「ふぞろいな秘密」(石原真理子/双葉社)

→ご存じプッツン女優、石原真理子の暴露本。
山田太一ファンとしては、「ふぞろいの林檎たち」関連の情報をお伝えしたい。
なお以下に書く内容は二重のバイアス(偏向)がかかっている。
というのは、まず石原真理子の主観的な告白だということ。
そのうえ、なかにはぼかした表現も少なくない。
ここは読み手の読解力がものをいうところゆえ判断がわかれると思う。
このことをご理解のうえお読みください。

「ふぞろいの林檎たち」放送まえに石原真理子と中井貴一は交際していた。
有名俳優の息子である中井貴一はお坊ちゃん。
当時、大学生だった中井は、大学卒業まで童貞でいたいと言っていたという。
その中井の童貞をむりやり奪ったのが石原真理子である。
ここはあいまいに書いているが、前後の文脈から判断するとそうとしか考えられない。

恋多き女、石原真理子は「ふぞろいの林檎たち」放送以前に、
時任三郎ともつきあっていた。
「ふぞろいの林檎たち」の撮影をきっかけに本格的に交際を再開する。
ドラマのうえでは時任三郎と恋愛関係になるのは手塚理美だが、
放送当時は石原真理子が時任三郎を支配していたのである。
笑えるのは嫉妬した中井貴一がふたりの交際を妨害しようと、
たびたび石原真理子に電話をしてきたという。

手塚理美は「ふぞろいの林檎たち」撮影中に脚本通りというべきか、
時任三郎に恋心をいだいてしまった。
石原に時任とつきあっているのか問いただす手塚である。
性悪女の石原真理子は、あえて答えない。
自分が心身ともに支配している時任三郎。
そのかれに片思いしている手塚理美を、ニヤニヤ観察する石原の性悪ぶりは笑える。
さらに笑えるのは中井にも時任にも身体を許した石原真理子だが、
決して柳沢慎吾にはやらせなかったという。

2003年秋に「ふぞろいの林檎たち」最新作が放映されるはずだった。
特別枠で前後編にわけての2回。
山田太一の脚本も完成していたという(ああ、それだけでも読みたい!)。
ところが、出演者のひとりがごねたため流れてしまった。
このごねた俳優がだれなのか石原真理子は書いていない。
「終りに見た街」に出演していたことから中井貴一と柳沢慎吾は除外される。
とすると、時任三郎か手塚理美のどちらかなのだが。
もっともあまり山田太一から好まれていなかった石原真理子の告白である。
眉唾と思ったほうがいいのかもしれない。
それどころか石原自身が山田太一御大の脚本にケチをつけた可能性もありうる。
いや、おつむの弱い石原真理子が脚本をそう深く読めるとは思えない。

以上で「ふぞろいの林檎たち」ネタは終わり。
全体的な感想を述べる。石原真理子は世の男性の理想ではないだろうか。
あんなかわいい顔をして、石原はだれとでも寝るのである。
有名人を好む俗物性があったとはいえ、石原の尻軽ぶりはすばらしい。
日本を脱出して15年暮らしたアメリカでは、
名もなき労働者にもばんばん身体を与えていたふしがうかがえる。
さぞかし日本の評価を高めたことだろう(イエローキャブってなに?)。
いい女とは石原真理子のような存在をいうのである。
純情な中井貴一が落ちたのを責めることだけはしてはなるまい(笑)。
「脱ぐしか選択肢のなかった私。」(波乱万丈インタビュー制作委員会/英知出版)

→AV女優11人のインタビューを集めたもの。
アダルトビデオは好きではない。どこがおもしろいのかさっぱりわからない。
ただやっているだけでしょう。まるで動物じゃないか。
動物はなまで見るからせめてもの感興があるのであって(動物園!)、
動物をただ録画した映像など、たとえそれが交尾シーンだとしても退屈極まりない。
「物語=意味」こそ人間が人間たるゆえんである。
わたしはむしろ交尾シーンがカットされているものに欲情する。
見えないもの、隠されているもののほうがよほど煽情的ではないだろうか。
もしかしたらとても恥ずかしい性的嗜好を告白してしまったのかもしれない。
ムッツリスケベなどという死語でカテゴライズされるくらいなら死んだほうがマシだ。

本書の感想を書こう。
AV女優の壮絶な人生が赤裸々に語られるというのが本書の売り。
悪くない企画だと思う。ひとの不幸はなんだかんだいってもおもしろい。
といっても、ありがちなんだけどね。
義父にレイプされた。兄との近親相姦的関係。まあ、トラウマだな。
それから親の貧乏、離婚、アル中、性的乱倫といった古典的な不幸。
たしかに過激なのだけれども、どこかで聞いたような話ばかり。
なまの手ざわりといったものが感じられない。
まあ、そういう固有性を扱うのが文学で、まさか英知出版の本に期待してはいけない。

それにこういうことを言っちゃあれだけど、
AV女優はまだ恵まれているほうなのである。
なにしろアダルトビデオに出られるほどの容姿を持って生まれている。
おなじような生育環境で不美人な女性はいくらだっているはずである。
そのうえ本書に登場するのは人気AV女優ばかり。
世の中には一度もスポットライトを浴びずに死んでゆくものがいくらだっているのだ。
(たとえば、わたしのようにね!)
ほんの一時期でもちやほやされる幸運を得たのだから、あまり贅沢を言ってはならない。

英知出版さんへお願い。
本書は、ありがちながら、人間の根源的知識欲を満たす良書だと思う。
できましたら次回は、写真をもっと多くしてもらえませんか。
AV女優の不幸自慢はいまのままで構わないのです。
けれども、女優さんの写真を増やしてほしい。
カラーは言うまでもなく、プライベート写真からヌード、カラミ写真まで多様に。
「物語=意味=左脳」と「外見=視覚=右脳」が合体したら最強だと思う。
頼みましたからね。

ちゃんと読んだという証拠に一箇所くらい引用しておこう。AV女優、若葉かおり。

「これまでの人生を振り返って? 『重かったなぁ』の一言です(笑)」(P250)

うん、この子は顔もきれいだし、あたまも切れる。わかっている。
人間はそれぞれいろいろなものを持って生まれてくる。
その軽重が人生のドラマを形づくる。重いものを持って生まれてくるものがいる、
いっぽうで比較的、軽めの境遇で誕生するものもいる。
おのおの重さは違う。他人に重量を分担してもらうことが、ときに可能なこともある。
けれども、たいがいの場合、重みと向き合えるのは自分でしかない。
重みに押しつぶされるものがいる。重みをなんとかこらえるものがいる。
この重みはいったいなんによってもたらされるのか。宗教の世界である。
つまり、アダルトビデオは宗教の門を開くきっかけともなりうる。
「どこまでもアジアパー伝」(鴨志田穣・西原理恵子/講談社文庫)

→西原理恵子の漫画も仕方なく読んでいると、
カモがアル中の教科書みたいで笑える。典型的な症例である。
いまどきここまで悪化するアルコール依存症患者は少ないと思う。
おれも、朝から酒をのまなきゃなと思った。んで、2代目カモを襲名することにしよう。
それでもあと10年は生きられるのである。
カモの単著は3冊か。このくらいは超えなきゃな。
まずは嫁さん探しからだ。
どこかに第二の西原理恵子はいませんか〜♪ ここにカモ2世がおりますよ〜ん♪
「アジアパー伝」(鴨志田穣・西原理恵子/講談社文庫)

→世間的には漫画家の西原理恵子のほうがはるかに有名らしい。
元旦那のカモちゃんこと鴨志田穣など、おまけみたいなもの。
反対である。わたしは西原理恵子がダメだった。
購読している「スピリッツ」で連載されていた「ぼくんち」がどうしても読めなかった。
ケチなので買った漫画雑誌はすべて読むと決めていたのにもかかわらずである。
しかし、なぜだか「ぼくんち」は人気があるという。わけがわからなかった。

本書は探していた本というほかない。
いままで西原理恵子の名前が邂逅を妨害していた。
こうしてこの書籍に出逢えた幸福をなんと表現したらいいかわからない。
飲兵衛が海外でメチャクチャやる話をずっと読みたいと思っていた。
まさしくこの本である。
アル中のカモちゃんのアジア体験記が、その内容だ。

ダメな人間の想像を超えるダメぶりがダメな視線から描かれている。
これほど癒されるものはない。
下には下の人間がいるのである。
その最下層の人間を、カモちゃんはさらなる下にもぐって観察する。
学者研究者とは、真逆の方法である。

カモちゃんは去年、42歳で死んでしまった。
「七勝八敗で生きよ」(天龍源一郎/東邦出版)

→新刊。プロレスファンである。20年以上も天龍源一郎を一途に応援してきた。
男が男に惚れる、ということをこのプロレスラーから教えられたのである。
天龍みたいな男になりたいと思った。いまでも思っている。
笑われるのは百も承知だ。けれども、わたしはそういう浅薄な人生観で生きている。
哲学者や思想家ではなく、プロレスラー天龍源一郎に生かされてきた。
話しはじめたらまわりがドン引きするくらいのプロレスオタクでもある。
いままで隠してきたわけではない。趣味だからである。プロレスは純粋なたのしみ。
ことさら書きたいとは思わなかった。書くものではなく、たのしむものだからである。

2001年、元レフリーのミスター高橋がプロレスの内幕を暴露してしまった。
いわく、すべての試合の勝敗が決まっている。
それどころか、試合の内容さえも事前に打ち合わせをして概略を決めている。
いま思えば、プロレスを演劇、すなわちフィクションとしてたのしめばいいのだから、
なにも思い悩むことはなかったのだが、当時はそれなりにショックであった。
ミスター高橋の暴露本がプロレス界に与えた影響は大きい。

この天龍の本も、ミスター高橋の暴露を前提として書かれている。
そこが、おもしろかった。というのも、天龍の自伝はすでに3冊出版されている。
もちろん、すべて目を通している。どれも勝負論が前提となっていた、
つまり、負けるのは弱かったからだという書きかたがなされていた。
本書のおもしろさは、プロレスラー天龍源一郎が、ある程度、ぶっちゃけているところ。
ここまで話しても大丈夫かと天龍が重い口を開いたのである。
ファンのひとりとして興味深かったのはその部分である。

天龍源一郎いわく、プロレスにおける対戦相手は目の前のレスラーではない。
プロレスラーが向き合わなくてはならないのは観客である。
相撲出身の天龍は、プロレスのそこが伝統国技と異なると指摘する。
相撲をやっていたころは目の前の相手を倒せばそれでよかった。
勝てばよかったのである。勝ちさえすればなにも言われなかった。
たとえ小技で勝とうが、10秒で勝とうが、勝負の世界では問題にならなかった。
だが、プロレスは相撲とはちがう。
このことを天龍源一郎が知るまでにプロレス入りから5年を要した。
プロレスで重要なのは勝敗よりも、どれだけ客を沸かすかなのである。
いくら勝とうが観客が盛り上がらなかったらなんにもならない。
たとえ負けようがお客さんが満足して帰ればプロレスラーの勝ちなのだ。
本書のタイトルの元となった思想だと思われる。
勝てば官軍の格闘家ならこうは考えぬ。
ミスタープロレスと称される天龍ならではである。

プロレスファンは低学歴・低知能・低収入の多いことで知られている。
(あともてないことでも。プロレスファンの非モテを弾劾・愚弄・嘲笑したのは大槻ケンヂ氏)
どうせバカなのだからと思い切ったことを書いてしまうと、
プロレスラー天龍源一郎から学ぶところがいくつもあるように思うのである。
たとえば学者と作家の相違を、格闘技とプロレスの比較で説明できる。
学問の世界では正しければいい。格闘技で勝てばいいのとおなじ原理である。
だが、作家の書くものはおもしろくなくてはならない。客を退屈させてはいけない。
これはプロレスラーとおなじ行動規範を要求されるということではないか。

格闘技が嫌いである。プライドもK1もなにがおもしろいのかさっぱりわからない。
同様、学問もからきしわからない。
いみじくも天龍は勝敗の世界なら相撲で卒業したと言っているが、
これを真似て正誤の世界は大学受験で卒業したと言いたい。
やはり、いまだに、わたしは天龍源一郎のような男になりたいのである。
かのプロレスラーのようにお客さんを沸かせる作家になりたいと思う。
「生きることも死ぬこともイヤな人のための本」(中島義道/日本経済新聞社)

→中島義道の本は、立ち読みで済ませる方針である。
買ってしまったら穢(けが)れがうつると危惧するため。
ブックオフにも山のように在庫がある。
かれの本を棚に並べておくのでさえ、不快に感じる読者が多いのでしょう。
これを発見したのもブックオフ。
いつもなら立ち読みするのだが、その日はたまたま時間がなく、困惑する。
なーんだ! たかだか105円。買えばいいわけだ〜。購入。
なぜか翌日の病院で読了。2時間もかからずに読み終えた。

いやね、いまは中島義道もベストセラー作家なのを知らないわけではない。
しかし、この自我肥大はなんとも見苦しい。
日本国民はすべからく中島義道なる自称哲学者を知るべし。
いな、中島を知らぬは非国民。
ものすごい高みから書かれているので驚いた。
有名になるというのは、こういうことなのか。
根拠のない自信にあまりにも満ち満ちているので、読者は戸惑ってしまう。
まあ、このくらい威張っているほうが、腰の低いライターとの差が生じていいのかも。

反論ではないけれども、うーん、なんだろうこれは。嫌味かな。皮肉かな。
著者の奥さんが、何年かまえ、カトリックの洗礼を受けたという。
中島はその会場に同席した。そのおりの感想である。
この哲学者は思うわけである。

「私は遠くでうごめく神父たちに問いかける。
『あなた方は、ほんとうに永遠の生命を信じているのですか?
二千年前にナザレに生まれたイエスという名の大工の息子が
救世主であったことを、
彼が十字架に架けられ死んだ三日後に復活したことを、
信じているのですか』と。
『このすべてが嘘かもしれないと思ったことはないのですか?』と」(P204)


中島義道は教会を出る。繁華街である。ふりかえる。大聖堂のドーム。
ベストセラー作家の中島はものものしく託宣を述べる。

「いや、もしかしたらこのすべては嘘なのかもしれない」(P205)

なんといえばいいのか。中島も、この作家の愛読者も、まがぬけているというほかない。
いまさらなにを言っているのだ。なにか新しい発見でもしたつもりか。
キリスト教が嘘。繁華街(文明社会)が嘘。
そんなことは当たり前というか、このくらいも知らなかったのか。
そうだよ。嘘である。ぜーんぶ嘘。だから、なんだ? おい、哲学者よ!
嘘だから、なんだって言うんだい。嘘をあえて信じるのが人間の生きかただろうが。
だれか人生を捨てた若者がこの哲学者を脅してくれないものか。
ナイフを中島義道のまえに突き出す。にやにや笑う。なにを中島から言われても答えない。
この程度でこの哲学者の自我は崩壊すると思われる。
「人は見た目が9割」(竹内一郎/新潮新書)

→ブックオフにて105円で買ったベストセラーをお酒をのみながらいいかげんに読む。
ううう、しあわせだぞい!
アマゾン(書評)の諸兄諸姉はなんでそんなに目くじらを立てなさるか。
どれも激昂しているけれども。

いまは身もふたもない意見が流行っているようです。
この新書のタイトルもそうですが、下流社会も格差社会もおんなじ。
収入の多寡や顔の美醜がすべてみたいではありませんか。
現実はそうだろうと怒られるのでしょうか。
現実なんてだれにもわかりません。
現実がどうのこうのというひとは、ウソっぱちだと思うのです。
おまえは現実をわかっていない!
この場合の「現実」は「私の生活」と翻訳して了解すべきではないでしょうか。

いまは刺激的なことを、あたかも現実であるかのように高言する書物が増えています。
それなりにおもしろいからいいのでしょうが、あんまり真に受けてはいけません。
どこにも現実なんてものはないのです。
すべては「私の生活」であります。「私の周囲」と言い換えてもいいでしょう。
社会学者や心理学者が現実うんぬんと語るのを見ると苦笑してしまいます。
それは、あなたひとりの現実ではありませんか。
現実は人間の数だけ存在すると思うのです。
「モノの原価がまるごとわかる!」(情報取材班/青春出版社)

→バランス感覚ですな。
純文学や専門書ばかり読んでいると、あたまがおかしくなってくる。
たまには息を抜いたほうがいい。酒をぐびぐびおありながら、
三流ライターが集まって、ろくな取材もしないで書き飛ばしたような本を読むのは、
たいへん精神の健康によろしい。
モノの原価がまるごとわかる!
なおさら、よろしいではないか。
ほめられた話ではないが、しまり屋である。散財を好まないたちだ。
居酒屋へ入ろうものなら原価計算を始めてしまう、とんでもない人間でもある。
モノの原価を知るのも悪くない。

こんなことは常識かもしれないが、まあ、これもなにかのご縁。
ご存知でしたら、読み飛ばしてください。
モノの値段というのは、ふたつの要素に左右されているようだ。
人件費と売れ残りのリスク。
たとえば、たとえば。
ケーキの原価はものすごく安いらしい。だけど、あれは売れ残ると翌日へまわせない。
だから、そのぶんが値段にふくまれてしまう。
食べ放題。お得な気がするでしょう。
しかーし、あれは何人前を食べても元を取るのは不可能なんだとか。
高級レストランも食べ物の原価は、それほど高くはない。
高いのは人件費。いちいち注文を取り、出しにいく。これが高くつく。
よって人件費のかからないバイキング形式の食べ放題は、
どれだけ高級レストランであろうと、まあ、元は取れないようである。

最後に嫌がらせ。
この本の原価はいくらなんだろう(笑)。ちなみに定価は500円。
参考文献はわずか5冊。あとは辞典が2冊。週刊誌。新聞。ネット。
情報源は以上。ライターは何人使用したのだろう。ううう、突きとめたいぞ。
あとがきとして、この本の原価も書いておくくらいの洒落はないのだろうか。
まあ、できないでしょうな。ばれたら、だれも買わないかもしれない。
はいはい。こちらはちゃんと報告しますよ。この本は35円で買いました。
ブックオフで雑誌、ムック、3冊105円セールの際。
1冊ほしいのがあって、ついでだからと買ったのがこの本。
35円。果たしてこれは原価よりも安いのか。第8刷。かなり売れている。
とすると、原価は……。
「ウェブ進化論」(梅田望夫/ちくま新書)

→ベストセラーのビジネス書。
一行で要約すると、山師のアメリカ礼賛本。
ボク、アメリカで活躍しているもんね〜。ボク、すごいでしょ〜。
すまない。なんていいかげんな書評なんでしょう。
だって、アマゾンを見たら153件もレビューがあるのだもの。
まじめな感想を書くのがアホらしくなる。

著者はいう。
インターネットを介して、出会いが可能になる。
ある特定のことに深い関心をもつもの同士が、検索ワードを媒介にして出会う。
無限大の不特定他者と出会う可能性がインターネットでは開けている。

経験からいうと、そんなことはないと思う。
ブログをはじめて10ヶ月経つけれども、うん。
メールアドレスを公開している。見知らぬひとからのメールなんてめったに来ない。
迷惑メールが定期的に配信されてくるのみ。

ブログでおもしろいのはあれだな。
インターネットがなかったら、決して表へ出ない意見の一般公開。
たとえばある文化人の最新小説をけなす。わっとアクセスがある。
場合によっては、その後の批評の方向性を左右することも可能。
たとえばある女弁護士を批判する。
グーグルで彼女の名前を検索するといちばん上に「本の山」が出るわけだ。
弁護士だから訴えられはしないかとひやひやしながらも、おもしろいことはおもしろい。
これくらいだな。これくらい。
「下流社会」(三浦展/光文社新書)

→日本人の何割がガンで死ぬかは、およその統計が出ているはずである。
成人男性、成人女性のあるパーセンテージは確実にガンで死ぬ。
日本人は統計を好む。周囲と自分を比べたがるためかどうかはわからない。
日本人でなくとも、人間は死を拒む。できるだけ長生きしたいと思う。
健康情報が受ける。これを食べればガンにならないといった情報に飛びつくわけだ。
これはベストセラー「下流社会」に影響を受ける階層と相似形を成している。
統計をやたら気にする。平均寿命は? 成人病罹患率は? そのうち死亡率は?
こういった人間がある日、医者からガンを宣告される。余命の告知を受ける。
愕然とする。前日とは世界が一変していることに気づく。
思えば統計にふりまわされていた生活のなんと愚かだったことか。
喫煙者のガンになる確率などどうでもいいことだったのである。
統計のガンと、固有の一回限りの人生におけるガンは、まったくことなるものなのだから。
たとえガンになる確率が3%だったとしても、
「自分が」ガンになってしまったらそれがすべてなのである。
統計がどうであろうと、なんの救いにもならないのは明白である。
「下流社会」に左右される人間は、余命宣告をされたらどうするのだろう。
まさかこれまたベストセラーの宗教書でも買うのだろうか。
そこまで浅薄な人間が存在するとはさすがに信じたくはない。

「下流社会」は資本主義の中心からの絶叫である。
著者は「上流/下流」の区別(差別的なところが笑える)をどこでするか。
基準はなにか。消費金額である。消費金額が多い人間ほど上流になる。
たとえば著者のいう上流の特徴を憶えている範囲であげると――。
ブランド品を好む。
海外旅行によく行く。
観劇や展覧会へよく行く。
食にこだわりがあり高級料理店へ頻繁に行く。
文化講座などに参加する。

むかしなら著者のいうこれら上流を軽蔑(差別)するいいことばがあった。
なぜいまはなくなってしまったのであろう。ぜひ復活させるべきだと思う。
そのことばとは「俗物」である。

上流など単なる俗物じゃねえか!

うまいもん食って、めかしこんで、文化講座で自己啓発。
海外旅行でブランド品の買い漁りかい。
こういう人種を上流とはいわない。俗物とバカにするがよろしい。

なぜこの著者は下流を差別するのか。いや、下流を問題視するのか。
イコール上流とやらを称揚するのか。
資本主義の根幹にかかわる問題だからである。
資本主義というのは、みんながおカネを使わないとたちゆかなくなる社会システム。
下流と著者が定義した人間は(わたしもふくめて)気づいてしまっているのである。
ブランド品なんて、じつはありがたくもなんともない。
フランス料理に何万円も払うのはバカらしい。コンビニフードもなかなか味わい深い。
海外大尽旅行など恥ずかしいだけ。日本の旅行も同様。
高級旅館より、よほどビジネスホテルのほうが肩肘張らないで楽である。
カルチャースクールに通うのはカネの無駄。
ブックオフ105円本を読むほうが効率的かつ経済的。

下流が増加すると、たしかに日本全体としてはまずいのかもしれない。
日本資本主義。テレビや雑誌でがんがん広告を発信する。
これがかっこいい。あれがおいしい。どれが便利である。
受け手はこれを信じて欲求しなければならない。
たくさん働いて、カネをたくわえ、これら流行品をそろえる。
日本経済は、戦後から現在まで、ずっとこの形態でやってきたわけである。
それがいま崩れつつある。その原因が下流。著者の指摘するところである。
ひとりの下流としては不快な点が多い著者の社会分析は、
それでも鋭いものがあると思う。
著者が下流を見下し、上流をたたえようとする理由もわからなくはない。
実際、ネットではこのベストセラーの影響か、やたら下流を蔑視する発言が目立つ。
このベストセラーを読んで上流をめざすようになった人間も少なくないのだろう。
こういった人間はわたしを下流と見下すはずである。逆にわたしは俗物めと憫笑する。
人間が相互に差別する。「下流社会」。つまりこれだけの話である。