04/04/02 10:18

「痴人の告白」(ストリンドベリ/山室静訳/「世界文学全集24」講談社)絶版

→ひとはなんのために小説を書くのか。
ストリンドベリはこの自伝的長編小説をただただ妻への復讐のために書いたという。
感情をなんの考慮・反省もせずに原稿用紙にたたきつけたような小説。
そのため全四部なのに、第一部だけで小説全体の半分までいってしまうという不均衡さ。
第一部は平民出身のしがない図書館職員の「私」が男爵夫人を横取りするまでを描く。
処女のようで、同時に母のような魅力をもつ男爵夫人への愛の軌跡。
第二部からは横取りした妻と結婚してからの憎しみの12年を思い返す。愛から憎へ!
「私」は妻がたくさんの男と不倫しているのでは、妻はレズでは、などと猜疑心にかられる。
やることといったらすごい。妻の手紙は無断で読む、盗み聞きはする。
それはすべて妻の不実を示す証拠を集めるためだから仕方がないと弁明する。
読者はこんな妻をもった「私」に同情してくださいと妻への憎悪をつづる。
復讐してやると妻の性器の形状まで暴露する。ストリンドベリの暴走はとまらない。
イプセンの新作戯曲が自分たちのことを書いたのではないかと疑い訴訟を起こそうとする。

ここまでくるとさすがに読者(わたし)もついていけなくなる。
ちょっと精神医学的な知識があれば、ストリンドベリが典型的な精神病患者だとわかる。
ここに書かれているのは、ストリンドベリの嫉妬妄想にすぎないではという疑いが生じる。
もしかしたら妻はまったくの無実ではと思いながら読み進むのはなんとも痛々しい……。
かわいそうな奥さん。「私」は結婚10年目に妻をはじめて殴る。その晩にエッチ。
既婚の男性諸君、妻はこうするに限るとストリンドベリは高らかに笑う。
こんなことを現代日本で書いたら女から八つ裂きにされるよストリンドベリさん。
この長編小説の最後にストリンドベリはこう言い放ち離婚する。

「これでこの物語は終わりを告げた。我が愛人よ、私は復讐した。
――これで二人はあいこだよ。―― 一八八七年九月〜一八八八年三月」


驚くべきは、ストリンドベリがこの小説を(少なくとも)生前に発表
するつもりはなかったこと。それなのに半年もかけてこんなものを……絶句。
いやあ、文学ってすごいですねえ、怖いですねえキチガイって。
この小説からの引用。「余は彼女を愛すればこそ憎む」。
とすればこれはかつてないほど壮大な愛の記録とも読めるわけである。
ここまで愛されたストリンドベリ元夫人は幸福だったのか不幸だったのか。
ストリンドベリ没後の研究の結果、元夫人は潔癖な人間であったことが証明されている。
04/03/27 10:21

「ある戦中派」「わが顔を」「平和屋さん」(「遠藤周作集」大光社)絶版

→遠藤周作のテレビドラマシナリオ。
これを読んだひとが日本に何人いるんだろうと思うと、意味不明な優越感が。
おもしろかったです。氏の中間小説と同様に、すらすらと読めた。
遠藤周作という作家は言いたいことがあって創作をしているのだなと改めて確認。
テレビドラマでも戯曲でも小説でもエッセイでも。
評論という形でも言えることをわざわざ小説やテレビドラマにしているということ。
たいがいの作家は「言いたいこと」がはっきりとはわからない、
だからこそ小説を書く、わからないところからどっこいしょと小説を書き始める。
だけど遠藤さんは違う。かなり頭の中でできてしまっている。
頭が良すぎると小説家にはなれないというけど、遠藤さんはぎりぎりのところかな。
実際、遠藤周作は文芸評論から文学活動をスタートしているわけだから。
そのせいかどうか、遠藤さんの小説は非常に図式的。
Aという考えがある。それとは反対のBという考え方(人物)。
このAとBを闘わせて、AでもBでもないCにすることが小説だと考えている。
……おっとテレビドラマシナリオの感想からだいぶ飛躍してしまったようです。失礼。


「親和力」(「遠藤周作集」大光社)絶版

→戯曲。そこそこ楽しめた。これよりよっぽどひどい戯曲をいくつも読んでいるから。
内容? 男女の三角関係。男、妻、愛人。妻と愛人は同窓生。わきあがる騒動。
04/03/26 12:12

「観客席から・芸術エッセイ」(遠藤周作/番町書房)絶版

→こんな本があったとは! 遠藤周作の演劇論・映画論。
……論というほどでもないかな。
驚いたのは、ぜんぶ福田恆存の受け売りだということ。
まったく同じことを言っている。
実際、福田恆存の名前が何度もでてくる。へー、このふたりに交際があったなんて。
映画は観客の精神を麻痺させるだの、演劇は観客が作るものだの、福田恆存とおんなじ。
たださすがカトリック作家だなと思ったことは、悲劇と聖書を比較しているところ。
福田恆存は悲劇を「葬儀」のようなものだと言っている、
そのときハムレットは生贄となることで観客はカタルシスを感じると。
遠藤周作は聖書のなかのイエスもおなじ構造のもとにあると指摘する。
なるほどなと感心した。
「小説作法と戯曲作法」という章が興味深かった。「黄金の国」という戯曲を
書いたときの苦労を書いたもの(ちなみにこれは福田恆存の劇団「雲」で上演された)。
引用。

「もともと私には劇とは何らかの形で、人間と人間を越えた超絶的なものとの
関係から生まれねばならぬという考えが心の底にあった」。

ふーん。さて、その「黄金の国」はどんなものだろうと読んでみる。


「黄金の国」(「遠藤周作集」大光社)絶版

→遠藤周作の戯曲といったらこれ。代表作。
第二稿を福田恆存に見てもらったら笑いながら言われたという。
「カンシンですな」と。続けて「カンシンは感心ではなく寒心ですが」。
遠藤周作は悔しがってまた書き直したとのこと。
そんな遠藤さんの苦労の結晶をいざ読んでみると、ぜんぜんだめ。
セリフはどれも説明的過ぎるし、人物の造型もありきたり。
何より良くないのはセリフが観念的・思想的すぎること。
なんで九州の百姓が神学論を述べちゃうのよ……。小説だったらなんとか我慢できるけど。
テーマは遠藤周作の代表作「沈黙」とおなじ。キリスト教迫害時代の長崎。
踏絵のうえに足を乗せることをイエスは許すのかと悩みつづける宣教師の物語。
むかしは「沈黙」で感動したけど、いまはまったく。
ああいう世界が気持ち悪くて身震いするようになってしまったのはどうしてだろう。
資料館にある踏絵を足蹴にしたい、教会につばを吐きかけたい、そんな読後感です。
ごめんなさい。
04/03/24 15:02

「劇場への招待」(福田恆存/新潮社)絶版

→初体験をしました。ほんとに落丁の本なんてあるんだ……。
それもいちばん読みたかった「戯曲文学の限界」というところを中心に15ページ。
300円で買った本だからつきかえすのも、うーん。

で、落丁部分を抜かして読了。といっても、この本の半分以上は「演劇入門」と同じ内容。
それなのになぜ買ったかというと「戯曲文学の限界」というのが気になったから。
その章では、まずモーリヤックの心理小説「テレーズ・デスケルゥ」の冒頭を
引用することからはじまる。
つぎに戯曲ではどうしてもできないことを説明する段になって……落丁なんだから。
その先が気になって仕方がない。

この本から福田さんの言葉を引用。

「わたしはあらゆる論争において、ヒステリー症状など呈したことはない。
いつも論争のときは気軽に『にやにや』しながら書いてをります。
論争は私にとっては気散じでありますから」

吹き出した。「にやにや」だってさ。まるで2ちゃんねらーじゃない。