04/02/24 09:20
「藝術とはなにか」(福田恆存/「評論集1」新潮社)絶版
→芸術の起こりは古代人の呪術にあると福田さんは話をはじめます。
古代人は日々発生する偶然ごと(天候の変化。豊作と飢餓。誕生と死去)
に呪術をもって向き合うことで生きる活力を得た。
・ギリシア悲劇の時代。
(人間は神々に呪術で向き合うのをやめ、神々を演じるようになった。
神々を人間が演じる際には仮面をかぶる必要があった。
仮面をつけるのは特権的な人間=役者のみ。その意味すること)。
・イエスの誕生。
(民衆は誰しも唯一神のまえで仮面をかぶる=素顔の誕生)。
・中世の教会主導のキリスト教世界。
(教会が演戯をするための広大な舞台となる。ゆえに不毛な芸術)。
・ルネッサンスの人間賛歌。象徴的なシェイクスピア。
(人間を主題とする芸術の発生)。
・近代。自我意識の芽生え。
(神前の仮面はなくなった。しかし素顔ではいられぬ。がために小説が誕生)。
・科学の爆発的な発達。にもかかわらず生じる現代の孤独感。
(いくら小説を読んでも孤独が増すだけ。いま必要とされる芸術とは何か)。
――と、こう芸術の歴史をふりかえって、福田さんは主張します。
芸術とは、自らを自然(全体)の一部と感じせしめるものである。
しかし現代の芸術はどうだ、現代の小説はどうだと福田さんは問題提起する。
まず槍玉(やりだま)にあげられるのが映画。科学進歩の所産である芸術形式。
映画など芸術ではないという。なぜなら受け手の自由がまったくないからである。
他の芸術と比べてみる。
絵画も音楽も文学も、鑑賞者の能動的な努力があってはじめて成り立つものである。
ところが映画はすべてを表現するがわが行なう。鑑賞者は何もしなくてもよい。
それならばそんなものは芸術ではない。
結果は、人間が孤独になるばかりではないか。
つぎに指弾されるのは現代の小説。
描かれているのはつまらぬ自我ばかりではないかと。
するとどうなるか。
小説を書くがわ(自我)のみが賞賛され、小説を読むがわは作家にあこがれるしかない。
こんなことでは読者は救われない。
福田恆存の主張は一貫している。
芸術はナルシズムではない。カタルシスでなければならない。
芸術とは精神の運動である。芸術は精神のエネルギーの消費なのだ。
作り手と受け手がひとしくエネルギーを燃焼したとき芸術が結実する。
芸術がどうして必要か。生きるためである。
*
長々と要約したが、もう一度概観する。
まず著者は芸術の歴史をまとめた。
いかに個人は全体とつながることでカタルシスを得てきたか。
その歴史的段階を確認したわけである。
つぎにその前提をふまえて現代の特殊性を指摘する。
ナルシズムに陥っている、現代における芸術の不毛を嘆く。
最後はすべてを読者に放り投げる。表現をかえれば、著者は読者に賭けたのである。
そこからは自分で考えなさい。そういうことである。
うーん、いまは著者の主張を理解することで手一杯というほかない。