「今日からシナリオを書くという生き方」(小林幸恵/彩流社)

→わたしの本当の師匠はシナリオ・センター社長の小林幸恵先生かもしれないなあ。
この人には対面でも怒鳴られ、電話でも怒鳴られ、偉い人というものを知った。
世間というものを教えてくれたのがシナリオ・センター社長の小林幸恵先生とも言える。
この人、わたしにはものすごく偉そうなんだけれど、
肩書が上の人や社会上位者にはやたら愛想がいいんだ。
やたら人にシナリオを書け書けと言っているけれど、自分は書かない。
それを指摘したら大声で怒鳴る。あたしをなめるなよ、みたいなことを言う。
小林社長は営業経験もないのに、
営業マンに営業の仕方を教えていると本書で自慢している。
小林幸恵さんってどうしてこんなに偉いんだろう。
答えは、シナリオ・センター創設者の新井一の娘だから。
どうやら新井一とやらは三流商売脚本家でむかし売れっ子だったらしい。
で、シナリオ学校をつくった。新井一の娘は小林幸恵。
父親が死んだあと小林幸恵はシナリオ・センターの社長になる。
社長だから小林幸恵は偉い。人に説教できる。
最近、小林幸恵の息子の新井一樹が副社長になったらしい。
新井一樹もまたシナリオを書いたこともないのにシナリオを教えている。
ろくな社会人経験もないのに、ビジネスリーダーを気取って講師をしているとのこと。
わたしが小林幸恵社長を師匠ではないかと思うのは、そういう世間を教えてくれたから。
世の中、結局そういうもんじゃないですか。
天皇陛下のお子さまは天皇陛下におなりになるでしょう?
成功者のお子さまはかならずといっていいほど大企業に入社する。
小林幸恵先生の偉さがわかるのが、世間を知るってことなんだろうなあ。
いまのわたしは小林幸恵さんを人生の師匠のひとりだと思っている。
なぜなら成功者のお嬢さんで富裕層だから。
なぜなら既得権益を持つシナリオ・センターの社長さんだから。
なぜなら、なにより偉そうで、目下のものと判断すれば大声で怒鳴ってくるから。

師匠の名言をありがたく拝聴したい。

「相手の意見とか気持ちとかをきちんと聞く耳を持っている人は本当に少ないものです。
でも、これではいけないのです。
人間である限り、コミュニケーションをとる手段を持っているのですから、
それを生かさなければ、人間としての意味はないのでしょうか」(P49)


よく言うよ。あなた、わたしの声をいっさい聞かなかったでしょう?
電話しても怒鳴るばかり。
おたくの受講生がわたしの悪口を2ちゃんねるに匿名で書いているのですが、
責任者としてどうにかしてもらえませんか?
こう電話で聞いたときも無視されたなあ。
先日調べてみたら、いまも2ちゃんねるにおたくの生徒がわたしの悪口を書いている。
明日でもシナリオ・センターに電話したら社長は聞く耳を持っているの?
しかし、世の中とはそういうものなのである。
偉い人は偉い。偉い人のお子さんやお孫さんはお偉い。逆らっちゃいけない。
そういうことを師匠は教えてくれたんだなあ。

「人にはさまざまな意見や考え方、見方、感情があって、
また育ち方や環境によっても違ってきます。
そんな当たり前のことが、普段は気がつきにくいのですが、シナリオを書くことによって、
しっかり見えるようになるのです」(P82)


じゃあ、自分が書けばいいじゃん?
そんなことを言えるのはむかしのわたしくらいだが、言ったら怒鳴られる。
世の中は、本音と建前で成り立っているのである。
小林師匠からは、自分はすごいブログを毎日更新しているから読めと言われたなあ。
で、8年まえくらいに読んでみたら、すげえ金持なんだ。
食っているものが高級レストランで、桁がぜんぜん違う。
ふふふ、世の中ってさ、人間ってさ、そういうものなんだなあ。
いまのわたしは師匠の教えがよくわかる。あの人の偉さもよくわかる。
だって、地位も肩書もお金もコネもぜんぶあるんだから、そりゃあ偉いわなあ。
世の中ってそんなもんだぜ。あの人は世間をよく知っていたなあ。
師匠いわく、本音と建前をうまく使え。

「……ちょっと見方が違った人がいても。決して拒否はしない。
そういう見方もあるのねと、まず受け入れることです」(P94)


表ではきれいごとを言って、密室の裏では態度がぜんぜん異なる。
人間ってそんなものだし、そんなことも知らなかったむかしのわたしが恥ずかしい。
「あんた辞めなさい」とか社長先生から言われたもんなあ。
しかし、それが正しく、人間というにはそういうものである。裏表があるものである。
いまは小林幸恵社長を師と仰いでいるから、先生のまえで土下座もできる。
先生のほうが正しかったといまは認められる。過去を反省している。
小林幸恵先生のおっしゃることはなにもかも正しい。

「所詮、この世は男社会。
戦いの中に生きてきた男たちは、相変わらず肩書社会に生きています。(……)
女同士は井戸端会議と称しては、亭主のグチから人の噂話を、
生活の中でうまく取り入れて人間関係を築いていっています。
肩書きも何もかも取っ払い、その人自身で人の前に立つことができない男たち。
男性はきっと女が考える以上に不器用なのでしょう。
組織の中で弱みを出せず、グチもはけず、
ただ溜め込んで今に至るため、
いまだ自分を解放する方法を知らないまま来ているのです。
ですから、友達もできない」(P186)


言うことはいちいちごもっともだが、
小林さんは「新井一の娘」「社長」という肩書を取っ払ったらなにがあるの?
シナリオを書けないのに、シナリオを教えている変な人でしょう?
しかし、こういう方こそが本当の成功者で勝ち組で尊敬すべき偉人なのである。
いまのわたしはようやくそういう世間の事情に気がついた。
もしかしたらちかぢかシナリオ・センターに電話して、
尊敬している師匠先生に過去のお詫びをするかもしれない。
事務所のやつらはちゃんと取り次げよ。電話ガチャ切りはやめろ。
折り返し電話をするのが社会のルールだからな。
持つべきものは師匠である。
わたしの師匠のひとりは新井一のお嬢さんで社長の小林幸恵先生だ。
いまなら師匠の偉さがわかる。ありがとうございました。

「お釈迦さまが説いた、「おかね」ってなんだ?!」(ひろさちや/毎日新聞社)

→お金ほど難しい問題はないと思う。人生、お金っしょ?
だからこれは人生ほど難しい問題はないと言っているのとおなじ意味。
お金って稼げば稼ぐほど(たぶん)お金に縛られてお金を使う余裕がなくなる。
このため、世間で高価値とされるものを購入してかりそめの満足を味わって、
また翌日からはお金を稼ぐことに勤しむ。
お金を稼ぐ能力のない人は、時間的余裕はあるが元手がない。
で、結局激安店の行列みたいなものに加わって、これでいいのだという顔をしている。
お金は稼ぐのも使うのも本当に難しいと思う。
お金を稼ぐには労働するしかないが(いんちき詐欺に騙されちゃあかんよ)、
この労働というものがまたたいそうつまらない退屈なものになっている。
なかにはおもしろく楽しい労働商売もあるのだろう。
たとえば、価格交渉のある商売はお客さんとおしゃべりできて楽しいだろう。
若いころ暇に任せてアジア各地を旅したが、価格交渉はおもしろかった。
こちらがおもしろいということは店主も楽しんでいるのである。
受賞歴ゼロの自称宗教評論家のライターひろさちや氏は言う。

「デパートの正札[値札]も資本主義社会そのもので、
お客さんが誰であろうと正札どおりに売る。
そうすると、デパートの売り子さんは、生活がちっとも楽しくない。
労働時間八時間は、まさに労働・苦役になってしまう。
これは人間として喜びのない生活だ。だから、仕事が終わるとディスコに行ったり、
友達や恋人とグルメをしなければ、気がすまない。
しかし、トルコ人やインド人の商売は、お客さんとの話を楽しんでいる。
それが彼らの生活の楽しみだから、仕事が労働ではない」(P87)


いまはスーパーやコンビニの店員の会話はマニュアルで決められているでしょう。
あれ、つまらないよねえ。
わたしは大学時代、水道橋でコンビニ夜勤のバイトをしていたが、
そこのオーナーが(いい意味で)ものすごくいいかげんな人で、
本来あるはずのマニュアルもなにも見せてもらえなかった。
このためか、けっこうお客さんとおしゃべりすることもあったような記憶がある。
むろん、そんな店はわたしが辞めて5、6年後にはつぶれていたが。
いや、オーナーがちがうフランチャイズに乗り換えただけかもしれない。
お金が目的ではない商売とか、きっと思いのほか楽しいのだろう。
ならば、お金を目的と考えなければ、
あるいは単純作業労働も楽しいものになるかもしれない。
なんのために生きるのかって、それは楽しむためだあよ。楽しまなきゃ損損。

「「賭け」と宗教 あきらめ哲学とデタラメ精神」(ひろさちや/すずき出版)

→いま近所でものすごく時給のいい仕事が出ていてさ。
もちろん、応募したら受かるというわけではないけれど、先着順だって。
でも、応募できないわけ。
職場からも派遣会社からも3月までは働けと言われているから。
そんな契約書を交わした覚えはないのだが、いわば人情の世界である。
で、いざ3月で派遣切りされたら、ろくな求人がないかもしれないのだが、そこは運、縁。
仏教でいう迷いというのは、生活者からしたらAかBか迷うということなのだろう。
ひろ氏いわく、悟りとはAでもBでもどっちでもいいじゃんとあきらめること。
あんがいあと1ヶ月いまの職場にいたほうが
のちのち実りが多いかもしれないわけだから。
大量の女性労働者といっしょに働く体験というのは貴重といえなくもない。
わたしが大学時代小説家養成コース(文芸専修)で学んでいたころ、
当時京都大学の学生だったH氏が芥川賞を取って華々しくデビューした。
よく知らないが、その後も美人女優と結婚したり当方とは天と地の人生のようだ。
でもさ、彼は女性パートの陰湿さとやさしさを実地では知らないわけでしょう?
いわゆるおばさんという人種がどれだけ怖くてどれだけ親切か成功者の彼は知らない。
まあ、上流社会の観念小説しか書けないのだろう。
いや、それでぜんぜん構わないし、そういう作家も必要だが。
言いたいのは、結局なにが善でなにが悪かわからないということ。
そして、信仰とはそのわからないこと(神、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経)に
賭けるということ、任すということ。
鎌倉時代を生きた踊り念仏の一遍は、
信じるとは人の言葉に任す(賭ける)ということ、という名言を残しているが。

未来のことはわからない。どうしようもない。だから、賭けるしかない。
未来のことはわからないと、どのくらいまで深くあきらめられるか。
そして、そのデタラメに賭けることができるか。
この本でいちばんおもしろかったのはここだが、
パーフェクトな地震予測をできても逆に困るでしょうって話。
今月の14日に東京大地震が起こると予測できても報道も告知もできないわけ。
なぜなら日本全体がメチャクチャになってしまうわけだから。
みんな東京から逃げようとするし、そうしたらどうなるのって話。
個人的には2020年までに東京大地震は起こるような気がしている。
センター試験は地学で取ったし、地学の成績はやたらよかったから(だから、なに?)。
東京大地震が近いうちに起こるというのは学者先生もおおぜい言っていることだし。
でもさ、そんなことを言ったらだれも不動産を買わないし、
新規事業を起こせなくなってしまう。
このため、みんな無意識のうえで起こらないほうに賭けている。
そんなことを言えば、
たぶん生まれた瞬間にDNAを調べたら先々のことがかなりわかるのではないか。
こいつは病気で早死にするということも出生前判断を極めればわかると思う。
希望は、わからないこと。
現実はそこまでわかったとしても当人がいつだれとどんな出逢いをするかはわからない。
そこまでは遺伝子情報に書き込まれていない。
そのわからないことを信じるということが賭けであり宗教、信心のような気がする。

よく「先の先を読め」とか言うじゃん。先手を打つのが絶対正義みたいなさ、あはっ。
でもでもさ、未来はわからないのだから後手後手のほうがいいかもしれないわけ。
急いで先手を打つと、「慌てる乞食は貰(もら)いが少ない」になる可能性もある。

「現代は激動の時代である。
いつなんどき、世界情勢・政治情勢・経済情勢が変わるかもしれない。
総理大臣がぽっくり死ねば、あわてて原稿を書きなおす必要がある。
それなら、ぎりぎりになってから執筆すればよい。
最新の情報を盛り込んで執筆した原稿のほうが、たぶん出来ばえもよいだろう。
その意味でも、「明日できる仕事は今日やるな」である」(P128)


未来のことなんてわからない。いつどうなるかなんてだれにもわからない。
みんな平均寿命まで生きられるような幻想を抱いているが、
明日すべてが終わるかもしれないわけ。
国家的に見ても、年金や社会保障(医療費)はほぼ破綻しているわけでしょう?
そこはもうあきらめるしかない。どうしようもないと。
でも、結局、なんとかなるわけだから。なるようになるわけだから。
本書のオリジナルは約35年まえに出版されたものらしく、
石油危機がどうだの書かれている。50年後には石油がなくなるとか。
けどさ、2017年現在、まあなんとなっていると言えなくもない。
先々どうなるかはわからない。ならば――。

「なにもかも、きれいさっぱりあきらめて、絶望の上にどっかと腰を据えてみる。
それ以外に方法がないのではないか。
絶望にあわてふためき、おろおろおたおたするのがいちばん愚の骨頂ではなかろうか。
そんなことをしたってなんにもならないのだから」(P188)


麻雀のルールはよく知らないが、あれは配牌(=運)のちからが強いんでしょう?
人生をあきらめたデタラメでいいかげんな仏教ライターの生き方はむかしからこうだ。

「麻雀の配牌で上がり役を決めてしまうのが学者先生のやり方で、
わたしのは、その後の牌のきかたで臨機応変に上がりにもっていくやり方だ」(P213)


なるようにしかならない。明日は明日の風が吹く。未来は未だ来ていない。



甘いものでも食べて「いま」を楽しもう♪

「「行き場」を探す日本人」(下川裕治/平凡社新書)

→ぼくらのタナシンが西村賢太との対話で、自分に職歴がないことを誇っていたが、
サラリーマン体験というものは、こころを壊さない程度ならしても悪くない気がする。
最前の職場はバイトにも社員たれと期待する、見ようによってはいい会社だった。
部下には常時「こうしろ!」と言っていた人がさ、
さらなる上司がそうではないと調子に乗った部下の顔をつぶすために言い放ったとき、
「それはごもっともでございます」と以降手のひらを変えるような上司とかおもしろいぜ。
職場のまえの先輩(1歳年下)は上司のそういう人間味をいちいち愚弄していたが、
わたしは「なるほど」と処世というものを実地で学ばせていただいている感激に震えた。
まあ、そのわたしも先輩とおなじようにあわれ追放されて無職孤独零落、
いまごろみなさまの悪口のいいサカナになっているのでしょうが、
それはまあそんなものよ。つぎはだれがターゲットになるのかな。
わたしもようやく日本のサラリーマンの味わう理不尽さを実体験した。
以下の文章は本当によくわかる。

「理不尽さが募ること――。
会社勤めを続けていれば、それはしばしば起こることだ。
先日も、ひとりのサラリーマンの愚痴を聞いていた。
「いちばん頭にくるのは、上司の『言っただろ』なんだよ。
上司の意図を汲んでいない見積もりなんかを出すと、
『言っただろッ』と怒る上司がいる。
しかし断じていうけど、自分は絶対に聞いていない。
しかしそれをいうと『いった、いわない』の争いになっちゃう。
結局、こっちが黙るしかない」
そんなことは日常茶飯事だという人は多いだろう。
僕はサラリーマンを辞めて三十年近くになる。
しかし、理不尽さへの記憶はしっかりと残っている」(P33)


今月でクビになった工場はトップの方針でミーティングをやらないんだ。
そのことによるマイナス面だけではなく、プラス面もたぶんにあったと思っている。
上司は一対一の口伝えで部下に指示を出す。
上司はそれをみんなに言ったものと思ってしまうが、現実はむろんそうではない。
3人もいらっしゃる知的障害者が伝言ゲームにさらなる妨害を加える。
もうひっちゃかめっちゃかで、
いまでもリネン工場として成り立っているのが不思議なくらいだ。
毎日のように「それは違う」と言われ、言っただろう、聞いていませんの繰り返し。
知的障害者が独自の判断(なんて無理っしょ?)で指令をだすときもあるから現場は修羅。
ぜんぜん楽しくない。いつもピリピリ、セカセカしていて、
みんながおのれのミスを指摘されることを過剰に恐れている。
獰猛に他人のミスを探し回っている企業人としては優秀な上司もいる
(彼の人間くささを社会見学気分で高評価する当方以外のバイトは、
ひとりもらさずみなみな男を嫌っていた。彼の顔を見るとメシがまずくなる等々。
当方がいまの職場に勤務している際にどれほど副工場長の悪評、悪口を聞いたか。
そういうのはすべて自分に密告してくれと頼まれたが、
先生に気に入られる優等生みたいなことはしたくない、
とあいまいにしておいたらこちらがいきなりクビさ)。

さてさて、話を窮屈な日本からアジアに移すと、
本書によるとたとえばタイの工場では女性のみならず男性までが、
会社を辞める理由に友人の退職をあげることが多いらしい。
あの子がいなくなっちゃうと、もうここで働く楽しみがないから辞めるという考え方。
これには多くの日本人が「なにしに会社に来ているんだ?」と怒るという。
かつての長期間アジア放浪でアジア汚染されたわたしはあるまじき暴論を言い放つ。
えええ、毎日の1/3以上を過ごす会社が楽しくなかったら生きている意味がないじゃん。
いまの職場だっておしゃべりをフリー化(自由化/推奨)して、
もっと和気あいあいとやれば(見かけは悪くても)結果的に生産性は上がるのではないか。
人間関係が悪いとどれほど効率性や生産性は落ちるか。
そして、重要なのは人間関係は生産性や効率性のように決して数値化できぬということ。

アジアにはまだ日本に比べたら一発逆転のようなドリームが残っていそう。
しかし、本書にはひとつとしてそういう成功事例は報告されていなかったからリアル。
結局、日本でパッとしないやつがアジアに行ったところでパッとしない。
しかし、アジアにはことさらパッとしなくてもいいという共通認識があるから生きるのが楽。
家族や仲間、友人とそれなりにわいわいやっていれば、人生それでいいじゃん、みたいな。
海外移住は大量の書籍、医療薬品(個人輸入可能か?)が問題となっている。
海外でだらしない居酒屋でもやって、ダメな日本客相手と傷をなめあいたい。
そ、そ、そんなことを考えられるくらい我輩様はワールドワイドな視点を持っているのでR♪

「きみと地球を幸せにする方法」(植島啓司/集英社インターナショナル)

→東大卒でモテモテ、自称宗教人類学者でじつはフリーライターのオジンの本を読む。
2015年刊行だから新刊といっても言いだろう。
東大卒でモテモテのオジンは,
最盛期にまさにバブリーというほかないリッチライフを送った模様。
いまはプチプチ貧困っぽいが、そういうところをみじんも見せないで、
リッチでしかもインテリななオジンを気取っているところがまたいいではないか(いい?)。
「きみと地球を幸せにする方法」ってなにさ? 
そういう考え方が、ある意味ベリーにヘビーにバブリーなんだが。
「きみと地球を幸せにする方法」を教えたがる人って、
切羽詰まった新興宗教の人っぽくね? 
「きみを幸せにする」はまだいいけれど
「地球を幸せにする」ってどこぞの教祖さまっでっか?
で、その全世界を幸せにする方法は「得る」より「与える」ほうがいい。
「与える」ってお布施のことですか?
我慢してバリバリがんばるよりも好きなことをしたほうがいいというのは、
なんとなくわかる(「得る」よりも「与える」!)。
どうして人間って晩年になると幸福論や人生指南をしたがるのだろう。
植島元教授の、好きなことをしていればいいという指導も、
一見スーパーフリーのようだがよくある人生指南のひとつ。
バブルの快楽を骨の髄まで味わい尽くした元大学教授で、
現在は貧困ライターの植島啓司は言う。

「生きる目的は、せんじつめて考えると「楽しむ」ことしかないというのである。
つまり、彼[リーナス/ネット開拓者のひとりらしい]が
リナックス[ネットのシステムみたい]を開発したのは
自分の楽しみのためであって、お金のためではないというのだ。
まさにハッカー[ネットのいたずらっ子]の面目躍如といったところではないか。
リーナスは一〇億円ほどのお金を積まれても
けっして自分の意志を曲げることはなかった。
彼はいま何に価値があるのかわかっていたのだ。
金銭にとらわれず、「好きなこと」しかやらない、
それが彼の生き方だったのである」(P76)


「好きなこと」しかやらない

「好きなこと」しかやらない? 、「好きなこと」しかやらないだと? ふざけんなって話だ。
しかし、いまはダメライターに分類されるだろう遊び人の
植島啓司の言うことのほうが「正しい」可能性も考えられなくはないか。
そのように考えられる柔軟性を持ってもそこまで悪くないのではないか。
真実とは(おそらく)人がそうであってほしいと望む虚妄である。
生まれたときからいままでモテモテでお金にも女にも不自由したことがない男は言う。
イケメン中年男はいまや大学教授でもなんでもなく、そこいらのオジンである。
しかし、自称モテモテ。女が切れない。
熟女からも少女からも愛され尽くした。快楽のかぎりを味わった。それが植島啓司。
肩書に惑わされずスーパーフリーな植島啓司の恋愛論、人間観、教育論を
(こころを無にして)ぜひぜひご拝聴されたし。

「たしかにモテるためのもっともすぐれた技術に、
相手と同じようにふるまえばいいという指南書があった。
なぜなら、だれもが自分を一番愛しているわけだから、
そういう相手の特徴を真似ていると、
相手はいつのまにか恋に落ちてしまうというものだ。
子どもの頃のことを思い出してほしい。
お互いに向き合って、たわいないしぐさを同時にくりかえしているうちに、
笑いがこみあげてきて、
ものすごくなかのいい遊び友だちになったという経験があっただろう。(……)
教育とは、相手が知らない知識を教えこむことではなく、
他人がどうふるまうかを見る機会なのである。
それによってなぜそういうことをするのか考えられるようになる」(P106)


今日 東川口の脳外科へ行った(顔面神経麻痺の治療)。
その後、近くのけっこう大きな公園でポッカポカのなか孤独な、
しかしそれなりに快適な昼飲みを敢行。
本当に小さな子同士って初対面でも仲良くなっちゃうんだよねえ。
相手の肩書とか、相手の夫の生活レベルとか気にすることなく、仲良くなっちゃう。
次回の診察日はクリスマスイブ。なんだかこのへんに仕事をしそうなんだけれど。
ラインでクリスマスケーキにえんえんとイチゴを載せる短期の仕事とか。
このくらいだったらいくらおれでも採用されるっしょ(もうダメかも)。
そうそうモテる方法か。40年生きてきた経験から話すと、モテる人はモテるよ。それだけ。
モテる人が開陳するモテる方法なんて、
蓄財に成功した人の財テク技術みたいでうさんくさい。
植島元教授がおれの風貌でおれ程度の知性しかなかったらモテるか? 
はいはい、論破、論破。

ラオスが大好きだという植島元教授は(「観光」ならぬ)「旅」のよさを熱弁している。

「しかも、一見似ているようだけれど「旅」と「観光」とは
むしろ正反対の概念のようにも思われる。
「観光」はすでに知られた土地を周遊すること。
それに対して、「旅」とは未知の領域に足を踏み入れることを意味している。
もちろん空間的な意味だけではない。
自分の心や感情の動きについても未知な部分に入り込めたら、
それだけで「旅」を成立させることができる。
また、スケジュールがあって、それにしたがって移動するのが「観光」で、
明日のこともよくわからないまま移動するのを、旅という定義も可能だろう。
一方はどこに行こうがすべてが日常の延長であり(だから怖くない)、
一方はどこにいても非日常で、自分でも予想しないことが次々と起こる」(P153)


いつだったか上海経由の中国東方航空(←悪名高い)でビエンチャンと成田を往復した、
成田の職員がラオスの首都、ビエンチャンを知らないのでそのマイナーさに驚いた。
行きと帰りは上海でも違う空港に着陸した、
上海で一泊して翌朝、目的地(ビエンチャン、成田)の飛行機に乗れというのである。
こういうめんどうくさい事情があったから、航空券が格安だったのだと思う。
植島啓司さんではないが、あえて上海の情報を調べずに飛行機に飛び乗った。
現地に行けばなんとかなるだろうと。
結果としては、現地の屋台で(なまの日本人なんてほとんど知らないだろう)
上海庶民と安い串焼きを平らげながらビールを鯨飲するという忘れられない一夜になった。
たまたま中国語を大学で履修していたのも功を奏したのだろう。
(上海のみならず)ラオスもまた観光ツアーで行くよりも、
ひとりでこうして飛び込んでいったほうが絶対おもしろい。
モテモテの植島啓司さんと反対の当方が唯一同感して両手で握手できるところだろう。

「好きなこと」しかやらない

それっていいの? ダメなの? まあ、やってみないとわからないのだろう。
そもそも「好きなこと」がない人のほうが圧倒的に多いというかなしい事実がある。

「因果にこだわるな」(ひろさちや/春秋社)

→やっぱり受賞歴ゼロの売れっ子仏教ライターひろさちやさんの本はいいなあ。
われわれはなにか起こるとすぐに原因を探そうとするじゃない。
ぶっちゃけ、原因がなにかなんてわからないし、
わかっても道は後悔しかないのだけれど。
いつだったか職場で機械の調子が悪く雰囲気が最悪だったときがある。
その最悪のタイミングでわたしが結束機を壊してしまった。
正確には、当方が壊したのかどうかよくわからない。
とにかくよく壊れる年代物の結束機で、長らくだましだまし使っているのである。
しかし、買い替えると百万円を超えるらしく、だましだましのほうがいいらしい。
わたしの言い分としては、わたしが壊したのではない。
たまたま最後に使ったのがわたしだと言いたいわけ。
ひろさちやさんがよく使うたとえだけれど、
満員のエレベータに最後に乗ってピーと鳴らしちゃう人は原因ではないでしょう?
たまたま最後になったから原因のように思われるだけで。
いまの職場がすごいと思ったのは、
結束機に関してだれからもなにも言われなかったこと。
最後に使ったのはわたしだと知っている人も多かったが、
みんなわたしが原因だとは言わなかった。
あの状態だとだれが「わたし」になってもおかしくなかった。
というか、いつ壊れるかわからないオンボロだから、
最後に使った人を原因とみなす風習がむかしからなかったのかもしれない。

原因を考えないって、かなり老賢者のたたずまいを感じさせる態度だと思う。
どうしてわれわれはなにか起こると原因を考えたがるのだろう。
それは「間違った因果論」ではないか。

「「間違った因果論」というのは、
――物事が起きる背後には、必ず原因がある――
というものです。あるいは少し表現を変えるなら、
――原因なくして結果はない――
となります。
このような「間違った因果論」に
われわれは毒されているのです」(P107)


なにが真の原因かなんて人間にはわからないのかもしれない。
そういう世界への畏怖を持とうと、老賢者っぽい仏教ライターはライトに語る。
では、問題が起きたときにどうしたらいいのか。
われわれは原因を考え、原因をめった刺しにするほか道はないように思っている。
しかし――。

「原因なんか追究しないほうがよろしい。
で、原因追及をやめて、どうしますか……?
――縁が悪かった――
と思えばいいのです。どちらが悪いのでもない。
ただ縁の行き違いによってトラブルが生じるのです。(……)
<相手が悪いわけではない。
相手だって一生懸命やってくれているのだ。
しかし、行き違いになった。ただ、縁が悪かったのだ>」(P50)


なにかを悪者にするならば、たとえるなら縁が悪かった。だれも悪くない。
わたしはいま重度の顔面神経麻痺で複数のお医者にかかっている。
こういう「不幸」のただなかで原因探しを始めちゃうと鬱(うつ)の闇へ入っていく。
あいつが悪いとか、自分が悪かったのだとか。
ちなみに苦しさは比較できるものではないが、
犯罪被害者遺族よりも自死遺族のほうが苦悩することが多いような気がする。
犯罪被害者遺族は犯人を原因として恨めるけれど、
自死遺族は自分が悪かったのではないかと死ぬまで苦しむわけだから。

「でも、もう、そういう苦しみ・悩みはやめにしませんか。
原因なんて、いくら考えたって分からない。
すべては因縁によって生じたのだ。
そして、その因縁を過去に遡(さかのぼ)って変えるわけにはいかないのだから、
わたしたちはいまある状態をそっくりそのまま受け取ればいいのです。
それが仏教の教えです。
要するに、仏教の教えはくよくよ考えるな! ということです」(P132)


顔面神経麻痺というのは悩む人はかなり苦しむと思う。
なにせ顔は自分の看板のようなものなのだから。
でも、いくら苦悩しても状態に影響しないし、
原因がわかっても急性期を過ぎたら打つ手がない。
わたしは自死遺族で、そのほかいろいろなマイナスも経験した。
だからか、このたび「また来た」顔面神経麻痺には
それなりにうまく対応している気がする。
いんちき(だからほんものの)仏教ライターひろさちやの愛読者だしね、こちとら。
治るときは治るだろうし、治らなければ治らないと最初からあきらめていた。
いま発症から2ヶ月以上経ったが、
左目のウインクがわずかにできるようになったし、
口笛は吹けないけれど少し音は出るまで自然復活している。
これはなにが原因なのかわからないのね。過去に山のように薬を飲んでいるし。
もしかしたら、医者にかからなかったら、いまもっと回復しているのかもしれない。
いやいや、やはり医者にかかったのがよかったのかもしれない。
けれど、処方薬は無難なものしか出されていないし、なにが効いたのかはわからない。
そもそもどうして顔面神経麻痺になったのかも、究極をいえばわからない。
わたしは外傷性だと思っていたが、そうではないかもしれないという医者もいるし、
さらにおもしろいのは原因はなんだとしても取るべき医療はおなじなのである。
まあ、メチコバールという有名なビタミン剤を処方するしかないという。

「災難にあって、災難から逃れようとしてもがけばもがくほど、
よけいに苦しみが大きくなります」(P97)


顔面神経麻痺でネット検索するといろいろヒットするが、
そういうところに通えば通うほど苦しみが増すような気がする。
具体的には金と時間がかかり、さらに顔面神経麻痺が気になってしようがなくなる。
もしかしたら世界の裏側は「わからない」のかもしれない。
どうして顔面神経麻痺になったのかも「わからない」し、
どうしたらよくなるのかも「わからない」し、
果たしてよくなることがいいことなのかも突き詰めると「わからない」。
みんな「わからない」ということをわかるのが仏教なのかもしれない。
どうして「大風が吹けば桶屋が儲かる」のかは「わからない」が、
現実にそういうことはれっきとしてあるのだから、そういうこともあると認めること。

「ところが、最近は自然科学のほうで、
――北京で蝶が翅(はね)を展げるとニューヨークで大風が吹く――
といったような理論(バタフライ理論と呼ばれています)があるそうです。
自然界の仕組みは、何が何とどう関連し合っているのかは分かりません。
まったく関係がないと思っていたことにもあんがい関係があるものです。
そうすると、大風が吹いたために桶屋が儲かることも絶対にないとは言えなくなります。
しかし、かといって、大風が吹くと必ず桶屋が儲かるかといえば、
これも絶対にそうなるとは断言できません」(P198)


あんがいものごとは因果的に生起しているのではなく、
共時的にあらゆる現象がシンクロ的に連鎖発生しているという華厳的宇宙観のほうが
現実にうまく対応できるのかもしれない。
ひろさちやさんの愛読者だったおかげで
重度の顔面神経麻痺にそこまでもがきあがき苦しむことがなかったような気がする。
まえは大きな活字も読めないほど左目が悪かったが、
いまはこうしてひろさちやや河合隼雄程度の活字の大きい本なら読めている。
あたまを打ったからあたまが悪くなっている可能性は、読者諸賢にご判断をゆだねる。
まあ、むかしからひろさちやとか河合隼雄とか、
そういうあたまの悪い人が読むようなものばかり読んでいたしなあ。
どうしてあたまが悪いのかって、そこは「因果にこだわるな」って話で――。

「「がんばらない」お稽古」(ひろさちや/PHP)

→お酒が好きで宮澤賢治が嫌いな肩書のない仏教ライターの本をまーた読んじゃったよ。
もしかしたらぼくはひろさちや先生の一番弟子じゃないかなあ。
新刊で本を一度も買ったことはないし(お布施ゼロ)、講演会に参加したこともないけれど。
むろん、ひろさちや先生へのリスペクトはあるけれど、
ひろさんがこのブログを読んだらバカにされたと感じて怒るんじゃないかって、
先日友人から電話で言われたけれど、どうなんだろう。
あの宗教評論家は本当に意地でもネットを見なさそうだからなあ。
弟子をつくりたがって先生と呼ばれて喜ぶような人よりよほどひろ先生のほうがいい。
著書多数のあの人、友人も少なそうだし受賞歴ゼロだし弟子もいないし、
(かわいく)どーしょもねえなあ。
本当に彼岸から世の中をバカにしているのかもしれない。

みなさん真理を求めておられるでしょう? とくに宗教関係の人は。
「真理はわからない」
これが真理だとしたら矛盾しているよねえ。
真理は「真理はわからない」だってわかっているじゃないかって話
でも、わたしなんかは「真理はわからない」が真理じゃないかと思っている。
矛盾を追及されたら矛盾していない人間はいないとさらりとかわす。
「真理は言葉では伝達できない」も矛盾でしょう?
「真理は言葉では伝達できない」という真理を言葉で伝えているわけだから。
このあたりの真理の真理性をじつにうまく描いたのが「歎異抄」の有名部分なのである。
偏差値40の女子高生でもわかるように、ひろ先生の訳もつけておきます。

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
よろづのことみなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、
たゞ念仏のみぞまことにておはします」
[わたしたちは煩悩にまみれた凡夫であり、この世界は無常の火宅であって、
すべてが嘘いつわり、真実は何一つない。
そのなかで、ただお念仏だけが真実である](P34)


要するに、俗世間の価値観はすべて嘘である。
そのことを証明するために真実なるものが必要とされる。
その真実は念仏である。念仏以外はみな嘘いつわりなのは念仏が真実だからである。
そして、念仏の意味は人間にはわからない。
念仏の本当の意味は仏さまにしかわからない。このロジックすごいよなあ。
つまり「真理はわからない」が真理であると上記の文章は主張しているわけ。
ヘルメットをかぶったおっさんにスコップで殴られそうな論理だが、
きちんと剃髪して袈裟(けさ)をまとった坊主に言われたら、
ああ、そういうものなのかと納得したような気になってしまうのかもしれない。
でもさ、20代くらいまでは「真理はわからない」が真理はずるいって怒りそう。
唯一の真理があって、しかしそれはわからないという論理はずるいといえばずるい。

ひろさちや先生は人間関係の助言もありがたくもなさってくださっている。
むかしからよく言われている「自分が変わると、相手も変わる」
とかいう箴言(しんげん/名言)めいたものがあるじゃないですか。
この対人方法のポイントは「相手を変える」ことではないとのこと。
相手を変えようと思って、自分を変えようとすると逆にいらいらしてくる。
自分がこんなに変わっているのに相手が変わらないのはおかしいと。
では、「自分が変わると、相手も変わる」は嘘なのかというとそうではなくて、
「相手は変わらない」と深々とあきらめることが「自分が変わる」の意味。
いままでは変わってくれないかな、と少々は相手に期待していた、
その自分の態度を変えて、「相手は変わらないもの」と心底から断念する。
相手に期待することをやめる。これが「自分が変える」の本当の意味で、
自分が相手にまったく期待しなくなると相手が変わったように見えてくる。

「だから、「自分が変われば、相手が変わる」ということは、
自分が変われば、相手を見る自分の見方が変わる、ということです。
相手そのものが変わるのではなしに、
自分の見方が変わるのです」(P187)


部下を変えようとか会社を変えようとか、
毎日思っている熱烈社員のストレスってすごそう。
部下は脅えるだけだし、会社は集合体だからひとりの働きかけでは変わらない。
でも、それは部下が悪いせいだ、会社が悪いせいだと思って、
さらに部下や会社を変えようとする。
いつかストレスでダウンしてしまうのではないのだろうか。
部下は変わらないし、会社はこんなもんだとあきらめたら、
少しはリラックスできるのだろうが、
むかしから仕事についてある種の職人的洗脳をほどこされてきたものは、
毎日しんどいことばかりだろう。
部下を変えよう、会社を変えようと思うが、部下も会社も変わらない。
それどころか部下は自分から離れていく。
自分の休みの日には部下全員がニコニコして自分の悪口を言っていたりしたら、
自分の努力や情熱はなんだったという絶望に襲われかねない。
「相手は自分の思う通りには変わらない」と気づくことが、
「相手に対する自分の見方」を変える適切な方法なのだろうが、
それがわからないとつらい。

はあ、やれやれ。
人生、どう生きたらいいんだろう。たとえばABふたつの選択肢があったとする。
ひろさちや先生はAでもBでもどっちでもいいのでは? という方針らしい。
サイコロでも投げて決めたらいいという。
理由はAとBのどちらがいいかは、いまの段階ではわからないからである。
要点を整理すると、たしかにそうなんだよなあ。
1.未来がどうなるか、われわれには分からない。
2.したがって、欲得計算にもとづいて未来を設計しても無意味である。
3.AとBのどちらがいい(=得)かは不明。ならばA、Bどっちでもいい。
わたしだって1週間まえはいま自分が鼻と肋骨を折っているとは思ってもいなかった。
それにしても肋骨が痛いぜ。
いったいこれから人生どうなるのかしら。
どのみち、なるようにしかならないのだろう。

「世捨て人のすすめ」(ひろさちや/実業之日本社)

→仏教ライターのひろさちやさんにわたしほど影響を受けている人がいるのかどうか。
ひろ氏の本を参考書として、長年仏教を独学してきた当方の結論を書いてしまおう。
最終回のようなものは必要でしょう? 翌週からパート2が放送されるとしても。
毎日、閉店セールをやっているような店を好む感情が
氏と我輩様に共通する感情かもしれぬ。
仏教の究極結論とはなにか? それは――本当にこれを書いてしまっていいのだろうか。
知らないほうがいいこともあるので、
やばい空気を察知なされた敏感なかたはここでストップを。
仏教の最高真理とは――。

☆    ☆    ☆    ☆

師匠よりも弟子のほうが偉いということ。
仏教の真髄は、師匠よりも弟子のほうが偉いことにある。わからないかなあ。
法然よりも親鸞のほうが偉いでしょ?
法然は理論で肉食や妻帯を肯定したけれど、死ぬまで清浄だったわけだから。
親鸞は法然の教えを実践化して、たぶん女も肉も食いまくったはず。
その親鸞なんかより千倍以上偉いとわたしが思っているのは唯円。
唯円は親鸞の弟子で国民的ベストセラー、わが国の聖書「歎異抄」の著者だ。
「歎異抄」の著者の唯円は師匠とされる親鸞に、
若いころ短期間おそばについただけ。直接会話したのも10回未満かもしれない。
唯円がこれが唯円の考えていることだと書いても世間は認めてくれないのだ。
世の中でもっともたいせつなのは権威(肩書、血筋、家柄、学歴)。
唯円は自分の信心を書いてもだれからも見向きもされないことを知っていた。
だから、権威のない唯円はこれは親鸞の教えだとうそぶいて「歎異抄」を書いたのだ。
しかし、それは親鸞の真っ黒い家系からは完全無視され、
それどころかおいしい部分だけ横取りされてしまうという悲惨な結果になる。
わたしは全人生体験を賭けて言うが、
弟子の唯円のほうが師匠の親鸞などよりはるかに偉かった――。

しかし、そんな本当のことを言っても始まらないというのは事実だ。
弟子のほうが師匠よりも偉いというのは、なかなかご理解いただけない発想だと思う。
繰り返すが、法然よりも親鸞は偉い。
なぜならタブーの肉食も女漁りも親鸞は平気の平左でしたからである。
イエスなんかも弟子の妄想だけでできあがった想像上の人物とも言えなくもない。
どうしたらわかっていただけるのか。
ユングよりも河合隼雄のほうが偉い、と申し上げてもダメだよなあ。
ユングの偉さを発見して真似をしないで、
自分が日本のユングになったのが河合隼雄だが。
これならおわかりいただけるか。
創価学会二代目会長でアル中だった戸田城聖よりも、
どっから見ても池田大作さんのほうが偉いでしょう?
じつのところ師匠を偉くしているのは弟子なのだが、
弟子はどうして自分が師匠よりも偉いと思えないのか。
わたしから見たら創価学会の上層部よりもはるかに末端の信者さんのほうが偉い。
弟子のほうが本当は師匠よりも偉いのに、
どうしてか弟子はある人を師匠としてあがめたがる。

個人的な具体例を身もふたもなく書いてしまえば、
売れっ子仏教ライターのひろさちや先生よりもわたしのほうが偉いでしょう?
だって、ひろさんは口だけだもん。口では「で・あ・い」とか言っている。
人生はデタラメだから、あきらめて、いいかげんに生きよう。
「デタラメ・あきらめ・いいかげん」の頭文字を取って「で・あ・い」。
けどさ、ひろ先生の人生を見たら、堅実というほかない、ちょーマジメな計画的人生航路。
本人はほとんど「で・あ・い」を実行していないのに、
読者にはおかしなことをすすめている。
わたしはバカ正直にもひろさちや先生の教えを信じて、
人生はデタラメだと悟り、
おかしな夢はあきらめて、
ほどほどいいかげんの人生を終えられたら、
という「世捨て人」体勢に入った。
そうしたら、どうしてか人生が少し上向いてきたような錯覚があるのだから。

そもそもお釈迦さまはひと言も書き記していないわけ。
ぜんぶがぜんぶ、弟子の聞き書き。
師匠がこう言っていたような気がするなあ、という。
いや、師匠がこう言っていたからおれは絶対に「正しい」みたいな。
仏教ってきっとそんなもんなのである。
どんなものなのかと言うと、「弟子のほうが師匠よりも偉く正しい」。
それぞれがそれぞれに釈迦の弟子を自称するとき「正しい」人になる。
ひろさんなんかより弟子の我輩のほうがよほど偉いのだが、
いちおう師匠めいた人の言葉を引用しておこう。
言うまでもなく、わたしなんかよりもこのブログの読者の解釈のほうが偉くて「正しい」。
「正しい」意見は弟子の数だけある。
どの意見もみなみな絶対的に完全に「正しい」。

「仏教は、決して教条主義の教えではありません。
それぞれの人が、それぞれに自分の生き方を見つける。
それが大事なことなんです。
釈迦世尊は、きっとそれを望んでおられます」(P6)


なんでみんなイチローが好きなんだろう?
わたしはイチローよりも清原のほうが百倍以上好きである。
あはっ、ひろ師匠の教えに逆らっちゃったかも。

「いま、アメリカの大リーグで活躍しているイチロー選手は、
日本のプロ野球のき球団に入ったとき、
その打法を変えるようにコーチ[師匠]から言われました。
コーチというのは専門家で、
専門家[師匠先生]は選手を弄(いじ)くり回すことを飯(めし)の種にしています。
しかし、[弟子の]イチロー選手は強い信念を持って、
そのコーチ[師匠]のアドバイス[指導]を拒否しました。
普通であれば、彼はそのまま消えてしまったでしょうが、
[運がよく]幸いに監督が彼を支持してくれたので、今日のイチロー選手があるのです。
われわれも、主体性・強い信念なしに専門家[師匠/指導者]に頼ってばかりいると、
専門家[名誉会長/幹部]に弄くり回されることになりかねません」(P42)


これをお読みになられた瞬間、
いや私は師匠に絶対服従すると誓いを新たになされた貴殿は、
当方と意見が異なるがゆえにそれもまた、
その個性的な意見ゆえに、とてもとてもどこまでも「正しい」ことこのうえない。
あなたはあなたのままでいい。

「プロ野球選手のうちには、監督[師匠]やコーチ[指導者]の
「期待」に応えようとするまじめな選手もいます。
しかし、まじめな選手は、監督[会長]やコーチ[幹部]が変わると、
新しい指導者の「期待」に応えようとして、個性を失うことが多いのです。
むしろ自分の欠点を売り物にした選手が、大物に育つそうです」(P199)


なら、おれはひろさちや先生の「期待」に徹底的に逆らってやる。
明日から社会人として世間常識には盲目的に従い、
決して夢をあきらめることなく、
いいかげんな手抜きなどいっさいしない人生を送ってやる。
ほうら、師匠よりも弟子のほうが偉い(え? え? え?)。

「「昔はワルだった」と自慢するバカ」」(小谷野敦/ベスト新書)

→ワルっていうのは持って生まれた才能のようなものだと思う。
平気でワルをできるモラルの壊れたテンネンの人とかすごくねえ?
権威あるシナリオ・センターの講師をブログでボロクソに書く早稲田のやつとか、
自分を慕っている愛読者夫婦をモデルに私小説を書いて満天下に恥をかかせる、
もてるくせに「もてない男」のふりをする東大卒の愛煙家とかさあ。
自分はワルではないと思ってナチュラルにワルができる人ってすげえなあ。
それに比べたら「昔はワルだった」なんて反省できる人は、
まだまっとうな善悪観念を失っていないから本当のワルの足元にもおよばない。
「もてない男」の著者は哲学者の中島義道氏が「もてる男」だと知り嫌いになる。
「もてない男」小谷野敦氏による「もてる男」中島義道氏の分析がおもしろい。

「七人の女性から求愛・求婚されたというのも、
中島が女性嫌悪者だったからだと、私は思う。
というのは、日本の女は多く女性嫌悪者であって、
やはり女性嫌悪者である三島由紀夫に、女の読者が多いのも、そのせいである。
女は、女好きの男を嫌うし、母親と仲のいい男を嫌う。
だから、母親を嫌っている中島は、もてたのである」(P81)


この説が「正しい」ならば逆もまた真なのかどうかは、
論理学を勉強したことがないのでわからないけれど、いちおう書いてみよう。
小谷野が七人の女性から求愛・求婚されたことがないのは、
彼が女性嫌悪者ではないからである。
小谷野が三島由紀夫を嫌いなのは、三島が女性嫌悪者のせいだ。
女性嫌悪者ではないから小谷野に女の読者は少ない。
女は、女好きの男を嫌うし、母親と仲のいい男を嫌う。
だから、母親が大好きだった小谷野は、もてなかったのである。
以上は「正しい」のかなあ、どうなのかなあ。

経験から言うと、「もてる男」って男から見てもいいやつが多いよねえ。
「もてる男」なんて表面がいいだけだろうと「もてない男」は思いたいけれど、
接してみると「もてる男」は内面も「もてる男」がゆえにひねくれておらず、よい。
「もてない男」は「もてない男」ゆえに外見同様、内面も汚らしいという。
中島義道さんとかワルどころか、絶対にだれかさんよりもいい人だもん。
中島さんとか障害者を目にしただけで申し訳なくなって涙にむせぶこともあるんしょ?
なにより反省するってことを知っていそうだしね。
自分はワルかどうかなんて反省もしないのが本物のワルで、
本物は本物だから「昔もいまも自分はワルではない」と正面切って言えるのである。
誤解されると困るが小谷野さんはワルなどという範疇におさまる小物ではない。
小谷野と名前は「小」がついているが大コヤノである。
先生はモノホンでいらっしゃるのである。

「実のところ、私は人が死ぬのを望むのを悪いことだとは思っていない。(……)
私は、自分が恨みをもっている者はもちろん、老いてなお権力を握り続けるような人は、
早く死なないかなあと思っているのだが、善人に限って早死にするのである」(P127)


あれ、小谷野さんってもう死んでいたっけ?
くれぐれも健康診断を怠らないでください、
とひとかけらもワルの部分がない小谷野先生のご健康を心配してしまう。
それにしても痛快な本音でまったく同感する。早く死ねっていうやつが多すぎ。
自殺は利他行為という以下のご発言も間違っていない。

「個人だってそうであって、もしあくまで利他的に振舞おうとしたら、
死ぬのが一番ということになってしまう。
大学受験に受かったら、その分落ちた人がいるし、
何かの職を得たら、やはりその分職を失っている人がいるわけである」(P128)


ひとつの勝利(成功)は無数の敗北のうえに成り立っているのだから(高校野球!)、
人生で大勝利をおさめた人というのは大勢を泣かせたワルなのかもしれない。
大勝利した人にかぎって、なかなか死なないんだよなあ。
人生で大敗北した人は、それだけ多くの人を勝利させたのだからワルではない。
小谷野師匠のご本はいろいろ考えさせられ勉強になる。
もうすぐ、ちくま新書から師匠の最新刊「宗教に関心がなければいけないのか」が出る。
あのときのメールで住所を書いていたら献本してもらえたのかなあ。
世の中そんなに甘くはないか。

「阿呆の知恵」(ひろさちや/角川oneテーマ21)

→役に立つって、どういうことなんだろうね?
人の役に立つってどういうことなんだろう?
ぶっちゃけ、複雑な現実世界では、
人の役に立とうと思ってもなかなかうまくいかないわけでしょう?
なにか人のお役に立てたと思うのは、あんがい本人の浅い思い込みだけで、
本当は相手の寛容や寛大に依拠しているところが多いという可能性もある。
ボランティアなんかとくにそういうところがあって、
ありがた迷惑なんだけれど、
相手は善意でなにしろ役に立とうと思っているのだから尊重しなければならない。
「人の役に立ちたい」なんて思っている人はそれが正義だと思っているから、
孤独が好きな人のところへ、善意から相手のためを思って、
合コンやバーベキュー、ボランティアへ誘ったりするのだろうから。
孤独に強い人も(孤独を愛する人といったら大げさだから)
そのように誘われると「人の役に立ちたい」などと思って、
「人の役に立ちたい人」のお誘いをいやいやお引き受けすることになる。
仕事で人の役に立ちたいなんていうのもけっこう大嘘でしょう?
というのも、あなたがその仕事をやったせいで、だれかの仕事を奪うのだから。
仕事というものは、
世間体を気にしてする金儲けの手段だと割り切っていたほうがいい。
ニートや無職を役立たずっていうけれど、
彼らが全員就労意識を見せたらすぐに仕事なんかなくなるよ。
競争倍率も激しくなり、求められる仕事内容も給料に比して過酷になり、
どんどん世界はギスギスしていくのではないかしら。
いまは求人したら百人くらいの応募は当たり前だそうだが、
そうだとしたらニートや無職も大いに世間さまのお役に立っているとも言えませんか?

とはいえ「役に立つ」のが是であるという価値観が
この世を支配している妥当性はわかる。
給料を払う身としては、使えない(役に立たない)やつには辞めてほしいだろう。
しかし、使えない人も役に立っているとも言えよう。
なぜなら使えない人がいるから、役に立つ人が評価されるからである。
みんながみんな使える役に立つ人なら同一色で、だれも目立ちません。
世の中はご縁(相対世界)で、どの社会集団でも、
使えるやつと無能なやつに分かれるのだと思う。
別のジャンルに立ったら、その関係は逆転するかもしれないが、
その世界でも役に立つ、役に立たないの優劣関係は相変わらずである。
わたしは男だからよくわからないが、
女のほうが役に立つかどうかの意識に敏感だから
一歩下がる術を知っているのだと(処世術もあり)持ち上げておく。
身もふたもないことを言うと、女は男に必要とされるものだよね。
女は男の性欲解消のために必要。子育てのために女が必要。
看護士とかいうけれど、男女ともに男はいやで、やっぱりナースでしょ?
役に立つのは偉いっていうけれど、
無料の売春婦ほど人様のお役に立つ存在はないと思うが、
なぜかそういう「使える」存在は女からのみならず男からも見下される。
軽い知的障害が入っていて、だれにでもやらせる若い女の子は、
観音菩薩みたいな存在だと思うこともできるが、世間はそうとはみなさない。
けれど、そういう風俗業界では多くの客を取れる使える子が評価されるも事実。
すぐにやらせるキャバクラ嬢は客にとっては使えるが、店にとっては困りもの。
できる使える優秀なサラリーマンが部下を、
「あいつは使える/使えない」などと評価する目は非情だよねえ。
「あいつは東大出なのに使えない」とか大喜びする中年男とか大勢いそう。

とはいえ、彼が家に帰ったらどうか。
認知症になって入院している老親は使えないが、それでも生きていてほしいと思う。
障害を持っていてまともな社会生活は無理そうな子にも、
いやそれだからこそ、わが子に愛情をいだく。
「使えない人」を切実に求めている人が「使えない人」を断罪するというこの矛盾。
役に立たない人がいるおかげで相対的に(ご縁として)役に立つ人が目立つわけで、
もしそうだとしたら「使える/使えない」「役に立つ/役に立たない」
といった二分法はあまりに近視眼的すぎるだれをも幸福にしない、
生き生きとさせない、社会全体を圧殺するような評価基準なのかもしれない。
仕事ができない人がいるから、仕事のできる人が評価されるわけでしょう?
ならば、できる人は使えない人に感謝すべき、という考え方もあっていいはず。
「できないことを誇りに思え」(山田太一ドラマ「風になれ鳥になれ」
とまで主張するのは大げさかもしれないけれど、
いまの社会の閉塞感を思うと、あえてそう大声で言ったほうがいいいのかもしれない。

「できないことを誇りに思え!」(渡哲也)

いまの日本には勝者にしか発言権がないかのようである。
勝ったものしか意見を言えない。勝ったものの言うことが正義になる。
けれども、ひとりが勝つためには99人あるいはそれ以上の敗者が必要なのである。
ならば、敗者こそ胸を張ってもいいのではないか。
わざと負けて相手を勝たせてやる行為のほうがよほど英雄的ではないか。
わざと負けて相手をうまく勝たせる天才はプロレスラーの天龍源一郎だった。
敗者がいるから勝者や大勝利者が光り輝くのである。
ザコがいるから相対としてボスキャラみたいのも生まれるのである。
テレビゲームのドラクエでいちばん弱い(?)スライムなんか、
とってもかわいいではないか。
むしろ、弱いほうが使えないほうが役に立たないほうが「かわいい」のかもしれない。
「かわいい」というのは女子高生が頻用するとされる革命言語である。
いまの弱肉強食社会を革命するパワーを「かわいい」は持っている。
あの人って「役に立たない」けれど、そこが「かわいい」――。
あいつは課長のくせにぜんぜん「仕事ができない」のだが、
社長に「かわい」がられている。
生殖能力の低いパンダってよく考えたら生きている「必要はない」んだけど、
むしろそういうところがパンダは「かわいい」――。

女子高生みたいに、なにかを「かわいい」と思う価値判断を持ったらどうだろう。
「役に立たない」「必要とされない」「できない」ものも「かわいい」と思えるのが人間だ。
わたしは女子高生を「かわいい」から好きだが、
とくに必要としているわけではないし(犯罪っす)、ことさら必要とされたくもない。
女子高の警備員でもやって、
1日ぼんやりかわいい女子高生を見ているのも楽しいのかもなあ。
ちょっとまえそういうアルバイトのチラシをひと気のない夕方の公園で
黒服の青年に渡されたことがあり、
わざわざわたしの役に立とうとしてお待ちくださったのかと思うと
あたまが下がる思いだったが、
なにもしないで立っている警備員は最後のとりでという思いもあり、
なにもしないでいい警備員にはまだなれないおのれの娑婆っ気を恥じながら、
わざわざチラシとお名刺をいただいたのに、
ありがたいお誘いを無視してしまったことがある。
あのときの青年には深くお詫びしたい。
もしかしたら近いうちにお世話になるかもしれませんし、よくわかりません。
女子高警備だったらいいですが、道路警備にまわされたらきつそうだし。
警備員というのは法律的に必要とされているだけで、
実際はほとんど役に立っていない。だが、そこがいいのだろう。
自宅警備員(ニート)のみなさんも
かならずだれかのお役に立っているのだから、胸を張れ!
いや、役に立っていないことを誇れ!

もうすぐ死ぬ受賞歴ゼロの宗教ライターはこう言っている。

「世の中の人は、だいたいにおいて「役に立つ」ことばかり考えています。
いや、自分でそう考えるのではなく、
知らず知らずのうちにそう考えるように仕組まれているのです。
世の中の役に立つ人間にならないといけないよと、
幼児においては親からそう教えられ、
のちには小学校、中学校、高校、大学でそう教えられ、
就職してからは会社でそう教えられてきました。
そのように教えるのが文明であり、荘子の言う人為です。
その人為を捨てて無為自然に帰ることを教えた書が『荘子』です。
だからここでも、『荘子』は、
――役に立たないことのメリット――
を力説しているのです。
樹木であろうと、人間であろうと、役に立つものは酷使され、扱(こ)き使われ、
すぐにぽいと捨てられてしまいます。だから、役に立つ人間になるな!
そう『荘子』は教えてくれているのです」(P21)


考えてみたら、骨董品とか美術品ってまったく役に立たないよねえ。
とくに骨董品なんか、ただたんに「古い」というだけで価値があるようなものもあるのでは?
骨董の皿を実用の食器として使うのは、なんか成金趣味っぽくて嫌味だしね。
本当のぜいたくは役に立たないもの(人?)を愛(め)でることなのかもしれない。
ひるがえると、いまは役に立たないものってないじゃん。
みんなリサイクルでなんでもかんでも役立てようとする。
いったい役に立たないものってなにがあるだろう。
そっちのほうが希少価値があるとも言えなくもない。
まずひろさちや先生のご本は役に立たないよね。
いや、少なくともうちのブログよりはだれかの役に立っているか。
出版社や書籍流通に貢献している。
無意味なもの無駄なもののかわいさのようなものは、
女子高生にしか発見できないのかもしれない。
しかし、同調圧力の極めて強い環境で生きる彼女たちは、
すぐさま男に必要とされ(男性)社会に求められる人材になるべく
「かわいい」から巣立っていく――。
「かわいい」は青春の正義とも言え、
その無常観や虚無感、刹那(せつな)さがとてもとてもとっても「かわいい」。