2005/08/02(火) 15:43:58
「ペエアの旅」(ストリンドベルヒ/小山内薫訳/「世界戯曲全集29」)絶版
→五幕の劇。「童話劇」という分類に入るらしい。
解説によるとストリンドベリにとっての「青い鳥」とのこと。
この戯曲、好きだなぁ。
ごめんなさい。あたまが悪いから結局、好き嫌いの話になってしまう。
高みから分析して論じることなんてできません。
わたしにできるのはこの天才(狂人)を仰ぎ見て感嘆するだけ……。
森の中で素朴な楽園生活を送っていたペエア少年は第一幕で宣言する。
ペエア「ええ、出て行きますとも。僕は世の中が見たいのです。(……)
僕は熱帯の果物が食べたいのです。それが虫に食われていたって構いません。
僕はお酒が飲みたいのです。それが毒でも構わないのです。
僕は娘の腰が抱きたいのです。
破産をしたお父さんが暖炉の隅に座っていても構わないのです。
僕は銀や金が欲しいのです――
それがしまいにチリになっても構わないのです」(P93)
ペエアは小鬼(スウェーデンの妖精)の助けのもとで、
時には金持ちになり、それに飽きたら今度は名誉を求めて政治家になるといった具合。
つまり幸福を求めたわけである。お金、友人、快楽、名誉――。
そこに突然「死」があらわれペエアは狼狽する。
猶予を懇願するペエア。しかし求めうる幸福は網羅した。
そこに賢者があらわれる。
賢者「誰を捜しているのです」
ペエア「人間を一人。手短に言うと、僕は不幸なんです」
賢者「では、人間など捜してはいけません。
人間は決してあなたを助けてはくれませんから」
くうう、この賢者のセリフはいいねえ!
ペエア「それは分かっています。でも、わたしは生きることも出来なければ、
死ぬことも出来ないのです。(……)」(P136)
賢者はペエアに言う。
「自分ばかりを愛するものは、決して他人を愛さないからです」
……耳が痛い。
さてペエアは真実の愛に目覚め、リイザという運命の恋人を見出します。
童話劇らしく最後は説教で幕を閉じる。
「(……)人生はあなたがあなたの若い夢の内に見たようなものではありません。
人生は砂漠です。それはほんとです、しかし、花のある砂漠です。
人生は荒れ狂う海です。しかし、青青とした島に港のある海です。(……)」(P141)
再読したいけどこの翻訳じゃなぁ。だれか新訳で出してくれませんかね〜。
2005/08/02(火) 14:34:20
「ルッテル」(ストリンドベルヒ/舟木重信訳/「世界戯曲全集29」)絶版
→新記録です。
これ、わたしが手に取ったいちばん古い本。昭和3年刊行!
むかしはこんな古い本、きたないと触る気さえ起きなかったけれども、
人間は変わるもんだ。それともストリンドベリの魅惑がそれだけつよいのか。
300円だからと買っておいたもの。ほんとうに読む日がくるとは思わなかった。
旧仮名・旧字体+細かい活字組み+昭和3年の翻訳日本語=読みにくい×3
配役表を見て気づく。
ルッテルでルターのことか。ほら、あの、宗教改革の。
オズボーンの戯曲「ルター」を読んだことがあるし、
つい先日も世界史を勉強したばかりだから大丈夫か、
というあわい期待は……もろくも崩れる。
「ジャンヌ・ダルクもの」もそうだけど、こういう宗教劇は日本人には理解不能では。
幼児期から教会に通うことから生じる、なんというのかな、肌感覚、呼吸感覚のちがい。
こちら日本人はキリスト教でさえあやふやなのに、まして微細な相違などは手におえない。
わからないものはわからない。
だけど、うーん、わからないながらも、
ストリンドベリがキリスト教についてよほど考え込んだ、
その爪あとくらいなら、せめてわかったような気になってもかまいませんか。
ちなみにストリンドベリ。
幼少期はキリスト教べったり。
青年期にほのかな疑問。
中年期に「地獄期」と称したほどのキリスト教不信に陥る。
晩年はようやくキリスト教への信仰を取り戻す。
――というのはあくまでも告白小説等での「自称」で、
周囲から見たストリンドベリは生涯狂気のうちにあったとか。
2005/08/02(火) 13:45:55
「強者」(ストリンドベリ/毛利三彌訳/講談社「世界文学全集58」)絶版
→一幕劇。クリスマス。登場するは女優ふたり。
話すのはひとりだけ。だからもう一方は聞くのみ。
ふたりはライバルの関係にある。
というのも、しゃべりつづける女は無言の女に以前夫を寝取られたことがある。
しかしいまは元のさやに収まっている。
この妻のセリフのうちに、だんだんとそのような事情が読み取れる。
ストリンドベリである。
またもやテーマは、幸福か不幸か!
この妻は、夫の元愛人に語りかけずにはいられない。
いかにいまのじぶんが幸福か。家に帰ったら夫と子どもが待っている。
ひきかえ、あなたはクリスマスなのにさみしいこと。
終始、無言のこの元愛人。夫の浮気が終わるまでぐっとこらえた饒舌な妻。
「強者」はどちらか。元愛人か正妻か。
ストリンドベリはかたくななまで主張した。
一方の幸福は他方の不幸である。憎悪こそ愛情を裏づけるものである。
「母の愛」(ストリンドベリ/毛利三彌訳/講談社「世界文学全集58」)絶版
→一幕劇。いま書きながら気づく。これもまたおなじであると。
登場するのは、元売春婦の母を持つ美貌の娘。
母は(自分の素性を隠し)娘を社交界にだそうとしない。
が、ある夏、娘は避暑地ではじめての友人(女)ができる。
のちにこの友人は腹違いの妹だとわかる(のだが、このへんはちょっと強引では?)。
名家に育ったこの友人(妹)は娘(姉)を社交界に誘う。
それは女優として大成するきっかけにもなる。
娘にはじめて訪れたチャンスである。
しかしそのためには(知られると不名誉な)元売春婦の母を捨てなくてはならない。
母としては娘を手放したくない。母の愛執である。
娘の幸福は母の不幸。母の幸福は娘の不幸。
ストリンドベリの戯曲から、葬式によみあげられるお経のような
やるかたない響きが聞こえてくるのはわたしだけでしょうか。
後年、ストリンドベリは仏教に関心をもったという。
(あ、ネタバレ。結局、娘は妹ではなく母を選択する。
つまり女優の花道ではなく元売春婦の母を。
だからタイトルが「母の愛」なのだと思う。母の愛が娘を不幸にする!)
2005/08/02(火) 13:42:43
「死の前に」(ストリンドベリー/杉山誠訳/三笠書房)絶版
→一幕劇。脱サラしてペンションを経営するも甲斐性なしで破産したパパ。
年頃の娘3人はみんな死んだママの味方でパパを嫌う。
悲しむパパはペンションに火をつける。
パパだって、いやむしろパパのほうが娘を愛していたんだよと。
パパの生命保険でみんな幸せにおなりなさいと――。
あの「夢の劇」の後に読むのならなんだっておもしろく感じるというもの。
でも、まあ、なんというのか。これを書いた動機というのが。
離婚した元妻に娘を奪われた腹いせに書いたというのだから……。
(ストリンドベリは3度結婚、3回とも離婚。晩年に少女に求婚するも拒絶される)
私的な憤懣・激情から創作することの多い作家でした。
あ、この「死の前に」は昭和27年刊行の「令嬢ジュリー」に収録されていたもの。
どうでもいいけど「令嬢ジュリー」の翻訳を6つ持っています。
2005/08/02(火) 11:58:54
「夢の劇」(ストリンドベリ/毛利三彌訳/白水社「現代世界演劇3」)絶版
→ストリンドベリはこの戯曲で悪夢を再現しようと試みた。
夢を見よう夢ではなく、夜に見る夢のほうの。あの目がさめるとほっとする類の悪夢を。
天才(キチガイ)というのはとてつもないことを考えます。
この戯曲に筋(すじ)のようなものはない。だから不条理ですらありえない。
意味不明。支離滅裂。こんな表現をするほかない。読了するのはかなりの労苦。
が、骨折り損のくたびれもうけ、というわけでもないのである。
なんとも形容しがたい重たい不快感がのこる。やりきれなさ。
シュークリームのような童話劇にあふれた現代ではかえって貴重かもしれない。
それはまさに悪夢である。内容は思い出せなくとも衝撃だけは忘れられないのだから。
どんな雰囲気か。引用。
(夫)「共同生活とは責め苦だよ。一方の楽しみは他方の苦しみ」
(妻)「人間ってあわれね」
(夫)「それがわかったか?」
この夫妻は(夢の中ゆえ)また別のものにすがたを変え相互に嘆きつづける。
人間は傷つけあうもの。幸福なんてどこにもないこと。
仮に幸福があるとしても、それは他人の不幸からもたらされる慰めにすぎないこと。
引用をつづける。
(男1)「2かける2は……2。
それを最高の証明方式である類推法で証明してみます。
いいですか……1かける1は1。ゆえに2かける2は2!
一方にあてはまれば他方にあてはまるからです。」
(筆者注:人間がひとりのときの苦しみと、ふたりのときの苦しみを暗示か?)
(男2)「その証明法は論理学に完全に適応している。しかし答えは誤りだ」
(男3)「そして、きみの不幸の上にぼくの幸福が築かれると思うのかい?」
(男4)「われわれはあわれだ――われわれみんな!」
(全員)「(天に手をさしのべ、不協和音のような苦痛の叫びをあげる)ああ!」
(女2)「永遠なる父よ! この人たちの声を聞いてください!
人生は苦痛に満ち、人間はあわれです」
(全員)「(前と同様)ああ!」
ストリンドベリの絶叫が聞こえてきませんか。
人生は闘争である! 人間は憎悪しあう、苦しみの連続となろうとも!