ひとつまえの記事でハムレットの感想文を書いた。
また福田恆存にやられたか。
いま調べてみたらどうやら原文に「どうともなれ」はないような気もする。
いちおう原文は以下である。

O, that this too too solid flesh would melt,
Thaw and resolve itself into a dew!
Or that the Everlasting had not fix'd
His canon 'gainst self-slaughter! O God! God!
How weary, stale, flat and unprofitable,
Seem to me all the uses of this world!
Fie on't! ah fie!


福田恆存訳
「ああ、この穢(けが)らわしい体、どろどろに溶けて露になってしまえばよいのに。
せめて自殺を大罪とする神の掟(おきて)さえなければ。
ああ、どうしたらいいのだ、
この世の営みいっさいが、つくづく厭(いや)になった。
わずらわしい、味気ない、すべてかいなしだ!
ええい、どうともなれ」


木下順二訳
「ああ、この汚れに汚れた肉体よ、溶けて流れて露になってしまってくれ。
せめてあの永遠なる神が、自殺を禁じる
掟をきめずにおいてくれたら。ああ神よ、神よ、
何とわずらわしく色あせて味気なく無益に
この世の営みのすべてが見えることだ!
いやだ、ああいやだ」


小田島雄志訳
「ああ、このあまりに硬い肉体が
崩れ溶けて露と消えてはくれぬものか!
せめて自殺を罪と禁じたもう
神の掟がなければ。ああ、どうすればいい!
おれにはこの世のいとなみのいっさいが
わずらわしい、退屈な、むだなこととしか見えぬ。
いやだいやだ!」


松岡和子訳
「ああ、堅い堅いこの体、いっそ溶けて
崩れ露になってしまえばいい。
せめて全能の神の厳しいおきてが
自殺を禁じていなければ。ああ、神よ、神よ!
この世のいとなみの一切が
退屈で、陳腐で、凡庸で、無駄に思えてならない!
ああ、厭(いや)だ厭だ」


河合祥一郎訳
「ああ、この固い、あまりに固い肉体が、
溶けて崩れ、露と流れてくれぬものか。
せめて永遠の神の掟が、自殺を禁じたもうことがなければ。
ああ、神よ!神よ! この世のあらゆるものが、
この俺にはんんと疎(うと)ましく、腐った、つまらぬ、
くだらないものに見えることか!
許せん、ああ、許せない」


坪内逍遥訳
「おゝ、此(この)硬き豪(こは)き肉が、何とて溶け融解(とろ)けて露ともならぬぞ!
せめて自殺を大罪とする神の掟がなくばなァ!
おゝ! おゝ!
現世一切の業務(いとなみ)が悉(ことごと)く
厭(いと)はしうも、あさましうも、あぢけなうも、無益(むやく)しうも思はれるゝわい!
ちえッ、あさましい!」


おそらく原文の「O God! God!」をどう訳すかが問題なのだろう。
たぶん福田恆存訳の「ええい、どうともなれ」は、
多少順番を入れ替えての「O God! God!」の意味合いが入っている気がする。
ゴッドの劇を味わいたいと思ったのがハムレットという劇解釈がそこにはきっとある。
福田恆存はおかしな人だったのだろう。
わたしは「ハムレット」を読むなら福田恆存訳がいちばん好きだ。
観る(聴く)なら福田の秘書をしていたこともあるという松岡和子訳かな。
「正しい」ものよりも「おもしろい」ほうをわたしは好む。
「ハムレット」(シェイクスピア/福田恆存訳/新潮文庫)*再読

→ふたつの選択肢があるといえばあるのだろう。
安定は幸福か? 平和は幸福か?
なにごともなく平和に生きていければそれでいいのか? それだけでいいのか?
人間というものは劇を求めるものではないか? カッカしたいと思うものではないか?
食えていければそれだけでいいのか? もっと熱いものを求めたくはならないか?
こんなことを書いているわたしだが、
いまは四十男で、平穏無事の価値も知っているつもりだ。
しかし、ある女性からあおられる。我慢ばかりしていていいのか? 
なぜ本当のことを言わない。勇気がないのね。口だけなのね。
まるで山田太一ドラマじゃないかと思った。
わたしだってもう四十だし、多少は世間を知っているつもりで、
やたらめったら問題を起こしたいわけではない。
まあ、とりあえず1日がなにごともなく終わり、
家に帰って酒でも飲めればそれでOKみたいな怠惰な精神がないわけではない。
そこをガツンとやられるわけだ。それでいいの? 
本当は職場のSのことをいやなのではないか? いやなら行動に移すべきではないか?
自分の吐いた言葉に追い込まれるように行動せざるを得なく、
結果としていま職場でまずい立場にいるが、
これが劇的に生きるということなのかもしれない。明日会社に行くのが怖いよ~。

ハムレットは迷惑な男なのである。
ハムレットが世間を知っていれば劇のようなものは起こらないのである。
というのも、ハムレットは世間的価値観からしたら幸福なのだから。
まず食うに困っていない。身分は王子さま。次の王さまの身分も約束されている。
美しい恋人のオフィーリアもいて、これは解釈のわかれるところらしいが、
どうやらハムレットオフィーリアのけがれなき肉体を思うがままにもてあそんだようだ。
孤独というわけではなくホレイショーという親友がいる。
だったら、いまのままでいいではないか。そのままでも十分に幸福だろう。
恋人がいて親友がいて、地位も身分もありおそらく莫大な財産さえも有している。
しかし、それでもまだ現状に満足しないハムレットは劇を求める。
劇的なことを味わいたいという人間として生まれた根本の欲望に向き合うのである。
もっと生き生きしたい。もっとカッカしたい。もっとヒリヒリした生を味わいたい。
ハムレットの周囲の人間はだれもそんなことを考えていないので困惑してしまう。
ハムレットのまわりにいるのは世間的価値観からいえば善人ばかりなのである。
みんながみんなハムレットのことを心配して、
この悩める青年をまともな方向に引き戻したいと願っている。平和を求めている。
だが、ハムレットは劇を求めて、生きる昂揚や興奮を求めて、
放っておけば万事うまくいくものすべてをメチャクチャに破壊してしまう。
自殺願望(希死念慮)のあるハムレットは味気ないと思う。
恋人がいても味気ない。親友がいても味気ない。地位や身分があっても味気ない。
財産があって一生食うに困らない身分でも、
いやそういう身分だからこそもっと人生に烈しい味わいを求めてしまう。
食って寝ててきとうにテレビやネットでも見て、笑って、それだけでいいのか?
せっかく生まれてきたのだから、もっと烈しい喜怒哀楽、劇的昂揚を味わいたい。
味気ない人生にはうんざり。
もっと烈しいもの、喜怒哀楽、劇的昂揚――いうなれば不幸を身体全体で味わいたい。
シェイクスピアの「ハムレット」はわたしの原点でいちばん多く読み返した作品。
2017年2月「ハムレット」を再読して、ハムレットのやばさはここにあると気づく。
希死念慮、離人症、人格障害的悪魔性をもつハムレット王子はいう。

「ああ、この穢(けが)らわしい体、どろどろに溶けて露になってしまえばよいのに。
せめて自殺を大罪とする神の掟(おきて)さえなければ。
ああ、どうしたらいいのだ、
この世の営みいっさいが、つくづく厭(いや)になった。
わずらわしい、味気ない、すべてかいなしだ!
ええい、どうともなれ」(P22)


みんながみんなとりあえず平和に生きていければいい、
食っていければ万々歳じゃないかというところに、
ハムレットのような男が現われたら迷惑千万なのである。
ハムレットは味気ないというが、それが生活をするということだろう。
みんなそんなかんたんに死ねないから、
わずらわしいこの世の営みをいやいやながら繰り返しているのではないか。
それを「ええい、どうともなれ」とぶち壊そうとするハムレットはなんとはた迷惑で、
同時に彼こそ古今東西の観客および読者を魅惑してきた悪魔的劇人なのである。
それをいっちゃあ、おしめえよをハムレットは劇冒頭で口にしている。
味気ない。つまらない。人生なんにもない。

「ええい、どうともなれ」

「シェイクスピアのたくらみ」(喜志哲雄/岩波新書)

→「ハムレット」や「マクベス」のどこがすごいのか?
わたしの言葉でいうなら、こうなる。ハムレットやマクベスは――。
おのれが役者に過ぎず実のところ台本があるのではないかというところまで
演戯を続けるうちに気がついてしまったところである。
いや、気がついてはいないのだろうが、台本や観客の存在に迫る寸前までいっている。

役者とはなにか? 役を割り振られた者である。
役のみならず「せりふと動き(=ト書き)」も既に与えられている。
相当に追い込まれないとなかなか人間は自分が役者に過ぎないとまでの自覚は持てない。
幸か不幸か、わたしはハムレットやマクベスに近いところで生きている。
すなわち、だれかと逢ってなにかを話したとしても、それは
台本=戯曲=運命を忠実になぞっているだけだという諦念のようなものを持っている。
ハムレットやマクベスとおなじで、なるべくなら台本に逆らいたいと思っているが、
「せりふと動き」を意識すればするほど
台本通りの人生になるという逆説に薄々勘づいている。
なぜならハムレットやマクベスの生き方がまさしくそうであったからである。
台本=運命を意識すればそのぶんだけ自由がなくなるようなところが人間にはある。

ハムレットやマクベスは、果たして観客の存在に気がついていただろうか?
だれかに見られているという感覚である。
この視点を持つだけで、苦難苦労だらけの人生もだいぶ意味深いものになることと思う。
劇は既に書かれていて役者には変えようがない。
ならば、どう演じるのか?
世阿弥の言うところの「離見の見」を持つということだ。
観客席からおのれの演戯を突き放して見てみる。
このとき、いまを生きる人間(役者)にとって観客席とはどこになるのか?
あの世である。死後の世界である。
終わった地点を意識して演戯する。つまり、生きる。
そういう生き方を「ハムレット」や「マクベス」は無意識のうちに教えてくれる。

では、いったいなにゆえか?
シェイクスピアの人生観=演劇観がそのようなものだったからであろう。
かの劇作家は、なによりも観客のことを念頭においていた。
作家が死を常に意識して生きていたということでもある。
役者は観客の存在を強く意識して演じるのがよろしい。
人間はあの世からこの世を眺めるようにして生きるのがよろしい。

以上のようなことを学者の言葉でいうなら下記のようになるのだろう。
――シェイクスピアの作劇術の根幹にあったのは世界劇場の考え方である。

「世界劇場の考え方について最も重要なのは、
それが、人間の主体性に対して疑問を投げかけるものだという点である。
人間は自らの意志に基づいて行動しているつもりでいる。
しかし、実は人間を超えた絶対的な存在によって動かされているのではないか。
そういう存在によって、ある役を演じさせられているにすぎないのではないか」(P74)


「ハムレットQ1」(シェイクスピア/安西徹雄訳/光文社古典新訳文庫)

→現存する「ハムレット」刊行本は3つ。
ハムレット生前に出版されたQ1、Q2。死後に全集として出されたF。
(QだのFだのは本の形に基づいている略称)
従来、最初に出版されたQ1は海賊版と見なされていた。
端役を演じた俳優が記憶をもとに再現して出版社に売り込んだという説が有名。
ところが、最近Q1を「ハムレット」の原形と見る風潮があるらしい。

Q1の特徴は、とにかく短いこと。
従来の「ハムレット」(Q2、F)の半分とまでは行かないが、
それに近いまでセリフが削られている。
しかし、上演を考えると2時間で収まるQ1はむしろ魅力的ではないか?
訳者の安西徹雄はこの方針に基づき実際に上演もしたという。

Q1を読んだ感想は、なによりもわかりやすいということ。
まったく無知の子どもに4時間以上もかかる「ハムレット」を見せても理解できないと思う。
ところが、こちらのQ1だったら、無駄は一切省かれているから理解が容易である。
珍説奇説のたぐいを書いてみよう。
芸術家シェイクスピアの書いた「ハムレット」はおそらくQ2やFなのだろう。
しかし、あんなものを実際に上演したところでカネが儲かるはずがない。
立ち見客が4、5時間も我慢できるとは思えない。
だれかがシェイクスピアに無断で改変してしまったのではないか?
皮肉なことに無断改変版で大当たりを取ってしまった!
(だからQ1が出版され、怒ったシェイクスピアが正しいQ2を上梓した……)

Q1は商業的としか言いようがない簡潔さを備えている。
ドラマの骨格が本当にわかりやすくなっているのである。
「ハムレットQ1」からドラマの原型を拾うのはたやすい。

ハムレットがホレイショに言う。これから狂人の真似をするが、あくまでも真似だ。
だが――。

「いかにもおれの秘密を心得ているかのような、
そんなそぶりは毛ほども見せるな」(P49)


秘密を守ってくれとハムレットは親友に頼んでいるのである。
ハムレットの異常行動をめぐる秘密がこれからドラマを進展させいく。

王の寵臣・ポローニアスは言う。

「つまりはだ、こうしてわれわれ世の中を知る人間は、先を読む。
裏から攻めて、表を取るのだ。わかったな?」(P51)


これこそ「ハムレット」劇全体を動かしている策略である。わかったな(笑)?
ふたたびポローニアス――。

「さよう、ハムレット様は、よくこの回廊をお散歩なさる。
オフィーリアに、ここを歩かせておきましょう。やがて、王子がお見えになる。
で、陛下と私は、壁掛けの陰に身を隠し、二人の出会うところを立ち聞きすれば、
王子のお心のうちも、おのずと知れようと申すもの」(P59)


ハムレット「貴様の親父はどこにいる?」
オフィーリア「うちにおります」(P62


本当は物陰で立ち聞きしているのである。オフィーリアは嘘をつく。
ハムレットはオフィーリアの嘘に気づく。まさにドラマでしょう? ドラマは嘘なのだから。
みたびポローニアス――。

「大丈夫、秘密はかならず探り出してご覧に入れます」(P64)

ハムレット陣営も黙っていない。ハムレットのセリフ。

「もっと確かな証拠がほしい。芝居だ。
芝居を使って、奴の良心を罠に掛ける。それだ」(P76)


どちらも「本当のこと」を知りたがり、がためにいろいろと仕掛けていく。
心理劇のおもむきさえあるこの応酬こそ、ドラマ「ハムレット」の魅力なのである。
やたら長い独白は芸術としてはいいのかもしれないが、およそ商業的ではない。

Q1のいちばん大きな相違点は、ハムレットの母親、王妃の立ち位置である。
Q1版において、王妃はハムレットの完全な味方になっている。
現在の夫の悪だくみを知った王妃は、ハムレットを心配し同情を寄せている。
こちらのほうが最後に毒杯をあおぐとき悲劇的効果が高まると思われる。
従来バージョンだと最後まで王妃の立場がよくわからないのである。
「わかりやすくしろ!」は、たとえばいまの日本のテレビ番組プロデューサー最愛の文言。
「わかりやすくしないと数字(視聴率)は取れない!」――。
Q1のほうが(Q2、Fよりも)客が入ることはほぼ間違いあるまい。

Q1は話の筋がはっきりしているので、改めて気づいたことがある。
「ハムレット」劇は、ある種の宿命(仏教的因果)を描いている。
というのも、父を殺されたハムレットが、
レアティーズの父(ポローニアス)を殺してしまうのだから。
今度はレアティーズが新たなハムレットになり復讐に燃えるのである。
全体として見ると、ハムレットという役がレアティーズに移行しているとも言いうる。
現代風に言うならば、犯罪被害者だったハムレットが、逆に犯罪者になってしまう。

「ハムレット」が好きである。「ハムレット」に出逢わなければ、
膨大な海外戯曲作品を読み込むようなこともなかっただろう。
このたび、めずらしい「ハムレットQ1」を邦訳で読めたことをとても嬉しく思う。
「ハムレットQ1」を世に出してくれた出版関係者に感謝したい。

*以下は某ミニコミ文芸誌に寄稿したものです。
(バックナンバーを調べたら、山田太一氏も記事を寄せていたのでビックリ!)

マクベスは知らない。幕が開き舞台に登場したマクベスは知らないのである。
おのれが恩人にも等しいダンカン王を裏切り殺害すことを。
代わってみずからが王になり盟友バンクォーを暗殺することを。
共犯の愛する妻が後悔にさいなまれ自殺することを。
最期は心をわかちあえる友ひとりない孤独の境涯に絶望しながら暴君として殺されることを。
マクベスはなにも知らない。

そうだろうか。マクベスは本当に知らないのだろうか。
マクベスはダンカン王を殺すまえに逡巡する。
「だが、こういうことは、かならず現世で裁きが来る」と――。
マクベスはおのれの生涯を知っていたのかもしれない。
だが、本当には知らなかった。なにを? なにをマクベスは知らなかったのか?

我われは知っている。
壮大な野心を抱いたマクベスが権力の階段を駆け登り、
最後には真っ逆さまに転落することを。
知りながらマクベス劇を観る。映画を鑑賞し、戯曲を読む。
しかし、我われとてなにを知っているのだろうか? ――悪いことはしてはいけない? 
マクベス劇は、こんな幼稚な教訓を伝えるものでは断じてない。
開幕すると三人の魔女が登場して、この劇世界を象徴する台詞を口にする。

“Fair is foul, and foul is fair.”
「きれいは穢(きた)ない、穢ないはきれい」(福田恆存訳)
「いいは悪いで、悪いはいい」(小田島雄志訳)

価値観の逆転である。美醜、善悪の基準など相対的なものにすぎぬ。
絶対的な美も、究極の善も(神仏ならぬ)人間の世界には存在しえない。
諸行無常。すべては移ろいゆく。
盛者必衰。どんな美人も老いさらばえる。
英雄と称されし勇者も時代が移れば稀代の極悪人になってしまう。
逆もまた真なり。美醜も善悪も真贋もはなはだ頼りない。
戦争時の大量殺人者は勇将と讃えられるが、平和時には忌むべき罪人として裁かれる。

実のところ人間世界にはなにも確かなものなどありはしない。
魔女のささやきである。魔女だから言えることだ。
なにもないとしたらどういうことになろうか。そう、なにをしてもいいのである。
ところが、人間は、マクベスは、なんでもできるわけではない。
開幕直後の人間・マクベスはどんな行為もやすやすとなせるほどの悪漢ではない。
行為。アリストテレスいわく、ドラマの原義は行為。
人間の行為を描くのがドラマである。
この劇は、マクベスの謀反という行為がメインテーマとなる。

なにゆえマクベスはダンカン王を殺すにいたったのか?

魔女のせいかもしれない。夫人のそそのかしが強く影響したという見方もあろう。
だが、結局のところ殺人行為を実行したのはマクベスその人である。
ならば、行為とはなにか? ドラマとはなにか?

演劇のプロである役者に聞いてみたら、どうなるだろう。
彼はこう答えるはずだ。自分は台本にそうしろと書いてあったから殺した。
役者はすべてを知りながら、なにも知らぬように行為しなければならない。
芝居の結末まで知っているにもかかわらず、常に現在を生きなければならぬ。
舞台俳優の仕事は、現在を生きること(映画俳優はこの限りではない)。
舞台役者は過去から現在を作り、現在から未来を作る。
未来から現在を作る(台詞の棒読み!)のは大根役者の最たるものである。
これが演戯ということの実相だ。なぜなら、人間が生きるとはそういうことなのだから。

いままで世界各国でどのくらい大勢のマクベスが生まれ死んでいったことだろう。
黒人のマクベスもいたことと思う。女性のマクベスもいたに違いない。
さらに確実なことは、
どのマクベスも迷ったあげくに大恩ある君主のダンカン王を惨殺したことである。
ひとりとして恩人を裏切らなかったマクベスはいまい。
終幕直前に死ななかったマクベスもいない。
みながみな第五幕第五場でこの決められた台詞を口にする。

「消えろ、消えろ、つかの間の燈し火! 人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。
あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、
みえを切ったり、喚いたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる」

マクベスなどつまらぬものではないか。
どのマクベスもおなじ台詞を口にしながら死ぬのであったら。
しかし、マクベスはこのようにしか生きようがない。
なぜなら、マクベスはハムレットでもオセローでもないからである。
配役を代えてくれと頼むわけにはいかない。
マクベスとして舞台に立った以上は、マクベス劇を完結させるほかないのだ。
同様にダンカン王を割当てられたらおとなしくマクベスに殺される以外の生きかたはない。
マクベス夫人は旦那を凶行へ駆り立て、のちに後悔から自殺するよりほかの人生はない。

だとしたら、どうして俳優は役をほしがるのであろうか。
マクベスの役にありつこうと熱望するのだろう。
演戯する楽しみがゆえだ。生きる楽しみのためだと言い換えてもよい。
マクベスは閉幕直前、絶望と空虚のどん底に追い込まれる。
人間・マクベスにとっては大層つらいことだろう。
だが、俳優・マクベスはその地獄を味わう楽しみがある。
強烈な失意や落胆は、平坦な日常生活では感知できぬ滋味でもあるのだ。
名優は五官を冴え渡らせて芝居を、つまりは人生を味わうことだろう。
些細な歓喜などより、絶命直前の悲嘆はどれほど味わい深いことか。
ならば、マクベス夫人にも、ダンカン王にも、バンクォーにさえも、
余人わからぬ固有の味わいがあるとは考えられぬか。

与えられた役にしかない喜怒哀楽を味わうこと。
これが演戯ということだ。生きるということだ。
たとえ、それが悲しみや怒りだけであろうと、十分演じるにあたいするとは思わないか。
少なくとも俳優はそう思っているはずである。
人間はどうして、どうしてそのように思えないのだろうか。俳優のように思えないのか。
喜びのみならず悲しみもまた味わい深い。希望だけではなく絶望にも味がある。
いったい人間はどうして気がつかないのだろうか――。

なんのために俳優はおのおの役を演じるのか。
大きなもののためである。芝居のためである。このとき死の意味がわかるだろう。
ダンカン王の死も、バンクォーの死も、マクベス夫人の死も、マクベス自身の死も、
ひとつの劇を完成させるために必要なのである。
死は無意味ではない。むしろ、なければならぬもの。
死んで生まれるものがある。枯れなければ咲かぬ。
雨はやみ晴れる。冬は終わり春が来る。
人間は自然に生まれ自然に帰ってゆく。自然とは、人間を超える大きなもの。
大昔から人間はこうして生きてきた。
シェイクスピアは自然と人間を愛するがゆえに描いた。

“Fair is foul, and foul is fair.”
劇作家の木下順二は改訳をかさね、つぎの解釈に到達した。
「輝く光は深い闇よ、深い闇は輝く光よ」
いちばんの名訳だと思う。

西洋のマクベスに対して、東洋の般若心経は言う。
色即是空であると。形のあるように見えるものも実のところはなにもない。
美醜も善悪もありはしない。輝く光は深い闇よ、である。
ところが般若心経はすぐあとに続ける。空即是色。深い闇は輝く光よ、である。
悲しみは喜びに通じている。絶望の最果ては希望である。冬のなかに春がある。
死は終わりではない。
生きていることと、死んでいることは、もしかしたらおなじことかもしれない。
死があるから生は続いてゆく。

マクベスは何度も死ぬだろう。だが、そのたびによみがえる。
マクベスは研究するものだろうか。マクベスは生きるものだとわたしは思う。
我われはマクベスを生きる。
「ハムレット」(シェイクスピア/福田恆存訳/新潮文庫)*再読

→ドラマ、すなわち劇的なるものの原点に返ろうと「ハムレット」を再読する。
シェイクスピア劇は声を出して朗読するに限る。
「ハムレット」は数えきれぬほど読み返しているが、そのたびに発見があるので驚く。
今回、発見したドラマの構造をまとめてみる。

ドラマ=劇の根底にあるのはむろん人間である。
では、人間とはなにか。ものを知りたがる生き物である、ということだ。
これがドラマの構造に深くかかわっているのを忘れてはならない。
繰り返すが、人間はものを知りたがる。がために劇が生じると考えてよい。
まずお客さまは神さま。観客が事情を知りたがっている。
それから役者もおのおのの事情(秘密)を知りたいと思っている。
だれだって他人の秘密(裏事情=真相)は知りたいでしょう。
この週刊誌購入の動機こそ、同時にドラマの熱源であることに注意したい。

学者ではないから卑近な例で説明しよう。
たとえばパンチラでドラマは説明可能だ。
ドラマの動きを以下に順を追ってわかりやすく述べる。
1.男性はスカートの中を見たい(=知りたい)と思う。
2.女性は見られたくない(=隠したい)と思う。
まず1と2がなければドラマにならない。
スカートの中に興味のない男性は、このドラマにおいてはお呼びでない。
下着姿で歩いている露出狂の女性は、舞台に出てこないでもらいたい。
「見たい(知りたい)」と「隠したい(知られたくない)」の対立関係が劇を生み出す。

さあ、ドラマとはなにかを開陳しよう。
ドラマとは、言うなれば男性の「仕掛け」のことを言うのである。
(女性もミニスカート等で「仕掛け」は可能だが、これは高等技術ゆえ割愛しまーす♪)
3.女性を強風の吹くところに連れて行く。
3.エスカレーターで手鏡をスカートに差し入れる。
3.靴に盗撮カメラを仕込む。
3.スカートをめくる(学童にのみ可能な幼稚な手段)。
(他にもいろいろあろうが無知ゆえ。有識者はこっそり鍵コメで教えてね♪)
たとえば上記のような「仕掛け」が劇の力学上、重要となってくるのである。
1と2だけでは不十分。
3のような「人間の行為=ドラマ=仕掛け」が加わり、初めて劇は成立する。
(これは繰り返しになるがドラマの原義は「葛藤」ではなく「行為」である)

ドラマとは人間の「仕掛け」のことを言うのではないか。
「ハムレット」のなんと「仕掛け」に満ちていることか。
逐一、例をあげてみよう。

・ポローニアスは、娘のオフィーリアに命令する。ハムレット王子と口を聞いてはならぬ。
これはハムレットの真情を知るためのポローニアスの「仕掛け」である。

・ポローニアスは異国での息子の状態を探ろうと使者に助言する。
息子の知人をつかまえて、あえて悪い噂を口にしてみるというテクニックである。
これも「仕掛け」以外のなにものでもない。

・クローディアスがハムレットの本音を探ろうと、
王子の学友、ローゼンクランツ、ギルデンスターンを呼び寄せるのも「仕掛け」であろう。

・ハムレットとオフィーリアが逢うのをクローディアスとポローニアスは隠れて見る。
これも「仕掛け」としか言いようのない人間の行為である。
ハムレットはここで義父と大臣の「仕掛け」に気がつくことにも注意したい。

・ハムレットもまた義父の有罪無罪を知るために「仕掛け」をする。
旅芸人の一行に義父のまえで当てこすりの芝居を上演させるのだ。

・ハムレットと母の会話をポローニアスが盗み聞きするのも「仕掛け」である。

・自殺したオフィーリア埋葬のため一行がやって来ると、
真相を知るためにハムレットとホレイショーは隠れて様子をうかがう。
これも事情を知るための「仕掛け」である。

・最後のレイアーティーズとハムレットの決闘も純然たる「仕掛け」である。
クローディアスとレイアーティーズは自分たちが計画した悪だくみ(=「仕掛け」)のため、
ハムレットや王妃もろとも死んでゆかねばならないのである。

以上、いかに「ハムレット」劇が「仕掛け」に満ちているかご理解いただけよう。
さらにこの芝居の深遠なるゆえんは人間の「仕掛け」がことごとくうまくゆかぬこと。
人間は状況に対していろいろ「仕掛け」るが究極的にはなにも自力で為しえない。
これが「ハムレット」劇の力学といってよいのではないか。
どこまでも知ろうとするが、結局は知ることができずに敗れ去る人間たち――。
「ハムレット」世界の住民のことである。
この世界にはただひとり聞き手(=語り手)が存在する。ホレイショーである。
ホレイショーの劇序盤におけるセリフが、この芝居のカギであろう。

ホレイショー「なにごとも天に委(まか)せるよりしかたはない」(P38)

「気分はいつもシェイクスピア」(小田島雄志/白水社)

→今度は小田島雄志によるシェイクスピア名言集。
福田恆存と比較すると小田島雄志の訳文は、吹けば飛ぶように軽い。
小田島は、シェイクスピアの描く「喜びと悲しみ」までしか捉えられなかった。
一方で、福田は「喜びと悲しみ」の向こうにあるものを、
見通せる眼力があったのだと思う。
福田は小田島のシェイクスピア翻訳をこれでもかと批判した。
小田島は反論せず、沈黙を保った。
ところが、福田没後の本書ではどうだろうか。引用する。

「たとえば福田恆存さんがシェイクスピアの拙訳を徹底的に批判する大論文(?)
をお書きになったとき、細部にわたって百パーセント反論できるとは思ったけれど、
堪忍袋は無事であり、ぼくは沈黙を守りました」(P90)


なんとも卑怯な後だしジャンケンと言うほかない。
挑戦から逃げておいて、相手が死んだら、もし闘ったら勝っていたと言うのだから。
小田島雄志はシェイクスピアから人生訓、処世訓を学んだのであろう。
しかし、福田恆存が文豪から得た劇の秘密を、小田島は受容する器量がなかった。
「ハムレット」の登場人物でたとえてみよう。
福田恆存はハムレットの親友、ホレイショーであった。
ハムレット(三島由紀夫)にはなれなかったが、畏友をだれよりも理解していた。
小田島雄志は王の寵臣、ポローニアスといった役どころか。
もったいぶったおしゃべりは得意だが、ハムレットを理解することなど到底かなわぬ。
福田はシェイクスピアから死を汲み取ったのに対し、
小田島はあくまでも皮相な生の段階にとどまっていた。

「しょせんことばはことば、傷ついた心が耳からのことばで癒されたためしはないのです」(P86)

「世にあるものはすべて、手に入れてからより追いかけているうちが花なのだ」(P186)

「お金なんかいらないって顔してると、お金のほうでころがりこんでくるもんさ」(P199)

「考え抜いた策略が失敗に終わることもあれば、無分別が役に立つときもある」(P213


いかにもポローニアスが訳知り顔で(部下に呑み屋で)説教しそうなことでしょう(笑)。


「シェイクスピア バースデイブック」(福田恆存/新潮社)絶版

→1年のカレンダーに合わせて、シェイクスピアの名言が付されている。
ふたつの考えかたがある。人間観のことだ。
人間はむかしから変わらない。人間は徐々に進化(退化)してゆく。
これはドラマを論じるときにも適用されよう。
新しいドラマなどない。ドラマは時代を追うごとに進歩(劣化)している。
わたしはどちらかといえば、前者の立場を取る。
ギリシア悲劇から宮藤官九郎まで概観した結果、行き着いた境地である。

アリストテレスいわく、ドラマは人間の行為。
すなわち、ドラマの出発点とは、人間がなにかを為さんとするところにある。
なにかをしようとするが、大抵はうまくいかない。
どうにかしてうまくいかないかと色いろ試行錯誤をするだろう。
この過程がドラマにほかならぬ。
結局のところ、成功することもあろうし、失敗に終わることもある。
ふたたび、これがドラマだ。
人間はなにかをしようとする。事業成功、恋愛成就、病気克服、権力獲得――。
ところが、なかなかうまくいかない。
なにゆえか。人間は神ではないからだ。人間はままならぬ。
人間は他者のみならず自己すらも思うがままに御することのできぬ存在である。
したがって苦しむ。人間は苦しみから脱却しようとするだろう。
成功すれば笑い、失敗すれば泣く。人間の喜びと悲しみだ。

シェイクスピア劇の名ゼリフは、この喜びと悲しみを達観した地点から語られる。
劇中人物は、喜びと悲しみを味わい尽くすことで、その先にあるなにかを見るのである。
シェイクスピアはどのように劇作をしたのだろうか。
まず人間を動かそうとしたはずである。なんのためにか。
喜びと悲しみを味わわせるためである。
シェイクスピアはセリフをどのように書いたのか。見てみたい。

「男は自分の自由の主(あるじ)、でも、時はまたその主、
男も自由も時に出遭えば、その意のままに往ったり来たりします、
それなら、こちらは我慢が何よりよ」(3月4日)

「人間、わが身のことは解らぬもの、
時には己が禍(わざわい)ともなるべき事すらねだりかねませぬ。
それをわれらがのために賢き御手が却(しりぞ)ける。
つまり、祈ったものを失って、却ってこちらは得をするというわけです」(4月24日)

「どうにもならぬ事を悲しむのは止めにして、
その悲しみの源から脱け出すように努めるが良い。
時こそあらゆる仕合せの育ての親でもあり、乳母でもある」(8月7日)

「この分ではどうやら時こそ人間を支配する王者だ、
それは人間共の生みの親でもあり、死の床でもある、
自分のくれたいものをくれるだけで、こちらの欲しい物は取って置く」(9月3日)

「よくあること、神々は人に僥倖(ぎょうこう)を与えて、
それを、後で罰を下すための口実にお使いになるのだ」(11月21日)


人間の喜びと悲しみの先にあるものが、みなさまにも見えましたか?
シェイクスピアは男であった。男ならば、カネとオンナを求める。
むろん、かの文豪がカネの有難味と空虚に思い及ばぬはずがない。
しかし、オンナはといえば、シェイクスピアさえも手を持て余したのではあるまいか。

「みんなの願いを、たやすくお聴入れになってはいけませぬ、
ま、女の子の役をお演じになるおつもりで、
いや、いや、と言いながら、言うことをきく、その手に限ります」(5月8日)

「女を貰えば、その抱合せに口答えも一緒に貰う覚悟が肝腎、
舌の無い女を貰うなら別だけれど、
そう、自分の過ちを夫のせいに出来ないような女が居たら、
そんな女には子供の面倒は見せられない、
任せておいたら阿呆に育て上げてしまう」(5月15日)

「いつかお父さんはおっしゃった。
誰かを愛する唯一の理由は、理由が無いという事だと」(6月1日)


シェイクスピアを軽んじるわけではないが、かの文豪の名ゼリフは常識である。
ことわざや、よくある言い伝えに極めて近しい。たとえば――。
「待てば海路の日和あり」
「楽は苦の種、苦は楽の種」
「いやよいやよも好きのうち」
我われはすべてを知っているのだけれども、しばしば忘れてしまう。
そのような教訓を芝居に組み入れることがシェイクスピアの作劇術だったのかもしれない。
色いろなドラマ作法があるのだろうが、ことわざ(常識文句)を人物に言わせる。
この目的で脚本を書く手法もあるのではないか。
とはいえ、いきなり舞台上の人間が暗記したことわざを披露しても意味がない。
人間はある行動をした結果として、なんらかの感情(喜怒哀楽)を味わう。
このとき人間が思わず洩(も)らす述懐が名ゼリフになるのだろう。
このセリフがことわざと相通じるのは当然である。
古今東西、無数の人生体験の結晶が、ことわざであるのだから。
「十二夜」(シェイクスピア/松岡和子訳/ちくま文庫)*再読

→劇というのは葛藤なわけである。悲劇も喜劇もこの点ではおなじだ。
人間は欲望を持つ。したがって複数の人間が舞台上に上がれば衝突が生じる。
ありていにいえば、みんなが幸福にはなれないということ。
全員の欲望が満たされるような理想郷はどこにもないのである。
欲望と欲望がぶつかる。感情と感情がもつれる。
出世したいという欲望がある。恋も欲望だ。
愛する異性をひとり占めしたいという気持が欲望でなかったらいったいなんだ?
劇は、常にもつれた状態のもと開幕する。
閉幕するときに笑いがあふれていたら喜劇、涙に暮れていたら悲劇というわけだ。
なにものによって喜劇と悲劇にふるいわけられるのか。
この「十二夜」とて、ひとつ歯車が合わねば、悲劇になるほかないのである。

舞台上の役者は戯曲を変えられぬことを知っている。台本は渡されているのだ。
配役も決まっている。
知らぬふりをしているが、実のところ結末まで熟知しているのが役者である。
役者は常に葛藤のただなかにいる。
彼は彼女はセリフを言っているのか。なにものかに言わされているのか。
以下はおのれが役者に過ぎぬと知った人間のセリフである。

「運命よ、力を貸して。私たち人間には、自分で自分がどうにもならない。
これが定めなら仕方がないわ。成り行きに任せるしかない」(P48)

「ああ、時よ、これをほぐすのはお前の役目、私じゃない。
こんなに固くもつれていては、私の手ではほどけない」(P54)


「十二夜」から深い慰めをわたしは得る。
人間の問題を解決するのは人間ではないことを、
その一部始終を仔細にわたって、まざまざとこの目で見ることができるからである。
悲劇になろうが喜劇になろうが、それが劇ならばかならず終幕の時がおとずれる。
この「時」こそ人間を救うのであろう。役者は配役を解かれる時、なにを思うか。

「マクベス」(シェイクスピア/福田恆存訳/新潮文庫)*再読

→わたしはこのまま終わってしまう人間なのだろうか?
毎日、求人情報誌を眺めているが、やれそうな仕事は警備員しかない。
このたびシェイクスピアやギリシア悲劇を読んで、それも悪くないと思い直した。
これらの古典劇作品が身近にあれば、たとえ警備員で一生を終えてもよいのではないか。
内心にハムレットやマクベス、オイディプスを住まわせている警備員は悪くない。
連日夜空を見上げながら、いつ亡霊が現われるのかと(ハムレット!)、
決して出現せぬおのが宿命を待ち続ける人生も捨てたものではない。

マクベスになりたいのである。つまらぬとわかっていても成功したい。
成り上がりたい。のしていきたい。
なにゆえマクベスは王座まで登りつめることができたのか。
断じてマクベスひとりでは、あのような出世はできなかった。
なにがマクベスを成功せしめたのか。
ふたつの助けがあった。魔女とマクベス夫人である。魔女とはなんであろうか。
この世ならぬものである。異界の住人だ。狂人と言い換えてもよいのではないか。
人間を超えるものとコンタクトを取らなければ、人間世界でのしあがれない。
それからマクベス夫人である。自分を信じて応援してくれる女性。

「マクベス」劇のおもしろさは成功の悲哀を描いているところである。
人間は、成功することでかならずなにか大切なものをうしなう。
その覚悟がなければ成功などできぬ。
マクベスは成功の結果として、唯一の支持者たる妻をうしなう。
友情や愛情とは、すっかり縁のない人生になってしまった。
人間はひとつの人生しか生きることができない。
こうでなかった人生は決して味わうことができないのだ。
なにがマクベスの人生を変えたのか。ダンカン王を暗殺した事件である。
言葉は人生を変えない。人生を変えるのは、いつも行動である。
暗殺直前のマクベスの述懐はこうだ。

「だが、こうして脅し文句を並べているかぎり、相手はびくともせぬ。
言葉というのは、実行の熱をさますだけだ」(P36)


ならば、もう言葉を並べたてるのはやめよう。
願わくば、人生でこのマクベスのセリフを言ってみたいものである。
こういう劇を生きてみたい。

「その手は食わぬぞ、運命め、さあ、姿を現わせ、
おれと勝負しろ、最後の決着をつけてやる!」(P55)