「心に突き刺さるショーペンハウアーの言葉 人生、孤独、悩み、恋愛ほか」(金森誠也:編訳)

→金と時間がたっぷり使われたショーペンハウアー好きの書いたいい本を読んだ。
わかりやすい解説のついたショーペンハウアーのアフォリズム(箴言集/名言集)。
結局、金と時間なんだよなあ。
莫大な金と膨大な時間をつぎ込まないと商品から作品、
思想、哲学まで本当にいいものはできない。結局、人生とは金と時間なのではないか?
多くの人びとは金と時間に追われてあくせくしている。苦しんでいる。
しかし、それは本当の恐怖である退屈と孤独を
見ないための最良の方策なのかもしれない。
金と時間がごまんとあったショーペンハウアーは、
そういう真実を直視し表現する強さがあった。
彼は生活苦にさいなむ庶民から八つ裂きにされかねないことを口にしているが、
彼の言葉の真実性を切実に身をもって感じうるのは庶民のほかにはいないだろう。

「すべての苦しみを地獄のなかに移し替えたあとでは、天国には退屈しか残らなくなる。
このことは私たちの生は苦しみと退屈以外のものからは
成り立っていないことを証明している」(P90)


仏教では天国を天界というが、
すべてにおいて不足や苦労のない金も時間もあるこの境涯は、
退屈という地獄界に落とされているとも言いうる。
いつも「忙しい」が口癖のおじさんやおばさんに大金を与え職を奪って暇にしたら、
かなりのパーセンテージで彼(女)らは発狂するだろう。
ニートなんて病気でもなんでもなく、できるほうが天才なのである。
ニートはニート状態に苦しむらしいが、
これで苦しまず平穏でいられるものがむかしは悟った坊さんとされていたのだ。
時間がない、金がない、と口走っているうちが華で、
いざ生活苦から解放されたら人間は退屈と孤独につぶされ発狂しかねない。
ニートの神さまショーペンハウアーは言う。

「富豪や貴族の生活は実際には退屈に対し、持続的で、
しかも絶望的な戦(いくさ)をいどんでいるだけのことである。
他方下層階級の民衆の生活は困窮に対する絶えざる戦いである。
幸福な中産階級よ!」(P91)


適度に金がなく時間もなく、
しかしそこそこは金も時間もある中産階級がもっとも幸福なのである。
金持は退屈と孤独に苦しみ、
貧乏人は貧窮困窮に苦しみながらも借金等で濃密な絆に縛られる。
ならば、いちばんいいのは中産階級ということになろう。
まったく本当にショーペンハウアーの言うように人生は、
苦しみか退屈かのどちらかである。

「人間の幸福の二つの敵は苦しみと退屈だということは明らかである。
これにつけ加えて注目すべきなのは、
私たちが二つの敵の一つから遠ざかることに成功すると、
もう一つの敵が近づいてくることだ。そしてその逆もまた正しい。
したがって私たちの生活は、この両者の間を強さ弱さの違いはあれ、
振動している状況にほかならない」(P111)


貧乏人が宝くじを高額当選したって、困るだけでしょう?
仕事をしないでいいとなったら、やることがなくなってしまうんだから。
朝から酒を飲んでテレビを見ていても、さほどおもしろいとは思えない。
高額当選が貧乏仲間にばれないか冷や冷やドキドキである。
投資をしようと思っても仕組みがわからないし、
銀座で豪遊しようと思い立っても慣れていないからうまく楽しめない。
結局、孤独になり退屈な時間を持て余すようになる。
金があるやつに寄ってくるのは宗教の連中である。
(どうでもいいが、わたしは人生で一度でさえ宗教勧誘されたことがないってどんだけ?)
ショーペンハウアーは宗教もまた暇つぶしとして悪くないといった不穏なことを書く。
宗教は退屈対策のいい暇つぶしである。

「神々や霊への奉仕はいたるところで現実の生活と入り交じっているばかりか、
現実の生活を曖昧(あいまい)なものにしてしまう。
さらに生活のなかに現れるすべての事件は、
実は神々や霊の作用であると見なされる。
これらの超地上的存在との交渉は生活のなかの重要な要素であり、
絶えず希望を抱かせる。そして幻想の魅力によって
現実世界の事物以上に関心と興味の的となることもしばしばである。
これらの存在は一方で援助と救いを求め、
他方では雑事とひまつぶしを求める人間の二重の欲求の現れである」(P43)


なーんか、とんでもなく身もふたもないことを、
ショーペンハウアーとかいうおっさんは言っているなあ。
お金持とかで変な宗教にはまる人ってたまにいるよねえ。
あの資産家もあの政治家も(……ごにょごにょ)。
そして退屈や孤独に苦しむと、人は幸福アピールを始めるようになる。
いまならフェイスブックやツイッターに、
高級グルメ写真や有名人と一緒写真をあげるようなものか?
しかし、それは本当に幸福かしらとショーペンハウアーは問う。

「自分が他人の目にどのように映っているということではなく、
自分自身に内蔵されているものの価値を正しく評価することこそ、
私たちの幸福に大いに寄与するのだ」(P139)


まあ、それは金も時間もあり、そして才能にも恵まれた男だから言えることなのだが。
一見すると、孤独は苦しみのように思われがちだが、
孤独は自分という宝庫へ分け入る抜け穴ではないか。
すべてが自身のうちに詰まっているのではないか。
宝物や宝石は外にあるのではなく、ほかならぬ自身のうちにひそんでいるのではないか。

「だれしもおのれ自身の本性を維持し、
おのれ自身のために物事を行うのが最善のすぐれた道である。
人はおのれ自身であればあるほど、
したがっておのれの楽しみの源泉を
おのれ自身のなかに見出すことが多ければ多いほど、
それだけますます幸福になる」(P120)


乱交するよりも孤独な自慰行為のほうは豊かではないかという主張であろう。
変態的なことを書くと、
女性の自慰中の妄想こそエロの源泉のような気がしてほかならない。
どんな過激なプレイよりも、おとなしい女性の自慰妄想の中身のほうがエロいと思う。
こういう発想をできるのは、男たる自分のなかに少女も熟女もいるからなのだが。
自分のなかにすべてが詰まっているのではないかというのは、
大乗仏教とショーペンハウアーに共通する思想である。
いまいちばん金がかかるのは交際費でしょう?
このまえバーミヤンのまえで若い男女がワリカンにするかどうかで喧嘩をしていた。
顔面偏差値40程度の醜い男の言い分はバーミヤンでワリカン。
顔面偏差値50程度の女の言い分はワリカンなら帰る。すごい修羅場を見た気がした。
しかし、これが現実で交際費ほど金のかかるものはなく比して孤独は金がかからない。

「おのれのなかに多くの富をたくわえ、
おのれの本質保持のために外部からごく少量の財貨の流入しか必要としない者、
あるいは何の流入も必要としない者は最も幸福である。
なぜなら外部から何物かを受け入れることは費用もたくさんかかるし、
束縛されいやな気持ちになる危険もあるからだ」(P119)


「考えるな!」というのは、おそらく正しい。
踊り念仏の一遍上人もしきりに「考えるな!」と言っている。考えるより念仏せよ。
金と時間を持て余した人間が考えることと言ったら、
他人との比較や孤独感、そして死への不安と相場が決まっている。
ショーペンハウアーのような哲人にしか金と時間を与えるな。
考える人はショーペンハウアーのような天才だけでいい。
凡人は金がない、時間がない、といつもあくせくしているのがむしろさいわいなのだ。
あり余る金と時間ほど怖いものはないことをショーペンハウアーは知っていた。
しかし、彼は金と時間がもたらす退屈にも孤独にも打ち克ったと自称する。

「親ゆずりの財産はそれが高尚な種類の精神的能力を備え、
金儲けとはおよそ縁がないような物事に取り組んでいる人々の手に渡ったとき、
はじめて最高の価値をもつようになる。
なぜならそうなるとこの種の人々ははじめて運命によって二重に恵まれることになり、
おのれの素質を十分に発揮できるようになるからである。
彼らは他人のできないことをなしとげ、人類全体の利益となり、
名誉となるような何物かをつくり出すことによって、
おのれの人類への債務を何百倍にもしてお返しすることができよう」(P129)


ショーペンハウアーは学者を自称していたが、
大学に所属していたのは32歳からの13年間だけである。
それもずっと講師という身分で、彼を慕う学生はほとんどいなかったという。
ショーペンハウアーが世間から認められたのは還暦(60歳)を過ぎてからである。
それを見越したかのように男は皮肉めいたことをそれ以前に書いている。

「名声は長つづきするものであればあるほどそれだけ遅くやってくる。
なぜならすべてすぐれたものは、
ゆっくりと育ってゆくのと同じ事情にあるからだ。
後世までとどろくような名声は、
種子から始まってゆっくりと成長してゆく樫の木に似ている。
一方、はかない名声は一年間ですぐ成長する植物であり、
誤った名声にいたってはすばやく伸びて見せるものの、
いち早くほろび去る雑草のたぐいである」(P154)


名声っていったいどんなものなのだろう?
手弁当で書いた記事をアップすれば毎回のごとく批判愚弄嘲笑コメントが舞い込み、
ネットのみならずプライベートでも
孤独や寂寥感、倦怠感にさいなまされている当方には想像もつかない。
こんな長文記事、だれも最後まで読んでいないだろうから書くけれど、
書籍購入費と労賃(都最低時給換算)だけでも、
ブログ「本の山」には1千万どころではない投資金額がかかっている。
広告報酬なんて月々数百円だから、
なんのためにこんなブログを10年以上しているか自分でもわからない。
ショーペンハウアーの本を読むといつかわかる日が来るような錯覚にとらわれてしまう。

「ただ遊べ 帰らぬ道は誰も同じ 団鬼六語録」(団鬼六/祥伝社新書)

→いまは亡きSM作家の巨匠の名言集を、
酒をちびちびやりながら快楽の極みとして読む。
ほろ酔いで他者(書籍)と、
とろとろに向き合うことほど生きる楽しみを感じることはない。
巨匠は巨匠だから男女関係の色恋の機微をうまく表現するのである。

「ホントのエロとは、ひとことでいえば、
女性はひたすら隠し、
男性はひたすら隠されたものを見ようとするところから
生まれるものなんです」(P37)


スカートをはいた女子がなかの下着を価値あるものだと知ったとき、
ホントのエロが生まれるのだろう。女は、まず隠せ!
隠して隠して隠微(いんび)したものをチラリと見せるのがエロである。
ハプニングがおもしろいのかもしれない。
いままで隠されていたものがハプニングであらわになってしまったときの時めき。
日々の安定ほど退屈なものはないとも言えよう。

「……安定してしまうと、何となく毎日が面白くないんですよ。
こんなちまちま暮らしとっても仕方がなという気になってくる」(P66)


世間的な幸福は、恋愛成就、家族円満、健康長寿であろう。
これは法律で決まった幸福感とも言えなくもない。
団鬼六はそこに反旗をひるがえす。

「俺やったら楽しいことがあったら
明日死んでもええやないかとダーッとやるのが幸せなんやな」(P80)


SMプロ作家、つまりその道のプロが意外なことを白状するのだから。

「実践派だから学問的なことはわかりませんけれど、
僕には本当の恋愛もなかったし、最高のセックスもないんです。
いつも欲求不満だから書く」(P233)


著者はSM世界という男女の処女地を開拓したパイオニアである。
多くの批判も受けただろうが、さぞかしいい思いもしたことだろう。
いったいどうしたら新しい分野に一番乗りできるのか。
人生で多少なりとも人とは違ったおいしい思いをしたいならどうすべきか?
団鬼六は言う。

「新しく出ていく者が無謀をやらなくて一体何が変わるだろうか?」(P235)

いままでだれもしていないことをするのは楽しい。それは快楽である。
楽しければなんだっていい。
女をいじめても縛ってもいいし、逆に女からビシバシ鞭を受けるのがいい人もいよう。
きれいな人が羞恥心にもだえながら汚れていき、
「ああ、もうやめて」というときの色気ほどゾクゾクくるものはないのかもしれない。

ただ遊べたら。どこまでも楽しみのみを求めて。遊んで遊んで、そしてまたさらに遊べたら。

「上出来の人生だが・・・・ サマセット・モームの警句とお喋り」(森村稔:編著/産能大出版部)

→在野のモーム好きが、長年こつこつと収集したモームの名言を披露してくださっている。
「儲け」とか「評価」など関係なしに「好き」だけで書かれた本ゆえ非常によかった。
なにかを好きな人が「好き」をただひたすら追求して書いた本のどれだけいいことか。
大衆作家だったモームは無知蒙昧な大衆のことをよく知っていたのだろう。
娯楽作家のモームは大衆のおもしろさをよく知っていた。

「ごくふつうの人間が、作家にとっての沃野(よくや)である。
何をしでかすか分らないし、それぞれ妙な個性もあり、一人一人ぜんぶ違う。
そこに汲めどもつきぬ題材がある。
偉大な人物のすることは、首尾があまりにも整っている。
矛盾撞着に充ちているのは小人物。無限の味わいがある」(P9)


"The ordinary is the writer`s richer field."

わたしはもうほぼ人生が終わってしまった学のない老いぼれの敗残者だが、
モームの言っていることはなんとなくわからなくもない。
いわゆる「作家の目」で見たらごくふつうの人がいかにおもしろいかである。
ときおり突拍子のないことをするし、とにかく思った以上に親切でときに意地が悪い。
動きが読めないというのか、たしかに「沃野(richer field)」なのである。
大衆作家として大成功したモームは、大衆が信じている嘘をすっぱ抜く。
大衆をよく知っているから、大衆の御機嫌など気にせず「本当のこと」を書けるのだろう。
いわく、「艱難汝を玉にす」ほど嘘くさいものってないよねえ。
苦労したぶんだけ人は成長するとか信じているバカが多いけれどあれは絶対に嘘。
これはわたくしごときが言っているわけではなく、
世界的人気作家のモーム先生が繰り返しおっしゃっていることである。

「苦しみ悩むことによって人間は気高くなるなんて世間では言うわね。
そんなの嘘よ。苦しんだ人は、思いやりすらなくしてしまうのよ」(P14)

「人間、苦難に遭って心が洗われるなどということはない。
安楽に恵まれてそうなることは、時にあるけれども。
たいていの人間は、受難の中で心がせまくなり、恨みがましい人間になってしまうのだ」(P14)

「ある一派は、苦悩が人間を気高くする、と説く。とんでもないことだ。
苦悩は人をケチにし、愚痴っぽくし、利己的にしてしまう。
それが世の常である」(P15)


もういいおっさんのためつねにクビになるのを恐れながら、
いま埼玉県某所の時給850円の職場で細々とアルバイトさせていただいている。
東京の住まいからわざわざ埼玉県にまでわずかな賃金を求めて通っている。
成功者のモームの名言といまの自分を引き合わせてみよう。
いまの職場でいちばん思いやりがないのはだれか?
あのバイト先でもっとも心がせまく、かつ恨みがましいやつはだれか?
大勢いるパートのなかでだれよりも愚痴っぽく利己的で自己中心的なのはだれか?
――すべてわたしというほかないのである。
とすると、わたしはそんなに多くの苦難を味わったのか?
そうでもないような気がして、
いまのバイト同僚はどうしてあんなに思いやりがあるのだろう。
もしかしたら時給850円の肉体労働というのはそれほどの苦難や苦悩ではないのだろうか。
英国有名人のモームと日本人低賃金非正規労働者のいったいどちらが「正しい」のか。
バイトから帰ってくると安酒をちびちび飲みながらそのつどいろいろなことを考える。

"The ordinary is the writer`s richer field."

人間はおもしろいが、しかし人生は本当につまらない。
なんにもないのである。芝居っ気のあることはなんにもない。
少し芝居っ気を感じてこちらが動いても、あちらは乗ってきてくれない。
むろん、相手がわたしに対して芝居っ気の不足を嘆いていることもあるだろう。
現実はなんにもない。モーム先生も言っておられるむかしからの真実だろう。

「実人生が、作家に、出来合いの物語を供給することははなはだ稀である。
事実は、しばしば実に退屈なものなのである」(P81)

"It is very seldom that life provides the writer with a ready-made story.
Facts indeed are often very tiresaome."


だから、作家はおもしろいお話、つまり物語をつくるのかもしれない。
世界的なエンターテイメントの作家である英国のモームは言う。

「わたしは楽しんでもらうことを意図している。
……読者に向かって、これこれは実際にあったことだと主張してみても仕方がない。
とりあげる事実は、それらしく見えるものでなければならぬ」(P114)


大衆は「本当のこと」よりも退屈ではない出来合いの物語も求めるものである。
大衆は(あるのかどうかわからぬ)真実など知るよりはるかに楽しみたい。
人を楽しませる言葉をうまく書けるのがエンターテイメント作家ではないか。
だとしたら、以下のモームの箴言(名言)は本当なのか嘘なのか。
わたしはなにやらものすごい真実が書かれているような気がするけれど、錯覚だろう。
わたしのような無学な大衆はモームにこのようにだまされるという典型かもしれない。

「さて、これは人生の不思議の一つであるが、
一番いいもの以外は何がきても受けつけないようにしていると、
その一番いいものが獲得できることがよくある。
つまり、すぐ手に入るものでガマンするなんてとんでもないとがんばれば、
案外、欲しいものがなんとか入手できるようになるのだ。
そのとき、運命の女神はつぶやくのではなかろうか――こいつ、完全なアホウだ、
完全なものを求めるなんて、と。
そして、女神特有のわざとらしい手つきで、
その完成品をヒョイと投げ与えてしまうのだろう」(P90)


こちらの実感では運命は男神ではなく女神で、
あまりもてない男に女神さまはいいプレゼントをしてくれそうな気がしている。
もてる男って底の浅いことが多い(むろん当方の過剰被害妄想的差別発言)。
バレンタインのチョコゼロなんてどうでもよく、ただおれは運命の女神から愛されたい。
だが、むろんのこと、意味不明な無駄な苦しみはごめんこうむる。

「男と女」(渡辺淳一/講談社文庫)

→もうとっくに死んでいて大活躍した男根もあわれ灰になった情痴作家の名言集を読む。
ちょっと調べてみただけだが(だから間違いの可能性のほうが大きい)、
渡辺淳一さんって成功者のモデルともいうべき
破綻のない順調な人生をまっとうしたんだなあ。
みんなから尊敬されて、お金もふんだんにあって、女性からもモテモテで――。
いいなあと嫉妬するのでさえ恐れ入るレベルの高身分の御仁でいらした。
有名作家は最後まで言えなかっただろうけれど、
本当は成功者なんてつまらないんだろうなあ。
だって渡辺淳一が女からもてたのは、たまたま成功していたからでしょう?
渡辺淳一が警備員として震えるように寒い夜、
旗を振っていたとしてもひとりの女でさえ視線を向けることはなかっただろう。
存命時に渡辺淳一の下半身はたいそう活躍したそうだが、
それはこの作家が人間としてすぐれていたからではなく、
単に地位が高くて金をあふれるほど持っていたからに過ぎないのである。
エロ小説を書きながら、男性作家はどれほど女性というものに幻滅したことだろうか。
もし自分が時給千円もいかないアルバイトの身分でも、
「失楽園」の渡辺淳一は自分ならば女からモテモテになると信じていたのだろうか?
渡辺淳一がモテたのは、たまたま社会的に評価され金をたくさん持っていたから。
おなじおっさんがいい歳をしてアルバイトだったら、
だれも老女でさえも目を向けやしないことをたぶん人気情痴作家はよく知っていた。

渡辺淳一はいろいろ「本当のこと」に気がついていたとわたしは思う。
けっこう本物ではなかったのではないかと思う。
「真面目」「誠実」「人の良さ」がモテない男の三箇条だと指摘しているのがおもしろかった。
なんだかよくわからんが、わたしもむかし「真面目」で「誠実」で
「人の良さ」くらいしか売りがない人間だと
他人から思われていた時期があったような気がする。
いや、いまでもそうかもしれない。
わたしはどうしようもなく宿命のようなものとして「真面目」で「誠実」で、
「人の良さ」が顔にあふれているのかもしれない。
そんなのは大っ嫌いなのに。
まあ、モテない男はたいがい「真面目」っぽく「誠実」そうで「人の良さ」が感じられる。
すると、女からいいようにあしらわれてしまうのだろう。
若いころから地位(医者、直木賞作家)と金にものを言わせて、
しこたまいい女ばかり食い散らかしたグルメの渡辺淳一先生は指摘する。

「真面目で誠実で、人が良すぎるところが、別れの理由にならないとはかぎらない。
たしかに外から見た場合、それらは美徳のように見える。
だが現実に身近にいる者には、
真面目さの裏の退屈さに、誠実さの裏の融通のなさに、
人の良さの裏の迫力のなさに苛立(いらだ)ち、
それらが重なり合って嫌悪に変わらないとはいいきれない。
離れて見るときと、身近で見るときで、評価が変わるのは、よくあることである」(P43)


あまたの美女と快楽のかぎりを尽くした人気作家の渡辺淳一氏は、
「真面目」「誠実」「人の良さ」を鼻で笑いながら、
あえてそれらの反対のちょい悪を演じることによって絶倫人生をまっとうなされたのである。
おそらく日本で渡辺先生ほど性的快楽をむさぼり尽くした男のなかの男はいないだろう。
直木賞作家の渡辺淳一ほど美女を思うがままにおもちゃにした果報者はいないと思われる。
その性的快楽の帝王、医者で直木賞作家の最後に行き着いた性的嗜好は視姦であった。
視姦とは盗み見ることと言ってもよいだろう。
大ヒット小説「失楽園」から――。

「初めは、すべてを剥(は)ぎとられた女体を、
上から猛々(たけだけ)しく襲うつもりであったのが、
美しさに見惚れるうちに惜しくなり、なおしばらくこのまま眺めていたい。
若いときは、ひたすら奪うことしか知らなかったが、
年を経たいまはむしろ目で犯す悦(よろこ)びも深い。
まさに視姦とでもいうのか、
自ら月の光になり、白い女体へ浸透するように視線を這(は)わせる」(P205)


おいおい、先生さあ、なーんかモテない男のキモい妄想みたいじゃないか。
結局行き着いた先はそれかよと言うか。
視姦だったら直木賞作家でなくても、だれでも金がなくても顔が悪くてもできるのではないか。
さすがにだれかに見られていただけで警察に通報する女はいないだろうし、
さすがに正義の警察官もただ見ていただけの男を逮捕はできないだろう。
なーんだ、結局男と女って見ることと見られることなのかもしれないなあ。
男女それぞれ見ることでお互いのことをいろいろ想像(妄想)する。
男女それぞれ見られることでお互いのことをあれやこれや考えざるをえなくなる。
見ちゃえばいいという話なのかもしれない。
男は「真面目」ぶるな。「誠実」ぶるな。「人の良さ」そうな笑顔なんて捨てようぜ。
もちろん、人間は「顔、金、肩書」だから、
いくら「真面目」「誠実」「人の良さ」を捨てても異性のことは思うようにならないが、
しかしそれでも見ることなら可能ではないか。ちらちら見ることなら。
たとえ医師の国家資格がなくても直木賞作家でなくても、
人は人のことを見ることができるのではないだろうか。
たとえひと言も言葉を交わせなくてもちらりと盗み見ることならできるのではないか。
あーあ、変態みたいなことを書いちゃったよ、うえーん。

「男と女のいる風景 愛と生をめぐる言葉の栞」(渡辺淳一/PHP文芸文庫)

→一昨年お亡くなりになったが今後、
源氏鶏太のように消えるか残るのかそこそこ興味のある作家の名言集を読む。
「失楽園」の渡辺淳一である。
いまわたしがいちばん恐れているのは職場のパート女性さんに嫌われること。
社員さんに嫌われるよりも、
それどころではなく、おなじパートの女性を怒らせやしないか気を遣っている。
社員さんも(いまのバイト先は男性ばかり)女性パートが怖いだろうなあ。
得体の知れないものに対する本能的な怖さを多くの男は女に対していだいている。
人気作家でいまは冥界に住む渡辺淳一は調子に乗ったことを書いている。
そんなこともないと思うけれどなあ。

「もともと、男が女と逢う目的の大半は情事そのものである。
途中、食事をしたり会話を交わしたり、映画や芝居を見ても、
それらはすべて情事へ至る一つの過程に過ぎない。
女性をいたわり優しくするのも、究極のところ、
その女性と関係したいという願望を抱いているからである」(P26)


人はだれでも自分の思ったことを「男はみんなこう」と思ってしまうのかもしれない。
男はみんなおなじなんてことはないことを知りながらも、それでも。
男女論はそういうものなのかもしれない。
女も女でけっこう人それぞれなのに「女の子はね」とか普遍化して
自分の意見を絶対化してしまうようなところがあるのではないか。
そもそも人間は矛盾している。
渡辺淳一もおなじ本のなかで正反対のことを言っている。
男は情事のことしか考えていないと言い放った143ページあとに――。

「男は基本的に甘えっ子だし、性格が弱いから、女を求めるのはセックスの要求より、
落ち目のとき、「いい子、いい子、あなたが一番」
と言ってもらいたいからってとこもあるんですね。
男が二十八、九で結婚するのは、社会に出て、
ワン・ノブ・ゼロだということがわかり始めるときにあたるんです。
そのとき、何も知らない無知なワイフに「あなたが一番」と言ってもらいたくて、
それが男の結婚適齢期なんですね」(P169)


まあ、どっちも本当なんでしょうな。みんな正解で、みんな誤答。
それぞれぜんぶ正しくて、それぞれぜんぶバッテンの誤り。
だって、人それぞれだもんねえ。男はこうとか、女はこうとか、一般化できないって。
みなさん生まれ変わったら男と女、いったいどちらになりたいですか?
わたしは重いものを運びたくないから絶対に女だなあ(おい、そんな理由かよ)。
しかし、渡辺老人から甘えを鋭く指摘される。

「男も女ももし自分が反対の性になったら、すごい美男と美女になって、
異性には圧倒的にもてるはずだと初めから決めている。
男になって経済力がなかったり、女になって醜女(しこめ)であることなど考えず、
もてるということ前提で、ああもしよう、こうもしようと想像している」(P33)


これってガチンコ発言だよねえ。
女は顔で男は金だって言い切ってしまったわけでしょう。
基本的にわたしも山田太一ドラマの影響か人間は「顔、金、肩書」だと思っている。
どうしてかというと、そう思っていたらいろいろ傷つかないから楽なのである。
もしさあ人間が「金、顔、肩書」でないとしたら、深刻な鬱に落ち込むかもしれない。
もてないのは顔のせいってことにしておけばあきらめられる。
もてないのは金がないためだと思っていたら気楽でいられる。
もてないのは肩書(身分)が低いのが理由だと自分をごまかせたら悩まないで済む。
でもさ、あはっ、本当は人間性(笑)が問題かもしれないんだなあ。
むかしの修練本みたいだけれど、人格を磨いていないからもてないのだとしたら――。
ああーん、救いがなくてそこは自分地獄の一丁目。
もてないのは顔が悪くて、金がなくて、肩書が低いせいってことにしておいて~。

「苦味を少々」(田辺聖子/集英社文庫)

→有名作家の田辺聖子さんのアフォリズム(名言集)。
アフォリズムほど読むのも感想を書くのも楽なものはない。
しょせん短文ばかりだから超高速スピードで読める(当方は飲酒しながら味読)。
読書感想文もかんたんでちょっと気になった自分と同意見のものを採取して、
これは有名で偉い作家先生が言っておられるのだから、みなのものひれ伏せ。
そういう態度で書こうと思ったら、どこまでも適当に楽ちんに書ける。
山本周五郎賞、小林秀雄賞、朝日(新聞)賞と受賞歴華やかな
山田太一先生が解説を書いておられる有名女流作家のアフォリズムを
鼻で笑いながら、ではなく、正座をしながら身を正して拝読いたしました。
通常は自分の感覚と似たような文言を取り上げて、
自分も「正しい」あるいは「偉い」というメッセージを書き連ねるのだと思う。
あはは、ひねくれもんだから、そういうのに嫌気が差した。
本当にブルブルッときた言葉を抜粋してみよう。

「本音というのは、だまっているから本音なんですよ。
しゃべるとタテマエになってしまうわよ」(P48)


わたしなぞが絶対に言えないし書けない名言であると思う。
よくブログ記事で「ここだけの話」とか「本音を言うと」といった枕詞を使う。
あはっ、田辺聖子さんご指摘の通り、そういうのはぜんぶ嘘だから。
人様に言えるというだけで、書けるというだけで、それは本音ではなくタテマエなんだなあ。
みなさんそうでしょうけれど、わたしにも一生だれにも言えない秘密がわんさかある。
「これは秘密にしてね」なんて人にしゃべれるものは、しょせんタテマエなのである。
本当のことなんて死ぬまで人に言えるもんか、なにかに書けるものか。
おそらく田辺聖子さんもそうであったに違いない(まだご存命でした)。
ならば、でしたら、そうならば、これもまたタテマエなのでしょうか?

「人は自分が愛したもののことは忘れても、
自分を愛した人のことは忘れないものである」(P102)


ぞっとするほどの真実だと思うなあ。
人は偽善的に愛されるよりも愛するほうが大事とか言うじゃないですか。
それは絶対に嘘だと思う。
愛した経験なんかよりもはるかに愛されたという事実のほうが人間には重いと思う。
人を愛するよりも、人から愛されることのほうがどれほど心に響くか。
こんな単純な真実でさえわたしはなかなか言えないような洗脳を受けてきた。
最後にいつもわたしが言っていることを田辺聖子さんに後押ししていただく。
ぶっちゃけ、幸福ってつまらないよね。
なんにもないだらだらした幸福な人生よりも、たとえ短命でもおもしろい人生のほうがいい。
しつこいけれど、幸福な人生よりもおもしろい人生のほうがいいのではないか。

「幸福と面白いこととはちがいます。
幸福いうのは、面白いことが無くても成り立つ。
あんたといると面白うて、楽しい。それが一番とちがいますか。
幸福な人生を送った男はたくさんいますよ。
しかし、面白い目を見た! とひとり笑いして棺桶に入った奴は、
めったに居(お)らへんのやから」(P10)


思えば人生、幸福とはあまり縁がなかったけれども、それなりにおもしろかったなあ。
むかしのプロポーズの定番は「貴女を幸福にします」だったような気がする(間違いかも)。
わたしはずっと不幸(ってなに?)なので他人を幸福にできる自信なんかさっぱりないけれど、
おもしろい人生を送っているという自信はなくもないので、
「貴女のつまらない人生をおもしろくしてみます」くらいなら言えるのかもしれないなあ。
田辺聖子さんも言っていますが、
幸福な人生はなによりだけれど、おもしろい人生はもっともっといいものかもしれない。
身震いするようなおもしろい人生ってもんがあるんだ。わたしはそれを知っている。
おそらく著者もよくよくそのことをご存じなのでしょう。

「五木寛之 ことばの贈り物」(清野徹編/角川文庫)

→いまや国民的作家の五木寛之の名言集。
べつに五木寛之でなくても書けそうな言葉だとは思うが、それを言っちゃおしめえだ。
わたしが本好きになったきっかけのひとつは高校生時代に
五木寛之の「青春の門」を楽しくて仕方がなくむさぼり読んだことである。
ひとつの原点だと思う。もうあんな熱狂的読書はできないのがさみしい。
「青春の門」の舞台は早稲田大学で、
一浪しても東大に落ちてかの高田馬場にある大学に拾ってもらったとき、
「青春の門」のようなことがあるのかと期待したが、
そういう小説のような泥臭いことはからきしなかった。
ひとり原一男先生という泥臭いおかしな魅力のある人がいて、
この恩師によって変な方向に人生の道を誤ってしまったところがある。
当時はウブだったので人間は明確に身分差があるのだということを知らなかった。
当時、わたしは原先生を偉人だとたいそう尊敬していたが、
社会全体の格のようなものを見たらサブカル寸前の人だったのだと思う。
原一男先生よりもはるかに名が売れている「偉い」五木寛之先生のお言葉から。

「もっと人生をいいかげんに考えてもいいのです。
予定どおりいく人生なんてありません。
なにか大きな手に自分をあずけるような気持ちで、
やりたいことをおやりなさい」(P233)


そういえば原一男先生もおっしゃっていたな。
就職なんてしなくても、フリーターでもしながらやりたいことをやればいいじゃないか。
そういう世間を知らない過激な言葉にひかれて
早稲田新卒カードを捨ててしまったところがないこともない。
超氷河期でどこにも内定をもらえなかったこともあるけれど。
それにしても人生でやりたいことばかりやってきたなあ。
もうふつうの人の一生ぶん以上遊んだような気が(よくわかりませんが)する。
で、結局いまのバイト先に居つくようなかたちになってしまったわけだ。
たまに来る本業は正社員のダブルワークのインド人のロイさんから言われたなあ。
「若いときそれだけ遊んだんなら、それでいいじゃないですか」
あきらかにカースト制度そのままにこちらの身分をあわれんでいた。
しかし、わたしはけっこういまの倉庫バイトを楽しんでいなくもない。
こんな大勢の国籍性別年代多様な人たちと一緒に働いたことがなかった。
職場では勤務時間内(休憩時間含)だけどんなにかりそめに群れていようが、
わたしだけではなく、みんながみんなひとりぼっちなのである。

「人はみな、最後はひとりぼっちの人生を送らねばならない。
そして、そのことを深く自覚したほど、人間同士の深いつながり、
心の通い合う一瞬の楽しさ、ほんのちょっとした共鳴のうれしさに気づくだろう」(P191)


そうなんだよね、五木寛之さん!
われわれは「心の通い合う一瞬の楽しさ」や「ほんのちょっとした共鳴のうれしさ」に
どれほど救われる存在か。
日本語なんか通じなくても、笑顔と笑顔で一瞬交流を持ったときの喜びといったら。
こんなことを書くとどれほど孤独でひとりぼっちのさみしい人間だと
思われるのかもしれないけれど、おそらく実際にそうなのだろうからなあ。
「人間同士の深いつながり」は奇跡のようなもので、
長い人生でひとりかふたり、そういう他者にめぐりあえただけでも幸運なのだろう。
「人間同士の深いつながり」は難関すぎるが、
「心の通い合う一瞬の楽しさ」や「ほんのちょっとした共鳴のうれしさ」だったら、
これならば、これならば――それぞれの身分のようなものはどうしようもないけれど。

「たとえ、理想の未来社会が私たちのものとなった所で、
人間の孤独といったものはやはり存在する」(P170)


しかし、けれども、にもかかわらず。
微笑みを交わすくらいならできるのではないか。

「人間同士の本当の会話ってものは、言葉を必要としないものだ」(P186)

ただ一緒にいるだけで横の人の言葉にならない気持がびんびん伝わってくることがある。
ならば、それもまた会話ではないか。
もしかしたらそのほうがおしゃべりよりもよほど深い会話をしているのではないか。
こんな青臭いことを考えている時点で、まだまだ「青春の門」を抜けきっていないのだろう。
ほんとガキで困っちゃう。
バイト先の高校生にちょっとだけ話し相手になってもらうと、あっちのほうが大人だもん。
いま工業高校在学中で卒業後の楽器製作会社への就職が内定したらしい。
「青春の門」を先にくぐり抜けられてしまったような気がする。

「絶望名人カフカの人生論」(カフカ/頭木弘樹編訳/新潮文庫)

→「山田太一氏、絶賛」(帯)の本をけなしてしまっていいのかどうか迷う。
たとえ動作は小さくても「右にならえ」をするのが世渡りというやつではないか。
本書はカフカの絶望名言集らしい。
カフカのネガティブな言葉が改行ばかりで重々しく引用されているが、
そのどれひとつとしてぼくの胸に響く言葉は正直申し上げるとなかった。
この本をほめている人は、カフカさまハハアと権威に平服しているだけではないか。
繰り返すが、言葉としてそのまま見たらぜんぜん大した言葉ではないのだから。
カフカさまの名言の横に編訳をした著者がもっともらしいコメントをつけているが、
どれもいかにも優等生的で常識人ぶっていてまったくおもしろくない。

しかし、こういうことは言ってはいけないのかもしれない。
なんでも著者は若いころに難病でたいそうお苦しみになったようだ。
そういうお気の毒な方が生きる支えにしたカフカさまのお言葉はありがたいのである。
この本全体が美談のオーラに包まれているようなものだと思う。
美談にケチをつけるのは人でなしだ。
難病を克服した著者のコメントは滋味あふれる真実の言葉だ。
世界的権威のカフカさまの言葉に畏怖しないものは人間としておかしい。
そのうえそのうえ、あの山田太一先生のお墨付きまでもらっているわけだ。
これほど批判できない本はめったにお目にかかれないような気がする。
いくらいま著者の病気が治っていても結婚していても
いっときのベストセラー作家になっていても、さらにさらにあの山田太一先生の
力強い讃辞(解説でも山田太一氏が大絶賛)を得ていても。
あっはい、ぼくもこの本から生きる勇気をもらいましたあ。座右の書にしまっす。
この記事の内容はすべて恵まれた著者への嫉妬から生じていますので、
万が一お目に触れてもお気になさらず。
くうう、ちきしょー、うまいことやったなあ。うらやましいぜ、このこのう。

「心にトゲ刺す200の花束 究極のペシミズム箴言集」(エリック・マーカス/島村浩子訳/祥伝社)

→人生というのは逆説、矛盾、パラドックスに満ちているような気がする。
真実というものは「どっちも正しい」を瞬間的に風速で言い抜ける言葉にあるのではないか。
「どっちも正しい」とはどういうことか。ほうら、こういうことだ。

「結婚してもしなくても、あなたはかならず後悔する」(P79)

人生の真実を気合いもろともばっさり抉(えぐ)り出してしまっている。
皮肉屋の成功者(ノーベル賞!)バーナード・ショーも負けていない。
以下すべて皮肉屋として知られたショーの言葉である。
そういえば、むかしショーの芝居台本を読み漁った時期がありました。

「人生には悲劇がふたつある。
ひとつは自分が心から望むものを手に入れられないこと。
もうひとつはそれを手に入れてしまうことだ」(P23)


どっちにしろ人生は悲劇だと言っているわけである。
なってみたら思いのほか成功者というのはつまらないのかもしれない。
凡人はこんなことを言ってみたいと思ってしまう。
厭世家ショーの毒舌はとまらない。

「悲観主義者がどんな人間か知っているかね?
人はみな自分と同じくらい嫌なやつだと考え、
それを理由に彼らを嫌う人間のことさ」(P159)


いやあ、なかにはいい人もいますよ、ショーさん!
まあショーさんみたいに成功しちゃうと近寄ってくる人はみな肩書目当てでしょうけれど。
お気の毒さまでございますね。
ハハハ、成功者のあんたもおれっちも大して変わらないんだろうなあ。

「アルコールは人生という手術を耐えるための麻酔である」(P148)

とりあえず乾杯しようや。

「捨てる力」(羽生善治/PHP文庫)

→プロ将棋屋さん(棋士ともいう)の名言集である。
だれも焼き鳥屋のおっさんの話を名言だとは思わなく、
やはり実績と肩書が名言に重石をかける。
おそらく一手一手指していくいく将棋は人生のようなものなのだろう。
一手一手の積み重ねが勝敗を分けることになる。
たぶんどの世界でも過去の行為の後悔から生じる不安が怖ろしいのだろう。
「もしあのときああしていたら」という後悔にとりつかれたら、
まずいまの勝負に夢中になることはできない。
こういう後悔はどうしたらいいのか。

「大部分の人は、やらなかった選択はいい結果になると思っている。
こっちをやっておけばよかった、この道を進んでおけばよかったと。
でも、それをやっていたら、今よりももっと悪くなっている可能性だってかなりある。
だから、忘れることが大事」(P227)


いくら後悔しても過去には戻れないのだから、忘れるのがいちばんなのだろう。
もしそれをやっていたら、いまよりも悪くなっていたと考えたほうがいい。
なぜならそのほうがいまの局面に没頭できるからである。
さて、羽生さん、我われはなにを武器にして勝負したらいいのでしょうか。

「欠点を裏返すとそれがその人の一番の長所だったりする」(P72)

じゃあ、煩悩即菩提みたいなもんで、
欠点がひどいやつほど長所も飛び抜けているということでしょうか。
たしかになんか欠点の少ないやつっておもしろみに欠けるようなところがある。
羽生さん、将棋から教わる勝負の綾みたいなものはありませんか。
勝負のポイントみたいなものは――。

「(将棋には王将をはじめ8種類の駒がある)何気なく忘れていた隅っこの歩が、
あとですごく効いたというのが本当にある。
会社組織と同じで、なんだか暇そうな人間がいるぞと思っていたら、
5年後にはすごい功績をあげたなんてことがあるんですよ」(P82)


このため、「役に立たないこととか意味がないと思っていることのほうが
むしろ重要じゃないか」と最近の羽生さんは思っているとのこと。
勝負師というものはギャンブラーのようなものだろう。
以下の引用文は博徒そのままのようですごいなと思った。
目標を立てるとよくてもせいぜい目標到達である。
すでに実在する想定内のところにしか行かない。
しかし、目標を立てないとどこに行くかわからないからおもしろいのだという。
あえて目標を立てないことで、いままでとおなじではない違う世界に入ってくことができる。

「「こうなりたいな」と思い描いた自分になることができれば素晴らしいけれど、
「こんなはずじゃ……」と思うようなことが起こったほうが、
より深く充実した時間になるのではないでしょうか。
スポーツの世界がおもしろいのは、次の展開が読めないから、結末がわからないから。
そういう試合になれば、プレイしている人も見ている観客もワクワクします。
意外性があって予測不可能な事態にこそ、本当のおもしろさがあると思います。
だから私は、具体的な目標はほとんど立てません。
具体的な目標は、多くの場合、すでに形になっているもの。
もちろん目標が達成できればうれしいのかもしれませんが、
あくまで限定的なもののような気がします」(P129)


「これまでのデータ」と「わからないもの」の二者択一なら、
あえて「わからないもの」に賭けるということだろう。どうなるかわからないからおもしろい。
「わくわくするもの」「おもしろいこと」を目指したら結果的に勝つのかもしれない。
羽生さんは「ツキ」についてどう考えているのだろう。

「20歳、21歳の時には、「ツキ」についてよく考えていました。
例えば、何人かでカードゲームをする。なかなかうまくいかない。負け続け。
そこに、ひとり加わることで状況は一変して、途端にツキだしたりします。
新しく入った人がうまいわけでも、運がいいわけでもないのに。
何かをきっかけに状況が変わって、問題が解決することがあります。
状況が少しでも変わると、打開できる可能性もあるのです」(P174)


どうしたら新しいひとりが入ってくるかというのは計算外だろう。予想できない。
だとしたら、所詮は計算できないと思っていたほうがいいのかもしれない。
ぎちぎちに計算して勝負に挑まないほうがたぶんいい。
いや、いい悪いはわからないが計算しないほうがおもしろい勝負をできるのだろう。
羽生さんはわくわくするおもしろい将棋を目指しているのだと思う。
もしかしたら人生もデータを用いてガツガツ勝とうとするよりも、
わくわくおもしろくしようと考えたほうがいいのかもしれない。