「偉大な神ブラウン」(オニール/倉橋健訳/「名作集」白水社)絶版

→戯曲。米国産。
あるフレーズが気になった。その部分を引用する。ト書きである。

「ダイオンが入ってくる。彼は、ひどく興奮している。
服装は乱れ、仮面をかぶった顔は、おそろしい死神のような強烈さをもっている。
その嘲笑的な皮肉は、残酷さをおびた悪意のあるものになっていて、
他人を苦しめる苦しみにゆがめられ、ほんとうの悪魔のような感じをあたえる」(P226)


他人を苦しめる苦しみ!

これほどオニール劇の地獄をうまく言い当てた表現はない。
オニール劇では常に人間と人間が傷つけあう。
相手のいちばん痛いところを故意に突く。
苦しむ人間と対面していると自分も苦しくなる。
自分も攻撃してくれとわざとおのれの傷をさらす。
相手は仕返しとばかりにそこへことばのナイフを突きつける。

キャッチボールにたとえる。
親友同士のゆるやかなキャッチボール。これがいわば日常会話である。
オニール劇の人間は、これではつまらんとばかりに、
突然、相手の顔めがけて剛速球を投げつける。すんでのところでボールをかわす。
お互い笑顔のままである。休憩をしようと相手が後ろを向く。
それを見計らい、えいや! と相手の後頭部をねらい投球する。復讐である。
どちらかが死ぬまで危険球のごときセリフを投げつけあう。
これがオニールの劇である。

「偉大な神ブラウン」。
この劇における葛藤は、実業か芸術かである。
ブラウンとダイモンは、高校時代からの親友。
ブラウンは今風にいえば「勝ち組」。建築設計士として成功している。
ダイモンは「負け組」。画家を志していたが、おのれの才能のなさに気づく。
夢も希望もない酒びたりの毎日を送っている。
ふたりには因縁がある。高校時代、おなじ女に恋をした。
女はダイモンを選択した。いつの時代、どこの国でも芸術は女を魅惑する。

ダイモンは放蕩三昧。もう貯金も底をついた。子どももいるというのに。
ダイモンの妻は屈辱をたえしのび、生活のためにブラウンのところへ行く。
夫の職を世話してもらうためである。
ブラウンはまだこの女への恋心が消えていなかった。
ざまあみやがれと親友を選んだこの女を見やるブラウンの視線。
それに対抗して必死で強がる女。
女はブラウンがいまだにじぶんに好意をもっているのを知り、うまく利用しようとする。
ブラウンもすぐにそのことを悟り、憎々しく思う。
ユージン・オニールよ! あなたはほんとうにこういうのが好きですね(笑)。
いえ、わたしもたまらなく好きなんですが。
ひとがひとをバカにする。下品で自分勝手で偏屈な人間同士、相手を嘲笑しあう。
そういう愛しかたしか知らない。そのような愛しか信じられない。

ブラウンとダイモンは一緒に仕事をするようになる。
このふたりが対決する場面は圧巻である。
ブラウンの実業家としての才能をいちばんよく知っているのはダイモンである。
かといって、ダイモンはブラウンをほめたりはしない。侮蔑する。
狂った目つきで親友をじろじろ見る。どこを攻撃したらこの男を傷つけることができるか。
ダイモンは医者からこれ以上、酒をのんだら死ぬといわれている。
それでも酒をやめない。死ぬ気でいるのである。
浴びるほど酒をのんだダイモンはブラウンをあざわらう。
おまえは人生を何もわかっていない。生きるということの意味を知らない。
ブラウンもそのことをわかっている。深く傷つく。
芸術家ダイモンをもっとも理解しているのはブラウンなのだから。
お互いが最高の理解者なのである。だからこそ際限もなく傷つけあうことができる。

オニール劇における、ある小道具に注目したい。酒である。
オニールは酒のつかいかたが実にうまい。
そもそも演劇と酒は深い関係がある。
古代ギリシアにおける酒の神様ディオニュソス(バッカス)は演劇の神でもあった。
オニール劇の住人は強い酒をぐいとのむ。
それで勢いをつけ、ふつうではいえないことをあえていう。
酒は人間の感情を解放させる。喜怒哀楽を全開にさせる。つまり人間を狂わせる。
劇とは感情と感情の衝突である。酒ほど都合のいい小道具はない。

オニール劇の人間は苦しい過去を忘れるために酒をのむ。
ところが、酒をのむことで、かえって過去に耽溺(たんでき)することになる。
もう少しのめばなんとかなるのではと、かれはさらに酒をあおる。
この繰り返しである。いつしか狂気をただよわせる人間ができあがっている。
かれは苦しみにのたうちながら、愛を求める。
愛を確認するのは、相手を苦しめることでしかできない。
目の前にいる人間を愛ゆえに苦しめる。後悔する。忘れたい。酒をのむ。
孤独が増す。さみしい。愛がほしい。愛がわからない。他人を傷つける。
やったらやりかえされる。他人から傷つけられる。苦しい。酒をのむしかない……。
オニールの戯曲を読むと、どうしようもなく酒が恋しくなる。
いつもはビールが好きなわたしも、なぜかウイスキーをロックで数杯はがぶ飲みする。

「すべて神の子には翼がある」(オニール/小池規子訳/「名作集」白水社)絶版

→戯曲。米国産。
差別は必要だと思う。少なくとも劇のためには差別は不可欠である。
格差社会、おおいに結構。格差のない一億中流社会では劇が隠微(いんび)される。
差別もどんどん復活させるべきである。
すべては劇的なるもののために!
人間は、どこかで劇的たらんという欲望がある。
波風立たない平穏な毎日に飽きあきしている。
なら差別もいいじゃないか。差別があれば闘争することができる。激烈な恋愛も可能だ。

差別があるからこそ劇が生じる。

このことにオニールほど敏感だった作家はおそらくいまい。
オニールのえがく人間は侮蔑を隠そうとしない。
この劇作家がもっとも好んだ感情は侮蔑と憎悪ではないだろうか。
愛をえがくために、侮蔑と憎悪の確固たる裏打ちをかれは要求する。

「すべて神の子には翼がある」。
テーマは、黒人男性と白人女性の恋愛。
初演は1924年。まだ差別が根強く残っている時代である。
ふたりは幼なじみ。幼少時は人種差別とは無縁。無邪気に婚約をする。
男はそのまま成長したが、女はいつしか変化する。
高校卒業時には、女は黒人を嫌悪するようになっている。黒人は女に冷たくふられる。
その後、女はプレイボーイの白人とつきあいすてられる。かれの子どもを産み亡くす。
傷心の女に近づき変わらぬ恋を告白する幼なじみの黒人。
ふたりは結ばれる。だが、ここでハッピーエンドにするようなオニールではない。
ここからが劇のスタートだといってもよい。

設定がやばいことにお気づきか。
おなじ白人にすてられた、いわば傷物の白人くらいが黒人の結婚相手にはふさわしい。
女はマイナスを多く抱えている。そこに巧妙に取り入る下賤な黒人。そうとも読める。

黒人は弁護士を目指している。
だが、白人への劣等感から試験会場でいつも失敗してしまう。
会場は白人ばかりである。かれは白人へのコンプレックスに圧倒されてしまう。
確認する。この劇の葛藤はどこにあるか。
黒人か白人かである。黒か白か。どちらが勝つのか。
男が弁護士になってしまえば黒人の勝利である。
白人の妻にとってそれは許しがたいことである。
じぶんは傷物であった。だから黒人と結婚した。そのくらいが釣り合いが取れている。
しかし夫が弁護士になってしまえば白人と同等。妻の白人たる優位性が保持できなくなる。
妻はどうするか。狂気におちいる。日々、発作を起こし夫の勉強の邪魔をする。
これは意識的か、それとも無意識的か。
白人の妻を狂わせたのは個人ではどうにもならぬ巨大な差別感情である。
ある晩のことである。妻は夫のまえに現われる。すがりつく。

「ねえ、ジム――ひとりぼっちにしちゃいや!
とってもこわい夢見たのよ、ジム――もうどこにも行かないって、約束して!」


白人は黒人をしばらく凝視する。

「(立ったまま彼を見て、心の中で自分と戦っている。
その顔に驚くべき変貌が生じる。
下品で意地悪く、嫉妬深い憎悪にあふれた顔つきになる。
自分を抑えることができなくなり、残酷な悪意のこもった薄笑いを浮かべて、
がさつにどなる)けがらわしい黒ん坊め!」(P111)


夫は弁護士試験をパスするのかどうか。
通知が来る当日、妻の狂気は最大限の振幅を見せる。

「ジム! 合格(パス)したのかも! 合格したかもね!
(逆上して)違う! 違う! そんなはずはない!


殺してやる! 自殺してやる! 」(P112)

これこそ愛である。愛は献身ではない。憎悪である。殺意である。
夫はまたもや試験に落ちたことを妻は知る。踊りあがらんばかりに歓喜する。
夫婦は愛を取り戻す。ふたりはかたく抱擁する。
これはハッピーエンドなのかどうか、いまもってわからない。

「アナ・クリスティ」(オニール/喜志哲雄訳/「名作集」白水社)絶版

→戯曲。米国産。
ユージン・オニール(1888~1953年)はアメリカ演劇の父とよばれる。
1936年、ノーベル文学賞受賞。
テネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラーと比較するとわが国での認知度は低い。
だが、作品の質は戦後アメリカのこの二大劇作家に決して負けてはいない。
むしろオニールのほうが劇的なるものの本質に迫っているようにわたしには思える。
オニールは人間が通常なら立ち入ることのできない、
劇における神の領域に一歩二歩と侵入した。おそろしいというほかない。
ストリンドベリとならび心酔している劇作家である。
余談だが、「ストリンドベリ名作集」と「オニール名作集」は、
本棚のいちばん目立つ場所に2冊ならべている。
オニールはこのスウェーデンの劇作家・ストリンドベリから強い影響を受けた。
海をへだてた日本の読者がこのふたりの劇作家の著書をならべているのを知ったら、
天国のご両人もそれほど悪い気はしないだろうと思っている。

愛とは暴力である。

オニールは愛をえがきつづけた作家である。
愛をえがくには愛を凝視しなければならぬ。
オニールの目にうつった愛は暴力であった。憎しみであった。
憎悪の保証がない愛情などまやかしもの。
愛するとは憎むこと。憎むとは愛すること。
オニールが造形する人間はみな、わたしには懐かしく感じられる。

「アナ・クリスティ」。
場所は酒場。老いた水夫がひとを待っている。
ひとを待つ。劇のもっとも基本的なスタイルである。
平衡状態から劇が生まれることはない。侵入物が必要なのだ。
水夫が待っているのは実の娘。15年ぶりの再会である。
そこへ登場する娘は父の予想に反して、あきらかに売春婦のなりをしている。
父は気づくまいとするが、観客の目には明瞭である。

父と娘が海上にいる。ある晩、難破した船員を救出する。
そのうちのひとりと娘は恋に落ちる。
父親は娘がじぶんとおなじ海の男に嫁ぐことを許すことができない。
老いさらばえた身。せっかく再会した娘を手放したくないという気持ちもある。
父か恋人か。娘は選択を迫られる。人生における選択は劇的と同義。ドラマは緊張する。
娘は恋人からのプロポーズを拒絶する。とすると、父が勝ったのか。
ちがう。愛が勝ったのである。
娘は恋人への愛ゆえに売春婦であった過去を告白する。

恋人はこの娘を良家の子女と信じて疑わなかった。
娘は何も告白などする必要はなかった。そのまま結婚しようかと何度も迷う。
しかし女は男を生まれて初めて真剣に愛してしまったのである。
売春婦だった過去を打ち明けたら男は去っていくだろう。
それはわかっているのである。だが、女の愛がウソをつくことを許さない……。
愛とは、なんとはた迷惑なものか!

男は怒り狂う。この売女(ばいた)めと首をしめようとする。
愛情が一転して憎悪にかわる、そのあざやかさ。
愛していたぶんだけ男は女が憎くてたまらない。
男も女をかつてないほど愛していたのである。
その女が、あろうことか、じぶんがむかしよく買っていた、あの安っぽい女とおなじとは。

「蔑(さげす)み」「激しくあえぐ」「冷笑」「怯(おび)える」
「皮肉」「辛辣(しんらつ)」「居直る」「すすり泣く」「傷つける」
以上、この戯曲に頻出するト書きである(オニール劇の特徴でもある)。
この過激な劇世界をご理解いただけよう。
なんと人間は激しいことか。
オニール劇の住人は泣いたと思ったら、すぐさま激怒する。

抱きついた次の瞬間には殴りかかる。

愛情と憎悪がめまぐるしく入れ替わる。
けがらわしい売春婦――。
娘のもとから父も恋人も離れていく。町へ酒をのみにいく。
以前はあれほど熱烈にこの娘を欲していた男ふたりである。
愛ゆえにひとり取り残された女。
まず父が戻ってくる。さらには恋人も。三者対面。劇は昂揚する。
かつての求婚者は娘をこれでもかとなじる。娘は男を殺そうとする。
オニールは愛を狂気と見る。
狂う。感情の規制が効かない。もっとも人間らしいのは狂人である。
オニールは劇を求める。狂気を欲望する。

狂え狂えと、おのが人形たちへ呪いをかける。

最後は愛の勝利! カタルシスである。男と女は過去を忘れ結ばれる。
観客は惜しみない拍手でこの劇をたたえたことだろう。
1922年、ピューリッツァー賞を受賞。

「演劇・けいこの基本」(阿坂卯一郎/青雲書房)

→芝居の演出をしているかたとお会いすることになったので予習として読んだ。
戯曲を好んで読む。演劇書も、まあ、読んでいる。
しかし実際の演劇というのが、どのように作られているのかまるでわからない。
どのように芝居は作られているのか。
今回、かれの話をうかがってたいへん勉強になった。

芝居はとにかくお金がかかるというイメージ。
会場を借りるのは1日7~9万円。
照明の専門家を頼むと1日5万円。音楽の専門家も同程度。
舞台装置を作るのにも金、金。少しでも安く仕上げるために専門学校の生徒へ依頼する。
ふつうは2、3ヶ月。かれのところは半年を稽古にあてるという。
その稽古場も借りるのにはお金がかかる。
役者に報酬なんてとんでもない。それどころか持ち出し。
役者は全員、チケット35枚(だったか)を負担しなければならない。
チケットは2300円とうかがったから、えーと、2300×35は……。
かれは劇団の主催者だから、他の役者よりもかくだん演劇に費やす金額が多いと聞いた。
お金の話はふつうしたくはないであろう。失礼なことをうかがったと思う。
知りたかったのである。かれにはほんとうに感謝している。ありがとうございます。

「ボク、野心がないってみんなから言われるんですよ」
そう頭をかいていた、かの演劇人にわたしはストレートに質問した。
文学だったら芥川賞があるじゃないですか。
あれみたいな、なんていうのかな、一発当てるというのはあるんですか。
「とくにそういうのは。少しずつでもお客さんの数が増えて、
どこかの媒体に取り上げられたら。まあ、これで食べていこうとは」

小劇場演劇。信じられない世界である。
いままでの演劇への態度を恥じた。わたしは観劇後、よほどのことがないと拍手はしない。
なんで観客は一様に拍手をするのか疑問に思っていたくらいである。
お金をはらったのはこっち。役者は観客を満足させて当たり前。
最後まで見てやったんだから、逆におつかれさんと拍手をしてほしい。
まったくふざけた観客であった。芝居に足を運ぶとかならず手渡される、
あのアンケート用紙にもずいぶんひどいことを書いた。
どう書けば読み手が傷つくか一心不乱にことばを選んだものである。

かれの説明を聞いて、これは態度を改める必要があると嘆息した。
芝居を作るのは、おそろしく骨の折れることなのだと思い知った。
ふしぎでしようがない。
半年も時間をかける。お金も持ち出すいっぽう。見てくれるのは500人。
これが多いのか少ないのか素人のわたしにはわからないが、
とても苦労が報われる人数には思えない。公演は1年に2回ほど。
それをもう6年だか継続している。すごいよな。感嘆する。情熱に打たれる。
もしかしたら報われるのは終幕直後の拍手、あの一瞬なのかもしれない。
これからは拍手をさぼらないようにしたい。

演劇観は変化なし。
演劇はやはり見るより、作り手にまわるほうがおもしろい。
道楽ということばが浮かんだ。
時間はかかる。金もかかる。報酬は拍手。

演劇は最高に贅沢な道楽なのであろう。

「パパ・アイ・ラブ・ユー」(レイ・クーニー/小田島雄志・恒志訳/劇書房)*再読

→戯曲。英国産。
この劇の中心は神経科の医者。
数時間後にスピーチをしなければならないので緊張している。
国際会議である。そこでの講演はとても名誉なこと。
ぶじ成功させれば内科部長のポストが約束されている。
このまま何も起きないと観客は退屈する。

ひとの幸福は、そうおもしろいものではない。

さて、レイ・クーニーはこの劇をどう動かすか。いかに観客を笑わせるか。
この神経科医は、隠し子の存在を知らされる。
18年前、この医師は看護婦と不倫をした。別れた。実は子どもができていた。
看護婦はそれを言わずに男のもとを去った。出産した。その子はもう18歳。
それまで母は子に父親の素性を隠していた。この日は、かれの誕生日。
もうおとなだからと母は息子に父がまだ生きていることを教える。
息子は、父親に会うため病院に向かっている。

ありえない~と顔をしかめないこと。
これはテレビではない。芝居である。観客は何を求めて劇場へ来るのか。
つまらない現実ではないことだけはたしかである。
医師は困惑する。スキャンダルである。
もう少しで成功を手にしようとしているこのタイミングで隠し子騒動とは。
かれはどうするか。ウソをつく。息子と対面する。じぶんは父親ではないという。
同僚の医者を父親だと思わせようとする。
ウソである。ほころびがでる。それをさらなるウソでつくろう。
最後、どちらが勝つのか。現実か、それともウソか。

またもやウソなのである。

息子は父親を勘違いしたまま劇はハッピーエンドをむかえる。
レイ・クーニー劇の定型どおりである。
ワンパターンと揶揄(やゆ)したら、この劇作家は居直るであろう。
何をいうか。この観客を見よ。みな笑っているではないか。料金分は満足させている。

*再読して、思ったこと。しつこい。笑わせようとしすぎである。
読んでいて、いささか興ざめ。サービス過剰。
ところで、わたしがこれを舞台で見たら? 
まったく笑わないと思う。ひねくれた性格である。
笑わせようとするひとを見ると意地でも笑うもんかと歯を食いしばる。
戯曲で読むと、ほう、ここで笑わせようとしているなとおおいに感心するのだが。

「ラン・フォー・ユア・ライフ」(レイ・クーニー/小田島雄志・恒志訳/劇書房)*再読

→戯曲。英国産。
ウソをつくということについて考えてみたい。演劇とウソの関係である。
芝居はそもそもからしてウソで成立している。
役者はウソをついている。俳優はかれではない別の人間のふりをする。それはウソだ。
舞台装置もウソである。それは本物の家ではない。
観客が見やすいように切り取られた断面にすぎない。
役者は酒をのむとする。決してほんとうの酒ではない。
舞台のうえで殺人が起ころうが、実際はだれも傷ついたものなどいない。
観客は芝居がウソであると知っている。ウソと知りながら楽しむ。
いや、ウソは責められるべき短所ではない。長所である。
ウソこそ観客の求めるものなのかもしれない。
我われはウソではない現実を生きる。窮屈で仕方がない。だからウソを欲する。
舞台上に平々凡々とした人間が数人現われ、
当たり障りのない会話をえんえんとつづけられたら観客はまいってしまう。

レイ・クーニーはイギリスの人気劇作家。笑劇(ファルス)を得意とする。
イギリスでは演劇がおとなの娯楽として確固たる地位をもっているらしい。
たとえば夕食後。気軽に連れ立って観劇へいく。肩をたたきあい大笑い。
芝居が終わったら酒をのみながら感想を語りあう。
この手の階層に受けているのがこのレイ・クーニーである。
かれの劇を見たところで人生の問題は何ひとつ解決しない。
だが、その晩だけは救われる。大笑いをすることで。
レイ・クーニーは芸術家ではない。職人である。
精密機械を手作りするように、劇の中に笑いを仕組む。
レイ・クーニーの劇はあたかも計算式のようである。
答えは笑い。その答えがどうしたらでるのかこの劇作家は複雑な計算をする。

「ラン・フォー・ユア・ライフ」。
笑いの中心は、タクシーの運転手である。一見すると平凡な男。
ところが、この男はおかしな生活を送っている。重婚である。ふたりの妻がいる。
かれは予定を綿密に計算(!)して、どちらの家庭ともうまくやっている。
それが壊れる。劇のスタートである。
かれはささいな事故に巻き込まれ病院に運ばれる。さあ、予定が狂った!
いままで時間厳守であった夫の不在を、ふたりの妻は心配する。
警官はこのタクシー運転手の挙動に不審なものを感じ調査を開始する。
男は重婚生活をこのままつづけたい。ばれては困る。
迫りくる現実。現実とは、ふたりの妻と警官である。
男はどうするか。ウソをつく。ウソがばれそうになると、また新たなウソを投入する。
ウソがウソを呼ぶ。舞台上に累積(るいせき)されていくウソ。
いつしか小山のようなウソが積み上げられている。その過程の、なんと笑えることか。
終局、ウソが現実を超える。

ウソが現実になってしまう。

これがレイ・クーニー劇の力学である。かれの笑劇の定式といってもよい。
笑劇を目的に観客が劇場に入る。それは現実からの逃亡を意味する。
役者がウソをつき別の人間になる。その人間もウソをつき現実から逃げようとする。
ウソ、ウソ、ウソ――。
ウソはひとを笑わせる。ウソはひとをやさしくする。
とすると、ウソはひとを幸福にするということなのだろうか。

遅いですね。雑誌「テレビライフ」をぱらぱら。
前日になって気づきました。
あす4月23日の22時からNHK教育テレビ「劇場への招待」で、
山田太一作の舞台「流星に捧げる」が放送されます。録画をお忘れなく。

わたしが今年唯一、観にいったお芝居がこれです。

ちょっと悔しい チケット代金5250円。

テレビで放送されるのを知っていたら果たして観にいったかどうか。
たぶん、おそらく、ケチだからわたし……。

観劇の感想も書いています。
ネタバレがありますから、くれぐれもテレビ視聴後にお読みください。
以前、読んでしまったかたには申し訳ないことをしました。
しかし人間の記憶力など所詮は……。おそらく覚えていないと思います。
ブログでネタバレをやたら恐れている書き手がいます。
読み手を信用しすぎです。意外と読むほうは覚えていないもの。
この事実を知ってから、ネタバレを読むのも書くのも恐れなくなりました。

「流星に捧げる」感想↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-554.html


ふふふ。あしたはいくらか「本の山」のアクセス数がアップするかな。
あさましいわたしであります。
キュウリのうまさに連日やられている。
かくもキュウリはうまいものだったのか。
もう1週間近くもなる。毎日、キュウリを食べている。酒をのんでいる。

いままでのキュウリの食べかた――。
細かくきざんでワカメやコーンとあえサラダにする。ドレッシングで食べる。洋風。
和風ではシラスと梅、あとワカメ。酢のものにする。
キュウリを食べるといえば、たいがいこのふたつであった。
あまりキュウリをおいしいものだとは思っていなかった。
野菜だから仕方なく食す。そんな感じであった。

山口瞳のエッセイで読んだ。
キュウリはそのまま味噌をつけてかぶりつくに限る。
これにヒントを得る。キュウリを一口大に切る(なるべく大きいほうがよろしい)。
皿いっぱいに並べる。脇に味噌を。それにマヨネーズも少々(ここがミソ)。
味噌とマヨネーズを少量、箸ですくいキュウリの上へ。
口を大きくあけ中へ放りこむ。このうまさよ! そしてビールをごくり。
これはこれはこの味は! キュウリはかくのごとき味であったか!
お洒落とはいいがたい食べかたである。まあ、どう見ても上品ではない。
しかし、この美味ときたら……。
手間がかからないのもよろしい。キュウリを洗う、切る、それだけである。
これからの梅雨、夏も、このキュウリがあれば生き抜けるかもしれないと最近思っている。
もちろんビール(発泡酒、雑酒でもOK)は必須であるが。
たまには偽善的なことを書いてみよう。
インドのカジュラーホー。えろい彫刻のある寺院で有名なところである。
レイク・サイド・ホテルのオーナーであるティワリさんにとても親切にされた。
かれは日本へ滞在したこともあり、日本語がぺらぺら。
宿泊費は大幅ディスカウント。ある晩はいい酒が入ったので飲もうという。
それまでインド人からはさんざんな目にあっていたわたし。
どこまで信じていいのかと思いながら、結局、最後はいつもの「どうなったっていい」。
べつに死んでもかまわない。
そもそも2年前、わたしはインドへ死ぬために行ったのである。
花のお酒をご馳走された。花からつくったお酒。もちろん密造酒。
日本の麦焼酎のような味で、そのとき日本を離れて1ヶ月半だったか。
やたらとうまく感じたものである。
ティワリさん、言ってたな。
あなたはインド人を信じていない。それはしょうがないことだと思う。
だからボクがシンセツにする。お礼はいらない。だれかちがうひとにシンセツにしてほしい。
それがめぐりまわってボクのところへかえってくるから。

実際、こんなものだと思う。
ひとに嫌がらせをすればかならず何かのかたちでかえってくる。
反対に、善行をなせば、いつかまったくべつの装いをした僥倖(ぎょうこう)に出会う。
似合わないことを書いているなとじぶんでも思う。
だけど、なんだか今日はこんなことを書きたい気分なのである。

みなさまのお役に立つことをとても書きたいのである。
本を買う楽しみを語りたい。穴場を書く。
安くいい本を購入する幸せをぜひ体験していただきたい。
本を買うのがどれだけ楽しいことか。
この日、土曜日である。まず向かうは近所の神保町古書店街。
神保町の古本は高いというイメージがあると思う。たしかに高いところは高い。
しかし神保町は本を安く買うことのできる場所でもあるのだ。

最初にどきどきしながら行くのは、なんといっても田村書店ワゴン。
「本の山」はこの古書店のワゴンがなければ、ここまで絶版本を集められなかった。
田村書店。嫌いなひとはほんとうに憎悪していると思う。
この古書店には独自のルールがある。
店のまえのワゴンの本をもって店内に入ってはならない。
店主はワゴンに群がる客をドブネズミとバカにしている。
経験したことはないが、ワゴン本をもって店内のレジへ行くと怒鳴られるらしい。
(ちなみにワゴン本はそこらにいる小僧さん(バイト)に声をかけて買う)
そうそう。女子大生と店主が大喧嘩をしているのを見たこともある。
わたしが店内に入るのは年に数度である。今年に入ってからはまだ入店していない。
田村書店に入るのはおすすめできない。いやな思いをきっとすることだろう。
価格がとんでもなく高い。店主が常に威圧してくる。
本をハコからだしただけで不快な表情をされる。
常連とおぼしき人物が店内でやたら店主をほめあげているのも耳障りである。
こんな古本屋では買うな! わたしもそう思う。実のところ、買いたくない。
ところがこの田村書店ワゴンには頻繁にお宝が安価で投げ売りされているのである。
ここで買った本は数え上げられない。
決して裕福ではないわたしがこの「本の山」を積み上げられたのは、
悔しいが田村書店のおかげである。プライドを取るか、実益を優先するか。
わたしという人間がわかろうものである。
4月8日。この日は収穫なし。

田村書店の隣にあるのが小宮山書店。
金、土、日には小宮山書店横でガレージセールがおこなわれている。
ここがまたおすすめなんだな。3冊で500円。
というか1冊でも500円、2冊でも500円、3冊でも500円。
このバーゲン感覚がたまらない。ほんとうに毎回、楽しくて仕方がない。
ここは古本初心者もぜんぜんOK! みなさん小躍りしながら買う本を選んでいる。
田村書店のようなおかしな人間もいないから、きわめて一般的な感覚で本を買える。
以前、こんなことがあった。3冊500円で買った。ほんとうは4冊買いたい本があった。
3冊目をどちらにしようか迷った。決めた。
その後、三省堂で絶版チェックをしたら失敗。あっちを買っていればよかった。
おずおず再びガレージへ。小声で「かえてくれませんか」。
はい、いいですよとのご返答。ものすごいうれしかった。古書店らしからぬ対応に感動。

小宮山書店ガレージセール。
文庫はすべて百円。ガレージまえに並べられている雑誌その他も百円。
この日、買ったのは――。

「北西インドの旅」(昭文社)
「東インドの旅」(昭文社)
「南インドの旅」(昭文社)

→インドのガイドブック。オールカラーだからきれいな写真がいっぱい。
ちなみにぜんぶ現在は絶版。定価で買っていれば3冊で4000円。それがなんと300円!
ものすごいお得カンがあります。

田村書店、小宮山書店と行脚(あんぎゃ)したら、おつぎは小宮山書店奥の文省堂。
ここも目的は店内ではない。店外の棚に並べられた百円本。
たまーに意外な掘出物がある。
あと百円本といえば三省堂裏、AMPM横のビル5Fにある古書モール。
ここにも百円本コーナーがある。何度かお世話になった。

神保町で最後に注目すべきは三省堂横の有名古書店、三茶書房ワゴン。
全集の端本が驚くべき安さで買えることがある。
ここの本はきれいなことが多いのも嬉しい。
三茶書房は店内にも入る。ここは老舗なのに良心的な値段をつけている。

神保町はこれくらい。坂をのぼり御茶ノ水へ。中央線に乗車。月に一度の荻窪詣で。
荻窪といったら、ささま書店ワゴン。ここほど熱い戦場はめずらしい。
だれもが目を血走らせている。すべて百円。わずかに三百円の本がある。
店員が定期的に本を補充に来る。そのたびに戦士たちのあいだに緊張が走る。

「現代演劇2」(南雲堂)絶版 105円
→1967年発行の演劇雑誌(ムック?)。読んでみたいと思っていた戯曲の翻訳が!

「ストーン夫人のローマの春」
(テネシー・ウィリアムズ/斎藤偕子訳/白水社)絶版 105円

→テネシー・ウィリアムズの小説はめったに見かけない。
よほど出版点数が少なかったのか。

「オスカー・ワイルド全集 第4巻 喜劇」(出帆社)絶版 315円
→安いよな。重いけど。

満足のていでブックオフ荻窪店へ移動。

「となり町戦争」(三崎亜記/集英社) 105円
→ついに105円ゲット! 井上ひさしがほめていた記憶が。そんなおもしろいの?

「子育てごっこ」(三好京三/文春文庫)絶版 105円
→直木賞作品。

ふむ。悪くない一日であった。荻窪へ行ってはずれたことがない。
毎回、何かの収穫がある。
本を買うのは楽しい。読むより何倍、楽しいことか。
ひとりでも多く本における真の愉悦を知ってもらいたい。

本は読むものではない。買うものである。
本ほど楽しいものはないではないか。
本があればなんにもいらない。ほんとうか。お酒がなくてもいいのか。
えとあのその、それは話が別でして、
お酒というのはわたしにとって空気や水のようなもので、
前提としてあってしかるべきものでありますから、うわーん、いじめないでください。
三度の飯より映画が好きなひとに、
じゃあ、いっさい食べものはいらないんだなというのはおとなげない。

本はすばらしい。人間が考案したものの中でこれほどの逸品はそうないだろう。
本にはいろいろな楽しみかたがある。
まず買う喜びがある。あんがいこれがいちばんの愉悦かもしれない。
旅行は道中よりも事前の準備のほうが楽しいのとおなじ道理。
書籍購入。新刊書店よりも古書店のほうが最近はお気に入りである。
古書には新刊にはないドラマがある。出会いと別れがある。
ある古書とめぐりあう。買うか、買わないか。選択である。これを劇的という。
もし値段が高いと買わなかったとする。帰宅後に検索。
あの価格であったとしても決して高価ではないレア本だったことを知る。
そういう本は翌日に行こうがなくなっていることがほとんどである。
その後、おなじ本に10年会うことがないというのも古書の世界ではありうることである。
別れがあれば出会いもある。長年、探し求めていた本を発見した喜びは
ひとに運命を考えさせるほどドラマティックである。

本を買う快楽を書いた。つぎは当然、読む悦楽について書くとお思いだろう。
ちがうのである。本を読まないでいる喜びである。本は読むと終わってしまう。
それは再読があるけれども、もっともどきどきするのは初読時である。
永年探求していた本をようやく入手。すぐさま読んでしまったらもったいないではないか。
本棚の中でも見栄えのするところへ並べる。朝、起きる。その本が目に入る。
まだ読んでいない。いつか読む日が来る。死ねないと思う。生きようという活力になる。
これが至福の積ん読というものである。積ん読はちっとも悪くない。
むしろ最高に贅沢な読書形態である。

本を読む幸せ。これはわたしがいまさらいうこともないであろう。
みなさまとうにご存じのあれである。
昨日、とうとう「オニール名作集」を読み始めた。
購入したのは2004年の暮れだったか。これほど探していた本はない。
あることにはあるのである。専門古書店で2万円をはらえば買える。
しかし2万円はないだろう。もっとも安いところでも1万円は軽く超す。
それがなんと早稲田の学生向け古本屋で千円で買えたのである。
古書と生きはじめてからあれほど感動した瞬間はない。
あ、あ、もしかして、そこにあるのは、あの、あの、やっぱり「オニール名作集」だ~!
こうまでして買った本をそう簡単に読むわけにはいかない。
1年と数ヶ月熟成させて、とうとう昨日である。読むことを決意した。

買う。並べる。読む。いままで三様の本の愛しかたを述べた。
もうひとつ本には効用があるのだ。本について語る幸福である。
このブログ「本の山」はその所産である。
読んだ本について語る。これは著者と真っ向から対峙することを意味する。
おまえはこういったな。わたしはこう思う。会話である。読書は死人との会話も可能にする。
本、本、本――。

4月4日。早稲田から高田馬場まで歩く。新入生でにぎわっている。
まず早稲田ブックオフ。

「対岸の彼女」(角田光代/文藝春秋) 105円
→132回直木賞受賞。

「小説の秘密をめぐる十二章」(河野多惠子/文藝春秋) 105円
→くやしい。帰宅後検索したら文庫版がでていた。

「日本はじっこ自滅旅」(鴨志田穣/講談社) 105円
→2005年3月発行の1,575円(税込)がもう105円である。
お酒をのみながらいいかげんに(いい湯だな、あははん、のいいかげん)読みたい。

「弟を殺した彼と、僕。」(原田正治/ポプラ社) 105円
→これも105円じゃなきゃ買わなかったな。ノンフィクション。
弟を殺害した犯人と面会。著者はその死刑囚の助命を嘆願する。重い~。

高田馬場へ。
ビックボックス前は新歓コンパの集合場所。ひと、ひと、ひと。
毎月おこなわれる「BIG BOX古書感謝市」は本、本、本。

「黒旗」(ストリンドベルク/大庭米治郎訳/岩波書店)絶版 函(はこ)なし
→昭和2年9月刊行。ストリンドベリの小説である。
ここで出会うまで存在さえ知らなかった。価格は1300円。古本にしては高い。
いまから80年以上もまえの本である。えーいと購入。たまには散財しよう。
いまは新刊の小説を買おうとすれば1500円は取られる。
それを考えれば高い買物ではない。新刊小説を1冊買うようなもの。
それも作者は大好きなストリンドベリ。この機を逃したらいつで出会えるか。
先日の古本祭りでストリンドベリ「大海のほとり」を買っていたことも購入を後押し。
それにしてもわずか1300円である。
なぜひとは(わたしは?)古本となるとことさらケチになるのだろう……。
帰宅後に検索したら1件しかヒットしなかった。そのうちわたしが感想を書く。
だれかがそれを読むことだろう。すると、こんなわたしでも少しは文化貢献をしているのか。

おまけで高田馬場ブックオフ。
ビックボックスで古書市がある期間はたいてい棚がすかすか。
だからまったく期待していない。1冊購入。これにて終了。

「インド旅案内」(福永正明/ちくま新書)絶版 105円
狂うとは、わかってしまうこと。
ある日、すべての意味がわかってしまったとしたら、それは発狂と同義である。
芸術家は一歩でも真理へ近づきたいと思っている。
すなわち、わかりたい。創作を通じて少しでも未知なる領域に侵入したい。
じぶんを、世界を、なんとかしてわかりたい。
ところが個人に全体は理解できぬ。すべてを存知するのは神のみである。
芸術家は不遜(ふそん)である。神を畏(おそ)れぬ。
なら神になってやろう。こう思うのが芸術家というものである。
すべてを知りたい。神になりたい。これは発狂したいという欲望にほかならぬ。
狂いたい。狂えるものなら狂ってみたい。狂ってもいいのではないか。
だが、ただでは狂えぬ。みずからを追い込まなければならない。
安穏は芸術の敵である。おのれを迫害したいと思う。
自傷するという手がある。たとえば貧窮である。
ほかにもじぶんを追い詰める道はある。他人に攻撃してもらう。あえて敵をつくる。
芸術家は、おのれをどうにもならない状況に置くことを好む。
意識的にか無意識的にか本人にもわかっていない。
苦しい、辛いとかれは呻吟(しんぎん)する。そのくせ、どこかでその環境を楽しんでいる。
じぶんは狂ってしまうのかと怯(おび)えながら期待する。
もしかしたら今度こそわかるのではないか?

池袋西武百貨店イルムス館2F。「春休み リブロ古本まつり」。
ここは9時までやっているのがよろしい。時間を気にせず古書とたわむれることができる。
今日はどんな本と出会うのだろうか。
本も人間も、出会いは偶然である。何と出くわすかを人間が予測することはできない。
どこかで出会いを必然と思いたいじぶんがいる。意味を見いだしたい。わかりたい。

「大海のほとり」(ストリンドベルク/斎藤晌訳/岩波文庫)品切れ 525円

ようやく見つかったかと安堵する。探していた1993年復刊もの。
岩波文庫はある時期から現在のようにビニールカバーをつけるようになった。
それ以前はカバーなし。
わたしのように出版年次にもこだわるものが登場するゆえんである。
ストリンドベリは狂気の作家である。精神病であった。同時に、天才であった。
周囲に迷惑をかけつづけた。かれのせいでどれほどの人間が不幸になったか。
ストリンドベリは決してみずからの非を認めない。常に主張する。わたしはただしい。
この強さこそ、見習いたいものである。

よしよし、ついに「大海のほとり」を入手できたか。
これはどういう意味があるのだろうか。
以前にも古書市で見かけたことはあった。古書店「よみた屋」である。
1200円の値札をつけていた。いくら品切れでも定価の倍以上はないだろう。買わなかった。
それをようやく今回、適正価格で捕獲。猟人(かりうど)気分である。昂揚する。

「現代演劇 特集 ユージン・オニール」(英潮社) 525円

絶版ではないのは知っていた。定価2300円が500円なら、まあ、買ってもいい。
この購入には理由がある。意味がある。先ほどストリンドベリの岩波文庫をカゴへ入れた。
このストリンドベリを崇拝していたのが、
アメリカ演劇の父と称えられるユージン・オニールである。
ノーベル文学賞を受賞している世界的劇作家である。
ストリンドベリのつぎにオニールが! 何かしらの意味を感じた。だから購入した。

このオニール研究書をぱらぱらめくる。
目次を読む。「呪いに追われ愛を求めて――ユージン・オニール」とある。
打たれた。電流が走ったかのようである。
オニールの人生を思い返す。苦悩と闘争に満ちた人生を!
オニールの母は麻薬中毒であった。オニールを産んだがためである。
オニールの出産が難産であった。麻薬を多用した。中毒になった。
劇作家はどれほど苦悶したことか。じぶんが生まれてきたせいで母は……。
わたしが生まれてこなければ母は不幸にならなかった。
これこそスウェーデンの作家、ストリンドベリのテーマである。

「他人の不幸はじぶんの幸福。

じぶんの不幸は他人の幸福」


オニールがストリンドベリに心酔するのはいわば必然であった。
オニールは苦しみから劇作した。書くことで傷を広げた。血にまみれた生涯である。
創作は幸福へつながる道ではない。不幸へ直結する。
どれだけ評価されたところで、オニールの人生に真の平安はなかった。
ストリンドベリ、オニールを思う。わかったと思う。
わたしはストリンドベリだ。ユージン・オニールだ。誇大妄想である。いわば狂気。
異常に発奮する。よし、やってやるぞ。
めちゃくちゃにしてやる。芸術のためなら、表現のためなら……。

「葛西善蔵集」(山本健吉編/新潮文庫)絶版 262円

平成5年の復刊版。これもずっと探していた。
まさかこのタイミングで見つかるとは。
葛西善蔵は以前、ネットですすめられたことがある。
おおむかしの私小説作家である。存命当時はかなりの影響力があった。
俳人・山頭火が日記で言及していたのを思い出す。
私小説作家。貧乏自慢、不幸自慢である。
書くためにわざとおのれを不幸へ向かわせる。その不幸を微細もらさず書く。
葛西善蔵もストリンドベリを愛読していた。どこかで読んだことがある。

ストリンドベリ、オニール、葛西善蔵。
この日に買った本である。
ストリンドベリの顔写真を思い浮かべる。常にカメラをにらみつけている。
あれはどうしてか。疑心暗鬼か。凡俗な人間への敵意か。犯罪者の目をしている。
オニールもそうである。あれはストリンドベリの模倣だったのか。読者をにらみつけている。
ほしい本を3冊も安価で買ったのに
帰途に着くわたしの顔が厳しかったのはこのためである。
かれらのように狂いたいと思った。そのためには、へらへら笑っているわけにはいかない。
「サントリークォータリー80  特集 ビール! ビール! ビール!」

→これを500円はらって書店で買っているのはもしかしてわたしくらい?
基本的にサントリーのPR誌。株主や酒店には無料配布されていると思う。
どこかへ行けば「ご自由にお取りください」なのかもしれない。
だったら悔しいな。いままで愛読してきたけれども。

採算度外視(PR重視)で旬の作家に原稿を書かせているので毎回ゴージャス。
今回の特集はビール。いちばんなじみぶかいお酒である。
いままでどれだけビールに助けられてきたことか。
辛いとき、苦しいとき、いつもビールがそばにあった(なんちゃって)。
ビールはよろしい。どんな二日酔いのときでもビールならおいしくのめる。
実はいま、もうすでに横にはビールが。正確には第三のビール。その他の雑酒。
だけど、まあ、味のちがいもわからないから、これはこれで。
あれ。ぜんぜん書評や感想文になっていない。まあ、いいか。カンパーイ♪
「インド・ネパール・スリランカ・モルティブ」(JTBのポケットガイド)絶版

→ブックオフ105円本。
なんでこんなにインドにひかれるのだろう。
理由のひとつに、日本とは正反対だからということがある。
たとえば日本人の大好きな「がんばれば報われる」。
学校で小中高と教師が言いつづけるのがこれ。
がんばりなさい。がんばればかならず報われる。怠けてはいけません。
テレビも同様。がんばれ、がんばれ。
がんばればなんでもできる。夢はかならずかなうもの。

あひゃ。インドではがんばっても報われない。
ご存じ、カースト制度のためである。
下位カーストに生まれたら、いくらがんばったところでダメ。
自由恋愛もない。親が決めた相手と結婚しなければならない。
だけど、反乱は起きない。カースト制度を支えるヒンドゥー教のおかげ。
ヒンドゥー教は輪廻転生を教える。いま不運なのは前世の悪行のため。
来世に期待をかけながら、現世をなんとかやり過ごす。

いいよなインド。がんばれば報われるという共同幻想がない。
そもそも、がんばれば報われる。ひどいスローガンではないか。
報われていないひとは即座にがんばっていないという烙印を押されてしまう。
たとえばテレビで売れている芸人は、がんばったから。
売れていないひとは、がんばっていないから。
一時期売れていて凋落したひとは、がんばりが足らないから。
そ~れ! がんばれ、がんばれ、ニッポン! がんばれ、がんばれ、ニッポン!
「続 礼儀作法入門」(山口瞳/新潮文庫)

→こちらは20円では買えず。しぶしぶブックオフで105円を支払う。
レジに並ぶのはもちろんヨンダくんの応募マークを確認してからである。
前作同様、お酒をのみながら読みすすむ。

読書について書かれた章になぐさめられた。
山口瞳いわく、読書は濫読にかぎる。若いうちはどんどん濫読をすべし。
齢をとると濫読ができなくなる。若者よ、濫読する時間を惜しむな。

こう励まされると、もっと濫読がしたくなる。
役に立たない読書ほど楽しいものはない。
ああ、読みたい本が山のようにある。積ん読している。
あれも読みたい。これも読みたい。
民俗学にちょっとでも首をつっこみたい。死刑囚について知りたい。
神話学の勉強も途中でストップしたままである。
近松門左衛門も読もう読もうと思いながら、いまだ手つかずである。

いくら読んでも、なんにもならないのはわかっているのである。
それでも「分け入つても分け入つても本の山」。
本の山をひとつ越えることで、反対に今までは見えなかった複数の山が眼前に現われる。

「礼儀作法入門」(山口瞳/新潮文庫)

→古本屋ワゴン20円本。20円ですぞ! 
ヨンダくん応募マークまでついているというのに。

お酒をのみながら読んだ本。山口瞳のエッセイは売文のかがみ。
読みやすいながらも、しっかりとした味がある。
山口瞳の礼儀作法を真似しようという思いはてんでない。
おそらく礼儀知らずなやつとわたしは山口瞳から嫌われることだろう。

うん、山口瞳はよろしい。
明日もじぶんが生きていることをみじんも疑っていない。
まさに盤石のごとしである。
そのため生活と文章がコインの裏表のような関係にある。
明日をも知れぬ毎日を送っていると、その安定感がとても好ましい。

「親鸞と道元 自力か、他力か」(ひろさちや/徳間文庫)絶版

→本書におもしろい指摘が。ああそうなんだと感じ入った。
最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、道元、だれひとりとして大乗非仏説を知らない。
というのも、大乗非仏説が検証されるのは江戸時代。
偉大な宗教家たちはみな、
大乗経典も釈尊が説いたものだと信じたうえで教義を展開している。
日本仏教は大きな誤解のうえに積み上げられてきたのか。
そう思うと、なんともことばがない。

道元は、山頭火のにおいがするのでどこかなつかしい。
基本事項。道元の主要著書は「正法眼蔵」。
意味は「正法蔵」(正しい教え)を理解するための「眼」。
この「眼」をことばで説明することはできない=「不立文字」。
禅である。曹洞禅のキーワードは「身心脱落」。
道元は晩年、出家至上主義へ。これは小乗仏教的ともいえる。

ひろさちやは問題提起する。

親鸞の思想は宿命論か否か。

著者は答えをださない。宿命論のように暗いものではない。親鸞は明るい。そうごまかす。
わたしは親鸞思想が宿命論であるがゆえにひかれているのである。
親鸞がいうには、何事も業縁である。すべては阿弥陀仏のご意志。
人間はどうすることもできない。とすると、どうなるか。
母の自殺は阿弥陀仏のおはからいである。
これからわたしがどうなるかも阿弥陀仏しだい。
がんばったからといって、どうにかなるものではない。
母のときもがんばったことで逆に母を苦しめていたようなものであった。
人間は無力である。なにひとつ自力でやることなどはできぬ。
そもそも人間の目には何も見えてはいないのだから。
ああ、親鸞の思想のなんと甘いことか! 「負け組」のわたしをやさしくいたわってくれる。
「歎異抄」があれば、この先、なにひとついいことがなくても生きていくことができる。

親鸞聖人は「負け組」の組長である。

「ひろさちやの『法然』を読む」(佼成出版社)

→あたまが悪いから、ひろさちやのライトエッセイ風の本に助けられる。
恥ずかしいことだとわかっている。お笑いください。じっとたえる。

読書メモ。吸収した知識の整理。
古代インドで成立した小乗仏教が純度100%の仏教。
約500年後に成立した大乗仏教は仏教とヒンドゥー教の影響が半々。50%の仏教。
最澄が中国から輸入したのはこの大乗仏教。
大乗仏教成立から約700年のときを経て成立したのが密教。
密教は9割がたヒンドゥー教の影響を受けている。10%の仏教。
空海が中国から輸入したのがこの密教。

最澄、空海がおこなったのは経典の優劣を決定すること。
その後、選択した経典に基づいた修行がなされた。
後代の法然がやったのは経典の放棄である。
それは修行をも棄てることを意味した。
修行は必要ない。ただ南無阿弥陀仏と念仏するだけでよい。
法然は「無量寿経」をヒントに、この独自の信仰を発案した。
この時点で仏教特有の難解な思想がばっさりと切られた。

なぜ南無阿弥陀仏と念仏すると救われるか。
死後、浄土に往生できるからである。これは浄土教とよばれる。
浄土に生まれるとどうしていいのか。浄土で修行を積んで仏になれるがため。
この世では多々障害があり、思うがままに修行することはできない。
しかし浄土ならば簡単に成仏することができる。
なら仏になると何がいいのか。わからない。ひろさちやの本には書いていない。

「ひろさちやの『親鸞』を読む」(佼成出版社)

→グーグルで検索する。「母の自殺」。
親鸞系統の新興宗教団体HPが今現在トップに表示される。
http://homepage3.nifty.com/shinran/deai/200315.html

内容は、まあ、癒されましたよと(笑)。
母の自殺以後、鬱病でもんもんとしていたけれども宗教で一発完治!
ほかにも体験記をみると、みなさん不幸である。
母の自殺はもう一件あった。教祖に会ったら、突然、生きる意味がわかったらしい。
子どもに死なれるケースも。そりゃあ、つらいよねと思う。
それが現在はやる気満々。ハッスル、ハッスル! ほんと宗教はすごいわ……。

調べるとこの団体は「浄土真宗親鸞会」。
http://www.shinrankai.or.jp/
教祖は高森顕徹。検索すると盗作騒動やら周辺がにぎわしいのはどこもおなじ。

入会するしかないのだろうか?

ここへ入ればわたしも母の自殺をのりこえられるに相違ない。
二件同様のケースがある。それに、それに、仲間もできる。
仲間。なんとすばらしいことばだろう。この孤独地獄から脱出できるのか。
ホームページを見る。イベントも多数、企画されている。法話にハイキング。
写真を見ると、みなさんの笑顔がよろしい。
苦しいのはわたしだけじゃない。ひとりじゃない。みんなみんな苦しいんだ!
うまくいくかもしれない。わたしも結構な不幸である。
こういう不幸話は宗教団体で受ける。
涙ながらにみずからの不幸を語り、そのあとに上を向く。
だけど「親鸞会」に出会ってから、わたしの人生は変わったのです!
演技をみがけば、この団体の幹部になることも不可能ではないかもしれない。
宗教団体幹部の年収ってどのくらいなのでしょうか。

はい、冗談はここまで。
この記事でいいたいのは親鸞のすごさである。親鸞はとんでもない宗教家だと思う。
母の自殺で重い鬱病を患っていた人間を完治させるちからが確かに親鸞にはある。
あの新興宗教団体のおかげではない。親鸞そのひとの持つちからである。

親鸞のどこが偉大なのか。たとえばこんなところである。
親鸞はいう。仏教の勉強などしなくてもよろしい。
勉強などよりはるかに大切なのは阿弥陀仏への信心。
かえって勉強をすることで信心から離れてしまう危険もあるから注意すべきだ。
「歎異抄」に書かれていることである。これはものすごいことをいっていないか。
巷間、あまたの親鸞関連本がある。
著者はだれもがじぶんこそ親鸞を理解したと思っている。
何を根拠に? 勉強したからである。研究したからである。
読者よ、この本を読んで、早くじぶんの高みまでよじ登ってきなさい。
あたかもそういっているかのようである。
しかし、この態度を親鸞が見たら開いた口がふさがらないのではなかろうか。
何をわかったつもりになっていると親鸞はあきれると思う。
親鸞は人間を、不幸を、そこらの学者などではとうてい及ばないほど深く見通していた。
どうにもならない不幸の最後に行き着くところ。
これ以上先へは行けないところを、一念、南無阿弥陀仏で突き抜ける。

南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

「出家とその弟子」(倉田百三/講談社文庫)

→戯曲。国産。大正時代の大ベストセラー。
大正時代の「世界の中心で愛を叫ぶ」。なーんていったら、研究者に殴られちゃう?
感慨深い。おおむかしの若者はこれを読んでシンコクに苦悩したのか。

愛とは何か。人生とは何か。

笑っちゃいけません。いくらこっぱずかしくても。大問題です。
さて「出家とその弟子」をどういうスタンスで論じるか。
この作品は「歎異抄」を戯曲化したものである。親鸞や唯円が登場する。
宗教的な側面からライトを当てるという手がある。
ちょー有名な日本文学の古典でもある。文学的に(なにそれ?)熱く語るか。
形式は戯曲である。演劇的効果という点からこの古典を眺めるか。

専門というものがあればとつくづく思う。宗教なり、文学なり、演劇なり。
その専門的視野から作品を批評することができる。
ところがわたしには専門がない。どれも独学。自己流のつまみ食いである。
「ぶっちゃけ」などという、およそ学問にはふさわしくないことばを好んで使用する。
ぶっちゃけ、おもしろいか、つまらないかじゃあーりませんか?

いえ、いちおう専門家の真似をしてみた。
宗教から見る「出家とその弟子」。とりたてて新しい思想があるようには思えぬ。
「歎異抄」の焼き直しでしょう。パクリとまではいわぬが。
文学作品としての「出家とその弟子」はどうか。名作ではないと思う。
浅はかな大衆の感傷を刺激するある種のちからは否定しない。
むしろこれを読みながら青春を生き抜いた現在の老人を好意的にとらえる。微笑ましい。
戯曲としての「出家とその弟子」。劇的効果を巧妙に計算しているようには思えぬ。
そもそも舞台にあげることを前提で書かれた作品ではない。
それを演劇的にどうこうといちゃもんをつけるのは感心する方法ではない。

ふと思う。例の「世界の中心で愛を叫ぶ」。
100年後には日本文学の名作として研究対象になっているのかもしれない。
「セカチュー」を否定して「出家とその弟子」を持ち上げることが
知性だと考えているひとが大勢いるのだろう。
いまネット検索をしてみたが、どのサイトも「出家とその弟子」は高評価。
いやだ、いやだ。

「ラブ」(マレー・シスガル/鳴海四郎訳/劇書房)絶版

→戯曲。アメリカ産。
深夜。舞台は橋のうえ。男が川へ飛び込もうとしている。自殺である。
死んでしまったら芝居が成立しない。そこに現われる別の男。お互い顔を見合わせる。
大学時代の同級生であった。15年ぶりの再会である。かくして劇は開幕する。

自殺志願者のニックネームはドストエフスキー。悩める男である。貧窮している。
かたいや同級生のほうはやけに羽振りがいい。仕事も順調。既婚。愛人までいる。
「勝ち組」と「負け組」のコントラストが舞台で際立つ。
この富める幸福者にも悩みがある。妻が離婚に応じてくれないのである。
今晩、この橋のうえに妻を呼びだしている。殺すつもりだ。
ふところに隠しているたナイフをちらつかせる。
妻が現われる。ドストエフスキーとは初対面である。意気投合する。
妻は夫の友人にもらす。今晩、夫を殺すつもりで来た。隠し持つ包丁を見せる。
なんとも喜劇的な設定である。この修羅場がどう解決するか。
ドストエフスキーと妻がむすばれる。夫は離婚成立。愛人のもとへ。

ドストエフスキーと女が愛を確認しあうシーンは、この芝居の見せ場である。
女は身をかがめる。ドストエフスキーのみぞおちへパンチ。
痛みにうずくまるドストエフスキー。
女は高らかに笑う。わたしを愛しているのでしょう。このくらい許せるわね。
ドストエフスキーは立ち上がる。笑う。ああ、もちろんだとも。女の背後へまわる。
いきなりコートを脱がせる。川へ投げ捨てる。口元をゆがめる。愛しているんでしょう。
女は絶句する。あのコートは高かった。へそくりをやりくりしてようやく……。
ええ、愛しています。許します。どんどん愛の確認はエスカレートしていく。
客席は笑いの連続であろう。ついにはドストエフスキーは再び橋の欄干へ。
何をするつもりなのだろう。死ねということか。女を愛しているのなら死ね。
すんでのところで、かつての夫が登場。思いとどまらせる。ここで一幕目が終了。

二幕目は数ヵ月後。おなじ橋のうえ。ハッピーエンドではなかった。
愛人のもとへ走った男は絶望している。愛人の無神経さにたえられないのである。
いまはドストエフスキーの妻になった女も現状に不満をいだいている。
ドストエフスキーの狂気についていけない。
この元夫婦はようやく気がつく。離婚なんてしなければよかったことを。
そこに現われるドストエフスキー。離婚を承諾しない。
元夫婦は愛のために共謀してドストエフスキーを殺そうとする。橋のうえから投げ落とす。
どうせこの男は本来なら数ヶ月前に自殺するはずだったのだからいいじゃないか。
この殺人をめぐって繰り返されるどたばた喜劇は確実に観客を笑わせることであろう。

最後に特別なオチがつくわけではない。あいまいなまま終幕する。
テーマは愛の不毛。というほど堅苦しいものではないか。
人生を深く考えるような芝居ではない。笑って拍手してそれで終わりの舞台である。

芝居には複雑な感情をいだいている。
いささか愛憎が入り組んでいる。それをこれから述べる。
芝居を好んで観にいく気にはならない。はずれが多いからである。
屈折した演劇観のせいだと認めよう。芝居は戯曲がすべてだとわたしは思っている。
つまらない戯曲なのに役者がよかったから感動する。
そんなことはあるわけがないとかたくなである。すべては戯曲のよしあし。
ところが戯曲のあたりはずれは観劇するまでわからない。
4000~10000円をはらって確かめるのではリスクが高すぎる。
だから戯曲を愛読する。感動したとする。とりたてて舞台を観たいとは思わない。
というのも、ストーリーを知っているのだから。
芝居を観る楽しみとは、先を知らない昂揚感のほかないではないか。

わたしは芝居の素人である。プロがこの記事を読んだら嘲笑するのもわかっている。
そのうえで、素人なりに反論したい。
役者はみな戯曲なんて、どうでもいいと思っているのではないか。
上演戯曲を手渡されたときまず考えるのは戯曲の出来ではなかろう。
戯曲がおもしろかろうが知ったことではないと思っているのではないか。
じぶんの役にどれだけセリフがついているか。見せ場はどのくらいあるか。
そもそも役者に戯曲の巧拙がわかるのか。役者一般、読書は嫌いでしょう。
本を読むよりからだを動かしたい。目立ちたい。それでこそ役者である。

つぎは演出家。演出家は何を考えているか。
いかにじぶんの爪あとを戯曲に残すかをまず考えるのではあるまいか。
どうすればじぶんの演出になるか。個性をだせるか。すなわち劇作家の色を消せるか。
芝居の頂点に立つのは劇作家ではなく演出家であると信じるがためである。
戯曲のセリフだって平気で削る。むしろ戯曲を改変することに喜びを感じる。
ポスターには大きな顔写真。へたくそな文章で大仰なことを語る。憫笑を禁じえない。
観客は演出家の手を借りないと戯曲ひとつ読むことができないとかれは信じている。
実際、そうなのである。芝居の観客というものは!
役者とおなじ。芝居好きも戯曲なんてどうでもいいのである。
ひいきの役者が動いているのを見ることができたら、それだけで満足。
まえ観たときとはアドリブが違っていた~、などと通ぶっているのだから。
よく笑うこと。いくつかと問いたい。箸が落ちても笑う年齢はとうに過ぎたろう。

以上、芝居について思うがままに書いた。戯曲至上主義宣言である。
素人の暴言。許してほしい。
「来られない友に乾杯!」(アラン・エイクボーン/水野 義一訳/新水社)絶版

→戯曲。英国産。
解説によるとエイクボーンはチェーホフと比較されることがあるとか。納得する。
この戯曲もそうだが、エイクボーン劇はどこかしら品のいいところがある。
観客に媚(こ)びない。よって劇的なことは起こらない。
舞台上の人間が劇的な選択を迫られることもない。静かな演劇である。
よくいえば芸術的、わたしにいわせれば申し訳ない。つまらない、とこうなる。

ある邸宅でパーティが開かれようとしている。旧友の再会である。
まだ来ていない男が主賓(しゅひん)である。かれは最愛の恋人を亡くしたばかり。
この家の女主人が同情した。友人でしょう。みんなで励ましましょう。
だれかの登場を待つ。戯曲の典型的なスタイルである。
不条理演劇では待ち人は来ないが、エイクボーンはまだ演劇を信じているところがある。
かれは現われる。侵入物である。ドラマが活性化する。
ところが、おかしい。この男は少しも悲嘆に暮れていない。それどころか明るい。
過ぎたことはしようがない。前向きである。
一方で、かれを迎えた旧友のほうはどうか。それぞれ些細な不幸に苦しんでいる。
人間関係における、この妙な亀裂にエイクボーンは劇を感じとったのであろう。
おそらく繊細な感性の持ち主なのだと思う。
あいにく下品なわたしである。終始、この戯曲から劇的なるものを感受することはなかった。

「ベッドルーム・ファース」(アラン・エイクボーン/水野 義一訳/新水社)絶版

→戯曲。英国産。
記憶だと、エイクボーンはウェルメイドプレイなんだけど……。
さあ、楽しませてと読み始めるわけである。
つらい現実はちょっと脇へよけて、よーし笑うぞ。準備は万全。
ところがどっこい、おもしろくない。

舞台のうえには3つのベッドルーム(寝室)が別々にある。
しかーし、登場するカップルは4組。部屋がひとつ足りない。
このあぶれたカップルがトラブルメーカーになる。
このカップルは男女ともに幼稚なのである。ほかの3組に迷惑をかけつづける。
どうやらこれを笑えというらしい。笑えないなと思っていたら、いつしか劇が終わった。
役者が実際に演じないとおかしさがわからない戯曲なのかもしれない。
実際、検索してみたところ、アマチュア劇団で何度も上演されている。

「ひとめぐり」(サマセット・モーム/木下順二訳/新潮社)絶版

→戯曲。英国産。
これほどの傑作戯曲には、そうはお目にかかれない。さすがサマセット・モーム!
この作品も入手困難。たしか新潮のでかい全集にも入っていたから、
「おえら方」ほどではないと思うけれども。うん、もったいないよな。
しかし、よくない。どんどんマイナーなほうへいっている。
こういう傑作を読んでしまうと、最近の小説やらドラマでは物足りなくなる。
バカにするようにもなる。世間の価値観とは乖離(かいり)するばかりである。
すると、ひとと話せなくなるのである。困った、困った……。

戯曲「ひとめぐり」。
おもしろい。いや、おもしろいでは何もわからない。具体的にいう。
読んでいて何度もふきだした。先が知りたくてハラハラした。結末が意外で驚愕した。
読後、しばらく考えさせられた。こういう作品をわたしは傑作だと思っている。

登場するのは政治家の青年。かわいい奥さんがいる。
芝居である。劇的なことがなくてはいけない。
この青年は何十年ぶりかで母と会うのである。
母はかれが5歳のとき、息子を捨てて駆け落ちをした。それからずっと会っていない。
礼儀上、母だけを招待するわけにもいかない。駆け落ちした相手も呼ぶ。
かれは青年の父の友人だった。すなわちこの母は夫の友人と駆け落ちしたのである。
母を呼ぼうというのは青年の妻の発案であった。
これには理由があった。この妻も夫に不満を感じていたからである。
青年の妻も駆け落ちを考えている。劇的な行動に飢えている。

燃えるような恋をしたいと思っている。

だから夫の母を招待したのである。妻は夫の母を見習いたいと思っている。
唐突に登場するのが青年の父である。知らされていなかった息子夫婦は大慌てする。
なんとも喜劇的ではないか。30年ぶりに三者が対面するのだから。
青年の父。青年の母。その駆け落ち相手は、かつては父の友人であった。
ふたりは駆け落ちして幸せになったか。
見たところ、ちっともである。このふたりは夫婦喧嘩ばかり。旦那のほうはアル中である。
父は嬉しくて仕様もない。ざまあみろである。駆け落ちした罰があたったのだ。
おれがどれだけ苦しんだか。妻を友人に寝取られて。おかげで政治家生命も絶たれた。
情熱的な恋がなにほどのものか。結果はそんなものではないか。
愛など永続的なものではない。ほら、見たことか。
他人を不幸にしておいて幸福になれるわけがない。
父は不幸なこのふたりを見るのが楽しくてたまらない。わざと夫婦喧嘩をあおる。

息子夫婦の問題がおおやけに露見する。
夫の母にそっくりの美貌をもつ妻は告白する。駆け落ちしたい。愛に生きたい。
夫はなんとか妻をとどまらせようとする。両親の二の舞はごめんである。
あんな財産もないろくでなしの青年に恋をしてどうする? 先が知れているじゃないか。
それにおれはどうなる。いまきみに逃げられたら醜聞である。政治家として致命傷になる。
しかし、妻の気持ちはかわらない。

ここからがおもしろいのである。
青年の父は、あのふたりに嫁を説得してもらうよう依頼するのである。
どうか嫁に教えてやってくれないか。駆け落ちの興奮などほんのいっとき。
炎のような愛などそう続くものではない。それからは長く苦しい不幸が待っている。
きみたちはかつて駆け落ちをしたことをいまは後悔しているだろう。
男のほうだって、あんなスキャンダルを起こさなければ、
末は総理大臣にもなる器であった。
一時的な恋愛感情で短絡的に行動するのは得策ではない。
そう嫁に教えてやってくれんか。
実にうまいドラマ構造だと感服する。
そうか。母はおのれの失敗を、息子を幸福にすることで償(つぐな)うのか。
夫には迷惑をかけたけれども、息子夫婦の破談をとめることで帳消しにする。

母は嫁を説得する。息子のためにである。
嫁は嘆息する。

「ああ、人生っていやね。
どうして人を不幸にしなきゃ幸福になれないのかしら?」(P177)


嫁はどうするのか。駆け落ちするのか。説得に従い、元のさやにおさまるのか。
駆け落ちをさそう男のほうは無鉄砲である。愛がない人生なんてバカげている!
旦那だって、きみを愛しているのなら、きみが幸福になってほしいはずだろう。
問題なのは、他人を不幸にするか、それともじぶんが不幸になるか。
おれの答えはこうだ。

「誰かと僕が猛烈に腹がすいててだね、
二人の間に肉の切れっぱしがひとつきりあってだね、
その人が『食べたまえ』って云ったら、僕ァ議論で時間つぶしてなんかいないね。
相手が気持ちを変えないうちにがつがつ食っちまう」(P179)


いま何が問われているのか。どちらを選択するかである。
平凡だけどそれなりに幸福な人生か。
たとえ不幸になる確率が高くとも、劇的で激しい人生か。
将来を考えるか。一瞬の燃えるような思いに賭けるか。
嫁は葛藤する。夫の母は後者を選択した。今現在は不幸である。
このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。
嫁は相手の目を正面から直視する。すべてが終わった。決着が着いた。
駆け落ちしようと決意する。「人間・この劇的なるもの」である。
それまでは説得していた夫婦も、もはやこのふたりをとめようとはしない。
どこかうれしいのである。いいじゃないか。一瞬の燃えるような情熱に生きる。
だらだらと生きていてどうなる。それでいい、それでいい。我われの人生もこれでよかった。
駆け落ち経験のある夫婦は、若いふたりにあれこれとアドバイスする。
あの激烈に幸福だった一時期を思い返しながら。
残されたものもいる。かくして父も息子も女房に逃げられたことになる。閉幕。

「おえら方」(サマセット・モーム/木下順二訳/新潮社)絶版

→戯曲。英国産。
皮肉屋のモーム。本国では劇作家としても有名。
テレンス・ラティガン、ノエル・カワードといった、ウェルメイドプレイの系譜。
つまり、来場してくれた観客全員を満足させて帰そうというお芝居。

この芝居でモームが風刺の対象とするのは上流階級。英国のサロンである。
といっても、かれらは実のところアメリカ人。
アメリカからイギリスへ渡ってきて貴族と結婚。
結果、英国上流社会に仲間入りしたものたちである。
イギリスとアメリカの微妙な優劣関係が背景にあるので日本人にはわかりにくい。

平衡状態にドラマは生まれない。湖面には石が投げ入れられる必要がある。
この戯曲で石となるのが、先ごろアメリカからやってきたばかりの青年。
かれはサロンの欺瞞的虚飾にうんざりするわけである。波乱が生じる。
サロンの女主人のスキャンダルがつづけざまに明らかになる。
美貌の女主人はだれとでも寝る。
そうすることで現在の地位を築いたわけである。
女主人には親友がいた。女主人は、親友の情人にもからだを許す。
ドラマのサスペンスである。ばれるか、隠しとおせるか。ついにばれる!
さあ、このサロンは崩壊するのか、それとも女主人の機転で持ちなおすのか。
ドラマのクライマックスである。
デウス・エクス・マキナのごとく現われるのはカリスマ・ダンサー。
(デウス・エクス・マキナは「機械仕掛けの神」。ギリシア劇の強引な終幕手段)
情人を寝取られた女はこのダンサーの大ファンであった。あっさり女主人と和解する。
サロンは壊れなかった。

愛なんてどこにもない!

だれも相手を真剣に愛していない。恋愛遊戯ばかりである。
女主人の妹はこのサロンを嫌悪し、母国・アメリカへ戻る決意を固める。
そのためサロンが元通りに戻ったわけではない。
開幕前と閉幕後では変化がある。
平衡状態から葛藤を経て別の均衡を形成するにいたる。
これが劇のただしいすがたである。モームはことさら新奇なものを求めない。
劇とはこういうものである。モームの確固たる演劇観がうかがえる。


(注)ふう。どうなのでしょうかね。戯曲のあらすじを説明する。
読んでいておもしろくないのではありませんか。たぶん、そうでしょう。
書くほうも楽なわけではないのです。
ストーリーを要約するのはなかなかの骨折り仕事。
ならなぜこんなことをするのか。
検索してみたら、ネット上に感想がひとつもないのです。
ぜんぶネット古書店の目録。
よし、ひとつわたしが書いてやるかと今回思ったしだい。
モームの小説はほとんど読んでいません。
「人間の絆」「月と六ペンス」を早く読みたい。


「喜劇の手法 笑いのしくみを探る」(喜志 哲雄/集英社新書)

→最近、読むのは宗教書ばかり。たまの娯楽も小説。喜劇がたまらなく恋しくなる。
小説の場合、舞台のうえの人間が立ちどまっていても一向に構わない。
我われはかれが何を考えているのか、心理描写を読めばわかる。
過去のトラウマを思い返しているのか。
いまの恋人と別れようか悩んでいるのか。
将来のことを心配しているのか。
かれはいくらでもうだうだと苦悩することができる。
しかし戯曲ではそうはいかない。芝居の観客は動かない人間を許さない。
たしかに傍白(ぼうはく)という手はある。
傍白とは、役者が舞台のうえから観客へ直接、みずからの思いを話しかける演劇手法。
だが、いつまでも傍白をつづけるわけにはいかない。観客の視線が突き刺さる。
立ち尽くしてはいられない。あせる。動かなくてはと思う。
さいわい舞台上にはほかに複数の人間がいるものである。
かれは恐るおそる話しかける。あるいは、大慌てで飛び込んでいく。
こうして劇が開幕する。観客を笑わせるために、泣かせるために。

小説は閉じている。戯曲は開いている。ことさら喜劇はそうである。
良質な喜劇は常に観客を刺激しつづける。
小説が武士なら、戯曲は商人である。
武士は食わねど高楊枝。おさむらいさんは貧乏でも士農工商。えらいのである。
ところが商人はちがう。もうけてなんぼ。
殿様商売なんてとんでもない。お客さんは神様なのである。
武士が売っているは特産品。それも通信販売。顧客の顔が見えない。
一方で商人は駅前食堂。対面商売。うまければ喜ばれ、まずければ怒られる。
これは小説と戯曲の相違にも通じるといったら笑われるのだろうか。

本書は、いわば商売マニュアル本。
いかにして喜劇は観客を笑わせるかを、豊富なサンプルを挙げ、分類・整理したもの。
といっても著者は演劇人(劇作家)ではなく学者先生。
創造に類する熱情はない。冷徹な視線を一貫してたもつ。
喜劇にはいくつかのパターンがある。変身、取り違え、虚言者、反復――。
分類をしながら著者は自問する。なぜこれらのパターンは観客を笑わせるのか。
結論はこうである。わたしなりに要約する。
喜劇の成立する条件は、情報量の差にある。
舞台上の人間が知らないことを観客は知っている。
またはその反対の、舞台上の人間が知っていることを観客は知らない。
劇中人物と観客における情報量の差。これこそが喜劇の力学である。

シェイクスピアやモリエールのような古典喜劇によってもたらされる快楽とは何か。
観客は劇場をでればひとりの人間。複雑な社会の、いち構成員である。
かれはとてもじぶんを取り巻く現実および状況を完全に把握することはできない。
ところが、劇場内ではそれが可能である。
喜劇の観客は状況を熟知している。そのため右往左往する人間がおかしくて仕方がない。
笑いながら観客は無意識的に気づいている。
一歩劇場をでれば、いつじぶんたちも、ああなるかもしれないことを。
だから笑う。おおいに笑う。そんな喜劇の健康をわたしは愛している。
健康といった。そうである。小説を読むのは、どこか病的なものがある。
小説と戯曲。どちらも我われには必要なのである。

「雨と夢のあとに」(柳美里/角川書店)

→柳美里の小説をおもしろいと思ったことは一度もない。
エッセイがすばらしい。だから、つい思ってしまう。
こんなきれいな文章を書くひとなら、さぞかしすごい小説を書くのでは。
期待は毎回、裏切られる。

雨がふる。ザーザーザーザーザー。
こんなまぬけな擬音を柳美里はなぜ使うのか。
それが文学だと思っているからである。
この作品は、おとなが読む小説なら決して使われない擬音に満ちている。
まともなおとなは辟易する。柳美里は反論するだろう。
これはそこらの大衆小説とはまったく異なる文学でござい。戦略的にやっていること。

物語自体はいたって陳腐。
主筋は、少女が最愛の父の死を受容するまで。
その過程で、じぶんのほんとうの父親は別にいることを知るにいたる。
物語中盤に見られるボーイフレンドの転校は、幼稚な読者の感傷を刺激する。
この物語を一見、文学らしく見せているのが柳美里の破綻した文体である。
なに、そう難しいものではない。平たくいえば、読みにくい文章なのである。
柳美里がめざしているのは狂気の文体なのであろう。

狂う怖さ。狂う美しさ。

その志向性はどこに帰結するか。
コンビニ店員の(マニュアル化されたあたかもロボットのような)
発話をわざわざ描くことに意味を見いだすようになる。
結論をいう。失敗していると思う。狂気の文体には程遠い。
狂っているふりが痛々しい。むしろ不愉快である。
この程度で読者をごまかせると思っている、狂気への認識の甘さが。
ブックオフ105円本ゆえ、これ以上はつつしむ。

「目の前で飛び降り自殺」でグーグル検索をこころみた。
もちろんこの「本の山」はヒット。ほかにはと思ったらこれがほとんどない。
へたくそな同人小説の設定としてよく使われていたのが目についた。
そりゃそうだよなと思う。プロの作家はそんなうそ臭いものを描かない。
事実は小説より奇なり。フィクションとノンフィクション。
小説家も書かないようなことが現実では起こる。
6年前、母がわたしの目の前で飛び降り自殺をした。
あれはいったいどういうことなのだろう。6年間、考えつづけてきた。
苦しんだ。いまも苦しい。どういうことなのだろう。目の前で飛び降り自殺。
経験したことがないからわからないとあなたは言うだろう。
ところがその場にいたわたしでさえ、あの行為の意味をいまだつかめないのである。
何が起こったのか。あれはなんだったのか。

わたしはあの悲劇を理由にして、とてもひとには言えぬ生活を送っている。
明日死んでもいいと開き直り、酒びたりの毎日である。
これはどのくらいの妥当性があるのだろうか。妥当性というのはおかしな言葉である。
言いかえる。どれくらい了解可能な行動なのだろうか。
母に目の前で自殺される。あんがい、たいしたことではないのか。
顔のまわりを飛んでいる蚊を打ち殺したのとおなじようなものなのか。
自殺、自殺とわたしは騒ぐ。しかし、日本の年間自殺者は約3万人。
ひとりの自殺者に影響を受けるひとが3人いるとしても、
年におよそ10万人のひとが身近なものの自殺を経験するわけである。
目の前で死なれる。これはどれほどの重さがあるのか。
今回、検索してみたゆえんである。

検索結果――。ほとんどないのである。
ヤクルトの元投手、高野光が配偶者の手を振りきってベランダから飛び降りた。
有名人だからか、この事例がやたら登場した。
これはよく覚えている。「こりゃ、大変だ~」と思ったものである。
しかしプロ野球選手の妻だから当然美人であろう。
いまは再婚してよろしくやっているかもしれない(違っていたらごめんなさい)。
もうひとつヒットした事例を以下に引用する。無断転載である。
たぶん2ちゃんねるの過去ログだと思う。
不都合があったら即刻削除します。ご指摘ください。


>522 名前:優しい名無しさん 投稿日:2000/09/10(日) 13:07

>数年前私の姉は自宅マンションから家族の目の前で飛び降り自殺をしました。
>落ちた瞬間近所の方に即座に毛布をかけられましたがその時の姉の体は
>見るも無残な姿であたりには血だらけの歯が飛び散っていました。
>自殺の原因となった母はいまだにその時の心の傷を引きずっており
>現在も精神病院に入退院を繰り返しています。
>父は姉の自殺1週間後心筋拘束で他界しました。
>もちろんそこには住みずらくなったため引越しをしました。
>私自身現在は鬱病で無職ですが当時は食べていくために
>高校を辞め働きどおしの毎日でした。
>姉の自殺で家族の人生の歯車が狂ってしまったことは言うまでも
>ありませんが何より深いトラウマとなったのはあの死体です。
>どれほど生前の姉の姿を思い出そうとしてもあの最後の姿しか
>思い出せないのです。
>この先ずっと私は姉の死を引きずって生きていかねばならない
>みたいです・・・。


(引用元)http://menhel.hp.infoseek.co.jp/kakolog/961369472.html


壮絶である。絶句するほかない。
転載したあのレスが書かれたのは6年前。
書いたかたは果たしていま生きているのかどうか。お母さまも。
かといって、生きていたらいいと思っているわけでもない。
死んだほうまだ楽な人生というものがある。
わたしは自殺を否定しない。母の人生を肯定したいがためである。
自殺はしてもいいと思う。家族に多大な迷惑をかけるが、それでも本人の人生。
自殺は許されると思っている。

2ちゃんねるのこの一家に比べたらわたしは強いのだろうか。
とりあえず精神科の厄介にはなっていない。それに引越しもしていないのである。
そうなのだ。わたしがいま住んでいるのは母が自殺した場所である。
したを通る。うえを見上げる。ああ、あの日、あそこから母が落ちてきたのだと思う。
母の自殺は早朝だった。見たのはわたしだけで済んだ。
しばらくは近所のうわさが気になった。
母のせいで挨拶を交わさなくなったひとが多数いる。
いまだに聞かれることがある。最近、見ないけど、お母さまは?
わたしはさっぱりわからないという顔をする。母なんて元からいない。
そういうそぶりをする。しらを切る。相手もそこまで深くは追求してこない。

この2ちゃんねるのケースも、元ヤクルトの高野光もわたしとはちょっとちがう。
うえにいて落ちるのを見ている。わたしはしたにいて落ちてくるのを見た。
この事例はほかにないものか。検索ワードをいろいろかえてトライした。
「眼前投身自殺」でヒットしたのが、画家の深井克美。この検索で存在を知った。
深井克美(1948-1978)。北海道函館出身の画家である。
母をテーマに絵を描きつづけた。母と子の密接な関係。
深井克美は齢(よわい)30のとき、
因縁浅からぬ母の眼前めがけてビルから投身自殺をする。
練馬のビルであったという。詳細は検索ではわからなかった。
ご存じのかたがいたら、ぜひとも教えてほしい。
その深井克美の絵がとんでもないのである。見た瞬間、魂を揺り動かされた。
涙がとまらない。当方、絵画の知識はまったくない。
どんな名画を見ても感動したことなど一度としてない。そのわたしが――。

深井克美
http://www1.linkclub.or.jp/~seiji-s/papa/fantasy/01/05fukai.html


母に目の前で飛び降りられる。
どんなものを見たのか。この深井克美の絵に描かれているではないか!
リンクしたこの絵を見てください。わたしが見たのはあれである。あれなのだ……。
画家というものは怖ろしい。なぜわたしが見た地獄を描けるのであろう。

目の前で飛び降り自殺をする。どういう意味があるのだろうか。
わからない。母の死後、発見した日記にはわたしの悪口がびっしり。
わたしが自殺の原因であったのは明白である。
そのわたしが、このように生きている。
精神病院にも入らず、酒をがぶのみしながらいいかげんに生きている。
これでいいのだろうか。わからない。どうしようもなく生きている。
おそらくわたしのほかにも複数いると思う。
目の前で近親に飛び降り自殺をされた人間である。
この記事はそれらのひとと出会いたいがために書いた。
検索にヒットしやすいよう、そのものずばりのタイトルにした。
もしよろしかったらメールをください。アドレスはプロフィール欄にあります。
いるでしょう。きっと、いるでしょう。ぜったい、いるはずです。
目の前で飛び降り自殺をする。どういう意味があるのか。
この酒びたりの生活であと何年生きられるのかわからない。
それでも考えつづけるしかない。答えはでないだろう。
いいのだ。苦しみつづけたい。苦しみを忘れたら、母に申し訳がない。
本は高い。単行本なら1000~2000円。文庫でも400~1000円。
最近は1000円をこす文庫もめずらしくない。
いや、どうなんだろうかと思い直す。本はほんとうに高いのか。
いまに比べたらぜんぜん本を読まなかった大学生時代は、
本を高いと思ったことはなかった。このくらい当たり前。
それどころか文庫は、こんなに安くていいのかと思ったものである。
人間は変わる。文庫で1000円? ふざけるなと思う。
1000円あればどれほどおいしいものが! これは本ばかり読んでいるためか。
多忙なビジネスマンは、もしかしたら本を安いと思う……?

安く本を買う方法。まず思い浮かぶのが古本。これは一般的。
もうひとつ本を安く買うルートがある。ゾッキ本とよばれるものである。
片仮名にしたらバーゲンブック。このほうがみなさまにはなじみぶかいか。
実は書籍。資本主義国家の治外法権にある。
通常ならどの小売業も価格は各自で決められる。
本は例外なのである。定価販売を義務づけられている。
だからこそ優良(だが、売れない)書物を発行できる。
文化政策の一環だというのが名目。
この建て前の解放区がゾッキ本(バーゲンブック)なのである。
出版社が売れなかった本を定価以下の安価で売りさばく――。

本の聖地・神保町にはバーゲンブックの専門店がいくつかある。
老舗は日本特価書籍。ここにはだいぶお世話になった。
その並びに新しい専門店が先ごろオープン。ニュースでも取り上げられた。
専門店以外でもある。神保町・東京堂書店。ふくろう別館。ここでも扱っている。
神保町に限定しないのなら池袋。ジュンク堂書店3Fにもバーゲンブックコーナーがある。
えーと、何が言いたいのだったか。そうだ、思いだした!
読書家は安堵せよ。本は安く買える。
長い前フリを失礼。この日、3月5日、まず買ったのがバーゲンブック。
古本ではないのに、なぜか安いふしぎな書物。東京堂書店別館にて。

「山頭火と子供たち」(仲村美代子/春陽堂書店)絶版 349円
→著者は作家でもなんでもない。食堂のおかみさん。
ただ少女時代に、俳人・山頭火と話したことがある。それだけで本がだせる。
人生はわからない。あの山頭火は終生、無名に終わった。
ところが、かれに数度会ったことがあるというだけで、本をだせるひともいる。
資料として購入。わたしもいちおう山頭火研究者。
というか、本人は山頭火を生きているつもりなのだから笑われてしまう。
こんな本が売れるわけがない。すなわち、発行部数が少ない。
帰宅後に検索したらこの本、ネット古書店ではとんでもない価格がついていた。

神保町から坂をのぼり御茶ノ水へ。中央線。105円本のメッカ・荻窪へ。
引越すならと、まず候補に考えたのが荻窪。
ここには、ささま書店とブックオフ荻窪店がある。
ささま書店前の105円コーナーほど読書家を感涙させる場所はない。
かつてこの古書店で15冊買ったことがある。そのうち探求書が何冊あったか。
すべて105円である。ここ荻窪のブックオフもかなり質がいい。
105円コーナーが都内でもっとも充実しているのは荻窪店ではないだろうか。
おっと、町田店があったか。なら23区内に訂正。
ささま書店とブックオフ。この2店目当てに月に一度は荻窪に行く。
この日は、そこまでの収穫はなし。購入書物は下記。すべて105円。

「それでも作家になりたい人のためのガイドブック」(糸圭秀美・渡部直己/大田出版)
「古典再入門」(円地文子ほか/鎌倉書房)
「ゴーゴー・アジア」(蔵前仁一/凱風社)
「続 礼儀作法入門」(山口瞳/新潮文庫)
「 自信がつく話し方教室」( デール・カーネギ-/森本毅郎訳/知的生きかた文庫)
「雨と夢のあとに」(柳美里/角川書店)

→まだ出版されて1年も経っていないのに105円とは! 定価は1400円。
もう定価では本を買えない人間になってしまったのかもしれません。
いつ強制引越しになるかわからない現状である。
もう本を買ってはいけない。わかっているのである。ところが、買ってしまう。
最近、思う。これはもう病気ではないだろうか。本を買わずにはいられない。
本などいくら読んだところでよいことはない。断言する。
子どもに「本を読みなさい」というおとなはたいがい読書の愉悦を知らない。
じぶんが何ものでもないことの言い訳として、
もし読書をしていたら今ごろは……と思うのであろう。
いわば慰めである。事実はそんなことはない。
このおとなが読書をしていたら、もっとひどいことになっていたにちがいない。
読書をしないでよかったのである。
本を読まなかったからこそ、子どもに読書をすすめられる程度の中流階級でいられる。

読書など百害あって一利なし。

本を読む。どんどん人間が嫌いになる。
本にはあらゆることが書かれている。中でも戯曲にハマったらおしまいである。
戯曲のなんと劇的なことか。比して、現実はどうか。一切、劇的なことはない。
かようにして人間のみならず、現実までこの読書家は嫌悪するようになる。
映画や舞台に熱中するのはまだいい。人間が登場する。役者のファンにもなろう。
しかし、この読書というやつは! 憎むべきは活字!
本ほど受け手が自由な娯楽はない。活字はどのような誤読も許容する。

2月25日――。もう1ヶ月以上もまえである。
ブックオフ新宿靖国通り店。この店は、疾走プロダクションの真正面にある。
疾走プロダクションは、映画監督である原一男さんの事務所。
原一男さんは、大学時代の恩師である。師から何度、言われたことか。
この監督はドキュメンタリー映画の巨匠である。
もう本を読むな。生きている人間の声に耳を傾けてみろ。活字よりどれほどおもしろいか。
不肖の弟子である。生きている人間より、死んだ人間のほうが好きなのだから。

ブックオフでは、いつからか105円コーナーしか見なくなった。
単行本も文庫もである。あ、岩波文庫だけは半額コーナーもチェックするか。
買った本は――。

「般若心経の読み方」(ひろさちや/日本実業出版社) 105円

「仏教を考える 梅原猛全対話3」(集英社)絶版 105円
→対談本が好きなのはバカの証拠。話し言葉なら、書き言葉よりわかりやすいか。
そのような甘えた打算があるのである。あたまの悪い人間は苦労する。

「経典にきく 上下」(武藤 義一・奈良康明/放送ライブラリー)絶版 210円
→NHKで放送されたものを編集。
テレビを見るのはバカばっか。ならおなじくバカのわたしにもわかるのではないか。
ほかにも買った理由が。般若心経の回のゲストが大山澄太。
かれは俳人・山頭火の友人、かつ研究家。ぱらぱら読むと山頭火にも言及している。
つながった! と思うわけである。わたしの読書はまったくの自己流で無軌道。
かつて影響を受けた山頭火と、いま勉強している般若心経。関係があったのか。
独学者にとっては至福の瞬間である。勝手に運命だと妄想し本を買うことになる。