ずっとさぼっていましたが、そろそろ一気に。
まずは近所の三省堂書店神田本店。

「歎異抄」(梅原猛/講談社学術文庫)

定価だから1050円+消費税。
むかしはこのくらいぜんぜん平気だったが、いまはなぜか高く感じる。
余談。他のブログを拝見するに図書館派がなんと多いことか。
専業主婦がベストセラーを図書館予約で読み、その感想をブログに書く。
これを信じていいものか。
身銭を切っていない読者の感想ほどあてにならないものはない(新聞書評参照)。
わたしはすべて買っている。たとえブックオフ105円本にしろ。
そうそう、失敗があった。
むかし綿矢りさの「インストール」を絶賛したら非難されたことがある。
ああ、書き忘れたと思った。古本屋ワゴンにて105円で買ったことを。
たしかにその十倍の定価で買っていたら、ほめはしなかっただろう。
それ以来、なるべく105円本はその旨を書くようにしている。
話が脱線した。人様のブログに意見するのは生意気だ。
講談社学術文庫の値段の高さもわたしがどうこういって変わるものではない。
買った本の報告に戻る。

神保町から御茶ノ水まで歩く。丸の内線で池袋へ。
「池袋西武 春の古本まつり」である。
着いたのが7時近く。あと1時間かと思っていたら9時までと知り歓喜。
2時間あれば、じっくり物色できる。その時間のなんと楽しいことか。
古本祭りにはなるべく行くようにしている。
本好きが集まっていることから生じる、あの雰囲気が好きなのである。
憲法で戦争を放棄した日本に残る数少ない戦場のひとつである。
行けばわかると思うが、こういう古本市(祭)会場にはとにかくおかしな人間が集まる。
当たり前である。みんな人間より本のほうが好きなのだから。
最近はこの環境を楽しめるようになった。
わたしがある本棚を見たいとする。しかし、そこにはリタイヤ・オールドマン!
わたしがそこを見たがっていると知っているがゆえにわざとそこに立ち続ける。
断じて被害妄想ではない。概して老人(それも古書好き)は意地悪なのである。
こちらはどうするか。老人の先にある本棚を見にいくわけである。
するとふしぎ。きまってちょっと気になる本を発見するものなのだ。
どうなるか。立場は逆転。今度はくだんの老人が「どけ〜」という熱い視線を放射する。
ふふふ、と思いながらわたしはいま手に取っている本を買おうかどうかしばし迷う。

何を書いているのだ。ここは買った本をメモるだけの場所ではないか。
すみません。実はそれを書くのが恥ずかしくて、いままで先延ばしを。
わかった。正直に告白する。
出店(というのか?)していたひとつの古書店から11冊も買ってしまった。
おそらくこの古書店にそれらを売ったのもひとりの人間だろう。

「現代によみがえる歎異抄」(高史明/NHKライブラリー) 210円
「親鸞と道元 自力か、他力か」(ひろさちや/徳間文庫)絶版 157円
「世界の宗教がわかる本」(ひろさちや監修/主婦と生活社)絶版 210円
「てのひら般若心経」(ひろさちや監修・佐藤健三写真/小学館文庫) 210円
「ひろさちやの『法然』を読む」(佼成出版社) 420円
「ひろさちやの『親鸞』を読む」(佼成出版社) 420円
「ひろさちやの『日蓮』を読む」(佼成出版社) 315円
「わたしの歎異抄」(ひろさちや/すすき出版) 315円
「インドの宗教と芸術」(ひろさちや編著/世界聖典刊行協会) 420円
「世界の宗教がわかる本」(ひろさちや/PHP研究所) 420円
「濁世の仏教 仏教史講義」(中村元+水上勉/朝日出版社)絶版 210円


ひろさちや、ばっかり。
おまえは羞恥心がないのか(こんなことを書いてごめんなさい、ひろさちや先生……)。
ええ、そうなのです。
こういう安易な一般書をまとめ買いしたのを知られたくなかったから、
今まで購入報告をさぼっていました。お許しください、お笑いください。
しめて3517円なり。
「もう一度だけ新人賞の獲り方おしえます」(久美沙織/徳間文庫)絶版

→著者は19歳で売れっ子作家になっちゃったひと。
ジュニア小説というものが世にはあるらしい。
さすがにこういう経歴の持ち主はおもしろいことをいうなとにやにやしながら読んだ。
映画「タイタニック」のここがすばらしい、などと目を輝かせながら(想像!)語る。
あれは賛美歌の知識がないとわからないんだぞ、と博識をおひろめ。
文学とは縁のない小説家を観察するのは楽しい。
動物園で得るあの満足以上のものがある。新奇な生物の存在には感心させられる。

冗談はやめる。
大塚英志のみならず、この久美沙織もすすめているのが盗作。
真剣に盗作を考えてみようかと思い始めた。
たしかに中上健次がいうよう、小説は書こうとして書くものではないと思う。
新人賞うんぬんを別にして、書かずにはいられないもの。
それこそが真の小説であるという中上の考えには全面的に賛同する。
だけど、えーと、あのその、そろそろ……。新人賞の2、3くらい。賞金が。

どのように盗作をするかである。
ストリンドベリなんて、もうだれも読んでいないから盗作してもばれない?
(ここに書いちゃったら意味がないけど、あはは)
しかし戯曲と小説という違いがあるから、そう簡単にはいかないだろうな。
まえに読んだ「小説の書き方」に、戯曲をたくさん読むと物語作家になれるとあった。
それはつまり戯曲の筋をぱくれということなのだろうか、うーむ。
戯曲だけはいっぱい読んでいる。これをなんとかして生かせないものか。
「物語の体操」(大塚英志/朝日文庫)

→そこらへんにうじゃうじゃいる、
頭の悪いにいちゃん、ねえちゃんへ向けて書かれた小説作法。
大塚は、小説を書ける書けないは才能の問題ではないという。
きちんとしたレッスンを積めば、村上龍レベルの小説ならだれでも書けるとのこと。
ここでこの本を投げだしてもよかった。
村上龍の小説は、自己啓発本に安易な物語をまぶしたくらいにしか思えない。
あれを目標にするのでは、あまりにも志が低すぎる。
とはいえ、内容も実物も薄い本なのでさほど時間を食わずに読み終えていた。

大塚の主張は、物語の類型を把握せよということに尽きる。
物語は新たに創りだすものではない。「在る」ものである。
したがって、小説作者の問題は、いかに物語を借りてくるかということになる。
そのための方法として大塚はカード式、盗作式、神話借用式を挙げる。

大塚は文学の存在を疑問視する。
どの文学作品も、物語パターンの組合せにしか見えないというのがその理由。
ありがたい文学などほんとうはないのではとこのライトノベル作家はいう。
むずむずしてくる。そりゃあ、大塚さんにゃ、わからないだろうよと思う。
わからせてやりたくなる。この大塚英志は結婚しているのかな。
ガキを一匹、殺すとはいわない。カタワにでもしてやりたくなる。
文学をわかっていただくために。
そのくらいの覚悟があって、このオタク評論家は文学を論じているのかどうか。
到底、そのようには思えない。
「小説の書き方」(野間宏・編/明治書院)

→小説マニュアル本は二種類ある。硬派と軟派である。
ほんとうに両極端なのがおかしい。
おれ、あたし、ちょっと特別って感じ、このノリを伝えれば有名人、楽して大もうけ♪
いまはこういうかたに向けて書かれたものが圧倒的に多い中で、
この「小説の書き方」は新鮮。大まじめに文学理論を検証している。
この古臭さには好感をもつ。だが、それはないでしょうという思うところもなくはない。
わざと読みにくい文章でことさら西欧文学をあがめるのはどうか。
そこらへんのお兄ちゃんやお姉ちゃんが、
ちょいと小説でも書いてやろうかとこの本を買ってしまったら泣きだすのは必定。
それはそれでおもしろいのだが、わたしだって平成を生きる人間である。
こういうおかたい作法書にはどうしても違和感を感じてしまう。
むかしの文学者がこんなことをしてきたから、
現代の文学がわけのわからないものになってしまったのではないかとも思う。

話をかえる。小説が書けない。何がたりないのだろう。
読書は、まあ、しているほうだと思う。
なら体験か。しかし人間が意識的に選択できる体験などたかが知れている。
結局は、才能なのだろうか。才能がないということなのだろうか。
ちょっとしたきっかけで書けるようになる気もするのだが、
一方でそんな甘いものではないというあきらめもある。

この「小説の書き方」にしたがい考えをすすめる。
小説のスタート地点は幼児のひとり遊びにある。
たとえば、人形を使ったおままごと。
お父さん人形が「ただいま」と帰ってくる。
お母さん人形が「お風呂が先ですか、ご飯にしますか」とたずねる。
あるいはお母さんがおかんむりで、ぶすっとしているかもしれない。
これこそ家族小説である。家族ドラマである。
5歳の幼児にもできること。それをなぜかいいおとなのわたしができない。
話をおままごとに戻す。
どうして幼児は人形に名前と役割をあたえ、それをある目的のもとに動かすのか。
体験があるからである。幼児に両親がいる(かつていた)からである。
ひとつの体験を、人形を使うことで再現する。
その再現とオリジナルの体験はかならずしも全一致するものではない。
むしろ幼児の好みによって、体験は変容されていることが多い。
そもそもからして完全な再現など不可能なことである。
これがおままごとの全容ということになる。
幼児は人形をこよなく愛する。お気に入りの人形を多様に飾りつける。
親に新しい人形をねだることもあるだろう。
次のおままごとでは、その人形が中心になり、かつての主役が脇役にまわる。
こうしておままごとは続いていく。

これを書くことでようやくわかった。なぜみなが小説を書きたがるか。
いまさら何をと笑われそうだが、わたしにはひとつの発見だった。
小説を書くのは、お人形遊びとおなじで楽しい。だから、みんな小説を書くのか。
なるほど、それならわかる。
わたしも幼少時、人一倍、人形遊びが好きだった。
たしかにあれは楽しかった。何時間やっていても飽きなかった記憶がある。

「小説を書く=人形で遊ぶ」

はてと思う。
いったいどういうわけで、いまのわたしは人形遊びができないのだろう。
テーブルの上に人形をふたつ置く。さてどうしようかと思案する。
一向に人形は動きださない。と思うと、二体ともいきなりテーブルから飛び降りた。
何度やってもおなじである。
人形は動かない。動かないことを詫びるかのようにテーブルから姿を消す。
いま酔っている。悪酔いである。
のまなきゃ、やってられん。

メールが来た。
とても不幸そうだったので、即座に丁寧な返信をした。
神経症患者特有の改行のない、字がぎっしりのメールに好ましいものを感じた。
こちらの現況と、知っていることをすべて書いた。

その返信が来た。
どうやらこの「本の山」をまったく読んでいなかったようだ。
「逃げ」が入っていた。
なんでもいい大学を出て、いい会社に入り、いい恋愛をして、いい結婚をしたとのこと。
まえのメールはおもしろかった。
会ったこともないわたしにじぶんの不幸をえんえんと書きつづっていたからである。
比して、今回のは……。
そりゃあ、わかります。わたしなんかとはかかわりたくない。
そういう対応を今まで何度受けたことか。
またかと思う。またかと酒をのむ。

メール送信者の許可は取らずにこの記事を書いている。
たぶん、もうこのブログなど見ていないと思うからである。
人間は他人のことに関心をもたない。自分のことだけである。
何しろこのわたしこそ、その典型なのだから。
そう悟ったような気でいたが、……やはり酒をのむしかない。

あ、もしご覧になっていて、削除をお望みなら即刻いたします。
どうぞお幸せに。
こちらはかなり参りました。
「問答無用」(中上健次/講談社)絶版

→この本はけっこうめずらしいのでは?
晩年の(といっても40代後半だが)中上が、ティーンエイジャーの質問に答える。
恋人の気持がわかりません。部活をやめようか迷っています。友情とはなんですか。
これは笑えそうだと思わず買ってしまった。

                    *

日本最後の文学者ともいわれる中上健次を読み込んだのは母が自殺した直後だった。
中上も、お兄さんを自殺で亡くしている。だからでしょう。
いくら文芸評論家がごちゃごちゃ難しいことをいおうが、おまえらに中上がわかるもんか。
そんな不遜なことを、いまでもどこかで思っているところがある。
中上に「修験」という短編小説がある(「化粧」所収)。
中上とおぼしき大男が、いきどころのない破壊衝動をもてあましている。
それは妻への暴力となって現われる。

「家に帰るや、女をひきずり出して、殴りつけ、本棚を壊し、椅子を壊した。
生きるということはいったいなんなのか? 
兄が自死した二十四歳という齢をこえて、しかも女房子供を持って生きる、
その生きるということはどういうことなのか、
死ぬということはどういうことなのか、彼は訊いてもみたかった」

大男は故郷・熊野の山に分け入る。

「大男は、杉の根方にへたばり、坐り込み、
深山いっぱいに籠(こも)った蝉(せみ)の幾重にも入り混じった声を耳にしたまま、
声をあげて泣いた。
教えてくれ、もう一度会わせてくれ、救けてくれ。
大きな泣き声だった」

調べてみたところ、熊野古道のひとつ「大雲取越え」に
「亡者との出会い」と名づけられた場所があった。
その山道を歩いていると、亡くなった親兄弟に会えるという。
行くしかないと思った。どうしても自裁した母にもう一度会いたかった。
なぜわたしの目の前で飛び降りたのか。あれは復讐だったのか愛だったのか。
どうして日記にわたしの悪口ばかり遺して去っていったのか。
あんなことされたら、遺されたわたしはどうやって生きていけばいいんだ。
涙で顔をくしゃくしゃにしながら山道を歩いた。だれとも会わなかった。
あれからもう5年か。
青年期の中上はこう書いている。

「次第にぼくは兄が死んだ年齢(二十四歳)に近づきはじめ、
死ぬということのほんとうの理由がわからないまま三十歳になり、
四十歳になり、そして老衰をはじめる。
ぼくはいまのいまを書きとめておきたい。
死んだ兄のことを百年後に生きている人々にも、木下郁平はこういう具合に生きていて、
首をくくって死んだとわからせてやりたい。
おめおめと歳をとってたまるか、と思うのである。
わかってくれ、わかってくれ、と叫んでみ、
その声に気づいてなれなれしくよってこようものなら、
簡単にわかってたまるか、と思うのである」(「犯罪者永山則夫からの報告」)

うんうん、わかる、わかるよ。
中上とおなじである。
お願いだから、だれかわかってくれよと言いたい。
大好きな母が、よりによってどうして上からふってくるんだ。
なぜわたしの目の前でつぶれて血まみれにならなきゃならないんだ。
のほほんと生きているやつらにつめよりたい、わかるか、こんな人生があるんだぞ。
わかるって? 冗談じゃない。わかってたまるか。わかるもんか。
自分も他人もぶち壊したくなる。
自殺か他殺か、そのすんでのところで中上は小説を書いた。
わたしは書けない――。

                    *

小説家になりたいのですが、どうすればいいのでしょう。
少年のこの問いに、晩年の中上は著書「問答無用」でこう回答している。

「絵描きだって(小説家と)同じだ。描きたくて仕様がないんだから。
描くのに何の理由もない。自然に描いていくものなんだよ。
芸術家の世界っていうのは、俳優になりたい奴も同じで、
自然に肉体が動くものなんだから。
小説家も人からあれこれいわれて書いたりするものじゃない。その勝負なんだよ。
だから学校で文学を教えているけれど、教えられるはずがない」

最後は、この少年に冷たく言い放つ。

「本当に好きな奴だけしか、生きのびられない。
たとえ、一作か二作書けても、それで終わってしまう。
こんな意識では絶対ダメだと思う。作家にはなれないね」
「小説家への道」(鳩よ!編集部/マガジンハウス)

→大学の専攻を聞かれるのがいちばん困る。
それでも小声で「文芸専修です」。「それって何をするところ?」
消え入りそうな声で答えたものだ。「小説を書いたり……」
売れていない作家が教えるのだから、授業は投げやり。
「小説家はなろうと思って、なるものではないよ。
それしかなれないものが仕方なくなるものなのだから」
吃音症のさえない三島賞作家の口癖をいま思いだす。
いまを時めく角田光代をゲストとして連れてきたこともあった。
いわく、食えてないみたいだから、彼女の小説を課題図書にしてあげる。
ふふふ、増刷されるかもしれないね、なんてバカにしながら。

小説家かあ。
なりたいひと、多いみたい。ひとのことを言えないが。
FC2のブログを見ても歴然。
ジャンル「小説・文学」は「本・雑誌」の3倍も登録されている。
新人賞の応募数も半端じゃないという。
みんな小説を書きたいのである。かといって、小説が売れているわけではない。
出版不況はどん底。売れるのは「小説の書き方」のみ。
なんでそんなにみんな書きたいことがあるんだろう。
恥ずかしながら、わたしはアイディアなどてんでない。
人間が小説を書きたいと思う理由。
それがわかれば、何かのきっかけになるかもしれない。
FC2ブログに連載されている小説を片っ端から読んでみようと思う。
すごいことである。小説を書きたいという欲望――。
いまのことである。
こちらは神経をぴりぴりさせながら文章を書いている。
拡声器の大音量が。おそらく最寄の駅前。
昨日もおなじ時間にあった。30分間。
憲法がどーたら。
いくらなんでも二日連続はないだろう。
これからずっとこれが続くのか。
飛び出していくべきか。「うるさい」と。
しかし、そこで大喧嘩をしてしまったらブログ更新が……。
駅近くの区施設に電話をする。拡声器で騒いでいるのは共産党系だという。
共産党に電話をした。うちは今日、その地域ではやっていないという。
ならば警察。道路使用許可の申請がでているはず。
なんとかしてその政治団体をつきとめ、いつまでやるつもりか問いたださねば。
聞くと、道路使用許可はどこの警察署でだされたものでもいいらしい。
つまり出発地の警察署でだせば、都内全域でフリーパス。
最終的にどこの政治団体かはわからなかった。
次回来たら、かならず飛び出していくつもりである。
勝手な大音量を流して、何が平和だ、何が人民のためだ。
マイク所持者につかつか歩み寄る。言う。「うるさい」。
それをできてしまうじぶんが怖い。こちらはキチガイの純血種。なめちゃいけない。
結果報告はここでする予定。

では、読了報告に戻ります。

(30分後)
やっぱりこころせまいかわたし……。
恥ずかしいのでこの記事は削除するかもしれません。
いまから2、3回「般若心経」を唱えます。
そうです。騒音もなにもかもが「空」なのです。

(6時間後)
最高にわたしって笑えませんか?
いきなり共産党、警察に電話か。
おもしろい、狂っているよな。
間違っても一緒に住みたくはないでしょう、あはは。
「新人文学賞ガイドブック」(エディトリアル・ギャング編/新風舎)

→これは作家志望者のための「赤本」。
それも45の大学、おっと間違えた、
45もの新人賞の傾向と対策がまとめられているのだからお買得。
そう出版社は思わせたいのでしょうか。
残念でした。ブックオフ105円購入で〜す。

いろんな新人賞があるものだ。
純文学、エンターテイメント、ミステリー、ジュニア、ノンフィクション。
これだけ新人賞があるのならじぶんだって、
と読者に思わせるあこぎな手腕はさすが新風舎。
(新風舎は詐欺まがいの自費出版で悪名高い。ご注意あれ)
うっかりだまされたふりをする。
わたしは何が向いているのだろうか。
純文学にしか目がいかない文学青年ではない。
むしろ「現代文学の最先端」なんて帯がついている新刊は手に取る気にもならない。
そもそも純文学ってなーに? と思ってしまう。
世にある小説は、おもしろいものとつまらないもの。
このふたつしかないと思っている阿呆なのです。
だから、エンターテイメントやミステリーにあこがれることしきり。
純文学ならなんとか書けるかもしれないけど(一次選考落ちのを)、
娯楽小説は一行書くのでさえわたしにはハードルが高すぎる。

ノンフィクションは、この本に教えられた新たな領域。
だけど、うーん。たとえば山頭火。
山頭火のノンフィクションを書きたいかと自らに問うと……。
古臭いと笑われそうだが、表現とは静穏な湖面に何ものかを投げ入れること。
そう考えたとき、果たして山頭火でそれができるのか。
山頭火は現代の爆薬たりうるか。
なじみぶかいことばである。
6年前から、何度言われてきたことか。
おのれに言い聞かせてきたことでもある。

「生きていればいいこともあるよ」
そう言い残すと、みんなわたしから離れていった。
仕方がないことだと思う。悪いのはわたしだ。自業自得。
それまでその程度の人間関係しか作ってこなかったということなのだから。
ざまあみろである。それに、そう。
世界でいちばん自分が不幸。そんな顔をしたやつとだれがつきあいたいもんか。
あっという間にだれもいなくなった。
いま思う。かつては自分にも友人や知人がいたのか……。ふしぎと慰められる。
ふふふ。なにをしているのだろう。きっとよろしくやっているんだろうな。

最近の口癖は変わってしまった。いつからだろう。ここ2、3年か。覚えていない。
「生まれ変わったらいいこともあるさ」
気づいたらいつもこれである。
まわりにひとがいないと、声にだして言うこともあるのだからみっともない。
6年間、いいことはなかった。これからあるという保証がどうしてあろう。
母のことを考えてみてもそうである。
遺された日記を読む。うらみつらみばかり書いてある。
しみじみと思う。ああ、人生にいいことなんてなかったんだな。
あんがい、死んでよかったのかもしれない。
あのあと生きていたところで、ろくなことがあったようには思えない。
かといって、最後に我が子へ最大の不幸をプレゼントして逝くのはどうかと思うが。
おのれの生への仕返しのつもりだったのだろうか。
わからない。もう聞くことはできない。
わかるのは、死んだほうがまだましな人生があるかもしれないということである。

これは創作日記である。小説の話をする。
どんな小説が好きか。「生きていればいいこともある」と思える小説である。
これは小説だけの好みではなく、戯曲、漫画、映画、すべてに通じる。
前衛小説や不条理劇など、実を言うとまったく読みたくない。
ああいうのはほどほどの人生を送っているかたの暇つぶしとしか思えないのである。
(これは鑑賞者のことを言っているのであって、作者のことではないことにご注意!)
どうしたって「生きていればいいこともある」と思える作品のほうがいい。
ならそのようなものを書けばいいじゃないか。
ことはそう簡単ではない。作者を見る。
「生きていればいいこともある」と思わせてくれる作品を書くのは、きまって……。
たしかにひとの幸福・不幸は外見からはわからないが、それでも……。
若くしてデビューした作家や、かつてベストセラーをだした人気作家なのである。
(例外は宮本輝の「螢川」。しかしあれは宗教<創価学会>の力を借りてこそ)
さて、わたしはどのような小説を書けばいいのか。
「生きていればいいこともある」と人様に思わせるものが書けない現状である。
とりあえず口癖を変えよう思う。
「生まれ変わったらいいこともあるさ」はもうやめる。
すぐさま言いかえる。「生きていればいいこともあるさ」。
母のことを書いてしまったことで、ストレートな物言いができるようになった。
よくわからないかたは、たいへん申し訳ありませんが、
カテゴリー「創作日記」を最初から読んでいただけると助かります。

「オイディプス王」「ハムレット」になぜここまで惹かれるのか。
それを書きたい。
オイディプスもハムレットも、とことんがんばっているわけである。
そこまでがんばらなくてもいいじゃないかと思うほどに。
オイディプスは、途中で養父母の国に戻ることができた。
そこで王としての、安楽な余生を送ることも十分可能であった。
ハムレットもそう。
亡霊になどついていかなければよかった。
父王死亡の真相などうやむやにしたままで、
王子ハムレットは、王位が継承されるまで酒でものんでいればよかったのである。
ところが、オイディプスもハムレットも安逸をよしとはしない。
がむしゃらに真実をつきとめようとする。
そのがんばりこそが、最悪の悲劇を呼び寄せることになるとも知らずに。
オイディプスもハムレットもがんばらなければよかったのである。

わたしのことを話す。6年前のことである。
知りたかった。なぜじぶんはこの父と母のもとに生まれなければならなかったのか。
父が離婚をするという。ちょっと待ってくれとわたしは頼む。
子どもとしては、当たり前の感情だ。
もう6、7年、両親は別居していた。
双方のもとを何度も行き来した。
父からはおまえは母親の味方だといわれた。
母からは父親の手先のように敵視された。
父の言い分と、母の言い分がまったく異なるのである。
どうしたらいいかわからなかった。どう生きていけばいいかわからなかった。
小説を書こうと思った。ありのままを小説に書くことで事態が改善するのではないか。
小説とは、おのれの悩みに向けて書くものだという思いもあった。
なぜ両親とじぶんがこうなってしまったのか。それを知りたかったのである。
父とも母とも、何度となく大喧嘩になった。
何かに向かっているという希望だけは捨てなかった。
これを乗り越えれば、なんとかなる。
その結果が母の自殺である。それも復讐のごとく目の前で飛び降りられた。
遺された膨大な日記には10年来のわたしへの悪口がびっしり。
母が自死した前日にも、ささいな事件があった。
寝込んだ母に、いまの気持ちを書いてくれと頼んだ。
あとで一緒に見ようと封筒に入れた。
母の死亡後に開けてみたら、それは遺書であった。
ごめんなさいもありがとうもなかった。
ただこの墓に入れてくれと、希望の場所が書いてあった。
どう考えても、わたしが母を殺したとしか思えない。
家族をなんとかしよう、よくしようとがんばった結果、最愛の母を殺してしまった。
これがわたしである。
「オイディプス王」や「ハムレット」を音読しながら、
毎回のように野獣さながら泣き叫ぶわたしである。
ドラマの語源は、ギリシア語の「行為」だったか。
為された行ないである。
その意味で、シェイクスピアはまさしくドラマ作家であった。
シェイクスピアの才能とは、歴史書や故事集からドラマを盗み出し、
それを劇的に再構成する。その技術の巧妙さにあった。

私小説、犯罪小説、歴史小説――。
ドラマの語源に忠実な小説である。
かつての「行為」を描く。
だから、作者が神様になる必要がない。
神様が振るった采配を、後追いすればいいのである。

*創作日記は、書きながら考えています。
もし何か参考になる書物をご存知でしたらぜひ教えてください。
先日、「鍋の中」の感想文として個人的苦悩を書いた。
つづけて大言壮語もはなはだしいが、
このブログは創作日記になるなどとえらそうに……。
まるでじぶんを選ばれた人間であるかのように思う自己陶酔は、
我ながら恥ずかしいものがある。

小説を書く。
ちょっと無理だよなとやっぱり思う。
重すぎる。手に負えない。
テーマは「死」である。
天才科学者でさえ解けないこんな大問題を眼前にだされても。
あと10年や20年は経たないと、とっかかりさえつかめないのではないか。
なら、それまでどうしろというのだ。
そもそもそんな長生きを、おのれの身体が許すかという問題もある。

大学生のころは小説を書きたくてどうしようもなかった。
小説を書くことが、楽しくて仕方がなかったのである。
しかし、いまは――。
どう小説を書いたらいいのか見当もつかない。
小説に最低、必要なもの。人間である。
どんな人間をだして、どう動かす?

ドラマとは、つきつめれば人間が幸福になったり、不幸になったりすることだ。
そういったのはシェイクスピアの翻訳で知られる小田島雄志である。
わたしは、小説も、肝腎なのはドラマだと思う。
ドラマがない平坦な小説など読みたくはない。
とすると、ドラマを作ること、これを追求すればいいということか。
ところが、まさにここがわからないのである。
どうしてある人間が幸福になり、別の人間が不幸になるのか。
小説家ってやつは神様みたいだと思う。
どうしたらじぶんも神様になれるのか。わからないよな。
思ったね。なんてえ人生だ。
医者から言われたとき。
「この血圧だと、うーん、30代前半で心筋梗塞を見たことがある」
強烈に余命を意識した。5年後に生きているのか。
このまま死ぬのだとしたら、わたしの人生はなんだったのだろう。
ろくなことがねえ。これで終わりか。
笑っちまう。破れかぶれだ。
以上、「本の山」がどんどん暴走していく理由であります。

プロフィールに連絡先を追加しました。
わたしの生きかたへのお叱り、記事への反論・苦情、新興宗教への勧誘。
もしございましたらご遠慮なく。
まだ経験したことがないんです。宗教への勧誘。意外でしょう? いいカモなのに(笑)。
昨日、新たな問題が、と書きました。
要約すると、あらゆる意味で決着をつけなければならない時期が来た。
そういうことです。生か死かという決定もふくめて。
いままで書いてきたことは、どこかしらベールをかぶせていました。
わたしの生存の根幹を隠していたのだからやむをえなかったのです。
たとえば小説作法の本を読んだところで、ほんとうの感想を書くことができませんでした。

これからこのブログは完全な創作日記になります。
すべては書くためにです。
書くために読む、書くために考える。
小説、戯曲、シナリオ。
どれがふさわしい表現手段かでさえまだわかりません。
なんとかして書き上げたいです。

しかし、と思う面もあります。
あの悲劇は避けようがなかった。宿命としか思えません。
なんとかしようと必死にがんばっていたら、
逆にそのことによって最悪の悲劇を誘発した。
ギリシア悲劇「オイディプス王」を読んだとき、これだと思いました。
わたしの経験したことがここに書かれている。
オイディプスは悲劇を避けることができなかった。
人間は無力だということです。
だから、これからわたしの表現が完成するかどうかも、
どこかで宿命だと思っている部分があります。
ましてやその表現が社会的に報われるかどうかは人知のあずかりしらぬこと。
そう思っております。
パソコンの電源を入れ、ここを見るのが怖かった。
まず恐るおそる訪問者履歴を。
まさかとは思うけれども、ゆうべ召喚した神様がいらっしゃっているかもしれないのだから。

>[ 作者 : tomomiyee ]
>[ ブログ名 : ともみのドキドキ日記 ]
>[ URL : http://cutetomomi.blog52.fc2.com/ ]
>ともみがエッチな事いっぱい書きま〜す♪♪♪

殺すぞ、ともみ! と思った。
「マンガ 歎異抄入門」(監修:ひろさちや/作:白取春彦/画:小川集/サンマーク出版)

→いくらなんでも漫画に頼るなよとじぶんでも思う。
ここまで落ちていいのか。プライドはないのか。
なんとでも仰せくださいませ。わたしなど、こんなもの。
宗教漫画特有の気持の悪いストーリー展開には微苦笑。
娑婆(しゃば)に出たばかりの前科者が「歎異抄」に光明を見いだす。
最後には、なぜか食堂の娘と結ばれる。
それも荒くれ者から、その美人の娘を救ってあげたのが機縁になるのだから、
まったく「歎異抄」の教えは測り知れない。
これって「歎異抄」を読んだら、すてきな恋人が現われるということでしょうか?

冗談はここまで。
巻末についていた、ひろさちやの「歎異抄」現代語訳が秀逸。
ひろさちやの仏教者、あるいは哲学者としての力量はわからない。
ただ、これだけはいえる。教育者としてのひろさちやは人後に落ちない。
むしろ最高の仏教啓蒙家ではないか。
いままで増谷文雄、高史明の「歎異抄」現代語訳を読んだがどちらも理解不能。
ひろさちやの現代語訳に出会って、ようやく活路を見いだした。
まず現代語訳を黙読。つぎに原文を音読するといういつものパターン。
「歎異抄」学習は、いまスタート地点に着いたといったおもむきである。
「歎異抄のこころ」(高史明 /NHKライブラリー)絶版

→血で書かれた「歎異抄」概説書。
高史明はかつて12歳の息子に逝かれるという地獄をみた。
そのときのことをこう書いている。

「私たちは、最愛のひとり子に世を去られたのでした。
しかも、その死は、僅か十二歳でしかなかった子の、自死だったのです。
私は、その死によって、それまで私が生の根拠としてきた≪自力≫なるものを、
根こそぎに打ち砕かれたのでした。(中略)
子に死なれた後のことです。気がつくと、私はただ、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と六字の名号を書きつづける日々を送っていたのでした。
そのようにするほか、時をやり過ごす道がなかったのだといえます」(P12-13)

かくして高史明は「歎異抄」にひかれていった。
そんな体験を経た作家が書く「歎異抄」の入門書である。
どれほどのことが書かれているのかと居を正して本書に向かった。
この本で人生が変わるかもしれない。似合わない希望まで恥ずかしながら持った。
ところがどっこいなのである。
悪いのはわたしか作者か。どちらも悪くないと思いたいが。
……この本はまったく意味がわからないのである。
底本はNHKラジオ番組のテキスト。本来なら万人がわかるよう書くべき類の書籍。
なのに、わからない。いちおう大学は卒業した。読書になれていないわけでもない。
いったい、どうして――。

整理してみる。
知りたいのは高史明が「歎異抄」を読むことで、
どのように死別の悲しみをのりこえたかである。
どこにも書いていない。
「歎異抄」にかこつけて、現代の自然破壊に文句をいっている場合かと思う。
論調を概観すると、親鸞さまはありがたい、ありがたいの連呼が目立つ。
変な連想をしてしまう。白痴の洟垂(はなた)れっ子。
殴られても、蹴られても、にこにこしながら「ありがとうございます」を繰り返す。
悲痛のあまり高史明はおかしくなってしまったのか。
それとも、これこそ「歎異抄」を真に理解した念仏者の姿なのか。
突き詰めれば、知りたいことはひとつしかない。
高史明は親鸞の世界に没入することで悲しみから逃げおおせたのか。
逃げるのが悪いなどといっているのではない。
生きていくには逃亡しか道はないのである。
そのルートを知りたかったのにと残念でならないのである。
はるか彼岸で微笑を浮かべ合掌する高史明を睨(にら)みつけながら、
阿修羅のわたしはこぶしを握りしめる。
「親鸞」(増谷文雄+遠藤周作/朝日出版社)絶版

→有名作家が、ある専門分野の講義を、有名学者から受ける。
朝日レクチャーブックスの一巻。
みなさまも古書店でこのシリーズをけっこう頻繁に見かけませんか。
親鸞の勉強はじめはこの本から。
遠藤周作は対談の名手。うまく学者さんから話を引き出してくれるのではと期待。

以下、知った情報をメモ風に。
鎌倉新仏教とそれまでの仏教との相違は、国家との向き合いかたにある。
すなわち鎌倉新仏教の開祖は国家公務員ではない。
国から認められた僧ではない。いわば国立大学(比叡山)からの中退者ばかり。
それまでの仏教はどれも国家公務員による学問仏教。
宗派のちがいは、専門の差ほどの意味しか持たなかった。
しかしこの鎌倉新仏教にいたってはじめてセクトになりうる宗教団体が生まれた。
これは民衆仏教の誕生といってもよい。
特徴は「修行か念仏か」という仏教の根本的な疑問にはっきり「念仏」と答えているところ。
末法思想(悪い時代になったという仏教の考えかた)の強い影響があった。

増谷文雄がこんな比較をしていた。
仏教は釈尊とともにインドで生まれ、中国、日本と伝播した。
これを「インド(智慧中心)→中国(禅中心)→日本(念仏中心)」と見る。
仏教において「業」(行ない)は「身・口・意」に分けられる。
仏教が「身」の面で発展したのが中国。
仏教が「口」の点で花開いたのが日本。
おもしろい見方だと思う。

おなじ南無阿弥陀仏の、法然と親鸞のちがい。
法然は教師的。信者は一般にどうすればいいのか。集団の教えを説いた。
親鸞は個人的。私やあなたはどうすればいいのか。個別に教えを説いた。

キリスト者・遠藤周作の見解。
キリスト教の教えは対人的な傾向が強い(「汝の敵を愛せ」)。
仏教の教えは対自己的といった面がある(「無我」)。
もうひとつ。
遠藤周作が常々提唱していた宗教の区分。
宗教には、父の宗教と母の宗教があるという。
日本の土壌では母の宗教しか育たない。
だから親鸞のやったことというのは、仏教の母性化ではないか。

この本の巻末に「歎異抄」全文と増谷文雄の現代語訳が掲載されている。
現代語訳をまず読んでみたが、現代語訳のはずなのにさっぱりわからなかった。
「心がやすらぐ仏教の教え」(ひろさちや/PHP文庫)絶版

→ひろさちやの説く仏教には血のにおいがしない。どういうことか。
たとえば、ひろさちやのまえに阿修羅のごとく顔をゆがめた男が現われたとする。
全身汗まみれ。顔は込み上げる激情――憤怒と悲嘆で原形がわからぬほどである。
かれは懐(ふところ)から血まみれの小刀を取りだす。
「おい、ひろさちや! おれはほんとうに救われるのか? ウソだったら刺すからな」
ひろさちやは恐れをなして逃げだすでしょう。
あとで言い訳。仏様は弱い人間を許してくださるのです、うんぬん(笑)。
これが水上勉だったらどうなるか。
おれも同じものを持っていると懐から血にぬれた小刀を取りだすのでは。
どちらの小刀についた血も人様を傷つけたものではない。
おのれの身体からでた血である。
阿修羅の問いへの水上勉の答えは「わからん、わからんものはわからん」か。
山頭火だったら――。
おのれの小刀をほうりなげて、ほれ、はやく刺しておくれ、わしは死にたいんじゃ。
だが、自分ではなかなか死ねん、これはありがたい。
山頭火なら哀しく笑いながら、そんな感謝をするかもしれない。
阿修羅への答えは「どうしようもない、おまえもわしもどうしようもないんじゃ」か。

ひろさちやを貶(おとし)めているわけではない。
背負っているもののちがいである。
ひろさちや、水上勉、山頭火――。だれが高級で、だれが低級というわけではない。
だれがいちばん苦労をしたかというのも比較できることではない。
なぜこの三者を並べたのかは、最近の記事を順番に読んでいただくほかない。

ひろさちやは長い年月を経てから、あのときの阿修羅に手紙を書くかもしれない。
「その節はとんだ失礼を。すべては仏様にお任せするしかないと思います。合掌」
もし阿修羅が生きていたら、その手紙を読んで静かにほほえむのでしょう。
「インドにて」(仲能健児/幻冬舎文庫)絶版

→インド紀行漫画。秀作。
インドっておもしろい国だ。
インドを描いたらどんなものでも一定のレベルはクリアしてしまうのだから。

さて、早くも大脱線。
当たり前のことなのにみな忘れていることがある。
あるいは、あえて忘れようとしていること。
あした死ぬかもしれないということである。
テレビや新聞で毎日、事故や犯罪を報道している。
なんら自らに責任がなくても、事故や犯罪に巻き込まれることはある。
今日、夕方のニュースで顔写真がでるひとだって、
昨日はまさか自分がそんなことになるとは思ってもいなかったのである。
あした死ぬ――。
そのとき思うことがある。2004年に3ヶ月インドを旅しておいてよかった。
つまらない人生だったけど、あの89日だけは輝いていた。
ふしぎなものである。
インドでつけていた日記には、毎日インドおよびインド人への不満が書かれているのに。
初日には、インドになんか来るんじゃなかった。
最終日には、二度と来るかインド!
なんだか笑ってしまう。人間はわからない。

あした死ぬかもしれない。
常にそう考えながら生きていきたいと思う。
うむ? とすると、こんなインド漫画を読んでいる暇はなかったのか?
「にちぶんMOOK 荷風7号 神田神保町、御茶ノ水の究極」(日本文芸社)

→今回、気づいたことが。わたし写真って苦手です。
ムックだから文章とともにきれいなカラー写真がたくさん掲載されています。
それらをどう見たらいいのかわからないのです。
ついつい文章だけを読んでしまう。あ、もったいないとその後に写真を見る。
なんかそのタイミングがうまくいかないというのか。
どうせなら字だけのほうが……なんてことも思ってしまう。
何気ない写真の一枚にも、撮影者の自意識がべっとりついていると思うと恐ろしくなる。

なんだかんだいいましたが、このムックはすばらしいと思います。
お酒をのみながら数日にわたって味わいました。神保町は大好き。
好きなものを見ながらさらなる好物を。ぐふふ、たまりません。
「鍋の中」(村田喜代子/文春文庫)絶版

→忘れられない漫画がある。
小学生のころ、うちのまわりに縁日が出ることがあった。
出るのは縁日ではなく、もちろん露店である。
なかには漫画雑誌の付録だけ売っているような妖しげな店もあった。
うちはおかしな両親の教育方針から漫画を読むことを禁じられていた。
しかしその日は、縁日だから、特別な日だからとごねて母から漫画を一冊買ってもらった。
少女漫画雑誌の別冊付録だったと思う。
かぼそい美少年が夏休みに田舎の祖母のもとへいく。
現地のやんちゃな子どもたちにもまれ成長する少年。
最後はかれの祖母が死ぬことで物語の落ちがつく。
作者もタイトルも覚えていない。
記憶に残っているのは、当時両親の諍いが絶えず子どもごころにつらかったこと。
母が発狂したこと。祖母の家にあずけられそこから学校に通ったこと。
あの少女漫画を何度となく読み返したこと。死について考えたこと。
この時期の記憶はすっぽりと抜け落ちている。
漫画の世界のほうをリアルに思い返すくらいである。
いま考えれば、たいした漫画ではなかったのかもしれない。
母が退院してきたあわただしさで、その漫画もどこかにいってしまった。
あれだけ漫画を禁じた母も、もういない。
6年前にわたしの目の前で飛び降りて死んだ。
遺されたのは20年近くにわたって書かれた日記である。
母が日記を書いていることを知らなかった。びっしりとわたしの悪口が書き込まれていた。
あの日で終わってしまった。うえから母が降ってきた。
名前を呼ばれた。うえを見た。母がベランダの外側にしがみついていた。
手を離した。5階くらいでワンバウンドした。大きな音がした。あたまから流れていた血。
すべてを見た。あれを見てしまったらもう何もできない。
半年前から母とは何度も大喧嘩をしていた。
そのころ、わたしは母とのことを現在進行形の小説として書きとめていた。
この小説の結末は絶対にハッピーエンドになるのだと信じながら。
よかれと思ってやったことが、すべて裏目にでたのである。
母の過去を根掘り葉掘り聞いた。
母から何度も「死にたい」といわれた。
お母さんが死んだらわたしも死ぬとその度に返答した。
命の鎖はもろくも切れた。それでも6年間、こうしてわたしは生きている。
本ばかり読んで生きている。酒ばかりのんでいる。
「どうしようもないわたしが歩いてゐる」は、母を自殺で亡くした山頭火の句である。
こちらはさしずめ「どうしようもないわたしが読んでゐる」になるのか。
先日、異常に血圧が高いことを偶然から発見した。
このままの血圧だと、あと5年以内に死ぬ確率のパーセンテージを知った。
酒のせいだと思う。酒をやめるつもりはない。あと5年かと思った。
あと5年で死ぬかもしれない。
「鍋の中」を読んだのは、そんな折である。
この精神状態で読むのにふさわしい本だと思った。
名作は、ひとにいろいろなことを考えさせる。
「鍋の中」は4人の孫が夏休みに祖母の家で共同生活をする物語である。
子どものころ読んだ漫画のことをまず思い返した。
それから自分の家族のこと。自分のこと。余命のこと。上記のことである。
怒りが込み上げてきた。なんなんだ。こんなものかよわたしの人生は!
それに何が「鍋の中」だ。何が芥川賞受賞だ。
何も肝腎なことが書かれていないじゃないか。
だらだらとした「生」を選択する「鍋の中」の若者たち。それを甘く容認する作者。
……完全な八つ当たりである。作者の村田喜代子はわたしではない。
文学者は自分の問題を書くしかないのである。
その意味において、村田喜代子はただしく自身と向き合い、この名作を書き上げた。
さて、わたしはどうなるのか。
「名文を書かない文章講座」(村田喜代子/葦書房)

→買ったのはマイナー出版社のこの本が古本屋ワゴンで100円だったから。
定価2100円が100円か。なら買ってみようか。そんな感じ。
いつからこんな本の買いかたをするようになったのだろう。
むかしは作者の名前やタイトルで買う本を決めていた。
(なかには本のカバーで買うひともいるらしいが)
ともかくこれがふつうである。
それに対して、安いから買うというこの動機。
これは作者(タイトル)や出版社(デザイン)とはなんの関係もない。
我ながらひどい読者になってしまったものだとあきれる。

すれた読者らしく意地悪なことを書く。
この本のタイトルは「名文を書かない文章講座」。
どういうことか。従来の文章作法とは異なるやりかたをしようというのである。
これでもかという名文をどこかしらから持ってきて、あがめるのはやめる。
著者はこれを手を汚さない方法だと批判する。
自分は読者とおなじように畑の中で泥まみれになると冒頭に宣言する。
他人の農産物ではなく、自らの収穫物で勝負しようというわけである。
つまり自分の書いたエッセイ、小説を例示して文章作法を論じる。
いいと思う。意気込みも悪くない。

しかし、なのだ。
そんな著者の荒い鼻息はわたしのもとには届かなかった。
なぜか。著者の紹介する文章のどこが良いのかわからないからである。
本人は自分の書いた文章を優れている、
いや、少なくとも人前にだせるものだと思っている。
わたしはどうしてもそうは思えない。
著者がすばらしいと他から引用してくる文章も同様なのだ。
芥川賞、女流文学賞、平林たい子賞、紫式部文学賞、芸術選奨文部大臣賞。
村田喜代子の華々しい経歴である。うなだれるしかないのか。

人間観がちがうのだと思う。
著者は、心の視座が文章を決定するとしきりにいう。
心の視座を広げれば、いい文章が書けるようになる。
根本にあるのは、成長の思想である。
人間は成長するものである。ゆえに文章も成長する。
これぞおとなの思考法というしかない。
おとなとは、こどもが「成長」してなったものなのだ。
だからこそ、おとなはこどもに自分のように成長しなさいという。
こどものわたしはセンセイのまえで萎縮する。小声でつぶやく。
「人間って成長するものかな。おとなぶっているセンセイだって実は……」
本を買うのってストレス発散になるんですかね。
昨日は「池袋西武 春の古本まつり」へ。
閉店間際に11冊も買い込んでしまいました。
読むのかほんと? じぶんでも思います。
昨日の恥ずかしい報告は後日。今日はずっとまえのお買い物日記を。

神保町古本屋ワゴン。

「オスカー・ワイルド全集 第三巻 悲劇」(出帆社)
→ワイルドの戯曲は「サロメ」を読んだことがあるだけ。
聖書(?)の知識がなかったせいか意味不明だった。
だけど、まあ、いくら全集の端本とはいえ200円は投売りでは。
出版は30年前。(物価の安い)当時の定価で2500円なのに……。
もうほんとうに本が売れない時代になっているのかもしれません。
この本はどうせだれかに拾われるのならじぶんがと。
戯曲の情報というのは、驚くくらい得にくい。
だれも読まないもの、それが戯曲。わたしの姿勢は安かったらとりあえず買っておく。
のちに演劇書を紐解く過程で、おもしろそうな戯曲を見つける。
その戯曲がないかと本棚をごそごそ。うしし、買ってあったかというパターン。
それにしても、どうしてこうも戯曲は読まれないのでしょう。
おっと、わたしも最近はぜんぜん読んでいないじゃないか。

「科学技術史」(道家達将/放送大学教育振興会)絶版
→わたしの大好きな放送大学テキスト。定価3600円が200円だもん。つい手が。
これは買ってから何度もぱらぱら見ている。
科学の歴史。まったく未知なる分野。どんなことが書かれているんだろう。
いつかこの本をじっくり読みたい。世界史ってものが、はっきり見えてきそうな。

以下は新刊書店。

「歎異抄」(金子大栄/岩波文庫)
「親鸞の告白」(梅原猛/小学館文庫)


「にちぶんMOOK 荷風7号 神田神保町、御茶ノ水の究極」
→定価880円。これを高いと感じるようになったじぶんに驚いた。
発見時は購入せず帰宅。翌日から気になって仕方がない。やむなく買う。
神保町特集のムック。ムックって、たしかブックとマガジンをかけあわせた造語?
違っていたらご指摘ください。
あ、もう読んでいます。明日あたり感想を書きます。
神保町界隈の書店では売れまくっているみたい。それも納得の内容です。

今日はウォーミングアップです。明日、たくさん書き込む予定。
うっかり消えないように細心の注意を払いながら。
ではまた明日、お会いしましょう。おやすみなさい。
テレビ芸術劇場の感想を書き終わった。
送信したらば「セッション保存時間が切れました」の表示。
もう一回、IDとパスワードを入れろとのこと。
入れたら案の定、ぜんぶ消えていました。
これは深夜だからなのでしょうか?
もう一度、あれを書く元気はありません。流産ということに。
テレビの感想まで書くのはやめろということなのかもしれません。

これをふせぐにはどうしたらいいのでしょうか。
今までこんなことはありませんでした。
いちいちコピーしてから送信するしかないのか。
おっと、これすらも消えるかもしれない。コピーしてから送信します。

*これを書き込んだ後、検索しまくりました。
「セッション保存時間が切れました」→「データ消失」は経験者も多いみたい。
いたく慰められました。
かつて今回よりも、もっとすごい長文を書いたこともある。
そのときではなくてよかったと思い、あきらめます。
対策としては、どこか他のところにまず書く。
それか、送信するまえに全文をコピーする。
このふたつしかないようです。
この弱点があるブログはFC2だけだとか。あーあ。
うちは長文が多いから対策を講じないと……。
ようやく1行の文字数が身体になじんできたところなのに。
全文コピーは忘れそう。とすると――。
ぜったいあと1回はこの失敗をやると思う。泣くと思う。やだな。ぞっとする。
山田太一はライターになったとき決心したという。
これだけは書くまいと。
なにがうまい、かにがまずい、というグルメ批評だけは生涯やらない。
食糧難の戦中、戦後に育った作家の生きかたです。

「本の山」でもこれだけはやるまいと思っていることがいくつかある。
そのひとつが、世事へのコメント。
ホリエモンがどうの、「もてる呪文」がどうの……これだけはやりたくない。
高みから、わかったようなことを言いたくない。
だれにでもできる簡単なことだからあえてやらない。
じぶんがさも何ものかになったような快感がある、だからやらない。
書きたいことがなかったらブログの更新などしないでいいと思う。
書きたいことのないやつは書くな。
だけど、習慣になっていると、ついつまらぬことを書いてしまう。
よろしくない。この文章もそうだ。反省する。
福田恆存(つねあり)をカテゴリー(分類)に加えました。
これも断念の一環です。
かつては淡い期待がありました。
「演劇」や「評論」に入れておいたら知らぬひとも読んでくれるかという。
単体で福田恆存。だれも知らない。だれも読まない。こうなるのを恐れたのです。

だけど、あはは。
ブログ研究の結果、わかったことが。
「本の山」の売りは戯曲および演劇論なのに、関係者はまったくいらっしゃらない。
芝居のファンも同様。演劇関係の記事へのコメントは一切ありません。
どういうことか。日本演劇の現状がわかるということです。
役者も演出家も演劇には興味がない。じぶんが遊ぶことにしか関心がない。
目立ちたい、それだけ。
こんな演劇界に観客はどう接するのかといったら、まったく批判しない。迎合するだけ。
見たいのは演劇ではない。戯曲なんてどうでもいい。
ひいきの役者が動いて話していたら、それでもう大満足。
こういった演劇をいちばん嫌ったのが劇作家、評論家、小説家の福田恆存であります。

福田恆存の「人間・この劇的なるもの」。
わたしがもっとも影響を受けた評論です。
文体もパクリました。意識的に無意識的に、です。
山田太一も青年時代に福田恆存を愛読していたのを知り、
その偶然に驚いたことがあります。
三島由紀夫が、かつてこう言いました。
時間がないひとが三島文学の本質を知りたいと思ったら「憂国」を読めと。
真似をします。
「本の山」は以下↓の記事が、その根本としてあります。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-80.html
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-385.html
(ふたつとも「人間・この劇的なるもの」の感想です。
どうしてかリンクになりません。パソコン技術がつたなくて申し訳ありません)

これをお読みいただければ、このブログがわかるかと思いまして……。
ええ、そうです。わかっているのです。
膨大な過去の記事なんてだれも読みたくない。その替わりにと。
ですが、けっしてこれを読めと強制しているわけではありません。
そして三島に比した生意気は伏してお詫びいたします。
「ババ歩き」をしました。
あ、これは早稲田から高田馬場まで歩くこと。
早大生が使うことばです。いまはどうだかわかりません。
このコースは1月に1度、かならず歩きます。
なにせブックオフが3店ある。
それにパソコンが入っていないむかしながらの古書店がたくさん。
どの古書店も適当にやっています。そのいいかげんさがたまらない――。
神保町とどっちが好きかと聞かれたらもちろん早稲田・高田馬場。
お高くとまった聖地もいいが、庶民はやっぱり実物重視。
どれだけいい本が安く買えるか。これしかありません。

まず早稲田ブックオフにて。
「チベット密教の本」(学研)
「インドにて」(仲能健児/幻冬舎文庫)

どちらも105円。
今回、驚いたことが。この「インドにて」はインド紀行漫画。
出版は2003年11月。それなのに紀伊国屋、ジュンク堂ともにもう品切状態。
いくらその方面では悪名高い幻冬舎でもこれはひどすぎる。
新刊は発見したその場で買わないと入手が困難になる、
もうそんな時代になったのかもしれません。

古本屋のワゴンをちらちら冷やかす。天気がいいので気分もよろしい。
もちろん店内にも入る。だってここは早稲田。
神保町のような狂った価格をつけているところは少ない(あることにはありますが)。
「北欧の神話」(山室静/筑摩書房)絶版 50円
(いま確認したら文庫になっていない、ラッキー)
「百人一酒」(俵万智/文藝春秋) 100円
(この酒エッセイはずっと読みたかった。定価1600円。ついにきれいなのを百円ゲット)
「心がやすらぐ仏教の教え」(ひろさちや/PHP文庫)絶版 20円
「ポネット」(ジャック・ドワイヨン/青林霞訳/角川文庫) 20円

ここは危険な古書店です。足を踏み入れたら最後。新刊で買えなくなります。
めいわくをかけたくないので店名は……。「ババ歩き」のはじめにあります。

さらにワゴンを冷やかす。気分は宝探し。冒険家なのです。
「狂人なおもて往生をとぐ」(清水邦夫/中央公論社)美品 絶版
「手で書き写したい名文」(中村明/角川書店)

どちらも100円。上のは絶版戯曲。
下のは2002年12月発行。紀伊国屋では品切っぽい雰囲気が。
いまは出版界(ひいては作家も)、たいへんそうですねこれでは。
出版はするが、それだけ。売り切ったら再販しないで、また新しいのを出版。
こんな環境で名著はでるものでしょうか。
ベストセラーねらい。売れなかったら即絶版。新商品でリトライ。
これがいいのかわるいのか、わたしにはわかりません。

ようやく高田馬場のビックボックスへ。もう日が暮れている。
ビックボックスは複合娯楽施設。早大生の待合せといったらここ。
月に1回、「古書感謝市」をやっています。
毎月行くようにしているのは、どうしてか掘出物が多いから。
「神のアルバム」(森本哲郎/文藝春秋)絶版 400円
(うわっ、調べたら文庫になっていない。うれしい。紀行文)
「近代劇十二講」(楠山正雄/新潮社)函(はこ)なし 300円
(大好きなストリンドベリ&メーテルリンクのことが書かれていたので、
そこだけ読みたくて……。分厚いので置き場所に困るこの本は大正14年刊行)
「ショウ一幕物集」(バナード・ショウ/市川又彦訳/新潮社)函なし 600円
(大正13年刊行。驚くべきは第7版ということ! この時代は戯曲が売れていたのか?
巻末の広告でストリンドベリの未読戯曲「ソクラテス」の存在を知る。
いつか入手したい。古書はこういうつながりをもたらす点でも重宝します)
3冊ともA川書店から。この古本屋、店頭ではキチガイのように高い。
それなのに古書市ではなぜか毎回、安価で大放出する。いつもお世話になっています。
お礼をこめて一度本店で高い古書を買ったこともある(苦笑)。
意外と古本愛好家って、そういう意味で、律儀なものではないでしょうか。

最後はブックオフ高田馬場店。
やはりビックボックスで古書市をやっているときは棚がすかすか。
アリバイ作りのように文庫を1冊買い帰宅。この日は、いい買い物ができました。
「いちばんわかりやすい禅入門」(ひろさちや/知的生き方文庫) 105円
このお買物日記をちょっとサボっていました。
なんだか積ん読してばかりで恥ずかしいような気がして。
それに安いものしか買わないからバカにされそうで。

神保町は近いので週に1回はかならず行きます。ときには2回。
それだけの価値はある街だと思います。本好きには、です。
この「本の山」は神保町のたすけがなければ築くことはできなかったかと。
本の聖地・神保町については、いつかまとめて書きたいです。
それだけ愛着がある街なのです。
ところで神保町の古本なんて高くて買えないと思っておられるのでは?
たしかしそうです。高いものは高い。
店主に危害を加えたくなるような価格がついている古本もざら。
しかし、なのです。探せば安い本もごろごろあるのがこの古書店街。

ええ、ワゴンです。

古本屋のまえにかならずといっていいほどある客引きのワゴン。
あれがねらい目なのです。というのも、専門外の古書を投売りするから。
掘出物もわんさか。なにしろ古書の街。
もしかしたらとんでもないものまで眠っているかも(笑)。
神保町に古書店は数知れずありますからワゴンを覗くだけでも時間をつぶせます。
それが実に楽しいのです。
百円本はブックオフがはじめたわけではありません。
長年にわたる古書業界の伝統なのです。
というわけで――。


「国文学入門」(堤精二・島内裕子/放送大学教育振興会)絶版
「イスラーム世界の歴史」(後藤明/放送大学教育振興会)絶版
「生活文化史」(平井聖/放送大学教育振興会)絶版


→すべて100円。計300円なり。
放送大学のテキストは大好きです。
バカへ向けて書いてあるからです。
だれでも入れる放送大学。そのテキストなのだから。
難点も。まず定価が高い。2000円以上も当たり前。
なら古本でと思うでしょう。しかし、これがなかなかでない。
でたとしてもあたまの悪そうな書き込みがびっしり(苦笑)。
きれいなのが3冊、すべて100円で買えた喜びをお察しいただけるかと。
まったく神保町はどえらい町です。本好きの聖地であります。


「般若心経講義」(高神覚昇/角川文庫)

→あ、そうそう。これも買いました。三省堂で。
もちろん定価です。520円+消費税。もう読んで感想も書いています。
よくも、まあ、読了報告をこんなに。
あきれるかたもいるかと思います。続いている理由は簡単。
たのしいんです。
めんどくさい。くるしい。だけど、たのしい。

先日の読了報告では「それぞれの秋」(山田太一)の感想を書いているときが最高でした。
このシナリオにいたく感動する。どうしておもしろいのかと考える。
わからない。だから、書く。書くことで考える。考えながら書く。
うんうん考える。それでもわからない。
とりあえず「どうしてなのか」と疑問を提示する。
書いたものを読み直すと、最初のほうで3回も「どうして」と書いている。
それを書いている時点では、まったく後半部をイメージできていないのです。
読書しながら書きとめたメモを読み返す。
いいなと思ったセリフをもう一度読む。えいやと引用してしまう。
このへんで何かが開けてくる。
ひとつの文章を書く。それを書いたことで次の文章が出てくる。
この繰り返しで勢いがつく。
あとは自分でも半ばわからないことを手が書いている。
書き終わっている。最初から読んでみる。いちおう文章になっていることを確認する。

酒をのむ。寝る。翌日、読み返す。
なるほどと思う。ああ、自分はこんなことを考えていたのかと驚く。
山田ドラマのおもしろさは、こういうことだったのかとようやくわかる。
この瞬間が至上の悦びなのです。
たくさん感想を書いていても、この手の満足はめったに得られない。
だけど、その愉悦が忘れられないから読了報告をやめられないのです。
書き手というのは、最初の読者でもあります。
自分が何を考えているのかは書いてみるまでわからない。
最初の読者になりたいなら書くしかない。そう自分を追い込んでいく。

みなさまも本は読むだけでなく、その感想を書いてみるのもおもしろいと思います。
そのときの秘訣は、わからないところから書き始めることです。
わからない、だから書く。
「本の山」を掘り返していくと、この「わからない」が無数にあります。
今日は空っぽであります♪

昨日のせいかどうかはわかりません。

おやすみなさい。ありがとうございます。
「それぞれの秋」(山田太一/大和書房)絶版

→全15回のテレビドラマシナリオ。昭和48年放送(まだ生まれていません)。
この作品は数々の賞を受賞し、シナリオ作家・山田太一の出世作となった。
それまでの馴れ合いのホームドラマを否定する問題作として、
テレビドラマ史上でも重要な作品。

山田太一はどうしてこうもわたしを刺激するのだろう。ふしぎでしょうがない。
今回も笑って、泣いて、ひとりで大騒ぎ。
山田太一のシナリオはどんなコントよりも笑える。
どんな体験記よりも泣ける。どうしてなのか。
山田太一は「それぞれの秋」で、
どこにでもある中流家庭のありふれた日常を描いたに過ぎない。
中盤、父親が病気になるのもそこまでめずらしいことではない。
それなのに、どうして――。
このドラマで高校生の娘がいう。

「毎日毎日、お母さんの言う通りにしていたら、
私、息がつまって死んじゃいそうだわ。


なんにも楽しいことがないじゃない。

学校行って、クラブやって、帰って来て、学校行って、
卒業すれば、どっかへつとめて、あとはお嫁に行くだけなんて。
煙草でもすわなきゃやりきれないわよ。(……)
私、お母さんの生活見てるとゾッとするの。
お母さんにどんな楽しみがあるの?
毎日毎日同じことをして、ろくろく遊びにも出ないで、内職までして、
それで段々年とって行くんじゃ、まるで死んでるも同じじゃない」(P181)


山田ドラマには重い諦念がある。あきらめである。
生活をするとは、つまらないことだ。毎日は同じことの繰り返し。
人との関係は、たとえ家族相手とはいえ面従腹背を貫かなければうまくいくものではない。
本音を隠して生きていくのが人間だ。
人生にも、人間にも、山田太一は深い断念をもって接している。
その断念の思想は、ドラマにリアリティという重力をかける。
すると反作用としてポンと突き上げてくるものがあるのだ。
それは人間である。「人間・この劇的なるもの」だ。
ドラマ後半で、大学生の息子はいう。

「人に優しいっていうことは、人に甘いって事じゃない。(……)
気が弱くて、人に文句を言えないのは、優しいんじゃなくて甘いんだ。
許せないことは、許しちゃ駄目だ。
なんでも、これが人生だとか、仕様がないだとか、
すぐ諦めて人に譲ってしまうのは、優しさじゃない。甘いだけの話だ」(P233)


どんな凡庸な人間でも、かれが人間であれば劇的な行動に出ることがある。
劇的とは、別の人間になろうとすることだ。
かくありたいと思う自分になろうとすることだ。
その瞬間を山田太一はうまくすくいとる。
だが、かれの劇的たらんという欲望は常に失敗に終わる。
決して英雄的な行動にはならない。
英雄を目指すも、だんじて英雄にはなれない人間。まさに我われではないか。
だから、山田ドラマは笑えるのである。笑っていると、泣きたくなるのである。
「優しい音楽」(瀬尾まいこ/双葉社)

→最近、見えてきました。
みなさまも注意して見ればきっとすぐに見えることと思います。
たとえばテレビ。美人女優がどきっとするようなことをいう。
本人はそんなたいしたことをいったとは思っていないようすで、そのことに二度驚く。
ああ、この女性は若いころからよほどちやほやされてきたんだなと推測する。
テレビに怒る中年サラリーマンが出る。またどきっとする。
卑屈でみみっちくて、そのくせ義憤にかられている姿はなんとも言いがたい。
ああ、ああ、そうなのかと思う。たいへんなんだなと思う。
人間を見る。見えてくるものがある。それはとくにテレビだと出やすいようだ。
かかえたもの、とでもいうべきか。

「優しい音楽」を書いた若手作家の瀬尾まいこは教師をしている。
「ハリガネムシ」の作者、吉村萬壱も教師。
子どもはいないが、いたとしたら吉村萬壱にあずけるのはいやだ。
瀬尾まいこになら安心してまかせることができる。
そういう小説です。読みながらため息を何度もついた。
こういうことを書けるひとはいいな。あこがれているわけではありません。
このような小説を書き続けながら、教師もして、ほどほどに生きていく。
テレビを見てどきっとしたあとに、きまってつくため息。
この小説を読み終わり、あのため息をふかぶかとついた。

こわい。人間を見る。見えてくるものがあるといった。
しかし絶対に見ることのできないものがある。
じぶんである。鏡を何度見返してもじぶんのそれは見えてこない。おそろしいことです。
「野ブタ。をプロデュース」(白岩玄/河出書房新社)

→古本屋ワゴン105円本。
たとえば金持ちがホームレスに説教していたとする。
おまえは努力しないからそうなんだ。
人間、がんばればなんでもできる。死ぬ気でやったらなんだって成功する。
このシーンに出くわしたら、みなさまはどのように思われますか。
金持ちの意見をもっともだと思うか。
ホームレスに同情して、えらそうな金持ちに不快感を感じるか。

むかし「愛の貧乏脱出大作戦」というテレビ番組がありました。
だめな料理人が名料理人のもとへ弟子入り。
修行後に店を新装オープンして貧乏脱出をはかるという。
「野ブタ。をプロデュース」はこの番組の小説版かと。
この小説にはテレビ番組にはなかった後日譚がつく。
貧乏人が成り上がったのとは対照的に、
名料理人の繁盛店が経営に失敗して閑古鳥が鳴く。
あのテレビ番組と同様、あさはかな大衆の関心を刺激するだけの
幼稚な小説だと思う。
「ハリガネムシ」(吉村萬壱/文藝春秋)

→ブックオフ105円本。3年前の芥川賞受賞作品。
買ったけど読むのがいやでいやで……。
大好きな宮本輝が酷評。
「読んでいて汚らしくて、不快感に包まれた」。
大嫌いな山田詠美が絶賛。
「笑い、怒り、おぞましさ……これほど感情を翻弄された小説は久しぶりです」。

これは芥川賞受賞作品の最高傑作ではないでしょうか。
2時間、笑いがとまらなかった。
高校で倫理の教師をしている主人公と中卒の風俗嬢とのてんやわんや。
このおもしろさは現代性に起因するように思う。
この小説は現代からしか出てこない。
20年前に生きていた人間にはけっして書けない小説。10年前でも無理。
2003年が書かせた小説である。
こんなおもしろい小説が存在するとはまいったな。
悔しいが、読んだ翌日に再読したくなった。
いまぱらぱら読み返す。どのページを開いても感嘆する。
これぞ平成の「忍ぶ川」である。21世紀の「杳子」である。
「居酒屋かもめ唄」(太田和彦/小学館文庫)

→ブログをはじめて残念なのは、こういう本をあまり読めなくなったこと。
ブログの更新はお酒を飲みながらやることが多かったがため(今までは)。
じぶんのブログをもつと、どうしたって他人のブログが気になる。
ほろ酔い気分でおじゃますることになる。時間を取られる。

お酒を飲みながら、酒関係のエッセイを読む。
至福のときである。生きていてよかったとしんそこ思うのはこういうときだ。
優良店情報を得たいわけではない。
著者には失礼な話だが、翌朝になったら内容をおぼえていなくても一向に構わない。
他人がひとをもてなすために書いた文章をお酒とともに味わう。最高です。
知識はいらない。ゲージュツもいらない。愉しみがそこにあればいい。
わたしの知る限り、この手の文章がいちばんうまいのは太田和彦さん。
いまは居酒屋評論の大家になってしまったけれど、むかしから愛読している。

この「居酒屋かもめ唄」も満足は満足なのだが、ただ、ちょっと――。
掲載された媒体(「文芸ポスト」)にあわせたのか、
へんな色目をつかっているのが、そのう。
「文学」や「民俗学」なんかに媚びを売らない太田和彦さんがわたしは好きです。
気持ちよく酔えて、翌朝にはきれいさっぱり忘れられるような文章を書いてください。
こんなお願いをするのは、もしかしたらとっても失礼なことなのかもしれませんが、
そういう文章を書けるのは太田和彦さんだけなのです。
「頭痛はこわい」(間中信也/KAWADE夢新書)

→ええ、はい、頭痛もちです。
長いことなかったのですが、年明け早々頭痛が。実に八ヶ月ぶりです。
それで、つぎに頭痛になるまでとずっと積ん読していたこの新書を手に取ったしだい。
むかしは頭痛を放置していた。この痛みは宿命だ、試練だ、耐えるしかないと。
それが昨年、すすめられて市販薬を。けっこう効くので驚いた。
まさか痛みが消えるとは。
その後、医者にいうともっと強い痛み止めをだしてくれる。
これはほんとよく効く。
痛みに耐えていたむかしはいったいなんだったのかと思うほど。
おっと、他人の健康なんてどうでもいいですね。
病院の老人によくいます。じぶんの病歴をえんえんと自慢する御仁。
ああなっちゃいけません。はやばやと失礼します。
「森田療法」(岩井寛/講談社現代新書)

→森田療法を一行で説明せよと言われたらこうなる。
「石橋を渡ろう!」
石橋をたたいてばかりで、渡らないのが神経症患者。
「あるがまま」を念仏のように唱えながらでも、なんとか向こう岸に到達しましょう。
石橋を渡りましょう。これが森田療法の教えです。

このたび音恐怖症(?)になって、神経症患者のしんどさをリアルに実感した。
たかが音じゃないかとあたまではわかっているのです。
そのくせ、いつ音が来るかと常に緊張している。
音がいざ来ると、びくっとして、そのあと何も手につかなくなってしまう。
音が気になって、気になって、しかたがない。
移動販売車の流すメロディがいつまでもあたまから離れない。
もうこれは病気でしょう。
じぶんがおかしいことはわかっているのにどうにもならない。
「あるがまま」と唱えることのみじめさは承知している。
だけど、唱えるしかない。笑いながら「あるがまま」と唱える。

この新書から気になったエピソードを。
中年女性の神経症患者。トゲ恐怖症とでもいうのか。
座るところにトゲが刺さっているのではと気になってしかたがない。
そのため夫と子どもに何もしてやることができない。一日中、トゲの心配ばかり。
わかると言ったら傲慢かもしれない。地獄の生活であったことは想像がつく。
ある日、彼女はじぶんが末期の癌(がん)であることを偶然から知る。
医者も家族も隠していたのだが、ひょんなことから知ってしまう。
その瞬間、二十数年間(!)ものあいだ、彼女を悩ませてきた神経症が治ったという。
トゲが気にならなくなったという。
彼女は言う。はじめてじぶんの愚かさを知った。
これからは余命を家族に感謝しながら生きていきたい。
いままでしてやれなかった家事やなにやらをぜんぶしたい。
神経症のせいで迷惑をかけたぶんを挽回したい。
――人間について考えさせられます。
「森田式精神健康法」(長谷川洋三/知的生きかた文庫)

→ひとを笑っている場合ではありません。わたしは笑われるがわにいるのです。
まえにも書いたとおり音が気になってしかたがない。騒音が憎らしくてたまらない。
拡声器なんて地球上からなくなればいいと本気で思っている。
大音量の音楽を流しながら押し売りに来る移動販売車に殺意をおぼえる。
しかしいちいち外に出て「うるさい、来るな」と言っていたらそれだけで疲れてしまう。
今回、あわれにも森田療法にすがりついたゆえんです。

どうすれば音が気にならなくなるか?

この問いに森田療法はこう答える。
音が気にならなくなるのは無理です。だれだって音がなれば気になります。
だからこそ交通事故が防げるのであり(クラクション)、
朝は決まった時間に起きることができる(目覚まし時計)。
音が気になるのは異常でもなんでもないのです。
まともな聴力のある人間なら当たり前のこと。
問題なのは、騒音を聞くと怒りがこみあげて何もできなくなってしまうことです。
答えが出ました。
騒音が来ても行為をやめなければいいのです。
読書をしていたのなら、そのまま本を読み続ける。
何か書きものをしていたのなら、それを継続する。
食事中でも料理中でも同様。
騒音をあるがままに受容して、なすべきことを実践すればよろしい。
ときには成功し、またべつのときには失敗するかもしれない。
だけど、すべきことは実践です。あるがままを実践しなさい。
森田療法はこう教える。

この答えを得たときには大発見をしたと思った。
ノーベル賞ものの発見ではないかと。
世に騒音に悩まされているひとは無数にいる。
よし、わたしが悩めるものに救いの福音をもたらしてやるう〜、なんて(苦笑)。
でも、まあ、そう甘くはないわけです。
この発見をしたあとも、やはり騒音には不快感を感じる。
1時間続いたときには、うるさいと言いに行ってしまった。
あるがまま、あるがまま、と思ってはいるのですが……。
これからも実践あるのみで、がんばっていくほかありません。

著者の長谷川洋三は自助グループ「生活の発見会」の名誉会長。
この「生活の発見会」がなんとも見苦しい。
困っている患者に日記を提出させ、それをえらい会員が添削して返送するのだとか。
こうすることで生活のゆがみをただし、人間を成長させるという。
その引用がこの本にあるのだが、もう失笑というかなんというのか。
気持ち悪いことこの上ないのです。
その日記を読んでいて気づいたこと。
神経症を病んでいるときの日記はおもしろくてたまらない。
治ってしまうとほんとうにつまらないものになる。
凡庸で、ありきたりで、安っぽい人生観の吐露になる。
かれは森田療法で神経症が治ったと感動し、
この会で治療者のがわにまわることもあるでしょう。
こうしてつまらない人間が大量生産されていくと思うとやりきれない。
しかし患者としては治ればなんでもいいのだから、そう考えると――。
「森田療法入門」(長谷川和夫/サンマーク文庫)

→たまらなく恥ずかしい。いまパソコンのまえので身もだえしている。
森田療法ですぞ。それも安易な入門書を。あ゛〜あ゛〜あ゛〜(うめきである)。
こころが弱いひとって傍目から見ると笑えませんか。
笑ってください。わたしもじぶんを笑っていますから。自嘲であります。

森田療法とは、大正時代に精神科医の森田正馬(まさたけ)が創始した神経症の治療法。
日本独自の画期的な治療理論で、
それまでは治癒不可能とされてきた神経症患者の多くを立ち直らせた。
そもそも神経症とは何か。英語でいうならノイローゼ。
たとえば――。
何度も手を洗わないと気が済まず、家事がおろそかになる。
カギをかけたかが気になって何度も確認するため、時間通りに目的地に行けない。
じぶんが悪臭をはなっているような気がして、他人と会うことができない。
分裂病とのちがいは病識があること。
じぶんがおかしいことがわかっているのにどうにもならないのが神経症患者。
笑えます。神経症患者を観察するのは、へたなお笑いなどよりよほど笑える。
しかし家族や本人にしてみたらたまらない。
喜劇などと笑おうものなら殴られる。大まじめの悲劇である。

森田療法のキーワードは「あるがまま」。
西欧のフロイト理論が不安の根絶を目指すのとは対照的に、
森田療法では不安をあるがままに受け入れることを提唱する。
不安を異常とみなし治療を試みるのがフロイト理論。
一方、不安は人間ならだれしも持つものと、不安をそのままにしておくのが森田療法。
たとえば――。
不衛生を忌(い)み、清潔を心がけるのは人間なら皆ある傾向である。
だれだって空き巣に入られたくはない。カギをかけたか気になる気持ちは皆ある。
ニンニク料理を食べた後にじぶんの臭いが気にならないのは、かえって無神経である。
不安は、人間ならだれもが持つものである。だから不安はあるがままにしておく。

「知識がいくらあっても神経質症は治りません。それどころか、他の病気とちがって、
なまじ知識があるとかえって治りにくいという特徴をもっているのです」(P117)

森田療法は実践を重視する。
この実践を、森田療法では「外形をととのえる」「目的本位」「不安常住」などという。
(こういう専門用語が新興宗教みたいで、嫌うひとは徹底的に嫌悪するでしょうね)
なに、むずかしいことではない。要はあるがままを実践せよということである。
たとえば――。
手が汚いんじゃないかという不安を持ちながらも、きちんと家事を行なう。
施錠を忘れたのではないかという不安をあるがままにして、約束の時間を守る。
みずからの体臭を気にしながらも、ひとと会うようにつとめる。
実践を繰り返す。失敗もすれば、成功することもあるでしょう。
この成功体験を重ねることで、自信を蓄積していこうというのである。
したがって森田療法には完全な治癒というものがない。
不安がまったくない人間など、どこにもいないからである。

森田療法には、哀しい笑いがよく似合う。

想像してみてください。
こころの弱い人間が喜劇的な不安に翻弄されながらも歯を食いしばって、
「あるがまま」「目的本位」「不安常住」と一心に念じることで生きている姿を。
もはや笑うしかないではありませんか。それは嘲笑ではない。いたわりの笑いです。
「般若心経講義」(高神覚昇/角川文庫)

→まえに読んだ学者さんの本に教えられて読んだ本。
「般若心経」概説書の古典ともいうべき有名なものらしい。
ならせっかくだからと物見遊山キブンで読了する。
著者いわく、「般若心経」は「因縁」に尽きる。
この因縁ということがわかれば、「般若心経」の世界を生きることになるのだとか。

因縁――。
現在、まわりに見えているものはすべて「果」である。
「果」には「因」がなければならない。これが「因果」思想である。
ここで著者が強調するのが「縁」。「縁」を忘れてはならないという。
「因」が「果」になるとき、それはかならず「縁」によっているのである。
「因」と「縁」が「和合」(わごう)してはじめて「果」になる。
この理(ことわり)を別の表現でいうと「万物流転」「相対依存」となる。
人間が生まれてくるのは父と母が「縁」よって会ったがため。
その人間が死ぬのは、たまさかの僥倖(ぎょうこう)によって
成立していた「縁」が消えたがため。かように万物は流転する。
「因」と「縁」の関係は人知のあずかりしれぬ複雑なものである。
風が吹くと桶屋が儲かる。すべての関係は「因縁」による相対依存である。
「般若心経」とは仏教の精髄を説いたお経。
とすると、仏教の真諦は「因縁」。すなわち「万物流転」「相対依存」とこうなる。
高神覚昇さん(それにしてもすごい名前)は以上のごとく悟っちゃったわけです。

最近、持病の喘息(ぜんそく)が軽くなった。
思い当たるのは、この「般若心経」しかない。
毎日、「般若心経」を読誦するようになったこと。
快適に街を歩く。鼻歌をうたいたくなる。
「あきらっめよ〜、あきらっめよ〜、すべてをあきらっめよ〜♪」
作詞作曲ともにわたしです(笑)。
このごろやけに「あきらめる」という動詞が脳裏に浮かぶ。
「相対依存」なら、これも何か関係しているのでしょうか。
凡夫のわたしにはわからないことばかりです。
「『般若心経』を読む」(水上勉/PHP文庫)

→文士はどのように「般若心経」を読むのか。
水上勉は一休和尚と正眼国師の「般若心経」解釈を参考に自らの思いを綴(つづ)る。
職業作家の手による入門書だから、わかりやすいかと思っていたら予想は大外れ。
書き手がぶらぶら揺れているから、読むほうとしても落ち着かない。
「般若心経」へのスタンスが定まっていないように見受けられる。
なんとかこらえながら終盤にたどりつくと、ようやくその理由がわかる。

身震いがした。

文士というものは空恐ろしいというほかない。
ひろさちやは「人生のヒント」を求めて「般若心経」に頼る。
学者は研究対象として「般若心経」を観察する。
水上勉はおのれの苦(生存)を見据えることから「般若心経」にいどみかかる。
有名なお経だからといって「ありがたや、ありがたや」とひれ伏すことがない。
それどころか、――いや、即断は避ける。
水上勉の次女は下半身麻痺の障害をもって生まれた。
生まれたときから、一生歩けないことが宿命づけられていた。
誕生直後、背中を切開する大手術を受けなければならなかった娘を思い、
水上勉は以下のごとく述べる。

「わが娘は、その(=手術の)痛苦耐えて生きた。
そして、その障害苦こそ、彼女の生誕直後の人生であった。この世への出発だった。
そのことを考えると、心経のこの高所から割りきって、人生そのものを空無なもの、
もともとなきものと断じる分別には、救われようもない思いを感じないではおれない。
お前は、なんにもわかっていないな、といわれても、そう思うのだからしかたない。
悟っても、悟らないでも、痛苦は痛苦である。
切り裂かれれば、血もとび出る、死にたいほど痛いではないか。
それが人生なのだ。それがこの世を生きるということなのだ。
どこに『空』ののどかな、痛みも悩みもない世界がわがまわりにのぞいていようか。
あるなら見せてくれ」(P156)

人間は不平等だ。憲法や菩薩がいうように人間が平等なものか。
生まれたときから人間は差別をされる。どこに生まれるかで人生が左右する。
物語が生まれるゆえんである。
そんな明白な事実を菩薩はわかっておられないのかと、この物語作家は憤慨する。

「私にとって、般若心経は『乃至無老死、亦無老死尽、無苦集滅道』
にいたってまこと冷たいお経だなという気がしてくる。
さよう、色身の心底からいえば、心経の何と冷静であることよ。
クールであることよ」(P165)

おそらくどの「般若心経」入門書もこうすればわかると教えるものでしょう。
しかし水上勉はわからないという。「般若心経」がわからない。わかってたまるものか。
文士の生きかたである。
「般若心経」(金岡秀友/講談社文庫)

→ひろさちやさんの本だけで終わってしまうのは「般若心経」に失礼だから……。
と書くのは、ひろさちやさんにものすごく失礼なのだけど(笑)、
ちょっとは学問的に「般若心経」をみてみようと手に取ったのがこれ。
うーん、こういうのは苦手だな。
宗教というのは、一般社会とは異なるものさしだと思う。
金持ちがいて、貧乏人がいるのが社会。
東大卒がいて、中卒がいるのが社会。
だけど、いざ宗教の枠内に入ればそのような格差は無意味になる。
それが宗教ではないかと思うのだけれども。

この本でこの学者さんが書いているのは、これだけじぶんがわかったということ。
文章中、一貫しているのは、卑屈なのか謙虚なのか、
先人にはまだまだ及ばぬとの低姿勢。
学者一般にみられるこの態度が、なんだかなと思う。
それは「般若心経」の理解度が採点可能だとする思想。
学生にレポートをださせる。「優」「良」「可」「不可」と点数をつける。
それとおなじように「般若心経」を読むひとの優劣、上下を比較できると考えている。
それでは一般社会となんら変わりがないと思ってしまう。
「部長に昇進した」と「般若心経がここまでわかった」のどこがちがうのか。
ひと言でいえば、しゃらくさいのである。
わかった、わかんないをいうのなら、60年前、
広島長崎で被爆したひとがいちばんわかっているのです。
「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」
かれらがどんなものをみたのか、わたしには想像もつきません。
「悩みがみるみる解決する『般若心経』実践法」(ひろさちや/小学館文庫)

→それにしても恥ずかしいタイトルです。あさましいというのか(深いため息)。
いえね、いいんですよ。苦悩を取り除きたい。これが古来から宗教の根本ですから。

「般若心経」。
なんのことだかさっぱり。いままでまったく縁がなかった。
みなさまもそうでは? 簡単に最低限の情報を。
「般若心経」は大乗仏教の代表経典。
数あるお経のなかでもっともポピュラー。
理由は、短いから、わかりやすいから。
大型書店の「般若心経」コーナーへ行ってびっくり。あんなに関連本があるとは。
内容は、すべては「空」(くう)であることを体得すれば、一切の苦悩が消え去る。
これこそが悟りの境地である、というもの。

ひろさちやさんは「空」を説明するのにこの説明を好む。
ここにビールジョッキがある。オシッコを入れる。
後にこのジョッキをきれいに洗い、今度はここにビールを入れる。
あなたはこれを飲めますか?
飲めないでしょう。しかしまえに尿がはいっていたことを知らない新参者なら平気で飲む。
丁寧に洗浄してあるのだから衛生的にはなんら問題はない。
ひろさちやさんは、このたとえから「空」を説明する。
かといって、まえにオシッコが入っていたのを知りながら、
このジョッキでビールを飲めるようになることが「空」の実践だというわけではない。
この場合、ビールを飲めるひとと飲めないひととの相違に注目して「空」を説明する。
飲めるひとはジョッキをきれいだと思っているから飲める。
飲めないひとは反対にジョッキをきたないと思うから飲めない。
しかし、どちらも偏った見方だというのだ。
本来、ビールジョッキにきれいもきたないもない(これが「般若心経」でいう「不垢不浄」)。
そのジョッキをきれいと思うのも、きたないと思うのも人間の心である。
そのこだわりを捨てることが「空」の実践だという。
「空」とはつまりレッテルをはらないこと。

うーむとうなるしかない。
難解な仏教思想をここまで身近なたとえで説明するとは。実にわかりやすい。
仏典をみごとビジネス書、自己啓発本の類にまで引きずりおろしている。
これは是か非か。
この「空」の考え方でいくと、たとえばわたしが悩んでいる騒音問題はこうなる。
音自体は「空」である。うるさい音も、心地よい音も本来はない。
聞くものが判断するだけである。
だから音に騒音というレッテルをはるのをやめ、自然体で構えていればいい。
わかる、わかります、あたまでは。
しかし、うるさいものはうるさいという声も心の奥底から……。
わたしにできること。とりあえず毎日数回、この「般若心経」を読誦しています。
いつか「空」を理解できる日、騒音が気にならなくなる日が来るのか――。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空♪」

ひろさちやさんは大乗仏教と小乗仏教についてこう書いていた。
小乗仏教は釈迦が大学で教えたもの。
大乗仏教は釈迦がカルチャースクールで話したこと。
大学での講義録しか後世に残らなかったけれども、
釈迦の教えは学内でしか通用しないようなそんな狭いものではない。
あるいはこうも。
入院患者を対象にしたのが小乗仏教。
通院患者をも治療しようとしたのが大乗仏教。
だから大乗仏教は小乗の教えよりすぐれていると。
うーん、そう言われたらそうなんですけれども、まだどこかにわだかまりが……。
「般若心経二六二文字の宇宙」(ひろさちや/小学館文庫)

→突然、音が気になりはじめた。巡回販売の音楽、廃品回収の拡声器――。
以前からたしかに音に神経質なところはあったが、ここまでではなかった。
まさか焼き芋売りの拡声器までうるさいと感じるようになるとは。
医者にふざけ半分に音が気にならなくなる薬はないかと聞いた。
もちろん「ない」と笑われた。
気になってしょうがないのである。毎日が苦痛の連続になった。
ネットで調べてみる。なんと多くのひとが騒音で悩んでいることか。
わたしのようなケース。それから集合住宅での騒音トラブル。
わかるわかると何度も首肯した。
わたしなんかよりよほどたいへんな状況もいくつか。
引越しに追い込んだり、追い込まれたり。

騒音対策としてはふたつしかない。外部を変えるか、内部を変えるかである。
つまり原因の音を排除するか、音が気にならないような性格になるか。
たいがいは前者の対策をする。音をなくそうとする。
恥ずかしながらわたしも某巡回販売業者の本社に怒鳴り込んだりもした。
たかが音くらいで心が狭いとじぶんでもわかっていた。
だけど、どうにもならないのである。
そこの発する音を聞くだけで一日、何も手につかなくなる。
そんなことをしているうちに、今までは気にならなかった音まで不快に感じるように。
これはやばいとじぶんでも思った。外部を変えることには限界がある。
かといって、どうやって内部を変えるか。
音を気にしないよう努力すればするほど、逆に音が気になってくるという泥沼の悪循環。
調べた限りでは、音が気にならなくなる方法を教えてくれる本はない。
わたしだけではなく、かなり多くの人間が日常的に騒音に悩まされているのにである。

困った、困ったと思いながらブックオフへ。
思う。人間っておかしな生き物だと。
あれだけ騒音、騒音と目くじらを立てていたのに、
ブックオフ店内では平気で立ち読みをしている。
けっこうな音量の有線放送と
店員の絶叫に近い「やまびこ」(いらっしゃいませ、こんにちは)に囲まれながら。
一冊の本をぱらぱら読んでいた。この本です。
いたと思った。ここにいたのか。
ひろさちやさんも騒音で悩んだことがあったという。食い入るようにそのページを読んだ。

「(大音響の)移動販売車が去ったあとも一時間くらいは『どうしてくれよう』
など馬鹿な考えを続け、無駄な時間を費やしていた」

大笑いした。この「どうしてくれよう」という気持ちが痛いほどわかる。
じぶんの利益のためだけに