2006/01/07(土) 17:45:01

「ヒンドゥー教の本」(学研)*再読

→ヒンドゥー教の初学者が書店ではじめて手に取るのがこれ(おそらく)。
おすすめではない。
それなりに勉強したあと読み直したのに、それでもわからないところが多々ある。
学者さん(といっても講師レベル)はどういう心持ちでこういうムックに寄稿するのか。
じぶんが苦労して知り得たことを簡単に素人には教えるものか。
そんな意気込みすら感じる悪文の数々をまえにして苦笑するほかなかった。

ヒンドゥー教の全体図はいぜん書いたことがあるから、
今度は一般的なヒンドゥー教徒の生活を紹介します。
宗教を見るには教義と信者の生活、ふたつのライトの当て方がある。
ヒンドゥー教徒。毎日の信仰生活の中心となるのがプージャー(供養祭)。
信仰する神々を祀(まつ)った神像がどの家庭にもある。
日本における仏壇のようなもの(といってよいのか、うーむ)。
ヒンドゥー教徒は毎日、神像のもとに神様が来るものとして供養する(もてなす)。
下世話にいえば、そのかわり家内安全、商売繁盛などなどを
よろしくお願いしますと祈る。つまりギブ・アンド・テイク。
これはヒンドゥー教の前身であるバラモン教からの伝統だという。
人間と神々が祭式を通じてやりとりする。
むずかしいことばで「神人互恵(しんじんごけい)」と呼ばれる宗教形態。
で、いま紹介したのが「神人互恵」の家庭バージョン。いわば日常的信仰。

この家庭的信仰を地域的レベルに広げたのがホーリー(祭り)。
この非日常的なホーリーこそヒンドゥー教最大の見どころ。
我慢に我慢を重ねた個々の精神が(カースト制度!)奔流のごとく解放される。
ヒンドゥー教徒の非日常的な信仰はもうひとつある。それが巡礼。
ホーリーは時間的なもの。1年(あるいは数年)に1回のお祭り。
比して巡礼は空間的なもの。非日常的な空間(寺院、聖地など)まで移動する。

乱暴にまとめれば、ヒンドゥー教徒は日常をプージャーでやり過ごし、
その間にたまった垢(あか)のような鬱積を非日常のホーリー、巡礼で捨てる。
実に健康的な精神生活である。酷暑、貧困、差別に苦しみながらも
明るさを失わないインド国民(の8割を占めるヒンドゥー教徒)の
根源たるにふさわしい宗教だと思う。

2006/01/07(土) 16:41:41

「仏教とインドの神」(ひろさちや編/世界聖典刊行協会)絶版

→このような一般向けのわかりやすいヒンドゥー教の本はめずらしい。
なぜか。インド哲学研究者が書くからである。
インド哲学は世界でも名だたる難解な哲学だという。
そんな学問に興味をもつ研究者は決まって平明を軽蔑するもの。
わかりやすい文章など書いてしまったら一生の恥とでも思っているのではないか。
難解な文章を書くのが高尚な人間の証(あかし)と信じるがためである。
かといってヒンドゥー教とインド哲学は密接な関係にあるから、
ヒンドゥー教だけの専門家というのはいない。
専門外のことを書くのを(正確には間違いを指摘されるのを)恐れるのが学者一般。
かようにして日本ではヒンドゥー教があまり知られていないという現状になる。

この稀有(けう)な概説書から学んだことは多い。
実はヒンドゥー教自体はあまり知られていないのにもかかわらず、
この宗教の神々は我われ日本人にとって身近なものになっている。
帝釈天、大黒天、鬼子母神、仁王、阿修羅、閻魔……すべてヒンドゥーの神々である。
中国を経て日本に輸入されたのは仏教ではなく、
むしろヒンドゥー教が伝わったといってもいいくらいなのである。

どういうことか。
ブッダはヒンドゥー教(正しくは前身のバラモン教)を批判することから、
仏教の開祖になった。当時主流だった祭式主義の宗教を否としたのである。
ブッダの教えは出家信者のためのもので、のちに小乗仏教と揶揄される。
大乗仏教はブッダ入滅後、約500年のときを経て誕生する。
大乗仏教の信仰母体は在家信者である。
特徴はブッダを超人化(神格化)したこと。ここに功徳という観念が生じる。
「信者になればいいことがある」、現世利益の思想である。
(功徳とコインの裏表なのが慈悲。概して大乗仏教側は慈悲を強調するが、
それは功徳に背面から支えられてはじめて成り立つのではないか)。
この大乗仏教がインド亜大陸に広がる過程でヒンドゥーの神々を取り込んだ。
のちに中国を経由して日本へ伝えられたのがこの大乗仏教である。

注意してほしい。
仏教開祖のブッダはヒンドゥー教(バラモン教)を否定した。
そのヒンドゥーの神々を積極的に摂取したのが大乗仏教なのだ。
とすると、我われが浅草帝釈天で賽銭(さいせん)を投げ入れ拝むとき、
信仰しているのはほんとうに仏教なのか。ヒンドゥー教のほうではないか。
この主張がスタート地点として、この概説書の中に位置を占めている。
わかりやすい本になったゆえんではないかと思われる。
難解な本というものは、とかく基点の所在が不明なものである。

2006/01/07(土) 15:09:18

「エリアガイド147 インドの旅」(昭文社)絶版

→総カラーのガイドブックです。
1ページ目から最後まで順に読み進む。
意外だった。おもしろいのだ。
インドの歴史・神話・食物等を旅行者へコンパクトに紹介するコラムがある。
細かい知識はすべて省略して、大本だけを伝えようとするその姿勢は、
けなげなツアーコンダクターを連想させ、思わずいたわりたくなる。
名所の紹介文もおなじく。
名所旧跡というのは、とどのつまり歴史的に重要な場所である。
だからインド史の勉強にもなる。
レストランガイド。本文横にはおいしそうなインド料理の写真がある。
これで知識欲のみならずグルメ欲まで満たされる。
ちなみに、ひとは実際に食べなくても満足するという事実は、
グルメ番組の隆盛が証明している。

この本は至れり尽くせりで大満足。
ガイドブックは読み物として見直されてもいいのかもしれません。

2006/01/07(土) 14:32:56

「インド 旅の雑学ノート 熱闘編」(山田和/ダイヤモンド社)

→安易にまえがきから引用する。

「正直に言って、ほんとうの意味で旅ができるところは、
いまやインドをのぞいて世界中どこにもない」

「インドの旅は『闘い』であり、『修行』であり、
それはやがて『悟りへの道』へと続いているというところが、
他の国への旅とくらべて大いに異なるところだ」


このインドマニアは「あとがき」で
じぶんはほんとうにインドが好きなのか自問する。

「好きなところもあるが、うんざりしているところもある。
鼻につくところもあるが、なにものにもかえ難い魅力もある。
きっとそういうことで長く続いているのだろう」


あまたあるインドエッセイのなかの1冊。
インド旅行記は他国のものとくらべると断然、出版点数が多い。
だれもがマイ・インドを語りたくなるのです。
そのどれもが、まあ、おもしろいといってよいのはひとえにインドの力だと思う。
著者はインドの熱源をただしく礼讃し、同時に嘆息しながら非難する。
インドの長所は、別の面から見たら短所になると悟ったがためである。
仏教調にいえば「長所即短所」。
インドの旅は苦労ばかりだ。しかしその苦労こそが旅の楽しみなのだ。
著者はいう、「この国を旅すると何人かは新興宗教の教祖になる」と。
そういうご本人も紙一重なところがおもしろい。わらった。

古本屋ワゴン100円本。
インドでは500円も払えばけっこうなホテルに泊まることができる。
そのインド的金銭感覚からすると定価1600円はだせません。ごめんなさい。

「アジアの『聖地』はどこかアヤシい」(清水正弘/青春文庫) 105円
→なぜか聖地にひかれます。

「死刑囚の最後の瞬間」(大塚公子/角川文庫) 105円
→なぜか犯罪者にひかれます。

「物語の体操」(大塚英志/朝日文庫) 105円
→こんな本を買うわたしはバカです。

「小説家への道」(鳩よ!編集部/マガジンハウス) 105円
→最近、あきらめました。一生、名も知れぬ雑草で結構。それでもこのまま生きていきます。

「奇跡の人」(ウィリアム・ギブソン/額田やえ子訳/劇書房) 105円
→定価1680円の戯曲が105円で買えたらそれはうれしいですよ~。ありがとうブックオフ。
2005/12/28(水) 17:29:06

「ヒンドゥー教とイスラム教」(荒松雄/岩波新書)品切れ

→副題は「南アジア史における宗教と社会」。
インド史は、ヒンドゥー教とイスラム教の争いの歴史といってもよい。
現在もインド・パキスタン間には、
カシュミール問題といったしこりが残っている。
本書はインドにおけるヒンドゥー教とイスラム教の関係を、
まずは教義の相違からはじまり、
だんだんと著者の専門領域、社会関係まで追求していく。

簡単にインド史を振り返る。
おおむかし。インダス文明。
BC1500頃。アーリア人の侵入。バラモン教誕生。これがのちにヒンドゥー教になる。
BC268。仏教大好きアショーカ王。仏教は1000年をかけてすたれていく。
AD1206。イスラーム支配開始。奴隷王朝。
AD1526。ムガル帝国。これもイスラーム支配。
AD1600。イギリス、東インド会社を設立。植民地化を推進。
AD1857。セポイの反乱。鎮圧される。ムガル帝国崩壊。イギリス支配開始。
AD1947。インド・パキスタン分離独立。

イスラームはなぜヒンドゥーに勝ったのか。

著者は教義に理由を求める。
神前の平等を説く一神教のイスラームは連帯感・同胞感をもちやすい。
一方、多神教のヒンドゥーはカーストごとにばらばら。
イスラームの勝利は必然だったという。
次の指摘もおもしろい。
イスラームに支配権を奪われたヒンドゥーの上位カースト。
かれらは連帯してイスラームに対抗することをせず、
腹いせに下位カーストをしめあげた。
だから3000年もカースト制度が続いたのではないかというのが著者の試論。
うん、刺激的な良書でした。

2005/12/28(水) 16:26:24

「イスラームの日常世界」(片倉もとこ/岩波新書)*再読

→大学時代、レポートのために読まされた本。
だれだ? 新書に赤線を書き込んだのは。
それも定規を使わず汚い。あたまの悪そうな大学生。
かつてのわたしです。

去年のインド旅行でバングラデッシュのひとと話した。
そういう体験があると読書が能動的なものになる。
ああ、かれは不良イスラームだったんだな。
ビールをぐびぐび飲みながら、バーで話したのだから。
ご存知、イスラム教徒はお酒を飲んではいけません。

いま宗教に関心を持っている。
宗教の本質をひとことでいえば「祈り」だと思う。
人間は自由ではない。
生まれてくる環境を自分では決められない。顔も性格も知力も。
いつ死ぬかも同様。死んだ後にどうなるのかも知りえない。
そんな人間にもできることがある。祈りです。
イスラームにはふたつの祈りがあるという。
サラート。唯一神アッラーにひたすら感謝をささげる祈り。
ドゥアー。唯一神アッラーに頼みごとをする現世利益のための祈り。
サラートの存在がイスラームを他の宗教から特徴づけるそうです。

2005/12/28(水) 15:47:11

「私の文章作法」(清水幾太郎/中公文庫)

→清水幾太郎は文章上達のために読書日記をすすめている。

「読書日記の効用ですか。そうですね。
自分の感想を書こうと身構えるまでは、面白いという感じ、退屈な感じ、
そういう感じしかないものです。
そして感じというものは、一日二日と時間が経つにつれて、どこかへ消えてしまうものです。
感想を書こうとすると、感じでは済みません。
感じは、心の中にあるだけで、書けるものではありませんから。
書こうとすれば、この漠然たる感じを反省して、
書けるように整理せざるを得ません。
読書日記というのは、そこへ自分を追い込むことなのです。
そこへ追い込まれて初めて、
読者の精神と作者の精神が噛み合うようになるのです。
いつも漠然たる感じだけで済ませていたら、何百冊読んだところで、
それは読者の心に深く刻み込まれることはないでしょう」(P160)


まったく同感です。
興味ないでしょうが、わたしのやり方を書きます。
本を読むときはかならずそばに紙(チラシの裏)とペンを用意しておく。
読んでいる最中、気になったことをその場で単語だけでも紙に書きつける。
そのメモが読了報告を書くときのとっかかりになる。
メモは本が通り過ぎていったあと、精神につけていった傷のようなもの。
読了報告は、その傷を処置すればいいということになる。
たまに白紙のまま読み終わる本もある。
こういうときは感想を書くのに難渋する。
ちなみにこの「私の文章作法」。
そばに置いた紙は読後も白紙のままでした……。

2005/12/28(水) 14:47:52

「小説――いかに読み、いかに書くか」(後藤明生/講談社現代新書)絶版*再読

→まえに読んだのは大学に入ってばかりのころだったか。
知らないことばかりで圧倒されたのを覚えている。
まだまだ読書が足らないのだとだいぶあせった。
いまはもうあせらない。ちがいを感じるだけである。人間がちがうのだ。
関心の所在がじぶんとはまったく異なる人間の存在にため息をつくしかない。

冒頭、後藤明生は小説を定義する。

「小説」=「何をいかに書くか」=「何を」+「いかに」

「何を」のほうは一般化することはできない。
才能や個性と呼ばれるその作家にしかないものである。
その作家を形づくった固有の体験もそう。いずれにせよ天与のものである。
しかし「いかに」は別だと後藤明生はいう。
この新書のスタート地点である。
「いかに」=「方法」は学び取ることができる。
たとえばドストエフスキーがゴーゴリから喜劇化の方法を学習したように。
後藤明生はこの新書でみずからをドストエフスキーに擬する。
日本のゴーゴリたる近代文学者たちを俎上(そじょう)にあげる。

「何を」と「いかに」。
このふたつを小説の構成要素と見る視点はおもしろい。
その前提の上で読後感を簡単に述べる。
「何を」と「いかに」の比重に違和感を覚えた。
後藤明生がいうほど「いかに」は小説にとって重要なのか。
「いかに」など「何を」の圧倒的な猛威のまえにひれふすだけものではないか。
「いかに」は自由に取捨できる複数の選択肢ではなく、
「何を」が唯一的に決定する宿命めいたものではないでしょうか。
後藤明生の作品をひとつも読まなくても、
この小説家が「いかに」を重視して創作しているのがわかる。
それをもって「何を」がないからだろうというのは意地悪なのかどうか。
この本のタイトルは「小説――いかに読み、いかに書くか」。

わたしの関心は 「何を読み、何を書くか」 にしかありません。

2005/12/28(水) 13:28:56

「釈尊物語」(ひろさちや/平凡社カラー新書)絶版

→インドのカラー写真がたくさん。これを買った理由です。
ブッダが身近に感じられるのはインドを旅行をしたからだと思う。
生まれたルンビニー、悟りを開いたブッダガヤー、亡くなったクシナーガル。
ほかにも八大聖地と呼ばれる仏跡地はすべて行った。
当時は投げやりな義務感から足を運んだに過ぎなかった。
しかし今になってとても貴重なことのように思えてくる。
この本のようなブッダの伝記を読んでいると行った場所が思い返される。
するとブッダが知らぬひとではないように思えてくるのだからふしぎなものです。

*インド仏教八大聖地について。
個人で行こうと思っているかたへ。
2004年にわたしも八大仏跡を巡礼しました。
当時、困ったのが情報不足。
まず行きかたがわからないところがある。あと宿泊環境もわからない。
インドのネット屋で必死に検索したのも、いまとなってはいい想い出です。
しかしそのときは不明点を解消するサイトがなかったのを覚えています。
そのためいざとなったら野宿をも辞さぬ覚悟でサンカーシャへ行きました。
(ちなみにサンカーシャに宿泊施設はあります)
仏跡巡礼を考えている方、どうぞなんでも聞いてください。わかる範囲でお答えします。
万が一、(以前のわたしのように)インドのネット屋でこの「本の山」を発見したかたが
いらっしゃったら、その偶然に驚くばかりです(笑)。

2005/12/28(水) 13:04:55

「芭蕉を歩く 奥の細道」(吉岡勇著/駸々堂ユニコンカラー双書)絶版

→「おくのほそ道」は何度も読んだが、
そこに描かれている風景を見たことはない。
おりしも古本市でこの薄い本を買う。200円。カラー写真がたくさん。
視覚で「おくのほそ道」を理解しようというわけです。
結果は拍子抜け。たしかに写真はどれもきれいなんだけど、うーむ。

「おくのほそ道」を読む。風景をイメージする。
そのじぶんのイメージのほうが実際の写真よりもしっくりとするんだ。
「おくのほそ道」を読むと、ぜんぜん関係のないかつての旅行が思い返される。
芭蕉が普遍的な旅を描いているからである。
読者は私的な旅の記憶を「おくのほそ道」とダブらせる。
そういう喚起力をこの江戸時代の紀行文はもっている。
概説書が無数に発行されるゆえんである。
わたしは原文だけを何度も読み返すことにします。

2005/12/20(火) 17:13:58

「おくのほそ道」(芭蕉/岩波文庫)*再読

→1時間強で音読する。なんとも気分がよい。
旅について思う。
ほんとうの旅が始まるのは、その旅が終わってからではないか。
だれしも旅の途中は無我夢中である。
じぶんが旅の全体図の中でどこらへんにいるか見当もつかない。
終わってはじめて全体ができる。
あそこが旅のはじまりだったのだとわかるようになる。
旅のクライマックスもわかるだろう。
人間もそう。生きている人間と人間がそう、うまくいくわけがない。
けれども、旅を振り返りもう会えないのだと思うとき、懐かしさがこみあげる。
過去の人間になっているからである。

旅は人生そのものだという。
しかし人生を終えたとき回顧する己がいるのかはだれも知らない。

2005/12/20(火) 16:44:44

「図解雑学 仏教」(広沢隆之/ナツメ社)*再読

→何度でもいいます。

ナツメ社の図解雑学シリーズはよろしい。

なにより復習がしやすいのがいいのです。
見開き左ページが文章、右ページが絵と図。
このたびは右ページだけぱらぱら読んだ。
これでひと通り仏教知識がおさらいできるのだから便利この上ない。
わからないところだけ本文を読めばいいのだから楽ちん。

思う。やっぱ日本の仏教ってめちゃくちゃ。
日本仏教は、仏教を名乗ってはいけないのではないでしょうか。
そもそも百済からの仏教公伝がおかしい。
護国のために輸入された仏教ってなんですか(笑)。
ブッダは国のことなんて一切論じていないはずなんですけれども。
密教で現世利益とか、笑っちゃう。

インドで生まれた仏教は中国でそうとう痛めつけられて、
瀕死の重体が朝鮮経由で日本に届けられ、最終的にとどめを刺された。
そんなところなのでしょう。
日本仏教を中傷しているわけではありません。
ただブッダが説いたものとは別物ではないかと。
宗教的な機能についてはこれから勉強するのでまだわかりません。
たぶん日本人にはインド産のものより数倍も効くのだと思います。

2005/12/20(火) 16:20:59

「ブッダの人と思想 (上)(下)」(中村元/NHK出版)

→1995年度「NHKこころの時代」のテキスト。
NHKブックスから同名タイトルの本が中村元・田辺祥二共著で出版されている。
調べてみるとテレビ番組で中村元が語った内容を、
田辺祥二がまとめたのがNHKブックス版になるらしい。

哲学嫌いのわたしには「毒矢のたとえ」が印象的(「マッジマ・ニカーヤ」)。
ある人が毒矢に射られて死に瀕している。
この場合、重要なのは毒矢を放った人間の身分ではない。
王族が射た矢か、射たのは庶民か、奴隷の矢か、など考えるのは無用である。
それより一刻も早く毒矢を抜き治療することが重要なのだから。
哲学的な世界認識論を問われても、ブッダは一切答えなかったという。
その理由としてこの「毒矢のたとえ」をあげたゴータマ・ブッダ――。
仏教のスタート地点は「苦」にあることを改めて思い返す。

原始仏教(ブッダ)がいっていることはそう難しくはないのではないか。
人間というのはどういう存在か。
欲望を持ち、そしていつかは死ぬべき存在である。
だから苦が生まれる。欲望がかなえられないのは苦である。
愛する人が死ぬのは苦である。じぶんがいつか死んでしまうのも苦である。
この苦をどうするかが仏教の課題なのだ(仏教ではこれを四苦八苦と細かく分類する)。

無常をブッダは語る。常なるものはない。すべては変わりゆく。
あるように見えるものもたまたまの因縁にすぎない。
因が縁に依って現われているだけである。縁がなくなれば消えうせる。
そもそも人間だって、
両親の出会いというたまさかの因縁で生まれたにすぎないではないか。
縁がなくなればその人間は死ぬ。なんのふしぎがあろうか。
すべては無常である。空である。因縁は空である。
だから煩悩を捨てなさいとブッダはいう。
そのためには実践が第一と、ここで中道、八正道を説く。

別の言い方をする。
人間には苦がつきまとう。苦があるならその苦には原因がある。
原因があるなら苦を滅す方法がある。
方法があるなら涅槃(ねはん=苦を滅した境地)がある。
その苦を滅するための方法が八正道である。
かくして八つの正しい行ないをブッダは推奨する。
難しいのはブッダの教えではない。教えを実践することが難しいのである。

先日、ある自己啓発本を熟読した(恥ずかしい)。
その方面では古典の「道は開ける」「人を動かす」です。
今回、気づいたことがある。
テキストに引用されている原始仏典と、その自己啓発本の内容がそっくり!
これはいったいどういうことなのでしょう。

2005/12/20(火) 15:11:20

「インド」(上野照夫/保育社カラーブックス26)絶版

→昭和38年発行。著者は昭和33年の「インド仏跡調査隊」に加わった。
そのときの写真とルポ。海外に行っただけで本が出せる時代があったんです。

上野照夫はインド美術が専門の学者さん。
彫刻の見方がたいへん勉強になった。
わたしもインド旅行中、何度も博物館に足を運んだ。
おかしなものだと思いながら。
日本では博物館、美術館の類はここ10年行っていないというのに。
だから彫刻・絵画の見方がわからないのも当然。
インドの妖しげな美術品のまえで当惑するだけだった。
あるいはアリバイ作りのように熟視するか。
今回、プロはこう見るものなのかと感服した。引用。

「男性中心の仏教世界に対して、ヒンドゥー教の世界は女性的な色気が多い。
その上さらに、男女間の愛欲が渦を巻いている。
仏教窟院が本来、禅定の場であるとするならば、
ヒンドゥー教窟院は、人々が歌い踊り、自然の生にひたることによって、
神々とその喜びを共にする場であるといえる」(P145)


そうそう! と手を打ちたくなる。
わたしも感じたことを実にうまく言語化している。

2005/12/20(火) 14:30:37

「ひろさちやが聞く ヒンドゥー教の聖典」(ひろさちや・服部正明/すずき出版)*再読

→ヒンドゥー教。
聞きなれぬ宗教だと思う。わかる範囲で簡潔に説明します。
ヒンドゥー教はインドで発祥した多神教。ネパール、南アジアに広がった。
最大の特徴は、キリスト教、仏教、イスラム教などと異なり特定の開祖がいないこと。
開祖がいないところにどうして神という観念が生じるのか。
たとえば暴風雨。古代の人びとは大自然の暴威を神と名づけるしかなかった。
同時に暴風雨によってもたらされる雨は、農作物の豊穣にも寄与することを知る。
のちにこの神はヒンドゥー教でシヴァ神と呼ばれることになる。
破壊(死)と創造(生殖)をつかさどる神である。

インドでは神が生きている。仏陀やキリストのように死んではいない。
町中いたるところでシヴァ神のポスターが売られている。
アイドルのポスターとともに。
このようなアイドル神が、ヒンドゥー教にはシヴァ神以外にもたくさんいる。
有名なのはこのシヴァ神と双璧をなすヴィシュヌ神。
シヴァが破壊を象徴するのとは対照的に、ヴィシュヌを世界を維持する神である。
両神の妻も崇拝の対象となる。
神々の名前を知ればヒンドゥー教がわかるかといえば、そうではないのが難しいところ。

「ヒンドゥー教とは宗教だけではなく、文化や生活の習慣、社会制度など
あらゆるものが一体となった複合体のことである」(P124)


ヒンドゥー教の家に生まれるとする。
その時点で両親の身分を引き継いで一生を生きていくことを余儀なくされる。
ヴァルナ(四姓)である。このほかにもジャーティ(生まれ)がある。
ジャーティはインドに3000以上ある職業グループのこと。
子は親の職を継がなければならない。結婚も制限される。
幼いときに結婚相手を決められてしまう幼児婚もめずらしいものではない。
この我われには理不尽に見えるシステムをなぜインド人は手放さないのか。
インドで3000年以上の歴史をもつ輪廻思想のためである。
人間は一回死んだからといって終わりではない。幾度も生死を繰り返す。
そのときに肝心なのが業(カルマ)。業とは行ないのこと。
善業を積めば来世で報われる。
悪業を繰り返せば来世でその報いを受けなければならない。
これが輪廻思想である。
恵まれない環境に生まれたらば、これも前世の報いとすぱっとあきらめる。

では、人間にできることは何か。
来世に向けて何をすべきとヒンドゥー教は教えるのか。
ダルマ(天分)、アルタ(実利)、カーマ(性愛)の3つを順守せよという。
ダルマ。天与の身分を逸脱することなかれという教えである。
アルタ。商売に励め。金をもうけよ。それが社会貢献になる。
カーマ。セックスに励め。子孫繁栄こそ人間の務めである。
ダルマ、アルタ、カーマに従うことが来世の幸福を約束する。

ならインドの聖地に行くとごろごろいるサドゥー(修行者)。
あれはなんなのか。アルタ、カーマを果たしているようには見えない。
サドゥーの存在はアーシュラマ(四住期)とも関係しているのだが、
ここでは詳述を避ける。サドゥーの目的だけ説明する。
ヒンドゥー教徒は輪廻転生に思いをめぐらしている。
しかし、と考えるものもいる。どの道、生まれることは苦であると。
輪廻転生の輪から抜け出たいと願うこと。これが解脱である。
サドゥーは輪廻からの解脱を目指し修行する。
梵我一如(ぼんがいちにょ)を悟ることで解脱するといわれている。

ヒンドゥー教。民衆にひたすら我慢を強いる窮屈な宗教である。
それが祭りで爆発する。ヒンドゥー教は祭りに真髄があるのかもしれない。
空腹時の食事や疲労時の睡眠を思い返すとよい。
理不尽なものへの忍耐を続けた精神が一気に開放されるのである。
祭りの際は、カースト(身分)の規定もゆるめられる。
我われ日本人には思いも及ばぬ陶酔感、開放感があるのではなかろうか。

メモ。ひろさちやさんがいいことを言っていた。

「人間は、すべてを神に任せて、できる範囲で努力していく、
そうした生き方を教えるのが宗教だと、わたしは思っています」(P182)


2005/12/12(月) 16:07:21

[アジアン・ジャパニーズ2」(小林紀晴/新潮文庫)

→旅行エッセイの一種。著者はベトナムとフランスを旅する。
そして両国に定住している同世代の若者たちへインタビュー。
なぜ日本からわざわざ海外へでたのか。
「何者かになろうとしている若者」へ向ける著者の視線は温かい。
それは著者自身の葛藤にダイレクトにつながっているからである。
世界各地で夢を追っている若者たちのことを思う。
ふつうの日本人の生き方を拒否した彼らの何人が成功を手にするのだろう。
刺激を受ける。負けてはいられないぞと思う。

2005/12/12(月) 15:16:34

「道は開ける」(デール・カーネギー/香山晶訳/創元社)*再読

→現実はそんなに甘くはない。
自己啓発本を読んだくらいでうまくいくものではない。
いくら書かれた通りに実践したところでダメなことはいくらだってある。
だから自己啓発本は売れ続ける。
買う。読む。発奮する。忘れる。壁にぶつかる。また、買う……。
この古典から引用する。

「今日という日は、もう二度とめぐっては来ないことを忘れるな」(P40)

「私が痛感していることは、
私たちが日常生活で得られる心の安らぎや喜びは、
自分の居場所や持ち物や、身分によって左右されるのではなく、
気持ちの持ちよう一つで決まるという点だ」(P175)


「私が今日これから会おうとしているのは、
おしゃべりで、利己的で自己中心的で、恩知らずの人間どもだ。
だが私は別に驚きもせず、困ってもいない。
そんな連中のいない世界など想像できないのだから」(P202)


皮肉屋バーナード・ショーからの引用を好むカーネギーは、
この本の「序」でこう述べている。

「本書にはことさら目新しいことは書いてないけれども、
ふつうあまり実践されていないことが多く出てくるだろう。
(……) 私たちの欠点は無知ではなく、無為なのである」


毎日、赤線を引いたところを読み直している。
実践している。まだトラブルが続いているからです。
毎日、自己啓発書を読む。
これ以上にないほど恥ずかしい告白だと思う。 赤面する。

2005/12/12(月) 14:43:54

「人を動かす」(デール・カーネギー/山口博訳/創元社)*再読

→自己啓発本。それは文学からもっとも遠いもの。
本書は自己啓発系書籍の古典。「道は開ける」とセットでロングセラー。
ここ10日というもの、毎日「人を動かす」「道は開ける」を読んでいた。
読み返すのは4年ぶりくらい。
赤線が引かれているその上にまた新たな傍線を加えたりしながら必死に読んだ。
毎日、毎日。とても恥ずかしい行為だと思う。
しかしそうでもしなければ乗り越えられないトラブルが身に降りかかった。
ほんとうに困った。悩んだ。この本を再読することにした。
自己啓発本は信仰を持たない現代人のための宗教書である。
だからその感想を書くくらいみじめなことはない。全肯定しかないのだから。

ため息をつきながら引用する。

「友を得るには、相手の関心を引こうとするよりも、
相手に純粋な関心を寄せることだ。 (……)
人間は他人のことには関心を持たない。
ひたすら自分のことに関心を持っているのだ――朝も、昼も、晩も」(P74)


「人はだれでも他人より何らかの点ですぐれていると思っている。
だから、相手の心を確実に手に入れる方法は、
相手が相手なりの世界で重要な人物であることを率直に認め、
そのことをうまく相手に悟らせることだ」(P144)


「みずからかえりみて、自分に対する強烈な関心と、
自分以外のものに対するいいかげんな関心とを比較し、
つぎにその点に関しては、人間はみな同じであることを考えれば、
あらゆる職業に必要な原則を把握することができる。
すなわち、人を扱う秘訣は、相手の立場に同情し、
それをよく理解することだ」(P230)


学んだことを要約する。
人付き合いの上達のためには、

もっともっと人間を嫌いにならねばならぬ。

なまじ人間に期待するからうまくいかなくなるのだ。

2005/12/01(木) 19:51:08

「好きになっちゃったインド」(西牟田靖・福田素子・森永秀史・下川裕治/双葉社)

→古本屋ワゴン100円本。定価が1500円だからほんとうれしい。
もちろん定価だったら買わない。100円だから買う。100円だからたのしい。
インドじゃ100円も払えば立派なチキンカレーが食べられる。
そのインドの本を買うのに1500円はだせません。

モノクロだけど写真がいっぱい載っていたのがよかった。
思い出すな。日本の対極にある国、インド。
きたなくて、公然と差別が存在する、約束を守らない国、インド。

インド小説ってあるのかな。旅行記ではなくて。
わがままな人間がたくさん登場して差別が連鎖する。
そのくせどこかしら宗教的な雰囲気があるという。
主人公は、宿命で人生が決められているのをなかば知りながら(カースト制度)、
なぜか自由を満喫しているかのごとく明るい(インド人はとにかく明るい)。
そんな小説を書きたいけど、書けないだろうな。
いや、わかんないぞ。だけど、身近にあることを書くのが小説だよね?
そうじゃないとリアリティがなくなる。
最近の小説が突出したものにならないゆえんである。うーむ。

2005/12/01(木) 19:20:46

「生きる勇気が湧いてくる本」(遠藤周作/祥伝社黄金文庫)
「信じる勇気が湧いてくる本」(遠藤周作/祥伝社黄金文庫)
「愛する勇気が湧いてくる本」(遠藤周作/祥伝社黄金文庫)
「愛と人生をめぐる断想」(遠藤周作/光文社文庫)
*再読

→最近、トラブルがつづいている。
夜、お酒を飲みながらこういう本を読む。
4冊とも箴言集(しんげんしゅう=アフォリズム)。
いままで発表されたエッセイから抜粋したもの。
大学生時代に遠藤周作の著作の大半は読んでいる。
大学卒業とともに遠藤周作も卒業した。

相変わらずわかったようなことを言っている。
人生について、男について、女について――。
だけど、笑えない。それほど精神的に疲れている。
ウソでもいいからそういうことばにすがりつきたい。
確信をもったことばにだまされたいのである。
生きるということは、何かを信じるということでしょう。
何も信じないというあなたも、信ずるものが世にないということを信じている。
信じるということは、その信じるものにだまされるということだ。
遠藤周作はイエス・キリストにだまされることを選択した。
そして読者をだまそうとした。

それはそんなに悪いことでもないんじゃないかなと思うようになってきた。
どうせ何かにだまされるのが人生ならば。
だまされたいなと思いながらお酒を飲んだ。あいまにページをめくった。

2005/12/01(木) 17:30:53

「裁判の秘密」(山口宏・副島隆彦/洋泉社)

→これおもしろい! 
新たな分野の本に手を出すとこういう当たりがあるのか。
著者は現役弁護士。日本の裁判の裏側(実情)を赤裸々に語る。
著者は本書で何度も繰り返す。法学の教科書なんてうそっぱち。
あんなものは現場を知らない学者の妄言。信じるだけバカを見ると。
これは法学の裏の教科書ともいえる。建て前と本音が法学にもあるようだ。

主張の大筋をかんたんにまとめると、

日本の裁判はいんちき。八百長。

と、こうなる。民事(訴訟)も刑事もまともに機能していないらしい。
まず民事。判決がでるまでがとにかく長い。3、4年はざら。
で、判決が出たところで役に立たないという。
金を貸す。返さない。数年かけて裁判をする。勝訴する。
それでも金を取り返せないのが日本の裁判制度なんだとか。
強制執行逃れがいとも容易にできるためらしい。

刑事訴訟もどっかおかしいと。有罪率の異常な高さ。
これは法廷上の証言並みに検事側の供述調書が重視されるためらしい。
だから、いったん起訴されたらほとんど無罪になることはない。
出来レースではないかと著者は主張する。冤罪もかなりあるのではとも。
国を相手取った行政訴訟はやるだけ無駄だと失笑する。
裁判所はぜったいに行政が不利になる判決はくださない。
「官と官は争わない」。
つまりは三権分立など日本では成立していない。
判決をくだすのは裁判官。
裁判官というのは法律オタクのおかしなやつが多いと内情をすっぱぬく。

山本夏彦を愛読する著者の物言いは痛快。引用する。

「通常、民事裁判の被告になる人びとというのは、言ってはなんだか、
社会生活を常識の範囲で行なえない人たちだから裁判になるのである。
あまり声高には言いたくないけれども、
やはり言わなくてはならないことなので言うが、
人権人権というけれども、そんなきれいごとが通用しない人たちが
多くの場合は裁判の相手方になるのである」(P67)

「裁判で、何かが解決したり、損害を回復したり、自分の権利というものを
実現できると信じている人びとが世の中の大半であろう。
しかし、他方に運命というものがある。できないことはできない。
だからその運命を甘受させるのが、
相談を受けた弁護士の本当の仕事なのかもしれない」(P203)


法学教科書とセットで読んでおいてよかったと思う。
どちらかだけでは片手落ちになっていたでしょうから。
文庫にもなっている。宝島文庫。残念ながら絶版。
それにともない単行本のほうで復刊。現在購入可能。
まあ、わたしのようにブックオフ105円コーナーで見つけたら、
読んでみるのも一興かもしれません。
今回、法律関係の本を3冊読んだ。すべてブックオフ105円本。
ふむ。ブックオフはわたしの大学かもしれません。百円大学。

2005/12/01(木) 16:32:55

「法学入門30講 <新版>」(石川明・編/酒井書店)

→なるほどと思ったところをメモ風に書きます。
法学を学んだ方には常識以前のことかと。読み飛ばすか、憫笑してください。

「法は道徳の最小限」。法は道徳と常識を基礎に持つ。
ちがいは強制力(効力)の有無。法は強制力を持つのが特徴。
人命の尊重や窃盗の禁止。太古からのルール。これを自然法という。
この自然法から生まれたのが実定法。
言わずもがなの自然法をはっきりと明記したものである。
この実定法は成文法と不文法にわかれる。
成文法はナポレオン法典を起源に持つ。ヨーロッパ大陸に広がった。
不文法は成文法とは異なる、明文化されない法のこと。
不文法には慣習法、判例法がふくまれる。イギリス、アメリカが使用。

近代法の発生は、自由と平等をうたったフランス革命にある。
それまでは「朕が国家」の絶対王政。国民は封建制の下での身分社会。
だが近代市民革命により、市民社会と国家(夜警国家)に分離した。
「身分から契約へ」(個人の尊重)。
背景には「見えざる手」(資本主義)への信頼があった。
しかし資本家と労働者の別が貧富の差を増大させる結果に。
「契約から身分へ」(貧困問題)。
国家は国民の自由をある程度規制して、法によって社会的弱者を守る必要が。
以上が近代法の成立から現代法に移行するまでの流れ。

「日本は本来、法なき国家」。
明治時代まで「自由」「権利」に相当する日本語がなかった。
不平等条約改正に向けて、国家主導の(上からの)近代法整備(輸入)。
太平洋戦争無条件降伏による、マッカーサー法案の丸呑み(日本国憲法)。
日本国民はむかしもいまもあまり法を頼りにしないで生活している。

税込み価格3570円。大学の教科書。ブックオフ105円ゲット。
351ページ。よく読めたとじぶんでも思う(笑)。民法、商法はさっぱりわからず。

2005/12/01(木) 15:47:11

「法学入門」(遠藤浩・久保田きぬ子/有斐閣新書)

→法律に興味を持った。法律ってなんなのだろう。
むかし、大学に入りたてのころ、法学部の知人に質問したことがある。

「なんで人が人を裁けるの?」

答えはなかった。意外そうな顔をされたのを覚えている。
その疑問はいまも変わらずにある。
ようやく機が熟したのか、今回法律を勉強するにいたった。

新書サイズでコンパクト。それがこの本のいちばんの魅力。
また欠点ともなる。説明できる分量が少ない。
結果、よくわからなかった。だけど、それでいいのである。
最初からの予定通り。まずはなじみの少ない法学用語にふれるだけでいい。
あとは薄いのを一気に読むことで、全体図をとらえることができたら。
こちらはまったくの門外漢なのだから。
勝負のまえの腹ごしらえのようなものである。

2005/12/01(木) 15:24:39

「書きあぐねている人のための小説入門」(保坂和志/草思社)

→品というものが人間にはあるみたい。
この保坂さんはとにかく上品なわけです。
こともなげにストーリーを否定する。引用。

「ここまで読んで、『それ(ストーリー)が、なぜいけないの?』
『本を読んだり、ドラマを見たりする面白さって、
それ(ストーリー)に尽きるんじゃないの?』と思った人は、
ストーリーがしっかりしているエンターテイメント小説を目指すことを勧めます。
人間には外からどう言われようと、どれだけ自分で努力してみても、
絶対に変えられない“型”みたいなものがあって、
ストーリーにしか反応できない人がいっぱいる。
これはもうどうしようもない」(P136)


辛辣(しんらつ)ですね。
あっさりとダメだしされてしまった下品なわたし(苦笑)。
保坂さんはストーリーなどだれにでも作れると嘲笑する(え、そうなの?)。
書きたいのは微妙な味わいにあるという。たとえば、寄せては引いていく波。
あの波をぼーっと眺めているときの感覚を文章で表現したいらしい。
さすが上品なひとはちがう。下品なわたしは海をぼんやり眺めることなどない。
夕飯に食べる魚のことを考えてしまう。

ストーリーを否定した保坂さんは風景描写のちからを強調する。
例としてじぶんの小説から引用している。
わずか9行。なのに読めないわたし。字面は追えてもイメージがわかないのだ。
何度、繰り返してもだめだった。
品の上下はこんなにも深い断絶を人間にもたらすものなのかと愕然とする。
保坂さんはじぶんが成長するために小説を書いているという。
「読者は?」などとは恐れ多くて聞けやしない品の良さである。
この本はブックオフ105円コーナーで買った。とことん下品である。

2005/12/01(木) 14:21:18

「想い出づくり」(山田太一/大和書房)絶版

→全14回のテレビドラマシナリオ。昭和56年放送。
1年半ほどまえにツタヤでレンタルをして見たことがある。
衝撃を受けた。むかしのテレビドラマはこんなにおもしろかったのか。
現段階でいちばん好きなテレビドラマです。
今回、それをシナリオで再確認。シナリオ勉強の意味合いもあります。

独身の女が3人。古手川祐子、田中裕子、森昌子。
それぞれに結婚へのプレッシャーを日々感じている。
しかし、と思う。このままでいいんだろうか。
このまま結婚してしまっていいのだろうか。
結婚をすれば人生が決まってしまう。結婚までのわずかなモラトリアム(猶予期間)。
熱いものがほしい。かっと燃えるようなことを体験してみたい。
独身時代の「想い出」がほしいのである。せめて海外旅行でも、と思う。
折しも3人はそろって旅行詐欺の被害にあう。だましたのは柴田恭平。
女3人は力をあわせ柴田恭平の居所を発見する。
詰問(きつもん)に逆ギレした柴田恭平が叫ぶ。

「他になんにもねえのか、手前ら、結婚までに、

他になんにもねえのか?

(……) なんにもねえから、旅行にすがってるんだ。
せめて海外旅行ぐらいって」


そこからこの物語は始まる。「想い出づくり」――。

打ちのめされる。いったいどんな才能がこういう大傑作を書かせるのか。
想像も及ばない。体験か。技術か。観察力か。想像力か。
こういうのを書きたいと思う。あまりの山の高さに尻込みしながらも。
読みながらおもしろいなと何度も思う。何度も笑う。泣いている。
先に読み進めることができずに、いいな、と幾度もおなじせりふを声に出す。
どうしたらこんないいせりふを書けるんだろう。胸に突き刺さるせりふ。
忘れられないせりふとシーンがいくつもある。
なんの関係もないふとした折にそれらのせりふやシーンが胸をよぎるのです。
悔しいから、テレビドラマの分際で、と思う。
視聴率乞食のテレビのくせにこんなひとを感動させるな、と強がるしかない。

2005/11/18(金) 16:56:14

「おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄」(芭蕉/岩波文庫)

→初心者向けの角川文庫から入り、講談社文庫を経由して、最終到着地は岩波文庫。
原文は6回読んだことになる。飽きないのはなぜか。
読むたびに旅の高揚感がよみがえる。
かつての旅行のひとコマひとコマが切実に思い返される。
行った場所は芭蕉とは無縁の国外であるのにもかかわらずである。

構成が心憎い。
まず日光でさらりと同行の曾良(そら)を紹介。
飯塚で持病のつらさを告白。長旅への不安をもらす。
かと思えば壷の碑で旅の悦びを謳(うた)いあげる。
表日本(太平洋側)の名所松島では風光に感嘆、平泉では年月に思いを馳せる。
眼福のあとには艱難と、この次に山越えをもってくる。
羽黒三山。ちょうど旅の真ん中でこの宗教的聖地を訪れる。
宗教的静寂の後は繁栄する酒田へ赴く。裏日本(日本海側)である。
象潟へ。この象潟は松島と左右対称のごとく比較される。光の松島、陰の象潟。
越後路で旅の疲労を訴える。旅も終盤に入ったことが意識される。
一振で遊女との軽いロマンス。金沢で知人の死を知り慟哭する。
山中では曾良と、天竜寺では北枝と別れる。離別の連続である。
次に再会をもってくる。福井で等栽と十年ぶりの再会をはたす。旅の醍醐味である。
クライマックスは敦賀での月見。
打ち上げを忘れないのもさすが。種の浜で豪商と宴会。酒をのむ。
最終段の大垣では一度は別れた曾良とも再会し、また旅に出るところで終わる。

偶然にまかせてあてのない旅をした芭蕉が「おくのほそ道」を書く。
するとなぜか「おくのほそ道」は神が設計したかのような完全な構成美をもつ。
理想的な旅になる。
偶然の連続だった旅が「おくのほそ道」では物語のような必然性を帯びる。
偶然が芭蕉の中で必然にかわったがためである。
そこに旅の魅力がある。旅をする人間の秘密がある。

メモ。解説に教えられる。
この「おくのほそ道」におけるリズムの良さは省略からもたらされているとのこと。
省略すると意味こそわかりにくくなるが、テンポが格段にあがる。リズムが生じる。
いままで文章を書く上でわかりやすさを追求してきたが、それだけでは不十分だと知る。

「曾良旅日記」「奥細道菅菰抄」は研究者向け。
研究と鑑賞はまったくの別物である。

一般読者は研究者に、ことさらへつらう必要はない。

世界中を放浪している旅人と書斎で本に囲まれた研究者。
こと鑑賞となったらどちらが「おくのほそ道」の真髄を
より深く味わえるのか知れたものではない。

2005/11/18(金) 15:00:48

「シナリオの基礎Q&A」(新井一・原島将郎/ダヴィッド社)

→「シナリオの基礎技術」「映画 テレビ シナリオの技術」を読んだので、
同著者のこれもついでだからと。前著との重複もかなりある。丁寧な一問一答形式。

最近のテレビドラマや映画を見ていますか?
わたしはぜんぜん。テレビはちらっと見てもすぐ消してしまう。
もちろんおもしろくないからだけど、べつに非難しようとも思わない。
あのような軽いノリがいまは受けるのだろうから。
テレビ局だってボランティアではない。多くのひとが求めているのを放送するのは当然。
むしろ間違っているのはこちらのほう。わたしが好きなのは山田太一ドラマ。
だけど、あんな感じのをいまやったところで視聴者の共感は得られない。
だからむかしはよかった、なんてことは言わない。時代がちがうだけ。

2ちゃんねる創作板のシナリオ関係のスレッドを読む。
いかにプロデューサーとコネをつけるかが話題になっていた。
どうやらこういうことらしい。いまのテレビは完全にプロデューサー主導。
プロデューサー様の、時代の最先端のさらに先を行ったアイディアが最重要(笑)。
シナリオライターはそのアイディアをもっとも正確に再現してくれるひとが選ばれる。
それからP様が売れている芸能人をピックアップ。かくしてドラマができあがる。

仕方がない。過去の山田ドラマのシナリオを読むことで我慢するか。
山田太一。シナリオを書くまえに役者が決まっていたほうが書きやすかったらしい。
このセリフをぜひこの役者さんに言ってほしい。そういう思い入れが強くあったとか。
ないよなわたし。好きな芸能人もいない。シナリオは(も?)だめかな。

2005/11/11(金) 18:43:04

「何が終わり、何が始まっているのか」(山田太一+福田和也/PHP研究所)絶版

→奇妙な組み合わせの対談本。病院の待合室で読みました。
あれですあれ。よくあるあれ。
いまのニッポンの危機とやらを高みから(ここポイント!)見下ろす。
ひとりでやればいいものを、さみしいのかふたりで(笑)。
福田が相手だからか山田太一さんもわけのわかんないことをいう。
哲学的とでもいうのか。まいっちゃう。
しかし山田太一の魅力というのはこれなんだ。
妙に哲学的で硬い部分と、軽薄なテレビライターとしての好奇心の融合。
ここから数々の名ドラマを生み出してきたのである。
ブックオフ105円本。

2005/11/11(金) 18:20:27

「早春スケッチブック」(山田太一/新潮文庫)*再読

→テレビドラマシナリオ。ツタヤで本作のDVDを借りてきて見た。
せっかくだからと二度見ることにした。
その際、シナリオを開きながら活字がどう映像化されているかを勉強した。

視聴率が7.9%だったという。低視聴率。
納得。第1話から第4話までがとにかく退屈。動きがない。
山崎務と鶴見辰吾の会話が延々と続く。これじゃ視聴者はついてこない。
シナリオで読んだときはそれほど気にならなかったから、
おかげで活字と映像の違いを明確に意識した。
第5話で山崎務と岩下志麻が会うにいたってようやくドラマが動き出す。

役者はセリフをシナリオどおりに言っていない。
語順を変えるくらいなら当たり前。
中には表現を変えてあるところまであった(内容は変えていない)。
で、シナリオのセリフと役者の口からでたものを比べると、
たしかに役者のセリフのほうが適切に思えた。
岩下志麻なら(シナリオにあるよりも)こう言うほうが自然だと(=岩下志麻らしい)。
あと山田ドラマは「泣く」ところまで指定している。
で、指定されていないところで岩下志麻が泣いていた。
そこが実にすばらしい名シーンになっている。役者&演出の勝利か?
概して役者はセリフ以外のところで演技をしたがるものだと気がついた。
セリフは所詮、脚本家に言わせられているもの。
じぶんはそこ以外のところで勝負したいという野心を役者は持つものなのか。
それをわかっているのでしょう。
山田太一も要所要所で「役者の仕所(しどころ)=無言シーン」を作っている。

最終話。かなりシナリオをカットしているけどこれは許可を取ったのかな。
山田太一はシナリオを勝手に変えられるのを嫌悪していると聞く。

あ、ドラマの内容にはまったく触れませんでした。名作です。おすすめ。
ツタヤ新宿店にあります。発見したときは狂喜乱舞しました。
PS2でも見ることができます(確認済み)。

2005/11/11(金) 16:01:00

「シナリオの基礎技術」(新井一/ダヴィッド社)
「映画 テレビ シナリオの技術」(新井一/ダヴィッド社)


→ここ2週間、この2冊にかかりきりになっていた。
折しも、ツタヤ某店から「早春スケッチブック」という
全12回の連続ドラマをレンタルしていたため、
このシナリオ教則本と比較しながらドラマの仕組みを学習した。

どちらもシナリオ学習者ならだれでも知っている古典的な参考書。
だからだと思う。気乗りがせず2年以上積ん読していた。
読んでびっくり。ここまで教えてもいいももかと目を疑った。
ふつう名料理人はレシピを秘伝にするもの。
お客さんだって隠れた名レストランはひとに教えないもの。
しかしこの参考書にはそのような吝嗇(りんしょく=けち)が皆無なのである。
名ドラマ作成のための裏技が惜しげもなく公開されている。
へえ、そうだったのかと何度も手を打った。
以下にその内容を備忘録的にまとめる。


(1)<シナリオ vs 戯曲>

シナリオと戯曲はまったくちがうものだということを思い知った。
アメリカの類書にはシナリオも戯曲も似たようなものだと書かれていたので、
そんなものかとばかり思っていたわたしは仰天した。
本書によると映画・テレビはたしかに根を演劇に持つ。
しかし映像技術が発展した現在では両者は別物と思うべきである。
映像の特徴を一行でいうとするとこうなる。
「映像は(演劇に比して)空間と時間の自由度が高い」。
これに尽きる。この事実から(戯曲とは異なる)シナリオ(だけ)の技術が要請された。

歴史的展開。
はじめカメラは(演劇の)舞台全体を撮ることで満足していた。
フィルムによる芝居の再現である。
が、固定されたカメラを動かすものが登場する。
ここに映画の決定的な飛躍があったという。
カメラは舞台上の特定の役者のアップのみを撮ることができる。
小道具だけを映し出すことも可能になる。
演劇の観客は舞台上ならどこを見てもよかった。
しかし映画館の観客はカメラが指定したところしか見ることができない。
映像芸術の完成である。
カメラは役者の目にもなる。たとえば暴漢に襲われるシーン。
被害者の目で、振り下ろされる凶器を見ることができる。
専門用語で「見た目」というこの技術により、
映像は観客と役者の一体化・同一化を助ける。
深い感情移入を可能とする。
演劇の観客が目撃するだけなのに対して、映像の視聴者は体験するのである。

ドラマは葛藤であるとはよくいわれることである。
演劇の葛藤は人と人の間のものだけである。
しかし映像では画面と画面の葛藤もドラマを生み出しうる。
たとえばキリギリスのように遊び暮らす男がいる。アリのように働き通しの男がいる。
両者の画面を前後して映せば葛藤となる。
以上、映像の優位性を述べた。つぎにシナリオの問題を。


(2)<シナリオ=時間+空間>

もう一度確認すると、映像の特徴は時間と空間の自由度が高いことである。
必然的にその特徴がシナリオでは困難に転化する。
つまりシナリオで難しいのは時間と空間の取り扱い方である。

時間。
シナリオというのはいかに時間を盗むかがポイントになるという。
連続ドラマなら3ヶ月の生活を10時間で描かなければならない。
2時間ドラマで「女の一生」を映し出さなければならないこともある。
なら、どうすればよいのか。
あるシーンから別のシーンへ移る。その際にいかに時間を盗むか。
ナレーション法、タイトル法、しりとり法、カットバック法とあるという。
いままでそんなことを意識してテレビや映画を見たことがなかったので新鮮だった。

空間。
人物の出入りがシナリオでは難しいという。これも言われてはじめて気づいた。
大きくわけてふたつあるらしい。
板付き法(人物が最初から舞台にいる)。
空舞台法(最初は舞台上は空。役者がそこにあらわれる)。
このふたつの混合もある。
男がすでにいて(板付き法)、遅れて女が登場する(空舞台法)などなど。
それぞれ意味がある。板付き法ばかりだと動きのない「絵」が続くことになる。

テレビ。
すぐチャンネルを変えられてしまう。
ファーストシーンでいかに視聴者をつなぎとめるか。
これもふたつあるという。
張り手型(いきなりショックを与える。が、あとで事情説明が必要なのが難)。
撫ぜ型(日常のありふれた茶の間などからはじめ親しみを持ってもらう)。

こういう専門用語って、おもしろい! 舞台裏を覗き見る感じ。
「基礎技術」222ページに専門用語の紹介がある。たまらない。
以上のようなことを意識してテレビを見ると、工夫がわかってより楽しめる。


(3)<名シナリオ=(時間+空間)×???>

感想。シナリオを書くのはそう簡単じゃないぞと気づいた。
いままでつまらないテレビドラマや映画をさんざんけなしてきた。
じぶんのほうがもっとおもしろいものを書けるという驕(おご)りもあった。
だからこの本を読んだわけである。
しかし内部事情を知ると、そうきつくもいえないと弱腰に……。
まず「絵」をあたまに作るのがシナリオ創作の勘所だという。
だけど、あはは、映画はきらいでほとんど見ていないからな、うーむ。


最後に。
この本は聖典化されている。が、中には明らかな誤りがいくつかあった。指摘する。
分裂したセリフを書いてはいけないとある。
というのも、そんなことをしたら精神分裂病の人物ができあがってしまう。
そう書かれている。数えた。お気に入りの決まり文句らしく3度も書いていた。
誤りである。精神分裂病だからといって分裂したことを言うわけではない。

オニールは前衛作家との著述がある。首を傾げたくなった。
あと、オニールが戯曲で独白ばかり使っていたようなことが書いてある。
誤りである。「奇妙な幕間狂言」で一度使っただけである。

ギリシア悲劇にはかならずコミックリリーフ(喜劇的救済)がいたという。
誤りである。なかにはそういうのもあったというだけの話。
以上、著者の博識自慢に対抗してわたしも幼児的におなじことをやってみた。

カテゴリー(Category)欄に「ストリンドベリ」を追加しました。
これでもいろいろ考えています。

ストリンドベリは大好きな作家なのです。
現在では完全に忘れ去られたスウェーデンの近代劇作家であります。
劇作のみならず、小説、評論といろいろな分野で活躍しました。
ですから、カテゴリーにわけると分散してしまう。
かといって、「ストリンドベリ」でカテゴライズ(分類)すると、
だれも知らないから(おそらく)読んでくださるかたもいない。

葛藤がもうひとつ。
このストリンドベリ、翻訳されたときの表記がまちまちなのです。
「ストリンドベリ」「ストリンドベリィ」「ストリンドベーリ」「ストリンドベリー」
「ストリンドベルイ」「ストリンドベルク」「ストリンドベルヒ」――。
がためにブログタイトル横空欄の検索もあてになりません。
(ちなみに「ストリンドベ」で検索するとぜんぶ出ます。他の検索サイトでも同様)

もしこのブログに価値があるとしたら、
「ストリンドベリ」かもしれないと思うことがあります。
ネットで、この劇作家をこれだけストーカーのごとく追い詰めているところは、
「本の山」以外はないのではないでしょうか。
もしかしたら知らないだけかもしれません。思い上がりを笑われるかもしれません。
しかし、そのくらいの思い入れがストリンドベリにあるのです。

このたび、決心しました。
ストリンドベリを独立させます。
「演劇」のカテゴリーに入れておいたら、芝居好きのかたが読んでくださるかもしれない。
そういう甘い考えは捨てます。
むしろ、とまで思います。

ストリンドベリよ、もうだれの目にも触れるな。

墓場まで連れていってやる。
「本の山」のようなさして人気のないブログの改変にも、こんな強い意気込みがあるのです。
2005/11/11(金) 14:56:54

「ビギナーズ・クラシックス おくのほそ道(全)」(角川文庫)*再読

→旅行をしようと思い立ったら、
その土地のガイドブックを読むよりも、
芭蕉の「おくのほそ道」を読むべきだと思う。
なぜならここには旅のエッセンスが詰め込まれているから。
マニュアル本とさえ言いたいくらいに。
「おくのほそ道」は古典文学作品であると同時に、
まこと実践的に書かれた「旅行入門」である。

われわれはどこに位置しているのかという問いはむかしからあった。

位置――。

位置は、空間的位置(場所)と時間的位置(時代)のふたつで示される。
だが、時間的位置を個人が認識するのは容易ではない。
単調な日常生活を営んでいるものにはなおさらである。
だからひとは旅に出る。つまり強引に空間的位置を動かしてしまう。
すると連動していままで見えなかった時間的位置も様相をあらわす。
旅行目的の多くが名所旧跡訪問であることも、
おのれの時間的位置を把握したいという無意識の欲望の発現ではないか。
かくして旅によりふたつの位置認識(時間・場所)に交流が生まれる。
旅にはいつか終わりが来る。空間的位置の終着地である。
この自覚は旅人に時間的位置の終焉をも意識させる。死である。
芭蕉が「おくのほそ道」を以下のようにはじめたゆえんである。

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」

「『般若心経』を読む」(水上勉/PHP文庫)
「般若心経二六二文字の宇宙」(ひろさちや/小学館文庫)
「悩みがみるみる解決する『般若心経』実践法」(ひろさちや/小学館文庫)
「森田療法入門」(長谷川和夫/サンマーク文庫)
「森田式精神健康法」(長谷川洋三/知的生きかた文庫)
「森田療法」(岩井寛/講談社現代新書)
「D・カーネギー 人生のヒント」(高牧俊之介訳/知的生きかた文庫)

「アジアの『聖地』はどこか怪しい」(清水正弘/青春文庫)
「居酒屋かもめ唄」(太田和彦/小学館文庫)


*すべてブックオフ原宿店で買いました。ぜんぶ105円です。
上の7冊は恥ずかしい買物です。
まともな書店でこの7冊を同時に買うことは自意識が許しません。
あ~、悩んでるのねえ~と丸わかり。
その苦悩をなんと浅薄に解消しようとしているか。
見るひとが見たら一発でわかってしまう。
レジに持っていくまでカゴを見られるのが恥ずかしくて……。
はい、自意識過剰にもほどがあります。
だけど、うれしい。
ブックオフの店員さんは本のタイトルなんて見ない。
見たところで(おそらく)その意味するところがわからない。
だから安心して買うことができます。
上7冊をきちんとした大型書店で一括購入するのは、

もはや罰ゲームですから。

いろんな意味でブックオフに感謝なのであります。

下2冊のとくに「居酒屋かもめ唄」はうれしかったです。
新刊で出たときにチェックを忘れていた。
こういうのはできたら新刊の平積みから買いたいもの。
だったら105円で買えるのを待つかと購入を先延ばしにしていた。
今回、きれいなのが105円で手に入って歓喜。
さっそくお酒をのみながら読みました。
あはは、本を汚しまくりました。
お酒をのみながら読む本は、汚すことにさほど抵抗がありません。
汚れた本を読みながらお酒をのむのはいやなのに。
わがままなものです。救われません。

文庫になっていない単行本は以前から絶版でなくても、
105円なら買うようになっていました。
しかし、ついにふつうに購入可能な文庫本まで105円で買うようになってしまったかと、
じぶんの変貌にいささか驚いています。
だって新刊書店にある本だって、立ち読みされているじゃない(=古本)。
というのが、理由なのですが……。
出版界の敵になっているのかもしれません。
そこですかさず責任転嫁。ええ、ずるいのです。
悪いのはブックオフ!

すべての本は105円で買える

ことを証明してしまったのはブックオフなのだから。
あ、この日購入したうち、もう4冊は読んでいます。
どれも、かる~い一般書です。
2005/10/28(金) 14:16:46

「何用あって月世界へ 山本夏彦名言集」(植田康夫選/ネスコ発行/文藝春秋)

→山本夏彦は売文の天才である。
じぶんは読者に媚びを売らないと見せかけておきながら、
実際は読み手の気づかぬところで全力を傾けお客さんをもてなそうとつとめる。
読者をいい気分にさせるのがなんともうまい。
天才的ないかさま師というほかない。

たとえば露天商。大声をはりあげ罵倒する。なにごとかと客が集まる。
すると露天商は、これは売るための商品ではないと話をはじめる。
そのくせ最後には見事、在庫を完売している。
客はだまされたのに気がつかない。それどころかいい買い物をした満足感さえある。
この露天商こそ山本夏彦という、いかさま師の正体である。
大笑いした個所を引用。

「印刷された言葉には金が支払われる。新聞雑誌なら原稿料をくれる。
テレビラジオなら出演料をくれる。
すなわち私たちが接するのはすべて売買された言葉で、
売買されない言葉を見聞する機会は全くない。
言葉は売買されるとどうなるか。
売るものは買ってくれるものに迎合するようになる」(P122)


これもおそらく雑誌のコラムとして最初は発表されたもの。
どういうことか。
じぶんはいかさま師であると最初に明言しているのだから、
ほかの詐欺師よりはいかほどかましだ。
山本夏彦はそういっているのである。
それに気づいたあなたは見込みがあるとも。
読者自身に発見の喜びを与える、このいかさま師の手腕の巧妙には脱帽する。
もう少し長生きをして、いまのネットを見たらどんな感想を持ったのだろうか。
ブログや2ちゃんねるの隆盛は、

売買されぬ言葉の氾濫 (はんらん)を意味する。

ブックオフ105円本。文春文庫からも出ている。
酒中書(=お酒をのみながらいい気分で読みました)。

2005/10/28(金) 13:49:07

「酒恋うる話」(佐々木久子編/鎌倉書房)絶版

→お酒のエッセイを集めたもの。飲みながら読むと極楽~♪
佐々木久子さんは編集者。
そのつながりで彼女が編集長&発行人をしていた趣味の雑誌「酒」に、
有名な作家たちが原稿料を取らないで書いてくれたらしい。
それをまとめたのが本書。類書は数あれど、これはかなりレベルが高い。
読みながら次はだれがでてくるのか楽しみで、ついついページを。お酒もごくごく。
映画監督の浦山桐郎がでてきたときは驚いたな。
良書。千円でも惜しくはない。ええ、わたしは百円で買いましたがね。

2005/10/28(金) 13:17:57

「ゆたかさへの旅」(森本哲郎/角川文庫)絶版

→古書店でふと気になりぱらぱらめくってみたらインドの都市の名前が。
ほほう、インド旅行エッセイかと早合点。
タイトルにインドの文字を入れてくれなきゃわからないじゃない~と購入。
100円でインド本を集めているのです。
ところが、どーだい。この本はなんになるのでしょう。
小説でもない。哲学エッセイなのかな。少なくともインド旅行記ではなかった。
小説の形式を借りて、登場人物が哲学風のことを議論する。
というのも、ほら、会話にしたら読みやすいから。
高校参考書でもたまにあるあれです。
テーマは豊かさとは何か(微笑)。
許してやってください。1972年出版なんです。
インドを神聖視する(苦笑)。
どうかご勘弁を。あくまでも昭和47年の主張ですから。

2004年、インドを旅行しました。3ヶ月。
聖地バラナシ(ベナレス)にいるんですよ。腐っちゃった旅行者。
日本人も。西欧人も。
日がな何をするでもなく、ぼ~っと1ヶ月でも2ヶ月でもバラナシにいる。
「沈没」と旅行者のあいだでは呼ばれています。
バラナシ。生と死の混在。人間と動物が同列。流れゆくガンジス河。
哲学しちゃうんでしょうね。わかっちゃったような気になる。
そういう旅行者がいやでいやで、わたしは3日我慢するのが精一杯でした。

だけど、です。
あの沈没者たちの言いたいことをうまく説明すれば、この本のようになるのではと。
いわば相容れない意見(インド神聖視!)ながら、
その主張がコンパクトにまとまっているのがよろしい。
そんなところでしょうか。

インド。どういう国なんでしょうかね。いまださっぱり……。
芭蕉は「おくのほそ道」を旅行後すぐに書いたわけではありません。
それどころか死ぬ直前まで何度も推敲(すいこう)を繰り返した。
余命を知り、一応の完成を承諾したのは旅から5年後、臨終の間際のことです。
それを考えるとわたしのインド旅行も実はまだ、はじまってさえいないのかもしれません。

2005/10/28(金) 12:10:17

「おくのほそ道」(松尾芭蕉/講談社文庫)

→角川文庫「ビギナーズ・クラシックス」は先に詳細な現代語訳を読ませる。
全部一気にではなく分割して。そのあとに対応する原文。最後に詳しい解説という構成。

一方、こちらの講談社文庫は恒例の形式。
まず最初に原文をすべて。下段には校注。つぎに現代語訳オール。
解説は芭蕉の生涯を概観。
おまけが充実しているのが、この講談社文庫版の特徴。
「おくのほそ道」に言及した近代文学者のエッセイが25編収録されている。
これが目当てで買った。感想? まあ、みなさん芭蕉が好きなんですねと……。

原文や現代語訳を一気に読むときには講談社文庫版のほうが便利。
おとといは原文を音読。きのうは現代語訳のみを黙読。
「おくのほそ道」は旅日記ではない。
つまり自然的ではなく、むしろ人工的である。
旅に出る。天候。ひとやものとの出会い。ままならぬ偶然事ばかりである。
いわば無意味な事件の連続である。
そんなものは旅ではないと芭蕉は思った。
だから「おくのほそ道」を書いた。これが旅だと言いたいがために。

偶然を必然にせんがための熱意。

そこから「おくのほそ道」が生まれた。

2005/10/28(金) 11:29:12

「芭蕉 その生涯と芸術」(今栄蔵/日本放送出版協会)絶版

→元はNHK市民大学のテキスト。
ということは万人(バカ)のために書かれていると判断。つまりわかりやすいと。
甘かった。この大学教授は読者のことをあまり考えていない。
芭蕉を論じるじぶんのほうに重きを置いている。
かれが伝えたいと思っているのは、万民に愛される魅力を持った芭蕉ではない。
じぶんの思う芭蕉像を講義しなければ気がすまないらしい。
すると入門書ではなくなってしまうのは道理。

思うは角川文庫「ビギナーズ・クラシックス」のすばらしさ。
あれだけわかりやすく書くというのがどれほどたいへんなことなのか。
そのことに気づいたのは、この本のおかげ。
角川文庫のあれは高校生でも理解できます。
芭蕉の全体像を先に知っておこうとこっちをはじめに読んでいたら、
おそらく芭蕉が嫌いになっていたことと思う。
めぐりあわせに感謝します。

2005/10/28(金) 10:58:37

「ビギナーズ・クラシックス おくのほそ道(全)」(角川文庫)

→芭蕉の俳句に感動したことはない。
今年に入ってから日本の古典文学に関心を持つようになった。
いきがかり上、やむなくなんどか芭蕉の代表句を目にした。
感想は――。
どの解説も絶唱だのなんだのとほめたたえているから、ならすごいんじゃないの?
芭蕉の俳句は教科書のようなものだと納得した。
教科書をつまらないと非難しても始まらない。そういう理屈です。
残念ながら山頭火の俳句を味わうときの感銘を芭蕉からは得られない。
読み手の品のなさが原因なのか。それならこればかりはいたしかたない。
今回「おくのほそ道」を読もうと思ったきっかけは、山頭火をより深く味わいたいがため。
「万葉集」「古今集」「新古今集」「山家集」という流れの続きでもある。

「おくのほそ道」。
やっつけ読書のつもりで本を開いたらこれがおもしろい。
「なーんだ、これ旅行エッセイじゃん!」と気づいたおかげです。
しばらく読み「それも上質の」と続けて思った。
旅行エッセイの中に置かれると、芭蕉の俳句も生き生きと読めるのだからふしぎなもの。
「おくのほそ道」は旅の典型を描いたものではないか。
というのも、ここには旅の仕方が明確に示されている。
うーん、うまくいえないな。
たとえばいま無数に出版されている旅行エッセイ。
読んでおもしろいと思う個所があるとする。
それらは実のところすべて「おくのほそ道」に描かれていた。
こう説明したらわかっていただけますか。

考えがまとまらない。近日中に再読するので、そのときに。
今日の結論。俳聖と呼ばれる芭蕉は近寄りがたい。
しかし旅ライターの芭蕉には惹かれるものがあるのです。

雪の東京。
あったかい日本酒をのみながら、
近所のスーパーにて半額で買った大好物の湯葉豆腐を食べ、
かつ太田和彦さんの居酒屋エッセイを読んでいるうちに、
すっかりのみ過ぎてしまい、
今日はブログの更新はお休みすることにしました。

しあわせです。ありがとうございます。
2005/10/24(月) 14:50:16

「自分の耳」(ピーター・シェーファー/荒川哲生訳/テアトロ)絶版

→これを中央線沿いの某古書店で発見したときはうれしかったな~。
検索したら探求書として登録されている。ネット古書店にも出ていない。
それだけ珍しい本なのです。へへへ。売らないぞ。
長いこと積ん読していたのは、読んだら終わってしまうから。
当たり前のことを言うなと嘲弄するのは、愛書家の気持ちを知らぬもの!
……はい、ついに読んでしまいました。
感想は、さすがシェーファーと拍手するしかない。期待通りのおもしろさ。
こころに残る名作だった。そしてそれを所有するこの喜び。ああん。
青春の物悲しい挫折(失恋)が見事に描かれていました。


「他人の目」(ピーター・シェーファー/荒川哲生訳/テアトロ)絶版

→これを読んだらおしまい。シェーファーの邦訳戯曲をぜんぶ読んだことになる。
さみしい。が、いつかは読まなければならないのだからとじぶんに言い聞かせ読む。
期待にたがわぬ傑作。
個性的な登場人物。先が読めない展開。意外な結末。感動。希望。
ドラマに必要なものをすべて携えている。
せりふを声に出さずにはいられない。巧妙ここにきわまれりである。
中年の会計士はじぶんより20も若い妻の浮気を疑う。
そこにあらわれる風変わりな私立探偵。さんざん待たされてから登場する疑惑の妻。
結末には、ほろっとさせられる。人間って悪くないもんだなと思う。

「自分の耳」「他人の目」どちらも劇団「昴」で頻繁に上演されている。なんか悔しい。
2005/10/24(月) 14:07:01

「五重奏」(ピーター・シェファー/小田島雄志訳/「今日の英米演劇4」白水社)絶版

→戯曲。シェファーはイギリスの劇作家。「アマデウス」で有名。
ずっと積ん読していたこの戯曲を読むのは、じぶんへの慰安の意味合いもある。
というのも、ずっと好きではない不条理劇に触れていたためストレスが。
シェファー劇は不条理とは正反対。
寡作のかれには熟練した劇作職人といったおもむきがある。

客を満足させるのこそ職人の使命

だと自戒しているようにも思われる。
シェファーの劇作技術を世界ナンバー1と評した海外の演劇書を読んだことがある。
開幕後にすばやく観客の関心をすくいとり、それを閉幕まで決して手放さない。
人に教えたくない作家のひとり。わたしだけの作家。わたしのシェファー(笑)。

「五重奏」はシェファーのデビュー作。これで大当たりを取る。
家庭劇。無学だが商売で成功した父。お金よりも芸術が大事と考える母。
かれらの息子は、ハムレットタイプの悩める大学生。あとひとり。天真爛漫の妹。
この4人家族の内包する矛盾を解き放つきっかけとなるのが、
5番目に登場する妹の家庭教師である。
両親の価値観の違い。いさかい。そのはざまで苦しむ子ども。普遍的なテーマである。
舞台に上がるのは5人。それぞれに言い分がある。葛藤が生まれる。
それはさながら「五重奏」のようである。
5人から流れ出る調べは合流し、いつしか大音量となった葛藤はクライマックスを求める。
小手先の目新しさなどとうに飽食したおとなのための演劇です。

2005/10/24(月) 13:19:49

「貴婦人故郷に帰る」
(デュレンマット/岩淵達治訳筑摩世界文学大系85「現代劇集」)絶版


→戯曲。大富豪の貴婦人が故郷に帰る。
彼女は年老いてもうおばあさんという年齢。
かつては繁栄を極めた故郷もいまはさびれた町になっている。
この老婆が、かの地で、復讐をする。
だれに? むかし貧乏な娘時代にじぶんを妊娠させておきながら、
冷酷に捨てた元恋人にである
言ってみれば、それだけの話である。テーマは「正義」。

老婆は町の住民に布告する。
正義のためにあの元恋人を殺してくれたら、
この貧しい町とその住民に多額の寄付をしよう。そう申し出るのである。
逡巡の挙句、町民たちは総意により「正義のために」その男を殺す。
劇全体が絶対的な「正義」に対する批評となっている。

が、そんなテーマなど考えなくてもこの劇は楽しい。
思ったのは、劇は筋がすべてではないということ。
筋をどう見せるかが重要なのだと気づかされた。
つまりいかにしてシンプルな物語を劇的にするか。その重要性である。
この戯曲は場のつなぎがとにかくうまいのだ。

(追記)考えてみればシェイクスピアもそう。
シェイクスピア劇。物語は他の本からもらってきたものが大部分。
シェイクスピアの才能とは、

物語を劇的に再構成する ところにあったのである。

2005/10/24(月) 12:51:11

「建築家とアッシリア皇帝」
(アラバール/利光哲夫訳/筑摩世界文学大系85「現代劇集」)絶版


→戯曲。作者のアラバールはスペイン人。
まず思ったのは、これは役者がやりたがるだろうなと。
うっかり役者気取りで、声に出して読んでしまった個所もある。
案の定、検索してみたら日本でも多数上演されている。
前衛劇……でしょう。初演は1967年。

孤島に飛行機が落下する。ただひとりの生存者は、みずからを皇帝と称する。
島には先住するものがいた。自然を思いのままにあやつることができる男である。
皇帝はこの男を建築家と名づける。劇はこのふたりのやりとりに終始する。
救助を待つまでの時間つぶしに、ふたりは延々と「ごっこ遊び」をする。
つまりは演技だが、ふたりの行動は幼児のごとく遊戯的かつ狂躁的である。
母と息子、裁判官と被告といった具合に役割は矢継ぎ早に変わっていく。
この遊戯的演技の過程で、皇帝が母親を殺していたことが明らかになる。
贖罪(しょくざい)のため皇帝は建築家におのれを殺すよう依頼する。
さらにその死体を食べてくれるよう言い残す。
言われたとおり建築家は皇帝を殺害後に食す。すると建築家は皇帝になる!
もはや孤島にひとりきりである。数え切れないほどの長い時間、孤独をかみしめた。
ある日、爆発音がする。飛行機事故のようである。唯一の生存者が島に上陸する。
かつての建築家であった。こうして劇は最初に戻るわけである。

役者がやりたがるのも、批評家が論じたがるのもわかる。そういう劇である。
古くなった前衛ものに対するいつもの憫笑(びんしょう)は禁じえなかったが、
それでもなかなかのものだと思う。機会があれば、読んでおいて損はないかもしれません。

2005/10/24(月) 11:46:22

「昔の日々」(ピンター/喜志哲雄訳/筑摩世界文学大系85「現代劇集」)絶版

→戯曲。 外部からの脅威に混乱していく内部。

ピンター劇固有のこの構造は本作品でも踏襲される。
ふと、思う。なんでピンターさん、こんなにおなじパターンばかり書くのだろう。

戯曲の書き方としては(おおまかに)ふたつある。
自分の中から書く作劇法と、
世界(=自分の外)を見て書く作劇法の二種類です。
前者はストリンドベリ、テネシー・ウィリアムズが典型。
みずからの悲痛な経験を素材に劇世界を作り上げる。
後者はイプセン、バーナード・ショーを典型とする。
社会のありようを見て、それに対するアクションとしての劇作。
もちろんかならず両者は混合するものだが、ここでは比率を問題としている。

ピンター劇というのはどっちなのだろう。
不条理劇は一般的に世界観の問題から書かれることが多いように思われる。
とすると、ピンターもおのれの目に映ずる世界を素材に一群の戯曲を書いたのか。
それともいわばトラウマ的なものが劇作のエネルギーになっているのか。
疑問としているのは、なぜピンターはこのような戯曲を書かなければならないのか。
そこにある。9つ戯曲を読んだいまでもわからない。

「昔の日々」。
こどもがいない夫婦。田舎暮らしをしている。
妻は人見知りが激しい。そんな妻の唯一の友人(女)が10数年ぶりに訪ねてくる。
夫も知らない妻の一面を知っているこの友人が、今回のピンター劇における外部である。
外部に刺激され、内部は混乱を開始する。
突如、むかしに戻ったようになる女同士の友情。
ピンター劇においては時間の流れすら逆流するのである。
我われの生活にだって過去はそのように存在しているのではないか。
ピンターはそう問うているように思われる。

復活する女の友情。疎外される夫。
三角関係のドラマ力学はかつてのピンター劇にも多く見られた。
その三角関係は常に変容を指向する。
夫は疑う。妻の友人と過去に会っていたような気がするのだ。
真実が最後まで明らかにされることがないのは、他のピンター劇とおなじである。

かくのごとく語ればきりのないこの戯曲。
問題がひとつある。……つまらないことです。

2005/10/24(月) 11:03:21

「帰郷」(ハロルド・ピンター/杉山誠訳/「今日の英米演劇4」白水社)絶版

→戯曲。もうため息が出ちゃう。ぜんぜんわからないんだもん。
わからない? おっと、そこがピンター劇の魅力か。
英国では日本よりもはるかに演劇文化が浸透しているから、
ふむ、たしかにピンターは観劇後に語る楽しみがあるのかもしれない。

あらすじ。
アメリカに住むテッディが妻を連れて、ロンドン北部のとある町へ帰郷する。
結婚後、実家に帰るのはこれがはじめてである。
テッディの妻ルースは、夫の実家に住む男全員と関係を持つ。
ルースが夫の父、そして夫の弟2人となぜ寝たのかはわからない。
ピンター的な用語を使うと、テッディは妻を家族と共有したわけである。
ルースはその地で売春婦として働くことが決まる。夫の家族のためである。
テッディは妻を実家に残したまま、こどもの待つアメリカへ帰っていく。

あ、ネタバレについて。

いままでがんがんストーリーを書いてきているけど大丈夫。
というのも、わたくし。
ピンターを読む、そう一ヶ月前くらいかな。
この劇作家の代表作のあらすじを別の本で読んでいる。
あはは。ぜーんぶ忘れていました。
まったく知らぬものとしてピンターの戯曲を読みました。
記憶力なんて、そんなものです(たぶん)。
みなさまもご安心ください。

2005/10/24(月) 10:26:24

「ナイト・スクール」(ピンター/沼沢洽治訳/「戯曲全集1」/竹内書店)絶版

→放送劇。のちに舞台化。
今まであえて避けてきたことばがあります。不条理劇という用語です。
演劇史的な知識としては「ピンター=不条理劇」。これがすべて。
代表作の「管理人」も不条理劇と評せばわかったような気になる。
しかし、そもそもこの不条理劇という用語。
マーティン・エスリンという演劇評論家の著書「不条理の演劇」が発端。
ベケットやイヨネスコなどの(意味不明な?)新傾向の演劇を包括した用語です。
便利な用語で、あれも不条理劇、これもそうだと、世界中に広まった。
が、忘れてはならないのは批評用語だということ。
だから意識的に使わないようにしてきました。批評を書いているわけではないのだから。
でも、まあ、それも行き過ぎはよくないかと反省し、今回このような説明を。
ご存知でしたら失礼をば。

「ナイト・スクール」。不条理劇の要素はほとんどない。
従来の劇のようなリアリズムの手法で書かれた軽い風俗喜劇。
刑務所を出所したちんぴらのウォルターが実家に戻る。
ウォルターはじぶんの部屋に下宿人が住んでいることを知り立腹する。
下宿人は小学校の女教師。まじめで夜学にも通っているという。
偶然からウォルターはこの女教師が夜学ではなく、夜はホステスをしていることを知る。
たしかな証拠をつかもうと町の有力者に相談する。
有力者であるこの金満家は、なんなく女教師が働いている酒場を発見。
その場で見初め口説き落とす。翌朝、女教師は下宿をひきはらう。
何も知らぬごろつきのウォルター青年はかくして失恋したのであった。閉幕。

2005/10/24(月) 09:52:27

「管理人」(ピンター/喜志哲雄訳/「戯曲全集1」/竹内書店)絶版

→戯曲。ピンターの代表作。ピンターはこれだけ読めばいいと思う。
それほどにピンター劇の特徴すべてがこの作品からうかがえる。
これを読んで、もし深く感じるものがあったら、他の作品に手を出してみるべき。
試金石的な作品といえましょう。入手も比較的容易。
竹内書店版、新潮社版、どちらの全集にも収録されている。
白水社「現代世界演劇7」にもおなじものが入っている。
*ノーベル賞受賞を記念して新潮社版の全集が復刊されました。

「管理人」。
何様かと怒られそうだがピンター作品で唯一感心したものがこれ。
ほう、こんな劇があるのか。そんな目新しさがある。
主人公は薄汚い老人。
住み込みで働いていたレストランを首になったばかり。
宿無しの老人は、偶然知り合った男からうちに来ないかと誘われ、これ幸いとついていく。
この家の所有がテーマとなる。老人。かれを誘った知人。その弟。
三者のあいだでこの家の所有が争われる。
法律上の所有者は弟。いまアパートに改装しているのは兄。
そのアパートの管理人として雇われたいのが、いまやホームレスと成り果てた老人。
この3人のあいだで狂気をはらんだせりふがやりとりされる。
そのせりふは暴力寸前。手が出る直前の物言いである。
何かがおかしい。誰かが狂っている。
しかし何がおかしいのか、誰が狂っているのかは終幕してもわからない。

ピンター劇は「わからない」と敬遠されることも少なくないらしい。
良くも悪くもピンター劇のキーワードはこの「わからない」にある。
我われが生きる複雑な現実世界を真にわかるものなど誰もいまい。
が、従来の劇はそれを「わかるもの」に再構成して舞台に上げた。
ピンターはそれをよしとはしない。

わからないまま舞台に提出しようとする。

それがピンターの劇である。「管理人」の世界である。

2005/10/23(日) 19:16:34

「夜遊び」(ピンター/小田島雄志訳/「戯曲全集1」/竹内書店)絶版

→放送劇。のちに舞台化。
これには前衛の要素がまったくない。
つまり意味のわからないところは皆無。老人が若返ったりもしない。
落ち着いて筋をたどることのできる一般的な風俗喜劇。
だけど、そういう喜劇を専門に書いているおなじ英国のテレンス・ラティガン、
ピーター・シェファーと比較すると、はるかに腕が落ちる。
サスペンスも感動もない。
よし、ノーベル賞作家に暴言を吐こう。
おい、ピンターさんよ! 
あんた正統的なドラマがうまく書けないから

前衛に逃げているのでは?

内部だ外部だと観客を煙に巻きやがって。それをもてはやす批評家も問題。
ピンターさん、ちゃんと意味がわかる劇をお書きなさい。
なーにが、脅威の喜劇だ。笑わせんな。ぜんぜん怖くもなんともない。
やだやだ。高卒が気取っちゃって。

「夜遊び」。
主人公はマザコン青年。社長主催のパーティにでるが、同僚の女性からバカにされる。
さらに痴漢の濡れ衣まで着せられる。
ついにはマザコンと上司から揶揄され大喧嘩になる。
深夜に帰宅するも母がわずらわしい。
初めての反逆を試みる。柱時計を床にたたきつけ家出。
年増の娼婦の家へ。ここでも娼婦を殴りつけるマザコン青年。
かれは人間が変わったのか。
早朝、帰宅。母との対面である。青年は母親に屈する。
マザコン青年に逆戻りするのであった。
かくして「夜遊び」は終幕する。