2005/12/20(火) 17:13:58

「おくのほそ道」(芭蕉/岩波文庫)*再読

→1時間強で音読する。なんとも気分がよい。
旅について思う。
ほんとうの旅が始まるのは、その旅が終わってからではないか。
だれしも旅の途中は無我夢中である。
じぶんが旅の全体図の中でどこらへんにいるか見当もつかない。
終わってはじめて全体ができる。
あそこが旅のはじまりだったのだとわかるようになる。
旅のクライマックスもわかるだろう。
人間もそう。生きている人間と人間がそう、うまくいくわけがない。
けれども、旅を振り返りもう会えないのだと思うとき、懐かしさがこみあげる。
過去の人間になっているからである。

旅は人生そのものだという。
しかし人生を終えたとき回顧する己がいるのかはだれも知らない。

2005/12/20(火) 16:44:44

「図解雑学 仏教」(広沢隆之/ナツメ社)*再読

→何度でもいいます。

ナツメ社の図解雑学シリーズはよろしい。

なにより復習がしやすいのがいいのです。
見開き左ページが文章、右ページが絵と図。
このたびは右ページだけぱらぱら読んだ。
これでひと通り仏教知識がおさらいできるのだから便利この上ない。
わからないところだけ本文を読めばいいのだから楽ちん。

思う。やっぱ日本の仏教ってめちゃくちゃ。
日本仏教は、仏教を名乗ってはいけないのではないでしょうか。
そもそも百済からの仏教公伝がおかしい。
護国のために輸入された仏教ってなんですか(笑)。
ブッダは国のことなんて一切論じていないはずなんですけれども。
密教で現世利益とか、笑っちゃう。

インドで生まれた仏教は中国でそうとう痛めつけられて、
瀕死の重体が朝鮮経由で日本に届けられ、最終的にとどめを刺された。
そんなところなのでしょう。
日本仏教を中傷しているわけではありません。
ただブッダが説いたものとは別物ではないかと。
宗教的な機能についてはこれから勉強するのでまだわかりません。
たぶん日本人にはインド産のものより数倍も効くのだと思います。

2005/12/20(火) 16:20:59

「ブッダの人と思想 (上)(下)」(中村元/NHK出版)

→1995年度「NHKこころの時代」のテキスト。
NHKブックスから同名タイトルの本が中村元・田辺祥二共著で出版されている。
調べてみるとテレビ番組で中村元が語った内容を、
田辺祥二がまとめたのがNHKブックス版になるらしい。

哲学嫌いのわたしには「毒矢のたとえ」が印象的(「マッジマ・ニカーヤ」)。
ある人が毒矢に射られて死に瀕している。
この場合、重要なのは毒矢を放った人間の身分ではない。
王族が射た矢か、射たのは庶民か、奴隷の矢か、など考えるのは無用である。
それより一刻も早く毒矢を抜き治療することが重要なのだから。
哲学的な世界認識論を問われても、ブッダは一切答えなかったという。
その理由としてこの「毒矢のたとえ」をあげたゴータマ・ブッダ――。
仏教のスタート地点は「苦」にあることを改めて思い返す。

原始仏教(ブッダ)がいっていることはそう難しくはないのではないか。
人間というのはどういう存在か。
欲望を持ち、そしていつかは死ぬべき存在である。
だから苦が生まれる。欲望がかなえられないのは苦である。
愛する人が死ぬのは苦である。じぶんがいつか死んでしまうのも苦である。
この苦をどうするかが仏教の課題なのだ(仏教ではこれを四苦八苦と細かく分類する)。

無常をブッダは語る。常なるものはない。すべては変わりゆく。
あるように見えるものもたまたまの因縁にすぎない。
因が縁に依って現われているだけである。縁がなくなれば消えうせる。
そもそも人間だって、
両親の出会いというたまさかの因縁で生まれたにすぎないではないか。
縁がなくなればその人間は死ぬ。なんのふしぎがあろうか。
すべては無常である。空である。因縁は空である。
だから煩悩を捨てなさいとブッダはいう。
そのためには実践が第一と、ここで中道、八正道を説く。

別の言い方をする。
人間には苦がつきまとう。苦があるならその苦には原因がある。
原因があるなら苦を滅す方法がある。
方法があるなら涅槃(ねはん=苦を滅した境地)がある。
その苦を滅するための方法が八正道である。
かくして八つの正しい行ないをブッダは推奨する。
難しいのはブッダの教えではない。教えを実践することが難しいのである。

先日、ある自己啓発本を熟読した(恥ずかしい)。
その方面では古典の「道は開ける」「人を動かす」です。
今回、気づいたことがある。
テキストに引用されている原始仏典と、その自己啓発本の内容がそっくり!
これはいったいどういうことなのでしょう。

2005/12/20(火) 15:11:20

「インド」(上野照夫/保育社カラーブックス26)絶版

→昭和38年発行。著者は昭和33年の「インド仏跡調査隊」に加わった。
そのときの写真とルポ。海外に行っただけで本が出せる時代があったんです。

上野照夫はインド美術が専門の学者さん。
彫刻の見方がたいへん勉強になった。
わたしもインド旅行中、何度も博物館に足を運んだ。
おかしなものだと思いながら。
日本では博物館、美術館の類はここ10年行っていないというのに。
だから彫刻・絵画の見方がわからないのも当然。
インドの妖しげな美術品のまえで当惑するだけだった。
あるいはアリバイ作りのように熟視するか。
今回、プロはこう見るものなのかと感服した。引用。

「男性中心の仏教世界に対して、ヒンドゥー教の世界は女性的な色気が多い。
その上さらに、男女間の愛欲が渦を巻いている。
仏教窟院が本来、禅定の場であるとするならば、
ヒンドゥー教窟院は、人々が歌い踊り、自然の生にひたることによって、
神々とその喜びを共にする場であるといえる」(P145)


そうそう! と手を打ちたくなる。
わたしも感じたことを実にうまく言語化している。

2005/12/20(火) 14:30:37

「ひろさちやが聞く ヒンドゥー教の聖典」(ひろさちや・服部正明/すずき出版)*再読

→ヒンドゥー教。
聞きなれぬ宗教だと思う。わかる範囲で簡潔に説明します。
ヒンドゥー教はインドで発祥した多神教。ネパール、南アジアに広がった。
最大の特徴は、キリスト教、仏教、イスラム教などと異なり特定の開祖がいないこと。
開祖がいないところにどうして神という観念が生じるのか。
たとえば暴風雨。古代の人びとは大自然の暴威を神と名づけるしかなかった。
同時に暴風雨によってもたらされる雨は、農作物の豊穣にも寄与することを知る。
のちにこの神はヒンドゥー教でシヴァ神と呼ばれることになる。
破壊(死)と創造(生殖)をつかさどる神である。

インドでは神が生きている。仏陀やキリストのように死んではいない。
町中いたるところでシヴァ神のポスターが売られている。
アイドルのポスターとともに。
このようなアイドル神が、ヒンドゥー教にはシヴァ神以外にもたくさんいる。
有名なのはこのシヴァ神と双璧をなすヴィシュヌ神。
シヴァが破壊を象徴するのとは対照的に、ヴィシュヌを世界を維持する神である。
両神の妻も崇拝の対象となる。
神々の名前を知ればヒンドゥー教がわかるかといえば、そうではないのが難しいところ。

「ヒンドゥー教とは宗教だけではなく、文化や生活の習慣、社会制度など
あらゆるものが一体となった複合体のことである」(P124)


ヒンドゥー教の家に生まれるとする。
その時点で両親の身分を引き継いで一生を生きていくことを余儀なくされる。
ヴァルナ(四姓)である。このほかにもジャーティ(生まれ)がある。
ジャーティはインドに3000以上ある職業グループのこと。
子は親の職を継がなければならない。結婚も制限される。
幼いときに結婚相手を決められてしまう幼児婚もめずらしいものではない。
この我われには理不尽に見えるシステムをなぜインド人は手放さないのか。
インドで3000年以上の歴史をもつ輪廻思想のためである。
人間は一回死んだからといって終わりではない。幾度も生死を繰り返す。
そのときに肝心なのが業(カルマ)。業とは行ないのこと。
善業を積めば来世で報われる。
悪業を繰り返せば来世でその報いを受けなければならない。
これが輪廻思想である。
恵まれない環境に生まれたらば、これも前世の報いとすぱっとあきらめる。

では、人間にできることは何か。
来世に向けて何をすべきとヒンドゥー教は教えるのか。
ダルマ(天分)、アルタ(実利)、カーマ(性愛)の3つを順守せよという。
ダルマ。天与の身分を逸脱することなかれという教えである。
アルタ。商売に励め。金をもうけよ。それが社会貢献になる。
カーマ。セックスに励め。子孫繁栄こそ人間の務めである。
ダルマ、アルタ、カーマに従うことが来世の幸福を約束する。

ならインドの聖地に行くとごろごろいるサドゥー(修行者)。
あれはなんなのか。アルタ、カーマを果たしているようには見えない。
サドゥーの存在はアーシュラマ(四住期)とも関係しているのだが、
ここでは詳述を避ける。サドゥーの目的だけ説明する。
ヒンドゥー教徒は輪廻転生に思いをめぐらしている。
しかし、と考えるものもいる。どの道、生まれることは苦であると。
輪廻転生の輪から抜け出たいと願うこと。これが解脱である。
サドゥーは輪廻からの解脱を目指し修行する。
梵我一如(ぼんがいちにょ)を悟ることで解脱するといわれている。

ヒンドゥー教。民衆にひたすら我慢を強いる窮屈な宗教である。
それが祭りで爆発する。ヒンドゥー教は祭りに真髄があるのかもしれない。
空腹時の食事や疲労時の睡眠を思い返すとよい。
理不尽なものへの忍耐を続けた精神が一気に開放されるのである。
祭りの際は、カースト(身分)の規定もゆるめられる。
我われ日本人には思いも及ばぬ陶酔感、開放感があるのではなかろうか。

メモ。ひろさちやさんがいいことを言っていた。

「人間は、すべてを神に任せて、できる範囲で努力していく、
そうした生き方を教えるのが宗教だと、わたしは思っています」(P182)