「ハムレット」(シェイクスピア/福田恆存訳/新潮文庫)*再読

→数えてみたらこの「本の山」で「ハムレット」の感想を書くのはこれで6度目。
よし、今回は現代思想ふうに読んでみようじゃないか。
「ハムレット」をテクストとして読解する。
こちらのテクストにひきこんで、最大限にハムレットを誤読してみようと思う。

なぜ「ハムレット」を読んだのか。怖かったからである。
半年間文通をしていたメル友と会う直前に「ハムレット」を音読した。
ネットで知り合ったひととリアルで会うのは結構な勇気を必要とする。
とくに対人恐怖症に悩んでいるわたしはである。
ホレイショーはハムレットへ呼びかける。

「いけませぬ、ハムレット様。(……) 行ってはなりませぬ」

放せホレイショー。わたしは絶叫する。
ホレイショーのため息まじりの声を耳にしながらである。

「なにごとも天に委(まか)せるよりしかたはない」

待ち合わせの新宿へと「ハムレット」はわたしを叱咤(しった)する。
ハムレット気分のわたしを相手にしたかの人物はさぞ迷惑だったことと思う。

                    *

この経験を通して、「ハムレット」がいささかわかったような気がする。
ハムレットは観客ではなかろうか。
観客席にいた人間がいきなり予告もなしに舞台へあげられる。
父と名乗る亡霊から復讐を命じられる。
まいっちゃうよな〜が青年・ハムレットの感想である。
だが、自分はハムレットなのだから、どうにかして劇に仕立てなければならぬ。
どうすれば劇が発生するのかハムレットには皆目見当がつかぬ。
そのためあれこれとやってみる。どれも決定打にはならない。
うっかり憎んでもいないポローニアスを刺し殺してしまう。
かと思えば、イギリスへ追放される。
ハムレットには舞台上の事件が、さぞ不条理なものと感じられたのではないか。
ハムレットが覚醒するのは、5幕1場、墓場のシーンである。
王子はなにを悟ったのか。劇とは人間が作るものではない。
神と相談しながら、共同作業として造形するものなのだ。
墓場は死の象徴である。ここでハムレットは墓堀人と言葉を交わす。
30年前、ハムレット誕生時の挿話を墓堀人から聞かされる。
ハムレットが劇を了解した瞬間である。
人間は生まれ、そして死ぬ。
30年前に自分は生まれた。死ねばこの墓場に葬られる。なんのことはない。

生で開幕し、死で閉幕する。

たわいもない。劇とはこれであったか。
なにを迷っているのだ。言動はすでに決められていたのだ。
劇はもう完成しているのである。あとは台本どおりに芝居をすればいいのだ。
自由など、どこにもなかったのである。
生も死もままならぬ。ならば合間の劇が自由なはずがないではないか。
どうなるかはすべてもう決められているのである。
決定している。なにをしようが微塵(みじん)たりとも変えることはできぬ。
「ハムレット」のテクストは、ハムレットの存知せざる場所で完成しているのだ。
そうであったか。このときハムレットは、生まれて初めて自由を感得する。
いくら自分が自由にふるまおうと、それは宿命として決定されていることなのだ。
どこにも自由はない。森羅万象みなみな宿命である。
いや、いまこそ完全な自由を手にしているのだ。なにをしてもそれは宿命なのだから。
ままならぬ生と死にはさまれたハムレットが造物主と対峙した瞬間である。

                    *

ハムレットにならなければ、新宿へ行くこともかなわなかった意識過剰のわたしである。
この人生でだれと会うかは、もう決められているのだ。
それはがんばるつもりだが、成功するか失敗するかは、すでに決められている。
悪しき宿命論者とお笑いになるか。
すべてが決められているとあきらめたとき、ようやく演戯する余裕が生まれるのである。
演戯の自由はある。人間、それで充分ではないだろうか。
新宿からの帰途――。
そうか、これなのか。こういう台本だったのか。
大根役者のわたしだが、感動に打ち震えたことを告白する。

「つまりは、こうなろうか、
人の志と運命とはまったく相反して動き、
思い定めしことも、かならず覆(くつがえ)され、
思いは我がものなれど、結果はつねに手のとどかぬところに現われる」(P101)
テレビで「マクベス」を見る。
7月9日。NHK芸術劇場。ユーゴザパト劇場。
ロシアの劇団によるシェイクスピア上演である。
すばらしかった。
芸術劇場で演劇がとりあげられるときはたいがい見ている。
8割方は30分ほどで消す。むろん、つまらないからである。
やはり芝居はなまで見るものだ。テレビでは舞台の魅力は伝わらない。
こんな経験がある。
なまの舞台で見たものを後日テレビで視聴(山田太一「流星に捧げる」)。
以前の観劇体験がウソのように打たれるものがなかった。
あれはまえから2列目の良席で見たせいかもしれない。

今回の「マクベス」は約2時間20分を堪能した。
これをライブで見ていたらさぞかし……。実にいい芝居であった。
まず刈り込みがしっかりできている。
「マクベス」はシェイクスピア劇の中で、もっとも短い劇のひとつ。
それでも本で読むと(現代の観客からしたら)よぶんな部分の存在は否めない。
きれいにカットしていた(たとえばマクベス夫人、手紙朗読の場面)。
ストーリーラインが強調されていた。ストーリーがわかりやすくなっていた。
つまり、きちんとしたエンターテイメントになっていた。
字幕もよろしい。翻訳。おそらくあれはロシア語から訳したものと思われる。
重訳というやつである(シェイクスピアの英語→ロシア語→今回の日本語)。
研究者からしたら許せないことかもしれない。
だが、いちシェイクスピアファンとしては、かえってよかった。
どうしてもシェイクスピアのせりふはむずかしい。
邦訳もぱっと見ではわからぬ。それがロシア語を媒介とすることでどうだ。
たいへんわかりやすい日本語になっていた。
あそこはあのような意味だったのかと、今回初めて了解したところも少なくない。

「マクベス」について語りたい。何度でも語りたいのである。
この劇は読書で10数回。観劇経験は3回。映画で2回鑑賞している(レンタルビデオ)。
舞台の「マクベス」を見るのは何年ぶりか。
どうしても活字ではわからぬことに思い当たった。
マクベスの人生である。マクベスは一夜で生涯を激変させている。
いうまでもなくダンカン王を殺害したあの一夜である。
マクベスはいわば大企業のエリートサラリーマン。
あのまま忠勤を継続すれば一生の安泰が約束されていた。
そのマクベスが――。あれは社長になろうとしたのか。
マクベスはいわば新進気鋭の若手政治家。
あのまま忠勤を継続すれば一生の栄誉が約束されていた。
そのマクベスが――。あれは総理大臣に、いや天皇になろうとしたというべきか。

青年が「マクベス」を見る。
いつか自分にもあのような一夜が訪れるかもしれぬと夢想する。人生を一変させる晩。
そのときどうするか。天下をめざすか。安泰をよしとするか。
青年のマクベス観である。
老年が「マクベス」を見る。
自分にもあのような一瞬があったことを思いだす。
もしあのとき冒険していればと思う。いまのような状況ではなかったかもしれない。
だが、と否定する。所詮、マクベスさえも謀反に遭い、悪漢として殺されたのである。
天下一より長命がよろしい。おのが人生を肯定する。
老年のマクベス観である。

マクベスは一夜にして、人生を激変させた。
人生はこんなものではない。こんな退屈なものではない。
やろうと思えば、どうにでもなる。タイミングをまちがえなければ。
「マクベス」劇の教訓である。
どうやってマクベスはおのれを乗り越えたのか。
みなさまがいちばん興味のあるところだろう。わたしも知りたいところ。
名将マクベスはなにゆえに名声誉れ高きダンカン王を殺したのか。
殺すことに成功したのか、といったほうが正確か。
あの一夜である。チャンスはあの一夜しかなかったのである。
尊敬を集める偉人が我が家に泊まるのは今日だけ。
殺すなら今晩しかない。殺人の是非など、問うものか。
戦争での殺人は英雄。日常での殺人は犯罪者。こんなものである。
あのダンカン王を殺せば、至上の大権を手に入れることができる。人生を変えうる。

マクベスはみなさまとおなじよう(わたしとおなじよう)常識人である。
そのマクベスがどうして善王として名高きダンカン王を殺したのか。
いかようにしてマクベスは日常を棄て去ったのか。非日常への参入を果たしたのか。
今回の舞台で視覚から理解した。
マクベス劇的行動の理由は以下の3点。
魔女の予言(励まし)。
配偶者の提言(そそのかし、誘惑、アドバイス)。
そして酒である。
予言は占いのようにいつの時代もあてにならぬもの。
とすれば、もとをたどると酒になるのか。
マクベスにダンカン王殺害を迫る夫人の言葉から。福田恆存訳。

「二人を酔わせた酒が、私を強くした。
それで二人は静かになったが、私の心は火と燃える」(P36 新潮文庫)


マクベスは夫人のすすめで謀反を起こした。人生を変えた。
そのマクベス夫人を変えたものといえば、酒である。
マクベスは酒(をのんだ夫人)のせいで劇を余儀なくされた。
なら、こう主張するしかないではないか。
酒だ。酒しかない。酒をのもう。酒をのませよう。人生を変えよう。変えてしまえ。
ハムレットはいう。「言葉だ、言葉、言葉」
わたしはいう。「酒だ、酒、酒」
「ハムレット」(シェイクスピア/福田恆存訳/新潮文庫)*再読

→落ち込んだときは、決まって「ハムレット」を読む。音読する。
「ハムレット」は、あきらめる劇である。
自由が宿命のまえに敗れ去る構造になっている。
王子ハムレットは自由闊達に行動する。かれは自由の限界を推し量る。
宿命に到達するのは劇の終盤。
ハムレットは親友のホレイショーにあきらめの境地を告白する。

「一羽の雀(すずめ)が落ちるのも神の摂理。
来るべきものは、いま来なくても、いずれは来る――いま来ればあとには来ない
――あとに来なければ、いま来るだけのこと――肝腎なのは覚悟だ。
いつ死んだらいいか、そんなことは考えてみたところで、誰にもわかりはすまい。
所詮、あなたまかせさ」(P185)


                    *

自由律俳人・種田山頭火のことを語りたい。
この俳人には無二の親友がいた。木村緑平である。
職業は炭鉱の医者。山頭火とおなじく俳句誌「層雲」の同人。
木村緑平は乞食(こつじき)の俳人である山頭火を精神的・財政的に支えつづけた。
山頭火は大学ノートに日記をつけていた。
1冊終わると、かならずこの木村緑平宅へ郵送していたという。
山頭火全集のもとになっているのはこの日記である。
山頭火は俳号。本名は種田正一。
いわば種田正一は、山頭火の演技をしていたということになる。
そのとき必要だったのが木村緑平なのだ。
かの放浪俳人は、種田正一を山頭火と認めてくれるひとを欲した。
山頭火の劇(生涯)をしかと見守ってくれるひとの存在を求めた。
これはハムレットとホレイショーの関係とおなじである。
ハムレット=山頭火、ホレイショー=木村緑平。
木村緑平のあたたかな視線があったから、山頭火はおのが劇を完遂することができた。
ハムレットも同様である。ホレイショーは決してハムレットを非難することがない。

                    *

あるひとからいわれた。
「あなたのハムレットを書いたらどうですか」
ハムレットは、あきらめの劇である。あきらめろということか。
そのような深い思惑があっての意見ではないのはわかっているのだが、
ついおかしなことを考えてしまう。
ハムレットは思索する。ハムレットは行動する。
その結果としてのあきらめをこの王子は抱く。
わたしにはまだ思索や行動が足らないのだろうか。「ハムレット」を書くことができぬ。
「ハムレット」(シェイクスピア/木下順二訳/講談社文庫)絶版

→人生を劇にたとえる。
さしてめずらしい思想ではないが、もう少しおつきあいを。
この人生という劇はなにをもって終幕となるか。死である。
とすると、劇的な生きかたとは、常に死を意識した演戯にほかならぬ。
なるほどハムレットをみてみよう。かれほど死にとりつかれた男はいない。
最初の登場からして異常である。ひとり喪服の男、かれこそこの劇の主役ハムレット王子。
なにゆえ喪服か。ハムレットただひとり死を忘れていない。かれはひたぶるに亡父を思う。
ハムレット以外がそろいにそろって死んだ先王を忘れているのとはあまりに対照的だ。
かれらとて言い分はある。祖国デンマークは敵国に囲まれている。
いつまでも先王の思い出にひたっているわけにはいかぬ。
一刻も早く日常へ帰参しなければならない。日常とは死を忘れ去ることで成立する。

ハムレット劇の世界を図式的に明示するならこうなる。
白紙中央に縦線を引く。片方に「生」と書き、もう一方のがわに「死」と記す。
劇の冒頭、「死」のがわにいるのはハムレットだけである。
残りは全員、「生」の領域にいる。めいめいおのが場に点在している。
ひとり「死」を生きるのがハムレット。
「死」を生きるとは、なんとも矛盾した表現だが、こういうのがもっとも適当である。
ハムレットは常に劇を意識している。劇を意識するとは、間近な死の認識にほかならぬ。
喪服のハムレット王子は苦悩する青年でもある。
どうして人間はみなおのがくだらぬ生に気づかないのか。
死なないと思っているからである。
明日も1ヵ月後も1年後も、じぶんは生きていると信じているがためだ。
ハムレットはありきたりな日常を否定する。劇を求める。閉幕を意識する。
死を常時、視座に入れる。だから、ハムレットは先王の亡霊をみるのである。
この死に魅せられた王子のみが亡霊の声を聞くことができる秘密もここにある。

先刻、描いた図を思いだしてほしい。「生」と「死」を区分した。
ハムレット劇の激流は「生」から「死」へと向かう。
まずポローニアスが。つぎに娘のオフィーリアが死ぬ。
終幕直前、あたかもなだれのような亡者の行進ができるのはみなの知るところである。
さて、どこでハムレットは「死」を超越したかに注目したい。
「死」のがわにいながらそれでもハムレットは生きていた。「死」を生きていた。
墓場のシーンでハムレットは豹変する。これを成長というのかどうかはわからぬ。
だが、ここでハムレットがあるあきらめを持ったことだけは確かである。
異臭を放つ頭蓋骨を片手にハムレットは友人ホレイショーに語る。

「さあ、ご婦人がたの部屋へ行って、こう申し上げてこい、
おしろいを一インチお塗りになっても、結局、こんな顔になるんですよ」(P216)


ここにおいて、とうとうハムレットは「生」を完全否定するにいたる。
王子は髑髏(どくろ)をにらみ嘆息する。なにもかもむなしい。
いくら化粧をしようが死ねばこんなもの。名誉もおなじである。
王だろうが、金持ちの貴族だろうが、死ねばだれもかれも味気ないもの。
ハムレット劇で「死」が「生」を圧倒した瞬間である。
そうなのである。ハムレット劇の葛藤とは「生」と「死」の衝突にほかならぬ。
ハムレットのもっとも有名なせりふは象徴的である(「To be, or not to be」
されこうべを手にしたこの瞬間にハムレットは「生」にめざめたといってよい。
ここにおいてハムレットの「生」は劇中はじめての横溢(おういつ)をみせる。
「死」を御することによってハムレットの「生」が輝きはじめる。
ここからもうハムレットは迷うことがない。王子はおのが人生を手に入れた。
「生」と「死」の分裂は解消し、ハムレット劇は完成する。
我われはハムレットの死を見送り、めいめいの生に立ち還る――。
「オセロー」(シェイクスピア/松岡和子訳/ちくま文庫)

→オセロー将軍の声が聞こえる。

人間てえのはなんだ?

くだらねえ。まったく、くだらねえ。
おまえらそれでも生きているつもりか。
うまいものを食いたい。いい女と寝たい。いい男をつかまえたい。
金がほしい。長生きしたい。無事これ名馬かい。
なにより肝腎なのは健康。命が大事。ひとつの命は地球より重い。
冗談じゃねえ。生きてるってこたあ、そういうこっちゃない。
人間はそんな安っぽいもんじゃねえ。
もっとなにかあると思えないのかよ。もっとなにかある。ぜったいにある。
命なんか捨ててもいいと思えるような情熱だって人間は抱くことができる。
平凡な人生なんてぶっ壊しちまえ。もっと生きてみろ。おれを見ろ。オセローを見ろ!

……ふう。恋愛ドラマというのは男女がむすばれたところで終わる。
凡俗なテレビドラマのみならず、シェイクスピア喜劇でもこの形式はかわらない。
結婚したらもう終わりである。夫婦双方、相手に熱い思いを感じることはない。
オセローはそれが不満であった。
劇の冒頭、オセローとデズデモーナの結婚がおおやけになる。
喜劇ならここで終わりである。ところがオセローはここから劇を起こす。
オセローは人生に不満なのである。かれはもっと激しい恋愛感情を生きたいのだ。
もっと女を愛したい。この将軍は過剰な愛をもてあましている。
かれが体内の愛を完全に放出したとき、オセロー劇は終幕することになる。

オセローはキプロス島への赴任を命じられる。
ところが突然の嵐。この新婚夫婦はさっそく離ればなれになる。
お互いの生死もわからぬところに、キプロス島での再会である。
なんとも劇的というほかない。オセローはこれに味をしめた。
もっと愛を感じたいと思った。だからイアゴーの讒言(ざんげん)を信じた。
デズデモーナが浮気をしているという、ありもしない妄想を抱くようになる。
オセローがイアゴーの虚言を信じたのは愚かであったためではない。愛情過多ゆえ。
オセローは妻のデズデモーナを愛したかった。だが、もう結婚している。
これ以上は愛しようがない。がために嫉妬したのである。
平凡な結婚生活を送ることにオセローはたえられなかった。
イアゴーの口車に乗せられオセローは妄想する。
愛する妻が部下全員の慰み者になっている光景をである。
オセローは嫉妬のあまり卒倒する。妻を殺そうと決意する。
しかしこのときほどオセローが妻に肉欲を感じた瞬間はなかったのではないか。
貞淑な若妻より、淫乱な人妻のほうがオセローの情欲をかきたてるのである。
それならばデズデモーナは多情でなければならない。
そう考えて妻の殺害を実行するオセローを果たして笑えるか。

劇場をでた我われはオセローの愚鈍にやりきれなさをおぼえている。
けれども、どこかでかれら夫婦がうらやましくはないだろうか。
あそこまで深く妻を愛してみたい。デズデモーナのごとく愛されてみたい。
そういう欲望がほんとうにないといえるか。
オセローの勝ち誇った笑いが聞こえてこないと断言できるか。
かれはいう。おれは生きた。真に生きた。それに比べておまえらはどうだ?
2005/09/30(金) 20:12:32

「シェイクスピアに学ぶ老いの知恵」(小田島雄志/幻冬舎文庫)

→これで小田島雄志のエッセイも7冊目。
感想。ネタの使いまわしが多すぎる。おなじネタを3、4回は読まされた。
この最後のエッセイにいたっては、読んだことのないネタはもうないくらいである。
さぞかし「豊かな人生」を送ってこられたのかと想像する。
シェイクスピアによって鍛えられた小田島雄志先生の人生観に耳を傾けてみましょう。

「心が傷つくことを恐れては、癒しどころか人間のほんとうの温かみもわからない。
それは人間として、とても不幸なことなのだ」(P121)
*小田島先生ほど人間の温かみがわかる御仁(ごじん)はおられないでしょう(苦笑)。
まさしくシェイクスピアを研究したものならではの独創的な人生観!

「悲しみや苦しみを知らない人は、ほんとうに苦しんでいる人をどんなに思いやろう
としても、その気持ちを十分に理解することはできない」(P124)
*小田島先生はシベリア抑留経験や広島被爆体験でもあるのでしょうか。
でしたらエッセイに書いてくださればもっと読者は楽しめたでしょうに。
先生は、全人類の悲しみや苦しみを経験なさったようなことをおっしゃる。

「結局、自殺しようとしている人間は、生きるか死ぬかという二者択一を迫られている
のではなく、単にすべてを放棄しようとしているだけではないか」(P193)
*まるで中学生のような人生観と思うのはわたしだけでしょうか。
シェイクスピア劇で自殺を選択する登場人物みんなにそういっておやりなさい。
オセローを負け犬とあざわらうとは。
たいそうすてきな人生観、シェイクスピア観でございますこと!

小田島雄志。エッセイストとしては0点。不可。赤点。
人間としての小田島雄志も凡庸極まりない。
ありきたりの処世訓を、さもシェイクスピアから学んだかのように捏造する凡人。
これが小田島雄志という男の正体ではないでしょうか。
2005/09/30(金) 19:34:25

「シェイクスピア劇のヒーローたち」(小田島雄志/日本放送出版協会)絶版

→NHKテレビ講座のテキストを書籍化したもの。
小田島雄志のシェイクスピア観は単純明快、実にわかりやすい。
ほかのところでも何度もおなじことを繰り返している。
シェイクスピア劇に一貫するテーマは――。

「人生には幸福と不幸があり、人間には表と裏がある」(P12)

シェイクスピア全37作品を翻訳した東大名誉教授の結論です。
この教材は読者をシェイクスピア劇になじませることを目的とする。
そのためハムレットやマクベスを近所に住む友人のごとく取り扱う。
オフィーリアもマクベス夫人もわたしたちのそばにいるのだと著者はつづける。
つまり、シェイクスピア劇内の人物をわれわれの生活圏内に強引にひきずりおろす。
親近感をもってもらいたいがためらしい。
著者は一心にシェイクスピア劇をすすめる。
なぜならシェイクスピアはわたしたちの人生を豊かにしてくれるからだという。

さて、シェイクスピアのおかげでどれだけ小田島先生の人生が豊かになったのかは、
次に感想を書く先生のエッセイで検証してみたいです。
2005/09/30(金) 19:07:53

「シェイクスピアのソネット」(小田島雄志・訳、山本容子・画/文藝春秋)絶版

→結論としてはこういうことかな。
演劇評論家としての小田島雄志は最低。英文学者としての小田島雄志は三流。
翻訳家としての小田島雄志は超一流。エッセイストとしての評価は後述。

シェイクスピアのソネット(14行詩)はまえに岩波文庫で読んだことがある。
退屈で読み通すのが苦痛だったのをよく覚えている。
何度も投げ捨てたくなるのをぐっとこらえて、なかば義務としていやいや読んだ。
それがどうだ。さすが小田島雄志というほかない。
ソネットがおもしろく読めるのである。
シェイクスピアというひとりの生活人を身近に感じることができる。
シェイクスピアのうめきがソネットからたしかに聞こえてくる。
これはたいへんな恋愛トラブルを経験しなければ書くことができるものではない。
なかには思わず声にだして朗詠したものもある。
翻訳しだいでこうも感想が変わるものなのかと驚いている。
2005/09/30(金) 18:31:55

「小田島雄志の芝居遊歩」(小田島雄志/白水社)絶版

→毎日新聞に1989〜1991年の3年間連載された芝居コラム。
福田恆存の劇評集「せりふと動き」が終始一貫して辛口だったのに対し、こちらは甘口。
砂糖を入れるにもほどがあると怒鳴りたくなるような出来合い。
なにしろ小田島雄志はひとつとして批判しようとしない。ぜんぶほめあげるのだから。

問題は演劇界への向き合い方にある。
むかしもいまも部外者を寄せつけぬ演劇界というものがあるのだ。
芝居に一度行けばわかる。演劇界の存在をいやというほど意識させられる。
チラシを見る。なんで演出家があんなにえらそうにコメントしているのか。
観客は演出家の助けを借りなければ戯曲ひとつ読めないと思っているかの口ぶりである。
舞台を見てみよう。なんと楽しそうに役者が遊んでいることか。
観客にできるのは役者から笑わされること。それと最後の拍手くらいか。

いやおうもなく 主役は俳優のほうで、観客は脇役 であることに
気づかされる。

とすると 芝居を観にいくのは敗北 にほかならないことになる。

まず演出家さまの知性と感性に感服し、つぎは役者さまの魅力に平伏するのだから。

こういう演劇はいけないと言ったのが福田恆存である。
福田恆存は演劇界を外部から批判した。役者とのつきあいになど関心を持たなかった。
一方、小田島雄志はこう考えた。東大教授のこの身。
観客として役者どもの遊びにつきあわされるのはプライドが許さない。
しかし演劇界の内部に入ってしまえば話はちがう。
こうして劇作家、演出家、役者、プロ野球選手と日夜飲み歩く、
東大教授・小田島雄志ができあがったわけである。
2005/09/30(金) 17:55:48

「シェイクスピアより愛をこめて」(小田島雄志/晶文社)絶版
「珈琲店のシェイクスピア」(小田島雄志/晶文社)絶版
「シェイクスピアの花咲く頃」(小田島雄志/晶文社)絶版
「ハムレットと乾杯!」(小田島雄志/晶文社)


→ 小田島雄志の法則というものがある。

わたしが発見したもので普遍性はない。
どういう発見かというと、小田島雄志が訳した戯曲には傑作が多い!
翻訳がつまらない原作を名作にするということはありそうもないからたぶん偶然。
だけど、訳者が小田島雄志だと読むまえに胸おどるのも事実。
ともかくわたしがいちばんお世話になっている翻訳者は数えるまでもなく、
小田島雄志東大名誉教授であることはほぼ間違いないのです。

今回、感謝を込めてかれのエッセイを一気に読んだ。
戯曲情報は入手するのがむずかしいから、そういう情報の入手も目的のひとつ。
だけど、あはは。読んでいるうちに福田恆存のことばを思い出した。
――小田島雄志を東大教授にしているのは税金の無駄使いだ。
――こんな男に英語を教えられる学生はかわいそうだ。
「演劇入門」という福田恆存の本に書いてあったことです。

この4冊のエッセイで小田島雄志が書いているのは役者仲間との馴れ合いのみ。
有名な役者のだれそれと飲んだ。演出家のあいつとも飲んだ。
若手人気女優のあれに挨拶されたのでこんな助言をした。そんなことばかり。
ペンを片手に読んだのだが、まともな演劇論、文学論は皆無。
その中からなんとかピックアップしたものが以下。これへの感想は後述します。

「まず舞台のおもしろさとは、もう少し具体的に言うとなにか。
ぼくにとってそれは、人間とはこのような存在であったかという発見、
ないし再発見にほかならない。台詞の一言半句でもいい、役者の一挙手一投足でもいい、
そこに人間のある真実が開示されてあれば、目を開かれる思いがし、
あるいは忘れていた大切ななにかをあらためて思い出させてくれるものであれば、
その発見の喜びはほとんどそのまま劇的体験となる」(P12「愛をこめて」)

「ぼくはつねづね、劇作品をふくめて文学の魅力とは、
人間ってみんなおんなじだなあという感慨と、
人間ってみんなちがうんだなあという発見の、
矛盾しあう想像的体験にあると思っている。
前者のために慰められ、後者のために励まされるわけである」(P253「花咲く頃」)