「トークセミナー『性愛』大論点」(三枝威彰ほか/小学館文庫)

→各界の成功者が、お互いを立てあってベシャクったところの男女論。
去年ある老嬢から、
自分は男に生まれたかったという話を長々と拝聴させていただく機会があった。
女はダメ。女だといくらがんばってもダメ。女では出世できないじゃない。
苦労人の彼女はバツイチで娘さんを女手ひとりで立派に育て上げた。
離婚の理由は、相手のセックスが強すぎたから。
年下の男だったが夜ごと毎晩、こっちが壊れれしまうくらい身体を求められる。
それが、とにかくいやだった。別れた。
こう語る女性のお嬢さんは商業高校を卒業後、大企業の印刷会社に就職。
仕事一筋、ずっとおなじ会社で働いているらしい。男とは縁がなくいまだ独身。
30代後半大企業正社員。
お見合いをしてみないかというようなことを示唆されたが、
そんな真っ当な人と当方が合うはずはなかろうとこわごわ辞退させていただいた。
なにより、めんどくせっ、というこちらの怠惰な精神が問題だった。

結局、男ってなに? 女ってなに? という問題にいま好奇心を抱いている。
・男は力仕事をしなければならない。しないと男らしくないと非難が集中する。
・男はいい会社に入っていい妻をめとりはらませ、妻子を養うのが義務である。
・男は弱音を吐いてはならず、なにごとも辛抱、忍耐しなければならない。
・女は男をサポートするのが義務で、男の仕事を家事育児雑用で支えるべし。
・女の人生は男で決まる。いかに男に好かれるかが勝負の分かれ目。
・女は男の性的消耗品。おのれの性欲より男の性欲を重んじなければならない。

いまの職場では男性よりも圧倒的に女性のほうが強い。
なぜなら女性はかなりの割合で旦那もちのパート主婦。
お金が必要なのは男女ともにおなじだが、
主婦は旦那の定収入という太いパイプがある。
しかし、男の派遣やメイトはこれで生活していかなければならない。
実家住まいならいいだろうが、ひとり暮らしでこの収入だと貧窮は避けられない。
かような理由で、いまの職場ではババアもといおねえさまが強くなるわけだ。
女はカネの事情に敏感だから、格下と見たら男をなめてかかってくる。
「供給」をやっているとき、短期バイトの気の強そうなおばさんに、
バンバンと番重(お菓子を入れる箱)をたたかれたことがある。
ここのお菓子がもうすぐなくなるぞ、と言いたいのはわかるが、口で言えよ。
おれら「供給」はてめえら亭主持ち富裕ババアの奴隷ではないからな。
「バンバンはないでしょう? 口で言ってください」
と短期バイトのおばさんに伝えたが、意味は伝わらなかったと思われる。
あたしはちゃんとした正社員の亭主も子どもも複数いる正規日本人。
どうせこんなところで力仕事をやっている非正規のあんたなんかたかが知れている。
あんたはサルみたいなもんで、言葉をかける必要はないのよ。
おばさんからは「供給」の仕方もからかわれたなあ。
「供給」には男性陣みんながしている身体に負担がかかる雄々しい(男っぽい)
方法と、これだったらあるいは女子でもやれるかという楽な方法があるのだ。
「あんた腱鞘炎なの?(どうしてみんなとおなじように男らしくしない?)」
と聞かれて、「こうしたほうが楽なんです」と答えたら鼻で笑われたような気がする。

男は男らしくしろよ!

男らしいってどういうことだろう?
力仕事をいやがらずにやって、
嫌いな新人には大声で怒鳴って威張るのが男らしい男なのだろうか?
職場にやたら女から慕われ、
女々しいおれさまを怒鳴ってくる愛すべきパチンカスがいるけれど、
ああいうのが男らしいと女から評価されるのだろうか。
本当の男らしいってどういうことだろう?
男の男たるゆえんは体力や罵声、強靭性にあるのではなく、
むしろ思念にあるのではないか。いわゆる「男のロマン」と呼ばれるやつのことだ。

「……男を支えているのはそうしたロマンチシズムであると思うんです。
負ける、死ぬとわかっていても、
それでも行かざるをえないのが男というかな。
男からロマンをとったら、もう何も残らない。
ただのぬけがら、粗大ゴミそのものだと思うんですね」(P105)


女性ってよくも悪くも壮大なロマン(誇大妄想)と縁がないよねえ。
つねにそれは損か得か、おいしいかまずいかの視点しか持ちえないのが、
女性の愛すべきところであろう。
誤解を恐れずにいいはなつと女性は商品。女性は男性に買われる商品。

「女性には、潜在的に大切にされたい、
自分を安く売りたくないという警戒心がありますよね。
性的な関係をもったなら見返りを得るべきという刷り込みが、
マスコミや親から色々な形でなされているんだと思うんです。
それが結婚という保障であったり、
あるいは単純にプレゼントすることだったりするのですが、
とにかく求めますよね」(P63)


いや、そうではない女性もけっこういることを
わたしは人生体験から知っているのだが、しかし一般的にはそうともいえよう。
いったい女性の性欲ってどうなっているんだろう。
一般的に女は男によって性の歓びを教わることになっているが、
じつはそうではないでしょう?
どんな厳格な家に育った少女も14歳ころおのずから自然に性に芽生える。
公立中学校っておもしろい。
なぜなら、選抜された高校大学と違って賢愚、貧富がさまざまだから。
公立中学校なんて男は顔がすべてである。
クラスの最高権力者だったイケメンが
まじめな優等生の同級生女子にこんな悪ふざけをしていたのをおぼえている。
怖いものがないイケメンは偶然を装って学生カバンを女子の股間に押し当てるのである。
ゆっくりピストンさせる。そのまま無言で押し黙っていた優等生女子。
しばらくしてから「なにするの?」と精一杯粋がって抗議する。
イケメンは「毎晩やっているんだろう」と返した。
成績優秀の女子はまさに顔を赤くしてその場から逃げ出したものである。
当時うぶだったわたしはこのシーンの意味をわからなかった。
しかし、長いこと記憶していたから、決してそこまで純真な中学生ではなかったのだろう。
夜ごといけない、いけないと思いながら、自慰にふけっている女子中学生とかいいよねえ。
よくパンチラする子とかいたけれど、あれはわざとだったのだろう。
修学旅行のときの内輪話で聞いたら、男子はみんなその子に注目していた。
女の性欲は男ほど可視化されていないぶん、それだけおもしろいし関心がある。
性交中、女が気持よがったってそんなものの大半は相手を喜ばせる演戯ではないか。
男が女を落として寝てやって攻略したという満足感もどこかしら演技的欺瞞の香りがする。
本当の快楽は男や女という区分を超えたところにあるのではないかと有名AV監督はいう。
代々木忠の言葉である。セックスにおいて――。

「いや、だから、その〝壊れる”っていう自分は、まだ本当の自分じゃないんですよ。
自分だと思い込んでいるけれども、そう思ってる自分というのは、
じつは「人からよく見られたい」と世間に合わせて作ったものだったり、
見栄やプライドが捨てられなかったりする自分だったりするわけだから、
言ってみれば〝制度の世界で造られた自分”ですよね。
それは、言葉を変えれば〝自我(エゴ)”でしかない。
そうした、無意識のうちに作り上げてしまった、
エゴに隠れている本当の自分自身を解放してあげるのが、
[AV監督という]ぼくの仕事でもあるわけです」(P120)


女は女らしくすべきか? 男は男らしくすべきか?
男は男らしくしろという社会的圧力は異常なほど強い。

「男のほうが、肉体的な刺激や快楽で勝負しちゃってる傾向が強いと思いますね。
女性は心で感じるんだという、本当のところがわかっていない。
男らしさとかSEXの強さという世間一般の概念にとらわれ過ぎているんです。
そういう意味では、男のほうが自由じゃない。
男がカッコつけてたり、強がってるのは結局、自分の弱さを隠しているわけでしょう。
本当はそれを隠さずに出しちゃったほうが、女性は安心すると思うんだけど、
それをわかろうとしない男というのは本当に多いですね」(P131)


かぎりなくインチキくさい宗教学者の中沢新一も本書に登場している。
おれもさ、どっか世界の僻地に行ってね、
そこの宗教指導者と酒でも飲み交わしてマブダチになり箔(はく)をつけて、
日本に帰国してから新興宗教のトップになりたいなあ。
チベットで箔をつけて帰ってきた宗教学者の中沢新一いわく――。
チベット密教の修業はセックスと類似性がある(似ている)。

「チベット密教の方法にも、どこか似ていますね。
向こうでは、瞑想するときに女に変身するんですよ。
それで〝大楽(だいらく)”という状態を作り出すんです。
それは性器は使わないんですが、
イメージの世界で完全に女性の神様になってしまうことで
オーガズムを体験する。ぼくも嫌いじゃないから、その訓練というのを体験して、
いまでもときどきやっているんですが……」(P154)


いまの日本って恋愛(性愛)しかないような気がする。
テレビドラマもマンガも大衆娯楽小説も、主題のほとんどはそれ。
マッチポンプだわな(自分で火をつけて消すこと)。
テレビで恋愛(性愛)バンザイをさんざんやらかして、
その影響を受けた庶民が真似をして、
結果やっぱり数字(視聴率)を取れるのは恋愛(性愛)ものだと大企業も判断する。
大企業も広告代理店もテレビ局も視聴者も
みんな恋愛(性愛)という阿片(あへん/麻薬)のとりこ。
わが人生での最大の後悔は、
インドで何度となくすすめられた麻薬や覚せい剤をやらなかったこと。
落ちぶれたいまなら烈しい恋愛をふくめどんな阿片も吸引する準備ができている。
カモン、カモンの状態なのだが、男はゴーゴーというのが社会規範。
男は男らしくとか女は女らしくとかうんざりだけれど、現実がそうならば従うほかあるまい。



ここ↓のマドレーヌはおいしいから食べて。

「セックスレス亡国論」(鹿島茂・斎藤珠里/朝日新書)

→ラカンじゃなかったかと思うけれど、
紅毛人のお偉いさんが、みな「他人の欲望」を生きているだけじゃないかと、
まあ有名な言葉だがそんなことを言っていたような気がする。
恋愛とかセックスとかいまは「自分の欲望」ならぬ
「他人の欲望」に成り果てているのではないか。
テレビドラマや映画、大衆雑誌、娯楽小説を読んで性愛というものにあこがれをいだく。
自分も「他人の欲望」を解消したいという思いである。
男が無修正AV動画をみて、いろいろな性交渉にあこがれるなんてその典型だろう。
おそらく現代日本の恋愛、性愛、性的関係は、
グルメ情報(願望)とおなじように「自分の欲望」ではなく「他人の欲望」の模倣。
みんながいいって言っているから恋愛や性愛、肉交渉を求め、
しかしそれらがテレビドラマのように得られず苦しむものも少なくないのではないか?
しかし、あなたやわたしは本当のところなにを求めているのか?
正真正銘「自分の欲望」といえるものはなにか?
みんなから好ましく思われる人を好きになり、
みんながそうしているからという理由でありきたりな恋愛模倣行動を繰り返し、
みんながしているように「他人の欲望」のままに最後に性器を接続するのではないか?
そして、みんなのようにそれを快楽と錯覚して満足するのではないかしら。
そして、そうしてみんながしているように結婚して子どもを産み、
男は仕事、女は育児&家事(&パート仕事)。
女のほうの苦労が多いような気がするけれど、これは宿命と思っていただくほかない。

セックスレスが増えると子どもが産まれず国が亡びる?
べつに国が亡びたっていいではないか? そんなことはわれわれには関係あるまい。
国が亡びるから恋愛しろ? 働け? セックスしろ? 出産しろ?
あなたもわたしもお国のために生きているわけではないことを忘れないでおきましょう。
なんのために生きるのか? 
答えは人によってさまざまでそれぞれ「正しい」のでしょうけれど、
わたしは「他人の欲望」ではなく「自分の欲望」を見極めたいがために、
いまのところいやだなあと内心どこかで思いながらも生きているところがある。
どうしてギャンブル依存症(パチンカス)やアル中は問題視されるのに、
セックス依存症(恋愛体質)のみ肯定的な価値判断をされるのかわからない。
まあ、酒でもパチンコでも女でも男でも教祖でも、好きなものがあるってことはよろしい。
ゲームが好きでそれで当面生きているというのもぜんぜん悪くないし、
むしろきつい肉体労働をいとわずしているのならばどこかのカスおっさんよりも偉い。
セックス(恋愛)依存症はパチンカスやアル中、ヤク中とおなじ病気といえなくもあるまい。
いいか、仕事依存症、労働依存症、ワーカーホリックもパチンコ狂いとおなじだからな。
しかし、それが悪いというわけでもない。
ことさら称賛されるべきかはわからないけれど。

もうすぐ(会社から)消えるから書いちゃおう。
いまの職場でさ、だれかは書かないけれど、
ラインに立っている女性労働者ふたりの雑談を
耳にしたときはけっこう興奮しちゃったかも。
男性派遣労働者の品定めをしていたのである。
「どっちがあれ(セックス)がうまいだろう」――。
女性の性欲は最後まで隠しておいたほうがいいような気がする。
あからさまにあってもないふりをしておいたほうが亡国しないかも、あはっ。
いや、セックスレスでこの国が亡んでもぜんぜんかまわないのだが。
女子中高生の性欲ってどうなっているんだろう?
ない人はまったくないって聞くしね。これは男子も同様で個人差の世界。
性に目覚めたうぶな女子中高生とかプランタニエでええなあ。



聞いた話だと、埼玉コージーコーナーのマドレーヌは投げても壊れないのも魅力のひとつ。
買え、買ってけろ、お買い求めください。お金がほしい。

「オール・アバウト・セックス」(鹿島茂/文春文庫)

→仏文学者の鹿島茂教授のご著作を拝読する。
セックスにまつわる本の雑誌連載書評を1冊の書籍としてまとめたものである。
当たり前のことだが、自分のセックス経験、セックス嗜好は書いていない。
たとえば、いままで何十人(何百人?)の女子大生を食ったとかさ。
いや、著者はインテリだし、長らく女子大の教授だったから、
ある変態性に芽生えたということは本書から読み取れる。
たぶん大学教授の著者は、女子大生から無数の恋愛相談を受けたことだろう。
そのなかには自分が好意を持っていた学生もいたはずである。
彼女がバカな男に寝取られていると知ったときのマゾ的な快感。
これこそ最高の性的快感ではないかと、
宗教人類学者の植島啓司とおなじように著者も思っているのではないかとうかがわれる。

もう人生沈没寸前なのだが、いちおう早稲田一文卒なのである。
文学部なんてほとんどオスはいない高偏差値のメスの盛り場である。
ある子から初体験の想い出を聞いたなあ。
なんでも早稲田近くの小料理屋でバイトをしていた。
そこで知り合った高卒の自衛官に処女をささげたとか。
男はきっと未通女(おぼこ)の早稲女を食ったとほうぼうで自慢したことだろう。
彼女は彼女であたしは愛されていると満足げであった。

一般的な話をすると――。
男は女を支配したい(その象徴がフェラチオ)。
女は男に支配されたいが、支配されたくないふりをしなければならない。
ある女性の作家がこう書いているという。

「十六から十七歳くらいのときに、ムチャクチャ痴漢にあってまして、
そのときに私の体が女だからだ、と気づくんですね。
私が嫌悪していたものが、なんだ実は〝ゴチソウ”じゃないかって(笑い)」(P158)


そうそう、女であることはゴチソウなんだよ!
わたしの夢は来世でゴチソウたるそこそこかわいい女の子に生まれて、
わざとパンチラしたり胸チラしたりすることなのかもしれない。
あんがい痴漢に性的快感を教えてもらう女学生に生まれ変わったりして。
基本的に男はS(エス)で女はM(エム)とみて間違いなかろう。
ある女性作家はセックスよりもエム的な行為にむしろより上質な快楽を感じるらしい。

「挿入されると、感じますが、感じ方が、何か違うんです。
性的快楽というより、彼の思いのままにされている快楽の方が勝っているんです。
惨(みじ)めな姿勢で好き勝手にされているという快感.
私はずっと声を上げていましたが、タオルが次第に濡れてくるのがわかります。
抗議の言葉一つ上げられないことを思い知らされ。
それがますます、私をMの快楽に押しやるのです」(P112)


話は変わるけれど、Mの快楽で生きている労働者って多そう。
苦しまされると萌える男女労働者のあわれさと高貴さよ。
あんがい人が働く理由ってMの快楽のためではないかしら。
わたしはたぶんSだが、SはSでもMを直接的にいじめるわけではなく、
放置プレイを味わっていただきたいという特殊なサディストだと思う。

日本って各国に比べていちばんフェラチオが安い国なのだとか。
わたしは常日頃から来世は女になりたいと願望しているが、フェラチオはしたくない。
いまはどうやら男らしいのだが、フェラチオは無理っしょ、
という異性への思いがある。べつにしてくださらなくても。
あれって愛情確認みたいなものだよね。
そんなに女っていいのだろうかという非生物学的な思いもなくなない。
それほど女って目を血まなこにしてまで求めるものなのか。
それは威張りたがる男よりも優しい女のほうがいいけれど、
女にもやたら威張りたがるいまは性的価値のない怖いおばさんという人種がいるし。

性的嗜好がけっこう似ていると思う団鬼六の処女作は以下のようなものらしい。
あらすじ紹介である。

きっぷがよくて美人の水茶屋の女お町は、
盗っ人を捕らえたために、その情婦の恨みを買う。
情婦の配下に誘拐された恩人の娘を救い出そうと
敵地に単身乗り込んだお町は廉恥心を失わず、サディスティックな責めに耐える。
それが余計に男たちの欲望を刺激する……(中略)
SM作家やアーティストというのは、
少なくともそのデビューにおいては、
他人を喜ばせるというためよりも
自分の欲望に満足を与えるために筆を執っているのである」(P51)


どうしようもなくセックスはよくわからん。
こちらとしてはどうしても無理というおばさんが、
夜ごとご主人さまとの営みで女の歓びに打ち震えているかもしれないわけだから。



埼玉コージーコーナーのケーキやお菓子はだれがつくっているのか知っている?
本当のこと、知りたい?

「悪女入門」(鹿島茂/講談社現代新書)

→フランス文学者である国民的人気学者の鹿島氏のご著作を拝読する。
フランス文学者とはなにか? 大学のフランス文学部教授であるということ。
教授ってなに? お偉いさんってこと。
大学でフランス文学を研究して教えているから著者はその筋の権威である。
だけどさ、フランス文学(小説、戯曲、詩)を研究するってどういうことなのだろう?
原文でおフランスものの作品を読むということだろう。
いったいそんなことをして、なんのためになるのだろう?
原文でおフランス作品やその評論を読むことのどこがご立派なのか?
大学でフランス文学を教えるってどういうこと?
文学(小説、戯曲、詩)は他人から教えられるものではなく、
それぞれ勝手に好きなものを好きなように読んで楽しむものでしょう?
旧「もてない男」の小谷野敦さんも言っているが、
文学研究ほどわけのわからないものはない。
本書は国民的なフランス文学部教授の著者が、
女子大で女子大生に向けて、こうしたら男にもてると講義した内容がオリジナル。
こうしたら恋愛上手になり、こうしたら男にもてるの根拠はフランス文学オンリー。
ものども頭(ず)が高いぞよ、おフランスさまはこうおおせである。
というのが外見はフランス文学入門書、
正体は(20年近くむかしの)女子大生向け恋愛指南本の本書の内容だ。
おら、いなかもんじゃけん、さっぱりわからん。
なしておフランスものが「正しい」のかのう。
ここは日本じゃなかばってん?

「文藝春秋」ともベタベタの関係だから、著者はおフランスの最高権威なのだろう。
ちなみにわたしが世界でいちばん嫌いな国はフランス。
おフランスさまによると――。
「悪女」とは「ファム・ファタル」のこと。
「ファム・ファタル」とは――。

「恋心を感じた男を破滅させるために、
運命が送りとどけてきたかのような魅力をもつ女」(P10)


わかりにくいよねえ。それは、つまり――。

「意地悪く言ってしまえば、失うべき何物も所有していないそこらのダメ男が、
なじみのスナックのあばずれ女に入れこんで、
新聞の三面記事にでも出てきそうな事件をひき起こしたとしても、
また安っぽい男性タレントが淫乱な女性タレントにのめり込んでも、
その女をファム・ファタルとは呼ぶべきとはないということです」(P12)


はあ? ファム・ファタルとかわけわっかんね。
おれ、いま失うものはなにもないし、ならファム・ファタルも寄ってこないだろう。
以下にわが国におけるフランス文学の権威であられる鹿島茂教授の
お言葉をせんえつながら引用させていただく。
著者のお言葉がなぜ「正しい」かといえば、おフランス文学をいっぱい読んだから。
そして大学教授で著書多数で、マスコミからひっぱりだこだから教授は「正しい」。
みなのもの、ご託宣をありがたく聞きたまえ。
そしてわずかでも本書の紹介者に好感を持ってくだされ。

「女と猫は呼ぶと来ないけど呼ばないと近よってくる」(P42)

「恋愛においては、羞恥心を最も効果的に使った女性が
最終的に勝利を収めるということを忘れないようにしてください」(P66)

「そうです、ほとんどの女性が誤解していますが、
男をひきつける女の魅力とは、美貌でもスタイルでも、
ましてや心や頭でもないのです。
男がかくあってほしいと願う女に自分を重ね合わせる変身能力、
これこそが一般に「女の魅力」と呼ばれているものの根源です。
この能力を欠いている女性は、たとえどんな美人であっても決してモテません。
また美人でない人が整形して美人になっても、
この変身能力を獲得しないかぎり、モテるようにはなりません。
イメージ動物たる男は、あるがままの女ではなく、
自分の心の中の女に向かって欲情するものだからです」(P85)


ここまではたまたまフランス文学の権威と意見が一致した。
だが、以下はそうではないのではないか、
と2017年まで生き延びた昭和51年生まれの男は思う。

「男というのはなんとも哀れな生き物で、
常に自分をほかの男と比較して、その優劣に一喜一憂しているのです」(P29)


正しくは「鹿島茂教授はというのはなんとも哀れな生き物で、
常に自分をほかの男と比較して、その優劣に一喜一憂しているのです」かもしれない。
「女はめんどうくさいから嫌い」
これは職場の大先輩である男らしいSさんがロッカールームでおっしゃっていたことで、
入ったころは男から何度も大声で怒鳴られ(あいつ女にはやさしいのにケッ)
大嫌いだったが、いまではとても親しみを感じる彼とももうすぐお別れである。
フランス文学とは縁のない日本の庶民の色恋事情にたまらなく興味がある、
あと少しだけ女社会で働けるようなので自己研究を深められればと思っている。



男って自分を甘やかしてくれる女性を好むんじゃないかしら。
スイーツといえばマストなのは銀座コージーコーナー。
埼玉コージーコーナーではなく、銀座コージーコーナー♪
おすすめ↓買ってネ。



(関連記事)
「SとM」(鹿島茂/幻冬舎新書)
「SとM」(鹿島茂/幻冬舎新書)

→どれだけ知識が偏っているのかと笑われるかもしれないが、
著名なフランス文学者(ってなに?)の鹿島茂氏のことはまったく存じあげなかった。
本書を読んで笑えて笑えて、生きているのってちょーおもしろいと思ったので、
ブックオフオンラインにて著者の本を複数購入してしまったよ。
世の中にはおもしろい本ってまだまだあるんだなあ。
著者の肩書だけが主張の根拠のちっとも学問的ではないヨタ話なのだが、
そこがいい。とっても笑えておもしろい。あんた、おもしろいことを書くなあ。
SとMは、サドとマゾで、加虐嗜好と被虐嗜好と言えるだろう。
マゾっていう言葉はすごいよなあ、と思う。
じつのところ苦しみは苦しみではなく、苦しみこそ快楽だって意味でしょ?
これほど深い人生思想はめったにお目にかかれないのではないか?
人間は楽を目指すように一見思われているが、
じつは苦にこそ快楽は宿っている。
苦行は快楽だから修行としておのれを痛めつけている修行者がいる。
苦行をしている人は偉いのではないのかもしれない。
彼(女)らは苦行が本音のところでは楽しいのかもしれない。
著者は宗教における苦行と快楽についてこう語っている。

「あまりに苦しく、あまりに怖いと、
脳がそれを緩和するためにドーパミンを放出することが実際にあるのです。
[引用者注:ちなみに著者は脳科学者でもなんでもない、ただのフランス文学オタク]
これと同じことが宗教の分野でも起こります。
多くの宗教では、抑制や禁欲を通り越して、
自分に苦痛を与えて痛めつけるという修行がおこなわれますが、
この宗教的な修行なども、「我慢する」が、ある限度を超えてしまうと、
ランナーズハイのような快楽に転化するという例とみなされます。
涅槃(ねはん)の境地というのは、おそらく、
こうした快楽となった禁欲・苦痛のことなのでしょう。
自己規律のレベルがものすごい人物をたまに見かけると、
「スゴイ!」と尊敬してしまいそうになりますが、
しかし、我慢をしている当の本人は、
案外、そのことで快楽を得ているかもしれないのです」(P38)


マゾの楽しさを深く知る著者はサドの不足を嘆く。
うまくマゾをいじめるようなサドが、まあいないのである。
サドとマゾのどちらが楽しいかといったら圧倒的にマゾである。
しかし、マゾが苦の快楽を味わうためには、
うまくサドにいじめてもらわなければならない。
マゾはサドに自分勝手にいじめてもらいたいわけではないのである。
自分の望むようないじめかたをしてもらいたい。
女にとって壁ドンは理想だが、うまい壁ドンをやれる男はまったくいないということ。
マゾよりサドのほうがはるかに難しい。
サドはマゾの気持を読んでいじめなければならないのだから、
より人の気持がよくわかる切れ者でなければならない。
人間はマゾで苦しみたいという面があるのである。
うまく苦しむのは快楽なのである。
社畜や仕事中毒者ほど人生の快楽を享受している人はいないのかもしれない。

「ところが、人間というのは、
「みんなの前で、お尻をむきだしにされて、鞭(むち)でビシビシと打たれる」
というような苦痛や屈辱を味っていると、なぜか、
それに快楽を感じるという回路が作られてしまうらしいのですね」(P64)


性的願望として女になっていじめられたいと夢想している男は多いのではないか。
女になってちからで強引に恥ずかしいところをむきだしにされたい。
女になっていやいや恥ずかしいポーズを取らされたい。屈辱にまみれてみたい。
好きな男から支配されて、あえて露出の多い格好をしろと言われたい。
人から支配されたい、はずかしめられたい、欲情されたい。

「もちろん、SMにも性的エクスタシーはあります。
セックスに近いものではあります。
ただし、SMの上級者にとって、
セックスは「恥ずかしさ」を出すために利用する程度のもので、
明確に「SMよりも下のもの」なのだそうです。
その理解に関しても「いいSがいない」からなのです」(P92)


SよりもMのほうが快楽が高く、しかしけれどもいいSはいないという困った状況だ。
うまくいじめてくれるSをMは求めている。
しかし、人は善人ぶりたがるものだから、なかなかMを効果的にいじめられない。
ついつい善人ぶってMの本当に望んでいるものを誤解するのである。
苦しむのを喜びとしている人のほうがはるかに多いのだから、
職場では平等や公平など考えず、マゾにはきつい仕事を振ったほうがいいのである。
バイト先で、この人はマゾだなあ、と思う大好きな人が幾人かいる。男女ともにである。
たぶんわたしはサドで、いじめられているマゾを見るのが楽しい。
それも優秀なサドで、マゾの快楽を理解したうえで、あえでサドの立場にいる。
名前を出しちゃいけないのだろうが、あの人なんかマゾでしょう。
ライン(流れ作業)できついところに振られたとき、
かなりの快楽を味わっているのではないか。
その快楽をどこかでわかっているから、わたしはちらちら見るのである。
マゾは苦痛を快楽と考えるから、あえてあまり声をかけない。
ただし、あなたの苦しみはわかっているということはアピールする。
マゾの場合、恋愛や友情が成立してしまったら、快楽は終了するのである。
だから、めったにいない稀有ないいサドであるわたしは相手の気持を尊重する。
繰り返すが、マゾのほうがサドよりも快感が強く、
そしてマゾ的快楽はだれにでも味わえるがサドはなかなか難しいのである。
苦しんでいる人を見て平気でいられる精神の持ち主は貴重なSである。
Mの気持がわかるSほど、よりMに深い満足を与えられるのである。
わたしは千人にひとりレベルのサドの素質を持ち合わせているようだから、
わざわざ志願してマゾになりたいとは思わない。苦しいことはしたくない。
マゾに奉仕する「サービスのS」でありたく思う。

「カルメンはドン・ホセの気持ちをもてあそびながら、
どんな束縛からも逃れようとする「自由な女」のように思えるのかもしれないけれど、
実際は、そうすることで、ドン・ホセのひそかな願望をかなえ、
究極のクライマックスに向かって
彼を駆り立てるという「サービス」をしているのです。
やはりSは「サービス」のSなのでしょう」(P150)


本書で高名なフランス文学者の著者が指摘していることだが、
日本人はマゾ体質な人が多い。苦しむのを喜びとしているマゾが多い。
サービス残業や労働中毒という苦を快楽に転化する能力を持つのがMである。
Mの快楽が成立するためにはSがいなければならない。
マゾの快楽というのはサドの視線があってはじめて発生するのである。
わたしはあえてMのために稀有なる貴重なSでありつづけたいと思う。
Mのように苦しい仕事をするのはいやだ。
けれども、ほかの凡庸なMとは異なり、
わたしは苦しんでいるMを無視せず直視するSの才能が少しばかりあるようだ。
SがいるおかげでMの快楽が増すのならば、わたしの存在価値もなくはない。
Mの気持がわかって、にもかかわらずSに徹せられる人のことを、
著名なフランス文学者で有名大学教授の鹿島茂氏は
「天然のS」と呼んで絶賛している。
きっとMはMのままで、SはSのままでいいのだろう。
Mのほうが快楽は高まるのでしょうが、あえてわたしは損なSの役を引き受けたい。

「映像夜間中学講義録 イエスタデイ・ネヴァー・ノウズ」(根本敬/K&B)

→ふつうさ「見えないものを見る」ってイイ事とされているじゃないですか。
くだらねえ通俗的成功者とかがいかにも訳知り顔で言いそうな気配がぷんぷんする。
ほかの人が見えないものを見ることが成功の秘訣です、
とかドヤ顔、ドヤ声であいつらは言うだろう。
でもね、だけどさ、「見えないものを見る」というのは狂っているということと同義なんだ。
そうでしょ? ふつうの人が見えないものが見えちゃったら、
それはおかしいよと多数派から排除されてしまう。
見えないものが見えたことを口にしなければ排斥されないのだろうけれども、
実際そういう見えないものが見える人というのは、ここだけの話まあおかしいことが多く、
このため言わなきゃいいものを見えないものが見えたことを公言してしまうわけ。
そんなことをするから危険視されて周囲から疎まれる結果になってしまうのに。

ふつうの人が見えないものを見てしまうというのは妄想パワーが強いということ。
具体例で話そう。バイト先の話。
いつだったか4ラインのほうで、パート女性が大声でヒステリックに泣き叫ぶ声が聞こえた。
異世界の住人が出すような異常な声でわくわくしたものである(←え? わくわく?)。
古株パートのAさんに聞いたら、社員とパートがトラブったらしい。
「よくあることよ」って言われたけれど、えええ、こんなことがよくあるの?
「おもしろい職場ですね」と言うしかなかった。
その翌日だったか、数日後だったか。
ライン(流れ作業)でわたしのとなりに見たことのない女性が入った。
いま書籍や雑誌を日本各地に出荷する倉庫でバイトしている。
で、そのくだんの女性の本の箱への入れ方がめちゃくちゃなのねえ。
こんなことを書いても一部関係者にしかわからないでしょうけれど、
型番20の箱に文庫を縦に3つ並べるという荒業を自信たっぷりに女性はする。
そういえばずっとまえにも一度だけこの本の入れ方を見たことがあったと気づく。
こうしてわたしの妄想は暴走して、
いま横にいる女性こそ先日大声で泣き叫んだ人に違いない。
この人には触れちゃいけないんだ。たぶんこちらの被害妄想でしょうけれど、
わたしもまたバイト先でアレな人のように上から思われている気がする。
上から「毒をもって毒を制す」をやられているのではないか。
きっと試されているに違いない。火薬のにおいがする。ふふふ、この地雷は踏まないぞ。
こんなことを考えたらおかしくてたまらなくなった。
本当のことを知ったら、なんでもなかった。
横の女性は泣き叫んだ人とは別人で、最近新しく入った人だったというだけ。

ここからが難しいというか、おもしろいというか。
いわゆる妄想に生きていたほうがそれなりにハラハラやドキドキを味わえるわけだから。
現実なんか知らないほうが劇的な生を楽しめたと言えなくもないわけ。
「見えないものを見る」っていうのは、
コクのある人生を送るために必要なことかもしれない。
しかし、現実を取り違えているわけだから、ある種の近所迷惑を起こしかねないのも事実。
陰謀説とかもそうだよねえ。
フリーメーソンがどうだとか、なにか悪者がいてこの世を支配されているという妄想。
そういう妄想を生きている人は、本人はだよ、周囲ではなく本人は楽しいのだと思う。
医学的に絶対回復不可能な盲目の人が新興宗教に入って、
熱心に勤行したらかならず目が見えるようになると信じているのは、
本人にとっては救済になっているのだけれど、周囲からしたら痛々しいことこの上ない。
かといって、新興宗教の人だけがおかしいわけではなく、我われもまたおかしい。
我われもまた起業したら幸せになるとか、自分は平均寿命まで生きられるとか、
そういう現実ならぬ夢のようなもの(つまり妄想)を信じて生きているわけだから。
とりあえず正社員になって、結婚して子どももいればゴーカクみたいなさ。
しかし、こっちのほうは広く共有されている物語(妄想)のため、
むしろこちらを信じていたほうが生きやすいということはあると思う。
とはいえ、いくら正社員でも家族がいても、人生つまらないものはつまらない。
かえって、まっとうに生きれば生きるほど人生はどんどん退屈になっていくのではないか。
まっとうなアダルト人生を生きていると、子どものような興奮や刺激を味わえなくなってしまう。

そこで改めて「見えないものを見る」技術が問題となってくるわけだ。
ユングが発見し、河合隼雄が日本に紹介したシンクロニシティという考え方がある。
シンクロニシティは共時性や同時性とも呼ばれる、意味のある偶然の一致である。
シンクロニシティの怪しいところは、当事者にはどれだけ深い意味があっても、
周囲の人にはほぼ理解してもらえない偶然の一致であることだ。
統合失調症(精神分裂病)の人はシンクロニシティを感じやすい。
あらゆる偶然に意味づけしてしまい、
その小さな意味が本人のなかで積み重なることで追跡妄想や監視妄想になる。
集団ストーカーとか言っているアレな人も間違いなくそうでしょう?
だれもあんたのことなんて気にしていないのに、
シンクロニシティなんてことを考えると
知らない人の咳払いにまで意味を読み取ることになってしまう。
で、ここが難しいというか、おもしろいというか、
本当のところはその咳払いにも自分との関連で意味や理由があるかもしれないことだ。
それを集団ストーカーというありきたりな物語に収束させるのではなく、
偶然を偶然のまま味わうことで自分だけの物語を作れたらおもしろいのではないか。
「見えないものを見る」というのは精神医学的にはかなり危ないけれど、
危険なことほどスリルがあって日常の退屈を吹き飛ばしてくれるのではないか。

本書の著者の根本敬の求めているのは、どこまで自覚的かはわからないけれど、
上記のような偶然を生かしたおもしろいことの発見にあるような気がする。
著者はこんなことを言う。

「オカルト的なもの全般から、霊だの前世だの来世だの輪廻転生、霊界の類やら、
神仏から宇宙意志まで、非・科学的とされるもの総ての否定を大前提にしてもですね、
数学的な確率論だとかを以てしても、説明のつかないワザワザな偶然、
それも、いちいち手の込んだ出来すぎた偶然の一致が余りにも多すぎるのは
何故だろうかって、よく考えるんです」(P64)


それは根本敬さんが狂っているからとも、無意識に開かれているからとも言えよう。
はっきり言って発狂直前にいるのだろうが、
特殊漫画やらなにやらを表現することでかろうじて、
まだこっちの世界に踏みとどまることができているのだと思う。
シンクロニシティというのはプラスの面も非常にあるのだろう。
シンクロニシティということを考えると、つまらない人生が少しばかり楽しくなってくる。
それどころかシンクロニシティこそ本当の人生の道しるべかもしれない。

「――偶然と偶然がネットワークを拡張して、必然に結実していく過程ってのがあって。
網のね、その網の結び目のあのギュッとした感じ。
あんな具合に、偶然って、密集してるところには密集してんですよ。
偶然が起こらないとか、それに気付かないってのは、その結び目に居ても、
占いと違ってタダだからって、
街頭のティッシュ配りから受け取ったって扱いしかしてないんじゃないかな。
さもなきゃ、結び目に居ないって事でしょう。
「オカルト」や「スピリチュアル」の餌食になってもいけないけれども、
偶然が降りかかって来れば来る程、行き着く先は地獄でも天国でも、構わないけど、
とにかくそれは「合格」なんだよ。
通過点かもしれないけれど、「今、いるべき場所」なんだと思う」(P66)


この感覚は当方とてもよくわかるけれども、わからない人にはわからないと思う。
たとえば、こういう話。ある特別な日にたまたまある店に入ったとき、
流れていた曲がとても自分との関連の強いもので、
そういう偶然のことに見えない世界の存在を確信して深く感動する、みたいなさ。
根本敬のおもしろさは、
シンクロニシティの行先は天国だけではなく地獄もまたあると言っているところ。
シンクロニシティは祝福されたバラ色をしているのではなく、
いやそういう面もあるのだが、反面まがまがしい暗黒面もまた持ち合わしている。
スピリチュアルな人はみんな自分こそ人生の主役と思っているわけでしょう?
でも、じつのところはそうではないかもしれない。

「目の前に、自分の身辺に次々と所謂シンクロニシティが続けざまに起こっても、
必ずしも、ソレって何も自分のために起こってるとは限らないって事だね。
磁石に釘ひっつけて、それに砂鉄が引き寄せられるでしょ。
あんな具合に、自分のシンクロが、実は、
磁石は他にあって、釘とか砂鉄かも解んない」(P81)


これはすごいことを言っているのね。
みんなどっかで自分が中心になってシンクロニシティが起こっていると思っている。
しかし、本当はそうではないのではないか。
自分が磁石で偶然を引き寄せているなんてとんでもない話で、
磁石は別のところにあって、あらゆる偶然はそこに向かっているのかもしれない。
あなたやわたしは磁石ではなく、釘や砂鉄のような存在かもしれない。
だとしたら、磁石になっているのはなにか。
根本敬は「因果力」の強い人が
あらゆるシンクロニシティの源になっているのではないかと指摘する。

「とにかく、身辺で、人類が滅びるまでの長い、最終捕食者争いをしているとも云え、
それ念頭に、自分に起こったシンクロが、結果、自分を飛び越え、
誰が一番、得をするかを考えると、身辺でのそこで起こってる、まあ、ドラマのね、
その回の主役は誰か、又、一番強い因果力の持ち主が誰なのか、解ります」(P83)


わたしがいままでの人生で出逢ったなかで、
いちばん因果力が強かったのは大学時代の恩師の原一男先生である。
この人に逢っちゃったから、こうまで人生で落ちぶれてしまったとも言えよう。
同時にこの人に逢わなかったら、どれほど退屈な人生を送っていたのかとゾッとする。
人生で逢う人とはかならず逢ってしまうのだろう。
原一男さんの因果力にまさに砂鉄のようにわたしは引き寄せられてしまったところがある。
因果力の強い人というのはカリスマのことだと思う。
一般的にわかりやすい例をあげたら、
いまの日本でもっとも因果力が強いのは創価学会の池田大作名誉会長ではないか。
この人に逢わなかったらと思っている日本人の数をカウントしたらどのくらいになるのか。
池田大作さんに逢ったがために、人生が変わった人が無数にいるはずである。
池田大作さんや創価学会の周辺ではとにかくシンクロニシティが起こるような気がする。
因果力の強弱というのは、持って生まれたもので努力してどうこうなるものではないと思う。
みなさまも考えてみたらおもしろいのかもしれない。
いったい自分の因果力はどれほどだろうかと。
因果力の強い人は周囲に影響を及ぼしてしまう。
いい影響だけではなく、むしろそんなものは少なく、
実際は迷惑をかけることのほうが多いのではないか。
にもかかわらず、我われは因果力の強い人にどうしようもなく引かれていってしまう。
シンクロニシティを生きる道しるべになんかすると、因果力にさらわれてしまう。
因果力のどうしようもない働きで、ある人とある人はどうしようもなく出逢ってしまう。
出逢った人間同士はかならず別れると決まっている。これもまた因果力ゆえかもしれない。
仏教ではこれを「会者定離(えしゃじょうり)」という。
我われは目に見えないどうしようもない力によってこの世に誕生して、
たまたま偶然にだれかと出逢い別れ、そしていつかは絶対にわからないが、
これまた目に見えないどうしようもない力によってこの世から去っていかなければならない。
ならば、「見えないものを見る」のもまたおもしろいのかもしれない。
「見えないものを見る」ことで地獄に行くかもしれないけれど、それでもいいのなら。

*本書の内容を難しく書いている大乗仏典に「華厳経」というものがある。
お暇ならどうかお読みになってくださいませ↓。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3513.html

「人生解毒波止場」(根本敬/幻冬舎文庫)

→わたしのなかじゃ根本敬って
ふっる~いエロ本に濃い漫画を描いていた人というイメージ。
アングラ電波系エッセイストとしてもご活躍なされていることをまるで知らなかった。
なにやらインテリぶったうざったいことをいきなり書くと世界は言葉で出来ている。
どういう難しい表現も可能だが、あらゆるものが結局は言葉に還元されるわけでしょう。
あらゆる見えるもの、のみならず見えないもの(愛とか差別とか)も言葉に過ぎない。
だとしたら、新しい言葉を発明することは世界を変えることに等しい。
根本敬はこのエッセイで「因果力」という言葉を創造しているが、これがじつに新鮮だった。
ある新しい言葉が生まれることで説明できる現象が増えるという面があるのである。

たとえば、こんなふうに――。
わたしはむかし因果力が強かったが、最近めっきり弱ってきたようでさみしい。
むかしはさあ、ひんぱんに変な人からおかしなメールが舞い込んだのだよ。
自分の妻をぜひ殺してほしいとか、
おまえを警察に訴えたからそのうち逮捕されるぞ覚悟しろとか、
おれの夢はトレンディードラマを手掛けることできみもその夢に乗らないかとか、
国内のみならず国外からもいろいろおかしなメールをいただいたものである。
最近、そういうのがパタッとストップしてしまった。
いいのか悪いのか、安っぽい劇のようなものからすっかり遠ざかってしまっている。
この状態は因果力という言葉を使うとうまく腑に落ちるのである。
このところめっきり因果力が弱ってきたなあ。
本来、自分は相当な因果者のはずなのにこの谷間はいったいなにを意味するのだろう。
いや、自分が気がつかないだけで、むかしよりもいまのほうが
もっと広範にわが因果力は作用しているのかもしれないのだが、
そこはまあ自分としては気がついていないふりをあくまでもしていたいというか、ニャハ。
根本敬は本書で知り合いの仲山兄弟を因果力の強い因果者であると看破する。

「兄弟の生まれた仲山家は、由緒ある家系(まァ、筆者から見てね)で、
その昔奄美大島のサトウキビで奴隷をされていたという。
そのセイか、二人とも因果者としての筋が大変素晴らしく、
兄の正毅君(二十九歳)は精神にやや難のある看護婦さん(四十余歳)
に好意を抱かれたあげく、軽々と殺傷沙汰に巻き込まれてみたり、
出来物の治療にフラリと入った病院で治療中、突然医者が
「俺は最近、精神病院から出てきたばかりだ」
と宣(のたま)わり、おかしなことをされたり、
碑文谷公園ボート乗り場でバイトを始めたら、
平和で何事もなかった公園で、急に入水自殺者が沢山出るようになったり、
とにかく彼の引力といおうか、そういったしょうもないこと(だが、この中にお宝がある!)
と引き合う磁力は並大抵ではなかった」(P108)


古くさい仏教用語ではこの因果力や磁力のことを宿命や宿業と言ったものである。
仲山正毅君の因果力はまことに怪しげでほんものくさいところがある。
因果力の見方は、当人の説明を信用しないことだ。
入水自殺者がひとりやふたり出たというのは、まあ事実だろう。
しかし、精神不安定な看護婦に惚れられたというのは果たして事実かどうか。
このあたりでわたしは仲山正毅君自身の精神病を疑ってしまうのである。
本当は因果者の仲山正毅がおばさん看護婦に勝手に片想いをして、
殺傷沙汰を起こしたのは自分のほうからなのではないか。
実際のところ皮膚科の医者は正常極まりなく、
仲山君の精神が異常だったからどこにでもいる医者がきちがいに見えたのではないか。
バイト先で自殺者が出たというのでさえ本人の自己申告に過ぎず、
もしかしたら「自己劇化」の一種ではないかとさえ思えなくもない。
このあたりがサブカル用語の因果力にまつわるおもしろさだろう。
うさんくさいもの、怪しげなもの、インチキくさいものはたまらない珍味である。
わたしなんかも自分の因果力を信じているから、
このまま終わるわけがないという気がしている。
自分の人生でよきにつれ悪しきにつれどんなことが起こっても、ふーん、と受容できる。
むしろ起こらなかったらと思うと逆にがっかりするというか、情けなくなってしまう。
わたしは1回きりの人生でより多くの変な人と会いたいし変な事件と遭遇したい。
その支えとなるのがこれまで培ってきた因果力になろう。
宿命や宿業という言葉はどこか受動的だが、因果力は能動の香りがしてよろしい。
われわれは生まれ落ちた「星」と
持って生まれた「因果力」に左右されているだけではないか。
これが特殊漫画家である根本敬の世界観になろう。

「とにかくこの世には、人知を越えた何か得体の知れない力が緩~く働いている。
だが、目に見えず、時には大きな神秘性を印象づけるが故に、
何か畏(おそ)れ多いものと考えてしまうが、
しかし実際は決して大層なものではないのかもしれない。
少なくとも私に限っていえば、過去、沢山の奇跡、神秘体験、シンクロニシティに
遭遇したが、どれをとっても下らない奇跡だったり、
馬鹿馬鹿しい神秘体験だったり、マヌケなシンクロニシティだったりする。
よって、どう考えても「天」というか、「神」というか、
とにかく得体の知れない力ってのは堅気じゃあないと睨(にら)んでいる」(P277)


得体の知れない力が堅気ではないという指摘には、まったくそうだと思った。
おそらくたぶんかならずや人間の目には見えないが、
世界にはある種のまがまがしい得体の知れない力が働いているような気がする。
そうであってほしい。そうであってもらわなければ困る。いや、そうなのである。
その得体の知れない力は、おそらく学級委員とは正反対のベクトルを有している。
「がんばったら報われる」も「悪いことをしたら天罰がくだる」も嘘だあな。
おてんとさまはそんな堅気なやつじゃなく、
もっとヤクザめいているような気がしてならない。
怠けていたり悪いことを楽しみながらしている人に、
ごそっと財宝を与えるのが堅気ではないおてんとさまではないだろうか。
おてんとさまが見ているというが、それはあんがい皮相な善悪ではないのかもしれない。
おてんとさまは堅気どころか正反対のふざけたヤクザなやつで、
笑っちゃうくらいいいかげんにデタラメに下界の民草に禍福を振っているのではないか。
でも、そういう人間世界っておもしろいよね、おもしろがっちゃおう。
本書は堅気ではない神さま(仮名)の采配を
おもしろがる遊び根性の肝が据わっているのでいい。
どんなことでもネタとしておもしろがっちゃおう。
「因果力」や「星」を考慮に入れたら、
世界にはもっとおもしろがれる余地があるのかもしれない。
もっともっとおもしろいことを体験したいなあ。
ちょっと周囲には迷惑でもおもしろいことを引き起こしてやりたい。
わが「星」と「因果力」はいかほどか。
こんなものに自信があったってビジネスとは無縁で一般社会ではどうしようもないのだが。
けれども、似たような「星」を持つ人の「因果力」と相互作用しあって、
あるいは奇跡のようなことが起こるかもしれないと思う。
たとえそれが周囲からどれほど馬鹿馬鹿しく見えようと奇跡は奇跡である。
堅気ではないおてんとさまは、それぞれの「星」や「因果力」を見極めて、
ときおりわれわれをびっくりさせるような下品な奇跡を起こしてくれるのかもしれない。
「星」や「因果力」があるのなら明日、あなたやわたしになにが起こっても不思議ではない。

「因果鉄道の旅」(根本敬/KKベストセラーズ)

→特殊漫画家(要はメジャー嫌いってこと)根本敬の人間観察エッセイを読む。
変な人ってふつうのパンピーにはない人間味があって、
きれいごとしか言わない取りすました偉人や成功者なんかよりも、
くっせえあいつらのほうが独特のうまみがあるなあって本。
変な人とは、精神科にかかっていないきちがいとでも言ったらいいのか。
いわゆる精神病一般はけっこうアバウトなところがあって、あれは自己申告制なのである。
周囲からいろいろ批判されて自分に自信がなくなって変な人は精神科に行く。
いや、それは違うんだよ、おかしいのはきみたちのほうで自分は間違っちゃいない。
周囲からの常識に基づいた批判を頑として受けつけない人の魅力ってあるよなあ。
われわれ日本人はさ、周囲の目を気にしてなかなか自分勝手なことをできないじゃない。
お互いに監視しあうというか、抑制しあうというか、牽制しあうというか。
このため、周囲の目なんてまったく気にしないで
横暴に振舞える人にちょっとあこがれちゃう。
「おれがルール」みたいな人ってめったにいないけれど、
いたらそいつはたしかにいやなやつなんだけれど、独特の愛嬌があったりして、
そのジコチューの悪口を言いながら、
どこかそいつの存在を楽しんでしまっているというか。
ふざけんなって怒りたくなるほど非常識で自分勝手なんだけれど、
当人はそういう認識がまったくなくて
ナチュラル(天然)にそうであることに畏敬や畏怖を感じてしまうというか。
え? それをするの? それを言うの? と仰天するのが楽しいんだなあ。
たしかに変な人は迷惑なんだけれども、
そういうダークなことを自分もしたいけれどできないだけじゃないか、
とふと気づいてしまうと、その人のナチュラルなところがとても輝いて見えちゃうわけで。
壊れた人間のまさにその壊れた部分に味があるというか笑えるというか、
笑っているうちに泣きたくなっちゃうくらいそいつが好きになってしまうというか。
常識的に考えたら絶対にダメなやつなんだけれど、そいつのパワーに負けちゃう。
むしろあえて負けてしまいたいというか、常識なんてくそったれだろ、
と自分も本心では思っているので、そこはそれでそういうわけで。
著者は人間にはそれぞれ生まれ落ちたホシがあると信じているようだ。

「ところでホシには磁力があり、強い磁力を持つホシが弱い磁力のホシに影響を及ぼし、
自分の植民ボシにしてしまうことがある」(P373)


磁力というのは、わかりやすくいえばオーラみたいなものなのだろう。
よくも悪くもすげえオーラを持った因果者っちゅうのがおるんや。
そいつのことなんかあたまではバカにしているんだけれど、
いざ対面して話すと震えがとまらなくなっちゃうというか、この人はスゴイとしか思えない。
常識的多数派のみんなは知らないのだろうけれど、
自分だけはこの人のスゴミがわかると叫び出したくなってしまう。
たしかにそいつの噂話をするときは悪口ばかりで口ではバカにできるんだけれど、
もうその時点でそいつの磁力にすっかりまいっちゃって無条件降伏って感じ。
なんであの人は一見ふつうの人っぽいのにそんなヤバいことをやれちゃうの?
そんな身もふたもない本当のことをあんたは言えるんだ?
じつはそれこそおれが言いたかったことなんだけれど、言えなかったぜ畜生みたいな。
そんなことは言っちゃいけないでしょう、と思いながら、
あっ、それは自分も思っていたことだけれど言えなかっただけなんだと気づく。
変な人、いかがわしい人、うさんくさい人って成功者とは正反対のいい味を出している。
みんなは成功者にたぶらかされているけれど、
本当の人間の味っていうのは変なことをするイイ顔をした特殊男女を、
ゴムつきではなくナマで体験しないとわからない。
根本敬は一見するとこの本で他人の悪口ばかり書いているようにも読めるが、
じつのところそうではなく、著者はおのれの「因果鉄道の旅」で出会った、
まさに人間の根本(男根、女陰)をむきだしで生きている因果な特殊男女に
深い敬意と愛惜の念を非常に屈折しながらも寄せていることは疑いえない。
根本を敬うのが特殊漫画家の根本敬である。
おのれの欲望をストレートに出している人の磁力に根本敬のホシは引かれる。
ビジネスライクに人と接するのはたしかに安全だろうがつまらない、なにも起こらない。
あいつは好きだ、こいつは嫌いだと本音を顔にむきだしにするやつはおもしろい。
人間平等なんてきれいごとを言わないで、お、こいつは顔がいい、金を持っていそうだ、
学歴はどのくらいなんだと人を判断する正直な人のバカぶりっておいしいなあ。
でも、おれは乳子(入庫?)よりも貧乳が好き、
なんて好き嫌いがはっきりしていたらもっとおもしろいさ、そりゃあ、人間そんなもんだから。

本書を読んだ人でないとわからないかもしれないエピソードを書いておこう。
まあ、このブログなんて10人も読者がいるのかって話だから、どうでもいい。
むかしさあ働いていたバイト先にイイ顔をした男女がいたんだなあ。
ものすごい若そうな男の子と、どう見てもやつれた枯れかかったおばさんのカップル。
ぶっ飛んじゃうくらいの違和感というか極北感があったんだなあ(さむいってことね)。
このボウヤとやつれたおばさんがつねにラブラブで非常に味があるというか。
気味が悪いなんてみんなは思っていたのだろうが、そう思うのも無理はないというか。
実際、聞いたらけっこうな人がこのカップルをうざいと思っていて嫌っているの。
というのも、人目もはばからず、というかむしろ周囲に熱愛を見せつけるように、
その若いおにいちゃんと崩れたおばさんがいちゃいちゃしているわけだから。
みんながいるところでお弁当をお互いに食べさせあうとか平気でやっちゃうわけよ。
わかるかな、ほら、アーンしての世界。
どこから見ても貧相なおばさんがさ、自分は清純なうら若き美少女みたいな態度を取る。
男は男でまあボウヤなのだが、
社員よりも威張っていて、根本的に自己認識が誤っている。
われわれよりもたった50円時給が高いおなじバイトなのに威張りくさって、
ほかのパートを完全に自分よりも下に見て注意してまわるようなボウヤ。
むかしのことだから忘れたが、
みんなこの気持悪いカップルをどこかで嫌っていたのではないか。
ひとりの同僚にふたりの話をしたら、唾でも吐きかけてやりたいような顔をした。
わたしはどうしてかこのイイ顔をした男女が好きで好きでねえ。
ふたりの会話を盗み聞きしたりすると、あとで笑いがとまらないというか。
しぼんだおばさんがさあ、初々しい処女のような態度でボウヤを持ち上げるわけだから。
ふたりがわたしの悪口を言っていたのも聞いたけれど、
かえって本音を生きている特殊男女を好きになったくらいだ。
群れて孤独な人の悪口を言うのって楽しいもんねえ。
本人たちはすんげえ幸福ってところがいいわな。
周囲からは気持悪いカップルとしか見られていないのだが、
本人たちはそれぞれロミオとジュリエットを気取っているわけだから。
くっせえカップルなんだけれど、独特の味があって、
あるいはあれが本当の愛のかたちかもといまでは思う。
恋愛って本当のところキモいわけだから。
そういうカップルの夜のことを下品にも想像すると
世界が神々しく見えてどうしてか笑っちゃう。

楽しく生きるこつっていうのを本書から学んだような気がする。
イイ顔をした自分が見えていない変な人のことを迷惑と常識的に考えるのではなく、
こりゃまたおいしいものを神さまはプレゼントしてくれたとネタとしておもしろがっちゃおう。
どうせ人生、本当のところはつまらないんだから、ならば可能な範囲でおもしろくしよう。
「劇化」という言葉が人生をおもしろくする秘訣のような気がする。
著者は本書で内田という大学時代のクラスメートのことを、
ひどいやつだとさんざんバカにしている。
しかし、実際のところは著者はだれよりも内田の本質を理解し愛しているのだろう。

「……内田ってのは結構ポッと思いつきで演劇的になる人間で、
ある種の凄い自己劇化、その自己劇化っていうのが、
ゴールデンタイムのホームドラマみたいな、
アイドル主演の、ああいうレベルの凄い浅薄なものなんだけど」(P59)


この本はいまの職場の人からすすめられたのだったか。
だれもわたしになんか関心はないというのが真実で、
これはたんなる被害妄想なのだが、
自分勝手なためバイト先でおそらくいちばん同僚から嫌われているのはわたしだろう。
空気を読まないで本当のことをポンポン言ってしまう最低なやつだが、
とても自分がイイ顔をしているとは思えない。
だれがどう見ても人生が終わっちゃった使えないゴミバイトのおっさんなのだが、
本人は自分には才能があるとかいまだ信じていそうでまったく腹が立つだけの存在。
まあ、バイト先の仲間にはそれぞれの「因果鉄道の旅」のなかで、
それぞれのホシの磁力作用の影響でどうしようもなくわたしと出会ってしまった。
たいへんご迷惑でしょうが、そのように考えてあきらめてもらうほかない。
この本をすすめてくれる人がいるというのは、
あんがいそれほど嫌われていないのかもしれない。
まさかもっとハチャメチャをやれ、というメッセージだとは思わないけれども、
ここだけの話、そう勘違いしてしまいそうなナチュラルな自分がいて怖い。
わたしの恩師といえば特殊映画監督の原一男先生だが、
師から教わったことをひと言に要約したら、表現のためならなにをしてもいい、だ。
なにをしてもいい、自由だ、もっと過激に生きようとわたしは師匠から教わった。

「壊れたおねえさんは、好きですか?」(中村うさぎ/文春文庫)

→壊れたおねえさんは好きかと問われたら、べつに好きでも嫌いでもないが、
正直なところめんどうくさいのはいやだよなあ。
闇フェロモン過剰な壊れたおねえさんは、
女あつかいに手慣れたイケメンくんにまかせたいような気持がある。
本書で中村うさぎ嬢(お嬢さんというよりただの年上のおばさんなんですが)は
「闇フェロモン」なる言葉を造語していたが、その語感に言葉フェチとして参った。
異性の闇フェロモン(傷、ダメぶり、コンプレックス、トラウマ)に負けちゃう男女は
少なからずいるのだろう。
相手の傷を愛するという表現が本書にあったが、
物語性の弱い人生を送ってきた男女ほど相手の闇フェロモンにやられてしまうのだろう。
健全な大学生のころ柳美里が好きだったのは、たぶん闇フェロモンゆえだろう。
こちらが闇をいっぱい抱えてからは柳美里にまったく興味がなくなった。

好きな女の顔ってあるなあ。
相手が自分に惚れているだろうと確信して、
「あんたあたしのことを好きなんでしょう? 
隠しているつもりでしょうけれど、あたしは知っているから」
と自信たっぷりないたずらっ子めいた女の顔ほど美しいものはないと思う。
あれはぞくぞくっと来るよねえ。
相手の秘密を自分だけが知っているという自信が女を輝かせるのだろう。
秘密をわざとちらりちらり見せるのがもてるコツなのかもしれない。
中村うさぎ嬢(←嬢ってなに?)は長いこと、
タンクトップからブラジャーの紐を出している同性のことを単にだらしないだけ
と思っていたらしい。あるとき真実を教えられる。「このほうが男は喜ぶんですよ!」

「だから私、わざとこうやって、
ごくフツーの下着然としたブラジャーの紐を見せてるんです」(P81)


相手の隠しているものを見てしまうと優位に立ったような気がして
うっかり惚れてしまうようなだらしのない精神を男女ともに持っているのではないか?
このため、本来隠すべきものを意図的にちらちら見せる男女がいるのだと思う。
相手の隠しているものほど見たいものはないのではないか?
そういうものをちらりと見せられると、思わず相手を好きになってしまわないか?
隠すべきものが多い人ほど闇フェロモンを放つのだと思う。
ああ、そうだったらどんなにいいことか。もてたいなあ。
ここだけの話であなただけに白状するけれど、ああ、女からもてたいなあ。
これは絶対に秘密にしてください。お願いします。

「女にモテたきゃ男を磨け」(安藤昇/双葉文庫)

→ぜんぜんインテリじゃないから、おれ。
おれはさ、こういう本をきまじめに読みながら女のことばかり考えているアホ。
ぶっちゃけ、女と現代的通俗的な「恋愛」なんかまったくしたいと思わない。
女さまのご機嫌をおうかがいして、
テレビや雑誌で取り上げられたらしいスポットに行くくらいなら腹を切ったほうがまし。
そうそう、そうなのだ。
おれは女と「恋愛」なんぞがしたいわけではなく、ひたすらモテたいのだ。
女をおれの自由気ままに思うがままにコントロールしたい。
「恋愛」なんかしたくないけど、クリスマス近くの発情期だからか女にモテたい。
そんな邪悪な欲望から、むかしのヤクザの大親分が書いたという(99%口述筆記)
モテ本を目をギラギラさせながら女の裸のことばかり妄想して読んでみた。
いったいどうしたら女にモテるのだろう。くうう、たまらなくモテたいぜ。
教えてヤクザの安藤親分さま。

「女は男の”力”に惚れるのは間違いないが、その力というのもいろいろある。
腕力だけではなく、知力、権力、経済力、そして魅力だ」(P60)


本音をぶちまけると、この文章、ものすごくバカっぽいよねえ。
「知力、権力、経済力、そして魅力だ」のくだり。
いかにも日本語をわからないおバカさんが得意げに論じたという感じ。
こんなバカでもヤクザの親分だったらモテるのかなあ。
あわわ、いま身の危険を感じた。というのも著者は、
調べてみたらまだご存命らしいからヒットマンに撃ち殺されちゃうのかなあ。
なんか前科ならびにムショ歴のある偉い(?)人らしいしさ。
いま力がほしい。いまおれは力がほしい。なぜならば――。

「力や自信のある男がモテるのは、女が将来を考えた計算ずくだけじゃない。
そんな男の顔は、輝いていて色気が発散されている。
その色気にひかれて、女たちが集まってくるわけだ。
こういう色気は、じつは周りの男も敏感に反応する。
つまり、男が男に惚れる」(P65)


やっぱり人間、自信がたいせつなのか。
おれ、なんだか世間を知らないからか、いい歳をしていまだに自分に自信がある。
だから、勘違いをするのだろう。
いやあさ、あはは、バイト先で(あるはずないのだろうが、錯覚でしょうが)
ドキッとする視線を壮大な誤解として感じることがなくもない(ハイハイ、妄想妄想)。
もしかしたらそういう勘違いがモテるためには重要なのかもしれないなあ。
だって、著者の顔を見てだれが女にモテそうな顔だと思うかって話。
とはいえ、やたら人生でモテたらしいヤクザの著者は女をわかっている。
モテるというのはどれだけ相手の気持になれるかだと思う。
ヤクザの親分はフェラチオ(尺八/口淫)でイケる女がいちばんいいと主張する。
これ、わかるわかる、わかりすぎる。
フェラチオ(尺八)は女にとってもっとも屈辱的な行為だと思う。
だって、男の小便の出てくるところをキャンディーのように舐めるわけでしょう?
しかし、そこに女としての醍醐味があるのだとヤクザの親分は説く。
男に対する奴隷的奉仕である尺八でイケる女はもっともいい女だ。
なにがいいのか? あたまも感受性もなにもかもいい。
モテ親分の言葉を引く。

「尺八でイケる女には、もう一つ見逃せない長所がある。
それは頭がいいということ。
男を味わうだけでなく、尺八のポーズに興奮し、
さらにはよがっている男を見て興奮する――これは、
想像力がたくましいというか感受性が強いというか、
鈍い女には決してできない」(P95)


あたまがいい女が好きってすごいわかるなあ。
あたまがいいって学歴や知力や記憶力じゃないんだ。
強いて言うならば、著者の言葉を借りるならば、想像力が大事なのかもしれない。
結局、男も女もエロが好きなわけでしょう?
じゃあ、エロがなにかって言えば、とどのつまり想像力じゃないかなあ。
生まれ変わったら絶対女になって男どもをいろいろ喜ばせたいなあ。
そういう想像力があると(女ならぬ)男の場合、
かえってモテないとこの男性ホルモン過剰でマッチョな著者は言いたかったのかもしれない。