2005/08/09(火) 15:13:50

「私の小説教室」(駒田信二/集英社文庫)絶版

→この著者は小説を書いたことがあるらしい。
講師をしている朝日カルチャーセンターの小説教室で
芥川賞作家、重兼芳子をだしたことで話題になったことがあるとか。
本職は、中国文学研究家。
本の内容はぜんぜん小説教室じゃない。
文章作法+著者の回想エッセイといった態(てい)。
だけど満足。老学者のエッセイは滋味があってよろしい。

わけもなく別の本から引用を。
山田太一「異人たちとの夏」巻末の解説文から。
田辺聖子さん。

「小説をどう書くべきか、というキマリなどないのであって、
小説作法なんて本は往々あるけれど、あれは読んだらすぐ忘れるべきものだ。
テクニックのさまざまは否定されるためにある。
自由に書けばいい。
ただ、読んだ後、心に残る結晶が、真実の美しさや、愛であればいい」


2005/08/09(火) 15:12:43

「小説家になる!」(中条省平/メタローグ)

→ブックオフ105円本。
講義形式だから読みやすい。ぐいぐい読めた。
内容といわれても……、だって著者は小説家じゃないんでしょう?
いい小説のひとつでも書いてからこういう本は出版しなさいと言うしかない。

笑えるのが博識自慢。矢継ぎ早に古今東西の作家の名前をあげる。
このくらい常識でしょう、みたいなノリで。
作家志望の高校生がこの本を読んだりしたら打ちのめされるのでは。
わたしもトシだなぁとため息がでた。
著者があげるほとんどの作家を読んでいたから。
というか、少なくとも嫌いな作家としてマークしていたから。
そう、この著者とは小説の好みがあわないんだ。
だから勉強になったということもあるのかどうか。
そういう小説の読み方もあるのかと。

あ、そうそう、指摘をしなければ。
これは小説の書き方ではなく、小説の読み方!
まあ、考えれば当たり前。
中条省平さんは小説を書いたことがないんだから。

2005/08/09(火) 14:09:16

「風呂で読む山頭火」(大星光史/世界思想社)*再読

→もう10回は読んでいると思う。もちろんお風呂で。
俳句や短歌を読むのはお風呂の中がいちばん。
熱いお湯の中だと理性が少し飛ぶのがいいのかもしれない。
俳句・短歌の、物語性および論理性の薄弱が気にならなくなる。
意識(理性)より深いところでの鑑賞を可能にする。




「写真句行 はぐれ雲 山頭火」(写真・真島満秀/小学館文庫)*再読

→きれいな風景写真+山頭火の俳句+日記の抜粋。
これもお風呂で何度も読んだからもうぼろぼろ。
だけど、保存用にもう1冊買ってあるからいいのです。
引用しまーす。

「降る雨は、人間が祈らうが祈るまいが、降るだけは降る、
その事はよく知っていて、しかも、空を見上げて晴れてくれるやうにと
祈り望むのが人間の心だ、心といふより性だ、ここに人間味といったやうなものがある」

「人間は鬼でもなければ仏でもない、同時に鬼でもあれば仏でもある」


2005/08/09(火) 13:35:49

「タイタス・アンドロニカス」(シェイクスピア/松岡和子訳/ちくま文庫)

→新刊で買ったのだから、あはは、1年半も積読していたことになる。
小田島雄志訳で読んだことがあるから再読になるのかな。
何を書けばいいのだろう。感想? まあ、ひとがよく死ぬなあと。
さすが「人殺し色々」(1564年生1616年没)のシェイクスピアである。

なぜか音読していた。が、あるシーンでやめてしまう。
強姦されるラヴィニア。
そのうえ犯人を言わせぬよう舌を切り取られ、文字も書けぬよう手首を切断される。
そんな姪を発見したマーカス。
なにをするかと思えば、シェイクスピア的ともいうべき美辞麗句をまくしたてる。
現代の感覚からするとついていけないわけである。それはちがうだろうと。
解説を読むと、やはりこの場面はわたしが言った意味で欠点とされているらしい。
少しは戯曲読解能力が向上したのかもしれない。




「シェイクスピア『もの』語り」(松岡和子/新潮選書)

→シェイクスピアにまつわるエッセイ。
松岡さんの本は何冊か読んでいるから、おなじネタの使いまわしが気になった。
でも、まあ、いいんです。シェイクスピア、大好きだから。
これを読んだとき、ひどい二日酔いだったのだけど、そんなあたまでもすらすら読めた。
あ、シェイクスピアをまったく読んだことのないひとにはつらいかもしれません。
良くも悪くもシェイクスピアオタクのための本です。オタクでごめんなさい。
でもシェイクスピア、欧米人には一般常識なんですよねえ~。

2005/08/09(火) 12:59:56

「日本古典読本」(秋山虔・桑名靖治・鈴木日出男 編/筑摩書房)

→日本の古典を読んでみたくなることはありませんか?
ある、だけど……はい、はい、わかっています。
まず何を読めばいいのかわからないし、そんなに時間もない。
だからといって現代語訳ではあじけない。
わかります、わたしもそうでした。そんなときに発見したのがこの一冊。
万葉集、古事記から竹取物語、源氏物語に歎異鈔、杉田玄白に井原西鶴まで
日本古典を100、そのなかでも有名な部分(たとえば「かぐや姫昇天」)だけを
原文のまま採録したのがこれなのです。
もちろんこれでもかと丁寧な注釈もついている。別冊の現代語訳のおまけまで。
数ページごとにあるコラムも秀逸。最新の学説が簡潔にまとめられている。
これだけ贅沢な一冊がわずか1100円で買えるのだからなんともお買得でしょう。

しかし、なのである。
1週間もあれば読めると思っていたけど大間違い。
結局、3ヶ月かかった。
梅雨に入るまえに読み終わろうが、いつしか梅雨明けまでにとなり、
けれどもその目標もかなわず、しまいには終わりはあるのかと疑うまでに……。
考えてみれば分量が半端じゃない。高校の古文教科書の3倍はあるのだから。
毎日、少しずつ読んだ。まず原文。つぎに現代語訳。注釈。最後に音読を二回。
もちろん読まない日もあった。ときには1週間ほどさぼったことも。
しかし投げ出すことはなかった。基本的におもしろいからです。
効用もある。こころがふしぎと落ち着く。
その平安は、ああ、むかしのひとも生きていたんだな、
そんなまこと月並な感嘆なのですが。
読み終わったときは信じられなかった。いささかのさみしさも。
ぼろぼろになったブックカバーがいとおしい。
再読したいけど果たしてできるか、うーむ。
気になったのは平家物語と近松門左衛門でした。

2005/08/09(火) 12:18:01

「精選 東京の居酒屋」(太田和彦/草思社)

→いまや居酒屋評論家の権威となりつつある著者の初期作。
たかがグルメガイドというなかれ。
太田さんの文章は読みごたえたっぷり。
目が舌になったかと驚くくらい味わい深い文章なのである。
お酒を飲みながらこういう本を読むのは極楽というほかない。
情報を更新した新版もでているからガイドとして使うならそちらを。
古本屋ワゴン105円本。

2005/08/03(水) 16:32:36

「戯曲論」(ストリンドベーリ/千田是也訳/早川書房)絶版

→ストリンドベリがシェイクスピア劇を論じた書。贅沢すぎる一冊。
じぶんの好きな近代劇作家が、おなじくらい愛好する古典劇作家を分析するのだから。
いいでしょ、いいでしょ、ばんざ~い♪

内容? 教えたくないな……。でも、まあ、ひとつだけ。
ストリンドベリはこんな鋭い指摘をしている。
シェイクスピアの「リチャード三世」。
極悪人リチャード三世がアンを誘惑し成功するシーン。
ちなみにリチャード三世はアンの夫を殺した男である。
愛する夫を殺した憎むべき張本人に求愛され、それを受け入れてしまうアン。
近代劇ならまるまるひとつの戯曲を使わないとこのテーマは書けない。
それをシェイクスピアはわずか数ページでなんら無理を感じさせることなく成功している。
そこにシェイクスピアの手腕をみるストリンドベリ。 ふーむ。

おもしろいんだストリンドベリ。
ハムレットの分析で、ハムレットは20歳そこそこの大学生だと言い切る。
だけど、ほら、あの墓堀人のシーンで、ハムレットが30歳だというのが……。
たぶんそのことを学者かなにかに指摘されたのだろう。
ハムレットの章の最後に「付言」とつけくわえ弁解する。
いや、もうそれは弁解ではない。かれにはもはやハムレットの年齢など問題ではないのだ。

ストリンドベリは恫喝する!

「自分で戯曲一つ書いたことのない人間はシェークスピアについて口を出すべきではない」(P41)

これを書いたとき60歳にはなっていたというストリンドベリは老いてますます意気軒昂!

ストリンドベリシーズンはこれでひと区切り。
おつきあい、ありがとうございました。
岩波文庫「島の農民」が残っているけどこれはもう少し積んでおく。
おなじく岩波文庫の「大海のほとり」を入手したらセットで読みたいから。
「青書」「激動時代」(「女中の子」の続編)など探している絶版書は多い。
古書店めぐりはやめられないようです。
ストリンドベリ、いろんな意味でひとを疲れさせます(微笑)。

2005/08/03(水) 16:23:26

「シェイクスピア物語」(チャールス・ラム/松本恵子訳/新潮文庫)絶版

→3年前だったか。
半年くらいシェイクスピアにのめりこんだことがある。
全作品読破。そればかりではなくいろんな訳で読み比べた。
読んだ注釈書、シェイクスピア本は数知れず。映画もビデオですべて見た。
それまで行ったことのなかった舞台にも身銭を切って出かけた。
素人劇団の「テンペスト」から、
唐沢寿明の「マクベス」、安寿ミラの「ハムレット」まで――。
われながらとりつかれたようであった。シェイクスピアと聞けば手を出し足を運んだ。

あれから戯曲ばかり読むようになり――、久しぶりのシェイクスピア本。
シェイクスピアの13の戯曲を子どもにもわかりやすいよう昔話風に書き直したもの。
なつかしかった。「十二夜」のところで落涙しそうになった。
好きなんです「十二夜」の物語。

2005/08/03(水) 15:32:43

「死の舞踏」(ストリンドベリ/毛利三彌訳/白水社「名作集」)絶版 *再読

→戯曲。
ストリンドベリの代表作にして、かれの作品の中でいちばん好きなものでもある。
これを読んでしまったから、ストリンドベリの絶版書を探すはめに陥った。
内容は、読んでほしいから一切ばらさない。ただ夫婦喧嘩とだけ。
地獄はあの世なんかではなく、この生きている現実にこそ存在することがわかる。
原爆も大災害も地獄だが、ありふれた日常生活にだって地獄はあるのである。
読むとひどく消耗する。何もする気が起きぬほど精神力を奪う。
精神の疲労でうつろになった目であたりを見回してみる。
テレビドラマ、映画、小説――。ため息をつく。

思う。この「死の舞踏」なんて現代には受け入れられないんでしょうね。
とすると、この戯曲が好きなわたしの居場所もないということになるのか。
はあ。やだな。といいつつ、この戯曲をおすすめしたいのです。
こんな戯曲をかつて書いたひとがいたということだけで、
現代を生きるわたしもだいぶ慰められる。




「令嬢ジュリー」(ストリンドベリ/毛利三彌訳/講談社「世界文学全集58」)絶版*再読

→読むのはもう4度目。
俳優気分で音読してみた。うん、この訳がいちばんでは?
ストリンドベリは1時間半の上演時間を想定して書いたらしい。
だけど、アクションなし、かつ翻訳された日本語で音読したらちょうど1時間。
読むのは4回目なのにどうしてこんなにおもしろいのでしょう。

内容。格下の召使がつかえている家のご令嬢をまんまと「食う」。それから――。
これほどいやらしい戯曲をわたしは知らない。まあ、えろいんだ。
激しい性描写も何もないんだけど、徹底的に下品で淫猥で、
そのくせふしぎ、そのまま芸術になっている。
こんなものを書く人間はどれだけお下劣な品性をお持ちなのでしょう。
しかしそれは才能なのである。
「令嬢ジュリー」。ここにストリンドベリのもっとも恥ずかしい精神が露呈している。

2005/08/03(水) 14:34:25

「女中の子」(ストリンドベリィ/尾崎義訳/創元文庫)絶版

→自伝的小説。著者の18歳までの「魂の発展史」(副題)。
三つ子の魂百までと言うけれども、この小説はまさにその妥当性を証明している。
ストリンドベリ独特の迫害妄想、被害妄想は少年のときからなのがわかる。
ストリンドベリは常にじぶんが不当に扱われていると感じずにはいられない。
人間関係構築能力の著しい欠如。
相手の好意をなぜか悪意と感じるふしぎな能力。
極めて激しい独善性。
異性への過剰なまでの期待。それゆえに、屈折した恋愛観。
そのようなみずからのゆがみを絶対的に正当だと主張できる、
あの激しさこそストリンドベリの才能なのである。
見習う意味もこめて引用。笑ったところでもある。

「罪悪と知ってからやめていた性の営みは、その頃には夜毎の夢に現れたが、
彼(=ストリンドベリ)はそれを悪魔の所業とし、
それと闘うために助力者としてイエスの名を呼んだ」(P135)

「異性の間に友情が成り立ち、存続しうるか? 
二つの性は生れつき敵同士であるから、それは外見的だけである」(P143)

「彼はアンダルシア(酒場の名前)の番台のむこうに座って居眠っていた
可愛いブロンド娘が好きになった。彼はこの娘を自分のために救いだし、
牧師館に下宿させ、自分も牧師になってこの娘と結婚したい、と思った。
だが、ある晩、別室で友達がその娘の乳房をいじっているのを見付けてから、
この恋は急速に冷めてしまった」(P162)

「いやだ、どんなことがあっても、あんな売女と遊ぶもんか。
自分が愛する唯一人の女と結婚し、同棲し、愛撫し愛撫され、
自分の家へ友人たちを招く、これが彼の夢であった。
そして彼の心が燃えた女のなかに、かれは母の一部をみるのであった」(P184)


(注)昭和27年発行。定価80円。古書価格は1000円でした。買ったのは大冒険。講談社文芸文庫だと思えば。そうおのれに言い聞かせながら。そういう意味でも記憶に残る本です。管理人 Yonda? 記す。

2005/08/03(水) 13:42:38

「冠の花嫁」(ストリンドベルヒ/小山内薫訳/「世界戯曲全集29」)絶版

→童話劇……になるらしい。
むかしから仲の悪い名家がふたつ。
その両家の息子と娘が恋をしてしまったものだから、あらたいへん。
だけど、まあ、このふたりを結婚させることでいままでのことを水に流すことに。
困ったのは、赤ちゃんができちゃっていること。
「できちゃった結婚」は当時、不名誉なことで「冠の花嫁」とやらになれない。
そこでみなにばれぬうちにとこっそり赤ちゃんを殺してしまった新妻。
この新妻に罰がくだるお話なのであーる。

罪は、未婚の母を不名誉とする社会制度にあるのではないか。
そんな問題告発は行なわれない。童話劇ですから。
かわいそうな花嫁と涙を流し、悪いことはするもんじゃあんめえと深々とうなずく。
それだけでいいのです。

そういえばさっきニュースでやっていた。
子殺し。というか無理心中。
養護学校に通う長男の未来を案じて母親が子どもふたりに毒を飲ませじぶんも。
結局、死んだのは障害をもつ長男だけだったらしい。
お母さん、これからどうなるんだろう。
これは社会的な善悪の問題(障害児福祉等)か。
人間の法律的な善悪の問題か。
社会や人間を超えるものがないニッポンの事件である。

2005/08/03(水) 13:39:37

「貸と借」(ストリンドベルヒ/楠山正雄訳/「世界戯曲全集29」)絶版

→一幕劇。この戯曲で人生は「貸と借」に過ぎぬとストリンドベリ先生は言い放つ。
つまり人生は公平ではない。かならず借りるほうと貸すほうがいる。

人生、借りてばかりいたアクセルはいまやマスコミの寵児(ちょうじ)。
アフリカ探検から帰国したばかりの新鋭人気学者アクセル。
まずは弟から借の返還を迫られる。
弟はアフリカ探検のための膨大な費用を肩代わりしたばかりに生活苦に見舞われている。
つぎはかつての学友。
かれは本来、アフリカ探検に行くことになっていたのだがアクセルにその地位を奪われた。
いまは飲んだくれのごろつきとなり、帰国したばかりのアクセルに金をせびる。
まだ返済を迫るものがいる。
アフリカ探検に行くからとアクセルに婚約を破棄された元恋人である。
四人目は先ごろ、人気学者アクセルに恋人を奪われた男。
みなの要求を一括するとこうなる。「借りを返せ」である。
独力でいまの地位を得たと思い込んでいたアクセルは動揺し、最後には失踪する。
弟には相当する小切手を残し、恋人を返せと主張する男のためにひとりで蒸発する。

戯曲「貸と借」を総括するとわかることがある。
(人生上で)貸していたものを返したもらったひとがいる(弟、失恋者)一方で、
借りを永久に返してもらえなそうなひともいることである(学友、捨てられた女)。

「一方の楽しみは他方の苦しみ」(「夢の劇」)。

人生は「貸と借」。


これこそストリンドベリの人生観にほかならない。


「熱風」(ストリンドベルヒ/楠山正雄訳/「世界戯曲全集29」)絶版

→一幕劇。ごめんなさい。読みましたが、さっぱりわかりませんでした。

2005/08/02(火) 15:43:58

「ペエアの旅」(ストリンドベルヒ/小山内薫訳/「世界戯曲全集29」)絶版

→五幕の劇。「童話劇」という分類に入るらしい。
解説によるとストリンドベリにとっての「青い鳥」とのこと。
この戯曲、好きだなぁ。
ごめんなさい。あたまが悪いから結局、好き嫌いの話になってしまう。
高みから分析して論じることなんてできません。
わたしにできるのはこの天才(狂人)を仰ぎ見て感嘆するだけ……。

森の中で素朴な楽園生活を送っていたペエア少年は第一幕で宣言する。

ペエア「ええ、出て行きますとも。僕は世の中が見たいのです。(……)
僕は熱帯の果物が食べたいのです。それが虫に食われていたって構いません。
僕はお酒が飲みたいのです。それが毒でも構わないのです。
僕は娘の腰が抱きたいのです。
破産をしたお父さんが暖炉の隅に座っていても構わないのです。
僕は銀や金が欲しいのです――
それがしまいにチリになっても構わないのです」(P93)


ペエアは小鬼(スウェーデンの妖精)の助けのもとで、
時には金持ちになり、それに飽きたら今度は名誉を求めて政治家になるといった具合。
つまり幸福を求めたわけである。お金、友人、快楽、名誉――。
そこに突然「死」があらわれペエアは狼狽する。
猶予を懇願するペエア。しかし求めうる幸福は網羅した。
そこに賢者があらわれる。

賢者「誰を捜しているのです」
ペエア「人間を一人。手短に言うと、僕は不幸なんです」
賢者「では、人間など捜してはいけません。
人間は決してあなたを助けてはくれませんから」


くうう、この賢者のセリフはいいねえ!

ペエア「それは分かっています。でも、わたしは生きることも出来なければ、
死ぬことも出来ないのです。(……)」(P136)


賢者はペエアに言う。

「自分ばかりを愛するものは、決して他人を愛さないからです」

……耳が痛い。
さてペエアは真実の愛に目覚め、リイザという運命の恋人を見出します。
童話劇らしく最後は説教で幕を閉じる。

「(……)人生はあなたがあなたの若い夢の内に見たようなものではありません。
人生は砂漠です。それはほんとです、しかし、花のある砂漠です。
人生は荒れ狂う海です。しかし、青青とした島に港のある海です。(……)」(P141)


再読したいけどこの翻訳じゃなぁ。だれか新訳で出してくれませんかね~。

2005/08/02(火) 14:34:20

「ルッテル」(ストリンドベルヒ/舟木重信訳/「世界戯曲全集29」)絶版

新記録です。 

これ、わたしが手に取ったいちばん古い本。昭和3年刊行!
むかしはこんな古い本、きたないと触る気さえ起きなかったけれども、
人間は変わるもんだ。それともストリンドベリの魅惑がそれだけつよいのか。
300円だからと買っておいたもの。ほんとうに読む日がくるとは思わなかった。
旧仮名・旧字体+細かい活字組み+昭和3年の翻訳日本語=読みにくい×3

配役表を見て気づく。
ルッテルでルターのことか。ほら、あの、宗教改革の。
オズボーンの戯曲「ルター」を読んだことがあるし、
つい先日も世界史を勉強したばかりだから大丈夫か、
というあわい期待は……もろくも崩れる。
「ジャンヌ・ダルクもの」もそうだけど、こういう宗教劇は日本人には理解不能では。
幼児期から教会に通うことから生じる、なんというのかな、肌感覚、呼吸感覚のちがい。
こちら日本人はキリスト教でさえあやふやなのに、まして微細な相違などは手におえない。
わからないものはわからない。
だけど、うーん、わからないながらも、
ストリンドベリがキリスト教についてよほど考え込んだ、
その爪あとくらいなら、せめてわかったような気になってもかまいませんか。

ちなみにストリンドベリ。
幼少期はキリスト教べったり。
青年期にほのかな疑問。
中年期に「地獄期」と称したほどのキリスト教不信に陥る。
晩年はようやくキリスト教への信仰を取り戻す。
――というのはあくまでも告白小説等での「自称」で、
周囲から見たストリンドベリは生涯狂気のうちにあったとか。

2005/08/02(火) 13:45:55

「強者」(ストリンドベリ/毛利三彌訳/講談社「世界文学全集58」)絶版

→一幕劇。クリスマス。登場するは女優ふたり。
話すのはひとりだけ。だからもう一方は聞くのみ。
ふたりはライバルの関係にある。
というのも、しゃべりつづける女は無言の女に以前夫を寝取られたことがある。
しかしいまは元のさやに収まっている。
この妻のセリフのうちに、だんだんとそのような事情が読み取れる。
ストリンドベリである。

またもやテーマは、幸福か不幸か!

この妻は、夫の元愛人に語りかけずにはいられない。
いかにいまのじぶんが幸福か。家に帰ったら夫と子どもが待っている。
ひきかえ、あなたはクリスマスなのにさみしいこと。
終始、無言のこの元愛人。夫の浮気が終わるまでぐっとこらえた饒舌な妻。
「強者」はどちらか。元愛人か正妻か。
ストリンドベリはかたくななまで主張した。
一方の幸福は他方の不幸である。憎悪こそ愛情を裏づけるものである。


「母の愛」(ストリンドベリ/毛利三彌訳/講談社「世界文学全集58」)絶版

→一幕劇。いま書きながら気づく。これもまたおなじであると。
登場するのは、元売春婦の母を持つ美貌の娘。
母は(自分の素性を隠し)娘を社交界にだそうとしない。
が、ある夏、娘は避暑地ではじめての友人(女)ができる。
のちにこの友人は腹違いの妹だとわかる(のだが、このへんはちょっと強引では?)。
名家に育ったこの友人(妹)は娘(姉)を社交界に誘う。
それは女優として大成するきっかけにもなる。
娘にはじめて訪れたチャンスである。
しかしそのためには(知られると不名誉な)元売春婦の母を捨てなくてはならない。
母としては娘を手放したくない。母の愛執である。

娘の幸福は母の不幸。母の幸福は娘の不幸。

ストリンドベリの戯曲から、葬式によみあげられるお経のような
やるかたない響きが聞こえてくるのはわたしだけでしょうか。
後年、ストリンドベリは仏教に関心をもったという。

(あ、ネタバレ。結局、娘は妹ではなく母を選択する。
つまり女優の花道ではなく元売春婦の母を。
だからタイトルが「母の愛」なのだと思う。母の愛が娘を不幸にする!)

2005/08/02(火) 13:42:43

「死の前に」(ストリンドベリー/杉山誠訳/三笠書房)絶版

→一幕劇。脱サラしてペンションを経営するも甲斐性なしで破産したパパ。
年頃の娘3人はみんな死んだママの味方でパパを嫌う。
悲しむパパはペンションに火をつける。
パパだって、いやむしろパパのほうが娘を愛していたんだよと。
パパの生命保険でみんな幸せにおなりなさいと――。

あの「夢の劇」の後に読むのならなんだっておもしろく感じるというもの。
でも、まあ、なんというのか。これを書いた動機というのが。
離婚した元妻に娘を奪われた腹いせに書いたというのだから……。
(ストリンドベリは3度結婚、3回とも離婚。晩年に少女に求婚するも拒絶される)
私的な憤懣・激情から創作することの多い作家でした。

あ、この「死の前に」は昭和27年刊行の「令嬢ジュリー」に収録されていたもの。
どうでもいいけど「令嬢ジュリー」の翻訳を6つ持っています。

2005/08/02(火) 11:58:54

「夢の劇」(ストリンドベリ/毛利三彌訳/白水社「現代世界演劇3」)絶版

→ストリンドベリはこの戯曲で悪夢を再現しようと試みた。
夢を見よう夢ではなく、夜に見る夢のほうの。あの目がさめるとほっとする類の悪夢を。
天才(キチガイ)というのはとてつもないことを考えます。
この戯曲に筋(すじ)のようなものはない。だから不条理ですらありえない。
意味不明。支離滅裂。こんな表現をするほかない。読了するのはかなりの労苦。
が、骨折り損のくたびれもうけ、というわけでもないのである。
なんとも形容しがたい重たい不快感がのこる。やりきれなさ。
シュークリームのような童話劇にあふれた現代ではかえって貴重かもしれない。
それはまさに悪夢である。内容は思い出せなくとも衝撃だけは忘れられないのだから。
どんな雰囲気か。引用。

(夫)「共同生活とは責め苦だよ。一方の楽しみは他方の苦しみ」
(妻)「人間ってあわれね」
(夫)「それがわかったか?」


この夫妻は(夢の中ゆえ)また別のものにすがたを変え相互に嘆きつづける。
人間は傷つけあうもの。幸福なんてどこにもないこと。
仮に幸福があるとしても、それは他人の不幸からもたらされる慰めにすぎないこと。

引用をつづける。

(男1)「2かける2は……2。
それを最高の証明方式である類推法で証明してみます。
いいですか……1かける1は1。ゆえに2かける2は2! 
一方にあてはまれば他方にあてはまるからです。」
(筆者注:人間がひとりのときの苦しみと、ふたりのときの苦しみを暗示か?)
(男2)「その証明法は論理学に完全に適応している。しかし答えは誤りだ」


(男3)「そして、きみの不幸の上にぼくの幸福が築かれると思うのかい?」
(男4)「われわれはあわれだ――われわれみんな!」
(全員)「(天に手をさしのべ、不協和音のような苦痛の叫びをあげる)ああ!」
(女2)「永遠なる父よ! この人たちの声を聞いてください!
    人生は苦痛に満ち、人間はあわれです」
(全員)「(前と同様)ああ!」


ストリンドベリの絶叫が聞こえてきませんか。
人生は闘争である! 人間は憎悪しあう、苦しみの連続となろうとも!

2005/07/19(火) 18:37:17

「12万円で世界を歩く」(下川裕治/朝日文庫)

→説明はいらないよね。タイトルどおりだから。
15年前の「週刊朝日」企画で、毎月12万円で世界を旅してくるという――。
貧乏旅行エッセイは山ほどあるけど、これは秀逸。大満足。
ひとりよがりの感傷がない。旅先での苦労をことさら強調しない。
つまり自意識とのつきあいかたがうまいのである。
写真が多くそのレイアウトもいい。旅行エッセイでこれだけの本はなかなかない。

2005/07/19(火) 18:37:17

「古本買い 十八番勝負」(嵐山光三郎/集英社新書)

→たまには最新刊をさくっと読むのもいいかと思いまして。
嵐山光三郎さんが仲間と古本屋をまわって収穫を自慢しあうという企画。
十八番勝負だから東京各地の古本屋街をまわる。だから古本屋マップとしても使える。
あと買った本のタイトルと金額をすべて書いている。これってけっこう勇気ある。

このおじさんたちのほしい本のジャンルがわたしとちがうから
なんともいえないとことわっておきながら、
それでもやっぱいいたいんだなぁ。おじさんたち、なんだかな。
わたしも早くあんな買い方をしたいという、うらやましさの裏返しかもしれないが。
だけどさ、そんな高い本をばんばん買うものじゃありません。
定価の3倍も4倍もだして買いながら掘出物と喜んでいるのは、うーん。
それにほんとにそんな本を読んでますか。買うだけで満足しているとしか思えない。
自称研究者がネットで書いていた。
経費で本が買えるようになったら、からっきし読書しなくなったと(本は買うけれども)。

だけどこの本には感謝。先日、このガイドに導かれて荻窪の「ささま書店」へ。
近年にないほどの掘出物の連発でワゴン105円本を15冊も買いましたから。
うん、元は取った。重かった。

(注)当ブログの「買った本の報告」はこの新書のパクリです。管理人 Yonda? 記す。

2005/07/19(火) 18:37:17

「酔いどれ紀行」(山口瞳/新潮文庫)絶版

→探していたので見つけたときはうれしかった。210円。
お酒のエッセイを読みながらお酒を飲む。イイネ、イイネ。

むかしの作家はイイネ。

いまの作家のエッセイはなんでああも味わいがないのか。
おもてなしのこころがないんだろうな。きっと。
山口瞳が各地へ旅行し酒を飲む。それだけなのに、なんでこんなにおもしろい。
山口瞳は山本周五郎を尊敬しているのだとか。
「青べか物語」を再読しようかなと思った。

2005/07/19(火) 17:37:33

「恋の火遊び/令嬢ジュリー」(ストリンドベリ/内田富夫訳/中央公論事業出版)

→ストリンドベリはイプセンと同時代のスウェーデンの作家。
戯曲で有名だが、小説や自然研究、錬金術研究などでも活躍した。
日本では大正時代に大ブームがあったが、戦後は完全に忘れられた作家。
いまでも作品をふつうに新刊書店で購入できるイプセンとは対照的。
ストリンドベリとはどんな作家かと一言でいうなら

キチガイ。

この一語につきる。
みずからの狂気との危うい緊張関係を芸術作品として昇華させる、
その腕ときたら人後に落ちない。
まさしく綱渡り的スリル。いまもっとも関心を持つ作家のうちのひとりである。
作品がぜんぶ絶版なため、古書店で掘り出すひそやかな愉しみもこの作家の魅力。

ところがである。今年の一月に新刊としてでてしまった。
それはそれで嬉しくないこともないのだが翻訳者がいささか。
訳者は文芸とはなんの縁もない元駐スウェーデン大使。
「楽しかったスウェーデン勤務の思い出を何かの形で残したいと願い」
と訳した理由を前書きで語る。
で、巻末にはお約束の訳者顔写真と詳細な略歴(もっと略しなさい!)。

まず「恋の火遊び」を読む。とんでもないわけです。
今まで読んできた本の訳者のすごさがようやくわかった。
素人とプロはかくもちがうのか。
戯曲は会話である。
しかしこれは日本語が会話になっていないのだから。
「令嬢ジュリー」を読むのはこれで3度目。
このひどい翻訳でも「令嬢ジュリー」のおもしろさには舌を巻く。

何度読んでも楽しめる戯曲というものがある。
「オイディプス王」「アンティゴネ」「ハムレット」「マクベス」「十二夜」「かもめ」。
これらはどれも3回以上読んでもまだ感動したもの。
いや、感動が深まったというほうが適切か。
今回、「令嬢ジュリー」が仲間入りした。
別の訳で近々再読したい。詳細はそのとき。

2005/07/19(火) 16:52:32

「深い青い海」
(テレンス・ラティガン/小田島雄志訳/白水社「今日の英米演劇1」)絶版
*再読

→戯曲。ラティガンの代表作。
1年前の感想には、こういうのを読むと生きているのが嬉しくなると大絶賛が。
ストーリー。
駆け落ちまでした恋人から捨てられつつある女、
ヘスターが絶望(自殺未遂)から生きることを選び取るまで。
おなじアパートに住む医者のミラーがなんとも魅力的である。
ミラーはまえに医療事故で刑務所に入ったことがある。
いわばヘスターとミラーは同類、すねに傷を持つ身。
恋人から捨てられることがほぼ確実となり
2度目の自殺をはかろうとするヘスターにミラーはいう。

ミラー「(……)希望を越えたところに行くのです。それが唯一のあなたのチャンスだ」
ヘスター「希望を越えたところに、なにがあります?」
ミラー「人生が。それを信じるのです。そうなのです――ほんとうに」


なおも人生の目的を問う、絶望にくれたヘスターにミラーはいう。

ミラー「わたしにとって、人生の唯一の目的はそれを生き抜くことです。(……)」

結局、問いはひとつしかないと思っている。
「生か死か、それが疑問だ」(「ハムレット」福田恆存訳)。
「真に哲学的な命題は自殺は許されるかである」といったのはカミュだったか。
「完全自殺マニュアル」ふうに言えば「死んじゃえば終わりじゃん」。
しかしそれを乗り越えるのが人間ではなかったか。
ドラマではなかったか。文学ではなかったか。
ラティガンはそのことをわかっていた。
かれが軽薄な風俗喜劇作家などというのは大間違いである。

ふと思い出すは河合隼雄の好きなことば。
「なぜなしに生きる」。
なぜ生きるかという問いに答えはない。
けれども生きているというだけですばらしいことなんだ。
奇蹟といっていい。
だから……「なぜなしに生きる」か。

2005/07/19(火) 15:48:17

「お日様の輝く間に」(テレンス・ラティガン/加藤恭平訳/原書房)絶版

→戯曲。ラティガンはイギリスの劇作家。
大ヒット作品をいくつも書いた。
モットーはその晩の観客をとにかく満足させて帰途につかせる。
そのため風俗劇作家と、芸術的にいちだん低いものとして揶揄するものもいる。
イギリスと日本では演劇の社会的位置がだいぶ異なるから
日本人がラティガンを理解するのは難しい。
ひとことで言えば演劇人口のちがい。
あちらイギリスでは庶民の娯楽として演劇が根づいている。
しかし日本では――。
いちぶのひとたちが何度も行くとでもいうのか。
まあ、娯楽として定着してはいない。

さて「お日様の輝く間に」である。
まいった。読んだのは10日前。覚えてない。
読んだそのときは、なかなかおもしろいラブコメディだとは思ったのだが。
見方を変えれば、これぞラティガンの手腕とも思える。
何度でも劇場に足を運ばせる。
侮れぬぞテレンス・ラティガン。


「ブラウニング訳」(テレンス・ラティガン/加藤恭平訳/原書房)絶版

→戯曲。ラティガンが気になる存在になったのは福田恆存の影響。
福田恆存はラティガン劇をこう評す。

「人間が人間的であることの良さがでている」

ひとりの人間が英雄にも愚人にもなりうる、それが「人間的」の意味するところらしい。
「ブラウニング訳」の主役は生徒からバカにされている中年教師。
かれの妻は若い教師と不倫の関係にある。
夫である中年教師はそれを知っているが口出しはしない。
そんなかれが学校をはなれるとき、ささやかなドラマが生まれる。
ハッピーエンドでもなんでもない。淡々とした結末。
しぶい。うなった。人間っていいな。


いま発見した。ラティガンの戯曲はほとんどここ↓で読める。
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/eng.html
今回、読んだのもすべて入っている。同系列の劇作家ノエル・カワードの作品も。
ただパソコン画面&横書きの戯曲は並々ならぬ読みにくさ。
PDF版があるから、これをどうにかすれば縦書きに印刷できるのか。
そういうことに詳しくないからな……。

2005/07/08(金) 14:33:05

「比較文明の社会学」(米山俊直・吉澤五郎編/放送大学教育振興会)絶版

→放送大学のテキストが安く(古本で)買えると嬉しくないですか。
入学試験のない大学。だれでも入れる放送大学。
そんな放送大学のテキストはものすごーくわかりやすいのではないだろうか(妄想)。
でも難点が。やたら高いんだ放送大学テキスト。いちばん薄いのでもいまは2000円とる。
そんなテキストが今回、200円で買えてとってもうれしかったのです。
流れとしては、「文明の生態史観」(梅棹忠夫)のつづきというのか。

執筆は15人の学者さんが分担。
「宗教と文明」「音楽と文明」「都市と文明」……と、
いろんな切り口から文明を比較してみようという構成。
なかにはひどい学者もいた。
専門用語を注釈なしで使って、参考文献にはじぶんの今までの著作を(おそらく)全部。
まあ、比較文明学の始祖・梅棹忠夫そのものが(学問的に)胡散臭いおかただから(笑)。

比較文明論はたぶん主観の要素が強いのだと思う。悪くいえば妄想。
このテキストでも「海と文明」を担当した学者さんが
なかなか質のいい妄想を展開している。
いままでは陸を中心に世界史をとらえていたけど、それを海中心に見たらどうなるか。
つまり陸地史観から海洋史観へ。
歴史教科書の眠くなるような情報提示とは異なり、かなり斬新な物語になっていた。

2005/07/08(金) 13:41:20

「図解雑学 哲学」(貫成人/ナツメ社)

→哲学へのスタンスは一貫している。
たいした悩みごとのないひとがわざわざ苦悩したいがためにするもの。
哲学ずきは、じぶんだいすき。
おのれの周辺をぐるぐるぐる~りお散歩。
おのれはあるだの、おのれはないだの、せっせとおのれに砂運び。
いつのまにか小高くなったおのれから見えるものはなんですか?

おっと暴走した。とにかく哲学がきらい。哲学愛好家も苦手。
でも、まあ、その、なんだ。
哲学者の名前がでてきてもビビらないよう最低限の知識くらいはと。

うん、「図解雑学」シリーズはよろしい。
このわたしまで、なんかわかったような気になるくらいだから。
世界の本質を求めた古代哲学者。
キリスト教のいんちきくさい世界観に賄賂を払いつづけた中世哲学。
疑えない「私」を発見したデカルト。
実存が本質に先行する不安におののいたサルトルも古くなってしまった現代。
行方不明の「私」は言語の内部に隠れていると推理した名探偵たる現代哲学者。

え、え? 

もしかしていまわたし哲学していませんか? 
「図解雑学」バンザーイ! 苦手分野を克服したのか?

2005/07/08(金) 12:33:32

「インストール」(綿矢りさ/河出書房新社)

→おもしろいねえ。これこそ新しい文学。
龍とか春樹のデビューをリアルタイムで経験していたらこんな感じだったのでは?
新しいものに触れえた衝撃とでもいうのか。
生きる確固たる目的はない。かといって不幸でもない。
周囲に広がるはどこまでもまったいらな地平。
そんな世代に世界の遊び方を教える。
うん、これは啓蒙小説である。この小説で著者が見せる、
世界とのつきあいかた、じぶんとのつきあいかたはなんとも新鮮。
作者の内奥に無尽蔵のことばがあふれているのも文章の端々から感じる。
まちがいない、綿矢りさは天才である。
古本屋ワゴン105円本。

2005/07/08(金) 12:01:32

「北村想の劇襲」(北村想/而立書房)

→戯曲「寿歌」「寿歌Ⅱ」「火の日のじけん」の3作品を収録。
ネットですすめられて読んだ。
3作品とも退屈だった。
学芸会のお芝居、その台本を読まされたとでもいうのか。
とにかく子供っぽいんだ。
そう漫画だ。少年漫画。ギャグ漫画を舞台にあげたらこんな感じ。
核戦争勃発後だの(「寿歌」「寿歌Ⅱ」)、
精神病患者の妄想でしたオチだの(「火の日のじけん」)。
おとなが楽しめるドラマではない。




「ゲゲゲのげ」(渡辺えり子/白水社)

→戯曲。描かれるのは子どもの世界。
子どもの世界ではなまじ教師よりも、ゲゲゲの鬼太郎がリアルに実在する。
いじめられっ子のマキオのまえにあらわれる鬼太郎。
現実と虚構がいりまじるとき、失われた世界がよみがえる。
読後、なみだがこみあげてきた。
「ゲゲゲの鬼太郎」をもっとよく知っていたらと残念。

2005/07/08(金) 11:14:54

「文明の生態史観」(梅棹忠夫/中公文庫)

→間違っていないか。浜島書店「国語便覧」で紹介されている。
「高校生が読んでおきたい評論50」だって。
おい、浜島書店編集者。ほんとうにそれでいいと思っているのか。

これは学術論文でもなんでもない。
わたしから言わせればインド本の亜流。
インド本。はじめてインド旅行をしたひとがカルチャーショックを受け、
異様な興奮状態で熱に浮かれたように書いてしまうエッセイのこと。
50年前、著者はインドを旅して悟っちゃったわけです。
世界の仕組みがわかったと(笑)。
それから宗教の開祖みたいなことを言いだす。

以下、梅棹忠夫の「世界史モデル」。
世界は第一地域と第二地域にわかれるという。
これが大前提。
第一地域とは西欧と日本。
第二地域は西欧と日本の中間に位置する地域
(東欧、アラブ、インド、中国、東南アジア等)。
そして世界の歴史は進んだ第一地域が牽引してきたとつづける。
第一地域が第二地域よりも常に進歩(産業革命など)しているのは地理的に見て必然。
なぜなら西欧、日本ともにユーラシア大陸のはじっこに位置しているからである。
その位置的利点を梅棹は説く。
さらに西欧史と日本史(=第一地域の歴史)の類似を指摘しながら、
梅棹は言い放つ。

「鎖国のために、東南アジアに対する日本の侵略と植民地化のうごきは、
200年以上おくれることになってしまった。(……) 
鎖国なんかして、おしいことをした、といっているのではない。
日本という国は、歴史のすじがきからいうと、東南アジアにとっては、
しょせんイギリス、フランス、オランダなどとおなじ役わりを
はたすような国なのだ、ということである。
それはかならずしも、明治以来の軍国主義のもたらした結果ではない。
それは、本来的には、日本と東南アジア諸国との、
文明史的なシチュエーションのちがいによるものであり、
また、日本と西ヨーロッパ諸国とのシチュエーションの類似にもよることである」(P223)


なんでこんな本が古典的名著のあつかいを受けロングセラーをつづけているのか。
おそろしいことにこの本を契機として「比較文明学会」なるものまでいまはあるという。
いいんですか? やっちゃっていませんか大失敗を! 

これが学問ですか。

2005/06/28(火) 15:10:51

河合塾テキスト「見えてくる現代文」「東大現代文」「早大現代文」

→日本史と現代文のテキストはなぜか捨てられなかった。
とくに現代文は大川邦夫という先生がいてね。プリントもぜんぶ保存している。
うん、大川先生、好きだった。変なカリスマ性があって。
高3のとき現代文ばかり勉強していた。さっぱり現代文の偏差値は上がらなかったけど。
今回、約10年ぶりに読み返してみた。テキストプリント全部。
問題は空所補充以外はパス。
なにをやってんだかとじぶんでも思うのではありますが。

感想。子供だましだったんだなぁ、受験科目現代文。
あんなもの百害あって一利なし。
誤読こそ読書の愉しみなのに、正しい読み方を教えられるなんてまっぴら。
高校生を悩ます難問なんかも今のわたしならばっさり。
いや、わかるんじゃないですよ。指摘できるというだけの話。
「これは難問とは言わない。こういうのは悪文っていうの!」


「1996年度 東京大学入試問題 現代文」
「1996年度 早稲田大学第一文学部入試問題 現代文」


→10年後に気づいた。大川先生、すご~い。
東大の第一問、当ててる。テキストの創作問題と内容がおんなじ(文章はちがう)。
しかもそれを2学期最後の授業でやっている。
ふええ。なんで落ちたんだろう。
あと東大よ。第五問、あれはなんだ。おとなが読んでも意味不明だぞ。
それから早稲田。文学部。あれを作ったやつの顔が見たい。
あんなつまらない文章出すな。眠くなって最後まで読めなかった。数奇屋造りの説明文。

総評。読書というのはこちらの関心が大切。
じぶんのなかに何かしら問題がある。そこから読もうとするのが読書。
他人からこれを読めなどと強制されるのは屈辱以外の何ものでもない。
2005/06/28(火) 14:40:08

「夢見る沼」(井上靖/講談社文庫)絶版

→いきなり引用。小説内の会話から。

「運命というものか。そりゃあ、あるだろうね。
人間には、各人にこうなるように初めからできていたというものがあるだろうね。
だが、しかし、それはある程度人間の力で変えられるものだと思うね」(P133)


小説家ってすごいと思う。神様でもないのに他人の人生を描ける(=わかる)んだから。
どんな根拠をもって小説の中の人物を動かしていくのでしょう。
努力と運命の配分をどうやって決めているのか。
私小説や歴史小説のメカニズムならわかるんだけれども。
つまりは実際に起こったことを書くのだから。
もしかして物語作家って神様? 井上靖は現人神(あらひとがみ)?

2005/06/28(火) 14:40:08

「インド夢幻」(瀬戸内晴美/文春文庫)絶版

→インド旅行記。思う。描写ってなんだろうね。
インドで瀬戸内晴美が行った場所、わたしもすべて行ったことがある。
まあ、瀬戸内さんの行ったのは今から30年近くもまえという違いはあるけれども。

たとえばタージ・マハル。
インドでたぶんいちばん有名。あれなら30年まえから変わっていない。
で、瀬戸内さんが感動して一生懸命にタージ・マハルを描写しようとしているのがわかる。
しかしぜんぜんおもしろくない。
それならおまえはどう描写するのかって?
描写しようという気にならない。ガイドブックでも見てください。あれですあれ。
そんなことを書きたくなってしまう。
つまりは無感動なんです。これは時代的なものだと思う。
それをどう乗り越えるか。この平成ニッポンで。考えこんでしまう。

2005/06/28(火) 12:43:37

「加藤周一対話集〈第4巻〉ことばと芸術」(かもがわ出版)

→対話のお相手は以下。
桑原武夫、中村真一郎、針生一郎、吉田秀和、大町陽一郎、大岡昇平、
渡辺一夫 、小林秀雄、木下順二、野上弥生子、井上ひさし、武田泰淳、
一海知義、大野晋、渡辺守章。

対談対話は気楽に読み流せるところがよろしい。
さてさて。

小林秀雄はひどいやつだね

大家意識丸出しで加藤周一を格下扱いしているのが、なんとも。
「~~はどうですか」と話を振るのはきまって加藤周一のほう。
それを小林秀雄ときたらこう返す。
「僕はそれを読んだことがないからちょっと説明してくれないかな」
懇切丁寧に説明する加藤周一。
それを聞き終わって小林秀雄「それは違うと思うな」。理由は言わない。
こんな対話が何回も繰り返されるんだから。笑いがとまらなかった。

勉強になったのは木下順二との対話。
近代劇は個人対個人のドラマである。
が、ギリシア悲劇では、(個人は)もっと大きなものに対峙している。
個人の力ではどうにもならないものと向き合っている。
どうにもならないもの、それを運命と呼ぶか歴史と呼ぶか。
ふたりは対話をつづける。
ここで「歴史」ということばが加藤周一からでてきたのが新鮮だった。
個人のドラマがある。
それをいとも簡単に破壊できる大きなドラマ(=阪神大震災、イラク戦争など)。
歴史である。最近、なんでこうも世界史にひかれるのかわかったような気になった。

2005/06/19(日) 17:42:14

「私の読書法」(岩波新書)品切れ

→執筆者は清水幾太郎、杉浦明平、加藤周一、蔵原惟人、茅誠司、大内兵衛、
梅棹忠夫、中村光夫、八杉竜一、田中美知太郎、都留重人、吉田洋一、
宮沢俊義、開高健、渡辺照宏、千田是也、鶴見俊輔、松田道雄、松方三郎、円地文子。

ふう。この中で何人名前を知っていますか? わたしは9人。多いのか少ないのか。
こういうエッセイ集は大好き。これも大満足。みなさん一様に苦労されているのが

忘却対策。

せっかく読んでも忘れてはねえ……。
わたし7、8年前は本に書き込だりしていた。線引きと批判・感想。赤ペンで。
だからいま書き込みのある宮台真司の本なんぞを他人に読まれた日には死にたくなる。

5年前から読書ノートをつけるようになった。1、2年くらい続いたのかな。
こころに残ったことばを書き写して、その後にじぶんの考えを付記したり。
で、いまはこの通り。ネットに読了報告を書き込む。
我ながらよく続いていることに驚く。

この本から引用。

「だいたい、本というものは、読者が金を出して買い、
時間をつぶして読むものなのである。
読者のわかりやすいようにと、渾身の努力をするのが著者のつとめであるべきであって、
わけのわからない書き方をするくらいなら、はじめから本を書かないほうがいいのである。
ところが、そういうわけのわからない本をかえってありがたがって、
随喜の涙さえ流しかねない人がいるのだから、世の中は妙なものである。
わからないとなんだか深遠なような気がするのでもあろうか。
わたしにいわせれば、わかりにくい本の著者は、
実は、自分自身でもよくわかっていないのに、
それをごまかして書いているのだとしか考えられない。
ほんとによくわかっているのなら、著者が努力しさえすれば、
読む人にもよくわかるように、書けるはずであろう」(P114)

「わかりにくい本を深遠な本だと思いちがいしてありがたがるのも困りものではあるが、
文芸作品を読むとき、額にしわを寄せたり何かして、その作品のなかからむやみと
深刻な思想をよみとろうとするような行き方も、また、大いに考えものである」(P116)


これを書いたのは吉田洋一さん。数学者なんだって。
まったく同感としかいいようがありません。

2005/06/19(日) 16:47:36

「改訂 文学入門」(伊藤整/講談社文芸文庫)

→読んだよ、ええ、読みました。
ただ、あんまり記憶に残ってないんです。
まえに読んだ一連の丹羽文雄があまりにおもしろすぎたからかなぁ。
そういえば丹羽さん書いていた。文芸評論などあまり読まないほうがいいと。
あんなのを読んでいると小説が書けなくなるとまで。
その理由は、文芸評論で論じられることと、
小説を創作するメカニズムはまったく別のものだから。
そうすると伊藤整は丹羽文雄と正反対の考え方だったのか。
かれは批評から新しい小説を書こうとしたのだから。
この「文学入門」はその過程なわけです。

えーと、記憶に残っているのは、文学と社会構造は密接に関係しているという主張。
文学史は、社会構造の変遷の、いわば影絵なのだと伊藤整はいう。
源氏物語以後、長い間、日本文学が低迷した原因も社会構造に求める。
多様な階層の交流が文学発展の母胎になるのだという考えがその前提にある。
まあ、わたしから言わせたらだからどーしたと?
問題なのは小説。伊藤くんはどんな小説を書きましたか。
じつはあんま読みたくない。
だってこの「文学入門」わかりにくいんだもん。

ところで例の2ちゃんねるって文学だとは思いませんか。最先端の文学。
これほど「多様な階層の交流」が行なわれたのは有史以来初めてではないでしょうか。
すべては匿名のおかげであります。
医者も弁護士も工員も女給も、みーんなおんなじ名無しさん。

2005/06/19(日) 16:05:16

「佛にひかれて」(丹羽文雄/中公文庫)絶版

→すべて見せます丹羽文雄。
小説のネタにしつづけてきた丹羽家の恥ずかしい過去を大公開。
そんなエッセイである。
おもしろいね、ひとの不幸って。笑えるね、ひとの秘密って。
実際にあったことは、ただそれだけでおもしろいものだとうなった。
丹羽文雄のお父さんもやるなあ。
義母と密通。檀家の未亡人ともやりほうだい。
4回も妻をとっかえて、最後の奥さんは自殺ですか~。
丹羽文雄のお母さんも、不倫相手を自殺させているから負けてない。
そんな両親を畏怖していた丹羽文雄自身も立派なアルツハイマーになって、
しっかり娘を殺しているんだから(娘・本田桂子は4年前に介護疲れが原因で死去)。
とりあえず丹羽文雄はここらで一区切りにしますが、
いや、ほんとにすごいですね文学。

ブ・ン・ガ・ク♪ 文学万歳~~~~♪

2005/06/19(日) 15:35:44

「有情」(丹羽文雄/集英社文庫)絶版

→小説に思想がないとずっと丹羽文雄は言われていたらしい。
いま考えたらおかしな話だけど。小説は哲学や思想とは別物なのだから。
だけれども、そうは答えられず丹羽文雄がたどりついたのが親鸞。
実家のお寺が浄土真宗だから、結局、親鸞から逃げ出して(家出=文学立身)、
親鸞に帰ってきたという。まあ、元のさやに収まったということでしょうか。
なんでも亀井勝一郎に
「丹羽文学の真髄には無救の思想がある」
と指摘されたのがきっかけとか。
この小説でもたびたび親鸞が言及されるけど、そこがなんか許せない。
親鸞を「落としどころ」にしているような気がするから。
親鸞という便利なフリーパスを使うことで何者かから逃げているように思える。
そのような感想をもつのはまだ若いからでしょうか。
この小説から引用する。

「この世には、手の出しようのない途方もない大きな力があり、
それで人間があやつられているという考えが私にあった。
どこからそれが来るのかわからない。
抵抗のしようのない力である。そのものは善悪をわきまえていない。
ときには理不尽にあらわれることもあり、
感謝しないではいられないようなあらわれ方もする。
この世には人間以外の何ものかがいる。
しかし、つきとめることはできないのだ。
人間の形をしたものを求めていたので、わからなかったのかも知れない」(「有情」P92)


悔しいけど、なんか慰められる。ほんとうに大きな力なんてあるのかな。
これからわたしはどうなるのでしょう……。

2005/06/19(日) 13:44:18

「無慚無愧(むざんむき)」(丹羽文雄/集英社文庫)絶版

→情痴作家といわれた丹羽文雄が終生こだわったのが生母の問題。
丹羽文雄は寺の長男として生まれる。
7歳のときに母が家出。その家出の原因というのが、
じぶんの夫(養子)と実母がはるかまえから通じていたのを知ったこと。
わかりにくい? つまり丹羽文雄の父(養子で寺にきた)と祖母ができていた。

うーん、愛欲地獄!

で、血は争えぬというわけで、家出した丹羽の母もかなり
エキセントリックな性格で丹羽を困らせるわけです。
そのへんを書いたのが出世作の「鮎」。
その「鮎」から約40年後に書くのは「無慚無愧」。
この小説で丹羽文雄はかれの「不幸」(創造の源泉)の原因たる祖母を描き切る。
いいね、いいね。文学ってすばらしいもんです。
家出した母が文雄少年と会うために戻ってきたシーンがいい。
舞台は寺から追い出された祖母の隠居家。
みずからの業にのたうちまわる祖母。
読んでいると、どこからか太鼓の音が聞こえてきた。太鼓どんどん。
寺の鐘が鳴る音も。鐘はがんがん。
「太鼓どんどん、鐘はがんがん」これこそ読みたいものなのである。
「太鼓どんどん、鐘はがんがん」これを書きたいのである。
それいけ、それいけ、「太鼓どんどん、鐘はがんがん」。
鳴らせ、鳴らせ、「太鼓どんどん、鐘はがんがん」。

太鼓どんどん、鐘はがんがん!

2005/06/19(日) 13:07:36

「こおろぎ」(丹羽文雄/現代文学大系46/筑摩書房)

→短編小説。お勉強として丹羽文雄の中・短編小説をいくつか読むことにした。
だけど、なんだかな。やりきれない暗い話が多いんだ。
これは終戦直後の田舎。都会育ちの未亡人が村の男に慰み者にされる。
最後は肺病をうつされてお亡くなりに。合掌。


「柔媚の人」(丹羽文雄/現代文学大系46/筑摩書房)

→短編小説。文学ってなんのためにあるんだろうね。
人間を知るため? 知ったからといってどーにもならないと思うけど。




「雪」(丹羽文雄/日本文学全集21/河出書房)

→だとすると、文学って娯楽? つまり時間つぶしの一形態?
これなんかいい娯楽作品だと思うな。読んでいてわくわくしたから。
雪山に閉じ込められた温泉宿の従業員。さてどうなるのか。


「浜娘」(丹羽文雄/日本文学全集21/河出書房)

→いまどき丹羽文雄の小説なんて読んでいるのわたしだけだろうな。ふふふ。
そんな特権意識、自己愛撫のために文学ってあるのかもしれない。
わたしが特別になるための文学。
「ある作家を英雄視する→その読者のわたしも特別」みたいな。
でもベストセラーとかはちがうよね。
みんなが読んでいるから読むという形式も文学にはある。

え? 「浜娘」? えーとね、これも未亡人もの。
浜娘が妻子ある男の子どもをはらむけど、堕胎したからぜんぜんOK。
現代はすばらしい。生まれてくる不幸を未然に回避できるのだからという話。
よく考えればそれ正しい。生まれてこなければ不幸なんてないんだから。
さすが丹羽文雄さん! いうことがちがう。 ……????

2005/06/19(日) 12:31:24

「厭がらせの年齢」(丹羽文雄/新潮日本文学28)

→多くの追悼記事で代表作にあげられていたのがこの短編。
日本文学ではじめて老人介護の問題を取り上げたともいわれている。
発表は昭和22年。タイトルが流行語にもなったらしい。
読んでいて笑いがとまらなかった。
第一にこの小説自体のおもしろさ。ぼけ老人の描写が笑えるんだ。
第二は、丹羽文雄といえば、ほらあのアルツハイマーで有名なわけで。
丹羽文雄は81歳で発症して20年間、ボケまくったのです。
介護疲れが原因で娘はアルコール中毒に。
その娘さんも4年前に亡くし、それでも生きつづける丹羽文雄はじぶんの名前もわからず、
大と小を毎日定量垂れ流すだけの生命体へ。
文学者ってすごい。
そんなじぶんのすがたをを60年近くもまえに小説で予言していたのだから。
丹羽文雄っておもしろいな~と涙を流さんばかりに笑いながらふと思った。
神様とか仏様って、……いるのかも。


「蛾」(丹羽文雄/新潮日本文学28)

→犯罪小説。なぜ男は妻の連れ子を殺したのか。
興味があるのは、偶然が必然に変わるとき。
なぜ行為はなされなければならなかったのか。
ニュースに登場する犯罪者だって昨日までは新聞をにやにや眺めていたはず。
それがどうして犯罪を起こしてしまうのか。
偶然? あるいは必然なのか。宗教の領域である。
丹羽文雄は晩年、宗教文学に行き着いた。
このような小説を書くのは道理である。

2005/06/19(日) 11:59:46

「鮎」「菜の花時まで」(丹羽文雄/新潮日本文学28)

→東京に住んでいるのはやっぱりよろしい。
丹羽文雄、丹羽文雄とつぶやきながら神保町でも歩けば、
100円や200円で文学全集の端本やらなにやら、すみやかに回収できるから。
ちなみに丹羽文雄、ほとんど絶版になっています。

「小説作法」の「参考作品」を読むより、よほどこの「鮎」を読むほうが勉強になる。
「鮎」は丹羽文雄28歳の出世作となった短編小説。
丹羽文雄が全力でこの「鮎」を書いたのがよくわかる。
同時に、これを書かなければならなかったことも。
この小説を誉めるためなら、
「鮎」一作だけが真実で、あとの丹羽文学はおまけとまで言いたいくらい。
「私」の現実に真正面から対峙する抜き差しならぬ緊張は、
読者に作者の痛みを伝えるには十分すぎるほど。

丹羽文雄の「小説作法」を一言で要約したら、
「私(じぶん)をよく見ろ、その私を描け」ということになる。
丹羽文雄は「鮎」でそれを見事に実行している。
この作家は信じられる。
丹羽文雄は決して軽薄な風俗作家ではないことが「鮎」でわかった。

2005/06/19(日) 11:12:58

「小説作法(全)」(丹羽文雄/文藝春秋新社/1958年)絶版

→この本の存在を知ったのはエッセイ集「読書と私」(文春文庫)。
三好京三という直木賞作家がべた褒めしていた。
この本のおかげでじぶんは作家になることができたと。
実を言うと丹羽文雄も三好京三もほとんど知らなかった……。
だけど、そんなすごい本なら、
いや、ええ、はい、正直にいいます、作家になりたいんです。
読後、検索したら三浦綾子も「氷点」を書く際、この「小説作法」を参考にしたとのこと。
(そういえば中学生のとき「氷点」で小説を読む喜びを知った)

「小説作法(全)」は本来二冊にわかれていた「正編」「続編」を合体させたもの。
活字は二段組かつ旧字旧仮名でたいへん読みにくい366ページ。
「正編」ではまず自作「女靴」「媒体」の創作過程を公開する。
(この二作は「参考作品」として収録されている)
モデルはなにで、どういう発想からその元ネタがこの小説になったのか。
続いて、小説全般における創作指導へと移行していく。

この「小説作法」がおもしろいのは、むしろ「続編」のほう。
ある新人賞で最終候補まで残って落選した小説(原稿用紙100枚)をぜんぶ添削する。
一気にその落選小説を読ませるのではなく、少しずつ分割して。
合間に丹羽文雄が、ここがいけない、ここをこう直せ、と指導する。
それが実に的確な助言なのである。うなってしまう。
プロはこういうふうに小説を読む(=書く)ものなのかと。
その落選小説がつまらないかといえば、意外や、けっこうおもしろいのもポイント。
もっとおもしろいのは、丹羽文雄がこの落選小説を
著者に許可を取らないで添削していること。
(「小説作法」は「文学界」に連載された)
そのためあとからこの落選小説の著者から手紙がくる
当然、それも公開される。丹羽文雄のそれへの返答も。

その後も読者との一問一答、
読者の書いた小説の一部分を添削というように「小説作法」は続く。
勉強になりました。うまい小説を読むよりも、はるかに勉強になる。
へたな小説をあえて読む。そこに確かな指導者の手が入る。
この過程で学ぶことが多かった。
それに芸になっている。笑えるんだ。
へたな小説にツッコミを入れる丹羽文雄さん、おかしい。

≪神保町のワゴンを狙え!≫

「ヒンドゥ-教とイスラム教」(荒松雄/岩波新書)品切れ 100円
→ここ数ヶ月探していた。
700円とかへんなプレミア価格をつけていたところでこの本の存在を知る。
岩波新書ならすぐに見つかると高をくくっていたら、けっこう難渋した。
でも、まあ、100円でGETできたのだからよしとする。すぐ読みそう。

「ストリンドベルィ」(アトス・ヴィルターネン/宇津井恵正訳/理想社)絶版 500円
→忘れられた作家、ストリンドベリの伝記。
この本の存在はまえから知っていた。安価で買えてラッキーでした。

「仏教とインドの神」(ひろさちや編/世界聖典刊行協会)絶版 500円
→インド関連本には105円以上ださないというマイルールをやぶってしまった。
だいぶ迷った。しかし出版数が少なそうだから仕方なく。

「サントリークォータリー79」 500円
→新刊です。もちろん定価。
実はまだ前号を読んでいない。特集が関心のない「お茶」だったもので。
最新号の特集は「シングルモルト」。こっちを先に読んでしまうかも。
2005/06/13(月) 20:40:29

「インポケット 1985 10 特大号 <特別企画> 村上春樹 vs 村上龍」(講談社)

→「ウォーク・ドント・ラン」だけではなかったのね、このふたりの対談。
前回の対談とは異なり、どちらの作家も自信にあふれているのがなんともほほえましい。
対談の内容を要約すると「あんたは特別、だからおれ特別と言って」。
じぶんこんなに従来の作家と違うんです、おれもです、ぼくもです、の繰り返し。
どこがちがうかというとアメリカ万歳主義。
ふたりともアメリカが好きで好きでどうしようもないらしい。

これ単行本に収録されたことあるのかな。なければ貴重品かも。
内容はまったくおもしろくなかったけれども。
あ、これは春樹が「ノルウェイの森」を書くまえ。
だからまだ(比較的)マイナーな時期。
トリビア的な情報としては、あの大ベストセラー「ノルウェイの森」、
三浦哲郎「忍ぶ川」を意識して書かれたものらしい。
まったく似てないけどね、うーむ。
2005/06/07(火) 16:52:18

「酒呑みの自己弁護」(山口瞳/新潮文庫)絶版

→お酒を飲みながらこのようなエッセイに目を通す。
至福のときである。
エッセイ、大好き。ことば、大好き。
ほんとはあさましい読書なんてもうしたくない。
がつがつした読書なんていやいや。
知識吸収のための読書は汚らわしい。
物語(小説)を読むのも、なんか意地汚い気がする。
物語乞食ってかんじ。
読書なんてそもそも無益。
その読書の中で役に立たない最たるものがエッセイでは?
だから、あんなに楽しいんだ、ららららら~♪

2005/06/07(火) 16:36:41

「図解雑学 世界の歴史」(岡田功/ナツメ社)*再読

→何度でも読む。
なにかを学習するのって、おなじ参考書を何回も読むに尽きると思った。
受験生時代は新しい参考書に目移りしてばかりいたけど、もうおとななのだから。
だけど、何回読んでもイスラム史はよくわからん。
東洋史もそう。あれ基本的におなじことの繰り返しでしょ東洋史って。
国ができて衰退して滅ぼされるという。名前がかわるだけで。
あと、つねに周辺の遊牧民におびえつづける。
それでも、こうして何回も読んでいると、
なんとなくわかったような気にならなくもない。
たぶん勘違いだと思う。




「ニューステージ 世界史詳覧」(浜島書店)

→あれですあれ。学校で配られる副教材。
書店で買うと890円。信じられない。安すぎだって。
こんなにたくさん写真が載っていて、しかも総カラー。詳しい解説までついている。
で、1ページ目から最後まで順に読んでいくわけです。
たいがい授業では、あ、ミケランジェロはこれね、と参照するくらいだろうけれども。
おとなはしっかり読む。作成者もわたしみたいな読者がいて喜んでいるのでは(笑)。

うん、おもしろい。世界史にはすべてが包まれていると思う。
哲学、科学といったあらゆる学問。
絵画、彫刻、音楽、文学といった芸術もそう。
宗教も。仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教……。
この「世界史詳覧」を読んでいると実感させられる。
古今東西、あらゆる人間の営みの集積が世界史なんだなぁと。
なんか読み終わるころになると、勇ましい音楽(?)を作曲していた。
それを口笛でぴいぴい吹いていた。人間ってすごいな、世界ってひろいな。
こりゃあ、恥ずかしいぜ!

2005/06/07(火) 15:22:03

「東洋の発見」(岩村忍/講談社学術文庫)絶版

→これは「講談社学術文庫66」だけど、この文庫、初期に名作を多数発刊している。
これも隠れた名著。
世界史をなんとか身近にという目的で手にとったら。元は講演。
東西の交流を中心にすえて世界史全体を捉えなおそうというのがこの本。
薄い。わずか123ページ。だけど、世界史をすっきりまとめている。
世界史って1000ページの本を書くのは実はあんがい楽では?
起こった事件を書き連ねていけばいいんだから。
こうやって100ページ強にまとめるのこそ作者の技量が問われると思う。

ほんとわかりやすい。
ギリシアは独創的、ローマは凡庸だがギリシア精神を広める実務的な能力があった。
キリスト教の普及は文化レベルの後退であった。
キリスト教はじぶんの主張とはあわない学問・思想をすべて抹殺したのだから。
こうゆうふうに教えてくれて、次にルネサンスの意味へと入る。
もやもやしていた世界史像がはっきり見えてきます。

西欧=「ギリシア・ローマ」→「キリスト教」→「ルネサンス」→「産業革命」。
中国はこのパターンとはまったく無縁。
始皇帝が統一したときから何度も王朝は変われど、支配構造はみんなおんなじ。
インドはアーリア人が入ってきて作ったカースト制が現代まで生きている、それだけ。
7Cにイスラームの「キリスト」として現れたモハメド。戦争を繰り返すイスラム教。
しかしイスラム教世界にはルネサンスも産業革命も起こらず現代にいたる。

こういった世界観のもと、東西交流を見てみる。
東西交流=「アレクサンドロス大王の遠征」→「モンゴル帝国」→「大航海時代」。
大航海時代までは上記ふたつの例外をのぞいて、西は西、東は東でやっていた。
西はゲルマン人が暴れまわり、
東はずっと中国がじぶんこそ世界の中心だと言い張って(笑)。
それが西の産業革命、大航海時代を経て、東の本丸=中国が植民地化されることで、
利益衝突が生じ、世界戦争のかたちで大規模な東西交流が行なわれて今にいたると。

なんだか世界史がわかってしまったような愉快な心地が。
この本に感謝、感謝です。

2005/06/07(火) 15:00:15

「歴史を考えるヒント」(網野善彦/新潮選書)

→久しぶりに日本史の本を。
まあ、雑学本の類かと。
江戸時代まで日本は農業中心だったというのはウソだ。
じつはその頃にはかなり貨幣経済(商業)が発達していた。
そんな感じに、教科書的な常識をくつがえすことが眼目。
ふーん、歴史学ってこんなことを研究するものなのか。

「インド・色好みの構造」(田中於莵弥/春秋社)絶版 105円

→定価2600円ですぞ! インド古典文学の入門的エッセイ。
といいつつインド文学などだれも興味をもたないから専門書価格。
それがブックオフでは105円なんだから!
はい、これ500円だったらたぶん買いませんでした。
105円だったから買った。読むのか。なんか読みそうな気がします。


「洟をたらした神」(吉野せい/文春文庫) 105円

→単行本で読んだことあり。いつか再読したいとずっと思っていた。
だからコンパクトな文庫版(こちらは絶版)を買えば読むきっかけになるかと……。
2005/05/22(日) 18:31:35

「狂気と天才 キーン」(サルトル/鈴木力衛訳/人文書院)絶版

→昨日です土曜日。ふらっと神保町へ寄ったんです。
つい足は悪名高き(が、安い)田村書店のワゴンへ。
サルトル全集の端本がちらばっている。
さて、この偶然どうすべきか。買うか、買わぬか。
サルトルにそこまで心酔しているわけではない。
が、新潮文学全集に収録されている戯曲はもうぜんぶ読んでしまった。
どこまでサルトルと向き合うべきか。
金額じゃない。田村書店のワゴンは格安なんだから(これは200円)。
読むはあとがき。
いつからあとがきを先に読むようなスレた読者になったのでしょう(苦笑)。
おなじみ鈴木力衛さんの解説にこうあった。

「サルトルのこれ(『キーン』)以前の戯曲は、
実存主義者として、なんらかの問題を提起したかなり難解なものが多かったが、
『キーン』において作風はガラリと一変する。
作者はここでは、実存とか、自由とか、善とか、悪とか、神とか、悪魔とか、
そんなむずかしい問題を、読者なり観客なりの前に提出しようとはしない。(……)
『うまくこしらえた芝居』という言葉がある。
フランスでその種の芝居が流行ったのは十九世紀の後半のことであるが、
わたくしはこの作品を読みながら、ふとその言葉を思い出した。
それにしても、さまざまな論争をしたり、政治的な活動をするかたわら、
こんな楽しい芝居を書きあげるサルトルは、
なんという驚嘆すべき才能と精力の持主であろう!」


昨晩、禁酒しました。
眠れない。23時から2時まで一気にこの戯曲を読んだ。
楽しかった、笑った。
キーンは実在したイギリスの有名なシェイクスピア俳優。
そのかれをサルトルはじつにおかしく料理する、その腕ときたら――。
検索してみたら、6年前に江守徹が中心となってこれを再演したらしい。
そりゃあ、役者ならこの芝居をやってみたくもなるでしょうと納得。
劇作家サルトル万歳!

2005/05/22(日) 17:34:00

「歴史・科学・現代 加藤周一対談集」(平凡社)絶版

→対談相手は丸山真男、湯川秀樹、久野収、
渡辺一夫、西嶋定生、笠原芳光、白井浩司、サルトル。
これは世界史学習を見据えながら、サルトルも射程にいれての読書。
世界史を大づかみにとらえたいんです。
無数の事件の連続としてではなく。
たとえばそう、クリミア戦争なんていう名称はどうでもいい。
それが意味している、その背後にある、宗教的文化的事情を深いところでつかまえたい。
西洋史とはなんなのか。
東洋史は、太陽の西洋史に対する月のようなものなのか。
まえに加藤周一さんの日本文学史に関する講演の記録を読んで、
すんごいわかりやすかったから期待していたんだけど……。
対談相手が悪かったのかな。話し言葉なのにさっぱりわからない。

でもサルトルとの対談は大笑いした。
サルトルさん、あなた、おかしいって。
来日して2週間のサルトルに対談の冒頭、かるーくこう質問するわけ。
日本料理はどうでしたって。これ天気の話をするようなもんでしょ。
それに対する返答。

サルトル「ええ、もちろんその話をするのはやぶさかではありませんが、
ただそのかわり、あなたがたには私の疑問に答えてほしいのです。
(……) 日本で外国人旅行者が一番奇異に思う食べ物は刺身です。
フランスではレヴィ=ストロースという有名な社会学者がいて、
生物と焼物について著書を著わしていますが、……(延々と続く)」。


んで、結局、刺身がおいしかったのか、日本料理を気に入ったのかは最後まで言わない。
それをありがたそうに拝聴している加藤周一さんと白井浩司さんがいじらしくて……。
この対談が行なわれたのは1966年。
当時、サルトルは日本で神様みたいな存在だったのがよくわかる。
わたしだったら、わけわかんないこというまえに
刺身は好きか嫌いかと問い詰めるけど(笑)。

講釈はいらん、好きか嫌いか!

これはサルトルに限らず全哲学者に言いたいことなんです。
御託はもういい。
きみは人生が好きか嫌いか。生きるのか死ぬのか。