2005/04/03(日) 13:52:08

「アエラムック 勉強のやり方がわかる」(朝日新聞社出版局)

→やられました、だまされました、東京駅近くの八重洲ブックセンターに。
当店だけで売れている隠れたベストセラーとのポップに釣られました。
本来は大学生に向けて書かれた内容だけど、おとなにも役立つと書かれていたので。
わたしには役に立たなかった。

ここに書かれているのは、アカデミックな勉強の仕方。
作家(志望者)の勉強とはまったく別なものなんですよねえ。

「正しさ」よりも「おもしろさ」

を取るのが、学者ならぬ作家の誠実だと思っています。
ふーん。高校生は大学教育にわくわくしながらこれを読むのか……。
大学で学んだことで役に立ったことなんて、思えばひとつもないかもしれません。
2005/04/03(日) 13:28:01

「古典の読み方」(藤井貞和/講談社学術文庫)

→こんなひとでも(だから?)東大教授になれるんだ。
タイトルは「古典の読み方」。
いくらわたしだってこれを読んだからといって、
古典の原文をすらすら読めるようになるとまでは思ってはいませんでしたよ。
でもさ、もう少しね、タイトルに見合った内容をお書きなさい。
古典といえども情報に過ぎない、その情報を読み取る方法を書く、とは最初の弁。
けれども実際は、方法のほうは受験参考書以下、
内容のもっぱらは古典=情報だということをやたら難解な表現で述べることに終始。
引用。242ページ。

「『源氏物語論』は紫式部研究から離乳されるのがよい」

バッカじゃない、こいつ。「離乳」ってなにそれ。
そんなことばを使うのがかっこいいとでも思ってんのかね。

田舎の高校生ですか?

「源氏物語の研究と、その作者・紫式部の研究は別々のものとしてやるほうがよい」

こう書いたほうがどれほどわかりやすいか。ちがいますか。
しかし「離乳」をありがたがるセンセイが多いんだろうね大学って。やだやだ。

メモ。筆者は柳田国男の説を前提にした物語論を展開する。
「文学は神話を源流に持つ」というのが柳田国男の「竹取物語論」。
つまり日本神話における(神々のいる)「高天原」が、
竹取物語ではかぐや姫の帰っていく「月」になったのだと。
この観点において竹取物語はまだ神話の要素が残っているとする。
比して後の落窪物語(日本版シンデレラ)はどうか。
竹取物語のかぐや姫は絶世の美女(神話的!)として書かれているが、
落窪物語のヒロインは決してそうはなっていない。
結果、たとえば女性読者はヒロインに感情移入しやすくなる。
ここに「神話→文学」の過程を見て取ることができる。
以上、ふむふむと思った内容。例によってことさら難解に記述されていたけど。
2005/04/03(日) 12:41:08

「頭痛の話―片頭痛から遺伝子異常まで」(古井倫士/中公新書)

→頭痛、ひどいんです最近。むかしからの持病。
そこで、まあ、敵を知ろうと。
まずわたしの頭痛は「片頭痛」だと確認。次に知りたくなるのは、そうですよね。
なぜ片頭痛が起こるのか。……あはは、わからない、だそうです。
いろんな学説があるらしいんですけど。
それらの学説、ひとつとして理解できませんでしたけれども、ええはい。

意味不明の字面を目で追いながら、こんなことを考えるわけです。
医学=文学ではないかと。
医学部卒の手塚治虫先生が、
自分は魂の医者になると漫画家人生を決断したのは有名ですが。
古来、医学の進歩とは思いつきと冒険の所産であります。
アオカビを飲ませたら、なぜか下痢が治る。はい、抗生物質誕生のいわれです。
最初、だれが患者にアオカビを飲ませたのか。すごいですねえ。
まあ、とにかく患者を治せばいいんです、これが医学の原点ではないでしょうか。
なんで治るのかは患者としてはわかんなくてもいいんですね。
もう一歩進んで、別に医者のほうもわかっていなければならない必要はないんです。
(こういう考え方が東洋医学、漢方治療の基礎としてあります)。
この場合、いちばん重要視しているのは「痛み」なんです。
「痛み」がある。理屈はどうでもよろしい。とにかく「痛み」をなんとかしたい。
文学も同じではありませんか。原点に、「痛み」に還るべきではありませんか。

読み返してみると、なんか文章にまとまりがない。
まあ、いいです。これは頭痛のせいにしておきます。ごめんなさい。
早く治らないかな頭痛。
治ればいいんです、霊能者のおはらいでもなんでも。
この際、「痛み」を知らないものにはなんとでも言わせておく、頭痛よ治れ――。

(注)これを書いたのはだいぶまえ。ここ半年以上、頭痛はないようです。
管理人 Yonda? 記す。
2005/04/03(日) 11:56:22

「日本・日本語・日本人」(大野晋・鈴木孝夫・森本哲郎/新潮選書)

→癖のある本。ある意味で良書、別の意味では悪書。
対談形式でものすごいわかりやすそうだったから買った。ブックオフ105円。
実際、わかりやすい。
著者3人はもう学者や評論家として確個たる地位にあるご老人ばかり。
だから若手学者のようにわざと難解なことを言う必要はないわけ。
この本をたとえるなら、うーん、最後っ屁、
棺桶(かんおけ)に入るまえにぶちかますかという。
読みながら、何度もこれらご老人の背中を蹴りたくなった、早く落ちろ棺桶へ!
なんのデータも提示しないでむかしは良かった、いまは悪い、そればっか。
たとえばとして、むかしは子が親を殺すことなんてありえなかった。
これは教育の荒廃の結果だなどとご主張なさるが、ほんとかいな。
むかしから一定程度あったんじゃないの、ただ今のように華々しく報道されないだけで。
読んでいて何度、「爺(じじい)は死ね」とひとりごちたことか。

でも、わかりやすいんだ、事実の説明は。主張はいんちきだけど。
とくに日本語の起源の説明(大野晋)はほんとうにわかりやすく書かれている。
困るなこういう本は。思考力の低下した中年がこんな本に洗脳されるんだ。
そんで、日本語を守ろうだの、日本を愛そうだの、気持ちの悪いことを言い始める。
こうしてみると、わかりやすい本というのも手放しでは喜べないのかもしれません。
2005/04/03(日) 11:25:29

「古典を楽しむ 私の日本文学」(ドナルド・キーン/朝日選書)

→みなさまに質問。
生まれてから今までに読んだ本は、
日本人が書いたのと異人さんのと、どっちが多いですか?
異国のはもちろん翻訳でかまいません。比率はどれくらいですか?
質問したわたしは、うーん、下手をすると5:5か、
いや6:4で日本のほうが多いかな、それでも。

何が言いたいのかというと、この本がやたらわかりやすいってこと。
これはいいのかわるいのか悩む。
たとえば芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」。
著者はこの情趣を日本人以外には説明できないという。
だからどうしたんだ、フロッグがポンドにフライしたサウンド?
それはファクトだろう、ポエムではない、それを作者はどう思ったんだ?
とこう返答が来るらしい。外国人からは。

それそれ、それよと手をたたきたくなる。
わたしもそう思うわけ。
「古池や蛙飛びこむ水の音」? どこがいいの、こんなの!
蛙が水に飛び込んだら、そりゃあ音くらい出るでしょうね、そんで? だから?
考え方がすっかり外国人になっているわけです。
小さい頃から外国文化に囲まれて育ってきたからやむをえない部分もあるでしょうが。
そこで、この本がわかりやすい、とこうなるのはわかっていただけますか。
つまり外人さんの目で日本文学を見ている、この視点がわたしと同じだから。
たとえば近松門左衛門をシェイクスピアと比較して語ってくれる。
それがわかりやすいのなんのって。
さて、冷静になり、ふと考え込む。こういう現象はいかがなものでしょうか。
2005/04/03(日) 10:56:47

「古典の森へ」(田辺聖子・工藤直子/集英社文庫)

→どこかに貴重品を落としてきたような思いにとらわれている。
ばっさりと切れているとでもいおうか。18歳を境に。
大学受験という通過儀礼で捨ててくるもの。
日本古典(古文)。
あれ以来、顔も名前も忘れてしまった。なんて親不孝な。

いつしか戸籍謄本を詐称するようになっていた
ドストエフスキー、トルストイ、シェイクスピア、ギリシア悲劇を親だと思いたくて。
じつのお父さんお母さんは恥ずかしくて人前にだせないと思っていたのでしょうか。
異人さんと養子縁組をかわしたわたしは青い目の両親にくったくもなく笑いかけた。
時は流れ皇紀2665年、ふと目覚めて泣き出した。

ほんとうの両親に会いたい!

けどね、ごめんなさい。
血がつながっているはずなのに、
わたしはお父さんやお母さんの話すことばがわからないのです。
いきなり源氏物語を原文で読むことはできません。
父上母上、こんなわたしをお許しください。

本著はおそらく日本でいちばんやさしい古典入門書。
ああ、(慟哭しながら)父よ母よ、
(がらりと明るく)「いま、会いにゆきます」♪