「損する生き方のススメ」(ひろさちや・石井裕之/フォレスト出版)

→長年のひろさちや氏への疑問が少しばかり解けたという錯覚を持つ、
ひろ氏は経歴を見るかぎり順風満帆というほかない人生を送っているのである、
というのも、だれもが大学教授になんてなれるはずがないのだから。
ひろさちや先生は、結局のところ子育ても成功したようだ。
氏のものを書く基盤はどこにあったのか。
世間知らずで鈍感なわたしも、この本を読んで、いまさらながら事情を理解したしだいだ。
これは邪推かもしれないが、おそらく、
ひろさちやさんの奥さまとお母さまの関係がことさらうまくいかなかったのではないか。
嫁姑の関係に苦しんだことから、ひろさちや氏は一般書を濫作するようになった。
たぶん嫁姑問題はひろ氏のご母堂がお亡くなりになるまで解決しなかったのだと思う。
ひろ先生の恩人であるお母さまが永眠されることで皮肉にも奥さまのお悩みが解消した。
人生、こんなもの。人生、そんなもの。
こういった事情(憶測)から、ひろさちや氏の発言を見るとやけに真実味が感じられる。

「お姑さんのことを一所懸命考えたお嫁さんが、
たとえばウナギをご馳走しようと思って買ってきたり、いろいろな気配りをする。
そうした配慮が過ぎると、
「私はここまで尽くしているのにお義母さんは少しも私のことを分かってくれない」
と腹が立ってくるわけです。だったら尽くさなければいい。
「どうせ、うまくいきっこないんだから」
と思っていれば、案外うまくいくこともあるわけです。
だから私は問題を解決しようとするなといっているわけです」(P50)


多くの人が潜在意識的に他人とは違う生き方をしたいとどこかで願っている。
なら、どうしたらいいのか。そのとき重要なのが「損する生き方」なのだろう。
いまの日本人はみながみな、損をしないように気を配って生きている。
だから、「損する生き方」をすれば、
必然的に人とは異なる自分だけの人生を味わえるのである。

「ああ好食大論争」(開高健ほか/潮文庫)絶版

→開高健という男はよくものを食ったらしいね。貪欲だった。
うまいものあれば、いくらでも食った。
いける酒があったら、これでもかというほどのんだ。
ヘビでもハトでもムシでも、うまいというものがいたらなんでもがっついた。
よく食い、よくのむ男はいいねえ。そう思いませんか?
なに? 思うけれど、いまはめったにそういう男がいないと?
いるよ、いますよ、オレオレオレ♪

「黄昏の一杯」(開高健/潮文庫)絶版

→対談集。
開高健によると、「毒ヘビは急がない」ということわざがタイにはあるらしい。
宮本輝も、このことわざにこころ惹かれるものがあったようである。
ファンクラブのTシャツのイメージとして使用している。
「毒ヘビは急がない」――。どのような意味か。
開高健は「自信のあるやつはゆっくりしている」という意味としてとらえている。

最後の文豪、開高健がもっとも重んじたものはなんだったのか。
本書を読んでいるうちに、それは時間ではないだろうかと思った。
美食家の文士・開高健は、この問題を繰り返し本書で語っている。
文学も料理も時間をかけなくなった。どうしてこうなってしまったのだろう。
なにゆえ日本人は「毒ヘビは急がない」を忘れてしまったのか。
人生でいちばん価値あるものは時間かもしれない。
作家は多忙のサントリー社長、佐治に平然として本音を言ってのける。

「すると、時間を持ってる人、
自由に時間を使っている人は本当の金満家やという感じがある。
じゃ、佐治さんは全然貧乏人やねぇ」(P142)


名文も美食も味わうところは時間なのかもしれない。どれだけ時間をかけたか。

「このごろ、ぼくはあまり読まなくなったけれども、
いま日本で書かれているものって、およそ何を読んでも文章がカサカサなのね。
スープっていうのは、
サラに入れたときは一センチか二センチたらずの深さしかないけれども、
それを取るためには、骨やら野菜やら肉やら、
膨大なものを煮詰めてから出してくるものでしょう。
ふくみ味っていうか、隠し味っていうか、
そんなふくらみのあるスープって感じのする文章がない」(P114)


「文学というのは浪費せんとあかんで。
精液、時間、精力、とにかく浪費やな。
浪費が生産性に転化するというのが、唯一の文学の例やね」(P63)


浪費とは、大量の時間と金を無駄に費やすこと。
現代人がなかなかできることではない。うん? なにができないというのか?
しつこいようだが、「毒ヘビは急がない」である。

「生きてるだけでなぜ悪い?」(中島義道・香山リカ/ビジネス社)

→自称哲学者の中島義道先生はおもしろいよな〜。
毒が強すぎるからあまりのまないほうがいいのだけれど、
ついつい過剰摂取してしまい取り返しがつかないことになってしまう。
先生のご著作は高校卒業までは禁書にしないと人生が台無しになってしまうのではないか。
中島義道の魅力をひと言で指摘するならば、
たとえばすべての肩書に自称とつけてしまうようなところ。
肩書というのは世間(=他人)から認められたものにもかかわらず、
みながみな肩書にアイデンティティーを持ってしまうわけでしょう?
「私は××だ」――。
それを中島義道は意地悪く、おまえなんか「自称××」じゃないかとやっつけてしまう。
本当のおまえはなんにもない。他称を自称にすりかえるな!
中島義道の言論の魅力である。

自称作家。自称弁護士。自称医者。自称先生。自称会社員。自称社長。自称タレント。
なんだかふきだしてしまいそうになりませんか?
どんな肩書もまえに自称をつけたら笑えてしまうのである。
以下に中島義道先生の、ヤバイ本音を採録する。

「香山さんも私も講演会をやっていますが、
他人の人生なんて聞いてもしょうがないと思いませんか(笑)。
新興宗教みたいなものに完全にはまって、
誰かにすがるのもいいかもしれないけれど、
「なんかいい話が聞けないかしら」なんて期待して、
三○○○円払って講演を聞いてもダメでしょう。
そもそも、その安易な態度が間違いです(笑)」(P81)

「世の既婚男性は二万円のお小遣いで一カ月やっているそうですが、
それもすごいですよね。奥さんもすごいと思うけれど、
ダンナさんは自分が稼いだお金なのにお小遣いをもらって喜んでいます。
稼いでいるのはダンナさんなのに、
奥さんがなんであんなに力を持っているのか不思議ですよね」(P111)

「被差別者が苦しいのは「人間は平等だ」と思わなくてはいけないからです。
私が一番よくないと考える社会は「努力すれば、これだけできます」というものです。
努力すれば社長になれる社会は、
逆に言えば常に頑張っていないといけないですから、
そこに生きる人々にとっては非情に厳しい社会になります。
江戸時代の農民は努力しても武士にはなれなかったのですから、
これはこれで楽なのです」(P142)

「ですから一番楽なのは「全部神様が決めている」と考えることです」(P209)

「それともう一つ同じように楽なのが、
ニーチェではないけれども全部偶然でしたという考え方です」(P211)


「対談 生きる学校」(遠藤周作/文藝春秋)絶版

→遠藤周作と各界のスーパー成功者たちとの対談本。
成功者の態度はさまざまである。
努力で成功したと考えるもの、運がよかったと見るもの、結局は才能だと言い切るもの。
成功者の発言は、肩書ゆえに価値あるものとなる。
だったら、悪戯をしてみようじゃないか。
以下にどの成功者か名前を伏せて名言を抜粋してみることにする。

1「自信ができると心の中にとても余裕が生まれて、
宗教の言葉で諦観といいますが、なるようにしかならんわいと、
一生懸命やっておれば大丈夫なんだという気持ちが芽ばえてきたんです」(P34)

2「息子を亡くし、それから主人が先立ちまして、その時、
死別するということがどういうことか、深くわかりました。
それまで私は、物事は努力すればいつかは報われると思っていたんですね。
だけど、いくら努力してもだめなこともあるんだって初めて思いしらされました……」(P67)

3「いや、いくらお金があっても、時間がないとできません」(P77)

4「カンナを削れるようになるといったら大変なことです。
五年も六年もかかる。しかし、それだけかけても削れん者は削れませんよ。
やっぱり持って生まれた才能というのがあるんですよ。天性のものですね。
カンナの上手な者、ノミの上手な者というふうに」(P78)

5「時々思うんですが、本当に自分が満足できる作品を作り上げるには
自分の力だけじゃなくて、そこにもう一つ何か別の力が……」(P84)

6「やっぱり「好き」ってことしかないですね。
他につぶしがきかないってことも大きな原因かしら」(P93)

7「自分自身で納得のいく、悔いのない碁が打てれば
負けたっていいということだったんです。勝負より、悔いのない碁を打とうと」(P125)

8「いまでも家内に「お父さん、俳優やめたら何にもできないわねえ。
まァ坊さんだったらできるかもしれんけど」なんていわれますけど。
私は何にもできないんですよね。だもんですから、しようがなくて……」(P227)

9「(演技は)自然に見えさえすれば、どんな大きな芝居をしても、
何してもいいと思う。自然ということが一番大事じゃないかと思いますね」(P236)


一流の成功者たちのありがたい文言はどうでしたか?
もしおなじセリフをわたしが発したらどうなるか。そこらのホームレスでもいい。
1「人生はなるようになる」
2「努力してもダメなものはダメ」
3「のんびりやろう」
4「結局は才能よ」
5「努力だけではいけない」
6「好きなことだけしていたら」
7「負けてもいいよ」
8「わたしは無能です」
9「自然がいちばん」
ちっともありがたくないでしょう(笑)。なにをぬかせボケという話で。
人間は俗なるもので、どうしようもなく哀しくもいやしい。
言葉の意味は、発言者がだれかでころりと変わってしまう。
だから、成功者の真似をするというのはあまり意味がないのね。
というのも、上記の名言は失敗者の口から出てもまったくおかしくないのだから。
たとえば、わたしのような――。

すっきりしないでしょうから、最後に答えを書いておきます。
1=川上哲治 2=加藤シヅエ 3と4=中村外二 5=遠藤周作
6=山田五十鈴 7=坂田英男 8と9=笠智衆

(追記)いま気づいたけれど、万が一にも我輩が運よく大成功したら、
ブログ「本の山」全体がありがたいご託宣になるかいの、ワハハ!!!


「好奇心は永遠なり」(遠藤周作/講談社)絶版

→オカルトやインチキが大好きになった晩年の遠藤周作先生の対談集。
安酒をかっくらいながら読んだ古本屋ワゴン本であるけれども、とてもよかった。
非科学的なものにあこがれる遠藤先生のお気持がよくわかる。
現代社会の王座にいるのが科学。

たとえばタバコを吸ったら肺ガンになる。
たとえば10年、大量飲酒をしたらアル中になる。
たとえば自殺者の大半は鬱病患者で薬物治療が可能。
たとえば血圧やコレステロール値の高いものは早死する。
以上が現代の王者、科学様のご託宣。

科学が幅を利かすほど我われの生活はつまらなくなる。
科学など神話のようなものではないか。
要は信じるか信じないか、であろう。
ダーウィンやガリレオをあまり妄信なさるな。
人間の祖先はパンダでもいいし、地球は三角形でも構わない。
なにを主張したいのか。
あれだけ当時の社会から弾劾・攻撃され、
反面、現在は主流派となったダーウィンやガリレオでさえ、
いつかペテン師になる日が来ないとも限らない、と疑問視する姿勢を失いたくないのだ。

いまの科学はむかしの非科学。
ならば未来の科学から見たら、果たしていまの科学はどうなるか。
こういう視点がないと生きていて窮屈が過ぎる。
幽霊バンザイ、呪術バンザイ、不思議バンザイ!

「君は弥生人か縄文人か」(梅原猛・中上健次/集英社文庫)絶版

→「嫌いな作家はだれ?」という質問は相手の性格を知るうえで役立つ。
もうひとつ、お役立ち情報を。この質問も人間理解に有効よん。
「どの作家の愛読者が嫌い?」
「好き」よりも「嫌い」なものを問うほうが、よく人間性が現われると思う。
なぜなら人は好きなものでは見栄を張るが、嫌いは感情だからウソがつけない。
長い前置きになった。
わたしは中上健次の愛読者ほど嫌いな人種はいない。
大江健三郎の愛読者より嫌いと書いたら、
どれほど忌み嫌っているかわかるだろう(わかるわけねえだろ!)。
ちなみに中上、大江、両氏は決して嫌いではない。
どちらの作家もある時期、夢中になって読み込んだことがある。
だからこそ、愛読者が嫌いと断言できるのである。きみたち痛いよお。

くだらないことを書き連ねたのは、この本が悪い。
対談本だから仕方がないのだろうが、中身がすかすかなのね。
けれど、中上の信者は、こんな本でも聖典のように奉るのだから笑止。
引用しよう。

「梅原 今の作家で誰がいいですか、中上さん。
中上 今の作家で、誰もいませんねえ、ぼくしか(笑)」(P205)


( ゚д゚) ポカーン

あのう、質問していいですか?
中上先生の発言の最後に(笑)がついているけど、なにがおもしろいんですかね。
なんかおかしなことを、だれか言ったのでしょうか。
たまに「中上で文学が終わった」とかいう人がいます。
あれもお笑いですよね。中上で文学が終わった(笑)。……これもおもしろくありません。

ふう、まじめなことも書いておこう。読書というのはドミノ倒しのようなもの。
あるドミノを倒したら、つぎに倒れるべきドミノが生じる。
ある本を読んだら、つぎに読むべき本が決まる。

「梅原 柳田国男は日本民俗学を大成した学者であるというのはぼくは賛成だし、
明治以後の日本の学者の中で、確かに少なくとも、五指の中に入る、
後世に残る本当の学者の一人だと思うんです。
たくさんの人文科学の学者がいるけれど、多くは外国の思想を借りているわけで、
自分の足で立っていないんですよ。外国の思想家の足で立っている。
そういう中にあって、自分の足で立っている数少ない学者の一人が柳田国男で、
柳田国男の業績はすばらしい」(P92)


いま梅原猛がいいことを言った!
そうよね。ほとんどの学者って、外国の権威にすがりついているだけかも。
なんかすぐカタナならぬカタカナをふりまわすし。
ふんふん、柳田国男は偉大なのか。恥を告白するが、読んだことないんだオラ。
ずっと積ん読しておる。そろそろ年貢の納め時か。「遠野物語」くらい読むか。

「梅原 ちょうど自然主義の時代ですよね。
自然主義の田山花袋なんか、柳田はつまらんと思っていたにちがいない。
もっとそういう民話の中にすごい文学がある。
なかばあれは柳田の創作だと思うんですけれども。
『遠野物語』は、柳田が、小説をつくるつもりで書いたんじゃないかと、
ぼくは思うんですけれどね。
いまは民俗学ということになっちまったけども、あの当時、柳田は、
作家になろうか、学者になろうか、岐(わか)れ道に立っていた。
中上 そうですね。柳田国男の本が出たあとから遠野へ行って、
だれもこんな話知らないとか、
憶えてないとかいわれて帰ってきたという民俗学者がいましたね。
梅原 ……(笑)」(P104)


ふええ。「遠野物語」は創作小説なのか。読むのが楽しみじゃわい。
「老イテマスマス耄碌」(対談:吉行淳之介・山口瞳/新潮社)絶版

→最晩年の文士ふたりによる対談。
ここまで脱力した対談は読んだことがないので、逆に新鮮だった。
この対談が行なわれたのは両者ともに亡くなる直前である。
なんの生産的な話題も出てこない。
老いた文士の生活雑感はまったく噛み合うということがない。
ボケ老人のひとり言をふたりぶん収録したようなものである。
むろん、文学とはなんぞや、なんていうテーマは出ない。
生きるとは、もない。目前に迫った死を語ることもない。
どちらの老人もむかしを懐かしみ、現在の不如意(主に病気)を愚痴るのみ。
この非生産性が、酒をのみながら読むのにとても適していた。
対話はこんな感じである。ひとコマを抜き出してみる。

吉行「僕は、国民年金はないんだ」
山口「払ってないんでしょう」
吉行「払ってない」
山口「それは駄目。払ってない人は駄目。
だいいち、芸術院会員が年金がないなんて言っちゃいけない」
吉行「しまったなあと思ってる。こんなに生きるとは、全然思わなかったから」
山口「七十になるとバスが無料になるでしょ」
吉行「六十五じゃない?」(以下えんえんと内容のない会話が継続する。P144)


おもしろいのは飛躍である。年金の話から、突然バスに話題が移る。
吉行淳之介もなんなくこの転換についてゆく。
老人ならではのトボケぶりがたまらない。
内容のまったくない本がこうもおもしろいとは思わなかった。
日々実益ばかり追い求めているせいかもしれないと反省する。
「話を聞く技術!」(永江郎/新潮社)

→話すのが苦手なのである。だから、ひとの話を聞くしか道が残っていない。
なのに、聞くのも不得手なのだから。やむなくこのような実用書を入手したしだい。
実用書のはずが、残念ながらわたしには役立つところがほとんどなかった。
どういうことか。
わからないことがあったが、その回答および解決策が書かれていなかったということだ。
本書の内容はのほとんど有名人の自慢話なのでがっがりした。
わたしがわからないのはこういうことである。
話を聞く場合、話す側の都合と聞く側の都合、果たしてどちらが優先されるのか。
一部の例外をのぞいて、大多数の人間は話すことに快楽を感じるようである。
ならば、聞く側はじっとこらえて聞かなければならないのか。
話す側の都合を優先するならば、そういうことになる。
いっぽうで聞く側の都合を優先させていいならば、話す側の気分を害することも起こりうる。
相手が話したくないことを聞きたいと思ってしまう場合である。
自慢話や世間話はおもしろいものではない。
しかし、だからといって話し手のプライバシーを侵害してもいいのか。
もうひとつ。話し手が意図的にプライバシーを公開する場合がある。
聞き手は話し手とそこまで深く関与したくないとする。
このとき、それでも聞くべきなのかという問題である。
本書の回答者は、河合隼雄をのぞいて、聞く側の論理でしか語っていない。
いずれも取材のありかたを説いているに過ぎない。
要は自分のメリットしか考えていない利己主義者ばかりなのである。
どうやったら話し手から有益な情報が得られるか。これしか考えていない。
ビジネスだったらそれでいいのかもしれないが、人間関係はそれだけではないでしょう。
「話を聞く技術!」と名づけるならそちらにも対応してほしかった。
これでは「情報取得技術!」ではありませんか。

最後に、唯一話す側にも目を向けている河合隼雄のインタビューから抜粋する。

――心理療法で、クライアント(患者)の話を聞くことにはどんな意味がありますか。
河合「聞くことに始まって聞くことに終わる、と言ってもいいでしょうね。
相撲で言うでしょう? 「押さば押せ、引かば押せ」って。
それを真似してカウンセラーは、
「クライアントが話したら聞け、黙っていても聞け」って。
聞かないとだめですね。
――クライアントのすべてが話にあらわれる、ということですか。
河合「そういうことです。聞いていることによって出てくるんですよ。
帰りぎわに「こんなことを話すとは思いませんでした」と言う人が多い。
――話すことの重要性に気づかれたのはいつごろですか。
河合「早くからですね。いちばん初め、まだそういうことが分かっていないときは、
すぐ忠告したり助言したりしたわけです。
でもそんなことにはぜんぜん意味がない」
――意味ありませんか。
河合「ええ。言っても聞かないから。
そもそも忠告や助言で変わるような方は来られない。
誰かが忠告したり助言したりして、
それでも変わらない方が来られるわけですからね」
――(笑)。でも、新橋あたりで飲んでいるサラリーマンを見ると、
たいてい上司や先輩が若い者に忠告したり助言していますね。
河合「やっているでしょう? あれは上司の精神衛生に非常にいいんです。
――えっ。上司の精神衛生にですか。
河合「そう。聞いている方にはほとんど意味がありません。
あれは忠告を受けている方が上司の心を癒しているんです。
だから飲み代は上司や先輩が払うでしょう。カウンセリング料です、あれは」(P135)


このまえ生まれて初めて新橋でのんだけれども、周りの話がいかにもでおもしろかったな。
盗み聞きしながら、味わい深いものがあった。
「女はね男のレベルに応じて寄ってくるんだけど、おれのレベルは〜〜」
と大声で騒いでいるおっちゃんがいちばん印象的だった。
「いよっ、あんたが大将!」とこころのなかで呼びかけたものである。
「師弟対談/作法・無作法」(高橋義孝・山口瞳/集英社文庫)絶版

→高橋義孝、山口瞳、両氏への賞賛と批判を同時に行なう。
いまふうにいえば「生きかた上手」で売りだされたのがご両人のエッセイである。
通人を求めたわけである。すなわち、粋(いき)な生きかた。
おとなの格好のよさを追求したといっても、そう大きな間違いはしていないはずである。
両先生を象徴している指摘が本書にある。
エビとカニがダメというのである(175ページ)。
理由は――。
むしるのがめんどう(山口)。
手のなまぐさくなるのがいや(高橋)。
工場でアルバイトをしている気分になる(山口)。
味がない。冬は指先が冷たくなる(高橋)。
手がにおう(山口)。
そのくせ値だけは高い(高橋)。

まったく同感であります。テレビのグルメ番組で、
どうしてあれほどエビ・カニをありがたがっているのかわからない。
目玉が飛びでるほど高いでしょう。
あれはそれほどの価値のあるものなのか。
カニなんて食べるのはめんどうで、せっかく取りだしてもぱさぱさしている。
カニミソはたしかにいいかもしれないけれども、あれは珍味。
言ってしまえばゲテモノ喰いではないですか。そう自慢できるものではない。
エビも同様。それほど珍重するものとは思えない。

と、このように両先生に喝采を送るのが、ふつうの愛読者。
ここで、ちょっと待てよと思いたいのである。
たかがエビとカニではありませんか。俗物もはなはだしい。
エビがうまいの、カニがまずいの、それくらいしか悩むことはないのか。
エビが高かろうが、カニが安かろうが、どうでもいいことではないか。
人間の生死とは、まったく関係していない。
エビ・カニが高いくせにまずいだと? 
だから、どうした。あなたの人生はそのくらいしかないのか。
こう詰問したくもなるのである。
エビ・カニごときで必死になっている金持ちをあざ笑いたくなる。
人間はエビやカニのために生まれてきたわけではない。

また逆説を使うことをお許しください。
けれども、しかし、エビ・カニごときにむきになれる人間しか、
信じられないという思いもあるのです。
ゲージュツがどうの、ニッポンがこうのと騒いでいる人間は虫が好かない。
よほどエビやカニに夢中になっている人間のほうがいいと思う。
こうなってくると、なにがなんだかわからなくなる。
エビ・カニはいいから、人間は好きなのか、嫌いなのかと
わたしへ問いたくなるかたもいらっしゃるでしょう。
その通り! エビ・カニよりも人間である。
さて、高橋義孝、山口瞳、両氏は人間を好きだったのか。
少なくともエビやカニよりは。
ご両人、人間よりはエビ・カニをむさぼり食うのではないか。
それでも、ひとを食ったようなところのあるのが両先生の魅力である。