「プロ論。」(B-ing編集部/徳間書店)

→先年のベストセラー。たまには売れている本も読まねばと発奮。
成功者が語る、おのが成功の理由――。
なんとも嫌味な本ではあるが、読書の偏食も避けたいところ。
これは現代の「あすなろ物語」か。断じて違う。
「プロ論。」は、現代の「ひのき物語」である。
笑えないか。こいつらみんなじぶんがひのきになったと思ってるんだぜ。
この本に登場するひのきは、あすなろを、うすのろとバカにしているわけだ。
日本人はマゾなのかしらん。説教されたい願望があるのではないだろうか。
こんな愚にもつかぬ成功法則を真に受ける人間ばかりじゃないと信じたい。
ちなみに、自称成功者は――。

秋元康、安西水丸、石橋貴明、井筒和幸、糸井重里、今井彰、 おちまさと、
乙武洋匡、金子勝、香山リカ、カルロス・ゴーン、北川正恭、北村龍平、
木村剛、邱永漢、清宮克幸、小谷真生子、齋藤孝、櫻井よしこ、佐々淳行、
佐藤可士和、笑福亭鶴瓶、重松清、白石康次郎、鈴木光司、高橋がなり、
高橋源一郎、田原総一朗、堤幸彦、野口悠紀雄、中島義道、中村修二、成毛眞、
野口健、日比野克彦、藤子不二雄A、藤巻幸夫、古舘伊知郎、堀紘一、
三木谷浩史、宮内義彦、柳井正、横山秀夫、平尾誠二、養老孟司、松本大、
本宮ひろ志、森島寛晃、和田アキ子、和田秀樹のみなさん(苦笑)。


成功者の語る成功した理由に決して登場しないものがある。

運である。

みなさんじぶんががんばった結果だと思っているのが笑える。ひきつった笑いだが。
中島義道ほか、何人か、ひねくれたことを言おうとした痕跡が見てとれるが、
B-ing編集部に改変されたのだろう。ざまーみやがれ!
確かなのはひとつ。
成功者のだれひとりとして、おのが地位を不自然だと思っていないこと。
かくあるのが当たり前だという顔をみながみなしている。
無理もないのである。成功者はまわりからちやほやされるものだから。
わたしだって、いざ有名になったら、なにをいうか知れたものではない。
アマゾンのレビューを見るとものがなしくなる。無断引用。

「名前が売れ(続け)ている人はやはりそれなりの考え方や
信念をもっているのだと再認識させられた」

「時代を常にリードしてきたベテランから若手ながら世界をリードする人まで、
それぞれが持論を持ち出して語る言葉はさすがに鋭い」

「自分はまだ本当にがんばったことなんてないんじゃないかって思い知らされた」


いま、たったいま、アマゾンのレビューを41件すべて読んできた。
驚くべきことを発見する。ひとりとして、禁断のひと言をいっていないのである。

こいつら、ついてただけじゃないの?

ほとんど全員、すなおにそれぞれの無名人生を反省している。
ういやつばかりじゃ、ちこう寄れってな感じ。
これは国民性なのか。どうしてみんな成功者をまえにすると尻込みするのだろう。
皮肉ひとついわない。たとえば――。
あんたらの10年後、20年後は知れたもんか。
そうそう。忘れていた。この殊勝なアマゾンユーザーたちの習性である。
かつての有名人が落ち目になったとき、無名人がどう反応するか。
ほうら、やっぱり。以前の賛嘆を、180度侮蔑に転換するのがかれらのやり口だ。

ひのきとあすなろ――。
わたしはあすなろになりたい。このまま無名でも構わぬ(ほんとかよ……)。
「あすなろ物語」(井上靖/新潮文庫) *再読

→読むのは三度目。今回がいちばん感動した。なみだがとまらない。
あすなろ。あすなろの木というものがあるのだそうだ。
あすはひのきになろう。あすこそは。
そう思いながらも、ついにひのきになれないのがあすなろ。
これがあすなろの木にまつわる説話である。

人間はみなあすなろか。いや、中年にもそれはいるだろうが、
あすなろはやはり青年の特権である。青春のあすなろたち――。
というのも中年にもなれば、
あすなろは決してひのきにはなれないことに感づいているだろうから。
「あすなろ物語」では、美貌の未亡人が青年たちをけしかける。

「誰が檜(ひのき)の子かしら。大沢さんかしら、鮎太さんかしら」(P113)

この未亡人に恋心をいだく青年たちはめいめい即答する。

「僕も檜ですよ。五年先を見ていて下さい」
「僕も檜さ、しかしまともな伸び方はしないがね」
「僕は翌檜(あすなろ)に見えるだろう。
ところがどうしてたいした檜なんだ。まあ、気長に見ていて貰おう」(P114-115)


井上靖の小説に頻出する言葉は克己である。
己に克つ。あすなろの思想である。あすなろは己に克ってひのきにならんとする。
なんでも国語教科書には、この小説の克己の箇所が掲載されているらしい。
誤解を招くのではないかと心配する。
学校教師は道徳上の便宜から、克己を学童に押しつけたりはしないだろうか。
井上靖の克己は、自己啓発の克己ではない。宿命の克己である。
人間は己に克たんとする。克己は人間のみに許された欲望である。
だが、この欲望は決して充足されない。人間は己には克てぬ。
生まれを選べない。貧富、性別、容姿、知能、性格は選択不可能。
死も同様。自殺以外は、人間みなおのが死期を知らない。自殺とて失敗がある。
己は絶対的なものなのである。ままならぬ生死に挟まれた己は超越できぬもの。

克己をめざすも克己かなわぬ人間。

これこそ井上靖が描いたものにほかならない。

「あすなろ物語」を見てみよう。
いったいどのあすなろがひのきになったというのだ!
みなあすなろのままなのである。あすなろのまま死んでいく――。
主人公の鮎太少年に克己を教えた大学生は、大成せずに美少女と心中する。
鮎太を育てた寺の娘は、陸上競技の日本記録をわき腹の骨折であきらめている。
華々しい戦死を遂げた金子青年(鮎太の友人)がひのきになったとでもいうのか。
鮎太の尊敬する老記者は人生で一度もスクープを取らずに死んでいく。
鮎太がほのかな友情を感じていたライバル新聞社の記者も若くして戦死。
鮎太自身だって、どうだ。最終章の鮎太は薄汚れた中年である。
妻子に隠れてこそこそ不良少女と浮気しているのが現実だ。
鮎太青年の若々しい潔癖はどこへいってしまったというのか。あの壮大な女性崇拝は?

「あすなろ物語」では、登場人物のだれひとりとして、ひのきになっていないのである。
だから、この小説を教科書へ載せる教育者は誤読していることになる。
たいがい学校ではがんばればなんでもできると教える。
「あすなろ物語」に、そんな主張は皆無である。
人間はがんばったからといって、なんでもできるわけがない。
克己など、はなから不可能な思想なのである。だが、克己をめざす人間は美しい――。
その意味で「あすなろ物語」は克己を正面から描いた小説である。

人間はだれしもあすなろである。
もっと、もっと、あすなろになりたいと思う。人間になりたいと思う。
あすは、あすこそは、ひのきになってみせる。そう絶叫しながら死んでいきたい。
「若き怒涛」(井上靖/文春文庫)絶版

→昭和28年に連載された新聞小説。大衆小説や中間小説とよばれるもの。
いくら酔っていたとはいえ、
このような小説を読んでうるうる来てしまうわたしというのはどうだか。
おそらく嘲笑の対象になるのだろうな。甘ったれたセンチメンタリスト!

物語は独身の姉妹が幸福をめざす――。
恋愛結婚がそのままなんの疑いもなく幸福と定義されている箇所など、
現代から見たら突っ込みどころが満載なのだろう。
とすると、こんな時代遅れの大衆小説を読んで感動するわたしはおかしいのか。
どうにも現代小説にはこころ動かされぬ。
時代は常に進歩している。進歩! 小説も時代にあわせて進歩しているのか。
なぜか退歩しているようにしか思えないのである。

現代の読者はこの物語を笑うのか。
登場するのは独身の姉妹。親元から離れて都会でふたり同居している。
姉は妻子ある会社社長に恋をしている。不倫である。どうしようか迷う。
潔癖な妹が姉へ意見する。「姉さんが嫌いになったわ」

「わたし、人間、何をしてもいいと思うの。
自分がどんなに不幸になっても、それはそれでいいと思うの。
でも、そのために、ほかの人を不幸にしてはいけないと思うわ。
ほかのひとを不幸にしないのなら、どんなことをしても構わないけど」(P148)


なにをとっぽいことをと現代の不倫妻はあざわらうのか。
いま主婦によるブログでの浮気告白がたいへん流行していると聞く。
「本の山」にも訪問履歴が残っていたことがあって、一度見たことがある。
なんとも汚らわしかった。インスタント食品、全自動洗濯機、食器洗い機――。
現代の主婦は家にいてもすることがないわけだ。
だから浮気をする。それを当たり前だと思っている。
それどころかブログに公開して自己陶酔にひたる。愛に引き裂かれるあたし!
現代にはどこを探しても真剣なものがない。みなが薄笑いを浮かべている。
馴れ合っているともいえる。こんなもんだろう、所詮、こんなもの。

50年まえの物語に話を戻す。姉は、ついに社長にからだを許す。
苦悶する。相手の妻子を困らせてはならない。身を引かねばと思う。
だが、社長を愛している自分をどうにもできない。
苦しむ美貌の姉へ妹はいう。

「人間は生れて死ぬまでには、辛いこと沢山あると思いますわ。
姉さんも、きっといまが辛い時よ。
その辛いことに負けたら、人間、おしまいだろうと思うの」(P307)


平成のひねくれた読者はここで失笑するのだろうか。
克己の思想とは、まるで道徳の教科書じゃないかと。
言い尽くされたことだが、現代という時代はありとあらゆる道徳的価値観を破壊した。
戦後の日本人は古いものを徹底的に破棄し、新しいものならなんでも歓迎した。
結果、なにが残ったというのか。
なーんにもなくなってしまったじゃないか。美も徳もない。
苦しかったら精神科へ行って楽になるクスリをもらいましょう!
いまは克己など消滅した。勝手な造語をすれば、脱己の時代である。
井上靖の小説を読んでいたら、笑われかねない時代なのである。
「がんばって生きてる人って何か見てて笑っちゃうし」
と芥川賞受賞後のコメントをした、ある少女作家をふと思いだした。
「ホームドラマよどこへ行く」(西野知成/学文社)

→もの書きの手によるものではないので、記述が事項羅列的。
ホームドラマの歴史と、戦後史を、なんとかからめようと四苦八苦している。
だが、それはいちテレビ屋のちからではとうてい無理。

簡単な知識の整理。
昭和30年代。映画から分家されるかたちでホームドラマが誕生。
テレビにしかできないことを求めた結果としてのホームドラマ。
映画とはことなり画面の小さいテレビでは、スペクタクルは不可能。
テレビは茶の間に置かれる。家族みんなが見る。
家族全員が感情移入できるのがホームドラマ。
昭和40年代。ホームドラマ隆盛。
「家庭経営教科書」としてホームドラマが見られた時代である。
いわば、微温的なホームドラマ。

昭和48年「それぞれの秋」。昭和52年「岸辺のアルバム」。
どちらも山田太一ドラマ。従来のホームドラマを否定した。辛口のホームドラマ。
昭和50年代。女性の晩婚化。離婚急増。家族から離れた女性。
「金曜日の妻たちへ」。不倫ドラマ全盛期。
時代は昭和から平成へ。大卒女子の就職率が男子に均衡。
トレンディドラマ旋風。家族不在の都会ドラマ。
「東京ラブストーリー」「101回目のプロポーズ」。
バブル崩壊。価格破壊。家族が家に戻ってくる。ホームドラマの復活。
「ひとつ屋根の下」「渡る世間は鬼ばかり」。コメディーの要素が強い。

記述はここで終わっている。
わたしもここ5、6年はさっぱりテレビドラマを見なくなったからわからない。
戦後の生活史をふりかえり、阿呆(あほう)のように思うのは、便利になったな~。
たとえば、食べる。冷蔵庫の普及でさえ、ここ40年くらいのこと。
いまでは当たり前の電子レンジも考えてみれば画期的ではないか。
レトルト食品の開発もそう。コンビニ業界の急上昇は日本全土を変えたといってよい。
利便性の裏側で失われたものがあるというのは、かつての文化人の決まり文句(笑)。
ドラマが書きにくくなったとは山田太一氏(P208)。
うんうん、恋愛ドラマ恒例のすれちがいも、ここまで携帯電話が普及したら使えない。
ホームドラマも書くのがむずかしい。
家族一同がそろうシーンというのが、ホームドラマにはなくてはならない。
以前はそれが食事のシーンであった。料理をする母親。集まる家族。
だが、現在、どれだけの家庭で一緒に食事をしているものか。
家族食事シーンのリアリティが薄れているのではないか。ドラマが濃密を欠くのも必定。

もうまったくテレビドラマには期待していない。
いまうちにはまだ読んでいない、山田太一氏のシナリオ集が10冊以上ある。
ぜんぶ絶版。買い集めるのにどれだけ苦労したか。
これを読むのは生きているあいだのたのしみ。
現代のドラマはあきらめている。山田ドラマがあれば、もうなにもいらないのだ。
「恋愛の昭和史」(小谷野敦/文藝春秋)

→これはたいへんな労作である。
ベストセラー「もてない男」で知られる小谷野氏の、
この著書にかけた情熱ははかりしれぬ。
この熱情は、いいかえれば怨念である。
ぼうだいな読書をこの執筆のために必要としたことと思う。
その熱源は、なまやさしい知的興味などでは決してない。
怨念とよぶほかない、著者の生命の根源にある炎を一見軽い文体の裏から感じる。
恋愛ってなによ。おまえらいちゃいちゃしてんじゃねーぞ。
どーせおれの生まれは下流さ。だから高学歴の美女と恋愛がしたいんだ。悪いか。
学者らしからぬねちっこい嫉妬心がちらほら見え隠れする。何度も大笑いした。
辛口のわたしが最大限の評価をこの著作に与えるゆえんである。
もっと読まれるべき好著なのにと残念でならない。
少しでも宣伝になればとこうして若僧のわたしが紹介しているわけだ。

ところでご存知か。
恋愛結婚が見合結婚を上回ったのはいつか。
昭和42年だという。ちなみに、これは本著で知りえた知識ではない。
意外か。あるいは想像どおりか。
昭和42年以前は、半数以上の夫婦が見合で結婚していた――。
統計はまったく知らない。だが、その見合結婚の大部分が離婚したということは聞かない。
おおかたは、まあ、それなりにどたばたしながらも、適当にやっていたのではないか。
たとえば「熟年離婚」といったテレビドラマが放送される(わたしは見ていない)。
夫婦間には愛がなければならないといった(真偽定かならぬ)情報が、
さも絶対的真実であるかのように視聴者へ伝達される。
果たしてドラマの影響で離婚件数が増えたのかは寡聞にして知らない。
いささかの影響もなかったといったら、これもウソになるのだろう。
恋愛などというものを知らなかったら不幸にならずに済んだ人間が大勢いるはずである。
大衆はなんによって恋愛なるものを知るか。いまならテレビドラマ。
むかしは新聞に連載される大衆小説である。
現代において最大のちからを有する恋愛至上主義から差別された「もてない男」
小谷野敦氏は、恋愛とはなにかというライフテーマの答えを求めて、
いまでは忘れ去られた山のような大衆小説へわけいっていく。果敢である。笑える。

この作品は文芸評論ではない。そんな退屈なものではないのである。
いうなれば明治から昭和にかけての、文壇ゴシップ集大成。
よくもここまで調べたものだとあきれ……いや、感動することしきりであった。
小谷野氏のお気に入りは菊池寛と見た。
まず著者は、はやばやと菊池寛の正体を看破する。

「人も知るとおり、久米や松岡とは桁違いの醜男である菊池は、
てんから『恋愛結婚』などは自分とは無縁だと思い決めていて、
郷里の両親が選んだ相手と結婚するのである」(P50)


ところが、どうだ。

「菊池こそ、大正九年の『真珠夫人』以来、数多くの女性向け通俗恋愛小説を書いて
女性読者の絶大な支持を得るに至るのである」(P50)


小谷野氏の論理は軽やかに飛躍する。ホップ、ステップ、ジャンプである。

「恋愛小説や恋愛論の秀作は、恋愛の下手な者たちによってこそ書かれうることを、
この事実(通俗恋愛小説の大家・菊池寛!)は示しているように思われる。
それはやはり醜男でもてない男だったスタンダールがそうであったように、
あるいは現代日本の美男作家の恋愛小説がちっとも面白くないように」(P51)


じぶんこそ現代日本において恋愛論を書くのにふさわしい。
あたかも小谷野氏はそういっているかのようである。
さて、現在バツイチ。
結婚相談所相手のトラブルを幾度か繰り返した小谷野氏の未来は? 注目したい。
一方、菊池寛のほうはどうなったか。
とんでもない「色魔」になったと著者は内情をばらす。
あちらこちらに愛人をつくっていたとのこと。
さあ、「もてない男」小谷野敦氏は、色狂いの中年・菊池寛をどう評するか。

「私には、若いころ、自分は恋愛などとは無縁と思っていた菊池が、
後年カネと名声に物を言わせる漁色家になったのを、
とうてい憎む気にはなれない。
むしろ、カネと名声なくしては漁色家になれなかった
菊池の怨恨の深さをそこに見る思いがする」(P71)


若者に大人気の論客・宮台真司氏が先年、東大名誉教授の娘で二十歳年下の、
日本女子大卒の令嬢と結婚したのは世間に衝撃を与えた。
「援助交際OK!」で世にでた社会学者のとんだ顛末(てんまつ)になったわけである。
さて、小谷野敦氏はどうなるか。平成の菊池寛になれるのか。大問題である。

小谷野敦氏のブログ
「猫を償うに猫をもってせよ」
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/
文はひとなり。文を読めばひとがわかる。
本もまた、ひとなり。読んだ本を知るまでもない。買った本を見ればひとがわかる。
おお、ばれているのか。この浅薄なわたしが。
この人間は決して物事を心底から思考したことがない。
わかろうとしない。わかったふりをしたがる。わたしである。

神保町。田村書店ワゴン。
しみったれた人間がここに集まる。本にカネをつかいたがらぬ賎民の群れ。
いわば、精神的乞食である。知識の対価をなんとこの連中は甘く見ているのか。
これは非難ではない。自嘲である。かなしく笑いながら、ある本を掘り出す。

「哲学入門」(渡邊二郎/放送大学教材)絶版 400円

かつて読んだ「図解雑学 哲学」の図書案内で紹介されていたのを思いだしたのである。
この「図解雑学 哲学」はたいへんわかりやすかった。
この著者がすすめる本なら、わかりやすいのではないかと期待。
わかる。そもそもわたしは哲学を本気で学びたいのか。
否である。どうでもいいとどこかで思っている。
哲学者の名前がでてきたときに、劣等感を感じないで済むための小道具。
わたしが求めている哲学知識など、この程度である。
哲学とはなにかという問いの答えとしてよくあるのが、役に立たないもの。
ああ、そうかい。役に立たないのかい。なら、いらねえよ。そう思ってしまう。
学者でも芸術家でもない。商売人気質のわたしである。
いいや、あまりおのれをさげすむのはよくない。商人は俗物でなければならぬ。
俗物はよく知りもせぬ名言を引用するのを好むものだ。
そんな言葉の断片でじぶんの価値が上がると信じているのだからかわいいもの。
シェイクスピア。「ロミオとジュリエット」から。訳は小田島雄志氏。

「哲学なんかくそくらえだ! 哲学でジュリエットが作れますか」

まだ商人(あきんど)には程遠い丁稚(でっち)のわたしは、
田村書店ワゴンまえからしばらく離れようとしない。
ここで買った本を紹介するのが、なんとも恥ずかしい。

「幽霊はここにいる・どれい狩り」(安部公房/新潮文庫)絶版 100円
「緑色のストッキング・未必の故意」(安部公房/新潮文庫)絶版 100円


どちらも絶版の戯曲集。どこが恥ずかしいのだといぶかるだろう。
実は2冊とも家にあるのである。もう読んでいる。
それなのに買うのは下卑た乞食根性から。他人に買われるくらいならじぶんが。
これほど卑劣な精神はあるか。まったく公共の利益を無視した行動である。
言い訳をさせてほしい。買ったのは、だれかにいつかプレゼントするためなのだ。
安部公房の戯曲「どれい狩り」は、まこと笑える傑作。
ぜひとも未来の友人にプレゼントしたい。こう考えたわけだ。
もちろん、それだけではない。
「緑色のストッキング」のほうは、かなりの価値があると思う。
わたしもかつて探し回ったが、どこにも置いてなかった。ネット古書店も含めてである。
「イージーシーク」(いまは楽天)というところで、キーワード設定をしたほど。
つまり、その商品が市場にでたら告知しろというシステムまで利用した。
結果、ようやく入手したのがこの文庫本である。
定価560円。売価は1000円だったか。送料を入れると1280円。
けちなわたしとしては大冒険だった。
かの文庫には名作「どれい狩り」の別バージョン「ウエー」が収録されている。
どうしても読みたい。それも新潮文庫で。定価の倍額を支払った。
そんな思い入れのある本が100円だ。買わずにはいられないではないか!
笑いたいなら、笑ってくれ……。

三省堂まえの坂をのぼり御茶ノ水へ。今日はそこから本郷三丁目に足を向ける。
駅前の古書店、大学堂が目的である。
この古本屋のおばさんは、いかにもなのがいい。
古本屋にああも似合うおばさんはいないと勝手に思っている。
寡黙なわけではない。なかなかの話し好きのようである。そこがまたよろしい。
いつだったか。あれは師走だったか
ここで6冊ほど買ったことがある。それでも4000円いかなかったか。
安い買物である。おばさんが、うれしそうに話しかけてきた。
今日はね、公務員のお給料日なのに、ぜーんぜんよ。
むかしは東大のセンセがよく買っていってくれたもんだけど。
へえ、ここは東大御用達なのかと思ったものである。
本日、買ったもの――。

「西洋文学入門」(本多顕彰/現代思想文庫)絶版 100円
「小説入門」(中村真一郎/光文社文庫)絶版 150円


かのおばさんは、今日も客相手におしゃべり。
そうなのよ。これでもけっこう本を捨てているの。
売れない本をいつまでも置いていても仕方がないし。
本を棚に並べておくだけでもお金がかかるでしょう。
それに、そう。捨てる本だって、ただで仕入れたわけではないのよ。
いくらかの元手がかかったものを捨てる。いやよねえ。
でも、まあ、ほら、食べ物を捨てるのに比べたら、そこまでは……。

ふむ。本も食料品とおなじように賞味期限があるのかと感心する。
たしかにそうかもしれない。本は食べるものだ。
いつ食べるか。間食か主食か。味もさまざま。
子どもの好物あり。食通にしかわからぬものあり。ラーメンのような国民食もありだ。
そうそう、おいしいけれども栄養がまったくない本というのもある。
さほど美味でもないのにやたら高額なものはどちらにも。
賞味期限まで共通とは、こいつはまいったぜ。

本郷通り沿いの古書店を2店ひやかし、東大の構内へ入る。
まわりはみんな東大生かと思うと(実は違うが)なぜか緊張する。
ここで掲示板を見た(東大不合格を知った)ときのことを
いまでも恨みに思っているのかもしれない。
あれから10年か。今日買った本のタイトルを思い浮かべる。
笑うしかないよな。これだから東大生にはなれないのだ。
入門書ばかりじゃないか。どうしてこうも「入門」が好きなのだろう。
「哲学入門」「西洋文学入門」「小説入門」――。
とことんバカなのである。安易にわかったふりをしたいのである。
いい若いもんが情けないではないか。
難解な書籍と命をかけて向き合う気概というものはないのか。
それが平成か。平成に生きるものの宿命なのか。自問する。
いや、それは違う。まずは、入門から。それから、それから。
じぶんに弁明するのは老人の仕事である。
いつしか不忍池である。ボートに乗ったカップルがたくさん。見ないようにする。
ふう。今日はよく歩いている。好天。空を見上げた。
この「本の山」の影響で、読書を趣味にするようになったかたはいるのか。
もしいらしたらこのブログを誤読している。
わたしは本を読むことなど、いっさいすすめた記憶はない。
むしろ警告しているといってもよい。読書などするなかれ。
わたしのようなダメ人間になってしまうおそれがあるのだから。
おすすめしているのは本を買うこと。
書籍購入は読書などより何倍もたのしい営みである。
本は読むものではない。買うもの。すなわち、いつか読むものである。
読むまえがいちばんどきどきする。旅行とおなじ原理だ。

といいつつ、それでも、本は、読むのもそれほど退屈ではないのだ。
ここで問題が生じる。そう、どの作家を読むかである。
ベストセラーを読む手があるが、どう見てもあまり格好のいいものではない。
ひとのすすめに従うという方法もある。
たとえば、この「本の山」も、まあ使える(と勝手に信じている)。
本好きな友人がリアルにいるかたもいるだろう。
プロの作家の後を追う読書もある。
わたしも遠藤周作、宮本輝、中上健次から、いわば祖先をたどった経験がある。

だが、これらの読書はどれもどこか他動的。
おせっかいなおばさんにお見合い写真をたてつづけに
見せられているかのような窮屈感があるのではないか。
どこかにじぶんだけの作家はいないか。これは恋愛衝動である。
恋愛をしたい。出会いたい。未知の人間との邂逅(かいこう)を欲望する。
このとき利用できるのが、あの学生時代の国語便覧なのである。
もうないと? 当たり前だ。あるほうがおかしい。
書店で買い求めることができる。学習参考書コーナーで売っている。
情報量と比較したら価格は驚くべき安さといってよい。
わたしは浜島書店のを愛用しているが、各人手にとって好きなのを選択すべき。
最近のものは、赤川次郎やら柳美里まで載っているのだから驚きである。

顔写真を見る。紹介文を読む。どの作家を選ぶかはまったくあなたの自由。
各年度の主要文学作品が羅列されている年表がある。
これを用いるのも、偏りのない読書を可能にする。
わたしもやったことがある。有名作家の代表作だけとりあえず読むわけだ。
お気に入りがいたら、深く分け入る。
この国語便覧には海外作家まで載っているのだからすばらしい。
さらに、だ。近代文学者のみならず古典文学の説明もなされているのだから。
万葉集。徒然草。おくのほそ道。
国語便覧は、いうなれば、どこでもドアなのかもしれぬ。いや、タイムマシンか。
これを使わない手はない。学生にだけ使用させるのはもったいない。
おかしなことをすすめるようだが、トイレに置くのも一計。
気まぐれにぱらぱらめくる。ある日、とんだ場所で、驚きの出会いがないともいえぬ。

ひとに本をすすめるのは押しつけがましくて、とてもできない。
たかが、この未熟なわたしがおもしろく読んだにすぎぬ本ではないか。
だが、この国語便覧なら、と思う。
いわば、誕生日プレゼントに商品券を渡すようなものである。
選ぶのは、このわたしではないのだから信用に足る――。
母の命日は酒をのむ。1日がかりの墓参り。
まずはランチビール。お墓のまえでも酒。帰りの電車ではウイスキー。
水割りの缶を3本あけた。
家に戻ってからも酒。ゆうべは鍋でのんだ。四川風火鍋。
スープを安価で購入していたので料理というほどのものではない。
野菜を洗い鍋に配置。豆腐。肉に魚。鍋がぐつぐつ。なんとも安らぐ。
酒をのみながら鍋をつまむ。おおかたはあまる。今宵、残飯整理である。

母の命日に読むのは井上靖の青春小説。墓参りの往復。
何年前からの習慣になるのか。
青春小説。中間小説。新聞小説。井上靖。6月26日の恒例行事である。
思えば、かりに文学というものがあるのなら、その参入のきっかけは井上靖。
井上靖「しろばんば」で読書のたのしみを知った中学生のわたしである。
「本の山」の入口は井上靖――。
帰りの電車でも酒をのみながら井上靖の青春小説を読む。
いいな、と思う。井上靖の小説に悪人は登場しない。みな潔癖な人間ばかりである。
幸福をめざすまっすぐな人間が、その真面目な性格ゆえに葛藤する。
井上靖の中間小説である。
両親のことを思う。ふた親の青春を想像する。
そこには真摯なものがあった。希望があった。幸福をめざした。
青春とよぶべき熱いものがあったのをわたしは知っている。その結果である母の死――。
なにもいうことはない。酒をのむしかない。

さすがにあれだけのみつづけていると、帰りの電車では酔いがまわる。
うっかり泣きそうになる。こんな中間小説でなみだをながしていいのか。
ぐっとこらえる。意固地である。
それでも、いいなと思う。井上靖の小説はよろしい。きれいなものを書く。
現実がきれいだから、きれいなものを書いているわけではない。
美しいもの。人間はそのために生きる。
その美の現実での存否を問うなどいやしいことではないか。
生きる。美を欲望するのはまちがいか。
おまえはいうか訳知り顔で現実はそんなものじゃないと!

克己(こっき)。己(おのれ)に克(か)つ。
井上靖の小説のテーマである。
すっかり酔っぱらい感傷的になったわたしは思う。
勉強しよう。寸暇を惜しんで、もっともっと勉強しよう。
きれいなものを書きたい。美しいものを書きたい。そのために勉強しよう。
たとえそれが現実になかろうがいいではないか。
美しいもの、きれいなものがなかったら、ひとはどう生きたらいいのか。
酒をのむ。井上靖の小説に登場する人間もよく酒をのむ。この作家自身も酒豪であった。
井上靖は常に酒をのんでいたと聞く。なら、いつ小説を書いていたのか。
まさか酒をのみながら小説を書いていたのだろうか。
井上靖の青春小説。失恋した青年は酒をのむ。がむしゃらに命がけで酒をのむ。
そのすがたのなんと美しいことか。井上靖の小説のここが好きなのである。
青年は決まって後悔する。克己に到達する。克己と紙に書き、机にはる。
青年は己に克たんとする。青年。わたしもまだ若い。必ずや、必ずや――。
一日中、酒をのんでいる。
朝から地下鉄。JR。バス。徒歩。片道4時間。
帰途は――。徒歩。バス。JR。地下鉄。往復8時間。
一日中、酒をのんでいる。
ちっとも酔わない。6月26日はあと4時間。
一日中、酒をのむつもりである。
これは真理なのか。
本をよく読むひとは、がいして場の空気が読めない。
場の空気を読める社交家は、おしなべて読書の習慣がない。

当方、本の読みかただけは熟達している。
たとえばさっき読み終わった本の話――。
「恋愛の昭和史」(小谷野敦/文藝春秋)。ブックオフ105円本。
古本である。古書のたのしみかたを紹介する。
注目すべきは、しおりのはさまっているページ。
たいがい読者は印象に残ったところにあの紐(ひも)のしおりを挟む。
書籍を売るころには、いうまでもなく忘れている。
かくしてわたしは前所有者の精神の秘密(おおげさ?)を知ることが可能になる。
ちなみに、これは古書ではなく、再読の場合でも起こりうる。
みなさまも何年かぶりになにかの本を再読したとき、
しおりのはさまっているページに赤面したことはないだろうか。

さて、「恋愛の昭和史」。2005年出版の本である。
定価1800円。105円で買えたのが信じられない。
この本におけるしおりの位置が印象的だった。
前所有者に親しみを感じたといっても過言ではない。
わたしもどこか一箇所、気になった部分をあげろといわれたら、おなじページにするだろう。
そこは、ある大衆小説の引用部分。さらなる引用をする。これを孫引きという。
平林たい子「情熱紀行」から――。

「小説や映画では、恋愛というものは、互いの知らぬまに、
ちょうど麹(こうじ)が酒になるような工合(ぐあい)にひとりでに
醸(かも)されて行くことになっているが、それには一寸した嘘がある。
自分がひとを思わず愛してしまうプロセスには、
なるほど醗酵(はっこう)や病気感染のプロセスと似たひとりでなものがある。
が、向こうを愛させるプロセスの方は、そんな、なまやさしいことではない。
試みに一組の相愛している男女に、そつと告白させてみるがいい。
男か女かどちらか一方は必ず、
相当卑劣な策動を試みたことを白状するにちがいない。
策謀なくして恋愛はないのだ」(P201)


うなったね。ここに恋愛の真実が書かれていると思うのは、わたしが未熟なせいか。
恋愛は、いうなれば、男女間のこの面倒な駆け引きなのではないか。
恋愛上手とは、恋多き男女とは、この技巧にたけているものをいうのではないか。
すなわち、場の空気を読める人間こそ恋愛を御する――。
作家として大成した人間は、恋愛下手が多いとは小谷野敦氏の主張である。
本をよく読む人間は、すべからく場の空気が読めぬ。
小谷野氏がこう論じていると断定するのは、飛躍しすぎている可能性もあるが。

決定的に場の空気が読めない人間。これがわたしである。
場をこおりつかせた経験ならいくらだってある。
あらんばかりに盛り上がっていた場が、わたしのひと言で静まりかえるのだから。
恋愛も同様である。
たとえば、こんなことが。ある異性からメールをもらう。読むと驚きの内容。
お気持は嬉しいのですが、いまは恋人を作るつもりはありません。
わたしはといえば、この異性にまったく恋愛感情らしきものを持っていないのである。
それなのにこういうメールが来る。わたしが求愛していると勘違いされたわけだ。
さて、どうするか。
このときは、おまえなんか愛していないというメールを3時間かけて書いた。
だが、結局、送信はしなかった。
かのひとは、いまでもわたしを振ったと信じているのだろう。

それと、あれだ。あのケース。
異性から恋人の相談をされるというのはどういうことか。
もしかしたら求愛されているということなのか。
わたしは、そのあたりの、いわゆる恋愛の機微がさっぱりわからない。
恋人がいるのなら、よろしくやりやがれ。いつもわたしは突き放している。
かなりむかしになるが、こちらが愛した場合もどうしたらいいのかわからない。
どのように、もったいぶって、自らの価値を相手に理解させたらいいのか。
決して恋愛経験がないわけではないが、それでも場の空気が読めないわたしである。

先日、書店で立ち読みをした。今月の新刊。
「『場の空気』が読める人、読めない人」(福田健/PHP新書)。
いたく啓蒙された。この新書に描かれている、
「場の空気」が読めない人間とは、まさしくわたしのことである。
以前やったことのある失敗がすべてこの薄い書物に書かれていた。
その改善方法まで懇切丁寧に書かれているのである。
それでもこの新書を買おうとしないわたしは異常者というほかない。
買ってたまるかと思うのである。なんて生意気な。なんたる驕(おご)りか。
この本を研究すれば、少しはましな人間になろうものを。

どうすれば場の空気を読めるようになるのかはうすうす感づいている。
テレビを見ればいいのではないか。トーク番組やらバラエティ番組やら。
しかし、わたしときたらどうだ!
なにが嫌いって、この種のテレビ番組ほど忌み嫌っているものはない。
5分見続けただけであたまが痛くなる。明石家さんまは、顔を見ただけで吐気をもよおす。
これではいつまで経っても、場の空気を読めるようにはならない。
本ばかり読んでいてはダメなのである。よき指導者の登場を待つばかりである。
あるひとからすすめられたので、とかいうふうに書くとなんだか思わせぶりな気もして、
この「本の山」の常連であるムー大陸さんだと正直に書いてしまうのだが、
生まれて初めて松屋カレーなるものを先ほどいただいた。松屋のヘルシーチキンカレー。
ムー大陸さんの強い推薦がなければまず口にすることはなかったと告白したら、
どこか嫌味に聞こえるのではないかと小心者のわたしは心配している。

ふう。太宰治ものまね文体終わり!
疲れて、疲れて、しょうがねえぜ。要は、松屋カレーを食べたのさ。
いいかい、わたしを舐めちゃいけねえ。
こちとらカレーだけは、うるさい。なんせインドでの3ヶ月にわたる放浪体験あり。
生死の意味を求めてえっちらおっちらインド全土を歩きまわりました。
なーんも発見はなかったけれども、唯一の自慢は89日間連続カレー。
インド人は三食カレーを食べている。
日本人のわたしも一、二食はカレー以外のもの(いんちき中華)でごまかせるが、
どうしても三食に一回はカレーが入ってしまう。
むしろあれは意地だったのかもしれぬ。ここはインドだ。カレーを食べよう。
ありとあらゆるカレーを試した記憶がある。2年前のことである。

帰国してからも、さすがに3ヶ月もつづいたものだと、なかなか習慣は変わらない。
異様なほど、カレーにこだわるようになった。
カレーだけは作れない。あれは大量に作るもの。
いくらなんでも毎日おなじ味のカレーはたえきれない。
そこで登場するのがレトルトカレー。これならちょうど1回分。
やたらレトルトカレーを買い求めるようになったのは、
あのインドにおけるカレー地獄体験のたまものである。
インド人の生活はカレーで出来ている。すなわちカレー=生活。
インドは人間のるつぼとはガイドブックの決まり文句である。
そうならば、人間とはなにかは、カレーの正体を突きとめればわかるのではないか。
およそ真偽のほど定かならぬテーマであるが、わかってほしいのはただひとつ。
わたしゃ、カレーにゃ、うるさいぞ。

松屋カレーは今現在、三種類。
ヘルシーチキンカレー(並)(大盛)、カレ・ギュウ、スープカレー。
ムー大陸さんのおすすめはスタンダードなヘルシーチキンカレーと推測する。
店内では食べない。テイクアウト。場の空気に呑みこまれると味がわからなくなる。
袋に入っているのはカレーの容器と、ごはんの容器。ごはんには黄色いたくあんが。
緊張する。プラスチックのスプーンでカレーをすくう。ライスにかける。
これはインドふうである。インドではカレーと米飯はかならず別の皿。
スプーンにのせたライスカレーを口にふくむ。咀嚼(そしゃく)する。味わう。
もう一度。いいや、まだ結論をだすには早い。あと一回。これを食べてからだ。
カレーライス終了。そろそろなにかいわねば。しかしなにを? 感想である。

ここで、うまい、まずい(と言い切るグルメ文はめったにないが)というのはアマチュア。
なんでもおいしいと感動するのが、食を評するもののつとめである。
このカレーはめずらしい。決して本場インドでは食べられぬ。日本でも同様である。
松屋カレーこそ、真の独創というべきものがある。
おしなべて飲食店は美味なるものを客にだそうとする。だが、松屋は一風ことなる。
それが松屋カレーの魅力なのだ。これは食べてみなければわからぬ。
この松屋カレーは客にほめられようなどという、けちな商魂から作られたものではない。
たとえば、そうである。みなさま、学童期を思い返してください。
クラスにはかならず人気者と、いじめられっ子がいたのでは。
松屋ヘルシーチキンカレーは人気者になるべく発案されたものではない。
いじめられぬために考案されたカレーなのである。
ここに飲食業界のコペルニクス的転回を見るのはわたしだけか。

うまいものをだそうとするのが従来の飲食店。
こう断言するのはどうだかと思うが、どうしても、うまいものをわかるのは一部の人間。
すなわち、美食提供を目標とする飲食店はかならず敵を作る。
敵とは、その店の美味がわからぬ人間。
熱烈な愛好者がいれば、敵対者もいる。世の道理である。
そこで松屋はこう考えた。好かれようとすると、敵が出現するのは避けられない。
ならば、嫌われぬのをメニューの目標としたらどうなる。
こうして出来たのが松屋ヘルシーチキンカレーである。

松屋カレーを食べてみるがいい。なんともいえぬ絶望感に襲われる。
まずいとはいえぬということである。うまいをあきらめ、そのうえで、
まずいを徹底的に避ける。この松屋カレーをどう論じたらいいのか。
松屋のヘルシーチキンカレー(並)は290円。
これよりも高額なレトルトカレー(もちろんライスなし)は山ほどある。
さて、このヘルシーカレーを食べてから6時間後。
いまも松屋カレーは、激しい胃もたれという痕跡を残す。
ムー大陸さんを思う。わたしの口へ松屋カレーを押し込んだ人間である。
あれは諧謔(かいぎゃく)と笑うべきものか。それとも、暴力と弾劾すべきものか。
結論はみなさまにだしてもらうほかない。
すべては松屋カレーをまずいと断言できぬ、
優柔不断のわたしがもたらした結果なのかもしれない。
「東海道居酒屋膝栗毛」(太田和彦・村松誠/小学館)

→酒が友だち、本が友だち、である。
お気に入りのエッセイを読みながら、酒をぐびりとのむ。
もっともこころやすまるときである。
本書で紹介されている居酒屋へ行きたいなどという野心はない。
そもそも、一緒に行く相手がいない。
名店にはつきものの頑固店主とやりあう気力もない。
それにわたしは喘息もち。タバコの煙がどうにも苦手である。
紫煙がセットの美食には、そうたいした魅力がない。
かといって、居酒屋を禁煙にしろという注文が無理なのはわかっている。
これでいいのである。
本と酒。いまはどちらも安くなった。うれしいかぎりである。
ブックオフ105円本を読みながら、安い雑酒をのむ幸福――。
「これが礼儀作法だ!」(山口瞳 他/新潮社)

→小説新潮臨時増刊。山口瞳特集号。
本書で山口瞳が以下のように述べている。

「六十年生きてきて学んだことのひとつに
『人とは浅く付き合え』ということがある」


どうなのだろう。これは真実か否か。
若輩のわたしにはわからない。
つい人と深く付き合おうとしてしまう。
結果は、いつも失敗である。
人も、自分も、傷つけて終わる。
いいかげんやめたほうがいいのだろうか。
そもそも、やめようと思ってやめられることなのか。
思えば、父も母も友人がひとりもいなかった。

母が亡くなった直後のことである。
お葬式に来てくれた母の友人に連絡を取ったことがある。
若いころの母の話を聞きたかった。ただ、それだけである。
彼女は忙しいからと電話でいった。
いつでもいいんです、どこへでも行きます。懇願した。
悪いけど忙しいからと電話は切れた。
母がその友人からどう思われていたかを知った――。

ふと思う。いまわたしが死んだとする。
葬式にだれか来てくれるだろうか。
親戚以外に2人も参列者がいた母のほうが、
まだわたしよりも人付き合いがうまかったのだろう。
「Dr.キリコの贈り物」(矢幡洋/河出書房新社)

→1998年に起こった宅配毒物自殺事件に取材したもの。
あの事件を憶えていますか。
ドクター・キリコと名乗る男性がインターネット上で知りあったひとに青酸カリを送付。
その意図は、これがあればいつでも死ねる。だから、いま死ぬ必要はない。
いわば自殺防止のためのお守りとして青酸カリを有償配布していた(3万円)。
だが、それを実際にのんで自殺する主婦がでたことから事件が露見。
ドクター・キリコも青酸カリをのんで自殺する。

みなさまはどうしますか。
もし見知らぬひとから自殺したいといわれたら。
家族や友人ならそれはとめるでしょう。見知らぬひとだったら、どうしますか。
たとえばいまのいまもこのネット上では、
見知らぬ人間同士で「死ぬ/死ぬな」の騒動が繰り広げられているわけだ。
この「死ぬ/死ぬな」は毎日、立場が交互する。
ある日は「死ぬ」と書いていたものが、後日「死ぬな」にまわる。その反対もある。
そうやって、てんやわんやしながら生きているひとがいまはたくさんいるようである。
その中からは実際に自殺してしまうひともでる。まあ、たいへんなわけだ。

どちらもおかしいよな。
ネットで「死ぬ」と宣言するのは、いうまでもなく矛盾している。
とめてもらいたいのだから。
この自殺予告者は決まって人生の無意味を説く。
そんなもの当たり前じゃないか。なにを声高にと失笑する。
それをなんとかごまかしながらみんな生きているんだ。
「死ぬな」と、とめるほうもおかしい。
動機はわかる。とめるほうも自殺願望があるのである。
だから、自殺宣言者を生き延びさせなければならない。
かの人間が死んでもいいのだとしたら、じぶんもおなじことになる。
だが、だれが他人の自殺をとめられるか。命を救うというのはたいへんなことだぞ。
財産や身体までも提供する覚悟があってのことかい?
とてもわたしには他人の自殺をとめることはできない。
それが見知らぬ人間なら、なおさらのこと。

かのドクター・キリコ氏はどうしたか。
かれは自身も重度のうつ病であった。ところが、あるきっかけで改善する。
青酸カリを持ち歩くようになってからである。
これをのめばいつでも死ねる。ならいま死ぬ必要はないじゃないか。
そう考えることでうつ状態から抜けだすことに成功する。
かれはここでやめるべきであった。
だが、この男は不遜にも他人の命をも救おうとする。
他人も自分とおなじ方法を用いれば、うつ病が治るのではないか。
ドクター・キリコはネット上で知りあったひとに青酸カリを販売する――。

かつてわたしも初対面のひとに自殺したいといわれたことがある。
自殺したい。どう答えたか。
わたしも自殺したいと思っています。
つまり自殺をとめなかった。自殺したいですよねと同調した。
もしみなさまも似たようなケースに遭遇されたらこれがおすすめ。
人間にできるのは、これくらいしかないというあきらめである。
「人間失格」(太宰治/新潮文庫) *再読

→高校生のときに読み、つぎは大学生のとき。
なんだかよくわかんないけど、シンコクな小説だなというのが当時の感想。
読むのは三度目。人間失格者が「人間失格」を読むことになったわけである。
この小説を読んで衝撃を受けるのは、まともな生活者のあかしではないか。
恥ずかしながらこう生活破綻者となってから「人間失格」を読むと――。
ただもう笑えるのである。こんな大笑いをしたのは久しぶりである。

「人間失格」を読んだ感想としてよくあるのがあれ。
どうして太宰はじぶんのことをこんなにわかっているのであろうという驚愕。
いっさいないね。
この感想と裏表の関係なのが、じぶんだけが太宰をわかっているという傲慢。
これもない。まったくない。わたしには太宰がさっぱりわからぬ。そこがおもしろい。

大笑いした箇所を引用する。一緒に笑いませんか。

「自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、
白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、
自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました」(P43)


さらっとものすごいことを書いていないか。
この下手からでる差別意識がたまらない。なんてシュートなことを書くんだ。
おつぎはカフエ女給との心中後。女は命を落としている。

「けれども自分は、そんな事(実家の事)より、
死んだツネ子が恋いしく、めそめそ泣いてばかりいました。
本当に、いままでのひとの中で、あの貧乏くさいツネ子だけを、
すきだったのですから。
下宿の娘から、短歌を五十も書きつらねた長い手紙が来ました。
『生きくれよ』というへんな言葉ではじまる短歌ばかり、五十でした」(P64)


じぶんのために死んだ女をあくまでも「貧乏くさい」と形容する!
「生きてくれよ」の短歌も笑える。人間をバカにするのもここまでくると神業。
もうこのくらいでやめたいが、最後にもうひとつ。
実家が金持ちで幼少時から苦労をしたことがない主人公が悪友の家へ行く。
貧しい家である。せめてものもてなしとして汁粉がだされる。それを口にして――。

「……(悪友は)まんざら芝居でも無いみたいに、
ひどく喜び、おいしそうに食べるのです。
自分もそれを啜(すす)りましたが、お湯のにおいがして、
そうして、お餅をたべたら、それはお餅でなく、
自分にはわからないものでした」(P82)


いやなやつだよな。ふつうひとは差別をするとき、上手から見下す。
だが、太宰は下手から差別するのが特徴である。慇懃無礼というのか。
それが実にかたちになっている。うまいのである。笑えるのである。

太宰は尊大である。じぶん以外を軽蔑しきっている。
ならふつうに上手から差別すればいいと思うであろう。
いや、太宰はもっと尊大なのである。わざわざ下手へ降りていき、そこから蔑視する。
そのほうが被差別者をよけい下位に置くことができるではないか。
「人間失格」? なにをいうか。これとて、おなじ仕組みである。
太宰が蔑んでいるのは、決しておのれではない。
その他大勢の人間をこの流行作家(当時)は蔑視しているのである。
見下しているわけだ。
この作家の態度を非難しているわけではない。やるなあと感嘆する。尊敬する。

たとえば、あの世の酒場――。
扉を開くとカウンターに太宰がいる。
太宰のまえにはファンとおぼしき青年の行列が。
自殺したのであろう。この若者たちは死後も思いつめた顔をしている。
順番である。太宰と対面した若者がいうことはおなじである。
あなただけです、ぼく(あたし)をわかってくれるのは!
ぼく(あたし)の人生も実は……(延々と続く)。
ふと太宰を見る。にやにや笑っている。
ファンの青年とはだいぶ温度の違いがあるようである。
そもそも太宰はきちんとファンの話を聞いていない。
すぐにわかる。この作家は他人のことなど興味がないのだ!
少し離れたところで酒をのみながら太宰とファンの交流を見守る。
いっこうに終わる気配がない。太宰は終始にやにやするばかり。
席を立つ。太宰の肩をたたく。
振り向いた太宰をわたしはビール瓶で殴りつけるかもしれない。
「いいかげんにしろ!」
これは愛である。わたしも太宰治を愛しているのである。
「斜陽」(太宰治/新潮文庫) *再読

→こんなことはめったにない。
どうにもこうにも感想が書けなくて、ネット上をうろうろしていた。
戦闘、開始。引用、開始。

「人間は恋と革命のために生れて来たのだ」(P116)

読書の際はつねに横にコーヒーがあるのだが、もうダメなわけである。
ふきだしてしまう。いくら小説とはいえ、よくこんなことを書けるよなと太宰の顔写真を見る。
この顔なら許されるのか。おもしろいよな太宰治。

わたしにとって読書は泥棒である。
どうにかして文章で食べていきたいと不遜なことを考えている。
そのとき太宰のやりかたというのが、たいへん勉強になる。
「私」のあつかいかたがなんと巧みなことか。いまふうにいえば自己演出。
さらっと、とんでもない扇動をする。そのくせ裏では舌をだしている。
読み手をおかしくさせようとする。ほら、ほら、やっちゃえよと背中を押す。
太宰治の文体である。引用、継続。

「死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しくて仕様が無いんだよ。
わびしさだの、淋しさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ。
陰気くさい、嘆きの溜息(ためいき)が四方の壁から聞えている時、
自分たちだけの幸福なんてある筈(はず)は無いじゃないか。
自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無いとわかった時、
ひとは、どんな気持になるものかね。
努力。そんなものは、ただ、飢餓の野獣の餌食(えじき)になるだけだ。
みじめな人が多すぎるよ。キザかね」(P152)


キザだよ!

しらふでこんなことを書く人間を許していいのか。
負けた。「斜陽」をまえにして、もうなにも書けぬ。戦闘、敗退。

(おまけ)
この「斜陽」は、当時交際のあった、ある女性の日記をもとにして書かれている。
小説何度もでつかわれている「戦闘、開始」は、その日記からのパクリ。
それを知り、安心する。
というのも、このフレーズに感嘆することしきりだったから。
これは女の文体である。男からは「戦闘、開始」がでてこないはずである。
太宰とてそれは無理であったということを知り、なぜか安堵する。

太宰の小説を読むよろこびのひとつは、言葉を採集する快楽。
こんな言葉があったのかとため息がでる。
今回、勉強したのは、繰り返しのちから。
わたしなどは、文章作法にしたがい、繰り返しはなるべく避ける。
ある言葉をつぎにだすときにはいいかえる。
たとえば「~~と思う。~~と思う。~~と思う」みたいのは敬遠する。
「~~と思う。~~ではないか。~~だろう」と書き直してしまう。
だが、太宰は、意外やいわゆる悪文をけっこう書いているのである。
それがいざ読んでみると、むしろ感興があるのだから。
反復の意味するところは、文体のリズムの問題である。
太宰の文体には真似のできないものがある。
息の長い文章をさんざん続けてから、さっと体言止めを入れる。あるいは名詞一語を挿入。
うまいよな。これまた戦闘、敗北である。
某月某日――。

早稲田ブックオフ。
バイトのおにいちゃん、おねえちゃんが品だしの真っ最中。
うれしい。というのも、105円コーナーだから。
ぐふふ。どんな珍品と105円でご対面できるか。
しだいに、むかむか。このバイトのおふたりさん、私語がすんごい。
聞こうとしなくても耳に入る。
男のほうがブックオフでは先輩みたい。年齢はどちらとも二十歳くらいかな。
「あの新設のコーナーを見てくれましたか」と女店員。
「見ましたよ。うまくできていたじゃないですか」とは男先輩。
「わあ、うれしいです。とってもうれしい。
××さんが見てくれると思ってがんばってやったんです」
「見るに決まっているじゃないですか」
「だから……だから、××さんが、あたし好きなんです」
(あひゃ、わたしの目の前で愛の告白かよ! 
男は即答できずしばらく気まずい間。ほんとうにいまの告白がうれしかったという感じで)
「ありがとう。そういってもらえるとうれしいな。うれしいです」
男女どちらともきわだった美形というわけではない。そこらへんにいるふつうの若者。
とてもいいと思った。異性を好きだと思う。いつか伝えたいと欲望する。
彼女はタイミングをはかっていたのかもしれない。
ふたりきりになるチャンスを。わたしの姿は彼女には見えなかった。
「好きです」という。男だって、それほどハンサムというわけではない。
あれは初めてされた告白ゆえの戸惑いだったのか。一瞬、沈黙し、笑顔で返答。
異性へ告白。わたしも経験したことだったか。遠いむかしである。忘れてしまった。

ブックオフまえの八百屋へ。
キュウリを求めてである。あれはいつだったか。
キュウリを味噌&マヨで食べるのにはまってから、毎日キュウリを食べている。
暑い日である。あたまの中はキュウリだけである。恋愛も幸福もいらない。
ただ冷えたビール(もどきでも可)とキュウリがあれば――。
今日もこの八百屋は安い。どの野菜も信じられないくらい安価なのである。
キュウリはどこかな。店頭に発見。158円。千葉産。
どうして安いのかようやくわかる。みなふぞろいなのである。
とくに多いのは曲がったキュウリ。このときはじめて気づく。
そういえばどうしてスーパーで見かけるキュウリは一様にまっすぐなのか。
下流社会人のわたしはたかが158円の袋を見比べる。
曲がっているキュウリと、異様なほどでかいキュウリの二種類があるようだ。
曲がったキュウリは9本。まっすぐだが異常に長く太いキュウリは7本。どちらも158円。
大問題である。これは哲学。
性格の曲がったわたしは、おなじようなキュウリを選ぶべきか、それとも――。
キュウリの袋を掘り返す。見たところ、曲がったキュウリのほうが多いようである。
決断する。規格外に多きなキュウリが7本入った袋をレジへ。
さしだすは160円。おばさんの手にのせようと思ったら、その気配がないので台へ。
と思ったらこのおばさん、代金を受け取るべく手を開く。
おっとっと。気まずいずれである。どちらからともなく笑いだしてしまう。
「ありがとうございました」
いえ、こちらこそ、ありがとうです。こんな安いキュウリは、うちの近所ではとても……。
みなさまはどちらを買いますか。
多少値は張るがまっすぐでおなじ形のキュウリと、ふぞろいで安価なキュウリがあったら。
味はまだわからない。というのも、これは今日のことだからである。
いま冷蔵庫で冷やしている。この記事を書き終わるころには、おそらくいいあんばい。
味の報告はしばし待たれよ。

文英堂書店。
わたしが日本で、いいや世界で、いちばん好きな古書店はここである。
早稲田と高田馬場の中間にある。どれだけこの古書店のお世話になったことか。
いかにもな古本屋である。雑然と古本が積まれている。整理されているとはいいがたい。
そう、まさにあれは、本の山!
古書の価格のほとんどは、どれも相場を無視した安価である。
演劇コーナーがこれほど充実していて、しかもこの安さ!
足を向けて眠れないといったら、大げさか。
もっともこの文英堂書店は演劇のみならず文学、哲学、法律、
あらゆる文系ジャンルの本が山をなしている。そして、うれしいことにとびきり安い。
いうまでもなく、ネット販売などやっていない。行くしかないのである。
入店。いつものようにまず向かうは演劇コーナー。
ところが先客がいる。おっさん。演劇棚を見ているわけではない。
その対面の棚にへばりついている。仕方なく、他の棚を見回る。収穫なし。
もういないだろうと思って、演劇コーナーへ行く。まだいるのである。
やむなくそうとう不自然な体勢で古書を眺める(つまり通路が狭いのである)。
しばらくして、ようやくこの御仁も本を買う決心がついたようでほっとする。
見ると6、7冊も買うようである。「これお願いします」
どこかしら声がうわずっている。あれだけ買うといくらなんだろう。耳大開放。
おばさんいわく「4000円です」。
こころなしか、この声も少し震えているようである。
思う。あれだけ買っても4000円なのか。文英堂書店はかくべつ安い。
この古本屋であれだけの量を買うとは。
興奮するのも無理はない。
わたしが演劇コーナーを見ているのに、
一歩もからだを動かそうとしなかったのを許してやろう。
ほしい本がたくさんあまりに安価で入手できるのに呆然としていたのだろう。
文英堂のおばさんもよかった。1万円札をだされた。お釣りの5千円札がなかった。
しきりに恐縮している。買い手のおじさんも、いえいえ、と申し訳なさそう。
いいものを見たなと思う。
この古書店で客ひとりに4000円の売上はめずらしいに違いない。
同様、この客としても、掘出物の数々に驚いたことだろう。幸せな瞬間を目撃した。
わたしもつい買ってしまう。もとよりボランティアではない。掘出物。

「安部公房映画シナリオ撰」 初版 函 帯つき

いまネット検索したら帯つきだと4000円。帯なしでも2500円の値が。
これがわずか600円である。定価は1800円。
せめて1000円の値札をつけても、買うひとは買うだろうにこの価格――。
4000円の上客の直後だったせいか、おばさんはわたしにもやたら笑顔をふりまく。
こちらもうれしくないわけがない。

高田馬場ブックオフへ。
見るのは、105円コーナーのみ。ブログ関連本が数冊、落ちている。
ブログの飛躍はこの1、2年。なんで105円になっているのか。
ページをめくったら、案の定、線引き本。
こんな本でさえ線を引かないと読解できないのはよほどのピー♪かと苦笑。
軽く立ち読み。ブログでやっていけないのは長文とのこと。
だれも読まないのだからやめなさい。そう書いてある。
ごめんなさい。今日もやってしまった……。
いいのである。暑かった。ビール(もどき)がある。いま横にはあのキュウリが。
ひと口、ほうりこむ。味噌&マヨをつけて。うんまい。ビール(もどき)をごくり。
今日も幸せである。なにものかに感謝をしたくて、この長文を書いた。ありがとう。
「右大臣実朝」(太宰治/新潮文庫)

→作家が自己を超越せんと書いた小説である。いいかえる。
商売人の太宰治が芸術家になろうという壮大な野心をもって創作した物語――。
諸家の評価は知らぬ。わたしは、失敗作と見る。

時間をかけて作りこんでいるのはわかる。裏目にでているのではないか。
物語の構造は「聖-俗」の対立。小説は、図式的といわざるをえない。
聖の位置にいるのは鎌倉三代将軍・源実朝。
高貴な生まれにして、和歌の才能も知られるところである。
太宰治が生涯でかならず書いてみたいと思っていたのが、この実朝だという。
さて他方、俗とラベルをはられたのは北条泰時、鴨長明、公暁――。
俗な人間をあげたらきりがない。なにしろ実朝以外はみな俗なのだから。
語り手の「私」のみ聖俗の中間地点にいる。聖も俗もわかるというわけである。

なにゆえ失敗作か。
題名にもしている右大臣実朝が人間としてうまく描かれていないからである。
とてもおなじ人間には思えない。好感を持てない。
太宰は笑っていうだろう。
当たり前だ。あれは雅(みやび)のひと。きみたち庶民にはわかりはせぬ。
きみたちにわかるもんか。そのように書いたのだ。
あれは僕の理想の境地。余人、立ち入るなとたて看板をつけたいくらいなのだよ。

さあ、どうかな。この小説で唯一、光っている人間がいる。
俗人の代表というありがたくない衣装を着せられた鴨長明である。
このきわめて人工的な機械めいた小説の中で、
ただひとり人間を感じさせるのがこの「方丈記」作者なのだ。
なんともいやな人間として描かれている。
口では悟ったようなことをいいながら、その実、世俗的な欲望がぷんぷん。
この鴨長明は太宰にしか書けないと苦笑いしたくなる。
右大臣実朝は三島由紀夫にも書けたであろう。
だが、あの鴨長明は決して三島には書けない。どういうことか。
この小説における鴨長明は、太宰治の自画像にほかならぬ。
口では優雅を存知したようなそぶりをよそおいながら(「右大臣実朝」を書きながら)、
人間のありようとしては貴族から程遠い(鴨長明しかうまく描けない)。
「右大臣実朝」は敗北の記録である。かなしい小説だ。人間は生まれを超えられぬ。

ふと川端康成のことばを思いだす。どこで読んだのだったか。
かの文豪はあらゆる小説に目を通していたということである。
あるとき、こんなことをもらす。
きわだった文学的野心のあるわけでもない新聞小説を絶賛していわく――。
この小説は、作者が肩の力を抜いて書いているのがいいですね。
それがわかって、読んでいるのがとても楽しいです。
思いだした。山口瞳のエッセイで読んだのだったか。
山口瞳は編集者時代に川端康成と親交があったはずである。

太宰治の「右大臣実朝」から受け取るしんどさをこの例で説明はできないか。
作者があまりにもちからを入れすぎているのである。
全精力をかたむけ太宰はおのれを超越しようとしているのである。
太宰は芸術家たらんとした。結果、小説から自然な感傷が姿を消す。
なるほど太宰はこの小説で一面、芸術家になることに成功しているともいえよう。
この小説には商売人らしからぬ読者を無視した部分が認められる。
太宰には似合わぬ重たさがある。問題はこの重さを、おのおのがどう受け取るかだ。
「惜別」(太宰治/新潮文庫)

→太宰はいいよな。理由をいったら太宰信者には怒られるかもしれぬが。
太宰は芸術家ではない。商売人である。だから、よろしい。
芸術家になりたいという燃える欲望を持ちながらも、
どうしようもなく商人気質から抜けだせないのが太宰治という男である。
おれの小説は芸術でい! と啖呵(たんか)をきることができない。
たとえ威勢のいいことをいうときでも、つねに計算を怠らない。
読者の顔色をたえずうかがっている。そんなじぶんがいやになる。
読者を突き放そうともする。しかしどう書いたら読者にその意図が伝わるかを考えてしまう。
相変わらず読者べったりの太宰である。

太宰文学を読みながら安堵した。再確認したといおうか。

小説はリクツじゃない。

太宰文学の根っこにあるのは、おずおずとした少年の顔である。
この少年は、じぶんをもてあましている。おとなから好かれたい。
だけど、人一倍臆病でもある。なにをしたら周囲の関心を引けるのかわからない。
少年は一計を案じる。目をしょぼつかせながら、政談をしているおとなの肩をたたく。

「ねえねえ、聞いてよ……」

少年はつづける。「あのね、このまえね、こんなことがあったんだよ」
太宰治というひとは、実際はそうとうな話し下手だったのではなかろうか。
あの少年のようには口でうまく話せないから、太宰は書いている。ねえねえ、と。
太宰文学の魅力は、おはなしのおもしろさ。
おもしろい筋で読者を引き込み、ときおり読み手をほろっといい気分にさせる。
太宰自身がこれで満足していたのかはわからない。
だが、いち読者のわたしにとっての、この作家の魅力は感傷である。

この「惜別」も、決してむずかしい小説ではない。
主な登場人物は「私」、その学友の「周さん(のちの魯迅)」「老医師」。
舞台は医学専門学校。医学生たちの青春物語である。
凡庸な「私」はふとした偶然から「周さん」と仲良くなる。かれは中国からの留学生。
時代は日露戦争直前。緊張した時勢でもある。「周さん」はスパイの疑いをかけられる。
「私」は「周さん」の高邁な志を知っている。
この留学生は中国の杉田玄白(近代日本医学の創始者)たらんとしているのである。
「私」は解剖学の先生である「老医師」のもとへ行き、友人の留学生について話す。

「『……(スパイ疑惑は)あんまりです。
周さんは、本当に青年らしい高い理想を持っているんです。
青年は、理想を持っていなければ、いけないと思います。
そうして、だから、青年は、理想を、理想というものだけを、――』
言いかけて、立ったまま泣いてしまった」(P296)


いまも書き写しながら、いい情景だよなと目を細めている。
うん、いい。太宰はこれがいいのだ。これを書けるのが太宰のちからだ。
芸術家は恥ずかしがって、とてもこの感傷を書けないはずである。
この小説では、登場人物がよく泣くこと。めめしいというなかれ。この甘さを陶酔と知れ。

医学生たちは困難な時局のもと、それぞれの成長を見せる。そして、別れ――。
芸術家はさめた目で放言するだろう。出会って、別れるだけの小説じゃないか。
子どもだましだ。ちゃちな感傷だ。
そうなのかもしれない。いや、そのとおりなのだろう。だが、しかし――。
やっぱり別離の光景が美しいのである。ぽっとこころに灯(あかり)がともる。
悪くないなと思う。生きているのも、そう悪いもんでもないのかもしれない。
ふと正面を向くと少年・太宰治がいる。頭をかいている。このおはなしはどうでしたか?
「密会」(安部公房/新潮文庫)

→安易な人間の分類を許してほしい。人間はふたつに分かれる。
芸術家タイプと商売人タイプである。
いうまでもなく、だれもがきれいにどちらか一方におさまるというわけではない。
むしろ、どちらの要素が強いかという問題になるのかもしれない。
こういうケースもあろう。どこから見ても商売人なのに根は芸術家。
あるいは、本人も周囲も芸術家だと思っている人間の実相が商売人というケース。

安部公房の小説「密会」を読んで、おのが商人気質に嫌気がさした。
わたしはこの小説がわからない。ついていけないといったほうがいいのかもしれぬ。
最初に自らの姿勢をこのように明確にしておいてから、軽い読後感を述べることにする。
あいそ笑いを浮かべ、もみ手をしながらの商品説明である。

安部公房が「密会」で描こうとしたのは、まさしくかれが生きる現代である。
だが、戦後30年も経過した現代(当時)のどこに描くものがあるか。
文学に値する対象物がどこにあるというのか。
凡俗な作家のごとく凶悪犯罪といった俗事に関心を寄せるのは、
この作家の矜持(きょうじ)が許さない。
なら、どうするか。安部公房は新たなる現実を仮構する。

わたしはかつて安部公房の戯曲のファンであった。ほぼ全戯曲を読んだのではないか。
ところが小説のほうは縁がなかった。「砂の女」「箱男」くらいである。
かれの戯曲はブレヒトの演劇観に強い影響を受けている。
ブレヒトのやりかたとは――。
観客に決して舞台上の人物へ感情移入をさせない。
ある違和感を観客に与えようとする。分析するちからである。
舞台上では、劇場の外とは異なる力学でひとが右往左往する。
劇場を一歩外にでた観客は、現実をいままでとは違った形式で見るようになる。
これはブレヒトから影響を受けた安部公房の芝居でも同様である。

小説「密会」もおなじ作用を読者にもたらす。
ある晩、「ぼく」の妻は、呼んでもいない救急車で運び去られる。
かれは妻を捜しに巨大病院の奥へとわけいっていく。
物語構造はきわめてありがちなものなのである。
宝探し。犯人探し。ミステリー小説とおなじである。
ところがこの主人公が病院で出会う人間たちがみな異様なのである。
現実にはいるはずのない人間ばかり。みながみな異常な性的嗜好の持ち主。
こざかしい学者はフロイト流に「病院=無意識」とふわけすることで納得するのであろう。
フロイトにいわせれば、人間はセックスがすべて。
病院内のあらゆる人物が、度を越えて性に執着するのは、
かれらがフロイト的無意識世界の住人だからである。
安っぽい学者はこう結論づけると、この小説をある位置へ置き、ひと息つく。
この学者はある重要な問題を無視している。
安部公房の「密会」が、好きか嫌いかという問題をである。

わたしは学者ではない。好き嫌いこそ最大の関心事ということ。
答える。好きではない。ついていけない。
安部公房は異界を描写するために、ことさら感傷をまじえぬ描写をする。
これがわかりにくい。読みにくい。商人たるわたしの感想である。お許しを。
それから、たとえばこんなシーンがある。
病室。13歳の難病の少女がベットでオナニーをしている。
そのまえにはこの病院の院長をしている中年男が。かれはインポテンツである。
なのにこの院長も少女とおなじようにオナニーを試みる。下半身裸。
少女と中年男のオナニー見せあいっこ!
それを天井裏からのぞき見ている「ぼく」がいる。
「ぼく」はあわてて外へでる。受付へ。看護婦がいる。安心する。
ところが、この看護婦もおかしい。さっきからしゃがんだままである。
「ぼく」は見る。この看護婦が放尿していることを。

わたしは芸術家ではない。商売人である。
このようなシーンを好色的な関心から読むのはいたしかたないではないか。
問題はそのときなのである。ちっとも来るものがないのだ。
ええい、もっと身もふたもない言いかたをする。
いささかもエロいとは思えないということである。まったく好色を刺激されない。
気持悪いと思ってしまう。
芸術的感性をお持ちのかたはそうではないのだろう。
このような猟奇的なシーンに深い味わいを発見することと思う。
学者も分析欲を強く刺激されるのかもしれない。
ただ、わたしは――。どういえばうまい言い訳になるのか。
「ノーマルなんです」などといったら、安部文学の愛読者を愚弄したことになるのか(苦笑)。
うれしい。最近、続けざまにいいことがあった。
実によく道を聞かれるのである。
たくさんひとがいる中からわたしを選んでくれてありがとう。
逆に感謝したいくらいである。
反対の立場に立ってみる。見知らぬひとに道をたずねる。
かなりひとを選ぶのではないだろうか。
少なくともわたしの場合、そうとう吟味する。
呼吸というものもある。うまく回答してくれそうなひとを選択する。

このところしきりに道を聞かれる。大丈夫だなと安心する。
まだまだ大丈夫。へんなオーラを発するようにはなっていない。
人間がなんとかこう生きていけるのは、じぶんの顔を見ることができないからである。
バカをいうな、鏡があるだろうとみなさまのお叱りを受けるかもしれない。
どうだろう。鏡のまえに立つときはだれでも心構えをしている。
ほんとうのじぶんがどんな姿をしているかは、やはり本人にはわからないのではないか。

他人は鏡である。
鏡にうつったわたしは、道をたずねたら気軽に教えてくれそうなひと。
まだおかしくはなっていないということを確認することができた。
というのも、やばいと思うこともあるのである。
街中でふっとあるひとへのメールで書いてしまった文章を思いだす。
後悔にかられる。自己嫌悪である。
「あ、まずい」と小さく声にだすこともある。まったく恥ずかしい。
もし聞いていたひとがいたら、なにごとかと思うだろう。
紙一重ではないか。ぶつぶつ独白しながら歩いているキチガイと!
しかしまだ大丈夫である。わたしは道を聞かれるような人間である。

教えかたは決してよいとはいえぬ。
今後の課題として向上をめざしたい。どうもアドリブが苦手である。
さしだされるポケットティッシュをうまく回収できない人間なのである。
「~~駅はどこですか」「~~大学はどちらでしょうか」
混乱したわたしは、幼児のような反応をしめす。
「あっちです」
右手ひとさしゆびを目的地へつきさすだけなのだから。
よりよき回答者にならなければならない。
ここをまっすぐ行ってください。何分くらいです。
どこそこで左へ曲がってください。
英語ならぬ母国語なのだから、もっとうまい道の教えかたをしてもいいと、
われながら恥ずかしくなる。これからぜひとも上達したい。

一度やってみたいことがある。一風変わった道の聞きかたをしたいのである。
「わたしはどこへ行けばいいのでしょうか?」
見知らぬ他人にこの質問をしてみたいのである。
この問いをされて、即座に答えられる人間がいまの日本にどれだけいるか。
かの自由律俳人・山頭火は、この質問をされたことがあるという。
どこへ行けばいいでしょう。道はどこにありますか。見知らぬひとからである。
「目の前の道をお行きなさい。まっすぐ進みなさい」
山頭火はこう回答したということである。
恥ずかしい告白をする。いままでウソをついていたということ。
食に関心のないふりをしていた。
われながら、よくもビールと雑酒のちがいがわからないような顔を。
そのほうがかっこいいと思ったからである。いまはどいつもこいつもグルメ気取り。
なにがうまい、かにがまずい。おまえらの人生はそんなもんか!
挑発したかった。だから、演技をした。

ごめんなさい。わたしの人生、こんなもの。
あきれるほど食い意地がはっている。食べることに異常な執着がある。
1日、食べることばかり考えているといったら、いささか大げさか。
テレビがついているとする。5割の確率でグルメ番組である。
おいしそうなものを見るのが好きで好きで。食べ物のうんちくにも興味しんしん。
酒食エッセイほど好きなものはない。
かつて池波正太郎の食エッセイを参考に某洋食屋を訪問したこともある(まずかった)。

恥ずかしいわたしが食べている。
めったにないがひとり居酒屋へ入ったとする。
なにがたのしいってメニューである。
最初のビールを注文してからひたすらメニューを眺めつづける。
このときがわたしにとって至上のひと時なのである。
メニューを見る。あれこれ想像する。こんな魅惑的な時間がまたとあろうか。
メニュー品目が多い場合は20分でも30分でもメニューとにらめっこできる。
いろいろ妄想するわけである。こりゃあ、恥ずかしいぜ、くうう!

絶対に注文しないものがある。
枝豆、そら豆、トマト、冷奴――。
そんなものはうちでいくらだって食べられる。
そこでしか出会えないものをほおばりたい。
焼きうどん、焼きそば、せいろそば――。
やめてくれと泣きつきたくなる。原価を知っているのか。
いくらなんでも、そこまでいいお客さんになることはないだろう。
よって、わたしのメニュー決定の方針はかくのごとし。
うちでは食べられないものを注文する。すなわち、じぶんでは作れないもの。
手の込んだものを食べたいじゃないか。料理人の苦労を味わいたいのだ。
さらに原価率の高いものを嗅(か)ぎあてる。
このへん、辟易するかたもいるのでは? なんてあさましい人間だ!
以前、のんだひとにこの話をしたら思いっきり引かれたからな、どうだ(自慢げ)!

ちなみにお酒の場合はビールがいちばん原価率が高いとみてよい。
ビール半額セールがあったら、おおよそ出血覚悟ということである。
もっというならビールは生より瓶のほうが元値が高額。
ならビールと正反対の、お店のがわがもっとも歓迎するのはなにか。サワーである。
サワーはどれだけ安価でだしても元が取れると聞いたことがある。
それでもグレープフルーツサワーなど、客に果物現物を提供する場合は例外。
あきれ顔のひともいることだろう。酒など好きなものをのめばいいではないか。
たしかにそのとおりなのである。おかしいのはわたし。自覚している。
おそらくこれはグルメ自慢ではない。吝嗇(りんしょく)を誇っているだけである。
決して読み手の好感を得ることはないだろう。
それならどうしてこんなものを書くのか。小心者だからである。
これからこの「本の山」で知りあったひとと酒をのむ機会がもしかしたらあるかもしれない。
もちろん面と向かってこんな恥ずかしい告白ができるほど肝がすわった人間ではない。
ぼそぼそとこんなところで独白するゆえんである。

これもほとんどゼロに近いが、たとえばひととのみにいったとする。
たいがい早々とメニュー決定権を放棄する。あたかも関心がないといったていで。
わたしなんでも食べられます。苦手なものありません。
というのも、わたしがメニューを決めるとなったら10分近く考え込む。
原価計算や料理困難度数測定を相手そっちのけでおっぱじめてしまうわけだ。
これはたいへん失礼にあたる。気が小さいわたしにはとてもできない。

オーダーしたつまみがやってくる。もっとも胸ときめく瞬間である。
熱いものは熱いうちに食べる。それがいちばんおいしい。
ひとが料理したものをできたての状態でいただくのは最高の贅沢なのだ。
相手の顔を見る。ほら、熱いうちに食べましょうよ。
哀願のまなざしになっているやもしれぬ。
実際に食べてもみる。あつあつはうまい。おいしいと声にする。
だが、たいていの人間はわたしのように食い意地がはっていない。
まさかわたしばかりが食べるわけにもいかない。
かりに相手が話に夢中だとする。わたしはもう食べられない。
ひとが話している最中に箸を動かしたりしたら失礼にあたるのではないか。
こう考えてしまう。それでも、食物への未練は捨てがたい。
ああ、冷めていってしまう……。

食べ物を残すのがとにかく嫌いである。ほんとうに嫌なのである。
ところが酒席では、つまみをがつがつ食らうのはみっともないこととされている。
最後のひと切れをどちらが食べるのかという心理的な葛藤のせいかもしれない。
結果、注文したものはどれも少しずつ残っているという状態になりやすい。
それをわたしは食べてしまう。だって、残したらもったいないじゃん。
食べ物を捨てたりしたらばちがあたると、いまでも本気で思っている。
やめて、見ないでと思う。意地汚い人間と思われているのだろうなと羞恥する。
なら残せばいいではないか。いや、どうしたって無理。
もう相手からどう思われてもよろしい。わたしは食べる。

幸福がわからない? 食べなさいといいたい。
食べる。おいしいでしょう? 幸せでしょう?
むずかしいことなんて、なーんにもないのだ。
かくして今日も意地汚いわたしが食べている。
本の聖地、神保町の中心で今日も叫ぶ。
本は読むものじゃーない。買うものであーる。
Yonda?です。新潮社のまわし者ではありません。だって、古本だーい好き!
新刊はたまに買えばいいのではないでしょうか。

近所の神保町。週に1回は三省堂1Fをぐるりとまわるようにしている。
平積みにされている新刊本を中心にチェック。
本人はなにを勘違いしているのか市場調査のつもりなのだからかわいい(かわいい?)。
ふーむ、ほほう、これは売れそうだわい。ぽよっ、こんな新刊が出ているのか。
気になったのはぱらぱら立ち読み。買うことは、まあない。
いいのです。わたしと三省堂神田本店はかたいきずなで結ばれているのだから。
思えば、中学生のころからここに本を買いに来ている。浮気はほとんどしなかった。
数年前、古本に目覚めるまでずっとである。
まえにも書いたが、三省堂の就職試験まで受けたわたしである。
もはや家族ほどに強い関係。なにをしても許されると思っている(誤解している)。
マーケティングリサーチ終了。1冊も購入せず。これでいいのである。

古本街をぶらぶら。最近、古書のヒキが弱くなった。
こうなったらいくらあせろうがどうにもならない。運気の回復を気長に待つのみ。
田村書店ワゴン、小宮山書店ガレージセール、ともに収穫ゼロ。
九段下方面の古書店まで足をのばす。ワゴン中心の行脚(あんぎゃ)。
店名は失念。雑誌のバックナンバーが充実している店。
ここのワゴンにはたまに掘出物が。文庫本105円。単行本210円。

「岩波テキストブックス 俳句実践講義」(復本一郎/岩波書店) 210円

税込み定価2625円が210円だもん。それは買ってしまう。
岩波テキストブックスは以前にお世話になったことがある。
そのときの好印象も購買欲をプッシュ。
なによりいいのはこの古書店のおばさんの笑顔。
うん、もしかしたらあの笑顔見たさにこの本を買ったのかもしれない。
今日もレジはあのおばさん。わずか210円の買物なのに満面の笑み。ううう、なんか幸福。
いい本を安く買い、しかもスマイル0円。いつかこの店で高い買物をしたいと思う。
さて、買ったのは「俳句実践講義」。
どんなジャンルでも理解しようと思ったら、みずから作ってみるのがいちばん。
たとえば料理。日常的に料理をしていると(えっへん!)外食をする際、
見る目が厳しくなる。というと、なんかえらそうか。いいなおす。
料理をしないひとに比べて、おいしいものにより感動し、
まずいものには心底から激怒するようになる。
俳句も同様。正直、俳句というのがいまいちわからない。なら、作ってみようか。
そんな心持ちである。

三省堂まえの坂をのぼる。御茶ノ水。中央線で荻窪へ。月に一度の恒例行事。
中央線の快速は早い早い。あっと気づけば荻窪ですよお客さん!
ささま書店へ。ショックである。105円ワゴンのスペースが縮小されているではないか。
なんで、なんで、どうして? ささま書店の105円棚はいまや名物。
ここで早稲田の某古書店の主人が仕入れしているのを目撃したこともある。
諸行無常なり。おっと、ブコウスキーの著作が数冊105円になっている。
定価を見るとどれも2600円。この作家の「町で一番の美女」は大学で読まされた。
小説家養成コースの授業だった。
105円ならまとめ買いするか? だが、ここでしないのがおとな。
おそらくわたしが買っても読まないだろう。世のブコウスキーファンに申し訳ない。
古本屋の転売目的に発見されるなよ。かならず愛読者に発見されるんだぞ。
本たちにそう言い聞かせる。すなわち、買わない。見逃す。

本は天下のまわりものでい!

ささま書店へ来て1冊も買わないのはめずらしい。おつぎはブックオフ荻窪店。
もはやブックオフでは105円コーナーしか見ないわたしは、どこからどう見ても下流社会人。

「プロ論。」(B-ing編集部/徳間書店)

ああ、早く下流社会から抜け出したい。ごぞんじ、ちょっとまえのベストセラー。
内容は、成功者の自慢。私はこうして成功した!
やっぱ成功者は、がんばったから成功したのだろうな。
とすると、わたしが下流社会人なのは、がんばっていないから。
成功者からがんばりかたを学ばなければ(笑)。
わたしもこういう本にでたいな将来。わかったようなことをぜひともいいたい。
失敗者を罵倒したい。おまえらはがんばっていないからだ。わたしはがんばった。
あはは、もちろん、ぜーんぶウソ。
五体不満足の乙武くんがこの本に登場する。じつは乙武くんとは大学の同期。
卒業式でかれが表彰されていたのを思いだす。

「ネット心中」(渋井哲也/生活人新書)
「ホームドラマよどこへ行く」(西野知成/学文社)
「超巨大市場インド」(島田卓/ダイヤモンド社)
「東海道居酒屋膝栗毛」(太田和彦・村松誠/小学館)


ぜーんぶ105円! 太田和彦さんの居酒屋本はかなりうれしかった。
もちろんまだ文庫にはなっていない。さあ帰るか。ビール(もどき)が待っている。
電車で今日の収穫に思いをめぐらす。古本のヒキはまだまだ復調とはいいがたい。
でもいいではないか。なぜなら今日も酒がのめるのだから。
アルコール中毒者ならではの思考法である。それでは今日もカンパーイ♪
「アエラムック 仏教がわかる。」(朝日新聞社)

→アエラムック――。
例によって多数の作家、学者がさまざまな論点から仏教を論じている。
語るひとの数だけ仏教があるのかもしれない。
仏教がわかるとは、どういうことか。愚見を述べたい。わたしの仏教である。
仏教のエッセンスは、この動詞に限るのではないか。

あきらめる。

難解な経典を読解したからといって仏教がわかったことにはならない。
仏教は学ぶものではない。それではただの学問になってしまう。
仏教は宗教。すなわち、仏教をいかに生きるかが問題である。
研究書を何冊も書いた仏教学者。
かれがほんとうに仏教をわかっているかを試すのは容易である。
物騒な話だが、この学者の子どもを殺してみればいい。
仏教学者は、かような現実を受け入れることができるか。あきらめられるか。
いくら経典を読み込んだところで解答など書かれているものか。
問題は知識ではない。生きかたである。あきらめることができるか。要はここである。
とすると、仏教はごく個人的なものになる。
少なくとも、大学やカルチャースクールで教わるものではない。
個人の問題である。各人が問われている。あなたはあきらめることができますか?
人生のあらゆる問題を解消する魔法の動詞である。あきらめる。
不治の病にかかったところで、あきらめるがよろしい。
事故で身体障害者になろうが、あきらめたら生きていくことができる。
嫁姑の問題とて、どちらか一方があきらめたらいいだけの話。
愛するわが子が死のうと、あきらめてしまえばいいのである。
あきらめる。仏教者の生きかたである。
「生誕100年 漂白の俳人 種田山頭火展」(1982年 毎日新聞社)絶版

→山頭火には、好んで苦しむような性癖がある。

「風の中おのれを責めつつ歩く」

この句にも、そんな山頭火がよくあらわれているように思う。
なぜこの俳人はあえて苦悩するのか。別の句を見てみる。

「何を求める風の中ゆく」

求めるものがあるからである。
山頭火は求める。苦患(くげん)のさなかをさまよい歩く。
ふたつの道がある。舗装道路と、道ならぬ山道――。
山頭火は決まって獣道(けものみち)を選択する。
みなが通る道から見えるものでは飽きたらないのである。
ひとの見たことのないものを見たい。山頭火が奥山へ分け入るゆえんである。
人生とておなじこと。ありきたりな幸福よりも不幸のほうがよろしい。
あえてひとが不幸とよぶ道を選ぶ。そこでなにが見えるのか。山頭火は知りたいのである。

本書は展覧会の図録。
山頭火は書でも秀逸な作品を残したらしい。遺墨である。
残念ながら、当方、書の鑑識眼はゼロ。
ふうむとわけのわからぬ感嘆をもらしながらページをめくっていると――。
ある書にひきつけられた。

「母ようどんそなへてわたくしもいただきます」(P116)

書のことはさっぱりわからぬ。だが、しんそこ打たれるものがあった。
強い筆致で書かれた「母よ」に山頭火の言い知れぬ慟哭を感じた。
種田山頭火の母親は、かれが11歳のとき、井戸へ入水自殺している。
少年・山頭火は見てしまったわけである。
井戸から引きずりだされた母親の青白い顔を。
このことが終生、山頭火の頭から離れなかったのではないか。
晩年、放浪の途次でさえも、この俳人は常に母の位牌を携帯していたという。
この「母よ」の句は、母の四十七回忌に山頭火が作ったもの。
句集に載っている、正確なものとしては――。

「うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする」

展覧会にだされたのは、細部が少しばかりかわっている。
図録の説明にこうある。あの書を揮毫(きごう)したときの山頭火の様子。

「この作品は、村瀬汀火骨に請われて書いたものである。
この句を書くのはつらかったに違いない。
汀火骨夫人の記憶によると、この句はよそでは書かんのだといっていたが、
書いたあとしばらくじっとして、はらはらと涙をこぼしたという。
揮毫は五十九歳」(P169)


なんとも言葉がでない。
山頭火は59歳になっても母の不幸から逃れることができなかったという、この事実。
私事を書く。6年前、わたしの母は飛び降り自殺をした。それもわたしの目の前で。
落ちてくるところをすべて見せつけられた。
落下後の血だらけの母の顔を忘れることができない。
いまでも毎日のように母の夢を見る。昨晩も見た。
山頭火を思う。おのが行く末を見るかのごとくである。
おそらくわたしも一生、母の不幸から自由になることはないのだろう。
負けいくさかと自嘲する。あと何年、生きなければならないのか。
求む、われに力を!
負けるとわかっている戦いに、それでも威風堂々おもむく勇気と誇りを!
……愚かな自己愛と笑われそうであるが。
「山頭火を語る」(荻原井泉水・伊藤完吾編/潮文社)

→冒頭の「山頭火の言葉」から引用。

「生死の底からホンタウの『あきらめ』が湧いてくる。
その『あきらめ』の中から、広い温いそして強い力が生まれてくる」(P8)


人間は生死のあいだでまったく自由がない。
まず生を選べぬ。人間はだれしも生まれてきたくて誕生するわけではない。
生は選択の結果ではない。
人間は生まれてくる時代から、両親、性別、貧富、知能、性格まで選ぶことができぬ。
死も同様である。なんびとも自殺以外は、死を選べない。
人間はじぶんがいつどのように死ぬか決められないということである。
以上が生死の実相だとしたらどうだ?
あきらめるしかない。だが、この諦観は、厭世と同義ではないと山頭火はいう。
選択できぬ生死だからこそ、そこに強いものを見る。個を超えるものをである。

もうひとつ引用をお許し願う。

「どうすることも出来ないと知ってゐて、どうかしやうとせずにはいられない心が、
人間の弱味でもあり、又強味でもある」(P21)


「どうすることも出来ないと知ってゐて」とは、宿命を知ることである。
最前、生死の選択不可能性を述べた。
だとすれば、生死に挟まれたこの毎日のどれだけが人間に選択できるというのだろう。
みなさまもどこかで思ったことはないか。疑惑にかられたことはないか。
もしや人生、諸事みな、運ではないのか。
運のいい人間と、運のわるい人間がいる。真実は、ただそれだけなのではないか。
かの疑惑者は、すぐに否定するだろう。人間だからである。
「どうかしやうとせずにはいられない心」がもたげる。
どこかで人間の自由を信じたいのである。
これが人間だ。宿命と自由。このふたつが人間を強くもすれば、弱くもする。
がんばればなんでもできる。すべては運である。
どちらも真実であり、同時に、双方虚偽でもある。

宿命を知りつつ、自由にふるまう。

人間の生きかたである。山頭火のめざした境地であろう。

この著書の後半は、それぞれの山頭火像。
ある山頭火評が目を引いたので、これも引用しておく。

「其中庵に山頭火を訪ねたときは何か強圧的なものを感じた。
山頭火にはたしかにさういふ風なものがある。
人間的にあるのだ。それが山頭火の強みだ」(P144)


山頭火の実像をこれはかなりのところ正確に伝えているのではないか。
強圧的とは、こういうことである。
山頭火の自己主張。じぶんは俳句のためにすべてを棄てた。
妻子を、つまり生活を、山頭火は放擲(ほうてき)している。
俳句のためだけに生きようとした結果でもある。
どうだ? この生きかたはどうだ?
山頭火がなにも語らずとも、かれの僧形はそう訴えているものがあったに違いない。
山頭火を支えたのは、みな生活者たる句友である。
かれらは生活をしながら表現をしている。
しかし山頭火は、生活を完全に無視。句作という表現へ没入している。
生活者にとって、山頭火の存在はたしかに強圧的に見えたことだろう。
じぶんにあそこまでのことができるかという問いを山頭火から受けとる。
あこがれといってもよい。
だが同時に、反感を感じることもあったと思う。
生活をないがしろにして、なにが表現だという怒りである。
かくして山頭火の挙動が決定される。
句友のもとへ滞在するのは数日。歓待される。
煙たがられる頃合を見計らって、ふたたび旅立つ――。
昭和初期、表現者と生活者の友情がこのように成立したのである。これは美しい。
「山頭火と子供たち」(仲村美代子/春陽堂書店)絶版

→売りは、子どもの目から見た山頭火。
著者は少女期に、俳人・山頭火の近所へ住んでいた。
その思い出を小説風につづってある。

山頭火研究の新機軸というノリでもって出版されたようだが、その点は不満。
というのも、これはもう明らかにフィクション。ばればれ。
どこの研究者がフィクションを材料に使うものか。
著者の山頭火への思い入れをフィクションとして描いている。
じゃあ、まるっきりのフィクションとしてみると、その質はどうか。
ときおり素人くさい視点のぶれがあるが、まあ、合格点。
エピソードの盛り込みかたなど、なかなかどうして。たいしたものがある。
メクラ、朝鮮、教員の女子生徒との浮気――。

フィクションの土台には、かならずノンフィクションがある。
そこを探るのもフィクションのたのしみかたである。
時代背景というのが新鮮だった。山頭火の其中庵時代。昭和7~13年。
いまから70年ほどまえ。
働きもせず酒ばかりのんでいる山頭火の、この時代における位置がおもしろい。
周囲の農民からは「のうくれ者」と揶揄されている。
一方で、当時の大学出というのはそうとうなもの。いち目置かれている部分もある。
村の名士といわれる人びとが山頭火をあがめているのも奇異。
これはどえらい先生ではないかと思いながらも、
そこらで酔いつぶれて寝ている山頭火がどうしてそこまで偉大なのかわからない。
同時代人の山頭火への遇しかたがよくわかった。
否定したいけれども完全に否定することもできぬ。
かといって、全肯定できるかといわれたら、とても無理。
これは現代でもおなじである。果たして山頭火の生きかたは是か非か――。
「20世紀英米文学案内14 オニール」(鳴海弘編/研究社)絶版

→オニールは不幸に固執する。
なら不幸とはなにか。欠落である。欲望がかなえられない状態を不幸というのである。
異論もあろう。こういいなおそう。
少なくともオニールは不幸を欲望との関係でみていた。
欲望が満たされぬ。これをオニールは不幸ととらえる。
たとえば、愛されぬという不幸は、愛されたいという欲望の裏返しである。
死人を忘れられぬのも不幸である。かれは故人に生きていてほしかった。
その欲望がかなえられぬのが現状なら、かれを不幸といわずしてなんといおうか。
オニールの人生観に耳を傾けてみよう。

「人生は戦いである。つねにとは言えないにしても、
しばしばそれは負けいくさの戦いなのだ。なぜなら、われわれはたいてい
夢や欲望の成就を妨げる要素を自分の内部に持っているからだ」(P25)


人間は欲望する。だが、欲望が充足されるケースは少ない。この人間は不幸になる。
なぜ人間は不幸になるのか。不幸になる原因はどこにあるのか。
その人間の内部にあるとオニールは見ている。
たとえば、人間はだれだって成功したい。しかしみなが成功するわけにはいかぬ。
成功者はほんのひと握り。たいはんは成功とは程遠い人生を送るわけである。
その秘密は人間内部にある。短気な人間が実業の世界で成功するのは難しい。
同様、ブスが女優の世界で成功する確率は低いといわざるをえない。
人間は欲望する。ところが、まさにその欲望を生じせしめたその人間の資質のせいで、
その欲望はかなえられぬ。人間の不幸とはこのことである。
欲望と、その欲望を阻(はば)むもの。
このふたつをある人間が同時に持っているという矛盾。
オニールが着目したところである。

ふたたび問うてみる。なぜ人間は不幸になるのか。
欲望を妨げるものがあるからである。では、なにが欲望を妨害するのか。
その人間が生来、持つところの資質である。もう一歩踏み込む。
人間はなぜそのように生まれてきたのか。
かれはなぜかれなのか。かの女はどうしてかの女なのか。
そこはもう人間の分け入っていくことのできぬ領域である。
個を超えた世界というほかない。オニールの関心はそこへ行き着く。
この劇作家はいう。

「私はいつも背後の力というものを――
(運命とでも、神とでも、われわれの現在をつくりだした生物的過去とでも、
なんと名づけてもよいのだ――たしかに神秘的なものだ)
――それを強く意識している」(P25)


「たいていの近代劇は人間と人間との関係にかかずらわっている。
だが私はそれにはまったく興味がない。
私の関心は人間と神の関係にしかない」(P39)


不幸を突き詰めると最後は、神の領域へ向かうよりないということである。
それは人間が人間を超えようとする試みである。
いかにして人間がおのが身を超越するか。
ままならぬ誕生と、これまた支配できぬ未知の死に挟まれた人間がなにをなしうるか。
どうすれば人間が人間を超えることが可能か。
自殺と殺人である。

自殺も殺人も、意味するところは死の掌握。

神ならぬ人間が、本来は神の支配下にあるはずの死をわがものにする。
この死の自由化をもって、人間が人間を超えうるのである。
死ぬか殺すかの狭間にたった人間の苦悩は並ならぬもの。
死ねない殺せない人間に最後に残された逃げ道がある。狂気。狂う。
狂人は、もう人間とはいえぬ。
ふたつの死(自殺・殺人)に圧迫された人間は狂うことで人間を超越する。
自殺、殺人、狂気。死ぬか、殺すか、狂うか。
オニール劇の住民が好む行為である。かれらは限界の状況下でうめいている。

死んでやる。もう死ぬしかない。
殺してやる。てめえぶっ殺すぞ。
うわあ、もうだめだ。狂う、狂ってしまう。


なぜ呻吟(しんぎん)するのか。不幸だからである。欲望がかなえらぬからである。
欲望。人間だからどうしようもなく欲望を持つ。欲望のない人間などいない。
どこにも救いはない。人間ゆえに持つ欲望。宿命がため欲望はかなわぬ。
人間は不幸である。
なぜ不幸になるのかという問いの答えは、人間だからとしかいいようがない。
オニールは人間を描きたかった。不幸に固執するゆえんである。
オニール劇の住人が「死ぬ・殺す・狂う」とうめきつづけるのもこのためである。

本書は1968年発行のオニール研究書。
海外でのオニール批評が簡潔にまとめられていて勉強になった。
オニールには以下のような非難が識者からなされているという。

「ユーモアの欠如、もったいぶった仰々しさ、感傷癖」(P196)

なるほどなとうなずきながらも、むろんわたしはオニールを擁護する。
そのような欠点をおぎなってあまりある力強さをオニール劇に見る。
つぎの指摘も的確である。オニール劇の欠点は以下のごとくであるという。

「病的不健全さ、絶望の激しさ、人間に対する病理学的軽蔑」

「結局、人類に対して軽蔑的憐れみとと強烈な憎悪をいだくオニールは、
人類愛を基調とするアイスキュロス、シェイクスピアなどの悲劇詩人とは
根本的に相違する」(P208)


オニール劇の力学を巧みに分析している。
しかし、と反論したい。わたしがオニールにひかれるのはまさにそのためなのである。
狂った劇世界。劇作家の人生への絶望。人間への嘲弄、憎悪。
これはオニール劇の欠点ではなく、むしろ魅力ではなかろうか。

これで家にあるオニール関連書はすべて目を通したことになる。
どこかでこの劇作家の絶版書を仕入れるまでは、しばらくひと休み。
ユージン・オニール! 顔つきがなによりよろしい。
どの写真でもオニールは怒っているかのよう。
眉間にしわをよせ、口をかたくむすび、目は相手をぎろりとにらみつける。
鏡でまねをしてみる。よし、こうだ、この顔だ! わたしもこの顔で生きていこう。
「立ち飲み屋」(立ち飲み研究会/ちくま文庫)

→いま手元にぼろぼろよれよれになったこの文庫本がある。
感動して何度も再読したというわけではない。
お酒をのみながら読んだので汚れただけの話である。
たまらないね。贅沢だね。新刊のきれいな文庫本を買う。盛大に汚しながらたのしむ。
立ち飲み屋のガイドブックだが、情報を求めての読書ではない。
目的は脳内トリップ。
あたかもそういうところでのんでいるかのごとくイメージしてビール(もどき)をごくり。
くうう、うま~い。なにも読まずにのむよりも5割増の美味。
わたしは人間の舌をさほど信用していない。
うまいまずいはその食べ物にもとから備わっている属性ではないように思う。
こちらがわの気分しだいでどうとでもなるもの。
なんでもないおにぎりが最高の美食にもなりうるゆえんである。
そもそも料亭やバーはこの原理を最大限に利用した場所。
たとえばビール。どこでのもうがビールそのものの味がさほどかわるわけでもあるまい。
しかし、金額のほうは酒屋で買うのとは天と地もの差がでる。
そうなるとのみなれたビールの味もなんだかことなるように感じられる。
いかに人間の舌がイメージに左右されるかである。

イメージと書いたが、これは物語とも翻訳できる。
学童期の社会見学を思い返してみよう。地元のパン工場へ行く。
製造過程をつぶさに見学する。そのあとには決まってパンがだされる。
わたしのときにはチョコレートパンだったか。そのなんと美味なることか!
ビール製造会社各社がやっている工場見学もこれとおなじでは?
ビールの味が会社によってそうかわろうはずがない(言いすぎですか)。
だが、製造過程を見ると、そのビールが特別に感じられる。
かのビールと見学者のあいだに物語が生まれたためである。
どんなCMよりも物語の支配力は強い。
見学者は以後、ビールといったらその会社のものをのむことだろう。

人間は物語を求める。意味を渇望する。
たとえなんでもないキュウリ1本でも、
そこにある意味が加わるなら絶品のつまみになるのである。
たかがビールでも高級バーで1杯1000円もするものだと味がかわるのとおなじ道理。
人間のなんと愚かなことか単純なことか! あるいは、なんとおもしろい存在か!
人間である長所を活用しない手はない。本をのみながら酒をのむ理由である。
読みながらのむことで、目前の酒とつまみに意味を与えていく。
陶然とする。一日はりつめていた神経がはじめて安らぎをみせるときである。
活字から離陸する。文体から自由になる。
いつしか本の世界へ分け入っているじぶんに気づく。
自意識から一瞬、解放される。酒をのむ。本を読む。しあわせである。
究極の美食は料理人風情が作りだせるものではない。
各人の脳が、ひとによっては心が、調理するものではないか。

安上がりでいいねといわれそうである。たしかにそのとおり。
金のかからない人間だと思う。
いまそら豆を食べている。ビール(もどき)をのんでいる。
これにもあるちょっとした物語がある。だから、うまい。
今回、わたしがあかした味覚の理論。みなさまも活用できませんか。
高い料理屋へ行って散財するばかりでは、せっかくの人間がもったいない。
ところがこの思想はかなり危険なものでもある。
一歩、まちがうと、泥沼からぬけだせなくなる。
飲食の際にこの方法を適用するだけならいいのである。
だが、人間関係にこの原理をあてはめると――。
友人も恋人もいらないことになる。
本の中にいる人間を友人や恋人にすれば事足りてしまうのだから。
もしかしたらわたしもいまかなり危ない状況にいるのかもしれない。
いや、十分危険地帯にいるのだろう。
そこで、だれか。一緒に安い立ち飲み屋へ行ってくれませんかね(笑)。
でもな、わたし酒乱だし……。困った、困った。現実は本の中のようにはうまくいかぬ。