04/02/21 14:01

「古本夜話」(出久根達郎/ちくま文庫)

→古本エッセイ。著者は元・古書店主人。
初めて知ることがいっぱい。「へえ」の連続。
古本屋って値切られるのがいちばんいやなんだとさ。
なんでも古書価格はそこの主人の思想だとか。
思想か。ずいぶんおおきくでたもんだ。
それにしてはけっこうな思想家が多いこと(苦笑)。
まだ新刊で買えるものを絶版と銘打って定価以上の値札をつけたり、
ブックオフ百円コーナーの常連をもっともらしく定価で売ったり。
基本的に古書店主人というものが嫌いである。
価格と結びついた浅薄な人名リストを脳内に溜め込んだだけのおっさんが、
どうしてどこもあんなに偉そうなのか。疑問である。
叫んでもいいですか?


ブックオフばんざい!
04/02/21 13:30

「別冊新評 山頭火の世界」(新評社)絶版
「山頭火読本」(牧羊社)絶版
「句集 草木塔」(「山頭火大全」講談社)
*再読

→山頭火をテーマにした戯曲、映画シナリオを読んだがどれもつまらない。
完全に山頭火に食われてしまっている。かなわぬ敵には近づくなということか。

山頭火研究者もうさんくさいひとばかり。
いちど実物の山頭火に会ったことがあるくらいで批評家面ができる世界なのである。
どマイナーな世界。
山頭火を語ることで自分を語りたい、しろうとの自称研究家にはうんざり。

そんな中、対談で水上勉が上田都史(放哉・山頭火研究家)をこてんぱに
していたのは痛快だった。
まったく文学者というのは業が深い=意地が悪い(笑)。
いわく「山頭火さんには人間的な苦悩といったものが放哉さんよりふかく
感じられます」。
水上勉はこんな感じで放哉好きの上田都史を論破しつづけ、
最後には何も言えないようにしてしまう。
「まったく水上さんの言うとおりです」と。

つづけて水上勉は「二河白道」(にがびゃくどう)を語る。
「二河白道」とは仏教の言葉。
旅人が立ち止まっている。
というのも右に水(貪愛)、左には火(憎悪)で先に進めないからである。
その中間にぼんやりと白道が見えるだけ。危険極まりない道である。
かといってじっとしてもいられない。後ろからは赤鬼青鬼が追いかけてくる。
旅人はやむなく白道に足をかける。
しかしこの白道こそ浄土に通じているという――。
水上勉は強調する。山頭火は確かに「二河白道」を歩いたのだと。

同感。放哉は「個」を描いたに過ぎない。
だが山頭火は「個」を描くことから「全」にいたっている。
山頭火の俳句は全体に通じているのである。

「どうしようもないわたしが歩いてゐる」は
「どうしようもないわたし」が歩いているのではない。
すべてが「どうしようもない」のである。
もう「わたし」は歩くほかない。歩きながら考える。
しかし――。
「なんぼう考えてもおんなじことの落葉ふみあるく」。
山頭火は「個」(自由)を「全」(必然)をじっと見つめる。
「わたしと生れたことが秋ふかうなるわたし」。
「ここにかうしてわたしをおいてゐる冬夜」。
04/02/17 10:29

「毎日グラフ別冊 尾崎放哉」(毎日新聞社)絶版

→尾崎放哉は山頭火と並べて語られることの多い自由律俳人。
「咳をしても一人」「墓のうらに廻る」「入れものが無い両手で受ける」が有名。
東大法学部を卒業。一流会社に入社。しかしお酒が原因で転落人生まっしぐら。
いろいろな寺院をまわるがどこも酒乱で追い出され、最後は小豆島のお寺で孤独死。

久しぶりに放哉の俳句を読み返したわけだけど、やっぱりだめだな。
ひとつとして胸に迫るものはない。むしろ山頭火への恋しさが募るばかり。
放哉から感じるのはちょっと上品な自意識程度。
感傷とばっさり切ってしまいたい。
山頭火には悲劇がある。わたしは山頭火にオイディプス王を見る。
父を殺し母と交わったことを知ったオイディプスは両目をつぶして放浪する。
母も弟も自殺した、そんな呪われた血をもつ山頭火も放浪するほかない。
山頭火の目は見えていたのか。
自然を見る、こころを見る、句作をする。
「どうしようもないわたしが歩いてゐる」と。
04/02/16 09:33

「不思議な世界」(山田太一編/ちくま文庫)

→毎日、おもしろい? つまらないことばかり。
ロマンスも冒険も幸福もわくわくもどきどきもすべて本の中、テレビの中だけ。
そんなときにシンクロニシティなんてことばを聞くとちょっとだけ胸が躍る。
シンクロニシティとは意味のある偶然のこと。
ユング先生が提唱した概念。
たとえば昨夜の夢で見た知人と十年ぶりに偶然会ったり。
この世以外の存在を思わず考えてしまうような出来事。
シンクロニシティ。
終わりなき日常(宮台真司!)を生き抜く庶民のささやかな知恵がシンクロニシティ。
そんな不思議な話を集めて一冊にしたのがこの本です。
04/02/15 07:24

「私の愛した小説」(遠藤周作/新潮文庫)絶版*再読

→カトリック作家の遠藤周作が生涯目標とし、愛読したのが「テレーズ・デスケルウ」。
本著は晩年の遠藤がこの「テレーズ」をあらゆる角度から論じきったもの。
子どもが棒つきのキャンディーを舐めまわすかのように。

まずドストエフスキーとの比較。
モーリアックはドストエフスキーから「無意識」の扱い方を学んだ。
ドストエフスキーの作中人物の行動は単純な心理学では説明できない。

またモーリアックはフロイトからも影響を受けた。
深層心理学。
無意識を罪の母胎と見るフロイト。
話は仏教の唯識思想にまで及ぶ。仏教とユングの類似性。

ユングの元型思想。
ユングは人間の無意識には全人類が共有する元型というものがあると考えた。
だからどの国の人も感動する名作(「戦争と平和」など)が生まれるのだと
遠藤は話を進める。
物語の元型というものもあるのではないかと主張する。
たとえば「テレーズ」はラシーヌの「フェードル」の影響が強く見られる。
しかし「フェードル」も元を返せばギリシア悲劇「ヒッポリュトス」の影響下で
書かれたものである。

そもそもまったく新しい独創的な作品などあるのか。
後世にも残る名作というものはすべて人間の無意識の元型を刺激するものではないか。
このように「テレーズ」を基点として話はどこまでも発展していく。

5年前にこの本を図書館で借りて読んだときは、ものすごいことが書かれている
ということだけはおぼろげにわかった。そして打ちのめされたのを覚えている。
いま再読してみて、まあ、ここで名前があがったひとの本ぐらいは
一応読んでいる自分に気づいてちょっと嬉しかった。
とはいえ、いくら本など読んだところで無駄だともう気づいてしまっているので、うーん。
04/02/15 07:24

「テレーズ・デスケルウ」(モーリアック/遠藤周作訳/講談社文芸文庫)*再読

→フランス産。陰鬱でやりきれない心理小説。
テレーズが夫を毒殺するにいたるまでの心理と、
(その心理を反映した)風景の描写が詩的な緊張をもってつづく。
毒殺は未遂に終わる。
殺されかかった夫が偽証をして妻のテレーズを救ったのは、
ただスキャンダルをおそれただけ。
世間体を考え離婚はせず、テレーズとは別居をする。
夫はテレーズがなぜ自分を殺そうとしたのかを考えようともしない。
つまらない社会道徳にしばられた夫と、生きることの退屈さを嘆くテレーズの対照は
イプセンの戯曲「ヘッダ・ガーブラー」のようである。
戯曲とはちがって、小説というのはこんなことができるのかと驚く。
小説の力(回想&心理描写&風景描写)を再確認する。
04/02/12 09:55

「蛇にピアス」(金原ひとみ/文藝春秋3月号)

→小説を読むってどういうことだろう。
ここのところ戯曲ばかり読んでいたから、久しぶりの小説だった。
小説を読む。なんのために? 
それはもちろん感動したいから。
小説を書くひとがいる。 
なんのためにひとは小説を書くのか。
なんのために金原ひとみは小説を書いたのか。 
村上龍や山田詠美になりたかったのか。
この小説にはわかったようなことが書かれている。
これを読んだ識者もわかったようなことを言うのでしょう。
おもしろくない。


「蹴りたい背中」(綿矢りさ/文藝春秋3月号)

→幸福な小説です。吉本ばななの「つぐみ」を思わせる上質の青春小説。
だれもが経験する自意識の芽生るあの時期を、彼女だけのスタイルで丁寧に
描き切っている。
みごと。
一つひとつ言葉を選びながら、楽しんでこの小説を書き上げたというのがよくわかる。
小説を書く喜びに満ちている。
綿矢りさの人生に悲劇はないでしょう。
このまま書きつづける、残る作家だと思います。
ひとりくらいそういう作家がいてもいいような気がします。
04/02/11 10:50

「蛙」(アリストパネス/高津春繁訳/「世界古典文学全集12」筑摩書房)

→戯曲。いわゆるギリシア喜劇。
今まで読んだことのあるアリストパネス作品は「雲」「女の議会」「女の平和」の三つ。
どれもおもしろさがわからなかった。
今回、今度こそはと「蛙」を。
本文が31ページなのに、訳注が11ページもある。
さすがにこれは勘弁してほしい。
研究のためではなく、娯楽で読むものもいるのだから。
読了するのが苦痛極まりなかったです。

さて、ギリシア悲劇は有名。ギリシア喜劇のほうはどういうものなのか。
とことんバカバカしいんです。
当時の観客(2000年以上もむかし)は大笑いしたかと思われる。
「蛙」。まず神様が登場する。お酒の神様。
ディオニュソス神(バッカス)です。地獄に行きたいと言い出します。
今は亡きアイスキュロス(悲劇詩人)に会いたいがために。
しかし地獄にどうすれば行けるのか。
ということで、いちど地獄に行ったことのあるヘラクレスの家を訪問します。
そこで行き方を教わったディオニュソスは従僕ととも地獄へ向かう。
地獄ではあまりの恐ろしさにうんこをもらしちゃったりする。
神様のくせして脱糞(だっぷん)。しかも、もらす。汚いですね(苦笑)。
そして、くだらない。
地獄ではなぜかアイスキュロスとエウリピデス(これも悲劇詩人)が喧嘩をしている。
(日本人にわかりやすく書けば、草葉の陰で漱石と鴎外が喧嘩しているようなもの)。
その勝敗を決めてくれとディオニュソスは頼まれる。
ディオニュソスはそれぞれの悲劇詩人のことばを実際に天秤にかけてみます。
するとアイスキュロスのことばのほうが重い。だからアイスキュロスの勝ち。
よくわかんないけど、まあ、おおむかしの、それも地獄の話ですからお許しを。
審判者ディオニュソスは勝者アイスキュロスを地獄から地上へ連れ戻す。

――これを大笑いしながら見たアテナイ人は町へ繰り出し、
一晩中、飲めや歌えやの大騒ぎをするわけです。

*2005年11月。ちくま文庫から「ギリシア喜劇」が復刊されました。