「なんだかなァ人生」(柳沢みきお/新潮社)

→うちのブログのファンなんか10人程度だろうが、
興味の矛先は「おまえ大丈夫か? 正気なのか?」にあるというくらいの自覚はある。
もっとやってほしいという期待感と、
そろそろやめておけという無言の老婆心を日々感じていなくもない。
今年のビックイベントはブログに携帯電話番号を公開したこと。
「だれの挑戦でも受ける」っておまえ大丈夫か、正気かっていう話。
しかし、それにうまく乗ってくれた御仁もおられ、
奈良のお医者さんから電話があり、お話させていただき、
ついでに京都も観光できたのは今年いちばんのいい想い出であった。
だれに話してもこれは「え?」という顔をされるが、事実なのだからしようがない。
その山田太一ファンの奈良のお医者さんのおすすめが漫画家の柳沢みきお。
柳沢みきおはコンビニ廉価版の「大市民」が好きで愛読していた。
いま再読してみようとしたら、どうやら引越のときに売り払ったようだ。
ぜひ柳沢みきおを読んでくださいということなので、このたび非常に遅れはしたが、
漫画家初のエッセイ集である(安価では)けっこう入手困難な
「なんだかなァ人生」を読んだしだいである。
奈良のお医者さんからはお小遣いをいただいており、
恩を忘れないというか義理堅い面が、
シナセンの最高指導者であられる小林社長から「あんたは厚顔よ」
と大声で罵倒された当方にもあるのかもしれない。
エッセイは「枕草子」「徒然草」の時代から自分(の好き嫌い)を書くものだから、
本書も漫画家の書いたものながらじつに日本の伝統にそった正しいエッセイであった。

「週刊新潮」連載のエッセイである。
漫画を描くのは苦しいが雑文を書くのはイージーで楽しいとか、
本音っぽいことが最後のほうで書かれていたが、作者は大丈夫か正気か?
そんなみんな思っていることを満天下にさらして、先生は大丈夫ですか正気でっか?
漫画はいちばん難しい執筆芸術だと思う。
絵画オンリーでもダメで、セリフオンリーでも、物語オンリーでもダメなのだから。
まあ、本音のエッセイは楽しいよね。
しかし、著者は妻や子供たちのことはまったく触れていないから、そこは大丈夫で正気。
風俗やキャバクラのようなものが大嫌いとはよく言ってくれたなあ。
対人恐怖症気味のものにとっては、風俗やキャバクラは接待でなく拷問だろう。
バブルのとき10億で買ったマンションが
1億4千万でしか売れなかったという実話は「徒然草」を超えた無常観があるだろう。
わたしは物欲のないのが当面の悩みなのだが、
著者はクラシックカー、クラシックギターの収集に散財してきたらしい。
そういう人間そのままの俗物根性を公開しているのも悪くない。
開き直っているところもいい。
わたしも言葉(書籍)に「大丈夫か? 正気か?」レベルの投資をしているので、
柳沢みきおの言葉には共感するし、それが真実であってほしいと思う。
消費したのではなく浪費したのでもなく、投資したのだ――。

「でも、これだけはただ飲み食いし遊んだだけの浪費ではなく、
自分が美しいと惚れこんだ物への消費なので、後悔は一切ありません。
それどころか、私の血となり肉となっていて、
これからの作家人生で、大いに生かせるような気がしてならないのです。
つまりは無形の大財産になっていると。
ですから、これらの無形財産を作品にどう生かしていくのかが、
今後の人生のテーマですし、
楽しみでもあるのです(単なる負け惜しみか)」(P167)


男って難儀な生きもんやねえ。
タバコとか酒とか博打とか
美食とか風俗とかコレクション(骨董)に依存しないと生きられへん。
そして、その欲望が生きる活力を生みだし文化を活性化させるという。
ぼくは喫煙もパチンコも競馬も女遊びも骨董趣味も否定しない。
そのくらい人生のつまらなさをわかる年齢になったし、
なにがわかったのかと清く正しい人から
胸ぐらをつかまれても薄笑いしながら「なんだかなァ人生」。
まだ自分の人生にはなにかあると
自分をごまかして生きているけれど「なんだかなァ人生」。
吉原の高級風俗で一発やって銀座の鮨屋でお任せを頼んでも「なんだかなァ人生」。
べつに死んじゃってもいいいけれど、それもめんどくさいし、
精神科にかかるのはもっとめんどくさいしという「なんだかなァ人生」。
本書を読んで鮨(すし)を食いたくなった。
柳沢みきおは鮨を好きなようだが、自分の好きなことを書いたところで筆は冴える。
とはいえ、これは読者の関心もあるのか。
不動産とかクラシックカーとかクラシックギターとか西洋骨董品のことを書いたエッセイは、
正直なところあまり関心がないのでおもしろくなかったなあ。
いや、鮨は成金趣味のようなところがないのがいいのかもしれない。
スーパー半額なら250円レベルでだれでも鮨を口にすることができるのだから。
好きなことがあったら人はあのもっとも恐ろしい孤独から逃れられる。
ビールが好きで(彼はビールをロックで飲むらしいベトナム! ラオス!)
ベンツと風俗が嫌いな友人がひとりもいないという柳沢みきおは言う。

「私は人付き合いが極端に苦手で、仕事関係の人以外とは誰とも会いたくない、
という人間です。ですから、あえて友人というものを拒否してきたので、
腹を割って話せる男友達がいない、というツケが悩みを抱えた時に回ってきます。
どうにもならないほど、生きる事への息苦しさを感じた時にも、
一人で悩んで処理するしかなくモンモンとなるのです。
しかし実はコレが、私にとっては物語を作る上で大いに参考になっているので、
有意義なことではと。でも疲れます」(P165)


格のうえでは助言できるレベルの相手ではないか、女友達はいいよお。
柳沢みきおは風俗が嫌いなら、女性と友人関係になれるのではないか?
年上の女友達と話すとき、人生も悪くないなんて、枯れ葉のようにしんみり思う。
だから、出世や大勝利と縁がないのかもしれないけれどさ。
奈良のお医者さんはおもしろかった。
かの医者の影響で早稲田の演劇博物館に行き、山田太一未公刊戯曲を読んだわけだ。
そして異常なほどの「大丈夫か? 正気か?」
という執念をもって感想をブログに記している。
それは広い意味で文化の貢献につながっていることだろう。
わたしもブログに携帯電話番号を公開したとき、
まさかだれもかけてこないだろうという世界への諦念があった。
電話の着信があったとき「大丈夫か? 正気か?」と思ったものである。
奈良へ来ないかというお誘いにはさらに「大丈夫か? 正気か?」。
行ってしまうわたしもわたしだが、誘ったほうもそうとうなものである。
ぶっちゃけ、そんなことに金を使っても意味がないとも言えるわけだから。
奈良のお医者さんや柳沢みきお、
わたしに共通しているのは自分の「好き」へのこだわりであろう。
なにかを好きになったほうが人生は楽しい。それがパチンコでもタバコでも風俗でも。

「一私小説書きの日乗 憤怒の章」(西村賢太/角川書店)

→結局、作家生活って幸福なのかなあ、といまさらながら考えさせられた名著。
作家で生活するってそこまでおもしろいことなんだろうか?
むかしは古臭い作家の日記を読んで、たいそうあこがれたものである。
しかし、現代文学の旗手、われらが兄貴、西村賢太氏の日記を読んでも、それほど――。
要するに作家は人生体験や読書体験という貯金がなくなると書けなくなるわけでしょう?
それでも作家だから書くのだが、
作品は編集者や編集長からダメ出しをこれでもかと食らう。
作品も人権意識が過剰なご時世、ほぼ書きたいことが完全に書けるということはない。
西村兄貴はサラリーマン根性をバカにしているが、
この日記で作家は同業界の人の本をべた褒めしているので、作家の世渡りを知る。
やたら古株や自分に目をかけてくれたものへの賛辞を繰り返し、
小説を書けない書けないと言いながら、高い税金を払い、
毎日おなじようなことを繰り返し、おなじような文体で生き、ささいな自己充足をはかる。
著者が業界の大御所、ビートたけしを描写する文章からは、
作家自身がバカにするサラリーマン根性以上のサラリーマン精神を感じたものである。
賢太兄貴はいまよりも、たぶん「苦役列車」の時代のほうが幸福だったのでは?
弟分の当方としては、いまけっこうな肉体労働をしているつもり(絶対女性不可)。
7時間で(重い?)パチンコ台を620運び、内部を簡単に処理して、
人力でベルトコンベアーに流す作業がどれほど辛いのかはわからない。
あんがい楽勝なのかもしれないが、こちらの軟弱な身体は悲鳴をあげており、
あざも痛みもけっこうあるが、思うのは、これはいわば修業で、
この軽作業(じゃない!)をあと3週間続けたら(短期派遣)、
わが男性性も復活して女性をレイプできるような凶暴性も再生するのではないか?
肩や腕に筋肉がつき、身体が引き締まれば女を支配したくなるのではないか?
わたしは西村賢太を非常に女性性の強い作家だと正体を疑っている。
ホテルに顔もわからぬ売女をよびつけて射精できるほど男性性は強くないと。
知らない人といきなり性行為におよぶのは本が好きな男にはできないと思う。
女性は身体をあずけるだけだから(マグロというらしい)繊細なものでも可能な商売だろう。
賢太兄貴は高額納税者となったいま幸福なのだろうか?
もしかしたら顕史(わたし)は苦役時代のいまがいちばん幸せなのかもしれない。

「日本の聖地ベスト100」(植島啓司/集英社新書)

→ぼくも聖地巡礼は好きなほうだよね。インドではよく聖地巡礼をしたなあ。
ガンジス河の河口とされるガンガーサーガルから
源流のゴームクまでの旅がいちばん想い出深い。
あれは29歳の男一匹だったからできたことで、
いまはあのころに比べたらネット情報も豊富だし、
おまけでガイドをつけてやるって言われてもちょっと行くのはいやだなあ。
きついのがわかっているもん。ああ、そうか。
あのころはなんの情報もなく、
そもそもしんどさがわからなかったからゴームクまでたどり着けたのか。
ガンゴードリーでインド人のあんちゃんと肩を組んで泣きながらブラボーしたなあ。

本書はイケメン人気学者が多数の女性の取り巻きと日本の観光地を巡った記録。
植島先生はだれが認めているのか知らないが(世間?)、
宗教人類学者らしく彼が多くの美女と日本の名所旧跡をたずねたら、
それは観光ではなくフィールドワーク(学術調査)というものになるらしい。
で、大尽旅行の感想文を書いたら、それは学術的調査報告みたいなさ。
いまはネットで調べれば即座にわかるのだからそれはそれでいいのだが、
ほとんどのところは行き方の詳細さえ書いていないのだから、
これでは(スマホを使えない)老人向けガイドブックにもならない紙くずレベル。
こんなものが植島フィールドワークの集大成って、
おまえ、いままでなにをして生きてきたんだい?
ああ、セックスとギャンブルかい。
くそお、おまえだけいい思いをしやがって、こんちくしょっ♪

日本の聖地巡礼は要は観光になってしまうような気がして、どうしても興味がわかない。
それにどこも宿泊費、入場料、飲食代が高いから。
インドや東南アジア、中国と比べると目新しさがないし、しょせんおなじ日本だし。
沖縄は裏側では宿泊費も泡盛もめっちゃ安いという話を聞くが、だれか誘ってくれない?
植島先生みたいなイケメンや高学歴といったバックボーンに
裏づけられた自信過剰的対人能力が欠如しているからこういうときに困る。
いつもどこに行くときもひとり。植島さんはいつも美女といっしょ。
嫉妬から攻撃してみよう。植島、おい、間違っているぞ。

「不思議なことに、熊野三山信仰が日本の宗教史上、
いかに大切な役割を果たしたといっても、
別にそこから天才的宗教指導者が排出されたというわけでもないし、
何かその信仰の核となる明確な宗教的イデオロギーが存在したわけでもない。
かといって、他の霊場でよく見かけるように、
そこに参拝すれば長生きできる、病気が治る、子どもが授かる、お金が儲かる、
といった現世利益のキャッチフレーズが熊野にあったわけではない」(P120)


熊野は踊り念仏の一遍上人が大悟をした場所であろう!?
踊り念仏の一遍が誕生した場所と言ってもいいくらいなのが熊野である。
植島さん、美女とまぐわってばかりいないで少しは勉強してくれよ。
美女とチューばかりしていないで、チューとばかりはなあ、おい、学者なんだろ?
あと後鳥羽上皇が現世利益を求めて何度も参拝しているぞ。
わたしは17年まえに1回行ったきりだが、観光客はみんな現世利益を祈っていたからな。
そういう現世利益商売も(世界遺産になるまえの)当時はたくさんあった記憶がある。

話をビューンと飛行機レベルで飛ばす。ビューン♪
このまえ、よおしおれが平成の一遍上人なっちゃると思って(ウソぴょーん)、
韓国第一の仏教世界遺産「仏国寺・石窟庵‎」までひとりで行ってきたけれど、
新幹線みたいのがあってソウルから日帰りでちょー楽勝で、
パーフェクトに計画通りに物事が進みちっとも聖地を巡礼したという気にならなかった。
いままで行った世界遺産、聖地でいちばんつまらなかったのは韓国の「仏国寺・石窟庵‎」。
韓国自体も退屈きわまりなかった。
現地で手引きをしてくれるような人がいたら、もっと違っていたのだろうが。
そうそう、わたしはあの子に恩を返していないな。
大学時代、インドのアーグラで知り合った香港人の美少女がいたのよ。
留学経験があり、英語ペラペラ。
彼女を頼って香港に行ってみたら、彼女は家に招待してくれて家族を紹介してくれた。
おい、おれたち結婚すんのかよって(笑)。

しかし、海外旅行は実際問題、そういうのがいちばんおもしろいとも言える。
日本に観光に来る外国人だって、いくらアメ横を歩いたっておもしろくないでしょう?
(上野の)アメ横なんて高いから、日本人はほとんど買い物しないんだから。
浅草寺に行ったって日本の仏教がわかるものではない。
むしろ創価学会の文化会館を見学させてもらったほうがよくわかる(おれも見たことないし)。
いままで海外旅行でどれほど現地人のお世話になったか。
それを考えると、いつか恩返しをしたいのだが、外国人の希望者はいますか?
ソウルはつまらなかったけれど、じゃあ、東京のどこがおもしろいのかと言われても……。
計画しないでぶらりとそのときとまっているバスに乗るのがいちばんいいのかもしれない。
お偉い宗教人類学者の植島啓司先生もおっしゃっておられる。

「だいたいどこへ出かけるにも何の準備もしないことが多い。
それにはぼくの怠惰な性格によるところも大きいのだが、
いろいろ調べて知ってから行くとソンするような気もするからだ。
見たいものを先に見てしまったら、それがたとえ写真だったとしても、
出会ったときの感動は確実に薄れることだろう。
何事も偶然が好ましい」(P155)


植島啓司さんの新刊「運は実力を超える」が出ているらしい。いいタイトルやねえ。
最近はすっかり楽天ファンなので、楽天ブックスで買おうかな。
楽天ブックスはすげえ。木曜日、男性限定で書籍全品10%割引。
そのうえ楽天カードで買うとポイントが4倍もつく。
正直、新刊書店の終わりは近づいているような気がしてならない。
まあ、終わったら終わったらで聖地になればいいじゃん(笑)。
「ここはかつて本屋の聖地とされていた(神田)神保町です」
って「はとバス」ガイドのお嬢さんに紹介される廃墟とかいまより美しいかも――。

(関連記事)
「日本の原郷 熊野」(梅原猛/とんぼの本/新潮社)


「こんな長寿に誰がした!」(ひろさちや/青春新書プレイブックス)

→今日、朝日賞作家の山田太一氏の83歳の誕生日らしく一部狂信者が騒いでいる。
わたしはファンではあるものの、
山田太一さんの83歳がどうしておめでたいのかわからない。
ぶっちゃけ、こりゃいつまで生きるの? というのが本音。
うちうちにはばらしていることだが、
いまのわたしの生きている目標は「山田太一の死」をこの目で看取ることだから。
いまはもう本当に老人が死ななくなった。
みんな80歳を過ぎてもピンピンしていて、老後はまだこれからのようなことを言っている。
正直、わたしはいま現役の成功老人よりも長生きする自信がない。
ひろさちやさんをはじめとして、
創価学会の池田大作名誉会長はあと50年でも100年でも生きながらえるだろう。
その弟子のおなじく創価学会、宮本輝氏もわたしよりは長生きしそうだ。
こうして考えていくと、その死をリアルタイムで目撃できそうなのは山田太一氏のみ。
しかし、いま83歳だろう。
健康にも留意していると聞くから、あと10年近く持ってしまうかもしれない。
こちらは不摂生の極み。
今日都民共済に入ろうかと電話したら、あれは通院しているとダメみたいだね。
せめて生きがいとして山田太一先生のご逝去くらいなまで拝見したいのだが、
それもかなうかどうかわからないほど「こんな長寿に誰がした!」――。

うちの父とかも死にたくないみたいだね。
わたしは今月いっぱいの寿命と宣告されても、たぶんまあ「ふーん」で終わる。
執着すべき地位も肩書も財産も妻子もコレクションもコネクションもない。
わずかながら想い出深い友好関係はあるけれど、
いままでけっこうたっぷりお腹いっぱい味わい尽くした満足感があるからもういい。
シナセンの小林社長や後藤所長より早く死ぬのはしゃくにさわるが、
向こうにとっては慶事だろうから最後に善事をほどこしたと思えばすっきりする。
(言っとくけど、おれは小林や後藤が死んだら大喜びするからね♪)
なんにもないと寿命を宣告されても楽なんだなあ。
きっと当方のような孤独貧窮老人(中年)はたくさんいるはずなのに、
どうしてみんなそんなに長寿にこだわるのだろう。
死んだって終わりじゃないし、ちゃんと来世があるし、運良ければ極楽往生できるのに。
死んでも終わりじゃないんだから大丈夫。
いざ死ぬはめにおちいっても、そのとき奇跡的な光輝につつまれるから大丈夫。
根拠はって、仏典やそういう危ない書を山ほど読み、アジア中の聖地を巡ったからだよ。
大丈夫だから。絶対大丈夫。だから老人は早く死ね!
わかるわかります、死にたくても医療従事者が死なせてくれないんだよねえ、はああ。
早く死んでいちからやり直したほうがおもしろいしやりがいがあるではありませんか?
一遍上人いわく、「とく死なんこそ本意なれ」――。

「いま、日本で、総人口に占める老人の比率がとても高い。
そのことはだれもが知っています。
ところが小金(こがね)を持っているのは、その老人です。
残念ながら、若い人はあまりお金を持っていません。
収入の大半は生活費に回され、余裕のある金はない。
だから、欲しい物が買えません。
一方、老人は、余裕のある金はほんのちょっとは持っていますが、
逆にあまり欲しい物がありません。
じつは、そこのところに、日本の不況の原因があるのです」(P33)


「今日からシナリオを書くという生き方」(小林幸恵/彩流社)

→わたしの本当の師匠はシナリオ・センター社長の小林幸恵先生かもしれないなあ。
この人には対面でも怒鳴られ、電話でも怒鳴られ、偉い人というものを知った。
世間というものを教えてくれたのがシナリオ・センター社長の小林幸恵先生とも言える。
この人、わたしにはものすごく偉そうなんだけれど、
肩書が上の人や社会上位者にはやたら愛想がいいんだ。
やたら人にシナリオを書け書けと言っているけれど、自分は書かない。
それを指摘したら大声で怒鳴る。あたしをなめるなよ、みたいなことを言う。
小林社長は営業経験もないのに、
営業マンに営業の仕方を教えていると本書で自慢している。
小林幸恵さんってどうしてこんなに偉いんだろう。
答えは、シナリオ・センター創設者の新井一の娘だから。
どうやら新井一とやらは三流商売脚本家でむかし売れっ子だったらしい。
で、シナリオ学校をつくった。新井一の娘は小林幸恵。
父親が死んだあと小林幸恵はシナリオ・センターの社長になる。
社長だから小林幸恵は偉い。人に説教できる。
最近、小林幸恵の息子の新井一樹が副社長になったらしい。
新井一樹もまたシナリオを書いたこともないのにシナリオを教えている。
ろくな社会人経験もないのに、ビジネスリーダーを気取って講師をしているとのこと。
わたしが小林幸恵社長を師匠ではないかと思うのは、そういう世間を教えてくれたから。
世の中、結局そういうもんじゃないですか。
天皇陛下のお子さまは天皇陛下におなりになるでしょう?
成功者のお子さまはかならずといっていいほど大企業に入社する。
小林幸恵先生の偉さがわかるのが、世間を知るってことなんだろうなあ。
いまのわたしは小林幸恵さんを人生の師匠のひとりだと思っている。
なぜなら成功者のお嬢さんで富裕層だから。
なぜなら既得権益を持つシナリオ・センターの社長さんだから。
なぜなら、なにより偉そうで、目下のものと判断すれば大声で怒鳴ってくるから。

師匠の名言をありがたく拝聴したい。

「相手の意見とか気持ちとかをきちんと聞く耳を持っている人は本当に少ないものです。
でも、これではいけないのです。
人間である限り、コミュニケーションをとる手段を持っているのですから、
それを生かさなければ、人間としての意味はないのでしょうか」(P49)


よく言うよ。あなた、わたしの声をいっさい聞かなかったでしょう?
電話しても怒鳴るばかり。
おたくの受講生がわたしの悪口を2ちゃんねるに匿名で書いているのですが、
責任者としてどうにかしてもらえませんか?
こう電話で聞いたときも無視されたなあ。
先日調べてみたら、いまも2ちゃんねるにおたくの生徒がわたしの悪口を書いている。
明日でもシナリオ・センターに電話したら社長は聞く耳を持っているの?
しかし、世の中とはそういうものなのである。
偉い人は偉い。偉い人のお子さんやお孫さんはお偉い。逆らっちゃいけない。
そういうことを師匠は教えてくれたんだなあ。

「人にはさまざまな意見や考え方、見方、感情があって、
また育ち方や環境によっても違ってきます。
そんな当たり前のことが、普段は気がつきにくいのですが、シナリオを書くことによって、
しっかり見えるようになるのです」(P82)


じゃあ、自分が書けばいいじゃん?
そんなことを言えるのはむかしのわたしくらいだが、言ったら怒鳴られる。
世の中は、本音と建前で成り立っているのである。
小林師匠からは、自分はすごいブログを毎日更新しているから読めと言われたなあ。
で、8年まえくらいに読んでみたら、すげえ金持なんだ。
食っているものが高級レストランで、桁がぜんぜん違う。
ふふふ、世の中ってさ、人間ってさ、そういうものなんだなあ。
いまのわたしは師匠の教えがよくわかる。あの人の偉さもよくわかる。
だって、地位も肩書もお金もコネもぜんぶあるんだから、そりゃあ偉いわなあ。
世の中ってそんなもんだぜ。あの人は世間をよく知っていたなあ。
師匠いわく、本音と建前をうまく使え。

「……ちょっと見方が違った人がいても。決して拒否はしない。
そういう見方もあるのねと、まず受け入れることです」(P94)


表ではきれいごとを言って、密室の裏では態度がぜんぜん異なる。
人間ってそんなものだし、そんなことも知らなかったむかしのわたしが恥ずかしい。
「あんた辞めなさい」とか社長先生から言われたもんなあ。
しかし、それが正しく、人間というのはそういうものである。裏表があるものである。
いまは小林幸恵社長を師と仰いでいるから、先生のまえで土下座もできる。
先生のほうが正しかったといまは認められる。過去を反省している。
小林幸恵先生のおっしゃることはなにもかも正しい。

「所詮、この世は男社会。
戦いの中に生きてきた男たちは、相変わらず肩書社会に生きています。(……)
女同士は井戸端会議と称しては、亭主のグチから人の噂話を、
生活の中でうまく取り入れて人間関係を築いていっています。
肩書きも何もかも取っ払い、その人自身で人の前に立つことができない男たち。
男性はきっと女が考える以上に不器用なのでしょう。
組織の中で弱みを出せず、グチもはけず、
ただ溜め込んで今に至るため、
いまだ自分を解放する方法を知らないまま来ているのです。
ですから、友達もできない」(P186)


言うことはいちいちごもっともだが、
小林さんは「新井一の娘」「社長」という肩書を取っ払ったらなにがあるの?
シナリオを書けないのに、シナリオを教えている変な人でしょう?
しかし、こういう方こそが本当の成功者で勝ち組で尊敬すべき偉人なのである。
いまのわたしはようやくそういう世間の事情に気がついた。
もしかしたらちかぢかシナリオ・センターに電話して、
尊敬している師匠先生に過去のお詫びをするかもしれない。
事務所のやつらはちゃんと取り次げよ。電話ガチャ切りはやめろ。
折り返し電話をするのが社会のルールだからな。
持つべきものは師匠である。
わたしの師匠のひとりは新井一のお嬢さんで社長の小林幸恵先生だ。
いまなら師匠の偉さがわかる。ありがとうございました。

「お釈迦さまが説いた、「おかね」ってなんだ?!」(ひろさちや/毎日新聞社)

→お金ほど難しい問題はないと思う。人生、お金っしょ?
だからこれは人生ほど難しい問題はないと言っているのとおなじ意味。
お金って稼げば稼ぐほど(たぶん)お金に縛られてお金を使う余裕がなくなる。
このため、世間で高価値とされるものを購入してかりそめの満足を味わって、
また翌日からはお金を稼ぐことに勤しむ。
お金を稼ぐ能力のない人は、時間的余裕はあるが元手がない。
で、結局激安店の行列みたいなものに加わって、これでいいのだという顔をしている。
お金は稼ぐのも使うのも本当に難しいと思う。
お金を稼ぐには労働するしかないが(いんちき詐欺に騙されちゃあかんよ)、
この労働というものがまたたいそうつまらない退屈なものになっている。
なかにはおもしろく楽しい労働商売もあるのだろう。
たとえば、価格交渉のある商売はお客さんとおしゃべりできて楽しいだろう。
若いころ暇に任せてアジア各地を旅したが、価格交渉はおもしろかった。
こちらがおもしろいということは店主も楽しんでいるのである。
受賞歴ゼロの自称宗教評論家のライターひろさちや氏は言う。

「デパートの正札[値札]も資本主義社会そのもので、
お客さんが誰であろうと正札どおりに売る。
そうすると、デパートの売り子さんは、生活がちっとも楽しくない。
労働時間八時間は、まさに労働・苦役になってしまう。
これは人間として喜びのない生活だ。だから、仕事が終わるとディスコに行ったり、
友達や恋人とグルメをしなければ、気がすまない。
しかし、トルコ人やインド人の商売は、お客さんとの話を楽しんでいる。
それが彼らの生活の楽しみだから、仕事が労働ではない」(P87)


いまはスーパーやコンビニの店員の会話はマニュアルで決められているでしょう。
あれ、つまらないよねえ。
わたしは大学時代、水道橋でコンビニ夜勤のバイトをしていたが、
そこのオーナーが(いい意味で)ものすごくいいかげんな人で、
本来あるはずのマニュアルもなにも見せてもらえなかった。
このためか、けっこうお客さんとおしゃべりすることもあったような記憶がある。
むろん、そんな店はわたしが辞めて5、6年後にはつぶれていたが。
いや、オーナーがちがうフランチャイズに乗り換えただけかもしれない。
お金が目的ではない商売とか、きっと思いのほか楽しいのだろう。
ならば、お金を目的と考えなければ、
あるいは単純作業労働も楽しいものになるかもしれない。
なんのために生きるのかって、それは楽しむためだあよ。楽しまなきゃ損損。

「「賭け」と宗教 あきらめ哲学とデタラメ精神」(ひろさちや/すずき出版)

→いま近所でものすごく時給のいい仕事が出ていてさ。
もちろん、応募したら受かるというわけではないけれど、先着順だって。
でも、応募できないわけ。
職場からも派遣会社からも3月までは働けと言われているから。
そんな契約書を交わした覚えはないのだが、いわば人情の世界である。
で、いざ3月で派遣切りされたら、ろくな求人がないかもしれないのだが、そこは運、縁。
仏教でいう迷いというのは、生活者からしたらAかBか迷うということなのだろう。
ひろ氏いわく、悟りとはAでもBでもどっちでもいいじゃんとあきらめること。
あんがいあと1ヶ月いまの職場にいたほうが
のちのち実りが多いかもしれないわけだから。
大量の女性労働者といっしょに働く体験というのは貴重といえなくもない。
わたしが大学時代小説家養成コース(文芸専修)で学んでいたころ、
当時京都大学の学生だったH氏が芥川賞を取って華々しくデビューした。
よく知らないが、その後も美人女優と結婚したり当方とは天と地の人生のようだ。
でもさ、彼は女性パートの陰湿さとやさしさを実地では知らないわけでしょう?
いわゆるおばさんという人種がどれだけ怖くてどれだけ親切か成功者の彼は知らない。
まあ、上流社会の観念小説しか書けないのだろう。
いや、それでぜんぜん構わないし、そういう作家も必要だが。
言いたいのは、結局なにが善でなにが悪かわからないということ。
そして、信仰とはそのわからないこと(神、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経)に
賭けるということ、任すということ。
鎌倉時代を生きた踊り念仏の一遍は、
信じるとは人の言葉に任す(賭ける)ということ、という名言を残しているが。

未来のことはわからない。どうしようもない。だから、賭けるしかない。
未来のことはわからないと、どのくらいまで深くあきらめられるか。
そして、そのデタラメに賭けることができるか。
この本でいちばんおもしろかったのはここだが、
パーフェクトな地震予測をできても逆に困るでしょうって話。
今月の14日に東京大地震が起こると予測できても報道も告知もできないわけ。
なぜなら日本全体がメチャクチャになってしまうわけだから。
みんな東京から逃げようとするし、そうしたらどうなるのって話。
個人的には2020年までに東京大地震は起こるような気がしている。
センター試験は地学で取ったし、地学の成績はやたらよかったから(だから、なに?)。
東京大地震が近いうちに起こるというのは学者先生もおおぜい言っていることだし。
でもさ、そんなことを言ったらだれも不動産を買わないし、
新規事業を起こせなくなってしまう。
このため、みんな無意識のうえで起こらないほうに賭けている。
そんなことを言えば、
たぶん生まれた瞬間にDNAを調べたら先々のことがかなりわかるのではないか。
こいつは病気で早死にするということも出生前判断を極めればわかると思う。
希望は、わからないこと。
現実はそこまでわかったとしても当人がいつだれとどんな出逢いをするかはわからない。
そこまでは遺伝子情報に書き込まれていない。
そのわからないことを信じるということが賭けであり宗教、信心のような気がする。

よく「先の先を読め」とか言うじゃん。先手を打つのが絶対正義みたいなさ、あはっ。
でもでもさ、未来はわからないのだから後手後手のほうがいいかもしれないわけ。
急いで先手を打つと、「慌てる乞食は貰(もら)いが少ない」になる可能性もある。

「現代は激動の時代である。
いつなんどき、世界情勢・政治情勢・経済情勢が変わるかもしれない。
総理大臣がぽっくり死ねば、あわてて原稿を書きなおす必要がある。
それなら、ぎりぎりになってから執筆すればよい。
最新の情報を盛り込んで執筆した原稿のほうが、たぶん出来ばえもよいだろう。
その意味でも、「明日できる仕事は今日やるな」である」(P128)


未来のことなんてわからない。いつどうなるかなんてだれにもわからない。
みんな平均寿命まで生きられるような幻想を抱いているが、
明日すべてが終わるかもしれないわけ。
国家的に見ても、年金や社会保障(医療費)はほぼ破綻しているわけでしょう?
そこはもうあきらめるしかない。どうしようもないと。
でも、結局、なんとかなるわけだから。なるようになるわけだから。
本書のオリジナルは約35年まえに出版されたものらしく、
石油危機がどうだの書かれている。50年後には石油がなくなるとか。
けどさ、2017年現在、まあなんとなっていると言えなくもない。
先々どうなるかはわからない。ならば――。

「なにもかも、きれいさっぱりあきらめて、絶望の上にどっかと腰を据えてみる。
それ以外に方法がないのではないか。
絶望にあわてふためき、おろおろおたおたするのがいちばん愚の骨頂ではなかろうか。
そんなことをしたってなんにもならないのだから」(P188)


麻雀のルールはよく知らないが、あれは配牌(=運)のちからが強いんでしょう?
人生をあきらめたデタラメでいいかげんな仏教ライターの生き方はむかしからこうだ。

「麻雀の配牌で上がり役を決めてしまうのが学者先生のやり方で、
わたしのは、その後の牌のきかたで臨機応変に上がりにもっていくやり方だ」(P213)


なるようにしかならない。明日は明日の風が吹く。未来は未だ来ていない。



甘いものでも食べて「いま」を楽しもう♪

「「行き場」を探す日本人」(下川裕治/平凡社新書)

→ぼくらのタナシンが西村賢太との対話で、自分に職歴がないことを誇っていたが、
サラリーマン体験というものは、こころを壊さない程度ならしても悪くない気がする。
最前の職場はバイトにも社員たれと期待する、見ようによってはいい会社だった。
部下には常時「こうしろ!」と言っていた人がさ、
さらなる上司がそうではないと調子に乗った部下の顔をつぶすために言い放ったとき、
「それはごもっともでございます」と以降手のひらを変えるような上司とかおもしろいぜ。
職場のまえの先輩(1歳年下)は上司のそういう人間味をいちいち愚弄していたが、
わたしは「なるほど」と処世というものを実地で学ばせていただいている感激に震えた。
まあ、そのわたしも先輩とおなじようにあわれ追放されて無職孤独零落、
いまごろみなさまの悪口のいいサカナになっているのでしょうが、
それはまあそんなものよ。つぎはだれがターゲットになるのかな。
わたしもようやく日本のサラリーマンの味わう理不尽さを実体験した。
以下の文章は本当によくわかる。

「理不尽さが募ること――。
会社勤めを続けていれば、それはしばしば起こることだ。
先日も、ひとりのサラリーマンの愚痴を聞いていた。
「いちばん頭にくるのは、上司の『言っただろ』なんだよ。
上司の意図を汲んでいない見積もりなんかを出すと、
『言っただろッ』と怒る上司がいる。
しかし断じていうけど、自分は絶対に聞いていない。
しかしそれをいうと『いった、いわない』の争いになっちゃう。
結局、こっちが黙るしかない」
そんなことは日常茶飯事だという人は多いだろう。
僕はサラリーマンを辞めて三十年近くになる。
しかし、理不尽さへの記憶はしっかりと残っている」(P33)


今月でクビになった工場はトップの方針でミーティングをやらないんだ。
そのことによるマイナス面だけではなく、プラス面もたぶんにあったと思っている。
上司は一対一の口伝えで部下に指示を出す。
上司はそれをみんなに言ったものと思ってしまうが、現実はむろんそうではない。
3人もいらっしゃる知的障害者が伝言ゲームにさらなる妨害を加える。
もうひっちゃかめっちゃかで、
いまでもリネン工場として成り立っているのが不思議なくらいだ。
毎日のように「それは違う」と言われ、言っただろう、聞いていませんの繰り返し。
知的障害者が独自の判断(なんて無理っしょ?)で指令をだすときもあるから現場は修羅。
ぜんぜん楽しくない。いつもピリピリ、セカセカしていて、
みんながおのれのミスを指摘されることを過剰に恐れている。
獰猛に他人のミスを探し回っている企業人としては優秀な上司もいる
(彼の人間くささを社会見学気分で高評価する当方以外のバイトは、
ひとりもらさずみなみな男を嫌っていた。彼の顔を見るとメシがまずくなる等々。
当方がいまの職場に勤務している際にどれほど副工場長の悪評、悪口を聞いたか。
そういうのはすべて自分に密告してくれと頼まれたが、
先生に気に入られる優等生みたいなことはしたくない、
とあいまいにしておいたらこちらがいきなりクビさ)。

さてさて、話を窮屈な日本からアジアに移すと、
本書によるとたとえばタイの工場では女性のみならず男性までが、
会社を辞める理由に友人の退職をあげることが多いらしい。
あの子がいなくなっちゃうと、もうここで働く楽しみがないから辞めるという考え方。
これには多くの日本人が「なにしに会社に来ているんだ?」と怒るという。
かつての長期間アジア放浪でアジア汚染されたわたしはあるまじき暴論を言い放つ。
えええ、毎日の1/3以上を過ごす会社が楽しくなかったら生きている意味がないじゃん。
いまの職場だっておしゃべりをフリー化(自由化/推奨)して、
もっと和気あいあいとやれば(見かけは悪くても)結果的に生産性は上がるのではないか。
人間関係が悪いとどれほど効率性や生産性は落ちるか。
そして、重要なのは人間関係は生産性や効率性のように決して数値化できぬということ。

アジアにはまだ日本に比べたら一発逆転のようなドリームが残っていそう。
しかし、本書にはひとつとしてそういう成功事例は報告されていなかったからリアル。
結局、日本でパッとしないやつがアジアに行ったところでパッとしない。
しかし、アジアにはことさらパッとしなくてもいいという共通認識があるから生きるのが楽。
家族や仲間、友人とそれなりにわいわいやっていれば、人生それでいいじゃん、みたいな。
海外移住は大量の書籍、医療薬品(個人輸入可能か?)が問題となっている。
海外でだらしない居酒屋でもやって、ダメな日本客相手と傷をなめあいたい。
そ、そ、そんなことを考えられるくらい我輩様はワールドワイドな視点を持っているのでR♪

「きみと地球を幸せにする方法」(植島啓司/集英社インターナショナル)

→東大卒でモテモテ、自称宗教人類学者でじつはフリーライターのオジンの本を読む。
2015年刊行だから新刊といっても言いだろう。
東大卒でモテモテのオジンは,
最盛期にまさにバブリーというほかないリッチライフを送った模様。
いまはプチプチ貧困っぽいが、そういうところをみじんも見せないで、
リッチでしかもインテリななオジンを気取っているところがまたいいではないか(いい?)。
「きみと地球を幸せにする方法」ってなにさ? 
そういう考え方が、ある意味ベリーにヘビーにバブリーなんだが。
「きみと地球を幸せにする方法」を教えたがる人って、
切羽詰まった新興宗教の人っぽくね? 
「きみを幸せにする」はまだいいけれど
「地球を幸せにする」ってどこぞの教祖さまっでっか?
で、その全世界を幸せにする方法は「得る」より「与える」ほうがいい。
「与える」ってお布施のことですか?
我慢してバリバリがんばるよりも好きなことをしたほうがいいというのは、
なんとなくわかる(「得る」よりも「与える」!)。
どうして人間って晩年になると幸福論や人生指南をしたがるのだろう。
植島元教授の、好きなことをしていればいいという指導も、
一見スーパーフリーのようだがよくある人生指南のひとつ。
バブルの快楽を骨の髄まで味わい尽くした元大学教授で、
現在は貧困ライターの植島啓司は言う。

「生きる目的は、せんじつめて考えると「楽しむ」ことしかないというのである。
つまり、彼[リーナス/ネット開拓者のひとりらしい]が
リナックス[ネットのシステムみたい]を開発したのは
自分の楽しみのためであって、お金のためではないというのだ。
まさにハッカー[ネットのいたずらっ子]の面目躍如といったところではないか。
リーナスは一〇億円ほどのお金を積まれても
けっして自分の意志を曲げることはなかった。
彼はいま何に価値があるのかわかっていたのだ。
金銭にとらわれず、「好きなこと」しかやらない、
それが彼の生き方だったのである」(P76)


「好きなこと」しかやらない

「好きなこと」しかやらない? 、「好きなこと」しかやらないだと? ふざけんなって話だ。
しかし、いまはダメライターに分類されるだろう遊び人の
植島啓司の言うことのほうが「正しい」可能性も考えられなくはないか。
そのように考えられる柔軟性を持ってもそこまで悪くないのではないか。
真実とは(おそらく)人がそうであってほしいと望む虚妄である。
生まれたときからいままでモテモテでお金にも女にも不自由したことがない男は言う。
イケメン中年男はいまや大学教授でもなんでもなく、そこいらのオジンである。
しかし、自称モテモテ。女が切れない。
熟女からも少女からも愛され尽くした。快楽のかぎりを味わった。それが植島啓司。
肩書に惑わされずスーパーフリーな植島啓司の恋愛論、人間観、教育論を
(こころを無にして)ぜひぜひご拝聴されたし。

「たしかにモテるためのもっともすぐれた技術に、
相手と同じようにふるまえばいいという指南書があった。
なぜなら、だれもが自分を一番愛しているわけだから、
そういう相手の特徴を真似ていると、
相手はいつのまにか恋に落ちてしまうというものだ。
子どもの頃のことを思い出してほしい。
お互いに向き合って、たわいないしぐさを同時にくりかえしているうちに、
笑いがこみあげてきて、
ものすごくなかのいい遊び友だちになったという経験があっただろう。(……)
教育とは、相手が知らない知識を教えこむことではなく、
他人がどうふるまうかを見る機会なのである。
それによってなぜそういうことをするのか考えられるようになる」(P106)


今日 東川口の脳外科へ行った(顔面神経麻痺の治療)。
その後、近くのけっこう大きな公園でポッカポカのなか孤独な、
しかしそれなりに快適な昼飲みを敢行。
本当に小さな子同士って初対面でも仲良くなっちゃうんだよねえ。
相手の肩書とか、相手の夫の生活レベルとか気にすることなく、仲良くなっちゃう。
次回の診察日はクリスマスイブ。なんだかこのへんに仕事をしそうなんだけれど。
ラインでクリスマスケーキにえんえんとイチゴを載せる短期の仕事とか。
このくらいだったらいくらおれでも採用されるっしょ(もうダメかも)。
そうそうモテる方法か。40年生きてきた経験から話すと、モテる人はモテるよ。それだけ。
モテる人が開陳するモテる方法なんて、
蓄財に成功した人の財テク技術みたいでうさんくさい。
植島元教授がおれの風貌でおれ程度の知性しかなかったらモテるか? 
はいはい、論破、論破。

ラオスが大好きだという植島元教授は(「観光」ならぬ)「旅」のよさを熱弁している。

「しかも、一見似ているようだけれど「旅」と「観光」とは
むしろ正反対の概念のようにも思われる。
「観光」はすでに知られた土地を周遊すること。
それに対して、「旅」とは未知の領域に足を踏み入れることを意味している。
もちろん空間的な意味だけではない。
自分の心や感情の動きについても未知な部分に入り込めたら、
それだけで「旅」を成立させることができる。
また、スケジュールがあって、それにしたがって移動するのが「観光」で、
明日のこともよくわからないまま移動するのを、旅という定義も可能だろう。
一方はどこに行こうがすべてが日常の延長であり(だから怖くない)、
一方はどこにいても非日常で、自分でも予想しないことが次々と起こる」(P153)


いつだったか上海経由の中国東方航空(←悪名高い)でビエンチャンと成田を往復した、
成田の職員がラオスの首都、ビエンチャンを知らないのでそのマイナーさに驚いた。
行きと帰りは上海でも違う空港に着陸した、
上海で一泊して翌朝、目的地(ビエンチャン、成田)の飛行機に乗れというのである。
こういうめんどうくさい事情があったから、航空券が格安だったのだと思う。
植島啓司さんではないが、あえて上海の情報を調べずに飛行機に飛び乗った。
現地に行けばなんとかなるだろうと。
結果としては、現地の屋台で(なまの日本人なんてほとんど知らないだろう)
上海庶民と安い串焼きを平らげながらビールを鯨飲するという忘れられない一夜になった。
たまたま中国語を大学で履修していたのも功を奏したのだろう。
(上海のみならず)ラオスもまた観光ツアーで行くよりも、
ひとりでこうして飛び込んでいったほうが絶対おもしろい。
モテモテの植島啓司さんと反対の当方が唯一同感して両手で握手できるところだろう。

「好きなこと」しかやらない

それっていいの? ダメなの? まあ、やってみないとわからないのだろう。
そもそも「好きなこと」がない人のほうが圧倒的に多いというかなしい事実がある。

「因果にこだわるな」(ひろさちや/春秋社)

→やっぱり受賞歴ゼロの売れっ子仏教ライターひろさちやさんの本はいいなあ。
われわれはなにか起こるとすぐに原因を探そうとするじゃない。
ぶっちゃけ、原因がなにかなんてわからないし、
わかっても道は後悔しかないのだけれど。
いつだったか職場で機械の調子が悪く雰囲気が最悪だったときがある。
その最悪のタイミングでわたしが結束機を壊してしまった。
正確には、当方が壊したのかどうかよくわからない。
とにかくよく壊れる年代物の結束機で、長らくだましだまし使っているのである。
しかし、買い替えると百万円を超えるらしく、だましだましのほうがいいらしい。
わたしの言い分としては、わたしが壊したのではない。
たまたま最後に使ったのがわたしだと言いたいわけ。
ひろさちやさんがよく使うたとえだけれど、
満員のエレベータに最後に乗ってピーと鳴らしちゃう人は原因ではないでしょう?
たまたま最後になったから原因のように思われるだけで。
いまの職場がすごいと思ったのは、
結束機に関してだれからもなにも言われなかったこと。
最後に使ったのはわたしだと知っている人も多かったが、
みんなわたしが原因だとは言わなかった。
あの状態だとだれが「わたし」になってもおかしくなかった。
というか、いつ壊れるかわからないオンボロだから、
最後に使った人を原因とみなす風習がむかしからなかったのかもしれない。

原因を考えないって、かなり老賢者のたたずまいを感じさせる態度だと思う。
どうしてわれわれはなにか起こると原因を考えたがるのだろう。
それは「間違った因果論」ではないか。

「「間違った因果論」というのは、
――物事が起きる背後には、必ず原因がある――
というものです。あるいは少し表現を変えるなら、
――原因なくして結果はない――
となります。
このような「間違った因果論」に
われわれは毒されているのです」(P107)


なにが真の原因かなんて人間にはわからないのかもしれない。
そういう世界への畏怖を持とうと、老賢者っぽい仏教ライターはライトに語る。
では、問題が起きたときにどうしたらいいのか。
われわれは原因を考え、原因をめった刺しにするほか道はないように思っている。
しかし――。

「原因なんか追究しないほうがよろしい。
で、原因追及をやめて、どうしますか……?
――縁が悪かった――
と思えばいいのです。どちらが悪いのでもない。
ただ縁の行き違いによってトラブルが生じるのです。(……)
<相手が悪いわけではない。
相手だって一生懸命やってくれているのだ。
しかし、行き違いになった。ただ、縁が悪かったのだ>」(P50)


なにかを悪者にするならば、たとえるなら縁が悪かった。だれも悪くない。
わたしはいま重度の顔面神経麻痺で複数のお医者にかかっている。
こういう「不幸」のただなかで原因探しを始めちゃうと鬱(うつ)の闇へ入っていく。
あいつが悪いとか、自分が悪かったのだとか。
ちなみに苦しさは比較できるものではないが、
犯罪被害者遺族よりも自死遺族のほうが苦悩することが多いような気がする。
犯罪被害者遺族は犯人を原因として恨めるけれど、
自死遺族は自分が悪かったのではないかと死ぬまで苦しむわけだから。

「でも、もう、そういう苦しみ・悩みはやめにしませんか。
原因なんて、いくら考えたって分からない。
すべては因縁によって生じたのだ。
そして、その因縁を過去に遡(さかのぼ)って変えるわけにはいかないのだから、
わたしたちはいまある状態をそっくりそのまま受け取ればいいのです。
それが仏教の教えです。
要するに、仏教の教えはくよくよ考えるな! ということです」(P132)


顔面神経麻痺というのは悩む人はかなり苦しむと思う。
なにせ顔は自分の看板のようなものなのだから。
でも、いくら苦悩しても状態に影響しないし、
原因がわかっても急性期を過ぎたら打つ手がない。
わたしは自死遺族で、そのほかいろいろなマイナスも経験した。
だからか、このたび「また来た」顔面神経麻痺には
それなりにうまく対応している気がする。
いんちき(だからほんものの)仏教ライターひろさちやの愛読者だしね、こちとら。
治るときは治るだろうし、治らなければ治らないと最初からあきらめていた。
いま発症から2ヶ月以上経ったが、
左目のウインクがわずかにできるようになったし、
口笛は吹けないけれど少し音は出るまで自然復活している。
これはなにが原因なのかわからないのね。過去に山のように薬を飲んでいるし。
もしかしたら、医者にかからなかったら、いまもっと回復しているのかもしれない。
いやいや、やはり医者にかかったのがよかったのかもしれない。
けれど、処方薬は無難なものしか出されていないし、なにが効いたのかはわからない。
そもそもどうして顔面神経麻痺になったのかも、究極をいえばわからない。
わたしは外傷性だと思っていたが、そうではないかもしれないという医者もいるし、
さらにおもしろいのは原因はなんだとしても取るべき医療はおなじなのである。
まあ、メチコバールという有名なビタミン剤を処方するしかないという。

「災難にあって、災難から逃れようとしてもがけばもがくほど、
よけいに苦しみが大きくなります」(P97)


顔面神経麻痺でネット検索するといろいろヒットするが、
そういうところに通えば通うほど苦しみが増すような気がする。
具体的には金と時間がかかり、さらに顔面神経麻痺が気になってしようがなくなる。
もしかしたら世界の裏側は「わからない」のかもしれない。
どうして顔面神経麻痺になったのかも「わからない」し、
どうしたらよくなるのかも「わからない」し、
果たしてよくなることがいいことなのかも突き詰めると「わからない」。
みんな「わからない」ということをわかるのが仏教なのかもしれない。
どうして「大風が吹けば桶屋が儲かる」のかは「わからない」が、
現実にそういうことはれっきとしてあるのだから、そういうこともあると認めること。

「ところが、最近は自然科学のほうで、
――北京で蝶が翅(はね)を展げるとニューヨークで大風が吹く――
といったような理論(バタフライ理論と呼ばれています)があるそうです。
自然界の仕組みは、何が何とどう関連し合っているのかは分かりません。
まったく関係がないと思っていたことにもあんがい関係があるものです。
そうすると、大風が吹いたために桶屋が儲かることも絶対にないとは言えなくなります。
しかし、かといって、大風が吹くと必ず桶屋が儲かるかといえば、
これも絶対にそうなるとは断言できません」(P198)


あんがいものごとは因果的に生起しているのではなく、
共時的にあらゆる現象がシンクロ的に連鎖発生しているという華厳的宇宙観のほうが
現実にうまく対応できるのかもしれない。
ひろさちやさんの愛読者だったおかげで
重度の顔面神経麻痺にそこまでもがきあがき苦しむことがなかったような気がする。
まえは大きな活字も読めないほど左目が悪かったが、
いまはこうしてひろさちやや河合隼雄程度の活字の大きい本なら読めている。
あたまを打ったからあたまが悪くなっている可能性は、読者諸賢にご判断をゆだねる。
まあ、むかしからひろさちやとか河合隼雄とか、
そういうあたまの悪い人が読むようなものばかり読んでいたしなあ。
どうしてあたまが悪いのかって、そこは「因果にこだわるな」って話で――。