2006/01/07(土) 17:45:01

「ヒンドゥー教の本」(学研)*再読

→ヒンドゥー教の初学者が書店ではじめて手に取るのがこれ(おそらく)。
おすすめではない。
それなりに勉強したあと読み直したのに、それでもわからないところが多々ある。
学者さん(といっても講師レベル)はどういう心持ちでこういうムックに寄稿するのか。
じぶんが苦労して知り得たことを簡単に素人には教えるものか。
そんな意気込みすら感じる悪文の数々をまえにして苦笑するほかなかった。

ヒンドゥー教の全体図はいぜん書いたことがあるから、
今度は一般的なヒンドゥー教徒の生活を紹介します。
宗教を見るには教義と信者の生活、ふたつのライトの当て方がある。
ヒンドゥー教徒。毎日の信仰生活の中心となるのがプージャー(供養祭)。
信仰する神々を祀(まつ)った神像がどの家庭にもある。
日本における仏壇のようなもの(といってよいのか、うーむ)。
ヒンドゥー教徒は毎日、神像のもとに神様が来るものとして供養する(もてなす)。
下世話にいえば、そのかわり家内安全、商売繁盛などなどを
よろしくお願いしますと祈る。つまりギブ・アンド・テイク。
これはヒンドゥー教の前身であるバラモン教からの伝統だという。
人間と神々が祭式を通じてやりとりする。
むずかしいことばで「神人互恵(しんじんごけい)」と呼ばれる宗教形態。
で、いま紹介したのが「神人互恵」の家庭バージョン。いわば日常的信仰。

この家庭的信仰を地域的レベルに広げたのがホーリー(祭り)。
この非日常的なホーリーこそヒンドゥー教最大の見どころ。
我慢に我慢を重ねた個々の精神が(カースト制度!)奔流のごとく解放される。
ヒンドゥー教徒の非日常的な信仰はもうひとつある。それが巡礼。
ホーリーは時間的なもの。1年(あるいは数年)に1回のお祭り。
比して巡礼は空間的なもの。非日常的な空間(寺院、聖地など)まで移動する。

乱暴にまとめれば、ヒンドゥー教徒は日常をプージャーでやり過ごし、
その間にたまった垢(あか)のような鬱積を非日常のホーリー、巡礼で捨てる。
実に健康的な精神生活である。酷暑、貧困、差別に苦しみながらも
明るさを失わないインド国民(の8割を占めるヒンドゥー教徒)の
根源たるにふさわしい宗教だと思う。

2006/01/07(土) 16:41:41

「仏教とインドの神」(ひろさちや編/世界聖典刊行協会)絶版

→このような一般向けのわかりやすいヒンドゥー教の本はめずらしい。
なぜか。インド哲学研究者が書くからである。
インド哲学は世界でも名だたる難解な哲学だという。
そんな学問に興味をもつ研究者は決まって平明を軽蔑するもの。
わかりやすい文章など書いてしまったら一生の恥とでも思っているのではないか。
難解な文章を書くのが高尚な人間の証(あかし)と信じるがためである。
かといってヒンドゥー教とインド哲学は密接な関係にあるから、
ヒンドゥー教だけの専門家というのはいない。
専門外のことを書くのを(正確には間違いを指摘されるのを)恐れるのが学者一般。
かようにして日本ではヒンドゥー教があまり知られていないという現状になる。

この稀有(けう)な概説書から学んだことは多い。
実はヒンドゥー教自体はあまり知られていないのにもかかわらず、
この宗教の神々は我われ日本人にとって身近なものになっている。
帝釈天、大黒天、鬼子母神、仁王、阿修羅、閻魔……すべてヒンドゥーの神々である。
中国を経て日本に輸入されたのは仏教ではなく、
むしろヒンドゥー教が伝わったといってもいいくらいなのである。

どういうことか。
ブッダはヒンドゥー教(正しくは前身のバラモン教)を批判することから、
仏教の開祖になった。当時主流だった祭式主義の宗教を否としたのである。
ブッダの教えは出家信者のためのもので、のちに小乗仏教と揶揄される。
大乗仏教はブッダ入滅後、約500年のときを経て誕生する。
大乗仏教の信仰母体は在家信者である。
特徴はブッダを超人化(神格化)したこと。ここに功徳という観念が生じる。
「信者になればいいことがある」、現世利益の思想である。
(功徳とコインの裏表なのが慈悲。概して大乗仏教側は慈悲を強調するが、
それは功徳に背面から支えられてはじめて成り立つのではないか)。
この大乗仏教がインド亜大陸に広がる過程でヒンドゥーの神々を取り込んだ。
のちに中国を経由して日本へ伝えられたのがこの大乗仏教である。

注意してほしい。
仏教開祖のブッダはヒンドゥー教(バラモン教)を否定した。
そのヒンドゥーの神々を積極的に摂取したのが大乗仏教なのだ。
とすると、我われが浅草帝釈天で賽銭(さいせん)を投げ入れ拝むとき、
信仰しているのはほんとうに仏教なのか。ヒンドゥー教のほうではないか。
この主張がスタート地点として、この概説書の中に位置を占めている。
わかりやすい本になったゆえんではないかと思われる。
難解な本というものは、とかく基点の所在が不明なものである。

2006/01/07(土) 15:09:18

「エリアガイド147 インドの旅」(昭文社)絶版

→総カラーのガイドブックです。
1ページ目から最後まで順に読み進む。
意外だった。おもしろいのだ。
インドの歴史・神話・食物等を旅行者へコンパクトに紹介するコラムがある。
細かい知識はすべて省略して、大本だけを伝えようとするその姿勢は、
けなげなツアーコンダクターを連想させ、思わずいたわりたくなる。
名所の紹介文もおなじく。
名所旧跡というのは、とどのつまり歴史的に重要な場所である。
だからインド史の勉強にもなる。
レストランガイド。本文横にはおいしそうなインド料理の写真がある。
これで知識欲のみならずグルメ欲まで満たされる。
ちなみに、ひとは実際に食べなくても満足するという事実は、
グルメ番組の隆盛が証明している。

この本は至れり尽くせりで大満足。
ガイドブックは読み物として見直されてもいいのかもしれません。

2006/01/07(土) 14:32:56

「インド 旅の雑学ノート 熱闘編」(山田和/ダイヤモンド社)

→安易にまえがきから引用する。

「正直に言って、ほんとうの意味で旅ができるところは、
いまやインドをのぞいて世界中どこにもない」

「インドの旅は『闘い』であり、『修行』であり、
それはやがて『悟りへの道』へと続いているというところが、
他の国への旅とくらべて大いに異なるところだ」


このインドマニアは「あとがき」で
じぶんはほんとうにインドが好きなのか自問する。

「好きなところもあるが、うんざりしているところもある。
鼻につくところもあるが、なにものにもかえ難い魅力もある。
きっとそういうことで長く続いているのだろう」


あまたあるインドエッセイのなかの1冊。
インド旅行記は他国のものとくらべると断然、出版点数が多い。
だれもがマイ・インドを語りたくなるのです。
そのどれもが、まあ、おもしろいといってよいのはひとえにインドの力だと思う。
著者はインドの熱源をただしく礼讃し、同時に嘆息しながら非難する。
インドの長所は、別の面から見たら短所になると悟ったがためである。
仏教調にいえば「長所即短所」。
インドの旅は苦労ばかりだ。しかしその苦労こそが旅の楽しみなのだ。
著者はいう、「この国を旅すると何人かは新興宗教の教祖になる」と。
そういうご本人も紙一重なところがおもしろい。わらった。

古本屋ワゴン100円本。
インドでは500円も払えばけっこうなホテルに泊まることができる。
そのインド的金銭感覚からすると定価1600円はだせません。ごめんなさい。

「アジアの『聖地』はどこかアヤシい」(清水正弘/青春文庫) 105円
→なぜか聖地にひかれます。

「死刑囚の最後の瞬間」(大塚公子/角川文庫) 105円
→なぜか犯罪者にひかれます。

「物語の体操」(大塚英志/朝日文庫) 105円
→こんな本を買うわたしはバカです。

「小説家への道」(鳩よ!編集部/マガジンハウス) 105円
→最近、あきらめました。一生、名も知れぬ雑草で結構。それでもこのまま生きていきます。

「奇跡の人」(ウィリアム・ギブソン/額田やえ子訳/劇書房) 105円
→定価1680円の戯曲が105円で買えたらそれはうれしいですよ~。ありがとうブックオフ。
2005/12/28(水) 17:29:06

「ヒンドゥー教とイスラム教」(荒松雄/岩波新書)品切れ

→副題は「南アジア史における宗教と社会」。
インド史は、ヒンドゥー教とイスラム教の争いの歴史といってもよい。
現在もインド・パキスタン間には、
カシュミール問題といったしこりが残っている。
本書はインドにおけるヒンドゥー教とイスラム教の関係を、
まずは教義の相違からはじまり、
だんだんと著者の専門領域、社会関係まで追求していく。

簡単にインド史を振り返る。
おおむかし。インダス文明。
BC1500頃。アーリア人の侵入。バラモン教誕生。これがのちにヒンドゥー教になる。
BC268。仏教大好きアショーカ王。仏教は1000年をかけてすたれていく。
AD1206。イスラーム支配開始。奴隷王朝。
AD1526。ムガル帝国。これもイスラーム支配。
AD1600。イギリス、東インド会社を設立。植民地化を推進。
AD1857。セポイの反乱。鎮圧される。ムガル帝国崩壊。イギリス支配開始。
AD1947。インド・パキスタン分離独立。

イスラームはなぜヒンドゥーに勝ったのか。

著者は教義に理由を求める。
神前の平等を説く一神教のイスラームは連帯感・同胞感をもちやすい。
一方、多神教のヒンドゥーはカーストごとにばらばら。
イスラームの勝利は必然だったという。
次の指摘もおもしろい。
イスラームに支配権を奪われたヒンドゥーの上位カースト。
かれらは連帯してイスラームに対抗することをせず、
腹いせに下位カーストをしめあげた。
だから3000年もカースト制度が続いたのではないかというのが著者の試論。
うん、刺激的な良書でした。

2005/12/28(水) 16:26:24

「イスラームの日常世界」(片倉もとこ/岩波新書)*再読

→大学時代、レポートのために読まされた本。
だれだ? 新書に赤線を書き込んだのは。
それも定規を使わず汚い。あたまの悪そうな大学生。
かつてのわたしです。

去年のインド旅行でバングラデッシュのひとと話した。
そういう体験があると読書が能動的なものになる。
ああ、かれは不良イスラームだったんだな。
ビールをぐびぐび飲みながら、バーで話したのだから。
ご存知、イスラム教徒はお酒を飲んではいけません。

いま宗教に関心を持っている。
宗教の本質をひとことでいえば「祈り」だと思う。
人間は自由ではない。
生まれてくる環境を自分では決められない。顔も性格も知力も。
いつ死ぬかも同様。死んだ後にどうなるのかも知りえない。
そんな人間にもできることがある。祈りです。
イスラームにはふたつの祈りがあるという。
サラート。唯一神アッラーにひたすら感謝をささげる祈り。
ドゥアー。唯一神アッラーに頼みごとをする現世利益のための祈り。
サラートの存在がイスラームを他の宗教から特徴づけるそうです。

2005/12/28(水) 15:47:11

「私の文章作法」(清水幾太郎/中公文庫)

→清水幾太郎は文章上達のために読書日記をすすめている。

「読書日記の効用ですか。そうですね。
自分の感想を書こうと身構えるまでは、面白いという感じ、退屈な感じ、
そういう感じしかないものです。
そして感じというものは、一日二日と時間が経つにつれて、どこかへ消えてしまうものです。
感想を書こうとすると、感じでは済みません。
感じは、心の中にあるだけで、書けるものではありませんから。
書こうとすれば、この漠然たる感じを反省して、
書けるように整理せざるを得ません。
読書日記というのは、そこへ自分を追い込むことなのです。
そこへ追い込まれて初めて、
読者の精神と作者の精神が噛み合うようになるのです。
いつも漠然たる感じだけで済ませていたら、何百冊読んだところで、
それは読者の心に深く刻み込まれることはないでしょう」(P160)


まったく同感です。
興味ないでしょうが、わたしのやり方を書きます。
本を読むときはかならずそばに紙(チラシの裏)とペンを用意しておく。
読んでいる最中、気になったことをその場で単語だけでも紙に書きつける。
そのメモが読了報告を書くときのとっかかりになる。
メモは本が通り過ぎていったあと、精神につけていった傷のようなもの。
読了報告は、その傷を処置すればいいということになる。
たまに白紙のまま読み終わる本もある。
こういうときは感想を書くのに難渋する。
ちなみにこの「私の文章作法」。
そばに置いた紙は読後も白紙のままでした……。

2005/12/28(水) 14:47:52

「小説――いかに読み、いかに書くか」(後藤明生/講談社現代新書)絶版*再読

→まえに読んだのは大学に入ってばかりのころだったか。
知らないことばかりで圧倒されたのを覚えている。
まだまだ読書が足らないのだとだいぶあせった。
いまはもうあせらない。ちがいを感じるだけである。人間がちがうのだ。
関心の所在がじぶんとはまったく異なる人間の存在にため息をつくしかない。

冒頭、後藤明生は小説を定義する。

「小説」=「何をいかに書くか」=「何を」+「いかに」

「何を」のほうは一般化することはできない。
才能や個性と呼ばれるその作家にしかないものである。
その作家を形づくった固有の体験もそう。いずれにせよ天与のものである。
しかし「いかに」は別だと後藤明生はいう。
この新書のスタート地点である。
「いかに」=「方法」は学び取ることができる。
たとえばドストエフスキーがゴーゴリから喜劇化の方法を学習したように。
後藤明生はこの新書でみずからをドストエフスキーに擬する。
日本のゴーゴリたる近代文学者たちを俎上(そじょう)にあげる。

「何を」と「いかに」。
このふたつを小説の構成要素と見る視点はおもしろい。
その前提の上で読後感を簡単に述べる。
「何を」と「いかに」の比重に違和感を覚えた。
後藤明生がいうほど「いかに」は小説にとって重要なのか。
「いかに」など「何を」の圧倒的な猛威のまえにひれふすだけものではないか。
「いかに」は自由に取捨できる複数の選択肢ではなく、
「何を」が唯一的に決定する宿命めいたものではないでしょうか。
後藤明生の作品をひとつも読まなくても、
この小説家が「いかに」を重視して創作しているのがわかる。
それをもって「何を」がないからだろうというのは意地悪なのかどうか。
この本のタイトルは「小説――いかに読み、いかに書くか」。

わたしの関心は 「何を読み、何を書くか」 にしかありません。

2005/12/28(水) 13:28:56

「釈尊物語」(ひろさちや/平凡社カラー新書)絶版

→インドのカラー写真がたくさん。これを買った理由です。
ブッダが身近に感じられるのはインドを旅行をしたからだと思う。
生まれたルンビニー、悟りを開いたブッダガヤー、亡くなったクシナーガル。
ほかにも八大聖地と呼ばれる仏跡地はすべて行った。
当時は投げやりな義務感から足を運んだに過ぎなかった。
しかし今になってとても貴重なことのように思えてくる。
この本のようなブッダの伝記を読んでいると行った場所が思い返される。
するとブッダが知らぬひとではないように思えてくるのだからふしぎなものです。

*インド仏教八大聖地について。
個人で行こうと思っているかたへ。
2004年にわたしも八大仏跡を巡礼しました。
当時、困ったのが情報不足。
まず行きかたがわからないところがある。あと宿泊環境もわからない。
インドのネット屋で必死に検索したのも、いまとなってはいい想い出です。
しかしそのときは不明点を解消するサイトがなかったのを覚えています。
そのためいざとなったら野宿をも辞さぬ覚悟でサンカーシャへ行きました。
(ちなみにサンカーシャに宿泊施設はあります)
仏跡巡礼を考えている方、どうぞなんでも聞いてください。わかる範囲でお答えします。
万が一、(以前のわたしのように)インドのネット屋でこの「本の山」を発見したかたが
いらっしゃったら、その偶然に驚くばかりです(笑)。

2005/12/28(水) 13:04:55

「芭蕉を歩く 奥の細道」(吉岡勇著/駸々堂ユニコンカラー双書)絶版

→「おくのほそ道」は何度も読んだが、
そこに描かれている風景を見たことはない。
おりしも古本市でこの薄い本を買う。200円。カラー写真がたくさん。
視覚で「おくのほそ道」を理解しようというわけです。
結果は拍子抜け。たしかに写真はどれもきれいなんだけど、うーむ。

「おくのほそ道」を読む。風景をイメージする。
そのじぶんのイメージのほうが実際の写真よりもしっくりとするんだ。
「おくのほそ道」を読むと、ぜんぜん関係のないかつての旅行が思い返される。
芭蕉が普遍的な旅を描いているからである。
読者は私的な旅の記憶を「おくのほそ道」とダブらせる。
そういう喚起力をこの江戸時代の紀行文はもっている。
概説書が無数に発行されるゆえんである。
わたしは原文だけを何度も読み返すことにします。

2005/12/20(火) 17:13:58

「おくのほそ道」(芭蕉/岩波文庫)*再読

→1時間強で音読する。なんとも気分がよい。
旅について思う。
ほんとうの旅が始まるのは、その旅が終わってからではないか。
だれしも旅の途中は無我夢中である。
じぶんが旅の全体図の中でどこらへんにいるか見当もつかない。
終わってはじめて全体ができる。
あそこが旅のはじまりだったのだとわかるようになる。
旅のクライマックスもわかるだろう。
人間もそう。生きている人間と人間がそう、うまくいくわけがない。
けれども、旅を振り返りもう会えないのだと思うとき、懐かしさがこみあげる。
過去の人間になっているからである。

旅は人生そのものだという。
しかし人生を終えたとき回顧する己がいるのかはだれも知らない。

2005/12/20(火) 16:44:44

「図解雑学 仏教」(広沢隆之/ナツメ社)*再読

→何度でもいいます。

ナツメ社の図解雑学シリーズはよろしい。

なにより復習がしやすいのがいいのです。
見開き左ページが文章、右ページが絵と図。
このたびは右ページだけぱらぱら読んだ。
これでひと通り仏教知識がおさらいできるのだから便利この上ない。
わからないところだけ本文を読めばいいのだから楽ちん。

思う。やっぱ日本の仏教ってめちゃくちゃ。
日本仏教は、仏教を名乗ってはいけないのではないでしょうか。
そもそも百済からの仏教公伝がおかしい。
護国のために輸入された仏教ってなんですか(笑)。
ブッダは国のことなんて一切論じていないはずなんですけれども。
密教で現世利益とか、笑っちゃう。

インドで生まれた仏教は中国でそうとう痛めつけられて、
瀕死の重体が朝鮮経由で日本に届けられ、最終的にとどめを刺された。
そんなところなのでしょう。
日本仏教を中傷しているわけではありません。
ただブッダが説いたものとは別物ではないかと。
宗教的な機能についてはこれから勉強するのでまだわかりません。
たぶん日本人にはインド産のものより数倍も効くのだと思います。

2005/12/20(火) 16:20:59

「ブッダの人と思想 (上)(下)」(中村元/NHK出版)

→1995年度「NHKこころの時代」のテキスト。
NHKブックスから同名タイトルの本が中村元・田辺祥二共著で出版されている。
調べてみるとテレビ番組で中村元が語った内容を、
田辺祥二がまとめたのがNHKブックス版になるらしい。

哲学嫌いのわたしには「毒矢のたとえ」が印象的(「マッジマ・ニカーヤ」)。
ある人が毒矢に射られて死に瀕している。
この場合、重要なのは毒矢を放った人間の身分ではない。
王族が射た矢か、射たのは庶民か、奴隷の矢か、など考えるのは無用である。
それより一刻も早く毒矢を抜き治療することが重要なのだから。
哲学的な世界認識論を問われても、ブッダは一切答えなかったという。
その理由としてこの「毒矢のたとえ」をあげたゴータマ・ブッダ――。
仏教のスタート地点は「苦」にあることを改めて思い返す。

原始仏教(ブッダ)がいっていることはそう難しくはないのではないか。
人間というのはどういう存在か。
欲望を持ち、そしていつかは死ぬべき存在である。
だから苦が生まれる。欲望がかなえられないのは苦である。
愛する人が死ぬのは苦である。じぶんがいつか死んでしまうのも苦である。
この苦をどうするかが仏教の課題なのだ(仏教ではこれを四苦八苦と細かく分類する)。

無常をブッダは語る。常なるものはない。すべては変わりゆく。
あるように見えるものもたまたまの因縁にすぎない。
因が縁に依って現われているだけである。縁がなくなれば消えうせる。
そもそも人間だって、
両親の出会いというたまさかの因縁で生まれたにすぎないではないか。
縁がなくなればその人間は死ぬ。なんのふしぎがあろうか。
すべては無常である。空である。因縁は空である。
だから煩悩を捨てなさいとブッダはいう。
そのためには実践が第一と、ここで中道、八正道を説く。

別の言い方をする。
人間には苦がつきまとう。苦があるならその苦には原因がある。
原因があるなら苦を滅す方法がある。
方法があるなら涅槃(ねはん=苦を滅した境地)がある。
その苦を滅するための方法が八正道である。
かくして八つの正しい行ないをブッダは推奨する。
難しいのはブッダの教えではない。教えを実践することが難しいのである。

先日、ある自己啓発本を熟読した(恥ずかしい)。
その方面では古典の「道は開ける」「人を動かす」です。
今回、気づいたことがある。
テキストに引用されている原始仏典と、その自己啓発本の内容がそっくり!
これはいったいどういうことなのでしょう。

2005/12/20(火) 15:11:20

「インド」(上野照夫/保育社カラーブックス26)絶版

→昭和38年発行。著者は昭和33年の「インド仏跡調査隊」に加わった。
そのときの写真とルポ。海外に行っただけで本が出せる時代があったんです。

上野照夫はインド美術が専門の学者さん。
彫刻の見方がたいへん勉強になった。
わたしもインド旅行中、何度も博物館に足を運んだ。
おかしなものだと思いながら。
日本では博物館、美術館の類はここ10年行っていないというのに。
だから彫刻・絵画の見方がわからないのも当然。
インドの妖しげな美術品のまえで当惑するだけだった。
あるいはアリバイ作りのように熟視するか。
今回、プロはこう見るものなのかと感服した。引用。

「男性中心の仏教世界に対して、ヒンドゥー教の世界は女性的な色気が多い。
その上さらに、男女間の愛欲が渦を巻いている。
仏教窟院が本来、禅定の場であるとするならば、
ヒンドゥー教窟院は、人々が歌い踊り、自然の生にひたることによって、
神々とその喜びを共にする場であるといえる」(P145)


そうそう! と手を打ちたくなる。
わたしも感じたことを実にうまく言語化している。

2005/12/20(火) 14:30:37

「ひろさちやが聞く ヒンドゥー教の聖典」(ひろさちや・服部正明/すずき出版)*再読

→ヒンドゥー教。
聞きなれぬ宗教だと思う。わかる範囲で簡潔に説明します。
ヒンドゥー教はインドで発祥した多神教。ネパール、南アジアに広がった。
最大の特徴は、キリスト教、仏教、イスラム教などと異なり特定の開祖がいないこと。
開祖がいないところにどうして神という観念が生じるのか。
たとえば暴風雨。古代の人びとは大自然の暴威を神と名づけるしかなかった。
同時に暴風雨によってもたらされる雨は、農作物の豊穣にも寄与することを知る。
のちにこの神はヒンドゥー教でシヴァ神と呼ばれることになる。
破壊(死)と創造(生殖)をつかさどる神である。

インドでは神が生きている。仏陀やキリストのように死んではいない。
町中いたるところでシヴァ神のポスターが売られている。
アイドルのポスターとともに。
このようなアイドル神が、ヒンドゥー教にはシヴァ神以外にもたくさんいる。
有名なのはこのシヴァ神と双璧をなすヴィシュヌ神。
シヴァが破壊を象徴するのとは対照的に、ヴィシュヌを世界を維持する神である。
両神の妻も崇拝の対象となる。
神々の名前を知ればヒンドゥー教がわかるかといえば、そうではないのが難しいところ。

「ヒンドゥー教とは宗教だけではなく、文化や生活の習慣、社会制度など
あらゆるものが一体となった複合体のことである」(P124)


ヒンドゥー教の家に生まれるとする。
その時点で両親の身分を引き継いで一生を生きていくことを余儀なくされる。
ヴァルナ(四姓)である。このほかにもジャーティ(生まれ)がある。
ジャーティはインドに3000以上ある職業グループのこと。
子は親の職を継がなければならない。結婚も制限される。
幼いときに結婚相手を決められてしまう幼児婚もめずらしいものではない。
この我われには理不尽に見えるシステムをなぜインド人は手放さないのか。
インドで3000年以上の歴史をもつ輪廻思想のためである。
人間は一回死んだからといって終わりではない。幾度も生死を繰り返す。
そのときに肝心なのが業(カルマ)。業とは行ないのこと。
善業を積めば来世で報われる。
悪業を繰り返せば来世でその報いを受けなければならない。
これが輪廻思想である。
恵まれない環境に生まれたらば、これも前世の報いとすぱっとあきらめる。

では、人間にできることは何か。
来世に向けて何をすべきとヒンドゥー教は教えるのか。
ダルマ(天分)、アルタ(実利)、カーマ(性愛)の3つを順守せよという。
ダルマ。天与の身分を逸脱することなかれという教えである。
アルタ。商売に励め。金をもうけよ。それが社会貢献になる。
カーマ。セックスに励め。子孫繁栄こそ人間の務めである。
ダルマ、アルタ、カーマに従うことが来世の幸福を約束する。

ならインドの聖地に行くとごろごろいるサドゥー(修行者)。
あれはなんなのか。アルタ、カーマを果たしているようには見えない。
サドゥーの存在はアーシュラマ(四住期)とも関係しているのだが、
ここでは詳述を避ける。サドゥーの目的だけ説明する。
ヒンドゥー教徒は輪廻転生に思いをめぐらしている。
しかし、と考えるものもいる。どの道、生まれることは苦であると。
輪廻転生の輪から抜け出たいと願うこと。これが解脱である。
サドゥーは輪廻からの解脱を目指し修行する。
梵我一如(ぼんがいちにょ)を悟ることで解脱するといわれている。

ヒンドゥー教。民衆にひたすら我慢を強いる窮屈な宗教である。
それが祭りで爆発する。ヒンドゥー教は祭りに真髄があるのかもしれない。
空腹時の食事や疲労時の睡眠を思い返すとよい。
理不尽なものへの忍耐を続けた精神が一気に開放されるのである。
祭りの際は、カースト(身分)の規定もゆるめられる。
我われ日本人には思いも及ばぬ陶酔感、開放感があるのではなかろうか。

メモ。ひろさちやさんがいいことを言っていた。

「人間は、すべてを神に任せて、できる範囲で努力していく、
そうした生き方を教えるのが宗教だと、わたしは思っています」(P182)


2005/12/12(月) 16:07:21

[アジアン・ジャパニーズ2」(小林紀晴/新潮文庫)

→旅行エッセイの一種。著者はベトナムとフランスを旅する。
そして両国に定住している同世代の若者たちへインタビュー。
なぜ日本からわざわざ海外へでたのか。
「何者かになろうとしている若者」へ向ける著者の視線は温かい。
それは著者自身の葛藤にダイレクトにつながっているからである。
世界各地で夢を追っている若者たちのことを思う。
ふつうの日本人の生き方を拒否した彼らの何人が成功を手にするのだろう。
刺激を受ける。負けてはいられないぞと思う。

2005/12/12(月) 15:16:34

「道は開ける」(デール・カーネギー/香山晶訳/創元社)*再読

→現実はそんなに甘くはない。
自己啓発本を読んだくらいでうまくいくものではない。
いくら書かれた通りに実践したところでダメなことはいくらだってある。
だから自己啓発本は売れ続ける。
買う。読む。発奮する。忘れる。壁にぶつかる。また、買う……。
この古典から引用する。

「今日という日は、もう二度とめぐっては来ないことを忘れるな」(P40)

「私が痛感していることは、
私たちが日常生活で得られる心の安らぎや喜びは、
自分の居場所や持ち物や、身分によって左右されるのではなく、
気持ちの持ちよう一つで決まるという点だ」(P175)


「私が今日これから会おうとしているのは、
おしゃべりで、利己的で自己中心的で、恩知らずの人間どもだ。
だが私は別に驚きもせず、困ってもいない。
そんな連中のいない世界など想像できないのだから」(P202)


皮肉屋バーナード・ショーからの引用を好むカーネギーは、
この本の「序」でこう述べている。

「本書にはことさら目新しいことは書いてないけれども、
ふつうあまり実践されていないことが多く出てくるだろう。
(……) 私たちの欠点は無知ではなく、無為なのである」


毎日、赤線を引いたところを読み直している。
実践している。まだトラブルが続いているからです。
毎日、自己啓発書を読む。
これ以上にないほど恥ずかしい告白だと思う。 赤面する。

2005/12/12(月) 14:43:54

「人を動かす」(デール・カーネギー/山口博訳/創元社)*再読

→自己啓発本。それは文学からもっとも遠いもの。
本書は自己啓発系書籍の古典。「道は開ける」とセットでロングセラー。
ここ10日というもの、毎日「人を動かす」「道は開ける」を読んでいた。
読み返すのは4年ぶりくらい。
赤線が引かれているその上にまた新たな傍線を加えたりしながら必死に読んだ。
毎日、毎日。とても恥ずかしい行為だと思う。
しかしそうでもしなければ乗り越えられないトラブルが身に降りかかった。
ほんとうに困った。悩んだ。この本を再読することにした。
自己啓発本は信仰を持たない現代人のための宗教書である。
だからその感想を書くくらいみじめなことはない。全肯定しかないのだから。

ため息をつきながら引用する。

「友を得るには、相手の関心を引こうとするよりも、
相手に純粋な関心を寄せることだ。 (……)
人間は他人のことには関心を持たない。
ひたすら自分のことに関心を持っているのだ――朝も、昼も、晩も」(P74)


「人はだれでも他人より何らかの点ですぐれていると思っている。
だから、相手の心を確実に手に入れる方法は、
相手が相手なりの世界で重要な人物であることを率直に認め、
そのことをうまく相手に悟らせることだ」(P144)


「みずからかえりみて、自分に対する強烈な関心と、
自分以外のものに対するいいかげんな関心とを比較し、
つぎにその点に関しては、人間はみな同じであることを考えれば、
あらゆる職業に必要な原則を把握することができる。
すなわち、人を扱う秘訣は、相手の立場に同情し、
それをよく理解することだ」(P230)


学んだことを要約する。
人付き合いの上達のためには、

もっともっと人間を嫌いにならねばならぬ。

なまじ人間に期待するからうまくいかなくなるのだ。

2005/12/01(木) 19:51:08

「好きになっちゃったインド」(西牟田靖・福田素子・森永秀史・下川裕治/双葉社)

→古本屋ワゴン100円本。定価が1500円だからほんとうれしい。
もちろん定価だったら買わない。100円だから買う。100円だからたのしい。
インドじゃ100円も払えば立派なチキンカレーが食べられる。
そのインドの本を買うのに1500円はだせません。

モノクロだけど写真がいっぱい載っていたのがよかった。
思い出すな。日本の対極にある国、インド。
きたなくて、公然と差別が存在する、約束を守らない国、インド。

インド小説ってあるのかな。旅行記ではなくて。
わがままな人間がたくさん登場して差別が連鎖する。
そのくせどこかしら宗教的な雰囲気があるという。
主人公は、宿命で人生が決められているのをなかば知りながら(カースト制度)、
なぜか自由を満喫しているかのごとく明るい(インド人はとにかく明るい)。
そんな小説を書きたいけど、書けないだろうな。
いや、わかんないぞ。だけど、身近にあることを書くのが小説だよね?
そうじゃないとリアリティがなくなる。
最近の小説が突出したものにならないゆえんである。うーむ。

2005/12/01(木) 19:20:46

「生きる勇気が湧いてくる本」(遠藤周作/祥伝社黄金文庫)
「信じる勇気が湧いてくる本」(遠藤周作/祥伝社黄金文庫)
「愛する勇気が湧いてくる本」(遠藤周作/祥伝社黄金文庫)
「愛と人生をめぐる断想」(遠藤周作/光文社文庫)
*再読

→最近、トラブルがつづいている。
夜、お酒を飲みながらこういう本を読む。
4冊とも箴言集(しんげんしゅう=アフォリズム)。
いままで発表されたエッセイから抜粋したもの。
大学生時代に遠藤周作の著作の大半は読んでいる。
大学卒業とともに遠藤周作も卒業した。

相変わらずわかったようなことを言っている。
人生について、男について、女について――。
だけど、笑えない。それほど精神的に疲れている。
ウソでもいいからそういうことばにすがりつきたい。
確信をもったことばにだまされたいのである。
生きるということは、何かを信じるということでしょう。
何も信じないというあなたも、信ずるものが世にないということを信じている。
信じるということは、その信じるものにだまされるということだ。
遠藤周作はイエス・キリストにだまされることを選択した。
そして読者をだまそうとした。

それはそんなに悪いことでもないんじゃないかなと思うようになってきた。
どうせ何かにだまされるのが人生ならば。
だまされたいなと思いながらお酒を飲んだ。あいまにページをめくった。

2005/12/01(木) 17:30:53

「裁判の秘密」(山口宏・副島隆彦/洋泉社)

→これおもしろい! 
新たな分野の本に手を出すとこういう当たりがあるのか。
著者は現役弁護士。日本の裁判の裏側(実情)を赤裸々に語る。
著者は本書で何度も繰り返す。法学の教科書なんてうそっぱち。
あんなものは現場を知らない学者の妄言。信じるだけバカを見ると。
これは法学の裏の教科書ともいえる。建て前と本音が法学にもあるようだ。

主張の大筋をかんたんにまとめると、

日本の裁判はいんちき。八百長。

と、こうなる。民事(訴訟)も刑事もまともに機能していないらしい。
まず民事。判決がでるまでがとにかく長い。3、4年はざら。
で、判決が出たところで役に立たないという。
金を貸す。返さない。数年かけて裁判をする。勝訴する。
それでも金を取り返せないのが日本の裁判制度なんだとか。
強制執行逃れがいとも容易にできるためらしい。

刑事訴訟もどっかおかしいと。有罪率の異常な高さ。
これは法廷上の証言並みに検事側の供述調書が重視されるためらしい。
だから、いったん起訴されたらほとんど無罪になることはない。
出来レースではないかと著者は主張する。冤罪もかなりあるのではとも。
国を相手取った行政訴訟はやるだけ無駄だと失笑する。
裁判所はぜったいに行政が不利になる判決はくださない。
「官と官は争わない」。
つまりは三権分立など日本では成立していない。
判決をくだすのは裁判官。
裁判官というのは法律オタクのおかしなやつが多いと内情をすっぱぬく。

山本夏彦を愛読する著者の物言いは痛快。引用する。

「通常、民事裁判の被告になる人びとというのは、言ってはなんだか、
社会生活を常識の範囲で行なえない人たちだから裁判になるのである。
あまり声高には言いたくないけれども、
やはり言わなくてはならないことなので言うが、
人権人権というけれども、そんなきれいごとが通用しない人たちが
多くの場合は裁判の相手方になるのである」(P67)

「裁判で、何かが解決したり、損害を回復したり、自分の権利というものを
実現できると信じている人びとが世の中の大半であろう。
しかし、他方に運命というものがある。できないことはできない。
だからその運命を甘受させるのが、
相談を受けた弁護士の本当の仕事なのかもしれない」(P203)


法学教科書とセットで読んでおいてよかったと思う。
どちらかだけでは片手落ちになっていたでしょうから。
文庫にもなっている。宝島文庫。残念ながら絶版。
それにともない単行本のほうで復刊。現在購入可能。
まあ、わたしのようにブックオフ105円コーナーで見つけたら、
読んでみるのも一興かもしれません。
今回、法律関係の本を3冊読んだ。すべてブックオフ105円本。
ふむ。ブックオフはわたしの大学かもしれません。百円大学。

2005/12/01(木) 16:32:55

「法学入門30講 <新版>」(石川明・編/酒井書店)

→なるほどと思ったところをメモ風に書きます。
法学を学んだ方には常識以前のことかと。読み飛ばすか、憫笑してください。

「法は道徳の最小限」。法は道徳と常識を基礎に持つ。
ちがいは強制力(効力)の有無。法は強制力を持つのが特徴。
人命の尊重や窃盗の禁止。太古からのルール。これを自然法という。
この自然法から生まれたのが実定法。
言わずもがなの自然法をはっきりと明記したものである。
この実定法は成文法と不文法にわかれる。
成文法はナポレオン法典を起源に持つ。ヨーロッパ大陸に広がった。
不文法は成文法とは異なる、明文化されない法のこと。
不文法には慣習法、判例法がふくまれる。イギリス、アメリカが使用。

近代法の発生は、自由と平等をうたったフランス革命にある。
それまでは「朕が国家」の絶対王政。国民は封建制の下での身分社会。
だが近代市民革命により、市民社会と国家(夜警国家)に分離した。
「身分から契約へ」(個人の尊重)。
背景には「見えざる手」(資本主義)への信頼があった。
しかし資本家と労働者の別が貧富の差を増大させる結果に。
「契約から身分へ」(貧困問題)。
国家は国民の自由をある程度規制して、法によって社会的弱者を守る必要が。
以上が近代法の成立から現代法に移行するまでの流れ。

「日本は本来、法なき国家」。
明治時代まで「自由」「権利」に相当する日本語がなかった。
不平等条約改正に向けて、国家主導の(上からの)近代法整備(輸入)。
太平洋戦争無条件降伏による、マッカーサー法案の丸呑み(日本国憲法)。
日本国民はむかしもいまもあまり法を頼りにしないで生活している。

税込み価格3570円。大学の教科書。ブックオフ105円ゲット。
351ページ。よく読めたとじぶんでも思う(笑)。民法、商法はさっぱりわからず。

2005/12/01(木) 15:47:11

「法学入門」(遠藤浩・久保田きぬ子/有斐閣新書)

→法律に興味を持った。法律ってなんなのだろう。
むかし、大学に入りたてのころ、法学部の知人に質問したことがある。

「なんで人が人を裁けるの?」

答えはなかった。意外そうな顔をされたのを覚えている。
その疑問はいまも変わらずにある。
ようやく機が熟したのか、今回法律を勉強するにいたった。

新書サイズでコンパクト。それがこの本のいちばんの魅力。
また欠点ともなる。説明できる分量が少ない。
結果、よくわからなかった。だけど、それでいいのである。
最初からの予定通り。まずはなじみの少ない法学用語にふれるだけでいい。
あとは薄いのを一気に読むことで、全体図をとらえることができたら。
こちらはまったくの門外漢なのだから。
勝負のまえの腹ごしらえのようなものである。

2005/12/01(木) 15:24:39

「書きあぐねている人のための小説入門」(保坂和志/草思社)

→品というものが人間にはあるみたい。
この保坂さんはとにかく上品なわけです。
こともなげにストーリーを否定する。引用。

「ここまで読んで、『それ(ストーリー)が、なぜいけないの?』
『本を読んだり、ドラマを見たりする面白さって、
それ(ストーリー)に尽きるんじゃないの?』と思った人は、
ストーリーがしっかりしているエンターテイメント小説を目指すことを勧めます。
人間には外からどう言われようと、どれだけ自分で努力してみても、
絶対に変えられない“型”みたいなものがあって、
ストーリーにしか反応できない人がいっぱいる。
これはもうどうしようもない」(P136)


辛辣(しんらつ)ですね。
あっさりとダメだしされてしまった下品なわたし(苦笑)。
保坂さんはストーリーなどだれにでも作れると嘲笑する(え、そうなの?)。
書きたいのは微妙な味わいにあるという。たとえば、寄せては引いていく波。
あの波をぼーっと眺めているときの感覚を文章で表現したいらしい。
さすが上品なひとはちがう。下品なわたしは海をぼんやり眺めることなどない。
夕飯に食べる魚のことを考えてしまう。

ストーリーを否定した保坂さんは風景描写のちからを強調する。
例としてじぶんの小説から引用している。
わずか9行。なのに読めないわたし。字面は追えてもイメージがわかないのだ。
何度、繰り返してもだめだった。
品の上下はこんなにも深い断絶を人間にもたらすものなのかと愕然とする。
保坂さんはじぶんが成長するために小説を書いているという。
「読者は?」などとは恐れ多くて聞けやしない品の良さである。
この本はブックオフ105円コーナーで買った。とことん下品である。

2005/12/01(木) 14:21:18

「想い出づくり」(山田太一/大和書房)絶版

→全14回のテレビドラマシナリオ。昭和56年放送。
1年半ほどまえにツタヤでレンタルをして見たことがある。
衝撃を受けた。むかしのテレビドラマはこんなにおもしろかったのか。
現段階でいちばん好きなテレビドラマです。
今回、それをシナリオで再確認。シナリオ勉強の意味合いもあります。

独身の女が3人。古手川祐子、田中裕子、森昌子。
それぞれに結婚へのプレッシャーを日々感じている。
しかし、と思う。このままでいいんだろうか。
このまま結婚してしまっていいのだろうか。
結婚をすれば人生が決まってしまう。結婚までのわずかなモラトリアム(猶予期間)。
熱いものがほしい。かっと燃えるようなことを体験してみたい。
独身時代の「想い出」がほしいのである。せめて海外旅行でも、と思う。
折しも3人はそろって旅行詐欺の被害にあう。だましたのは柴田恭平。
女3人は力をあわせ柴田恭平の居所を発見する。
詰問(きつもん)に逆ギレした柴田恭平が叫ぶ。

「他になんにもねえのか、手前ら、結婚までに、

他になんにもねえのか?

(……) なんにもねえから、旅行にすがってるんだ。
せめて海外旅行ぐらいって」


そこからこの物語は始まる。「想い出づくり」――。

打ちのめされる。いったいどんな才能がこういう大傑作を書かせるのか。
想像も及ばない。体験か。技術か。観察力か。想像力か。
こういうのを書きたいと思う。あまりの山の高さに尻込みしながらも。
読みながらおもしろいなと何度も思う。何度も笑う。泣いている。
先に読み進めることができずに、いいな、と幾度もおなじせりふを声に出す。
どうしたらこんないいせりふを書けるんだろう。胸に突き刺さるせりふ。
忘れられないせりふとシーンがいくつもある。
なんの関係もないふとした折にそれらのせりふやシーンが胸をよぎるのです。
悔しいから、テレビドラマの分際で、と思う。
視聴率乞食のテレビのくせにこんなひとを感動させるな、と強がるしかない。

2005/11/18(金) 16:56:14

「おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄」(芭蕉/岩波文庫)

→初心者向けの角川文庫から入り、講談社文庫を経由して、最終到着地は岩波文庫。
原文は6回読んだことになる。飽きないのはなぜか。
読むたびに旅の高揚感がよみがえる。
かつての旅行のひとコマひとコマが切実に思い返される。
行った場所は芭蕉とは無縁の国外であるのにもかかわらずである。

構成が心憎い。
まず日光でさらりと同行の曾良(そら)を紹介。
飯塚で持病のつらさを告白。長旅への不安をもらす。
かと思えば壷の碑で旅の悦びを謳(うた)いあげる。
表日本(太平洋側)の名所松島では風光に感嘆、平泉では年月に思いを馳せる。
眼福のあとには艱難と、この次に山越えをもってくる。
羽黒三山。ちょうど旅の真ん中でこの宗教的聖地を訪れる。
宗教的静寂の後は繁栄する酒田へ赴く。裏日本(日本海側)である。
象潟へ。この象潟は松島と左右対称のごとく比較される。光の松島、陰の象潟。
越後路で旅の疲労を訴える。旅も終盤に入ったことが意識される。
一振で遊女との軽いロマンス。金沢で知人の死を知り慟哭する。
山中では曾良と、天竜寺では北枝と別れる。離別の連続である。
次に再会をもってくる。福井で等栽と十年ぶりの再会をはたす。旅の醍醐味である。
クライマックスは敦賀での月見。
打ち上げを忘れないのもさすが。種の浜で豪商と宴会。酒をのむ。
最終段の大垣では一度は別れた曾良とも再会し、また旅に出るところで終わる。

偶然にまかせてあてのない旅をした芭蕉が「おくのほそ道」を書く。
するとなぜか「おくのほそ道」は神が設計したかのような完全な構成美をもつ。
理想的な旅になる。
偶然の連続だった旅が「おくのほそ道」では物語のような必然性を帯びる。
偶然が芭蕉の中で必然にかわったがためである。
そこに旅の魅力がある。旅をする人間の秘密がある。

メモ。解説に教えられる。
この「おくのほそ道」におけるリズムの良さは省略からもたらされているとのこと。
省略すると意味こそわかりにくくなるが、テンポが格段にあがる。リズムが生じる。
いままで文章を書く上でわかりやすさを追求してきたが、それだけでは不十分だと知る。

「曾良旅日記」「奥細道菅菰抄」は研究者向け。
研究と鑑賞はまったくの別物である。

一般読者は研究者に、ことさらへつらう必要はない。

世界中を放浪している旅人と書斎で本に囲まれた研究者。
こと鑑賞となったらどちらが「おくのほそ道」の真髄を
より深く味わえるのか知れたものではない。

2005/11/18(金) 15:00:48

「シナリオの基礎Q&A」(新井一・原島将郎/ダヴィッド社)

→「シナリオの基礎技術」「映画 テレビ シナリオの技術」を読んだので、
同著者のこれもついでだからと。前著との重複もかなりある。丁寧な一問一答形式。

最近のテレビドラマや映画を見ていますか?
わたしはぜんぜん。テレビはちらっと見てもすぐ消してしまう。
もちろんおもしろくないからだけど、べつに非難しようとも思わない。
あのような軽いノリがいまは受けるのだろうから。
テレビ局だってボランティアではない。多くのひとが求めているのを放送するのは当然。
むしろ間違っているのはこちらのほう。わたしが好きなのは山田太一ドラマ。
だけど、あんな感じのをいまやったところで視聴者の共感は得られない。
だからむかしはよかった、なんてことは言わない。時代がちがうだけ。

2ちゃんねる創作板のシナリオ関係のスレッドを読む。
いかにプロデューサーとコネをつけるかが話題になっていた。
どうやらこういうことらしい。いまのテレビは完全にプロデューサー主導。
プロデューサー様の、時代の最先端のさらに先を行ったアイディアが最重要(笑)。
シナリオライターはそのアイディアをもっとも正確に再現してくれるひとが選ばれる。
それからP様が売れている芸能人をピックアップ。かくしてドラマができあがる。

仕方がない。過去の山田ドラマのシナリオを読むことで我慢するか。
山田太一。シナリオを書くまえに役者が決まっていたほうが書きやすかったらしい。
このセリフをぜひこの役者さんに言ってほしい。そういう思い入れが強くあったとか。
ないよなわたし。好きな芸能人もいない。シナリオは(も?)だめかな。

2005/11/11(金) 18:43:04

「何が終わり、何が始まっているのか」(山田太一+福田和也/PHP研究所)絶版

→奇妙な組み合わせの対談本。病院の待合室で読みました。
あれですあれ。よくあるあれ。
いまのニッポンの危機とやらを高みから(ここポイント!)見下ろす。
ひとりでやればいいものを、さみしいのかふたりで(笑)。
福田が相手だからか山田太一さんもわけのわかんないことをいう。
哲学的とでもいうのか。まいっちゃう。
しかし山田太一の魅力というのはこれなんだ。
妙に哲学的で硬い部分と、軽薄なテレビライターとしての好奇心の融合。
ここから数々の名ドラマを生み出してきたのである。
ブックオフ105円本。

2005/11/11(金) 18:20:27

「早春スケッチブック」(山田太一/新潮文庫)*再読

→テレビドラマシナリオ。ツタヤで本作のDVDを借りてきて見た。
せっかくだからと二度見ることにした。
その際、シナリオを開きながら活字がどう映像化されているかを勉強した。

視聴率が7.9%だったという。低視聴率。
納得。第1話から第4話までがとにかく退屈。動きがない。
山崎務と鶴見辰吾の会話が延々と続く。これじゃ視聴者はついてこない。
シナリオで読んだときはそれほど気にならなかったから、
おかげで活字と映像の違いを明確に意識した。
第5話で山崎務と岩下志麻が会うにいたってようやくドラマが動き出す。

役者はセリフをシナリオどおりに言っていない。
語順を変えるくらいなら当たり前。
中には表現を変えてあるところまであった(内容は変えていない)。
で、シナリオのセリフと役者の口からでたものを比べると、
たしかに役者のセリフのほうが適切に思えた。
岩下志麻なら(シナリオにあるよりも)こう言うほうが自然だと(=岩下志麻らしい)。
あと山田ドラマは「泣く」ところまで指定している。
で、指定されていないところで岩下志麻が泣いていた。
そこが実にすばらしい名シーンになっている。役者&演出の勝利か?
概して役者はセリフ以外のところで演技をしたがるものだと気がついた。
セリフは所詮、脚本家に言わせられているもの。
じぶんはそこ以外のところで勝負したいという野心を役者は持つものなのか。
それをわかっているのでしょう。
山田太一も要所要所で「役者の仕所(しどころ)=無言シーン」を作っている。

最終話。かなりシナリオをカットしているけどこれは許可を取ったのかな。
山田太一はシナリオを勝手に変えられるのを嫌悪していると聞く。

あ、ドラマの内容にはまったく触れませんでした。名作です。おすすめ。
ツタヤ新宿店にあります。発見したときは狂喜乱舞しました。
PS2でも見ることができます(確認済み)。