「創価学会 もうひとつのニッポン」(島田裕巳・矢野絢也/講談社)

→学会ウォッチャーの島田裕巳と元公明党委員長で古株学会員にして、
いまは脱会して「裏切り者」と相成った矢野絢也の対談本である。
どうしてこんなに(むかしの)創価学会にひかれるのか考えてみた。
おそらくいまおのれのバイタリティが消えかかっているからだろう。
欲望がないことが悩みである。ほしいものはギラギラした欲望。
いまの目標は、なにか欲望を持つこと。怒りでも反骨心でも復讐心でも構わない。
むかしは屈辱的な退学処分を受けたシナリオ・センターを見返してやりたいという、
炎のような怨恨ともいうべき熱情があったが、いまはすっかり消失してしまった。
そもそもいまの映画もテレビドラマもまったく関心がない。
ドラマどころか地上波テレビも見なくなってしまった。
政治への興味も世界経済への関心もない。
結婚したいとも正社員になりたいとも出世したいともほとんど思わない。
人生経験として(書くネタを求めて)結婚とか出世競争とかしてみたいという気はあるが、
とはいえそれほど熱烈なものでもない。
もう父からは結婚しろとも正社員になれ(正社員を目指せ)とも言われなくなった。
父より早く死ぬという親不孝はしたくないが、
父が死んだあとのめんどうくさい処理を考えると本音では父より先に逝きたい。
というか生命に執着がなく今月いっぱいの余命と医者からいきなり宣告されても、
「ああ、そうですか」と穏やかな微笑を浮かべられる廃人めいたところがなくもない。
かといって小金にはけっこう執着を失っていないのだから矛盾している。
女にボロボロになってみたいとか不埒(ふらち)なことを
まったく考えていないと言ったら嘘になる。
けれど、金儲けもそうだし女も出世もなにもかもめんどうくさい。

こういうわたしだからこそ創価学会のような反対の世界に興味をいだくのだろう。
というか、おそらくいまは休眠中だが、人一倍いわゆる学会根性を持っていると思う。
眠りから覚めたいのである。暑苦しい、しかし生き生きとした世界に帰還したい。
小さな相手の不手際に、このやろう、おれを舐めるなよ、いつか見てろよ!
と延々と些細なことを根に持つようなファイトがほしい。
いまは学会雑誌にも掲載される元プロレスラー天龍源一郎のように熱く生きたいのだ。
いまはすっかり学会に落とされた芥川賞作家・柳美里の、
それ以前の若いころのような破滅的な熱っぽい生き方をしてみたい。
口先だけではなく、むかしの学会員のような暴力的な違法行為を実践してみたい。
とはいえ、創価学会へ入信したいというわけではない(そもそも入れてくれないもん)。
かりに学会へ入れていただいても絶対役職にはつきたくないし活動家にはならない。
ただし公明党へは入れる。これはもういまでも入れている。
自分の得になる賄賂的な財務(寄付)をすることは
やぶさかではないが(これは後述する)、
純真な気持から財務をする気にはあまりならないだろう。
いまはもう悪口座談会がなくなったという聖教新聞はいらない。

いまの若い人は(たとえ学会員でも)知らないだろうけれど、
創価学会研究家のわたしはむかしのかの団体がえらくおもしろかったことを知っている。
矢野絢也は1957年に竹入義勝(元公明党委員長)と
初めて会ったときのことを以下のように回想している。
公明党の最初の参院選のとき、
関西の選挙活動の指揮を執ったのが(東京から来た)竹入だった。

「[竹入を]怖い人やなと思いました。選挙期間中、あまりぼろくそにしごかれたので、
選挙が終わって天満のレストランで送別会になったとき、
われわれ大阪の人間たちはみんな怒り心頭だったんですよ。
「よーし今日こそ、選挙終わったからぶんなぐったるねん」と、
それは竹入さんに対してだけではなかったんですが、えらい剣幕だった。
ところが竹入さん、挨拶する番になったら
「無理を言って申しわけなかった」みたいなことを言ったかと思うと、
「私、『夜霧のブルース』を歌いますと言って、
「男同志の相合傘でー」なんて歌うんですよ。それを聞いているうちに、
怒り狂っていた連中が感極まっておいおい泣いているんですな。
これはもう、信心でもなんでもない、浪花節の世界。
[むかしの?創価学会には]そういう感じってあるんですよ、竹入さんだけじゃなくてね。
(……) 殴るどころかね、抱き合って握手して別れたという、
それはね、池田[大作]さんにももっとそれがあると思うんです。
ぼろくそに怒ったあとで「元気かい」ってちょっと声をかける」(P52)


人間くさいドラマがあっていいよなあ。
むかしは大物が群雄割拠していたけれど、いまはなんだかなあ。
結局、戦争というのが人間を生き生きさせるという面もあるわけだ。
いまの男が男らしさを保てなくなったのは長らく戦争がないからという意見もあろう。
戦争といってもあの悲惨な戦争をイメージするのではなく、
国内の宗教戦争もまた人間をわくわくさせるのではないか。
そう考えると、現代において創価学会ほど宗教戦争を起こした団体はないのではないか。
他宗のみならず権威のよりどころであった日蓮正宗とも戦争をしている。
そのほとんどで勝っているともいえるんだから、創価学会は常勝の最強団体といえよう。
創価学会に骨の髄までしゃぶられつくされた矢野絢也は証言する。

「創価学会は、常に自分は正しいと勝手に思いこみ、
常に外に敵を想定して、それに襲いかかるのがバイタリティの源泉なんだから。
それは一面で離脱防止のミセシメになるのです」(P242)


過激派戦闘集団、創価学会の大将は池田大作先生である。
先生の裏も表も味わい尽くした矢野絢也は、
いまでも池田さんに惚れていることを隠さない。
池田大作先生は――。

「喧嘩上手ですよ。「攻撃が最大の防御」が池田さんのモットーです。
相手の出方によっては自分もダメージを受けるわけですよ。
ダメージを受けたときに、負けてなるかとハッパをかけられるかどうか。
池田さんのすごいところは、そこですよ。
負けても、負けたと認めない。
ましてや優勢となれば、それ行けどんどん」(P288)


かつての池田創価学会は、喧嘩上手、プロの戦闘集団だったのである。
いまの若い人は知らないだろうけれど、むかしは学会と共産党は犬猿の仲だった。
理由は、おなじお客さん(下層労働者)を相手にしていたからで、
いがみあわざるをえない。ところが1975年、創共協定が発表される。
これは作家の松本清張が創価学会と共産党の仲を取り持ったという。
ご存知のように、公明党は創価学会を母体としている。
当時公明党のトップだった竹入と矢野は、
創共協定のことを発表されるまで知らなかったという。
あまりのことに竹入は憤慨したが、創価本部から抑え込まれたという。
このように創価学会は巨大ゆえにトップの池田以下の指揮系統が
いろいろあり情報が錯綜することが多い。いまではもっとひどいだろう。
それにしても池田さんはすごいなあ。
いちばんの敵と手を組むようなことを平気でやるのだから。
これに関する裏事情を矢野絢也はばらしている。

「ところで、そもそも[創共]協定自体はどちらからもちかけたのかという問題ですが、
気になって野崎勲君に話を聞いたことがありました。
が、もごもご言ってるばかりではっきりしないんです。
ですが私の受け止め方としては、学会側からもちかけたということのようですね。
なぜそんな協定を結ぶ必要があったのかというと、
やはり対共産党対策を一〇年担保するためなんでしょう。
つまり、宗門戦争に備えて前門の虎を固めたということです。
そういう意味では、池田さんという人の発想は確かに奇想天外、
機略縦横[きりゃくじゅうおう/自由自在]だと言えるのかもしれません。
ものすごく大胆で、ドラスティック[過激・劇的]ですよ。
余人には思いもおよばないことをやりますわ。たいした戦略家ですよ。
実際そのあと共産党は、創価学会批判を完全にやめました。
律儀というか、生真面目に学会批判をストップしましたね。あの党は真面目ですわ。
もちろん創価学会のほうも「聖教新聞」では共産党批判はしませんでした。
しかし、僕は池田さんから言われたんです。
「おい、『公明新聞』で共産党を叩け」とね。大したお方ですよ。
ようおっしゃいますなと思って、つくづくお顔を眺めたことがあります。
つまり政教分離だから、[共産党の]宮本顕治さんとしても、
公明党のやったことに対して学会に文句を言うことはできないわけですね」(P167)


池田さんやるなあ。池田大作さんのこういうダークなところ、
デーモニッシュな部分がとても好きである。なにをやったっていいんだ。
常識や世間法なんて知ったことか! 
信心とは世間法など足元にも及ばぬ最勝の仏法、法華経と一体になること。
法華経精神とは勝利のためなら「嘘も方便」と命がけで思い切ること。
表面上は握手しておいて、裏では闇討ちを計画してもよい。
おれがおまえを育ててやると部下を徹底的にしごき、
自分の立場が危なくなったら、
その部下を平気で裏切りポイ捨てする精神がなければ男は世をのしていくことはできぬ。
創価学会は矢野絢也を裏切り者だと言うが、
矢野絢也からしたら池田大作さんに裏切られポイ捨てされたわけで、
これは矢野も認めていることだが、
残念ながら矢野は池田ほどの器ではなかったといえよう。
とはいえ、あれだけ池田に鍛えられたのだから有能な人物であることは疑いえない。

さて、戦争をするためには実弾がいる。実弾とは金のこと。札束のことである。
むかし創価の財務は寄付金控除の枠に入ると思っていたが、
どうやらそういうことではないらしい。
しかし、創価の財務は裏金の受け渡しに使われていた(使われている)のではないか。
わたしは賄賂(わいろ)というのは必要悪だと思う。
世間法では賄賂や癒着(ゆちゃく)は裁かれるが、
日蓮仏法や法華経から見たらそれほど大した問題ではない。
賄賂というとさも罪悪のような気がするが、庶民的には「おまけ」ともいえなくはない。
便宜をはかってもらった見返りになにもしないというのは、
法律的には正しくても人情の世界ではあまりよろしい態度ではなかろう。
相手になにかをお願いしたいときは「気持」をわずかでも差し出すのが心意気。
中小の会社がライバル会社から受注を奪いたかったら「誠意」を見せるしかない。
しかし、「気持」や「誠意」はよほど演技がうまい役者でも小道具なしには出せない。
そうはいっても難しいことはわからないが、
会社の経理で「気持」「誠意」という用語では金を落とせないだろう。
経済活動をしていくなかで裏金というのはどうしても必要なものなのだと思う。
大学時代、コンパのあとに先輩が酔っ払い運転する車に乗せてもらったことがあるが、
先輩はたとえ見つかっても
自分の親は都議会議員と通じているから大丈夫だと言っていた。
世の中というのはそういうもの。
世間法に縛られて窮屈に生きるよりも、池田先生のために自由に生きようよ。
自分のためではなく、池田先生のためにしているのだから、
広宣流布(布教)のためにしているのだから、小さいことにこだわるな。
創価学会の巨大財務の裏側が公開されたらみんな唖然とするに違いない。
国税庁は創価学会の財務の正体を暴こうとしたが、
正義の獅子たる矢野絢也は国家権力から多くの学会員を守った。
矢野絢也に足を向けて眠ることができない社会上層部の人たちは多いのではないか。
矢野絢也は学会のために国税庁と戦争をして、そして雄々しくも勝利した。
矢野は多くの苦労人学会員をエリート国家権力から守ったともいえよう。
国税庁は学会の財務のなにを問題にしてきたか。

「……公益の中でいちばん問題になったのが、
会員からの寄付、いわゆる財務ですね。
大口の財務の名簿を見たいと国税は言うわけです。
しかし、公平に見てこれは学会員のプライバシーなんですよ。
誰がいくら寄付をしたとか、私がいくら寄付をしたかということは、
国家権力なんかに知られたくない信仰の自由にかかわる重要な秘密であって、
プライバシーの問題なんだと突っぱねた。
しかし、国税庁からすれば、入りを調べなければ全体はわからないわけです。
寄付した人が本当は一〇〇万円しかしていないのに、
五〇〇万円したと言っているかもしれない。
逆に五〇〇万円しているのに、帳簿に一〇〇万しか入金記録がなければ、
四〇〇万円がどこかに消えていることになる。
そういうことを確認する必要があるから、
国税は財務の大口のリストを見せるように求めてくるんですね」(P198)


ここからいわゆる世間法でいうところの「不正」のさまざまな香りを、
嗅覚の鋭いものは感じ取らざるをえないだろう。
しかし、その「不正」が私利私欲のためではないのなら、それは本当に「不正」か。
世間の善悪なんていいかげんなものでうまくやれば合法で、
やりかたを知らなかったばかりに違法になることはいくらだってある。
とにかく最近、欲望が消えつつあるわたしが言いたいのは、
創価学会の欲望礼賛の教えがいかにすばらしいかである。
映画「ゆきゆきて、神軍」の奥崎謙三ではないが、
人間の法を超えるものはあると思っている。
それは神の法かもしれないし、法華経かもしれないし、
池田さんの「おれルール」かもしれないし、
池田先生の影響を受けた学会員それぞれの「おれルール」かもしれない。
世間のルールにがんじがらめになり小さくまとまって生きているよりも、
おのれの欲望を肯定して「おれルール」で生きている人は、
ある面でとても人間くさく、見方によっては美しいともいえるのではないか。
全盛期の池田大作さんの魅力はそういうところにあったのではないかと思われる。
この人を男にしたい。ああいう男になりたい。
わたしは全盛期の池田大作名誉会長をなまで見たことがないから、
池田氏にそういう思いをいだくことはないが、
長らくプロレスラー天龍源一郎の大ファンだったので。
この人を男にしたい、ああいうおもしれえおっさんになりたいという気持は理解できる。
カリスマ性というのは体感しないとわからないが、
むかし後楽園ホールに天龍源一郎が登場するとそれだけで鳥肌が立ったものである。
おそらく学会員が池田大作氏に感じたであろうカリスマ的昂揚をわたしも知っている。
この人を応援したい、ああ、かなわねえ、けど、ああなりてえという気持のことだ。
この人をなにがなんでも守ってみせる、という気迫のことだ。

よい子の学会員さんは知らないほうがいい「ルノワール事件」という、
創価学会がらみのゴニョゴニョなあれがあった。
たぶん矢野絢也は本当のところを知っているのだろうが本書で吐き出していない。
いまだに池田大作氏への忠義心のようなものがあると思われる。
第一次国税調査は二十何億円かを納税することで国税と手打ちをした。
矢野絢也は過去をどこか懐かしく思い返す。

「これでやれやれと思っていたら、今度はルノワール事件です。
これは三菱商事が絡んでいて、またややこしい。
(島田「いまだに真相がよくわからない」)
だいたいはわかったんですけどもね。
とにかく約一五億円が行方不明金になっていて、
第二次国税調査になったんですが、陳情、お願いしまくりましてね。
このときは追徴課税はゼロですんだんですよ」(P238)


有能な人ほど裏を知りすぎてしまい結果としてトップから危険視され粛清される。
わたしは有能では断じてないが、
むかし上司からそのまた上司の悪口を酒の席で聞きすぎたせいで、
その直後に唐突に切り捨てられ会社から追放されたのかもしれない。
いま矢野絢也がヤクザから消されもせず、こうして書籍まで公刊できるのは、
まだまだ公開していない学会の秘密があるからだろう。
それはすでに記録しており、自分が不審死したら公開される仕掛けになっている。
こう言っておけばさすがに創価学会も矢野絢也に手を出せまい。

ここからはかなりマニアックな話になるが、
SGI(創価学会インタナショナル)なるものが存在する。
これはそもそも宗門対策としてつくられたことを本書で知った。
いまは喧嘩別れしてしまったが、創価学会はもともと日蓮正宗の門徒組織なのである。
権威は日蓮正宗の坊さんに依存して、金と権力は創価学会のほうが持っていた。
どう考えたって坊さんよりも池田大作のほうが「偉い」だろう?
ということで、創価学会は1975年にSGIの前身となる世界組織をつくり、
そこの会長を池田にして、
日蓮正宗の法主(ボス)はその下というあつかいにしようとたくらんだわけだ。
当然、日蓮正宗サイドは怒るわけで、これが第一次宗門戦争のきっかけになったらしい。
男って人の上に立ちたがるというか、
まあ出世くらいしか生きる楽しみがないのが男たるものの哀しさだよね。
男って本能的に威張りたがるようにできているのかしら。
相手の言葉尻をとらえて「上から目線」だとかいちいち声を荒らげたり、
学会員のコンプレックスは似たものをこちらも有しているからわからなくもない。

いまの二世、三世の学会員さんって、
本当に罰(バチ)とか功徳とか信じているのだろうか?
功徳は信じられないけれど、バチのほうは幼少時から教え込まれていると、
のちのちまでその人を縛るらしいね。
なにかよくないことがあるとこれはバチではないかって(笑)。
わたしは幸いにも(不幸にも?)家族や親せきに学会員がひとりもいなかったから、
バチへの恐怖感みたいなものはまったくない。
功徳とか言われても、いいことも悪いことも、すべては運やタイミングだと思っているから。
矢野絢也はうまく学会から抜け出すことができた。
いま脱会したい人は、突き詰めれば罰(バチ)が怖いのではないか?
このへんの心理メカニズムを優秀な矢野絢也氏はうまく言語化している。

「学会のいろいろな指導の影響もあるけれど、
自己洗脳という面が大きいと思うんですよ。
人に向かって功徳を説き、反対すれば罰を受けますよということを
日常的にやってきているわけですから。
折伏[しゃくぶく/勧誘]は、そういうことをやるわけです。(……)
自分のことを言うと恥ずかしいんですが、入信して功徳があるなんて、
そんなことあるわけないと内心では思っていたわけです。
ところが、人にそう言っているうちに、
「本当に私、功徳をいただきました。ありがとうございます」なんて言われると、
こっちが感激してしまうわけなんですよ。
えっ本当、なんてね。もちろん、そうは言えませんがね。
そういう現実を前にすると、功徳があるから信心しなさいと人に言っていることが、
逆に自分にインプットされる。一種の自己洗脳ですよ。
人に教えを説くことは、利他、他人のためですが、
同時に自分のためでもあるんですな。
そういうことがあると、もうその世界から抜けられなくなってくる」(P209)


今日はエイプリールフールだから話半分に聞いて(読んで)もらいたいが、
先日早朝法華経を読誦した日に驚くような功徳があったような気がしなくもない。
繰り返すけれども、今日はエープリールフールだからね。
世の中の裏側ってどうなっているかわからないわけ。
だれかのブログやツイッターのひと言が株価を変えることも実際あるわけだから。
だとしたら、法華経を読誦したら因果的にではなく、
共時的に幸運が舞い込むということも絶対にないとは言い切れないんだなあ。
わたしは南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏の両刀使い。
というか、なんでもOK! の人だから、創価学会にも顕正会にも偏見はない。
ある人たちにとっては学会活動はとても楽しいのだろう。
京大出のエリートの矢野絢也は指摘する。

「……選挙のときの学会員は本当に大変で、
足を向けては寝られないくらいありがたいんです。
が、その反面、意外に喜々としてやっていただいている面もあるんですね。
学会から選挙運動を除いたら、ガタがくるのではないかなどという人もいるくらいです。
財務の話もそうでしたが、選挙も一種の麻薬みたいなところがあるんです。
お金を出すこと、苦労して票を集めることに生きがいがある。
信仰というのはある意味で、
犠牲を払うことがいちばん高い境涯になるからなのでしょうか。
よくわからないのですよ」(P216)


わたしは選挙や財務に生きがいを見いだせないだろうが、
そういう人がいてもいいと思っているし、
あんがいそういう生きがいのある学会員さんのほうが、
いまや夢や目標を失い欲望さえ薄まった当方よりも幸福かもしれないではないか。
あの池田大作を育てたのは二代目会長の戸田城聖である。
矢野絢也も戸田城聖に落とされて学会に入っている。
酒なしでは説教のひとつもできなかったという戸田城聖はどのような男だったのか。
わたしは創価学会で「戸田に還れ」とまではいかないが、
努力主義の池田先生もいいが快楽主義の戸田先生も悪くないのではないか、
という一種のムーブメントが起きてもおかしくないような気がしている。
矢野絢也は戸田城聖と会ったときのことを以下のように回想している。
戸田城聖は――。

「存在感が大きい。それはこっちが小さいからでしょうけどね。
とにかく豪放磊落(ごうほうらいらく)っていうのと、
本当に牛乳瓶の底みたいな分厚い眼鏡をかけていたのが印象的でした。
(……) やさしい目、しておられたんですよ。
で、僕が紹介されたら、
「お前は京都大学の学生か、しっかり勉強せえ」と、こんな調子ですわ。
「親父がノイローゼだ? それはお前たちが狂っとるから親父が狂うんだ。
お前たちが狂わしてるんだ」と。
「どないしたらいいんですか」って聞いたら、
「放っておけば治るんだ」と、そんな調子ですね。
信心の話なんかしないんですよ。(……)
僕らは最初、新宗教の指導者なんてどうせ、
何でもかんでも拝めば治るって言うんだろうくらいに思っていた。
そういう先入観があったんですけど、
この先生はそうじゃないなと思いましてね」(P22)


ずいぶんむかしに宮本輝の小説から創価学会へ分け入ったが、
かなり奥深いところまで到達したのか、
それとも座談会へ潜入取材させてもらえないうちはまだまだ半人前なのか。
むかしの創価学会はおもしろい。
いまの学会がどうなっているかはお声がかからないからわからない。
顕正会だって黒服で挨拶に来る我輩さまを創価学会は無視するのでしょうか?
正義という言葉が嫌いなわたしは比較的に融通が利くほうだと思う。
ひょっとしたらいままでわたしはエフ(フレンド)として、
多くの学会員のお世話になったおかげで生きてこれたのかもしれないけどさ。
南無妙法蓮華経。

(関連名著)
「私が愛した池田大作」(矢野絢也/講談社)

「お笑い創価学会 信じる者は救われない」(テリー伊藤・佐高信/知恵の森文庫) *再読

→10年以上もまえに読んだ本を、探してもないのでブックオフオンラインにて注文、再読。
おれ、隠していないけれどF(エフ/学会の隠語)なんだよね。
エフとはつまり創価学会のフレンドみたいなもん。
最近の選挙ではすべて公明党に入れている(おれの一票で国が変わるかよ!)。
だれに頼まれたわけでもないけれど、公明党の政策もよく知らないけれど。
(そもそも40年の人生で学会員を自称する人とひとりも逢ったことがない)
いま失職、無収入、重度の顔面神経麻痺、吃音、孤独、絶望、とにかくひとりぼっち――。
これは創価学会さんに誘ってもらうしかない環境でしょう。
わたしは創価学会本部に電話をかけたことがあり、
けんもほろろの対応をされたが、末端の人情味あふれた学会員なら「今でしょ!」。
うちはライバル団体である顕正会の布教エリアとも隣接しているらしいから、
タイムセール、いまだけお買い得よって話。
わたしはべつに教義にこだわりはないので創価学会でも顕正会でも親鸞会でも大歓迎。
キリスト教会系でもOK。
地域で50人くらいでやっている地元密着型新興宗教なんかもおもしろそう。
新興宗教は会員が50人いたら教祖は食えると聞く(月会費5千円×50=25万)。

とはいえ、日本の新興宗教の最大手といえば、
泣く子も黙る、いまやヤクザよりも恐れられると評判の創価学会。
学会員さんは善男善女ばかりなのだが、善は悪を熱狂的に求める。
悪が存在しないと自分たちの善男善女ぶりが証明できないから困ってしまう。
このため創価学会からひとたび悪人認定されたら、
どんな人でも集団的いやがらせを受ける。
創価学会にとっては、それこそが正義の表明であり、
平和活動、善導善行になるわけである。
学会員は使命感から人のあまりやりたがらないPTA役員や
掃除当番を引き受けてくれるばかりではなく、必要以上に懸命に励んでくれる。
役職(名誉)に飢えた人という意地悪な見方もできなくはないが、
言い方を換えれば責任感のある立派な人たちでもある。
創価学会は歴史教科書に出せない戦後史のタブーで、それだけにおもしろい。
おそらく創価学会がなかったら、
日本はこれほどの高度経済成長をできなかったと思われる。

あそこは秘密組織だから、いまだによく存在の実態が知られていないようだ。
基本は、ある紙ぺら(ご本尊さま)に向かって
南無妙法蓮華経と唱えたら夢や希望がかなうという教え。
そのうえ会員数が多いので、世の中はけっこうコネということもあり(ゴニョゴニョ)、
実際目標達成数も少なくない。学会に入って短期的に夢がかなうことはめずらしくない。
ある条件の人を雇用したくても、希望に沿う人はなかなか来てくれないわけでしょう?
中年男くらいがちょうどいいバイトに、
若いおねえさんが応募してきても面接せにゃならんばい。
時給の安い高校生がいちばん適しているクリスマスケーキづくりに
中年男が応募しても、ねえ? 女子高生なら売り子にも使えるし、ねえ?
縁談なんかもあれは細かい条件や家風しきたりがなくもないから、
本当は宗教関係のご縁がいちばん適していると言えなくもない。
創価学会という巨大秘密組織は、庶民日常生活とぴったり適応していたと言えよう。
庶民は日々悩みごとの連続だが、それも学会の座談会で話せばすっきりする。
結局は「信心しましょう」なのだが、
悩みを座談会で言語化できたことだけで救われる庶民が多数いる。
だったらいいじゃないかというのがF(えふ)としてのわたしのスタンス。
おもしろそうな仕事とか妙なる白蓮華女性とか紹介してくれないかな、と妄想しながらさ。

いまはどうだか知らないが、本書刊行時は創価学会が大嫌いだったらしい、
テリー伊藤と佐高信の共著となっているのがこの本だ(ほかにも執筆者はいる)。
いまではテリーも佐高も学会にかなり落とされているんじゃないか。
驚異的な仏教独学知識を持つ梅原猛もむかしはアンチ学会だったが、
いまでは学会寄りの大学者とされている。
河合隼雄はデビュー当時から学会と手を組んで勢力を伸ばしてきたという印象が強い。

ヤクザからも恐れられる創価学会名誉会長、
池田大作氏の魅力を事業家でタレントのテリー伊藤氏はじつに見事に表現している。
天才は天才を知るのであろう。
以下は日本有数の知識人のおひとりであられるテリー伊藤氏のお言葉。

「僕思うんですけどね、
[池田名誉会長のように]メチャクチャなことを言っている人物のほうが、
宗教の代表になるにはいいんです。(……)
ちゃんと理論だてて、「きみ、これがこうで、こうだから」
というような人物はカリスマになれない。(……)
いまは宗教の親分の話。たとえばね、男と女の話でもそう。
男が口説くとき、「僕はこういう大学を出て、
いまこういう会社に勤めていて給料はこれだけもらっている。
広いマンションに住んでいるから、きみを幸せにできる。結婚しよう」
なんていうのは、理論なんですよ。そうじゃなくて、「俺と一緒になれよ」
と強引にいくほうが勝つような気がするんだな。(……)
だから、池田大作も非理論的な部分を持っているんじゃないかと思うね」(P20)


「俺と一緒になれよ」なんていま言ったらへたをするとセクハラ認定されかねない。
つたない経験から申し上げると、言葉は本当に相手に通じない。
職場に古株地雷っぽい白粉(おしろい)が好きな女性がいらして、
その人のご機嫌をうかがおうと言った言葉がまさに地雷を踏んだようでバーン。
当方はあわれ失業者の身になってしまったわけである。
「それセクハラですよ」と言われた記憶があるけれど、
あなたにはもう旦那さまもセクハラどころか
おさわりでさえなさらないでしょうという古参女性が
「あんたはセクハラ男」と決めつけ、こちらは自己都合退職、無職無収入。
毎朝、鏡を見ていたらセクハラとか言えないと思うけれど視覚障害者だったのか。
ご近所さんらしいけれど、
今度スーパーとかで邂逅したらもう上下関係はないから……わかる?
おまえの赤い爪こそ男にはきんもいセクハラだって(最後の数週間、
朝のあいさつさえもできないってどこぞのご高貴なお生まれでございましょうか?)。
――おおっと、こういう下世話な悪口を学会員さんはお好きでしょう?
メンタリティが似ていることを証明するために書いてみました。折伏歓迎。千客万来。
名前が「志保」で「志」が入っているということは、
あちらさんがヤクザよりも怖い学会員さんで、
こちらは彼女の正義とやらのためにクビになったのかもしれないけれどさ。
学会の池田さんの言葉なんて字面で見ると大したことはないでしょう。
けれども、それは違うと稀代の文化評論家であるテリー伊藤氏は指摘する。
ひとつの言葉を人はそれぞれさまざまに受け入れる。

「池田大作でも、福永法源でも、
「もっと信者を集めてこい。いけえー。もっとやるんだ。できないやつは許さん」
というようなことを言ったとしますね。
外部のわれわれが聞くと、たんにハッパをかけているとしか思えないんだけど、
信者にとっては、
「実はあんなに荒っぽく言っているけど、本当は深い意味があるんじゃないか」
と響く。そのくらいの違いがあると思うな」(P24)


創価学会でいちばん強いとされているのは婦人部である。
女子部なんかよりも婦人部ははるかに強い。
壮年部もかなわないほどに創価学会の婦人部は強い。最強組織と言ってもよかろう。
さて戦後、強くなったのは靴下と女性と言われている。
そう言われたらたしかにそうで、かつて女性は弱い立場にいた。
男が女性よりも強い立場でいられたのは、
男が肉体労働をすることが可能で、家に金を入れられたからである。
女性のなかにも自分が男だったら、と願っていた人は大勢いただろう。
しかし、女性、婦人には基盤となるものがなかった。
「女のくせに」と見下されるのがつねであった。
それを変えたのが創価学会の池田大作名誉会長であられる。
夫婦瑞祥とか家庭円満が世間的には是とされるが、家庭など実相は権力闘争の場。
かつては「ふろ、めし、ねる」で男がでかい顔をできたが、
それを変えたのが創価学会名誉会長の世界的偉人でいらっしゃる池田大作先生だ。
ある女性ライターが創価躍進の理由を以下のように書いているが、
これはじつに正しいと思う。

「家庭内権力闘争において、それまでつねに夫に敗れてきた女性ほど、
学会を〝後ろ盾”とした〝池田先生”という錦の御旗のもとでなら、
夫に勝てると信じたとき、
即座に夫より〝[池田]先生”のほうを選び取るのである」(P59)


ぼくはいま非常に弱っているから池田先生のおさがりでも、
池田先生に比べたら5番目でも10番目でもいいので、妙なる女性の助けがほしいなあ。
考えてみたら、アイドルが大好きな旦那がいる家庭だっていくらでもあるっしょ?
そういう家では奥さんはAKB48の7番目、8番目かもしれなく……。
わたしは法律上の正しい夫の座などもうとっくにあきらめていて、
優先順位10番目以降の男友達でもぜんぜんかまわない。
そのくらいひとりぼっちでなにもなくさみしい。
本書で元学会員の妻子ある社会的信用のある税理士先生が、
以下のような貴重なご証言をなさっている(元学会ファミリー)。

「また、娘から聞いた話ですが、
在学中には、創価大学生も、選挙前になると授業を休み、
宣伝カーに乗ってドライバーをしたり、うぐいす嬢になったりするそうです。
また、セーラー作戦といって、
二人でペアを組んで選挙の応援をしていた学生が少なくなかったようです」(P194)


セーラー作戦かもん♪

落ちるから。たぶん絶対に落ちるから。
フィリピンパブに連れていかれて、
外人のおばさんとハグをしてもおもしろくもなんともない(失礼)。
強制的にまたぐらをさわらされるとか別方向のセクハラというか、訴えないけれど。
いま重度の顔面神経麻痺で吃音、
先月で失業、無収入、孤独、ひとりぼっち、絶望感あり――。
ご興味をお持ちになられた方がございましたら、
ご宗教は問いませんのでよろしくお願いします。
結局、他人を助けるってことが自分を助けることなんだなあ(←悟ったふり)。

土屋顕史(つちやけんじ)
(メールアドレス)yondance1976@gmail.com
「創価学会財務部の内幕」(「学会マネー研究会」/小学館文庫)

→おーい、みんな、創価学会って知っているかい?
あんがい意外と街の人は創価学会のことを知らないような気がする。
わたしだって創価学会の存在を知ったのは20代半ばだから。
芥川賞作家の宮本輝さんの小説が好きで好きで、
ネット検索したらそのときはじめて創価学会という巨大宗教団体の存在を知った。
だから、少なくとも大学を卒業するまでは創価学会のことをまったく知らなかった。
だって、学校でも予備校でも教えてくれなかったもん。
河合塾の日本史の桑山先生が日蓮の話をするときに、ちょっとにおわせたくらい。
史実は史実ですから、とかさ、うふっ。
けれど、人口比率を考えると絶対にわたしも小中高、大学で学会員と遭遇しているわけ。
なのにどうして創価のことを知らなかったかというと学会員が隠していたからだと思う。
宮本輝先生も内部機関誌ではばらしているが、公的エッセイではいっさい触れていない。
どうして学会員って創価学会員であることを隠すのだろう?
答えは偏見があるから、差別があるから、恥ずかしいから。
このため、隣人が隠れ学会員かもしれないという一般人の恐怖をときに誘う。
この1年のわたしなんて逢う人逢う人が学会員に見えてしようがなくて、
それほとんどビョーキだよって話。

わたしは創価学会のことが自分と正反対だからかなり好きである。
学会員って要するに高校の体育祭とかで夢中になる熱いイイやつなんだなあ。
そういうのが嫌いな高校生の当方は体育祭も文化祭もわざわざ欠席したから。
あのときなにも言わなかった担任の地学N先生は偉大っすよ。
欠席したけれど人一倍、
そういう熱い輪にあこがれているようなところがわたしにはある。
学会員だってスリープ(未活/非活)7割、ほどほど2割、バリ活1割くらいっしょ?
みんなバリバリ生きたいけれど、そういうのは疲れちゃう。
けれど、やっぱ、バリバリ活動しているものへの憧憬のようなものはある。
けどけど、文化祭の練習に来ない? とか誘われるとうざい人はうざく感じる。
あいつに役割を与えて仲間に入れなきゃとか思うのがおそらく学会員メンタル。
で、それが嫌いというのではなく、とってもいいんじゃないかなあと。
創価学会以外にも学会的なものって世の中にたくさんあるじゃないですか?
社訓を毎朝大声で叫ぶ会社とか、あれですよあれ。
いまは存在するのか知らないけれど社員旅行ってキモいけれど、
それはそれで美しいじゃん。
社員旅行を取り仕切っているリーダーが裏では陰口をたたかれていたり……。
そういう、なんちゅうか、人間くさいのって、つまり学会的で日本的で、
あっていいんじゃないかな……というか、むしろそれが「リアルな絆」みたいな。
濃い人間関係とかいまは創価学会くらいしかないんじゃないかしら。
高校時代にしか存在しないような、
ピュアでなまの人間の愛憎劇を味わえるのが学会。

本書によると、経済的には創価学会は税金を納めていない全国規模の大会社。
この本ではそれが悪いような書かれ方をしているけれど、
節税はどこの会社もやっているっしょ?
まったく無意味の選挙投票チケット1枚と引きかえに強制徴収される税金ほど
アホらしいものはないわけだから。
税金を払うくらいだったら創価学会に寄付してわずかでも見返りをもらったほうがいい。
脱税か節税かなんてよくわからないのよ。
合法ギリギリの税金対策なんていくらだってあるはずである。
税務署が黒といったら黒、白といったら白になる世界。
いったいなにが「正しい」っていうの? いったいなにが不正なの? 本書より。

「ここまで創価学会と大手都市銀行の〝関係”をつぶさに観察してきた。
そこには、話し合いで双方が妥協点を見いだし、共に利益を得ようではないか、
という〝癒着(ゆちゃく)”の構図が見えた。同じ「輪」(円)の中で、
「宴(うたげ)」を盛り上げる、それも持てる同士で……。
そんな両者の関係もあらわになった」(P60)


え? 癒着のどこがいけないの?
みんなひいきにしているものには、いい思いをしてもらいたいと思うでしょう?
自分の親族、血縁は厚遇するというのが歴史上、人間の本性ではないか?
それを癒着っていわれても、おまえはどこかと癒着していないのかって話。
創価学会はひとつのファミリーだと解釈すればいちばんわかりやすいと思う。
ファミリー企業がいっぱいあって、お互い助け合っている。
そうはいってもファミリーはいいときばかりではなく、
ファミリーゆえに争うとドライにはいかず、とことんヤクザに近くなる。
私見では、いま創価学会は誕生以来、いちばん健全でいい時代なのではないか。
というのも、ビックダディでゴッドファーザーの池田先生がゴニョゴニョになってしまい、
おかげで学会員がそれぞれ自分のあたまで考え意見し行動するようになっている。
いつ勲章マニアの池田先生があれになったかは諸説あるが、
わたしは芥川賞作家の宮本輝先生が紫綬褒章を取るまえだと思う。
池田先生がお元気だったら宮本先生は絶対に紫綬褒章を怖くて取れなかった。
現実をよく知らなかった若輩のわたしは宮本輝の小説にリアリティを感じていたが、
もういいおっさんになったこちらからするとあれは病的妄想だ。
創価学会に入れば宮本輝の小説世界を生きられるのかなあ。
山田太一ドラマの庶民はとにかく本を読まないけれど、
宮本輝の小説の庶民は見栄をはって源氏物語とか読もうとするんだ。
作者の宮本輝だって読んだことがないくせに、笑っちゃう。
学会員のすばらしさと恥ずかしさは庶民が源氏物語を読もうとするところにある。
わたしは権威主義(勲章! 古典! ゲーテ!)で、
なおかつ反権威的(価値創造! 創価ルネサンス!)であるという、
矛盾した面をあわせもつ創価学会という人間くさい秘密組織が、
どこか自分とおなじうさんくささがあるため、しかるがゆえにおもしろくて好きだ。

本書ではいろいろと裏の金の儲け方を知ることができ非常に有益だった。
そういう手があるのかと、ふむふむ。
匿名のライター集団もみんな本当は創価学会のことを憎からず思っているんだろうなあ。
創価学会はおもしろすぎる。

「ガイドブック 法華経展」(東洋哲学研究所)

→昨年、信濃町の博文堂書店で買ったカラー図録を繰り返し読む。
信濃町の博文堂書店は、ここでしか買えないような学会関連書籍の在庫が豊富でいい。
日蓮の「種種御振舞御書」はいまアマゾンで定価以上の価格がついているが、
博文堂書店ではふつうに平積みされているのが怖いとも凄いとも。
先日も信濃町の博文堂書店に行ったらおもしろかった。
ちょー原稿料が高いと噂される学会機関誌「第三文明」を立ち読みしたら、
最近学会シンパになったらしい柳美里が出ていたのは予想どおりだったが、
去年引退した元プロレスラーの天龍源一郎が
6ページもインタビュー記事に出ていたのは意外だった。
いま創価学会の内部っていったいどうなっているのだろう?

本書はぜいたくな総カラーでわかりやすい解説もつき、
そのうえ価格も手ごろで心底から創価学会グッジョブと言えよう。
法華経のきれいな白いところだけをこれでもかとわかりやすく楽しく解説している。
読めばわかるが(ふつうの人はあんなものをぜんぶ読めないが)、
法華経は根拠のない空疎な自己喧伝や自分勝手な迫害妄想のみならず、
脅迫的な仏罰や堕地獄をちらつかせる黒々としたヤクザキック的なお経。
しかし、「知らぬが仏」の姿勢でいくら白々しいとバカにされようが、
ものごとのプラス面を見るのはそれほど悪いことではないだろう。
本書を何度も読んで法華経の凄さ、怖さに改めて気づかされた。
なーんか、法華経ってフィクションの仏典らしからぬ「本当のこと」が
書かれているような気がする。

以前は思い至らなかった法華経の妙味を紹介したい。
あるものがうまいということは、
そのうまさを発見する人がいないと気づかれないで終わってしまうことがある。
本当はおいしいものでも、だれもその美味に気づかないと宝の持ち腐れだ。
ご存じでしょうが、法華経には七譬(しちひ)といわれる7つのたとえ話がある。
そのいちいちが、もうおっさんになったいまの目で見るとやばいのだ。

「三車火宅」のたとえとかもう狂ってるんじゃないかってくらい怖い。
ほら、あれだよ。家が火事で3人子どもが残っている。
子どもたちは火事に気づかないで楽しく遊んでいる。
で、父親は「火事だ!」と叫ぶが楽しく遊んでいる子どもたちは気がつかない。
まずここで第一の問題があって、本当に火事なのかどうかという謎がある。
ひょっとしたら中庭で楽しくバーベキューをやっていたかもしれないわけだから。
火宅で遊ぶ子どもは、この世で欲望にまみれているわれわれなんでしょ?
そのままでもいいじゃないかという考えもなくはないだろうか?
しかし、子どもを自分の思いどおりに動かしたい父親は一計を案じる。
3人の子どもたちの物欲を利用するのである。
彼らがほしがっていた「羊車」「鹿車」「牛車」をあげると言って家からおびき出す。
そりゃあ、子どもは出てくるわな。しかし、これっていいのかって話だ。
だって、思いっきり物欲で釣っているわけだから、
それは清浄な無欲悟達世界への勧誘ではなく、
煩悩熾盛の世界へのいざないにならないか?
そのうえ父親は子どもたちに約束のものを与えないのである。
このへんの解釈は学者でも分かれるが、
創価学会は立派な「大白牛車」を子どもたちにあげたという説を採択しているようだ。

さて、この話のどこが怖いのか。
「三車火宅」のたとえは、むかしの創価学会そのままのような気がするからだ。
むかしの学会は貧乏人や病人の集まりだったわけでしょう。
庶民の金がほしい、健康になりたい、
そういう欲望につけこんで家から引っ張り出すわけだ。
いい家がほしいだろ、いい車がほしいだろ、いい時計がほしいだろ!
よおし、「いい家をあげよう」「いい車をあげよう」「いい時計をあげよう」――
創価学会はそう大声で言って人を家(伝統仏教)からおびき寄せる。
そうして家も車も時計もあげないで、バリバリ無料で宗教活動させてしまうわけだ。
その無料奉仕こそ「大白牛車」なんだと信じ込まされる。
べつにむかしの創価学会を批判しているわけではなく、これは商売の基本という話。
相手の物欲を刺激して、うまい話だと思わせたうえで、相手のほしいものは与えず、
こちらが相手に売りたいものを買わせるというのは商売(営業)の基本だから。
不動産屋の表に出ている物件って、たいてい客寄せで実際は存在しないっていうじゃん。
スーパーだって特売品でお客を釣るけれど、ほかのものも買ってほしいわけでしょう。
大企業も「やりがい」「ブランドイメージ」「高収入」で大学4年生を釣って、
釣ったあとには企業内で洗脳のようなものをほどこすわけだ。

もうめちゃくちゃを書くと、結婚なんかもそうでしょ?
女子は美貌や優しさで相手を釣るけれど、結婚したらすっぴんのおばさんになる。
で、夫婦というものになっていくわけである。
男子だって金や包容力で女子を釣るけれど、釣った魚に餌をやるバカは少ない(笑)。
「三車火宅」のたとえだけで法華経というのは「本当のこと」を説いた教えだとわかる。
この世っていうものは、「三車火宅」と思っていたほうがいいと。
なにかをプレゼントすると嘘をついて人をだましてもいいと法華経で釈迦が説いている。
人を動かすには物欲を刺激するのがいちばんだよ、と教えてくれる仏典がほかにあるか?
大声で「火事だ~!」と叫ぶことも大事なのかもしれない。
相手をパニックにさせて考える隙を与えず、さらに物欲を直接的に刺激する。
相手のほしいものをうまく読み取るのがマインド・コントロールの初歩になるのだろう。
いやあ、法華経はフィクションだが「本当のこと」が巧みに描かれている。

法華経は、結局は金という人生の真理を何度もしつこいほど繰り返す。
「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)」のたとえだって、あれは遺産相続問題でしょう。
ゆがんだ解釈をすれば、金持の父親が
財産のちからで子どもをコントロールしているように思えなくもない。
貧困者が(本当は父とは知らず)富豪に仕えるのは彼の財力ゆえなんだから。
人生ではお金がもっともたいせつだという真理を法華経は説いているのである。
父親も最初から自分が親だとばらしたら、
子どもに怠け癖がつくからと嘘をついている。
この長者(富豪)は嘘をつく汚い大人なんだけれど、
彼が釈迦という話なんだから法華経は――。

「衣裏珠(えりしゅ)」のたとえも生々しい。
あれは貧乏な友人には絶対に金を貸すなって話でしょう。
金を貸したら友人ではなくなってしまう。しかし、友人になにかしてやりたい。
この答えのない問いへのひとつの回答例が、衣服の裏に宝を縫いつけておけ。
貧窮する友人はあるとき衣服の裏を見て、宝を自分で発見するだろう。
これは彼にとっては奇跡のようなものだろう。
道ばたで百万円を拾ったとか、その手のラッキーである。
友人に借金したわけではないから負い目を持たないで済む。
仏さまのようなものに素直にこうべを垂れることができよう。
法華経のなかではそうはいかず、この貧乏人が愚かすぎたのである。
衣服の裏の宝にいつまでも気づかず、
友人に再会して教えてもらうまで苦しみ続けたという。
これも要約しちゃえば、結局は金という話と言えなくもない。
お金というのは貸す(あげる)のも借りる(もらう)のもなかなか難しい。
相手が偶然自分で発見するように仕組んだ釈迦の交友術は巧妙である。
いいおっさんがなにウブなことを言うかって話だが、
「衣裏珠」のたとえに本当の友情のようなものが描かれている気がしてならない。

「髻中明珠(けちゅうみょうしゅ)」のたとえも世間の実相を教えてくれるものだ。
王さまが頭部にしている髪飾りの宝石なんて、
べつに価値があるわけではないでしょ?
しかし、それをほしがる兵隊さんがたくさんいるわけである。
兵隊さんは王さまのために心身をボロボロにしてまで闘い続ける。
で、いちばん功績のあったものが王さまの髪飾りをおしいただくわけだ。
創価学会員が自分の時間を投げ打って活動するのは池田先生のためでしょう?
池田先生や先生の権威を帯びたものからの賞賛を求めて兵隊さんはがんばる。
学会員さんにとっては高い役職が「髻中明珠」になろう。
わたしはかりに入りたいと言ってもたぶん拒絶されるだろうが、
学会に入ったとしても役職にだけは絶対につきたくないと思っている。
ヒラでいい。ヒラがいちばんいい。
兵隊になって先生のために命がけで勝負するなんて無理。
「髻中明珠」は創価学会だけの話ではなく、あらゆる組織に通用するものだろう。
「社長賞」とかその会社の内部の人はみんなあこがれるんだろうけれど、
外部の人にとってはそんな「社長賞」なんて大した興味がないわけでしょう?
「社長賞」よりも現金10万円のほうが嬉しいって話で。
しかし、組織に入ると人は「髻中明珠(社長賞)」を求めて兵隊になってしまう。
たくさんいた仏弟子とかだって、絶対みんな仲良かったわけがないんだから。
あいつがトップ(釈迦)にほめられたと聞けば、嫉妬するのが人間というもの。
そういう集団心理をうまく操作して競争させ利益を上げるのが経営者の手腕だ。
棒グラフのノルマ達成とか、学会一部ではまだやっているらしいけれど、法華経だなあ。
「髻中明珠」はオヤジの頭皮脂分がしみ込んでいそうで汚いから不要。それゴミじゃん。
このように部下の兵隊に思われないようにするのが重要と釈迦は法華経で説く。
「人間・池田大作」は新しく創造された価値(権威)で(東大は旧権威の象徴)、
外部の人には池田先生直筆の色紙とかゴミになってしまうところがおもしろい。
いや、宝はゴミで、ゴミは宝というのが法華経の世界観だから、
池田名誉会長の色紙が所持者当人にとっては1千万以上の価値があるというのも、
絶対的に「正しい」ところの法華経的真理のひとつとなろう。
東大と創価大がどちらが「上」かなんて人それぞれでしょう?
わたしは出身大学の野暮ったい校歌は大嫌いで覚えてもおらず、
いっぽう創価大学の校歌は大好きである(たまにYouTubeで聞くもん)。

「三木二草(さんもくにそう)」のたとえも世の中の真実を暴露している。
法華経の釈迦は「人間は平等」とは言っていないわけである。
釈迦の教えは天から降る雨のように平等に「三木二草」の民草をうるおす。
教えは平等に与えられるが、教えを受けるほうは「三木二草」とさまざまである。
これは身もふたもない人間の能力差をテーマとしていると言えなくもない。
人間は「三木二草」で容姿も身体能力も知力もまったくもって不平等、不公平だ。
だが、釈迦の教えはそれぞれの上にかならず降りかかるから、それぞれ伸びていけ。
とはいえ、雑草は桜やバラになろうと思ってもなれないという真理を説いている。
無理なものは無理。夢はあきらめなければかならずかなうは嘘。
いくら南無妙法蓮華経と唱えても、能力差があるから全員大勝利はできない。
可能なのは、それぞれが能力の範囲内でそれぞれの伸びを見せるくらいだ。
人間には能力差がれっきとして存在するという事実は、
なにやらむごたらしくて目をそむけたくなるが、それでも真理であろう。
後世の大乗仏教徒による創作である、いわば釈迦の嘘の教えである法華経は、
にもかかわらず「本当のこと」を説いている。

「化城宝処(けじょうほうしょ)」のたとえは人生の真理を描いているとさえ思える。
宝を求めて旅をする隊商の群れがいる。
険しい旅路にみんな疲労困憊している。
いったいどこに宝があるのか、そもそもなにが宝なのかもわからなくなっている。
そこで指導者が神通力で蜃気楼(しんきろう)のようなお城を創り出す。
とりあえず、あそこまで行って一息つくのを目標にしようじゃないかと仲間を励ます。
仮の(嘘の)お城(目的地)でしばらく休息したら隊商はまた宝を求めて旅に出る。
このたとえって人生そのものを描いていると思いませんか?
本当のところわれわれの人生航路の行くところは決まっていて、それは死である。
しかし、われわれは一般的に「自分の死」というものをあまり意識したくない。
このため「化城宝処(仮の目的地)」を常に必要としている。
いい学校という「化城宝処」。いい会社という「化城宝処」。独立起業という「化城宝処」。
結婚という「化城宝処」。子育てという「化城宝処」。世界平和という「化城宝処」。
ある種の群盲にとってはなにもしないで立ちどまっているのは耐えきれないのだろう。
なにか目標のようなものがないと無意識から死への不安が立ち込めてくる。
常に世間マスコミから与えられた目標を目指していないと落ち着かない人たちがいる。
なにかしないではいられない人たちにとってノルマを与えられる新興宗教は天国だろう。

広宣流布(こうせんるふ/布教)は限りがないから永遠の「化城宝処」として存在しうる。
人間はたとえいい会社に入っても、いい女と結婚しても、
それで満足するということがない。
どうせ死んでしまうのだが、そこは見ずに、
いやむしろ見ないようにするために「化城宝処」を求める。
自分で「化城宝処」を創造しているつもりの人も、
じつは指導者が神通力で描き出しただけの蜃気楼を夢見ているところがおもしろい。
就職、出世、結婚、健康といった世間的に評価されるものが「化城宝処」たりうる。
人間ってまったく本当に死ぬまで「化城宝処」を追い求めるものなのだろう。
「本当のこと」である死を見ないために嘘の宝物、嘘の目的地、嘘の夢を求める。
きっと人それぞれの「正義」なんかもそれぞれの「化城宝処」なのだろう。
変わるのが正義の人もいようし、人のために役立つことが正義の人もいよう。
「化城宝処」のようなものがないと、
酒びたりのアル中になってしまうような弱さが人間にはそなわっている。
たえずいまの状態では満足できず、
目的依存症の人たちに法華経が示す「化城宝処」は弘教(広宣流布)である。
どこまでも世界の嘘を見破った人たちが法華経で「本当のこと」ことを説いている。
法華経では、この世の中などどこまでも嘘(化城宝処)にすぎない、
と偽物の釈迦が「本当のこと」を説いているのだから矛盾しているとも言えるが、
この矛盾構造を持つがゆえに法華経は「正しい」のであろう。

有名な「良医病子(りょういびょうし)」のたとえも危ない問題を内包している。
帰宅した父親は子どもたちが毒を飲んで狂っていると判断するが、
子どもたちには病識(病気という自覚)がない。
これは精神病の問題とも相通じるのではないだろうか?
この場合、子どもたちは複数で父親はひとりだから、
世間の論理ではおかしいのは父のほうで精神病薬を飲むべきなのは父だ。
無宗教の人たちにとっては、
新興宗教に夢中になっている信者は狂っているとしか思えない。
反対にたとえば学会員さんからしてみたら、
こんないい薬(法華経)を毒だと思って飲まない一般人はおかしいと思うだろう。
法華経は毒にも薬にもなりうる副作用たっぷりの危ない麻薬と言えよう。
法華経では、父が外国に行き、自分が死んだという嘘の電報を打つ。
死んだらなぜか嫌いだった人も偲ばれてくるのが人情というもの。
その人情にほだされて父がすすめていた毒薬を飲んで、
子どもたちは父親の期待するような「いい子」になる。
どんな嘘をついてもいいから人情を刺激しろというのが法華経の教えであろう。
ボーダーライン人格障害のような迷惑な人間がいたとしよう。
そういう人はある種の魅力があるから自殺したら悲しむ人も少なからずいよう。
しかし、悲しんでいる最中に当人が息を吹き返したら一瞬「うげっ」と思わないだろうか?
いや、釈迦くらいになったらそんなことはないのだろう。
創価学会の池田先生の死が公開されたら悲しむ人が多いだろうけれど、
かえってこのとき「良医病子」のたとえの「正しい」ことが証明され、
いままで無宗教だった人たちも故人がすすめていた法華経という薬を服用し、
予想に反して創価学会という組織が再活性化してしまう可能性もゼロではないだろう。
そこで池田先生がよみがえったら、ふざけんな! と袋叩きにされるだろうが。
あんがい池田大作氏の死は巨大利権団体が新しくよみがえる好機なのかもしれない。
法華経の教えは「嘘も方便」である。
医者はいかにうまく嘘をついて患者を「知らぬが仏」にさせるかが腕の見せどころ。
宗教者はたましいの医者なのだからどのくらいの嘘をつけるかで器が決まろう。
自分が死んだという倫理的にはギリギリの嘘をついた法華経の仏は大物である。
これはまあ、結果がよければ方便(手段)は問わない(嘘でもいい)という
法華経の実利主義の現われとも言えよう。

いい本だったので、ほかにも思ったことをつらつら。
法華経を訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)関係で西安の草堂寺の写真が掲載されていた。
行ったことがあるので懐かしいと胸にこみ上げてくるものがあった。
思い返してみたら、あれは9年もまえのことなんだなあ。
まさかここまで仏教を勉強するようになるとは当時思わなかったが、
あるいは決められた道を歩んでいるだけなのかもしれない。
本書で敦煌莫高窟のわかりやすい解説があるけれど、
現地で見るよりもこういうガイドブックで見るほうがよほどおもしろいと思う。
そういえば敦煌に池田大作氏の石碑みたいのがあって、
日本人としてなにかやましいような気まずい思いをした記憶がある。
敦煌の宝物の発見者は、その価値がわからず西洋人に安く買いたたかれたとか。
そういう白人に比べたら敦煌に膨大な資金提供している池田先生は
どこも恥ずかしいところはないのだが、
なぜか金ぴかの池田先生は恥ずかしいというのが海外に出た日本人に
かなりのところ共通する心象のような気がしてならない。
しかし、ものの価値を知らないと安く買いたたかれてしまうのは残酷な現実である。
あなたの本当の価値は自分にしかわからないというのが恋愛感情らしいが、
学会員による池田名誉会長への心酔と恋愛感情はどのような関係にあるのか。
女子部の活動家は結婚できない、とか言われているらしいが。
本書の平家納経(平氏が奉納した法華経)は美しくてとてもよかったけれど、
このあとに平家が滅亡していることを考えると法華経の功徳が怪しまれてならない。
もっとも阿弥陀経も般若心経も納経したらしいから、
そのせいだと言い張ることもできよう。
さて、なんのために長々と法華経の紹介をしたかといえば、
わたしの場合は(学会員とは異なり)人のためではなく、
どこまでも自分の現世利益のためである。
これだけ法華経の危なさ怪しさを饒舌に語り尽くしたのだから、
明日以降どんなプラスの現証が泉のように噴き出してくるか楽しみでならない(笑)。

(関連記事)
「法華経現代語訳(上中下)」(三枝充悳/レグルス文庫/第三文明社)

2016年1月5日にウェブには否定的だった創価学会が画期的なネットCMを出した。
日を改めて何度も繰り返し視聴しているが、あの創価学会が変わったなあ。
こんなことを書くとインテリからはバカにされそうだが、感激して涙しながら見ているのだ。
それはきっと酔っぱらっているからで、
酔いがさめたときに思い返したら大爆笑なのだが。
笑いや泣きのあるところが、その人間くささが創価学会のよさであろう。
創価学会にとってあのネットCMを公開するのは大冒険だったのではないか?
しかし、あれを公開できる宗教団体なら、まだ健全で大丈夫なような気がする。
今回発表されたのは青年男子が主人公の「夢のその先に」と、
うら若き女子OLが主人公の「リアルな絆」である。どちらともゾッとするほどよかった。
創価学会がおおやけにこういうことを発表してもいいのかと恐ろしくなったところもある。
映像は創価学会公式サイトでご覧になれますから、
もしご興味をお持ちになりましたらそちらでお願いします(笑えて泣ける!)。

創価学会のネットCMのすごいところは、
信心強盛(内部でいわれるバリ活≒狂信者)のおばさんが交通事故に遭い、
死線をさまようところである。
むかしの学会なら交通事故に遭うようなものは、
信心が足らないからと嘲笑の対象になったのである。
それが最新のネットCMでは、創価学会で
最強といわれる婦人部の古株おばさんがどういうわけか交通事故に遭遇してしまう。
さらに現世利益を求めて「夢がかなう」宗教に新しく入った、
創価学会員の路上ミュージシャン青年もまったく報われない。
メジャーデビューを夢みる彼は「夢がかなう」といわれ学会に入ったのだろう。
しかし、青年が一生懸命に題目(南無妙法蓮華経)をあげたにもかかわらず、
近所の学会員が大勢でご祈念の題目を送ったのにそれでも、
ありがちなメジャーデビューを夢みる青年の安っぽい夢はかなわない。
具体的には、オーディションで箸にも棒にもかからず落とされる。

リアリティがありすぎて怖いと思った。
若い路上ミュージシャンを応援している創価夫婦の勤行が映し出される。
勤行とは仏壇に向かい南無妙法蓮華経と唱えることである。
その仏壇のご祈念の紙に、「一家和楽、無事故」と書かれているが、
モザイクでうすぼんやりと消されているのがまこと創価学会的でおもしろい。
現実はいくら題目をあげても交通事故に遭うときは遭う。
実際におなじようなご祈念をあげていた婦人部のおばさんも
交通事故で死ぬほどの苦しみを味わっているのである。
このネットCMを見るかぎり、創価学会に入ると交通事故に遭う確率が高まる。
創価学会に入ろうが、いくら題目をあげようが、
無理なものは無理で、青年の夢はかなわない――そういう誤解をされる危険性がある。
というか、まさにそれが創価学会のリアリティなのだが。
創価学会に入ったら交通事故に遭う。
創価学会に入ったら夢がかなわなくなる。

このたびの斬新な感涙的なネットCMを視聴して、そう解釈する人も少なからずいよう。
現実は、リアリティをいえば、
創価学会に入っても入らなくても、事故に遭う人は遭うし、
信心とはなんの関係もなく若くしてメジャーデビューする人もいるのだろう。
しかし、そんな現実には耐えられないから人は宗教に救いを求めるのだが、
創価学会はネットCMで恐ろしいまでのリアリティを公開してしまったのである。
このネットCMを企画、進行、発表したのはだれなのだろう?
おそらく異様なほどの反発が内部からあったと思われる。
それを強引におさえて今回のネットCM公開まで実行した責任者は、
本当の創価だましいの持ち主で革新者であろう。
交通事故に遭っても、夢がかなわなくても、リアルな絆があれば人は救われる。
たしかにこれこそ創価学会のもっともすばらしいところだとわたしも思う。
いま世界的に大きな変革が起きているような気がしてならない。
見た人にしかわからないが、
あの創価学会があんな革命的なネットCMを打ち出すとは――。

(創価学会公式サイト)
http://www.sokanet.jp/

創価学会CMドラマより――。

「(学会員は)いい人なんだけれど、うざい」

「(学会員の親切は)ありがためいわく(なところもある)」

「あなたが変わればまわりもかならず変わるから」

「ご本尊さまは(カラーコピーではなく)どこか遠いところにあるのではなく、
自分の心のなかにある……」

「題目をしっかりあげて! かならずいい結果が出るから!」


創価学会ってもしかしたら本物の宗教に近づきつつあるのではないか?
「いい結果」がもしかしたら交通事故遭遇やオーディション落選かもしれないわけだ。
交通事故に遭ったせいで、人のあたたかみや健康のすばらしさがわかることもあろう。
オーディションに落ちたことで、そういう芸能関係のコネの薄汚さに気づき、
華やかな人生よりもまじめに堅実に生きている人のよさがわかることもあるはずだ。
「夢はかなわない」「交通事故に遭う」――。
こんなネットCMを視聴して創価学会に入る人なんているのかとも思うが、
いまはそういう時代で、
このリアリティに満ちた創価CMはかならずや功を奏するような気がしてならない。
「種種御振舞御書」(日蓮/御書講義録刊行会編/聖教文庫)

→決して存世中は成功したとはいえない不遇な仏教革命家の自伝的エッセイ。
日蓮は悪口の天才だったと思うんだ。
日蓮の目標は法華経をひろめることによって多数派になり、
要は偉くなりたかったのである。
とはいえ、いつの世も、とくに鎌倉時代のような身分社会では家柄が重視された。
小坊主の日蓮は、家柄がよく出世した坊主がうらやましくてたまらなかったのである。
どうしてあの坊さんたちはみんなから尊敬されているんだろう?
おそらく一生うだつが上がらないだろう自分と高僧たちとの違いはなんだ?
本当は出世するためには上から気に入られるための処世や裏工作が必要なのだ。
まあ、日蓮ほどサービス業に向いていない男はいないだろうから、
男がそういう難しい人事工作をすることは無理だった。
ふたたび、悩む。どうしてあの坊さんたちは偉いんだろう。
いちおう「正しい」ことを知っているから偉いってことになっているんだろうな。
では、彼ら高僧よりも「正しい」ことを主張してやつらを打ち負かせば、
今度は自分が偉くなれるのではないか?
坊主も勝者と敗者に分かれる。
弟子がいっぱいいてちやほやされる坊さんのほうが勝ちだろう。
論争になったときには「正しい」ほうが勝ちとなる。
ならば、「正しい」ことをひたすら研鑽しようと誓ったのが日蓮だったように思う。

日蓮は他宗の悪口を言いまくったのである。
まあ、最初はだれからも相手にされなかっただろう。
そうしたときに日蓮一派は相手が逃げたと吹聴し、
勝った勝ったと凱歌をあげたと思われる。人間は他人の悪口が大好きなのである。
とくに庶民は人の悪口が三度の飯の代わりになるくらい好きだ。
隣近所の悪口もおもしろいが、高い地位にある人の悪口ほど盛り上がるものはない。
(いまの週刊誌、ワイドショーなんかもそうでしょう?)
日蓮は権威を恐れない(死んでもいいという)「無敵の人」だったから、
どんな高位にある聖職者の悪口も口汚く言いたい放題だったのではないか。
悪口のなにがいいかといったら、悪口を聞いていっしょに笑ったら、
自分までその高い身分にある聖職者よりも偉くなったような気がするじゃないですか?
偉い人を見下した悪口を聞いて笑うのは、優越感が満たされ気分がよくなるのである。
日蓮の信者になったものは、日蓮の命を捨てた悪口ショーに魅せられたのだと思う。
あんな偉い人たちの悪口を言える日蓮って人はすごいんじゃないか、
と信者たちが思い始めたのを見透かして
日蓮も「おれは日本の柱だ」なんてハッタリをかます。
いやあ、本人は本気でそう思っていただろうから正確にはビョーキというべきで、
ハッタリと表現するのは不適切であったので謝罪する。

日蓮のデマを織り交ぜた下世話な他宗批判は、
下級武士や庶民には大いに受けた。
悪口ばかり言って世間を騒がす日蓮の身柄を抑えようと武士集団がやってくる。
(これは当時の警察のようなものと思ってよい=世間的に「正しい」集団)
さすがの日蓮も驚くだろうと思っていたら本人はいっさい動じず、
自信満々に「とのばら[おまえら]但今日本国の柱をたをす」と宣言するのだから、
自分たちが「正しい」と思っていた武士連中もあわてふためいたという。
この人、本物なのか、もしかして本物のあれなのか、
という恐怖感を逆に「正しい」武士団にいだかせてしまうのが日蓮のすごさである。
そこでまた他宗批判の悪口メドレーを日蓮はやったらしいのだが、
「或(あるい)はどっとわらひ(笑い)、或はいかり(怒り)なんど」した模様だ。
悪口で人を「どっとわらひ」の状態にさせることができたのが日蓮の才能だったと思う。
その場では怒り狂ったものも、家に戻って思い出したら、
まことクリティカルな悪口で笑いがとまらなくなったものもいたであろう。
理由はわからないけれど、
この人はすごいと一度対面した人に思わせるカリスマ性を日蓮は持っていたはずである。
思わず拝んでしまいたくなるような風貌が日蓮にはそなわっていたに違いない。
みんながみんな口ではきれいごとを言いながら打算(損得)を考えているなかで、
日蓮は狂人なのかテンネンなのか身の危険を毛ほどもかえりみず、
タブー破りに近いまでの「正しい」悪口をよどみなく威風堂々と話すのだから。

「おれはなんの権威にも屈さない」「死ぬのが怖くない」と口で言うのはかんたんだが、
本心からそう思っていないとすぐに底を見透かされてしまう。
日蓮は正真正銘に自分以外の権威を信じず、
法華経のために命を捨ててもいいと思っていたのではないか?
その存在感はいかほどであったことか。
「和を以て貴しとなす」の国で「正しい」ことを言うと悪目立ちして危険視される。
執行サイドにどれほど計画性があったがわからないけれど、
日蓮は死刑の宣告を受け首切り役人の手に渡される。
おそらく、世間を騒がしたくらいでは公的には死刑にはならないような気がする。
どこか冗談半分の意味合いもあり、
「あの日蓮とかいうクソ坊主は法華経のためなら命を捨てられる」
なんてほざいているが、本当かよ? ちょっと脅してみようぜ。
いざ死刑場に連れていかれたら小便をちびらせて泣きを入れるんじゃないか。
あの偉そうな悪口ばかりの坊さんに土下座させて命乞いさせるのは見ものだなあ。
そんな周囲の邪(よこしま)な期待もあっての、
相手の顔色をうかがうような悪戯めいた死刑執行だったような気がする。

悪口を言ったくらいでは死刑にはならないっしょ。
というか、悪口を言われた高僧とていちおう人格者なのだから、
(日蓮とは異なり)他人の批判を受け入れられる度量を持っているのではないか。
当時、鎌倉で出世していたのが良観(忍性)という坊さんで、
慈善家としてたいへん世間の評判がよかったらしい。
だが、日蓮があることないことでっち上げて良観の悪口デマを流したそうだ。
権力者とつるむためには、きれいごとばかりではいられない。
日蓮に流されたデマのうち真実のものもひとつやふたつあったことだろう。
日蓮サイドはこの暗殺(死刑執行寸劇)を裏で画策したのは良観だと断定している。
さんざん日蓮は良観にひどいことをしているから罪悪感のようなものがあったのだろう。
なんの後ろ盾もない日蓮が、
当時鎌倉仏教界トップの良観に雨乞い勝負を挑んだのである。
いま日蓮は大聖人だが、当時の日蓮はなんの肩書もない独善的なカルト僧である。
良観としては勝負を受けてやりたくても立場としてできなかったと思う。
良観と日蓮ではあまりにも世間的に格(肩書)が違いすぎるのである。
良観は「おもしろい坊さんが出てきたな」とあんがい好意的に思ったかもしれない。
そうしたらその日蓮というやつは、
勝手に雨乞い勝負の日にちを自分に有利なように決めて、
良観が無視しているのに勝手に勝負をしたことにして、
「日蓮は良観に勝ったぞ!」と弟子集団が町でふれまわっている。
世間の裏表を知り尽くした良観は苦笑いしたくらいだったであろうが、
良観の弟子が今度は大騒ぎしたのであろう。あの日蓮グループはいったいなんだ?
勝手に勝負を挑んできて、相手にしなかったら、勝った勝ったとデマを流している。
「あの日蓮とやらをぶち殺してやりましょうよ」という話は良観の弟子から出たと思う。
世の中の酸いも甘いも噛み分けた良観は弟子や周囲の意見におされて、
死刑の真似事くらいならという気持で、
いわゆる「竜の口の法難」をみんなのために演出したのかもしれない。
死刑場におもむくときの日蓮の心中はどうだったか。

(今夜首を切られに行く。この数年ずっと願っていたことはこれである。
この娑婆(しゃば)世界にいったい何度生まれ変わりして、
そうそう――弱いキジとなったときは強いタカにむさぼり喰われ、
弱いネズミとして生まれてきたときには強いネコにもてあそばれ喰われた。
人間として生まれ妻子のために心身をすり減らすだけで没したことは数知れない。
しかし、法華経のために死んだことは一度もなかった。
このため日蓮は貧乏人の子として生まれ、親孝行も十分にできず、
せっかく日本という国にありがたくも生を得たのに恩を返すことはなかった。
いまもいまわが首を法華経にささげて、その功徳を父母に回向(えこう)しよう。
余ったぶんの功徳は弟子や檀那(在家信者)に回してくれ)

「今夜頸(くび)切られへまかるなり。この数年が間願いつる事これなり。
此(こ)の娑婆世界にしてきじ(雉)となりし時はたか(鷹)につかまれ、
ねずみ(鼠)となりし時はねこにくらわれき。
或はめこ(妻子)のかたき(敵)に身を失いし事、大地微塵より多し。
法華経の御ためには一度だも失うことなし。
されば日蓮貧道の身と生れて、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。
今度頸(くび)を法華経に奉りて其(そ)の功徳を父母に回向(えこう)せん。
其のあまりは弟子檀那等にはぶく(配当)べし」(P104)


当時の警察ともいうべき武士集団は、
死刑場に連行したら日蓮が泣いて詫びを入れるとたかをくくっていたのである。
そうしたら死刑直前まで日蓮の態度はじつに威風堂々とした自信あふれたものだった。
もしかしたらこの日蓮というお騒がせ野郎は本物ではないか?
これほど死に際してそれでも堂々としていられるということは、
彼の教えは本当に「正しい」のではないか?
われわれはみんな自分が「正しい」と思っているが、もしかしたらそれは間違いで、
いま法華経のために使命感あふれていさぎよく首を差し出す
肩書ゼロのこのインチキ革命坊主の言うことのほうが「正しい」のではないか?
いったい「正しい」ってどういうことだろう?
そのとき巨大な流星が落ち、深夜にもかかわらずあたりは閃光に照らされたようになる。
敵方はみんながみんなこの共時的現象を目の当たりにして、
日蓮に恐れをなして逃げていったという。
非科学的かもしれないが、人生は科学では解明できないから、
こういう奇跡のようなことが1回きりなら十分に起こりうるのである。
言葉にしても人には信じてもらえないということが起きるのが1回きりの実人生である。
日蓮のこのとき見たものは、言葉にしたら嘘くさいが本当に起ったことなのだと思う。
本当に起きたことは言葉にすると嘘になってしまうことがある。
首切り役人たちは日蓮に恐れをなして、
職務を投げ出しその場からみな逃げ出してしまった。
日蓮が夜が明けたらみっともないから早く殺してくれと主張しているのに、
幕府の役人はひとり残らずその場から逃げ出している。
それほど日蓮はいっしょにいるだけで共時的に「怖い人」であったのだろう。
もはや日蓮を管理するものはだれもいない。
幕府上層部も日蓮の恐ろしさを実際に見聞きして、職務放棄したのだろう。
もはやだれも悪口ばかり言う「正しい」日蓮をどうしたらいいのかわからない。
日蓮としてもどこに行けばいいのでわからないので、
周囲に聞くとこの道を行けばいいと言われる。
お昼にようやく依智(えち)というところの本間六郎左衛門の家にたどり着いた。

(日蓮がそのお宅にお邪魔し、下級武士のために酒を取り寄せて飲ませてやると、
それぞれ帰るということになったらしく、
彼ら下級役人はいままで居丈高だったのとは正反対に低頭して、
さらにいま現代接客サービスでは常識のヘソのうえで手を交差させるポーズをして
偉そうだった公務員が言うことには――。
日蓮大聖人がこれほどの人だとはまったく思ってもいませんでした。
ぼくたちが信じている阿弥陀仏の悪口をおひろめされているとうかがい、
ずっと憎んでおりましたが、こうして目の当たりにお姿を拝見させていただき、
そのもうただただありがたき高貴なご様子に長年信じていた念仏を捨てることにしました、
と火打ち袋から数珠(じゅず)を取りだして捨てるものがいた。
今後はいっさい念仏を唱えないと文面にて誓うものも現われた)

「さけ(酒)とりよせて、もののふどもにの(飲)ませてありしかば、
各かへるとてかうべをうなたれ(低頭)、手をあさ(叉)へて申すやう、
このほどはいかなる人にてやをはすらん、
我等がたのみて候(そうろう)阿弥陀仏をそしらせ給うとうけ給われば、
にくみまいらせて候いつるに、
まのあたりをが(拝)みまいらせ候いつる事どもを見て候へば、
たうとさ(貴さ/尊さ)にとしごろ申しつる念仏はすて候いぬとて、
ひうちぶくろ(火打袋)よりすず(数珠)とりいだしてすつる者あり。
今は念仏申さじとせいじやう(誓状)をたつる者もあり」(P106)


結局、これが本当の布教のような気がしてならない。
布教は言葉や親切で相手を変えようとするものではなく、
自分のたたずまいを見て相手が自然に信仰を変えるのが
本物の折伏(しゃくぶく/宗教勧誘)だろう。
こざかしい末端の折伏なんかよりも、トップのカリスマ性(人間的魅力)が大きい。
池田大作さんも戸田城聖さんも、日蓮大聖人同様にカリスマ的魅力があったのだろう。
それはもう言葉にならない圧倒的なちからを持っているのである。
こればかりは経験してみないとわからない。
わたしがカリスマ性を感じたのは去年引退したプロレスラーの天龍源一郎。
ヨボヨボになった晩年はお愛嬌というもので、
全盛期に業界大手の新日本プロレスに喧嘩を売っているときの輝きはすさまじかった。
天龍をなまで見るだけで鳥肌が立ったものである。
タレントのライブでそういう高揚感を得たことのある人もいよう。
師匠としては、大学時代に出逢った恩師の特殊映画監督、原一男先生にもそれがあった。
おかげで人生を狂わされてしまったが(こちらの勝手な被害妄想だとはわかっている)、
いまは大学教授がすっかり板についた成功者先生にいまさら抗議するつもりはない。
「自分は絶対に正しい」と信じている人から発せられるカリスマ性というものがある。
天龍のように無勢で多勢に立ち向かっていく姿にも人は魅せられるだろう。
いまの創価学会は巨大組織だから、いまもいま日蓮が日本に生まれ変わったら
真っ先に池田名誉会長のことをこき下ろすに違いない。
(そのまえに精神病院に強制入院させられる可能性のほうが高いけれどさ)

で、日蓮はどういうコネかこの依智の本間六郎左衛門宅にしばらく滞在するのだが、
そのあいだに鎌倉でおかしなことがたくさん起こったという。
具体的には、放火や殺人が頻発したとのこと。
日蓮は自分を軽んじたら国が乱れると主張しているでしょう。
そう言っている日蓮を捕まえて、未遂に終わったが首を切ろうとした。
ここで鎌倉で放火や殺人が連続するというのは、なにやら創価学会的でおもしろい。
こんなものだれだって日蓮狂信者による自作自演を疑うわけでしょう?
心酔する師匠の予言を当たらせるために自作自演で鎌倉を荒廃させる。
たとえ捕まったって自分は念仏者ですと申し開きをすればいいのだから。
そうしたらそれは念仏者の犯行になってしまうのである。
いきおい念仏者が日蓮を追いこむために信者をよそおって犯罪行為をしたことになる。
ため息をつきつき思うのは、むかしから日蓮関係はやばかったんだなあ。
創価学会シンパながら念仏ファンであるわたしの個人的な思いでは、
念仏者は信仰のために放火や殺人まではできないような気がする。
念仏グループは弱いからそこまで教祖に思い入れを持てないのではないかと思うのだが。
むかしからなにか(=お経や教祖)を絶対的に「正しい」と信じるということは、
勇気が満ちあふれる楽しいことであると同時に怖ろしいことでもあったのだろう。

このあと日蓮は流罪として佐渡へ行かされる。
日蓮は、これまた悪人の良観を中心とした権力者集団による陰謀だと決めつけている。
わたしのわずかな人生体験や読書体験から思うのは、
良観はそこまで悪くないのではないか?
良観はたまたま家柄もよく師匠にも恵まれ、権力者ともお近づきになった。
なんとかして困った人を救いたいという利他精神から貧民救済事業までした人である。
権力者からしたら、
わあわあうるさいお騒がせ野郎の日蓮を殺すのなどたやすいことだった。
そうしたほうがいいと意見する人も常識から考えれば大勢いたと思われる。
これに反対して日蓮を守ったのが、
ほかならぬ日蓮その人が敵対視していた良観という世俗的意味での善人だと思うのだ。
日蓮は良観のせいで佐渡に流されたというけれど、
あのまま鎌倉に置いておいたら、
あんな物騒な坊主は絶対だれかに殺されていたでしょう?
教祖が狂騒的なのは新興宗教らしくていいのだが、
日蓮関係は弟子も狂信的に自分たちは絶対に「正しい」と言い張るのだから、はあ~。
あんな過激な教えだが、それでも教祖に救われている信者のことを考えると、
あの日蓮を殺すわけにはいかないが、
しかしこのまま鎌倉にいられたら政治も治安もなにもかもメチャクチャになる。
当時は精神病院がないのだから措置入院も無理。
ここでしばらく佐渡にでも行ってもらおうと考えた良観派閥はそこまで悪人なのか?
本書を読むと佐渡に流された日蓮は決して孤独ではなかったという。
他宗派の人々が日蓮のご機嫌を取りに日参していたとのこと。
それが被害妄想過剰な日蓮に言わせると、
みんながグルになって自分を改宗させようとしてきたとなってしまう。
ある無学な念仏者がおずおずお偉い日蓮大聖人さまに進言したという。
念仏の法然は法華経を捨てろとなんか言っていませんよ。
日蓮先生がお好きな法華経はたしかにいいんでしょうが、
われわれ愚民は念仏でないと救われませんので。
自分は絶対に「正しい」と信じている(そこが魅力なのだが)
日蓮は明らかに学のない念仏者を相手にせずけんもほろろに一蹴したという。

日蓮はわずか3年で佐渡流罪から赦免されるが
(身の回りの世話をするお弟子さん付きの労役なし三食昼寝完備の懲役3年!)、
この幕府の寛大な処置にも日蓮が敵視していた良観のちから添えがあったとされる。
雨乞いもできない無能坊主と日蓮がバカにした良観(忍性)こそ、
意外にも日蓮の隠れた恩人であったという歴史書が残っている。
ネットで知ったことだから、どこまで本当かわからないけれど、
仏教界の天皇陛下、中村元博士のご著作にこのような記述があるという。
博士によると、「本朝高僧伝」という歴史書に以下の記載があるそうだ。

「池上の日蓮、しばしば悪言を出して (忍)性[良観]を謗りて以って律国賊と為す。
(忍)性は意に介せず、
其 (=日蓮)の罪に陥るに及んで却って宥[許し]を平師(北条時宗)に乞う」


これが事実かどうかは永遠にだれにもわからぬが、
本書で日蓮ときたら大恩人の良観の首をはねよとさかんに主張していたとのこと。
それどころか良観のいる極楽寺を焼き払えとも言ったとか。
大恩ある良観を地獄に堕ちると決めつけたのがわれらが日蓮大聖人さまである。
こういうことをできる人ってレアだから、やはり日蓮はすごくて「怖い人」なのだと思う。
佐渡に流された日蓮は自己憐憫たっぷりに以下のようなことを書いている。
しかし、ここがいちばんいいのだ。
不幸(マイナス)を幸福(プラス)に代える宿命転換の実相を日蓮は巧みに描写する。
どうして「正しい」ことを言って「正しい」ことをしてきたのに、
(本来ならば幕府中枢で重んじられるべき)自分が
こんなクソ寒い日本の辺境、佐渡ヶ島のあばら家に流れ着いたのか。
いや、この不幸こそ幸福であると日蓮は佐渡で法華経の諸法実相を悟る。

(いま日蓮はこんな時代に生まれて南無妙法蓮華経というオリジナル呪文を
ひろめたせいで、佐渡流罪という困難に遭遇しているのである。
[あまりにも寒いので熱燗を一杯やって」考えてみると、これは不幸だろうか?
めったにないラッキーと考えることもできるのではないか?
あの中国高僧のチギでさえ法華経に書いてあるこの苦境を味わったことがないのだ。
法華経に書かれている本当の困難に向き合ったのは自分だけではないか?
法華経で仏さまがあなたこそ成仏できると名指ししてくれたのは、
まさしくわたくし日蓮ひとりである。
ならば前人未踏の究極の悟りに突入したのは疑いえない。
自分を迫害した北条時宗こそよき指導者であった。
日蓮を死刑寸前まで追い込んだ平左衛門はダイバダッタのようなもので、いわば恩人。
ぶっ殺してやりたいくらい大嫌いだった念仏者もいまでは尊敬できる。
ちまちまうるさいルールばかり主張する坊さんも生きていていいんだ。
みんなみんなそれぞれそのままでいいんだ。
だれも悪くないし、それぞれがそれぞれのカラーで輝いているではないか!
仏さまはいま生きているこの世にたしかにいて、あの人もこの人も仏さまだ!
法華経の肝心かなめは諸法実相という究極智識と言われているが、
それはこのことであったか! 
悪役がいてもよろしい。
あなたは日蓮にとっては悪役だが、あなたにとっては日蓮が悪役なんだね。
いまのままで芝居としてはすべてがうまくいっていたのか!)

「今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘(ひろ)めてかかるせ(責)めにあへり。
仏滅度後二千二百余年が間、
恐らくは天台智者大師も一切世間多怨難信の経文をば行じ給はず。
数数見擯出の明文は但日蓮一人なり。
一句一偈我皆与授記は我なり。
阿耨多羅三藐三菩提は疑いなし。
相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆達多よ。
念仏者は瞿伽利尊者、持斎等は善星比丘なり。
在世は今にあり今は在世なり。
法華経の肝心は諸法実相ととかれて本末究竟等との(宣)べられて候は是なり」(P135)


日本史上、良観も日蓮もいなければならなかったのである。
恵まれた良観もきっと自分に喧嘩を売ってくる日蓮を見て思ったんじゃないかなあ。
おお、この小僧は肩書こそないが自分よりも純粋な本物の信心を持っている。
いったいどうしてやるのが日蓮のためになるのだろう?
佐渡に3年くらい流してやれば人生の理不尽を知り、
そこは自分にはわからない境地だが、さらなる深みある信心に到達するのではないか?
日蓮はいじめられっ子ぶっているが、
みんな日蓮に注目していて大好きだったのかもしれない。
なんか気になる目立つ存在ってかわいがりたくなるよねえって話で。
そして、日蓮がそんなに不遇だったかどうかもわからないのである。
日蓮は佐渡なんかに流しやがってと思ったかもしれないが、
その佐渡には食うや食わずで妻子ともども労働しながら
浄土信仰(極楽往生)だけを頼りに生きていた貧民もたくさんいたはずなのである。
果たして日蓮大聖人はそんな無学な貧民の、
わらにもすがるような阿弥陀仏信仰まで否定する完全正義の人だったのだろうか?

ブログ記事冒頭、日蓮は悪口の天才と書いた。日蓮はさあ、悪口がうまいんだ。
下品な決めつけというか、じつに庶民の心をよくわかっている。
低俗な庶民は、人の死に顔を見たいっていう黒々とした願望があるわけだ。
あの人、生きているあいだはブイブイいわせていたけれど、
晩年はガンで死ぬほど苦しんだらしいわよ(ザマアミロ)みたいな。
いくら成功者になって恵まれた人生を送っても、お嬢さんが交通事故で、
ごにょごにょ、死体はどんなだったのかしら?
ちなみにわたしの母は当方の目のまえで飛び降り自殺。
叔父は昨年、孤独死してぐちゃぐちゃの腐乱死体として発見された。
わたしの行く末も推してはかられようが、
これも謗法の罪を犯したせいだとあきらめている(こんな記事を書いているし、あはっ)。
さて、人の死に顔の善悪をことさら強調した日蓮の浅ましさに打ち震えるところがある。
あいつは現世ではうまいことやっていたけれど、
来世ではどうなんだかねという庶民の怨恨感情をじつに見事に満足させる観点だ。
くっくっく、あいつは成功したそうだけれど、ありゃあ後生が悪いぞ、ザマア!
こういう大衆心理を日蓮大聖人はよく知っていた。
法然が専修念仏を主張するきっかけになったのは中国高僧の善導の言葉である。
日蓮によると、善導は晩年発狂して柳の木から飛び降りて自殺しようとしたらしい。
しかし、死ねずに14日間苦しみに苦しんで絶命したとのことである。
こんなことはデマというほかなく証文はどこにもないのである。
だが、こういうデマを耳にすると念仏者はじつにいやな気分になる。
日蓮はそういうところがうまかったのである。
私見では、善導はもしそうだったとしても感動しながら死んでいったと思う。
浄土信仰があるならば自殺しないほうがおかしいのである(法然、親鸞はインチキ)。
善導は浄土信仰の究極的行為である自殺に気づいて敢行したのがよかった。
にもかかわらず、死ねなかったことにも善導は感激したと思う。
なぜなら人生は自力ではなく他力であることを身をもって
人生の幕引きで悟ることができたのだから。もし日蓮のデマが本当でも、
それは善導の価値をいっさい下落させるものではないとわたしは思う。

日蓮は庶民から慕われている弘法大師(空海)が大嫌いだったようで、
こんな悪口をよく言っていたという。日蓮の悪口でこれがいちばん冴えている。

(弘法大師(空海)の真言密教が「正しい」わけなんかないだろう?
だったらさ、後鳥羽院が承久の乱で負けて隠岐に流されるかって話だ。
空海の手下たちが大勢天皇家の勝利を祈願していたのになんだこのざまは!
弘法大師とか大笑いで泣けてくるぜ。民間人に負ける天皇家って情けねえ。
みんな隠岐に流された後鳥羽院を「隠岐法皇」とからかって言っているが、
あれを最初に言い始めたのはおれさま日蓮なんだなあ。
天皇家でかわいがられていた幼児も首を切られて血だらけになって死んだわけだ。
弘法大師の密教なんか嘘八百の詐欺行為だとまだわからぬのか愚か者よ!)

「日蓮が申すやうは、しばしまて、
弘法大師の悪義まことにて国の御いの(祈)りとなるべくば、
隠岐法皇こそいくさ(軍)にかち給はめ。
をむろ(御室)最愛の児(ちご)せいたか(勢多迦)も頸(くび)をきられざるらん」(P199)


日蓮が「真言亡国」と弘法大師の真言密教を批判しているのは目にしたことがあったが、
創価学会教学部が編集した本書で、そういう解釈もできるかと手をたたいたところがある。
たしかに教学部の言うように、インドで密教(仏教の土着化)が起ってきたころ、
イスラームに攻められて本場では仏教が消滅しているのである。
インドもボロボロになった。「真言亡国」とは日蓮大聖人もよく言ったもんだ。
日蓮はよほど権威的なエリートインテリ密教が嫌いだったのか、
弘法大師(空海)のみならず、
尊敬する伝教大師(最澄)の弟子の慈覚(円仁)のひでえ悪口を書いている。
空海も円仁も死に様が最悪だったというのである。

(みんなが慕っている弘法大師も慈覚大師も悲惨な死に方をしたのだが、
これが情報操作というものか、意外と知られていないので驚くばかりである。
弘法大師も慈覚大師もうめき苦しみながら阿修羅のような形相で息を引き取った。
そうではあるけれども、どちらのケースも大勢いる弟子どもが隠したから、
公家(貴族さま)の知るところにはならなかった。
しかるがゆえに、いまも弘法だ慈覚だのと崇拝する無知な愚か者がいるのだよ。
真実というものは暴露するものがいないと、
未来永劫まで嘘が本当としてまかり通ることになるんだから怖いものだなあ)

「弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども、
弟子ども隠せしかば、公家にもしらせ給はず。
末の代は・いよいよあをぐ(仰ぐ)なり。
あらはす人なくば未来永劫までもさであるべし」(P222)


きっと「正しい」真実というのは最後まで本当のことを隠し通した嘘になるのだろう。
日蓮の御書は悪の教科書とまで言ったら大げさだが、処世の智恵にあふれている。
「正しい」ことを言い張ると迫害されるが、それでも拾う神はいるとか。
「おれは悪くない」で最後まで押し通したら結局それが善になってしまうとか。
日蓮の仏教界における最大の功績は、難解な仏教世界を大衆娯楽化したところだろう。
あいつは善で、あいつは悪。
少数の善が大勢の悪をバッタバッタなぎ倒したら爽快だよね――
みたいに日蓮は仏教を
庶民にわかりやすいエンターテイメント世界に移植した偉人なのだと思う。
映画でもテレビドラマでも大衆小説でも、善が悪を倒すというところだけは変更不可。
悪が勝っちゃうと、人の心におかしなもたれが生じてしまう。
まあ、善が悪を倒すというけれども、
その倒される悪もいちおうは善を自称しているのだが、
そういう複雑な世界観は庶民には受け入れられず、
南無妙法蓮華経で仏敵と勝負しているのがドラマチックで刺激的な生き方なのだろう。
一箇所、日蓮大聖人の名文を読んで(名文がゆえに)おかしな発見をしてしまった。
たとえば、創価学会員さんにはいい人が多くて、
本心から人の役に立とうとしたり、社会の役に立とうとしているよねえ。
わたしのような使えない役立たずには、とてもありがたい存在でお世話になることも多い。
さて、日蓮大聖人はこう言っている(←なーんか学会員っぽいでしょ。違うんだけれど)。

(道理を考えてみたら、鹿は肉がうまいから人に殺され喰われ、
亀は貴重な油を有しているがためにこれまた殺され命を失することになるわけだ。
女性は美人でスタイルがよいほど、おなじ女性から嫉妬されて苦しむ羽目になる。
一見すると恵まれているように思える政治家は、
常に他国からの攻撃を恐れて夜に安心して熟睡する暇(いとま)もないのではないか。
金持や富裕層は財産があるがために命をねらわれることも少なくないだろう。
法華経を信じるものは精神の富裕層のようなもので、かならず成仏する。
このために悪魔が嫉妬して、
成仏決定の法華経の行者をわざわざ選んでいろいろな意地悪を仕掛けてくる)

「されば鹿は味ある故に人に殺され、亀は油ある故に命を害せらる。
女人はみめ形よければ嫉(ねた)む者多し。
国を治る者は他国の恐れあり。財有る者は命危(あやう)し。
法華経を持つ者は必ず成仏し候(そうろう)。
故に第六天の魔王と申す三界の主、
此(こ)の経を持つ人をば強(あながち)に嫉み候なり」(P241)


もし日蓮の言うことが本当なら法華経なんて信じないほうがいいことにならないか?
というのも、法華経を信じると悪魔から嫉妬されてかならず魔が生じるというのだから。
命をねらわれるくらいなら金持になんかなりたくないという意見も出よう。
おかしな嫉妬をされるくらいならほどほどの容貌の女性のほうがいいことになる。
それでも、にもかかわらず、日蓮がこう教え諭してくれているのに、
われわれは金持になりたいとか、さまざまな邪心をいだくのではあるけれど。
法華経を信じると自分は「正しい」とか思っちゃうから、
周囲と衝突するのは必定といってよい。
しかし、その困難のなかにこそ
生きる味わいがあると日蓮は言いたかったのではなかろうか。
南無妙法蓮華経。おれは絶対に「正しい」から敵はかならずや打ち倒してみせるぜ。
なんちゃって、うっそぴょーん♪

*本文引用は創価学会公式サイトからコピーさせていだだきました。大感謝っす。
ネットCMを見たら、学会も変わろう変わろうとしているみたいですね。
近づいてくる学会員のような親切な人はたくさんいらっしゃるのですが、
だれも座談会に誘ってくれません。役に立たないからなんでしょうけれど。
学会員は大好き。南無妙法蓮華経。

「佐渡御書」(日蓮/池田大作監修/聖教文庫)

→御書(ごしょ)とは日蓮が信者に送った手紙のこと。
本書は表題の「佐渡御書」以外にも「祈祷抄」「如説修行抄」「顕仏未来記」を収録。
気が狂うほど繰り返し読んだ結果、もうなんだか吹っ切れてしまい、
いまから安酒をかっくらいながら思ったことを好き勝手に書かせてもらう。
文句があるならいくらでも論争してやるから、
匿名でこそこそコメント欄に書き込むような卑怯なことはせず直接逢いに来やがれ。
ただし一対一だからな。多勢に無勢のだまし討ちはごめんこうむる。
このたび日蓮大聖人の御書をボロボロになるまで読んで、
自分が絶対に「正しい」ことに気づいた。

日蓮はあらゆる仏僧のなかでもっとも「正しい」という結論に行き着いた。
いったい「正しい」とはなにか?
なぜセンター試験には「正しい」答えがあるのか?
その「正しい」理由はなにか? 答えは、権威である。
多くの大学教授がその答えを「正しい」と支持しているから、その選択肢は「正しい」。
あるときまでは地球が自転しているのは間違いであった。
なぜならキリスト教の権威者の言うことが「正しい」ことになっていたからだ。
あらゆる「正しい」ことは既存の権威によっている。
日本でいちばんの大学は東大だから、かの大学の教授の発言は「正しい」。
庶民の意見と東大教授の意見が食い違ったら「正しい」のは教授になる。
末端のおまわりさんのどこが「正しい」のかは一見わかりにくいが、
彼は国家権力たる警察に所属しており、
この集団のトップには東大が大勢いるため、その威光で彼もまた「正しい」。
「正しい」とは権威でありブランドである。
仏教の開祖とされる釈迦が「正しい」理由は権威があるからだ。
古今多くの権力者(権威者)が釈迦を「正しい」とみなしたから彼は「正しい」。

けどさ、みんな薄々は気づいているだろうけれどブランド(権威)ってうさんくさい。
いま奮発して高価なイタリア直輸入の生ハム三種を食べている(半額購入)。
なんかパサパサしていてまずいのよ。
よほど昨日定価で買った国産のビアハムのほうがうまかったと思う。
(ちなみにイタリアハムは半額でも400円、国産ビアハムは定価で200円)
おそらく「正しい」味覚は、本場のイタリア産生ハムをうまいと感じる舌であろう。
ここで二派に分かれる。イタリアのブランドに屈するものと、わが舌を信じるものと。
大半の庶民階層は自分の舌を信じられないのである。
ブランドが上のほうのものを「正しい」「おいしい」「価値がある」と思ってしまう。
グルメのみならず人生全般でブランド(権威)に右往左往し死んでいくのが庶民だ。
どうして自分の感覚を「正しい」と思えないかというと自信がないためである。
自分に大したブランドがない庶民は自信を持って自分が本当に思ったことを言えない。
自分のことを自信を持って「正しい」と思えない。
どうしても世間の目を気にしてしまう。主君にはヘイコラしてしまう。

しかし、日蓮はそうではなかった。日蓮は自分こそ「正しい」ことを知っていた。
「正しい」というのは権威でも多数決でもなく自己の主観のなかにある。
自分が「正しい」と思ったことが「正しい」。
どれだけそれを「正しい」と信じることができるかが「正しい」ことの証明になる。
日蓮の論理はこうである。日蓮は絶対に「正しい」。
なぜならもっとも「正しい」法華経を信仰しているからである。
なにゆえ法華経がもっとも「正しい」のかというと法華経にそう書いてあるからである。
釈迦はいろいろな時期にさまざまな教えを説き、それがお経となって残っているが、
最晩年の8年に説いた法華経が優劣でいえばもっとも勝っている。
というのも、釈迦自身が法華経のなかでそう説いているからである。
だから、南無妙法蓮華経こそ絶対に「正しい」。

とはいえ、である。日蓮の師匠は念仏者で、
日蓮も南無阿弥陀仏を唱えていた時期があったのである。

(日蓮もむかしはバカ者で正しい仏法を批判するようなことをしたもんだ。
若かりしころは師匠から教わった南無阿弥陀仏を信じていて、
「師弟不二(していふに)」は絶対だと自分のあたまで考えようとせず、
法華経を信じているものを見かけたら、念仏者の仲間と群れながら
「あいつらは絶対に成仏できねえよ」などとせせら笑っていた。
ところがいま謗法(ほうぼう/正法批判)の酔いからさめてみたら、
まるでさながら酔っぱらいが恩義ある両親をぶん殴って喜んでいたが、
酔いがさめたあとに後悔して嘆いているようなものである)

「日蓮も過去の種子、已(すで)に謗法(ほうぼう)の者なれば、
今生に念仏者にて数年が間、
法華経の行者を見ては「未有一人得者・千中無一」等と笑しなり。
今謗法(ほうぼう)の酔(よい)さめて見れば、
酒に酔える者父母を打ちて悦びしが、
酔さめて後(のち)歎きしが如し」(P16「佐渡御書」)


この日蓮が書き残したとされる一節はいろいろ意味深い問題をはらんでいる。
日蓮は念仏者の師匠を裏切ったことになるがこれはいいのだろうか?
日蓮系仏教利権団体、創価学会では「師弟不二」をことさら重んじている。
「師弟不二」とは師匠は弟子のことを心配して、弟子は弟子で師匠を敬えという、
美しい師弟愛を推奨するスローガンといえようか。
だが、親分の日蓮がさらさら「師弟不二」の観念を持っていないのである。
もうひとつの問題は、人間の変化に関することだ。
日蓮は既成の南無阿弥陀仏を完全否定して(念仏者は地獄に堕ちる!)、
オリジナルの南無妙法蓮華経こそ「正しい」という姿勢に転向した。
日蓮が開眼したのは32歳だったとされているが、
ということは31歳の日蓮は南無阿弥陀仏を「正しい」と思っていたということだ。
これはどうしてかというと、人間は変化(成長/老化)するからだろう。
そうだとしたら、ならば、さらに日蓮は変化する可能性もなくはないことになる。
もしかしたら弟子が隠しているだけで、
死期が迫った日蓮は病床で念仏もまた「正しい」と言ったかもしれないのだ。
「正しい」ことは変わりうることを身をもって知ったのが日蓮ではなかったか。
それなのにどうして南無妙法蓮華経こそ絶対正義と言い放つことができたのだろう。

歴史的には否定されている五時八教という中国高僧のチギが唱えた説がある。
釈迦は最初に悟ったときに華厳経を説いたがだれにも理解できなかったので、
はじめは小乗仏教から説いていったという物語である。
華厳経や法華経は後世の創作だから
このフィクションを批判するのはおかしいのかもしれないが、
釈迦が35歳ですべてを悟ったと考えるところが間違いなのではないか。
釈迦も生きているうちに少しずつ思想が深まっていき、
布教内容も年ごとに変わっていったのではないか。
で、般若経や浄土教典、法華経などを順次説いていったと考えたらどうか。
そもそも大乗仏典は釈迦とは無関係の後世の創作だが、しかしである。

日蓮の言葉に戻ろう。
日蓮は信心(信仰)を酒の酔いにたとえているが、これは本当におもしろい。
このたとえができるということは日蓮は泥酔した経験があったはずだ。
人が酒を飲んでおかしなことをしてしまうのは善悪や損得の観念がゆるむからである。
そして、酔っぱらいの特徴は自分はまだ酔っていないと言い張るところだ。
酒に酔っているかどうかは当人にはなかなか自覚できない。
「おれは酔っていない」なんて言い始めたらかなりの泥酔状態なんてことはよくある。
日蓮もむかしは念仏者で法華経の行者を軽んじてあざ笑いさえした。
しかし、あれは酔っぱらっての行動だったといまは嘆いているのである。
酔いからさめたいまのあたまで考えたら、とんでもないことをしてしまった。
だが、どうしていまの日蓮が酔いからさめているという証拠があろうか。
日蓮の酔いはさらに深まり、いまは泣き上戸(じょうご)になっているとは考えられないか。
過去の小さな失敗を大失敗をしたと思い込んでくよくよ嘆くのが泣き上戸である。
人を狂わせるという意味で、宗教はまったく酒のようなものという日蓮の指摘は「正しい」。
人はなぜ酒を飲み酔おうとするのか? そのほうが楽しいからである。
精神的にも身体的にも酔っぱらうのは快楽である。
新興宗教に夢中になるのは常時軽躁状態でいられるようなものでとても心地よい。
酔い心地のまま人生を終わられたら幸(さいわ)いなのだが、
あるとき酔いがさめてしまうとおのれが巻き起こした災(わざわ)いに卒倒してしまう。
おそらく日蓮の好きな言葉ベスト3に入るのが「地獄に堕ちるぞ」だから、
生まれたときから創価(洗脳)教育を受けて育った二世や三世はいいときはいいが、
あるとき創価学会に疑いを持ってしまったら真の地獄が始まるだろう。
わたしは外部だからか地獄への恐怖感というのがいまいちわからない。

さて、日蓮の主張というのは「おれは絶対に正しい!」である。
だから、幕府(権力者)は「おれを重んじよ」「おれの言うことを聞け」――。
「おれに逆らったら大難が来るから覚えとけ」とまで日蓮は言っているのである。
果たしてこれは素面(しらふ)の人の発言か、それとも泥酔者の暴言か。
日蓮自身は「いま自分はようやく酔いからさめた」と言っているのである。
いままで日蓮のことがどうしても好きになれなかった。
なんなんだ、こいつ、というような意味不明なものへの不快感さえあった。
こうしてブログ記事を書きながらいま気づいたが、日蓮は大酔人なのではないか!
日蓮は大聖人であるが、同時に大酔人(大虎/おおとら/泥酔者)でもあられる。
いやいや、大酔人(大虎)であるからこそ大聖人であられる。
酔っぱらうとみなさん、本音が出るでしょう。
人格円満な平凡な会社員が酒席で叫ぶじゃありませんか。
「おれは間違っていない(=正しい)」
「今度会ったら(その場にはいない)社長をぶん殴ってやる」とかさ。
自分の話をしないといけないなあ。
わたしもさ、素面のときにはかなりさばけた常識人に近づいているわけ。
悪い人はいない。みんなそれぞれの立場というものがある。
人の欠点をどうこういうよりも、自分にも悪質な点が多分にあることを認めよう。
いまでは天敵のシナリオ・センターのほうが善であったと反省しているくらいだ。
でもさ、あはっ、酔っぱらうと話は別よ。「おれは悪くない」モードに入る(笑)。
自分は「正しい」という信念が込みあげてきて、
むかしちょっと意地悪をされたくらいのことを
被害妄想過剰にも針小棒大に拡大化して、この恨みをいつ晴らしてやろうか、
などとウキウキしながら邪(よこしま)で
どこまでも自分勝手な正義心を奮い立たせる(おお、こわっ!)。
いままで日蓮が嫌いだった理由がようやくわかった。
日蓮はまるで自分のようだから自己嫌悪のようにかの大聖人、大酔人を敬遠していた。
わたしはふつうの人よりも日蓮と同質性が高いから同族嫌悪していただけだったのか。

ぶっちゃけ、日蓮のようなハチャメチャをできる人なんていないっしょ?
生まれも大してよくなく、師匠は田舎寺の風見鶏の無能念仏坊主に過ぎなかった。
日蓮なんかどう客観的に見たところで歴史上に名を残すような器ではなかったのである。
いまもむかしも生まれの貴賤がいちばんたいせつというのは変わらない。
みんな本当のことを言わないけれど、
「人生は親で決まる」はかなり真実に近いといってよい。
ところが、日蓮はやらかしたのである。
家柄もよくなく師匠にも恵まれず、
このためまったく世間というものからさらさら評価されていなかった日蓮がなにをしたか。
「自分は絶対に正しい」と主張して既存の権力者を批判しまくったのである。
悪口を言うだけではなく、南無阿弥陀仏の改良版ともいうべき、
いままで世界でだれも口にしたことがない最新の南無妙法蓮華経を声高らかに唱えた。
南無阿弥陀仏は法然が創った言葉ではなくむかしからあった発想である。
いっぽうで南無妙法蓮華経は完全に日蓮が新しく創り価値を与えた言葉である。
それまで世界のどこにもなかった南無妙法蓮華経という言葉(=世界)を日蓮は創った。
新しい言葉ができるごとに新しい世界(体験)は生まれるのである。
底辺坊主に過ぎなかった日蓮が
すべての既存権威を否定して南無妙法蓮華経を創価した。
既存の権威のどれほどが「正しい」というのか?
しょせん「正しい」ことなど客観的な基準はなく、主観オンリーだろう?
主観とは信仰、信念、信心のことである。
あなたが「正しい」と思ったことは絶対に「正しい」。
わたしが「正しい」ことは客観的に評価されるべきことではなく、自分が決めることだ。
自分が「正しい」とゆるぎなく信じているものは、その信心のぶんだけ「正しい」。
日蓮が依拠したのは法華経の正統性(正しさ)である。
世間ではどっちが「正しい」かで裁判沙汰や夫婦喧嘩、対人トラブルが日々起こっている。
しかしと日蓮は言う。本当に絶対的に「正しい」のは法華経である。

(世間でもひとたび人様からご恩を受けたら命がけで返せと言われている。
実際、主君のために命を捨てる人は、少ないようでその実数はかなり多い。
男は生き恥をさらすまいと命を捨て、女は惚れた男のために命を捨てるもの。
人ならぬ畜生はどうかといえば、
魚は命を惜しむがゆえに池の浅さを嘆き、さらには池の底に穴を掘るものもいる。
そうまでしても釣り人の餌(えさ)にばかされて命を失ってしまう。
鳥は木に住んでいる。
木が低いことにおびえて、少しでも木の上に住みかをつくろうとする。
にもかかわらず、人にだまされて網にかかってしまい食われるのが鳥というもの。
人間もまたおなじようなものである。
世間の浅いこと、つまり損得や惚れた腫れた捨てられた程度で命を台なしにするが、
いちばん重要な真実である「正しい」法華経のために命をみずから捨てるものはいない。
このため仏になるものもいないのである)

「世間の法にも重恩(じゅうおん)をば命を捨て報ずるなるべし。
又主君の為に命を捨つる人は、すくなきやうなれども其(そ)の数多し。
男子ははぢ(恥)に命をすて女人は男の為に命をすつ。
魚は命を惜しむ故に、池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむ。
しかれどもゑ(餌)にばかされて釣(つりばり)をのむ。
鳥は木にすむ。木のひき(低)き事をおじて、木の上枝(ほつえ)にすむ。
しかれどもゑにばかされて網にかかる。
人も又是(か)くの如し。世間の浅き事には身命を失へども、
大事の仏法なんどには捨つる事難(かた)し。
故に仏になる人もなかるべし」(P9「佐渡御書」)


日蓮が「正しい」理由は法華経が「正しい」からである。
正確には、日蓮が「正しい」のは彼が法華経を絶対的に「正しい」と信じていたから。
どのくらい「正しい」かと信心していたかといえば、
そのために(法華経のため)に命を捨ててもいいと思っていたくらいである。
わが命というのはおそらく人間にとってかなり重要度の高いものだろう。
それを法華経のためにあえて捨てたいと思っていたのが大酔人の日蓮である。
実際、いわゆる「竜の口の法難」で
日蓮は法華経のために死んでもいいと思ったわけでしょ?
むしろ法華経(=真実、正しいこと)のために死ぬことを喜びとさえ感じていた。
自分の命よりも法華経は「正しい」と日蓮は信じていたから法華経は「正しい」。
しかるがゆえに法華経を信仰する日蓮もまた絶対的に「正しい」。
本当に「正しい」ことのためになら命を捨てられる、つまり自殺できるのである。
絶対に「正しい」ことの証明は命を捨てる――
自殺でしかできない面があるのかもしれない。
日蓮が「正しい」のは、
命を捨てられるほど(自殺できるほど)「法華経」を「正しい」と信じていたからだ。
南無妙法蓮華経と言えば死刑、
言わなければ延命という二者択一であえて唱題するのは自殺といっていいと思う。
あえて命を捨ててまでも日蓮は南無妙法蓮華経と言ってやる!
おれが信じたものが「正しい」ならば命を捨てても構わねえ!
ここまで信心が定まったからこそ、日蓮死刑執行直前に奇跡が起こったのだろう。
死刑直前に流星が落ちてきたかというあれである。
わたしはあの奇跡は実際に起こったことだとわが人生経験から信じられる。
あれは「時の一致」の問題で一回しか起きないことだが、一回はかならず起こるのである。
創価学会の宮本輝という骨董品や美食を好む大御所富裕作家が
人は自殺をすると地獄に堕ちると得意げに書いていたが(「錦繍」)、
日蓮大聖人のこの自殺志向には気づかなかったのだろうか?
昭和には親鸞という田舎坊主がインテリには人気があった模様だが、
親鸞なんて「死にたくねえ」とぼやいていた俗物だって弟子にばらされているんだがなあ。
わが身命ほど大事なものはないと90近くまで生きた親鸞なんかクソだろ。
いまこの瞬間に死んでもいいと思っていたのは日蓮と踊り念仏の一遍である。
こういう怖い人が「正しい」ことは対面した瞬間にみんな気づくのである。

日蓮は自分が絶対的に「正しい」と信じていたから「正しい」のであって、
こまごまとしたミスをあげつらっても意味がないとわかっている。
これから書くことは日蓮のチョイミスだが、
そのようなミスをする人は人間味があっていいではないか。
怖いことを書くと、このミスが日蓮の信心の要(かなめ)かもしれないのだが。
もしかしたらこの誤りを指摘したら日蓮は崩れていたかもしれない。
日蓮が「正しい」根拠は法華経が「正しい」ゆえだと書いた。
法華経が「正しい」ゆえんは法華経にそう書いてあるから。
「正しいから正しい」が「正しい」の理由なのだが、
日蓮のみならず現代人でさえ、あることが「正しい」ことの絶対的証明はできない。
ある人が当人が「自分は絶対に正しい」と主張していることが、
彼の「正しい」ことの証明になるというのは、世間常識的にはおかしな論理なわけで。

日蓮の「祈祷抄」に法華経が「正しい」理由は
涅槃経にもそう書いてあるからというくだりがある。
絶対正義を叫ぶひとりの証人を信じていいかの問題に日蓮も行き着いたのだろう。
そこで涅槃経にも法華経こそ最勝と記載されていると主張した。
一般人はここで降参する。なぜなら涅槃経など読んだことがないからである。
書いてあると言われたら、そうなのか、そうかそうかと思うしかない。
大乗仏典の涅槃経はかなり長いお経だから、
かりに既読だとしても一言一句記憶しているものはいないだろう。
日蓮のような自信家から、
涅槃経も法華経最勝を認めていると断言されると、そうかそうかと思ってしまう。
こちらは涅槃経には興味があり読んだけれど抄訳で、
絶対に涅槃経には法華経への言及がないとは言い切れない。
ところが「祈祷抄」には涅槃経のことが二度書かれているが、
弘法大師(空海)批判の箇所で日蓮のミスに気づく。
ねえねえ、みなさん、日蓮が庶民から慕われている弘法大師(空海)を
口汚くののしっていたというのはご存じでしたか?
恥ずかしながら、わたくしめはこの本ではじめて知りました。
日蓮は当時の仏教界の天皇陛下とも池田名誉会長ともおぼしき弘法大師を
めったくそにけちょんけちょんに批判しているんだ。
当時の弘法大師といったら、いまの池田名誉会長以上の権威があったことだろう。
池田先生を批判したら創価学会から仏罰をくだされ、
たとえ自殺に見せかけられて殺されても文句は言えないが(「創価学会ドラキュラ論」)、
当時の空海を批判しようものなら
一族郎党皆殺しにあってもおかしくなかったのではないか?
貴賤問わずみんなが信じて畏敬している対象である弘法大師を
日蓮はやっつけたのである。

貧乏人のせがれに過ぎない低学歴の日蓮が
どのようにして国民的偉人である弘法大師(空海)をやっつけたのか。
こういうことをしたから日蓮は庶民の支持を得たのだと思う。
空海なんて底辺の庶民からしたら恵まれたインテリに過ぎないわけで。
中国語が話せるというだけで、恐れ多いというか、ごめんなさいというか。
しかし、おなじ底辺階層出身を自称する日蓮が空海をやっつけてくれたのである。
こんなに気分のいいことはないではないか!
しかし、その空海批判でミスをしてしまう日蓮の脇の甘さはいったいなにゆえか。
日蓮の空海批判の根拠は、
弘法大師が「1.大日経、2.華厳経、3.法華経」と書いていたことである。
いんや、それは違うだろう、ナンバー1は法華経に決まっておるがや。
なにせ法華経にそう書いてあるし、涅槃経にも法華経は醍醐(だいご)と書いてある。
ここで日蓮のミスに気づいてしまった。
そもそもミスの指摘以前に、そもそもからして子どもっぽい喧嘩でしょう?
法華経よりも華厳経や大日経が勝っているというのは間違えているって、
どんなお子さま? 勝つとか負けるとかお経にも偏差値や年収みたいのがあるんでっか?
まるでさながら巨人ファンと阪神ファンの論争みたいではありませんか?
無関心な人には、
どっちだっていいと言うしかないようなみみっちい正誤を日蓮は問題にした。
で、涅槃経に法華経こそ
醍醐(だいご/究極のヨーグルト、妙味美味)と書いてあると論戦を張った。
ここなら記憶しており、読書感想文も書いている。
この記載は「大般涅槃経」の「聖行品第七、巻十四」のことだ。
要約すると、最高級ヨーグルト(醍醐)は
さかのぼれば牛の乳からつくられるが(釈迦の教え)、いろいろ加工していくことで
味が精練(せいれん)されたものになっていく(初期仏教→大乗仏教)。
このため、もっとも「正しい」のは法華経――
とは日蓮の記憶違いで涅槃経には書いていないのである。
醍醐(だいご/ヨーグルト)の例からわかるように、
もっともおいしくそして「正しい」のはわが涅槃経である、と大般涅槃経に書いてある。
涅槃経は法華経よりもかなり成立したのが遅いとされる後期大乗仏典だ。
ここを日蓮は読み間違えて法華経や自分は絶対に「正しい」と思い込んだのだろう。

とはいえ、こんな記憶ミスを指摘したところで日蓮が「正しい」ことはゆるがない。
その人が「正しい」と信じていることこそ「正しい」ことなのである。
生まれも学歴もさほどではない日蓮は、
にもかかわらずわずかなコネともいうべき師匠を裏切り、
ひとりでオリジナルブランドの南無妙法蓮華経を創価(=価値創造)した。
酔っぱらって「おれは間違っちゃいない」と吠えている人にはだれもかなわないのである。
いいか、「おれは絶対に正しい」――。

(せっかく日本の棟梁(とうりょう/親分)であるわたくし日蓮を信じるようになったものが、
日蓮が国家権力に嫌われ佐渡に流されたからといって、
ほうら現証が出た(仏罰が当たった)とせせら笑い正義の法華経を捨てるのみならず、
それどころかあろうことか生意気千番、
いまの日蓮は負け犬だからなんとでも言えると偉そうに説教してくるバカども、
えせ人生指導者連中はかならず地獄に堕ちるからいまに見ていろ!)

「日蓮を信ずるやうなりし者どもが、
日蓮がか(斯)くなれば疑ををこして法華経をすつるのみならず、
かへりて日蓮を教訓して我賢(かしこ)しと思はん僻人(びゃくにん)等が、
念仏者よりも久く阿鼻(あび)地獄にあらん事、
不便とも申す計(ばか)りなし」(P22「佐渡御書」)


おれが間違っている? 悪いのはおまえのほうだ!

(わたくしの言葉はめくらには傲慢な大言壮語に見えるだろうけれど、
これは仏さまの教説にかなっており「本当のこと」を暴露するためなのだからやむをえぬ。
我輩だっていくらでも謙虚ぶることならできるが、
いまの日本で日蓮以外に真実、法華経のために命を捨てられるものがいようか?
おまえが日蓮の悪口を言うってことは、仏さまの顔に泥を塗っているようなもの。
おれを批判するおまえこそ稀代の大悪人でかならず地獄に堕ちるから覚えておけ!)

「我が言(ことば)は大慢(だいまん)に似たれども、
仏記を扶(たす)け如来の実語を顕(あらわ)さんが為なり。
然(しか)りと雖(いえど)も日本国中に日蓮を除いては
誰人を取出(とりいだ)して法華経の行者と為(な)さん。
汝(なんじ)日蓮を謗(そし)らんとして仏記を虚妄(こもう)にす。
豈(あに)大悪人に非(あら)ずや」(P84「顕仏未来記」)


創価学会では教えてくれない日蓮の本当の教えを以下にまとめてみる。
1.自分は絶対に「正しい」。「正しい」から「正しい」。自分を信じよう。
2.既存権力に逆らえ! 師匠への裏切りが新たな第一歩! 「師弟不二」は虚偽。
3.オリジナルブランドを創れ! 新しい価値を創造せよ! ひとりで創価しよう!

「池田大作20の視点」(前原政之/第三文明社)

→こう言ったら失礼になるが、創価学会お抱えライターの護教ブックである。
著者は立川市在住でお子さんがふたりいらっしゃるらしいが、
家は借家か持ち家か、子どもたちは創価学園に入れているのか、
など気になることも多いが(学会関連雑誌の原稿料は高いと聞く)、
本書には書かれておらず、まさかメールで聞くわけにもいかない。
創価学会や池田大作名誉会長には裏と表があるでしょう。
表はびっくりするほどきれいだけれど、裏はおどろおどろしいという。
わたしは創価学会の、いわゆる黒歴史に惹かれるタイプだ。
本部職員や幹部、学会系有名人、作家、ライターに質問したいのは、
どこまで本心なのかということだ。
創価学会とはビジネスやしがらみでどうしようもなくつきあっているものもいよう。
人間は食っていかなければならないし、
血縁は大事だから本音はなかなか言えない。

本書は創価学会の池田大作名誉会長の礼賛本だが、著者はどこまで本音なのか。
いくら親友になっても教えてくれない秘密だろうが、
本心とビジネスの割合はどうなっているのだろう。
本書は「本心1:ビジネス9」なのか。「本心5:ビジネス5」の半々なのか。
「本心100%」だったらマインド・コントロールされているわけで、
しかし、それがいけないと言いたいのでもなく、
公式的には「池田先生は完全無欠の正義」
とビジネス的には言わなければならないのはわかる。
ビジネスで学会と関わっている人は墓場まで秘密を持っていかなければならない。
とはいえ、優秀な著者のこと。
創価学会や池田名誉会長のブラックサイドもまさか知らないわけではないだろう。
どこまでが本心で、どこまでがビジネスなのだろう。

人間は二面性があっていいのである。裏表があっていい。
むしろどこまで正反対の矛盾をかかえこめるかが、その人の魅力とも言えよう。
「池田先生は絶対正義」などと言っている末端信者のおばさんは、
それは善人には間違いないのだろうが人としての味わいに欠けるところがある。
ほかの池田礼賛本にも書いてあったが、
そういえば宮本輝も小説でそんなことを何回も書いていたと記憶しているが、
名誉会長の名言とされるものに以下のきれいごとがあるでしょう。

「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない」(P152)

裏表で言えば表の極めてオフィシャルな否定されにくいきれいごとだ。
しかし、池田先生の本音の教えは「勝って、勝って、勝ちまくれ!」でしょ?
だれかが勝つということは、かならずだれかが負けているのである。
本書でも学会員のサッカーコーチが池田先生の名言に励まされ
チームを優勝に導いたという美談めいたものが書かれていた。
しかし、あるチームが優勝したということは、
ほかのたくさんのチームが負けたということにほかならない。
他人を不幸にしない自分の幸福などめったにないと言ってよかろう。
宮本輝が芥川賞を取ったせいで(幸福)、
どうしてもほしかった芥川賞から見放されたものもいるのである(不幸)。
だが、こういった矛盾したことを言うのが池田名誉会長の魅力かもしれない。
わざと自分が負けることで他人を幸福にすることもあろう。
しかし、勝てというんだから、これは絶対矛盾だが、
こういうはちゃめちゃなことを平気で言えるのが
日本最大の権力者の証なのかもしれない。
人を不幸にしないで勝利せよ、というのは難問だが、
そういう問いに深く悩まないことが学会の信心なのかもしれない。

池田名誉会長の黒歴史ではなく「正史」で有名な美談がある。
池田少年の小学生時代の恩師、檜山先生の話だ。
池田先生は修学旅行のとき檜山先生から小遣いをもらったという。
これは池田だけではなく、ほかの児童ももらったのだが、まあ恩というやつであろう。
檜山はのちに栃木の小学校に校長として赴任する。
池田先生はこの恩を長らく忘れず付け届けを忘れなかった。
そのうえさらに出世して創価学会の会長になった際、
わざわざ自分の講演会に檜山先生を招待して感謝を表明したという。
「わが栃木にいらっしゃる恩師に万歳三唱を!」
むかしの生徒からこのように恩を示された檜山は感動で泣いたという。
しかし、溝口敦氏の「昭和梟雄録」によると、これには裏があるのだという。
ありきたりの善人である檜山が帰ったあと、池田は側近にこう言った。
これは創価学会の公的文書にもきちんと記録されているとのこと。
溝口敦氏は裏をしっかり取る優秀なジャーナリストだから本当のことだろう。
池田は表では檜山を絶賛したが、裏では――。

「あの先生は、[池田の地元の]鎌田で、戸田先生(城聖、二代会長)の時代に、
小泉さんや辻さんや原島さん(ともに最高幹部)からも折伏され、
なかなかきけなくて、
(栃木県に)逃げていったということも覚えておくように」(「昭和梟雄録」P351)


この裏話を耳にした側近は大爆笑したことだろう。
こういう裏表のあるところが池田先生のおもしろさなのである。
池田さんの表はどちらかと言えば退屈だが、裏を知ると人間味があってたまらない。
どうして創価学会は池田大作さんのブラックな面を表沙汰にしないのだろう。
それは内部に入って、出世していくうちにわかっていくものなのだろうか。
本書の著者は、どのくらい池田先生と創価学会の裏をご存じなのか。
学会ライターの著者が敵対する日蓮正宗法主の日顕を悪罵する文を読んだことがある。
ああいうのはどこまでが本心で、どこまでがビジネスなのか。
よほど洗脳されていないかぎり、
そこまで日顕は悪ではないというのはわかると思うのだが。
むろんのこと、日顕が善ということも断じてないのだが。
著者は池田先生の写真のことも称賛していたが、あれもまたゴーストでしょう?
それは矢野絢也が暴露していたが、学会内部に長くいればわかるはずである。
本書はビジネスが90%くらいで書かれているのだろうか。
それともあんがい学会員でも学会のことを知らないのだろうか。
知らないふりをして身の保全を守るのが学会員の生き方なのか。
小学校時代の恩師の悪口を言う池田先生は
人間味があって最高におもしろいと思うけれどなあ。
池田大作にとっては恩師への感謝も、恩師への皮肉もどちらも本当だったのだと思う。
なぜなら恩師へ感謝すれば講演会の聞き手は感動するだろうし、
本音を口にすれば今度は側近が大笑いするからである。
真実とは人を喜ばすこと、楽しませること、
そして感動させることであることを池田はよく知っていた。
真実などないかもしれないことを池田名誉会長はご存じでいらした。

学会員はネットで悪口ばかり書かれているが、
言うまでもなくいい面もあり、以下のような長所は本当にまったくそうだと思う。

「たとえば日本では、町会・自治会・商店会・老人会・PTA等の役員・
民生委員・保護司など、さまざまな形で、
地域のために進んで活動に励んでいる学会員が多い。
地域共同体が崩壊の危機にある日本社会にあって、
学会員たちがその崩壊を食い止めている側面があるといえよう」(P43)


近所の荒川土手の落ち葉拾いをしてくれているのも学会員かもしれない。
わたしが創価学会を好きになったきっかけは、
むかし友人の家を訪ねふたりで痛飲した帰途、お腹が痛くなり、
学会の会館に頼んだら泥酔者にいやな顔ひとつせずトイレを貸してくれたからである。
え? そんなことで学会を好きになるの?
と思われるかもしれないが、事実だから仕方がない。あれはピンチだった。

「昭和梟雄録」(溝口敦/講談社+α文庫)

→著者は「梟雄(きょうゆう)」を
「英雄というのは難がある、ひと癖ふた癖持つリーダー」
ぐらいの意味で使っているという。
まあ、わたしの言葉にしたら「裏も表も激しい、骨太で因業な人」になるのかな。
もっとかんたんに言えば、「変な人」ってことだけど、
むかしはおもしろい人がいたよねえって話。
いまはみんな小粒で巨悪もしないし、妙に小市民たることで満足しているのでつまらない。
めちゃくちゃをやる人がめっきりいなくなったが、むかしは楽しかったよねえって本。
矢野絢也、山崎正友、池田大作も紹介されているので創価学会暴露本として読む。
元公明党委員長の矢野絢也は悪人だってうわさもあるようだねえ。
いえ、悪人でいいのよ。わたしは善人よりも悪人のほうが好きだから。
以下引用の蛭田という男は矢野絢也の悪友のひとりである。

「学会員の蛭田は一九七八年、
矢野がそのころ極秘裡に進めていた反池田の情報リークに同調、
その別動隊役を買って出た。
つまり某新聞に一億円出資する約束をもって反池田の月刊誌を創刊させた。
が、結局は二千万円しか払わず、その雑誌社を倒産させた」(P299)


池田大作はよくもまあ、最後の最後まで権力の頂点でいられたものだと感心する。
池田に忠誠を誓いながら恨んでいたやつなんていっぱいいただろうから、
いつ足を引っ張られてもおかしくなかったのだが、
池田先生が最後まで勝利人生を送れたのはだれも人間を信用しなかったからだろう。
いっぽうでお人好しだったと本書で書かれているのが、
池田代作に利用し尽くされ、
刑事罰まで受けた創価学会元顧問弁護士の山崎正友である。
この本の写真ではじめて山崎正友の顔を見たが本当にお人好しそうなのである。
山崎正友が矢野絢也のように悪人だったら、もう少し世をうまく渡れただろうに、
結局末端学会員とおなじで善人は貧乏くじを引かされるのかもしれない。
司法修習生時代に山崎正友と同期だった弁護士はこう証言している。

「[山崎は]およそ物欲がなく、持っているものは全部出すタイプですよ。
腹に一物がなく仲間と楽しむことが好きな人間でしょう」(P317)


創価学会の裏っていったいどうなっているんだろう。
山崎正友は創価学会から3億円恐喝したとされている。
しかし、恐喝されたと主張している創価学会顧問弁護士たちと山崎正友は、
じつのところ3億円の支払い中も仲良く麻雀をしていたというのだから。
あるいは山崎正友のほうが学会による「でっち上げ」事件の被害者なのかもしれない。
暴露本をよく読み他の本やネット情報と丹念に比較調査すると、
創価学会が「悪」と主張しているほうが「お人好し」であることに気づく。
わたしは「善」よりも「悪」が好きだから善人よりも巨悪団体をひいきするけれど。
創価学会によると極悪人とされる山崎正友の同期の弁護士はこう言っている。

「領収書も要らないような、これほどの金が山崎に渡っていたんです。
ふつうの人間なら、ちょっと工夫して田舎に別荘つくるとかできた金ですよ。
だけど山崎は何ひとつ財産をつくらなかった。
別荘どころか、いまだかつて一度たりと家を持ったことがない」(P326)


比して矢野絢也や池田大作の豪邸や個人資産といったらどうだ。
事実かどうかわからないが、
本書によると選挙の創価学会員票(関西)を仕切っていたのは矢野絢也で、
この三色の組織票は600万程度では買えたかったという。
金を支払って見返りがなくてももともと違法だから訴え出られないのである。
熱心に選挙活動をしている学会員さんが、
創価組織票が高値で売り買いされている事実を知ったらどう思うのだろうか。
とはいえ、わたしも公明党支持者だから、末端のお人好しのひとりである。
まったく池田大作名誉会長はどれほどの人を救い、そして地獄に落としたのだろう。
ちなみに宗教的な救済とは「死ぬまでだます」ことである。
「池田先生、ありがとうございます」
と言いながら死んでいった人が大勢いることもまた事実なのである。
池田名誉会長を創作したのは二代目会長の戸田城聖である。
戸田と池田の関係を著者はシニカルな筆致で描写するが、そこがおもしろい。
当時は人生の零落者に過ぎなかった戸田を
師と仰いだ池田は先見の明があった、とも言えよう。
それは偶然だったのか、必然だったのか。

「おそらく池田には、戸田に対抗できるほどの素養も体験もなく、
しごく簡単に戸田に篭絡(ろうらく)されたと見られる。
戸田は苦学して小学校教師になった人物だが、戦前には事業に転じ、
最盛期には出版や醤油問屋、証券業など十七の会社を支配し、
資産六百万円を数えたという。また彼が受験塾「時習学館」を開設したことや、
戦前の学習書のベストセラー『推進式指導算術』を
者したことはかなり広く知られている。
同時に彼は愛憎の海に漂った人でもあり、三角関係や妻子の死を味わい、
公然と愛人を持っていた。そのうえ、大酒飲みで結核を患(わずら)い、
キリスト教に救いを求める一時期も経ている。
いわば人生の酸いも甘いも噛み分けた人間であり、
池田がそういう人物に頭から呑(の)まれてしまったのも無理からぬことだろう。
そのため池田は朝鮮特需による世の好況をよそに、
上下動が激しくヒバリ天と仇名(あだな)された戸田のどん底時代を、
戸田の忠実な腰巾着(こしぎんちゃく)として過すことになった」(P370)


なんでこんなに著者は学会が嫌いなのだろうといぶかしむほどの、
悪意あふれた名文であり、「師弟不二」というきれいごとの裏側の的確な描写だ。
いまうまくいっている成功者に従ってもおいしくないのかもしれない。
いまは零落しているがこいつはすごいと自分が信じた人に賭けるのも一手だ。
だとしたら、成功者の池田大作を先生とあがめる信者は
池田マインドをまったく理解していないと言えなくもないだろう。
池田は当時だれからも見放されたアル中の戸田を師とみなしたのである。
自分が信じた人に全身で賭けることができたのが、池田の大勝利の理由だろう。
人生のどん底にいるボロボロの人を師と尊敬する若者がいまいるだろうか。
やはり池田先生は本物を見抜く目があったとしか言いようがない。
戸田はウラボロとバカにされるボロボロのスーツをまとった人生の敗残者だった。
みんながみんな彼から離れていったのである。
しかし、池田名誉会長はこの人は「すごい」と信じておのれの人生を賭けた。
池田大作は賭けに勝ったと言うことができよう。
損得や打算ではとてもできないことを池田青年はしたのである。
みんなが「偉い」とほめている人を尊敬するのはリスクもなく安全である。
みんなが見放したズタボロの人格破綻者を師とした池田先生も、
ならば戸田先生同様に本物の人間だったのではないか。

以上は創価学会関係者で、それ以外のものでおもしろいと感動した人物がひとりいる。
豊田商事事件の主犯として知られる永野一男会長である。
純金を使った詐欺行為を全国で働き大金を稼ぎ、
最後はじゃっかん32歳でなにものかにテレビの目のまえで刺殺された男である。
この人はおもしろいなあ。犯罪者をほめてはいけないが、なかなかの人物だと思う。
例によって不幸な生い立ちで、「先が見えた」と表の社会に見切りをつける。
永野一男会長の名言は池田名誉会長のようでとてもいい。

「商売の原理は相手に損をさせて必ず金を儲けるのが基本なわけですね。
ですから日本として成長したいんだったら、たとえばアフリカとか、
東南アジアを見てかわいそうだというんじゃなくて、
徹底的にいじめなきゃダメですわね」(P183)


だれかが得をしたらだれかが損をする。
だれかが損をしたらだれかが得をする。
だれかが勝ったらだれかが負ける。
だれかが負けたらだれかが勝つ。
永野一男会長は家族愛を知らずに育ったという。会長の無名時代の話である。

「上司の家に招ばれてエンドウ豆ご飯を食べた際、
こんなうまいもの初めて、といったこと。
家庭をなぜ持つかと問い、ぼくには愛情なんか分らないとつぶやいていたこと……
などなど、若い永野は人の世に揉まれて悩み、傷つきながら、
後年、毒々しいまでに開花させる徒花(あだばな)の土づくりに入っていく」(P184)


永野一男会長は派手な外車を数台、セスナまで所有し、
愛人は日本全国に4人いたという(愛人報酬は月百万円)。
そのうちの愛人のひとりの証言だが、これが泣かせる。

「[永野会長は]ほんとの好みをいえば、夏木マリみたいなボインがいいって。
でも、愛人として長くつきあうのは、地味でひかえめな女性でした。
セックスは上手で、何時間でも続けられたけれど、あの人が安らぐのは、
私のペッチャンコの胸に赤ちゃんみたいに抱かれる時だって……。
でも、子供とか家族とかは絶対にいらないと言って、
いつも避妊具を持ち歩いていましたが、
昨年初め、ほかの人との間に子供ができたっていってました」(P185)


永野会長の会社の営業マンで月6千万も稼いだものがいるけれど、
会長の死ですべてがうやむやになった戦後史のなぞの事件のひとつだ。
永野会長が好きだ。池田会長も戸田会長も、山崎正友も矢野絢也も好きだ。
昭和の梟雄(きょうゆう)たちは平成のいま、どうしてこうも輝いて見えるのだろう。



「別冊宝島225 となりの創価学会」(宝島社) *再読

→十数年まえブックオフでこれを105円で買えたときは嬉しかったなあ。
いまは文庫版もあるらしいけれど、原本からはカットされた部分もあるとのこと。
創価学会に興味を持ったのは宮本輝が好きで好きでたまらなかったんだよね。
そこで創価学会というワードに生まれてはじめて引っかかった。
だから、わたしは25、6歳になるまで創価学会という宗教団体さえ知らなかった。
宮本輝のファンクラブ掲示板に創価学会ネタを書きこんだから即刻削除。
創価学園の先生をしているとかいう女性からメールが来たものである。
そこで宮本輝が創価学会でやった体験発表のテープや
聖教新聞(創価新報だったかな?)のコピー、
宮本輝のインタビューが掲載された「第三文明」(2000年1月号)を送っていただいた。
「第三文明」はおもしろくていまトイレにおいて何度も読み返して笑っているんだけれど、
学会員ってあんな雑誌を他人に渡して「ドン引き」されないって自覚がないのかな。
当時は宮本輝のところしか読まなかったけれど、
日顕批判や山崎正友の吊し上げにふつうの人なら「ドン引き」するっしょ?
そこらへんは創価学園の先生ともなると麻痺しているのかなあ。
当時、創価学会で流行していた折伏らしいけれど、
「リンゴ(学会)は食べてみたいと味がわからないじゃないですか?」
みたいな文句がメールに書かれていたけれど、ぜんぜんしつこくなかった。

いまは戸田城聖や池田大作のような人はいないのだろうか?
よおし、いっちょこいつを折伏(しゃくぶく/勧誘)しちゃるか、みたいな熱い人。
結局、創価学会のどこがすごいかといったら人間パワーでしょ?
池田先生の本なんか読んだって、ちっともおもしろくないんだから。
それはそうで、あれはゴーストライターが書いているきれいごとなわけで。
この人はすごい! と尊敬できるような人はいまの最高幹部クラスにもいないの?
ここで問題になるのが、人間パワーというのは肩書ではないこと。
池田先生は外部に出るのを恐れていたそうだけれど、
外部(世間)は肩書の世界だから、名誉会長だって言っても、はあ? って話。
どこぞの短大を出たあなたがどうして偉いんですか? となってしまう。
これは池田先生ではなくトヨタの社長だっておなじわけ。
トヨタの社長は内部では偉いのだろうけれど、
たとえばわたしのまえに出てトヨタ社長だって言われても、はあ? だから。
「毎年、たくさん交通事故で人が死んでいますが、何割くらいかトヨタなんですか?
罪悪感とかないんですか? 死んだら地獄に堕ちるとか考えたことがありますか?」
こんな失礼なことを聞いてしまいかねない。
しかし、日蓮正宗法主の阿部日顕だっておなじで
わたしは彼を偉いともなんとも思わない。
クソ坊主が、とまでは思わないけれど、
高そうなメガネをしてんな、くらいは思うかもしれない。
折伏は肩書や教養ではなく、人間パワーの勝負になると思う。
ブログでこんな生意気なことを書いているわたしをさ、
このやろう、正しい仏法で破邪顕正してやる、ぶちかましてやる、
という勇士は男女ふくめて創価学会にはいまいないわけ(一対一勝負)?
顕正会でも法華講でもいいけれどさ。メールボックスを開いてもいつも空。
女子高生でもいいんだから、わたしの敵性思考を矯正、指導、折伏してほしいなあ。

ここまで創価学会が広まった理由のひとつに「正しい」コンプレックスがあると思う。
「正しい」ことに対する劣等感である。
こう言ったら怒られるかもしれないけれど、創価学会は庶民派集団だから、
言っちゃ悪いけれど、あまりお勉強はできない人が多かったような気がする。
学校のお勉強というのは「正しい」ことを知ることでしょう。
学校では「正しい」ことを言うと「先生」からほめられる。
昭和の創価学会に入るような人たちは、
あまり勉強ができないことへのコンプレックスがあった。
「正しい」ことへの劣等感や、先生からほめられる優等生への嫉妬があった。
個人的な意見を言うと、勉強はあれは持って生まれた適性だから、
勉強ができなくても努力してないってわけじゃないし、
みなさまもご存じのよう勉強ができなくても金を稼いでいるやつはいっぱいいる。
けれど、先生にほめられるという経験に飢えているものはいたと思うのである。
先生の「正しい」指導に従ってほめられたいという願望だ。
これが創価学会を急成長させた理由のような気がしてならない。
学校の先生ではない世間の先生、庶民の先生から
「正しい」ことを指導され、なおかつその先生から「よくやったね」とほめられたい。
熱心な学会活動家というのはミニミニ池田先生になっているわけでしょう(男子)。
もしだれかがだれかを落とした(折伏した)としたら、
それは池田先生の真似をしたということでしょう。
(まあ池田先生自身は折伏が下手で真言宗の父親を落とせなかったらしいけれど)
けれども、戸田先生に逢って一発で落ちたような人もいたわけでしょう。
池田先生に対面してその場で人間パワーに負けたと思った人もいるかもしれない。
いまの創価学会にはそういう人はいないのだろうか?
5代目会長の秋谷栄之助氏は戸田城聖に逢って一発で落ちたという。
秋谷氏は二代目会長の戸田のことをこう説明している。

「人格を言葉にするのは非常にむずかしいのですが……。
戸田先生の存在そのものに圧倒されたと言いますか。
物事の本質をズバリと突き、すべてがわかっている方だなと思いましたね。
話をされるにあたって、飾ったきれいな言葉を使おうとか、
自分を偉く見せようだとか、そういった小細工をいっさいせず、
本質を捉(とら)えた話をされる。
だから、人間として本当のことを言ってくれる、そういう方だなと。
私がそれまで出会った教師や指導者たちのなかには、
戸田先生のような方はいませんでした」(P172)


わたしだってそういう「すごい人」と会ってみたいと思う願望はある。
男子部でも女子部でも、……壮年部は説教くさそうでいやだな。
20年まえに出た本だけれど、壮年部って学会でいちばん嫌われているらしいね。
ひでえ折伏をするらしい。

「折伏の現場に呼ぶと、
「いま信心しないと、キミ一生うだつがあがらないよ!」
などの暴言を吐き、相手を怒らせてしまう」(P31)


本書に壮年部(中年男性)のイラストが載っているのだが、ちょーおもしれえ。
いまでもいそういそう、って感じがする。
個人指導ってわけわかんないよね。
なんで、おれがおまえに指導されなきゃなんないのって話で。
指導という言葉の背景にはやはり「正しい」という観念があるわけでしょう?
「正しい」ことを指導する。「正しい」生き方を指導する。
でもでもさ、「正しい」生き方なんてないかもしれなく、
そう思っているわたしを折伏できるとしたら――。

「私の話を聞かない者は頭破七分(ずはしちぶ)になるぞ(頭が七つに割れる)。
この宗教を信じなければ何もうまくいかないぞ」(P15)


55年にはこんなめちゃくちゃな折伏をやっていたらしい。
いまは罰論(ばちろん)による折伏は禁止されているらしいけれど、
実際やっている人はやっているでしょう?
そのとき勝負になるのは確信の人間パワーだと思う。
いやあ、人生は偶然で運だ、と相手が強く確信していたら折伏できない。
だから、折伏は確信レベルの勝負のような気がする。
ぶっちゃけ、いま創価学会の信心を大確信している人なんか最高幹部にもいるわけ?
みんなネットでばらされちゃっているじゃない。
ヤクザとのつながりまで暴露されて、
そこがおもしろいっていう当方のようなものも折伏できないわけなのかしら。
むかしの折伏でけっこうこれがあったのではないか。

「私と結婚したいんだったら、信心しなさい。そうしなければいや」(P17)

まあ、もてない男はこれで一発で落ちるよね。
わたしを落とせるとしたら、これしかないかもしれない。
本当は「すごい人」に出逢って敬服して指導を求めたいところだけれど。
でもさ、二世三世はわかるけれど、いま創価学会に入る青年なんかいるのかなあ。
いるのかもなあ。

「学会の幹部だといっても、その肩書は一般社会では通用しませんよね。
それなのに、幹部になりたがる人がいます。
指揮を執りたいのか、仕切りたいのか。
社会で活躍していない人ほど幹部になりたがる傾向にある」(P23)


わたしは折伏されてもスリープし続ける自信があるけれど。
幹部とか役職とか絶対したくないし、そもそも人を指導なんてできないよ。
創価学会本部の幹部は「正しい」指導とかしているんでしょ?
いったいどんな根拠があって偉そうに他人様を指導できるのだろう。
池田先生なんか世間ではキンコマンコの人だし(そこがおもしろいのだが)、
日蓮大聖人って言っても、日蓮の主張が「正しい」根拠はどこにもない。
それに学会って上に行けば行くほど忙しくなるから本を読む時間もないでしょう?
ものを知らないで人を指導するのって怖くない?
むかし貧乏人の息子が折伏に行ったらこう言い返されたらしい。

「あんたの家が幸せになったら信心してあげるよ」(P11)

いまの学会の座談会ってじいさん、ばあさんばかりなんでしょう?
嘘くさい体験発表をして拍手して涙を流しているという。
そういう異世界を見てみたい気もしなくはないが、だれも誘ってくれないんだもん。
いまって骨太の人が減ったような気がする。「すごい人」がいない。
田中角栄みたいなやつっておもしろいじゃん。池田大作や戸田城聖もそのタイプでしょ。
橋下徹とかホリエモンとか、尊敬しろって言われてもねえ。
つまらない時代になったのかもしれない。
池田先生がいた(いまもいるか)むかしの創価学会はおもしろかったのだろう。
いまは学会の裏もインチキもばれてしまったが、
一発逆転するにはそれをギャグとして、
「うちって黒いっしょ」っと逆手に出るしかないような気もするのだが、
いまは老人ばかりになった古株信者が絶対にそんなことはさせないと思う。
池田大作さんってサブカルの人として見たら、
いまでもすごい輝きを放っているのだから、もったいないような気がしてならない。
クリーンになりすぎてしまった現在、池田先生の薄気味悪さは異彩を放っていて、
これを創価学会が逆利用したら奇跡の大逆転も起こるような気もするのだが。

どうでもいい豆知識を少々。
学会では選挙活動でカップルが生まれることが多いらしい。
ちゃんと功徳があるいい宗教なんだから、もっと自信を持って!
あと20年まえの本部職員(30代前半)の年収は500万。
本部職員ってなにしているんだろう。
テレビやネットをチェックしているだけだろう、なんてうわさもあるけれど。
創価学会員はとにかく池田先生の本と聖教新聞しか読まないらしい。
別冊宝島が池田大作インタビューを依頼したら、
ゴルバチョフや中村元クラスとの対談でなければ、
先生は出せないと広報部から言われたってさ。うわっ、それ増上慢じゃね?
折伏大行進時代の創価学会って、きっととてもおもしろかったのだろう。
いまではバッシングするのがかわいそうなくらいに弱っているのかもしれない。
学会員よ、広宣流布はどうした! 折伏をして福運を積め!
会員ひとりひとりの信心が足らんから池田先生がいま落ち目なのだ!
戸田先生は言った。
毎日3時間題目を上げ、毎日ひとりの折伏をしたら、かなわない夢はない!
いまの若いもんは(中年のわたしもそうだが)夢がないのでおっさんはプンプンだ。