「聖書物語」(山室静/現代教養文庫)

→これはいい本だぞ~。
聖書の物語面(娯楽面といってもよいか)を強調した入門書。
宗教の本というのは、むずかしいんだ。
まず著者が信仰をもっているか否かが問題である。
信者なのは一向に構わないのだが、あつい信仰が著書にバイアスをかけるのは困りもの。
オルグするつもりかよと鼻白むこともある。
かといって、まったく信仰がないひとの宗教書というのも。
本来、信仰体験というのは情熱なわけでしょう。
それがまったくない人間にどこまで宗教がわかるか……。

この「聖書物語」は名著。
著者は信仰こそないが、敬意と愛情をこめて平易な物語をつづっている。
冒頭の創世記における指摘が目を引いた。
日本神話、インド神話、ギリシア神話とはことなる、聖書だけの特徴をこう説明する。
神と人間のありかたである。

「聖書の神話では、神はただ一人の、
天地日月に先立って存在するいわゆる唯一絶対の神だ。
そして人間は、その神が自分を形どって造って、
この地上(における他の生物)を愛と正義で治めるようにと望んだ、
尊い生物なのである」(P15)


産業革命、植民地支配、世界大戦、自然破壊――。
西欧の諸悪の根源は聖書なのかもしれない。
帝国主義各国がアジアを植民地にするとき、
もしや西洋人は原住民をサルかゴリラだと思っていたのではないか。
これら野蛮な生物を我われのちからで教化しなければならない。
武力支配の先兵として送り込まれる宣教師の使命感を思うとぞっとするものがある。

旧約聖書には苦労する。
こういう物語はおとなの知性にはなじまない。
おさない子どもがいる親へお願いをする。
ぜひとも子どもに本を与えてください。
聖書物語、ギリシア神話、シェイクスピア物語、日本昔話――。
このような物語は幼少時から親しむにかぎる。
わたしが与えられたのは日本昔話だけだった。いま苦労しているのはこのため。
アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、モーセといった人物と、
おとなになってから友人になろうとするのは骨が折れる。

さて、新約聖書。こちらはなじみがある。
思う。イエスはとんでもないやつではないか。
イエスとハムレットはおなじ顔をしている。
イエスもハムレットも死にたがっているわけである。
だが、ただでは死にたくない。どう死んだら芝居になるかを巧みに計算している。
なんとかして人生を芸術に仕立て上げたいとねらっている。
常人はとてもついてゆけぬ、大天才の思考法である。

まず現世利益(奇蹟)で信者を獲得する新興宗教家イエス。
手品で客寄せをする大道芸人や奇術師といった雰囲気さえある。
初期のイエスはまこといかがわしい人間である。
山上の垂訓がこの多幕劇のいわば見せ場。
心貧しきものは幸いなり~と美声をとどろかす。
詐欺師、ペテン師、いかさま師とはもういえない。
不遇な大衆のハートをみごとつかみとる人気演歌歌手といった風体である。

イエスの欲望は果てしない。みずからを伝説にしたい。そう思うわけである。
劇的な生をまっとうしたい。生は死により完結する。ならば求めるのは劇的な死。
大衆操作の腕には自信があるイエスのこと。
弟子のユダを手玉に取るなど赤子の手をひねるようなもの。
ユダをねちねちいじめたのではないか。
ユダにだけ厳しく接する。常識人のユダは戸惑う。イエスのこの変貌の原因は……。
ユダはイエスを銀貨30枚で売ったとき、それをおのが行動と思ったか。
イエスにだまされたと感じたのではないか。

ゴールは近い。イエスの目論見どおり死刑が宣告される。
この劇を見よ、とイエスが将来の観客を意識していなかったとどうしていえよう。
イエスは根っからの芸人である。
死ぬ直前も芝居がかっている。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」
かくして天才マルチタレント、イエスの劇は幕を閉じる。
このドラマはいまもって人間の魂を揺さぶるのだから、イエスも満足だろう。
「聖書入門」(山形孝夫/ナツメ社)

→便利な時代になったのか。恥ずかしい時代になったのか。
ひとむかしまえは入門書といえば、新書がその役割を果たしていた。
いまは新書すらカタいと敬遠するものが登場する。
または出版社サイドの意識革命のなせるわざか。
ほんとうにわかりやすいものを(大半はバカである)読者に提供する。
むかしの書籍というのは決まって著者が主役であった。
だが、最近の入門書(ナツメ社の図解雑学シリーズなど)は読者を主役にする。
もはや書き手に権威はないのかもしれない。出版社は執筆者を叱咤する。
どこまで噛み砕けばいいのかと悲鳴をあげるほど書き手にアゴを酷使させる。
読者にとってはうれしいかぎり。手取り足取りの教授である。
読みやすいレイアウト。絵や写真がたくさんで飽きがこない。サイコー!

この著者は岩波ジュニア新書でも聖書の本を書いている。
立ち読みしてみたら、この「聖書入門」よりも水準が高いような気がした。
岩波ジュニア新書は中高生向けだったか。
そうだとすると現代人の読書レベルは……。
なにをごまかしているのだ。正直に、自分の知能を嘆くべきか。
このような入門書を読んでいる自分というのはできれば隠しておきたいものである。

整理する。聖書をどう学ぶか。
・物語集(とくに旧約はこの要素が強い)
・名言集(汝の敵を愛せ)
・自己啓発書(明日のことを思い悩むな)
・絵画、彫刻、建築、音楽への影響(宗教と芸術の関係)
・キリスト教の原点(残忍なキリスト教の歴史)
・ハウツー本(生活スタイルの決定)
・宗教小説(「新約聖書」のイエス=「人間革命」の池田大作)
・哲学書(世界のなりたち)
以上、思いつくままに挙げてみた。

いまどき中学生でも口にしそうな素朴な感想を述べてみる。
キリスト教というのは、「私」を造形するんだな。これを自我というのか。
神と対峙する自我。絶対者をまえにしてはじめて自分の輪郭が明らかになる。
ものすご~くバカっぽいいいかたをすると、
キリスト教は「わたしわたしわたし~」である。
西洋のキリストと比較されるのは、東洋(正確にはインド)のブッダ。
ブッダの教えというのは、キリスト教徒からしたら驚きなのではないか。
自我をなくせと説いているのだから。無我である。
「私」をなくせば、つきまとう欲望(これを煩悩と否定するブッダよ!)も消失する。
いきおい苦も消滅する。これを悟りと仏教はいう。
まちがっても産業革命がでてくる思想ではない。
仏教をおバカさんふうに定義すると「ないないない~」である。
「わたしわたしわたし~」対「ないないない~」。
世界史で西洋がひとり勝ちするのも無理のない話かもしれぬ。

余談。東洋が西洋に一矢(いっし)を報いた瞬間というのがある。
あくまでも一矢であって、原子爆弾をまえにしたらちりあくたなのだが。
それは神風特攻隊である。
あの攻撃は「ないないない~」が生みだした最終兵器だと思う。
「わたしわたしわたし~」の国民は、
決して理解できぬものへの恐怖を味わったはずである。
「聖書――この劇的なるもの」(矢代静一/主婦の友社)絶版

→この書籍に興味をもった理由は二点。
矢代静一はおとなになってから洗礼を受けている。入信したわけである。
ひとりの日本人がいかようにしてイエス・キリストにつかまえられたのか。
欧米にキリスト教徒が多いといっても、あれは別に改宗したのではない。
親が信仰していたものを子が受け継いでいるに過ぎない。
だから、欧米人がみなみな、この宗教の教義に通じているかといったらそうではない。
一方で、矢代静一は日本人なのに、わざわざ勉強してキリスト教に入信した。
そこに関心がある。
もう一点は、矢代静一が劇作家であること。
日本の劇作家が聖書をどう読むのか。
わたしが心ひかれる欧米戯曲の根っこにはおそらく聖書がある。
聖書と劇との関係を日本人である矢代静一はどう見ているのか。

矢代静一はペテロに興味をもってキリスト教世界へ入ったという。
ペテロ。イエスの一番弟子。
鶏が鳴くまえに三度イエスを裏切るあの男である。
ペテロには人間くささがあると矢代静一はいう。
イエスにあこがれるも、とうてい神の子イエスにはおよばぬ人間ペテロ。
弱き人間がゆえに師を裏切る。だが、イエスの死以降は強い信仰に目覚める。
矢代静一はペテロに自分を見ているようなところがある。
じゃあ、わたしはどうかというと――。
わるいがペテロにはなんの魅力も感じない。

だが、ユダはちがう。ユダはおもしろい。
クリスチャン矢代静一の魅惑されたのがペテロだとすれば、
劇作家・矢代静一は聖書のなかでユダに注目する。
本書では小川国夫との対談を採録している。その箇所を引用する。

小川「ぼくはユダのことを考えると、
いつも矢代さんの専門である劇の淵源というものを感じるのです。
キリストの救いの全体の構図それ自体は、ぼくにとって謎なのですが、
その構図のなかにユダが入っていたということ。
つまり裏切りの決定的瞬間に(イエスがユダへ)、
『汝、生まれざりしならばよかりしものを』
と言っているわけですね」

矢代「イエス・キリストにとって、ユダという存在は絶対に必要だったんです。
つまり原始キリスト教というものを成立させて、最後の幕をおろすためには、
ユダという裏切り者がイエスにとって必要だった。
ユダの苦悩は別として、ユダが裏切るということをイエスはもう知っていて、
そういう役割を与えたという気がする」(P118)


この視点は斬新だった。新約聖書をひとつの劇と見る。
ユダがいなかったらキリスト教は成立しなかった、とまでは飛躍しない。
だが、イエスの生涯を何幕かの劇として見るとき、
あの悲劇が成立するためには劇後半におけるユダの活躍が不可欠である。
オセローがイアーゴーを必要としたのとおなじ理由で、イエスはユダを求めた。
身もふたもない現代風のいいかたをすると、
ユダは空気を読むのが絶妙にうまかったのではないか。
ほかの11人の弟子はまったく場の空気を読めていない。

あるいは、ユダのみが師匠の内奥を理解した。
ああ、このイエス先生は死にたいのだ。かといって、無駄死にはごめんと顔に書いてある。
後世まで語り継がれるような死に方を欲している。
わが師イエスのなんと強欲なことか。野心家であることか。
この先生は政治には興味がない。国王の地位など見下している。
わずかな地上の快楽を軽蔑している。
この男は世界を動かそうとしている。世界史をわが手でつくろうとしている。
(キリスト教が生まれなければ近代資本主義も、帝国主義も、
科学の進歩も、とすると原爆も……わからない。歴史に「もし」はない)
ユダはイエスに嫌気がさしたとも考えられる。
いや、そんなイエスだからこそ深く愛したのかもしれない。
この先生を男にしたい。そのためにはだれかが泥をかぶらないと都合がわるい。
卑近な例で説明すれば、政治家と秘書の関係である。
ユダほどイエスを理解し、愛した側近はいない。
ユダは銀貨30枚でイエスを売りわたす。ユダ。イエスに最後の接吻をした男。
おのが役目を果たした男は無言で首を吊る――。
「死について考える」(遠藤周作/光文社文庫)

→三省堂書店のブックカバーがかかったままである。
ページをめくるとレシートが挟まっている。むかしからの癖である。
こうすると読む際に、買った日付をたしかめることができる。
どれだけ積ん読していたかを知るわけである。
レシートを見て呆然とする。
この文庫本を購入したのは6年前。母が自殺をする5日前である。

あれを見たあとのわたしが、こんなライトエッセイを読もうとしなかったのは無理もない。
遠く眺めていた死が、あの日以来、わが身によりそっている。
ふと横を見る。死がいるのである。
いざとなったら死ねばいいんだ。死ねばすべて終わりさ。ちゃらになる。リセット。

物書きをめざすものが、言語に絶するなどという表現をやすやすと使うべきではない。
こう主張していたのは開高健である。
だが、あれはいまのところそう表現するしかない。
言葉には言い尽くせない体験である。
再度、言葉で書いてみる。
いくら言葉を並べたところで、あの体験を他人に伝えられるとは思えないのだが。
6年前。梅雨。母が自殺した。わたしの目の前で飛び降り自殺をした。
地上にわたしがいるのを知ったうえで、つかまっていたベランダから手を離した。
早朝のことである。道路にはいるのはわたしのみ。
母は大声でわたしの名前を呼んだ。うえを向いた。母がいた。
なにもいう間もなかった。母は落ちた。5階あたりでバウンドした。
大きな音がした。近寄った。あたまから血が流れていた。
わたしは死を見たのである。生きている人間が死ぬ瞬間を見た。
あるいは、見せつけられた。見なさい。死とはこういうもんだ。
だれに見せられたのか。母か。いや、それとも……。

2年前、わたしは死とともにインドのガンゴードリーにいた。
インドで無茶をすれば死ねるかなという期待がなかったとはいえない。
インド。危険な国である。わたしをひょいと殺してくれるのではないか。
出発前、死亡保険金額をめぐってだいぶ悩んだものである。
旅は終わりにさしかかっていた。死ねなかった。
インドで神聖視されているガンジス河。河口から源流までたどってやろうと思った。
河川は人生にたとえられることが多い。
源流つまり幼少時は人間も河も澄んでいる。
それがいつしか濁ってくる。
最初の細い水流が、しだいに支流をとりこみ太い大流へとかわる。
そして大海へ流れ込む。蒸発する。山上で降雨、降雪する。ふたたび河川の誕生――。

ガンゴードリーは標高3048メートル。
明朝、ガンジス河の源流ゴームクへ向かうという晩のことである。
夜の9時をすぎると停電になる。暗闇で酒をのんでいた。
ウイスキー。わざわざデリーから持ち込んだものである。
明日はとうとう最終目的地か。そう思うとただならぬ昂揚があった。
めそめそ泣くわけである。酒をのみながら泣く。母を想いながらである。
母があんなことにならなかったら、こんなところに来ることはなかった。
異国の暗闇と酔いのせいで感傷的になっていたわたしはわかったと思った。
死がわかった。
死とは、もう二度と会えないということである。
会いたいよな。大好きだったお母さん。
会えるというのなら、地の果てだって行ってやる。なんだって、やってやる。
もう一度会いたい。会ってなにをしたいのか。
聞きたいのか。なんで目の前で飛び降りたのか。
いや、そんなことは聞かないと思う。会って、顔を見て、はらはらと泣きたい。
それができない。なにをどうしても絶対に母に会うことができない。絶対である。
これが死だ。死とは、会えないことをいう。会いたい。会えない。死である。

「死について考える」から引用。

「キリスト教信者の中にも、現世利益だけを求めて信仰している人が
実際にいくらでもいます。しかし本来の宗教というものはそんなものではない、
と私は考えています。
子供が白血病になり、一所懸命に神様にお祈りしたけれども、
子供は死んでしまった、神なぞ何だ、と神を憎む、神も仏もあるものか、
というところから宗教は始まるのではないでしょうか。
神を憎むことも、神の存在をはじめから無視している無宗教や無関心ではなく、
憎むということで神を強く意識していることです。
神があろうがなかろうがどうでもいいという無関心より、
神を憎むことのほうがはるかに宗教的でしょう」(P167)


突然、おのがうしろすがたの写真を見せられたかのような驚きがあった。
神を憎んでいる。わたしのことである。
この6年間の行為すべてが神への憎悪に裏打ちされている。
死の1年ほど前から、母は激しく狂乱した。
医者は非定型精神病と分類して終わりだが、現実はなまやさしいものではない。
妄想でわたしにきつく当たる。と思いきや、死にたいと騒ぐ。
当時、わたしはなにものかに、人間を超えるものに、祈るしかなかった。
なんとかこの状況を改善してください。
トンネルの出口があると信じたかった。信じていた。神を信じていた。
6月の早朝、願いは最悪のかたちで破壊された。
子どもの目の前で母親を自殺させる。
なかなかやるじゃねえか神さまよ。泥酔したときなど、こうつぶやくことがある。
やってくれるじぇねえか。いくらなんでも、それはないだろう。

遠藤周作はいう。神を憎むとは、無関心より、よほど神を意識している。
うなった。たしかにその通りである。
いるかいないかを問われたら、わたしは答えるのかもしれない。神はいると。
神を憎悪している。存在しないものを憎むわけにはいかぬ。
あの悲劇は人間に仕組まれたものとは思えない。
子の眼前での自殺を決意したのは、たしかに母というひとりの人間である。
だが、その背後になにものかの悪意を強く感じる。だれかがいる。なにか存在する。
あれはいち個人がなしうる行為を逸脱している。
こうごうしいものがある。
神話的な恐怖がある。人間を畏怖させる巨大なものがある。

自暴自棄の毎日である。
神を憎悪しながら、その横顔をちらちら見る。
さて、どうしてくれる。
わたしも自殺で終わりか。それとも暴飲が原因の若死か。
人間に死の自由はない。自殺があるというのは、あれはうそである。
自殺には常に失敗がつきまとう。完全な自殺はない。
死のうと思っても、そうそう人間は死ねるものではないのである。
自殺に失敗して半身不随になるケースなどわんさかある。
とすると、自殺は人間の決断ではない。神の祝福である。
あなたのこの世での役目は終わったという、
神の認証があってはじめて成功するのが自殺なのだから。
あの日、あたまから血を流して横たわる母の前にうずくまり、わたしは願った。
死んでいてくれ。母は死にたかったのだ。なら死なせてくれ。
死亡診断書には即死と書かれていた。ほんとうによかったといまでも思う。
人間に自殺の自由はない。
母も一度失敗している。自殺する10年ほどまえにも未遂を起こしている。
わたしが――。
いま母とおなじところから飛び降りたとしても死ねるかどうかはわからない。

死を管理するものがいる。
この管理者への人間の対応は多様である。
見てみぬふりをする(無宗教)。まつりあげる(宗教=信仰)。
わたしは憎悪する。ねめつける。
「井上ひさしと141人の作文教室」(文学の蔵編/新潮文庫) *再読

→ひょんなことから再読する。酒をのみながら。
語り口調で読みやすいので、気づけば読了していた。
しきりに、うんうん首肯する。そうだ、そうだ。文章はそのように書かれるべきである。
悪文をこねくりまわして、インテリを気取っているような連中は、みなこの本を読め!
井上ひさしの主張はこうである。
文章とは書いた段階では、まだ完結していない。
だれかに読まれて、そのひとがなんらかの感想をもったときはじめて、文章は完成する。
読み手のことを考えよう。簡単なことである。

井上ひさしがこの作文教室でだした課題は「自分が今いちばん悩んでいること」。

「これは、かなり恥をかかねばならぬことなので書きづらいでしょうけど、
でも、自分が悩みごとやさまざまなことで追いつめられたとき、
言葉がいちばん、役に立つのです。
言葉で切り抜けていくしかないのです。
よく、あの人、頭がいいから文章を書く、という言い方を耳にしますが、
そんなことは全然ありません。
文章を書く、ということは、考えていく、ということなんですね。
『こまった、こまった』という所から、考えながら書きながら、抜け出ていく」(P28)


真実だよな。言葉の秘密を知り尽くした作家の発言である。
書きながら、発見をしていく。
自分はこんなことを考えていたのか。あの出来事の真相はこうだったのではないか。
それが切実なものであるだけ、読み手も胸を打たれることになる。
書き手の発見を、読むがわは感動する。
作家のあたまのなかですでにできあがっているものを順次見せられても、
そこに読む悦(よろこ)びはないんだ。
作家の外から入ってきたものが小指の先ほどでもない文章は魅力がない。
書く。読む。どちらも考えるということである。人間は言葉で考える。
言葉と格闘しているとき、ふいに言葉がなにかを引き連れてくることがある。
自分のなかにはないと思っていたなにかを言葉が呼び寄せる。
書き手は発見する。読むがわも新鮮なものを感じる。
このなにかがあるから、ひとは書いたり読んだりするのだと思う。
浅草へ行く。「松屋浅草古本まつり」。
開催は昨日から。めぼしいものはないような気もする。
いや、と思いたい。わたし嗜好は特殊。まだ残っているに違いない。
浅草駅をでる。見えるは、ご存知、神谷バー。
「電気ブラン」(古くからあるカクテル)発祥の地である。
死ぬまでに一度でいいから、このバーに入ってやりたい。
死なない理由のひとつかもしれない。

松屋へ。なんとも雰囲気がいい。
ふつうデパートは入店した瞬間、いささか緊張する。
浅草の松屋は違う。かえって、ひと安心するくらい。
ここのデパ地下グルメはうちの近所の商店街より人情味がある。
おっと、関係ないことをだらだら述べた。

7階へ。古本まつり。本がごっそり。
ここにはいい思い出がたくさんある。掘出物の記憶がわたしを昂揚させる。
だが、結果は低調というほかない。いまだ古本のヒキは戻っていないようである。

「わが文学の軌跡」(井上靖/篠田一士/中央公論新社)絶版 315円

悔しい。いま調べたら文庫になっていた。チクショウ!

「シナリオ 敦煌」(原作・井上靖/徳間文庫)絶版 100円

買うものがないから仕方なくカゴヘ入れた。

「ウィリアムズ」(石塚浩司/冬樹社)絶版 400円

日本人の手によるテネシー・ウィリアムズ論。
この米国劇作家の戯曲もだいぶ積ん読している。いつかまとめて読みたいと思っている。
少しでもその刺激になればと今回、こんな概説書を買ったしだい。

思えば――。
初めて戯曲に触れたのはチェーホフであった。
新潮文庫。神西清訳。
つまらないと思った(のちに小田島雄志訳で再読。評価を一変する。チェーホフ最高!)。
たしか、こうである。
ドストエフスキー、トルストイの小説を、文庫で入手できるものすべて読んだ。
そのつぎはチェーホフだったと思う。
記憶をさかのぼる。
ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ――。
ロシア文豪を読了したのちはシェイクスピアに向かった。
翻訳者の福田恆存に強い影響を受けた。
いつしかシェイクスピアを全作品、読んでいた。
ギリシア悲劇もつづけて全作品読了。へへへ、読書自慢ですわ。

戯曲をおもしろいと思ったことはなかった。
読みにくい小説程度の認識である。
あの戯曲を読むまでは。テネシー・ウィリアムズを読むまでは、である。
新潮文庫「ガラスの動物園」「欲望という名の電車」(小田島雄志訳)。
全身がぶるぶる震えた。月並みな表現だが、そういうしかない。
これほど戯曲はおもしろかったのか。小説なんか比較にならないではないか。
わたしはテネシー・ウィリアムズに戯曲という麻薬を教えられたといってよい。
「本の山」のカテゴリーに「演劇」がやたら多いのは、この劇作家が原因である。
もし、である。まだこの新潮文庫2冊を読んでいない読書家がいたら――。
かのひとは幸福である。これから戯曲の世界へ参入できるのだから。
あるいは不幸かもしれない。
小説だけでも、読みきれない量の作品があることを考えると。

買った古本はこの3冊。千円にも満たない買物である。
以前、どこかの酒屋で買ったまま寝かせておいた「電気ブラン」(瓶詰め)の封を切る。
ロックでがぶがぶのむ。感想、まずい。気持のわるい甘ったるさに閉口する。
いいや、これはにせもの。いつか浅草でほんものをのむぞ!
人間はおかしなものだ。
場所。みなさまはどこで読書をするのがいちばん集中できますか。
ベッドの上。机のまえ。トイレの中。こたつ。図書館。
なかには電車の中という変わり者もいるのかもしれない。
長距離通学通勤のたまものと思われる。
変人といえば、授業中の教室がもっとも読書に集中できるというひとがいた。

わたしは――。
書店である。新刊書店。
ふしぎで仕方がない。
ほかのお客さんがいる。音楽は流れている。店員の視線もある。
神経質なわたしがどうして。
流行の新書などを立ち読みすると、すばらしい集中をみせるのだからおかしい。
このときの読書ほど濃密なものはない。
優秀なスパイのようにその新書のおもしろい部分のみを嗅ぎ当て情報をかっさらう。
のちにこの新書を買って、最初から最後まで通読したとする。
なーんだと思う。興味のあるところは立ち読みでぜんぶ読んでいるのである。

立ち読みで得た知識もけっこうな量になる。
短時間で有用な知識をインプットするのに、
立ち読みほど適した読書はないのかもしれない。
論文を書く学者ではないから、出典があやふやでも一向に構わない。
もっと立ち読みをしなければと最近は思っている。
丸々1冊通読する価値のあるような本は現代、あまりないのではないか。
そう思うからである。本がたまらないのもよい。
ブックオフ以外の古書店では長時間の立ち読みはしない。
礼儀というものである。
そうそう礼儀といえば。
新刊書店の立ち読み仲間。ご老人。
買いもしない本を、つばをつけながら立ち読みするのは……。
「下流社会」(三浦展/光文社新書)

→日本人の何割がガンで死ぬかは、およその統計が出ているはずである。
成人男性、成人女性のあるパーセンテージは確実にガンで死ぬ。
日本人は統計を好む。周囲と自分を比べたがるためかどうかはわからない。
日本人でなくとも、人間は死を拒む。できるだけ長生きしたいと思う。
健康情報が受ける。これを食べればガンにならないといった情報に飛びつくわけだ。
これはベストセラー「下流社会」に影響を受ける階層と相似形を成している。
統計をやたら気にする。平均寿命は? 成人病罹患率は? そのうち死亡率は?
こういった人間がある日、医者からガンを宣告される。余命の告知を受ける。
愕然とする。前日とは世界が一変していることに気づく。
思えば統計にふりまわされていた生活のなんと愚かだったことか。
喫煙者のガンになる確率などどうでもいいことだったのである。
統計のガンと、固有の一回限りの人生におけるガンは、まったくことなるものなのだから。
たとえガンになる確率が3%だったとしても、
「自分が」ガンになってしまったらそれがすべてなのである。
統計がどうであろうと、なんの救いにもならないのは明白である。
「下流社会」に左右される人間は、余命宣告をされたらどうするのだろう。
まさかこれまたベストセラーの宗教書でも買うのだろうか。
そこまで浅薄な人間が存在するとはさすがに信じたくはない。

「下流社会」は資本主義の中心からの絶叫である。
著者は「上流/下流」の区別(差別的なところが笑える)をどこでするか。
基準はなにか。消費金額である。消費金額が多い人間ほど上流になる。
たとえば著者のいう上流の特徴を憶えている範囲であげると――。
ブランド品を好む。
海外旅行によく行く。
観劇や展覧会へよく行く。
食にこだわりがあり高級料理店へ頻繁に行く。
文化講座などに参加する。

むかしなら著者のいうこれら上流を軽蔑(差別)するいいことばがあった。
なぜいまはなくなってしまったのであろう。ぜひ復活させるべきだと思う。
そのことばとは「俗物」である。

上流など単なる俗物じゃねえか!

うまいもん食って、めかしこんで、文化講座で自己啓発。
海外旅行でブランド品の買い漁りかい。
こういう人種を上流とはいわない。俗物とバカにするがよろしい。

なぜこの著者は下流を差別するのか。いや、下流を問題視するのか。
イコール上流とやらを称揚するのか。
資本主義の根幹にかかわる問題だからである。
資本主義というのは、みんながおカネを使わないとたちゆかなくなる社会システム。
下流と著者が定義した人間は(わたしもふくめて)気づいてしまっているのである。
ブランド品なんて、じつはありがたくもなんともない。
フランス料理に何万円も払うのはバカらしい。コンビニフードもなかなか味わい深い。
海外大尽旅行など恥ずかしいだけ。日本の旅行も同様。
高級旅館より、よほどビジネスホテルのほうが肩肘張らないで楽である。
カルチャースクールに通うのはカネの無駄。
ブックオフ105円本を読むほうが効率的かつ経済的。

下流が増加すると、たしかに日本全体としてはまずいのかもしれない。
日本資本主義。テレビや雑誌でがんがん広告を発信する。
これがかっこいい。あれがおいしい。どれが便利である。
受け手はこれを信じて欲求しなければならない。
たくさん働いて、カネをたくわえ、これら流行品をそろえる。
日本経済は、戦後から現在まで、ずっとこの形態でやってきたわけである。
それがいま崩れつつある。その原因が下流。著者の指摘するところである。
ひとりの下流としては不快な点が多い著者の社会分析は、
それでも鋭いものがあると思う。
著者が下流を見下し、上流をたたえようとする理由もわからなくはない。
実際、ネットではこのベストセラーの影響か、やたら下流を蔑視する発言が目立つ。
このベストセラーを読んで上流をめざすようになった人間も少なくないのだろう。
こういった人間はわたしを下流と見下すはずである。逆にわたしは俗物めと憫笑する。
人間が相互に差別する。「下流社会」。つまりこれだけの話である。
「世界の宗教がわかる本」(ひろさちや/PHP研究所)

→ひろさちやというひとはおもしろい。東京大学印度哲学科卒。
アカデミズムからも仏教界からも離れ、いちずにわかりやすい一般書を書き続ける。
アカデミズムの世界では入門書を書くのは愚弄の対象らしい。
そのためか学者の書く仏教啓蒙書のなんとわかりにくいことか。
大衆からひろさちやが歓迎されるゆえんである。
この宗教ライターは葬式仏教で儲けている現在の僧侶を手厳しく非難する。
その批判は信用にたる、じつに正しいものがある。
これはべつの本で読んだのだが、寺の住職というのは半端ではなく儲かるらしい。
月に数回も葬式をやればハワイで豪遊できるとか。
住職の地位も利権化。いまは数千万から1億の賄賂がないと住職になれないという。
堕落にもほどがある。これならまだ創価学会のほうが清潔だ。人間を救っている。

おっと、ひろさちやからだいぶ脱線してしまった。
このひとはだいぶ周囲からたたかれたろうなと思う。
そんな雑文ばかり書いていないで、1冊でも主著と誇れるものを書きなさい。
何度、この忠告をひろさちやは受けたのだろう。
年に何冊も著書を刊行するこの作家に、代表作とよばれるようなものはいまだない。
すべてを大衆のためにささげた宗教家とみればいさぎよいのか。
かれの本ほどわかりやすい宗教書はない。どれだけの読者が恩恵をこうむっただろう。

一方で、くすくす笑いたくなる。この宗教売文家はお茶目である。
著書では、がんばるなと連呼する。
日本人はエコノミックアニマルだ。働くな。生活とはことなる物差しを持て。
かれの宗教的主張である。
ところがご本人はどうだ。年にへたをすると二桁の著書をだしているのではないか。
実入りがいい講演会にも積極的である。
学問の世界では、講演会を好む研究者など露骨に軽蔑される。
まあ、ひろさちやほど働く宗教家はいないわけである。
エコノミックアニマルとはひろさちやのことである。そんな矛盾が、かえっておもしろい。

笑っては失礼だが、いや、どうしても笑うほかない事件が数年前にあった。
ひろさちやが空き巣に遭ったのである。被害総額がものすごい。1億7千万円である。
たんす預金というのか。根こそぎ泥棒に持っていかれた。
調べると銀行に預金をしていなかった理由はいろいろあるらしい。
脱税目的ではないと信じたい。
だが、1億7千万円だぞ。自宅兼仕事場に1億7千万円!
ということは、よけいなことを考えてしまう。
ひろさちやはなんだかんだいいながらも、著書では聖人君子のようなポーズを取っている。
悟った宗教家という自己イメージがあるらい。
だが、しかしだ。想像してみよう。
1億7千万の札束に囲まれながら、執着を捨てましょうと読者へ話しかけている宗教家を。
現ナマの城の中からの発言である。おかしいといったらない。
盗難被害に遭遇したひろさちやのコメントも検索したらでてきた。
これがまた笑える。演戯が決まっている。
仏様に稼がせてもらったおカネを、仏様に返したまで。
泥棒と居合わせたら命も危なかった。いま生きていることを仏様に感謝します。
こうである。ちょっとくらい悔しがったほうがリアリティがあるだろうに。
ひとしきり笑ったあと、ふしぎと嫌悪感はない。むしろひろさちやへの好感は増した。
金持ちで、息子も東大。宗教家ひろさちやのファンは多い。わたしもそのひとりである。

ようやくこの本の感想を書くにいたる。
ひろさちやは多作家の例にもれず、できふできが激しい。
身もふたもないことをいうと、手を抜いている書籍も少なくない。
そんな中で、この1冊はかなりちからを入れているのではないかと思った。
ひろさちやの本を20冊近く読んでいるわたしの感想である。
世界の宗教のありかたが、たいへんわかりやすくまとめられている。
著者は社会学者などではない。すなわち、宗教を外側から傍観する存在ではない。
はっきりとした信仰がある。宗教の内側から発言している。
本著が有益たる理由と思われる。

儒教、道教、神道。このへんはさっぱりわからなかった。
ところが、この入門書を読んだらどうだ。きれいに脳内で整理がついた。
これができるのは、ひろさちやのほかにいないのではないか。
儒教は中国エリートのためのマニュアル。
道教は中国大衆のエネルギーのはけぐち。
儒教と道教のせめぎあいが東洋史のある時期を形成する。
ここにインドから仏教が入ってくる。
すると異国の思想に対抗して、儒教と道教が混濁する。
しだいに仏教も中国思想に吸収されていく。これを「三教合一」という。

日本はどうか。日本神道の誕生は、仏教伝来が契機となる。
外来思想の影響で、日本固有の思想が初めて意識された。
次々に輸入される仏教は、実のところ道教、儒教もかなり入っている。
密教にいたってはインドのヒンドゥー教といってもおかしくない。
儒教を官学にしたのは江戸幕府。大名支配、民衆支配の倫理的基盤とする。
同時に江戸幕府は仏教寺院を骨抜きにする。葬式係の役をおしつける。
インド仏教に祖先崇拝はない。祖先崇拝は中国儒教思想の最たるもの。
明治政府は儒教を捨て、神道を国教にした。国家神道である。
近代化の条件として信仰の自由は認めなければならない。
そのため国家神道は、いわば抜け道のようなもの。
この思考法ゆえにキリスト教徒も仏教徒も同時に神道の支配下に置かれた。
大東亜戦争。神風特攻隊。天皇陛下万歳である。
戦後、GHQの手で神仏分離が行なわれる。
神道もひとつの宗教として格下げされた。これはのちの靖国問題の原因となる。
いまの日本人は結婚式を教会、葬式はお坊さんへ依頼する。まあ節操がないわけだ。
宗教はどうか。キリスト教はまったく普及していない。人口の1%程度。
のこりは仏教。地元密着型(檀家もち)の浄土真宗系が残存。
また、戦後飛躍的に拡大した日蓮系の新興宗教団体である創価学会は、
なにかと毀誉褒貶(きよほうへん)がつきまとうが、
日本の一大勢力になっている事実を否むことはできない。

ふう。上記はお勉強のメモ。備忘録。まちがいがあったら教えてください。
「ブッダ・ロード 川人忠幸インド写真集」(ひろさちや/角川文庫)絶版

→仏跡地を中心としたインド写真集。
かつて旅行したとき、写真はまったく撮らなかったからこのような写真集はうれしい。
こみあげてくるものがある。
よくもまあ、あんな旅をできたもんだと思う。わずか2年前だけれども。
インド中の仏跡を求め歩いた。
わかりやすく恥ずかしい旅であった。
本人は旅行ではなく放浪のつもりなのがもっと痛々しい。
母親から目の前で飛び降り自殺をされた。
6年前、わたしは母の頭から流れでる血をまえにうめくしかなかった。
自殺前日にそうとは知らずわたしは母に遺書を書かせていた。
たとえどうひとが慰めてくれようが、じぶんが殺したようなものだと思っている。
実際、遺された日記には、長年にわたる母のわたしへの憎悪が織り込まれていた。
苦悶する。生活から逸脱する。
どうしようもなく救いを求めて混沌の国、インドへおもむく。
安っぽい人生ドラマではないか。
大衆小説なら、ここで主人公の身になにか劇的なことがあり、ある種の成長をする。
インド帰国後はぶじ日常へ帰参。めでたし、めでたしとなるはずである。
現実は小説のようにはいかない。インドでは3ヶ月、なにもなかった。
なにも悟らなかったし、だれとも出会わなかったし、どんな真実も発見しなかった。
それでもと思う。あのときインドへ行くことができてよかった。
インドの写真を見ながらしんじつそう思う。
いまインドからもらった宿題を解いているのかもしれない。
無数の忘れられない風景がこころへ刻み込まれている。
「世界の宗教がわかる本」(ひろさちや監修/主婦と生活社)絶版

→宗教がわかるって、どういうことなんだろう。
この本でとりあげられているのはユダヤ教、キリスト教、イスラム教。
ヒンドゥー教はおまけのあつかい。
一神教というのがわからない。
この本で紹介されているような旧約聖書の歴史物語は目新しいものではない。
ユダヤ教の豆知識を読んで、ほほうと感心する。だが、ユダヤ教はわからない。
新約聖書の物語も同様。遠藤周作を愛読していた時期があったから、耳慣れた話ばかり。
それで、キリスト教がわかったかといわれたら、うーん。
イスラム教の勉強はこれから……。

一神教がわからない。キリスト教がわからない。
ドラマに関心をもちつづけてきた。劇である。
欧米戯曲の根本にはどうやらキリスト教があるようである。
劇の母胎が聖書だと断定するのはまだ危険である。
人生でも書物でも劇的なものを追い求めている。するとかならず一神教の壁にぶつかる。
壁の向こうにいる絶対者といまだ出会えていない。
「夏花」(井上靖/集英社文庫)絶版

→いまは社会学全盛の時代である。
昨年のベストセラー「下流社会」も根底にあるのは社会学。
統計を取る。人間を数値化する。
読者はじぶんがグラフのどこにいるのか焦燥する。
なんでこんな時代になってしまったのだろう。
大学生のわたしをひきつけたのもやはり文学ではなく社会学であった。
宮台真司を社会学といっていいかは、ここでは踏み込まない。
宮台真司のサイン会にまで行く大学生であった。

社会学は人間をバカにした学問である。
どーせこんなもんだろうと上から人間を砂のようにかきわける。
あなたこっち。きみはあっちね。人間軽視の思想である。
なんの脈絡もないがふと思いついたのは精神医学。
近年、精神科のしきいが低くなったようである。
一億総うつ時代ともいわれる。
困難が生じる。精神科医のもとへ。うつ病と分類され、お薬をもらう。
どーせこんなもんだ。つらかったら薬をのもう。楽になろう。人間は、こんなもんだ。

酒をのみながら井上靖の短編小説集「夏花」を読む。
書かれた時期は昭和26~31年。
どの短編からも井上靖の熱い思いが伝わってくる。

人間を舐めるな!

人間はそんなもんじゃない。人間は食って寝るだけの存在じゃない。
ときには信じられないくらい美しいことだってする。それが人間だ。

思うに、文学は社会学の対極に位置するのではないか。
人間を舐めるなと訴えるのが文学の役目のひとつ。
いま文学は衰退しているといわれる。
社会学、精神医学、文学――。
きれいに勝敗がついた。いまふうに勝ち組と負け組とでもいうべきか。
最近、社会学者や精神科医がくだらぬ本を書きすぎる。
かれらはじぶんこそ人間がわかったと思っている。だから、わかったような本を書く。
文学。人間はわからないものだということを書く文学は、現代流行らないようである。
「世界がわかる宗教社会学入門」(橋爪大三郎/ちくま文庫)

→大学の授業でいまでも記憶に残っているものがある。
大半が砂漠のように乾燥した講義だったのでことさら思い出深い。
社会学演習。大久保孝治先生の「ライフコース論」。
この先生はいい意味でおかしなひとで、
授業中に有島武郎の小説を朗読しながら泣きだしたこともある。
この社会学教授のことばで、忘れられないものがある。
大久保先生もおのが師事していた教授からきつくいましめられたという。

「A、B死亡と書いても、太郎、花子が死んだと思え」

どういうことか。社会学というのは統計を前提とした学問である。
人間をとことんまで数値化したうえで何ごとかを論じようとする。
たとえば社会学の古典のひとつとしてデュルケーム「自殺論」がある。
この著書において、自殺者は固有の人生経験を剥奪(はくだつ)される。
自殺者はいわば無名化され、何種類かの分類に整理される。
わかったようなことを書いているが、恥ずかしながら、
この退屈な古典を読了できなかったことを告白しておく。

大久保先生の言っていたのは、社会学とはつまりそういう学問である。
それぞれ多彩な人生をもつ人間を、グラフにすることから始まる学問だ。
しかし、ではなく、だからこそ、
数値の裏にある重いものにたえず気を配らなければならない。
Aが死んだのではない。太郎という人間が死んでいるのである。
B誕生ではない。花子という人間がある両親のもとで生まれたのだ。
そういう意識をもちながら社会学者は数値を見なければならない。
大久保先生のことばの意味である。

長い前置きだったが、さて「世界がわかる宗教社会学入門」。
社会学というのは、まあうさんくさい学問で、なんでも論じることができてしまう。
橋爪大三郎はその長所を生かして、
どの学者もおそれてできないようなことを平気でやってしまう。
1冊で、世界の宗教知識をコンパクトにまとめてしまおうというのだから。
試みは、成功しているのではないか。
宗教がわかったような気にはなる。しかしだ。どこかおかしいとも思う。

宗教というのはリクツではわからぬもの。
新興宗教団体のみならず、世界史の十字軍遠征だって、リクツじゃわからないでしょう。
別の宗派(あるいは無宗教)から見たら、わけのわからぬことをする。
これが宗教の特徴である。つまり宗教はリクツではわからぬ。
内部に入ってみないとわからないところがある。
橋爪大三郎は驚くほど宗教感覚とでもいうべきものをもたない。
神秘的なものをいっさい認めていない。根っからの学者と賞賛すべきか。
だから、こんな本を書こうとも、また書けるとも、思うわけだが。
この本を読んで、宗教がわかったと思う人間がいるとすると複雑である。
宗教は、本来、わからないものなのだが。わからないがゆえに価値をもつと思うのだが。
人間はわからないでしょう。なら宗教だって、わからないのでは?

いくらなんでも、これはないだろうとふきだしたところを引用する。
著者は仏教における悟りをこう説明する。

「(解脱は)精神病理学にいう離人症のようなものかもしれません」(P150)

たとえば、わが子を亡くした親たちが、いままでどれだけ仏教から慰めを得てきたことか。
なぜ著者はそういった宗教の内面までわけいっていかないのだろう。
それは社会学のやり方ではないといわれるのか。
もしかしたら著者は宗教をまったくわかっていないのかもしれない。
橋爪大三郎。優秀な社会学者である。
酒はのんでものまれるな。
本は買っても読むなかれ。
こんばんは。Yonda? です。
しつこいようですが新潮社のまわしもんではありません。

あたしゃ、生まれは神保町(うそつけ!)。
うちの中が「本の山」なら、神保町も「本の山」。
神保町ほどわたしが似合う町はありゃしません。
カレー大好き。本も大好き。神保町に Yonda? ありい!

お買物。小宮山書店裏の百円ワゴン(というか棚)。

「現代世界戯曲選集 アメリカ編」(白水社)絶版 100円

函(はこ)なし。いいのだ。読みたいのはオニールの一幕劇「霧」のみ。
ページにするとわずか18ページ。百円くらいが相場であろう。

「アメリカ・ラジオ・ドラマ傑作集」(宝文館)絶版 100円

アメリカ&ドラマがわたしの自家製検索にヒット。
手に取る。案の定、アーサー・ミラーの名前が!
ミラーのラジオドラマ「猫とパイプ職人」が収録されている。
こんな翻訳があったとは知らなかった。
昭和30年発行。調べてみたら、なんとまあ……。
古本屋サイトではヒットゼロ。グーグルでもわずか3件。
これでわたしが読んで感想を書けば、もしかしたらある種の文化貢献になるのか。
まあ、こういう情報は持ちつ持たれつ。与えればいつか返ってくる。そう信じている。

神保町はこのくらい。
にっくき矢口書店を横目に九段下へ足を向ける。
靖国神社があるため、このへんは常に右翼の街宣車が騒いでいる。
九段下から東西線で早稲田へ。ほうれ、VIPさまがブックオフ入店だぞ~。

「あした来る人」(井上靖/新潮文庫)絶版 105円
「黒い蝶」(井上靖/新潮文庫)絶版 105円
「冬の月」(井上靖/集英社文庫)絶版 105円


たしかまえにブックオフ早稲田店に来たときからあった。
ということは1ヶ月以上である。もう井上靖なんて、だれも読まないのね。
さて、わたしも読むかどうか。つい買ってしまったけれども。
あともう1冊、ブックオフから。唯一の単行本。
いま検索したら嬉しい。これは文庫化されていない。

「吉行淳之介 心に残る言葉 三七六のアフォリズム」(吉田知子/ネスコ)絶版 105円

アフォリズム(箴言)はお酒との相性がよろしい。
酒をのみながらだと、どうしても意味を追わなければならぬ長文はNG。
かといって、俳句・短歌はお勉強になってしまう教養がないわたくし。
結果、このような名言集がいちばん酒のつまみになる。
読むのがたのしみ。よだれじゅるじゅる。そのついでにブックオフまえの八百屋へ。

「キュウリ 6本」(埼玉産) 100円

高田馬場へひとり進軍。紅書店でストップ。これもなにかの縁だ。

「姨捨(おばすて)」(井上靖/新潮文庫)絶版 21円

早稲田古書店はがいして不調。いつしか早大生の集合場所、ビックボックスである。
古本祭を開催している。学生時代は古書とは縁がなかったわたしがと苦笑する。

「山頭火 句と言葉 別冊2」(春陽堂) 400円
「暗い平原」(井上靖/中公文庫)絶版 150円


低調といわざるをえない。高田馬場ブックオフへ。大きいほう。

「オリーブ地帯」(井上靖/文春文庫)絶版 105円

著者お得意の青春恋愛小説。
本日の総括。これでもかというほど素朴だぞ。ずっこけるなかれ。いいか。ほれ!
井上靖は多作だにゃ~。
見ている。見られている。
いくら容姿端麗な男女とはいえ、不満顔はうつくしくない。
顔のつくりはいいのにと残念に思うことが少なくない。
数日前、とてもいい顔を見た。
ちょっとした用事ででかけた水道橋。場外馬券売場付近。
かれは階段にすわっていた。
格闘技のメッカ、後楽園ホールまえの階段である。
ビールをのんでいた。まだ日も沈まぬ夕暮れである。何層も紙コップを重ねていた。
あれは何杯目のビールだったのか。
ビールなど近所のコンビニで買えば安くあがる。
それなのにわざわざ高い売店で買っているのである。
おじさん。いや、もうおじいさんといったほうがいいのか。髪はぼさぼさ。
ホームレスにまちがえられても仕方がないといった風貌である。

あんなしあわせそうな顔を見たのはひさびさである。
気づかれた。目があった。老人はほほえんだ。すべてを了解した。
かれは競馬で大穴を当てたのだろう。
あの顔はよろしい。めったに見られぬ類の顔である。人間の顔である。
まこと人間らしい顔であった。忘れられないものがある。

賭ける。当てる。
わたしはギャンブルをやらない。
こわいからである。もし手をつけたら泥沼にはまることは必定と思われる。
毎朝の占いがなによりも好きなわたしである。
未来を知りたい。賭けたい。神に挑戦したい。山師である。
いまも人生でギャンブルをしている。
堅実な人生をどこかであざわらっているところがあるのかもしれない。
一発でも二発でも、人生で、花火を打ち上げてやりたいと思っているのだから。
仏教のすすめる「中道」とは無縁である。
全か無か。オール・オア・ナッシングの人生である。
あの老人の満足顔があたまから離れぬ。いつかあんなふうにビールをのんでやりたい。
テレビで「マクベス」を見る。
7月9日。NHK芸術劇場。ユーゴザパト劇場。
ロシアの劇団によるシェイクスピア上演である。
すばらしかった。
芸術劇場で演劇がとりあげられるときはたいがい見ている。
8割方は30分ほどで消す。むろん、つまらないからである。
やはり芝居はなまで見るものだ。テレビでは舞台の魅力は伝わらない。
こんな経験がある。
なまの舞台で見たものを後日テレビで視聴(山田太一「流星に捧げる」)。
以前の観劇体験がウソのように打たれるものがなかった。
あれはまえから2列目の良席で見たせいかもしれない。

今回の「マクベス」は約2時間20分を堪能した。
これをライブで見ていたらさぞかし……。実にいい芝居であった。
まず刈り込みがしっかりできている。
「マクベス」はシェイクスピア劇の中で、もっとも短い劇のひとつ。
それでも本で読むと(現代の観客からしたら)よぶんな部分の存在は否めない。
きれいにカットしていた(たとえばマクベス夫人、手紙朗読の場面)。
ストーリーラインが強調されていた。ストーリーがわかりやすくなっていた。
つまり、きちんとしたエンターテイメントになっていた。
字幕もよろしい。翻訳。おそらくあれはロシア語から訳したものと思われる。
重訳というやつである(シェイクスピアの英語→ロシア語→今回の日本語)。
研究者からしたら許せないことかもしれない。
だが、いちシェイクスピアファンとしては、かえってよかった。
どうしてもシェイクスピアのせりふはむずかしい。
邦訳もぱっと見ではわからぬ。それがロシア語を媒介とすることでどうだ。
たいへんわかりやすい日本語になっていた。
あそこはあのような意味だったのかと、今回初めて了解したところも少なくない。

「マクベス」について語りたい。何度でも語りたいのである。
この劇は読書で10数回。観劇経験は3回。映画で2回鑑賞している(レンタルビデオ)。
舞台の「マクベス」を見るのは何年ぶりか。
どうしても活字ではわからぬことに思い当たった。
マクベスの人生である。マクベスは一夜で生涯を激変させている。
いうまでもなくダンカン王を殺害したあの一夜である。
マクベスはいわば大企業のエリートサラリーマン。
あのまま忠勤を継続すれば一生の安泰が約束されていた。
そのマクベスが――。あれは社長になろうとしたのか。
マクベスはいわば新進気鋭の若手政治家。
あのまま忠勤を継続すれば一生の栄誉が約束されていた。
そのマクベスが――。あれは総理大臣に、いや天皇になろうとしたというべきか。

青年が「マクベス」を見る。
いつか自分にもあのような一夜が訪れるかもしれぬと夢想する。人生を一変させる晩。
そのときどうするか。天下をめざすか。安泰をよしとするか。
青年のマクベス観である。
老年が「マクベス」を見る。
自分にもあのような一瞬があったことを思いだす。
もしあのとき冒険していればと思う。いまのような状況ではなかったかもしれない。
だが、と否定する。所詮、マクベスさえも謀反に遭い、悪漢として殺されたのである。
天下一より長命がよろしい。おのが人生を肯定する。
老年のマクベス観である。

マクベスは一夜にして、人生を激変させた。
人生はこんなものではない。こんな退屈なものではない。
やろうと思えば、どうにでもなる。タイミングをまちがえなければ。
「マクベス」劇の教訓である。
どうやってマクベスはおのれを乗り越えたのか。
みなさまがいちばん興味のあるところだろう。わたしも知りたいところ。
名将マクベスはなにゆえに名声誉れ高きダンカン王を殺したのか。
殺すことに成功したのか、といったほうが正確か。
あの一夜である。チャンスはあの一夜しかなかったのである。
尊敬を集める偉人が我が家に泊まるのは今日だけ。
殺すなら今晩しかない。殺人の是非など、問うものか。
戦争での殺人は英雄。日常での殺人は犯罪者。こんなものである。
あのダンカン王を殺せば、至上の大権を手に入れることができる。人生を変えうる。

マクベスはみなさまとおなじよう(わたしとおなじよう)常識人である。
そのマクベスがどうして善王として名高きダンカン王を殺したのか。
いかようにしてマクベスは日常を棄て去ったのか。非日常への参入を果たしたのか。
今回の舞台で視覚から理解した。
マクベス劇的行動の理由は以下の3点。
魔女の予言(励まし)。
配偶者の提言(そそのかし、誘惑、アドバイス)。
そして酒である。
予言は占いのようにいつの時代もあてにならぬもの。
とすれば、もとをたどると酒になるのか。
マクベスにダンカン王殺害を迫る夫人の言葉から。福田恆存訳。

「二人を酔わせた酒が、私を強くした。
それで二人は静かになったが、私の心は火と燃える」(P36 新潮文庫)


マクベスは夫人のすすめで謀反を起こした。人生を変えた。
そのマクベス夫人を変えたものといえば、酒である。
マクベスは酒(をのんだ夫人)のせいで劇を余儀なくされた。
なら、こう主張するしかないではないか。
酒だ。酒しかない。酒をのもう。酒をのませよう。人生を変えよう。変えてしまえ。
ハムレットはいう。「言葉だ、言葉、言葉」
わたしはいう。「酒だ、酒、酒」
「悲望」(小谷野敦/文學界8月号)

→文芸誌の最新号を立ち読みしてきた。
小谷野敦はベストセラー「もてない男」で知られる文化人。
「悲望」は「もてない男」の青春を描いた初の(同時におそらく最後の)自伝的恋愛小説。

恋愛小説とはいえ、この物語において恋愛が描かれることはない。
いや、もしやこれこそ歴史上、初めて書かれた真の恋愛小説かもしれぬ。
恋愛のおぞましさを直視する小谷野敦の真面目は、
現代においてなお文学的ということばを用いるにふさわしい。

ひと言でいえば、キモいのである。
凄まじいキモさに読者は真の文学をここに見るかもしれない。
小谷野自身と思われる大学院生の藤井は、おなじ比較文学研究室の篁に恋をする。
ありがちなボーイミーツガールと思われるが、藤井の恋はどこかさもしい。
篁の親が大企業の要職にいることをこっそり確認したうえでの恋愛感情である。
藤井は何度も告白する。お嬢さまがいいんだ。
じぶんは中流の生まれ。二浪してなんとか東大までこぎつけた。
あとはお嬢さまである。めざすは上流階級。
藤井のストーカーはとまらない。篁の研究論文をすべて読み、ある結論にいたる。
この篁という女は教授連の受けはいいが、たいした才能はないのではないか。
それでもいいのである。お嬢さまだからである。
おなじ研究室にいる話すことを許された数少ない女性のひとりだからである。
趣味がおなじ。篁の趣味も歌舞伎と相撲。1学年上だが藤井が二浪しているため年下。
藤井が研究室に入ったときに、篁が話しかけてくれた。
これだけで運命を感じてしまう藤井はキモかわいい。
現在の小谷野敦の魅力でもある。
あれは青年時代からもっていた天性のものだということがわかる。

小説を書きなれぬ「もてない男」である。
どうしても文体に小説的な動きが見られない。小谷野は構成を工夫する。
ラストシーンに近い地点から書き始めるのである。
藤井は結局、篁の留学先のカナダまでストーカーを続ける。
ただ篁がいるというだけで、カナダのおなじ大学に留学するのである。
そこで篁から痛烈な絶縁状を受け取る。
藤井はあてどなくカナダの夜を歩きまわる。回想のスタートである。
日本での出会いと、カナダでのストーカー行為が、同時進行で語られる。

物語のクライマックスは、日本での告白場面である。愛を告白する。
まずは電話である。それからラブレター攻撃。
返信がなくとも藤井はラブレターを送りつづける。
それもシェイクスピア並の美辞麗句を書き連ねる。
このラブレターを回想して、あれは「ピンク色の化物」だったと小谷野はいう。
この小説でいちばん大笑いしたところである。
あくまでも無視する篁。追い求める藤井はこんなことばをぶつける。
「地の果てまでも追っていくぞ」
篁がカナダに留学したら、ほんとうに後を追いかけていく藤井である。

小谷野敦はおのがキモさを客観視してこの「悲望」を書いているのはわかる。
だが、指摘したい。小谷野自身が意識している以上のキモさがこの「悲望」にはある。
キモキモキモキモ~と読後、絶叫した読者も多いだろう。
このキモさの正体はなにか。ようやく思いあたる。これは文学がもつキモさである。
「悲望」の藤井は文学学徒。文学作品を過剰に読み込んできた男である。
その男が恋愛をしようとすると、こんなみじめな結果になってしまう。
文学偏差値の高さは、篁からも、現代の読者からも、

キモい!

と一刀両断切り捨てられてしまうのである。
「悲望」における藤井の悲劇(喜劇?)は、かれの顔面偏差値の低さのみが原因ではない。
たぶんに文学という魔物に支配された結果である。
我われがこの「悲望」から学ぶところがあるとすれば文学の実態である。
小谷野敦の大学院生時代といえば、いまから20年ほどまえ。
もうそのころから文学はかっこいいものではなくなっているのである。
小谷野のような男が文学作品のまねをして求愛行動を起こすとこうもキモくなる。
「悲望」こそ日本文学の終焉を決定づける作品かもしれぬ。

最後にラストシーンへの不満を書く。あれではダメだ。
小谷野は小説の終わりで、篁がいまも独身であること。
篁という女はどうやら男性恐怖症・潔癖症の持ち主でうんぬんといった自己弁護をする。
いま思えば、たいした女ではなかったという書きかたである。
これでは小谷野が先ごろ、谷崎研究をしたとはとうてい思えない。
小谷野はこう書くべきであった。
藤井はいまでも机のひきだしに篁の写真を数枚忍ばせている。
ときおり写真を見ながらあらぬ想像をすることがある――。
小谷野敦。文学研究はできても、決して文学者にはなれぬ男である。
「素敵」(大道珠貴/光文社)

→真っ赤な顔をして言ってみよう。
現代文学というものはやはり必要なのである。
われわれみなが息をしているこの現代という時代はいかなるものなのか。
新聞、テレビ、雑誌では迫れぬものがどうしてもあるのだ。
不安にならないか。生きている。周囲とのそれなりのコンタクトはある。
テレビは終日、国際状況、政治経済、凶悪犯罪、流行商品を垂れ流している。
だが、ほんとうにそれだけか。この今現在を他の人間はどう生きているのか。
なにを心底では考えながらこの時代を生きているのか。
そこに迫れるものは、やはり文学しかないという思いを抱いた。
大道珠貴の短編小説集「素敵」にいたく感銘を受けたがためである。

大道珠貴は下品なところがよろしい。
まちがっても文学理論などを口にしないと思われる。すばらしい。拍手したい。
野良犬作家である。えさを与えられる飼い犬とはちがう。
日夜、食べ物を求めて、うろうろしなければならない。
ゴミ箱をあさることもしばしばである。縄張り争いの喧嘩にもなれている。
この野良犬に、生きている意味を問うほうがまちがえている。
おかしなことをいうなとかみつかれるのがおち。
子どもにからまれたら、
この野良犬は生きるためにどんな芸でもやりそうないきおいがある。
大道珠貴は、たまらなくかわいい野良犬なのだ。

いまいちうまくこの作家の魅力を説明することができない。
引用してみる。まず「純白」から。
もう成人した娘をもつ中年女、愛子の日常――。
パラサイトしていた娘がようやく出て行った。住み込みの仲居である。

「『あの子(娘)は、あまえすぎ。あたしはあたしの人生があるとよ、うん。
ここはひとまずココロを鬼にしてっと』
その晩は、パチンコ店を三軒もまわった。すべての店で、勝った。二万ずつ儲けた。
焼き鳥と鬼殺しという酒パックを買って帰る。しあわせが実感として湧いてきた。
これからテレビをつけて、おたのしみの時間を過ごすのだ」(P38)


なんともリアルで、そして笑えるのである。
ダメだ。おもしろさが伝わっていないような気がする。
なら、つぎは「一泊」から。主人公は19歳の「わたし」。
無職。ある日、合コンに出る。ほかの女子はみな短大生。

「京太はわたしをねらった。
ほかの女の子たちは手の届かない存在だったのだ。
高価そうな装飾品を身にまとい、
親にあいされて育ったようなお嬢さんたちだった」(P98)


合コンは進行する。

「『好きな言葉は、透明です』
自己紹介の番がまわってきたとき、わたしはそう言った。
一座、笑っていいのかいけないのか、
うっすら冷や汗をかいたような雰囲気だった」(P99)


どうだろうか。大道珠貴の笑いが少しはおわかりいただけたか。
小説を読みながら何度も大笑いする。
これほど読者を笑わせるというのは、ただならぬ才能である。
笑う。すっきりする。再度、さみしく笑う。気づくのである。
現代は笑ってやりすごすしかない。大道珠貴の小説に一貫する生きかたである。
「裸」(大道珠貴/文春文庫)

→大道珠貴(だいどうたまき)という女性は恐るべき才能の持ち主ではないか。
これほど現代をなまなましく、かつ巧みに描ける作家がいるとは。
生半可な知性などこの作家は信用していないところがある。
高卒の大道珠貴は、天性というほかない動物的な勘のよさをもっているのだ。
その鼻は、いまではだれも大局的には語りえぬ現代のにおいを敏感に嗅ぎ分ける。
大道珠貴の小説の魅力とは、野良犬の美学である。
だれにも飼われていない野良犬の心細さと、気ままな自由こそ、
この作家が主人公の若い女性に仮託して描くものである。
応援したい。野良犬よ、かけまわれ! 野良犬よ、はしゃぐのだ!
この野良犬は血統書に反抗するということがない。
そもそも血統書つきの犬が存在するということを理解できないのである。
それ行け、野良犬! すっかり大道珠貴のファンになってしまった。
「藤本義一の文章教室」(PHP文庫)絶版

→藤本義一はシナリオ畑出身の作家である。
文章を書くようになった動機というのがおもしろい。
大学時代、日本拳法部に所属していた。隣の部室が演劇部だったという。
稽古風景を見にいくと新鮮である。
なかでも目を引いたのがわきで脚本を書いていた男――。
原稿用紙をとりあげて見てみる。

「……これが面白い。一言でいえば、変身が出来るのである。
ドラマを書いている彼を見ていると、
もう一人の自分自身を自由に創造しているのがわかってきた。自分が


モウ一人ノ自分ニナレル

という興味をもった。これは、自分ハ他人ニナレルということである。
その時から書くことにインしたといえる。
このインは〝淫〟であり in でもある」(P132)


日本拳法部やら演劇部やらは、おそらくフィクションだろうが、
たいへん印象深い挿話である。書くことで変身することができる――。
山田太一もどこかで書いていた。
シナリオのむずかしいところは、他人にならなければならないところだ。
かりに自分が30代であっても、シナリオには60代の老人も描かなければならない。
そのためには老人がどのようなことを考えているのか理解しようと努めねばならぬ。
ときには年若い異性の内面を知らなければならないこともある。
それができないとシナリオは書けない。
小説とシナリオの相違を山田太一はこのように説明していた。
小説はある程度までなら、自分の感覚だけを頼りに書くことができてしまう。
だが、シナリオはそうはいかない。
若き日の藤本義一が関心をもったのはシナリオのこの特徴であろう。
山田太一もこの変身の愉楽に魅せられたところが少なからずあったはずである。
「直木賞作家になれるかもしれない秘訣」(高橋克彦/講談社文庫)絶版

→わたしの読書はいったいどこまで堕ちていくんだ、ドドドドド~!
高橋克彦は高校時代に「総門谷」を読んだな。
食べる時間も、寝る時間も、もったいなくて一気に読んだ記憶がある。
いまではもうあのような読書はできないと思うとさみしい。
ふりかえれば、高校生のころの読書がいちばんたのしかったかもしれない。
宮部みゆきの小説にも夢中になったな。本の世界に入り込んでしまう読書。
先がどうなるのか知りたくて、怖くてはらはらして、
じぶんが別の人生を体験しているように思ったものである。
ぜーんぜん純文学とは無縁な高校生でした。

高橋克彦はいう。

「これは小説家としての問題だけではなくて、夢を持ったときに、
どんなものでもいまの世の中は十年その願望を持ち続ければ、
必ず成就するというふうに思いますよ。
十年間なにかに熱中するということは、
好きなことであっても実際にはなかなか難しい。
逆にいうと、十年がんばるという気持でいれば、たいてい成就しますよ」(P175)


ほんとですか~。高橋克彦せんせ~。
勝手に師事している原一男さんもいっていたな。
表現をするのなら10年かけるつもりでやれ。
母の自殺から6年。あと4年か。生きていられるかな。
こういうことを書くのは意地悪だけど、この高橋克彦。
実家が医者でそうとう裕福な様子。
信じられないほど長期のモラトリアム期間を過ごしている。
そのためかエンタメ作家なのにいわゆる文学の素養もある。
谷崎全集、山本周五郎全集ほか、複数の全集を読破しているとのこと。
これを読んでわたしもまねをしたくなる。
ううう~、自己投資にカネは惜しまぬと神保町で高額の全集を買い求めたい。
えらそうなそぶりをみせず、カネをさしだす手もふるえずに……。

高橋克彦はある日、純文学志向を捨てる。
かれは高校生のときに親に出資してもらいヨーロッパ一周の旅へでている。
大学生のとき、その旅行での経験を同人誌に小説として書いた。
旅行費用が尽きて、親からの送金を待つまでの苦労体験である。
その小説を見知らぬ女性から批判されたという。
リアリティがない。おカネがないのならバイトをすればよかったではないか。
大学生の高橋克彦は悟る。

「そのときにぼくはぼくなりに苦しんでいると思っていましたけど、
世間から見ると、親の金でヨーロッパ旅行している子供はぜいたくなんです。
(……)それがわかったときに、ぼくはもう自分の悩みとか苦しみは
二度と書くまいと思った。こんなのはあくまでもぼく自身の問題であって、
それはぼくが解決すればいいことで、小説にしてまで、
人に訴えることではないんだということがわかったんです。
その日を境にぼくは、例えば炭鉱とかで夜を徹して石炭を掘っている人が、
朝戻ってきて、ビール片手に、眠る前にパラパラめくって、
ああおもしろいな、というふうに思われる小説を書きたいと思いました」(P132)


うん、おなじである。わたしもどこかで似た思いがある。
なにを書きたいかといわれたら、まず読者にたのしんでもらうもの。
その上で、できたら、読み手を深いところから揺り動かしたい……
とこう考えてしまう傲慢がやはり著者とは異なるか。
「小説の秘密をめぐる十二章」(河野多惠子/文藝春秋)

→作家はなんのために書くのかという問いに、
河野多惠子はおもしろいことばを持ちだす。
精神的種族保存。なんじゃこりゃ。
佐藤春夫のことばとして河野多惠子は記憶していたが、
調べてみると佐藤春夫がオリジナルではなく、
佐藤もかれの師匠である生田長江から教わったことばだという。
作家は自己の精神的種族保存のために書く――。
この部分を噛み砕いて河野多惠子は以下のように説明する。

「熱心な愛読者はその作家の最高の理解者は自分ではなかろうか、
と唯一の本当の理解者のような気持になる。
そして、その作家が自分の生まれた時より
百年もまえに亡くなっているのであっても、
心の底から通じ合えるような、通じ合い得ている気持になる。
作家にとっての精神的種族とは、敢えていえば、そのような人たちのことであり、
作家はそのような自己の精神的種族を同時代からばかりでなく、
時代を超えて保存拡大のために書く」(P67)


精神的種族――。
たとえばこの河野多惠子は丹羽文雄の直系なわけである。
まえにこのブログに書いたが、井上靖と宮本輝も精神的種族である。
評論家ならぬ小説家の河野多惠子が開示する小説作法とは、つまりこうではないか。
どれだけある作家を愛することができるか。
その愛の深浅により、書く小説も左右される。
ちがうのかな。誤読しているのかもしれない。
安価な文庫版がでているので、これは信用できぬと思われたかたは各自ご確認を。
「それでも作家になりたい人のためのガイドブック」(糸圭秀美・渡部直己/大田出版)

→ええ、それでもなりたいのです。
こんな本を読むまで落ちぶれてしまいました……。
とほほであります。

評論家が読書自慢をしている本。
鼻につくを通り越して、あきれてしまったのが対談中の(笑)の連発。
このふたりはインテリやくざを気取っているわけだ。
知的なふたりがブンガクをくさしているっていうスタンス……(苦笑)。
おれらふたり本だけは読んでいるもんね~。
おれらトクベツ。現代の売れている作家なんておれらからいわせたらみんなクズ。
このご両人は長いこと大学の文芸科や、
カルチャースクールの小説教室で教えているとのこと。
かれらに教わる生徒はかわいそうだよな。

読書経験の少ない作家志望者をあわてさせるためだけに存在する嫌味な本である。
かといって、かれらの読書など偏ったもの。
勝手にブンガクを脳内で形成して、これこれの本は必読書と断定している。
わたしのささやかな自慢といえば読了戯曲の数。
この文芸評論家たちはまったく戯曲は読んでいないでしょう。
だから、わたしが勝ったといいたいわけではないのである。
読書量とブンガク理解度には、さしたる相関関係がないのではないか。
いい年をして、そんなことにも気がつかないおじさんたち――。
このまま(笑)を連発しながら死んでいってくださいね。早めにね。

評論家は文学作品を好きだといってしまったら負けだと思っているのがかわいい。
ぜったいにこの作品はすばらしいと絶賛しない。
「戦略は見どころがある」なんて評価の仕方をする。
なーにが戦略だよ、と失笑するほかない。
なぜかれら低レベルの文芸評論家はある作品を「好き」といえないのか。
これは大学研究者も似た傾向がある。

「好き」=「批評不可能」だからである。

好きと告白してしまったら完全降参。踏み入る領域がなくなってしまう。
こうしてどんな作品もバカにする文芸批評家が誕生するわけである。
文学作品を心底から愛することができない精神的片輪者が評論家をめざすのであろう。
作家志望者にとって、本著のふたりほど優れた反面教師はいないと思われる。
「手で書き写したい名文」(中村明/角川書店)

→名文が書けない。
文豪とよばれる作家の文章にはまねできないものがある。
むしろ、こういったほうがいいかな。風景描写ができない。人間描写も同様。
文豪がやるような描写をどのようにしたらいいのか。

たとえば、である。むかしの文学作品でよくあるではないか。
横に川が「~~」に流れていて、「~~」な木がまばらに立っており、
その葉裏から「~~」な太陽が光っていて、そこを通りかかった私は「~~」と思う。
みたいな文章のことである。文学作品にはなぜかつきもののあれ。
どうやって書いたらいいのか見当もつかぬ。
あのような描写が好きかと問われたら、あいまいな笑みを浮かべるわたしである。
だらだらとした風景描写がどうにも苦手なのだ。
読むのが苦手なら、書くことなどとうていできないということだろうか。
人間描写もうまくできない。「うりざね顔」がどんな顔なのかさっぱりわからぬ。
つまり視覚が弱いのだろう。絵画鑑賞能力を著しく欠いている。
文学をあきらめたほうがいいのかもしれない。

一方で、こんな不遜なことを思ったりもする。
むかしの文豪風の描写では、現代という時代をとらえられないのではないか。
人間も風景も、根本的に変わってしまって、かつての方法とは齟齬(そご)をきたす。
明治、大正、昭和、平成――。
日本および日本人は底流では同質なのだろうか。
だとしたら、描写の才能に恵まれていないわたしのひがみということになる。

本書はまず名文を作者の指導のもと鑑賞する。
おつぎは自習。別冊のワークブックがついている。
各自、先ほどの著者選定の名文を書き写しなさいというわけである。
恥を告白する。自習を放棄した。わずか1ページで挫折。
他人の文章(のそれも一部分)を書き写すのは、あまり楽しいものではない。
これが理由である。これでは一向に文章が上達しないではないか。

いや、文章というよりも問題は描写である。
小説イコール描写なのだろうか。
思えばかつて戯曲ばかり読んでいたのは、描写を避けたいがためだったのかもしれない。
だれだっけな。フローベールだったか。ちがったらご指摘を。
じぶんの小説に挿絵は入れさせない(かならず文章で描写してみせる)と豪語したのは。
酒をがっとのむ。
なんというのか、こうファイトがでてくるのである。
このやろうという喧嘩腰だけではない。
さあ、泣いてやるぞ。
徹底的にめそめそしてやるからな。
こんな負け犬美学だけでもない。
あの陶酔をなんと表現したらいいのか。
酒をのむ。がっとくる。あれはいったいなんなのだろう――。
酒のちからである。
今日はブログの更新をさぼろうか。
そう思うと、酒がやたらうまい。
ぐびぐびのむのは、いんちきビール。
ひまつぶしに読むのは、井上靖の短編小説集。
とっくに絶版。いまは読むひともいないだろう。
うへえ! と思う。
宮本輝の小説とあまりにも似ている。わたしが唯一、完全ストーカーしている作家である。
井上靖と宮本輝。女性の描きかたがまったくおなじである。
いうまでもなく井上靖のほうが先輩。
宮本輝が芥川賞を受賞したとき、選考委員だった井上靖はこう評している。

「『螢川』は久しぶりの叙情小説といった感じで、実にうまい読みものである。
読みものであっても、これだけ達者に書いてあれば、芥川賞として採りたくなる。
却って新鮮なものを感ずる」(「文藝春秋」昭和53年3月号)


このときの芥川賞選考委員を知ったら、みなさまは驚くかもしれない。
そうそうたるメンバーである。いまでは信じられぬ。
丹羽文雄、大江健三郎、中村光夫、安岡章太郎、
吉行淳之介、瀧井孝作、井上靖、遠藤周作。
だれも興味はないかもしれないが、宮本輝「螢川」への当時の評価をまとめてみる。

丹羽文雄△
大江健三郎×
中村光夫△
安岡章太郎△
吉行淳之介△
瀧井孝作○
井上靖○
遠藤周作△

井上靖を、中村光夫が、文学から逃げたと弾劾した過去は先日、読んだばかり。
戦後まもなくのことらしい。
井上靖は大岡昇平とも文学をめぐって論争になったようである。
いまは井上靖の直系である宮本輝が芥川賞選考委員になっている。
日本文学の歴史である。

さきほどビール(もどき)とともに途中まで読んだ短編小説集は井上靖「夏の花」。
宮本輝が井上靖から盗作したというのではない。
宮本輝自身も、井上靖への傾倒・尊敬をエッセイで書いている。
だが、こうまで似ているとは。井上靖の中間小説はみな絶版だが、
宮本輝愛読者が読んだらその類似に驚くはずである。
井上靖は酒をがぶのみしながら美しい小説を書いた。
宮本輝の酒は、エッセイからうかがうにほどほど。かわりにこの作家は創価学会員である。
酒か宗教か――。
このふたつは人間におなじ効用をもたらす一面があるのかもしれない。