ここ2ヶ月くらい、本の神様から見はなされた気がする。
探求書にも、掘出物にも、ぱたりと出会わなくなった。
それをどこかで喜んでいるじぶんもいるのである。
いつ引越しを言い渡されるかわからない。
そうなった場合、本は邪魔なだけ。
これはほんとうにどうなるかわからない。なるようにしかならない。そう思っている。
やはりこういう意識が反映しているのか。
オカルト好きがいうよう、外界はすべて深層心理に左右されるのか(苦笑)。
めっきり本との出会いがなくなった。

今日こそはと思いつつ、同時にどうせ今日もとあきらめながら、夕方神保町へ。
久しぶりのいい天気。これならきっとなにかあるのではないか。
まず田村書店ワゴンを。ここにはどれだけお世話になったか。
この古書店は良書をそうと知りながら安価で投売りする(ワゴン限定だが)。
もちろんいいことずくめなことがあるはずはない。店主が異常者。
ワゴンに群がる客をどぶねずみとバカにしている。
プライドかリーズナブルか。後者を選択したわたしである。

田村書店。今日も収穫なし。ここで最後に買ったのはもうどれくらいまえになるのか。
なんでこうも古本のヒキが弱くなってしまったのだろう。
このあと、神保町の恒例訪問場所を足早に巡回するが、めぼしい本はゼロ。
なんで、なんで、どうして?
むかしはじぶんでも驚くほど古本のヒキが強かった。
驚くべき良書を、恐いくらいの安価で購入していたわたしである。
これは本を読むのをやめろということだろうか。もしや書けと? しかしなにを?

三省堂まえの坂をのぼり御茶ノ水へ。
中央線で神田。山手線で新橋へ。「新橋古本まつり」である。SL広場前。
この「新橋古本まつり」には、いままでどれほどお世話になったか。
毎回、行くごとに掘出物と遭遇した。本を何冊もかかえて、ニコニコ帰宅したものである。
何時までかを聞く。8時まで。よっしゃあ! てっきり7時までかと。
よし、本腰を入れるか。本を見ていく。どうしても不安が消えない。
ほしい本が見つかる気がしないのだ。邪念よ消えよと思いながら、本を見ていく。
いつしか終了。今日も1冊も本を購入せず――。

新橋まで来て坊主は、おそらくこれがはじめてのはずである。
わたしのスランプはそうとうなものなのかもしれない。
新橋駅前はうるさい。右翼団体と左翼団体が、並んでスピーカーで騒いでいる。
古書の収穫がなくていらいらしているわたし。
拡声器には日ごろから恨みがある。喧嘩を売ってやろうかと思った。
しかし、さすがは新橋。護衛の人数が多い。
迷彩服を着込んだ団体職員(?)が数人、車上の演説者をガードしている。
あきらめる。帰宅する。夕飯の買物である。
近くのセレブ御用達スーパー。

キュウリ3本(千葉産) 100円×3

このスーパーのキュウリはよろしい。にんまり買い込む。
あとはいつもの下流社会人用のスーパーへ。ありふれたお買物。帰宅。
ううう、1冊も本を買っていないではないか。買いたいのは、キュウリではない。
本を買いたいのである。めずらしい本を、安く買いたいのである。
いつになったらこのスランプが終わるのだろうか。
古書との出会いがなくなるかわりに、人間との出会いが生まれるということなのか。
それならそれで天命を受け入れるよりほかない。

今日買った本はゼロ。

それもさみしいから、以前に買った本の報告を。
購入したくせに報告していない本もあるのだ。

「アエラムック 仏教がわかる。」(朝日新聞社) 1300円

いつだったか。池袋のリブロで購入。平積みされていたので。

「世界がわかる宗教社会学入門」(橋爪大三郎/ちくま文庫) 780円

近所の神保町三省堂書店で購入。ちくま文庫、今月の新刊。
いくら文庫とはいえ、わたしが新刊を買うのはめずらしい。
おっと、レシートがはさまっている。5月27日購入。

いつになったら古本のヒキが戻るのか。
キュウリをぽりぽり食べながら思う。
ビール(もどき)をぐびぐびのみながら嘆息する。
キュウリがなくなったら、「柿の種 夏のマヨネーズ」を開封。
「柿の種」をうまいと思ったことは皆無である。
しかし、この「夏のマヨネーズ」だけは例外。これはいける。
本のヒキが弱くなったかわりに、つまみのヒキが強くなったのかと疑うくらいである。
「ヴァイブレータ」(赤坂真理/講談社)

→世の中、いろいろだ。こんな小説を読んで感動するひともいるのだから。
あ、ここにあたしのことが書かれている!(帯の宣伝文句) なーんて。
どこまでおまえらは安っぽいんだよ。
もっとさ、じぶんを大切にしないか。三文小説に発見するじぶんってなんだい。
ページを開くと、うざい描写がえんえんとつづく。
主人公は「あたし」。売れっ子のライター。言いたいことがあるらしい。
なーに、むずかしいことではない。

「センサイなあたし」

これだけである。あたしって、ちょー感性、鋭くてえ。だから、生きにくいの。
流行の摂食障害はもちろん装備。だって、あたしはセンサイなんだもーん。
あたしあたしあたし。あたしをわかってえ~。
物語も陳腐極まりない。いきなり男が現われ結ばれる。
トラック運転手。数時間後には車内でえっさかほいさか。
センサイなあたしはお盛んですな~。
この男というのが笑えるのである。強くてワルい、マッチョ系!
おれはむかしワルやっててえ、ヤクザにも入ったんだけどよ~。
ギャグ漫画かよ。センサイなあたしのまえに現われる理想の男。
小学生女児の妄想だって、いまどきはもっとおもしろいだろうが。
センサイなあたしはトラック野郎に連れられ日本各地をぐるぐる。
この勘違い女が求めているものが物語終盤に明らかになる。

「どうしてこの人はあたしのことをわかってるんだろう?」(P164)

ふきだした。赤坂真理は、センサイなあたしをわかってもらいたいのね~。
願望をそのまま小説に書くのはやめませんか赤坂せんせえ。
さて、どうしてこの人はセンサイなあたしをわかるのか?
むずかしい問題ですね。
偏差値が低いからじゃないんですか。たしかこの男の設定は中学中退。
センサイなあたしには男よりもオスがふさわしいのでしょう。
つぎは養護学校あがりなんてどうです? おっと、これ以上は自主規制。

これはあるひととの会話で登場した本。
わたしはひまじんだから、すすめられた(と感じた)ら、まあ読む。
こんかいこのような感想を書くにいたったしだいである。
もちろんブックオフ105円本。80分で読了。

ここはまさしく「本の山」である。
はじめてこのブログへいらしたかたは、よくもまあとあきれることでしょう。
本ばかり読んでいる。「どうしようもないわたしが読んでゐる」
山頭火の俳句「どうしようもないわたしが歩いてゐる」の真似だが、
実際、どうしてこんなに読書をするのかと問われたら、そのように答えるほかない。
どうしようもないのである。

濫読である。節操がないとじぶんでも思う。
おもしろそうだなと思ったらどんな分野でも分け入っていく。
「分け入つても分け入つても本の山」
これも山頭火の「分け入つても分け入つても青い山」のパロディーである。
物識りになりたいわけではない。クイズ王などバカにしている。
たしかなものをつかみたいのである。それは読書では得られないという批判もあるだろう。
いまを生きている人間と向き合わなければならないという意見のことである。
そのとおりだと思う。人間と出会っていきたいと思う。

しかし、なのだ。生身の人間は、そう簡単には本音を吐かぬ。
えんえんと当たり障りのない会話をして、それでも真実をみせない。
最後までいつもの仮面で通されるのが関の山。
何ヶ月、つきあおうが人間はそうそう仮面を脱がない。
新たな仮面でもいい。見たいと思う。
だが、どうしたって使い古しの仮面がいちばん。
生活者は仮面をかえることでさえ億劫に感じるようである。
これをつまらぬと思うのがわたしの病(やまい)なのかもしれない。
見たいと思う。その人間全体を見たい。仮面の裏側を見たい。正体を知りたい。
かといって、真実の顔などないという思想を否定するつもりはない。
真実がないのならそれでもいい。
すべては仮面。なら、その人間がもっているあらゆる仮面を見たいと思う。
下世話なのぞき見根性と紙一重である。
これにはどんな方法があるか。たとえばカメラをまわすという手がある。
ドキュメンタリーを撮る。カメラで相手を追い込む。劇的な状況へ向かって。
人間はカメラのまえで演技をする。仮面をつけかえるということである。

だが、我われ知識のないものが、頻繁にカメラを持ちだすわけにはいかぬ。
そこで読書なのである。
活字によって、ある人間の真実を知ろうとする試み。
これこそ最高に贅沢な読書ではないか。
いろいろな読書がある。ベストセラー、実用書、研究書――。
わたしも多様な読書を経て、いまにいたっている。
結果、思うのである。どの読書がもっともおもしろかったか。
ある作家をとことんまでストーカーをする読書である。
これだと思う作家を見つけたら、その作家を徹底的に読み込む。
全作品を読むのはもちろんのこと。かれが影響を受けた先人の著作も読む。
その作家の手紙が公開されているなら、それも貪欲に目をとおす。
かれについて書かれた評論から、友人の人物評(エッセイ)まですべて調べる。
評論家の目にはこういう人間にみえる。
その該当作家が、友人の作家にはちがったようにみえる。
これぞ人間を知る喜びである。生身の人間ではこうはいかない。

むろん作家なら演技をする。作家とは、おのが演出に長けた人種である。
ことばのちからでなんとかほんとうのじぶんを隠そうとする。
その所産がかれの作品だという見方もできよう。
なら、こちらもその前提を知ったうえで、向き合わねばならぬ。
文章は仮面である。かれはいくつの仮面をもっているのか。
仮面の裏側にはなにがあるのか。
かれが作家なら、このような向き合いかたをすることができる。
それがなんともたのしい。
この読書法にくらべたら、雑学知識を仕入れることなどバカらしくなる。

人間はだれしもひとりの人生しか生きられぬ。

ところが、この読書をするならば、ふたり、さんにんの人生を体験できるのだ。
ひととして生きるうえで、これほどのたのしみがほかにあろうか。
だれもがその人生しか生きることはできない。
どう願ったところで、べつの人間の人生を経験することはできない。
ものの見方もどうしようもなく制限を受ける。
だが、このような読書をするなら――。
徹底的にある人間をストーカーすることができる。
その結果、人間が、人生が、それまでとは違ったように見えてくる。

読書のちからである。
魅力的な人間とひざつきあわせての丁々発止。
実人生でこれをできるのは選ばれた幸運な人間だけである。
けれども、読書でなら、だれしもこの愉楽を味わうことができる。
先日、ユージン・オニールというアメリカの劇作家でわたしはこれをやった。
なんとも有意義なときを過ごしたものだと満足している。
きのうは山頭火の関連書を読む。
山頭火は何年もまえに集中してストーカーをした作家である。
あれからだいぶ経った。そのせいか山頭火が以前とはことなって見える。
日本古典文学を少し勉強したためか。万葉集、古今新古今、西行、芭蕉――。
あるいはわたしが変化したせいかもしれない。あえて成長とはいわぬが。

この読書をするなら、あまり知られていない作家がよろしい。
さらにいうなら、もう没している作家のほうがなにかと都合がいい。
じぶんだけが知っている作家が存在する。
そう思うだけでも、この味気ない人生が少しはかがやくというもの。
読書をする。どんな知識もいつしか忘れる。
しかし、このストーカー読書で得られるのは知識ではない。
ある作家が誕生する。生きる。喜怒哀楽する。甲斐なく死ぬ。
この読書をするなら、生きるということの本質に迫ることができるのである。
もちろん生きた人間はおもしろい。
だが、こう考えると、死人もおなじように魅力的なのではないか。
ここのところどうも不調である。
もしかしてこれをスランプというのか。
かつてこんなことはなかった。
どうにもこうにも古本との出会いがうまくいかない。
ろくな本とめぐりあえぬ。
なにしろ古書店との相性が……。
ここ1ヶ月、古本屋で書籍を購入したことがない。
つまり掘出物がない。
ブックオフでクズ本を買うばかりである。
なぜ買うのか。何度も繰り返すが、本は読むより買うほうが楽しいからである。

以下、すべてブックオフ105円本。

「父の目方」(宮本輝編/光文社)
「宗教のキーワード集」(学燈社)
「シナリオへの道」(石森史郎/映人社)
「直木賞作家になれるかもしれない 小説家」(高橋克彦/講談社文庫)絶版
「芥川直木賞のとり方」(百々由紀男/ブック・クラブ)絶版


古本生活開始以来、こんなスランプはなかった。
いったいどうしたのだろう。わけがわからない。
人間の真実とはなにか。
生まれる。死ぬ。このふたつ以外はなにもない。
ところが、日常生活をいとなむ人間は、このふたつの真実からたえず目をそむける。
人間は生まれ、そして死ぬ。
生まれる。そこに人間の自由意志はまったくない。
人間はだれしも生まれてきたくて誕生したわけではない。
なら、両親の欲望の結果かと考えるが、かならずしもそうとばかりは言い切れぬ。
生まれる。そこに自由はない。ある両親のもとに生まれる。
子は父と母の長所・短所を引き継ぐ。両親の身分・貧富に人生を左右される。

人間は生まれ、そして死ぬ。
死ぬ。ここには自殺というわずかな自由がある(希少な自由ゆえ重宝すべし)。
だが、たいがいの人間にとっては死もまた(生と同様に)支配できない。
人間はみなおのれがいつ死ぬかわからぬ。
あす交通事故に遭わないとだれが断言できよう。
いくら本人が交通法規を守ろうが事故は相手次第。
車に勝てる人間はいない。どれだけ品行方正を誇ろうが酩酊した運転者には通じない。
天災もおなじこと。大地震の死亡者はみな本人に責められるべきところがある。
こんなことを言おうものなら遺族になにをされるものか。

人間は生まれ、そして死ぬ。
6年前、母が死んだ。自殺であった。飛び降り自殺。
早朝、マンション下にいるわたしめがけて母は落下した。
翌日だったか。私淑していた映画監督の原一男さんに直接、教えを乞うた。
というなら、まだ形もつこうが、実際は泣きついたようなものである。
原一男さんには、大学で教わっていた。ただそれだけの関係である。
このドキュメンタリー映画の巨匠は、なにも口をはさまずに、
無言でことのあらましを聞いてくれた。

大隈講堂前の階段に腰かけながら、涙ながらに話した。
父の物語を。母の物語を。わたしを語るということはそれ以外になかった。
なぜ母は子の前で投身自殺したのか。
父はこういう男だった。母はこういう女だった。
しかるがゆえにふたりは結婚した。しかるがゆえにこの夫婦の関係は悪化した。
しかるがゆえに母はわたしの前で飛び降りた。前日までの物語である。
それまでなにも言わなかった原さんがぽつりとこぼした。話がひと段落ついてからである。
「親の因果が子に報いる」と原さんは言った。
「知ってるか。親の因果が子に報いる。むかしはこういうことばがあったんだ。
そうとしか言いようがない。親の因果が子に報いる」

かの巨匠はこうも言っていた。
「答えというのは、そのだな。問いの中に答えがある。
問いの中にしか答えがないと思うんだ。
いま、こうこうこうと話を聞いた。その中にしか答えはない。
おれが答えをだすというものではないと思う。問いの中に答えがある」

この日から何回、原一男さんに会っていただいたのだろう。
回数も期間も忘れてしまった。当時の日記を見つけだせば詳細がわかるのだろう。
だが、いまはそのようなことをする時期ではないような気がする。
先日、あるかたから問われた。原さんから、なにを教わったのか。
この質問者も、わたしとおなじく原一男さんの門下生である。
訊かれてはじめて悟る。なにも憶えていないということをである。
いろいろなことをうかがったように思う。
しかし、記憶していることといったら――。

ああ、いつだったか、こんなことを申し上げたことがある。
原先生。山頭火ってご存知ですか。
俳人です。ええ、原先生と同郷の山口県出身。
種田山頭火。自由律俳人です。わたしとおなじ、母を自殺でなくしています。
山頭火、存命中はいっさい報われませんでした。無名で終わったのです。
最近、思います。わたしも、山頭火でいい。
このまま表現の道を行きます。
結果、報われようが失敗に終わろうが、どっちでも……。
とにかくこの人生、すべてを表現のためにつかおうという覚悟ができました。

わたしの本心だったのか、演戯であったのかはいまでもわからない。
たしか、これが最後の面会になったのだと思う。個人指導の完結である。
原一男さんはよき指導者であった。わたしはじぶんで気づいた。
表現とは他人に教えてもらうものではない。
報われなくてもいいと覚悟の上で、それでも人生を賭して挑戦するもの。
それこそが表現である。芸術である。
原一男さんは偉大としかいいようがない。口にしてしまえば、こんなこと。
一瞬で情報は伝達できる。表現は孤独なもの。そう言えば済む。
しかし原一男さんは、わたしがみずから気づくまで待っていてくれた。
指導されたという感触がない。それなのに、新たな境地へ出発している。
原さんがよき師匠であったことをいまになってわかる――。

原一男さんから教わったこととはなんだろうか。
うん、まずそうだ。
ひとの真似をするなということである。
ひとがやっていない(やらない)ことをあえてやる。それが表現だ。
あと、もうひとつ。
妥協をするなということである。
ヒヨるな。食えていければいいなどとじぶんをごまかさない。
うえをめざす。とことんうえをだ。日本を揺り動かしてやろう。
そこまで考えて表現をする。もっと、もっと。そうおのれを鼓舞する。
このふたつである。自己に徹する。理想を高くもつ。

生きている。わたしはいま生きている。
これはどういうことか。
この世に生まれてきたということである。
いつか死んであの世へいくということである。
生きる。親の因果が子に報いる。死ぬ。
わずかこれだけのこと。人生などこんなもの。
だったら、と思う。それならば――。
どの道、人生はどうにもならぬ。
勝手気ままに生きてやろう。好きなように生きてやる。
やれるところまではやってみせる。限界までは、やりたいことしかやるもんか。
その結果、どうなるかはわたしのあずかりしれぬこと。
有名になろうが、このまま無名に終わろうが、たいしたちがいはない。
生きている。生まれてきた。いずれ死ぬ。
人間は、わかっているのである。
どうやったって、どうにもならないことがあることを。
そのくせなんとかできると信じるのが人間。
これが人間である。人間の長所であり短所でもある。
生きてやろうと思う。とことん人間らしく生きたいのである。
東西線早稲田駅をでる。ブックオフ早稲田店へ。
大学を卒業してからもう何年か。まさかこうも早稲田へ足を運ぶようになるとは。
大学時代、古本はNG。
だれがさわったかわからぬような本は手に取る気にもならなかった。
そもそも古本を必要としていなかった。
大学生のわたしはなにを読んでいたのか。
遠藤周作が好きだったな。あとは流行のものをひと通り。
龍、春樹のW村上を読み込んだのは恥ずかしい思い出。
龍のかるい小説を読んでは、「この国には希望がない」なんて憤慨してみたり(苦笑)。
春樹もよく読んだ。「ノルウェイの森」は文キャン(文学部キャンパス)のバイブル。
2回も読んだ記憶がある。で、クラスメートと交わす会話はこんなもの。
早稲田大学文学部の正体! 春樹って、こんなモテていたわけ?
まっさか~。小説って、こういうふうに書くものなんだね~。願望を書く。
あはは、あの顔でこんなこと書くのは犯罪だって、村上春樹!
なんていいつつも、文キャンの半数以上がハルキスト。
教授からして、春樹にかぶれているんだから、この大学は。

田舎もんで東京デビューいえーい! みたいな子にすすめられて読んだのは山田詠美。
おもしろいねと口裏をあわせていたけど、じつはどこがおもしろいのかさっぱり。
林真理子が好きな、おばさん女子大生もいたいた。
学生劇団に所属している美少年の後輩から、これは読むべきです!
なーんて必読書あつかいだったのは島田雅彦。けっ、つまんね!
あといるのはサブカル系。
おまえは二文(第二文学部)いけって感じのかれのご推薦は中島らも。
バンドをしていたロックなあいつは郵便局に就職したのだったか。
そうそう。多浪の学生は屈折していておもしろいんだ。
山本夏彦が好きな大学生ってどーよ? いつもため息をついていたな。
NHKに就職したお嬢様の好きな作家は鷺沢萠。
特別講師として、授業にきたことがあったな。
ギョーカイジンって感じが受けた。もと天才少女作家は、たしか不幸自慢をしていたような。
あはは、この女流作家が自殺したのはいつだっけ。へえ、あのひとがと思ったもの。

うん、ブンガクを意識したのは大学に入ってから。
このへんで芥川賞を受賞したのが辻仁成と柳美里。いまはどちらも流行作家。
受賞作を読みましたよ。若きうぶな文学門徒は。
辻仁成「海峡の光」。読みにくい文章だな。ふむふむ、これが純文学というものか。
柳美里「家族シネマ」。おもしろくないけど、これをおもしろいと思わないといけないんだ!
つづけて読んだ柳美里の自伝的エッセイ「水辺のゆりかご」がさいこ~。
大学生時代に読んだものの中で、もっとも揺り動かされたのがこの本かも。
ブンガクはあたまのいい学者さんだけがするものではない。
マック(関西はマクドだっけ?)で育ったような現代人でもじゅうぶん参入できる。
ふしぎな同時代意識を柳美里にいだいた。

時は経て2006年。あのころにはなかった早稲田のブックオフにいる。
いまわたしが早稲田の学生だったら週に数度はここに来るかも。
そのくらいブックオフ早稲田店はおすすめ。105円コーナーが充実している。
近くの高田馬場にもブックオフが2店あるけど、あちらは閉口。
流行作家をきちんと把握して決して105円に落とさない渋ちん(すごいことば……)。
この高田馬場の2店はブックオフの分際で(いーけないんだ差別!)プレミア価格設定も。
比して早稲田店は、そんなことがない。
出版されてすぐの本だろうと期限が来ればきちんと105円に落としてくれる。
店員のだれひとりとして、本を読むような顔をしていない。
穴場たりえるゆえんである。
だけど、今回はしょぼーん。わずか1冊のみ。

「ワールドガイド インド」(るるぶ) 105円

インドのガイドブック。最新版。写真がいっぱい。定価1650円。
今日はしけてやがるとブックオフまえの八百屋へ。これは安い。

「キュウリ」(8本/茨城産) 158円

嬉々として買ったはいいが持ち運ぶ労苦を計算していなかった。
これから高田馬場まで歩かなければならない。
古本初心者に推奨せよといわれたら早稲田~高田馬場しかない。
雨の心配のない、よく晴れた日に、どうでしょう!
散歩をかねて。スタートは早稲田ブックオフ。ゴールは高田馬場ブックオフ。
そのあいだにはさまざまな古書店がぎっしり。
ワゴンが売りの店がある(紅書房)。20円から本が買えます。
ほかにもいろいろ。神保町とくらべたら安いこと、安いこと。

もちろん古書店主人の9割は異常者(笑)。

キチガイ価格も見受けられます。
そういう本は2、3年、売れない。店主もそれでいいと思っている。
もうこうなると商売ではない。常人には理解できぬ世界であります。
この日は不調。坊主で高田馬場に着いてしまう。こんなことはめったにない。
期待は「BIG BOX古書感謝市」。なんとか1冊購入。面目をたもつ。

「ソビエト現代劇集」(野崎韶夫訳/白水社)絶版 500円

わたしが世界でいちばん嫌いな古書店。
神保町の矢口書店で8800円の値札をつけていたのを思い出し購入。
ふと、思う。ソビエト現代劇になんか興味あるのか。
収録されている戯曲のひとつでも読みたいものはあるか。
うむむ。これはにっくき矢口書店の呪いというほかない。
開き直る。いいもん!
白水社のこのシリーズは箱がおなじ色で集めていたのだから!
おい、本は読むものだろうと即座にじぶんへつっこみ……。

高田馬場ブックオフへ。大きいほう。

「素敵」(大道珠貴/光文社) 105円

べつに大道珠貴のファンじゃーない。
彼女の小説を読んだところで人生がかわるわけでもなんでもない。
ちょっと笑える程度。くすっと笑って、おしまい。たしかに、わざわざ読む必要はない。
だけど、まあ、105円だから。とりあえず現代ちゅーものを味わおうかと。
名作を決して生みだしはせぬ、この現代日本を体感するのだ~。
ほんとうに読むのか? ええ、そうです。迷ったのはそこ。
ただでさえ本であふれている。まあ、いざとなればまたブックオフへ。
だって「本を売るならブックオフ」。
この日買ったのはわずか3冊。どうもすっきりしないなと帰途に着く。
ビール(もどき)をのむ。キュウリをだす。洗う。切る。食う。うみゃ~い♪
「ハムレット」(シェイクスピア/木下順二訳/講談社文庫)絶版

→人生を劇にたとえる。
さしてめずらしい思想ではないが、もう少しおつきあいを。
この人生という劇はなにをもって終幕となるか。死である。
とすると、劇的な生きかたとは、常に死を意識した演戯にほかならぬ。
なるほどハムレットをみてみよう。かれほど死にとりつかれた男はいない。
最初の登場からして異常である。ひとり喪服の男、かれこそこの劇の主役ハムレット王子。
なにゆえ喪服か。ハムレットただひとり死を忘れていない。かれはひたぶるに亡父を思う。
ハムレット以外がそろいにそろって死んだ先王を忘れているのとはあまりに対照的だ。
かれらとて言い分はある。祖国デンマークは敵国に囲まれている。
いつまでも先王の思い出にひたっているわけにはいかぬ。
一刻も早く日常へ帰参しなければならない。日常とは死を忘れ去ることで成立する。

ハムレット劇の世界を図式的に明示するならこうなる。
白紙中央に縦線を引く。片方に「生」と書き、もう一方のがわに「死」と記す。
劇の冒頭、「死」のがわにいるのはハムレットだけである。
残りは全員、「生」の領域にいる。めいめいおのが場に点在している。
ひとり「死」を生きるのがハムレット。
「死」を生きるとは、なんとも矛盾した表現だが、こういうのがもっとも適当である。
ハムレットは常に劇を意識している。劇を意識するとは、間近な死の認識にほかならぬ。
喪服のハムレット王子は苦悩する青年でもある。
どうして人間はみなおのがくだらぬ生に気づかないのか。
死なないと思っているからである。
明日も1ヵ月後も1年後も、じぶんは生きていると信じているがためだ。
ハムレットはありきたりな日常を否定する。劇を求める。閉幕を意識する。
死を常時、視座に入れる。だから、ハムレットは先王の亡霊をみるのである。
この死に魅せられた王子のみが亡霊の声を聞くことができる秘密もここにある。

先刻、描いた図を思いだしてほしい。「生」と「死」を区分した。
ハムレット劇の激流は「生」から「死」へと向かう。
まずポローニアスが。つぎに娘のオフィーリアが死ぬ。
終幕直前、あたかもなだれのような亡者の行進ができるのはみなの知るところである。
さて、どこでハムレットは「死」を超越したかに注目したい。
「死」のがわにいながらそれでもハムレットは生きていた。「死」を生きていた。
墓場のシーンでハムレットは豹変する。これを成長というのかどうかはわからぬ。
だが、ここでハムレットがあるあきらめを持ったことだけは確かである。
異臭を放つ頭蓋骨を片手にハムレットは友人ホレイショーに語る。

「さあ、ご婦人がたの部屋へ行って、こう申し上げてこい、
おしろいを一インチお塗りになっても、結局、こんな顔になるんですよ」(P216)


ここにおいて、とうとうハムレットは「生」を完全否定するにいたる。
王子は髑髏(どくろ)をにらみ嘆息する。なにもかもむなしい。
いくら化粧をしようが死ねばこんなもの。名誉もおなじである。
王だろうが、金持ちの貴族だろうが、死ねばだれもかれも味気ないもの。
ハムレット劇で「死」が「生」を圧倒した瞬間である。
そうなのである。ハムレット劇の葛藤とは「生」と「死」の衝突にほかならぬ。
ハムレットのもっとも有名なせりふは象徴的である(「To be, or not to be」
されこうべを手にしたこの瞬間にハムレットは「生」にめざめたといってよい。
ここにおいてハムレットの「生」は劇中はじめての横溢(おういつ)をみせる。
「死」を御することによってハムレットの「生」が輝きはじめる。
ここからもうハムレットは迷うことがない。王子はおのが人生を手に入れた。
「生」と「死」の分裂は解消し、ハムレット劇は完成する。
我われはハムレットの死を見送り、めいめいの生に立ち還る――。

「オセロー」(シェイクスピア/松岡和子訳/ちくま文庫)

→オセロー将軍の声が聞こえる。

人間てえのはなんだ?

くだらねえ。まったく、くだらねえ。
おまえらそれでも生きているつもりか。
うまいものを食いたい。いい女と寝たい。いい男をつかまえたい。
金がほしい。長生きしたい。無事これ名馬かい。
なにより肝腎なのは健康。命が大事。ひとつの命は地球より重い。
冗談じゃねえ。生きてるってこたあ、そういうこっちゃない。
人間はそんな安っぽいもんじゃねえ。
もっとなにかあると思えないのかよ。もっとなにかある。ぜったいにある。
命なんか捨ててもいいと思えるような情熱だって人間は抱くことができる。
平凡な人生なんてぶっ壊しちまえ。もっと生きてみろ。おれを見ろ。オセローを見ろ!

……ふう。恋愛ドラマというのは男女がむすばれたところで終わる。
凡俗なテレビドラマのみならず、シェイクスピア喜劇でもこの形式はかわらない。
結婚したらもう終わりである。夫婦双方、相手に熱い思いを感じることはない。
オセローはそれが不満であった。
劇の冒頭、オセローとデズデモーナの結婚がおおやけになる。
喜劇ならここで終わりである。ところがオセローはここから劇を起こす。
オセローは人生に不満なのである。かれはもっと激しい恋愛感情を生きたいのだ。
もっと女を愛したい。この将軍は過剰な愛をもてあましている。
かれが体内の愛を完全に放出したとき、オセロー劇は終幕することになる。

オセローはキプロス島への赴任を命じられる。
ところが突然の嵐。この新婚夫婦はさっそく離ればなれになる。
お互いの生死もわからぬところに、キプロス島での再会である。
なんとも劇的というほかない。オセローはこれに味をしめた。
もっと愛を感じたいと思った。だからイアゴーの讒言(ざんげん)を信じた。
デズデモーナが浮気をしているという、ありもしない妄想を抱くようになる。
オセローがイアゴーの虚言を信じたのは愚かであったためではない。愛情過多ゆえ。
オセローは妻のデズデモーナを愛したかった。だが、もう結婚している。
これ以上は愛しようがない。がために嫉妬したのである。
平凡な結婚生活を送ることにオセローはたえられなかった。
イアゴーの口車に乗せられオセローは妄想する。
愛する妻が部下全員の慰み者になっている光景をである。
オセローは嫉妬のあまり卒倒する。妻を殺そうと決意する。
しかしこのときほどオセローが妻に肉欲を感じた瞬間はなかったのではないか。
貞淑な若妻より、淫乱な人妻のほうがオセローの情欲をかきたてるのである。
それならばデズデモーナは多情でなければならない。
そう考えて妻の殺害を実行するオセローを果たして笑えるか。

劇場をでた我われはオセローの愚鈍にやりきれなさをおぼえている。
けれども、どこかでかれら夫婦がうらやましくはないだろうか。
あそこまで深く妻を愛してみたい。デズデモーナのごとく愛されてみたい。
そういう欲望がほんとうにないといえるか。
オセローの勝ち誇った笑いが聞こえてこないと断言できるか。
かれはいう。おれは生きた。真に生きた。それに比べておまえらはどうだ?

「現代演劇 特集 ユージーン・オニール」(英潮社)

→作品は、どこから生みだされるのか。
作者のほかないではないかとみなさまは即答する。
では、作者とはなんだろう。人間である。
ひとが生まれてくるには父と母が必要である。
なら、こういうことができるかもしれない。
芸術作品は、作者の両親によって作られる。

一方で、こういう考えかたがある。
ある作品に、いち個人のちからがどれだけ影響しているか。
作品は作りだすものではなく、やむなく作られてしまうものではないか。
作者ではなく、かれの人生が作品を作る。
作家はある時代を生きる。時代固有の社会を生きる。
環境が作家に書かせる作品というのもあろう。

劇作家オニールを今回、ストーカーのごとく追い詰めた。
作家の人生と作品を照らしあわせる。
かなりのところまで見えたと思うのは不遜なのだろうか。
ある原体験を何度も作品で反復しているのがうかがえるのである。
わたしは研究者ではない。原体験を特定することにさほど情熱はない。
それなら、どこに関心があるのか。しごく単純である。

いかにすればオニールになれるか?

エゴイストなのだ。人間はだれしもじぶんのことにしか関心がない。
わたしも同様である。
オニールの創作作法は、愛の活用にある。
オニールにとって創作するとは、愛を突きつめること。
愛の具現化こそオニール劇の実相である。
他人から愛を奪う。膨大な量の愛を求める。
その保証の裏づけを得て、はじめて創作することができる。

もう一度、繰り返す。
人間はみないちようにじぶんのことにしか関心は持たぬ。
唯一の例外が愛である。愛とは、自己以外の他者に関心を持つことである。
自己よりも他者を重んじる。これが愛である。
よって愛するとは、相手のいうがままになること。
愛されるとは、自己の都合で身勝手に相手を利用することにほかならぬ。
オニールの人生を概観して思うのは、なんてわがままなやつなんだ!
あきれるほど自己中心的なのである。

3度の結婚。詳細はめちゃくちゃである。
勝手に恋をして子どもを作ったと思ったら、はや離婚。
べつの恋人ができたというのである。
結婚は3度で済んだが、最後の奥さんというのは尋常ならぬ被害をこうむっている。
生活はオニールの執筆が最優先。夫のいうことはなんでも服従しなければならない。
いっときはこの劇作家夫人、病院へ運ばれた。精神病院。
オニールにふりまわされたせいである。
家庭内暴力は日常茶飯事。さらにオニールは父親ゆずりの吝嗇(りんしょく=ケチ)。
生活費を渡さないこともある。
こんな夫にたえかね妻は何度も家を出る。
そのたびにオニールは愛を訴える。きみがいないとダメなんだ!
愛情にほだされて妻が家へ戻ると、またオニールは殴りかかる(笑)。

ユージン・オニールの最高傑作「夜への長い旅路」は妻へささげられた作品である。
三番目の奥さんへの、結婚記念日の贈り物として書かれたというわけである。
最初、この事実を知ったときはたいへんな美談だと思ったものだが、
裏を知ってしまうとことばがでない。
オニールの天才とは、愛される才能だったのである。
言いかたをかえれば、愛を奪う才能。自己中心をどこまでも貫く強い意志。
他人を精神的および肉体的に傷つけても平気でいられるタフな精神――。

ふたたびおのれに問う。
どうしたらオニールのような作家になれるか。
わたしはなにをすればよいのか。
作品は、どこから生みだされるものなのか。

「ねりまの美術'98 神田日勝 深井克美展」(練馬区立美術館)
「深井克美――未完のランナー」(柴勤/北海道新聞社)


→1948年3月、その男は生まれた。
画家・深井克美である。
1978年12月、この画家は母親と病院へ行く。
その帰途、画家は母親のもとを離れる。練馬の某所である。
画家はビル8階より飛び降り自殺をする。子を探しまわる母の眼前めがけて――。

1947年9月、わたしの母は生まれた。
1974年、結婚。1986年、精神病発症。1987年、自殺未遂。
2000年6月、早朝4時のことである。
母は子が外出したのをドアの開閉の音で知る。
子が戻ってくるのをベランダから見張る。ベランダの外側にまわる。
子の名前を大声で呼ぶ。ベランダから手を離す。落下。死亡診断書には即死とあった。

当時、小説を書いていた。苦しかった。だから書いた。苦しみを書いた。
書くことで状況が切り開かれるにちがいないと信じていた。
書いた。父のことを書いた。母のことを書いた。
そのあいだに生まれたわたしのことを書いた。
母からされたひどい仕打ちを書いた。父と母の板ばさみでつらいと書いた。
小説を書くために父と母の面会を企てた。
両親とわたしがそろって会うのは何年ぶりだったか。席上、母は狂乱した。
自殺をする半年ほどまえのことである。それからなにがあったか。
母と双方、泣きながら4時間話したこともある。わかりあえたと思った。
翌日には母は一転、わたしを悪罵する。棒でわたしを殴打しながらののしる。
「おまえは人間の土台ができていない。これでたたきなおしてやる」
かと思えば数日後には、だきついてくる。死にたいんだけど、どうすればいい?
もうあなたしか頼れるひとはいないの。もう限界かもしれない。死にたい。
こんな現実をまえに小説はストップしてしまった。とても書けないわけである。
あやしげな自己啓発書を読みあさった。なんにでもすがりつきたかった。
自己暗示やら自己催眠やら、いろいろ試したのを憶(おぼ)えている。
どうなるんだという思いもあった。小説のことである。
小説はまだ完結していない。この先、どんな結末がおとずれるのだろう。
わたしは作者であり読者であった。おもしろい小説を書きたかった。
いま思えば、なにか起これとどこかで思っていた。
なにか起これ。それを書いてやる。
6月下旬。梅雨明けはまだ先のある早朝。小雨がふっていた。
母が飛び降りた。名前を呼ばれた。落ちてきた。すべてを見た。見せつけられた。
生から死へ移りゆくその瞬間をである。
母が最後に口にしたことばはわたしの名前であった。

あの日以来、何度小説を書こうとしたことだろうか。
どうしても書くことができないのである。
いつだったか。死後、1年は経っていなかった。
書くことといったらひとつしかない。母の死に顔である。
わたしの目の前に飛び降りてきた母という存在である。しかしそれが書けない。
ことばでは書けない。ノートに絵をかいたことがある。
血まみれの母の顔である。泣きながらボールペンでかきなぐった。
へたくそな絵である。
あるひとに、ひょんなことから見せた。映画監督の原一男さんである。
おまえにそっくりだといわれた。
母親。大好きだったお母さん。
わたしを生み、これでもかというほど憎み、同時に無限に愛してくれた母。
わたしのかいた母の死に顔が、わたしに似ているといわれる――。

あれからもうすぐ6年である。
まだひとつも小説らしきものを書くことができていない。
あの日以来、いかにもありきたりな表現だが、ひとを愛することができなくなった。
わきおこる感情は憎悪や呪詛ばかりである。ひとを憎み、世界を呪う。
先日、偶然からある画家の存在を知る。深井克美。
知ったきっかけというのが皮肉である。
「眼前投身自殺」の検索にひっかかったのだから。
その絵をみる。もうひと目でわかるわけである。
この深井克美さんというひとは、お母さんが大好きだったんだな。
じぶんを生んでくれたお母さん。
かれは脊椎カリエスの後遺症で背中にこぶがある。
終生、コンプレックスをいだいていたようだ。
おのれを奇形とこの画家は意識する。
まわりとはことなる奇形。一般人にはとけこめぬ奇形。
こんな奇形を生んだ母。奇形のじぶんを守ってくれる母。奇形ゆえ愛してくれる母。
奇形をとおして母と子がむすびついていたにちがいない。
奇形を媒介に深まる母子関係。
深井克美は父を早くになくしている。
この母子は身をよせあいながら、世間の荒波を逃れる。
母子の強い一体感こそ深井克美の創作の原点である。

知りたいと思う。
深井克美の絵に感動するだけではなく、知りたいと思ってしまう。
深井克美に恋人はいたのだろうか。この画家は母以外の女を愛したことがあったのか。
画家は独身のまま死ぬ。母の目の前で飛び降り自殺をする。
この母子に、なにがあったのだろう。
今回、関連書を2冊読んだが、どちらにも言及はなかった。
わたしが調べてもいいが30年近くもまえのこと。わからないだろう。

深井克美の絵をみる。母のことを思う。
なかでも好きなのは「2時37分」と「オリオン」。
わたしは絵画の鑑賞作法を知らない。ただ母を思い返すのみである。
深井克美とおなじで、わたしも幼時、手がかかる子どもであった。
病気がちで母と複数の病院をまわったものである。
思いだす。手をつないで歩いた。母の手のぬくもり。
やさしい母。こわい母。末期の狂った母。
母の死後、ボールペンで記憶に残る死に顔をかいた。
もしわたしに画才があったら深井克美のような絵になったことと思う。
これは傲慢なのか。そうではない。
深井克美に親しみを感じるということなのだから。ただそれだけなのだから。
そして、深井克美の絵をただただすばらしいと思う。
この画家の絵をみると母のすべてを肯定したくなる。
狂った母にはずいぶんひどいことをされた。
日記にもさんざんなことを書かれたわけである。
それでもいいじゃないか。お母さん、大好きだよ。そういいたくなる。
母を肯定したい。わたしの目の前で飛び降り自殺をした母を肯定したい。

子に眼前で投身自殺をされた母親――。
深井克美の母は、子の悲劇の4年後に死亡。
自殺か病死かはどこにも書かれていない。
4年か。4年。わたしはもうすぐ6年である。
おのが若さを痛切に感じる。若い。強い。
また梅雨が来る。母を殺した梅雨である。毎年、この時期は精神的に追い込まれる。
おめおめと生きのびているじぶんを恨めしく思う。

深井克美の代表作↓
http://www1.linkclub.or.jp/~seiji-s/papa/fantasy/html/0011.html


歩いて近所の神保町へ。足取りは軽い。
いつものワゴンをチェック。神保町で古本を買うならワゴンしかない。
神保町で安くいい本を買えるのはワゴンのみである。
といって、今回ワゴンからひろった本がそうたいしたものではないのが恥ずかしい。
そうそう宝物があるわけではない。だからいいのでもあるが。

「ハムレット」(シェイクスピア/木下順二訳/講談社文庫)絶版 100円

木下順二はこの文庫版のあとにさらなる改訳をしている。
この翻訳では満足できなかったということである。
坪内逍遥の真似か。坪内も死ぬまで何度かシェイクスピアの改訳を試みている。
そのためこの文庫版はいわば旧訳。それを知りつつも買うのはハムレットきちがいゆえ。
ハムレットにわたしは演劇とはなんたるものかを教わったのである。

「ひと我を非情の作家と呼ぶ」(丹羽文雄/光文社文庫)絶版 100円

おなじワゴンにて。丹羽文雄はだいぶまえに読み込んだことがある。
この作家はいう。じぶんの「泣きどころ」は母である。
出世作「鮎」から晩年まで、母の問題を追及した。言いかたをかえれば母を食い物にした。
わたしの先行作家のひとりである。そう思うと、つい買ってしまう。
読むのかどうかはわからない。もうわたしの中で丹羽文雄ブームはとうに消えている。

神保町三省堂書店本店へ。ここは学童期からお世話になった。
本を買うのはいつもここであった。こんなことを書いてもいいのかな。
笑うなかれ。三省堂の就職試験を受けたこともある(笑)。
だから、笑うな! あ、笑っているのはわたしか。書類選考クリア。一次面接落選。

「オセロー」(シェイクスピア/松岡和子訳/ちくま文庫) 880円+税
「立ち飲み屋」(立ち飲み研究会/ちくま文庫) 780円+税


どちらも4月のちくま文庫新刊。
「オセロー」目的だったのに、うっかり隣のお酒エッセイも買ってしまう。
780円。新刊は文庫といえ高い。しかしたまの贅沢。
きれいな本を読みながらのむお酒。ううう、たのしみである。
「オセロー」は松岡和子シェイクスピア全集の13冊目。これは集めている。
12冊目まですべて読んでいる。小説はわからないが、

戯曲の訳は新しいほうを読むべき!

この法則にしたがっているわけだ。その理由は――。
書きことばは生命力が強い。古典の場合、古い語法がかえって味わいになることもある。
だが、話しことばの寿命は極めて短い。あっという間に賞味期限が切れてしまう。
これは小説と戯曲の本質的な相違にも関係する。
英語圏の演劇関係者は他国をうらやむことがあるという。
あのシェイクスピアを現代のことばで演じることができるからである。

三省堂まえの坂をのぼり御茶ノ水へ。丸の内線に乗りいざ池袋。
池袋。御茶ノ水ではどしゃぶりだったのに快晴である。空は真っ青。
「第3回池袋西口公園古本まつり」へ行く。
ゆっくりと時間をかけ、この「古本まつり」全店を物色する。
買ったのは1冊のみなのだからさみしい。

雑誌「新劇 1974年2月号」 300円

テネシー・ウィリアムズの戯曲「小船注意報」が収録されている。
こんな翻訳が存在するとはそれまで知らなかった。
しかも訳者は鳴海四郎。一流の学者である。とすると上演されたにちがいない。
テネシー・ウィリアムズは果たして「ガラスの動物園」「欲望という名の電車」。
この2作だけの作家であったのか。いずれ検証したい。
「迷惑旅行」(山口瞳/新潮文庫)絶版

→お酒をのみながら読んだ紀行文。
いきなり引用する。

「『奥の細道』だって、いい加減なものだと思っている。
さあ、同じ宿屋に遊女が泊っていたかどうか」(P186)


これは「奥の細道」唯一のロマンスについての寸評。
市振だったかな。芭蕉が遊女とおなじ宿へ。
翌日、旅の同行を求められるも芭蕉が断る。
あのシーンのことを山口瞳は言っているのである。
あれだってウソかホントか知れたものじゃありませんぜ!

山口瞳はスケッチ旅行をしている。
どこで絵を描くかが問題である。
実際はタクシーで行ったのに、エッセイではその場所を難所と設定する。
歩いて4時間かかるとウソをつく。
すると紀行エッセイに凄みが生まれる。おもしろくなる。
そういう文脈で「奥の細道」を引き合いにだしたのである。

まったく同感である。
「奥の細道」は芭蕉の創作だと思う。
だからこそ、読者を魅惑する。
読者としてはおもしろいものを読みたい。
作者としてはおもしろいものを書きたい。
要はおもしろければ、なんだっていいのである。
これじゃ、研究者の出る幕がありゃしませんね、旦那!

「ゴーゴー・アジア」(蔵前仁一/凱風社)

→蔵前仁一さんは旅行の達人!
旅の楽しみかたを実によく知っている。
したがって、このエッセイも大満足。

旅行といえば2年前のインド。
どうしてか3ヶ月ものあいだインドをふらふら。
行くまえに悩んだのが旅行保険。死亡時の保障金額。
インドで死んでもいいという悲壮な決意があったのです(苦笑)。
自殺できないからインドに殺してもらおう!
修行僧のような顔をしていざインドへ。
いやあ、じぶんでも笑っちゃいます。
インドでも酒びたり。新たな町へ入るとまず酒屋の位置を調べる。
バックパックにはウイスキーを常備。
日本人旅行者に会うと、笑われました。
あなた、おかしい。なんでお酒を持ち歩いているの?

えーと、なんの話だったか。
そう、旅行!
わたしは旅行のたのしみがちっともわからない。
インド滞在時は毎日、日本が恋しくてたまらなかった。
でも、まあ、なんだ。
2年も経つ。こんなアジアエッセイを読む。
あのインド旅行がとても貴重な思い出のような気が……。

わたしにとって旅行の最中はなんの魅力もない。
行くまえがたのしい。帰国後しばらくしてからがたのしい。
旅これ人生とは芭蕉先生のお言葉。
とすると人生もおんなじ?
たしかにそうである。
いま生きているのはいやでしようがない。
しかし未来を夢見るのは悪くない。
数少ない幸福な過去を思い返すのも同様。
これは困りましたね。

「現代によみがえる歎異抄」(高史明/NHKライブラリー)

→高史明さんというのも、わかんないひとだよな。
息子さんの自殺がきっかけで「歎異抄」の世界を奥深く分け入った。
わたしも母を自殺でなくしている。
かれの「歎異抄」概説書を読めば、懊悩の出口があるかもしれないと期待する。
これで高史明さんの「歎異抄」関連本は2冊目。
どこにも悲嘆を克服する方法めいたものは書かれていない。
例によって、環境破壊はどうだの、少年犯罪はどうだの。
そんなことを書いている場合かと思うけど、うーむ、どうなんでしょうかね。

「歎異抄」はいつしか身近なものになっている。
この古典は自己啓発書の対極。読んでいると気分がほぐれる。
がんばっても報われるものではない。すべては阿弥陀さまにおまかせ。
どこかのだれかさんにみたいに「もっと強く生きる」など見栄をはる必要もない。
わたしがこれからどうなるかは阿弥陀さましだい。
お酒におぼれて死ぬかもしれない。
母と同じ道をいくのかもしれない。
あるいはひとをあやめる宿業をもっているのかもしれない。
どうなってもいいのである。もう死後の往生は確定しているのだから。
自殺や殺人が悪だとは限らない。人間に善悪はわからないゆえ。
ああ、南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
生きているあいだの不幸がなんだ! 
死後の浄土を思えばへっちゃらさ(ほんとうか、おい!)。

「喪服の似合うエレクトラ」
(オニール/菅泰男訳/「ノーベル賞文学全集20」主婦の友社)絶版
 *再読

→戯曲。米国産。
いま新刊書店で唯一購入できるオニールの戯曲がこの「喪服の似合うエレクトラ」。
訳の古い岩波文庫版が今年の2月に復刊されている。
だいぶ悔しい思いをした。オニールをひとりじめしたかったのである。
(「本の山」でオニールに興味をもったかたがいるかもしれない。
今回はネタバレを避ける。おすすめというわけではない。オニールはわたしのもの!)

宿命の劇である。これほど宿命に固執した戯曲をみたことがない。
だが、本来、宿命と演劇は強い結びつきがあるのではないか。
宿命というのは避けられないこと。どうにもならないこと。
自由律俳人・山頭火の句「どうしようもないわたしが歩いてゐる」における、
「どうしようもない」の境地である。
ほかに選択肢がいくつもあったはずなのに、どうしようもなくいまの人生を選んでしまった。
自由に生きてきたはずのこの人生。ふりかえると必然めいたものに思える。
これが宿命の思想である。演劇もそうではないか。
役者は舞台のうえであたかも自由のごとく奔放にふるまう。
だが、その実、戯曲から一瞬たりとも離陸していないのはみなの知るところである。

死人の劇である。死人が死人を呼ぶ。
父のかたきを殺したあと、オリンは述懐する。

「もし僕がこの男だったら、同じことをしたろうな!
僕も、この男が愛したようにお母さんを愛して――お父さんを殺しもしたろう
――お母さんのために」(P349)


オリンは思う。いま横たわっている死人はじぶんではなかろうか。
殺した。これは殺されたということではないか。宿命の感覚である。
いや、読んでいるひとはわたしがなにを言っているのかわからないかもしれない。
うまく説明ができない。この殺人犯オリンのことばになぜか強く宿命を感じるのである。

4人の人間がこの劇では死ぬ。あるものは殺され、あるものは自殺で――。
ちがう。あの4人は死んだわけではない。もとから死人だったのである。

これは死人の劇なのだから。

思えば、オニール劇には死人と形容するにふさわしい人間が多く登場する。
生きている死人がいないとどうしていえよう。くだんの山頭火も死人である。
山頭火の一連の作品は、死人の俳句にほかならぬ。
死人。過去にとらわれた人間である。いつ死んだっていい。
死ねないから生きているにすぎない。これはもう死人である。
この劇でも死人のオリンは言う。

「殺してくれたら感謝するぜ! もうこの生活はいやでたまらないんだ!」(P373)

4人の死人は墓場へ戻った。
オリンの姉、ラヴィニアは最後まで生き残る。
彼女こそ「喪服の似合うエレクトラ」である。
ラヴィニアは死人たることを拒絶した。生命を、愛を渇望した。結婚を望んだ。
そのラヴィニアが終幕直前、婚約者にもらす。

「わたしには愛は許されないの。死人の力が強すぎるの!」(P387)

この劇はいうなれば、ラヴィニアと死人たちとの闘争であった。
彼女は敗北宣言をする。死人には勝てなかった。過去はどうしようもない。
宿命への服従である。これこそオニールがギリシア悲劇にみたものなのだ。
この劇作はアイスキュロスの「オレステイア三部作」を下敷きにしている。
アイスキュロス、オレステス、エレクトラ、みんな死人である。
オニールをこの劇作に衝き動かした死人はほかにもいる。
この作品を執筆したとき、すでにオニールは死人に囲まれていた。
オニールの父、母、兄である。
あまたの死人がオニールに「喪服の似合うエレクトラ」を書くよう、うながした。
この死人ばかりが登場する芝居をである。

「日陰者に照る月」(オニール/喜志哲雄訳/「今日の英米演劇1」白水社」)絶版

→戯曲。米国産。
オニール晩年の長編戯曲。この劇作家の兄をモデルにしている。
ユージン・オニールの目に、生きるということはどのようなものとして映ったのか。
生きるということは尊いことでもなんでもない。ごまかしにすぎぬのではないか。
生きていくためには辛い過去を忘れなくてはならない。
今現在のささいなことに喜びを感じるよう努める。
未来になにかいいことがあるとなかばウソだと知りつつも信じる。
過去からも現在からも未来からも逃避することが、生きるということの実態ではないのか。
過去をうやむやにし、現在をいいかげんにやりすごし、未来に目をつぶる。
これが生きるということならば、人間は生よりも死を望むほうが正しいのではないか。
死を求める生こそ、ほんとうに生きているということにはならないか。

生きる。人間は未来をめざし生きる。未来は現在から生じる。
未来を生きるためには、現在を生きなければならない。
現在を生きるためには、現在をよく知らねばならぬ。現在とはなにか。
過去である。過去があるから現在がある。
だとしたら、現在に真剣に向き合うというのは、過去との直面を意味しないか。
過去から逃げないこと。過去と正面から対峙すること。
これが生きるということの本質ではないか。オニールはそう考えたふしがある。
オニール周囲の環境も影響している。
オニールの母は麻薬中毒であった。
母はモルヒネを矢継ぎ早に注入しながら過去の思い出へ没入した。
オニールの兄はアルコール中毒。
それも母が死んでからはいっときも休まずに酒を口に運んだという。
最後は狭窄衣を着せられ強制入院。5ヵ月後に死亡。
オニールは3回結婚している。こどもは3人。
息子のひとりはアル中になり自殺。
もうひとりの息子は麻薬中毒で犯罪者に。オニールは絶縁している。

麻薬と酒とオニール!

現在を真に生きるということは、過去を生きるということではないか。
過去なしの現在などありえぬ。現在は常に過去からの攻撃にさらされている。
しかし過去に勝てるものなどはいない。過去は現在を圧倒する。
酒や麻薬を抜きに過去と勝負するのは無理である。
勝負と書いたが、勝敗は決まっている。過去には屈するしかない。
酒をのむ。麻薬をうつ。そもそもこの嗜好だって過去が形成したものではないか。
中毒者はそう思うようになる。

「日陰者に照る月」。
オニールの兄とおぼしきティローンは舞台上でいつも酒をのんでいる。
母をなくしたばかりである。ティローンはいう。

「おれが死人みたいだと言ったな。そのとおり、おれは死人なのさ」(P95)

かれは母がもういない世界を認めることができない。
すなわち、この世界には生きていないのである。ゆえにみずからを死人と称す。
現在を否定する。狂うか死ぬかしかない。かくしてティローンは生ける死人となった。
過去に生きている。母が生きていた過去を生きている。現在では死人にすぎぬ。
ティローンはひと晩の慰めを得る。
村娘に愛された。肉体のごとき愛ではない。
ティローンは人一倍大きな体躯をもつこの村娘のひざのうえで抱かれて眠る。
母への許しを女に求める。ひと晩だけティローンは許されたと感じる。
翌朝にはもうダメである。朝から酒をのむ。ゆうべのことを思い出す。
恥ずかしさでいっぱいになり女のもとから永遠に去る。
女は最後にいう。これはオニールのことばでもある。
酒とともに死んでいった兄へ向けて――。

「(悲しげな、やさしくあわれむような顔で――静かに)ねえ、ジム(ティローン)。
もうすぐ、望みどおりに、眠ったまま死んで行っておくれ。
いつまでも、罪を許されて、安らかに」(P116)


オニールは、このアルコール中毒患者にやさしい。
死んだほうがましな人生というものはある。
過去に生きるというのは悪いことか。むしろ兄こそ真剣に生きた人間ではないか。
兄の人生をあたたかく見守る劇作家の視線をこの作品から感じた。

「ヒューイ」(ユージーン・オニール/来住正三訳/英潮社新社)

→戯曲。米国産。オニール晩年の一幕劇。
前出の「渇き」とこの「ヒューイ」は「現代演劇・特集ユージーン・オニール」収録作品。
本邦初訳が売りらしいが、どちらもまったく期待しないで読んだ。
いままで翻訳されなかったのだから、
どうせたいしたものではないだろうとふんだわけである。
ところが、どうだ。両作品とも極めておもしろい。
どうしてオニールはここまで上質な作品を多作できるのだろう。
オニール邦訳作品で、まだ入手できていないのは
「地平線の彼方」「ああ荒野」「氷人来る」。
なんとかして(安価で!)手に入れたいところである。
それにしても、あと3作品しかないのか。
オニール。アメリカ。英語である。読もうと思ったら原書で読めないこともないのか。
いちおう中高大と英語は勉強しているのだから……。

「ヒューイ」。
登場するのはわずかふたり。
悪党を気取った小物のばくち打ちと、かれが宿泊する安宿のホテルマン。
深夜である。ばくち打ちが戻ってくる。ひと恋しい。ホテルマンに話しかける。
どこがおもしろいのか。オニールの皮肉な視線である。人間をバカにしきっている。
このばくち打ちもホテルマンも、人間のクズとしてえがかれている。
この劇ではクズがクズをあざわらう。
きたない言いかたをすれば、目くそ鼻くその世界である。
それが実に笑えるのは、わたしにもどこかで人間を見下したところがあるからか。
晩年のオニールは人間嫌いが昂(こう)じて自作の上演すらこばむようになったという。
人間を信じられない。人間がこの戯曲を演じられるものか。
老人オニールは自作を戯曲として読まれることを望んだ。
この劇作家の特徴はぼうだいなト書きにあるのだが、
この「ヒューイ」はことさらセリフ以外のところが笑いをさそう。
たしかにこれを役者が演じられるのか疑問である。

「渇き」(ユージーン・オニール/竹中昌宏訳/英潮社新社)

→戯曲。米国産。
オニールごく初期の習作。読んでいてニヤリとする。
この一幕劇はオニール劇の基本形といってもよい。実にオニールらしい。

幕が開くと筏(いかだ)が大海に浮いている。
難破して漂流しているのである。筏に乗っているのは3人。
一流の紳士。美人のダンサー。下賎な黒人水夫。
筏のまわりには鮫(さめ)がうようよしている。筏は狭い舞台となる。
オニール劇の住人は常に餓(かつ)えている。欠乏している。
がために、ぎらぎらしている。なにかを強く欲求している。
多くの場合、欲望対象は愛なのだが、この初期作品で求められているのは水である。
紳士とダンサーは、黒人水夫が水を隠し持っているという妄想にとらわれる。
なぜか。黒人はいやしいという差別感情があるからである。
水夫という職業への蔑視もある。
教育を受けていない人間はなにをやってもおかしくない。

ダンサー。女である。オニールは女をどう見ているか。
ダンサーは首にかけたダイヤモンドのネックレスを黒人のまえにだす。
これと引きかえに水をおくれ。この宝石を売れば一生、働かなくていいんだよ。
黒人は首をふる。水はない。
ダンサーはどうするか。今度はからだである。じぶんを好きにしてもいい。
本来、おまえの身分だったら触れることさえできないこのからだを与えよう。
だから水を。半分でもいいから。黒人はかわらず無表情。答える。水はない。
欲望する。かなえられぬ。衝突する。劇が生まれる。

ダンサーは水が飲みたい。だが、水はない。
この女はどうなるか。狂う。欲望がかなえられぬ現実を否定する。狂気の世界で生きる。
女がいまいるのは筏のうえではない。大観衆をまえにしたステージにいる。
みんなじぶんの歌を聴きにきている。筏のうえでレパートリーを披露するダンサー。
服がはだける。上半身裸。胸を露出させて女は踊り狂う。死ぬ。狂い死にする。
ここで黒人がとる行動がすばらしい。これで我われは生き延びられると喜ぶ。
黒人はナイフを取りだす。紳士に呼びかける。この女を平等にわけよう。
飲もう。食おう。そう言っているわけである。
人肉食! 黒人の意図を察知した紳士は女の死体を海へ落とす。
すぐさま鮫の餌食となる。
よくも貴重な飲みもの、大切な食べものを! 
黒人は生きたい。生命を欲望する。生きるためには飲食しなければならぬ。
生きるか死ぬか。黒人はナイフ片手に紳士へ襲いかかる。
紳士はナイフを腹に刺されたまま、最後のちからをふりしぼる。
黒人の腕をつかむ。もろとも海へ落下する。鮫が寄ってくる。
人間がひとりも乗っていない筏が浮いている。

いかにもなオニール劇である。

生命への呪詛に満ちている。

いささかも生命への礼讃(らいさん)を感じられない。
生きているということは、他人に迷惑をかけているということである。
人間が生きるためには、ときには他の人間を殺さねばならぬ。
オニール劇は限界状況を好む。たとえば究極の愛を求める。それは憎悪にほかならない。
この劇では生命の真髄を追求した。それは殺人であった。

(注)この劇は「カルネアデスの板」という哲学命題に類似した設定にある。
この問題は、古代ギリシアの哲学者カルネアデスが提出したもの。
大海。漂流者がふたり。板が浮いている。つかまることができるのはひとり。
ふたりの重量は支えられない。ふたりとも沈んでしまう。
この場合、じぶんが生き抜くために板をひとり占めするのは道徳的に許されるか。
じぶんが生きるためなら他人を殺してもいいのか。
これが「カルネアデスの板」と呼ばれる問題である。

「本の山」でも以前、言及している↓。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-574.html

いらっしゃいませ、こんばんは。

ブックオフヘビーユーザーの「本の山」管理人です。
みなさまはブックオフをご存じですか。
本がなんでも105円で買えちゃうふしぎなお店。
いらない本は1冊0円~150円で引き取ってくれます。
ブックオフは下流社会人の強い味方。
「本の山」の何割がブックオフでできているのでしょう。
成分分析したら驚くべき結果がでるかもしれません。

実はわたし、ほんの数年前まで古本がダメだったのです。
だれがさわったかわからないような本など気持ち悪くて読むことができない。
本はすべて新刊書店で買っていました。絶版のものはあきらめる。
本はいま売られているのだけでも読みきれないほどある。
なら絶版の本は、そういう運命だったのだと忘れ、つぎの作家へ向かおう。
こんなわたしに古本への扉を開いてくれたのが工藤伸一さん。
このかたはカリスマネットアイドルです。テレビに何度も出演しています。
かれにすすめられて町田のブックオフへ行ったのが人生初の古本体験。
いまは恋人のような関係にあるブックオフとの出会いでもあります。
新鮮でしたね。絶版の本がいくらだってある。
この日、3000円くらい本を買ったのを覚えています。
衝撃だったのは100円コーナー(当時。現在は105円)。
大江健三郎とタレント本が仲良く並んでいる光景には衝撃を受けました。

古本初心者にはブックオフがおすすめです。
きばって神保町へなど行かぬほうがいい。
神保町にはおかしな店主が多々いますから。
ブックオフなら市民常識が通じる。お客様は神様でいられます。
105円の本だけ10冊買おうとも満面の笑みで「ありがとうございます」といってもらえます。
しばらくはブックオフオンリーでした。
この時期、狙っていたのは絶版文庫。
単行本コーナーよりも文庫コーナーで目を血走らせていました。
ブックオフ修行期間を経て古書店街へ分け入ったのはいつだったか。
近所の神保町。なんでこんなに高いのか。どうしてこうも店主がえらそうなのか。
そう思いながらも、いつしか古本の世界にどっぷりと浸かってしまいました。

おっと、この記事ではブックオフがテーマだった。
最近は――。ブックオフへ入店する。すぐさま単行本105円コーナーへ。
いつしか半額コーナーは見ないようになりました。
いいですよね。105円ですよ105円! いまどき缶ジュースだって105円では買えません。
それなのに定価1000円~3000円の単行本が105円で入手できてしまう。
ブックオフで教わったことがあります。
すべての本は105円で買えるということです。
たいがいのブックオフでは買取時にタイトルや定価を見ていない。
本のきれい・きたないのみを見る。値づけもその思想(おおげさ?)が反映される。
そのためとんでもないお宝本が105円で購入できる可能性もあるのです。
わたし自身、何度も信じられない体験をしています。
いちどそのような経験をしたら、もうブックオフを見かけたら入らざるをえない。

文庫も最近は105円コーナーしか見ません。
あ、岩波文庫だけ半額棚も見ています。中途半端でごめんなさい。
読書家にはなぜかブックオフを嫌悪しているひとが多い。
むかしながらの古書店を愛好する。いい本を、その内容をわかったうえ、
あえて高価で売っている店主から買うことに満足を感じる。
いやですよね。知的スノッブ(俗物)とでもいうのでしょうか。
古書店店主の読書量などたかが知れたものなのに。
連中は著者名と金額のリストを記憶しているだけなのです、実際は。
いい本はそれなりの金額で買うことを誇りとする読書人はかなりいます。
かれらからしたら、わたしなど軽蔑対象なのでしょう。
お笑いください。わたしはいい本を安く買うのが好きなのです。

ブックオフは日本の文化にそうとう貢献しています。
つくづく思うのです。ブックオフはどれだけえらいか。
入店する。105円棚へ向かう。物色する。これほど楽しいときはありません。
気分は宝探し。本は読むものではない。買うものである。何度でもいう。

本は読むよりも買うほうが楽しい。

ふとブックオフで思う。この本はなんだろう。
まったく専門外の本。いままでじぶんが読んでいた分野とはことなる。
でも、まあ、105円だから読まなくてもいいや。そう思って買う。だって105円。
帰宅後、積んでおく。積ん読の効用はいつでも読めることにあります。
ある日、その本が気になってしようがない。そばにある。読み始める。
なんとおもしろいのかと驚愕する。こんな新しい世界の見方があったのか!
ブックオフに行かなければ決してこんな本は買わなかった。
105円だから買ったのである。定価だったら買おうはずもない。
このブックオフユーザーは生きる愉(たの)しみをひとつ知ったことになります。

新刊書店オンリーだと、どうしても凝り固まった人間になってしまう。
大学の研究者ならそれでもいいのでしょう。
ですが、我われは専門など、どうでもいい。
人生など、どう転んでもつまらぬもの。それならせめて見聞を広げたい。
そのためにはブックオフがおおいに役立ちます。
さあ、これを読んだら、あすにでもブックオフへ行きましょう。
105円コーナーを眺めましょう。ちょっとでも気になった本はとりあえず買う。
なにしろ105円。読まなくてもいいじゃないですか。
引越しの際は捨ててもよし。ブックオフに10円で売ってもよし。
それほどの損害ではありません。
ああ、叫びたい。ご唱和ください。いきますよ。ブックオフ、ばんざい!
「オニール一幕物集」(井上宗次・石田英二訳/新潮文庫)絶版

→戯曲。米国産。
ちょっと自慢を。この新潮文庫は昭和31年初版。
ただでさえ読者には人気のない戯曲、それも短編を集めたものだから、
出版点数、販売点数はかなり少なかったと予想される。
案の定、いま調べてみたら、どのネット古書店にも在庫はなし。
以前、神保町の古書店でぼろぼろのを見かけたことがある。千円の値札が。
それでもつぎに行ったときには売れていたので驚いたものである。
今回、わたしが読んだものは近所の古本屋で購入したもの。
50円。おしなべて文庫は経年汚損が激しい。それなのにこれは帯つき美品。
とても50年もまえの文庫とは思えない。
読みながらこれほど贅沢な読書はないと思った。
だれも読んでいない本を読む愉悦。それもユージン・オニール。大好きな作家である。
この本を安価で発掘したという記憶も読書の幸福を助長する。
じぶんだけが知っている作家の、その中でも希少な書物を紐解(ひもと)く悦楽といったら!

「オニール一幕物集」。
オニールの初期戯曲のうち9作品が収録されている。
オニールはいわゆる海洋劇を書くことから劇作をスタートした。
海洋劇とは、海を舞台にした作品。
オニールの青年期というのは作家の例にもれず
働きもせず親の金で酒ばかりのんでいたのだが、
それでも1年か2年か、船で働いた時期があった。
船員である。仕事はたいへんなものだった。海の男たちは気が荒い。

オニールが劇作の初期に海洋を舞台にした芝居を多数書いたのは意味深い。
船上の仕事は逃げ場がない。海に囲まれているからである。
これはどこかしら舞台と通じるものがないか。
船員は航海のたびに命をかけている。
生きるか死ぬかの瀬戸際を何度も味わうことになる。
この時代の船員は常に死が身近にある危険な仕事である。
死を意識することは、生を濃密に感受することにつながる。
いきおい船員は演劇的になる。何年生きていられるかわからないという思いがある。
いま現在する生を貪婪(どんらん)になめつくそうとする。
陸にあがったら酒と女である。ひと晩でつかいはたすこともある。
金がなくなったらまた船に乗ればいい。オニールはかれらの生きかたをつぶさに観察した。

オニールのえがく海の男はなんと劇的なことか。
これは人間らしいということでもある。
海ではちからがすべてである。偽善的なものが入り込む余地はない。
いざ難船したらじぶんで命を守るよりない。
できるだけ難破したくないがゆえにみなでちからをあわせる。真の友情である。
海ではいつなんどき嵐にあうかもわからない。あす死んでしまう可能性もある。
そのスリルのどれだけ魅惑的なことか。
陸では金がつづくだけ酒をのみ女を買う。今日がすべてという思想である。
喧嘩もたえない。かと思えば、みなで歌い踊ることもある。
オニールは演劇的なるものの始原を海上生活に見たのではないか。

9作品、どれもが一定のレベルをクリアしているのはさすがオニールというほかない。
どんな大作家でも初期作品の中にはとんでもない駄作が混じっているものである。
しかしこの「一幕物集」に限っては、どれもなかなかおもしろいのだ。
なにかしらの余韻を読後も胸に残す。それはたしかに劇といっておかしくないものだ。

「特別な人」(ユージン・オニール/法政大学アメリカ演劇研究室訳/黒田欣映監修)絶版

→戯曲。米国産。
オニール初期の劇作。その後のオニール作品の萌芽を看取できる。
オニール劇のト書きとしていちばん印象深いのはこれである。

勝ち誇ったように笑う。

オニールの芝居にこれほど似合うしぐさはあるまい。
劇の見せ場には、このト書きが決まって登場する。勝ち誇る。
このことから何がわかるか。オニールの人間観である。
オニールは人間関係を勝つか負けるかの闘争として見ている。
つぎは誇るである。勝つとは微妙に意味合いがことなる。
誇るとは、人間の貴賎を強く意識したときに生じる感情ないし動作である。

人間には貴賎がある。上下関係といってもよい。
オニールが劇中人物を造形するときもっとも注意をはらったのが人間の格である。
さて劇を作る。人間と人間を向き合わせる。その際、留意したのが勝敗であった。
人間には優劣があることをかたくなに信じる劇作家にしか傑作は書けぬということか。
オニールはこれっぽちも人間が平等であるとは考えない。
どの人間にもおなじような可能性などがあるわけがない。
金持ちがいる。貧乏人がいる。美男美女がいるいっぽうでブス・キモメンがいる。
人間はみんなことなる。平等ではない。優劣がある。だから劇が生まれる。
オニールにいわせれば当たり前のことなのだろう。

「特別な人」。
お金持ちの独身老女がいる。美男の若者が金をせびりにやってくる。
老女は若者がじぶんを愛しくれていると信じる。小遣いをたびたびわたす。
このシーンでの優劣関係は明瞭である。
金はあるが老いている女。貧乏だが若さとそこそこの容姿をもつ男。
優劣がバランスを保っているわけである。
この関係にものちには勝敗がつくのだが、それはあとで説明する。
この老女と青年のもとへ老人が現われる。三角関係である。
さあ、この老人の格はいかほどか(笑)。
船乗り一筋。遊びはしない。貯蓄のみ。大金持ちといってよい。
この富裕老人は、かの老女をこのかた30年愛しつづけてきた。
もうたえられないわけである。じぶんの愛している老いた女が若い男にからかわれている。
かの青年は町ではさんざんにくだんの老女をこきおろしているのである。
いいかげんに目を覚ませ。老人は老女にいう。かつては婚約をしていた仲でもある。

ここでこの老女が取る態度がいかにもオニール劇なのである。
「勝ち誇った態度で悪意をこめて」老女は言い放つ。あなたは嫉妬しているのね。
これには老人も我慢がならない。愛が悪意に変貌するさまはいつ見ても強烈である。
老人は老女よりも金を持っている。
あの青年に金をわたせばすぐおまえみたいなお婆さんから手を引くよ。
老女は逆上する。あの子はお金目当てではない。
終幕直前、老人は自殺する。青年は老女から逃げる。
この劇の動因は「貧富」「老若」「愛」である。
この3つをめぐって劇が動いた。貧は富を欲し、老は若を求め、人間は愛を渇する。
劇の終盤、勝敗がつく。劇とはかようなものである。オニールは勝ち誇ったように笑う。
「限りなきいのち」(オニール/井上宗次・石田英二訳/岩波文庫)品切

→戯曲。米国産。岩波文庫昭和13年初版。
この芝居で起こる事件は不倫である。
妻子あるもの同士がひと晩のアバンチュール。
このふたつの家族は古くから友人づきあいをしているのにもかかわらずである。
女のほうの事情はこうである。自宅パーティーの席上。
プレイボーイの夫がこの妻の目前、愛人とともにホテルへしけこんだ。
パーティーの参加者は妻がどういう態度にでるのか意地悪に注目している。
妻は夫への復讐のために、友人の夫を誘惑する。
かの女は実にオニール劇にふさわしい。
のちにじぶんが夫を寝取った、その妻のもとへ行く。不倫の告白をする。
相手があなたの夫であるとはもちろん言わずにである。
そうとは知らぬ妻は、不幸な恋愛をしているこの女にやさしい。
女は意地悪く叫ぶ。

「同情なんかしないで、後生だから!
あたし愛してなんか貰いたくないわ! むしろ貴女に憎んで戴きたいのよ!」(P54)


愛情と憎悪。オニールが生涯、追求し、その激流を生き抜いたふたつの感情である。
なんのことだかわからないという顔をしている妻へ向かい女はつづける。
不倫の告白である。そのセリフがまことオニールらしい。
夫と愛人はいなくなった。孤独な妻の胸の中は煮えくり返るようである。復讐してやる。

「そして心の中ではウォルター(夫)へ復讐してやることを誓い続けてゐたの――。
それであたしその人を選び出して――。ええ、わざとだわ!
何も彼も承知の上でそんな狂気(きちがひ)染みたことを仕出かしたの!
で、あたし凡ゆる誘惑を試みなくちやならなかつたのよ――
その男(ひと)は全く幸福な生活をしてゐた人なんだつたから。
あたしそれをよく知つてゐたの。けれど狂気(きちがひ)みたいになつてたのよ。
その人が幸福なんであたしはすつかり腹を立てて了つたの――
その人が他の人を幸福にすることを考へてね。
あたし其の男(ひと)から幸福を奪いとつて、
あたしの幸福が目茶々々にされたと同じやうに、


其の幸福をぶつ毀してやりたかつたの! 」(P56)

オニール節である。夫に浮気された妻がいる。不幸である。
ふと見ると幸福な結婚生活を送っている男がいる。かれの妻とは友人である。
おなじ妻という環境にありながら、どうして友人は幸福でじぶんは不幸なのか。
むかむかする。なら友人の幸福もぶっ壊してやれ! 犯罪者の思考法である。

話を浮気相手の男のがわに転ずる。この男の名前はジョン・ラヴィング。
舞台にはジョンとラヴィング、ふたりの男として登場する。ひとりの男なのにである。
これはどういうことか。オニールの実験である。
ジョン・ラヴィングはむろんひとりの男である。
かの男の善の部分をジョン、悪の部分をラヴィングに背負わせる。
つまり舞台上にはジョンとラヴィング。ふたりが登場する。
このふたりが会話をしたりもする。舞台の他の人間には善のジョンしか見えない。

ジョンは妻を深く愛している。それなのにどうして旧友の妻と浮気をしたのか。
さらにこともあろうかジョンは(ラヴィングか)愛する妻のまえで浮気を告白する。
オニール劇に特徴的な「愛の確認」がここでも繰り返されるのである。
妻を愛しているからこそ、あえておのが不実を告白する。
こういえば格好がいいが、その実、相手を苦しませているに過ぎぬ。
もっとも陰険な愛のためしかたと読むことさえできる。
愛は目には見えない。不可視なものはとても信じられぬ。愛を眼前に確認したい。
そのためには相手を苦しめる必要がある。なぜ相手を苦しめても平気なのか。
じぶんが苦しいからである。この苦しみをわかってほしい。がために相手を苦しめる。
これで同一地点に立ったと思う。おなじ苦しみのさなかにいる満足をかれは感じる。
さあ、あなたとわたしはおなじ場所にいる。
わたしはあなたを愛している。あなたはわたしを愛してくれるか。
オニール劇の恋愛は凄惨(せいさん)というほかない。

ジョンはおずおず述べる。じぶんが構想している小説に仮託して。
しかし妻は夫の過去の告白だと、とうに気づいている。
夫も妻が小説のことではないと思って聞いているのを承知している。
善なるジョンは苦しげに語る。浮気当日のことを――。

「彼(ジョン)は此の女に対しては、ちつとも欲望を感じてはゐなかつたんです。
女が彼の腕に身を投げたとき、
彼は嫌悪を感じて此の遊戯を中止しようと決心しました。
妻のことを考へてみました――(……)」


悪なるラヴィングが話をひきつぐ。今度は冷然と復讐的な口調で――。

「(……)彼の傍(そば)に居る女は、単なる手段に過ぎないものでした。
あらゆる偽善的な口実を設けては来たが、
内心自分は愛を憎んでゐるんだつて事が分りました。
で、その愛の力から解放されて、再び自由になる事を希(ねが)ひました。
愛情を殺して了ひたくなつたのです!」(P87)


なぜジョン・ラヴィングは、ジョンとラヴィングに分離したのか。
かれの過去が明らかになる。
ジョン・ラヴィングの両親は敬虔なカトリック信者であった。
かれが15のとき父が流感で死んだ。
ジョン・ラヴィングが神に助命を乞うたにもかかわらずである。
つぎには看病疲れが原因でかれの母まで病にふす。
かれがもっとも崇拝していたのが母である。少年は神に嘆願する。
神と取引をする。もし母を助けてくれたら神父になります。
けれど、もし、もし、母まで奪おうというのなら、もうあなたとは絶交です。
母は死に少年はジョンとラヴィングに分裂した。
そのジョン・ラヴィングが現在こうして生きていられるのは妻のおかげである。
妻の愛が、かれの生命をかろうじて保持している。
しかしラヴィングがいまのいま、それを壊しにかかっている。
夫の浮気を聞いた妻は裸足で雨の中へ飛びだす。肺炎になる。死に瀕している。
信仰をすすめる伯父の神父をラヴィングはあざわらう。

「僕は神様に祈つた事があるけれど、その答は憎しみと死と――
嘲笑だつたんですよ、それをお忘れですね!」(P124)


終局、ジョンは教会へ行く。神のまえにひざまずく。
ラヴィングが死ぬ。ジョン・ラヴィングの誕生である。あるいは復活かもしれない。
妻の命はもちなおす。いちおうハッピーエンドなのであろう。
だが、わたしはこの結末に不服である。
少年ジョンは神に祈ったが、その甲斐なく両親は死んだ。結果、かれは不神論者になる。
時を経て、中年ジョンが妻の命を救いたいがために再び神へ祈る。
すると今度は両親の場合とはことなり妻の助命は聞き届けられる。
そうしなければ芝居のまとまりがつかないのはわかる。
観客心理を熟知したオニールがこの劇の終末をこのようにしたのも無理はない。

しかし、思う。このクライマックスはどこかおかしくないか。
べつの決着を観客ならぬ読者のわたしは望む。
ジョンは信仰を最後まで否定する。ラヴィングも死なない。
だのに妻は死のふちから生還する。
または――。ジョンは神のまえにひざまずく。ラヴィングは死ぬ。
ところが妻は死んでしまう。
にもかかわらずジョン・ラヴィングは神のまえにこうべを垂れたままである。閉幕。

「夜への長い旅路」(オニール/沼澤洽治訳/「名作集」白水社)絶版 *再読

→戯曲。米国産。
劇作家ユージン・オニールの最高傑作。
今回、再読して確認する。これを超える劇作にはいまだ出会っていない。
人間が書くことのできるもっとも崇高な戯曲がこの「夜への長い旅路」である。
およそ作家というものは、いちばん書きたいことを書かずに終わる。
書かなければならないことを書きたくないがために逃げまわる。多作する。
創作を逃亡の手段にする。
次回に書くと先延ばしをしながら生命という財産を蕩尽(とうじん)する。
なぜ書かないのか。書けないのである。
それを書いてしまったら自分がどうなるかわからない。
自分を保持できるかさえ疑問である。かなわぬ敵には近づかぬほうがいい。
作家が創作する。そのたいがいは見せかけの苦闘で、実際は逃亡なのかもしれない。
書くことで闘っているような演戯をみせながら、その実逃避している。
具体例ならいくつか挙げられるが、ここはその場ではない。
この記事ではユージン・オニールへの称賛に終始したい。
稀有(けう)な難業を為しえたこの偉大なる劇作家へ惜しみない拍手を送るにとどめる。

「夜への長い旅路」。
オニールが晩年に執筆した自伝劇である。
息子への影響を考え、作者は自分の死後25年間の発表を許さなかったという。
家族の劇である。

大小の差こそあれ、どの家族にもひとには決していえぬ秘密がある。
家族。おかしなものである。男と女が出会うことからスタートする。
いや、正確には異なる。なぜその男は生まれてきたかという、そこから始めるべきか。
ある男がある両親のもとに生まれる。その貧富や性格は当人には無関係。
その男が成長する。女と知り合う。結婚する。
このときの妻も夫同様に、ある両親のもと(絶対的な状況下)で誕生したのである。
当たり前のことであるが、子は親を選べないということだ。
それどころか自分の性格ですら選択の結果ではない。
父に似るか、母に似るかはわからぬ。
だが、このふたりの遺伝子に支配されるのは避けようもない。
(むかしは遺伝子ではなく「親の因果が子にたたる」といった)

人間がふたりいるだけでもふしぎなことである。
そんな男女が偶然に出会う。恋愛などする。これはおそろしいことではないか。
男女は結婚する。子が生まれるとする。家族が誕生するのはこのときである。
赤の他人である男女の共同生活が、家族という思想に縛られるようになる。
偶然と偶然が必然になるのはこのときである。どういうことか。
偶然に生まれてきたと思っていた男女が、
ひとつの必然を生みだしてしまうということである。
偶然の夫婦が、必然の両親になる。
夫婦のがわはどちらもその配偶者以外の選択肢もあったが、
生まれてくる子どもはその両親のほか選択できない。
この世へ生まれ落ちたということは、被害者の立場で説明することができる。
頼んでもいないのに生みやがってという幼稚な(しかし真実の)呪詛を
だれもが一度は口にしかけたことがあるはずである。
しかし夫婦が両親になる瞬間、被害者が一転、加害者になる――。

家族において偶然が必然に変容する。

親も子を選べぬというのは真実反面、ウソ半面。
親が双方の知能、容姿、性格をほどほど客観的に見比べたら、
子のことがまるっきり想像もつかないというのはさすがに無理があるのではないか。
かようにして家族というのは、人間が人間を超えた行ないをし得る、
極めてめずらしい場ということになる。
偶然的な存在に過ぎぬ人間が必然を創造する場所が家族である。
おしなべて作家の創造の源泉が家族であるのもこのためなのだ。
人間だれしもが、個を超える全体と、
身体感覚を失わないまま触れ合うことができるのは、家族をおいてほかない。
個を超える全体とじかに肌を接する体験をできるのは、選ばれた人間だけではない。
だれもが家族を凝視するとき、その視線は個を超えるものへと向かわざるを得ない。

                    *

オニールの「夜への長い旅路」は麻薬中毒の母親に翻弄される家族の劇である。
かれらの悲劇はこうである。登場するのはオニール青年、兄、両親の4人。
なぜオニールの母親は重度の麻薬中毒になったか。
オニールを産んだからである。難産であった。医者は安易にモルヒネを多用した。
いつしか母親は麻薬中毒になっていた。
この劇中、オニールをのぞく3人がみな口にする。
あの子が生まれたのが悪い(母)。
あいつが生まれてこなければ(父)。
おまえが生まれたことを恨んだ(兄)。
おそらく似たようなことが何度も実際にあったのだと思う。
オニールはどれほど辛かったことだろう。

しかしオニールだけが悪いというのではない。
オニール家の住人は傷つけあう。
オニールは父へ言う。あなたの吝嗇(りんしょく=ケチ)がいけなかった。
あのとき、出産時、医者代をケチって安い医者を呼んだからあんな治療をされたのである。
人気役者の父は言い返す。いや、あれはちがう。すぐさま話の方向をかえる。
おまえたちは貧乏を知らない。おれはどれだけ貧乏な家に生まれたか。
学校へも行かず毎日のパンも事欠く幼少時代を送ったのだ。
だから金の大切さを知っている。それだけの話だ。おまえらは恵まれていたからな。
おれのような子ども時代をおまえみたいな軟弱者が生き抜けるはずがない。

麻薬中毒の母にはオニールの兄も苦悶した。
何をしてもモルヒネをやめようとしない。母を憎むようになる。
ほんとうは兄も母を愛している。だから何度も信じる。
今度こそ麻薬をやめてくれるのではないか。愛するから信じる。そのたびに裏切られる。
まるで人生に裏切られたかのような思いにとらわれる。厭世的になる。自暴自棄である。
定職にもつかず酒びたり。連日の女郎屋通い。兄は放蕩生活を送るようになる。
あるとき兄は母から言われた。麻薬をやめてくれと頼んだときのことである。
麻薬でおかしくなった母はあんたのせいだという。
実はオニールには兄がもうひとりいた。幼少時に死んだ。
その原因というのが兄なのである。兄は7歳だった。はしかだった。
それなのに2歳の弟の部屋へ入っていた。感染した。死亡した。
あれはわざとに違いないと母は言う。弟に嫉妬していたからわざとやったのだろう。
子が死んだせいで何も手がつかなくなった。夫がもうひとり生めばいいという。
だからオニールを出産した。その際の陣痛で麻薬中毒になったのである。
あの2歳の次男が亡くならなければと麻薬で興奮した母は長男を攻撃した。

「夜への長い旅路」は1日の出来事を芝居にしたものである。
舞台は朝から始まり、昼、夜、深夜と、幕ごとに変化していく。
その日は母が退院してきてから2ヶ月経っていた。
朝から家族はそれぞれ異常を察知する。どうやら母がまた麻薬を始めたようである。
昼過ぎにはそれが確定的なこととなる。家族が相互に激しく傷つけあう。
どうしてこうなってしまったのか。お互いを攻撃する。
父の生い立ちから、母の生育環境まで、つまびらかに舞台のうえで開示される。
なぜふたりは出会ってしまったのか。
麻薬でぼろぼろの母と、やけ酒でふらふらの父が舞台終盤向きあう。
一瞬、甘い思いにひたる。あのころはよかった。大恋愛だった。なにもかもすばらしかった。
両親は夫婦に戻る。ふたりの恋人へ戻る。涙する。
しかしそれもつかの間、ふたたび壮絶な傷のつけあいを開始する。

この日、オニールは父の実の姿を見る。
かれは結核と診断された。当時は大病である。診療所に入院しなければならない。
そこで父がとった行動にオニールは仰天する。
ほぼ無料に近い州営の施設に父はオニールを入れようと画策していた。
父は有名な俳優である。大金持ちなわけだ。そのくせ息子を……。
オニールがこの劇作の動因としたのがこれである。
オニール一家は互いに憎悪しあう。だが、それは愛なのである。
愛しているから憎まざるを得ない。
憎悪という鎖によって、なんとこの家族は強固にむすびついていることか!
これはけがらわしいのか。それとも美しいのか。

夜が近づくにつれ、母は麻薬をどんどん注入する。
男3人は酒である。3人とも今度こそ母は治ったと信じていたのである。
それが裏切られた。酒をのむほかないではないか。
いくら酒をのんだところで過去を忘れることはできない。
むしろ過去を明晰に意識するようになる。
自分以外の家族を罵倒する。どこを突けば相手がいちばん傷つくかはわかっている。
まんまと傷つける。そんな自分がいやでたまらないから酒をのむ。
因果応報。やったらやり返される。こっぴどく傷つけられる。苦しいから酒をのむ。
家族地獄である。酩酊した兄は弟へ絶叫する。

「おれはおまえを憎む、だがそれ以上に愛してもいるんだ」(P276)

おまえなんか生まれてこなければよかったと罵倒したあとの兄のことばである。
オニール劇のすべてが、ここに集約されているというのは言い過ぎだろうか。

この劇を書き終えたオニールのことを思う。
劇作家はこの名作を生前に上演、出版する予定はなかった。
この戯曲は、ただ愛する妻のために書かれたのである。
結婚記念日のプレゼントとして渡されている。
妻へのメッセージが残されている。いちぶを抜粋する。

「妻よ、この劇の草稿をおまえに捧げよう。
血と涙が書いた、古い悲しみの劇だ。(……)
これはおまえの愛情と優しさに対する捧げ物
――そしておまえの愛情と優しさこそが、
私に愛そのものに対する信頼を与えてくれ、ついに私の死者たちを直視し、
この劇を書く勇気を与えてくれたのだ。(……)」


どれほどの愛が、この劇を書かせたのかと思う。
ものすごい量の愛をこの劇作は必要としたはずである。
陰惨な劇に胸を痛めながら、その愛の存在に安らぎを見いだす。
オニールは妻への小文をつづける。これを読むとわかる。
人間オニールは不幸であったが、劇作家オニールはこれ以上ないほど幸福である。

「そして私は亡霊に取りつかれた四人のティーロン家の人々に対し、
深い憐れみと理解、そして寛恕の心を抱きつつ、この劇をかくことができた」


「楡の木の下の欲望」(オニール/菅泰男訳/「名作集」白水社)絶版

→戯曲。米国産。
岩波文庫版をまえに読んだことがある。この一作でオニールのとりこになってしまう。
オニール劇のキーワードは欲望。この戯曲のタイトルにも入っている欲望である。
人間はだれもが欲望をもつ。
金がほしい。名誉がほしい。うまいものを食べたい。上等な服を着たい。
いい女をものにしたい。いい男をつかまえたい。楽をしたい。眠りたい。
だが、人間の欲望はかなえられぬことが多い。なぜか。なんの障壁があるのか。
他の人間がいるからである。
ある人間の欲望の充足は、べつの人間の欲望を排斥することでしか成立しない。
欲望と欲望が衝突するわけである。

我われは日々の生活でこの欲望をどう飼いならしているか。
まずは少欲知足(少ない欲で満足することを知る)の処世訓。
おのが欲望を減らす。毎日、ごはんが食べられるだけでもありがたいという思想である。
いくら小欲知足に生きようと個人の欲望はどうしても他の欲望とぶつかってしまう。
ここで登場するのが処世術である。
相手の欲望のぜんぶではないがいちぶを認める。
かわりにこちらも同程度の欲望充足を要求する。
こうするとお互いがほどほどに満足する。あらそいが生じることもない。
オニールは苛立(いらだ)つ。これでは一向に劇など起こらぬ。

劇作家ユージン・オニールは放火魔である。
劇内の人物の胸でくすぶる欲望へ点火してまわるのが、この劇作家の仕事である。

欲望よ燃え上がれ! 欲望よ妥協するな!

人間ならだれでも欲望をもつ。欲望をもつのは悪いもんか。
もっと人間らしくなれとオニールは劇中人物に発破をかけていくのである。
人間と人間が激突する。ふたつの欲望が炎上する。これを劇的という。
燃えろ、燃えろとオニールは火事場へガソリンを流し込む。
決して楽な仕事ではない。劇作家に引火するおそれはたえずある。危険極まりない。
人間と人間が、すなわち欲望と欲望が相対するとき、かならず勝敗がつきまとう。
どちらの欲望も充足することなどありえない。勝つか負けるかである。

オニール劇に特徴的なト書きをいくつか例示する。

「残忍な勝ち誇ったような笑いを浮かべて」
「脅かすようにせせら笑い」
「ぐっと自分をおさえて冷笑」
「すすり泣き、あえぎながら、激しく」
「打ちのめされたように、ひざをつき」
「しりごみをして、ふるえながら」


オニール劇のテーマは愛であると以前書いた。
愛とは欲望にほかならぬ。相手のすべてを手に入れたい。これが愛である。
敵も阿呆ではない。恋人は、いわば敵である。
いくら欲望してもこちらが何も差し出さねば相手とて何もくれぬ。
欲望の相克(そうこく)こそ愛の実相である。
相手のすべてを手に入れるためには、こちらもすべてを放棄しなければならない。
愛とは奪い、奪われるもの。
ちがう愛もあるのかもしれないが、そんな偽善的な愛は劇にはならぬ。
オニールの恋愛観、ひいては人間観である。

「楡の木の下の欲望」。
土地の所有権がテーマとなる。父と子が畑の所有をめぐってあらそっている。
息子は、畑を死んだ母のものだという。
かれの母親は後妻としてこの家に嫁いできた。
その母はもう亡くなっている。だからこの畑は自分のもの。息子の主張である。
父は老いてもなお頑健。くわえて頑迷でもある。これはおれの畑だと譲らない。
父と息子の欲望が火花を散らす。このあいだに登場する女がアビー。
まだ若いアビーは父の後妻として連れてこられたばかりである。
アビーは老人の妻になることなど興味はない。目的はやはりこの畑。
愛欲は燃えさかる。後妻と息子ができてしまう。愛である。欲望である。
ふたりのあいだに不義の子が生まれる。

終局、父子の対立が不可避なものとなる。
あらそわれているものは何か。畑とアビーの所有である。
この闘いに勝ったのは父であった。
混乱した息子はアビーを疑う。アビーの愛を疑う。
アビーは子種目当てに自分を利用しただけだったのではないか。
アビーに子どもができたいま、父が死んだら畑の所有権はアビーが獲得する。
息子はアビーを詰問する。アビーは疑惑を否定する。息子は信じない。
さて、アビーはどのような行動に出るか。
息子への愛のためにお腹を痛めて産んだわが子を殺してしまう。
この子がいなくなれば情人は自分のもとへ戻ってくると思ったがためである。

愛は暴力である。愛は殺意である。

アビーが赤ん坊を殺したことを知った、かの息子は愕然とする。
そんなことは望んでいなかった。あわてて保安官のもとへ通報しにいく。
途中、引き返す。アビーの愛に気がついたからである。
ふたりで逃亡を企てる。だが、あっさりと保安官へ捕縛され連行されるふたり。
残ったのは父親である。妻のアビーをなくした。息子もいなくなった。
畑だけが自分の手に残った。父は泣き言をいわない。こうもらすのみである。

「ふん――何を不平言ってるんだ? 神さまはさみしいんだ、な?
神さまは、きつくって、さみしいんだ!」(P182)


欲望と欲望が衝突する。どちらが勝つのか。
決して欲望の強いほうが勝利するわけではない。勝敗は人間のあずかりしらぬこと。
神のみぞしることである。
個人の欲望を追及したオニールは神の領域に入り込むことをおそれなかった。

メモ。
「アナ・クリスティ」で、アナは恋人への愛のために売春婦であった過去を告白した。
「楡の木の下の欲望」で、アビーは情人への愛のためにわが子を殺した。
愛の証明のために肉体的ないし精神的に他の人間を傷つけるオニール劇の人びと――。