「老イテマスマス耄碌」(対談:吉行淳之介・山口瞳/新潮社)絶版

→最晩年の文士ふたりによる対談。
ここまで脱力した対談は読んだことがないので、逆に新鮮だった。
この対談が行なわれたのは両者ともに亡くなる直前である。
なんの生産的な話題も出てこない。
老いた文士の生活雑感はまったく噛み合うということがない。
ボケ老人のひとり言をふたりぶん収録したようなものである。
むろん、文学とはなんぞや、なんていうテーマは出ない。
生きるとは、もない。目前に迫った死を語ることもない。
どちらの老人もむかしを懐かしみ、現在の不如意(主に病気)を愚痴るのみ。
この非生産性が、酒をのみながら読むのにとても適していた。
対話はこんな感じである。ひとコマを抜き出してみる。

吉行「僕は、国民年金はないんだ」
山口「払ってないんでしょう」
吉行「払ってない」
山口「それは駄目。払ってない人は駄目。
だいいち、芸術院会員が年金がないなんて言っちゃいけない」
吉行「しまったなあと思ってる。こんなに生きるとは、全然思わなかったから」
山口「七十になるとバスが無料になるでしょ」
吉行「六十五じゃない?」(以下えんえんと内容のない会話が継続する。P144)


おもしろいのは飛躍である。年金の話から、突然バスに話題が移る。
吉行淳之介もなんなくこの転換についてゆく。
老人ならではのトボケぶりがたまらない。
内容のまったくない本がこうもおもしろいとは思わなかった。
日々実益ばかり追い求めているせいかもしれないと反省する。
「話を聞く技術!」(永江郎/新潮社)

→話すのが苦手なのである。だから、ひとの話を聞くしか道が残っていない。
なのに、聞くのも不得手なのだから。やむなくこのような実用書を入手したしだい。
実用書のはずが、残念ながらわたしには役立つところがほとんどなかった。
どういうことか。
わからないことがあったが、その回答および解決策が書かれていなかったということだ。
本書の内容はのほとんど有名人の自慢話なのでがっがりした。
わたしがわからないのはこういうことである。
話を聞く場合、話す側の都合と聞く側の都合、果たしてどちらが優先されるのか。
一部の例外をのぞいて、大多数の人間は話すことに快楽を感じるようである。
ならば、聞く側はじっとこらえて聞かなければならないのか。
話す側の都合を優先するならば、そういうことになる。
いっぽうで聞く側の都合を優先させていいならば、話す側の気分を害することも起こりうる。
相手が話したくないことを聞きたいと思ってしまう場合である。
自慢話や世間話はおもしろいものではない。
しかし、だからといって話し手のプライバシーを侵害してもいいのか。
もうひとつ。話し手が意図的にプライバシーを公開する場合がある。
聞き手は話し手とそこまで深く関与したくないとする。
このとき、それでも聞くべきなのかという問題である。
本書の回答者は、河合隼雄をのぞいて、聞く側の論理でしか語っていない。
いずれも取材のありかたを説いているに過ぎない。
要は自分のメリットしか考えていない利己主義者ばかりなのである。
どうやったら話し手から有益な情報が得られるか。これしか考えていない。
ビジネスだったらそれでいいのかもしれないが、人間関係はそれだけではないでしょう。
「話を聞く技術!」と名づけるならそちらにも対応してほしかった。
これでは「情報取得技術!」ではありませんか。

最後に、唯一話す側にも目を向けている河合隼雄のインタビューから抜粋する。

――心理療法で、クライアント(患者)の話を聞くことにはどんな意味がありますか。
河合「聞くことに始まって聞くことに終わる、と言ってもいいでしょうね。
相撲で言うでしょう? 「押さば押せ、引かば押せ」って。
それを真似してカウンセラーは、
「クライアントが話したら聞け、黙っていても聞け」って。
聞かないとだめですね。
――クライアントのすべてが話にあらわれる、ということですか。
河合「そういうことです。聞いていることによって出てくるんですよ。
帰りぎわに「こんなことを話すとは思いませんでした」と言う人が多い。
――話すことの重要性に気づかれたのはいつごろですか。
河合「早くからですね。いちばん初め、まだそういうことが分かっていないときは、
すぐ忠告したり助言したりしたわけです。
でもそんなことにはぜんぜん意味がない」
――意味ありませんか。
河合「ええ。言っても聞かないから。
そもそも忠告や助言で変わるような方は来られない。
誰かが忠告したり助言したりして、
それでも変わらない方が来られるわけですからね」
――(笑)。でも、新橋あたりで飲んでいるサラリーマンを見ると、
たいてい上司や先輩が若い者に忠告したり助言していますね。
河合「やっているでしょう? あれは上司の精神衛生に非常にいいんです。
――えっ。上司の精神衛生にですか。
河合「そう。聞いている方にはほとんど意味がありません。
あれは忠告を受けている方が上司の心を癒しているんです。
だから飲み代は上司や先輩が払うでしょう。カウンセリング料です、あれは」(P135)


このまえ生まれて初めて新橋でのんだけれども、周りの話がいかにもでおもしろかったな。
盗み聞きしながら、味わい深いものがあった。
「女はね男のレベルに応じて寄ってくるんだけど、おれのレベルは〜〜」
と大声で騒いでいるおっちゃんがいちばん印象的だった。
「いよっ、あんたが大将!」とこころのなかで呼びかけたものである。
「師弟対談/作法・無作法」(高橋義孝・山口瞳/集英社文庫)絶版

→高橋義孝、山口瞳、両氏への賞賛と批判を同時に行なう。
いまふうにいえば「生きかた上手」で売りだされたのがご両人のエッセイである。
通人を求めたわけである。すなわち、粋(いき)な生きかた。
おとなの格好のよさを追求したといっても、そう大きな間違いはしていないはずである。
両先生を象徴している指摘が本書にある。
エビとカニがダメというのである(175ページ)。
理由は――。
むしるのがめんどう(山口)。
手のなまぐさくなるのがいや(高橋)。
工場でアルバイトをしている気分になる(山口)。
味がない。冬は指先が冷たくなる(高橋)。
手がにおう(山口)。
そのくせ値だけは高い(高橋)。

まったく同感であります。テレビのグルメ番組で、
どうしてあれほどエビ・カニをありがたがっているのかわからない。
目玉が飛びでるほど高いでしょう。
あれはそれほどの価値のあるものなのか。
カニなんて食べるのはめんどうで、せっかく取りだしてもぱさぱさしている。
カニミソはたしかにいいかもしれないけれども、あれは珍味。
言ってしまえばゲテモノ喰いではないですか。そう自慢できるものではない。
エビも同様。それほど珍重するものとは思えない。

と、このように両先生に喝采を送るのが、ふつうの愛読者。
ここで、ちょっと待てよと思いたいのである。
たかがエビとカニではありませんか。俗物もはなはだしい。
エビがうまいの、カニがまずいの、それくらいしか悩むことはないのか。
エビが高かろうが、カニが安かろうが、どうでもいいことではないか。
人間の生死とは、まったく関係していない。
エビ・カニが高いくせにまずいだと? 
だから、どうした。あなたの人生はそのくらいしかないのか。
こう詰問したくもなるのである。
エビ・カニごときで必死になっている金持ちをあざ笑いたくなる。
人間はエビやカニのために生まれてきたわけではない。

また逆説を使うことをお許しください。
けれども、しかし、エビ・カニごときにむきになれる人間しか、
信じられないという思いもあるのです。
ゲージュツがどうの、ニッポンがこうのと騒いでいる人間は虫が好かない。
よほどエビやカニに夢中になっている人間のほうがいいと思う。
こうなってくると、なにがなんだかわからなくなる。
エビ・カニはいいから、人間は好きなのか、嫌いなのかと
わたしへ問いたくなるかたもいらっしゃるでしょう。
その通り! エビ・カニよりも人間である。
さて、高橋義孝、山口瞳、両氏は人間を好きだったのか。
少なくともエビやカニよりは。
ご両人、人間よりはエビ・カニをむさぼり食うのではないか。
それでも、ひとを食ったようなところのあるのが両先生の魅力である。
「狐狸庵が教える『対話術』」(遠藤周作/光文社文庫)絶版

→遠藤周作の愛読者というのが苦手である。
アマゾンなどでこの手の読者の感想文を読むと寒気がする。
いわく、神のやさしさを知りました。愛の重さがわかりました。人生が変わりました。

口を酸っぱくしていいたいことがある。
遠藤周作というのは、かなりやばい男だぞ(だからおもしろいのだが)。
新興宗教の教祖と似たようなものである。
この作家の活躍は幅広い。
素人劇団「樹座」、宇宙棋院、あたたかな医療を考える会――。
どれも共通しているのはじぶんがトップでなければ気がすまない。
ボスとして頂上に君臨するのがなによりも喜び。
不遜にもじぶんが他人を救えると考えている男。
大衆を教え導く役割がみずからにあると信じている男。
これがイエスをこよなく愛した日本人・遠藤周作である。

この対談集の相手はそうそうたるもの。
松坂慶子、赤尾敏、ビートたけし、正力亨、美空ひばり……。
これら有名人に遠藤先生とよばれながら対談をすることができる、
おのが身分を誇っているようないやらしさを随所から感じる。
いまの村上龍以上に嫌味な印象をひとによっては受けるかもしれない。

遠藤周作には、俗物の権化といった一面がある。
軽井沢と京都に別荘をもつ。
CMやテレビに何度も出演。
息子はフジテレビのプロデューサー。
そうとうな健啖家で味にもうるさい。
弟子をもちたがる。遠藤一派をつくってのし歩く。
仲間の文学者を改宗させて支配下に置く。
あらゆる文学賞を総なめ。文化勲章まで受賞している。
このあまりにも幸運な現世利益の数々はカトリックのおかげか。
創価学会を宗教ではないと見下すこのカトリック作家に聞いてみたかったものだ。
2005/10/23(日) 15:07:20

「こころの不思議、神の領域」(遠藤周作/PHP文庫)絶版

→対談集。対談内容、対談相手は下記のとおりです。

「至福をも超えた悟りの境地とは」(平田精耕=禅の権威)
「幅広い自己愛のベクトルをもつ」(小此木啓吾=フロイト学者)
「意識と無意識の間を探る」(林道義=ユング学者)
「自我を超えた何かを求める大胆な試み」(吉福伸逸=トランスパーソナル心理学者)
「宇宙は1つの生命体である」(野沢重雄=ハイポニカ研究家)

5、6年前、こういうニューサイエンス系にはまったことがあります。
精神世界、シンクロニシティ、自己実現、宇宙との一体化、潜在能力――。
それもまさに遠藤周作経由で。
恥ずかしい想い出のひとつというほかありません。
こういうのにどっぷりつかった経験があるからテレビニュースを見ても驚かないのです。
美女全裸教団がどうの、次世代ファームがどうの、
えーと、ほかには何がありましたっけ?

すべて自由がいけないのです。

日本の偽造された自由が。
何をしたらいいのかわからない。何をしてもいい、何をしなくてもいい。
どっかしら宿命を求めたくもなります。
使命感を。生命の燃焼を。偶然の一致(シンクロニシティ)を。
たとえ捏造されたものであれ……。

久しぶりにこの手の本を読んだら鼻につくことしきりでした。
遠藤周作の対談相手5人がそろいもそろって、わかってしまったようなことをいう。
たまらないね。えらそうで。あっかんべえです。
2005/06/28(火) 12:43:37

「加藤周一対話集〈第4巻〉ことばと芸術」(かもがわ出版)

→対話のお相手は以下。
桑原武夫、中村真一郎、針生一郎、吉田秀和、大町陽一郎、大岡昇平、
渡辺一夫 、小林秀雄、木下順二、野上弥生子、井上ひさし、武田泰淳、
一海知義、大野晋、渡辺守章。

対談対話は気楽に読み流せるところがよろしい。
さてさて。

小林秀雄はひどいやつだね

大家意識丸出しで加藤周一を格下扱いしているのが、なんとも。
「〜〜はどうですか」と話を振るのはきまって加藤周一のほう。
それを小林秀雄ときたらこう返す。
「僕はそれを読んだことがないからちょっと説明してくれないかな」
懇切丁寧に説明する加藤周一。
それを聞き終わって小林秀雄「それは違うと思うな」。理由は言わない。
こんな対話が何回も繰り返されるんだから。笑いがとまらなかった。

勉強になったのは木下順二との対話。
近代劇は個人対個人のドラマである。
が、ギリシア悲劇では、(個人は)もっと大きなものに対峙している。
個人の力ではどうにもならないものと向き合っている。
どうにもならないもの、それを運命と呼ぶか歴史と呼ぶか。
ふたりは対話をつづける。
ここで「歴史」ということばが加藤周一からでてきたのが新鮮だった。
個人のドラマがある。
それをいとも簡単に破壊できる大きなドラマ(=阪神大震災、イラク戦争など)。
歴史である。最近、なんでこうも世界史にひかれるのかわかったような気になった。
2005/06/13(月) 20:40:29

「インポケット 1985 10 特大号 <特別企画> 村上春樹 vs 村上龍」(講談社)

→「ウォーク・ドント・ラン」だけではなかったのね、このふたりの対談。
前回の対談とは異なり、どちらの作家も自信にあふれているのがなんともほほえましい。
対談の内容を要約すると「あんたは特別、だからおれ特別と言って」。
じぶんこんなに従来の作家と違うんです、おれもです、ぼくもです、の繰り返し。
どこがちがうかというとアメリカ万歳主義。
ふたりともアメリカが好きで好きでどうしようもないらしい。

これ単行本に収録されたことあるのかな。なければ貴重品かも。
内容はまったくおもしろくなかったけれども。
あ、これは春樹が「ノルウェイの森」を書くまえ。
だからまだ(比較的)マイナーな時期。
トリビア的な情報としては、あの大ベストセラー「ノルウェイの森」、
三浦哲郎「忍ぶ川」を意識して書かれたものらしい。
まったく似てないけどね、うーむ。
2005/05/22(日) 17:34:00

「歴史・科学・現代 加藤周一対談集」(平凡社)絶版

→対談相手は丸山真男、湯川秀樹、久野収、
渡辺一夫、西嶋定生、笠原芳光、白井浩司、サルトル。
これは世界史学習を見据えながら、サルトルも射程にいれての読書。
世界史を大づかみにとらえたいんです。
無数の事件の連続としてではなく。
たとえばそう、クリミア戦争なんていう名称はどうでもいい。
それが意味している、その背後にある、宗教的文化的事情を深いところでつかまえたい。
西洋史とはなんなのか。
東洋史は、太陽の西洋史に対する月のようなものなのか。
まえに加藤周一さんの日本文学史に関する講演の記録を読んで、
すんごいわかりやすかったから期待していたんだけど……。
対談相手が悪かったのかな。話し言葉なのにさっぱりわからない。

でもサルトルとの対談は大笑いした。
サルトルさん、あなた、おかしいって。
来日して2週間のサルトルに対談の冒頭、かるーくこう質問するわけ。
日本料理はどうでしたって。これ天気の話をするようなもんでしょ。
それに対する返答。

サルトル「ええ、もちろんその話をするのはやぶさかではありませんが、
ただそのかわり、あなたがたには私の疑問に答えてほしいのです。
(……) 日本で外国人旅行者が一番奇異に思う食べ物は刺身です。
フランスではレヴィ=ストロースという有名な社会学者がいて、
生物と焼物について著書を著わしていますが、……(延々と続く)」。

んで、結局、刺身がおいしかったのか、日本料理を気に入ったのかは最後まで言わない。
それをありがたそうに拝聴している加藤周一さんと白井浩司さんがいじらしくて……。
この対談が行なわれたのは1966年。
当時、サルトルは日本で神様みたいな存在だったのがよくわかる。
わたしだったら、わけわかんないこというまえに
刺身は好きか嫌いかと問い詰めるけど(笑)。

講釈はいらん、好きか嫌いか!

これはサルトルに限らず全哲学者に言いたいことなんです。
御託はもういい。
きみは人生が好きか嫌いか。生きるのか死ぬのか。
04/05/25 11:47

「反劇的人間」(安部公房とドナルド・キーン/中公新書)絶版

→対談本。対談にも良い悪いがあるのをご存知ですか。
Aがあることを言う。
このAの発言に刺激されて、Bは今まで考えてもいなかったことを言ってしまう。
いわばAに言わされる。
この繰り返しで、話が思いもよらなかったところに飛ぶ。
これが良い対談なわけである。

一方でこういう対談がある。
Aの発言とはまったく無関係に、以前からの主張をBが言う。
そのBの発言とは、なんの関係もなく次にAが話す。
こんなのは二冊の口述筆記本を交互に読んでいるのとかわりない。
悪い対談の典型である。
つまり芝居と同じということになる。
うまい俳優というものは、相手のセリフをよく聞くといわれている。

さて、この「反劇的人間」は、うーん、良い戯曲にはなっていなかった。
そうなのだ。良い対談とは良い戯曲と同義である。
04/04/22 07:47

「ウォーク・ドント・ラン」(村上龍 vs 村上春樹/講談社)絶版

→村上龍27歳、村上春樹30歳のときの対談本。
復刊ドットコムで復刊希望が出されるも作者が復刊をこばんだという伝説あり。
これを読んだらその理由がわかる。消したいよねこれは過去の汚点だから。
読書量&人生経験を身長にたとえたら、まわりがみんな背が高い(文壇!)なかで
チビのふたりが必死になって背を高く見せようとしている、そんな対談。
気のきいたことを言おう言おうとどちらも汗がでまくりなのがよくわかる。

僕、文芸誌なんて読んだことないです、僕もですその感性わかります……。
ふたりの話はまったくかみあわない。
どっちかが何かを言う、「それわかります」と引き取り、別の話をはじめるというループ。
この本をぜひ「13歳のハローワーク」「海辺のカフカ」を
手にしている中学生やOLに読んでいただきたい。

対談のはじめは「田舎者コンプレックス」の告白(龍も春樹も!)。
読みながら「痛いなぁ」と赤面したり吹き出したりもうたいへんなトンデモ本。
内容を一部紹介。
龍、僕小説を書けなくなったら貯めた印税があるから
ハワイで気楽にサーファー屋でもやろうかと思っているんです。
いまはアルマーニを着て美食をあさる龍。
僕ククレカレー毎日食べています、女房が食事を作ってくれないから、
でもククレカレーおいしいです、僕中産階級だから。
春樹、僕頭を下げるのって大嫌いなんです、だから作家になったのかもしれません。
春樹、誰とでも寝る女の子が大好きなんです、横にいると癒されるから。
これ以外にも笑えるところは数知れず。読むべき。龍や春樹の実像がよくわかるから。

読了して思ったこと。人間ってふしぎな生き物。
こんなありふれた兄(あん)ちゃんふたりも、本が売れてまわりから天才扱いされると、
ちゃんとそれに見合った演技をできるようになるんだなぁ……。
ブックオフ百円本。二冊持っているから誰かにプレゼントしたい。