのかもしれません。
どうかお願いがあります。狂気は文章にあらわれます。
「本の山」を読んで、わたしの精神の異常を察知したら、ぜひとも教えてください。
まわりに迷惑をかけないうちに精神病院へ入ろうと思うからです。
みなさまだけが頼りです。なにとぞよろしくお願いします。

え? もうおかしいと。すでにわたしは狂っているというのでしょうか?
そんなことはないとじぶんでは……。
いえ、病識のないことが狂人の特徴です。
わたしは狂っているのでしょうか。精神病でしょうか。キチガイですか。
そういえば叫びたいという欲望が。「悔い改めよ。神の国は近づいている」
「吉行淳之介 心に残る言葉 三七六のアフォリズム」(吉田知子/ネスコ)絶版

→いまという時代。
むかしだったら、数十年前だったら、せめて文学の権威があった。
もうなにもないのです。
吉行淳之介なんて、知っているひとのほうがめずらしい時代なのかも。
古き良き時代の文士を感じさせる作家です。
ハンサムで、病弱で、女にモテる。
書く小説はつまらないけれども、存在自体が文学なので許される。
この説明でわかりましたか。わかりませんよね。名言集からいくつか引用します。
これが吉行淳之介です。男と女の関係を追及した作家といわれています。

「この世の中に置かれた一人の人間が、
周囲の人間の理解を容易に得ることができなくて、
狭い場所へ追い込まれてゆき、
そこに踏みとどまってようやく摑(つか)み取ったものをもとでにして、
文学というものはつくられはじまる。
最後には、ある程度広い範囲の共感を摑み得るにしても。
まず狭く狭く追い込まれるのが、文学にたずさわるものの宿命である。
いや、そういう状態になったところで、
文学というものにたいする眼が開くのである」(P34)

「貧乏すぎることは、よくない。
芸術家が金持になってそのために堕落してゆくテーマの小説がときどきあるが、
金があることによって毒される程度の精神では、
金のないことによってもっと甚しく毒されるであろう」(P84)

「男女の関係において『誘惑』という言葉が使われると、
男性が女性を誘って惑わすというように考えられている場合が多い。
いつも、追いかけるのは男性である、という考えである。
しかし、まず女性がいきなり逃げはじめる場合がある。
反射的に男性はその後を追いはじめる。
女性はますます速力をはやめ、ときどき首をうしろへ廻して
チラチラと誘いの視線を投げかける。
男性は釣られて後を追いつづける。
そのうち女はわざと躓(つまず)いたふりをして地面にうずくまる。
男が追いついて摑まえる。
摑まえられておいて、女は腹の中でニヤリとする」(P158)
「京都大衆酒場」(青幻社)

→大発見をしたのであーる♪
おなじビールでも、居酒屋さんでのむとなぜかおいしいですよね。
自宅でのむよりも美味。
トマト、冷奴、枝豆――。
家で簡単にできるつまみも、居酒屋さんで食べると、どこか味がちがう。
なんとなくおいしい気がする。どうしてでしょう。
雰囲気というのが味覚に大きな影響を与えるのかもしれません。
そこで発明をしたのです。
たとえばこの本。文章は少なく写真ばかりの本です。
居酒屋の写真がいっぱい。
写真を見ます。目をつむる。脳内で居酒屋へいるじぶんをイメージ。
おもむろにその気分のままビールをぐびり。
ううう。5割増、ビールがうまいのであります。
これは偉大な発見ではないでしょうか。
ちなみにいまパソコンの横には、茹でたての枝豆と、ちょっと奮発した高級豆腐が。
この本の写真を見る。枝豆をぱくり。冷奴をするり。ビールをごくり。
ああ、なんて幸福なのでしょう。
「完本・居酒屋大全」(太田和彦/小学館文庫) *再読

→居酒屋評論家・太田和彦の原点。オリジナルは1990年出版。
再読にたえるお酒エッセイを書くことができるのは太田和彦さんだけかも。
内容は、とにかくマニアック。
好きなものを、独断と偏見で、とことんまで追究しようとする姿勢がなんとも魅力的。
居酒屋が好きでたまらないというのがよくわかる。
好きだから極める。結果、独自の視点が打ち出される。世間に評価される。まあ、売れる。
すると、今度は世間を意識した文章を書き始める。
初期のファンは嘆く。むかしはよかった。
どの作家も売れるまえがいちばんなのかもしれない。

うむむ? この「本の山」も? 
好きな本を読んでいるだけである。
好きなことばかりしてちゃ生きていけないよと訳知り顔で説教する人間へ、
じゃあ、あなたはひとつでもほんとうに好きなこと、夢中なれることがあるのかい、
なんて逆にやりこめるのは、あまりに典型的なやりとりなのでここでは避けますね。
「愛」(井上靖/角川文庫)絶版

→短編小説集。
あのさ、小説ってなんなんだろうね。
精神的にきついときに芋焼酎をロックでのみながら井上靖の小説を読む。
いいなと思うわけ。いいな。小説はいいな。美しいものはいい。
酒をのむ。小説を読む。涙もろいほうだから、めそめそする。すぐ感動する。
ちょっと元気になる。小説って、これだよね。読んで元気になる。
難解な文学作品なんかついていけないもん。
なんでそんな難しいものをおカネはらって時間かけて読むのか。
ちいっともわからんね~。

小説ってなんなんだろうね。
たとえばここに収められている「死と恋と波と」。
ほんときれいな小説よ。
破産した中年男が自殺目的であるホテルへ宿泊する。
若い女が同宿している。偶然からこの女も自殺しようとしていることに男は気づく。
まあ、この男女が結ばれるわけ。で、生きようと思う。死から生へのドラマ。
ありがちな小説だけど、それでもいいと思うのね。
現実にはこんなことはありえない。
わたしなんかも、こう6年、ずっと自殺自殺と騒いでいるけれども、
いっこうに小説のようなことは起きない(苦笑)。
だから、こういう小説を愛読するのかな。
小説ってなんだろうね。現実ってなんだろうね。あたま悪いからぜんぜんわからない。
「キリスト教の本 (上)(下)」(学研)

→キリスト教入門書といったら、これをすすめられることが多いのでは。
ネットで調べてみたが、この上下2冊の本を入門書として多くのかたが推薦していた。
いい本だとは思う。ただ入門書ではない。かなりの前提知識を必要とする。
これを買ったのは大学生のときだったか。
バカぶりをさらすようだが、当時は難しくて読みきれなかったのを記憶している。
キリスト教といっても、いろいろな側面があるわけである。

・人間イエスの生涯。
・その言行をまとめたとされる新約聖書。
・聖書における各福音書の位置。
・キリスト教の残酷な歴史。
・教義論争の変遷。
・(カトリックのみが認める)キリスト教の聖人たち。
・キリスト教の儀礼のさまざま。

これらすべてを2冊に収録したのが、この学研の本である。
とても入門書とはいえないボリュームである。
一貫しているのは、批判的視線。
信仰の内部からの発言ではなく、信仰の外縁を丁寧になぞることを目的としている。
ゆえに三浦綾子や遠藤周作経由でキリスト教にたどりついた者には違和感があると思う。
わたしはこのさめた視線がかえって心地よかった。
以下、学んだことの断片を記す。

キリスト教とはなにか。
しろうとが勝手な定義をする。
キリスト教とは、イエスをキリストだと(考える、ではなく)信じる宗教。
実在した人間・イエスを、キリストつまり救世主だと信じるのがキリスト教。
もっと厳密にいいあらわす。
ホメロス、エウリピデス、シェイクスピア、ブッダ、孔子、聖徳太子、池田大作ではなく、
約2000年前ベツヘレムで生まれたとされるイエスを特別に選んだのがキリスト教。
ほかの何者でもないイエスただひとりを、唯一絶対の神だと信じるのがキリスト教。
しつこいが、あと少しだけ。
問題なのは、イエスが神の子かどうかの歴史的事実ではなく、
イエスは神の子であるということを(その真偽より上のレベルで)信じること。
考えると信じるとでは、まったくことなる。
イエスはキリストかどうかをあれこれ論じるのは、考えるという行為。
信仰するとは、イエスがキリストでなければならないということである。
繰り返す。
キリスト教とは、イエス(人間)をキリスト(神)だと信じる宗教である。
この意味するところは、イエス以外は神とは認めないということだ。
ここにキリスト教の本質があると思う。

ひとりの人間を絶対の神であると信じるのがキリスト教。
キリスト教には、ふたつの要素があると本書で指摘されている(上巻P148)。
祭司的要素と預言者的要素である。
イエスは預言者的要素が強かった人間である。
いいかたを変えると、神がかった人間とでもいうのか。
もっと身もふたもない表現をすると、いっちゃった人間。
少しましないいかたに戻すと、カリスマである。多くの人間を煽動するちからを有する。
神の声が聞こえる世界最大の電波ちゃんがイエスなのである。
このイエスに教会を作ろうという意思があったかは定かでない。
かりに作ろうと思ったところで、無理だったのではないかと思う。
実務的な能力は欠如していたと思われるからである。
後世、教会を作り拡大させたのは、祭司的要素が強かった人間である。
運営能力に優れていた人間。狂信だけで建物はできない。
政治に取り入り、民衆と迎合する過程が、キリスト教の歴史である。
かといって、祭司的要素のみでは信者をひきつけることができない。
時代時代に預言者的要素の強い人間が登場し民衆の人気を集める。
保守を第一とする祭司的要素からしたら、この預言者的要素は危険とうつる。
教会上部はカリスマを異端と弾圧する。この繰り返しがキリスト教の歴史である。
預言者的要素の代表としては、プロテスタント創始者のルターがそうである。
整理する。
祭司的要素=組織保持を重んじる=人間。
預言者的要素=霊感・神性を重んじる=神。
こう考えたとき、キリスト教の歴史は、人間と神の闘争にほかならぬ。

唯一神を信じるというのはどういうことか。
身近なことにたとえて考えてみたい。
これは宗教と文学の類似を示す例でもあるが、痛い読者というのがいるでしょう。
熱烈な愛読者。アンチはまったく認めない。
たとえば宮本輝なら、宮本輝のいうことは絶対に正しい。
ほかの意見は認めない。この作家を批判するなんてとんでもない。
わかっていない人間だなと哀れみの情すらいだく。
これが信じるということでは? 信仰というのは、こういうものでしょう。
他の作家ではなく、宮本輝を絶対とあがめる。この作家を信じる。
宗教というのは、これではありませんか。
宗教の信者というのは、痛い読者のようなもの。
友人から「宮本輝はつまらない」などといわれたら絶交も辞さない。
これが信じるということだと思う。
ずいぶん批判的な書きかたをしたが、この信じるというのはすばらしいことでもある。
そこまである作家に夢中になれるということは、とても偉大なことではないか。
その熱狂にはうらやましいものがある。
客観的などという言葉をふりかざして常に冷静な者より、よほど人間らしいところがある。
絶対がある。これだけは絶対に信じている。
人間が生きていくうえで、必要な態度であるとも思うのだ。
信仰のプラスマイナス。両面性である。

信じるとは、狂うことである。
冷静に考えてみよう。世界は相対でしょう。
男がいるから、女がいる。黒と白。愛と憎。あるいは愛と無関心――。
この相対の世界でなにものかを絶対と信じるのは狂気というほかない。
キリスト教は愛の宗教だという。
男女の愛とは正確にはちがうともいうが、男女の愛にたとえてもおなじこと。
世界中の男女のなかからあるひとりを愛する。絶対とする。恋愛は狂気だ。
愛の宗教、キリスト教は、人間を狂わせる。
本書を読むと、ルターもカルヴァンも狂人である。
ルターは、改宗しようとしないユダヤ人への弾圧を領主に提言する。
カルヴァンは、異端者を火刑に追い込んだとか。
愛ほどおそろしいものはないね。
そのことを知っていたのか、仏教では愛を煩悩と否定する――。

仏教では、世界を円としてとらえる。
無限に繰り返される円運動である。
生まれては死ぬ。また生まれ変わりやはり死ぬ。
生死の反復。始まりもなければ、終わりもない世界である。
一方で、キリスト教は世界を直線的なものと見る。
始点と終点がある世界。
世界は天地創造で始まった。そして、最後の審判で幕を閉じる。
このとき神の国が現われ人間は裁かれる。選別である。
神の国へ入れるものと、入れぬものへわかれる。
天地創造で開幕し、神の王国で終幕するこの世界は一回限りのドラマである。
一回きり。次はないということである。

最後に本書から知りえた知識をメモ風に列記する。

ユダヤ教が契約宗教であったからこそ、キリスト教やイスラム教が誕生した。
人間が神と契約を交わすという思想。
ここから新しい契約(イエス)や、最後の預言者(ムハンマド)が生まれた。

福音書は古い順から、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ。
最古のマルコ福音書は、悲劇的な崇高さがあるという。
古い順番どおりではなく、あえてマタイ福音書を最初へもってきた教会の陰謀。

マルコ福音書とパウロの思想は相容れないものがあるらしい。
パウロは生前のイエスを認めていなかった。
律法(たとえば割礼)よりも信仰を重んじるパウロは当時少数派。孤立していた。
それがいつしかキリスト教の本流になる。

キリスト教が俗世間で権力を増す過程で用いた戦略が、聖母と天使の概念。
異教を吸収する際、聖母と天使という考えかたが有効であった。
絶対神のイメージを壊さずに、土着的な信仰を聖母マリアと天使群がすくいとる。
たとえばアルミテス信仰がマリア思慕へ変じるといったように。
いうなれば聖母と天使は、カトリック支配の尖兵であった。

キリスト教最大のポイントは、イエスの復活ではないか。
死人がよみがえる。あるはずがないのである。それを信じるのがクリスチャン。
とうていついてはゆけぬ、おそろしいものを感じる。
きのう絶賛したNHKテレビ番組「7年ごとの成長記録 21歳~家族、そして私~」。
検索してみたらNHKが追跡調査をしているのは13人もいるそうです。
そのうち家族の面で変化のあった8人を今回、放送したとのこと。
公式HPを見ると、13人すべての報告は今秋の放送が決定しています。
いやあ、楽しみであります。
7年後に生きているかわかりませんが、今年の秋ならたぶん。
本番は今秋のようなので、先日見逃したかたはそちらをお楽しみください。
ドキュメンタリーを見る。
8月18日放送。NHK総合。「7年ごとの成長記録 21歳~家族、そして私~」。
7歳、14歳、21歳――。
14年前、日本各地にいる8人の子どもを取材したことからこの番組は始まった。
そしてまた7年後。14歳になった子どもたちを番組は追いかける。
インタビュー内容は「家族とわたしについて」。
14年後。今年である。彼らは21歳になっていた。もう子どもではない。
そう、7歳のあどけない少年少女が、21歳になったのである。

ぞっとするほどいい番組だと思った。感動した。勉強になった。
いろいろな角度から、この番組は楽しめるわけである。
まず、そぼくな感想をいえば映像の魅力である。
7歳、14歳、21歳。成長していく顔を見ているだけでおもしろい。
顔だけ見ていると、やはり人間は変わらない。
そして、どうかなと思う。人間は変わるものか。変わらぬものか。
人間に着目する見方である。「三つ子の魂百まで」は真実なのか。

もうひとつの着眼点は背景である。
登場人物の背景もこの14年間で変わっている。
14年前といえば、まだバブルの余波があったころか。
日本各地の風景が印象深い。日本は変わったのか。変わっていないのか。
背景に注目する視聴である。

社会学の専門領域にライフコース論というものがある。
この学問はなにを研究するのかというと、個人と社会の関係である。
大久保孝治は「ライフコース論」(放送大学教育振興会)でいう。

「ライフコース研究は社会学的想像力を豊かなものにしてくれます。
個人の人生に起こる出来事と全体社会の変動との間に存在する
目に見えない因果連鎖をはっきりと認識できるようになります」(P7)


もっと我われに身近な言葉で説明すると、ライフコースの研究目的はこうなる。

「なぜこの人はこうした人生を歩み、別の人生を歩まなかったのだろう」(同著P41)

今回のテレビ番組はライフコース論では「追跡法」とよばれるもっともダイナミックなもの。
格好の研究対象であろう。
ちなみにライフコースの調査方法は、ほかに「回想法」「復元法」がある。
「回想法」は字のごとく、ある人間に過去を思い出してもらうもの。
思い出を語ってもらうため、正確性に疑問が生じるケースもある。
「復元法」は調査対象が死亡しているのが前提。
史料などを使って故人の全人生を探ろうという調査方法である。
「追跡法」はもっとも正確だがやっかいなことが多い。
時間がかかる。おカネもかかる。調査対象者と連絡を取る困難がある。
天下のNHKでなければできぬ大調査である。
「21歳~家族、そして私~」。これほど良質な番組はめったに見られるものではない。
今回、見逃したかたはじきに再放送されるでしょうから、ぜひご視聴ください。

番組出演者を整理する。年齢は全員21歳。

1.健太くん。実家は宮城県の農家。
米価は下がるいっぽうで、農業で食べていくのはもう無理。
高校卒業後、職を転々。現在は派遣社員。現状に満足していない。顔は普通。
「(結婚はと問われ)いや、ないんじゃないですかね。しないと思いますよ」

2.貴子さん。実家は東京都のサラリーマン。
短大から大学へ編入。現在は念願の航空会社へ就職内定。キャビンアテンダント。
美人。現状に満足している。
「ほんとうにこれまでたいへんだったけど、やっと第一志望のところへ入れて(泣く)」

3.康平くん。実家は佐賀県の焼き物業(不況のあおりで工場は閉鎖)。
高校入学後不登校になる。退学。寮のある高校へ。そこも逃げ出す。
現在は親の手伝い。仏像制作。顔は大仏顔とでもいうのか。雰囲気が暗い。
「仏さまの顔っておもしろいんです。作者と似てしまうというのか(ぼそぼそ)」

4.良男くん。東京都。中国残留孤児の帰国家族。
彼をのぞく家族は、みな中国へ引き揚げた。原因は言葉の問題。
うどん屋でバイトをしながら大学の二部へ通学中。現代風イケメン。
「なにをすればいいのか、わからないんですね(ため息)」

5.孝枝さん。愛媛県の離島。両親は連絡船で働いている。
高校卒業後、自由な暮らしへあこがれ、離島をはなれ松山市へ。
介護福祉士の資格を取得。現在は特別養護老人ホームで勤務。
顔は現代風美人。性格が良さそう。「早くお母さんになりたいんです」

6.麻希さん。沖縄県。父親は米軍基地内で勤務。
高校卒業後にすぐ結婚。娘を出産。夫は逃亡。東京へ。各地を転々。
実家でパートをしながら娘を養育している。器量に難あり。
「娘を産んではじめてお母さんの苦労がわかりました。この子が私の命です」

7.恵理さん。麻希の幼なじみ。沖縄県。父親は米軍基地内で勤務。
一浪後、県内の私立大学へ入学。学費は父親。生活費はバイトでひとり暮らし。
高校時代は友人関係で悩んだが、大学では宝物のような親友ができる。
器量に難あるも化粧で塗りつぶす。
「(7年前との違いを問われ)自信がなくなりましたね。
あのころはなんでもできるような気がしたけど、ああ、できないこともあるんだなって」

8.松也くん。所在地不明。父親は尾上松介。歌舞伎役者。
幼少時から歌舞伎の英才教育を受ける。現在は女形で活躍している。
昨年、父親が死亡。若くして、弟子を3人もつ一門の長になる。
イケメン。性格は傲慢そう。
「裸一貫で歌舞伎の世界に入った父は生涯脇役だったけれども、
歌舞伎の世界で育った僕はもっと上を目指せる。
そういう意味では、恵まれているのかもしれません」

これだけ多様な同世代を集めたNHKの努力にまずは拍手を送りたい。
みなさまはこれを見てどう思われましたか。わたしは――。
まだ21歳の段階で、けっこうな差が生じていることに愕然とするというのか。
すべての子どもに無限大の可能性があるという論調は、
少なくともこの番組を見る限り……。

子は決定的に親に支配される。

番組を見ながらずっと思っていたことである。
8人のうち、今現在輝いているのは、2の貴子さんと8の松也くん。
キャビンアテンダントと歌舞伎役者。
両者ともに幼いころから資本が投下されているのは偶然か。
貴子さんは7歳のときから週に2回通塾。ほかピアノ、水泳、剣道も。
松也くんは、父親からの歌舞伎英才教育である。

ほかの6人を見てみよう。
まずは男性から――。
1の健太くんは8人のなかでもっとも社会環境に影響されている。
米作の現在である。
いかにもな農家の長男である健太くんの、へんな夢を見ないところに好感をもつ。
8の歌舞伎役者のような華やかな職業は、農家の息子とは無縁だとわかっている。
3の康平くんは遺伝子のちからを感じさせる。
あの自閉的な性格は、父親ゆずりと思われる。
8人のうち、もっとも表情が暗かったのは彼である。
いまは沈んでいるが、かえって将来、花開くのではないかとも思う。
4の良男くんは歴史的影響が強い。中国残留孤児の家系。
彼の人生はまだ始まっていないという感じである。
ライフコース論は、就職と結婚を重視する。
就職で人生の半分が決定し、残り半分は結婚――。
男性の結婚は職業(収入)に左右される。
職業は学歴(教育費=親の収入)の影響下にある。
以上は社会学的事実である。

つぎは女性を見てみる。
社会学的に見ると、女性は男性とはことなり、二度成功のチャンスがある。
男性における社会的成功への道のりはただひとつなのに対して、
女性は就職で失敗しても、2度目の機会が与えられている。結婚である。
低学歴でも、低収入でも、結婚で成功すれば一発逆転が可能。
結果、女性は容姿が男性以上に重視されることになる。
この前提をふまえて、残り3人の女性を見てみる。
5の孝枝さんからは地理的因子の強大な影響を感じる。
子どもが少ない離島で、島民からかわいがられて育ったのがよくわかる。
故郷の島は老人ばかりだから、将来何かの役に立てばと老人ホームで働く孝枝さんは、
NHK的というのか、模範的な若者である。
6の麻希さんは、なんともリアリティがある。沖縄を感じさせるというのか。
いやらしい言い方を許してもらえるなら、あの顔で、やり逃げされて――。
8人のなかで唯一、結婚育児の経験者である。
この時点でライフコースはなかば閉じているが、本人にその自覚がないのが救いである。
7の恵理さんは、上記のヤンママ麻希さんの幼なじみ。
対照的だという光の当て方しか、番組ではしていない。
麻希さんと比較して、恵理さんは就職も結婚も未経験。
どちらも父親は米軍基地内で勤務。収入もおなじくらいと思われる。
それなのにこの差はどこから来たのだろうか。番組からはわからなかった。

21歳。まだまだ若い。興味は8人の青年の将来に移る。
つぎに番組が放送されるのは7年後。そのときどうなっているか。
みなさまも予想してください。
(どうかな。ひとりくらい自殺者は出るか)
今現在の順位を、一般的な社会的価値観に則して判定するとこうなる。

Aグループ(貴子さん、松也くん)
Bグループ(孝枝さん、健太くん)
Cグループ(良男くん、恵理さん)
Dグループ(康平くん、麻希さん)


ここで疑問を感じるかたがいるだろう。当然である。

幸福ってなんだろう。

社会的価値のほかに、個人の満足度というものがある。
いまのじぶんに満足しているかどうかである。この尺度で見るとこうなる。

Aグループ(貴子さん、麻希さん、恵理さん)
Bグループ(松也くん、康平くん、孝枝さん)
Cグループ(健太くん、良男くん)


注目したいのは、出産したら亭主に逃げられた沖縄の麻希さん。
本人は、そう不幸とは思っていない様子。娘がかわいくて仕方がない。
むしろ8人の中でいちばん幸福そうにも見えるのがふしぎである。
もうひとつ。歌舞伎役者の松也くんは果たして幸福か。
たしかにひとからちやほやされる花形の職業ではある。
だが、本人が希望してなったというわけではない。これしかなかったのである。
二種類の尺度があるということである。外的価値と内的価値。社会と個人である。

8人のうち、まだ7人が結婚をしていない。
これこそこの番組の見どころである。
あの7人はどんな異性と結ばれるのだろうか(麻希さんの再婚もありうる)。
望むらくは、その結婚が、容易に社会学的な説明がつかないものであってほしい。
信じられないことが起こってほしいのである。
社会学など、つまらない学問ではないか。
この程度の家に生まれた子は、この程度の学歴で、
この程度の就職をして、この程度の結婚をする。
これが社会学的思考というものである。そんなもの、

ぶち壊してやれ!

8人の青年に発破をかけたい。じぶんにも、である。
さて、7年後のわたしはどんな環境でこの番組の続編を見るのだろうか。
そして、7年後のあなたは――。
この番組をご覧になったかたがいらしたら、ぜひご感想をお聞かせください。
本日8月18日NHK総合で22時から放送される番組に注目している。
タイトルは「21歳~家族と私」。
14年前に企画された番組で、当時7歳だった子どもの成長を追っていくという企画。
初回は14年前で、7歳の子どもを幾人か日本各地から抽出。
2回目は7年前。14歳になったかれらはどうなったか。
そして今回が3回目。あの子どもたちも成人した――。

この番組のオリジナルはイギリスのBBC(だったか)で企画されたもの。
大学の社会学演習で見せられた。
正確には社会学のライフコース論。
ライフコースはなにを学問するかというと、なぜあるひとはその人生を歩んだのか。
べつの人生ではなく、なにゆえその人間は固有の人生を選ぶ結果になったのか。
そこにはなにかの一般的法則というのがかならずあるはずだ。
それを学問しようという、いかにも(うさんくさい)社会学的な研究領域。

授業で見せられた番組では、サンプルたちは35歳になっていた。
幼いころは目を輝かせて夢を語っていた少年が、やさぐれたヒッピーになっている。
一方ではにかみがちだった少女が、一転してばりばりのキャリアウーマンに。
まあ、35歳にもなると、日本ふうにいうなら「勝ち組」と「負け組」にはっきり分かれる。
7年ごとの人生論の変遷がおもしろいのである。
「がんばれば報われる」と夢を語っていた青年がいつしか老け込んでいる。
「結局は運命だったんだ」などと、厭世的なことをいうおとなになっている。
そうかと思えば、目立たなかった青年が一発当てて「人生が努力がすべて」。
きれいな奥さんとかわいい子どもに囲まれて満足げに人生を論じているケースも。

「三つ子の魂百まで」は(この場合は7歳だが)果たして真実なのか。
他方、社会関数というものがある。
生まれた家族の貧富、階層。好況不況といった社会状況。
生まれついた性格の傾向性と、社会関数がどの程度影響して、
個人の人生は形成されるのか。
この番組の見どころである。ライフコース論ともほぼ一致する視点。
大学時代、これはおもしろいと思った。
教授にこんな質問をしたのを憶えている。
「神の領域」というのがあるのではないか、という問いである。
偶然、運を、この学問はどう処理するのか、である。
いまの視点からいえば、たしかにおもしろいのはわかるが、
それは学問にはならないだろう、になる。
まったくの偶然から抽出した複数のサンプルをどういう理由で一般化(普遍化)するのか。
サンプルの語る人生(物語=意味)を、研究者が恣意的に分類するのでは、
ありがちな人生論を超えるものはできないのではないか。

7年という設定はおもしろい。
じぶんのことを考えてみる。
7年前は、夢あふれた若者だった。なんでもできるとどこかで考えている野心家だった。
それがいまはどうだ。完全に終わってしまっている。
もしわたしがこの手の番組に選ばれていたら、さぞかし視聴者を楽しませたことだろう。
人間はみな信仰をもっている。がんばれば報われる、である。
勝った人間と、負けた人間を、厳しい目で断罪する。
いや、その人生観をこの番組(あるいはライフコース論)は揺るがすことができるのか。
今日のNHKでは、まだ不十分だろう。
21歳では、そうたいした差はでないはずだから。
あと7年後、14年後こそ、おもしろい番組になるにちがいない。
そこまで生きていられるかわからないが、注目したい。
本は古本で買おう。
昨日のこの記事はいくつかお叱りを受けた。
たしかに暴論だと思う。
どうも書きたかったことがうまく表現できなかった。

ようは自由に疲れているのである。
新刊書店へ行く。大型書店。
もう山のように本があるわけである。圧倒される。
どの本を読めばいいのか見当もつかない。
いきおい書店や出版社のたくらみに乗ってしまう。
ポップがついている本をうっかり買ってしまう。
自由というのは疲れる。
なにを読んでもいいと思うと、もうたまらなく脱力する。
むかしはよかったと思う。
おおむかし。戦時中。書店に本がなかったという。
だから、読書家は限られた本を何度も読むしかなかった。
この本しかないから読む。宿命の読書である。

いつからか自由の読書に疲れてしまった。
たとえば、いま関心をもっているのは聖書。
関連本といえば無数にある。
どれがわかりやすいのかは、最終的には読んでみるまでわからない。
どの本を読んでもいい。そう思うと、選ぶのが面倒に……。
だれかに決めてもらいたいと思った。
古本屋へブックオフへ通う。目についた本を購入する。
これは現代許された、唯一ともいうべき宿命の読書である。
選んでいるのはわたしではない。なにか大きなものへ任せている。
自由はいやだ。宿命を感じたい。怠け者の読書と嘲笑されたし。

「これもなにかのご縁」

わたしの生きかたである。縁を大切にしたい。
縁は自由の正反対。お見合い結婚の思想である。
本を買うのは愉しい。読むよりも何倍もの快感がある。
最近、気づいたこと。
世の読書好きのひとに、いまだ本を買う悦びがあまり知られていないのではないか。
こんなことをいったら叱られてしまうだろうか。
1ヶ月の書籍購入費でいえば、
きっとわたしの数倍も本に費やしているかたがいるのだろうから。
新刊書店へ毎日のように行っている。目についた本を買っている。文句あるか。
怒鳴られそうである。

いえね、申し上げたいのは、それでほんとうに本を買ったといえるのか。
本を買わされているだけではないか。
そんな疑いが自己をかえりみたとき生じるのである。
本を買う。買うとは、選択しておカネとひきかえに入手することである。
本はただの商品ではない。資本主義から半歩、逸脱した存在なのだ。
というのも、本の実体は紙の束に過ぎないのだから。
そう、ここで貨幣と交換されるものは紙ではない。
書籍購入とは、精神とよぶべきものをカネで買おうという冒険なのだ。
それは神聖なものでなければならぬ。
つまり、どういうことか。
本を買うとは、月並みな消費行動とはことなる何ものかでなけらばならない。
ドラマだ。書物入手は、精神による精神の強姦。
この場合、強姦されるのは買い手か書き手か、どちらの精神かはまだわからない。
強いものが勝つ。精神の弱肉強食である。
本を買うというのは、恐ろしいことなのである。そこには闘いがなければならぬ。

そうだとすると、やはりちがうと思う。
新刊書店で目についた本を購入するのは、あまりにドラマがないではないか。
物語にならないのである。そこには語るべき何ものもない。
本を買うには、古本屋に限る。
古書店には出会いがある。ドラマとよぶにふさわしい興奮がある。闘争がある。
そこで見つけた本と、かの人間は闘わなければならない。
古本の価格は店によってまるっきりことなる。この金額は適当か。
おのが保持する情報を総動員して本を検分する。
このとき本はもう商品ではない。生き物である。
この客は、本が精神本来のすがたへ立ち戻っていることに気がつく。
勝負である。新刊書店とはちがう。つぎに来たときにはないかもしれない。
新刊書店なら出版社への注文もできようが、古本屋ではそうもいかない。
かの人間はだれと闘っているのか。古本屋の店主か。その本の著者か。
どちらも間違いである。この古書店の客は、紙と闘争しているのである。
いや、これも間違い(笑)。紙ならぬ神と勝負しているのである!
この日、この場所で、この本とめぐりあう、この偶然を仕組んだものがいるとするならば、
それは神である。

神(紙)と向き合う瞬間、ドラマが生まれる。

結論を書いておこう。
本は古本屋で買おう、である。
ブックオフも可。
これはおカネの問題ではない。精神の重要問題なのである。
決して古本でしか本を買えぬビンボー人の自己弁護ではないと、
繰り返し、それでも、もう一度しつこく念を押し、
さらにとどめだといわんばかりに「わかったな」とちょっと怖い顔で脅して、本文を終える。
「対談 日本人と聖書」(山本七平/TBSブリタニカ)絶版

→改めて、聖書はすごいなと感心する。
世界史というのは、その実、聖書の歴史なのだから。
ユダヤ教の(旧約)聖書から生まれたのは、キリスト教とイスラム教。
現代も、このふたつの宗教における近親憎悪が世界中の話題となっている。

聖書というのは劇の倉庫のように思われる。常に対立を生むしかけになっている。
そもそも契約という概念が対立をはらんでいるとは、山本七平の指摘。
旧約聖書、新約聖書の「約」とは、契約のことである。
神と契約する。契約したのだから、対立が可能になる。
神と人間は対立する。契約不履行を神に問うてもよいのである。
唯一神と契約する。絶対神と契約する。
どういうことか。真実はひとつと信じることである。わが神のみが真実。
この態度は、かならず正統と異端の対立を起こさせる。
正しいものが、かならずひとつあるというのが聖書の思考法である。
ふたつの意見がある。どちらも正しいということはありえぬ。
意見の不一致があるとき、それはどちらかが間違っている。正統異端の論争が生まれる。
この激しさが、西洋の劇的力学を養育したのではないか。
わたしが正しい。なら、あなたは間違っている。これは劇以外のなにものでもない。

聖書は常に対立をもたらす。
キリスト教史とは、正統と異端の闘いにほかならぬ。
キリスト教は好戦的な狂人をイメージするのがいちばんである。
この狂人はいう。「わたしは正しい」
ギリシア・ローマ神話をぶっ潰すわけである。
当時ローマで主流だった宗教、太陽神をあがめるミトラ教も排撃。
国教化までの道のりである。
キリスト教はいつの時代も敵を作らずにはいられない。
「汝の敵を愛せよ」
このイエスの名言を実行するには、常に敵を作り続けなければいけないとでもいうのか。
プロテスタントは、免罪符を乱発するカトリック教会を敵だという。われこそは正統。
ところがカトリックのがわもおなじことをいう。あちらは異端。
カトリックはローマ教皇の正統性を、プロテスタントは聖書の正統性を、それぞれ主張する。
世界史のひとコマである。

キリスト教教会は、ガリレオを異端とする。
正しいのは天動説か地動説か、である。
このときのガリレオに注目したい。
かれはかたくななクリスチャンであった。どういうことか。
正しいものはひとつしかないと信じていた。
地動説が正しいならば、天動説のほうが間違っている。
真実はひとつとする聖書で培われた思想である。
そうである。自然科学もまた、聖書が生みだしたものなのである。
原子爆弾は聖書が作った目下のところ最大の敵である。
聖書のどこにも原爆を認める思想はない。
だからこそ聖書は原爆を製造した。悔い改めよと契約者へ迫るために。
「汝の敵を愛する」ために敵の製造を怠らない。これが聖書だ。

聖書はひとを狂わせる。狂人はおのが絶対的な正義を訴える。
世界史は、正義と正義の戦争で成立しているようなもの。
とすれば、世界史は聖書に仕組まれた劇なのであろうか。
劇とは葛藤である。二者の衝突である。なれあったら劇は成立しない。
「まあまあまあ」と日本人のように下手にでる発想は劇を生じせしめない。
真実はひとつ。正邪の論争。これが劇である。聖書の劇である。
この劇を手に入れたい。この劇をものにしたいのである。
そのためには狂わねばならぬ。聖書を読めば狂うことができるのだろうか。
イエス・キリストのように――。
「聖書の土地と人びと」(三浦朱門・曽野綾子・河谷竜彦/新潮社)絶版

→聖書とどう向き合えばいいのかわからない。
オリジナルの聖書を読めばいいじゃないかといわれるかもしれないが、
遠藤周作によると、旧約聖書のほうは、特別な勉強をしないと読めないらしい。
ホメロスの「イリアス」を数十ページで投げだしたわたしである。
いま家にある古い聖書を手にしている。
ぱらぱら見ると旧約はホメロスとおなじにおいがする。
なら新約聖書だけでも読むべきか。
たくさん出版されている聖書のなかのどれがいいのか。
たしかにいつまでも口当たりのいい一般書ばかり読んでいても仕方がない。
読書はすべて娯楽だと思っている。新約聖書を娯楽として読めるか。
今度、挑戦してみたい。結果はここで報告する。

本書は作家の対談集。
小説家というのは正しさよりもおもしろさ、奇抜さを優先する人種だから、
聖書学者からしたらこのような本は間違いばかりなのかもしれない。
よって誤謬(ごびゅう)があるかもしれないとはじめにことわりながら、
この本を読んでなるほどと勉強になったところを紹介する。
もし間違いがあったら、お手数でしょうがご指摘をお願いします。

だれだったか。クリスチャンに改宗した文学者がこんなことをいっていた。
入信の理由である。
80歳過ぎまで生きたブッダの老人の思想よりも、
30代前半で死んだ青年イエスの若々しい思想にひかれた。
だが、この本によると――。
イエスが生きていたユダヤ世界の平均寿命を考えると、
死亡時の年齢はかならずしも若くない。老年の一歩手前だという(P103)。
これが事実なら、現在の常識で過去のことを考える愚かさを自戒したい。

イスラエル人とユダヤ人とユダヤ教徒。
この3つの違いがようやくわかった。
ユダヤ人は民族的なものだから、我われがなろうと思っても絶対に不可能。
イスラエル人というのは国籍の問題で、たとえば日本人がなりたいならば、
ユダヤ人と結婚をすることで可能になる。
日本人がユダヤ教徒になるのは複雑な手続きが必要で、まずユダヤ人と結婚する。
それからとてもむずかしい試験に合格すれば、一応はユダヤ教徒と認められる。
ユダヤ人はみなイスラエル人ではない。ユダヤ人は世界各地に離散している。
イスラエル人がみなユダヤ人かというと、これも違う。
イスラエル国籍をもつアラブ系の人間もいるから。
ユダヤ人=ユダヤ教徒かというと、そうではない。
キリスト教徒のユダヤ人もいる。
どうですか。わかりましたか。
ウソでしょう。わかったはずがない。だって書いているわたしがわかっていないのだから。
ややこしいので困る。

東大卒の三浦朱門が鋭い指摘をしていた。
イエスというのは田舎の大工のせがれ。いまふうにいえば中卒塗装工見習い。
ユダヤ教の教典はヘブライ語で書かれているが、イエスは果たしてこれを読めたか。
正規の宗教教育をイエスは受けた形跡がない。いうなれば耳学問。
田舎へ巡回してくる三流のラビ(司祭者)がイエスの教師だったと思われる。
この無学のイエスが芝居がかった死にかたをしたことで、弟子が発奮したわけである。
十二使徒として有名である。だが、実のところ、このイエスの直弟子も学がない。
もっともキリスト教を布教したのはパウロだとされている。
このイエスとは会ったこともないパウロという男は、イエスとはけた違いのエリート。
エルサレムできちんとした宗教教育を受けている。語学も堪能。
つまりいまのカトリック、プロテスタント系統のキリスト教は、
低学歴で肉体労働者であったイエスがいいだした奇天烈な教えを、
高学歴で裕福かつ知的なパウロが論理的に再解釈することによって広めたものである。

うふふ。パウロの陰謀を考えたくもなるさ。
キリスト教っちゅーのは、イエスではなくパウロの教えではないか。
狂人イエスをかつぎあげたパウロの腕力こそ、キリスト教の力強さ。
……どうしてかわたしはイエスを精神病患者と思いたがる。

イエスは、愛の宗教を打ちたてた。
この愛というものを、現代日本の感覚でとらえるなという指摘が印象的だった(P272)。
キリスト教の母胎となったユダヤ教は砂漠の思想である。
砂漠を流浪する民族から生まれた宗教。
常に食うか食われるかの状態を意識しなければならないのが砂漠である。
たとえば水。砂漠で水は貴重である。水が1杯しかないとする。
これをだれが飲むか。だれが生き残るか。
この極限状態から生みだされたのが、民族神ヤハウェと契約するユダヤ教である。
このユダヤ教に向かって、愛を叫んだイエスを、
当時の人間は狂人と思ったのではないか。
1杯しか水がない。イエスはそれを友人に与えろというのだから。
これがイエスのいう愛である。
世界の中心で叫ぶような甘っちょろい愛をイエスは提唱したのではない。
「珍訳聖書」(井上ひさし/新潮文庫)絶版

→どうでもいいけど、井上ひさしもカトリック。
左翼でカトリック。おかしなひとである。
書くものがおもしろい作家なので、人間としては常識人かと思っていたら、
もうだいぶまえになるが、別れた妻からドメスティック・バイオレンスを暴露され、
この横文字はなにかというと、まあ、妻をびしばし殴るというわけで、
これによって作品だけではなく、
作者もただならぬおかしさをもった人間であることがめでたく証明されたことになる。

聖書つながりでこの戯曲を読んだのだが、あまり聖書とは関係がないようで。
最後のせりふ「ラーメン」は「アーメン」とかけていたことを解説に教えられる始末。
読者として未熟なようで恥ずかしい。
どんでん返しを4、5回、繰り返す。
劇場で見ているぶんには笑えるのかもしれないが、読書だと……。
くどいと思うわたしは笑いのセンスがないのかもしれない。
井上ひさしの笑いというのは、なんとも健康的で、毒がないというのか。
老若男女が安心して見られるお芝居なのでしょう。
「悪霊」(ドストエフスキー原作/椎名麟三/冬樹社)絶版

→読書をしながらメモを取っている。
そのメモを参考にして毎回「本の山」を更新しているわけだ。
この本のメモを、そのまま紹介してみる。

「つまらん 革命 思想はダメ
劇作をわかっちょらん
○青春小説 ×政治小説 ×思想小説」


これだけである。いまから翻訳する。
この「悪霊」は、ドストエフスキー作として知られる、
あの有名な長編小説を戯曲化したもの。
ところが劇になっていない。ダイジェストというのか。あらすじを紹介した程度。
せりふがどれも観念的。椎名麟三はドストエフスキーの思想に着目したということ。
この作家は「悪霊」を思想小説や政治小説のように読んでいたと思われる。
わたしはドストエフスキーの小説を青春小説として読んだ記憶がある。
未熟な青年たちが、その未熟さゆえに葛藤、成長する物語。
「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」。どれも青春小説として楽しんだ。
この読みかたは宮本輝から教わったもの。上品な読書ではないとわかっている。

だけど、じゃあ、と高級な椎名麟三に問いたい。
思想に感銘を受けるのは勝手だが、ほんとうに理解したのかいな。
ドストエフスキーのキリスト教はロシア正教だぞ。
カトリックでもプロテスタントでもない、東方教会系統である。
日本人にはわかるはずがないと思うが。
まあ、椎名麟三は誤読をしたのだろう。
それは青春小説として読んだわたしに比べたら、
この大作家は正しく「悪霊」を読んでいるとは思う。
さて、そもそも読書に正誤などあるものか。いってしまえばすべて誤読である。
読書は楽しんだもの勝ちだと思っている頭の悪い読者の感想をこれにて終える。
「我等なぜキリスト教徒となりし乎」(安岡章太郎・井上洋治/光文社)絶版

→帯にこう書いてある。「遠藤周作と学び、教えられたこと」。
キリスト教解説書というよりも、遠藤周作解体本。
日本のカトリック作家・遠藤周作がおっぱじめた遠藤教を紹介する。
イエスの没後に弟子が師匠を回顧したものが新約聖書。
遠藤周作没後まもなく出版されたこの本を聖書に見たてるのはいささか大げさか。
安岡章太郎(作家)、井上洋治(神父)、ともに遠藤周作の古くからの親友。
安岡にいたっては、遠藤を代父にカトリックの洗礼を受けている。
この本で知ったのだが、安岡のほかに遠藤に落とされた作家――。
三浦朱門、矢代静一、高橋たか子、加賀乙彦。

キリスト教には、落とすという表現が似つかわしい。
勧誘する、よりも、落とす、のほうが耶蘇(やそ)らしい。
キリスト教というのは、拡大意欲を内部にためこんだ宗教である。
つまり、優劣の思想をはらんでいる。もっというと、じぶんがいちばんだと思っている。
仏教と比較する。
仏教は蒙古のように大陸からおしよせてきたというわけではなく、
こちらから勉強しに行った。
学僧が教典を持ちかえり、あれこれ日本風にアレンジした。
一方でキリスト教は、宣教師が率先してやってくる。
無知蒙昧な土民を教化してやろうという欲望があるわけだ。
日本人の手にまかせようというのではなく、外人宣教師が直接的に布教する。
キリスト教は、帝国主義や植民地支配を胚胎(はいたい)していたといわざるをえない。
愛の宗教といわれるキリスト教を見ると、愛は暴力なんだなと納得してしまう。
ストーカーだって、愛なのである。
かかわらないでといわれても、愛しているんだからいいだろうと迫る。
あなたもわたしのように愛しなさい。これが宣教師のやり口である。

現代の宣教師たる遠藤周作は、同僚というべき他の作家を落としたとき、
どのような満足を得たのか。他人の精神を支配する悦楽。
想像すると薄ら寒い思いがする。
注意したいのは、遠藤周作自身は、落とされたわけではない。
10歳のときに母親に連れられて行った教会で洗礼を受けている。
受洗した年齢がポイント。じぶんでキリスト教を勉強して洗礼を受けたのではない。
いわば無理やり母の影響で入信させられた。かといって、幼児洗礼でもない。
欧米人のように生まれたときからキリスト教徒というわけでないのである。
だから、身もふたもない言い方をすれば、
なまじ生来のクリスチャンよりも、無宗教の人間の落とし方をわかっている。

繰り返す。
遠藤周作はキリスト教をじぶんで選んだわけではない。
遠藤の信仰は、おのが宿命を肯定しているに過ぎぬ。
そう考えたとき、遠藤周作の愛読者が洗礼を受けるのはおかしくはないか。
ほんとうに遠藤周作のまねをしようと思ったら、
キリスト教とは無縁だったというじぶんの過去を肯定すべきではないか。
そもそも――。
飛躍する。イエスという男はユダヤ教徒だったわけである。
従来の宗教を否定して、新しい教えを広めた。これが人間、イエスのやったこと。
ならばイエスをほんとうに信仰するクリスチャンは、キリスト教を否定すべきではないか。
西洋伝来のキリスト教を無断で歪曲(わいきょく)し、
それを日本古来の慣習や現代科学と混ぜ合わせることによって、
現代日本人の口に合う宗教としてつくりなおす。
これが作家・遠藤周作、生涯の仕事である。
かれほどイエスを愛した日本人はおそらくいまい。
「仏教とキリスト教 どう違うか50のQ&A」(ひろさちや/新潮選書)

→まえにふとした思いつきから、こんなことを書いたことがある。
キリスト教のマスターは狂人。仏教のマスターは廃人。
自画自賛になるが、この発見はけっこうなものではないかと思っている。
狂人かと思ったら、キリスト教の聖者であった。大勢の信者を引き連れている。
汚らしい乞食と話してみたら、本人は悟りを開いたという。法悦にひたっている。
科学では計り知れぬ宗教の世界である。

これを発想するきっかけになったのが母である。
母は6年前、わたしの目の前で飛び降り自殺をした。
死後、机から何冊もの日記が見つかった。1字おろそかにすることなく熟読した。
わかったことがある。
母は自殺をする十数年前に精神病との診断を受けていた。
日記を読むと5、6年周期で著しい発病が見られる。周期的に激しく狂うわけだ。
その狂っているとき、なぜか決まって日記に聖書が言及されている。
母はクリスチャンではなかった。母の父が、そうであった。
狂った母は実家を訪れる。父と聖書の話をした、と書いてある。
聖書がわかった、との記述もある。

子どもの目の前で飛び降り自殺をする。
これは仏教から出てくるものではない。いかにもキリスト教的な発想ではないか。
宣教師の殉教に近いものがある。
芝居がかっているというのは、ひとが死んでいるところでは不適切な表現かもしれないが。
いまでも毎日のように苦しんでいる。
母はなぜわたしの眼前、飛び降り自殺をしたのか。
愛情とも憎悪ともいえぬ巨大な感情がそこにあったことは間違いない。
たまたま都合がよかったからという理由では納得できない。

ニュースでは毎日、無数の不幸が報道されている。
たとえば、幼いわが子をうっかり自家用車でひき殺してしまった母親。
テレビ画面を見ながら、たいへんだよなと思う。どうするんだろう。
生きていけるのかな。やっぱり自殺するのか。
この視線でじぶんを見る。
たいへんだよな。かわいそうに。目の前で自殺されちゃうなんて。
よほどついてないひとなんだな。目の前で自殺って、それギャグ漫画の世界。

不幸なひとは、たいがい宗教にすがろうとする。
わたしも例外ではない。まずは仏教から。
知的関心で近づくものより、はるかに切実なわけである。
まあ、一般的な仏教の回答としては「あきらめましょう」だと思う。
起こってしまったことは仕方がない。つらいだろうが、あきらめるしかない。
あきらめる。仏教の思想である。かの宗教では、廃人を高僧とあがめる。
一方のキリスト教は、どんな回答をわたしに処方するのか。
いま勉強しているところである。教養などとは無縁の命がけの読書をしている。

この本で知った宗教の機能。「価値の革命」。引用する。

「最初は、病気を治してくださいという要求でもって、
仏教やキリスト教へ入信します。そして、そのために祈ります。
すると、祈っているうちに、祈りそのものの大事さに気づくのです。
その結果、病気は治らなくともよい。
神は(仏は)、わたしに祈りをさせるために、わたしを病気にさせたのだ
――と考えるようになります。これが『価値の革命』です」(P153)
いつものように歩いて近所の神保町へ。
目的は、週末恒例の小宮山書店ガレージセール。
3冊で500円。というか、1冊でも2冊でも3冊でも500円。
これは古本販売の革命だと思っている。
ふつうひとは欲しい(読みたい、ではない)古本しか買わない。
だが、このガレージセールをまえに購買者の意識は変容を迫られる。
買いたい本を求めるという、当たり前のルールがわずかながら崩れるのである。
このとき古書購入がゲームとなる。3冊500円。
このワンコイン販売の考案者はただものではない。
欲しい本が1冊しかないと、この人間は立ち往生する。
あと2冊、なにか買わなければならない。
これは苦悩ではなく歓喜であることに客は気づく。
結果、毎週ガレージセールに通うようになる(金土日)。わたしのようにである。
ひさびさにこのガレージセールで購入。

「我等なぜキリスト教徒となりし乎」(安岡章太郎・井上洋治/光文社)絶版
「宗教の森 付=吉本隆明・中村雄二郎・河合隼雄・鶴見俊輔との対話」
(笠原 芳光/春秋社)絶版
「末世を生きる」(山田無文・水上勉/立風書房)絶版


上記3冊で500円。いい本を買えたと満足。
とくにいちばん最初にあげた本。
もしかしたら文庫になっているかと懸念していたがセーフ。
欲しい本には二種類ある。
ずっと探求していた本(こういうのはなかなか読まない)と、いますぐ読みたい本である。
今日の収穫は後者が多い。

三省堂まえの坂をのぼり御茶ノ水駅へ。中央線の特別快速に乗車。
月に一度の荻窪巡礼。毎月決まって行くところである。
前月は荻窪で1冊も買わなかった。
たまたま車内で座れたので先ほど買った本をぱらぱら読んでみる。
どれもなかなか歯ごたえがありそう。
あ、と思う。もしかしたら。車内放送に耳をすます。
「次は三鷹です」
やってしまったようである。乗り過ごした。中央線では初めて。
特別快速のためか何駅もとまらずに通過する。
三鷹に到着するまではかなりの時間を要した。そこから引き返す。
さほど悪い気分でもない。本に夢中になったのだからしようがない。
なにか今日は書物と相性がいいのかもしれないと、逆にプラス思考。

ようやく荻窪へ。ささま書店へ向かう。
ここは店外の105円ワゴンで有名。さして期待しないで眺めると――。

「にぎやかな天地(上下)」(宮本輝/中央公論新社) 210円

ヤッター!!!!
ついに来ましたよ~。去年の9月出版。買おうかだいぶ迷ったのを憶えている。
上下2冊で3200円。どうせ内容は、グルメ自慢と若者への説教。
ストーリーは、がんばれば報われる。報われる内実も、まこと現世利益的。
創価学会の教科書というほかない。ここ最近の宮本文学である。
けれども現代作家で全作品もらさず読んでいるのは宮本輝のみ。
ここで切るか。すなわち文庫化まで待つか(3年)。それとも購入するか(3200円)。
ため息をつくために3200円は払えないというのが当時の結論だった。
それがついに210円で買える日が! まだ1年も経っていないぞ!
ささま書店さん、ありがとうございます。
ほかに105円棚で買ったもの。

「ハード ・ キャンディ」(テネシー ・ ウィリアムズ/寺門泰彦訳/白水社)絶版
「物語と人間の科学」(河合隼雄/岩波書店)
「頭痛を診てくれるお医者さん」(保健同人社)
「仏教とキリスト教」(ひろさちや/新潮選書)


すべて105円。店内に入り、なにか買わねばと――。

「黙阿弥名作選」(河竹黙阿弥/新潮文庫)絶版 420円

ああ、生きていてよかった。
単純なわたしはそんなことを思いながらブックオフへ。
かけよるは、いうまでもなく105円コーナー。

「さわりで癒される 天才モーツァルトの名曲25選 CD付」(中経出版)
「物語で読む 法華経」(ひろさちや=編/すすき出版)
「聖書の土地と人びと」(三浦朱門・曽野綾子・河谷竜彦/新潮社)絶版
「白い炎」(井上靖/文春文庫)絶版
「ゴドーは待たれながら」(いとうせいこう/太田出版)絶版
「京都大衆酒場」(青幻社)
「アフターダーク」(村上春樹/講談社)
「半島を出よ(上下)」(村上龍/幻冬舎)


叫びたくなった。今日はいったいなんの日なんだ~。
上記の本がすべて105円である。ウソではない。
モーツァルトの本にもしっかりCDが付いていた。
本日購入した書籍はなんと19冊。こんな日もあるのだ。信じられない。
帰途、列車事故に遭うのではないかと震えていたことを告白する。
あれを始めると、あっという間に時間が経ってしまう。
読書の、あれはなんというのか。
一度(あるいは何度も)読んだことのある本をぱらぱらめくる。
エッセイやムックなどが主。
まがりなりにも一度は目を通したことがあるから、そうきばらないでいいのがよろしい。
かつての記憶と照合しながら、おもしろい部分だけを選び読む。
本来、読んでいた本は別にあったりして、
なにかを確認する目的でページをめくったのが運の尽き。
本末転倒で、そっちの本に夢中になってしまったりする。
気づいたら1時間も経っていたり。
まるまる1冊読んだわけではないから、どこか中途半端な思いもある。
時間を無駄にしたような気もするし、いや、贅沢な読書をしたという満足感もある。
そうだった。あれはつまみ食いというのがふさわしい。
みなさまも経験はありませんか。
大掃除の際、本棚の裏からでてきた本を開いたが最後――。

数日前、食べ物の話は書かないと宣言しておきながら、もう書く気でいる。
根が食いしん坊なのである。
いちばんの美食は、もしやつまみ食いではないか。
こんなことを思うわたしはそうとう育ちが悪いのかもしれない。
うん、あれはうまかった。つまみ食いほど美味なるものはない。
母親が腕を振るっているその隙をねらってかすめとる食物のなんとおいしかったことか。
食べちゃダメじゃないの! なんて禁止されているのが、かえって味を増すのか。
ごはんが完成したころには、もうつまみ食いで満腹になっていたりして、これこそ本末転倒。
大晦日におせち料理のある一品だけ食べ終わっちゃったりして、怒られた記憶も懐かしい。
部屋の大掃除もこちらは本のつまみ食いでもたもたしているので二倍怒られる。

おとなになっても、つまみ食いはやめられない。
読書のつまみ食いだけではない。
いまでも料理をしながら、つまみ食いをすることがある。
たとえば、アスパラを茹でる。
これからウインナーと卵とフライパンで、などと考えてはいるのだが、
マヨネーズをつけて食べていると、それだけでおいしく、
いつしか料理は完成することなくアスパラが終わっている。
つまみ食いがおとなになっても好きなんて、まあ、なんてお行儀が悪いのでしょう。
本を買おう。山を作ろう。本の山を自己の周囲にはりめぐらせたい。
現実から身を守れ。現実と自分のあいだに本を置くのだ。本の防壁である。
本の山に囲まれていたいとたえず願望している。
四方八方、東西南北、どちらを見ても本の山。わが理想郷である。

そのためには本を買わねばならぬ。
すべて定価で買っていたら破産してしまう。古本屋を活用するしかない。
神保町。田村書店ワゴン。

「イエスと親鸞」(八木雄二/講談社選書メチエ) 400円

いつしか絶版ではないものも古本で買うような貧民になってしまった。
むかしは新刊で買えるものを古本で買ってしまうとだいぶ後悔したものである。
いつからかと考えてみると、ちょうどそう――。
まめな新刊チェックを怠るようになった数年前からである。
毎月、洪水のように吐き出される新刊書をチェックするのがめんどうになった。
文庫、新書、選書、単行本、専門書。
これらの新刊を常にチェックすることはあきらめた。
偶然性に賭けるようにいつしかなった。
今回、この「親鸞とイエス」に偶然に出会った。
興味をひかれるタイトル。
ぱらぱらめくると、ほほうと思うところが数箇所。
よし、買おう。こう考える。偶然に賭けるわけである。

神保町から急ぎ足で九段下へ。
そこから東西線で高田馬場へ向かう。ビックボックス古書感謝市の初日。
本来なら早稲田からじっくりと攻めていきたいところだが今日は時間がない。
いきなり本丸に突入する。

「悪霊」(ドストエフスキー原作/椎名麟三/冬樹社)絶版 500円
「わが母の記」(井上靖/講談社文庫)絶版 100円


ドストエフスキーは懐かしいな。
だけど、いま再読するとなったら尻込みするのがあの長さ。
戯曲への翻案なら短時間で読める。
椎名麟三はキリスト者。キリスト教つながりで読むのも悪くない。

近くのブックオフへ。

「マホメット」(井筒俊彦/講談社学術文庫) 105円
「現代読書法」(田中菊雄/講談社学術文庫)絶版 105円
「般若心経のすべて」(公方俊良/日本実業出版社) 105円
「不安でたまらない人たちへ」
(ジェフリー・M・シュウォーツ 著 /吉田利子訳/草思社) 105円


最後にあげた本はうれしかった。
そもそもこの本の存在を知らなかった。
いまでも音恐怖症に悩まされている。
先ごろ、近所の墓地が拡張するという話を聞いた。
そうとうな騒音がでるようである。
なんとか騒音にたえられる強い自己を作りたい。
本著は、アメリカの森田療法を思わせる。
この本でじぶんを改造できるといいのだが……。
定価1995円が105円。
それより何よりこの本との出会いが幸運である。
音過敏症が改善するのではないかという希望を(読むまでは)もつことができるのだから。
「舞台のない台詞」(開高健/新潮文庫)絶版

→酒をのむと、なにか悟ったような気分にならないか。
この病気をさらに増進させるのがアフォリズム(箴言集、名言集)。
人生、世界、諸事万端のからくりがわかった!
かのひとは昂揚する。このとき酒と書物はおなじ麻薬となる。
このアフォリズムでいちばん感銘を受けたものを紹介する。
なぜそんな恥ずかしいまねをできるのか。
簡単。いま酒をのみながらこれを書いているからである。さあ、読まれよ!

「感情、お金、女、旅、命、言葉、嘘、真実、官能、時間、酒。
何でもいい。一つでもいい。三つでもいい。とめどなくでもいい。
とにかく“浪費”という言葉にふさわしいような生の浪費をすることが
小説家にとっては蓄積になるのだという厄介な原理が
金持国でも貧乏国でもおかまいなしに襲いかかってくるので私はつらい。
このイヤらしい、強力な原理は、
まるで梅毒や癩(らい)のようにひっそりと進行し、
それと気がついたときはすでに手おくれだということになりやすいので、
ますますつらい。
どれくらい浪費したら蓄積されるかという質と量がどう計測のしようもないので、
またまたつらい。
では、ただもう何事か、何物かを浪費しさえすればいいのかというと、
そうでもないよというつぶやきも漏れてくるので、いっそうつらい」(P152)
「私にとって神とは」(遠藤周作/光文社文庫) *再読

→この著作で遠藤周作はキリスト教と仏教を比較する。
まあ、「どっちの宗教ショー」というわけだ。
こうこうこういう理由で仏教よりもキリスト教にひかれる。
何度もそんなことが書かれている。ちょっと無理があるよなと思った。
「仏教は~」とくくるのは、いくらなんでも大風呂敷すぎるのではないだろうか。
たとえば釈迦、親鸞、日蓮。
この3人の主張はまったくことなる。
だが、世間一般はこの三者三様を認めず仏教とラベルをはってしまう。
これとおなじ失敗を遠藤周作もしている。
仏教にはキリスト教ほどの一体感はないのではないか。
仏教系の宗教団体が無数にあるというイメージがあんがい正しいように思う。

それはさておき――。
興味深い指摘がいくつかあった。
教祖の死にかたのちがい。
静かに死んだ老人・ブッダ。苦しみながら劇的に死んだ青年・イエス。
この対照というのは、たしかに象徴的なものがある。
日本人的感覚からいうと、キリスト教はバタ臭い。
バタ臭い。これほどキリスト教をうまく評することばはないように思う。

欲望をどう見るか。
仏教では煩悩と嫌悪すべき対象になる(日蓮宗系はことなる)。
キリスト教では欲望を肯定する。愛欲ですらそこに救いの種があると考える。
ある比喩をいま思いついたがどうだろう。
炎がある。仏教は火を消すことをめざす。
キリスト教では炎へガソリンを追加する。燃えあがれ。自己を焼き尽くせとあおる。
仏教から劇はでてこない。劇とは、欲望と欲望の衝突である。
もっと身もふたもないことをいうと、狂人に似合うのはキリスト教である。
「私はイエスの生まれ変わりじゃ~」
宣教師の殉教は、狂信ということばがぴったしである。
キリスト教のマスターが狂人なら、仏教のマスターは廃人ではないか。
うん、われながらうまい表現である。

キリスト教の聖者は狂人。仏教の高僧は廃人。

とすると、常に劇的なるものを求めているわたしにふさわしいのはキリスト教のほうか。
私事を書くと、母方の実家はキリスト教(プロテスタント)。
父方の実家は新興宗教団体「生長の家」。
このあいだに生まれたのがわたしである。現在、無宗教――。
「私のイエス」(遠藤周作/祥伝社黄金文庫) *再読

→確認する。わたしが聖書およびキリスト教に関心をもつ理由は2点。
こころの平安(くすっ)が得られるのではないか。創作に活用できるのではないか。

宗教と文学にはどのような関係があるのだろうか。
正確には、信仰と文学の関係。
というのも、宗教というのはどうしても外から見ているだけではわからない。
中に入ってみないとわからない部分が宗教にはあると思う。
宗教の中に入る。すなわち、信仰である。
信仰。なにかをみんなと信じることからもたらされるちから――。
ポイントを三つにわける。「なにかを」「みんなと」「信じる」。
「なにか」は不合理なものでなければならない。
「みんなと」は意外な盲点。連帯感が表現者にどのような影響を与えるのか。
「信じる」とは、選ぶという行為と似たところはないか。選び、尊ぶ。

信仰をもつ現代作家といえば宮本輝が思い浮かぶ。創価学会である。
宮本輝は小説を書くために創価学会に入ったわけではない。
病気を治すためである。不安神経症。
結果、創価学会の教えを広めたいと小説家をこころざす。
マルキストの作家がいるように、創価学会の作家がいてもいいのではないか。
宮本輝の初期作品ほど美しい小説を読んだことがない。
あれも信仰がなせるわざであろう。なにかを信じることによって得られる美しさ。
いくら創価学会の悪評が高かろうが、宮本輝の価値は落ちるものではないと思う。

ちなみに遠藤周作は創価学会を宗教だと認めていない。
井上ひさしとの対談で、創価学会を揶揄したこともある(「笑談笑発」)。
この「私のイエス」からも引用する。

「世間では、宗教に入ったなら、ご利益があって、子どもの病気が治ったり、
お金が儲からなくてはしょうがない、などと考える方も多いようですが、
私はこういうものはまったく宗教の本質とはかかわり合いのないものだと思います。
もし、本当の宗教というものがあるとするならば、母親が子どもを亡くしたあと、
『神も仏もないものか』という気持ちになった時、なおそこで、
神の意味を認めるということではないかという気がします」(P238)


ご存じ、病気が治る、金が儲かるは、創価学会の売りである(苦笑)。

遠藤周作は「どうしようもない」という思いを宗教と関連づける。
どうしようもない。わたしの口癖である。
その部分もこの「私のイエス」から引用する。

「もう自分ではどうにもしようがない、
ということを青春の中で経験しなかったとすれば、
その人は、やはり人生とか、原罪とか、神といったものを
理解できないのではないかと思います。
もしそうでなければ、そういうどうしようもない時、


『あぁ、神様』

と思わず声が出るわけですし、この経験から“神はいるのか、いないのか”
という問題が始まるのではないでしょうか」(P226)


どうしようもない――。
ぽっと口からこぼれる「神様~」。そこに遠藤は宗教意識の原初を見る。

「どうしようもないわたしが歩いてゐる」

自由律俳人の山頭火の有名な句である。
かれはいちおうちゃんとした僧籍をもった禅僧である。いわば宗教人。
山頭火の句を並べてみる。

「どうしようもないわたしが歩いてゐる」
「なんぼう考えてもおんなじことの落葉ふみあるく」
「わたしと生れたことが秋ふかうなるわたし」
「ここにかうしてわたしをおいてゐる冬夜」


上3つは「わたし」への視線である。凄まじき個への執着。
それがいちばん下の句になるとどうだ。
ぱっと視界が開けたような開放感がないか。
個をつきぬけて全体へいたったような、いうなればトンネル開通の愉楽を感じないか。
これが宗教なのではないかとわたしは思っている。
「どうしようもない」から「個を超えるもの」への到達をめざす、果てしなき道。
「メナム河の日本人」(遠藤周作/新潮社)絶版

→遠藤周作の劇作のなかでの最高傑作。
娯楽大作とよぶにふさわしい。
劇作家・遠藤周作は欧米の大劇作家と肩を並べる位置にいると思う。
この作家の天分は劇作にあったのではないかと疑うほどである。

どうしたらこんなおもしろいものを書けるのだろう。
別の書籍で遠藤周作はいっている。

「もともと私には劇とは何らかの形で、
人間と人間を越えた超絶的なものとの関係から
生まれねばならぬという考えが心の底にあった」(「観客席から」)


ノーベル文学賞を受賞した米国劇作家、ユージン・オニールの発言。

「たいていの近代劇は人間と人間との関係にかかずらわっている。
だが私はそれにはまったく興味がない。
私の関心は人間と神の関係にしかない」


両者には相通じるものがある。
だが、どうすれば人間と神の関係をつかめるのか。

また、遠藤周作はいっている。
じぶんは旧約聖書に関心はない。興味をもつのはもっぱら新約聖書。
小説もすべて新約聖書の影響のもと書いている。
むろん劇作も同様であろう。
むしろ、より聖書のドラマツルギーを活用しているようにも思う。
世界的ベストセラーである新約聖書――。
これをどう読めばいいのだろう。やはりそこには信仰がないとダメなのだろうか。
「メナム河の日本人」には、たしかに人間を超えた圧倒的な劇がある。
この劇をものにしたいのである。だが、どうやって――。
「新四谷怪談」(遠藤周作/新潮社)絶版

→喜劇。うまいよな~。舌を巻く。
これを舞台にかけたら観客はぜったいに沸く。
おうせいなサービス精神。
この時期、遠藤周作が関心をもって勉強していた深層心理学の知識。
このふたつがあわさって、絶妙のエンターテイメントになっている。

遠藤周作からは文士のにおいがしない。
優秀な学者と強欲な商人を足して二で割ったらこのような作家ができるのではないか。
遠藤周作のキリスト教解釈というのは、いまでも問題視されている。
どこらへんが異端なのかというと、実利を優先するところ。
商売人・遠藤周作の面目躍如である。
こう考えたら都合がよいだろうと勝手に教義をねじまげてしまう。
たとえば死んだら亡くなった愛するものに会えるなどと平気で放言する。
それはカトリックではいっていない。
だが、遠藤としてはそう考えたい。ならそうしてしまおう。
そうしたら日本のキリスト教信者も増えるかもしれない。結果オーライの思想である。
だから、こういうことも頻繁に起こる。
遠藤周作の本を読んで、教会へ行く。
ぜーんぜんちがうじゃんとこの遠藤愛読者は仰天する。

どんどん脱線するぞ。
遠藤周作というのは、文壇の折伏魔(しゃくぶくま)だったわけね。
めくらめっぽう勧誘している。
実際、入信してしまった文学者が何人もいる。
そのような作家のキリスト教解釈はあきれるほど遠藤周作の受け売り。
それではキリスト教ではなく遠藤教だと指摘したくなるほどである。
遠藤周作の勧誘のやり口を読んだことがある。
たとえば、キリスト教のここが気に入らないと反論する。
すると、遠藤はこう来る。
よし、わかった。とりあえず入信してみよう。
その部分はきみがカトリックに入ってからふたりで変えていこうじゃないか。

現在でも遠藤周作の影響で洗礼を受ける読者がいるらしい。
恐ろしい男だよな。
とても学者や作家という枠には入りきらぬ、
尋常ではないエネルギーを蔵していた人間と思われる。
「薔薇の館」(遠藤周作/講談社文庫)絶版

→遠藤周作、若き日の切実な疑問がこの劇作として結実した。
この作家の青春は太平洋戦争のただなか。
カトリックの青年、遠藤は教会の神父に問う。
キリスト教は「汝、殺すなかれ」と教えている。
しかし徴兵されたらいやでも銃を取らなくてはならない。
そのときキリスト教徒はどうすればいいのか。
どの神父も中途半端にごまかしたという。
まあ、日本のキリスト教会は戦時中、ニッポンがんばれとやっていたわけである。
矛盾がある。この問題意識からできあがったのがこの戯曲。
問題(提起)劇になってしまうと、どうしても純粋な劇からは遠くなる。
テーマが前面にですぎているこういった戯曲は苦手である。

この戯曲を読みながら思ったこと。
どうしてキリスト教では自殺を大罪としているのだろう。
だって、イエスもあれは自殺でしょう。
いくらでも生きながらえる手立てはあったのに、わざわざじぶんから悲劇を演出している。
いってしまえば、イエスは命をそまつにしているようにも見えるのである。
そのくせ信者には自殺を禁ずる。おかしな話である。そうは思いませんか。
「女王」(遠藤周作/講談社文庫)絶版

→印象でなにかを論じるのは意味がないことはわかっている。
あえてそれをする。小説でも戯曲でもそう。
日本のものはどこか弱くないか。この弱いというのもあいまいなことばだが。
欧米の小説、戯曲を読むと、日本のものにはない強さを感じる。

まったく関係のない話をする。
過日、風鈴がうるさいと近所へ苦情をいいにいった。
ネットで「風鈴 うるさい」を検索する。
迷惑している人間はけっこうな数いるわけである。
驚いたのはその対策。匿名の手紙。管理人や大家へ連絡する。
直接、抗議しにいくのをみないちように避けている。面と向かうのを恐れている。
なぜか日本人だよなと思う。
中島義道ではないけれども、日本には対立する意見というものがない。
面と向かって相反する意見を交わすという習慣がない。ことばとことばの格闘がない。

劇が生まれぬ国である。

遠藤周作の作品には、日本ではめずらしい強さがある。
このカトリック作家の本分は劇作にあったのではと疑うほど、戯曲もおもしろい。
欧米戯曲に比肩する強さがある。対立がある。
三角形をイメージしてほしい。人間-人間。一本の線である。
この直線の上部にもう一点を加える。神である。人間と神を線でむすぶ。
かくして三角形ができあがる。この三角形の内部において劇は発酵する。
ドラマが生まれる。人間と人間の直線では、うまく劇にならない。
かならずもう一点を必要とする。劇的力学である。

戯曲「女王」。
ただならぬおもしろさがある。広さが、深みが、ある。
サディストの女王のとる行動が意味深い。
愛とは、情熱である。妨害があってはじめて燃えあがるのが愛。
女王はじぶんを殺しにきた女を許す。女をその婚約者へひきわたす。
かれは熱愛を訴えていた。女を殺すのならこの身もともに殺してくれ。
こんなふたりに女王は幸福な結婚を与えてやるわけである。
3年後。男が再び女王のもとへやってくる。ひれふす。
心の張りがないと訴える。
ロミオ家とジュリエット家が不仲でなかったなら、愛も燃えあがらないというわけだ。
おまえは幸福な結婚をしたのではないかと女王に問われた男は返答する。

「その幸福も狎(な)れてしまえば、あまりに退屈なものでした」(P333)

女王はあくびをしながら宣告する。それなら―-。

「この男を牢へ入れよ。その眼をとり、耳をふさぎ、舌を抜くのじゃ」(P334)

幸福は退屈だという危険な思想がこの戯曲にはある。幸福は退屈だ。
「サウロ」(遠藤周作/「文学全集14」新潮社)

→一般に遠藤周作の処女創作は小説「アデンまで」とされている。
3年のフランス留学から帰国した31歳の評論家志望の青年が書いた小説である。
だが、没後にある戯曲が発見される。
25歳の遠藤がある女子高の演劇部のために書いたこの「サウロ」である。
遠藤は母の友人であるシスターから依頼されてこれを書いたという。
おそらくこの作家も留学前にこんな戯曲を書いたことを忘れていたのではないか。
それを読む。至福の読書である。
ちなみに、「サウロ」はこの全集にしか収録されていない。

どうせ目も当てられぬ若書きだろうとたかをくくっていたから、よけい驚いた。
「サウロ」は傑作である。
「アデンまで」「白い人」「黄色い人」といった初期小説よりはるかにおもしろい。
カトリック作家・遠藤は3年のフランス留学がつくったとばかり思っていたが、
留学前に25歳でこれを書くような人間だったとは意外である。
「サウロ」はまこと通俗的なおもしろさがある。
見ていて、はらはらどきどきするというタイプの傑作である。
芸術的というより、大衆に受け入れられやすいスリルのある戯曲となっている。
後年、中間小説で人気作家となる萌芽がくっきりと見られる。

サウロとは、原始キリスト教団で布教に尽力したパウロのこと。
この舞台に登場するのはひと組の婚約者。
いまだユダヤ教全盛の時代。キリスト教は迫害されている。
ところが女はパウロの説教を聞いてキリスト教にひかれてしまう。
男としては大問題である。かれはいまある大事業を手がけている。
双方ユダヤ教という信頼のもとになりたつ商売である。
妻がキリスト教などというものを信仰していたら差し障りが生じる。
男は婚約者に迫る。パウロのいうことなど信じるな。

「君は僕の云いつけに従うの。従わないの」(P455)

実に劇的である。青年・遠藤は劇をわかっている。
ドラマとは選択である。AをとるかBをとるか。
この場合、幸福な結婚か、不幸な信仰か、である。
男は仲間からパウロを殺すようそそのかされる。
かれは石投げの名人であった。ある夕暮れ、男はパウロを待ち伏せする。
石を投げるか、投げないか。最後まで男は迷い続ける。
パウロだと思った瞬間、男は投石していた。だが、倒れたのは女であった。
婚約者がパウロの身代わりになったのである――。

構図を見ると、男が恋人を神(イエス・キリスト)にとられるというようになっている。
これは晩年の大作「深い河」とおなじであることに気づくと愕然とする。
「深い河」も同様の形式になっている。
女(美津子)が男(大津)を神に奪われる物語。
25歳の遠藤青年も70歳の遠藤老人も、書いているのは実のところおなじもの。
この事実を目の当たりにすると、いやでも作家の業というものを考えざるをえない。
「図解雑学 聖書」(関田寛雄=監修/ナツメ社) *再読

→こう考えたほうがいいのかもしれない。聖書とひとまとめにしない。
旧約聖書と新約聖書というまったく別の読み物がある。
このふたつの書物は、研究者ならぬ一般読者からしたらほとんどなんの関係もない。
では、なぜ聖書と一括されているのか。
キリスト教が新興宗教だったからである(どの宗教も誕生時は新興宗教)。
いつの時代も新興宗教は危険視される。いかがわしいものと思われる。

そうではないんだ。キリスト教はちゃんとした宗教なんだ。
その証明のために原始キリスト教団はユダヤ教の教典を利用した。
すでに確固たる地位のあるユダヤ教の聖書を、旧約聖書と命名。
そのうえでこちらが新約聖書とおのが教典をもちだしてくる。
そのさまは大乗仏教が従来の伝統ある仏教を小乗と揶揄したのと相似形を成している。
うまいやり口とほめればいいのか。姑息と批判すべきか。

いうまでもなくキリスト教徒が重んじるのは新約聖書のほう。
その権威の根源がどこにあるかといえば旧約聖書。
実在した人間イエスは旧約聖書を熟読し、そこに書かれてあるような行動することで、
つまりメシアの演技をすることによって、大衆の注目を引いたわけである。
旧約(ユダヤ教)がわとしたら、こんなひどいことはない。
おいしいいところだけもっていかれ、客寄せに使われる。
ある程度の信者が集まったらポイとくずかご行き。
あれは古いからもう使えない。なら捨てよう。キリスト教のなんたる冷たさか。

具体例を用いる。
ある野心家の青年がいる。かれはイエスという。まじめな男である。
老舗の有名ラーメン店で修行する。まあ、味を盗むわけだ。
いざ独立。あの有名店で修行したということを大々的にアピール。集客する。
ほう、あの有名店のお墨つきか。客がおしよせる。
すると、どうだ。この若き店主は事業家としての才能もあった。
フランチャイズを始める。いつしか日本全国にこのラーメン店ができる。
店主はグルメ雑誌などで殊勝にいう。
どの地方のひとにもこのラーメンを味わってほしかった。
収入たるやばくだいなものとなる。
この店主は、修行した老舗ラーメン屋へ盆暮れの届け物を欠かすようになる。
しだいに見下すようにも。あのラーメン屋は古い。店も汚い。
うちのラーメン屋はきれいで従業員もきちんとしている。
これがイエスの、キリスト教のやりかたである。

みなさまも聖書に触れた際、なにか不自然なものを感じませんでしたか。
旧約聖書と新約聖書。なんでこのふたつで聖書というのだろう。
まったくちがう読み物なのに。
その理由がキリスト教の(かつての)弱点なのです。
イエスを神の子にするために旧約聖書が必要であった。
この記事を書きながらわたしもすっきりした。
なにかもやもやしていた視界が開かれたという爽快感がある。
旧約聖書と新約聖書は、まったく関係のないふたつの読み物である。
ただし新約のほうは旧約に負い目ともいうべき複雑な感情をいだいている。
こう考えると、かなり判然とする。どうでしょうか。
書くということは、とてつもなく恥ずかしいことです。
書く。不特定多数のかたへなにかを伝える。なんたる傲慢か。
これで赤面しないほうがおかしい。
どうしておまえごときが書く必要があるのか。つねに自問しています。

みなさまはブログをなさっていますか。
書くというのはどれだけ厚顔無恥な行為か。
毎日更新のブロガーは、いざとなればこれを書こうとストックをためておく。
だが実際、そのときが来たら、そう簡単にはいかない。
これはわたしだけか。
なにかを書くためにはかならず「傷」を必要とする。
これを書いてはだめだ。そう思うことでなければ書く気にならない。

書くぞ。風鈴の音で悩んでいた。
ここ1ヶ月か。風の強い日は1日中金属的騒音。
今日、音の発生元が明らかになる。窓からからだをのりだした結果、判明した。
2階下。風が吹く。風鈴が鳴り響く。あの家であったか。

ここからの葛藤をどう説明すればいいのか。
わかっている。たかが風鈴の音。風流と聞き流すべきものである。
しかし、ずっとあの金属音に悩んできたということもある。
どうすればいいのか。かの家の郵便箱に手紙を入れるべきか。
「風鈴がうるさいです」
どこか卑怯ではないか。やはり直接、行くべきでは。
菓子折りをもっていくべきだとも思う。
あの金属音がなくなるのなら数千円は安いもの。
だが、しかし――。

風鈴の音をうるさいと思う。
たしかにこちらが異常だと思う。
じぶんがただしいとはつゆほども思ってはいない。
ここでパソコン。この電気箱のなんと便利なことか。
「風鈴 うるさい」「風鈴 騒音」で検索。
すると、わたしはそこまで狂ってはいないようである。
風鈴を嫌悪するのは、たしかに風流を解さぬもの。
けれども現代は、そんな人間であふれている。

覚悟を決めた。
直接、お願いしにいく。手土産はなし。これを徒手空拳というのか。
2階下へ。ベルを鳴らす。なんですか~という大声。
ドアが開く。
「はじめまして。わたくし×××号室の~~と申します」
登場したのはおばさん。かなり、けばい。化粧が濃い。
行ったことはないが、場末のスナックのママといった感じ。
怖いと思う。負けたとも。迫力では圧倒されている。

なにか用ですかとは、かのママさん。わたしは低姿勢。
「えとあのその、たいへん恐縮ですが。
わたしは風流を理解しない人間でありまして。
つまりその(小声になり)風鈴がうるさいので、あの、どうにかなればと」

おばさんは登場したときから、どこか怒っている。
夕暮れ。出勤前という雰囲気があった。
「わかりました。風鈴をとりはずせばいいのね」
いえ、あのその、まことに身勝手なお願いでと口ごもるわたしをまえドアは閉められる。
ふむ。かなわない力強さを感じた。
買物後、自室の窓から確認すると、たしかに風鈴はなくなっている。
いまの感想はなんともいえない。
たかが風鈴ごときを騒音に感じてしまう、おのがこころの狭さ。
それを直接、言いにいく蛮勇。
じぶんがいやでいやでたまらない。それを書くじぶんはもっといやである。
みずからの恥部を公開したいというこの欲求はどこから来るのか。
これはなんでだろう。ふしぎなことがある。
わたしがひいきにする商品は決まって生産停止になる。
かねてから思っていた。今日ほど痛感したことはない。

「カレーピザパン」136円

先ほど、セブンイレブンへ行ったら在庫ゼロ。
いろいろ検索してみた。
確証はないがおそらく生産停止だろう。

思えばセブンイレブン。何年前だったか。
「アジの南蛮づけ」。
大ファンで毎日のごとく購入していた。
供給されていたのは何週間だったか。
いつしか店頭からすがたを消した。
ファミマーの「タラモサラダ」もそうである。

そうそう先ごろも。近所の庶民スーパー。
毎回、買っていた揚げ出し豆腐210円。
いつしか作られなくなった。
どうしてこうなのだろう。
わたしが愛好する食品は決まって消失する。
時代から取り残されているのか。
見ておれよ。いつか必ず見返してやる。虚空をにらみつけるわたしである。
歩くのが好きだ。煮詰まると、決まって歩く。むかしからの習慣。
歩きながら考える。思考するのは、もとより解答なき問い。
歩く。目的地へ着く。
考えは一歩も先に進んでいない。それでもいいと思う。
歩いた。考えた。それで十分である。人間に許されているのはここまで。

歩きたくなった。いくつか「哲学の道」がわたしにはある。
この日選んだコースは――。
新宿へ。ここを始点とする。代々木へ向け歩く。
途中、ブックオフがある。給水地といった意味合いで入店。1冊購入。

「ぎぶそん」(伊藤たかみ/ポプラ社) 105円

伊藤たかみは先日、芥川賞を受賞した作家。
そんな流行の作家の著作が105円とはめずらしい。
どうやらジュニア小説のようである。児童文学というのか。
帰宅後、調べてみたら坪田譲治文学賞とやらを受賞している。
出版されたのは去年の5月。まあ、悪い買い物ではない。

代々木ゼミナールを横目にずんずん進む。
明治神宮へ分け入る。お気に入りの散歩コースのひとつ。
人間を超えるものと接したい。常にそう思っている。
神社や寺院、海外では聖地をめぐるのが好きだ。
聖地――。
人間を不自由せしめるものと向き合う場所である。

明治神宮は海外からの観光客も多い。
アリバイ作りのように本殿をめざす。
賽銭(さいせん)を入れて、あさましくも現世利益を願おうというのである。
あれは拍手(かしわで)というのか。
何度やっても覚えられない。非国民かもしれない。見ようみまねで神へこうべをたれる。
入金したのはわずか100円。
「どうか作家になれますように」
いかん。すぐさま訂正する。
「どうかいい小説が書けますように」

聖域をでると、そこは喧騒の街。原宿。
外国へ行くより、よほどカルチャーショックを受ける場所である。
コスプレというのか。奇妙な格好をした若者がたむろしている。
わたしの日本語が通じるか自信がない。目をあわさないように通過する。
どうしてこの原宿にブックオフがあるのかふしぎでしようがない。
アンテナショップなのだといううわさを聞いたことがある。
つまり採算は度外視。
ブックオフという店があることを世間に知らしめるだけで、役割を果たしている。
思えば、奇天烈(きてれつ)である。
原宿にブックオフ。フランス料理に納豆のようなものである。
納豆のにおいがなつかしいわたしは、店舗へほいほい吸い寄せられる。
ゴキブリのようだと自嘲する。ゴキブリが駆け寄るのは105円コーナー。

「法華経で生まれ変わる」(ひろさちや/学研M文庫)
「スウェーデン館の謎」(有栖川有栖/講談社文庫)
「 『天の酒』殺人事件」(日下圭介/光文社文庫)絶版
「面白いほどよくわかる 仏教のすべて」(金岡友秀監修/日本文芸社)


ふむう。新書が2冊で300円のセール。買わねばなるまい。

「ウェブ進化論」(梅田望夫/ちくま新書)
「週末作家入門」(廣川州伸/講談社現代新書)


まさか「ウェブ進化論」があるとは。
今年の2月に出版されたベストセラーである。
この新書のブログの箇所は立ち読みで既に読んでいる。
そろそろわたしも穴倉からはいでる時期が来たのだろうか。
現代と向き合う。いまという時代を知りたい。
原宿。かつては思っていた。
北朝鮮よ、ミサイルを落とすならぜひとも原宿へ!
この日、迷う。この提案書を破棄するかどうかである。