「勝ち方の流儀」(桜井章一・勝間和代/イースト新書)

→雀鬼の桜井章一が勝間和代にやたら喧嘩腰になっていたのが印象的だった。
勝間和代ってなにをしている人かわからないんだよねえ。
コネをつくるのが異様にうまくて各メディアに救世主のような顔をして登場。
なにをしてきたのかも、なにをしているのかも、なにをしたいのかもわからない。
とりあえず自分を売って(ブランド化して)あとは塾(笑)で儲ける。
このビジネスモデルはむかしからあったが、
ここまであからさまに品性なくやって大当たりを取ったのは勝間和代がはじめてでは?
イメージ商法っていうか、なんかキラキラした女性像のようなものを打ち出して儲ける。
投資しないと大損すると大騒ぎしていた直後にリーマンショックが起こって、
多くの投資家がビルから飛び降りていても本人は知らぬ存ぜぬ。
勝間和代は本当は投資なんか口だけで定期預金をしていたんじゃないかって話で。
口先三寸という言葉がもっともお似合いなのが勝間和代だろう。
珍妙なカタカナ(英語もどき)を使って大衆を煙に巻くのもうまかった。
身もふたもないことを言うと、
20年無敗(笑)の雀鬼も似たような商売をしてきたのである。
イメージで自分をブランド化して塾や講演会で稼ぐという。
しかし、雀鬼は本を読まないからカタカナ(英語もどき)を使えない。
このため、桜井章一は勝間和代に攻撃的になったのではないかと。
似た者同士ゆえの同族嫌悪というかさ。
勝間和代っていやだよねえ。すべてを数値化せよ、というのが根本らしい。
数値化したら計算できるし、確率も割り出せるし、人をうまくだませる。
勝間さんも貢献した、いまの数字重視って最悪だと思う。
32歳年収500万と27歳年収300万が結婚しました――というのが勝間ワールド。
子どもをふたりつくるとしたら大学卒業までいくらかかり、
老後は――というのが勝間ワールド。
いかにもな女性的現実的思考が現代日本女性優位社会に受けたのだろう。
しかし、そんなのは女の女々しい目先の計算だと雄々しい雀鬼は反論する。

「何より勝間さんは頭で考えすぎのように思えるんですよ。
私も何冊も本なんか出しているけれど、小難しいことは何ひとつ考えていない。
根本には「楽しくないことなんかやりたくない」
「小難しくてつまんない人生だけは送りたくない」というのがあるだけですよ。
もう七〇年以上生きているけれど、楽しいことだけを追いかけてきたからね。
それが講演会をやったり、本なんかを出していろいろ偉そうなことを書いていると、
それを真に受けて、やけに深刻だったり、
気が滅入るような相談事で頼ってくる人も増えるんだよ。
別に私は訴えたいことなんかないから、そんなに頼られても困るんだけどね」(P48)


真に受けてんじゃねーよ、バーカ! よくこんなことを雀鬼の桜井章一は言えるな。
真に受けてんじゃねーよ、バーカ!
「楽しくないことなんかやりたくない」 「小難しくてつまんない人生だけは送りたくない」
こっちははそれだけなのに、変に深刻に真に受けてんじゃねーよ、バーカ!

「運を支配する」(桜井章一・藤田晋/幻冬舎新書)

→人生は運だよなあ、としみじみ思いながら昨晩読んだ本。
雀鬼の桜井章一氏とサイバーエージェント代表取締役社長の藤田晋氏の対談本。
いまべつに切羽詰まっているわけでもないけれど、
精神科医の春日先生の影響で一線を超えたいという気持がねえ。
東京都の「命の電話」には何度かけてもつながらなかった。
突発オフとやらに参加しようと思ったがめぼしいものはなかった。
刺激がほしいというかねえ。
いちおう職探しは継続していて、タウンワークとエンバイトに登録している。
で、さっき来たエンバイトからのメールが、
「土屋さんへ~時給1700円!公式ブロガー​のコンサル業務」。
【ブログ好きな方、必見!】ブログのコンサル業務!!渋谷駅徒歩5分――。
これがサイバーエージェントへの派遣だったんだなあ。
時系列が重要でわたしが藤田社長の本を読んだのが先だということ。
わたしの最高時給は1200円(深夜で1500円)だから1700円なんて神レベル。
しかし、わたしはブラインドタッチもいまだできないし、おぼえようともしないクズ。
たぶん応募されたほうも困るだろうと思いながらボタンをクリックした。
とりあえず12年ブログやっていますって。
1%の確率で採用されても物欲がないから、けれどお金はいいよねえって話。
若い人が多いらしいから、
そういう意識が高い系の若者と接するのは人生勉強になるだろう。
差別語とか禁止表現は知っているし(「本の山」では知りながらあえて使用)、
暇で本ばかり読んできたから引き出しは多いけれど、ビジネスにつながるかは。
炎上商法とか、盛り上げるテクニックみたいのはわかるけれど、
個人ではなく集団組織でそれができるかどうかはわからない。
そもそも絶対落ちるし、おまえ、どんな顔して時給1700円に応募してんのかって。
近場で時給900円で延々とシールでも貼っているほうがお似合いなのはわかっている。
しかし、こんな偶然ってあるんだなあ。

藤田社長は会社が一部上場して資産もできたころ、
ハワイにでも行って一生遊んで暮らしたらと冗談半分で言われたらしいが、
それでは自分が成長しなくなる、生きがいがなくなると答えたらしい。
わかるなあ。人間ってなにかをせずにはいられない生き物だから。
タイのイサーンでリタイア生活とか、まあ、つまらなそうだもんね。
人間ってもっとカッカしたい生き物。
しかし、カッカしていたころがいちばんいいのかもしれない。
サイバーエージェント社長の藤田晋氏は言う。

「僕自身も「21世紀を代表する会社を創る」というビジョンを掲げて、
日々仕事を頑張っていますが、
出発点でそこまで大層なことを考えていたかと聞かれれば、そうではありません。
漠然と「自分ですごい会社をつくりたいな」とは思っていましたが、
やっているうちに会社が掲げるビジョンの輪郭ができてきたような印象です。
それよりも当時は「すごい会社をつくりたいな」という気持の裏側に、
自分でもあまり認めたくはないですが、
モテたいとか誰かを見返したいという気持もあったかもしれません。
お金を目的に起業したわけでもないのですが、
それもまったくなかったかといわれれば、嘘になります。
でも実際にそれを手にすると、本当にどうでもよくなるものです。
お金によって満たされる物質的な欲望というのは、すぐ飽きてしまうからです。
モテたいとか見返したいという気持ちも同じことです。
達成すれば、すぐに飽きてしまいます」(P183)


わかるなあと言ったらぶん殴られそうだが、わかるような気がする。
お金があったってつまんねえよ、モテたってだからなんなんだよ退屈だ。
俗世間的成功者になってモテたって、それはまあそのそれなんだから。
無名で金のないだれにも相手にされていないときに、女性から尽くされるのが本物。
お金なんていくらあったって安心にはなるが、おもしろくもなんともない。
海外旅行なんてお金があればあるほど、退屈なものになるわけでしょう。
けれど、お金持には変なプライドがあって安宿や安食堂へは入れない。
そうそう、藤田晋社長は優秀よ。
こちらは人生はギャンブルだと信じている在野の「運」研究家だが(確率大好き)、
以下の博打への考察には新しい知見を得られた。
ギャンブルに勝つにはこれしかないと。

「ギャンブルは回収率や期待値で見れば胴元が有利になるようにできていますが、
一方でプレイヤーには
「いつでも席を立てる権利」と「賭け金を上げ下げできる権利」が与えられています。
プレイヤーはこの2つの権利を駆使して勝つしかないのですが、
多くの人はその有利な権利をなぜか不利になるように使って、負けてしまうものです。
プレイヤーはいつでも席を立てるわけなので、ひどく調子が悪いときは、
席を立てばよいのです。また賭け金を上下できるので、
調子がいいときはたくさん賭けて、
反対に調子が悪いときには賭ける金額を低くすればいいのです。
ところが人間とは不思議なもので、
調子が悪いときほど粘って負けを取り返そうとたくさん賭け、
調子のいいときは利益を早めに確定したくて、
まだいける流れであっても早々に席を立ってしまうのです」(P116)


ギャンブルなんて(数学的)確率的に考えたら、
ほぼ絶対に負けるのだが、こういう考え方があったのか。
運の波というのはたしかにあるわけだ。
わたしはあと1回くらい高い波が来るのではないかと妄想しながら「命の電話」って(笑)?
結局、破れかぶれでおもしろいことをしたいから死ねないって感じで、
いままでどうにかこうにか生きてきているしなあ。
自分は異様なほど運がいいとも、運が悪いとも同時に思う。
基本的に物欲(金銭欲)にとぼしいから株に興味を持ったことがない。
藤田社長の株に対する見識もあっぱれである。
そうだよねそうだよね、というか、わかるわかる。これは役に立つ言葉ではないか。

「株の初心者は売買でどのくらい儲かるものなのか、
どのくらい損をするものなのか実感としてないので、いい意味で淡泊です。
だから欲を出して深追いしないし、それがまたいい結果になる。
株は欲を出してもっといけると思っていると、
そのうちズルズル下がって、売りどきを見失うことが多いからです。
ビギナーズラックで儲かった人は、ついつい「株って簡単」と思いがちです。
そして、ちゃんと勉強すれば、株でもっと儲けられると考えるのです。
ところが、PER(株価収益率)をはじめとするさまざまな投資指標や、
マクロ経済のことを詳しく勉強し始めると、株価が素直に見られなくなってきます。
「知識」が多くなると、ビギナーズラックのときのシンプルな感覚をなくしてしまうのです。
また、株価が安いと思っていたのにさらに下がったとか、
もう十分に高いと思っていたのにさらに下がったという「経験」を経て、
何が正しいのかわからなくなっていきます。そして株は
「安いところで買って、高いところで売る」というごくシンプルな基本を忘れ、
十分高い株価であっても、いろいろな情報を得ることで自分なりの付加価値をつけて
「この株はもっと上がる」などと判断してしまうのです」(P23)


まあ、泥沼にはまるってやつだよねえ。
あんがい宗教だって南無妙法蓮華経ってご本尊に無心で唱えていればいいものを、
いろいろ教学とやらを勉強して「この信心は本物よ」とか言い始めて
巨額の財務(寄付)をするようになると、もうここからあとには引けなくなるわけで。
これだけ費やしたんだから絶対に功徳があるとさらに散財するパチンコ・スパイラル。
藤田社長は双六(すごろく)でいう上がりに入ったわけだから辛い面もあろう。
金や女のつまんなさもわかっちゃったし、へたを打ったら嘲笑されるし、
かといって守りに入ってもそれでは旧世代の経営者とおなじになってしまう。
成功者のなにがしんどいかといったら孤独感と周囲からの批判だろう。
いわば双六で上がってしまったような藤田社長は述懐する。

「……企業家にもっとも必要なのは「ハートの熱さ」ではなく、
「ハートの強さ」だと僕は思います。
思いが強くても、それだけではただの自己満足です。
批判や辛い孤独にも耐えられる心の強さこそが大事なのです。
批判や孤独に弱い人は多数派に流されやすいですが、
ハートの強い人は周りの人と価値観が違っても、
簡単に惑わされることはありません」(P148)


エンバイトからは返信が来て、1週間以内に連絡がなかったら落ちたと思ってください。
これは勝手にヒューマントラスト形式と呼称しているが、落ちたってことなのね。
この本音と建前を理解しない人は生きづらいだろう。
時給500円でも無給でも持ち出しでも、わくわくできることはないかなあ。
それがつながらない「命の電話」かよって話なのだが(笑)。
もう人生という双六で上がった雀鬼は勝者然として語る。
自分は「保証」や「確証」、常識、世の価値観を無視ししてきたが、
こうして自分だけの人生を送れた。世間は「保証」や「確証」を重んじる。

「だが、何の「保証」も「確証」もないからこそ、
反対にわくわくするような面白さがあったのだ」(P171)


「運は実力を超える」(植島啓司/角川新書)

→人生は運なんだよ、とかたくなに信じている植島啓司が好きだ。
わたしも「運・ツキ・偶然」の在野の研究家である。
学者やインテリはいろいろ難しいことを言うが、
人生とは結局以下の構図で説明されうるのではないか。

人生=行為(選択)→「?」→結果(善悪/損得)

人生とは行為(選択)の連続であり、遅かれ早かれその結果が現われる。
プラスと言われている行為(選択)をしたのに、マイナス結果が出ることもあろう。
マイナスとしか思えない選択をした結果、どうしてかプラスの事態が舞い込むこともある。
宗教的に突っ込むと、なにがプラスでなにがマイナスかはわからない。
選択のプラスマイナスもわからないし、結果のプラスマイナスもわからない。
いちおう世間上の善悪や損得といったプラスマイナスはあるが、
そんなものはころころ変わりうる。
家族の自殺や障害児誕生といったマイナスが出た場合、
人は本当にわからない気持になる。
自分はそこまで悪い行為(選択)をしたのだろうかと人によっては発狂しかねない。
いまの医者はエビデンス(統計データ)で治療方針を決めることが多いようだが、
エビデンスにしたがった「正しい」医療行為を選択してもマイナスの結果が出ることがある。
このへんが究極の問題で、
果たして「死」はプラスマイナスで測定できるのかという問題もある。
何度でも書きたいが人生は突き詰めれば以下の構図である。

人生=行為(選択)→「?」→結果(善悪/損得)

努力すれば報われる、報われていない人は努力していないから、
と信じている人の人生観はどうなっているかというと――。

☆人生=行為(選択)→「努力の質量」→結果(善悪/損得)

しかし、いくら努力をしても報われないことはございますでしょう?
わたしは自分よりも努力しているがんばり屋さんが不遇なケースをいくつも知っている。
あきらかに自分よりも怠けていそうなやつがキラキラしているのも知っている。
あれ? 人生って努力(自力)よりも運の力(他力)のほうが大きいのではないか?
もしかしたらかなりのところが運で決まっているのではないか?
そうだとしたら運をよくするためにはどうしたらいいか?
宗教人類学者の植島啓司や当方が関心を持つのはここの領域である。

人生=行為(選択)→「運」→結果(善悪/損得)

どうしたら運がよくなるかは本当にわからない神仏の領域である。
だから、わたしは人生はかなり運であると認めながら、
「運」という言葉の弱さを嫌って、
たとえば(一遍上人の)南無阿弥陀仏(念仏)にまかせたくなる。
南無阿弥陀仏の意味は、人間には「わからない」である

人生=行為(念仏)→「自然」→結果(念仏)

結果のプラスマイナスなんかじつはわからないわけ。
交通事故に遭って病院にかつぎこまれたら、
そこで運命の女性たるナースとの出逢いを果たすかもしれないわけだから。
株で10億稼いでも、うつ病になったらなにも楽しめない地獄になる。
わたしは個人的に一遍の南無阿弥陀仏に興味を持って独学しているが、
一般の人は「行為選択→(?)→結果」の「?」は運にしておいたほうがいいと思う。
どうしたら運がよくなるのか。
わたしが20年近く考えてきたことであり、
植島啓司氏にいたっては40年以上賭場という実地で試行実験してきたことではないか。
いままでわが国において「運・ツキ・偶然」を、
実地で学問してきたのは植島啓司と河合隼雄だけだと思う。

みなさまが知りたいのは、どうしたら運がよくなるかだけでしょう?
わたしだって学問なんかどうでもよく、運命の女神との勝負に興味があるのだ。
果たしていま勝ったと言えるのかわからない(←意地悪)、
植島の答えを先に箇条書きにしておこう。

1.人に「お願い」をしない。
2.チャンスが来るのを待つ。
3.手の内を明かさない。
4.相手がミスをするのを待つ。
5.損得や善悪など、どうでもいい境地にまでいたる。
6.忘我・無我・恍惚こそ勝負の醍醐味よ。
7.いつも旅しているように生きよう。

1の他人にお願いをしないようにしようというのは間違いだろう。
だって、だれもが植島のようにひっきりなしに美女が寄ってくるわけではない。
デートをお願いしなかったらつきあってくれない女性がいる。
以下は、まあ正しいと思うので、
本書を購入するのがめんどうな読者のために原文で紹介します。

「人間の思考はすぐ頑(かたく)なで硬直したものになってしまうので、
負けが続いたときには、よく盤面を見直してみよう。
何か新しいヒントが見つかるまでは大きく賭けないことである。
負けているのに一発で取り戻そうとすれば、だいたい傷を深くすることになるだろう。
わざわざ言うまでもないが、
ここぞというときに大きく賭けられるのがギャンブラーであり、
普段は金額を抑えて様子をうかがい、時が来るのを待つのだ。
ギャンブルというのはそうやって決着をつけるものなのである」(P62)


植島は待てと言う。それから隠せと言う。
話は飛ぶが、AVに出てしまうと女性は運がひどく落ちるのではないか?
おまんこクパァとか見せてしまったら、それだけで運は激減すると思う。
手の内は見せるな。隠すべきものは隠せ。秘密は口にするな。

「もしあなたが大きな勝負をするとしたら、そのときは誰にもしゃべってはいけない。
運はしゃべることによって逃げていってしまうからである。
もちろん大した勝負ではないと思えば、みんなにしゃべってもよろしい。
そのほうが、結果がいいことも多いかもしれない。
しかし、ちょっと手のひらに汗をかくような勝負となれば、
誰にも話さないほうが賢明である」(P65)


人間の器量って、どれだけ自他の秘密を守れるかにあるような気がする。
その意味で、河合隼雄は偉大で、みんなから怖がられ、おそらく孤独だったと思う。
耳にした真実をペラペラ拡散するようなものはいざという勝負で勝てない。
しかし、秘密を守るのはつらいわなあ。
麻雀やパチンコで裏で見ている人がいると負けるというのは、
下品だがうまいたとえではないか。
勝負というのは勝ち負けである。どっちも勝ってなかよしこよしなんてありえない。
相手を負かすのが勝負であり、ギャンブルであり、おそらく人生なのである。

「よく先手必勝というが、[ギャンブルの]名人クラスになると、
相手のミスを導き出して、それを咎(とが)めるというのが本来の形であって、
それも相手に「自分がミスをした」と印象づけることが必要となってくる。
そうした結果、相手が動揺して悪手を打ったり、
まちがったりしてくれるというわけである。
運を自分の手で直接につかむことは想像以上に難しい。
すべてを相手側に委(ゆだ)ねることが大切だと知るべきだ」(P72)


結局のところ著者とわたしの共通認識としてあるのは、
勝敗なんかどうだっていいじゃないか? 勝負そのものが楽しいだろう?
勝敗を決める絶対者(運、神、仏)と対峙している昂揚ほどの悦楽が人生にあろうか?
勝ちや負けがどうでもよくなったものが勝つのである。
負けたってなんだよ。勝ったってそれがなんだって言うんだ。
勝負にはもっと危ないあの忘我の陶酔があるではないか?

「社会がどうだとか、なにが合法だとかいうことなど、どうだっていい。
ちゃんちゃらおかしい。善悪など関係ない。人はいつか死ぬし、馬も死ぬ」(P84)


植島啓司は東大の宗教学科の出身らしいが、当時は食えないことで有名だったらしい。
わかりやすく言うと東大の宗教学科を出ても就職先がない。
そうまでして植島が入った東大の宗教学科にはろくな学者がいなかったという。
いまだから言えるのだろうが、植島は東大の宗教学者はクソばかりだとシャウトしている。
そして、それはおそらく正しいとわたしも思う。
植島啓司青年がなぜ宗教学の門徒になったか本書に書かれており、
この箇所にいちばん感銘を受けた。植島はなぜ宗教学を志したのか?

「人間の心が通常とは違ってとんでもない歓喜に満ちた瞬間であるとか、
自分が自分じゃないように思える瞬間とか、
自分の心が相手に乗り移ってしまう瞬間とか、
どうしようもなくやりきれない瞬間とか、
いわゆる「神がかり」と呼ばれる状態についても、できるだけ
宗教のヴォキャブラリー[専門用語]をつかわずに説明したいと思ったのだ」(P112)


ちまちま善悪や損得を考えるのは我執に過ぎず、
そんな我執では勝負に勝つどころか、勝負の本質さえ見えないのではないか?
善悪や損得を越えた超我・無我の視点から大勝負をしてみてえぜ!

「ぼくらはギャンブルにおいてはつねに暴君のように振る舞わなければならない。
別に清廉潔白であってもいいが、
そんなふうにしていても誰にも褒められることはない。
だから、ギャンブルにおいては、
ただ合理的な判断力にすぐれているというのではダメで、
あえて「飽きっぽかったり」、「気分に左右されたり」、「一貫性がなかったり」、
「奇抜だったり」する必要があったりする。
ときには自分でも自分の行動が理解できないという方法を選択するかもしれない。
それほど自由でなければならないということである」(P173)


わたしはむかし(美香時代)から「人生は3G」と主張している。
人生なんて、ギャンブル、ゲーム、ギャグだから笑っちゃおうぜ。
いま当方は安酒をのみながら駄文を書いているが、
2017年の自分がこうなっているなんてまさかまさかで、ぜんぜんわからなかった。
その「わからない」が「運」であり、人によっては神仏になるのだろう。
どこまで旅のように人生を生きられるか。
いままで逢った人、別れた人、再会した人、この歳になるとみんな懐かしい。
そして、これからだれと出逢うのだろう。

「考えるべきはただひとつ。
いま自分がどういう状態にあるかをぼんやりと理解しておくべきだろう。
そして、他人にわかられないように生きること。
それによって起こることの意味も変わってくる。
いつも旅しているような生き方こそが必要なのだ。
明日はどこにいるのかわからない。
それなのに勝負となれば相手を一撃で仕留めてしまう」(P163)


わたしは植島啓司とおなじように「運」の存在を信じている。

「なぜ、あの人は運が良いのか?」(月行大道/経営者新書)

→40年生きていろいろ見聞した結果言えるのは人生は運じゃないか?
運と相反する態度は努力。人生は運ではなく努力しだいというもの。
占い師の著者も運やツキがテーマの本で努力を強調している。

「人生には努力が必要です。努力なしのツキは長続きしません」(P16)

あたかも自分が壮大な努力をしてきたみたいじゃないか、うふっ。
努力ってわかんない。
ある人が努力と感じることをべつの人は能力差ゆえに楽々とこなしてしまうわけだから。
たとえばこのブログ、「本の山」は努力か否か。
いちおう断っておくと、そこまで楽ではないんですよ。
ある本の感想を書けなくて数日、ときには1ヶ月寝かしておくなんてざらだし。
みなさん、真似できる? 無報酬だよ?
けれど、そこまで努力しているかというと、基本的に楽しんでいるからね。
なんだか少しずつ影響力が高まってきたという病的妄想も芽生えてきたし。

14日でいまの派遣仕事はひと区切り、
その後はどうするんですかと派遣会社の人から聞かれた。
「大丈夫です。わたしは運がいいから」と答えたものだ。
笑い話で、「もう父からも結婚や正社員を目指せと言われなくなりました」と。
実際、いまの状態だと無理でしょうし。
そうしたら派遣会社のSさんは慰めなのか本気なのか、
「そういうものは偶然やタイミングですから」とおっしゃってくださった。
まったくそうだよねえ。
本書から運をよくするコツをつかんで、みなさんもハッピーになってください。

「「自分を信じて楽しく生きる」ことこそ、
「運をつかむ」=「幸せになる」ための条件であり、
「自分を信じて、楽しく生きる」ことができれば、
運は自然と運ばれてくると教えています」(P32)


「教える」って占い師風情がずいぶん大きく出たなあ。
でも、ハッタリみたいなものって自由業の人にはいちばんたいせつなのかも。
成功とはなにを意味するかよくわからないけれど、
占い師の著者によると成功は――。

「そもそも成功は、その人を中心として「天地人」がすべて揃ったときにはじめて
手に入るものです。「天地人」とはすなわち、
時流(=天)、場所(=地)、自分自身と協力してくれる人々(=人)のことです。
その商品やアイデアが求められているちょうどいい時代に、
その商品を受け入れる土壌があって、
ふさわしい協力者を引き寄せると成功はつかめるのです」(P80)


成功なんかしなくても、その日が楽しければおいらはいいや。
明日は早いからもう寝るずら。あさってのことなんか知らねえさ。
なんかひさびさに職場のみなさまと会う気がしてどきどき、わくわく。
もうすぐお別れなのも、なーんか人生劇場を感じさせてくれ、よきかなよきかな。

「確率的発想法」(小島寛之/NHKブックス)

→信頼している著者の机上の学問ではない実質的な経済本を読む。
著者は長い社会人経験を経て30半ばを過ぎてから大学院へ入学したとのこと。
このような多少異質な経歴が著者の本をおもしろくしているのだと思う。

この本は読めばためになるのだが、だから読んでとしか書かなかったら無責任。
それにわたしはいままで多くの人のお世話になってきたという勘違い、
あるいは妄想があり、少しでもそれをみなさまに返したいという思いから、
まあ、いくら一般書とはいえ
一般人にはなかなか読み通せないだろう(思った以上に難解な)本書を要約する。
いちばん衝撃だったのが一見正反対に思えるギャンブルと保険が、
おなじような確率計算のもとに成り立っているビジネスだと本書で知ったことである。
ギャンブルも保険も確率の上では損をする。
しかし、人はなにかを求めてギャンブルに走り、保険に頼りたくなってしまう。
そのなにかの正体とは――。
ギャンブルにはまる人は「確実よりも変動を好む性向」を持っており、
このために確率的にはお得とは言えない公的賭博行為に散財する。
言い換えれば、ギャンブル好きは「リスク愛好的」である。
保険に入る堅実な人は「変動を嫌う性向」を持っており、
このために確率的には損と言わざるをえない保険に加入する。
彼らは「リスク回避的」と言うことができよう。
ギャンブルが損だというのは確率計算上、わかっていたが、
賭け事の正反対ともいうべき保険も確率計算上はあまりお得ではないのか。
本書によると、たとえば火災保険。
火災なんて確率的にはめったに起こらないでしょう?
でも、ひとたび不運にも火災が起こったらその一軒は大損をする。
このために人は割高な火災保険に入り、たいていは確率的に火災など起こらないので、
その金をどぶに捨てることになり、
そのぶんの利ざやを保険会社が儲けることになるわけだ。
ギャンブルと保険はおなじ(確率計算上)仕組みで成り立っていると書いたが、
それでも競馬や宝くじなどの公営ギャンブルに比べたら保険会社は公益性があるらしい。
まあ、保険会社は競馬や宝くじなどをする胴元の国家よりもよほど良心的であると。
本書からその部分を引用するのは、
わたしも保険会社は人さまのお役に立つ(たとえるなら医者やナースとおなじ)
たいへん価値のある職種のひとつだと思っているからである。
経験から申すと、保険会社の人は驚くほど親切で、
公務員かそれ以上に人さまのお役に立っている。

「保険が成立する背景には、
人びとの内面的歪み[将来への不安]の利用だけでなく、
もう一つ秘密の仕組みがあります。
それは「大数の法則」の利用です。
[「大数の法則」とはサンプル数を増やせば、
そのぶん事象は確率上計算結果に近づくこと]
火災が、たとえば一万分の一の確率で起きる場合、
一万件程度の人々が結託して相互補助として火災見舞金制度を作ったとしても、
そこには大きなリスクが残ります。
それというのは、もし火災が一件ではなく、偶然二件、三件起こったら、
見舞金を互助会の会費から補償することはことは不可能になるからです。
加入件数が少ないと、大数の法則にはあずかることができず、
火災が確率通りではなく予想より多く起こってしまう可能性が少なくないのです。
けれども保険会社が一〇〇万件や一〇〇〇万件の契約を取ると、
そこには大数の法則が働き、出費額はほぼ予想通りになると想定できます。
これこそ大数の法則のご利益です、
このように保険制度というのは、
たんに人々の変動を嫌う性質を逆手(さかて)に取って稼ぐというだけのものではなく、
「個人の不確実性」を「集団の不確実性」に変質させる営為だといえるわけで、
ある種の「公益性」をもっていると考えられます」(P79)


お医者さんやナースさまも偉いが、

保険会社の人たちも偉い! とっても偉い!

みなさまは「リスク愛好的」でしょうか? それとも「リスク回避的」?
わたしはギャンブルはやらないから「リスク愛好的」ではないが、
生命保険にはひとつも入っていないから「リスク回避的」とも言えないだろう。
そろそろ「都民共済」くらい入ろうとは思っているけれども。
しかし、どちらかというと「リスク愛好的」と言えなくもないだろう。
基本的に日本人は「リスク回避的」な人が多いような気がする。
いい会社に入ってそこに長く居続け、
いつ来るかわかりゃしない老後の安泰を目指すというのはまさに「リスク回避的」。
異質な「リスク愛好的」な人がみんなと違うことをすることを見るたびに、
「リスク回避的」な保守的善人は、

危ない! と思うことだろう。

変な話をいつものようにすると、交通事故は確率的事象なのね。
どれだけパトカーがノルマのためか(本当にノルマなんてあるんですか?)
安全取り締まりをやっても(あれの罰金は高いんだってねえ)、
交通事故は毎年かならずある割合のもとに発生する確率的な悲劇である。
交通事故はもうどうしようもない世界で、いくら注意していても運転がうまくても、
相手がいきなり飛び出てきたらアウトの世界だから。
で、ひとたび交通事故で人を殺しちゃったらその後は賠償金やら罪悪感で地獄。
これは数学的に見たら、だれも悪くない、
自動車社会において確率上一定割合で起こらざるをえない悲しい出来事なのだが。
極論を言えば、交通死亡事故は自動車社会(ネット通販)の恩恵を受けている、
われわれのひとりひとりに罪があるということもできよう。
わたしはペーパードライバーだが、それでも研修を受ければ運転はできようが、
最後の最後までドライバー職はリスクが高すぎるので避けたいと思っている。
小さな子どもを轢(ひ)いちゃうとか、加害者はあるいは遺族以上に地獄だろう。

小島寛之さんは社会人経験がある経済学者だからよくものをわかっている。
この本は著者のべつのご著作同様たいへん勉強になりました。
マルクスが言ったとかいう、労働者は資本家に搾取されているとかいうあれは、
いまの経済学から見たら眉唾(まゆつば)なのかもしれない。
わたしは「リスク愛好的」なのか、いやたんに能力不足のせいだろう。
いま変動性が高く身分の低い派遣で小銭を稼いでいる。
いっぽうで「リスク回避的」な人はサラリーマン(正社員)として
「固定給与」得ていることが多いと思われる。
どうして労働者は安定した「固定給与」を求めながら、
なかにはマルクスに洗脳され資本家を憎むものが現われるのか。
以下は長文だが、尋常ならざる卓見だと思う。
お疲れでしょうが、どうか目薬をさしながらでもお読みください。

「一般の企業における「固定給与」のことを考えてみましょう。
会社の業績は景気やライバル会社との競争に依存して決まります。
したがって、売上は不確実に変動するのが一般的です。
にもかかわらず、多くの会社で従業員に対して
固定給与制度を採用しているのはどうしてでしょうか。
それは従業員と経営者の間の変動に対する態度の違いを
反映したものだと考えるのが自然でしょう。
従業員はリスク回避的性向が強く、収入の期待値が同じなら
変動給与より安定した収入のほうを望むと考えられます。
たとえば五分五分の確率で一〇〇万円かゼロ万円か、という給与と、
固定給与四〇万円というのでは、多くの従業員が固定給のほうを望むでしょう。
期待値は前者が五〇万円ですから、
平均的には前者のほうが高額であるにもかかわらず、
従業員は後者を選ぶものなのです。それは「変動を嫌う」性向のゆえです。
一方経営者は、従業員よりも多少変動に対して寛容なので、
売上の変動はすべて経営者が引き受けることになります。
すると平均的な差額の一〇万円は経営者の懐に収まる算段になるのです。
つまり、業績低迷のあおりはすべて引き受けるかわりに、
好成績の甘い蜜のほとんどを経営者がもっていく、
そういう構図になっていると考えられます。
従業員よりも経営者のほうがリスク回避の性向が小さいことは、
資産格差で説明されるのが一般的です。
従業員の多くは、蓄(たくわ)えがさほど大きくないため、
収入の変動は生活を直撃します。
彼らがそれを避けたいと思うのは不思議ではありません。
それに対して経営者のほうは、そもそも資産家だったり、
多角経営をしていたりするために、
収入の変動には蓄えを取り崩すなどして対応でき、
変動に強い性向をもっていると考えられます。
これが、会社における固定給与の背後に潜む社会性なのです。
このように現代の経済学では、固定給与性は、
資本家と労働者の対立関係からではなく、
変動に対する内面的な歪み[思い込み]の差異によって説明されるのが一般的です」(P80)


以上のように考えると、労働者は資本家からリスクを搾取しているとも言えよう。
まあ、決められた給与を支払わないような経営者は大いに問題ありだが。
サラリーマンでは儲からないから、投資家(資本家)になれという風潮があるようだ。
でもさ、いかにもいかがわしい投資本を読んでもさっぱり意味がわからないじゃない。
そのぶん、この名著は10年以上、
当方がわからなかったデリバティブ(金融派生商品)の意味をわかりやすく説明している。
本当に理解していないとものごとをうまく相手に伝わるよう説明できない。

「金融派生商品[デリバティブ]の開発で、
社会はリスクという実体のないものを商取引することになりました。
世の中には変動を怖がる性向の人がいます。
他方には、相対的に変動を嫌わない人もいます。
さらには、変動を利用して、稼ごうという人もいます。それが投機家です。
前者から後者にお金を払い、後者から前者に「確定性」が
引き渡される商取引の総体がデリバティブだと理解していいでしょう」(P82)


わかりやすいよなあ。著者は本当にあたまがいいのだろう。
だれだってリスクは怖い。
しかし、人生はリスクに満ちているとも言いうる。
著者は限りなく、天才学者に近いから、確率の嘘も見抜いているのである。
というのも、確率ってよく考えるとインチキとも言えるわけ。
なぜなら確率というのは、過去に起こったことを数値化して将来を予測している。
ならば、だとしたら過去に起こったことがないこと、前例がないことの確率計算はできない。
たとえばむかしはネットなんてなかったし、
無名人が実名ブログで好き勝手なことを書いたらどうなるかという過去の統計はない。
このため、今後当方の人生がどうなるかの確率計算はできない。
同様、まったくの新商売を始める場合、それは過去の統計(サンプル)がないから、
結果がどうなるかの確率は出てこない。
これは「リスク」という概念を発明したナイトという経済学者が、
「本当の不確実性」と(リスクから)区分したものである。
リスクは確率で計算できるが「本当の不確実性」は確率(数学、経済学)の領域外にある。

「ナイトの発想はこうです。世界で起きるできごとは、
複雑な要因に支配され、決して同一の環境からものごとが生起することはありえない。
したがって、独立試行を反復的に行うことによって
導かれる大数の法則を後ろ盾にした「数学的確率」は、
現実の不確実性を描写してはいない。
ナイトはこのような数学的確率(リスク)を「偶然ゲームの必然的確実性」と呼び、
現実への有効性を一蹴(いっしゅう/バカに)しました。
過去のデータから未来を予測することを無意味だとするのも同じ理由からです。
ビジネスの世界で重要になるのは、このような反復的観測ではなく、
しばしば「サプライズ(意外性)」であると彼はいいます。
実際、「サプライズ」という用語は現代の株式市場でもいまだにキーワードのひとつです」(P113)


「本当の不確実性」に対抗するにはふたつの方法がある。
ひとつは不確実性を減少させるために、とにかく情報を集めること。
うまい儲け話はないというけれど、あるところにはあるのだろう。
みんなが不確実性にびくびく脅えているところで確実な情報を持っていたら――。

「……9・11テロの直前に、
何者かが株式市場で大量の空売りをしたことがわかっています。
これは所有していない株を売っておいて、
世界中で株が暴落したあとに買い戻し、大儲けした例で、
テロを事前に知っていた人物ではないか、と疑われています」(P126)


もうひとつ不確実性に対処する方法は、こちらも不確実性に徹すること。
世界がデタラメ(不確実性)ならば、こちらもデタラメに生きれば五分五分にはなる。
どうせ投資なんか損をするのがほとんどなのだから五分五分でもおいしい話。
以下はそのことを書いている。

「また、確率現象というものを戦略として積極的に利用する場面もあります。
人は何かの勝負のとき、相手に手を読まれないようにするでしょう。
しかし、どうしても固有の癖があってそれを読まれてしまい、負けることがある。
そうならないために、サイコロを振ったり、乱数表を利用したりして、
相手を攪乱(かくらん)するのです。有名な例としては、
プロ野球のピッチャーが投げる球種を決めるのにグローブに貼った乱数表を利用する、
というのが流行ったことがありました。
後に試合時間の短縮のために禁じられましたが、これこそ確率の有効利用です。
別の例では、入試の試験問題の選択肢を乱数で作っている、というのがあります。
そうしないと、出題者の心理的な癖を受験生に読まれて
(あるいは統計をとって見抜かれて)、
勉強していないにもかかわらず高得点を取られてしまう可能性が否めないからです。
これをもっとも上手に利用したのが、
クイズ番組「クイズ・ミリオネア」(二〇〇四年の正月に放送)
に出演した新庄剛選手でした。
彼は、最後に出題された択一式の難問の答えを、鉛筆を転がして決めたのです。
それでみごと一〇〇〇万円を手にしました。
考えてみるとクイズ番組というのは、
いかにも取り違えそうな選択肢を混ぜるものでしょう。
だとすれば、考え悩んだあげく出題者の仕掛けた罠(わな)にはまるより、
むしろ完全な確率現象を利用するほうが有効なのかもしれません。
新庄選手の戦略は、
真の意味で有効な確率的発想法だったといっても過言はないのです」(P39)


わたしは「リスク愛好的」な性向を持ち、
世界はリスクの計算などできるものではなく、
「本当の不確実性」に満ちていると人生体験からも読書体験からも信じている。
これは「サプライズ」が起こることを信じているのと同義である。
確率計算できない「サプライズ」とは人との出会いであり別れだ。
計算式ではどうしようもなく表わせない人生における「救い」のようなものを
著者は本書に書いている。

「簡単なたとえ話で恐縮ですが、こんな経験が誰にも少なからずあるでしょう。
駅までの道のりを歩くとき、すべての道を試したわけではないのに、
一番いいと思い込んでいる道ばかり毎日毎日利用しがちです。
けれどもある日、誰かと偶然一緒に駅まで歩くことになって、
その人が使う別の道をいっしょに歩いてみると、
そちらの道のほうが(近さや安全さ快適さの意味で)より良好であると気がつく、
そんな感じのことです」(P202)


そういう学問では予測できないサプライズが起こるから、みんな絶望するなよ!
あわよくば自分がそういうサプライズを起こせたら、とみんなが思えたら。
わたしはサプライズを多く実体験しているから、
今後のサプライズにも微動だにせずむしろ喜々として向き合うことができよう。
小著から著者の意図するところ以上のものを読み取ってしまったのかもしれない。
(つまり、誤読したかもしれんスマンってことさ)

(関連図書)
「容疑者ケインズ」(小島寛之/ピンポイント選書/プレジデント社)
使える! 経済学の考え方 みんなをより幸せにするための論理」(小島寛之/ちくま新書)
「数学的思考の技術」(小島寛之/ベスト新書)
「文系のための数学教室」(小島寛之/講談社現代新書)
「使える!確率思考」(小島寛之/ちくま新書)

「カンの正体」(桜井章一/知的発見BOOKS/イーストプレス)

→孔子は「四十にして惑わず」と言ったらしいけれど、
もうすぐ40の大台の乗るのに惑いまくり、迷いまくり、わからない、わからない。
いったいどういう基準で人生の選択をしていったらいいのか。
教えて自称伝説の最強雀鬼さま。
いまは過去のハッタリ(?)履歴で食べている麻雀屋経営のおやっさん。
肩書ゼロの自称最強の雀荘のオヤジは言う。
人生の選択肢はなにが「正しい」のか人間にはわからない。

「社会の常識という看板を下ろしたとき、何を基準に選ぶか。
それは「おもしろいかどうか」である。
「おもしろいな」「楽しいな」「笑えるな」ということを基準に選んでいけば、
自然と笑顔が出てくるようになる。
そういうものを基準にして、良いこと、悪いことを自分で感じていけばいい」(P43)


わたしも基本的に人生を「おもしろい/おもしろくない」で選択してきた。
けれども、雀鬼の千分の一ほどもおいしい思いをしていない。
つねにはずれくじを引いてきたというような誤った被害者意識に拘泥している。
あのときあの人の助言にしたがって仏教大学院に行って、
「正しい」とされる学問をしていたら、これほどみじめな境遇にはならなかったのか。
いまはもう死語だが、ちょいワルおやじの雀鬼はとにかく学校がお嫌いなようである。

「何度も言っているが学校で教わる学問はマニュアルだ。
答えがわかっていることを勉強しているにすぎない。
答えが先にありきなのだから、時間を使って勉強すれば、誰にでもできる。
そんなもんは、ウソだ。
本当の学問というのは、答えが定まっていないことを見つけに行くことだ。
定まっていることを学ぶことは、学問でもなんでもない。
定まっていないものを感じたり、
知りに行ったりするのが本当の学問の世界なんだと私は思う。
逆に言えば、定まっていることは、それ自体が大したことではないということ。
先ほど述べた「良いこと、悪いこと」というのも、誰かが定めたことである」(P37)


世間的にいえば、「正しい」答えは社会上層部の権力者が決めており、
新参者が生意気千番にも既存の「正しい」答えを疑うようなことをしたら、
冷遇されるならまだしもよくて完全無視どころか
下手をすると迫害さえされかねないのだが、そこは成功者にはわからないこと。
雀鬼はいちおうのところ金持だし、心酔者も弟子も多いし、成功者と言っていいのでは?
成功者の著者は成功者の話など聞くなという。
なぜなら自慢話が好きな成功者はインチキのケースが多い。本当のことを言わない。

「また成功者は自分が苦労した話や、うまくいった話しかしない。
簡単に言えば、いいことしか話さないのだ。
同業他社を蹴落として倒産させた話、下請け会社を切り捨てた話、
辞めていった社員の話などはいっさいしない。
そもそも世の中の成功法則というものが、すべての人に共通であれば、
すべての人(もしくは、それを学んだすべての人)が成功しているはずである。
そういう現実を目にすると、成功とは十人十色であり
そのための方法も十人十色だということだ」(P127)


要するに、世間ならぬ自分を信じろってことだと思う。
でもでもでもさ、ひとりじゃ自分のことなんか信じられないよ。
異性からの愛のようなものがほしい。
そういうのがあれば自信を持てるのかもしれない。
しかし、雀鬼に愛を語らせるとこうなる。
これは「正しい」とわたしは思うが、むろんのこと普遍的な絶対真理ではない。
雀鬼いわく、愛など損得勘定にすぎない。

「利用できる間は「愛」だと言って。利用できなくなったら「愛が薄れた」と言う。
みんな「愛がすべてだ」みたいなことを言うけど、
結局、愛も損得勘定でしかない」(P30)


わたしが言っているのではなく雀鬼の主張だが、愛は損得勘定。
出世や成功をした男のところには女が集まるでしょう。
「他人の評価」が高い男女はもてる。
それはぜんぜん悪くもなんともなく愛は損得勘定なのだから、
得ができそうな男の周辺に女が集まるのは自然にかなっている。
肩書と金さえあればゴキブリのように女が寄ってくる。
すべては「他人の評価」で決まる。
成功者や有名人は「他人の評価」を得ている。
この世で「他人の評価」ほど尊いものはなく、
高い「他人の評価」を持っている人に男女ともにひれ伏す。
「他人の評価」を得たいならばすでに「他人の評価」を得ている人に奉仕するしかない。
「他人の評価」をお持ちの方が、さらなるいい思いをできるのはこのためだ。
肩書とは、おれはこれだけ「他人の評価」を得ているという看板のようなもの。
「他人の評価」=肩書さえあれば、かなり好き勝手なことをできる。
繰り返すが「他人の評価」を得たかったら、
いま「他人の評価」を多く所持している方におこぼれをいただくほかない。
この「他人の評価」のことを権力という人もいる。

でもでもでもさ、けどけどけどね、本当の愛は違うよね、と雀鬼は言う。
愛なんて難しいことではなく、いっしょにいて楽しいかどうかじゃん。
まるで世間知らずの女子高生のようなことを言う雀鬼を嫌いになれない。

「異性で考えたらわかりやすい。
好きな人が隣にいたら、すごくうれしいだろうし、
お茶一杯だけであっても、何時間でも楽しい時間を過ごせる。
逆に、イヤな人が隣にいたら、
どんなにおいしい料理を出されても、苦痛の時間でしかない」(P43)


たしかにどんな美人でもいっしょにいて不快だったら楽しくない。
いくら高給の大企業でも毎日不愉快事の連続だったら、そんな職場は辞めたほうがいい。
どれほど肩書が高い偉人でも嫌いだったらパンダキックを食らわせてやれ。
まったく世間を知らない雀鬼の言葉が同類かもしれぬ当方には心地よい。

「売る力 心をつかむ仕事術」 (鈴木敏文/文春新書)

→日本初のコンビニ、セブンイレブンの創業者にして会長のベストセラーを読む。
もっともセブンイレブンだけでパートやアルバイトをふくめると30万人。
関連物流会社やベンダー(商品協力会社)関係まで数に入れたら
少なく見積もっても百万人、
正確に計算したら数百万人レベルの労働者がセブン周辺にはいるのではないか。
セブンに食わせてもらっているのなら会長の本くらい読めよと思うけれど、
本書はベストセラーとはいえ、それほど売れてはなさそうなので、
信者に本を買わせるという面では創価学会の池田名誉会長のほうが
セブンの鈴木会長よりも上になろう(それがいいのか悪いのかはわからない)。
おっさんのわたしは少しまえまでコンビニは高くてまずくて危なくて、
スーパーのほうがよほどいいと思い込んでいた。
ところが、いま当方にとってはかなりの高給が運よく舞い込んできたので
セブンの商品を買ったら意外や意外、
これが想像以上にうまいのだから世の中はわからないことだらけである。
個人商店ファン(商店街が好き)はスーパーができたとき、
あいつらは人間味がないと嘆いたことだろう。
その商店街が消え、スーパーの時代が来る。親の洗脳かわたしはスーパー派閥だった。
スーパー好きは、コンビニなんて便利なだけで高くてまずいと思っている。
実際はそれほどコンビニ購買経験がないのにもかかわらずだ。
行ってみたら買ってみたら食べてみたら、
スーパー程度の安さでスーパーよりもうまい商品はいくらでもあったのである。
むろん得手不得手はあり、
コンビニがなにをしてもかなわないのが生モノの魚介類だろう(刺身)。生肉もそう。
コンビニ(セブンイレブン)のよさを発見したのは、この齢でさえ新鮮だった。
日本ではじめてコンビニを創った人は
どのようなことを考えているのか興味を持ち本書を読む。
ローソンもファミリーマートもセブンイレブンの真似といえば、
そういえなくもないのかもしれない
(実際は経済界は不勉強ゆえどうだかわかりませんけれど)。
コンビニ業界「ひとり勝ち」の鈴木会長はどうしてこんなに運がいいのですか?

「既存の常識や過去の経験にとらわれない行動が、
普通だったらなかなか出あえない幸運に結びつく。
多くの人が妥協するところを妥協せずにきわめようとする行動が、
そう簡単には手の届かない運を引きつける。
自分のビジネス人生を振り返ってみると、その連続だったようにも思います。
ビジネスは能力や努力だけではなく、運にも左右されます。
その運は偶然の部分がかなりあります。
しかし、過去の経験や既存の常識を超えた挑戦や努力をすることで、
普通に行動していたらめぐりあえないような
幸運も引き寄せることができるのです。
世のなかを見渡すと、大きな成功をなし遂げた人たちはたいてい、
「運がよかった」といいます」(P241)


日本に一店もコンビニがなかった時代には、
この国でセブンイレブン(コンビニ)を開業して成功する確率はゼロパーセントだったのだ。
言い換えたら、未知数。わからない。
本当に新しいことは過去の統計がないから確率も期待値も計算できない。
いまコンビニとフランチャイズ契約してどうなるかは、
ある程度の情報で推測できるともいえるが
(正確にはこれまたやってみないとわからない)、
鈴木会長がセブンを開業したときの成功確率はおそらくゼロパーセントであった。
みんながみんな、過去のパターン(いまでいう統計←これがわたしは大嫌い)から
どうせコンビニなんかやったってこの国では成功しないと批判的だったことであろう。
日本コンビニエンストストアのパイオニア(開拓者)である鈴木会長はいう。

「経験的に[統計的に]「いい」と思われることはみんながやるから、
結局、競合になってしまい、ますます厳しい状況になる。
みんなが「いい」と思うことなどやる必要はなくて、
むしろ、「そんなのだめだろう」と思うようなことに意味がある。
みんなが賛成することはたいてい失敗し、反対されることはなぜか成功する。
それはわたしの経験に限ったことではないようで、
これまでお会いした[成功者の]方々も同様の経験をお持ちのようでした」(P88)


演劇が主流だったときには、映画なんてだめだろうと思われていた。
日本でも映画業界が斜陽になったとき、
映画人はそれでもテレビには行きたくないと多くのものが思っていたという。
いまはテレビも雑誌も斜陽だが、
そういうマスコミ人はあれをバカにするがパイオニアの鈴木会長はそうではない。

「本格的なネット時代の到来するなかで、確実にいえることは、
「ネットを制したものがリアルも制する」ということです。
ネットとリアル、両方の動きを見ると、
それがすでに現実のものとなろうとしています」(P186)


ネットとはひと言でいえば、無料文化である。
わたしだって一銭にもならないのに、このような駄文をそうと知りながら書いている。
断じてまったくゆめゆめお金がほしくないわけではないが、
それほど物欲がないというのもこっそり白状する秘密である。
ほしいものがない。これってみなさまのかなりの本音ではありませんか?
繰り返すと、ほしいものがない。
商売人がいちばん恐ろしい、この「ほしいものがない」は大チャンスなのかもしれない。
自分が本当にあればいいと思うものを、
自分のあたまで考え周囲に提供したらどうなるか?
おにぎりを最初にコンビニで売り出したのもセブンなら、
高価格帯(200円以上!)おにぎりをはじめて売ってみたのもセブンだそうだ。
どちらも売れに売れた。同業他社からさんざん真似をされた。

「このようにセブン-イレブンには数々のヒット商品がありますが、
もし発売前にアンケート調査などを行い、
「こんな商品が出たら買うか」と質問していたら、
「買わない」と[お客様が]答えたであろう商品も少なくありません。
それが、商品となって店頭に並んだ途端、お客様は手を伸ばすのです。
消費が飽和したいまの時代は、消費者は商品の現物を目の前に提示されて、
初めてこんなものがほしかったと潜在的なニーズに気づき、答えが逆転します。
現代の消費者は「いうこと」と「行うこと」が必ずしも一致しない。
消費者自身にも具体的なイメージをもって
「こういう商品がほしい」という意見がない時代なのです」(P117)


このたび偶然にたまたまセブンイレブンに興味を持って商品を食してみた。
これがうまい。この価格帯でこれほどうまいものがあることを知った。
そうなると、ほかのものを食べてみたくなる。
しかし、そのためにはコンビニ食品は高いから金が必要だ。
どうしたらお金を得られるのか大金持の鈴木会長に聞いてみよう。
各分野の成功者との交流もひんぱんにしているセブン会長はいう。

「「目先の百万円の売り上げのために、将来の一億円を失うことがあってはならない。
その点はこだわりをもってやってきました」
目先の百万円のために、将来の一億円を失ってはならない。
Francfrace[←なにこれ?]が便座カバーを置かないという話はとても教訓的です。
人間は、得られるはずの長期的な利益が多くても[1億円!]、
実感できるまでに時間がかかった場合[5年、10年、15年!]、
その[目先の]時間によって大きさが割り引かれてしまい、
目先の短絡的な利益[先々の1億円よりもいまの百万円!]のほうを
大きく感じてしまう傾向があります」(P205)


この鈴木会長の教えを信じて預貯金をすべて溶かすどころか
借金さえするであろうセブンオーナーがいるいっぽうで、
本当に実際に儲けている店主もいるのだから(いるいる!)、
まったくまったく本当にセブンイレブン創業者のいうことは「正しい」。
なにより運や偶然の存在を深々と認めているところが鈴木会長の偉いところだ。

「八割できなくても幸せになれる」(桜井章一/竹書房新書)

→酔っぱらうと、世間すべてが間違えているんじゃないかって思うときもあるわけ。
ぐだぐだ酒を飲んでいるのでからんでみたら、
本書のタイトルでいえば「幸せになれる」――。
どうして人は幸せにならなきゃいけないわけ?
著者は低学歴で受賞歴ゼロのまったく肩書のない雀荘のクソオヤジ。くうう、ええねえ。
けんど、いったい、なしてこないダメジジイの本が繰り返しベストセラーになるわけ?
本当はなにもかにも「わからない」というのが本当だろう。
本当はどうなっているのか「わからない」のが本当だんべ。
要は、成功者や勝利者の言葉がかりそめの「本当」として流通しているわけでしょう?
もう人生ギブアップ直前なので、あこがれの人はだれもいない。
あのような人になりたいという願望はまったくない。
しょせんわたしはわたしでしかなかった。
この顔で生まれこの知能でこの程度の運でここらあたりで死ぬべき存在なのか。

世の中は運ではなく、信心いかんだという集団も存在する(創価学会)。
そうかもしれないし、そうではないかもしれないし、それは「わからない」。
当方はことさら池田大作名誉会長のようになりたいとは思わない。
わたしはどのみちわたしに過ぎないし、死ねばほとけさまになれるのだから。
あこがれの人はいま男女ともにいない。嫉妬がないということだ。
わたしはわたしでしかない。
けれど、ちょっどだけでいいからおいしい思いをさせてよ、
という乞食願望があることは恥ずかしくも白状する。ラッキーがほしい。
他力本願のいわば棚ぼたのラッキーを求めて、こういう本を読むと、
うさんくせえ煮ても焼いても食えなさそうなじいさんがこんなことを言っている。

「私は、ラッキーを呼ぶための基本は「花咲かじじい」だと思っています。
欲のないおじいさんが、全く何の見返りを求めず正直に暮らしていたら、
畑から小判が出てきた。
さらに灰を撒(ま)けば桜の花が咲き、殿様からご褒美をいただいた。
そして、それを見た欲張りじいさんが同じことを真似したら、とんでもないことが起こった。
「人がやってラッキーだったから、自分もやってみよう」なんて、
邪(よこしま)な気持ちで何かをしても、うまくいくものではありません」(P24)


「最強確率論 ――「絶対無敗」の法則」(石橋達也/学研新書)

→なんとも怪しげな本(2010年刊)を買うばかりではなく読んでもしまう、あはっ。
著者は「あの人はいま?」状態になっている、むかし流行ったパチプロとのこと。
ほんとうにパチプロなんているのかなあ。
大学教授の谷岡一郎氏はパチプロは存在可能で、
30日労働で月収30万の世界だとある本のなかで書いていた。
教授は30万ごときといった感じで書いていたが、30万ももらえるならやりたいなあ。
でも、ぼく、パチンコはやったことがないし、たぶんセンスがないと思うから。
さて、パチプロの著者は大学教授と正反対の主張をしているのである。
パチンコは胴元が中抜きしていない、控除率がないと――。
競馬は胴元が控除するというところは両者の共通見解である。

「……パチンコは胴元とプレイヤーとの直接の勝負。
釘の調整次第では胴元が損をする場合もあり得るのだ」(P17)


これはぼくにはわからないのね。パチンコをやったことがないから。
でも、そっかあ。そうだよなあ。
パチンコはプレイヤーと胴元の一対一の勝負のような気がする。
うまく玉の出る台を見破れば常勝することも可能なのかもしれない(よくわからんが)。
だとしたら、あの大学教授が計算したという控除率はなんなのだろう。
それは全体としてはパチンコ店は儲けているのは理解できるけれど。
とてもインチキくさい著者が確率を否定しているのだが、それはぼくも考えたことがある。
大数の法則への違和感をパチプロの著者は表明している。
大数の法則とは、短期間(10回とか)ではサイコロの出目はデタラメだが、
1万回サイコロを振ったら出目はそれぞれ1/6ずつになるという確率の大原則だ。
むかしパチプロで有名だった著者は大数の法則を果敢にも否定する。

「次は自分なりに考えた「大数の法則」について説明しよう。
「確率が調整されることは決してない!」。
その理由は、サイコロに記憶装置がないからだ。
1が3回続けて出た後も、1が20回続けて出ていないときも、
サイコロ自身はそういった過去の履歴は覚えていない。
だから「神様が確率を調整する」というのはまったく確率学的な考え方ではないのだ。
では大数の法則をどのように理解すればいいのか?
個人的には、まったくの「無」と考えるようにしている。
だから調整する第三者もいないと思っているし、
法則としてさえ捉えないようにしている。
今では大数の法則よりも大切なモノがあるとすら思い始めている」(P46)


電波が入っているような気がしなくもないが(いや電波むんむんだが)、
著者の言うところを理解できないわけでもなく(うん? ぼくも電波系か?)、
大数の法則にしたがうならば確率的にパチンコで勝ち続けることはできないが、
統計学的にはパチプロも必然的に存在するということになるのだから。
生存確率1%の手術でも成功する人はいるし、
90%安全な手術に失敗して亡くなる人もいるわけだ。
そもそも確率というのは過去の統計データを参考にした数値である。
もし過去の統計データに存在しないような人間が現われたら彼に確率は適応できるのか。
過去の統計から未来の事象を予測しようというのが確率である。
しかし、過去の統計データにない事象の未来予測はできないし、確率も計算できない。
本当に新しいものは将来どうなるかわからないし確率もわからないのではないか。
著者が指摘していることだが、インターネット。
20年まえにネットがいまのようになるとはだれも予測できなかった。
もし予測できていたら(成功確率がわかっていたら)大儲けしていたのである。
しかし、おそらく20年まえにネットで成功する確率は1%くらいだったのではないか。
あれえ、あれえ、本当は未来予測に関するかぎり確率は当てにならないのではないか。
過去の統計にないことに関しては確率はわからないのである。
怪しげなビジネス書の煽(あお)り文句のようだが引用する。

「稼ぐ人はとにかく今を生きる。
隙間に入っていって儲けるヒントをわしづかみにするのだ。
ネットのように大きなうねりは10年に1回くらいの変革だが、
様々な業界で特需は生まれる。特に新しい業界、新しい試みの場合、
それをいかに敏感に察知し行動を起こすかだ。
先駆者となれば、そこで儲けが生まれる」(P160)


確率や統計というものは、個人差をまったく認めない数学的発想である。
太郎と花子の差を認めず、みなひとつのおなじ標本点として扱うのが統計学である。
しかし、太郎と花子は違うだろうという言い方もまたできるのではないか?
これを書いているぼくと読んでいるあなたはぜんぜん違うわけでしょう?
それを一緒くたにして統計的にとらえ、
そのうえで確率を計算する数学的発想で果たして人間や人生を把握しえるのか?
以下の引用で著者はそういうことを言っているのではないかと思う。
著者は麻雀の話をしている。

「超能力的にツモが強いという人がいるとする。
その人が、ネット麻雀で同様なヒキを発揮できるか?
どう考えても常に強いツモがくるとは考えられない。
自分は麻雀はヘタだがネット麻雀となると話は別。
ツモも別段、超能力的なものを感じずランダムに来るように感じる。
少なくとも普段雀荘で打っている感じとは異なる。
威圧感、不安感のなさがそう思わせるのだろう。
邪馬台国を率いた卑弥呼など「いるだけで圧倒的な存在感」があったと思われ、
当時ならば一種の超能力といえる」(P175)


食べても食べても太らない人っているよねえ。
大酒のみでヘビースモーカーなのに長生きしてるクソじじいとかもいるいる。
そういう存在は科学的(数学的)には「統計上の揺らぎ」なのだろう。
しかし、いるものはいるんだから。
確率や統計ってどこまで信じられるのだろうか。わっかんねえなあ。

「確率・統計であばくギャンブルのからくり 「絶対儲かる必勝法」のウソ」(谷岡一郎/講談社ブルーバックス)

→このブログはじつは女子高生に向けて書いているので(え?)、
これはみんな知っている常識のようなものだけれども、
いちおう庶民の夢である宝くじの裏側を書いておこう。
宝くじはみんなから集めたお金を一部の人に高額還元するシステムになっている。
ところが、巻き上げた金をぜんぶ還元するわけではない。
国が中抜きをしたあとのお金から分配するのである。
この中抜きを控除率(こうじょりつ/天引き)という。
宝くじの場合、どのくらい中抜きされるかというと(控除率は)53.2%。
われわれが返ってくると期待できる数字は(これを期待値という)46.8%。
だから、まあ毎年買えば買うほど損をするのである。
わたしが推薦する宝くじのいちばんいい買い方は1枚だけ買うこと。
宝くじは1枚買おうが千枚買おうが高額当選する確率はほぼゼロなのである。
ならば、1枚300円ぽっちで夢を買えるのはかなりお得だと思う。

競馬も集めたお金をすべて勝ち馬券保有者に分配しているわけではない。
胴元(JRA)が25%中抜きしたあとの75%を分配しているわけである。
難しく書くと競馬の期待値は75%で控除率は25%になる。
以下、本書から抜き書きすると――。
ルーレット(アメリカ):期待値94.74%、控除率5.26%
ルーレット(ヨーロッパ):期待値97.30%、控除率2.70%
外国はすごいなあ。以下、日本。
宝くじ:期待値46.8%、控除率53.2%
競馬・競輪・競艇:期待値75%、控除率25%
スポーツくじ(toto):期待値50%、控除率50%
パチンコ:期待値97~98%、控除率2~3%
麻雀(場所代は除く):期待値100%、控除率0%

麻雀は相互でお金を交換しているだけだから、
だれかが勝ったたぶんべつのだれかがかならず損をする。
驚いたのは、パチンコの期待値の高さなのである。
期待値が高いというのはお得ってこと。儲かる確率が高いってこと。
このパチンコの期待値は著者が独自に計算したもののようで、
そのかんたんな紹介もされているが、さすがに文系のわたしには理解できない。
これはもう大学教授という肩書を信じるかどうかの話だろう。
丸一日パチンコをやれば期待値は97~98%だという。
競馬なんかよりもだんぜんお得なわけである。良心的な遊びと言えなくもない。
なぜわずか2~3%の控除率で30兆円の産業ができるのかというと、
これまた著者によるとそれだけ分母の金が大きいからではないか、とのこと。
みんながパチンコに金を費やせば、
2~3%中抜きするだけで30兆円になるという理屈。
だとしたら、パチンカス(差別語)は情弱(情報弱者)ではなく賢者だったのかも。
けれども1日パチンコしているくらいだったら、本でも読んでいたほうがいいなあ。
あれえ、でもでも、「闇金ウシジマくん」を見ていると、
パチンコの期待値ってそんな高いか? ああ、そうかといま気づく。
毎日パチンコに行ったらこうなるのか。98%は0.98である。
0.98×0.98×0.98……。
これを10回いま携帯電話の計算機でやってみたら0.8(80%)まで落ちた。
30回とか計算したらどのくらい期待値は下がるのだろう。
パチンコ中毒はいまはパチンコ依存症という病名がついているけれど、
夢中になればなるほど泥沼にはまるような仕掛けになっているのか。
ああ、恐ろしい。現代の魔窟じゃん。近づかないぞ。
(注)わたしの間違いで毎日のパチンコ通いは従属事象ではなく独立事象かもしれません。

さて、ギャンブルというのはランダム(偶然)に支配されている。
自分は危ないギャンブルはやらず、
手堅いビジネスしか手にかけないという人もいるかもしれない。
ところが、社会学が専門の大学教授の著者は主張する。

「ここまで進めてきたギャンブルの話は、
そもそも対象とする事象が与えられた条件で「ランダム」に現われることが前提である。
たとえば、ダイス[サイコロ]の目は6分の1で、カードも残った状況に応じて
確率論的に一定の割合でランダムに出現する、というようにである。
「現実の社会はランダム性(偶然性)よりも予想された必然の世界である」
「特にビジネスなどにおいては」
と考える人は、現実の社会をよく知らない人だと思う。
いまの世の中は、皆が考えているより、はるかにランダムな世界なのである。
そのことを示す前に、「ランダム」とは何かを少し論じておこう。
ランダムという概念は、頭でわかったつもりでも、なかなか説明しづらい。
長期的には大数の法則どおりの振る舞いをするにもかかわらず、
短期的にはまさに「なんでもあり」だからである。
たとえば、ランダムに出現した結果として、
ダイス[サイコロ]の「1」の目が10回続くこともある。
その場ではとてもランダムに見えなくても、長期的にランダムであれば、
それは「ランダム」なのである」(P198)


大きく飛躍して人生論にしてしまうが、人生もまたランダムであると思う。
おそらく1万年単位、10万年単位に見たらランダムになっているのではないのだろうか。
わずか100年くらいなら、幸福ばかりの恵まれた人生もランダムとして存在しえる。
わずか70年そこらなら不幸ばかりの苦しみに満ちた人生もランダムの結果である。
人生はみんな公平にできているというのは、
へたをしたら1億年単位で人生を見比べたときに言えることなのかもしれない。
どういうことか。延々とした過去世も未来世も存在するということである。
現世で勝ちまくった人は、それを努力の結果と誇ることだろうが、
あんがいそんなものはランダム現象にすぎず、
来世ではたいへんな苦労をするのかもしれない。
新興宗教に入ったら現世利益が得られたという人は、
ただただランダムに起こっていることに勝手な因果関係を見ているだけなのかもしれない。
著者が主張するように、現実の社会は予測不能で、
短期的にはランダムの「なんでもあり」の様相をていしていると考えてみたらどうか?
怖ろしくなるだろうか? それともワクワクしてくるだろうか?
ランダムな世界にどう対応したらいいかも著者は教えてくれている。

「ビジネスの社会でも外交の世界でも(場合によっては恋や家庭のことでも)、
「かけひき」という名の心理戦が存在する。
人の心を読み、そのウラをかき、いつの間にか他人を自由に操っている人がいる。
逆にいつもウラをかかれる人もいる。
どうしてもウラをかかれる人にお勧めする方法がある。
それは、戦略の選択をランダムにすることである。
これは数学的に最も「負けない」戦略であること(「勝てる」という意味ではない)が、
「ゲーム理論」という理論で説明されている」(P203)


戦略の選択をランダム(偶然)にするとはどういうことか?
おそらくランダムにうまく乗っかるということだろう。
自分の計画よりも、ランダム(偶然)のほうを重んじで行動する。
ランダム(偶然)に起きたことによって選択を変えていく。
目標を立てて「こうしよう」「こうすべき」などと身構えて生きるのではなく、
世の中はどのみちランダムなのだからこちらも酔っぱらいのようにランダムに歩く。
目的地に行こうとシャカリキになるのではなく、偶然にまかせてふらふら散歩する。
究極のランダム行為は、宗教評論家のひろさちや先生がお勧めするサイコロ決定だろう。
人生、どちらにしようか迷ったときにサイコロで決めてしまうのである。
まえにも書いたが、わたしはまえの会社を辞めようかどうか迷ったときサイコロで決めた。