04/03/08 09:57

「別冊宝島53 精神病を知る本」(宝島社)

→テーマというものがある。自分が表現をしていこうと思っているとき、
その源にあるもの。ルーツ? スタート地点? 得意分野?
「山頭火」「シェイクスピア」「宮本輝」「ギリシア悲劇」「宮台真司」などの
固有名詞とともに、「精神病」への関心がつねにわたしのなかにはある。
ばらばらで一見すると、なんの関連性もないようだけど。

本書はアンチ精神病の立場からの発言。
すなわち精神病など存在しないというのです。
精神病は精神科医がつくりだす幻想だと。
たとえば理解できない凶悪犯罪が起きる。
そこから生じる社会不安、これを抑えるために「精神病」という概念が生まれた。
「かれは精神病だから」と私たちの日常とは別次元の世界へ追いやってしまう。
そのために精神科医は生まれたのだと、
証拠として未開社会の精神病的症状とその治癒を例示する。
(未開社会では精神病的症状は病気=異常として扱われない。
社会の枠組みの中にしっかりとポジションがある。治癒も祈祷でなされる)。
狂気というのは正常というものが定義されてはじめて存在しうる、逆も言える。
そのときたかだかいち精神科医ごときにそんなものを任せてしまってよいのか。
以上のように本書の主要執筆者は問題提起するわけです。

完全な正論、(しかしではなく)ゆえに机上の空論。知的自己満足。
何も生みださない、誰の役にも立たない。
一週間でいいから精神病のひとと一緒に暮らしてみなさい、
いちどでいいから自ら発狂の危機におびえてみなさい、そんなことは言えなくなるから。
精神病は怖いものです、精神科医は必要です、誰かがやらなければならないものです。
うちはだいだい精神病の家系だからしんじつそのことを考えます。

本書の問題提起に誠実に答えていた精神科医(写真を見るとほんとうに善良そう)が
チェーホフの「六号室」という小説を例にあげていた。
これほどまで「精神分裂病」を描ききった小説はないと。いつか再読したい。
04/03/05 10:56

「いい酒、いい友、いい人生」(加藤康一/日本文芸社)絶版

→著者はワイドショーのコメンテーターなどで長年、芸能界の盛衰を見てきたひと。
石原裕次郎、鶴田浩二、三田佳子、美空ひばり、吉永小百合ら
戦後芸能界を飾ったスターたちの知られざる素顔! 
と表紙でうたっております。
まあ、そういう有名人がどういうふうにお酒を飲んでいたかというエッセイです。
むかしの芸能人の無頼というものはすごいものがありますね。見習いたい!
もちろんお酒を飲みながら拝読いたしました。ブックオフ100円本なり。
04/03/05 10:56

「ウェストサイドワルツ」(アーネスト・トンプソン/江守徹訳/劇書房)品切れ

→戯曲。アメリカ産。
たまになるのが、生きるのいやいやモード。さむいのだ。
からだがあったかいココアのを欲するように、
こころが求めるのがハートウォーミングストーリー。
というわけで以前にこの著者の戯曲「黄昏」を読んでいたく癒されたので、
今回もお世話になろうかと読んだのですが、うーん、とてつもなくつまらない。
劇書房の戯曲は「はずれ」がないと信じていたけどこれは例外。訳も変だぞ江守徹!
04/03/05 10:32

「演劇入門」(福田恆存/玉川大学出版部)絶版*再読

→良書を読んだあとのパターンとして二種類ある。
ひとつは他人にも読ませたくなる。感動の共有です。
フィクションを読了したあと、私たちはよくこのような行動にでる。
もうひとつは、その本のことをだれにも教えたくない、自分だけのものにしておきたい。
そういう意地汚い根性が読書家というものには常につきまとうように思う。
それがこの本。

わずか244ページ。しかしそこには凝縮された内容がテンコ盛り。
演劇の発生から、戯曲読法、演技論、演出の役割、日本新劇史概略まで――。
こちらも襟を正して、本来なら一日で読める分量ですが、
四日かけてじっくり吟味しながら本書を読了しました。
自分しか知らない名著というのはいいものです。

以前、山田太一が「私の幸福論」(福田恆存)を隠れた名著と愛読していたところ、
これが文庫化されてひどく悔しい思いをしたことがあるといいます。
わたしもこの「演劇入門」が復刊されなどしたらそうとう悔しがるかと……。
宝物のような本です。
04/02/26 13:39

「龍を撫でた男」(福田恆存/「全集第八巻」文藝春秋)絶版*再読

→戯曲。読むのは三度目。個人的には劇作家・福田恆存の最高傑作。
安部公房も三島由紀夫も木下順二もこれにはかなわない。読売文学賞受賞作。
余談だけど、学生時代の山田太一がこれを見るためにわざわざ東京にきたらしい。

主人公は、どことなく福田さんを思わせる中年の精神科医。常識人を自認し誇る。
いささか神経衰弱気味の妻と、その弟(無職でアル中)と同居している。
元旦、妻の友達の女優(舞台のように人生を生きるが信条)と、
その兄の劇作家(躁鬱病ぎみ)がこの精神科医宅を訪れることから物語は始まる――。
常識人は精神科医ひとり。周りはみんな、まあ一種のキチガイ。
おもしろくならないはずがない。
精神科医の語ることばはまるで山田ドラマのセリフのよう。

「(浮気するのは)小説や芝居じゃはでな役だけど、実生活ではいつでも
貧乏くじときまっている。家庭をばかにしちゃいけませんよ……、
現実をなめちゃいけませんよ……、それがどんなにくづれかかっているように見えてもね」

「人生は冒険じゃない。人生はくりかえしですよ。
たえず変わったことをしていたんじゃ、しまいには発狂してしまうよりしかたがない」
04/02/26 12:42

「人間・この劇的なるもの」(福田恆存/中公文庫)絶版*再読

→評論。演劇から人間を見る。
読むのはたぶんもう五度目。常に発見がある。
たまに自らの考えがないのを批判されるけど、わたしには福田さんの評論に
ついて物申すちからはない。理解するのでいっぱいいっぱい。眉間にしわしわ。
そのためこの読了報告はわたしが毎度、感銘するくだりを紹介するていどです。

人間は自由など求めていないと福田さんはいう。
人間が真に必要としているのは宿命で、
自らが必然のうちにいるというこの感覚のなかにしか生きがいはない。
自由か宿命か、偶然か必然か。
この二項対立のうちに人間を演劇を見るところ、その鋭さ、
わたしが福田恆存の評論にひかれるゆえんである。
若い成功者は己の成功を自由な行動(努力)の結果と思う。よもや運などとは考えまい。
一方で、老いたみじめな失敗者はすべてが宿命だった、
他にどうしようもなかったと思うもの。
遺伝のせい、あるいは社会が悪いから、問題を必然にするのはいともたやすい。
が、どちらも自己欺瞞であると福田さんは冷たく言い放つ。
では、人間は自由か宿命か。ことは偶然に起こるのか、すべては必然なのか。

舞台を見なさいとここで演劇を持ち出してくる福田さんの慧眼には感服する。
舞台上の役者。かれはセリフをすべて覚えている、芝居の結末を知っている(宿命)。
だけれども役者はひとつのセリフをそれを知らぬものとして言う(自由)。
他にも言えた数限りない候補の中からさもそのセリフをいま選んだかのように言う。
名役者におなりなさいと福田さんはいう、人生で良い演戯をなさいという。
なぜなら生きるというのは何かしらの役を演じることに他ならないのだから。
だれもが主役になれるわけではないし、また主役を望むものばかりではない。
脇役でもいい、自らの役を演じきりなさい、そこに生きがいがある、そこにしかない。
毎日、ものごとはなんの脈絡もなくすべてが偶然にあなたに襲いかかる。
そこで大根役者にならぬにはどうしたらいいのか、きちんと演戯するためには?
劇の終わりを意識しなさいと福田さんはいう、
死によって舞台が完結することに思いをはせなさいという。
さて、思う。わたしに与えられた役は何か。
くだらぬ役ならわたしは舞台から降りるつもりである。
配役に命をもって抗義する。たとえそれがよくある役を演じることになろうとも。
04/02/25 10:25

「堅壘奪取」(福田恆存/「全集第八巻」文藝春秋)絶版*再読

→戯曲。30分で読了。軽い喜劇。
劇作家としての福田恆存が評論で大言壮語しているほどの才能は
見せていないのはもちろんだけど、それでもこの作品はなかなか味のある小品だと思う。
小粒だけどぴりっと辛い! 
それは世界的な芸術作品ではないけれども。
まあ、退屈させないていどのレベルはもった会話劇。
思想とかうんぬんするよりも、会話のテンポがスムーズで無理がない。
現代にも通じる皮肉がある。企業研修とかで叫んでそう。
信ずれば能はざるなり、信じればなんでもできる、己で限界を作るな。
この戯曲の登場人物、作家志望の青年が始終つぶやいている文句であります。

戯曲というのはそこから作者の思想を探るよりも、
作者のつくった世界でたしかに息をして動いている人間を楽しむものだと思う。

ここ↓だとただで読めます。
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/play/fukudatsuneari.html