「文章読本X」(小谷野敦/中央公論新社)

→「うまい文章って、なんだ」という疑問に、
速読家のスピードライターが自分の答えを開示する。
その答えとは万人にうまいと思われる文章は存在しない。
シナリオでいえばテレビドラマの場合、
スポンサーのために多くの人に見てもらわなければならない。
最大多数層といえばグラフの山に位置する偏差値50付近の人たちだ。
シナリオもいちおう文章なので例に挙げたが、文章全般がそういうものである。
多くの文章を読み、書いてきた売れっ子作家はじつにわかりやすく、
万人に通用する文章は存在しないことを証明している。
たとえば新人の純文学小説は最初に長々と情景描写を入れるというお約束がある。
それはお約束の文章で、そうしたほうが評価が高くなるケースが多い。

「それは、大学へ提出するレポートや、論文であっても同じことで、
それを見る人がいいと思うかはどうかは人さまざまである。
ある程度以上はまともな文章であることは必要だが、それ以上のことになると、
結局はだれに評価されたいかということになってくる」(P40)


小説をほとんど読まない人に無料で配るような本であるならば、
あまり難しい表現をしてはならないと思うし、
改行をしない長文は嫌われることを考慮に入れて、会話を増やすのも手だろう。
小谷野さんは赤川次郎の文章をひとつの名文の例として抜粋しているが、
その文章に向き合う姿勢は正直で非常によろしい。

「赤川の文章は、平易だと言われるが、ここに無駄はない。
そう言えば人は、通俗小説だから平易なだけではないかと思うかもしれない。
確かにそうなのだが、文学的な文章を書こうとして俗臭ぷんぷんたる美文、
ないしは装飾過多の文章になってしまうということがあり、
そのため、一流の通俗小説作家である赤川次郎の文章は、
模範としてさしつかえない文章であるのに対して、
三島由紀夫を筆頭とする装飾的純文学作家の文章が、
とても模範にはできない文章になる、ということがあるのだ」(P59)


文章よりもまずそのまえに内容ありきだろう、という立場を著者は取っており、
とても好感が持てる。
文章だけはどっかから借りてきた文学趣味で、内容がまったくないものはうんざりする。
反対に言えば、内容が読者の心を打つものがあれば、文章はさほど問題ではない。
ここで著者は新聞投書欄に掲載されたありふれた主婦の文章を引用する。
心を病んだ息子を心配する母親の朴訥な文章だ。
わたしはことさらいいとは思わなかったが、似たようなノイローセ経験があり、
お母様に心配してもらったことのある小谷野さんはとてもいい文章だと思ったという。
その主婦の投稿記事のタイトルは「二年寝太郎」。

「また「二年寝太郎」は、私自身の経験と重なるから、私はいいと思うのであり、
人によっては、どうということのない、ありふれた苦労話に思えるかもしれないし、
病気について知識がない、
あるいは自分自身がそういう病気に罹ったことのない人の中には、
大学生にもなって何という甘ったれた話だ、と怒る人さえいるかもしれない。
つまり、誰にとってもいい文章、などというものは存在しないとも言えるのである。
もちろん私自身は、これこれこういう文章がいい文章だとは言っているが、
それとは違う意味で、空中楼閣のように、
文章だけが内容や文脈(背景)とは別個にいいものとして存在するという考え方は、
迷妄だと言っているのである」(P150)


☆書き手(体験&知識&嗜好)→名文←読み手(体験&知識&嗜好)

うちのブログは仏教の読書感想文を書くことがあってつまらないとよく非難されるが、
それはこういう構造のためなのだと思う。
仏教に興味がない人や宗教をはなからバカにしている人には、
どんないい文章でなにを書こうが伝わらないし、そもそも最後まで読んでもらえない。
日本の庭園についていくらいい本を書こうが、
わたしはあまり興味がないから、その文章をあまりいいとは思わないだろう。
理想を言えば、
無関心の人の心をうまくキャッチして最後まで引っ張る文章もありえようが、
それはあくまでも理想論、夢物語であまり現実的ではない。
だれかが数学の新発見をしてそれを本に書いたとしても、
いまでは数学偏差値が30くらいまで下がった算数さえおぼつかない当方には、
その本をいいと思うどころか、おそらく最後まで読み通すことさえできないだろう。
その点、小谷野さんがよく出す新書は、とてもうまいと思う。
上手に読者の心をキャッチしてスピーディーに最後まで連れて行ってくれる。
内容がいいから文章もうまいのである。
とはいえ、小谷野さんの名著も文学者の名前を知らない人にはわからないと思う。

仏教評論家のひろさちや先生の本は偏差値50あたりの読者を想定しているため、
とてもよく売れているが、識者向けに書いていないので受賞とは縁がない。
わたしは偏差値40の女子高生でもわかる文章を書きたいと心がけているが、
どうしても双方の「体験&知識&嗜好」が噛み合わないから、
わたしの言葉は見えない女子高生には届かないだろう。
むかし「本の山」の「方丈記」の感想文が十代の少女の心に届いたことはあったが、
あれは奇跡だろう。奇跡はめったに起こらない。
悲観的だが、しかるがゆえに現実的なことを書くと人はわかりあえない。
たとえば自殺という一字をも自死遺族とそれ以外の人たちは共有できない。
わたしはなんでもない自死遺族の文章に胸を詰まらせることはあるが、
小谷野さんはそういうことはないだろう。
この文章だって、いったいどれだけの人に最後までお読みいただけるか。
ずっと教員や作家、つまり先生として生きてきた小谷野さんは語る。

「大学で講義をしたり、講演したりする時、
相手にどの程度の知識があるのか、とまどうことがある。
大学ならいくつか質問をすればだいたいつかめるが、
公演だとそれができないため、終わったあとで、
「難しくて分からなかった」と言われることがある。
これは、哲学や物理学のように難しかったのではなく、こちらが基礎知識と思って
説明ぬきで口にしたことを知らなかったから難しかった、という意味である。
著作でも同じことは起きるので、このくらいは常識だろうと思って書いていると、
知らないことをあたかも当然のように書いていると言って
怒る読者が出てきたりする」(P99)


☆話し手(体験&知識&嗜好)→感動←聞き手(体験&知識&嗜好)

小谷野さんはいい文章を小説や作文に限定しすぎている気もするが、
事務的文章においては、わかりやすいというのがどこまでもいい文章の条件だから、
この姿勢を批判するのは的外れだろう。
著者は作家の才能について斬新な指摘をしている。
いい文章が内容ならば、それは書き手の体験に大きく左右されることになる。
真っ白な状態からは文章は生まれず、
なにかモトになるものが書き手には必要なのである。
たとえば闘病体験や旅行体験はそのひとつだろう。
旅行記は好きだが、あれはいくら話を盛るところが多いものでも、
モトとなる道中の事件が必要なのである。
ならば旅先でどんな人と出逢い、
どんな事件に巻き込まれるかこそ、文章の書き手の才能ではないか。
人生行路でも、どんな人や事件に遭遇し、
禍福に巻き込まれるかを作家の才能と考えたらどうだろう。
川端康成の「伊豆の踊子」は名作とされているが、その根拠は文章自体にあるのか。
そうではないと小谷野敦は主張する。作家の才能とはなにか。

「川端康成の「伊豆の踊子」も、事実を記した名作である。
ところが、「孤児根性で歪んでいる」と自分を思っている一高生が、
突然思い立って伊豆への一人旅に出かけ、その途次、
旅藝人の一座と遭遇して同行し、その中の少女にひかれ、
「いい人ね」と言われて、下田港で一行と別れて、東京へ帰る船の中で泣く、
というのは、はなしとしてできすぎている。
だが、『細雪』と同じく、美しい出来事に遭遇するというのも、
才能のうちなのである」(P130)


旅に出てとどこおりなく観光名所をカメラに収め計画通りに帰宅したら、
なにか文章を書こうとは思わないし、書いたとしても人の心を打つことはないだろう。
海外で救急車で運ばれて入院したり、盗難に遭って帰国すると人はいろいろ考える。
その考えたところから文章が生まれるという仕組みがある。
名文は書き手と読み手の相互交流で生まれるたまたまの産物で、
思っているほど画一的で普遍的なものではない。

☆書き手(体験&知識&嗜好)→名文←読み手(体験&知識&嗜好)

人間の体験は外的偶然にかなり支配されているから選択自由なものではない。
嗜好は生まれつきの遺伝的な要素が強く、変えようと思っても変わらないことが多い。
知識は努力でなんとかなるという人もいようが、
持って生まれた知力の差は歴然として存在し、興味のない知識は増えないので、
これまた嗜好や体験に大きく左右されると言わざるをえない。
以上のような理由で、この感想文にどんな採点が下るかは書き手にはわからない。

「アイディアを捜せ」(阿刀田高/新潮文庫)

→小説を書ける人はすごいと思う。
どうやってみな処女作を書いているのだろう。
大御所の阿刀田高氏は好きなものの真似をしたという。恥も外聞もなく。
あれがとても好きだから、あのようなものを書きたい。
好きなものを真似て必死で処女作を仕上げた大御所の阿刀田高氏いわく――。

「今、こうして思い返し、分析してみると、
トリック、動機、書き方、みんな相当に気を入れて挑戦している。
作品の仕上りには不満はあったけれど、
――処女作とは、こういうものなんだろうなー―
と思わないでもない。
技術は未熟なのだから、せめて気だけはしっかりと入れなければなるまい」(P244)


要約すると、気合を入れろだ。気合だあ、気合だあ、気合だあ♪

「60歳で小説家になる。」(森村誠一/幻冬舎新書)

→人にはいろいろ適性ってものがあるじゃないですか? 能力差みたいなもの。
なかには重いものを運んでもさほど苦にならないものもいる(すげえ!)。
お菓子を箱に入れるのが超人的に早い女性がいる。
ものの数をかぞえるのが正確で、ロボットを超えるがごとき存在がいる。
おれ、ぜんぶダメなんだよねえ。
重いものを運ぶと翌日にはすぐに腰が痛くなるし、
お菓子を箱に入れるのも遅く、いくら経験を積んでもまあ限界が見える。
ものを数えるなんていう最低作業でもどこか自分に自信を持てない。
言葉にだけは誤った錯覚した自信のようなものがあるけれど、だれも評価してくれない。
もう女の子しかいないと思うんだ。
きれいな女性やかわいい女の子から愛され、
「土屋さん、がんばれ」って言われるしかない。
かつてそういう時期もあったのだが、芽は出なかった。
えええ? 本当におれごときが女から愛され応援された時期があったのか?
著者いわく、小説家になりたいなら「まずは日記に嘘を書きなさい」――。

「まずは日記に嘘を書く。他人に見せるために美化してもよい。
小説家志望者が、毎日文章を書き続ける訓練として、
もっとも入りやすいのが日記である。
ただ、経験した事実を、正直に書いてはいけない。
他人に見せる意識がないと、文体と文章が甘くなる。
平安朝時代の公家は他人に読ませることを意識して、日記を書いていた。
読ませるつもりで書くと、自分の感性の素晴らしさを誇張し、
虚構が加わるので、文芸になる。
それらの多くが古典として現在に残っている所以(ゆえん)である」(P112)


どこまで日記に嘘を書いていいのだろう。
わたしがいまの職場に好きな女性がいると
世間に実名で公開してみたらどうなるのだろう。
これは本当か嘘か。
あっちゃんかミッキーかアキちゃんかさっちゃんかチヅルなのか。
森村誠一いわく、日記に嘘を書くのが文芸のあけぼの。
アキとさあ目が合ったとき、泣くほどの笑い目をしていてちょーおもしろかった。
ハッシ―との雑談を盗み聞きしていたけれど、親とそりが悪い33歳独身なんでしょ。
おれはさ、盗み聞きしかいまの職場に楽しみはないから。
それにしても、やっぱりあっちゃんはかわいいなあ。
30オーバーだって聞いて、おれにも手が届くのかと妄想を抱いた。
ミッキーは独身かわからないけれど、お姉さんキャラだよねえ。
チヅルは怖い。今日で会社を辞めたいと言ったら、
そんなことではどこの会社に行っても通用しないとお叱りを受けた。
メガネを取るとかわいいのはチヅルもアキちゃんもおなじ。
おれ、いったいなんのために働いているんだ。いったいなにを書いているんだ。
いやいや、森村先生が小説家になりたいならば、まず日記に嘘を書けと――。
嘘と本当ってなんだろう。きゃぴきゃぴ、えへへ♪
本ばかりいっぱい読んできた人生でした。

「親から伝えられた遺伝子の数や組み合わせによって、
独自の遺伝子型が形成されるように、
大量の作品を読みこなすことによって、自分の文体が構築される。
遺伝子組み換えによる突然変異もありうる。
影響と模倣は異なり、作家志望者の基礎体力ともいえる読書量が少ない者は、
模倣に陥りやすく、大量の読書で培われた基礎体力が、
独自の文体や突然変異につながっていく」(P146)


ぶっちゃけ、もうむかしのように新人賞をめざすのってうんざり、げんなり。
だってもう40歳だぜ。いいおっさん。敗北中年。孤独中年。絶望中年。
賞を取って喜ぶ歳でもないような気がする。文芸の賞かあ。

「およそ文芸の評価は主観的な要素が強い。
ある人にとって極上の美味が、
別の者にとっては吐き気をもよおすような不可食物(食べられない)となるように、
不朽の名作が予選ではねられたり、
駄作がグランプリとなることも少なくない」(P166)


おれはさ、「神田川」みたいな嘘くさい世界が好きなわけ。
女と惚れあって、惚れた女のために力仕事をして安賃金をもらってくるみたいなね。
ひとつのマドレーヌをふたつにわけてふたりで食べたみたいな世界さな。
小説家になりたければ日記に嘘を書けって、おれ死にたい(笑)。



ひとつのマドレーヌをふたりで食べたしさみしき春よ。

「ふかいことをおもしろく 創作の原点」(井上ひさし/PHP研究所)

→井上ひさしの劇団「こまつ座」って結局、利益が取れていたのかなあ。
演劇って本当にお金にならないらしい。
でも、あまりに楽しいからみんなやりたがる。
三島由紀夫なんかもそうで、あれは赤字だったとどこかで読んだことがある。
おなじことの繰り返しである日常の倦怠から我われを
回復させてくれるのは芝居がいちばんの特効薬なのだと思う。
しかし、芝居はやるほうも見るほうも金がかかってしようがない。
わたしが1日働いても買えないようなチケット代金もざらなんだから。
井上ひさしはいろいろな仕事をした人だったが、もっとも好きだったのは演劇ではないか。

「小説というのはひとりの孤独な作業ですが、
劇作は多くの人たちが関わって創り上げていきます。(中略)
結局、最後はお客さんと俳優さんが、
一つの屋根の下にいるというところへたどり着きます。
そこでは、作者も演出家も照明家も全部消えてしまうのです。
やはり見ている人が目の前にいるという形式は、
一番厳しく、しかし面白い。贅沢な芸術です」(P86)


小説家だって書いてから読者の反応がわかるまでにはかなりの時間を要するのだ。
そのうえ読者の反応は手紙のようなものが多いだろう。
ファンと対面しても相手は自分の気持を考えて本当のことを言ってくれない場合が多い。
しかし、芝居は目の前で自作の反応がわかるのである。
こんなにスリルがある遊び(芸術)はほかにないのではないか。
見ている人が目の前にいるという形式は怖いが、とにかくおもしろいのである。
もちろん、見てもらうためにはおもしろいものを書かなければならない。
どこで受けたかも体感的にわかるから、それを次の創作に生かせるだろう。
劇作家はお客に育ててもらうという面もあるのではないか。
芝居は無報酬でもしたがる人の多い遊び(芸術)なのである。
演劇は作者も役者もスタッフもお客もみんなが楽しめる。
いまのバイト先は社員さんがパートをどこに振るか決める。
これは座付作者が顔なじみの俳優に役を振るのとおなじである。
ここには書けないこともふくめて、いまの職場は演劇的でおもしろいよなあ。
とはいえ、資本主義の最前線の現場でもあり、
時給850円ほしさに労働者がしのぎを削っている場所でもある。
共産党シンパだった井上ひさしは、資本主義と社会主義を超えるものを知っていたと思う。
資本主義でも社会主義でも人間全員は救われないが、しかし――。

「笑いは共同作業です。落語やお笑いが変わらず人気があるのも、
結局、人が外側で笑いを作って、みんなで分け合っているからなのです。
その間だけは、つらさとか悲しみというのは消えてしまいます。
苦しいときに誰かがダジャレを言うと、なんだか元気になれて、
ピンチに陥(おちい)った人たちが救われる場合もあります。
笑いは、人間の関係性の中で作っていくもので、
僕はそこに重きを置きたいのです。人間の出来る最大の仕事は、
人が行く悲しい運命を忘れさせるような、その瞬間だけでも抵抗できるような
いい笑いをみんなで作り合っていくことだと思います。
人間が言葉を持っている限り、その言葉で笑いを作っていくのが、
一番人間らしい仕事だと僕は思うのです」(P92)


まったく本当にそうだよなあ、とおセンチにもなみだを浮かべながら同意してしまう。
資本主義や社会主義を超えるものは、みんなで作る笑いなのかもしれない。
わたしなんかも過疎ブログで、だれかを笑わせたい、
笑わせたいと思って文章を書いているところがある。
あるところである人がわたしの顔を見て大笑いしてくれたときは嬉しかったなあ。
しばらくしてなみだが込みあげてきたくらいである。
読者さまはわたしがなにを書いているんだかわからないでしょう。ごめんなさい。
とにかく笑いは重要ってこと。
どんなに辛い状況にいても、人間は笑いでその苦境に抵抗することができる。
そしてひとりでも笑えるが、人間が複数で作る笑いはもっとすばらしいということ。
西洋哲学書を読んでもあんなところに救いはないけれど、
人間がふたり以上で作る笑いには救いがある。カントがなんだ、ニーチェがなんだ。

「大切なのは、自分が使いこなせる言葉でものを考えるということです。
生半可な外来語とか、意味をきちんと理解せずに討論をし、
ものを考えていくと、その言葉に合わせて、
いいかげんな理論構築や結論が生まれてしまうようになるのです。
それが一番危険だと思っています」(P102)


よりよくものを考えようと思ったら、自分の使いこなせる言葉を増やすしかないのである。
どうしたら使いこなせる言葉を増やすことができるかはみなさんご存じでしょう。

「パソコンで探せる情報というのは、すごいものがたくさんあるらしいのですが、
まだ本で蓄積されているものの方が、ずいぶん多いのではないかと考えています。
確かにその場で探すのはとても早くて便利ですが、
ひとつ掘り下げるとなるとまだ本のほうがいい。
本とは、人類がたどり着いた最高の装置のひとつだと思います」(P113)


パソコンには答えはない。かといって、本にも答えは書いていない。
おそらく本を読んで使いこなせる言葉を増やし、
自分の言葉でものを考えたとき、そのときはじめて自分の答えが出てくるのだろう。

「書いて稼ぐ技術」(永江朗/平凡社新書)

→家をキャッシュで買ったという高収入ライターが書いた物書き指南書である。
書籍の価格を考えたら当たり前だが(良心的ともいう)、
「明日から年収1億を稼ぐ」「1ヶ月で20キロやせる」「医者にかからない秘術」
の類の本だと思う。インチキ投資本に限りなく近い。
といっても、フリーライターの著者を責めることはできない。
おそらく、企画を立てたのもタイトルをつけたのも出版社の編集者だろうから。
明るい善人であるらしい著者は、本書で本当のことを無邪気に語っているのが微笑ましい。
「私が飢え死にしなかったのはなぜ」か?
それは「運がよかったこと。これが最大の理由でしょう」とあまりにも正直すぎる。
新人ライターは臆することなく出版社に営業をかけようと発破をかけながら、
最後の最後で、じつのところさ、
自分のこれまでの仕事はすべてコネ(紹介)で飛び込み営業なんてしたことはない――。
ああ、正直なんですね。
インチキ投資をすすめるような詐欺師には決してなれない著者に
好感を持たない編集者はいないのではないか。
もしかしたら著者が不安定なライター稼業を継続できたのは、
こういう素直さがプラスになったのかもしれない。

そうそう、これは物を書くときの基本的姿勢で常識だと思うが、
なかにはご存じないブロガーさんもいらっしゃるかもしれないので書き写しておく。
高収入ライターの著者も強調しているが、自分のことはマイナスを書こう。
人様にお見せする文章では自慢話ではなく、失敗談を書くようにしよう。

「ルポルタージュの書き手は幸福になってはいけません。
少なくとも読者よりは。私たちは他人の不幸が大好きです」(P132)


しかし、これも絶対のルールではないのである。
成功者のお嬢さんなんか世間を知らないから恥じらいもなく自慢話を書くのである。
そういうものが世間ずれしていないと大衆受けしてベストセラーになることもあるのだから。
こそこそ書くのはよくないので、はっきり書いておこう。
阿川佐和子女史の「聞く力」は自慢話ばかりでうざいが、なぜかベストセラーになっている。
きっと彼女はどこまでも運がいいのだろう。きっと営業の「え」の字も知らないはずである。

「売文生活」(日垣隆/ちくま新書)

→本書から学んだことは、原稿料なるものが都市伝説ではなく実在していたということだ。
世の中には本当に文章を書くだけでお金をもらえている人がいたのか。
あんなものは無知な若者をだます類のインチキ儲け話ではないかと思っていた。
繰り返しになるが、へええ、本当に文章を書くだけでお金をもらえる人なんかいたのか。
それっておかしくないかなあ。
だって、文章ってたとえお金をもらわなくても書いてしまうものでしょう?
ああ、そうか。そこで作家とライターのちがいに行き着くのか。
作家は書きたいものを書くけれど原稿料は雀の涙ほどでほとんど食えない。
いっぽうでライターは注文仕事で職人技だが、なんとか人並みに金を稼ぐことができる。
自分のために書くのが作家で、人様のために書くのがライターではないか。

いや、本当にそうなのだろうか。
というのも、ネットをぶらぶらしていると食えないライターというのがいるらしいからだ。
え? 食えないライターなんてありえないじゃん、と思う。
だって、ライターは作家とちがって食うために自分を捨ててやるものでしょう?
食えなかったら職能がないということだから、ほかの仕事をするしかないじゃありませんか。
作家ならべつだ。書きたいことを書いて食えないのは、まあ当たり前だろう。
ライターで食えないと嘆いている御仁はいったいなんなのだろう。
そのくせ、他人にはどうでもいい自分語りの思い出話を、
さも誇らしげに無料でブログに書いている自称ライターってなに?
自称ライターや自称お笑い芸人は気持が悪い。
ライターやお笑い芸人は他人に奉仕するサービス業ではないか。
自己表現をしたいのなら、
作家や自作自演の舞台俳優を目指したらいいのではないかと思うのだが。

どうやら現実に存在していたらしいライターという職業で(驚いたなもう!)、
高収入を得ている著者がお書きになったいわばドヤ本の本書を読んでこんなことを思いました。
生意気いって、すんません。ああ、原稿料なんて都市伝説かと思っていたや。
原稿料とやらを得るためのこつを著者は夏目漱石から学んだようだ。

「執筆や出版にかかわる条件は、依頼があったときにのみ有利に交渉しうる、
という鉄則を、最初に身をもってやり遂げた最初の作家が夏目漱石だった」(P88)


「詩の楽しみ 作詩教室」(吉野弘/岩波ジュニア新書)

→1月に87歳(すげえ!)でお亡くなりになったらしいから追悼読書をしてみた。
死んだ人の悪口を言うと品性を疑われるから、これは困ったことになったぞ。
作者の詩ではなんとか自分の感受性をごまかしていたが雑文はだめである。
ごめんなさい。わたしはお亡くなりになった吉野弘さんが正直あまり好きではないんです。
「詩作とはある対象を個性的にほめること」という定義からして、はあ?
目が見えない少年少女に過剰に同情して自分の善人ぶりに酔っているのも、げえ!
吉野弘さんがいいとほめる少年少女の詩のどこがいいのかさっぱりわからない。
いかにもガキが大人にほめられようと計算して書いている詩をそのままほめるんだぜ。
全体的に左翼くさいし説教くさいのだが、この悪臭には耐え切れない。
最後にはドヤ顔で自分の詩を激賞しているのだが、いくら偉くなっても羞恥心を持てよ。
しかし、山田太一さんもほめている詩人のほうがわたしよりも正しいのは疑いえない。
以上の感想はすべてわたしの間違った誤りの、採点すれば0点になるものである。
お亡くなりになったとても偉い詩人さんから百点満点の創作作法を学ぼうではないか。

「詩を書きたくなるいろいろな場合のうち、とくに私の気持ちが動くのは、
簡単に言うと、〝何かに気付いたとき”です。
〝何かに気付いたとき”というのは、それまでの私の物の見方や感じ方に
〝揺れ”ないし〝ずれ”が生じて新しいことに気付こうとしている状態、
あるいは、それまで漠然としてわからなかったことの
意味に気付く状態ということができます。
それを私は〝固定観念のズレ現象”というふうに名付けています。
固定観念は、言いかえますと、
決まりきった物の見方・感じ方であり、決まりきったやり方です。
それが、ほんの少しでもずれると、
物事の新しい面が見えてきて、私に詩を書くように促すのです」(P169)


(関連記事)「吉野弘詩集」

「年寄りは弱虫なンかがなれるもンじゃねえ」(小池一夫/小池書院)

→有名な漫画原作者らしい著者の創作ノウハウ本である。
著者の名前でネット検索すると「詐欺」の二文字が出てくるのが、なんともリアルで……。
なんでも創作の私塾のようなものを開き、その生徒にいろいろやんちゃをしたらしい。
デビューしたかったらこれだけの金を払え、うんぬん。
結局、これがいちばんおいしい商売なのである。
みんなから尊敬してもらえ、自分は絶対権力者として振舞え、なおかつお金も儲かる。
詳細はよく知らないが、
小池一夫氏の私設スクールはシナリオ・センターなどよりはるかにましなのではないか。
シナリオ・センターは脚本など一度も書いたことのない
創設者の血族が偉そうに創作の指導をしているのだから。
そういうのにだまされてしまうお客がいまも大勢いるのである。
そもそもフィクションの快感とは、だまされる悦楽である。
そうだとしたら、詐欺疑惑のある著者のような怪しげな人は
ついつい本物だと思いたくなってしまう。
結局、虚業というのはいかに人をうまくだますかではないだろうか。
どのようにだましたらいいのか。どうしたら読み手に評価されるか。
人気漫画原作者で詐欺師(このふたつは矛盾していない)の著者は語る。

「いい物語(はっきり言ってしまえば売れる作品)とは、多数の読者一人一人に
「ここには自分のことが書いてある」「自分とこの書き手は同類だ」
と思わせることが出来る作品であると僕は考える」(P158)

「テレビドラマ等で、視聴者の反応を見て脚本を変えるというが、
それはもう表現者としての仕事ではない」(P161)


本物っぽい気がするんだけどなあ。詐欺師の疑いもあることからよけい本物くさい。
たぶん本物はかなりのところうさんくさい、いかがわしい食わせ者なのだと思う。

「童話の書き方」(寺村輝夫/講談社現代新書)絶版

→童話作家の著者は、創作の秘訣としてスポーツ新聞をたとえに出す。
前日のプロ野球の結果を伝えるにも各紙違いがある。
見出しに注目したらどうなるか。
一紙は「宮本初勝利!」、一紙は「原8号!」となっていたという。
巨人対ヤクルト戦の結果である。ヤクルトが巨人に一点差で勝利した。
ジャイアンツ系の新聞は読者を不快にさせないように「原8号!」と書く。
これは巨人が負けたという事実をねじまげているわけではない。
きちんと紙面では巨人がヤクルトに敗れたことを伝えている。
しかし、「原8号!」と見出しにすることで明日へ希望のつながるものとしている。
巨人ファンはスポーツ新聞を読んで朝から不愉快な気分になりたくないのである。
そこを察してジャイアンツ系の新聞は「原8号!」をあえて強調する。
この方法が童話創作においても重要だと著者は指摘する。

「童話でも同じだと思います。
問題は、作者がどの「立場」に立つかです。
童話には作者の確固たる立場が要求されます。
その立場は、作者のものの考えかたのはじまり(主観)、
読者の知りたいこと、興味のあることをどううけとめるか(個性)によってつくられます。
つまり、ヤクルト側に立つか、ジャイアンツ側に立つかです。
どっちつかずで純粋客観的なものを書いたのでは、おもしろいものは書けません。
あえていうなら、子どもの側に立つか、大人の側に立つか、ということです」(P144)


童話作家の著者は「迷わず子どもの側に立ちます」という。
「なぜなら童話の第一の読者は、子どもだからです」――。
著者はヤクルトが好きだそうだが、おなじように子どもも好きなのだろう。
どの立場に立つか、が物語創作のポイントなのかもしれない。
これはどんな人を好きになるか、ということなのだろう。

いまはもうまったく見なくなったが、プロレスでもそうである。
かつて雑誌は「週刊ゴング」(廃刊)と「週刊プロレス」があった。
「週刊ゴング」は客観的に試合のレポートをするが、読んでもおもしろくないのである。
「週刊プロレス」は特定レスラーに強く思い入れたレポートをよくしていた。
この仕組みに気づいた大仁田厚はギャンブル好きの編集長に裏金30万を渡したという。
もちろん、翌週の「週刊プロレス」表紙は大仁田である。
これを大仁田厚の立場から見たら、成り上がるためにはやむなし、である。
編集長の立場から見たら……ハハハ、こいつは好きになれん。
このときの「週刊プロレス」編集長はターザン山本という。
しかし、実際は関係者が暴露しないだけで、これはプロレスの世界だけではなく、
世の中はほとんどすべて裏金でまわっているという面があるのだろう。
プロレスだけではなく、マスコミ報道はすべて「童話」なのかもしれない。
犯罪者の立場に立った新聞など読んでみたいが、たぶん一紙もないはずである。
とすると、事実や真実を伝える新聞や雑誌は「大人の童話」と醒めた目で見るべきなのか。
童話創作から話がとんでもないほうにいってしまったようだ。

「書くことが思いつかない人のための文章教室」(近藤勝重/幻冬舎新書)

→著者は自分の文章にそうとうな自信があるようで幾度も模範文として提示する。
そのうえ自画自賛さえするのだから、読んでいてアワワとこちらが恥ずかしくなった。
わたしは著者自選の傑作文章をそれほどおもしろいとは感じなかった。
もしわたしが編集長で彼がライターなら書き直させるかもしれない。
そうなのである! ものすごい真理を書いてしまうと、文章に巧拙はないのである。
文章のうまいへたに客観的な基準はない。
では、なにが文章の格を決めるかといったら作者の肩書である。
近藤勝重氏は毎日新聞専門編集委員で、元「サンデー毎日」編集長。
このほかにも著者はいろいろ権威となる肩書を持っている。
このため氏の文章は、たとえば拙文よりも数段格上になるのである。

本書でも例文が挙げられていたが、
夏目漱石の文章がいいのではなく、夏目漱石の文章だからいいのである。
新人作家の文章にうまいもへたもなく、
ただ新人だからという理由で編集者に何度も書き直しを命じられるのだ。
ときには格上の編集長に無断で書き直されることもあるだろう。
しかし、彼(女)が直木賞や芥川賞を取ったら立場が変わる。
今度は芥川賞作家の文章だからよいとなり、これは名文だとほめられるようになる。
最後に、だれもいえなかった文章作法の真実をこっそり書いておこう。
いい文章を書きたかったら、どうしたらいいのか?
偉くなりなさい、ということだ。肩書をいっぱいつけなさい。
そうしたらあなたの文章は名文として評価されるだろう。