「なぜ、あの人は運が良いのか?」(月行大道/経営者新書)

→40年生きていろいろ見聞した結果言えるのは人生は運じゃないか?
運と相反する態度は努力。人生は運ではなく努力しだいというもの。
占い師の著者も運やツキがテーマの本で努力を強調している。

「人生には努力が必要です。努力なしのツキは長続きしません」(P16)

あたかも自分が壮大な努力をしてきたみたいじゃないか、うふっ。
努力ってわかんない。
ある人が努力と感じることをべつの人は能力差ゆえに楽々とこなしてしまうわけだから。
たとえばこのブログ、「本の山」は努力か否か。
いちおう断っておくと、そこまで楽ではないんですよ。
ある本の感想を書けなくて数日、ときには1ヶ月寝かしておくなんてざらだし。
みなさん、真似できる? 無報酬だよ?
けれど、そこまで努力しているかというと、基本的に楽しんでいるからね。
なんだか少しずつ影響力が高まってきたという病的妄想も芽生えてきたし。

14日でいまの派遣仕事はひと区切り、
その後はどうするんですかと派遣会社の人から聞かれた。
「大丈夫です。わたしは運がいいから」と答えたものだ。
笑い話で、「もう父からも結婚や正社員を目指せと言われなくなりました」と。
実際、いまの状態だと無理でしょうし。
そうしたら派遣会社のSさんは慰めなのか本気なのか、
「そういうものは偶然やタイミングですから」とおっしゃってくださった。
まったくそうだよねえ。
本書から運をよくするコツをつかんで、みなさんもハッピーになってください。

「「自分を信じて楽しく生きる」ことこそ、
「運をつかむ」=「幸せになる」ための条件であり、
「自分を信じて、楽しく生きる」ことができれば、
運は自然と運ばれてくると教えています」(P32)


「教える」って占い師風情がずいぶん大きく出たなあ。
でも、ハッタリみたいなものって自由業の人にはいちばんたいせつなのかも。
成功とはなにを意味するかよくわからないけれど、
占い師の著者によると成功は――。

「そもそも成功は、その人を中心として「天地人」がすべて揃ったときにはじめて
手に入るものです。「天地人」とはすなわち、
時流(=天)、場所(=地)、自分自身と協力してくれる人々(=人)のことです。
その商品やアイデアが求められているちょうどいい時代に、
その商品を受け入れる土壌があって、
ふさわしい協力者を引き寄せると成功はつかめるのです」(P80)


成功なんかしなくても、その日が楽しければおいらはいいや。
明日は早いからもう寝るずら。あさってのことなんか知らねえさ。
なんかひさびさに職場のみなさまと会う気がしてどきどき、わくわく。
もうすぐお別れなのも、なーんか人生劇場を感じさせてくれ、よきかなよきかな。

「確率的発想法」(小島寛之/NHKブックス)

→信頼している著者の机上の学問ではない実質的な経済本を読む。
著者は長い社会人経験を経て30半ばを過ぎてから大学院へ入学したとのこと。
このような多少異質な経歴が著者の本をおもしろくしているのだと思う。

この本は読めばためになるのだが、だから読んでとしか書かなかったら無責任。
それにわたしはいままで多くの人のお世話になってきたという勘違い、
あるいは妄想があり、少しでもそれをみなさまに返したいという思いから、
まあ、いくら一般書とはいえ
一般人にはなかなか読み通せないだろう(思った以上に難解な)本書を要約する。
いちばん衝撃だったのが一見正反対に思えるギャンブルと保険が、
おなじような確率計算のもとに成り立っているビジネスだと本書で知ったことである。
ギャンブルも保険も確率の上では損をする。
しかし、人はなにかを求めてギャンブルに走り、保険に頼りたくなってしまう。
そのなにかの正体とは――。
ギャンブルにはまる人は「確実よりも変動を好む性向」を持っており、
このために確率的にはお得とは言えない公的賭博行為に散財する。
言い換えれば、ギャンブル好きは「リスク愛好的」である。
保険に入る堅実な人は「変動を嫌う性向」を持っており、
このために確率的には損と言わざるをえない保険に加入する。
彼らは「リスク回避的」と言うことができよう。
ギャンブルが損だというのは確率計算上、わかっていたが、
賭け事の正反対ともいうべき保険も確率計算上はあまりお得ではないのか。
本書によると、たとえば火災保険。
火災なんて確率的にはめったに起こらないでしょう?
でも、ひとたび不運にも火災が起こったらその一軒は大損をする。
このために人は割高な火災保険に入り、たいていは確率的に火災など起こらないので、
その金をどぶに捨てることになり、
そのぶんの利ざやを保険会社が儲けることになるわけだ。
ギャンブルと保険はおなじ(確率計算上)仕組みで成り立っていると書いたが、
それでも競馬や宝くじなどの公営ギャンブルに比べたら保険会社は公益性があるらしい。
まあ、保険会社は競馬や宝くじなどをする胴元の国家よりもよほど良心的であると。
本書からその部分を引用するのは、
わたしも保険会社は人さまのお役に立つ(たとえるなら医者やナースとおなじ)
たいへん価値のある職種のひとつだと思っているからである。
経験から申すと、保険会社の人は驚くほど親切で、
公務員かそれ以上に人さまのお役に立っている。

「保険が成立する背景には、
人びとの内面的歪み[将来への不安]の利用だけでなく、
もう一つ秘密の仕組みがあります。
それは「大数の法則」の利用です。
[「大数の法則」とはサンプル数を増やせば、
そのぶん事象は確率上計算結果に近づくこと]
火災が、たとえば一万分の一の確率で起きる場合、
一万件程度の人々が結託して相互補助として火災見舞金制度を作ったとしても、
そこには大きなリスクが残ります。
それというのは、もし火災が一件ではなく、偶然二件、三件起こったら、
見舞金を互助会の会費から補償することはことは不可能になるからです。
加入件数が少ないと、大数の法則にはあずかることができず、
火災が確率通りではなく予想より多く起こってしまう可能性が少なくないのです。
けれども保険会社が一〇〇万件や一〇〇〇万件の契約を取ると、
そこには大数の法則が働き、出費額はほぼ予想通りになると想定できます。
これこそ大数の法則のご利益です、
このように保険制度というのは、
たんに人々の変動を嫌う性質を逆手(さかて)に取って稼ぐというだけのものではなく、
「個人の不確実性」を「集団の不確実性」に変質させる営為だといえるわけで、
ある種の「公益性」をもっていると考えられます」(P79)


お医者さんやナースさまも偉いが、

保険会社の人たちも偉い! とっても偉い!

みなさまは「リスク愛好的」でしょうか? それとも「リスク回避的」?
わたしはギャンブルはやらないから「リスク愛好的」ではないが、
生命保険にはひとつも入っていないから「リスク回避的」とも言えないだろう。
そろそろ「都民共済」くらい入ろうとは思っているけれども。
しかし、どちらかというと「リスク愛好的」と言えなくもないだろう。
基本的に日本人は「リスク回避的」な人が多いような気がする。
いい会社に入ってそこに長く居続け、
いつ来るかわかりゃしない老後の安泰を目指すというのはまさに「リスク回避的」。
異質な「リスク愛好的」な人がみんなと違うことをすることを見るたびに、
「リスク回避的」な保守的善人は、

危ない! と思うことだろう。

変な話をいつものようにすると、交通事故は確率的事象なのね。
どれだけパトカーがノルマのためか(本当にノルマなんてあるんですか?)
安全取り締まりをやっても(あれの罰金は高いんだってねえ)、
交通事故は毎年かならずある割合のもとに発生する確率的な悲劇である。
交通事故はもうどうしようもない世界で、いくら注意していても運転がうまくても、
相手がいきなり飛び出てきたらアウトの世界だから。
で、ひとたび交通事故で人を殺しちゃったらその後は賠償金やら罪悪感で地獄。
これは数学的に見たら、だれも悪くない、
自動車社会において確率上一定割合で起こらざるをえない悲しい出来事なのだが。
極論を言えば、交通死亡事故は自動車社会(ネット通販)の恩恵を受けている、
われわれのひとりひとりに罪があるということもできよう。
わたしはペーパードライバーだが、それでも研修を受ければ運転はできようが、
最後の最後までドライバー職はリスクが高すぎるので避けたいと思っている。
小さな子どもを轢(ひ)いちゃうとか、加害者はあるいは遺族以上に地獄だろう。

小島寛之さんは社会人経験がある経済学者だからよくものをわかっている。
この本は著者のべつのご著作同様たいへん勉強になりました。
マルクスが言ったとかいう、労働者は資本家に搾取されているとかいうあれは、
いまの経済学から見たら眉唾(まゆつば)なのかもしれない。
わたしは「リスク愛好的」なのか、いやたんに能力不足のせいだろう。
いま変動性が高く身分の低い派遣で小銭を稼いでいる。
いっぽうで「リスク回避的」な人はサラリーマン(正社員)として
「固定給与」得ていることが多いと思われる。
どうして労働者は安定した「固定給与」を求めながら、
なかにはマルクスに洗脳され資本家を憎むものが現われるのか。
以下は長文だが、尋常ならざる卓見だと思う。
お疲れでしょうが、どうか目薬をさしながらでもお読みください。

「一般の企業における「固定給与」のことを考えてみましょう。
会社の業績は景気やライバル会社との競争に依存して決まります。
したがって、売上は不確実に変動するのが一般的です。
にもかかわらず、多くの会社で従業員に対して
固定給与制度を採用しているのはどうしてでしょうか。
それは従業員と経営者の間の変動に対する態度の違いを
反映したものだと考えるのが自然でしょう。
従業員はリスク回避的性向が強く、収入の期待値が同じなら
変動給与より安定した収入のほうを望むと考えられます。
たとえば五分五分の確率で一〇〇万円かゼロ万円か、という給与と、
固定給与四〇万円というのでは、多くの従業員が固定給のほうを望むでしょう。
期待値は前者が五〇万円ですから、
平均的には前者のほうが高額であるにもかかわらず、
従業員は後者を選ぶものなのです。それは「変動を嫌う」性向のゆえです。
一方経営者は、従業員よりも多少変動に対して寛容なので、
売上の変動はすべて経営者が引き受けることになります。
すると平均的な差額の一〇万円は経営者の懐に収まる算段になるのです。
つまり、業績低迷のあおりはすべて引き受けるかわりに、
好成績の甘い蜜のほとんどを経営者がもっていく、
そういう構図になっていると考えられます。
従業員よりも経営者のほうがリスク回避の性向が小さいことは、
資産格差で説明されるのが一般的です。
従業員の多くは、蓄(たくわ)えがさほど大きくないため、
収入の変動は生活を直撃します。
彼らがそれを避けたいと思うのは不思議ではありません。
それに対して経営者のほうは、そもそも資産家だったり、
多角経営をしていたりするために、
収入の変動には蓄えを取り崩すなどして対応でき、
変動に強い性向をもっていると考えられます。
これが、会社における固定給与の背後に潜む社会性なのです。
このように現代の経済学では、固定給与性は、
資本家と労働者の対立関係からではなく、
変動に対する内面的な歪み[思い込み]の差異によって説明されるのが一般的です」(P80)


以上のように考えると、労働者は資本家からリスクを搾取しているとも言えよう。
まあ、決められた給与を支払わないような経営者は大いに問題ありだが。
サラリーマンでは儲からないから、投資家(資本家)になれという風潮があるようだ。
でもさ、いかにもいかがわしい投資本を読んでもさっぱり意味がわからないじゃない。
そのぶん、この名著は10年以上、
当方がわからなかったデリバティブ(金融派生商品)の意味をわかりやすく説明している。
本当に理解していないとものごとをうまく相手に伝わるよう説明できない。

「金融派生商品[デリバティブ]の開発で、
社会はリスクという実体のないものを商取引することになりました。
世の中には変動を怖がる性向の人がいます。
他方には、相対的に変動を嫌わない人もいます。
さらには、変動を利用して、稼ごうという人もいます。それが投機家です。
前者から後者にお金を払い、後者から前者に「確定性」が
引き渡される商取引の総体がデリバティブだと理解していいでしょう」(P82)


わかりやすいよなあ。著者は本当にあたまがいいのだろう。
だれだってリスクは怖い。
しかし、人生はリスクに満ちているとも言いうる。
著者は限りなく、天才学者に近いから、確率の嘘も見抜いているのである。
というのも、確率ってよく考えるとインチキとも言えるわけ。
なぜなら確率というのは、過去に起こったことを数値化して将来を予測している。
ならば、だとしたら過去に起こったことがないこと、前例がないことの確率計算はできない。
たとえばむかしはネットなんてなかったし、
無名人が実名ブログで好き勝手なことを書いたらどうなるかという過去の統計はない。
このため、今後当方の人生がどうなるかの確率計算はできない。
同様、まったくの新商売を始める場合、それは過去の統計(サンプル)がないから、
結果がどうなるかの確率は出てこない。
これは「リスク」という概念を発明したナイトという経済学者が、
「本当の不確実性」と(リスクから)区分したものである。
リスクは確率で計算できるが「本当の不確実性」は確率(数学、経済学)の領域外にある。

「ナイトの発想はこうです。世界で起きるできごとは、
複雑な要因に支配され、決して同一の環境からものごとが生起することはありえない。
したがって、独立試行を反復的に行うことによって
導かれる大数の法則を後ろ盾にした「数学的確率」は、
現実の不確実性を描写してはいない。
ナイトはこのような数学的確率(リスク)を「偶然ゲームの必然的確実性」と呼び、
現実への有効性を一蹴(いっしゅう/バカに)しました。
過去のデータから未来を予測することを無意味だとするのも同じ理由からです。
ビジネスの世界で重要になるのは、このような反復的観測ではなく、
しばしば「サプライズ(意外性)」であると彼はいいます。
実際、「サプライズ」という用語は現代の株式市場でもいまだにキーワードのひとつです」(P113)


「本当の不確実性」に対抗するにはふたつの方法がある。
ひとつは不確実性を減少させるために、とにかく情報を集めること。
うまい儲け話はないというけれど、あるところにはあるのだろう。
みんなが不確実性にびくびく脅えているところで確実な情報を持っていたら――。

「……9・11テロの直前に、
何者かが株式市場で大量の空売りをしたことがわかっています。
これは所有していない株を売っておいて、
世界中で株が暴落したあとに買い戻し、大儲けした例で、
テロを事前に知っていた人物ではないか、と疑われています」(P126)


もうひとつ不確実性に対処する方法は、こちらも不確実性に徹すること。
世界がデタラメ(不確実性)ならば、こちらもデタラメに生きれば五分五分にはなる。
どうせ投資なんか損をするのがほとんどなのだから五分五分でもおいしい話。
以下はそのことを書いている。

「また、確率現象というものを戦略として積極的に利用する場面もあります。
人は何かの勝負のとき、相手に手を読まれないようにするでしょう。
しかし、どうしても固有の癖があってそれを読まれてしまい、負けることがある。
そうならないために、サイコロを振ったり、乱数表を利用したりして、
相手を攪乱(かくらん)するのです。有名な例としては、
プロ野球のピッチャーが投げる球種を決めるのにグローブに貼った乱数表を利用する、
というのが流行ったことがありました。
後に試合時間の短縮のために禁じられましたが、これこそ確率の有効利用です。
別の例では、入試の試験問題の選択肢を乱数で作っている、というのがあります。
そうしないと、出題者の心理的な癖を受験生に読まれて
(あるいは統計をとって見抜かれて)、
勉強していないにもかかわらず高得点を取られてしまう可能性が否めないからです。
これをもっとも上手に利用したのが、
クイズ番組「クイズ・ミリオネア」(二〇〇四年の正月に放送)
に出演した新庄剛選手でした。
彼は、最後に出題された択一式の難問の答えを、鉛筆を転がして決めたのです。
それでみごと一〇〇〇万円を手にしました。
考えてみるとクイズ番組というのは、
いかにも取り違えそうな選択肢を混ぜるものでしょう。
だとすれば、考え悩んだあげく出題者の仕掛けた罠(わな)にはまるより、
むしろ完全な確率現象を利用するほうが有効なのかもしれません。
新庄選手の戦略は、
真の意味で有効な確率的発想法だったといっても過言はないのです」(P39)


わたしは「リスク愛好的」な性向を持ち、
世界はリスクの計算などできるものではなく、
「本当の不確実性」に満ちていると人生体験からも読書体験からも信じている。
これは「サプライズ」が起こることを信じているのと同義である。
確率計算できない「サプライズ」とは人との出会いであり別れだ。
計算式ではどうしようもなく表わせない人生における「救い」のようなものを
著者は本書に書いている。

「簡単なたとえ話で恐縮ですが、こんな経験が誰にも少なからずあるでしょう。
駅までの道のりを歩くとき、すべての道を試したわけではないのに、
一番いいと思い込んでいる道ばかり毎日毎日利用しがちです。
けれどもある日、誰かと偶然一緒に駅まで歩くことになって、
その人が使う別の道をいっしょに歩いてみると、
そちらの道のほうが(近さや安全さ快適さの意味で)より良好であると気がつく、
そんな感じのことです」(P202)


そういう学問では予測できないサプライズが起こるから、みんな絶望するなよ!
あわよくば自分がそういうサプライズを起こせたら、とみんなが思えたら。
わたしはサプライズを多く実体験しているから、
今後のサプライズにも微動だにせずむしろ喜々として向き合うことができよう。
小著から著者の意図するところ以上のものを読み取ってしまったのかもしれない。
(つまり、誤読したかもしれんスマンってことさ)

(関連図書)
「容疑者ケインズ」(小島寛之/ピンポイント選書/プレジデント社)
使える! 経済学の考え方 みんなをより幸せにするための論理」(小島寛之/ちくま新書)
「数学的思考の技術」(小島寛之/ベスト新書)
「文系のための数学教室」(小島寛之/講談社現代新書)
「使える!確率思考」(小島寛之/ちくま新書)

「カンの正体」(桜井章一/知的発見BOOKS/イーストプレス)

→孔子は「四十にして惑わず」と言ったらしいけれど、
もうすぐ40の大台の乗るのに惑いまくり、迷いまくり、わからない、わからない。
いったいどういう基準で人生の選択をしていったらいいのか。
教えて自称伝説の最強雀鬼さま。
いまは過去のハッタリ(?)履歴で食べている麻雀屋経営のおやっさん。
肩書ゼロの自称最強の雀荘のオヤジは言う。
人生の選択肢はなにが「正しい」のか人間にはわからない。

「社会の常識という看板を下ろしたとき、何を基準に選ぶか。
それは「おもしろいかどうか」である。
「おもしろいな」「楽しいな」「笑えるな」ということを基準に選んでいけば、
自然と笑顔が出てくるようになる。
そういうものを基準にして、良いこと、悪いことを自分で感じていけばいい」(P43)


わたしも基本的に人生を「おもしろい/おもしろくない」で選択してきた。
けれども、雀鬼の千分の一ほどもおいしい思いをしていない。
つねにはずれくじを引いてきたというような誤った被害者意識に拘泥している。
あのときあの人の助言にしたがって仏教大学院に行って、
「正しい」とされる学問をしていたら、これほどみじめな境遇にはならなかったのか。
いまはもう死語だが、ちょいワルおやじの雀鬼はとにかく学校がお嫌いなようである。

「何度も言っているが学校で教わる学問はマニュアルだ。
答えがわかっていることを勉強しているにすぎない。
答えが先にありきなのだから、時間を使って勉強すれば、誰にでもできる。
そんなもんは、ウソだ。
本当の学問というのは、答えが定まっていないことを見つけに行くことだ。
定まっていることを学ぶことは、学問でもなんでもない。
定まっていないものを感じたり、
知りに行ったりするのが本当の学問の世界なんだと私は思う。
逆に言えば、定まっていることは、それ自体が大したことではないということ。
先ほど述べた「良いこと、悪いこと」というのも、誰かが定めたことである」(P37)


世間的にいえば、「正しい」答えは社会上層部の権力者が決めており、
新参者が生意気千番にも既存の「正しい」答えを疑うようなことをしたら、
冷遇されるならまだしもよくて完全無視どころか
下手をすると迫害さえされかねないのだが、そこは成功者にはわからないこと。
雀鬼はいちおうのところ金持だし、心酔者も弟子も多いし、成功者と言っていいのでは?
成功者の著者は成功者の話など聞くなという。
なぜなら自慢話が好きな成功者はインチキのケースが多い。本当のことを言わない。

「また成功者は自分が苦労した話や、うまくいった話しかしない。
簡単に言えば、いいことしか話さないのだ。
同業他社を蹴落として倒産させた話、下請け会社を切り捨てた話、
辞めていった社員の話などはいっさいしない。
そもそも世の中の成功法則というものが、すべての人に共通であれば、
すべての人(もしくは、それを学んだすべての人)が成功しているはずである。
そういう現実を目にすると、成功とは十人十色であり
そのための方法も十人十色だということだ」(P127)


要するに、世間ならぬ自分を信じろってことだと思う。
でもでもでもさ、ひとりじゃ自分のことなんか信じられないよ。
異性からの愛のようなものがほしい。
そういうのがあれば自信を持てるのかもしれない。
しかし、雀鬼に愛を語らせるとこうなる。
これは「正しい」とわたしは思うが、むろんのこと普遍的な絶対真理ではない。
雀鬼いわく、愛など損得勘定にすぎない。

「利用できる間は「愛」だと言って。利用できなくなったら「愛が薄れた」と言う。
みんな「愛がすべてだ」みたいなことを言うけど、
結局、愛も損得勘定でしかない」(P30)


わたしが言っているのではなく雀鬼の主張だが、愛は損得勘定。
出世や成功をした男のところには女が集まるでしょう。
「他人の評価」が高い男女はもてる。
それはぜんぜん悪くもなんともなく愛は損得勘定なのだから、
得ができそうな男の周辺に女が集まるのは自然にかなっている。
肩書と金さえあればゴキブリのように女が寄ってくる。
すべては「他人の評価」で決まる。
成功者や有名人は「他人の評価」を得ている。
この世で「他人の評価」ほど尊いものはなく、
高い「他人の評価」を持っている人に男女ともにひれ伏す。
「他人の評価」を得たいならばすでに「他人の評価」を得ている人に奉仕するしかない。
「他人の評価」をお持ちの方が、さらなるいい思いをできるのはこのためだ。
肩書とは、おれはこれだけ「他人の評価」を得ているという看板のようなもの。
「他人の評価」=肩書さえあれば、かなり好き勝手なことをできる。
繰り返すが「他人の評価」を得たかったら、
いま「他人の評価」を多く所持している方におこぼれをいただくほかない。
この「他人の評価」のことを権力という人もいる。

でもでもでもさ、けどけどけどね、本当の愛は違うよね、と雀鬼は言う。
愛なんて難しいことではなく、いっしょにいて楽しいかどうかじゃん。
まるで世間知らずの女子高生のようなことを言う雀鬼を嫌いになれない。

「異性で考えたらわかりやすい。
好きな人が隣にいたら、すごくうれしいだろうし、
お茶一杯だけであっても、何時間でも楽しい時間を過ごせる。
逆に、イヤな人が隣にいたら、
どんなにおいしい料理を出されても、苦痛の時間でしかない」(P43)


たしかにどんな美人でもいっしょにいて不快だったら楽しくない。
いくら高給の大企業でも毎日不愉快事の連続だったら、そんな職場は辞めたほうがいい。
どれほど肩書が高い偉人でも嫌いだったらパンダキックを食らわせてやれ。
まったく世間を知らない雀鬼の言葉が同類かもしれぬ当方には心地よい。

「売る力 心をつかむ仕事術」 (鈴木敏文/文春新書)

→日本初のコンビニ、セブンイレブンの創業者にして会長のベストセラーを読む。
もっともセブンイレブンだけでパートやアルバイトをふくめると30万人。
関連物流会社やベンダー(商品協力会社)関係まで数に入れたら
少なく見積もっても百万人、
正確に計算したら数百万人レベルの労働者がセブン周辺にはいるのではないか。
セブンに食わせてもらっているのなら会長の本くらい読めよと思うけれど、
本書はベストセラーとはいえ、それほど売れてはなさそうなので、
信者に本を買わせるという面では創価学会の池田名誉会長のほうが
セブンの鈴木会長よりも上になろう(それがいいのか悪いのかはわからない)。
おっさんのわたしは少しまえまでコンビニは高くてまずくて危なくて、
スーパーのほうがよほどいいと思い込んでいた。
ところが、いま当方にとってはかなりの高給が運よく舞い込んできたので
セブンの商品を買ったら意外や意外、
これが想像以上にうまいのだから世の中はわからないことだらけである。
個人商店ファン(商店街が好き)はスーパーができたとき、
あいつらは人間味がないと嘆いたことだろう。
その商店街が消え、スーパーの時代が来る。親の洗脳かわたしはスーパー派閥だった。
スーパー好きは、コンビニなんて便利なだけで高くてまずいと思っている。
実際はそれほどコンビニ購買経験がないのにもかかわらずだ。
行ってみたら買ってみたら食べてみたら、
スーパー程度の安さでスーパーよりもうまい商品はいくらでもあったのである。
むろん得手不得手はあり、
コンビニがなにをしてもかなわないのが生モノの魚介類だろう(刺身)。生肉もそう。
コンビニ(セブンイレブン)のよさを発見したのは、この齢でさえ新鮮だった。
日本ではじめてコンビニを創った人は
どのようなことを考えているのか興味を持ち本書を読む。
ローソンもファミリーマートもセブンイレブンの真似といえば、
そういえなくもないのかもしれない
(実際は経済界は不勉強ゆえどうだかわかりませんけれど)。
コンビニ業界「ひとり勝ち」の鈴木会長はどうしてこんなに運がいいのですか?

「既存の常識や過去の経験にとらわれない行動が、
普通だったらなかなか出あえない幸運に結びつく。
多くの人が妥協するところを妥協せずにきわめようとする行動が、
そう簡単には手の届かない運を引きつける。
自分のビジネス人生を振り返ってみると、その連続だったようにも思います。
ビジネスは能力や努力だけではなく、運にも左右されます。
その運は偶然の部分がかなりあります。
しかし、過去の経験や既存の常識を超えた挑戦や努力をすることで、
普通に行動していたらめぐりあえないような
幸運も引き寄せることができるのです。
世のなかを見渡すと、大きな成功をなし遂げた人たちはたいてい、
「運がよかった」といいます」(P241)


日本に一店もコンビニがなかった時代には、
この国でセブンイレブン(コンビニ)を開業して成功する確率はゼロパーセントだったのだ。
言い換えたら、未知数。わからない。
本当に新しいことは過去の統計がないから確率も期待値も計算できない。
いまコンビニとフランチャイズ契約してどうなるかは、
ある程度の情報で推測できるともいえるが
(正確にはこれまたやってみないとわからない)、
鈴木会長がセブンを開業したときの成功確率はおそらくゼロパーセントであった。
みんながみんな、過去のパターン(いまでいう統計←これがわたしは大嫌い)から
どうせコンビニなんかやったってこの国では成功しないと批判的だったことであろう。
日本コンビニエンストストアのパイオニア(開拓者)である鈴木会長はいう。

「経験的に[統計的に]「いい」と思われることはみんながやるから、
結局、競合になってしまい、ますます厳しい状況になる。
みんなが「いい」と思うことなどやる必要はなくて、
むしろ、「そんなのだめだろう」と思うようなことに意味がある。
みんなが賛成することはたいてい失敗し、反対されることはなぜか成功する。
それはわたしの経験に限ったことではないようで、
これまでお会いした[成功者の]方々も同様の経験をお持ちのようでした」(P88)


演劇が主流だったときには、映画なんてだめだろうと思われていた。
日本でも映画業界が斜陽になったとき、
映画人はそれでもテレビには行きたくないと多くのものが思っていたという。
いまはテレビも雑誌も斜陽だが、
そういうマスコミ人はあれをバカにするがパイオニアの鈴木会長はそうではない。

「本格的なネット時代の到来するなかで、確実にいえることは、
「ネットを制したものがリアルも制する」ということです。
ネットとリアル、両方の動きを見ると、
それがすでに現実のものとなろうとしています」(P186)


ネットとはひと言でいえば、無料文化である。
わたしだって一銭にもならないのに、このような駄文をそうと知りながら書いている。
断じてまったくゆめゆめお金がほしくないわけではないが、
それほど物欲がないというのもこっそり白状する秘密である。
ほしいものがない。これってみなさまのかなりの本音ではありませんか?
繰り返すと、ほしいものがない。
商売人がいちばん恐ろしい、この「ほしいものがない」は大チャンスなのかもしれない。
自分が本当にあればいいと思うものを、
自分のあたまで考え周囲に提供したらどうなるか?
おにぎりを最初にコンビニで売り出したのもセブンなら、
高価格帯(200円以上!)おにぎりをはじめて売ってみたのもセブンだそうだ。
どちらも売れに売れた。同業他社からさんざん真似をされた。

「このようにセブン-イレブンには数々のヒット商品がありますが、
もし発売前にアンケート調査などを行い、
「こんな商品が出たら買うか」と質問していたら、
「買わない」と[お客様が]答えたであろう商品も少なくありません。
それが、商品となって店頭に並んだ途端、お客様は手を伸ばすのです。
消費が飽和したいまの時代は、消費者は商品の現物を目の前に提示されて、
初めてこんなものがほしかったと潜在的なニーズに気づき、答えが逆転します。
現代の消費者は「いうこと」と「行うこと」が必ずしも一致しない。
消費者自身にも具体的なイメージをもって
「こういう商品がほしい」という意見がない時代なのです」(P117)


このたび偶然にたまたまセブンイレブンに興味を持って商品を食してみた。
これがうまい。この価格帯でこれほどうまいものがあることを知った。
そうなると、ほかのものを食べてみたくなる。
しかし、そのためにはコンビニ食品は高いから金が必要だ。
どうしたらお金を得られるのか大金持の鈴木会長に聞いてみよう。
各分野の成功者との交流もひんぱんにしているセブン会長はいう。

「「目先の百万円の売り上げのために、将来の一億円を失うことがあってはならない。
その点はこだわりをもってやってきました」
目先の百万円のために、将来の一億円を失ってはならない。
Francfrace[←なにこれ?]が便座カバーを置かないという話はとても教訓的です。
人間は、得られるはずの長期的な利益が多くても[1億円!]、
実感できるまでに時間がかかった場合[5年、10年、15年!]、
その[目先の]時間によって大きさが割り引かれてしまい、
目先の短絡的な利益[先々の1億円よりもいまの百万円!]のほうを
大きく感じてしまう傾向があります」(P205)


この鈴木会長の教えを信じて預貯金をすべて溶かすどころか
借金さえするであろうセブンオーナーがいるいっぽうで、
本当に実際に儲けている店主もいるのだから(いるいる!)、
まったくまったく本当にセブンイレブン創業者のいうことは「正しい」。
なにより運や偶然の存在を深々と認めているところが鈴木会長の偉いところだ。

「八割できなくても幸せになれる」(桜井章一/竹書房新書)

→酔っぱらうと、世間すべてが間違えているんじゃないかって思うときもあるわけ。
ぐだぐだ酒を飲んでいるのでからんでみたら、
本書のタイトルでいえば「幸せになれる」――。
どうして人は幸せにならなきゃいけないわけ?
著者は低学歴で受賞歴ゼロのまったく肩書のない雀荘のクソオヤジ。くうう、ええねえ。
けんど、いったい、なしてこないダメジジイの本が繰り返しベストセラーになるわけ?
本当はなにもかにも「わからない」というのが本当だろう。
本当はどうなっているのか「わからない」のが本当だんべ。
要は、成功者や勝利者の言葉がかりそめの「本当」として流通しているわけでしょう?
もう人生ギブアップ直前なので、あこがれの人はだれもいない。
あのような人になりたいという願望はまったくない。
しょせんわたしはわたしでしかなかった。
この顔で生まれこの知能でこの程度の運でここらあたりで死ぬべき存在なのか。

世の中は運ではなく、信心いかんだという集団も存在する(創価学会)。
そうかもしれないし、そうではないかもしれないし、それは「わからない」。
当方はことさら池田大作名誉会長のようになりたいとは思わない。
わたしはどのみちわたしに過ぎないし、死ねばほとけさまになれるのだから。
あこがれの人はいま男女ともにいない。嫉妬がないということだ。
わたしはわたしでしかない。
けれど、ちょっどだけでいいからおいしい思いをさせてよ、
という乞食願望があることは恥ずかしくも白状する。ラッキーがほしい。
他力本願のいわば棚ぼたのラッキーを求めて、こういう本を読むと、
うさんくせえ煮ても焼いても食えなさそうなじいさんがこんなことを言っている。

「私は、ラッキーを呼ぶための基本は「花咲かじじい」だと思っています。
欲のないおじいさんが、全く何の見返りを求めず正直に暮らしていたら、
畑から小判が出てきた。
さらに灰を撒(ま)けば桜の花が咲き、殿様からご褒美をいただいた。
そして、それを見た欲張りじいさんが同じことを真似したら、とんでもないことが起こった。
「人がやってラッキーだったから、自分もやってみよう」なんて、
邪(よこしま)な気持ちで何かをしても、うまくいくものではありません」(P24)


「最強確率論 ――「絶対無敗」の法則」(石橋達也/学研新書)

→なんとも怪しげな本(2010年刊)を買うばかりではなく読んでもしまう、あはっ。
著者は「あの人はいま?」状態になっている、むかし流行ったパチプロとのこと。
ほんとうにパチプロなんているのかなあ。
大学教授の谷岡一郎氏はパチプロは存在可能で、
30日労働で月収30万の世界だとある本のなかで書いていた。
教授は30万ごときといった感じで書いていたが、30万ももらえるならやりたいなあ。
でも、ぼく、パチンコはやったことがないし、たぶんセンスがないと思うから。
さて、パチプロの著者は大学教授と正反対の主張をしているのである。
パチンコは胴元が中抜きしていない、控除率がないと――。
競馬は胴元が控除するというところは両者の共通見解である。

「……パチンコは胴元とプレイヤーとの直接の勝負。
釘の調整次第では胴元が損をする場合もあり得るのだ」(P17)


これはぼくにはわからないのね。パチンコをやったことがないから。
でも、そっかあ。そうだよなあ。
パチンコはプレイヤーと胴元の一対一の勝負のような気がする。
うまく玉の出る台を見破れば常勝することも可能なのかもしれない(よくわからんが)。
だとしたら、あの大学教授が計算したという控除率はなんなのだろう。
それは全体としてはパチンコ店は儲けているのは理解できるけれど。
とてもインチキくさい著者が確率を否定しているのだが、それはぼくも考えたことがある。
大数の法則への違和感をパチプロの著者は表明している。
大数の法則とは、短期間(10回とか)ではサイコロの出目はデタラメだが、
1万回サイコロを振ったら出目はそれぞれ1/6ずつになるという確率の大原則だ。
むかしパチプロで有名だった著者は大数の法則を果敢にも否定する。

「次は自分なりに考えた「大数の法則」について説明しよう。
「確率が調整されることは決してない!」。
その理由は、サイコロに記憶装置がないからだ。
1が3回続けて出た後も、1が20回続けて出ていないときも、
サイコロ自身はそういった過去の履歴は覚えていない。
だから「神様が確率を調整する」というのはまったく確率学的な考え方ではないのだ。
では大数の法則をどのように理解すればいいのか?
個人的には、まったくの「無」と考えるようにしている。
だから調整する第三者もいないと思っているし、
法則としてさえ捉えないようにしている。
今では大数の法則よりも大切なモノがあるとすら思い始めている」(P46)


電波が入っているような気がしなくもないが(いや電波むんむんだが)、
著者の言うところを理解できないわけでもなく(うん? ぼくも電波系か?)、
大数の法則にしたがうならば確率的にパチンコで勝ち続けることはできないが、
統計学的にはパチプロも必然的に存在するということになるのだから。
生存確率1%の手術でも成功する人はいるし、
90%安全な手術に失敗して亡くなる人もいるわけだ。
そもそも確率というのは過去の統計データを参考にした数値である。
もし過去の統計データに存在しないような人間が現われたら彼に確率は適応できるのか。
過去の統計から未来の事象を予測しようというのが確率である。
しかし、過去の統計データにない事象の未来予測はできないし、確率も計算できない。
本当に新しいものは将来どうなるかわからないし確率もわからないのではないか。
著者が指摘していることだが、インターネット。
20年まえにネットがいまのようになるとはだれも予測できなかった。
もし予測できていたら(成功確率がわかっていたら)大儲けしていたのである。
しかし、おそらく20年まえにネットで成功する確率は1%くらいだったのではないか。
あれえ、あれえ、本当は未来予測に関するかぎり確率は当てにならないのではないか。
過去の統計にないことに関しては確率はわからないのである。
怪しげなビジネス書の煽(あお)り文句のようだが引用する。

「稼ぐ人はとにかく今を生きる。
隙間に入っていって儲けるヒントをわしづかみにするのだ。
ネットのように大きなうねりは10年に1回くらいの変革だが、
様々な業界で特需は生まれる。特に新しい業界、新しい試みの場合、
それをいかに敏感に察知し行動を起こすかだ。
先駆者となれば、そこで儲けが生まれる」(P160)


確率や統計というものは、個人差をまったく認めない数学的発想である。
太郎と花子の差を認めず、みなひとつのおなじ標本点として扱うのが統計学である。
しかし、太郎と花子は違うだろうという言い方もまたできるのではないか?
これを書いているぼくと読んでいるあなたはぜんぜん違うわけでしょう?
それを一緒くたにして統計的にとらえ、
そのうえで確率を計算する数学的発想で果たして人間や人生を把握しえるのか?
以下の引用で著者はそういうことを言っているのではないかと思う。
著者は麻雀の話をしている。

「超能力的にツモが強いという人がいるとする。
その人が、ネット麻雀で同様なヒキを発揮できるか?
どう考えても常に強いツモがくるとは考えられない。
自分は麻雀はヘタだがネット麻雀となると話は別。
ツモも別段、超能力的なものを感じずランダムに来るように感じる。
少なくとも普段雀荘で打っている感じとは異なる。
威圧感、不安感のなさがそう思わせるのだろう。
邪馬台国を率いた卑弥呼など「いるだけで圧倒的な存在感」があったと思われ、
当時ならば一種の超能力といえる」(P175)


食べても食べても太らない人っているよねえ。
大酒のみでヘビースモーカーなのに長生きしてるクソじじいとかもいるいる。
そういう存在は科学的(数学的)には「統計上の揺らぎ」なのだろう。
しかし、いるものはいるんだから。
確率や統計ってどこまで信じられるのだろうか。わっかんねえなあ。

「確率・統計であばくギャンブルのからくり 「絶対儲かる必勝法」のウソ」(谷岡一郎/講談社ブルーバックス)

→このブログはじつは女子高生に向けて書いているので(え?)、
これはみんな知っている常識のようなものだけれども、
いちおう庶民の夢である宝くじの裏側を書いておこう。
宝くじはみんなから集めたお金を一部の人に高額還元するシステムになっている。
ところが、巻き上げた金をぜんぶ還元するわけではない。
国が中抜きをしたあとのお金から分配するのである。
この中抜きを控除率(こうじょりつ/天引き)という。
宝くじの場合、どのくらい中抜きされるかというと(控除率は)53.2%。
われわれが返ってくると期待できる数字は(これを期待値という)46.8%。
だから、まあ毎年買えば買うほど損をするのである。
わたしが推薦する宝くじのいちばんいい買い方は1枚だけ買うこと。
宝くじは1枚買おうが千枚買おうが高額当選する確率はほぼゼロなのである。
ならば、1枚300円ぽっちで夢を買えるのはかなりお得だと思う。

競馬も集めたお金をすべて勝ち馬券保有者に分配しているわけではない。
胴元(JRA)が25%中抜きしたあとの75%を分配しているわけである。
難しく書くと競馬の期待値は75%で控除率は25%になる。
以下、本書から抜き書きすると――。
ルーレット(アメリカ):期待値94.74%、控除率5.26%
ルーレット(ヨーロッパ):期待値97.30%、控除率2.70%
外国はすごいなあ。以下、日本。
宝くじ:期待値46.8%、控除率53.2%
競馬・競輪・競艇:期待値75%、控除率25%
スポーツくじ(toto):期待値50%、控除率50%
パチンコ:期待値97~98%、控除率2~3%
麻雀(場所代は除く):期待値100%、控除率0%

麻雀は相互でお金を交換しているだけだから、
だれかが勝ったたぶんべつのだれかがかならず損をする。
驚いたのは、パチンコの期待値の高さなのである。
期待値が高いというのはお得ってこと。儲かる確率が高いってこと。
このパチンコの期待値は著者が独自に計算したもののようで、
そのかんたんな紹介もされているが、さすがに文系のわたしには理解できない。
これはもう大学教授という肩書を信じるかどうかの話だろう。
丸一日パチンコをやれば期待値は97~98%だという。
競馬なんかよりもだんぜんお得なわけである。良心的な遊びと言えなくもない。
なぜわずか2~3%の控除率で30兆円の産業ができるのかというと、
これまた著者によるとそれだけ分母の金が大きいからではないか、とのこと。
みんながパチンコに金を費やせば、
2~3%中抜きするだけで30兆円になるという理屈。
だとしたら、パチンカス(差別語)は情弱(情報弱者)ではなく賢者だったのかも。
けれども1日パチンコしているくらいだったら、本でも読んでいたほうがいいなあ。
あれえ、でもでも、「闇金ウシジマくん」を見ていると、
パチンコの期待値ってそんな高いか? ああ、そうかといま気づく。
毎日パチンコに行ったらこうなるのか。98%は0.98である。
0.98×0.98×0.98……。
これを10回いま携帯電話の計算機でやってみたら0.8(80%)まで落ちた。
30回とか計算したらどのくらい期待値は下がるのだろう。
パチンコ中毒はいまはパチンコ依存症という病名がついているけれど、
夢中になればなるほど泥沼にはまるような仕掛けになっているのか。
ああ、恐ろしい。現代の魔窟じゃん。近づかないぞ。
(注)わたしの間違いで毎日のパチンコ通いは従属事象ではなく独立事象かもしれません。

さて、ギャンブルというのはランダム(偶然)に支配されている。
自分は危ないギャンブルはやらず、
手堅いビジネスしか手にかけないという人もいるかもしれない。
ところが、社会学が専門の大学教授の著者は主張する。

「ここまで進めてきたギャンブルの話は、
そもそも対象とする事象が与えられた条件で「ランダム」に現われることが前提である。
たとえば、ダイス[サイコロ]の目は6分の1で、カードも残った状況に応じて
確率論的に一定の割合でランダムに出現する、というようにである。
「現実の社会はランダム性(偶然性)よりも予想された必然の世界である」
「特にビジネスなどにおいては」
と考える人は、現実の社会をよく知らない人だと思う。
いまの世の中は、皆が考えているより、はるかにランダムな世界なのである。
そのことを示す前に、「ランダム」とは何かを少し論じておこう。
ランダムという概念は、頭でわかったつもりでも、なかなか説明しづらい。
長期的には大数の法則どおりの振る舞いをするにもかかわらず、
短期的にはまさに「なんでもあり」だからである。
たとえば、ランダムに出現した結果として、
ダイス[サイコロ]の「1」の目が10回続くこともある。
その場ではとてもランダムに見えなくても、長期的にランダムであれば、
それは「ランダム」なのである」(P198)


大きく飛躍して人生論にしてしまうが、人生もまたランダムであると思う。
おそらく1万年単位、10万年単位に見たらランダムになっているのではないのだろうか。
わずか100年くらいなら、幸福ばかりの恵まれた人生もランダムとして存在しえる。
わずか70年そこらなら不幸ばかりの苦しみに満ちた人生もランダムの結果である。
人生はみんな公平にできているというのは、
へたをしたら1億年単位で人生を見比べたときに言えることなのかもしれない。
どういうことか。延々とした過去世も未来世も存在するということである。
現世で勝ちまくった人は、それを努力の結果と誇ることだろうが、
あんがいそんなものはランダム現象にすぎず、
来世ではたいへんな苦労をするのかもしれない。
新興宗教に入ったら現世利益が得られたという人は、
ただただランダムに起こっていることに勝手な因果関係を見ているだけなのかもしれない。
著者が主張するように、現実の社会は予測不能で、
短期的にはランダムの「なんでもあり」の様相をていしていると考えてみたらどうか?
怖ろしくなるだろうか? それともワクワクしてくるだろうか?
ランダムな世界にどう対応したらいいかも著者は教えてくれている。

「ビジネスの社会でも外交の世界でも(場合によっては恋や家庭のことでも)、
「かけひき」という名の心理戦が存在する。
人の心を読み、そのウラをかき、いつの間にか他人を自由に操っている人がいる。
逆にいつもウラをかかれる人もいる。
どうしてもウラをかかれる人にお勧めする方法がある。
それは、戦略の選択をランダムにすることである。
これは数学的に最も「負けない」戦略であること(「勝てる」という意味ではない)が、
「ゲーム理論」という理論で説明されている」(P203)


戦略の選択をランダム(偶然)にするとはどういうことか?
おそらくランダムにうまく乗っかるということだろう。
自分の計画よりも、ランダム(偶然)のほうを重んじで行動する。
ランダム(偶然)に起きたことによって選択を変えていく。
目標を立てて「こうしよう」「こうすべき」などと身構えて生きるのではなく、
世の中はどのみちランダムなのだからこちらも酔っぱらいのようにランダムに歩く。
目的地に行こうとシャカリキになるのではなく、偶然にまかせてふらふら散歩する。
究極のランダム行為は、宗教評論家のひろさちや先生がお勧めするサイコロ決定だろう。
人生、どちらにしようか迷ったときにサイコロで決めてしまうのである。
まえにも書いたが、わたしはまえの会社を辞めようかどうか迷ったときサイコロで決めた。

「ツキの法則 「賭け方」と「勝敗」の科学」(谷岡一郎/PHP新書)

→ギャンブル社会学が専門の大学教授が書いた「ツキの法則」である。
たいへんおもしろく、刺激的な良書であった。
結論は、科学的(確率的)に見たらギャンブルはほぼかならずみんな負けるよ。
だから、ギャンブルをやるなというのではなく、著者はギャンブラーである。
競馬で勝てない理由というのは、胴元(JRA)が25%持って行ってしまうからだ。
試行回数が増えれば増えるほど競馬好き(全員)の投資金額は75%に近づく。
というか、正しくは個人として75%でも回収できればいいほう。
科学的(確率的)に見て、競馬に勝つかもしれない方法が存在しないわけではない。
それは――。
1.大穴に賭ける(本命は買わない)。
2.一点買いをする(ボックス買いはしない)。
3.ちまちま同金額で賭けないで、ここぞのときに大金で勝負する。
日本の競馬の場合、多くの人が遊べば遊ぶほど全体の元金は75%に減る。
これは「大数の法則」とよばれるものによるのだが、わからない人も多いかと。
高校生にもわかるように説明すると、サイコロを振ってみたらいい。
サイコロを10回振ったら出る目はまさにデタラメだろう。
しかし、1000回振ったらば、ある目の出る回数はかなり1/6に近づくはず。
これを「大数の法則」というのだが、うーん、高校生諸君、わかったかい?
ちなみに1~3の方法はかならず勝てる方法ではなく、
もしかしたら勝てるかもしれない方法である。
大きく勝てることもある代わりに大きく負ける可能性もある、まさにギャンブルだ。

著者が紹介していた「セルフ胴元ボックス」はおもしろかった。
箱にまず最初に10万円を入れて、それから実際には馬券を買わず、
買ったつもりでボックスと金銭のやりとりをするという方法だ。
これをやれば競馬も楽しめるし、1年後には箱のなかの金額が増えている。
さて、他人の馬券を代わりに買ってやることをノミ行為という。
どうせ外れるから実際は買わないという商法である。
万が一、当たったときだけしぶしぶ払えばいい。
ノミ行為は違法だが、かなり利益率の高い商売になることだろう。
競馬というのは国家がやっているかならず儲かる商売だが、
それを個人でやったら違法というのはおもしろい。

どんなギャンブルでも胴元が中抜きするから長時間やると負けてしまうのである。
ギャンブル店にとっていちばんいいお客は長時間遊んでくれる常連さんだ。
いちばん困るのは1回しか来ないで1回の大勝負を仕掛けてくる客。
これはいったいどういう理由によるのか。

「ギャンブルの目的が例えば「10万円の元手を二倍にすること」であるならば、
一番の近道は賭け金が二倍になる賭けに一度に全部賭けることである。
そうすれば約半分近くの者が目的を達成し、残りはゼロとなるだろう」(P185)


さて、人生をギャンブルと考えているものも少なからずいることだろう。
なぜならギャンブルとおなじように人生も勝者と敗者にわかれるからである。
みなが勝者にあこがれ、どうしたら人生の勝者になれるか日々あたまを悩ませている。
科学的に見たら、人生の勝者など統計的なある標本点というだけの存在価値しかない。
謙虚な人生の勝者がよく口にするツキなども科学的に見たらその実体はない。
日々、ツキを意識して勝利を目指している人も多いだろう。
しかし、著者によれば、ツキなど実体のない統計上の揺らぎにすぎない。
以下の指摘はおもしろい。

「じゃんけんの一〇回戦で八勝二敗、一〇勝ゼロ敗といった成績であった者は
「なんてツイているんだろう」と考え、場合によっては
「オレはジャンケンなら負けない。次に相手が何を出すかほとんどわかる」
などと考えることもある。
この連勝の状態は、統計上の揺らぎとして、
存在しないほうがおかしいほどの必然であるにもかかわらず、
それを自分の実力だと、あるいは「ツイている!」と勘違いするのである。
逆に一〇連敗した者は、「今日は厄日だ」などと自分のツキを呪うかもしれない。
じゃんけんの勝ち抜き戦で、九連勝どうしの二人が最後の一戦を行なった場合、
必ず一方は勝って一〇連勝となり、もう一方は負けて九勝一敗となる。
このとき負けた方は「自分のツキが変わった」と考える。
そして、ツキが変化したと考えるだけでなく、さらにその原因を探るのである」(P139)


どうして負けたんだろう? これは仏罰が当たったのか?
負けたからにはかならず原因があるはずだ。
その原因を突きとめたら、かならず次は勝てる。こんなことを考え、
なかにはインチキじゃんけん必勝法に高額を支払うものもいるかもしれない。
ツキに関してのわたしの考えは、
ツキのようなものは科学的(確率的、統計的)には存在しないのかもしれないが、
ツキの有無を信じていたほうが人生を楽しめるのだから、
ツキはあると思っていても構わないのではないか、というものである。

最後に変なことを書く。
ルーレットの赤黒を、サイコロで決めてやってみたらどうなるのだろうか。
赤に賭けるか黒に賭けるかを自分ではなく、サイコロの出目で決めてしまう。
偶数が出たら赤、奇数が出たら黒といったように。
これは偶然(ルーレット)に偶然(サイコロ)で勝負しているわけでしょう。
ルーレットにはゼロ(胴元による全部のコインの没収)があるから、
勝てる確率は低いのだろうが、1日くらいの試行回数ならばどうだろう。
もしルーレットの仕切り手が、
玉をどこに入れるかを決められるほどの技術を持っていたら、
まるっきり意味のない行為となってしまうのではあるけれども。

「たまたま 日常に潜む「偶然」を科学する」(レナード・ムロディナウ/田中三彦訳/ダイヤモンド社)

→米国のサイエンスライターが書いたベストセラー。
発売時には全米で話題になったという(2008年米アマゾン科学書トップ10)。
こちらの関心をズバリ直撃するたいへんおもしろい読み物であった。
みなさまは忙しくお読みになる時間はないでしょうから、
内容をわかりやすく噛み砕いたうえでわたしが紹介させていただく。
この本はおもしろかった。

内容を要約したら、
われわれはランダムネス(偶然性)に支配されている世界を生きているにもかかわらず、
なおコントロール幻想にひたっているのではないかという問題提起である。
交通事故や難病、自殺、犯罪というのは、毎年決まった確率で統計上出現するもの。
どんなにドライバー全員が交通安全に気を配っていても、統計的に交通事故は発生する。
いくら健康な生活を送っている人でも、統計的に難病にかかる人は数パーセントいる。
精神病罹患率は1%くらいともうはっきりしていて、
百人にひとりくらいはあたまがおかしくなって、なかには自殺するものもいよう。
当人や周囲は納得できないだろう。
どうして自分が交通事故に遭遇して下半身不随にならなければならなかったのか。
なにゆえ優良ドライバーの自分が子どもを殺してしまう羽目におちいったのか。
いったいどういう理由でよりによって自分が進行性の難病にかかってしまったのか。
なぜ愛する家族は自殺してしまったのか。あれはどうしたら防げたのか。
前世やなんのといくらでも因縁話をつくることができるだろうが、
科学的に見たらそれは統計上の必然的結果であり、
確率的にはあるパーセンテージでかならず出現することが定められている偶然である。
「どうして?」の答えは「統計的必然」であり、「確率的偶然」ということになろう。

いままではマイナスの話をしたがプラスの世界はどうなっているだろう。
世の中には人からうらやまれる成功者やスターというものがいる。
愚民はこういう華やかな人にあこがれ、その努力や能力に感嘆する。
成功者も得意げに「どうして自分は成功できたのか」の苦労話をすることだろう。
だが、科学的に見たら、その成功譚はかならずしも「正しい」わけではない。
稀有なる成功者もまた統計上かならず出現する標本点(事例)のひとつに過ぎない。
成功した理由は「統計的必然」であり、また「確率的偶然」だろう。
どういうことか? たとえばコインを10回投げたとする。
成功者はこの裏表を10回連続で当てられる超能力者のような存在である。
「すごい先見の明」がある人と周囲から讃嘆されるかもしれない。
しかし、コインの裏表を10回連続で当てられる確率というものがある。
1/2×1/2×1/2×1/2×1/2×1/2×1/2×1/2×1/2×1/2=?
いま携帯電話の計算機で計算してみたら約0.05であった(違う?)。
ということは、2500人にひとりは10回のコイン裏表を当てられるのである。
統計的には1万人集めたら、
かならずそのうち4人くらいが超能力のようなものを発揮する。
科学的に見たら、いわゆる成功は努力の結果ではなく「統計的必然」
あるいは「確率的偶然」と言えなくもないのである。

アメリカでおもしろい実験をしたそうである。
コインの裏表を10回当てさせる実験を学生(被験者)にしてもらった。
実際は「やらせ」で全員に半分当たったという結果報告をした。
被験者のうち40%がこれから努力(練習)すれば、
コインの裏表を当てる確率が高まると答えたという。
最初の5回を当たったと伝えた学生は、自分は未来予測するのがうまいと回答した。

本書には書かれていないが、わたしが考えた身近な話をしよう。
偏差値55の高校生が早稲田や慶應に入りたかったらどうしたらいいのか。
金にものをいわせて可能なかぎり多くの学部を受験するのが科学的に「正しい」。
現役でダメなら浪人しておなじことを繰り返したらいい。
確率は計算していないが、偏差値55でも10回くらい試行したら受かるのではないか。
そして、いざ入学したら人間は結果から判断され、あの人は優秀だということになる。
偏差値50でも三浪する覚悟があれば、早稲田程度なら入れると思う。
わたしは一浪早稲田一文だが、あれは偶然性のたまものだと思っている。
反対のことを言えば、
偏差値75でも東大に落ちることは確率的統計的にありうるのである。
日本シリーズ(7試合のうち先に4試合勝ったほうが優勝)くらいの
少ない試行回数ならば、
本来弱いチームが強いチームに勝つことも十分ありうるということだ。

本書におもしろいエピソードが載っていた。
飛行機訓練の教官は、生徒をほめると悪くなり、怒鳴るとよくなると信じているらしい。
しかし、科学的に「正しい」とされるのは、
動物実験の結果から判明したように叱るよりもほめたほうが伸びるのである。
いったいどうしてこういう矛盾が生じたのか著者は分析する。
たまたま訓練生がうまい飛行をするときがある。これは確率的現象である。
しかし、「平均回帰の法則(大数の法則)」により、
うまく飛行した次の回はいつものような飛行に戻ることが多い。
このため教官はうまい飛行をしたときに訓練生をほめても意味がないと結論づける。
反対に訓練生が飛行でひどいミスをしたときはどうか?
教官はこれでもかと教え子を叱り飛ばすことだろう。
で、次回の飛行は「平均回帰の法則(大数の法則)」により、
いつものような飛行をするケースが多いだろう。
以上のような現象から教官は訓練生をほめても意味がなく、
大声で怒鳴り叱ったほうがよくなると信じるにいたったのではないかと著者は分析する。
教官はランダム(偶然)に起こっていることを(飛行の巧拙)、
コントロールしている(指導の結果)と勘違いしていたということである。

DNA鑑定の話もおもしろい。
犯罪や親子関係の証明のためDNA鑑定がなされることがある。
DNA鑑定の精度(確率)は異説はあるが99.8%くらい「正しい」とされる。
ネットで調べてみたら親子鑑定の場合、「0%」という結果が出ることもあるらしい。
しかし、著者はじつに鋭い指摘をしている。
専門家によると、人によってばらつきはあるが、
人間はおなじことを繰り返していると約1%の確率でミスをするという。
試験薬の取り間違えや置き間違えといったようなことがどの研究所でも起こりうる。
その確率がだいたい1%くらいとされているらしい。
百回に1回くらいなら、けっこうあってもおかしくない事象(事件)ではないか。
だから、著者の説を信じるならば、
DNA鑑定が「正しい」のは百回のうちの99回である。

そろそろ優秀な著者の言葉を借りよう。
上記したように偏差値50でも早慶に合格することは確率的にありうるのである。
努力嫌いのスペックの低い人間でも成功者になることは統計的に起こりうる。
だとしたら、そうであるならば――。

「このことはわれわれに何を教えているのだろうか。
それはスコアボード[学歴、肩書]を見るよりも能力を分析して
人間を判断するほうが信頼できるということである。
あるいはベルヌーイが言ったように、
「結果をもとに人の行動を賞賛すべきではない」ということである。
少数の法則に逆らうには気概が必要だ。
というのは、ゆったりと椅子に座り、
結果を証拠として指し示すことは誰にでもできるが、
ある人間の本当の知識、本当の能力を評価することは、
自信、思慮、的確な判断、そしてそう、根性(ガッツ)がいるからだ」(P151)


世界をコントロール可能なものとしてではなく、ランダムなものとして見たらどうだろう。
われわれは少しばかり因果関係に目をとらわれすぎているのではないか。
ランダムに起こっていることはたまたまで原因のようなものはない。
どうしてわれわれはすぐ原因を考えるような思考法に毒されているのだろう。

「スポーツの世界――あるいは、その他の世界――
の並外れた偉業に目を向けるとき、
われわれは、並外れた事象が並外れた原因なしに起き得ることを
心に留めておかなければならない。
ランダムな事象はしばしばノンランダムな事象のように見えるが、
人間的な事象を解釈するときその二つを混同しないように注意する必要がある」(P33)


著者のみならずランダムネスの強い支配に気づいたものは成功者のなかにもいる。
長年映画会社の社長を務めたデイヴィッド・ピッカーがこう言ったという。

「もし、私が突っぱねたすべてのプロジェクトにわたしがイエスと言い、
私が採用したすべてのプロジェクトに私がノーと言っていたとしても、
結果はそこそこ同じだったろう」(P20)


ノーベル賞受賞経済学者のマートン・ミラーも似たようなことを書いている。

「もし株を眺め、勝ち馬を選ぼうとしている人間が一万人いれば、
一万人のうちの一人は偶然だけで成功する。それが起きていることのすべてだ。
それはゲームであり、それは偶然の作用であり、
人びとは何か意図的なことをしていると考えているが、じつはそうではない」(P269)


著者が本書で何度も繰り返しているのは、
科学的見地からのランダムネス(偶然性)の重みである。
われわれは世界をコントロールなどしておらず、コントロールできるわけもなく、
ただただランダムネスに翻弄(ほんろう)されているだけかもしれない。
ランダムに起こったことをコントロールの結果と見誤っていることがいかに多いか。
科学的に見ても人生において小さなランダムネス(偶然)がいかに重要か。

「科学者は通常、あるシステムの初期条件がわずかに変化したら、
そのシステムの展開もわずかに変化すると考えている。
つまるところ、気象データを収集する人工衛星はデータをせいぜい
小数点以下二桁か三桁までしか測定できず、
0.293416と0.293の差のような小さな差を捉えられるわけではない。
しかしローレンツは、そのような小さな差が
結果に大きな差をもたらすことを発見したのだ。
この現象は、
蝶がはばたくときに引き起こされる程度のほんのわずかの大気の変化でも、
その後の大域の気象パターンに大きな影響をおよぼす可能性があるという意味で、
<バタフライ効果>と名づけられた。
そのような概念はばかげているように思えるかもしれない――
ある朝あなたが飲むコーヒーのおかわりがあなたの人生に大きな変化をもたらす、
と言っているようなものだから。
だが、実際にはまさにそういうことが起きている。
たとえば、残業したかどうかで、将来の連れ合いと駅でばったり出くわしたり、
赤信号を走り抜けた車にはねられそうになったりする」(P288)


先日、自転車に乗っていたら角から現われたべつのチャリと衝突した。
一時停止を守らなかったわたしが悪いのだが、怖いと思った。
あれは一瞬の差であたまでも打っていたら、
いまよりもっとクルクルパーになっていたかもしれないわけだから。
一瞬の差が人生をわけているという残酷な現実をランダム理論はうまく説明する。
われわれは思っている以上にランダムネスに左右(支配)されているのではないか。
ちっとも世界をコントロールなどしていないし、そもそもコントロールできないのではないか。
本書に結論めいたものがあるとすれば以下引用部分であろう。

「ランダムネスの研究は、出来事に対する水晶玉的見解は可能だが、
残念ながら、それができるのは唯一出来事が起きてからであることを教えている。
われわれは、ある映画がなぜうまくいったのか、
ある候補者がなぜ選挙に勝ったのか、なぜ嵐に襲われたのか、
なぜ株価が下がったのか、なぜあるサッカーチームが負けたのか、
なぜある新製品が失敗したのか、なぜ病が悪化したのか、
を理解していると信じている。
しかしそうした専門知識は、ある映画がいつうまくいくか、
ある候補者がいつ選挙に勝つか、嵐がいつ襲うか、株価がいつ下がるか、
あるサッカーチームがいつ負けるか、
ある新製品がいつ失敗するか、病がいつ悪化するか、
を予測するうえでほとんど役に立たないという意味で、空疎である」(P299)


ランダムに選ばれた人が成功者やスターになっているだけかもしれないのである。
それはまるでランダムに選ばれた人が進行性難病にかかってしまうようなもので。
もしそうだとしたら、時給850円労働者のなかにも、
たまたまランダムに選ばれなかったが、素質はあるものがいるのかもしれない。
そういう人にもこれからランダムに幸運が舞い込んでくるかもしれない。
この記事を書いたことがランダムにどう影響するのかを考えると
少し怖いような気もしなくもないが、
ランダムネスは人間の手にはおよばぬ領域なのだからあれこれ考えても仕方がない。

「図解 強運ノート ~あなたの運がドンドンよくなる~」(深見東州/たちばな出版)

→著者は新手の新興宗教の教祖なんだけれど、教団のことは書かない。
うっかり興味を持った人が入信してしまうと家族を困らせることになるから。
教団への勧誘にも近い本書を読んだ感想は、
この人わかっているなあ、というとても好意的なものだった。
あんがいこの人が教祖をしている団体に入ってうまくいく人もいるかもしれない。
結局、人間にとっていちばん大事なのは自信を持つことだと思う。
自分に自信があれば不安に取り込まれず、常に安心感を持っていられるから、
それがプラスに作用して人間関係も良好になるし仕事も成功する確率が高まる。
しかし、どうすれば自分に自信を持てるか、というのが難しいのである。
このところを深見東州はよく理解している。
人間にはだれでも守護霊がついていると主張している。
守護霊があなたを守ってくれているから安心してよい、と言うのである。
これは観音経とおなじなのだが、
いまの人は観音さまよりも守護霊と言われたほうが信じやすいのだろう。
深見東州はユーモアがあってなかなかいい。
守護霊に常時感謝しているといいことがあると言うのである。
たとえば電車に乗ったとき、たまたま席が空いていて座れた。
このとき守護霊に感謝するが、じつは守護霊のせいではないことがある。
後日、申し訳なく思った守護霊が
前回のお礼へのお礼として席を空けといてくれるというのである。
笑ってしまったよ。

「絶対、大丈夫」と確信できれば、不安や心配からおさらばできるのだが、
現代人はなかなか「絶対、大丈夫」と思えず、おろおろアタフタする。
この対策として深見東州はパワーコールというものを発明している。
新生銀行かよって話だが、ともかくパワーコールである。
わたしからしたら意味不明なカタカナだが、これは天に通じるメッセージらしい。
このパワーコールを唱えていれば、
天の神さまや守護霊があなたをよいように計らってくれるというのである。
これはあたまがいい。
わけのわからない呪文であるところがいいのだろう。
自分は秘密の呪文を知っていてそれを唱えているから「絶対、大丈夫」と思える。
パワーコールを唱えているから、自分に自信を持て不安感もなくなる。
人生に対する戦略としてかなり有効ではないかと思う。
ちなみにこれは南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経でもいいのである。
むかしからパワーコールの代わりとして日本人が使用してきたのが念仏や題目だ。
しかし、科学全盛の現代、念仏や題目は神秘性を失いかけている。
だから、パワーコールなのだろう。
わたしは南無阿弥陀仏を信じているからパワーコールをやらない。
けれども、南無阿弥陀仏の効能をよく理解しているから、
パワーコールの仕組みも効果もなんとなくわかるのである。
わたしの場合、念仏を唱えると「絶対、大丈夫」という気になるから。
これはもう自分で必死になって南無阿弥陀仏を勉強したからである。
そんな時間に余裕がない人はパワーコールでもいいのではないかと思う。
もちろん、創価学会の南無妙法蓮華経でもぜんぜん構わない。
むしろ、念仏やパワーコールよりも、
日蓮大聖人さまのお題目のほうがいいのかもしれない。
身もふたもないことを言えば、呪文はなんでもいいが、
その呪文をどこまで深く信じきれるかが重要なのだろう。

本書には当たり前のことが書かれているが、
意外と忘れがちなのがこういった常識である。
こういう考え方をしたらいいというむかしからの人生のヒントである。

「やるだけのことをやった。あとは運を天に任せる」
→「私は幸運の神がついている。必ず当たりを引く」
→「外れてもともと。悔いはない」
このときの不安を消すのが呪文であり、また呪文を唱えれば自信も持てるのである。
自信を持つためには怪しげな呪文を唱えるのもいいが、
当たり前のことを著者は指摘している。
「勉強、スポーツ、遊び……得意なものを身につける」
これは当たり前の話だけれども、やはり難しいことでもあるから、
なかには深見東州のパワーコールにすがりつきたくなってしまう人もいるのだろう。