「オン・セックス」(鹿島茂/文春文庫)

→仏文学者の鹿島茂教授のセックス対談集を拝読する。
むかし「レイプをできるのは元気な証拠」と言って、
デエジン(大臣)をクビになった人がいると記憶しているが、あの人は正直者だ。
おれも正直レイプというのがぜんぜんわからない。
相手がいやがってるのにおちんちんがたつやつってすげえと思う。
性的合意とか言うけれど、女だってひとりの人格を持った生き物なんだよ。
女だって力はあるし、ぶっちゃけ女は男からのセックス要求を拒否できるでしょう?
むかし柔道経験のある女の子を組み伏せようとしたら逆に負けたから、
これは実体験的真実。
セックスって演戯じゃないのかなあ。
男が女を征服しているという演戯、女が男に征服されているという演戯。
しかし、我輩さまは女性さまを征服したいという欲望がないので困っている。

こんなことあるのかな? 
埼玉の底辺職場で57歳の同僚と携帯番号を教えあう。
昨日来たメールが「ツッチーも彼女を作りなさい」――。
いやね、奉仕してくれる彼女はほしいのだけれど(お人形さん?)、
容貌や収入が相手の希望を満たさないだろうという現実的な感覚があって。
おれはさ、ワリカンが当たり前で、あわよくば女に奢ってもらいたいという男だから。
というか、まえにも書いたが、モテ男でもないのに、
収支を考えたら女に奢ってもらったほうが多いという不思議生命体。

もうすぐ派遣切りになるいまの職場で、
スポット派遣の18歳の男の子とおしゃべりしたとき長年の疑問を聞いた。
いまの若い男ってつまらなくない?
おれはさ最後の世代。
携帯電話がなかったから好きな女の子に電話するとき、
家に電話して彼女への取り次ぎを頼まなければならない。
いまのようにおまんこを自由に見られるわけではない。
反対から言えば、いまはスマホで中学生でも高校生でもおまんこ見放題。
まんこなんて見たら見たで、きたないもんでしょう?
いまの男子高校生は女子にどんな希望を持っているのか?
職場の休憩時間に食堂(?)で見たらイケメンの男子高校生いわく、
「おれ、そういうのにあんまり興味がなくて」――。
いまは同級生の女の子に告白されて、彼女の親とも会ったらしい。
スマホで彼女の写真を見せてもらったけれど、かわいい子だった。

職場同僚のアラカンAさんにすすめられたので、いま彼女募集中。
来月からは無職。どうせ底辺。女にことさら優しいわけではない。
むしろ、女から優しくされたい、尽くされたい、底辺仕事さえできないダメ男。
本書によると女性評論家の藤本さんは男はもっと弱さをアピールすべきだとか。
いわく、「男を脱げ」――。

「でも、女の人は、弱体化した男の人に優しいと思いますよ。
弱くなったら、けっこう上手に励ましてあげたりすると思う。
だから、もし自分が弱みを見せたらすべてが崩れてしまうんじゃないか、
日常生活も営めなくなってくるんじゃないか、
なんて心配するのをやめてしまえば、
男はもっと楽になれるんじゃないですか」(P194)


おれ男だけれど、力仕事とかいやだもん。
男は男らしくしろとか考えているババアにむかつくのは男性性ゆえか、
それとも人間として性格が悪いからか、根が腐っているからか。
女子高生は好きだけれども、犯したいとは思わない。
きみはどんな男と出会っていくんだろうねというあしながおじさん気分。
いま思えば中高生のころがいちばん性欲旺盛でよかったなあ。
禁欲的共産主義全盛の中国を生きたシナ人の張さんは言う。

「高校時代に観たソ連映画の中で、ほんの数秒間、
美しいバレリーナが「白鳥の湖」を踊るシーンがありました。
刺激的な白い下着がチラリと見えるでしょう。
それでひどく興奮して、同じ映画を何度も観ました(笑)。
規制が厳しい社会の興奮の沸点は低かったわけです。
水着、体操、バレエが最大のポルノでした」(P86)


もうおっさんだからか、わかるなあ。
いくらかわいくて若い女の子が笑顔でおまんこクパアしていてもげんなりっていうか。
そんなことをするくらいなら死んでもいいっていう子が、
絶望の表情でこれだけは見せちゃいけないといった感じで
おまんこクパアするのならばいいけれど。
とすると、エロって教養や文化なのかな。
「恥ずかしい」という感覚を育てるのが文化というか教養というか、まあ育ちの問題。
あけっぴろげなおばさんは怖い。日本の女房は怖い。

「日本にはそういうものがない。
結婚したら奥さんを団地に閉じ込め、奥さん連中は、
子どもの砂場の周りで、
亭主のセックスの下手さかげんをゲラゲラ笑いながら話すだけでは、
いくらなんでも不毛です」(P185)


いちばんわからないのは、いわゆるおばさん。
いまはヒステリックで無教養なおばさんでも、かつて男をうまく捕獲したわけでしょ?
どうしたらそのような詐欺ができるのか?
人気者の仏文学教授は詐欺に関する本質を突いた発言をなさっている。

「基本的な詐欺のパターンは、イヌとかネコを小道具に使うんです。
一人の詐欺師がイヌを抱いて酒場に入り、店の主人に
「おじさん、ちょっと悪いんだけど、
一時間したら戻ってくるからこのイヌを預かっててよ」。
次に、客を装った別の詐欺師が顔を出し、
「おじさん、すごいイヌを持ってるね。譲ってくれない?」。
そう言って、高い買値をつける。店の主人は、
「いや、これはちょっと預かっているからだめなんだ」と断りつつ、
頭の中では<さっきの男から安く買って、こいつに高く売ろう>と欲を出す。
そこにイヌを預けた詐欺師が再び登場し、「いや、どうもありがとう」。
そこで、「あんた、このイヌを売らないか?」
と尋ねる主人に目一杯値段をつり上げたすえ、駄犬を売りつけ、ドロンする。
このパターンを使えば何でも売れる。
株取引なんかも、まさにこれでしょう」(P127)


男や女の価値もそんなものじゃないのかなあ。
おれなんかもさ、あんがい肩書(他人の評価)がついたらモテモテかもしれないわけ。
はくさえつければ、あの子にあんなこともこんなこともできるのかもしれない。
しかし、その「あの子」がいないから、いまがんばろうという気にならない。
「やる気」が出ない。実名ブログでこんなことを書いていいのかわからないが、
レイプとか強姦とか痴漢とか、そういうことをできる男らしい男はすげえぜ。
おれがいま女の子とつきあいたいと思っているとすれば、
それは「エロスに問題がある」からだと思う。
いやいや、我輩さまはご存じでしょうが凡人の極みでありますよ。
問題を抱えている凡人。

「谷崎潤一郎なんかでも、
自分は自分の中にこれだけ深刻な問題を抱えているけれど、
あるとき、それこそが自分の宝庫だと気付いたって、どこかに書いていましたね。
自分の中にデーモンを抱えてる人間だけが、きっとすごい作品を書けるんです。
でも、どうなんでしょう。
昔はそんなふうに自分の中にデーモンを抱えてる人間が
引き寄せられるものが文学しかなかったわけでしょ。
三島由紀夫にしてもバタイユにしても、そうだしね。
でもいまは仮に自分の中に何か強迫観念(オブセッション)を抱えてても、
それに対応するものがみんな金で買える。
風俗産業だって、やれアナル・ファックが用意されてます、
やれなんとかが用意されてますって、何でもある。
で、簡単にある程度欲望を満たせてしまう。
だけど、本当に満たされるかといえば、そうじゃない。逆に不幸ですよね」(P324)


「彼女を作りなさい」と職場の同僚から指導(?)されたけれど、
それは本当に「正しい」のだけれど、
おれのエゴイズムに耐えられる女なんかいないっしょ?
彼女を作るもなにも、おれは女に奉仕する気はほとんどないから。
奉仕されたい、甘えたい、女におぼれたい。バッカヤロな底辺のおれっす……。



この↓商品にどれだけの愛憎や怨恨が詰まっているか、いつか書くのかしら。

「薄明鬼語 西村賢太対談集」(扶桑社)

→なんかもう疲れちゃった。
さっき会社からメールがあって、おまえの思い通りにはさせないぞ、と。
わたしは密室で工場長から「退職勧奨」されて退職届を書いたのよ。
しかし、本社の人事部によるとそれは違う。おまえは間違っている、と。
おまえは自分で退職届を書いたんだから自己都合退職だろう。
「退職勧奨」がなかったことは会社に3人の証人がいるって(だから密室だったんだよ!)。
そのうえ、その3人の証人はいずれも会社の一定のポストにある人でしょう?
それは会社の味方をするわけで、うちには3人の証人がいるって言われてもさあ。
いまの職場に入ったころ5歳年上の副工場長におのれの人間不信を白状した。
そうしたら、「土屋さんはダメだ。もっと人間を信じなきゃ」と指導された。
その結果がこれでしょう。
わたしの自己都合退職の証人3人にちゃっかり副工場長も入っている。
きっとあの人はこうして世を渡ってきたし、これからもこうして出世していくのだろう。

芥川賞作家の西村賢太の書くのは身のまわりのことを題材にした私小説といわれるもの。
世の中にはふたつの目があって、それは「世間の目」と「わたしの目」である。
徹底的に「わたしの目」「わたしの言葉」にこだわるのが私小説である。
たとえ高級スーツを着用した10人がノーといっても、
しかし「わたしはイエスと思う」と言えるのがほんものの私小説作家。
それにしても世の中は厳しいなあ。
契約期間が来年3月まであるのにクビにして、
おまえが勝手に辞めたんだろうとやるのが大人の社会というものか。
そうしてかの男もあの男も偉くなり、高級スーツを着て、愛人を持ったのだろう。
「わたし」をいかに消すかがおそらく実社会を生きるコツである。
「わたし」の思いを捨ててスーツとネクタイに身をまかせる。
そのつらさやかなしさも十分に文学たりえるだろうが、それは私小説ではない。
今日わたしを路頭に迷わせた社会上層部の証人3人にはこころの痛みはないのだろうか。
まあ、世の中、こんなもんさとわたしのことなど明日には忘れ去っているのか。
石原元都知事に妙にかわいがられている私小説作家の西村賢太はいう。
ある若手美人作家との対談で――。

「あんまり編集者の言うことを聞かないことですな。
「ここをこうしたら」とか「もう一回書いたら」とか、言われませんか。(……)
僕はもう編集者に手を入れられることに対してすごい神経質ですよ。
それをされちゃうと、自分の文章じゃなくなっちゃいますからね」(P82)


わたしは文章にはこだわりやプライドといっためんどうくさいものがあるけれど、
ことお給料のためにやっている賃仕事についてはまったくもって上のいいなりであった。
「直せ」「ダメ」と言われたらいくらでも何度でもやり直したものである。
まえの先輩もそうだったがおれについてきたら正社員だと上司はみんなに口にしていた。
それでもこうして突然クビになって、しかし自己都合退職扱い(失業給付ゼロ)。
バイトを自他の勘気でクビにしておきながら、勝手に辞めたんでしょう、
となるのが世間常識。
せめて西村賢太くらいには「わたしの目」「わたしの言葉」をたいせつにしてもらいたい。
成功者の西村賢太中年による人生アドバイスはこうだ。
人間、どう生きるべきか。

「いや、人の意見は無視することです。
無論、僕のいかにも成功者気取りの、この勘違い意見もね(笑)」(P83)


世間の真実は多数決。世間の真実は肩書勝負。
しかし、「本当の真実」はわたしが決めるということ。西村賢太とわたしが共有する秘密だ。

「西村賢太対話集」(新潮社)

→これを読んでいたころちょうどうちのパソコンが壊れて修理に出していて、
すると賃労働より家へ戻って来てからすることがないのである。
パソコンがあれば安酒を飲みながら、
今日の職場であった些事笑事を底意地悪く思い返しつつ陰気に笑い、
ネットをロケットニュース24や2ちゃんねるの孤独な男性板に接続したものだ。
それがパソコンがオシャカになってしまったため、帰宅後にすることがなにもない。
仕事は年齢にふさわぬ肉体労働だから疲れもひどく難しい本を読むことはできない。
結句、山のように積まれている本のなかから、
芥川賞作家の西村賢太の対話集を引き抜きそこね、
あやうく「本の山」で遭難するところであった。
当時はバイトながら大会社の安定した職に就いていたため、
ついぞ経験したことのない安定という公明虚妄に身も心もやられ、
無頼派として知られる西村賢太の対話集を斜め上から、
ときおり憫笑を浮かべさえしながら他人事として読み散らかしたものであった。
が、その後いきなり「退職勧奨」を受けることと相成り、はや来月には無職の身である。
どうで自分にはこのような人生しか送れないのかと世を呪いながらも、
変質者的に次はなにをやらかしてやろうかなどと悪夢想している。

もしかしたらバブルが西村秋恵文学を育てたのかもしれない。
本書にバブル当時の日雇い賃金の月収計算が書かれているが、
あろうことかいまの我輩よりも高い収入を健太青年は得ながら、
文学陶酔および私小説漁色および優雅な買春遊戯をしていたのである。
西村賢太といえば中卒で文学理論もまるで知らず、
Fとかいう野垂れ死にした行き倒れ病死作家を師匠として仰いでいると聞く。
西村賢太は文学修行の経験はなく、ただただFにのめりこんだだけだという。
西村賢太は文芸誌でのさばっているやつらに言いたいことがあるという。
いいことを言うじゃないか、このやろう!

「そうじゃなくて[文学理論じゃなくて]、あなた方も、
どんな大学を出たにしても、やっぱりのめりこむほど好きな作家っているでしょう?
と、その模倣から入ってませんか? と、お聞きしたいんですがね。
しかしその連中に言わせると、自分たちはそういう好きな作家、敬愛する作家がいても、
それとは別個に自分独自の才能で小説を書いて、
文芸誌に載っているんだというえらそうなスタンスにいるもんですから。
僕はそれとは明らかに違って、
本当に骨董趣味から入ったような書き手だと自分で思ってますので」(P30)


ここ数日へんな咳がして、吐き気も著しく、あるいは結核やもしれぬ。
気が狂うほどの年月おれを認めてくれなかった世間に対する吐き気も重なり、
病床において安酒を薬とごまかしながら飲用し現在、
いままで当方を虐待してきた人間をひとりずつ妄想のなかで焼き殺しているところだ。
妄想のなかでなら現実をどうでも再構成することができる。
ノンフィクション作家のFが西村賢太に小説は事実かどうかを問うている。
「西村さんの小説に書かれている出来事は、ほぼ事実なんですか?」

「いや、僕の場合はそれを尋ねられた媒体や場所により、
「ほとんど事実です」と言ったり、「ほとんど嘘です」と言ったりで、バラバラにしています。
一概に言えないんですよ。「私小説」の中にも小説という言葉が入っている通り、
あくまでフィクションが前提ですから、ノンフィクション的な部分を強調しすぎて、
読者に単なるフィクションと捉(とら)えられてしまうと、
小説としては失敗作ということになります。
努めて、虚構と事実の狭間(はざま)を曖昧(あいまい)にするよう心がけています」(P168)


やってやろうじゃないかと思うた。
もはや芥川賞作家でタレントの西村賢太が落ちぶれることはなかろう。
ならば、わたしが冬空の下、無職無収入、公園のベンチで凍死するのもありであろう。
なにものにもなれなかった文士以下の敗残者の醜悪な亡骸を満天下にさらすのも悪くない。
絶命寸前、わたしは文学という魔の正体を知ることになろう。

「熱い心が人間力を産む 複眼経営者「石橋信夫」に学ぶ」(樋口武男/文藝春秋)

→大和ハウス会長の樋口武男氏と各界の成功者が
「週刊文春」で対談したものを再編集したオヤジ臭ただよう1冊である。
おーい、大和ハウス社員諸君、ちゃんと樋口会長の本を読んでいるかい?
なに? 時間がないって。そりゃそうだ。
じゃあ、このブログ記事を読めばいいさ。

思ったのは、それぞれ人の器があるんじゃないかっていうこと。
大和ハウスの樋口会長が俳優になろうとしたり、
力士を目指していたら失敗していたでしょう。
作家を目指しても漫画家を目指してもうまくいかなかったことと思う。
適職と出逢うことがいかに大事かってこと。
けれど、適職を得て「正しい」努力をしても運の要素が入ってくるわけだから、
かならずしも大和ハウス会長のようになれるものではない。
一般的に若者はバンドや画家などの夢をあきらめてサラリーマンになるとされているが、
そういう現実的になった若者に最後に残された夢が、
たとえば大和ハウス会長のような栄光の大勝利なのかもしれない。
おれもああなって見せるぞと早朝から深夜まで働き、休日出勤も辞さない。
万が一(実際は100万人にひとりだが)大企業の社長になって、
それがなんになるのだろうと彼が気づくのは、
モーレツ社員が激務でバーンアウトして(燃え尽きて)灰になったときだろう。

会社で地位が上がれば上がるほど人は孤独になっていく。
最高峰の樋口武男会長レベルになったら、その孤独は果てしないのではないか。
その地位に登りつめるために多くの恨みを買っただろうし、
自分にあたまを下げるものは多いと言えど、
内心はどうだかということをなにより自分がいちばん知っている。
いや、自分は成功した人生の大勝利者だ。私は幸福な勝利者で孤独でもない。
そういうことを証明したくて経済人は偉くなると、
もっと権威のはっきりした学者や女優と対談をしたがるのだろう。
われわれ一般庶民はこういう対談をするのは友人同士と思ってしまうが。
実際は対談をしてもその日だけで後日連絡を取り合うことはめったにないという。
大勝利者はわれわれしもじものものより
実際ははるかに孤独感にさいなまれているのかもしれない。
その孤独感をごまかすためには生涯現役でなおかつ健康でいなければならない。

樋口会長は食事ごとに大量の健康サプリメントを服用しているらしい。
いやあ、どれか効いてくれているから、きっといま元気なんしょって感覚。
こういう庶民感覚を持った樋口会長って人間味があって素敵だなあ。
運よくお逢いする機会があったら、その魅力に参ってしまうのかもしれない。
あなたがいま健康だとして、どうして健康かという理由は「わからない」のね。
そこに宗教や健康食品産業がつけこんでくる。
いまあなたはこの宗教(あるいはサプリメント)のおかげで元気なんですよ。
週に2回スポーツクラブに通っているから元気なんですよ、もおなじレベル。
本書の対談で醗酵(はっこう)が専門のマスコミ学者、小泉武夫が
自分は発酵食品ばかり食べてきたと鼻息が荒い。
醗酵マニアの農学博士は怪しげな自説をとうとうと述べる。

「だから、私自身、六十八歳の今まで病気一つしたことがありませんし、
身体も全然悪いところなし。
太っているのは、これ、しようがないんで。
醗酵食品はほんとに、私にとって究極の食べ物で、薬みたいなものですね」(P64)


一見するとこれは「正しい」真実っぽいけれど賢明なみなさまは嘘を見破れるはず。
というのも、小泉武夫が醗酵食品を食べていなかったときのデータがないわけ。
かならずしも発酵食品を食べた「から」、いま健康であるとはかぎらない。
もともとそういう体質なのかもしれない。
醗酵食品をほとんど食べていなかったら、あんがいもっと健康で、
いまよりもっとほっそりとしたダンディーさんだったのかもしれない。
成功した人生の大勝利者はマスコミで得意げに自分が成功した理由を語るけれど、
それらはもしかしたら小泉武夫博士と醗酵食品のような関係かもしれない。
努力すると成功に近づくという一般論は、じつのところ努力が功を奏したのではなく、
自分はこんなに努力をしたという自信を持てることがいちばん重要なのかもしれない。
自信を持っていると、けっこうすいすいうまくいくものなのではないか。
宗教に入れば、自分は神さまや仏さまに守られているという自信が生まれるから、
そこまで努力をしなくてもなんらかのプラスの結果が出やすくなるのかもしれない。

大和ハウス会長の樋口武男氏がなぜ偉いのかと言われたら、
大企業の創業者から認められたということによるだろう。
どうしたら偉くなれるかの答えは、いい師匠を探し、先生を信じることなのかもしれない。
「自分は偉い」というのは自慢に思われてしまうから常識人はいわない。
では、どうしたら自分の偉さを証明できるのか?
自分の師匠の偉さをこれでもかと声高に主張すればするほど、
その弟子たる自分の格(偉さ)も上がるのである。
新約聖書は、イエスが偉いという弟子たちによる報告文章だが、
皮肉をいえば、あれは本当にイエスが偉かったというよりも、
弟子が自分の偉さを証明したいがために師匠をまつりあげた結果とも読めよう。
「歎異抄」の唯円は「自分は偉い」と書きたかったが、
それを書いても信じてもらえないので、
自分の師匠の親鸞はこれだけ偉く、自分はその弟子なのだと周囲に訴えた。
会長就任時、創価学会の池田大作氏が
前会長の戸田城聖をヨイショしたのもおなじ理由とは考えられないか。
末端の学会員は池田大作名誉会長の偉さを語れば語るほど、
自分の偉さを納得かつ証明できるようなシステムになっている。
サラリーマンも自社のトップを誇れば、それだけ自分に自信のようなものが生まれる。

みなさまもご存じでしょうが、とかく男は「話を盛る」ものである。
大和ハウス創業者はシベリアで苦労したようだが、
逆にそのマイナスとされる辛い出来事を「盛る」ことで自分に自信が持てた。
(わたしをふくめ)男は「話を盛る」ものであり、
なによりその武勇伝の聞き手を求めるものである。
売れっ子のホステスやキャバクラ嬢は、このことを熟知していると思われる。
男なんて「すごいですね」と言ってもらいたがるために生きている哀しい動物さ。
樋口武男会長は創業者の武勇伝を何度も聞き、それを信じることができた。
それどころかその武勇伝を周囲に吹聴までしてくれた。
創業者にとって樋口武男氏ほどかわいい部下はいなかったことだろう。
女性はリアリストだからそういう男性的武勇伝にだまされないが、
賢女は男のそういう愚かさをよく知っている。
樋口会長から創業者の武勇伝、苦労話を聞いた富司純子という
紫綬褒章女優の反応がおもしろい。
どうでもいいが純子は「じゅんこ」ではなく「すみこ」と読むこともあるのか。
紫綬褒章(←国家勲章)女優の富司純子さんのリップサービスがいい。

「[大和ハウス創業者の]石橋信夫さんが主人公の映画を撮ったら、
すっごいおもしろい映画になるなあって。
満州で九死に一生を得た後、ソ連軍の捕虜になってシベリアへ。
二十三歳で千ぐらいの兵を連れてあんな寒いところへ。
それは収容所の待遇が劣悪だと、軍刀を手に乗り込んでいったという。
あれはもう任侠映画の世界ですよね。(……)
それで、要求が容れられなければここで切腹すると。
石橋信夫さんの戦争体験から会社を興し、樋口さんにバトンタッチするまでを、
ぜひ映画で観たくなってしまいました。
義侠心に厚くて、生き方が道徳そのものですよね」(P85)


この女優のあたまのよさには感心する。
どんなことをいえば男が喜ぶかを本当によく理解している女優である。
女優だって「上」から使ってもらえなければ失業者のようなもの。
日本社会で「上」とは男性社会のことだから、
富司純子のような女優が大成功や大勝利をおさめるのだろう。
結局、偉くなるには上から認められるしかないのか。
上から認められて偉くなるのはサラリーマン方式で、樋口会長の選んだ王道だ。
もうひとつ日蓮大聖人さまがお取りになった方法がある。
日蓮は生涯、上から一度も認められたことがない。しかし、偉くなっている。
これは自分に狂人的なまでの強烈な自信を持つことで可能になる。
大和ハウス創業者の石橋信夫氏は日蓮タイプであったと思われる。
よく男がやるポーズがあるじゃない。
両手を腰に当てて胸を張り「おれは偉いんだぞ」と周囲にアピールするしぐさ。
あれは勝手に「威風堂々のポーズ」と名づけている。
わたしは「威風堂々のポーズ」が恥ずかしくてどうしてもできない。
あのポーズをしている人って恥ずかしいとか思わないで無意識にしちゃうのかな?
女は「威風堂々のポーズ」をやらない気がする。

大企業のトップになるとどんないいことがあるのだろう。
・多くの人から表面上の尊敬を得られる。
・お金はあるが忙しくて使う暇がない。しかし、瞬間的なぜいたくは可能。
・本を読む時間はないけれど、各界の偉人から耳学問でいろいろ学べる。
・時間はないが、女にもてる。愛人の3、4人は囲めるのではないか。
・ほぼパーフェクトな衣食住を満喫し、最高クラスの医療サービスを受けることができる。
・子どもや孫に割のいい仕事をあっせん(紹介)してあげることができる。
・いつも仕事に追いまくられ、「生きる意味」とか深刻に考えずに済む。
・たとえば当方のような末端非正規から感謝されて、
ごくたまに著作の感想文を書いてもらえることもなくはない

課長という役職につき、その肩書をアイデンティティにしてしまうと
(その肩書を自分そのものだと思ってしまうと)、
部長や社長が怖くてたまらなくなるような気がする。
大和ハウスとは縁もゆかりもないが、サラリーマン社会を知りたくて、
好奇心からいまだに成長を続けている大企業の会長のご本を読んだ。
じつに実りのある読書であった。
わたしはいまバイトで雇ってもらっている企業の会長には感謝しているが、
きっと大和ハウスにも会長に感謝している末端雇用者がいることだろう。
大和ハウスの創業者の石橋信夫氏も樋口武男会長もとても偉い人だと思った。
いい本にたまたまめぐりあえたおのれの幸運をなにものかに感謝したい。

「宗教と日本人 司馬遼太郎対話選集8」(司馬遼太郎/文春文庫)

→このところ自分のことばかり考えていたので、
歴史や日本といった大きな視座もあることを知り、新鮮な思いにひたる。
自分は歴史に名を残すとまでは言わないけれど、日本に小さな一撃くらい
あたえられるのではないかという誇大妄想を持っていた時期もあった。
結局、40間近になっても鳴かず飛ばす。この程度だったのかなあ。
宗教学者の山崎哲雄が言っていたが、
最澄は桓武天皇の看病僧で、健康診断や病気直しをしていたらしい。
むかしは僧侶が医師も兼ねている部分があったのだろう。
で、空海は嵯峨天皇の看病僧ということで引きたてられた。
いまでも新興宗教入信動機のトップ1は病気なのではないだろうか?
考えてみたら、どうして病気になるのかはわからないと言えよう。
医者はなんだかんだ言うかもしれないけれど、それは後付けで。
働き過ぎのせいで病気になったという説明をする医者がいるかもしれないが、
おなじように、いやそれ以上に働いていても病気にならない人はならないから。
もし医者が正直ならば、その病気になる確率は何%としか「正しい」ことは言えない。
結局、ある人がどうしてある病気になるのかはわからない。
この世界の目に見えない部分をあつかっているのが仏教と考えられたわけだ。
いまでも病気から宗教に入る人は山のようにいることだろう。

最澄や空海は偉かったから天皇の寵愛を得たのか。
それとも天皇から取りたてられたから最澄や空海は偉くなったのか。
「偉い」というのは、どこまでも「他人の評価」に依存しているんだなあ。
だれかから認められないと出世できない。
時給850円のバイトだって面接官の評価がなければ採用されない。
わたしは「他人の評価」とどう向き合うべきなのか。
「他人の評価」ばかり気にするようになると自分がなくなってしまうけれど、
「他人の評価」がないと一生下積みで終わる。
じつのところ、人生で2回チャンスがあったんだよな。
一度目はある分野のパイオニアから日給2万で誘われた。
二度目は無名だったのに映画シナリオを依頼された。
どちらも先方を怒らしてしまいチャンスを自分でつぶしてしまったのだが。
果たして三度目はあるのだろうか?
さすがに世間を知ったから、今度はあまり生意気を言わないぞと誓っているが。

いまってやたらキャリアを重んじるような気がする。
これまでどういうことをしてきたかという肩書履歴である。
著者プロフィールが長い人って多いけれど、読者はそこを見て本を買うのかな?
わたしはパラパラ立ち読みして買うかどうかをむかしは決めていた。
いまはネットで買うから、どうしてもアマゾンのレビューを見てしまう。
あんな「他人の評価」なんて当てにならないのはわかっているにもかかわらず。
本書によると、夏目漱石が小説を書き始めたきっかけは依頼されたからなんだって。
大学の先生をしていたが、その講義がえらく評判が悪い。
漱石もこんなことやってられるかと思っていたら、朝日新聞の人が現われた。
それまで小説なんて書いたことのない漱石に、うちで小説を書かないかと。
井上ひさしは言う。

「当時の人口はいまの半分以上でしょうから同日には論じられませんが、
かつての人間には人を直観的に把握し理解する力があったんでしょうね、
つまり[朝日新聞の]池辺三山なら池辺三山が、
漱石の書く作品はわからないけれども、
漱石を見てこれは何かありそうだと感じて、その直観を信じることができた」(P126)


明治時代、朝日新聞が日本の独創的思想家を探すということをやったらしい。
やっぱり新聞なんだな。新聞こそ「他人の評価」の最たるもの。
コンプレックス過剰な恩師がいて、むかし崇拝していたことがあるけれど、
自分が紹介された新聞記事を後生大事に抱えているようなところがあり、
ちょっとげんなりしたという記憶がある。しかし、世間はそういうものか。
わたしは新聞が嫌いだが、これではいけないのかもしれない。
聖教新聞でも取ろうかな。もっとまじめなものを取れって?
聖教新聞でも新聞に取り上げられたら庶民は舞い上がるほど嬉しいのだろう。
司馬遼太郎によると、明治時代に大阪朝日が発掘した独創的思想家は――。

「その一人は富永仲基という醤油問屋の若旦那です。
三十歳で亡くなるんですが、近代的な文献学そのもので仏典を調査して、
四世紀、五世紀ぐらいにできたものだということを明らかにした。
それで本願寺の大谷光瑞が震え上がって、
のちに大谷探検隊を敦煌(とんこう)に派遣することになるんです」(P119)


阿弥陀経が後世の創作だと知って、慌てふためく大谷光瑞っておもしろい。
まあ、敦煌を調査しても阿弥陀経が釈迦の説だという証拠は出てこない。
このとき、いったいどのように自分をごまかしたのだろう。
いまの浄土宗や浄土真宗の坊さんだって、
阿弥陀経は後世の創作だと知っているわけでしょう。
それでありながら坊さんとしてメシを食うというのはどんな気持なんだろう。
学会員さんとかも法華経は釈迦の真説とか本気で思っているのだろうか?
たしかに法華経や阿弥陀経を釈迦が説かなかったことは証明できないのだが。

最澄や空海はお経を釈迦の真説と思っていたのだろうか?
空海の真言密教は、釈迦崇拝ではなく、大日如来信仰だから、
あの時代にしてある意味では釈迦を凌駕(りょうが)していたのかもしれない。
最澄は純粋そうだから、法華経や阿弥陀経を釈迦の真説と信じていたのではないか。
真理は言葉で伝達できるとするのが顕教で、
真理は言葉にならないと考えるのが密教である。
ご存じのように最澄は後輩で格下の空海にあたまを下げて密教を学んだ。
具体的には、密教経典を貸してくれと依頼した。
ふたりの関係は破綻してしまう。作家の立花隆は言う。

「つまり言葉というのはものすごく貧しいということでしょうね。
司馬さんのご本の中で、空海がなぜ最澄に対して、
最後に蹴飛ばすような関係になったかというと、最澄というのは、
言葉を通じた真理の伝達を信じたということでしょう。(……)
空海はそれを信じないわけですよね。
語ってくれなきゃ困るって言われても、それは語れないんだと思うな。
語れば分かると思う側はそれをけしからんという。
そういう感じなんじゃないでしょうか」(P187)


きっと言葉では教えられないものがあるのだろう。
いまはこうしたら人生がうまくいくと言葉にして教えるコーチ的存在が多い。
こうしたら老後は安心だとか、40代からはこれをしろとか、
そういうコーチ情報ってネットにも書籍にもあふれているじゃないですか。
コーチの言うことを聞くのも重要だが、無視する人もいてもいい。
井上ひさしによると、
イチローはコーチの助言を無視したからうまくいったとのこと。

「イチローは非常に個性的な打ち方をすると思っていたら、
実は球がよく見える人にとって、あれはいちばん合理的な打ち方らしい。
あのイチローの打ち方を、コーチはきっと何かいろいろ言ったと思うんです。
「それじゃプロで打てないよ」とか。
でも、イチローは頑固に自分のスタイルを守った」(P133)


むかしシナリオ学校の女性社長が、
イチローはだれよりもコーチの言うことを聞いてだれよりも努力したから
イチローとして成功することができた、とどこかで書いているのを見た記憶がある。
だからみんなも先生の言うことをしっかり聞いて人一倍努力しましょうねって。
いったいどちらが「正しい」のかはわからない。
習う、倣(なら)う、真似をするというのはお稽古事の基本なのはわかる。
むかしお経は音楽として町民に親しまれていたという珍説を司馬は口にしている。
学者がそれを否定したって、司馬遼太郎のほうが影響力が強いから、
おそらく司馬の言うことは「正しい」と見て間違いない。

「しかし、いま芸術から宗教に入るというのは面白い話だと思ったのは、
さかのぼって平安期には、
お経の「声明(しょうみょう)」というのはたいへん音楽的だというので――
いまとなれば、お経はもう退屈なだけなのですけれども、
平安期の人にとっては、あのお経はもう素晴らしいものだった。
だから町住まいの声明の師匠さん――
お坊さんであるのかないのかわからないですけれども――
声明師たちが町の人のお弟子をとっていた。
町のひとびとは「声明」を習いに行っていたのです。
この「声明」が日本の民謡の原形のひとつとなっているようです。
たとえば江戸の「木遣(きやり)」のように、
これはほとんど仏教音楽の「声明」が源流です。
ですから、これが日本の民謡の始まりになるのだということは、
皆さんがおっしゃる通りだと思うのです。
芸術から入るということにつながります。
それで「声明」を称(とな)えているうちに、やはり阿弥陀さんはいいな、
尊いな、ありがたいなという気持ちをもつようになってくるのですね」(P65)


人気作家や人気学者(大衆作家、大衆学者ともいう)の対話は、
どうしてこんなにおもしろいのだろう。
専門学者の論文めいた学術書などちっともおもしろくないが、この差はなにゆえか。
もしかしたら書き言葉と話し言葉の違いになるのかもしれない。
話し言葉は、話を飛ばしやすいのである。
書き言葉は論理性みたいのに縛られて、言葉が飛ばない。いきいきしない。

「変?」(中村うさぎ/角川文庫)

→変な人たちの対談集。
壊れちゃった変な人、酒や買物やホストや美容整形に人はなぜ依存するんだろう?
こちらが変な人だから変な人が好きで変な人のことを知りたくて変な読書をする。
基本、あれなんだ~なあ。常識世間からこぼれ落ちた人が変な人になる。
世間や常識がすすめる生き方(結婚・出世・長寿)を目指していたら変な人にはならない。
落とし穴は「自由」であろう。もしかしたら人間は「自由」ではなかろうか?
中村うさぎちゃんはブルセラ博士の宮台真司くんに懺悔する。
人はどうして変な人、つまり依存症になるのか。「自由」がいけない。

「そーなの。もう、あなた、自由度が高すぎるロールプレイングゲームみたいなものよ。
『ドラクエ』なんかはさ、常に誰かから目標や使命を与えられるから、
達成感もあるし、楽しいんだよ。最後にゴールがあるのもわかってるし。
だけど誰も指示してくれなかったら、どこで何していいのか、わかんないじゃない。
「さあ、自由に冒険しよう」とか言われても、
「あのー、最初にどこ行きゃいいんですかね?」みたいな」(P133)


いい学校、いい会社、いい男――いい人生からこぼれ落ちた女子の本音だろう。
まあ、女子なら「あげまん」として男を盛り立てて生きるという生きがいもあろう。
これは女子でなければできぬことだが、そして中村うさぎちゃんは嫌悪感を示すが、
ひとつの女子の生き方のパターンである。
作家の島村洋子に中村うさぎのような迷いはない。女は「あげまん」に徹すべし。

「男って、「俺像」を大切にする生き物じゃない?
その「俺像」の幻想を、私も共有してあげるの。
凄(すご)い凄い、やっぱりあなたは凄いわ~、って」(P57)


すると、男はみなみな「いい男」になっていくという。これは真実。
こんな「あげまん」さんに出会えたらなあ、
なんて思っている中年男は出会えないんだろうなあ、あはっ。
人って必要とされたがるし、ほめられたがるものだと思う、男女ともに。
中村うさぎ先生は、今度はホストにはまるがそのホストからこんなことを言われる。
ホストはみんな宗教家なのかもしれない。
創価学会の池田名誉会長は、おばさん人気ナンバー1のホストだったのかしら。
さてさて人気のホストはおばさんの中村うさぎに言う。

「ホストの言葉を信じちゃいけない。
ホストクラブってのは、百の言葉の中に、百の嘘と百の真実が同居する場所だから。
(……) 騙されてると思うからいけない。
僕たちの嘘は騙すための嘘じゃなくてね。
お客さんを楽しませるための嘘だから。
せっかく金払ってんだから、嘘とか本当とか言わずにホストの言葉にふわふわノッて、
楽しんじゃえばいいじゃない」(P174)


主婦を楽しませてくれる新興宗教のボスはホストなのかもしれない。
新興宗教で散財したものは、
まあホストクラブで遊んだと思えばすっきりするのではないか。
どうせつまらない人生。
「正しい」生き方もいいが、自由の恐怖に脅えながら、楽しむのもありって話。
目標や使命がない自由は怖いけれど、それでも楽しむのはありって話。
おもしろければ「変?」でもなんでもいいよねえ。

「危険な宗教の見分け方」(田原総一朗・上祐史浩/ポプラ新書)

→2013年刊の元オウム真理教の上祐史浩と田原総一朗の対談本。
おりしもタイムリーというべきか、
現在まだオウム真理教(現アレフ)に所属している信者さんから、
ブログに長文の鍵コメントが入っている(昨日8/20)。
うちのアウトルックエキスプレスの不具合で、
コメント欄記入のメールアドレスはどうしてか開けないので返事は書けません。
ことさら熱心に反応を求めているとも感じませんでしたのでご了解を。

本書でおもしろい仏教説話を知った。
わたしは読んだことはないけれど、出典はどこなのだろう。
いちおうジャータカ物語(釈迦前世譚)でブッダが
自殺も殺人も肯定しているのは知っていた。
小舟に乗っていて殺されそうになったら相手を殺すではないかという文脈だ。
詳しい内容はリンク先をご参照ください。
本書で上祐史浩が紹介しているのは、もっと過激な殺人肯定の仏教説話だ。
少し長くなるけれど、たいへん印象深かったのでみなさまにもお読みいただきたい。

「なぜ殺人を正当化するような教えが出てきたかというと、
仏教の悟りというのは「慈悲」、つまり他者を愛することに関係する、
ということに結びついています。
たとえば、こういうお釈迦様の物語があります。
お釈迦様の神通力によって、ある男がまもなく五百人の人を殺すことを知った。
残念ながらそれを防ぐ手立てがなく、五百人を救うにはその男を殺すしかない。
だが、殺せば自分は地獄に落ちる。
こうしたときに、五百人を殺させないために、
お釈迦様はその男を殺し地獄に落ちることを選んだ。
それは深い慈悲で、自分は地獄に落ちても、
五百人を救いその男が地獄に落ちないようにした。
こうして、仏教の慈悲の教えの中で、殺さなければ救えない人たちは、
自分を犠牲にしても殺すのだという論理が成り立っているわけです」(P106)


不謹慎なことを書くと、
死んだ人はみな仏(善人)になってしまうような風習が日本にはある。
死んだらみんないい人みたいな。
なんだかんだあったけれど、いまから考えたらいいところもあったよ、みたいな感傷のこと。
でもさ、正直に心の底を見つめたら、
だれでも死んでほしい人のひとりやふたりはいませんか?
これまた不謹慎なことを書くけれど、
例の津波で死んだ人で嫌われものもいたわけでしょ?
むかしいじめられてチン毛を燃やされた恨みが忘れられなく、
あいつが死んでくれてヤッターと思った人とか絶対にいないわけではないと思う。
外見上はどんないい人でも、みんなから好かれている人間というのは極めて少ない。
人間には相性というものがあるから、どうしても一部の人間に嫌われてしまうのである。
繰り返すが、死んだ人はみんな善人(仏)になるという通念がこの国にはある。
けれども、死んだ人を憎んでいた人がいる可能性は否定できないのである。
そうだとしたら、殺人は絶対の完全悪だと言い切れるだろうか。
殺人というマイナスにも小指の先ほどならプラスの意味合いがあるのではないか。
死刑を肯定している人というのは、殺人にプラスを見出しているわけでしょう?
危険なことを危険と知りつつ非難を恐れずに書くと、
地下鉄サリン事件で死んだ人がもしお亡くなりにならずその後も生きていたら、
交通事故を起こして多くの小学生を轢き殺していたかもしれないのである。
もしそうだとしたらオウム真理教の地下鉄サリン事件は絶対悪と言い切れるのか。
詭弁(きべん)という自覚はあるけれど、
遺族感情を無視して世間からの批判を恐れずに「本当のこと」を書いてみた。
地下鉄サリン事件のことはもう忘れてしまったが、
死んだ人のおかげで会社でのポストが上がった人もいたことだろう。
そして、死んだ人のなかに将来悪事をする人がいなかったとは、
だれにも断言することができない。
むろんのこと、だから人を殺してもいいという論理に直結するのは安易だし、
断じて地下鉄サリン事件を肯定しているわけではない。

しかし、将来少女を連続レイプしそうな男がいたとしたらどうだ?
その男は殺してもいいのではないか? それとも人権とやらが尊重されるべきなのか?
死というのはマイナスばかりではない。
だれかが死んでくれたおかげでそのポストが空き出世する人が現われるのである。
反対から言えば、だれかが死んでくれないとなかなか人は出世できない。
これは政治家の世界では暗黙の了解のようになっているのではないか。
だが、どうして男というものは(自分もふくめて)出世したがるのだろう。
上祐史浩がオウム真理教に入った動機はこうだ。

「これは私だけではなく、新実智光[死刑囚]もそうだったようですが、
普通の組織に行くと、すでに先が見えると感じていたんです。
組織の中で、十年二十年三十年とコツコツ働いて、ようやく部長程度になれる。
世の中に対して、頭打ちの印象を持っていた。
一方、麻原は我々に、「今入った者は将来の大教団の大幹部だ」と言うわけです。
私や新実、村井とかはオウム真理教が出家者を集めはじめたときの人間ですから、
ある意味で創設メンバーです。
新実も、それ以前はそれなりの企業に勤めていたのですが、
「このまま働いても、先が見える」と言っていました」(P32)


野心ある二十代の青年の本音だろう。
いまアルバイトをしている職場にも二十代と思しき社員さんがおられるが、
先が見えたような気がしていやにならないのだろうか。
本当にいまの仕事を天職だと思っているのか聞いてみたいところがある。
さて、麻原彰晃はすごかったと言えなくもないのである。
どうしてかと言うと、ノーベル賞を受賞したダライ・ラマと親友だったというのだから。
ノーベル賞を取るまえから麻原はダライ・ラマと深い親交関係にあった。
上祐の証言では、麻原彰晃はダライ・ラマから尊敬されてもいたという。
少なくとも麻原彰晃に先見の明があったことはたしかだろう。
もちろん裏の話はあって、麻原彰晃はダライ・ラマに2億円近く寄付したらしいのだが。
しかし、言い方を変えればノーベル賞のダライ・ラマもその程度の男なのである。
もっと言ってしまえば、ノーベル賞もさして権威を持っていないのかもしれない。
金とコネというのは、ものすごい力を発揮するのだと本書で知った。
オウム真理教は1億円以上の金をロシア高官に払った。
すると「偉い人」をいろいろ紹介してくれ、ロシア国営放送の30分枠までもらえたという。
テレビで放送されているのだから本物だろうと、
ロシアにオウム真理教の信者が大勢発生してしまったという。
いかに地位のある人に近づきうまく裏金を渡すかが世渡りの秘訣なのだろう。
社会主義国はとくにそういう傾向が強いのかと思われる。
有名人の田原総一朗の言葉も拾っておこう。

「たとえば『資本論』のマルクス。マルクスの資本論は、
「経営者、資本家が労働者を搾取して、奴隷のごとく扱って、
自分たちだけが豊かになっているが、いつの日か労働者が革命を起こす。
革命は絶対に正しい」という主張。
革命が絶対に正しいなんていうから、革命を起こした国、
ロシア、ソ連、あるいは中国、北朝鮮などでは、
政府を批判したら監獄行きという状態になってしまった。
それはおかしいというので、
「絶対正しいなんてことはない、真理も真実もない」
というのが今の相対哲学なんです」(P187)


上祐史浩はいま「ひかりの輪」というセミナーを主催しているという。
言い方はよくないが、オウム真理教ほど効き目はないのではないかと思われる。
薬は毒なのである。副作用の強い薬ほど患者を癒すという面を忘れてはならない。

(関連記事)
「オウムをやめた私たち」(カナリアの会/岩波書店)

「やっぱり、人はわかりあえない」(中島義道・小浜逸郎/PHP新書)

→往復書簡集。よく知らなかったけれど、小浜逸郎って人が嫌いになった。
この人は造語になるが、庶民派インテリとでも言おうか。
やたらインテリぶって有名哲学者や有名文学者の権威を借りるのである。
しかし、自分は庶民の味方で大衆寄りで「普通の人」がいちばん偉いと公言する。
身もふたもないことを言うと、庶民派や大衆寄りってずるいんだよねえ。
あれって弱者の味方ぶっているけれれど、
本当に汚らしいことを言ってしまえば、庶民や大衆というのは圧倒的多数派でしょ?
「正しい」というのは数の論理(正義は多数決で決まる)なのだから、
庶民派ぶったり大衆を擁護したりするのは計算高い証拠と言えなくもない。
いまの日本でいちばん偉いのは庶民や大衆ではないか。
政治家も金持もテレビも新聞も庶民や大衆を批判することができなくなっている。
みんな庶民の味方ぶっているけれど、大衆は愚かだというのが本音でしょ?
だから、庶民さま、大衆さまとやっておけば、あいつらは満足して騒がない。
へたなことを庶民さまや大衆さまに言うと、おれらを見下すのかと激憤するから怖い。
この点、おのれを庶民や大衆と同一視しながら(うそこけ爺さん!)、
そのくせ無知蒙昧な下層民が恐れをなすだろうと姑息にも計算して、
有名哲学者や有名文学者、古典の内容をやたら引き合いに出す小浜逸郎にはげんなり。
うまいこと人生の甘い果実を食い散らかした団塊世代の象徴が小浜逸郎ではないか。
中島義道が小浜逸郎をこう評している。

「……小浜さんの武器(言葉)は案外素朴で、どんな戦闘でも、
いろいろ配慮はしているが、結局自分はほぼ完全に正しく、
相手がほぼ完全に間違っているとなる」(P20)


本書でもまったく意味のない論争のようなものをしているが、
あえて勝敗をつけるならば小浜逸郎に軍配が上がるだろう。
なぜなら庶民派ぶった大衆擁護の論客(笑)だからである。
多数決を取ったら、庶民や大衆は小浜逸郎に票を入れるだろう。
結果、民主主義的に小浜逸郎なる庶民派インテリが「正しい」ことになろう。
愚鈍な庶民とか大衆とか、そのリーダーの小浜逸郎は、
本気で人と人はわかりあえるとか信じていそうでブルブルッとするぜ。
「話せばわかる」とか狂信に近いレベルで思い込んでいそうで恐ろしい。
論争したっていくら議論したって、
それぞれ自分は「正しい」と思っているふたりは決してわかりあえないとわたしは思う。
ブログをやっていていちばん迷惑なのはコメント欄で議論を吹っかけられることである。
議論の結論は「あなたは正しいし、わたしも正しい」しかないにもかかわらず。
あるいは「あなたも善で、わたしも善」というほかなく白黒なんてつかない。
中島義道は論争好きな小浜逸郎のことがわからない(理解できない)。

「……私にとって「善い」とは「好き」とさして変わりありませんから、
小浜さんのように、
さまざまな論客との論争が(少なくとも真剣には)できないのでしょうね。
俺は自分の感受性に基づいて「善い」という言葉を使うから、
おまえも自分の感受性に基づいて「善い」という言葉を使えばいい、
オワリ、という具合です。
言い換えれば、すべては趣味の問題に行き着くように思われます」(P88)


どうして学会員さんは池田先生が「好き」と言わず、
絶対的に「正しい」とまったく感受性が異なる他人を折伏しようとするのだろう。
好きか嫌いかを問われたら、
ダークヒーロー的な意味合いで池田さんのことは少なくとも嫌いではないが、
SGI会長の言うことがすべて「正しい」とはわたしは思わない。
けれども、そう思う人がいてもいいし、
その人の意見を他人が変えることなどできないことをわたしは知っている。
あっ、最後に断わっておくと、わたしは庶民で大衆で下層民だから。
だって、中島義道や小谷野敦の本を読むインテリなんているはずないっしょ♪

「快感のプラクシス」(南伸坊・植島啓司/平凡社)

→87年刊行の「快感っていったいなんだろうねえ」という、ゆる~い対談本。
考えてみたら生きる目的や人生の目標がなくても、
快感があればそこそこ生きていて楽しいから社会的地位は低くても
そこまで気にやまずにのほほんと生きられるのかもしれない。
ふたりは有名人だけれど。
この本で知ったけれど植島さんの実家は踊りのお師匠さんらしい。
相当な資産家のお坊ちゃんのような気がする。
貧乏人は快感よりも、まず富や名声、地位を求めるものだろう。
いったい快感ってなんだろうねえ。
プルンプルン、プリンプリンとしたものって快感だよねえ(植島)。
そうそう、おっぱいとか(南)。
子どもが好きなものって、快感の原点じゃない(両者同意)。
ミニスカートでパンツがちらちら見えそうなのって快感っす(植島)。
ボクは制服が好きで、婦警さんをこってりいじめてみたいなあ(植島)。
おなじ鶏肉でも名古屋産とか書いてあるとよけいおいしく感じるわ(植島)
こんなくだらないことばかり書いてあるわけではなく――。
南伸坊は言う。

「ボクはすごくこわいことだとか危ないことだとか、
平常の自分の秩序を壊してくれるものがおもしろいもんなんだっていうふうに
思っているわけだけど、いちばん秩序を壊されるっていったら、
いわば死っていうものにまつわるものなワケですよ、最終的にね。
死んだらどうなるかなんて、なにしろ全然わかんないんだから」(P62)


死を取り扱っているのが宗教である。
当時は新進気鋭の宗教人類学者だった植島啓司は言う。
宗教儀式のトランス状態はよろしい。

「単純にね、狂騒状態って、近代社会では禁じられてきたと思う。
むしろリラクゼーションみたいなものばっかりが、
たとえば自然に還れみたいな感じで求められていて、
むしろお祭りだって人を殺したり、酒を飲んでめちゃくちゃになったりするっていうことは、
どんどん規制されていくわけでしょう。(……)
ところが宗教のいちばん大事な点は、
むしろそっちじゃないかっていう気がボクにはある。
感情的なポテンシャルが異常に高くて、
普段の経験的なマップに対応点が見出せない状態、
たいていのことだったらちょっと異常な状態でも、
経験的に知っているからなんとかなるけど、
そういう理解不能な状態こそ宗教と関わってくると思うんです」(P161)


日本の仏教史のなかでいちばん狂騒的なのは一遍の踊り念仏だとわたしは思う。
貧富や地位や格差を取っ払った一体感を人はこころよく思うことがある。
みんなひたすらお金や地位や名誉を求めているけれど、
そんなものは意味がないんだよと気づくことのできる興奮状態は快感である。
日常はつまらない。快感とは「飲む・打つ・買う」に尽きるのか。
本書で快感を求めて語り合ったふたりが最後に行き着くのがギャンブルの陶酔だ。

「南――で、ギャンブルの誘惑ってなんだろうね。
植島――やっぱり危険なことをしたいっていうのはあるんですよね。
なけなしの金を賭けて、オレはこんなに危険なことができたとか。
南――なるほど。みんなほんとは危険なことをしたいんだもんね。
でもできないから、やってる人がカッコイイんだ」(P173)


危険なことやそれにまつわる恐怖とか本当はおもしろいんだろうなあ。
殺すか殺されるかみたいな瞬間って一度味わったら病みつきになるのかもしれない。
一か八かという瞬間の興奮のことである。
どうなるかわからないことをあえてやってみて動向を見守るとか。
やってはいけないとされている危険なことをあえて人はやりたがることがある。
ジェットコースターなんて比較にならないスリルの快感があるのかもしれない。
当方、ヘタレだから絶叫マシーンとか子どものころから大嫌いだけれど。
バンジージャンプとかもできる人をよくやるなあと思う。冬山登山もそう。
パチンコや競馬でさえやり方を知らないわたしは、
人生でもっと自分の快感を求めたほうがいいのかもしれない。
かといって幼児性愛者や快楽殺人犯にはなりたくないけれど(さすがにならないって)。
人生に目的や目標がなくても、自分の快感があれば生きていけるのかもしれない。
だれからも承認されなくても、自分の快感を追求していけばいいのかもしれない。

「すこやかな生き方のすすめ」(桜井章一・よしもとばなな/廣済堂出版)

→雀鬼の桜井章一氏と有名評論家の吉本隆明氏のお嬢さんとの対談集。
どちらも組織に属さないフリーランスのためだろう。サラリーマン批判がどぎつい。
サラリーマンは人を肩書でしか判断しない、損得しか考えない、たかるのが大好き。
そんなこともないと思うけどなあ。
みんながみんな突出した両氏のように幸運や才能に恵まれていないのだから、
処世のために自分でも嫌悪するようなせこいことをするのはそう責められないと思う。
きれいごとで生きていける人ばかりではないような気もするが、そこはわからない。
若くしてデビューした人気作家のよしもとばなな氏はデンジャラスな裏事情を言い放つ。
いわく、作家業界もサラリーマン世界だ。
作家になったら、この会に入れ、この先輩に挨拶に行け、この選考委員をやれ、
という人事指令が編集者から下るらしい。
その人事にしたがえば報酬として文学賞が手に入るとささやかれるとのこと。
うーん、やっぱりそうだったのか。

なんでも本書によると雀鬼は予知能力や透視能力、いわゆる超能力をお持ちらしい。
1億や2億なら、いまでもひと晩で稼げるとのこと。
そんな人ならたしかにサラリーマンをばかにしたくなる気持もわかるよなあ。
もちろん、大量の愛読者がいる才能あふれたよしもとばなな氏が
リーマン世界を軽蔑する気持もわかる。
たとえ一社や二社の編集者から干されても平気の平左なのでしょうから。
両者は未来永劫、わずかな日銭のために
年下の正社員に理不尽なことであたまを下げる非正規雇用者の気持はわからないと思う。
決してそのことを批判したいわけではない。
雀鬼やよしもとばななのような人もいるから世の中はおもしろいのだろう。
いろんな人がいてよろしかろう。あなたもわたしも生きていてよろしい。雀鬼もばななも。