ここ2ヶ月くらい、本の神様から見はなされた気がする。
探求書にも、掘出物にも、ぱたりと出会わなくなった。
それをどこかで喜んでいるじぶんもいるのである。
いつ引越しを言い渡されるかわからない。
そうなった場合、本は邪魔なだけ。
これはほんとうにどうなるかわからない。なるようにしかならない。そう思っている。
やはりこういう意識が反映しているのか。
オカルト好きがいうよう、外界はすべて深層心理に左右されるのか(苦笑)。
めっきり本との出会いがなくなった。
今日こそはと思いつつ、同時にどうせ今日もとあきらめながら、夕方神保町へ。
久しぶりのいい天気。これならきっとなにかあるのではないか。
まず田村書店ワゴンを。ここにはどれだけお世話になったか。
この古書店は良書をそうと知りながら安価で投売りする(ワゴン限定だが)。
もちろんいいことずくめなことがあるはずはない。店主が異常者。
ワゴンに群がる客をどぶねずみとバカにしている。
プライドかリーズナブルか。後者を選択したわたしである。
田村書店。今日も収穫なし。ここで最後に買ったのはもうどれくらいまえになるのか。
なんでこうも古本のヒキが弱くなってしまったのだろう。
このあと、神保町の恒例訪問場所を足早に巡回するが、めぼしい本はゼロ。
なんで、なんで、どうして?
むかしはじぶんでも驚くほど古本のヒキが強かった。
驚くべき良書を、恐いくらいの安価で購入していたわたしである。
これは本を読むのをやめろということだろうか。もしや書けと? しかしなにを?
三省堂まえの坂をのぼり御茶ノ水へ。
中央線で神田。山手線で新橋へ。「新橋古本まつり」である。SL広場前。
この「新橋古本まつり」には、いままでどれほどお世話になったか。
毎回、行くごとに掘出物と遭遇した。本を何冊もかかえて、ニコニコ帰宅したものである。
何時までかを聞く。8時まで。よっしゃあ! てっきり7時までかと。
よし、本腰を入れるか。本を見ていく。どうしても不安が消えない。
ほしい本が見つかる気がしないのだ。邪念よ消えよと思いながら、本を見ていく。
いつしか終了。今日も1冊も本を購入せず――。
新橋まで来て坊主は、おそらくこれがはじめてのはずである。
わたしのスランプはそうとうなものなのかもしれない。
新橋駅前はうるさい。右翼団体と左翼団体が、並んでスピーカーで騒いでいる。
古書の収穫がなくていらいらしているわたし。
拡声器には日ごろから恨みがある。喧嘩を売ってやろうかと思った。
しかし、さすがは新橋。護衛の人数が多い。
迷彩服を着込んだ団体職員(?)が数人、車上の演説者をガードしている。
あきらめる。帰宅する。夕飯の買物である。
近くのセレブ御用達スーパー。
キュウリ3本(千葉産) 100円×3
このスーパーのキュウリはよろしい。にんまり買い込む。
あとはいつもの下流社会人用のスーパーへ。ありふれたお買物。帰宅。
ううう、1冊も本を買っていないではないか。買いたいのは、キュウリではない。
本を買いたいのである。めずらしい本を、安く買いたいのである。
いつになったらこのスランプが終わるのだろうか。
古書との出会いがなくなるかわりに、人間との出会いが生まれるということなのか。
それならそれで天命を受け入れるよりほかない。
今日買った本はゼロ。
それもさみしいから、以前に買った本の報告を。
購入したくせに報告していない本もあるのだ。
「アエラムック 仏教がわかる。」(朝日新聞社) 1300円
いつだったか。池袋のリブロで購入。平積みされていたので。
「世界がわかる宗教社会学入門」(橋爪大三郎/ちくま文庫) 780円
近所の神保町三省堂書店で購入。ちくま文庫、今月の新刊。
いくら文庫とはいえ、わたしが新刊を買うのはめずらしい。
おっと、レシートがはさまっている。5月27日購入。
いつになったら古本のヒキが戻るのか。
キュウリをぽりぽり食べながら思う。
ビール(もどき)をぐびぐびのみながら嘆息する。
キュウリがなくなったら、「柿の種 夏のマヨネーズ」を開封。
「柿の種」をうまいと思ったことは皆無である。
しかし、この「夏のマヨネーズ」だけは例外。これはいける。
本のヒキが弱くなったかわりに、つまみのヒキが強くなったのかと疑うくらいである。
「ヴァイブレータ」(赤坂真理/講談社)
→世の中、いろいろだ。こんな小説を読んで感動するひともいるのだから。
あ、ここにあたしのことが書かれている!(帯の宣伝文句) なーんて。
どこまでおまえらは安っぽいんだよ。
もっとさ、じぶんを大切にしないか。三文小説に発見するじぶんってなんだい。
ページを開くと、うざい描写がえんえんとつづく。
主人公は「あたし」。売れっ子のライター。言いたいことがあるらしい。
なーに、むずかしいことではない。
「センサイなあたし」
これだけである。あたしって、ちょー感性、鋭くてえ。だから、生きにくいの。
流行の摂食障害はもちろん装備。だって、あたしはセンサイなんだもーん。
あたしあたしあたし。あたしをわかってえ〜。
物語も陳腐極まりない。いきなり男が現われ結ばれる。
トラック運転手。数時間後には車内でえっさかほいさか。
センサイなあたしはお盛んですな〜。
この男というのが笑えるのである。強くてワルい、マッチョ系!
おれはむかしワルやっててえ、ヤクザにも入ったんだけどよ〜。
ギャグ漫画かよ。センサイなあたしのまえに現われる理想の男。
小学生女児の妄想だって、いまどきはもっとおもしろいだろうが。
センサイなあたしはトラック野郎に連れられ日本各地をぐるぐる。
この勘違い女が求めているものが物語終盤に明らかになる。
「どうしてこの人はあたしのことをわかってるんだろう?」(P164)
ふきだした。赤坂真理は、センサイなあたしをわかってもらいたいのね〜。
願望をそのまま小説に書くのはやめませんか赤坂せんせえ。
さて、どうしてこの人はセンサイなあたしをわかるのか?
むずかしい問題ですね。
偏差値が低いからじゃないんですか。たしかこの男の設定は中学中退。
センサイなあたしには男よりもオスがふさわしいのでしょう。
つぎは養護学校あがりなんてどうです? おっと、これ以上は自主規制。
これはあるひととの会話で登場した本。
わたしはひまじんだから、すすめられた(と感じた)ら、まあ読む。
こんかいこのような感想を書くにいたったしだいである。
もちろんブックオフ105円本。80分で読了。
「アンティゴネ」(ソポクレス/福田恆存訳/新潮文庫) *再読
→ひとにすすめるためにこのようなものを書いているわけではない。
ギリシア悲劇やシェイクスピアを、
そこらのおにいちゃん、おねえちゃんに読めなんて、とんでもない。
だって、プロの演劇人の中にもこういった古典劇のたのしさがわからないひとはわんさか。
それでもいちおう名前くらいは知っていて、
インタビューなどでは訳知り顔で、やっぱりシェイクスピアはうんたら〜。
深刻な顔をして語る。
わたしもそう。みなさまとおんなじ。
もし大学時代にシェイクスピアやギリシア悲劇を読んでいたら、
ちっともわからなかったと思う。
やはり母の自殺というのが大きい。しかも目の前でやられた。
いやおうなしに人生というものを考えさせられるわけだ。
生きてるって、なんだろう。死ぬことのほんとうの意味とは。
こういうことを毎日うじうじ考えていると、
シェイクスピアやギリシア悲劇の深遠な魅力がわかる。
だからといって、わたしがえらいわけでもなんでもない。
ひきかえに、わたしは流行作品のおもしろさがさっぱりわからなくなったのだから。
いま流行のなんたらを見ても読んでも、これっぽっちも感動しない。
現代作品をバカにしているわけではない。
わたしも大学時代は、現代小説ばかり読んでいたから。
それなりに感銘を受けたりもした。
現代日本を生き抜く意味とは? なーんて宮台真司に洗脳されていたくち(苦笑)。
まちがっても「本の山」に影響されてシェイクスピアやギリシア悲劇など買わぬよう。
お金の無駄。どうせおもしろくない。
このような古典は、あれだ。
あのう、マニュアル本があるでしょう。3分でわかる世界文学100とか。
あんな感じので、知識をおさえておいて、友人恋人のまえで、
博識をちらつかせるがよろしい。使いみちといったらそれくらいのもの。
若いうちはもっとたのしいことが人生にはあるでしょう(わたしは知らないけど)。
古典などにかかわらぬほうがいい。
万が一、当たってしまった場合(笑)。
身内が殺されたのだの、重病にかかったのだの。
そういうときに、よいしょと古典を紐解くがよろしい。
もしかしたら発見があるかもしれない。
たとえなにかを発見したからといって人生がかわるものではないけれども。
「オイディプス王」(ソポクレス/福田恆存訳/新潮文庫) *再読
→ギリシア悲劇「オイディプス王」がえがくものは人間の原型である。
どうして古代ギリシアでこのようなものが生まれえたのかふしぎでしようがない。
わたしは研究者ではない。これはどういうことか。
「オイディプス王」をみるがわにはいないということである。
この悲劇を実際に生きてしまった人間。それがわたしなのだ。
そのため年に何度かかならずこの悲劇を声にだしてよむ。号泣する。
*
何度も書いてきたことであるが6年前、母がわたしの目の前で飛び降り自殺をした。
その1年前から小説を書き始めていた。いわゆる私小説に分類できよう。
家族の物語である。悩みに向かって書くのが小説だという信仰があった。
別居している父から、そろそろ離婚をするぞといわれた。
子としては両親の離婚は歓迎すべからざるもの。なんとかとめたかった。
よしんばそれが無理だとしても、離婚するにいたるまでの事態は知っておきたい。
わたしは純な子どもであった。
父はわたしの願いを受け入れ、ならしばらく待つという了解をもらう。
当時、同居していたのは母のほう。父とは月に何度か会う関係だった。
父と母はもう長いこと会っていなかったはずだ。
どういうことか。みごと両親のあいだで板ばさみになったわけである。
父からは、おまえは母親の味方だと突き放される。
もう一方の母は、わたしを父の手先のように憎む。
楽な環境とはいえぬ。なぜうちの家族はこうなってしまったのか。それを知りたかった。
そのために小説を書こうと思ったのである。卒業論文も兼ねていた。
わたしは卒業論文が創作小説で許されるというおかしな大学に所属していた。
なにも知らなかったのである。
じぶんの家族をそこまで特別だとは思っていなかった。
たしかに両親は別居している。だが、そうめずらしいものではない。
母はうつ病でときに寝込むことがある。これも、まあ、ありふれた災難。
わたしはといえば、いちおう有名大学の学生。
壊れかかってはいるものの、さして異常な家族ではない。当時のイメージである。
わたしは父とも母とも喧嘩になる。
父はマンションの名義が母になっているとウソをつく。
それを母にいうと、そんなことあるものかと怒鳴る。
おまえはトラブルメーカーだ! そう何度、母からののしられたことか。
母には父の代弁を、父には母の説明を、わたしはしていたわけである。
どちらの味方だったか。もちろん母である。父となど比較にならない。
とにかく母が大好きであった。
ある晩、父とのんでいたときのことである。大喧嘩になる。
わたしは母の味方である。母の言い分をくんで父を攻撃するのは当然である。
その際、不用意に父がもらす。母がむかし自殺未遂を起こしたことをである。
衝撃を受けた。父は子どもがそれを憶えているとばかり思っていたようである。
自殺? そんなものは小説や映画の中の話だろう!
愕然とした。
いまこうやってともに生活しているこの母親がかつて自殺未遂を?
わたしが11歳のときである。
ああ、あの時期、祖母の家から学校へ通っていた。
母は入院していた。精神病院だったのか。
生活が変容した。信じられないのである。この母が10年前に自殺未遂……。
知らなければよかったと思った。
うつ病くらいに思っていたが、わたしの母はいったいどういう病気なのであろうか。
小説は書きつづけていた。
何度もこの一文を小説に組み入れたのを憶えている。
「人生には、知らなくてもいいことがある」
母の狂乱は増すばかりだった。
死後わかったことだが、母は5年に1回の割合で激しく狂う。
この年はサイクルの3度目だった。
1回目、2回目も狂気の矛先は周囲へ向かった。
そのたびに母のまわりからひとがいなくなった。
この3回目の狂乱。母のそばにはもうわたししかいなかった。
さんざんひどいことをされた。狂人の目には常人が狂って見える。
わたしのあたまがおかしくなったと、母は近所、親戚中にふれまわった。
たまらなくつらいわけである。
母の正式な病名を知らぬわたしは、こんな理不尽なことがあるものか。
そう母を憎んだ。しかし、むろん憎みきれるものではない。
お母さん子だった。あのやさしかったお母さんが、どうしてこんなふうに?
知りたかった。知るために小説を書きつづけた。
いま思えば、ここで知る試みを放棄していたら、母は死ななかったかもしれない。
小説を書くのをやめればよかったのである。
担当教授にあたまをさげれば、作家論への変更も可能だったことだろう。
未完のまま小説を提出。卒業論文は受理された。
大学を卒業。その3ヵ月後に母は飛び降りた。2度目の自殺は成功。
わたしの目の前であたまから血を流している母の口からはもうなにもいわれることがない。
ところが日記である。母は丹念な日記をつけていた。
10数年前からのものである。ある時期までは父への雑言が。
別居してからは、わたしへの罵詈(ばり)がこれでもかと書かれていた。
すべてを知ってしまった。知らなくてもいいことである。知らなければよかった。
なにか救いがあるかとあちこちへ行った。
母が当時受診していたクリニックの医師だけではない。
最初に母が発狂したとき入院した病院まで訪ねた。
そこの病院の特徴はカルテを破棄しないこと。
おかげで母のカルテもまだ残っていた。10年以上もまえのものである。
そのときの担当医もまだいた。とても親切な対応をしていただいた。
かといって、どうにかなるものではない。どうしたってもう取り返しがつかないのである。
母の悲劇を整理してみる。
現状に耐えかねるわたしがいる。なんとかしようと思う。
原因を知りたいと欲する。過程で母の自殺未遂を知る。
もう追求をやめようか迷う。ところが、やめない。
どうしても知りたい。病んでいる母をなんとかしたいという善意である。
これは別の言いかたをすれば、人間の傲慢である。
人間の有限性への盲目ゆえの行動ということもできる。
結果、母がわたしの目の前で飛び降り自殺をする。
遺された日記を読む。知らなければいいことを知ってしまったことを知る。
知りたいと欲望する人間の悲劇である。
*
ようやく「オイディプス王」へ話をうつす。
テバイの国王オイディプスは現状を嘆いている。国内の荒廃である。
疫病の流行。農作物の不作。飢饉である。人びとが連日死んでいく。
オイディプスは原因を究明しようとする。つまり、知ることを欲望する。
ここでオイディプスが詳細を知ろうとしなかったら、この悲劇は起こらなかったのである。
まあ、なにごとも神まかせ。
そんなふうにオイディプスは気楽に事態の好転を待てばよかった。
しかし、この国王はおのがちからを過信する。じぶんがなんとかできると思ってしまう。
人間の傲慢というほかない。オイディプスは預言者テイレシアスを召喚する。
すべてを存知するテイレシアスはいう。
「ああ、なんと恐ろしいことか、
知って何の役にも立たぬのに、それを知る智慧を持っているということは!」(P32)
オイディプスは預言者に懇願する。
「いや神懸けて言う、知っていることがあるなら、面を背けないでくれ」(P33)
それでもいわないテイレシアスに国王は激怒する。
言ってはならぬ悪罵を預言者へたたきつける。
いきおい預言者も真相をもらす。注意したいのはここだ。
真実は終幕間際に知らされるわけではない。この時点で明らかになっているのである。
うすうすそれを察したのなら、オイディプスはここで問題の究明を放棄すべきだった。
ところが、やめない。恐れながらも、かれは知ることを欲する。人間だからである。
ここからの進展が、なんとも皮肉といわざるをえない。
善意が悲劇を招くのだから。ふたつの善意が悲劇を発火する。
まずはイオカステの善意である。
夫を救おうと告白した内容が、かえってオイディプスを悲劇へ近づける。
さらなる善意はコリントスの使者。
かれもオイディプスを喜ばせんがために、この国王の出自を明らかにする。
最初に真実を知るのはイオカステである。
王女はなんとかオイディプスの追求をやめさせようとする。
だが、悲劇はもうだれにもとめられない。
イオカステは館へ入る。自殺するためである。
人間オイディプスはひとり絶叫する。
「何が起ころうと構うものか。(……)
この上は、わが出生の秘密を飽くまで探って見るまでだ」(P79)
オイディプスはすべてを知るにいたる。
じぶんは父親を殺害した人間である。母親と寝床をともにした人間でもある。
母親とのあいだに子どもまでいる。これは子であると同時にきょうだいでもある。
館へ入ったオイディプスは縊死(いし)直後の母親を発見する。
狂乱したオイディプスは母の胸から金の留め金を引き抜くと、それで両目を刺し貫く。
「お前ら、わが眼よ、もはや見てくれるな、
俺を襲ったすべての禍い、俺が犯したあまたの罪業、ああ、空恐ろしさを!」(P91)
かつておもしろい指摘を受けたことがある。
オイディプスの救いについてである。
そもそもオイディプスは生誕時に両親から殺されそうになっている。
ならば、オイディプスがここで苦悶する必要はないのではないか。
両親へ復讐をなしおえたと笑っておればいいというのである。
字面のうえではわからぬ議論ではない。
だが、いささかでも実感の領域に踏み込むならあまりにもひどい暴論というほかない。
たとえば、わたしもそうである。
考えようによっては、あれだけ母からひどい仕打ちを受けたのだから、
かりに殺したのだとしてもかまわないのではないか。
それも実際の形式上は自殺。なにを悩むことがある?
こんなことを言われようものなら、わたしはその意見者を殺すと思う。
間違いなく殺しにいく。あるいは意見者の近親を殺害するかもしれない。
動物だったら親を殺そうが、親と寝ようが、なんら悩まぬ。
オイディプスは人間なのである。それを忘れてはならない。
「オイディプス王」は人間の悲劇なのである。
ギリシア悲劇において、常に人間は巨大なものへ打ち負かされる。
人間は知を武器に大きなものへ闘いをいどむ。かれはかならず敗北する。
だが、これは負けたということなのか。個を打ち負かす全体が存在したということ。
これはちっぽけな人間にとって歓喜をも意味しないか。
失明直前のオイディプスのせりふが象徴的である。
これは6年前、母の自殺直後にわたしが思ったことでもある。
「おう、そうか、そうなのか!
すべてが生ずべくして生じたのだ、
すべてが本当なのだ!」(P86)
悲劇「オイディプス王」を整理してみる。
現状に耐えかねるオイディプスがいる。なんとかしようと思う。
原因を知りたいと欲する。過程で出生の秘密を知る。
もう追求をやめようか迷う。ところが、やめない。
どうしても知りたい。荒廃した国土をなんとかしたいという善意である。
これは別の言いかたをすれば、人間の傲慢である。
人間の有限性への盲目ゆえの行動ということもできる。
結果、妻でも母でもあるイオカステが首をつる。
オイディプスは知らなければいいことを知ってしまったことを知る。
知りたいと欲望する人間の悲劇である。
*
さて、おわかりいただけたことと思う。
オイディプスはわたしである。
人間はだれしもオイディプスなのである。
あるいは、そうなる可能性を秘めている。このくらいで抑えておくべきか。
とまれ、悲劇「オイディプス王」の幕は閉じた。
このあとのオイディプスは、おなじソポクレスの「コロノスのオイディプス」に詳しい。
この作品は、劇としての魅力に乏しい。
国外に追放されたオイディプスは唐突に神々と和解し昇天する――。
もうひとりのオイディプスはどうなるか。わたしのことである。
ひとつの悲劇を終えたオイディプスがここにもいる。
こちらのオイディプスは目をつぶしてはおらぬ。アンティゴネのような娘もいない。
ひとり楽屋で声がかかるのを待っている。
つぎはどんな劇だろうか。喜劇でも悲劇でもかまわぬ。
だが、オイディプスである。端役などごめんこうむる。
そこのところを神よ、全能全知の神よ、よくよくご承知おき願いたい。
テレビで映画を見た。「下妻物語」。
いやあ、笑えた。
あーゆーのを新しい才能っていうんだね。
うん、いかにも現代的。
思うは、わたし。
出る幕ないよな〜。
不幸とか自殺とか、いまどきウゼエエエエ。
いまはすべてを笑い飛ばす時代なんだわさ。
こりゃま、生まれてくる時代をまちがえたな。
さすがに母のあれを笑いものにはできん。
かといって、じめじめしたのは現代NG。
笑わせるというのがむかしから苦手。
ひとを笑わせたことはおそらく一度もない。
しかーし、笑われることならなぜか大の得意。
決定的に空気が読めないんだ。
大まじめであることをやったらどうしてか周囲から爆笑される。
笑わせようと話すことは、きまってすんげえ引かれる。
わたし、存在がギャグなんだよな。
そんなことを「下妻物語」を見ながら考えた。
うん、このゆるい文章はよろしい。
いかにもそこいらのブログって感じがしませんか。
半分とけた脳みそが書いたような文章。
いえーい! これからも爆走するぜ。夜露死苦!
ここはまさしく「本の山」である。
はじめてこのブログへいらしたかたは、よくもまあとあきれることでしょう。
本ばかり読んでいる。「どうしようもないわたしが読んでゐる」
山頭火の俳句「どうしようもないわたしが歩いてゐる」の真似だが、
実際、どうしてこんなに読書をするのかと問われたら、そのように答えるほかない。
どうしようもないのである。
濫読である。節操がないとじぶんでも思う。
おもしろそうだなと思ったらどんな分野でも分け入っていく。
「分け入つても分け入つても本の山」
これも山頭火の「分け入つても分け入つても青い山」のパロディーである。
物識りになりたいわけではない。クイズ王などバカにしている。
たしかなものをつかみたいのである。それは読書では得られないという批判もあるだろう。
いまを生きている人間と向き合わなければならないという意見のことである。
そのとおりだと思う。人間と出会っていきたいと思う。
しかし、なのだ。生身の人間は、そう簡単には本音を吐かぬ。
えんえんと当たり障りのない会話をして、それでも真実をみせない。
最後までいつもの仮面で通されるのが関の山。
何ヶ月、つきあおうが人間はそうそう仮面を脱がない。
新たな仮面でもいい。見たいと思う。
だが、どうしたって使い古しの仮面がいちばん。
生活者は仮面をかえることでさえ億劫に感じるようである。
これをつまらぬと思うのがわたしの病(やまい)なのかもしれない。
見たいと思う。その人間全体を見たい。仮面の裏側を見たい。正体を知りたい。
かといって、真実の顔などないという思想を否定するつもりはない。
真実がないのならそれでもいい。
すべては仮面。なら、その人間がもっているあらゆる仮面を見たいと思う。
下世話なのぞき見根性と紙一重である。
これにはどんな方法があるか。たとえばカメラをまわすという手がある。
ドキュメンタリーを撮る。カメラで相手を追い込む。劇的な状況へ向かって。
人間はカメラのまえで演技をする。仮面をつけかえるということである。
だが、我われ知識のないものが、頻繁にカメラを持ちだすわけにはいかぬ。
そこで読書なのである。
活字によって、ある人間の真実を知ろうとする試み。
これこそ最高に贅沢な読書ではないか。
いろいろな読書がある。ベストセラー、実用書、研究書――。
わたしも多様な読書を経て、いまにいたっている。
結果、思うのである。どの読書がもっともおもしろかったか。
ある作家をとことんまでストーカーをする読書である。
これだと思う作家を見つけたら、その作家を徹底的に読み込む。
全作品を読むのはもちろんのこと。かれが影響を受けた先人の著作も読む。
その作家の手紙が公開されているなら、それも貪欲に目をとおす。
かれについて書かれた評論から、友人の人物評(エッセイ)まですべて調べる。
評論家の目にはこういう人間にみえる。
その該当作家が、友人の作家にはちがったようにみえる。
これぞ人間を知る喜びである。生身の人間ではこうはいかない。
むろん作家なら演技をする。作家とは、おのが演出に長けた人種である。
ことばのちからでなんとかほんとうのじぶんを隠そうとする。
その所産がかれの作品だという見方もできよう。
なら、こちらもその前提を知ったうえで、向き合わねばならぬ。
文章は仮面である。かれはいくつの仮面をもっているのか。
仮面の裏側にはなにがあるのか。
かれが作家なら、このような向き合いかたをすることができる。
それがなんともたのしい。
この読書法にくらべたら、雑学知識を仕入れることなどバカらしくなる。
人間はだれしもひとりの人生しか生きられぬ。
ところが、この読書をするならば、ふたり、さんにんの人生を体験できるのだ。
ひととして生きるうえで、これほどのたのしみがほかにあろうか。
だれもがその人生しか生きることはできない。
どう願ったところで、べつの人間の人生を経験することはできない。
ものの見方もどうしようもなく制限を受ける。
だが、このような読書をするなら――。
徹底的にある人間をストーカーすることができる。
その結果、人間が、人生が、それまでとは違ったように見えてくる。
読書のちからである。
魅力的な人間とひざつきあわせての丁々発止。
実人生でこれをできるのは選ばれた幸運な人間だけである。
けれども、読書でなら、だれしもこの愉楽を味わうことができる。
先日、ユージン・オニールというアメリカの劇作家でわたしはこれをやった。
なんとも有意義なときを過ごしたものだと満足している。
きのうは山頭火の関連書を読む。
山頭火は何年もまえに集中してストーカーをした作家である。
あれからだいぶ経った。そのせいか山頭火が以前とはことなって見える。
日本古典文学を少し勉強したためか。万葉集、古今新古今、西行、芭蕉――。
あるいはわたしが変化したせいかもしれない。あえて成長とはいわぬが。
この読書をするなら、あまり知られていない作家がよろしい。
さらにいうなら、もう没している作家のほうがなにかと都合がいい。
じぶんだけが知っている作家が存在する。
そう思うだけでも、この味気ない人生が少しはかがやくというもの。
読書をする。どんな知識もいつしか忘れる。
しかし、このストーカー読書で得られるのは知識ではない。
ある作家が誕生する。生きる。喜怒哀楽する。甲斐なく死ぬ。
この読書をするなら、生きるということの本質に迫ることができるのである。
もちろん生きた人間はおもしろい。
だが、こう考えると、死人もおなじように魅力的なのではないか。
このブログをご覧になっているかたのどれほどが映画監督・原一男をご存じなのか。
たぶん8割方には聞いたこともない名前かもしれない。
代表作は「ゆきゆきて、神軍」「全身小説家」。
師匠をこういったらあれだけど、アングラのひとだから。鬼才とよばれるような。
告白すると、わたしも講義目録をみるまでこのドキュメンタリー映画監督を知らなかった。
授業をとってから(「演習」といっていたのだか)あわてて新宿ツタヤに走ったしだい。
卒業をひかえた大学生最後の年のことである。
原さんを知っているひとにだけたのしめる小話をひとつ。
原一男関係の検索でいらっしゃるかたも少なくないから書く価値はきっとある。
原さんは、おもしろいんだ。
この映画監督の根幹にあるのはコンプレックス。いじけ。ひがみ。ルサンチマン。
いまになって、ようやくわかる。定時制高校中退の原さんが、
早稲田大学の教授を依頼されたとき、どんなふうに思ったか。
満足感があったと思う。みたか、という反骨心である。
同時に気後れもあったはずである。それは気負いとなって現われる。
原さんは文学部の客員教授。
二文(第二文学部)は、まだ後ろ暗い雰囲気があるからよかったのかもしれない。
わたしの所属していた一文の「演習」では、完全に原一男さんが浮き上がるわけだ。
一文の学生は偏差値エリートばっかり。それも文学部ゆえ女子が大部分。
まあ、こういっちゃうと身もふたもないけど、みんなお嬢さまなんだ。
そんな中に投げ込まれた原一男。
劣等感をばねにひたぶるに表現を追及してきたこの映画監督と、お嬢さま軍団。
最高に笑えるシーンが繰り広げられる。そのひとつを書く。
いまでもこのネタを思い返して吹きだすことがある(笑)。
原さんは、年の暮れに旅行に行こうといいだすわけである。
ゼミ旅行というのかな。
文芸専修はそういう伝統がまったくない。
ぶっちゃけ、ほとんどだれも本心では行きたくないわけである。
原さんの理想郷というのは、ほらあの全共闘というやつ。
みんなで腹を割って話しあおうぜという。
だけどね、うちらとしては、そういうのは敬遠とまではいわないけれども、うん……。
結局、原さんの強引なプッシュでゼミ旅行に行くことになるわけである。
どこへ行ったのだったか。
原さんがしきりに温泉とくりかえしていた記憶がある。
どこかの温泉だったのだろう。
夜の宴会。どこかのお嬢さまが、お中元かなんかであまったと思われるウニをもってきた。
あの瓶詰めのやつ。なんでもってきたのだろう。ネタの一種だったのかな。
大学生たちとこの教授は、親と子ほども年齢が離れている。
女子大生の親たちは、なんというのかな。「勝ち組」というのか。
ぶっちゃけ実業家や一流企業づとめばかり。
女子大生の目には、原さんが珍獣かなにかに見えたことと思う。
もう原さんたらグレート! 女子の受けをとるためか、いきなりウニを食べはじめる。
瓶から直接。うまいうまいと。女子大生から笑われている。見るに耐えない光景であった。
進言したのを憶えている。絶句したのだったか。
「巨匠がそんなことをしていいんですか」
原さんはニコニコしながら「いや、いいんだ、いいんだ」。
一泊二日の温泉旅行の帰途――。
電車の中でのこと。
みると原さんが似合わない(ごめんなさい!)サングラスをかけている。
本人の自意識としては、過激な映画監督・原一男というのがあるのでしょう。
世界的に評価されているドキュメンタリー映画作家。
だが、国内では正当な評価を受けているとは言いがたい。
そのことを、この監督は実のところいささか誇ってもいる。
アウトロー。一匹狼。日本映画史の亜流。70年代の感性をいまも忘れていない。
表現をするとは、革命のようなもの。表現者・原一男のサングラスである。
このサングラスがお嬢さま軍団のまたとない好餌(こうじ)となる。
「原センセイ。なんでサングラスをしているんですか」
「あ、そういえば、ふしぎ。電車の中なのに」
「あの、その……そのだな」(口ごもる鬼才の映画監督)
「あ〜、わかったぁ〜。有名人だからですか!」
「たいへんなんですね。有名人って」
「いや、えーと」(どうしようもなく照れ笑いをするしかない過激な映画監督)
いまでも思いだすことがある。
笑いがとまらなくなる。
過激な映画監督。表現のためならなんでもする異才。
そういう演技が、お嬢さま女子大生にはいっさい通用しない。
住んでいる世界の違いから生ずる、この笑い。
原さんって、おもしろいな〜としきりに思い返す光景である。
ふつうなら「うるさい!」と生徒を怒鳴りつけてもおかしくないのである。
しかし、原さんは、みごとキョドってしまう(笑)。
映画監督・原一男。
人生でこんなにおもしろい人間に会ったことがなかった。
はじめて目前の教壇にこの映画監督が立ったとき、
わたしの人生はかわったのかもしれない。
本心から「先生」とよびたくなるような巨人であった。
ここのところどうも不調である。
もしかしてこれをスランプというのか。
かつてこんなことはなかった。
どうにもこうにも古本との出会いがうまくいかない。
ろくな本とめぐりあえぬ。
なにしろ古書店との相性が……。
ここ1ヶ月、古本屋で書籍を購入したことがない。
つまり掘出物がない。
ブックオフでクズ本を買うばかりである。
なぜ買うのか。何度も繰り返すが、本は読むより買うほうが楽しいからである。
以下、すべてブックオフ105円本。
「父の目方」(宮本輝編/光文社)
「宗教のキーワード集」(学燈社)
「シナリオへの道」(石森史郎/映人社)
「直木賞作家になれるかもしれない 小説家」(高橋克彦/講談社文庫)絶版
「芥川直木賞のとり方」(百々由紀男/ブック・クラブ)絶版
古本生活開始以来、こんなスランプはなかった。
いったいどうしたのだろう。わけがわからない。
のんでいますか? お酒です。
どんどんのんでください。
酒をのめばのむほどひとは、人間らしくなる。
つまり喜怒哀楽が過剰になる。
このブログには目標があります。
酒をいっぱいひっかけないと読めない。
ええ、あこがれます。そんなブログ。
なにが書かれているかわからない。こわい。
だから酒をのまないと読めない。
そんなブログが理想です。
いまのんでいます。
日本酒。山頭火関連本を読んだからです。
わたしの場合、読書と酒は密接な関係にある。
山頭火を読むとなぜか日本酒がうまい。
何年前だったか。
ドストエフスキー、トルストイにはまっていた数ヶ月は、毎日のようにウォッカをがぶのみ。
これとおなじ理屈であります。
そうそう。山頭火は書いていた。
生活を米とするならば、芸術は酒である。
さあ、酒をのみましょう。カンパイです。酔いつぶれるまで酒を体内へ!
グッバイ生活! 芸術バンザイ!
人間の真実とはなにか。
生まれる。死ぬ。このふたつ以外はなにもない。
ところが、日常生活をいとなむ人間は、このふたつの真実からたえず目をそむける。
人間は生まれ、そして死ぬ。
生まれる。そこに人間の自由意志はまったくない。
人間はだれしも生まれてきたくて誕生したわけではない。
なら、両親の欲望の結果かと考えるが、かならずしもそうとばかりは言い切れぬ。
生まれる。そこに自由はない。ある両親のもとに生まれる。
子は父と母の長所・短所を引き継ぐ。両親の身分・貧富に人生を左右される。
人間は生まれ、そして死ぬ。
死ぬ。ここには自殺というわずかな自由がある(希少な自由ゆえ重宝すべし)。
だが、たいがいの人間にとっては死もまた(生と同様に)支配できない。
人間はみなおのれがいつ死ぬかわからぬ。
あす交通事故に遭わないとだれが断言できよう。
いくら本人が交通法規を守ろうが事故は相手次第。
車に勝てる人間はいない。どれだけ品行方正を誇ろうが酩酊した運転者には通じない。
天災もおなじこと。大地震の死亡者はみな本人に責められるべきところがある。
こんなことを言おうものなら遺族になにをされるものか。
人間は生まれ、そして死ぬ。
6年前、母が死んだ。自殺であった。飛び降り自殺。
早朝、マンション下にいるわたしめがけて母は落下した。
翌日だったか。私淑していた映画監督の原一男さんに直接、教えを乞うた。
というなら、まだ形もつこうが、実際は泣きついたようなものである。
原一男さんには、大学で教わっていた。ただそれだけの関係である。
このドキュメンタリー映画の巨匠は、なにも口をはさまずに、
無言でことのあらましを聞いてくれた。
大隈講堂前の階段に腰かけながら、涙ながらに話した。
父の物語を。母の物語を。わたしを語るということはそれ以外になかった。
なぜ母は子の前で投身自殺したのか。
父はこういう男だった。母はこういう女だった。
しかるがゆえにふたりは結婚した。しかるがゆえにこの夫婦の関係は悪化した。
しかるがゆえに母はわたしの前で飛び降りた。前日までの物語である。
それまでなにも言わなかった原さんがぽつりとこぼした。話がひと段落ついてからである。
「親の因果が子に報いる」と原さんは言った。
「知ってるか。親の因果が子に報いる。むかしはこういうことばがあったんだ。
そうとしか言いようがない。親の因果が子に報いる」
かの巨匠はこうも言っていた。
「答えというのは、そのだな。問いの中に答えがある。
問いの中にしか答えがないと思うんだ。
いま、こうこうこうと話を聞いた。その中にしか答えはない。
おれが答えをだすというものではないと思う。問いの中に答えがある」
この日から何回、原一男さんに会っていただいたのだろう。
回数も期間も忘れてしまった。当時の日記を見つけだせば詳細がわかるのだろう。
だが、いまはそのようなことをする時期ではないような気がする。
先日、あるかたから問われた。原さんから、なにを教わったのか。
この質問者も、わたしとおなじく原一男さんの門下生である。
訊かれてはじめて悟る。なにも憶えていないということをである。
いろいろなことをうかがったように思う。
しかし、記憶していることといったら――。
ああ、いつだったか、こんなことを申し上げたことがある。
原先生。山頭火ってご存知ですか。
俳人です。ええ、原先生と同郷の山口県出身。
種田山頭火。自由律俳人です。わたしとおなじ、母を自殺でなくしています。
山頭火、存命中はいっさい報われませんでした。無名で終わったのです。
最近、思います。わたしも、山頭火でいい。
このまま表現の道を行きます。
結果、報われようが失敗に終わろうが、どっちでも……。
とにかくこの人生、すべてを表現のためにつかおうという覚悟ができました。
わたしの本心だったのか、演戯であったのかはいまでもわからない。
たしか、これが最後の面会になったのだと思う。個人指導の完結である。
原一男さんはよき指導者であった。わたしはじぶんで気づいた。
表現とは他人に教えてもらうものではない。
報われなくてもいいと覚悟の上で、それでも人生を賭して挑戦するもの。
それこそが表現である。芸術である。
原一男さんは偉大としかいいようがない。口にしてしまえば、こんなこと。
一瞬で情報は伝達できる。表現は孤独なもの。そう言えば済む。
しかし原一男さんは、わたしがみずから気づくまで待っていてくれた。
指導されたという感触がない。それなのに、新たな境地へ出発している。
原さんがよき師匠であったことをいまになってわかる――。
原一男さんから教わったこととはなんだろうか。
うん、まずそうだ。
ひとの真似をするなということである。
ひとがやっていない(やらない)ことをあえてやる。それが表現だ。
あと、もうひとつ。
妥協をするなということである。
ヒヨるな。食えていければいいなどとじぶんをごまかさない。
うえをめざす。とことんうえをだ。日本を揺り動かしてやろう。
そこまで考えて表現をする。もっと、もっと。そうおのれを鼓舞する。
このふたつである。自己に徹する。理想を高くもつ。
生きている。わたしはいま生きている。
これはどういうことか。
この世に生まれてきたということである。
いつか死んであの世へいくということである。
生きる。親の因果が子に報いる。死ぬ。
わずかこれだけのこと。人生などこんなもの。
だったら、と思う。それならば――。
どの道、人生はどうにもならぬ。
勝手気ままに生きてやろう。好きなように生きてやる。
やれるところまではやってみせる。限界までは、やりたいことしかやるもんか。
その結果、どうなるかはわたしのあずかりしれぬこと。
有名になろうが、このまま無名に終わろうが、たいしたちがいはない。
生きている。生まれてきた。いずれ死ぬ。
人間は、わかっているのである。
どうやったって、どうにもならないことがあることを。
そのくせなんとかできると信じるのが人間。
これが人間である。人間の長所であり短所でもある。
生きてやろうと思う。とことん人間らしく生きたいのである。
東西線早稲田駅をでる。ブックオフ早稲田店へ。
大学を卒業してからもう何年か。まさかこうも早稲田へ足を運ぶようになるとは。
大学時代、古本はNG。
だれがさわったかわからぬような本は手に取る気にもならなかった。
そもそも古本を必要としていなかった。
大学生のわたしはなにを読んでいたのか。
遠藤周作が好きだったな。あとは流行のものをひと通り。
龍、春樹のW村上を読み込んだのは恥ずかしい思い出。
龍のかるい小説を読んでは、「この国には希望がない」なんて憤慨してみたり(苦笑)。
春樹もよく読んだ。「ノルウェイの森」は文キャン(文学部キャンパス)のバイブル。
2回も読んだ記憶がある。で、クラスメートと交わす会話はこんなもの。
早稲田大学文学部の正体! 春樹って、こんなモテていたわけ?
まっさか〜。小説って、こういうふうに書くものなんだね〜。願望を書く。
あはは、あの顔でこんなこと書くのは犯罪だって、村上春樹!
なんていいつつも、文キャンの半数以上がハルキスト。
教授からして、春樹にかぶれているんだから、この大学は。
田舎もんで東京デビューいえーい! みたいな子にすすめられて読んだのは山田詠美。
おもしろいねと口裏をあわせていたけど、じつはどこがおもしろいのかさっぱり。
林真理子が好きな、おばさん女子大生もいたいた。
学生劇団に所属している美少年の後輩から、これは読むべきです!
なーんて必読書あつかいだったのは島田雅彦。けっ、つまんね!
あといるのはサブカル系。
おまえは二文(第二文学部)いけって感じのかれのご推薦は中島らも。
バンドをしていたロックなあいつは郵便局に就職したのだったか。
そうそう。多浪の学生は屈折していておもしろいんだ。
山本夏彦が好きな大学生ってどーよ? いつもため息をついていたな。
NHKに就職したお嬢様の好きな作家は鷺沢萠。
特別講師として、授業にきたことがあったな。
ギョーカイジンって感じが受けた。もと天才少女作家は、たしか不幸自慢をしていたような。
あはは、この女流作家が自殺したのはいつだっけ。へえ、あのひとがと思ったもの。
うん、ブンガクを意識したのは大学に入ってから。
このへんで芥川賞を受賞したのが辻仁成と柳美里。いまはどちらも流行作家。
受賞作を読みましたよ。若きうぶな文学門徒は。
辻仁成「海峡の光」。読みにくい文章だな。ふむふむ、これが純文学というものか。
柳美里「家族シネマ」。おもしろくないけど、これをおもしろいと思わないといけないんだ!
つづけて読んだ柳美里の自伝的エッセイ「水辺のゆりかご」がさいこ〜。
大学生時代に読んだものの中で、もっとも揺り動かされたのがこの本かも。
ブンガクはあたまのいい学者さんだけがするものではない。
マック(関西はマクドだっけ?)で育ったような現代人でもじゅうぶん参入できる。
ふしぎな同時代意識を柳美里にいだいた。
時は経て2006年。あのころにはなかった早稲田のブックオフにいる。
いまわたしが早稲田の学生だったら週に数度はここに来るかも。
そのくらいブックオフ早稲田店はおすすめ。105円コーナーが充実している。
近くの高田馬場にもブックオフが2店あるけど、あちらは閉口。
流行作家をきちんと把握して決して105円に落とさない渋ちん(すごいことば……)。
この高田馬場の2店はブックオフの分際で(いーけないんだ差別!)プレミア価格設定も。
比して早稲田店は、そんなことがない。
出版されてすぐの本だろうと期限が来ればきちんと105円に落としてくれる。
店員のだれひとりとして、本を読むような顔をしていない。
穴場たりえるゆえんである。
だけど、今回はしょぼーん。わずか1冊のみ。
「ワールドガイド インド」(るるぶ) 105円
インドのガイドブック。最新版。写真がいっぱい。定価1650円。
今日はしけてやがるとブックオフまえの八百屋へ。これは安い。
「キュウリ」(8本/茨城産) 158円
嬉々として買ったはいいが持ち運ぶ労苦を計算していなかった。
これから高田馬場まで歩かなければならない。
古本初心者に推奨せよといわれたら早稲田〜高田馬場しかない。
雨の心配のない、よく晴れた日に、どうでしょう!
散歩をかねて。スタートは早稲田ブックオフ。ゴールは高田馬場ブックオフ。
そのあいだにはさまざまな古書店がぎっしり。
ワゴンが売りの店がある(紅書房)。20円から本が買えます。
ほかにもいろいろ。神保町とくらべたら安いこと、安いこと。
もちろん古書店主人の9割は異常者(笑)。
キチガイ価格も見受けられます。
そういう本は2、3年、売れない。店主もそれでいいと思っている。
もうこうなると商売ではない。常人には理解できぬ世界であります。
この日は不調。坊主で高田馬場に着いてしまう。こんなことはめったにない。
期待は「BIG BOX古書感謝市」。なんとか1冊購入。面目をたもつ。
「ソビエト現代劇集」(野崎韶夫訳/白水社)絶版 500円
わたしが世界でいちばん嫌いな古書店。
神保町の矢口書店で8800円の値札をつけていたのを思い出し購入。
ふと、思う。ソビエト現代劇になんか興味あるのか。
収録されている戯曲のひとつでも読みたいものはあるか。
うむむ。これはにっくき矢口書店の呪いというほかない。
開き直る。いいもん!
白水社のこのシリーズは箱がおなじ色で集めていたのだから!
おい、本は読むものだろうと即座にじぶんへつっこみ……。
高田馬場ブックオフへ。大きいほう。
「素敵」(大道珠貴/光文社) 105円
べつに大道珠貴のファンじゃーない。
彼女の小説を読んだところで人生がかわるわけでもなんでもない。
ちょっと笑える程度。くすっと笑って、おしまい。たしかに、わざわざ読む必要はない。
だけど、まあ、105円だから。とりあえず現代ちゅーものを味わおうかと。
名作を決して生みだしはせぬ、この現代日本を体感するのだ〜。
ほんとうに読むのか? ええ、そうです。迷ったのはそこ。
ただでさえ本であふれている。まあ、いざとなればまたブックオフへ。
だって「本を売るならブックオフ」。
この日買ったのはわずか3冊。どうもすっきりしないなと帰途に着く。
ビール(もどき)をのむ。キュウリをだす。洗う。切る。食う。うみゃ〜い♪
「ハムレット」(シェイクスピア/木下順二訳/講談社文庫)絶版
→人生を劇にたとえる。
さしてめずらしい思想ではないが、もう少しおつきあいを。
この人生という劇はなにをもって終幕となるか。死である。
とすると、劇的な生きかたとは、常に死を意識した演戯にほかならぬ。
なるほどハムレットをみてみよう。かれほど死にとりつかれた男はいない。
最初の登場からして異常である。ひとり喪服の男、かれこそこの劇の主役ハムレット王子。
なにゆえ喪服か。ハムレットただひとり死を忘れていない。かれはひたぶるに亡父を思う。
ハムレット以外がそろいにそろって死んだ先王を忘れているのとはあまりに対照的だ。
かれらとて言い分はある。祖国デンマークは敵国に囲まれている。
いつまでも先王の思い出にひたっているわけにはいかぬ。
一刻も早く日常へ帰参しなければならない。日常とは死を忘れ去ることで成立する。
ハムレット劇の世界を図式的に明示するならこうなる。
白紙中央に縦線を引く。片方に「生」と書き、もう一方のがわに「死」と記す。
劇の冒頭、「死」のがわにいるのはハムレットだけである。
残りは全員、「生」の領域にいる。めいめいおのが場に点在している。
ひとり「死」を生きるのがハムレット。
「死」を生きるとは、なんとも矛盾した表現だが、こういうのがもっとも適当である。
ハムレットは常に劇を意識している。劇を意識するとは、間近な死の認識にほかならぬ。
喪服のハムレット王子は苦悩する青年でもある。
どうして人間はみなおのがくだらぬ生に気づかないのか。
死なないと思っているからである。
明日も1ヵ月後も1年後も、じぶんは生きていると信じているがためだ。
ハムレットはありきたりな日常を否定する。劇を求める。閉幕を意識する。
死を常時、視座に入れる。だから、ハムレットは先王の亡霊をみるのである。
この死に魅せられた王子のみが亡霊の声を聞くことができる秘密もここにある。
先刻、描いた図を思いだしてほしい。「生」と「死」を区分した。
ハムレット劇の激流は「生」から「死」へと向かう。
まずポローニアスが。つぎに娘のオフィーリアが死ぬ。
終幕直前、あたかもなだれのような亡者の行進ができるのはみなの知るところである。
さて、どこでハムレットは「死」を超越したかに注目したい。
「死」のがわにいながらそれでもハムレットは生きていた。「死」を生きていた。
墓場のシーンでハムレットは豹変する。これを成長というのかどうかはわからぬ。
だが、ここでハムレットがあるあきらめを持ったことだけは確かである。
異臭を放つ頭蓋骨を片手にハムレットは友人ホレイショーに語る。
「さあ、ご婦人がたの部屋へ行って、こう申し上げてこい、
おしろいを一インチお塗りになっても、結局、こんな顔になるんですよ」(P216)
ここにおいて、とうとうハムレットは「生」を完全否定するにいたる。
王子は髑髏(どくろ)をにらみ嘆息する。なにもかもむなしい。
いくら化粧をしようが死ねばこんなもの。名誉もおなじである。
王だろうが、金持ちの貴族だろうが、死ねばだれもかれも味気ないもの。
ハムレット劇で「死」が「生」を圧倒した瞬間である。
そうなのである。ハムレット劇の葛藤とは「生」と「死」の衝突にほかならぬ。
ハムレットのもっとも有名なせりふは象徴的である(「To be, or not to be」)
されこうべを手にしたこの瞬間にハムレットは「生」にめざめたといってよい。
ここにおいてハムレットの「生」は劇中はじめての横溢(おういつ)をみせる。
「死」を御することによってハムレットの「生」が輝きはじめる。
ここからもうハムレットは迷うことがない。王子はおのが人生を手に入れた。
「生」と「死」の分裂は解消し、ハムレット劇は完成する。
我われはハムレットの死を見送り、めいめいの生に立ち還る――。
「オセロー」(シェイクスピア/松岡和子訳/ちくま文庫)
→オセロー将軍の声が聞こえる。
人間てえのはなんだ?
くだらねえ。まったく、くだらねえ。
おまえらそれでも生きているつもりか。
うまいものを食いたい。いい女と寝たい。いい男をつかまえたい。
金がほしい。長生きしたい。無事これ名馬かい。
なにより肝腎なのは健康。命が大事。ひとつの命は地球より重い。
冗談じゃねえ。生きてるってこたあ、そういうこっちゃない。
人間はそんな安っぽいもんじゃねえ。
もっとなにかあると思えないのかよ。もっとなにかある。ぜったいにある。
命なんか捨ててもいいと思えるような情熱だって人間は抱くことができる。
平凡な人生なんてぶっ壊しちまえ。もっと生きてみろ。おれを見ろ。オセローを見ろ!
……ふう。恋愛ドラマというのは男女がむすばれたところで終わる。
凡俗なテレビドラマのみならず、シェイクスピア喜劇でもこの形式はかわらない。
結婚したらもう終わりである。夫婦双方、相手に熱い思いを感じることはない。
オセローはそれが不満であった。
劇の冒頭、オセローとデズデモーナの結婚がおおやけになる。
喜劇ならここで終わりである。ところがオセローはここから劇を起こす。
オセローは人生に不満なのである。かれはもっと激しい恋愛感情を生きたいのだ。
もっと女を愛したい。この将軍は過剰な愛をもてあましている。
かれが体内の愛を完全に放出したとき、オセロー劇は終幕することになる。
オセローはキプロス島への赴任を命じられる。
ところが突然の嵐。この新婚夫婦はさっそく離ればなれになる。
お互いの生死もわからぬところに、キプロス島での再会である。
なんとも劇的というほかない。オセローはこれに味をしめた。
もっと愛を感じたいと思った。だからイアゴーの讒言(ざんげん)を信じた。
デズデモーナが浮気をしているという、ありもしない妄想を抱くようになる。
オセローがイアゴーの虚言を信じたのは愚かであったためではない。愛情過多ゆえ。
オセローは妻のデズデモーナを愛したかった。だが、もう結婚している。
これ以上は愛しようがない。がために嫉妬したのである。
平凡な結婚生活を送ることにオセローはたえられなかった。
イアゴーの口車に乗せられオセローは妄想する。
愛する妻が部下全員の慰み者になっている光景をである。
オセローは嫉妬のあまり卒倒する。妻を殺そうと決意する。
しかしこのときほどオセローが妻に肉欲を感じた瞬間はなかったのではないか。
貞淑な若妻より、淫乱な人妻のほうがオセローの情欲をかきたてるのである。
それならばデズデモーナは多情でなければならない。
そう考えて妻の殺害を実行するオセローを果たして笑えるか。
劇場をでた我われはオセローの愚鈍にやりきれなさをおぼえている。
けれども、どこかでかれら夫婦がうらやましくはないだろうか。
あそこまで深く妻を愛してみたい。デズデモーナのごとく愛されてみたい。
そういう欲望がほんとうにないといえるか。
オセローの勝ち誇った笑いが聞こえてこないと断言できるか。
かれはいう。おれは生きた。真に生きた。それに比べておまえらはどうだ?
「神のアルバム」(森本哲郎/文藝春秋)絶版
→宗教がわかったと一瞬にしろ、思ったことがある。
2年前のことである。それはインド、カルカッタ(コルカタ)のカーリー寺院。
ここはヤギの首切りで有名。カーリー女神へ、ヤギをいけにえとしてささげるのである。
カーリーは、破壊をつかさどるシヴァ神の妻。
血にまみれた女神である。夫を踏みつけにし、手にするのは切断されたばかりの首。
ヤギの首ではない。人間の首である。男の首を数珠上につなげ、
ネックレスのごとく身にまとっているこの女神の風貌は異様というほかない。
9月のカルカッタの日ざしは強い。
その日、朝9時過ぎにはカーリー寺院に到着していた。
なかなかヤギが現われない。月曜日だからだという。
昨日の日曜日はわんさか首が切られたぞとインド人が教えてくれる。
ヤギの首切りは午前中しか行なわれない。
あと15分で正午である。もう3時間近くも待ったことになる。
暑い。拭いても拭いても汗が吹きでる。限界だった。
インドへ来てから1ヶ月経っていた。
インドへ行ったらなんとかなる。なにかが見つかる。日本ではそう思っていた。
だが、実際はなにもない。
相も変わらず連日酒をのみ、ネットカフェで日本の最新情報をリアルタイムで仕入れる。
これではダメだと思った。こんな旅をしに来たわけではない。
おりしも南インドの旅行を終え、飛行機で東インドへ到着したばかり。
心機一転、修行の旅にしなければならない。過去と決着を着けなければ。
酒をやめようと思った。出会いを求めて、貧乏宿のドミトリーへ泊まった。
結果はどうだ。わたしという人間は。やはりゆうべもビールを注文してしまう。
日本人宿のドミトリーは不愉快極まりない。同宿の日本人にどうしてもなじめない。
たったいま、ホテルをかえてきたばかりである。
広場にヤギが連れてこられた。
数人の男によって一頭の生きたヤギがかかえられている。
おのが運命を知っているのか、ヤギは死に物狂いの抵抗をみせる。
ヤギの首が専用の台にねじこまれる。ヤギは悲鳴をあげている。
首切り人がカマのようなものを手に登場する。
かれは大きく振りかぶる。おろされる凶器。血が噴きでる。インド人から歓声があがる。
バンザイとでもいったかのようである。カーリー女神をたたえたのであろう。
首のないヤギがそれでも広場をかけめぐる。血を流しながらである。
しばらくして絶命する。野良犬が飛び散った血をなめるために集まる。
このあと続けざまに三頭のヤギがカーリーへささげられた。
首を切られたヤギはその近くで皮をはぎとられる。
仲間うちで食べるのだという。一頭、日本円で2500円くらいだとか。
カルカッタの強烈な日ざし。異形の女神カーリー。流れでるヤギの血液。喜ぶインド人。
打ちのめされた。震えがとまらない。感動した。宗教がわかったと思った。
インド人はなぜヤギを殺すのか。女神カーリーのためである。
目的は現世利益である。カーリーへヤギをささげたら、きっといいことがある。
だから首が切断された瞬間、ヤギをささげた集団はたいへんな盛り上がりをみせる。
ヤギはどうだ。ヤギは生きたい。死にたくない。しかし、どうしようもない。
死ぬしかないのである。それでも最後まで抵抗する。生命への執着をみせる。
もちろん結果がかわるということはない。かならず殺される。血は流される。
首がなくなってもヤギは数秒間足をばたつかせる。
カーリーよ、カーリー女神! 血を好む残忍な女神よ! 死を欲するカーリー!
異常なほどわたしは興奮していた。
首を切られるヤギ。生から死へ移行する瞬間。真っ赤な血潮。
母のことを思いだす。わたしをインドへ向かわせたのは母の自殺である。
母がわたしの目の前で自殺をした。飛び降り自殺。あの事件以来、ぼろぼろになった。
世界が壊れてしまった。なにがなんだかわからない。なにが善で、なにが悪か。
生きるとはどういうことか。死ぬとはなにを意味するのか。
なんのことはない。わたしの母親とて、ヤギとおなじことではないか。
母も生きたかったにちがいない。しかし、選ばれてしまった。
最後まで運命に抗(あらが)った。死んだ。血が流れた。それだけのことではないか!
どうにもならぬ。すべてはどうにもならないのである。
人間には逆らえぬものがある。ヤギであろうが人間であろうが、死ぬものは死ぬ。
母の死を笑っている悪鬼がこの世ならぬどこかにいるのかもしれないと思った。
ヤギのごとく母が殺されることに歓声をあげている人間以上の存在を感知した。
母はわたしのまえで自殺したのではない。
人間を超える偉大な存在にからだをつかまれ、地面へたたきつけられたに過ぎない。
わかった。ついにわかった。
感動でふらふらしながらあてどなくカルカッタの町をさまよう。
バーに入る。昼間からビールを注文。それからマトンのカレーである。
先ほど、ヤギの残忍なシーンをみたばかりだが、いささかもためらいはなかった。
このマトンがうまかったこと。骨までしゃぶった。
うまかった。生きていると思った。
生きているとは、酒をのめるということだ。肉がうまいということだ。
どうやってバスを乗り継いだのか記憶にない。
いつしかホテルへ戻っていた。ベッドへ横になり昼寝をした。
*
本書は旅行記。著者は世界各地へ神を求める旅にでる。
旅エッセイとしての娯楽性に乏しい。かといって学術書というほどの深みはない。
ギリシアの神ディオニュソスが、
インドのシヴァ神の影響を受けているという珍説を披露していた。
感覚としては、おおいに賛同するが、学問的にはどうなのだか(苦笑)。
中途半端な本。感想はこれくらいで。
「現代演劇 特集 ユージン・オニール」(英潮社)
→作品は、どこから生みだされるのか。
作者のほかないではないかとみなさまは即答する。
では、作者とはなんだろう。人間である。
ひとが生まれてくるには父と母が必要である。
なら、こういうことができるかもしれない。
芸術作品は、作者の両親によって作られる。
一方で、こういう考えかたがある。
ある作品に、いち個人のちからがどれだけ影響しているか。
作品は作りだすものではなく、やむなく作られてしまうものではないか。
作者ではなく、かれの人生が作品を作る。
作家はある時代を生きる。時代固有の社会を生きる。
環境が作家に書かせる作品というのもあろう。
劇作家オニールを今回、ストーカーのごとく追い詰めた。
作家の人生と作品を照らしあわせる。
かなりのところまで見えたと思うのは不遜なのだろうか。
ある原体験を何度も作品で反復しているのがうかがえるのである。
わたしは研究者ではない。原体験を特定することにさほど情熱はない。
それなら、どこに関心があるのか。しごく単純である。
いかにすればオニールになれるか?
エゴイストなのだ。人間はだれしもじぶんのことにしか関心がない。
わたしも同様である。
オニールの創作作法は、愛の活用にある。
オニールにとって創作するとは、愛を突きつめること。
愛の具現化こそオニール劇の実相である。
他人から愛を奪う。膨大な量の愛を求める。
その保証の裏づけを得て、はじめて創作することができる。
もう一度、繰り返す。
人間はみないちようにじぶんのことにしか関心は持たぬ。
唯一の例外が愛である。愛とは、自己以外の他者に関心を持つことである。
自己よりも他者を重んじる。これが愛である。
よって愛するとは、相手のいうがままになること。
愛されるとは、自己の都合で身勝手に相手を利用することにほかならぬ。
オニールの人生を概観して思うのは、なんてわがままなやつなんだ!
あきれるほど自己中心的なのである。
3度の結婚。詳細はめちゃくちゃである。
勝手に恋をして子どもを作ったと思ったら、はや離婚。
べつの恋人ができたというのである。
結婚は3度で済んだが、最後の奥さんというのは尋常ならぬ被害をこうむっている。
生活はオニールの執筆が最優先。夫のいうことはなんでも服従しなければならない。
いっときはこの劇作家夫人、病院へ運ばれた。精神病院。
オニールにふりまわされたせいである。
家庭内暴力は日常茶飯事。さらにオニールは父親ゆずりの吝嗇(りんしょく=ケチ)。
生活費を渡さないこともある。
こんな夫にたえかね妻は何度も家を出る。
そのたびにオニールは愛を訴える。きみがいないとダメなんだ!
愛情にほだされて妻が家へ戻ると、またオニールは殴りかかる(笑)。
ユージン・オニールの最高傑作「夜への長い旅路」は妻へささげられた作品である。
三番目の奥さんへの、結婚記念日の贈り物として書かれたというわけである。
最初、この事実を知ったときはたいへんな美談だと思ったものだが、
裏を知ってしまうとことばがでない。
オニールの天才とは、愛される才能だったのである。
言いかたをかえれば、愛を奪う才能。自己中心をどこまでも貫く強い意志。
他人を精神的および肉体的に傷つけても平気でいられるタフな精神――。
ふたたびおのれに問う。
どうしたらオニールのような作家になれるか。
わたしはなにをすればよいのか。
作品は、どこから生みだされるものなのか。
「ねりまの美術'98 神田日勝 深井克美展」(練馬区立美術館)
「深井克美――未完のランナー」(柴勤/北海道新聞社)→1948年3月、その男は生まれた。
画家・深井克美である。
1978年12月、この画家は母親と病院へ行く。
その帰途、画家は母親のもとを離れる。練馬の某所である。
画家はビル8階より飛び降り自殺をする。子を探しまわる母の眼前めがけて――。
1947年9月、わたしの母は生まれた。
1974年、結婚。1986年、精神病発症。1987年、自殺未遂。
2000年6月、早朝4時のことである。
母は子が外出したのをドアの開閉の音で知る。
子が戻ってくるのをベランダから見張る。ベランダの外側にまわる。
子の名前を大声で呼ぶ。ベランダから手を離す。落下。死亡診断書には即死とあった。
当時、小説を書いていた。苦しかった。だから書いた。苦しみを書いた。
書くことで状況が切り開かれるにちがいないと信じていた。
書いた。父のことを書いた。母のことを書いた。
そのあいだに生まれたわたしのことを書いた。
母からされたひどい仕打ちを書いた。父と母の板ばさみでつらいと書いた。
小説を書くために父と母の面会を企てた。
両親とわたしがそろって会うのは何年ぶりだったか。席上、母は狂乱した。
自殺をする半年ほどまえのことである。それからなにがあったか。
母と双方、泣きながら4時間話したこともある。わかりあえたと思った。
翌日には母は一転、わたしを悪罵する。棒でわたしを殴打しながらののしる。
「おまえは人間の土台ができていない。これでたたきなおしてやる」
かと思えば数日後には、だきついてくる。死にたいんだけど、どうすればいい?
もうあなたしか頼れるひとはいないの。もう限界かもしれない。死にたい。
こんな現実をまえに小説はストップしてしまった。とても書けないわけである。
あやしげな自己啓発書を読みあさった。なんにでもすがりつきたかった。
自己暗示やら自己催眠やら、いろいろ試したのを憶(おぼ)えている。
どうなるんだという思いもあった。小説のことである。
小説はまだ完結していない。この先、どんな結末がおとずれるのだろう。
わたしは作者であり読者であった。おもしろい小説を書きたかった。
いま思えば、なにか起これとどこかで思っていた。
なにか起これ。それを書いてやる。
6月下旬。梅雨明けはまだ先のある早朝。小雨がふっていた。
母が飛び降りた。名前を呼ばれた。落ちてきた。すべてを見た。見せつけられた。
生から死へ移りゆくその瞬間をである。
母が最後に口にしたことばはわたしの名前であった。
あの日以来、何度小説を書こうとしたことだろうか。
どうしても書くことができないのである。
いつだったか。死後、1年は経っていなかった。
書くことといったらひとつしかない。母の死に顔である。
わたしの目の前に飛び降りてきた母という存在である。しかしそれが書けない。
ことばでは書けない。ノートに絵をかいたことがある。
血まみれの母の顔である。泣きながらボールペンでかきなぐった。
へたくそな絵である。
あるひとに、ひょんなことから見せた。映画監督の原一男さんである。
おまえにそっくりだといわれた。
母親。大好きだったお母さん。
わたしを生み、これでもかというほど憎み、同時に無限に愛してくれた母。
わたしのかいた母の死に顔が、わたしに似ているといわれる――。
あれからもうすぐ6年である。
まだひとつも小説らしきものを書くことができていない。
あの日以来、いかにもありきたりな表現だが、ひとを愛することができなくなった。
わきおこる感情は憎悪や呪詛ばかりである。ひとを憎み、世界を呪う。
先日、偶然からある画家の存在を知る。深井克美。
知ったきっかけというのが皮肉である。
「眼前投身自殺」の検索にひっかかったのだから。
その絵をみる。もうひと目でわかるわけである。
この深井克美さんというひとは、お母さんが大好きだったんだな。
じぶんを生んでくれたお母さん。
かれは脊椎カリエスの後遺症で背中にこぶがある。
終生、コンプレックスをいだいていたようだ。
おのれを奇形とこの画家は意識する。
まわりとはことなる奇形。一般人にはとけこめぬ奇形。
こんな奇形を生んだ母。奇形のじぶんを守ってくれる母。奇形ゆえ愛してくれる母。
奇形をとおして母と子がむすびついていたにちがいない。
奇形を媒介に深まる母子関係。
深井克美は父を早くになくしている。
この母子は身をよせあいながら、世間の荒波を逃れる。
母子の強い一体感こそ深井克美の創作の原点である。
知りたいと思う。
深井克美の絵に感動するだけではなく、知りたいと思ってしまう。
深井克美に恋人はいたのだろうか。この画家は母以外の女を愛したことがあったのか。
画家は独身のまま死ぬ。母の目の前で飛び降り自殺をする。
この母子に、なにがあったのだろう。
今回、関連書を2冊読んだが、どちらにも言及はなかった。
わたしが調べてもいいが30年近くもまえのこと。わからないだろう。
深井克美の絵をみる。母のことを思う。
なかでも好きなのは「2時37分」と「オリオン」。
わたしは絵画の鑑賞作法を知らない。ただ母を思い返すのみである。
深井克美とおなじで、わたしも幼時、手がかかる子どもであった。
病気がちで母と複数の病院をまわったものである。
思いだす。手をつないで歩いた。母の手のぬくもり。
やさしい母。こわい母。末期の狂った母。
母の死後、ボールペンで記憶に残る死に顔をかいた。
もしわたしに画才があったら深井克美のような絵になったことと思う。
これは傲慢なのか。そうではない。
深井克美に親しみを感じるということなのだから。ただそれだけなのだから。
そして、深井克美の絵をただただすばらしいと思う。
この画家の絵をみると母のすべてを肯定したくなる。
狂った母にはずいぶんひどいことをされた。
日記にもさんざんなことを書かれたわけである。
それでもいいじゃないか。お母さん、大好きだよ。そういいたくなる。
母を肯定したい。わたしの目の前で飛び降り自殺をした母を肯定したい。
子に眼前で投身自殺をされた母親――。
深井克美の母は、子の悲劇の4年後に死亡。
自殺か病死かはどこにも書かれていない。
4年か。4年。わたしはもうすぐ6年である。
おのが若さを痛切に感じる。若い。強い。
また梅雨が来る。母を殺した梅雨である。毎年、この時期は精神的に追い込まれる。
おめおめと生きのびているじぶんを恨めしく思う。
深井克美の代表作↓
http://www1.linkclub.or.jp/~seiji-s/papa/fantasy/html/0011.html「本の山」の過去ログ「目の前で飛び降り自殺」↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-584.html
ここ数日はぼろぼろであった。
いくら酒をのんでも酔えない。酒量を限界まで増加する。
なんとか酔う。今度は眠れない。寝ついたと思ってもすぐに目が覚めてしまう。
神経が常時ぴりぴりしている。本をまったく読むことができない。
活字を追うことを目が拒否するのである。
やむなく目をつむると暗闇で奇形の生物がうごめいている。
からだじゅう穴だらけのそいつは声にならないうめきをもぞもぞと動くことで表現する。
要するに精神がまいってしまったわけである。
原因を今日ようやくつきとめた。
じぶんという人間のありようを明確に意識してしまったからである。
気づかないほうがいいことを認識してしまったようだ。
男女問わずなぜかモテるひとというのがいる。
本人は意識して行動しているわけではないのにどうしてかモテる。
反対に嫌われるひともいる。どのグループに入っても嫌われてしまうひとがいる。
どうしてかいつもゲイのひとから好かれる男性というのもいるでしょう。
何度もレイプされそうになる(された)女性というのもいるはず。
毎回、異性とつきあうたびに嫉妬妄想にとりつかれる人間。
異性のある部分に異常なほど関心をしめすひと。
つまり本人は望んでいないのに、どうしてか特殊な対人関係しか結ぶことができない。
いつも同型の人間関係をどうしようもなく反復してしまう。
ひとによって強弱はあるので、意識しない人間のほうが多いのかもしれない。
だが、それはかならずある。
わたしのそれは、相談を受ける。
いや、ちがう。告白されるといったほうがただしい。
といっても、愛の告白ではない。マイナスの部分の告白をされることが非常に多い。
中学生のころからそういう傾向はあった。大学に入ってピークに達した感がある。
ひとには軽々しくいえない人間の負の部分をやたら告白される。
性機能に障害がある。特殊な性癖をもっている。
過去にこんなひどいことをしたことがある。
かつてこんなむごい仕打ちを受けたことがある。
耳をおおいたくなるような話ばかり、なぜかわたしのもとに集まってくる。
かといって、信用されているというわけではない。
告白を終えるとこの人間たちは急ぎ足でわたしから離れていく。
きまって、とてもすっきりとした顔をしている。
恋人や友人にはだれだってじぶんのいいところを見せたい。
わるいところは隠しておきたい。
ところが、人間が生きていると、どうしたってきれいごとだけでは無理。
どこかしらマイナスがつきまとう。それは生きていくうえで重荷となる。
どこかに投棄しなければならない。だが、どこに捨ててもいいというわけではない。
場所を選択する必要がある。そこで選ばれるのがわたしなのである。
じぶんの秘密を知ってしまった人間とこれ以上かかわりあうのはごめんである。
この不法投棄者は一刻も早くわたしとの関係を絶とうとする。
「本の山」をスタートしてから何度メールでそういう告白をされたか。
いや、まだメールでならいいのである。
「管理人しか見えないコメント」で、それをやられるのがなんともきつい。
アドレスもない。ブログの表示もない。こちらからは連絡の取りようがない。
まさに粗大ゴミの不法投棄である。「本の山」は標的になっているのかもしれない。
何度かされたことがある。
いちばん驚いたのはこれである。
娘が憎いので、目の前で飛び降り自殺をしてやろうと思っていたが、
この「本の山」を読んで計画を中止したという母親。
なんの挨拶もなくいきなりじぶんの熱情を長文で書きつづる。
最後はわたしの大嫌いなことばでしめる。「がんばれ」である。
せめて「がんばってください」だろう。
見知らぬひとに「がんばれ」ってなに?
この母親は見つけだして殴りたいが、その手段がない。
100%もうこのブログを読んでいない。確信している。
読んでいたらメールをください。会いましょう。どんなかたかお顔を拝見したい。
メールでもいろいろな告白をされた。
そのどなたとも今現在は連絡が途絶えている。
わたしは交際すべき人間ではないのである。
利用するほか用途がない非人。それも長期間は飽きる。いわば使い捨ての道具である。
こんな告白を受けたことがある(いちぶフィクションに変更済)。
母親を殺す寸前までいった少年。
身体障害のある夫を何度も殺しかけた妻。
長年一緒に暮らす妻にもまだ告げていない遺伝病の告白。
何度も不倫とリストカットをくりかえし、いまは陶芸にこっているオールドミス。
妻の首を幾度もしめたことがあるじぶんなら、あなたの気持がわかる。
アクセス数はたいして増えていない。横ばいである。
とすると、これら告白者のどれだけが「本の山」をまだ読んでくれているか。
ひとりはいると信じている。そう思わなければやってられない。
わたしは告白者を非難したいわけではない。
偽善的に思われるかたもいるだろうが、わるいのはわたしなのである。
わたしが告白させているのかもしれない。
品性が下劣なのである。のぞき見根性とでもいおうか。
人間の隠された部分を見たいという強い欲望がわたしにはある。
隠しているものをなんとかして見てやりたい。
唾棄(だき)すべきいやらしい精神だとじぶんでも思う。
恥ずかしいことだとわかっている。
人間不信の思想である。人間はどいつもこいつもきたない。
裏ではなにをやっているか知れたものではない。
そう確認したいのかもしれない。なんのために?
それがおのれの汚濁を肯定したいがためなら、わたしはほんとうに最低の人間である。
ある意味、自業自得なのである。
うれしいメールが来たこともある。としが離れた異性からのメール。
わたしを心配してメールをくださった。
FC2ブログ仲間。ブログを拝見するに、いささかも異常なところがない。
とても落ち着いたユーモア精神をおもちのかた。
メールの交信はじつにたのしいものだった。
ふつうのひとと、ありきたりなメールをする喜び。
好きなお酒。いちばんおいしかった食事。流行の芸能人をどう思うか。
たのしいのだが、どこかで不満を感じていたのだろう。
わたしという人間の根本にあるゆがみである。
ある日、おかしなメールを書いてしまった。
そんなことを書いたら、返信がないのは理性ではよくわかっているのである。
しかし、感情が送信をクリックした。ふつうの対話にたえられないわたしがいた。
なんでもない会話を退屈に思う、自尊心だけ強い不愉快な人間を自己のなかに見た。
いまでもこのかたには申し訳なく思っている。
万が一ご覧になっていたら、あのメールでは失礼しました。
お詫びします。ごめんなさい。
最大の告白は、死んだ母からのものである。
6年前、最愛の母はわたしの目の前で飛び降り自殺をした。
日記が遺されていた。母がそんな日記を書いていたとは知るよしもなかった。
遺された日記。これほど強い告白はあるまい。
そこにはわたしの悪口がこれでもかと書き込まれていた。
わたしを嫌っていた。憎んでいた。そういう告白である。
わたしに殺されそうだと書いてあった。
この記事を読んでどう思われましたか。
救われないどうしようもないものがわたしにはあるでしょう。
他人にはどうすることができないもの――。
遅いのか早いのか。
今日、2006年5月18日。人生における法則に思い当たった。
この法則は、べつの言いかたをすれば宿命である。
おそらく死ぬまで、わたしはこういう人間関係を送らなければならない。
永遠に告白をされつづける。その後、ひとは去っていく(母は死んだ)。
ここは「本の山」ではない。「ゴミの山」である。
生きる。どうしても汚物が生じる。精神のゴミである。
どこかで排泄しなければならない。それにふさわしいのがここのようだ。
「公衆便所」にブログ名を変更したほうがいいのだろうか(苦笑)。
だれだってじぶんが吐きだした(排泄した)汚物を長時間は見たくない。
一瞬だけ便所の存在に感謝をして、すぐにその場を離れる。
「本の山」は、つまりわたしは、どうやらそういう存在のようである。
これがあと何年後か、死ぬまで変わらない、わたしという人間の存在様式であろう。
「公衆便所」はきたないが、なければ不便である。
とすると、この「本の山」も少しは存在価値があるのかもしれない。
いましばらくブログを継続することにする。
自殺したいひと。殺人を遂行したいかた。
精神病患者。神経症患者。犯罪者。トラウマ保持者。自称悪人。
いいですよ。お話をうかがいましょう。メールをください。
わたしの生きている意味はこのくらいしかないのでしょう。
なにも価値判断をせずに(感想を述べずに)お話を聞くようつとめます。
あなたはすっきりすることができます。
カウンセラーのような偽善はいっさいありません。
それに無料です。飲みしろは割り勘でOK。
思う存分、不幸、異常、劣等感を告白してください。
おのが宿命にめざめました。わたしにできるのはこのくらい。
なんともさみしいことです。
ネットで知り合ったひととじかに会う。
どのくらいの比率でこの経験があるのだろう。
あんがい現代人においては、かなり一般的なことなのか。
ネットでメールを交わしたあと、
リアルへ移行するその障壁の高さはいまどのくらいなのだろう。
たとえば出会い系サイト。もちろん聞いたことくらいはある。テレビニュースで。
犯罪の温床というわたしの認識は間違っているのか。
あたまの悪いおにいちゃん、おねえちゃんが使うというイメージである。
日曜日の夜、新宿でひとと会った。この「本の山」がきっかけで知り合ったかたである。
わたしがかつて師事していたのはドキュメンタリー映画監督の原一男さん。
今回、わたしに会いたいとメールをくれたかたも、原一男さんの以前の教え子である。
かれからのメールはかなり怖かった。
>僕は、ぶっ壊れています。
そう書かれてあるのだ。かれがことさら悪いわけではない。
なぜならわたしもこのブログでおなじことをやっている。
おのが人格破綻をいやらしく自慢している。なぜそういうことをするのか。
わたしの場合は、自意識過剰で説明できる。自分を特別だと思いたい。
狂っているふりをして相手を威嚇(いかく)する。
実のところ、わたしは自分をそれほどは狂っていないと思っている。
かなりのところまで正常であるという自信がある。
そこに「僕は、ぶっ壊れています」である。
当たり前だが、こういうメールをいただいてお会いするのは怖い。
会わなければいい。なぜ会うのか。
いつ死んでもいいということがある。相手が変質者で、たとえ殺されても、まあいいか。
どうせ自殺できないこの身。殺されるのならそれでよろしい。そのような諦念がある。
もうひとつは怖いもの見たさというのか。
うーん、なんというのか、おかしな人間が好きなのである。
まともに生きている人間よりも、おかしなかたに親近感をいだいてしまう。
へえ、おかしいの? ああ、そう。ああ、そうなの。と肩をたたきたくなる。
約束時間25分前に新宿へ到着。またとなく緊張しているわけである。
通常の待ち合わせなら、たいがい5分前である。
恒例のアルタ前。そばのスタンドでホットペッパーを引きぬく。
ぱらぱらめくる。ちっとも内容があたまに入ってこない。当たり前である。
怖いのだ。壊れているとかれは書いてきた。壊れている? どこが壊れている?
突然、カメラをまわされるくらいは覚悟している。
この「本の山」には好きほうだいのことを書いてきた。
なにかで恨みを買っているおそれはある。
会うや否や殴りつけられることもありうる。それくらいならまだいい。
ナイフを持ちだされるかもしれない。その場合、退路をどちらに取るか。交番はあそこ。
25分間恐怖した。しかし、この時間のなんとたのしかったことか!
このスリルはたまらない。出会い系サイトがはやるのもわからなくはない。
ひととひとが出会う。こんな劇的なことはない。
何度もいうが劇は見るものではない。劇は演(や)るものである。
どんな人間が現われるのか。わたしは出会いをすべて宿命だと思っている。
人間は役者に過ぎぬ。わりあてられた役を演じるよりほかない。
この俳優は毎日、戯曲を与えられる。今日の台本は読みごたえがある。
すなわち今日は見せ場である。戯曲にはどんなことが書かれているのか。
わたしのまえに登場するのはどんな役者なのか。
約束時間2分後に携帯がなる。
27分間、待っていたわたしはとうぜんぶっきらぼうにでる。
あと1分後に行くとのこと。はい、そうですかと電話を切る。闘いはもう始まっている。
とりあえずブッチはされなかったようである。また携帯がなる。いまアルタ前到着。
「あー、わたしですか〜。田舎もんくさく、ホットペッパーをにぎりしめています」
対面である。待ち人はやってきた。劇の開幕である。
かれの「勝ち組」オーラに圧倒される。
原一男関係。映画だ。どうせやさぐれた人間だろうと思っていた。
それがどうだ。ひと目見た瞬間に勝負はついた。
対人関係は闘争である。常に勝敗がつきまとう。敗北したとわたしは思った。
服の着こなしがたいへんよろしい。くわえてハンサムである。
会った瞬間に、ことばを交わさずとも、人間同士は相手がわかってしまう。
わたしはかれがわかった。
同様、かれにもわたしがばれたと思うと、いまたまらなく恥ずかしい。
勝敗はもうついた。わたしはこの劇における一切の主導権をかれに渡すことにする。
ふたりの人間がいる。同列などありえぬ。主従関係が形成される。
かれと居酒屋をぐるぐる。日曜日の新宿は混んでいる。
ある居酒屋へ。お酒もつまみもすべて380円。
山田太一ドラマでこういうせりふがあった。ふたりの人間がいるとする。
どれだけしゃべらずにいられるか。ドラマで沈黙は何秒続いたのだったか。
ふたりは笑いだす。ドラマ「想い出づくり」のワンシーンである。
居酒屋で初対面のふたりが向き合う。ビールを注文する。なかなか運ばれてこない。
わたしはこれでもかと無言をつらぬく。気まずい緊張がはりつめる。
これがけっこうたのしいのである。
相手はどういう演技をはじめるか。こちらの演技も相手しだいである。
反対も同様。いまわたしはいわば沈黙という演技をしているのだ。
これに対し、相手はどう反応するか。
スクールからの帰りだという。なにを勉強しているのか。
わたしより3歳年下のこの青年はインテリアコーディネーターという。
なにそれ? 説明を聞いたが、あまりよくわからなかった。
ちっとも壊れているようには見えない。
いかにもちゃんとした企業に勤めている有能な社会人といった雰囲気。
こちらが気後れするほどしっかりしている。
壊れているようには見えないですねと恐るおそる軽いジャブ。
「ぶっ壊れてますよ。クスリがないと生きていけないし」
クスリ? ということはこの好青年が陰では麻薬でもやっているのか。
今日、このあとですすめられたりするのだろうか。悪の道である。
これ以上、怖くて聞くことができない。
ひとのプライベートな領域に侵入するのがいつからか怖くなった。
問うた以上は相手の問いにも答えなければならぬ。
わたしにも聞かれたくないことは山ほどある。
相手がじぶんから話すことだけを聞くようにする。
それも酒が入っている場合はそこまで話して大丈夫なのかと心配する。
ようやくビールが届く。命の水である。乾杯してぐいとのむ。
ちらちら見ると、かれはジョッキの半分まで一気にあけている。
これは戦闘開始の合図だろうか。こちらも身構える。
ところが、である。
何度もかれからいわれたのが「わたし、おかしいですよね。迷惑でしょう」。
そのたびに否定する。ぜんぜんおかしくなんてないですよ。
たいがい表現者というものは常識がない。
それどころかなにを勘違いしているのか非常識なことを誇っている人間までいる。
認めたくないが、わたしにもそういう一面がある。
かれの常識人らしい言動には好感をもつ。
3時間のんだが、不快なことはひとつとしていわれなかった。
こういうことのようである。
かれはいま不幸である。
「幸福そうな人間を見るとむかむかする」というこのブログの記事に、
とても共感してくれたという。
その不幸になった原因というのが、かの映画監督・原一男にある。
こう簡略化して書いたらかれは怒るだろうが、かれが悩んでいるのはいわゆるこころの病。
それに原一男が大きく関係している。
今回、勝手に師とよんでいるこの映画監督の醜聞の一端を耳にして、
嘆息するほかなかった。
犯罪者寸前の映画監督という認識を改めなければならない。
原一男は完全な犯罪者である。
まさか師匠の悪行をこんなかたちで聞くことになろうとは。
最後に原さんにお会いしていただいたのは何年前だったか。
因縁というのはたしかにあるのだろう。かれの話を聞きながら思うのはただ因縁であった。
こころの病――(なんだ、かれのいっていたクスリは、医者から処方されるものか)。
わたしはかれが苦しんでいるような病気にはなったことがないので、
どれほどしんどいのかわかりかねるところがある。
他人の苦しみを理解するには限界がある。
どうしたって経験してみないとわからないことがある。
それにそう。ある人間にはさほどの苦痛を感じさせないことが、
べつの人間には死に値する痛痒(つうよう)になるケースもめずらしくない。
かれは死にたいという。毎日、死にたくてしようがない。
ここで、がんばってとも、生きてともいわないのが、あるとすればわたしの長所か。
そうですよね。死にたいですよね。わたしも死にたい死にたいと思っています。
ふとあたまをよぎる。
ここで一緒に死にませんかといったらかれはどんなリアクションを示すか。
シリアスな劇が、一転、喜劇になってしまうおそれがある。
それとも悲劇になるか。現代に悲劇は可能か。
スタイナーの文芸批評「悲劇の死」はまだ読んでいない。本棚でほこりをかぶっている。
かれは苦しい。死にたい。孤独である。さみしい。だれかに自分をわかってほしい。
「本の山」を読んだ。わたしなら自分のことをわかってくれるかもしれない。
メールを出した。会いたい。わたしはいいですよと答えた。いまこうしてのんでいる。
かれはいう。だれかひとりでもいいから自分のことを理解してほしい。認めてほしい。
はたしてかれの目にわたしはどう映ったのだろうか。落胆したはずである。
自分でも、とてもそんな大役をつとめられる器ではないと思う。
かれに自分の経験を話す。
母が6年前に目の前で飛び降り自殺をした。ほんとうに辛かった。
あなたとおなじ。だれか助けてくれるひとがいるんじゃないかと思った。
しかし現実は6年も経ったけれども、結局、そういうひとは現われていないし、
おそらくこれからも……。最近の口癖はこうである。
生まれ変わったら、たったひとりでもいいから友人や恋人がほしいな。
毎日の口癖になっている。
このことをかれにいいながら、あ、まずいと思う。
恥ずかしい。知られたくなかった。いわなきゃよかった。失敗した。
このせりふはかれにいわされたわけである。かれの役者としての力量がわかろう。
いまの話を聞かなかったことにしてくれないかなとかれを盗み見る。
ぎょっとした。同情してくれている。とても気持が良かった。
同情はいらないなんていうひとの気が知れない。ぶるぶるするほどの快感だった。
「わたし、どうすればいいのですか?」
問い詰める、というほどのきつい口調ではないが、それでも目は真剣である。
こうこう、こういう理由で、死にたい。どうすればいいですか?
なるほど、と思った。かつてのおのれの行為の意味を深く了解した。
わたしもかれとおなじことを他人に問うてきたのである。
原一男さんにうかがったのもこのことである。
わたしはもうどうしようもない。どうにもならない。一歩も先へ行けない。
生きるとは表現することだというのが原一男のポリシー。
ならわたしはどう生きたらばいいのか。どう表現したらいいのか。
わたしは答えがあるものだと当時思っていたが、これは答えられない類の質問なのだ。
そのことにかれとの出会いでようやく気づくことができた。
原一男に人生を壊されたかれとの出会いでこういうことを悟ることになるとは。
めぐりあわせに畏怖するのみである。
この夜、孤独な人間同士が出会った。たがいに不幸を告白する。
小説や映画なら、なにか劇的なことがあるのだろう。
しかし、現実はなんにもない。なにも起こらない。どうにもならない。
(だからこそ小説や映画といったフィクションが求められるわけなのだが)
どうすればいいのですか?
わたしにはなにもできない。
わたしだって、どうすればいいのかと聞きたいがわにいる人間。
書いた小説を読んでくださいといわれた。
そんなことでいいのならお安い御用。こちらはひまじん。いくらだって読みます。
けれども、そんなことでかれが救われるのか。
聞かれた。ブログに過去の辛い体験を書いている。
反響がある。だいぶ癒されたのではないですか?
そんなことはないとわたしは否定する。表現することで救済されるというのはどうだか。
わたしの場合は、書くことでかえって苦しんでいる。酒量も大幅に増加する。
それなら、なぜ書くのかというと、うーん、サービス精神かな。
読んでくださるかたにたのしんでもらいたい。たのしむ、というのはちょっと違うか。
読み手を揺り動かしたい。そういう欲望かな。
ほかにしたいこともない。死ぬ以外は――。
えへへ。なんか、かっこいいことをいってやがる。
ビール生中も4杯目。
かれがわたしのペースにつきあってくれたのである。
見ると、目がすわっている。酔いがまわっているのはあきらか。
怖いとふたたび思った。攻撃される危険を感じた。いやな沈黙が流れている。
心配は杞憂に終わる。ここでかれのいったことがおもしろい。最高だ。
「いまから原さんのところを襲撃しませんか」
原一男の事務所「疾走プロダクション」はここから歩いて10分もかからない。
犯行計画は未遂に終わった。
あと2、3杯のんでいたらあの事務所へ火をつけに行ったかもしれない(笑)。
ラストオーダーが計画を妨害したのである。ふふふ、命びろいしたな、原さん!
店のそとにでる。新宿歌舞伎町を背景にしてかれを見るとふしぎな感に襲われる。
このかれがいったのだ。
自分より不幸な人間は世界中でそうはいないと思います。
心情はよくわかる。わたしもおなじように思うことがある。
しかし、この男が! どこから見てもいい男である。
異性からもモテるだろう。定職がある。資格取得の勉強をしている。
町中でかれを見て不幸だと気づく人間はおそらくいないのではあるまいか。
それでもかれは不幸なのである。ひとは見かけによらぬ。
だいぶ酔ってふらふらしているかれから別れ際にいわれた。
「ありがとうございます。突然、会っていただいて。迷惑だったでしょう」
いえいえ、そんなことありませんよ。
これでほんの少しでもかれの重荷が軽くなるのならわたしもうれしいです。
心配なのは、ある種の秘密を話してしまったことをかれが後悔するのではないか。
ご安心ください。わたしは毎日、浴びるように酒をのんでいる。
そのうち酒が記憶を洗い流すことでしょうから。
いや、酒がわたしの生命を断絶するほうが早いのかもしれない。
この記事も細心の注意をはらって書いたつもり。
ここまでは書いていいという許可にしたがって書いている。
「本の山」では毎回のことですが、
もし削除・改変を希望する箇所があったら教えてください。
即座にご意見のとおりにいたします。
(追伸)あの居酒屋はなかなかよかったですね。
わたしは自炊専門なので他人の料理がことさら美味に感じられます。
シャキシャキサラダ、ベトナム風青菜炒め、ジンギスカン――。
ぜんぶ380円。レシートをなくしてしまったので店名不明ですが。
ぶじに家まで帰れましたか。
わたしは最後までしらふ。帰宅してから強い酒をがんがんのみました。
だって、どうしようもない。お酒をのむしかありません。
山頭火の句である。
カテゴリーに「雑記」を追加した。
本来、ブログというものは「雑記」を書くもののようである。
タレントや政治家といった有名人が日常の些事を記す。支持者が読む。
とすると、うちはブログ一般から程遠い。
書くことといったら、だれも知らないような本の感想ばかり。
それもまとまりのない長文。およそブログにはふさわしくない。
ほかのブログを読む。納得する。うちのブログはおかしい。
どのブログもたいがいは毎日の雑記で形成されている。分量は5〜10行ほど。
ふしぎに思う。だれが無名の人間の雑記など読みたいのだろう。
しかし、そういうブログのほうが、この「本の山」よりアクセス数が多いのは事実。
今回、実験的に「雑記」を書いてみようと思ったゆえんである。
この「雑記」は目についたらお読みください程度。
こだわりもなにもない。脱力して書きたいことを書く。
ところが、また不安になる。無名の人間がそんなことを書いていいのだろうか。
文章を書くとは、もっと神聖な行為ではなかろうか。
酒について書く。好きなことについてだらだら書く。ブログの定型である。
わたしは頭痛もち。以前、頭痛専門の病院を受診したことがある。
えいや、無名ブログの特権。書いてしまおう。慶應大学病院頭痛外来である。
この専門医ほど不愉快な医者にこれまで会ったことがない。
そのくらい頭にくる診察を受けた。かの医師はわたしを人間として扱わなかった。
モルモットのように観察された。最後は脅迫まで。
うちに来月も来ないと、あなたの頭痛は一生治りませんよ。
もちろん受診したのはその1回きりである。
その医師とのやりとり。
「お薬をだします」
「えーと、その薬、お酒との相性はどうでしょう。
わたくし、晩にはお酒をのまなければならないので」
「まるで飲酒が義務のようですね(医学生数人と大笑い)」
この医者を殺してやろうかと思った。
だが、この神経科医が笑うのも無理はない。
たしかにお酒をのまなけらばならないという表現はおかしいのだろう。
わたしにとっては、しごく当たり前のことなのであるが。
かといって、いちいち6年前の母の悲劇を語るわけにはいかない。
笑われる屈辱をぐっとこらえた。診療費は1万円を超過。いまでもこの医者を憎んでいる。
ほぼ毎日のように酒をのんでいる。これを書いているいまものみながらである。
どうしてこうも酒をやめられないのだろうか。
酒は命の泉という。これは真実である。酒をぐいとあおる。
こうしてはじめて生きているという実感が体内に生じるのだから。
どのくらいむかしになるのだろう。酒のせいですっかり記憶力が減退した。
このブログがきっかけで知りあったかたと酒をのんだことがある。
のもう! はい、のみましょう! 意気投合した。初対面である。
結果はどうだったか。わたしはそのひとのまえで泣きじゃくった。
眼前の酒を相手の顔にぶっかけた。いきなり顔をひっぱたいた。酒乱というほかない。
いま思い返してもおのれの非道に赤面する。
信じられないことだが、かの紳士はこんなわたしを寛容にも許容してくれた。
いまでもつきあいがある。ブログをはじめてよかったことのひとつである。
かれの酒ののみかたを観察した。
6年前のあれ以来、他人と酒をくみかわすことなど皆無である。
かれはまず、どばっと食べながらのむ。
それ以降はゆっくり亀のように酒をちびちびなめる。
ほう、こういうのみかたが通常なのかと感心した。
わたしは酒をのみはじめたら最後までのむ。
つぶれるまでのむ。食べつつのむ。毎日である。
制限しようとは思わない。酒をのみながらこのまま死にたい。そう思うからである。
人間はうまくできている。翌朝、きまって布団にいるのだから。
記憶をなくすまで毎日のむ。毎朝なぜか布団で目覚める。人間はすばらしい……。
酒をぐいとのむ。うまいと思う。しあわせを感じる。
酒と本とネット。この3つのおかげでいままで生きのびることができたようなもの。
こんなダメ人間のわたしに会いたいというメールが今日来た。
わたしはいわば対人恐怖症。
このメール送信者も、文面からうかがうに、かなり危ない。
酒をのまずには話せないとこのかたにいおうか。それでも会いたいというのだろうか。
本人の許可がでたら、ここに対面の詳細を書くつもりである。
毎日、なーんにもない。だから占いが好きである。
毎朝、テレビで確認する。今日は運命のひとと出会えるかも!
ふむむ? 今日は今までの努力がついに報われる? 新たな才能が開花?
懸賞に当選するかも! えーと、わたし懸賞に応募していないけどな……。
なぜ占いが好きなのか。1日の希望がもてるからである。なにかあるかもしれない。
占いなど当たらなくてもいいのである。思えば、占いが当たったことは一度としてない。
それでも占いが好きである。たとえばTBS「24星座占い」で1位だったとする。
これだけでうれしい。なにもなくてもかまわない。占いで1位だったことだけで満足。
おかげで1日、なにかあるかもしれないという期待をもつことができるのだから。
4月20日。どこの占いでもわたしの星座の運勢はよかった。
今日こそなにかあるかもしれない。なにか? 劇的なことである。
歩いて近所の神保町へ。足取りは軽い。
いつものワゴンをチェック。神保町で古本を買うならワゴンしかない。
神保町で安くいい本を買えるのはワゴンのみである。
といって、今回ワゴンからひろった本がそうたいしたものではないのが恥ずかしい。
そうそう宝物があるわけではない。だからいいのでもあるが。
「ハムレット」(シェイクスピア/木下順二訳/講談社文庫)絶版 100円木下順二はこの文庫版のあとにさらなる改訳をしている。
この翻訳では満足できなかったということである。
坪内逍遥の真似か。坪内も死ぬまで何度かシェイクスピアの改訳を試みている。
そのためこの文庫版はいわば旧訳。それを知りつつも買うのはハムレットきちがいゆえ。
ハムレットにわたしは演劇とはなんたるものかを教わったのである。
「ひと我を非情の作家と呼ぶ」(丹羽文雄/光文社文庫)絶版 100円おなじワゴンにて。丹羽文雄はだいぶまえに読み込んだことがある。
この作家はいう。じぶんの「泣きどころ」は母である。
出世作「鮎」から晩年まで、母の問題を追及した。言いかたをかえれば母を食い物にした。
わたしの先行作家のひとりである。そう思うと、つい買ってしまう。
読むのかどうかはわからない。もうわたしの中で丹羽文雄ブームはとうに消えている。
神保町三省堂書店本店へ。ここは学童期からお世話になった。
本を買うのはいつもここであった。こんなことを書いてもいいのかな。
笑うなかれ。三省堂の就職試験を受けたこともある(笑)。
だから、笑うな! あ、笑っているのはわたしか。書類選考クリア。一次面接落選。
「オセロー」(シェイクスピア/松岡和子訳/ちくま文庫) 880円+税
「立ち飲み屋」(立ち飲み研究会/ちくま文庫) 780円+税どちらも4月のちくま文庫新刊。
「オセロー」目的だったのに、うっかり隣のお酒エッセイも買ってしまう。
780円。新刊は文庫といえ高い。しかしたまの贅沢。
きれいな本を読みながらのむお酒。ううう、たのしみである。
「オセロー」は松岡和子シェイクスピア全集の13冊目。これは集めている。
12冊目まですべて読んでいる。小説はわからないが、
戯曲の訳は新しいほうを読むべき!この法則にしたがっているわけだ。その理由は――。
書きことばは生命力が強い。古典の場合、古い語法がかえって味わいになることもある。
だが、話しことばの寿命は極めて短い。あっという間に賞味期限が切れてしまう。
これは小説と戯曲の本質的な相違にも関係する。
英語圏の演劇関係者は他国をうらやむことがあるという。
あのシェイクスピアを現代のことばで演じることができるからである。
三省堂まえの坂をのぼり御茶ノ水へ。丸の内線に乗りいざ池袋。
約束がある。このブログ「本の山」がきっかけで知り合った、ある演劇人と会うのである。
この日の天気はおかしかった。
晴れたと思ったら雨がふる。かと思えば、また太陽がさんさんと照りつける。
シェイクスピアの「マクベス」を思いだす。
マクベスが舞台に登場し最初に発することば――。
「So foul and fair a day / ひどいのか良いのか、こんな一日は初めてだ(松岡和子訳)」マクベスのまえに魔女が現われ予言をする。予言は現代の占いではないのか。
勇将マクベスは予言に、つまりは占いにそそのかされ行動する。
善政をしくダンカン王の暗殺である。
池袋。御茶ノ水ではどしゃぶりだったのに快晴である。
到着したのは約束時間3分前。わたしが約束した時間に遅れることはめったにない。
15分前に行こうと毎回、思っている。するとなぜかきまって2、3分前に着く。
かの演劇人は、すぐにわかった。おもしろいものである。
メールを交わしただけなのに、ぱっと相手がわかる。
かれはだいぶまえから待ち合わせ場所にいたといった様子。
申し訳なく思う。喫茶店へ。
1時間ほど、お話をうかがう。約束の文庫本をプレゼントする。
詳細はこちら↓。想像(妄想?)していた劇的なことなど、なーんにもなかった。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-607.htmlおのれの性格のわるさがいやになる。わざわざこういう発言をする。
「わたしの関心は劇とはなにか。そういうことなのです。
もちろんシェイクスピアもギリシア悲劇もぜんぶ読んでいます。
(=あなたは読んでいますか。演劇人のくせに読んでいないでしょうという威圧)
「ストリンドベリやユージン・オニールを上演しようとは思いませんか。
わたし好きなんです。この劇作家をご存じですか」
「……どこかで作品を読んだ記憶があります」
(ここでウソだろうと思ってしまうわたしの意地のわるさ)
わかれた。かの演劇人にはかなりの迷惑をかけた。
絶版文庫をプレゼントしたからといって許されるものではない。
当日の晩、謝罪のメールを送ったが、その後一切返信はない。
よほど怒っているのだろう。ここでふたたび謝罪する。
もちろんあの演劇人がこんなブログをもう読んではいないのを知っての上である。
空は真っ青。いつのまにかいい天気。
「第3回池袋西口公園古本まつり」へ行く。
こんな早く会談が終わるとは。いろいろな妄想をしていた。
かの演劇人と意気投合。深夜まで酒をくみかわす。熱い演劇論の応酬!
現実は、なーんにもない。劇的なことなど、人生にそうは起こらぬ。
ゆっくりと時間をかけ、この「古本まつり」全店を物色する。
買ったのは1冊のみなのだからさみしい。
雑誌「新劇 1974年2月号」 300円テネシー・ウィリアムズの戯曲「小船注意報」が収録されている。
こんな翻訳が存在するとはそれまで知らなかった。
しかも訳者は鳴海四郎。一流の学者である。とすると上演されたにちがいない。
テネシー・ウィリアムズは果たして「ガラスの動物園」「欲望という名の電車」。
この2作だけの作家であったのか。いずれ検証したい。
帰宅する。日が沈もうとしている。今日も1日、なーんにもなかった。
床のうえに今日買った本をならべる。シェイクスピア。「オセロー」「ハムレット」。
オセローのことをしみじみ思う。
いままでわからなかったことがある。
なぜオセローともあろうひとが、あっさりイアーゴーのウソにだまされたのか。
オセローの新妻、デズデモーナが浮気をしているという
部下イアーゴーの讒言(ざんげん)ある。
新婚のオセローは恐怖していた。われらとおなじである。これから先、なーんにもない。
そんな人生はたえられぬ。なにか起こってほしい。劇的なことを欲望する。
オセローはイアーゴーの虚言を信じたわけではない。かれは嫉妬したかったのである。
愛する妻とこのまま平穏無事に暮らす生活にたえられなかった。
だからオセローは妻を疑った。憎んだ。憎悪こそ愛情である。
オセローの妻への疑惑は終盤に晴れる。
愛妻を殺したオセローはその後を追う。自死する。
さぞかしオセローは満足だったと思う。
平凡な生活を何十年過ごしたからといってなにがある。
一瞬に生きる。激しい感情を生き抜く。劇を演じる。人間にこれほどの喜びはない。
オセロー将軍はこの悦楽を証明したのである。
ハムレットも同様である。
このデンマーク王子は憂鬱でしかたがない。なーんにもないからである。
人生、わかりきっている。いまの身分は王子。やがてはデンマークの王様。
おそらくオフィーリアと政略結婚をさせられる。
愛情がないわけではないが、結局は仕組まれたものである。つまらない。
人生はこんなものか。もっとなにかないのか。過激なことをしたい。自由な人生を欲する。これは宿命への渇望と同義である。
退屈な人生などごめん願う。じぶんだけの人生を生きたい。おのが宿命を確かめたい。
ハムレットは不遜である。劇を起こそうと思っているからである。
ここにハムレット劇の特徴がある。
おしなべて芝居というものは、劇中人物がなにかを待っている。
待ち人が来ないことでさえ劇になる(ベケット「ゴドーを待ちながら」)。
ハムレットは劇の勃発を待ちくたびれている。思う。じぶんが劇を起こしてやろう。
ここに古今万国の観客を「ハムレット」が魅了する秘密がある。
マクベスは魔女の予言をきっかけに野望を実現させた。
オセローは部下イアーゴーの讒言を利用し劇を起こした。
ハムレットは亡霊の登場を劇の機縁にした。ハムレットは亡父の霊を見たかったのである。
なーんにもない。つまらない。なにか起こってほしい。劇を渇望する。
結果、マクベス、オセロー、ハムレットのように死ぬことになろうがかまわない。
死がなんだ。なにも起こらぬありきたりな日常より、よほど死のほうがいいではないか。
待っている。登場を待っている。現われよ、魔女、仇敵、亡霊――。
いや、待っていてはダメだと教えてくれたのはハムレットである。
ハムレットにしたがうなら、劇はみずから起こさなければならぬ。
しかし、どうやって? 毎朝、占いを見るだけではダメなのである。だが、しかし――。
「迷惑旅行」(山口瞳/新潮文庫)絶版
→お酒をのみながら読んだ紀行文。
いきなり引用する。
「『奥の細道』だって、いい加減なものだと思っている。
さあ、同じ宿屋に遊女が泊っていたかどうか」(P186)
これは「奥の細道」唯一のロマンスについての寸評。
市振だったかな。芭蕉が遊女とおなじ宿へ。
翌日、旅の同行を求められるも芭蕉が断る。
あのシーンのことを山口瞳は言っているのである。
あれだってウソかホントか知れたものじゃありませんぜ!
山口瞳はスケッチ旅行をしている。
どこで絵を描くかが問題である。
実際はタクシーで行ったのに、エッセイではその場所を難所と設定する。
歩いて4時間かかるとウソをつく。
すると紀行エッセイに凄みが生まれる。おもしろくなる。
そういう文脈で「奥の細道」を引き合いにだしたのである。
まったく同感である。
「奥の細道」は芭蕉の創作だと思う。
だからこそ、読者を魅惑する。
読者としてはおもしろいものを読みたい。
作者としてはおもしろいものを書きたい。
要はおもしろければ、なんだっていいのである。
これじゃ、研究者の出る幕がありゃしませんね、旦那!
「ゴーゴー・アジア」(蔵前仁一/凱風社)
→蔵前仁一さんは旅行の達人!
旅の楽しみかたを実によく知っている。
したがって、このエッセイも大満足。
旅行といえば2年前のインド。
どうしてか3ヶ月ものあいだインドをふらふら。
行くまえに悩んだのが旅行保険。死亡時の保障金額。
インドで死んでもいいという悲壮な決意があったのです(苦笑)。
自殺できないからインドに殺してもらおう!
修行僧のような顔をしていざインドへ。
いやあ、じぶんでも笑っちゃいます。
インドでも酒びたり。新たな町へ入るとまず酒屋の位置を調べる。
バックパックにはウイスキーを常備。
日本人旅行者に会うと、笑われました。
あなた、おかしい。なんでお酒を持ち歩いているの?
えーと、なんの話だったか。
そう、旅行!
わたしは旅行のたのしみがちっともわからない。
インド滞在時は毎日、日本が恋しくてたまらなかった。
でも、まあ、なんだ。
2年も経つ。こんなアジアエッセイを読む。
あのインド旅行がとても貴重な思い出のような気が……。
わたしにとって旅行の最中はなんの魅力もない。
行くまえがたのしい。帰国後しばらくしてからがたのしい。
旅これ人生とは芭蕉先生のお言葉。
とすると人生もおんなじ?
たしかにそうである。
いま生きているのはいやでしようがない。
しかし未来を夢見るのは悪くない。
数少ない幸福な過去を思い返すのも同様。
これは困りましたね。
「現代によみがえる歎異抄」(高史明/NHKライブラリー)
→高史明さんというのも、わかんないひとだよな。
息子さんの自殺がきっかけで「歎異抄」の世界を奥深く分け入った。
わたしも母を自殺でなくしている。
かれの「歎異抄」概説書を読めば、懊悩の出口があるかもしれないと期待する。
これで高史明さんの「歎異抄」関連本は2冊目。
どこにも悲嘆を克服する方法めいたものは書かれていない。
例によって、環境破壊はどうだの、少年犯罪はどうだの。
そんなことを書いている場合かと思うけど、うーむ、どうなんでしょうかね。
「歎異抄」はいつしか身近なものになっている。
この古典は自己啓発書の対極。読んでいると気分がほぐれる。
がんばっても報われるものではない。すべては阿弥陀さまにおまかせ。
どこかのだれかさんにみたいに「もっと強く生きる」など見栄をはる必要もない。
わたしがこれからどうなるかは阿弥陀さましだい。
お酒におぼれて死ぬかもしれない。
母と同じ道をいくのかもしれない。
あるいはひとをあやめる宿業をもっているのかもしれない。
どうなってもいいのである。もう死後の往生は確定しているのだから。
自殺や殺人が悪だとは限らない。人間に善悪はわからないゆえ。
ああ、南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
生きているあいだの不幸がなんだ!
死後の浄土を思えばへっちゃらさ(ほんとうか、おい!)。
「喪服の似合うエレクトラ」
(オニール/菅泰男訳/「ノーベル賞文学全集20」主婦の友社)絶版 *再読
→戯曲。米国産。
いま新刊書店で唯一購入できるオニールの戯曲がこの「喪服の似合うエレクトラ」。
訳の古い岩波文庫版が今年の2月に復刊されている。
だいぶ悔しい思いをした。オニールをひとりじめしたかったのである。
(「本の山」でオニールに興味をもったかたがいるかもしれない。
今回はネタバレを避ける。おすすめというわけではない。オニールはわたしのもの!)
宿命の劇である。これほど宿命に固執した戯曲をみたことがない。
だが、本来、宿命と演劇は強い結びつきがあるのではないか。
宿命というのは避けられないこと。どうにもならないこと。
自由律俳人・山頭火の句「どうしようもないわたしが歩いてゐる」における、
「どうしようもない」の境地である。
ほかに選択肢がいくつもあったはずなのに、どうしようもなくいまの人生を選んでしまった。
自由に生きてきたはずのこの人生。ふりかえると必然めいたものに思える。
これが宿命の思想である。演劇もそうではないか。
役者は舞台のうえであたかも自由のごとく奔放にふるまう。
だが、その実、戯曲から一瞬たりとも離陸していないのはみなの知るところである。
死人の劇である。死人が死人を呼ぶ。
父のかたきを殺したあと、オリンは述懐する。
「もし僕がこの男だったら、同じことをしたろうな!
僕も、この男が愛したようにお母さんを愛して――お父さんを殺しもしたろう
――お母さんのために」(P349)
オリンは思う。いま横たわっている死人はじぶんではなかろうか。
殺した